Art Library

Art History

美術史の出来事、運動、展覧会、歴史の変化を辿れる西洋美術史年表

紀元前約29万8000年|ホモ・サピエンスの出現 — 現生人類の起源

現在の私たちと同じ種であるホモ・サピエンスは、約30万年前までにアフリカで現れたと考えられています。モロッコのジェベル・イルード遺跡からは、初期ホモ・サピエンスの頭骨や顎の化石、石器が発見されました。ユブランら(2017年)は、現代人に近い顔の特徴と古い形態が同居する化石を報告し、リヒターら(2017年)は、加熱された石器の熱ルミネッセンス年代測定などから約31万5000年前(誤差約3万4000年)という年代を示しました。ホモ・サピエンスは長い進化の過程で形成され、その起源や広がりについて研究が続いています。(参照:Nature|初期ホモ・サピエンスの化石(Hublinら、2017年)・Nature|ジェベル・イルード遺跡の年代測定(Richterら、2017年))

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113,000 BCE

紀元前約9万8000年|顔料の加工と初期の造形文化

南アフリカのブロンボス洞窟では、約10万年前に赤褐色の鉱物であるオーカーを砕き、ほかの材料と混ぜて、アワビ類の貝殻に保存した痕跡が見つかっています。ヘンシルウッドら(2011年)が報告した加工道具には、磨石や石槌、骨片なども含まれます。混合物の用途は確定しておらず、身体の装飾や皮膚の保護などが考えられています。同じ洞窟では、約10万〜7万5000年前の地層から線刻のあるオーカー、約7万5000年前の地層から穴を開けた貝殻も発見されました。色材の調製や文様、装身具の痕跡は、洞窟壁画に先立つ造形文化の広がりを示しています。(参照:Science|約10万年前の顔料加工(Henshilwoodら、2011年)・Journal of Human Evolution|ブロンボス洞窟の線刻(Henshilwoodら、2009年)・Journal of Human Evolution|貝殻の装身具(d’Erricoら、2005年))

98,000 BCE

旧石器時代|狩猟採集と造形

Living with gods: the 40,000-year-old Lion Man (The British Museum)

人々は狩りや採集をしながら暮らしていました。文字や都市はまだなく、身近な動物や人間の身体を題材に、人や動物の姿を絵や彫刻として表すようになりました。

紀元前約3万4500年|ショーヴェ洞窟 — ヨーロッパ最古級の洞窟壁画

フランスのショーヴェ洞窟に描かれた動物壁画の複製展示
ショーヴェ洞窟の動物壁画。馬、ライオン、サイなど多様な動物が描かれている(複製展示)。

フランス南部のショーヴェ洞窟では、約3万6500年前から壁面に馬、ライオン、サイ、マンモス、クマなど多くの動物が描かれました。ヨーロッパ最古級の洞窟壁画として知られ、動物の輪郭を重ねたり陰影を加えたりすることで、身体の量感や動きまで表しています。旧石器時代の人々による、緻密な観察と描写の技術を伝える作品群です。(参照:フランス文化省)

36,500 BCE

氷期のヨーロッパ|移動生活と小さな像

氷河期の人類はどうやって凍えずに眠っていたのか?(歴史の語りべ)

氷期のヨーロッパでは、人々は小さな集団で移動しながら生活していました。持ち運べる道具や小さな像は、移動する暮らしの中でも作ることができました。

30,000 BCE

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24,500 BCE

紀元前約1万8000年|ラスコー洞窟 — 色彩豊かな動物壁画

Cave Art 101 | National Geographic

フランス南西部のラスコー洞窟には、野生のウシや馬、シカなどを描いた数多くの壁画が残されています。赤や黄、黒の顔料を使い、岩壁の起伏を生かして動物の身体や動きを巧みに表現しています。1940年に発見されたこの洞窟は、旧石器時代の人々の高度な描写技術を伝える代表的な遺跡です。(参照:フランス文化省|ラスコー洞窟)

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17,000 BCE

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10,900 BCE

西アジアなど|定住と農耕の広がり

気候が暖かくなり、一部の地域では定住や農耕が広がります。人が一か所に集まって暮らすことで、共同体や儀礼の場も大きく変わっていきました。

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9,700 BCE

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メソポタミア・エジプト|都市・文字・王権

メソポタミアやエジプトで都市と文字が発達し、王や神殿を中心とする大きな社会が生まれました。造形は宗教だけでなく、権力を目に見える形で示す役割も持つようになります。

紀元前3300年頃|文字の誕生 — 都市の記録から生まれた文字

紀元前3300年頃、メソポタミア南部の都市ウルクでは、穀物の数量や物資の配分を記録するため、粘土板に数字や品物を表す記号が刻まれるようになりました。初期の絵文字は次第に形を変え、楔形文字へと発展していきます。同じ頃、エジプトでも王墓に納める品物に付けた札などに、初期のヒエログリフが現れました。都市と国家の発展に伴って広まった記録の技術は、やがて宗教、政治、法律、文学など、さまざまな言葉を後世に伝える手段となっていきます。(参照:メトロポリタン美術館|文字の起源・メトロポリタン美術館|古代エジプト・先王朝時代)

3,300 BCE

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古代イスラエル|ユダヤ教につながる信仰の形成

古代イスラエルの人々は、周辺の地域と交流しながら、ヤハウェへの信仰を育んでいきました。唯一神を中心とするユダヤ教の伝統や聖典は、長い年月をかけて形成されます。この歴史と聖典は、後に成立するキリスト教の重要な基盤にもなりました。

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古代ギリシア|都市国家と人間の身体

古代ギリシャ入門 | ナショナルジオグラフィック(National Geographic)

地中海世界では都市国家が発達し、市民が政治や社会をつくる文化が広がりました。神々も人間に近い姿で考えられ、人間の身体そのものへの関心が高まります。

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紀元前586年頃|ユダ王国の滅亡とユダヤ人のバビロン捕囚

ユダ王国とバビロニアを示す古代近東地図
紀元前586年頃の古代近東。ユダ王国、エルサレム、バビロニアの位置関係。

新バビロニア王国がエルサレムを攻略し、第一神殿を破壊しました。ユダ王国の住民の一部はバビロニアへ強制移住させられます。紀元前538年頃以降、ペルシアの支配下で帰還が認められ、帰還した人々はエルサレムの神殿を再建しました。紀元前516〜515年頃に完成したこの神殿が、後に「第二神殿」と呼ばれます。帰還した人々とともに、バビロニアに住み続ける人々もいました。こうして故郷の外にもユダヤ人共同体が存続し、その後のディアスポラの歴史につながっていきます。(参照:Cambridge)

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紀元前4世紀|古代ギリシア — 女性の地位とアリストテレスの思想

古代ギリシアの都市国家アテナイでは、政治に参加する権利を持つのは原則として成人男性市民でした。女性は家族や宗教儀礼、日々の経済活動の中で役割を担いましたが、市民として政治を決定する立場からは排除されていました。哲学者アリストテレスは『政治学』で、男性が女性を治める関係を自然な秩序として論じ、女性にも判断する能力はあるものの、その権威は男性とは異なると考えました。これは当時の社会や思想に存在した男女の序列を示す一例です。後のヨーロッパの学問にも古代ギリシア哲学は受け継がれました。美術に描かれる理想的な人体や神々の姿を考える際にも、その社会で男性と女性がどのような立場に置かれていたかを知ることが重要です。(参照:Cambridge|アリストテレス『政治学』の女性観)

紀元前4–1世紀|ユダヤ人共同体が地中海各地へ広がる

紀元前4〜1世紀のユダヤ地方と地中海各地のユダヤ人共同体を示す地図。赤い範囲がユダヤ地方、赤い点が主な共同体の位置
紀元前4〜1世紀のユダヤ地方と各地のユダヤ人共同体(概略図)。赤い範囲はユダヤ地方、赤い点は各地の主な共同体の位置を示す。

「ユダヤ地方」は、地中海東岸のエルサレムを中心とする地域です。ユダヤ人の暮らしは古くからその外にも広がっていました。紀元前6世紀のバビロン捕囚を経て、故郷に戻らずバビロニアに住み続けた人々がいました。さらにアレクサンドロス大王以後のヘレニズム時代には、エジプトのアレクサンドリア、シリア、小アジア、ギリシアなどにもユダヤ人共同体が広がりました。共同体が広がった背景には、戦争による強制移住のほか、軍務、交易、仕事や生活のための移住もありました。このように、ユダヤ地方の外で暮らすユダヤ人やその共同体の広がりを「ディアスポラ」と呼びます。地図ではユダヤ地方を赤い範囲で、各地の主な共同体を赤い点で示しています。(参照:Cambridge)

紀元前63年|ローマがエルサレムを攻略し、ユダヤ地方へ進出

当時のユダヤ地方では、支配していたハスモン朝の内部で王位をめぐる争いが起きていました。紀元前63年、ローマの将軍ポンペイウスがこの争いに介入し、エルサレムを攻略します。以後、この地域は独立性を大きく失い、ローマの強い影響下で現地の指導者が統治するようになりました。当時は現地の指導者による統治が続き、後の属州化へ向かう段階でした。この遠征で捕虜としてローマに連行され、後に解放されて定住したユダヤ人もおり、ローマ市内の共同体がさらに広がりました。

紀元前37〜4年|ヘロデ大王の統治と第二神殿の拡張

ローマの後ろ盾を得たヘロデ大王は、紀元前37年にエルサレムを掌握し、ユダヤ地方を王として治めました。紀元前20年頃からは、以前に再建されていたエルサレムの第二神殿を大規模に改築・拡張します。神殿は当時のユダヤ教の信仰と祭儀の中心でした。また、地中海沿岸には港湾都市カイサリアを建設し、ローマ世界との結びつきを強めます。紀元前4年にヘロデが亡くなると、領土は息子たちに分けられ、ユダヤ・サマリア・イドマヤはアルケラオスが引き継ぎました。(参照:The Met)

ローマ帝国|都市・公共建築・皇帝権力

紀元前後のローマ帝国の支配地域を示した地図

ローマは広大な地域を一つの帝国として支配しました。道路や都市、公共建築が各地につくられ、皇帝の権力やローマの秩序を視覚的に示す必要が高まりました。

6年|ユダヤ属州がローマの直接統治下に入る

紀元6年のユダヤ属州(ローマの直接統治)を示した地図
紀元6年のユダヤ属州。ユダヤ・サマリア・イドマヤがローマの直接統治下に入る。

「ユダヤ属州」とは、地中海東岸のユダヤ・サマリア・イドマヤを合わせたローマの行政区画で、エルサレムを含みます。現在のイスラエルとパレスチナ自治区のヨルダン川西岸地区の一部に重なる地域です。ヘロデ大王の死後、この三地域は息子アルケラオスが治めていましたが、紀元6年に解任されると、ローマの行政官が直接統治する「属州」となりました。地図の北側にあるガリラヤ地方では、別の息子ヘロデ・アンティパスによる統治が続きました。ローマの勢力下には、行政官が直接治める属州と、現地の支配者を通じて統治する地域が並んで存在していました。(参照:World History Encyclopedia)

1世紀|イエスはユダヤ人だった — キリスト教の誕生

キリスト教の起源にはユダヤ教の信仰と文化があります。イエス自身もユダヤ人であり、ユダヤ教の伝統の中で育ちました。育った場所は地図の北側、ガリラヤ地方のナザレです。紀元20年代後半頃からガリラヤを中心に教えを説き、やがて南のユダヤ属州にあるエルサレムへ赴き、紀元30年頃にローマ当局によって十字架刑に処されました。その死後、弟子たちはイエスを救世主(キリスト)と信じ、復活したと伝えて、ユダヤ人以外の人々にも教えを広めていきました。この動きからキリスト教が発展し、イエスの生涯や受難、復活は西洋美術の主要な主題となります。

66年|第一次ユダヤ戦争 — ローマ支配への反乱

紀元6年にユダヤ地方がローマの属州となって以降、徴税やローマの行政官による統治、宗教的な慣習の扱いなどをめぐり、不満が蓄積していました。66年、港湾都市カイサリアでの住民間の衝突や、ローマ総督による強引な対応などをきっかけに、エルサレムを中心として大規模な反乱が広がります。これが「第一次ユダヤ戦争」の始まりです。ユダヤ人社会では、反乱に加わる人々と、戦争を避けようとする人々とで対応が分かれました。67年からローマの将軍ウェスパシアヌスがガリラヤ地方などで反乱軍を制圧しますが、68年に皇帝ネロが死去すると、ローマ国内の政変によって軍事作戦は一時停滞します。69年にウェスパシアヌスが皇帝となり、その後、息子ティトゥスがエルサレムへの攻撃を指揮することになります。(参照:Posen Library)

70年|ローマ軍がエルサレムを攻略し、第二神殿(ヘロデ神殿)を破壊

イスラエル博物館にあるヘロデ神殿(第二神殿)の復元模型
イスラエル博物館にあるヘロデ神殿の模型

70年、ティトゥス率いるローマ軍は数か月に及ぶ包囲戦の末にエルサレムを攻略し、第二神殿を破壊しました。この神殿はバビロン捕囚後に再建されたもので、紀元前1世紀にヘロデ大王が大規模に改築・拡張したため、「ヘロデ神殿」とも呼ばれます。当時のユダヤ人にとって、神殿は神の臨在と結びつく最も神聖な場所であり、祭司が犠牲をささげる祭儀の中心でした。過越祭などの重要な祭りには各地から巡礼者が集まり、ユダヤ地方の外に暮らす人々にとっても、信仰と共同体を結ぶ象徴でした。神殿の破壊は、そのような宗教生活の中心を失い、そこでの祭儀を続けられなくなる重大な出来事だったのです。

戦闘や包囲によって多くの人が命を落とし、生き残った人々の一部は捕虜となり、奴隷として連行されました。故郷に残った人々もおり、ユダヤ地方やガリラヤではその後も生活が続きました。また、エジプトや小アジア、ローマなどには戦争以前からユダヤ人共同体が存在していました。祈りや聖典の学び、会堂(シナゴーグ)は神殿破壊以前から存在しており、その後、神殿を持たない信仰生活の中でいっそう重要な役割を担うようになります。ローマではこの戦争の勝利を記念してティトゥスの凱旋門が建てられ、神殿から運ばれた七枝の燭台(メノラー)が浮彫に表されました。(参照:The Met)

73〜74年頃|第一次ユダヤ戦争の終結 — マサダ要塞の陥落

70年にエルサレムと第二神殿を失った後、反乱勢力はユダヤ地方の要塞などで抵抗を続けました。ローマ軍は残る拠点を次々と制圧します。最後まで抵抗を続けた拠点の一つが、死海西岸の高台に築かれたマサダ要塞です。かつてヘロデ大王が整備したこの要塞には、反乱勢力の一派であるシカリ派が立てこもっていました。ローマ軍は要塞を包囲し、周囲に陣地や包囲壁を設け、攻撃のための大きな土塁を築きました。73〜74年頃にマサダが陥落し、第一次ユダヤ戦争は終結したとされています。戦争の主要な経緯は当時の歴史家ヨセフスの記録によって知られていますが、マサダ陥落の正確な年や細部には研究上の議論もあります。(参照:Posen Library)

1–3世紀|広大なローマ帝国は多宗教社会だった

ローマ帝国は征服によって、ギリシア、エジプト、シリア、小アジア、北アフリカなど、それぞれ異なる神々や宗教を持つ地域を支配しました。ローマは多くの場合、各地の信仰をすぐに禁止せず、ローマの国家祭祀や皇帝崇拝と共存させます。さらに兵士、商人、奴隷、役人が帝国内を移動したことで、宗教も地域を越えて広がりました。キリスト教も、こうした多宗教社会の中で少しずつ広がった宗教の一つでした。(参照:Cambridge)

132–135年|ユダヤ人の反乱をローマ軍が鎮圧

132年にユダヤ地方でバル・コクバ反乱が始まり、135年頃にローマ軍によって鎮圧されました。その後、ユダヤ人のエルサレムへの立ち入りは大きく制限され、ユダヤ地方を中心とした社会はさらに弱まります。すでに各地に存在していたディアスポラ共同体は、ユダヤ社会の中で一層重要になっていきました。(参照:Cambridge)

2〜3世紀|エヴァの物語と初期キリスト教の女性観

旧約聖書の創世記には、エヴァが蛇に誘われ、アダムとともに禁じられた実を食べる物語があります。初期キリスト教の思想家の中には、この物語を女性の誘惑への弱さや、男性に従うべき立場と結びつけて解釈する人々がいました。2〜3世紀の著述家テルトゥリアヌスは、女性に向けた著作でエヴァの過ちを強く非難し、服装や装飾を慎むよう求めています。こうした主張は、女性の身体や振る舞いを道徳的に規制する根拠となりました。キリスト教徒の女性は信仰の共同体でも多様な役割を担っており、女性をめぐる見方は一様ではありませんでした。後の宗教美術を理解するには、聖書の女性像が時代によってどのように解釈されたかを知る必要があります。(参照:テルトゥリアヌス『女性の装いについて』)

235〜284年|3世紀の危機 — ローマ帝国の内乱と社会不安

235年、皇帝セウェルス・アレクサンデルが軍に殺害されると、軍の支持で皇帝が相次いで擁立され、内戦が続きました。北方の諸集団や東方のササン朝ペルシアとの戦争、軍事費を賄うための増税と貨幣価値の低下、疫病が帝国社会を圧迫します。地方勢力の分離で帝国は一時分裂し、都市の公共建築事業も停滞しました。アウレリアヌス帝による再統一を経て、284年に即位したディオクレティアヌス帝が統治の再編を進めます。(参照:メトロポリタン美術館|ローマ帝国の歴史)

3世紀頃|偶像崇拝を禁じながら、キリスト教徒はなぜ絵を描いたのか

キリスト教はユダヤ教から生まれ、唯一の神を信じ、神以外のものを神として拝んではならないという教えを受け継ぎました。旧約聖書には、偶像を造ってそれを拝むことを禁じる戒めがあります。では、なぜ教会にはキリストや聖母マリア、聖人の絵画や彫刻があるのでしょうか。宗教的な画像を描くことと、画像そのものを神として礼拝することは同じなのか。この問いは、キリスト教の歴史を通じて繰り返し議論されてきました。

実際には、3世紀頃のローマの地下墓所(カタコンベ)に聖書の物語を描いた壁画が残り、現在のシリアにあったドゥラ・エウロポスのキリスト教集会所にも、洗礼のための部屋にキリストや救済に関する場面が描かれていました。こうした壁画は、初期キリスト教徒が宗教的な物語をすでに画像で表していたことを示しています。描かれた人物への敬意と偶像崇拝の境界は、その後も長く議論されました。(参照:Yale University Art Gallery)

230s

3世紀後半|キリスト教が無視できない共同体へ

キリスト教は1世紀からローマ帝国内の都市を中心に広がり、3世紀後半には各地に教会と司教のネットワークを持つ大きな共同体へ成長しました。帝国全体では少数派にとどまりながらも、都市のさまざまな社会層に信者が広がっていきます。ローマ社会では神々への祭祀が都市や国家の安全を守る公共的な行為と考えられていたため、唯一神を信じ、他の神々や皇帝への犠牲を拒むキリスト教徒との摩擦も強まりました。(参照:Cambridge)

250s

303–311年|キリスト教への大迫害と寛容政策への転換

ディオクレティアヌス帝らは教会の破壊、聖書の没収、伝統的な神々への犠牲の強制など、大規模なキリスト教迫害を行いました。キリスト教共同体は各地で存続し、311年には迫害を進めていたガレリウス帝が方針を転換します。キリスト教徒が集まって礼拝することを認める寛容令が出され、帝国の宗教政策は弾圧から共存へと動き始めました。(参照:Fordham)

313年|キリスト教を公認、皇帝が支援する宗教へ

312年に政敵との戦いに勝利したコンスタンティヌス帝は、翌313年、キリスト教を含む宗教の礼拝を認め、没収されていた教会財産を返還しました。この宗教政策の転換により、各地に広がっていたキリスト教共同体は公然と活動できるようになり、皇帝自身も教会を積極的に支援しました。

ローマやエルサレムなどに巨大な教会が建てられ、それまで比較的小規模だったキリスト教美術が、皇帝の資金を使った建築、モザイク、壁画へ発展する条件が生まれました。教会で宗教画像を使用することや、画像を通して聖なる存在を敬うことの正当性については、その後も議論が続きました。(参照:The Met)

431年|「神の母」マリア — 聖母像が重視される背景

キリスト教では、イエスの母マリアが、神の意志を受け入れた信仰の模範として尊ばれてきました。431年のエフェソス公会議では、キリストの神性と人性をめぐる論争の中で、マリアを「神の母(テオトコス)」と呼ぶことが重要な争点となり、この称号を支持する立場が確立していきます。マリアへの尊敬はこの会議以前から存在していました。中世にかけて聖母子像や受難を悲しむマリアの姿が数多く作られ、純潔、母性、慈愛などの理想を表すようになります。エヴァの過ちとマリアによる救いを対にして考える解釈も生まれました。この二人の女性像の対比は、西洋美術に繰り返し現れる重要な主題です。(参照:Oxford|エフェソス公会議と「神の母」マリア)

380–392年|国家の宗教的中心がキリスト教へ移る

380年、テオドシウス1世はニカイア派キリスト教を帝国の正統な信仰として位置づけました。さらに391–392年には、伝統的な多神教の公的な祭祀への制限が強まります。従来の多神教信仰も各地に残るなか、国家が支援する宗教と美術の中心は次第にキリスト教へ移っていきました。古代ローマで皇帝や神々の権威を表してきた建築形式や図像も、キリスト、聖人、聖書物語を表すために転用・再構成されていきます。(参照:The Met)

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610〜632年頃|アラビア半島|イスラム教の成立とムハンマド

7世紀初め、アラビア半島のメッカでムハンマドが唯一神アッラーへの信仰を説き始めました。イスラム教の伝承では、610年頃に神から最初の啓示を受けたとされています。その教えは後に聖典『クルアーン(コーラン)』としてまとめられました。622年、ムハンマドと信徒たちはメッカからメディナへ移住します。この出来事は「ヒジュラ(聖遷)」と呼ばれ、イスラム暦の起点となりました。メディナでは礼拝と共同体の活動が結びつき、初期のモスクの原型も生まれます。

632年にムハンマドが亡くなると、後継者であるカリフたちのもとでイスラム勢力はアラビア半島の外へ広がり、シリア、エジプト、ペルシアなどにも進出しました。各地の建築や工芸には、ビザンティン帝国やササン朝ペルシアから受け継いだ技術と意匠が生かされます。聖典を美しく記すアラビア文字の書、モスクの建築、植物文様や幾何学文様などが発展し、長い時間をかけて豊かなイスラム美術が形づくられていきました。(参照:The Met|イスラム教の成立)

691〜692年|エルサレム|岩のドームと初期イスラム美術

エルサレム — 三つの宗教が共有する聖地(National Geographic)

7世紀、イスラム勢力の支配下に入ったエルサレムでは、ウマイヤ朝のカリフ、アブドゥルマリクのもとで691〜692年に「岩のドーム」が完成しました。この建物はモスクとは異なる聖所で、かつてユダヤ教の神殿があったとされる場所に建っています。八角形の建物と大きなドームにはビザンティン建築の影響が見られ、内部のモザイクには植物文様や宝飾品の意匠が広がり、アラビア文字による宗教的な銘文も刻まれています。初期イスラム美術が、周辺地域に蓄積されてきた建築技術や装飾文化を受け継ぎながら独自の表現を発展させたことを伝える重要な建築です。

エルサレムは、ユダヤ教にとって古代神殿の記憶が残る都市であり、キリスト教にとってイエスの受難と復活に関わる聖地でもあります。イスラム教でも、ムハンマドの天への昇りに結びつく場所として重視されてきました。三つの宗教の歴史が重なる都市を見渡すことで、地中海と西アジアの美術や建築が相互に影響し合ってきた背景が見えてきます。(参照:The Met|岩のドーム)

8〜9世紀|聖像破壊運動 — 神や聖人を描いてよいのか

ビザンティン帝国では、キリストや聖母マリア、聖人を表す宗教画像「聖像(イコン)」を敬うことが、偶像崇拝に当たるのかをめぐって対立が起こりました。聖像を否定する人々は、目に見えない神を物の形で表すことや、画像の前で祈る行為を問題にしました。聖像を擁護する人々は、キリストが人間として世に現れたことを、その姿を描く根拠としました。

754年には聖像を否定する会議が開かれますが、787年の第2ニカイア公会議では、画像そのものを神として礼拝することと、画像を通じて聖なる存在を敬うことを区別して、聖像の崇敬が認められました。その後も画像を否定する政策が再燃しましたが、843年に聖像崇敬が再確立されます。これは絵画の様式だけでなく、宗教画像が存在する意味そのものを問う、長い論争でした。

800年|カール大帝の戴冠 — 西ヨーロッパに皇帝が復活する

800年のクリスマス、フランク王国のカール大帝は、ローマのサン・ピエトロ大聖堂で教皇レオ3世から皇帝の冠を授けられました。476年に西ローマ帝国の皇帝が廃位されて以来、西ヨーロッパでは久しく失われていた皇帝の権威が、フランク王国の支配者によって復活したことになります。

カール大帝は現在のフランス、ドイツ、イタリア北部などに広がる領土を支配し、キリスト教会との関係を深めながら統治を進めました。修道院や司教座聖堂における教育を奨励し、聖書や古典文献の収集・書写、ラテン語の学習などを支援します。古代ローマの文化を手本として学問や芸術を再興しようとするこの動きは、後に「カロリング・ルネサンス」と呼ばれるようになりました。教会と王権の結びつきは、西ヨーロッパの政治や文化の形成に長く影響を与えていきます。(参照:The Met|カロリング朝美術)

8〜9世紀|修道院と写本文化 — 文字と絵が結びついた美術

中世ヨーロッパの修道院は、信仰の場であるとともに、書物を制作し、知識を受け継ぐ重要な場所でした。印刷技術が普及する以前、本は一冊ずつ手で書き写されていました。修道士や専門の書記たちは、羊皮紙などに聖書や祈祷書、古代の文学や学術書を書き写し、次の世代へと伝えました。

こうした書物の中には、文字の周囲に植物や動物、人物、幾何学文様を描き、金や鮮やかな顔料で彩った「装飾写本」が数多くあります。8世紀末から9世紀頃に成立したアイルランド系の《ケルズの書》は、複雑な組紐文様や装飾文字で知られる代表的な作例です。また、カール大帝の宮廷や修道院の活動を背景に発展したカロリング朝の写本では、古代ローマの造形を取り入れた人物表現や、読みやすく整えられた文字も重視されました。

写本は宗教的な知識を伝える書物であると同時に、文字、絵画、装飾が一体となった美術作品でもありました。修道院を中心に受け継がれた制作技術は、その後の中世美術にも重要な役割を果たしました。(参照:トリニティ・カレッジ・ダブリン|『ケルズの書』・The Met|カロリング朝美術)

9世紀|中国の木版印刷 — 書物と画像が広がる

京都大学 「中国文字文化論」第11回 「印刷のはじまり」 阿辻 哲次 人間・環境学研究科 教授(Kyoto-U OCW)

中国では8世紀頃までに木版印刷が使われ始め、9世紀には仏教の経典や画像を複製する技術が発達していました。木版印刷は、文字や絵を彫った板に墨をつけ、紙に刷り取る方法です。同じ版から繰り返し印刷できるため、一冊ずつ手で書き写す方法よりも多くの人々に同じ内容を届けやすくなりました。868年に印刷された仏教経典『金剛経』は、制作年代が記された現存最古の印刷本として知られています。印刷は信仰を広め、文章や図像を共有する手段となり、その後の知識や文化の流通を大きく変えていきました。(参照:大英図書館|『金剛経』と木版印刷)

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1096年|十字軍と中世のユダヤ人共同体

聖地を目指す第1回十字軍の出発時には、ラインラントなどでユダヤ人共同体への襲撃も起こりました。中世のユダヤ人共同体は交易や学問、写本などの文化を育み、キリスト教社会との交流も重ねていました。こうした共存の歴史には、宗教的偏見や迫害が深刻な影を落とす時期もありました。

11〜12世紀|ロマネスク美術 — 教会建築・彫刻・壁画

11〜12世紀の西ヨーロッパでは、修道院の活動が広がり、聖人ゆかりの聖遺物を訪ねる巡礼や交易、都市の成長を背景に、各地で石造教会の建設が進みました。建築技術が向上し、石材をより正確に加工して積み上げられるようになったことも、大規模な石造教会の建設を支えました。後に「ロマネスク美術」と呼ばれるこの時代には、半円形のアーチや厚い壁をもつ教会が数多く造られました。入口の上部や柱の柱頭には、キリストの姿や「最後の審判」など、聖書に関わる場面が彫刻されました。壁や天井にも宗教的な物語が描かれ、建築・彫刻・壁画が一つの空間の中で結びついていました。こうした作品は装飾であると同時に、訪れる人々へ信仰の内容を目に見える形で伝える役割を持っていました。(参照:The Met)

1100s

12世紀半ば以降|ゴシック美術 — 高い大聖堂とステンドグラス

ゴシック様式の誕生:アボット・シュゲールとサン=ドニ大聖堂の回廊(Smarthistory)

12世紀半ば、北フランスのサン=ドニ修道院聖堂で1140〜1144年に進められた改築は、後に「ゴシック美術」と呼ばれる建築の重要な出発点となりました。尖頭アーチやリブ・ヴォールト、さらに建物を外側から支える飛梁(フライング・バットレス)などの仕組みが発達し、より高い天井や大きな窓を設けられるようになりました。窓には色ガラスを組み合わせたステンドグラスがはめ込まれ、聖書や聖人の物語を伝えるとともに、差し込む色とりどりの光が教会の内部空間を特徴づけました。入口や壁面の彫刻も発展し、こうした建築と美術のあり方はヨーロッパ各地へ広がっていきました。(参照:The Met)

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13世紀|ヨーロッパ各地で並行して発展する美術

13世紀の西ヨーロッパ、イタリア半島、ビザンティン世界で並行して発展した美術を示す地図

13世紀の西ヨーロッパでは、フランスを中心にゴシック様式の大聖堂が建設され、建築と一体になった彫刻やステンドグラスが発展しました。

【美術解説】 教会建築 「ロマネスク様式とゴシック様式」(フランスガイド中村 / France Guide Nakamura)

東地中海のビザンティン世界では、キリストや聖母を描くイコン(聖画像)、金色に輝くモザイク、壁画など、東ローマ帝国以来のキリスト教美術が受け継がれ、独自の発展を続けていました。

イタリア半島では、ビザンティン美術の伝統を受け継いだ宗教画が制作されるとともに、古代ローマ彫刻やゴシック美術との交流から、人物の身体や感情を表す新しい試みが進んでいました。同じ13世紀にも、地域によって異なる美術が並行して発展していたのです。

1200年頃|教皇は国王より偉かったのか? — 中世の教皇権

中世の西ヨーロッパでは、ローマ教皇はカトリック教会の最高指導者であるとともに、イタリア中部の教皇領を治める政治的な支配者でもありました。司教の任命をめぐって教皇と皇帝が争うなど、教会と君主の権限は長く対立していました。教皇には人を教会の共同体から排除する「破門」や、地域での宗教儀礼を制限する「聖務停止」という手段があり、国王の政治にも強い影響を与えることがありました。

1198年に即位したインノケンティウス3世の時代、教皇権は中世の最盛期を迎えます。教皇は各国の政治的な争いにも介入し、1215年には第4ラテラノ公会議を招集して教会の信仰と規律を整えました。教皇自身も教会や宗教施設の建設・装飾を支援しました。各地の大聖堂や宗教美術の背後には、信仰に加え、教皇、司教、修道院、君主、都市の有力者らが関わる権力と資金の仕組みがありました。(参照:Treccani|教皇インノケンティウス3世と美術支援・Encyclopedia.com|インノケンティウス3世の教皇権)

12〜13世紀|中世ヨーロッパ — 結婚、財産、女性の社会的地位

中世ヨーロッパでは、家族や家産の維持に結婚が深く関わり、女性の立場は身分、地域、婚姻状況によって異なっていました。教会は男女本人の合意を結婚の重要な条件としましたが、実際の婚姻には家族間の財産や相続、社会的な結びつきも大きく作用しました。中世イングランドでは、成人の未婚女性が自分の不動産を扱える場合があるのに対し、既婚女性の財産管理には夫の強い権限が認められました。女性たちは家業や交易、農業、修道院の活動にも参加し、作品の注文主や制作者となることもありました。宗教的な教えと法律、日常生活の現実が必ずしも一致していなかったことも、この時代の女性の歴史を理解する鍵になります。(参照:Cambridge|中世イングランドの女性と財産権)

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14世紀|ヨーロッパ|飢饉・疫病・戦争が重なった時代

14世紀のヨーロッパでは、相次ぐ不作と食料不足、長期にわたる戦争、そして黒死病(ペスト)の大流行が人々の生活を大きく揺るがしました。1315年に始まった深刻な飢饉は、その影響が1320年代初めまで続きました。1337年に始まる百年戦争は休戦を挟みながら15世紀まで続き、ペストも最初の大流行が収まった後、繰り返し各地を襲いました。こうした危機の影響は地域によって異なりますが、人口の減少や農村の荒廃、都市経済の変動、教会の権威をめぐる動きなど、社会のさまざまな部分に長く及びました。(参照:サウサンプトン大学|14世紀の危機)

14世紀|都市と宮廷を中心に広がる新しい美術

14世紀のイタリアでは、ジョットが人物に量感を与え、感情や空間を描く新しい表現を切り開きました。シエナではドゥッチョやシモーネ・マルティーニ、ロレンツェッティ兄弟らが独自の絵画文化を発展させました。

フランスやイングランドではゴシック美術が発展を続け、宮廷の注文による装飾写本や彫刻が盛んになりました。中央ヨーロッパではプラハが重要な芸術の中心地となり、東地中海のビザンティン世界でもモザイクや壁画の豊かな表現が生み出されていました。

14世紀半ばには黒死病がヨーロッパ各地の社会に大きな影響を与えます。その後も都市や宮廷を中心に美術制作が続き、14世紀末には地域を越えた交流の中から、優美で装飾的な表現を特徴とする国際ゴシック美術が広がっていきました。

1309〜1417年|ローマを離れた教皇庁と教会大分裂

1309年、教皇庁はローマを離れ、現在のフランス南部にあるアヴィニョンに置かれました。フランス王権との関係やイタリアの政情が、その背景にありました。教皇たちはここで政治や教会の運営を続け、巨大な教皇宮殿を建設します。宮殿の内部はシモーネ・マルティーニやマッテオ・ジョヴァネッティらの絵画で飾られ、アヴィニョンも重要な美術の拠点となりました。

1377年に教皇庁がローマへ戻った後、1378年にはローマとアヴィニョンで別々の人物が正統な教皇を名乗る「教会大分裂」が始まります。フランスやイングランドなどの王国も支持する教皇が分かれ、1409年からは一時、3人の教皇位請求者が並立しました。1417年、コンスタンツ公会議でマルティヌス5世が選出され、分裂は収束に向かいます。人々の信仰生活を支えていた教会の権威が、戦争や疫病の続く時代に大きく揺らいだ出来事でした。(参照:UNESCO世界遺産センター|アヴィニョンの教皇宮殿・オックスフォード世界宗教辞典ほか|教会大分裂の経緯)

1315〜1317年|大飢饉 — 長雨と農作物の不作

14世紀初めのヨーロッパでは、気候が不安定になり、農業が大きな影響を受けました。とりわけ1315〜1317年には、北西ヨーロッパを中心に深刻な飢饉が起きます。何年も続く長雨や洪水で畑の作物が育たず、食料価格が上がり、多くの人々が飢えに苦しみました。長期間の多雨と、当時の農業や社会の脆弱さが重なって被害を深めました。年輪による気候復元の研究からも、この時期に極端に湿った天候が続いたことが確認されています。(参照:Communications Earth & Environment)

1310s

1337年|百年戦争が始まる — イングランドとフランスの長い対立

ジャンヌ・ダルク二部作『ジャネット』『ジャンヌ』映画予告編

1337年、イングランド王とフランス王の間で、フランス王位の継承や大陸領土をめぐる対立が大きな戦争へ発展しました。のちに「百年戦争」と呼ばれる戦いは、長い休戦期間や戦況の変化を挟みながら1453年まで続きました。とくにフランスの各地では、戦闘や略奪、課税などが人々の生活を圧迫しました。飢饉やペストとともに、戦争も14世紀のヨーロッパ社会を大きく揺るがしました。(参照:World History Encyclopedia)

1330s

1347〜1352年|黒死病(ペスト)の大流行 — 社会を揺るがす大量の死

1347年頃から、ペスト菌による感染症が交易や人の移動とともにヨーロッパ各地へ広がり、数年のうちに膨大な数の死者を出しました。この流行は後に「黒死病」と呼ばれます。被害の程度は地域によって異なり、当時の人口や死者数を正確に数えることはできませんが、ヨーロッパの人口の相当な割合が失われたと考えられています。病気の原因が分からなかった人々の中には、神罰と解釈する人もいました。ユダヤ人が感染を広げたという根拠のない噂が流され、各地で迫害が起きました。

人口の急減は農業や都市の仕事、賃金、教会の活動にも影響しました。美術では死後の審判、救済への祈り、死者の追悼が引き続き重要な主題となりました。骸骨や腐敗した遺体を用いる図像にはペスト以前からの伝統もあり、美術表現の変化には宗教的伝統や注文主、社会の変化も関わっていました。(参照:The Met)

1360〜1380年代|ヨーロッパ|ペストの再流行と社会秩序の変化

1347年からの黒死病の大流行が収まった後も、ペストはヨーロッパ各地で繰り返し発生しました。イングランドでは1361〜1362年や1369年、1370年代にも再流行があり、人口の回復は長く妨げられました。農地を耕す人や都市で働く人が不足し、生き残った労働者が賃金や働く条件の改善を求める動きも強まります。

イングランドでは、ペストの最初の大流行後の1351年に賃金や労働者の移動を制限する法律が制定されました。戦費を賄うための課税も不満を高め、1381年には農民や都市の労働者らによる大規模な反乱が起こります。疫病の被害は最初の数年間で終わるものではなく、その後何十年も社会のあり方を変え続けました。(参照:英国国立公文書館|ペストと労働者法)

中世後期|メメント・モリ — 「死を忘れるな」という教え

中世ヨーロッパでは、キリスト教の教えが人々の生活に深く根づいていました。人間は死後も魂が存在し続け、神の裁きを受けると信じられていました。天国と地獄に加え、天国に入る前に罪を清める「煉獄」という考え方も広まり、人々は死後に魂が救われることを強く願っていました。教会で祈り、罪を告白し、亡くなった家族のためにミサを捧げることは、そうした信仰の一部でした。

「メメント・モリ」は、ラテン語で「死を忘れるな」を意味します。人はいずれ死を迎えるのだから、生きている間に自分の行いを省み、魂の救いに備えるよう促す教えです。この考え方は13世紀後半には美術表現にも現れ、骸骨や朽ちた遺体、生者と死者が出会う場面などが描かれるようになりました。

14世紀のヨーロッパでは、飢饉や戦争に加え、黒死病によって多くの人々が命を落としました。死が日常のすぐ近くにある社会で、死後の世界や魂の救済への関心はいっそう切実なものとなります。こうした宗教観と歴史的経験を背景に、メメント・モリは中世後期から近世にかけて、美術の重要な主題として広がっていきました。(参照:English Heritage)

1360s

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15世紀|ルネサンスの時代にも戦争と疫病が続く

14世紀半ばにヨーロッパを襲った黒死病は、その後も繰り返し流行し、15世紀の人々の生活にも大きな影響を与えていました。イングランドとフランスの百年戦争は1453年まで続き、イタリア半島でも都市国家同士の争いや政治的な対立が絶えませんでした。

こうした社会情勢の中で、フィレンツェをはじめとするイタリアの都市では、商業や銀行業によって富を蓄えた人々が学問や美術を支援していました。古代文化を学び直す人文主義が広がり、美術家たちは新しい表現を模索していきます。

ルネサンスは、戦争や疫病が終わった後に始まった文化ではありません。社会が不安定な時代にも、都市の繁栄や学問の発展、美術の革新が同時に進んでいたのです。(参照:The Met|中世ヨーロッパの疫病・The Met|百年戦争・Smarthistory|初期ルネサンスのフィレンツェ)

15世紀|なぜルネサンスはイタリアで始まったのか?

15世紀中頃のイタリア半島の都市国家と周辺地域を示す概略図
15世紀中頃(1450年頃)のイタリア半島と周辺世界を示した概略図

12世紀から14世紀にかけて、フランスを中心とする西ヨーロッパではゴシック美術が発展しました。15世紀になると、イタリアのフィレンツェを中心に、古代ギリシア・ローマの文化を新しい視点で学び直す動きが美術にも広がります。これが初期ルネサンスと呼ばれる時代です。

当時のイタリアは複数の都市国家などに分かれ、商業や銀行業で繁栄した都市には豊かな商人や有力者がいました。彼らは教会や宮殿の建設、美術作品の制作を支援しました。古代ローマの文化遺産、人文主義の発展、都市の経済力が重なり、新しい美術を生み出す環境が形成されていきます。

こうした都市国家は、領土や交易路、政治的な影響力をめぐって対立し、戦争を繰り返していました。1432年のサン・ロマーノの戦いではフィレンツェとシエナの軍勢が交戦し、1454年にはミラノとヴェネツィアがローディの和約を結んで長年の戦争を終結させました。ルネサンス美術が発展した15世紀のイタリアでは、都市の経済的な繁栄と政治的・軍事的な緊張が同時に存在していたのです。

同じ頃、フランスではゴシック美術が続き、現在のベルギーやオランダにあたる地域でも新しい絵画表現が生まれていました。15世紀のヨーロッパでは、異なる地域で美術が独自の発展を遂げていたのです。(参照:Smarthistory|初期ルネサンスのフィレンツェ)

15世紀|イタリア都市の富はどこから生まれたのか? — 毛織物、交易、銀行と美術

15世紀のイタリアでは、都市ごとにさまざまな商業が発展していました。フィレンツェは毛織物の生産や布地の加工・販売で繁栄し、国際的な商取引を支える銀行業も発達しました。ヴェネツィアは地中海交易の拠点として、東方から運ばれる香辛料や絹織物などをヨーロッパ各地に流通させていました。

こうした都市では、商人や銀行家が政治や社会にも大きな影響力を持っていました。フィレンツェでは、職業ごとに組織された同業組合が教会や公共建築のために美術作品を注文し、都市の繁栄や自分たちの名誉を表しました。

その代表例がオルサンミケーレ教会です。毛織物商人や銀行家などの組合が競うように彫刻を注文し、ドナテッロやギベルティらが制作を手がけました。商業によって蓄積された富は、ルネサンス美術の発展を支える重要な基盤となったのです。(参照:フィレンツェ大聖堂管理局|毛織物と美術・The Met|ヴェネツィアの交易・Smarthistory|オルサンミケーレの彫刻)

1400s

ルネサンスとは何か? — 古代ギリシア・ローマ文化の「再生」

ルネサンスの本当の意味とは?実は『再生・復興』というのは間違い!?(山田五郎 オトナの教養講座)

「ルネサンス」とはフランス語で「再生」を意味する言葉です。一般に14〜16世紀のヨーロッパで、古代ギリシア・ローマの文学や哲学、美術などへの関心が高まり、新しい文化が発展し、新しい表現を生み出していった動きを指します。

古代の文学や哲学は中世にも研究が行われていました。9世紀にはカール大帝のもとで学問や写本制作が奨励され、12世紀にはアラビア語やギリシア語の文献がラテン語に翻訳されるなど、古代の知識を学び直す動きがありました。

イタリア・ルネサンスでは、こうした長い文化の継承を背景に、古代の建築や彫刻、文学などが新しい視点から研究されました。美術家たちは古代の人体表現や空間表現に学び、人物の身体を立体的に表す方法や、奥行きのある空間を描く遠近法を探究しました。教会の祭壇画や聖母子像など、キリスト教を主題とする作品も引き続き数多く制作されています。古代文化への関心が当時の信仰や社会生活と結びつき、ルネサンス美術は形づくられていきました。(参照:スコットランド国立美術館|ルネサンス)

15世紀|イタリアは一つの国ではなかった — 都市国家と美術

当時のイタリア半島には、フィレンツェ共和国、ヴェネツィア共和国、ミラノ公国、教皇領、ナポリ王国など、政治の仕組みが異なる国や地域が並んでいました。都市間では交易が行われ、領土や勢力をめぐる対立も起こりました。

フィレンツェでは商人や職人の組合が都市の政治や美術の注文に関わり、ミラノなどでは君主の宮廷が文化を支えました。教会や都市の有力者は建築や彫刻、絵画を通じて信仰や権威、都市の誇りを表そうとしました。こうした地域ごとの政治と注文主の違いが、多様な美術を育てる背景となったのです。(参照:Smarthistory|イタリア・ルネサンスの共和国と美術)

1410s

15世紀前半|魔女狩りの形成 — 悪魔と結びつけられた人々

ヨーロッパでは古くから、呪いや魔術によって人や家畜に害を与えるという信仰がありました。15世紀前半になると、こうした身近な恐れに、悪魔と契約し、秘密の集まりで悪魔を崇拝する人々がいるという神学者や裁判官の考えが結びついていきます。現在のスイスにあたるヴァレー地方など西アルプス周辺では、1420〜1430年代に魔女とされた人々への集団的な裁判や迫害が起こりました。病気や不作の原因を魔術に求める地域社会の疑念が、悪魔についての新しい理論や裁判制度を通じて、重大な犯罪の告発へ変わっていったのです。こうした動きが、後の近世ヨーロッパに広がる大規模な魔女狩りの前史となりました。(参照:Oxford|初期ヨーロッパ魔女裁判の研究)

15世紀前半|「死の舞踏」 — 誰もが死から逃れられない

中世の「死の舞踏」とは? | 『ニュルンベルク年代記』に描かれた「ダンセ・マカブル」(ARTSQ)

後期中世には、王、教皇、商人、農民など、身分の異なる人々が死に連れ去られる「死の舞踏(ダンス・マカブル)」という図像が広がりました。1424〜1425年頃には、パリの聖イノサン墓地に大きな壁画が描かれ、後世の版画や写本にも影響を与えます。人は身分や財産に関係なく死を迎えるという教えを、見る人に直接伝える表現でした。死を思い起こさせる図像にはペスト以前からの伝統があり、「死の舞踏」にも死後の救済を願うキリスト教信仰が深く関わっていました。(参照:Cambridge)

1434年頃〜|メディチ家の影響力 — 銀行と美術

メディチ家は、毛織物業や銀行業によって富を築いたフィレンツェの有力な一族です。1434年、コジモ・デ・メディチが亡命先から帰国すると、一族は共和国の制度のもとで政治的な影響力を強めました。コジモとその子孫は学者や美術家を支援し、教会や邸宅、彫刻などの制作にも資金を投じます。

美術を注文することには、信仰を表すとともに、家の名誉や社会的な立場を示す意味もありました。15世紀後半にはロレンツォ・デ・メディチも文化の支援者として知られるようになります。フィレンツェの美術は、メディチ家のほかにも教会、職人組合、商人たちの注文によって支えられていました。(参照:ロンドン・ナショナル・ギャラリー|メディチ家)

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1450年代|グーテンベルクの金属活字印刷 — 書物と思想の広がり

活版印刷の発明者・グーテンベルクの功績紹介…印刷博物館(読売新聞オンライン動画)

15世紀半ば、ドイツのマインツでヨハネス・グーテンベルクが、金属製の活字を組み替えて印刷機で紙に刷る方式を実用化しました。活字は繰り返し使うことができ、同じ文章を何部も印刷できます。1455年頃には約180部の『グーテンベルク聖書』が制作されました。それまでヨーロッパの書物は手書きの写本が中心で、一冊を作るのに多くの時間と費用がかかっていました。印刷所が各地に広がると、聖書や古典、学問書、小冊子、図像などが以前より多く流通するようになります。遠く離れた地域でも同じ文章を読み、考えや研究成果を共有しやすくなったことは、ルネサンスの学問、16世紀の宗教改革、後の科学の発展を支えました。金属活字印刷は朝鮮で先に発達しており、グーテンベルクはヨーロッパでの印刷と書物流通に大きな転換をもたらした人物です。(参照:米国議会図書館|グーテンベルク聖書と印刷の普及)

15世紀|イタリアと北方ヨーロッパ — 同時代に進んだ絵画の革新

15世紀のイタリアでは、ブルネレスキが建築を研究し、ドナテッロが彫刻で人体の表現を深め、マザッチョらが遠近法や光を用いて奥行きのある空間を描こうとしました。フィレンツェを中心に発展したこうした試みは、初期ルネサンス美術の重要な特徴です。

同じ時代、現在のベルギーやオランダにあたるネーデルラント地方では、ヤン・ファン・エイクやロヒール・ファン・デル・ウェイデンらが、油絵の具による繊細な色の重なりを生かし、布や金属、光の質感まで精密に描きました。フランスなどでもゴシック美術の伝統は続いていました。ヨーロッパ各地で異なる方法による美術の革新が進み、作品や美術家の交流も広がっていきます。(参照:The Met|初期ネーデルラント絵画)

1487年|『魔女に与える鉄槌』— 女性への偏見と迫害の正当化

15世紀末、ドミニコ会士ハインリヒ・クラーマーが中心となって著した『魔女に与える鉄槌』が刊行されました。この本は、魔女が悪魔と契約して人々に害を与えると説き、疑いをかけられた人を調べ、裁くための方法も示しました。著者は女性を男性より誘惑や肉体的欲望に弱い存在と決めつけ、魔女として疑われるのは女性が多いと論じています。女性に対する古くからの偏見が、悪魔という宗教的な恐怖と結びつき、迫害を正当化する言葉になったことが分かります。印刷術によってこの本は広く流通しましたが、当時のすべての宗教家や裁判官が主張に賛同したわけではありません。著者として名前が挙がるヤーコプ・シュプレンガーの関与には研究上の議論があります。(参照:Manchester University Press|女性の性と魔女観の研究)

イタリア・ルネサンス|古代神話と女性裸体表現の復興

サンドロ・ボッティチェッリ《ヴィーナスの誕生》、1485年頃。
『ヴィーナスの誕生』 サンドロ・ボッティチェッリ 1485年頃(Wikipedia)

中世のキリスト教美術でも女性の裸体は描かれていましたが、多くの場合、アダムとイヴの原罪など宗教的な物語と結びついていました。ルネサンス期になると、古代ギリシア・ローマの文化への関心が高まり、女性裸体が理想的な美しさを表す主題として再び注目されます。

ボッティチェッリの《ヴィーナスの誕生》は、その代表的な作品です。古代神話の女神ヴィーナスをほぼ等身大の裸体像として描き、古代の美の理想を15世紀の絵画に新たな形で取り入れました。(参照:The Met)

1492年|スペインからのユダヤ人追放

カトリック両王の治世のスペインでは、1492年にユダヤ人へ改宗か国外退去かを求める命令が出されました。中世ヨーロッパのユダヤ人社会には地域ごとに異なる暮らしがありましたが、宗教的な統一を目指す権力のもとで排除が進んだ地域もあります。宗教は、美術の注文や制作を支えるだけでなく、人々の生活や地位にも大きく関わっていました。

1490s

15〜16世紀|ルネサンス美術を支えた教皇庁と宗教改革への道

15世紀に教皇庁がローマでの活動を再び本格化させると、教皇たちは教会や宮殿の建設・装飾を通じて宗教的な権威を示そうとしました。16世紀初頭の教皇ユリウス2世は、サン・ピエトロ大聖堂の再建を進め、ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の天井画を、ラファエロにヴァチカン宮殿の壁画を注文しました。教皇庁の財力と美術への注文は、盛期ルネサンスを支える大きな力となりました。

同じ時代、教皇たちは教皇領の支配や戦争にも関わり、親族の優遇や教会の資金の使い方が批判を集めていました。大聖堂の再建費用と結びついた贖宥状(しょくゆうじょう)の頒布は、1517年にマルティン・ルターが教会のあり方を批判するきっかけの一つとなります。贖宥状とは、罪の赦しを受けた人に残る償いに関する教会の制度でした。宗教改革が広がると、宗派や地域によって聖人像や祭壇画の扱いも変化していきます。美術の発展と教会の権威をめぐる対立は、同じ歴史の中で進んでいました。(参照:The Met|ルネサンス期の教皇庁・The Met|ヴァチカン宮殿と盛期ルネサンス)

1510年|美術に描かれた魔女 — 女性の裸体と悪魔のイメージ

ハンス・バルドゥング《魔女たち》(1510年)の木版画。複数の女性と魔術的な場面が描かれている。
ハンス・バルドゥング《魔女たち》、1510年、木版画。メトロポリタン美術館所蔵。
(PUBLIC DOMAIN)

ドイツの画家ハンス・バルドゥングは1510年、裸の女性たちが鍋を囲み、不思議な煙や道具とともに現れる木版画《魔女たち》を制作しました。魔女への恐怖が強まっていた時代、版画は、悪魔の力を使う女性というイメージを人々に見せる手段にもなりました。女性裸体は同じ時期のルネサンス美術で古典的な美や官能性と結びつけられていましたが、この作品では危険や不安を感じさせる存在として表されています。版画は複数部を印刷して流通させることができました。宗教的な信念や社会的な偏見が、文字だけでなく画像を通して形づくられ、広がっていったことを考えるうえで重要な作品です。(参照:The Met|ハンス・バルドゥング《魔女たち》(1510年))

西ヨーロッパ|宗教改革と宗教画

1517年にルターが教会改革を訴えたことをきっかけに、西ヨーロッパのキリスト教世界は再編されていきます。プロテスタントの一部では宗教画像への批判が高まり、宗派や地域によって教会の装飾や画像の扱いが変わりました。カトリック教会では、宗教画像が引き続き信仰や教育の手段として重視されました。この違いは、各地の絵画や教会装飾にも影響しました。

1538年|《ウルビーノのヴィーナス》— 美の理想と官能性

ティツィアーノ《ウルビーノのヴィーナス》。室内の寝台に横たわる裸の女性、足元の犬、奥にいる2人の女性を描いた絵画。
ティツィアーノ《ウルビーノのヴィーナス》、1538年、油彩・キャンバス、ウフィツィ美術館所蔵。 (Wikimedia Commons)

16世紀のイタリアでは、古代神話の女神ヴィーナスを題材に、女性の裸体を描いた絵画がつくられました。美しい身体の表現には、古代文化への関心とともに、見る人の官能的な興味に応える意味もありました。こうした作品は、裕福な人々の邸宅などで私的に楽しまれることもありました。

ティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》(1538年)では、寝台に横たわる裸の女性が、こちらを見るように視線を向けています。柔らかな肌の表現には官能性が感じられ、足元の犬や手にしたバラは愛情や結婚に関係する象徴と考えられています。作品の意味については複数の解釈があり、美しさ、性的な魅力、結婚にまつわる願いが一つの絵の中で重なっています。(参照:The Met|ルネサンス期の官能的な美術・ウフィツィ美術館|《ウルビーノのヴィーナス》・The Met|ルネサンスの絵画と結婚)

1563年|イタリアに美術アカデミーが設立

16世紀のイタリアでは、美術家たちがアカデミーと呼ばれる組織を結成し始めました。その目的の一つは、絵画や彫刻を職人の技術として扱う従来の枠組みから発展させ、知識や理論に基づく自由学芸として認められるようにすることでした。アカデミーは、美術家同士が支え合い、後進を育てるための組織としても機能しました。

1563年にはフィレンツェで、ヴァザーリの構想とコジモ1世・デ・メディチの後援により、アカデミア・デル・ディセーニョが設立されました。1593年にはローマでも聖ルカ・アカデミーが本格的に組織され、美術家の教育と活動を支える制度が発展していきます。(参照:アカデミア・デル・ディセーニョ|公式沿革・メトロポリタン美術館|ディセーニョと1563年のアカデミー創設・イタリア文化省|アカデミーの設立記録)

16世紀後半〜17世紀前半|ヨーロッパの魔女狩り — 女性への迫害と裁判

ヨーロッパの魔女裁判は16世紀後半から17世紀前半に最も激しくなりました。宗教改革による対立や戦争、病気、不作、地域の不安が重なり、災厄の原因を魔術に求める告発が広がりました。裁判では拷問による自白の強要が行われることもあり、共犯者の名を挙げさせることで新たな告発が連鎖しました。近世ヨーロッパ全体では数万人が処刑されたと推定されています。西欧・中欧では訴追された人の多くが女性で、女性は誘惑に弱いとする偏見も告発を支えました。地域によっては男性が多く訴追された例もあり、社会制度や裁判の進め方にも大きな違いがありました。魔女狩りは、中世だけの出来事ではなく、ルネサンスや宗教改革を経た近世の迫害でした。(参照:オックスフォード大学ボドリアン図書館|近世の魔女裁判)

17世紀|ヨーロッパ|王権とカトリック教会

王権が強まり、カトリック教会も信仰を人々へ強く伝えようとしました。宮殿や教会では、見る人を驚かせ、感情を動かす視覚表現が求められました。

1600s

1619年|ヴァージニア|アフリカ人の到着と奴隷制の形成

1619年頃の英領北米とヴァージニア植民地の位置を示す地図
1619年頃の英領北米とヴァージニア植民地の位置(概略図)。

1619年、イギリス領ヴァージニアに、アフリカから強制的に連行された人々が到着しました。当時の法的な身分には不明な点があり、その後17世紀を通じて、奴隷身分を子どもへ引き継がせる制度が成立していきます。南部植民地ではタバコ、米、インディゴなどの輸出作物が栽培され、奴隷とされたアフリカ系の人々の労働が農園の経営と植民地経済を支えるようになりました。(参照:米国国立公園局|1619年のアフリカ人到着と植民地の奴隷制)

1620s

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1648年|パリ|フランス王立絵画彫刻アカデミーの設立

1648年、フランスで王立絵画彫刻アカデミーが設立されました。画家や彫刻家たちは、職人の同業組合とは異なる立場を求め、絵画と彫刻を理論や学問にもとづく芸術として位置づけようとしました。アカデミーでは、やがて素描や人体研究などを重視する教育が整えられ、作品を評価する基準や公式展覧会のあり方にも大きな影響を及ぼします。国家と結びついたこうした美術制度は、後に新しい表現を求める芸術家たちが向き合う存在にもなりました。

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17–19世紀|西洋美術|女性裸体のルール

西洋美術では、ヴィーナスなど神話・聖書・寓意の人物として描かれた理想化された女性裸体が、「高尚な美術」の主題として認められていました。同時代を生きる普通の女性として裸体を描いた場合には、作品の受け止められ方や社会的な意味が大きく変わりました。(参照:The Met)

17〜18世紀|魔女裁判の衰退 — 証拠と司法制度の変化

17世紀後半から18世紀にかけて、ヨーロッパ各地で魔女裁判は次第に減少しました。裁判官や上級裁判所が自白の信用性や証拠を厳しく吟味するようになり、告発を退けたり有罪判決を取り消したりする例が増えました。悪魔や魔術への信仰がすぐに消えたわけではありません。裁判で何を犯罪として認め、どのような証拠によって人を処罰できるのかという判断が変わることで、迫害は抑えられていきます。魔女裁判の終息は地域ごとに異なり、法の改正や魔術をめぐる考え方の変化が長い時間をかけて進みました。かつて魔女として疑われた人々の多くが女性だったことは、当時の社会で偏見が司法の判断にも影響した歴史として記憶されています。(参照:Oxford|魔女裁判の衰退と終結)

1711年|ニューヨーク|ウォール街の奴隷市場

現在のニューヨークにも、植民地時代には奴隷制が存在しました。1711年、市当局はウォール街の東端付近を、奴隷とされた人々の労働力を貸し出す場所に指定し、売買も行われました。彼らは建設や家事などに従事し、都市の発展を支えていました。ニューヨーク州で奴隷制が廃止されたのは1827年です。その後も港湾貿易や綿花の流通を通じ、ニューヨークの経済は南部の奴隷労働と結びついていました。(参照:ニューヨーク市公文書館|奴隷制と解放の記録)

18世紀|フランス|発注者と美術市場の変化

1715年にルイ14世が亡くなると、摂政期には上流社会の重心の一部がヴェルサイユからパリへ戻り、貴族や富裕な金融家などが暮らす私邸の文化が発達しました。美術を注文する層も、王室や教会に加えて、こうした富裕な個人へ広がります。居間、寝室、浴室などの私的な空間にも美術が飾られるようになり、会話、音楽、恋愛、遊び、性愛など、注文主が日々の暮らしの中で楽しむ主題にも市場が生まれました。ルイ15世は1722年にヴェルサイユへ戻り、その後も王室の美術注文は続きました。公的な発注と私的な美術市場が並行して発達した時代です。(参照:The Met)

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18世紀後半|イギリスで産業革命が進み、機械化と工場制生産が広がる

18世紀半ばまで、イギリスの繊維製品は、農村の家々や小さな作業場で糸を紡ぎ、布を織る方法によってつくられることが多くありました。18世紀後半になると、綿工業で紡績機が改良され、1769年にはリチャード・アークライトが水力で動く紡績機の特許を取得します。多くの機械と働く人々を一つの建物に集め、動力と作業工程をまとめて管理する工場制生産が発展しました。1784年に建設されたクォリー・バンクの綿紡績工場は、こうした変化を伝える施設の一つです。

工場の動力には当初、水車が広く使われました。やがて蒸気機関の改良によって、石炭を燃やして機械を動かす仕組みが普及し、工場は川沿い以外の都市にも建てられるようになります。石炭や鉄の生産、運河による物資の輸送も発達し、19世紀には鉄道の普及が人と商品の移動をさらに変えていきました。マンチェスターなどの工業都市には仕事を求める人々が集まり、工場や煙突、労働者の住宅が新しい都市の風景を形づくりました。

大量生産は織物を広く流通させ、産業と商業を成長させました。同時に、工場では女性や子どもを含む多くの人々が長時間働き、労働環境や健康をめぐる問題が深刻になりました。イギリスでは1802年から工場労働に関する法律が整えられ、1833年には児童労働の規制を監督する工場監督官の制度が始まります。綿工業の成長は大西洋を越えた交易にも支えられ、19世紀にはアメリカ南部で奴隷とされた人々が栽培する綿花が、イギリスの工場へ大量に運ばれました。

産業革命によって、ものをつくる場所、人々の働き方、都市の姿、商品の流通が長い時間をかけて変化しました。機械、鉄道、工場、都市の群衆といった新しい風景は、19世紀の芸術家たちが目にする社会の一部となり、美術を取り巻く生活環境や鑑賞者の層にも変化をもたらしていきます。(参照:大英図書館|産業革命と工場制生産・科学博物館|綿工業とアークライトの機械・英国ナショナル・トラスト|クォリー・バンクの歴史・英国議会|初期の工場法・英国議会|1833年工場法)

1776年|アメリカ独立宣言 — イギリスからの独立と人間の権利

北アメリカのイギリス領13植民地では、本国による課税や政治への不満が強まり、1775年に独立戦争が始まりました。翌1776年7月4日、植民地の代表者たちは独立宣言を採択し、イギリスからの独立を表明します。宣言は、人間には生まれながらに生命・自由・幸福を追求する権利があり、政府の権力は人々の同意に基づくという考えを示しました。独立宣言を出した後も戦争は続き、イギリスからの独立が確定するまでにはさらに年月を要しました。独立宣言が掲げた平等の理念は、奴隷制と共存していました。南部植民地では奴隷とされた人々の労働がタバコや米の生産を支え、女性や先住民の政治的権利も制限されていました。この理念と現実の隔たりは、その後のアメリカ社会で繰り返し問われることになります。(参照:米国国立公文書館)

1780年代|フランス宮廷|マリー・アントワネットとロココの終焉

Marie Antoinette (2006) - I Want Candy Scene | Movieclips

18世紀後半のフランスでは、ベルサイユ宮廷の優雅な生活や洗練された装飾文化が、ロココの美意識を支えていました。王妃マリー・アントワネットは、その華やかな趣味の象徴として広く知られ、肖像画家エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランは、王妃の姿を繰り返し描きました。

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン《モスリンのドレスを着たマリー・アントワネット》(1783年)。白いモスリンのドレスを着た王妃の肖像。
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン《モスリンのドレスを着たマリー・アントワネット》、1783年。 (Wikimedia Commons)

1783年に公開された《モスリンのドレスを着たマリー・アントワネット》では、王妃が軽やかなモスリンのドレス姿で描かれ、親しみや自然さを感じさせる一方、王権にふさわしい威厳を欠くとして物議を呼びました。宮廷の私的な趣味や親密な美意識が、公的な王妃像とずれ始めていたことがうかがえます。

同じ時期のフランスでは、国家財政の悪化、特権身分への不満、物価上昇や食糧問題が社会不安を強めていました。王妃は実際以上に「浪費」と結びつけられ、風刺文書や風刺版画の中で批判の的になります。ロココの優美な宮廷文化は、革命前夜の社会ではしだいに旧体制の象徴として見られるようになりました。(参照:ヴェルサイユ宮殿|1783年の王妃肖像と差し替え・メトロポリタン美術館|ヴィジェ=ルブランと王妃の肖像・ヴェルサイユ宮殿|王妃マリー・アントワネット・ヴェルサイユ宮殿|フランス革命前夜の社会と財政)

1787年|アメリカ|合衆国憲法と奴隷制

1787年、独立後の新しい国家の仕組みを定める合衆国憲法が起草されました。州ごとの利害を調整する過程で、奴隷制の存続を前提とする規定も盛り込まれます。下院議席の配分に用いる人口には、奴隷とされた人々の数の5分の3を算入し、連邦議会が海外からの奴隷輸入を禁止できるのは1808年以降とされました。奴隷制は建国当初の政治制度にも深く関わっていました。(参照:米国国立公文書館|合衆国憲法の制定過程)

1789年|フランス革命の始まり — 王権と身分社会が揺らぐ

18世紀末のフランスでは、国家財政の危機や食料価格の上昇、聖職者・貴族の特権に対する不満が高まっていました。1789年、国王ルイ16世が全国三部会を招集すると、第三身分の代表者たちは国民議会を結成し、政治のあり方を変えようとします。7月14日にはパリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃し、8月には封建的な特権を廃止する方向が示され、「人間と市民の権利の宣言」が採択されました。自由や法の下の平等、国民主権を掲げた革命は、王や貴族を中心としていた社会の秩序を大きく変えていきます。王政は1789年の時点では存続しており、廃止されたのは1792年です。革命は美術にも影響し、王室の所蔵品や美術を誰が見ることができるのかという問題にも変化をもたらしました。(参照:フランス国民議会)

1791年|オランプ・ド・グージュの「女性の権利宣言」— 女性にも自由と平等を

1789年のフランス革命では、自由と平等を掲げる『人間と市民の権利宣言』が採択されました。その政治的な権利は当初、主に男性市民を中心に制度化され、女性の参政権は認められませんでした。1791年、劇作家で政治評論家のオランプ・ド・グージュは『女性および女性市民の権利宣言』を発表し、女性も男性と同じ権利を持ち、政治や公職に参加できるべきだと訴えます。彼女の主張は当時の政治制度に採用されず、1793年には革命期の政治的対立の中で処刑されました。女性の権利をめぐる議論はその後も続き、19世紀の教育や職業、芸術家としての活動の機会を考える際にも重要な歴史的背景となります。(参照:フランス国民議会|オランプ・ド・グージュの宣言)

1793年|パリ|ルーヴル美術館が一般公開 — 王室コレクションから公共美術館へ

フランス革命のなかで、王宮だったルーヴルは美術館へ転換され、1793年に「中央美術館」として一般公開されました。王や宮廷が所有していた作品を、国家が管理し、市民が見ることのできる公共のコレクションとして示す近代美術館の重要な転換点です。多くの市民が過去の作品を比較し、学び、美術史の広がりを実際に目でたどれる場所が生まれました。(参照:Musée du Louvre)

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19世紀|フランス|女性作家と美術教育

西洋美術では、歴史画や神話画などを描くために人体を正確に理解することが重視され、裸体モデルを描く「ライフ・ドローイング」はアカデミー教育の中核でした。女性は長い間、この授業への参加を認められませんでした。女性の身体は絵画の主要な主題でありながら、女性の芸術家が同じ教育を受ける機会は制限されていたのです。(参照:The Met)

1819年|マドリード|プラド美術館が開館 — 王室コレクションを公開する

プラド美術館
プラド美術館

スペイン王フェルナンド7世のもとで、王室が長い時間をかけて集めてきた絵画を公開する「王立絵画彫刻美術館」が1819年に開館しました。現在のプラド美術館です。最初の展示は311点でしたが、王宮などにあった膨大な王室コレクションを基盤としていました。ルーヴルと同じく、かつて王侯のために集められた名画が、近代の美術館を通してより広い観客に見られるようになる流れを示しています。(参照:Museo Nacional del Prado)

1824年|ロンドン|ナショナル・ギャラリー設立 — 国民のためのコレクション

イギリス政府は1824年、銀行家ジョン・ジュリアス・アンガースタインの私的コレクション38点を議会の決定で購入し、ナショナル・ギャラリーを設立しました。国家が議会の決定に基づいて作品を買い入れ、「国民のための美術コレクション」を新たに形成したことが特徴です。美術館は、市民の教育と文化のために作品を収集する公共的な制度として発展していきました。(参照:The National Gallery)

19世紀前半|欧米|産業化と社会の変化

19世紀前半、産業革命によって工場での大量生産や鉄道輸送が広がり、人々は仕事を求めて都市へ移り住むようになりました。都市では商店や広告、新聞・雑誌が増え、商品や情報が以前より速く行き交うようになります。商工業の発展によって中産階級が成長し、自分や家族の肖像を残したいという需要も広がっていきました。

1839年|フランス|写真の登場 — ダゲレオタイプの公開

ダゲレオタイプとは?(HENI Talks)

1839年、フランスでルイ・ダゲールの写真技術「ダゲレオタイプ」が公表されます。光を利用して目の前の風景や人物を細部まで記録できる技術は大きな反響を呼び、やがて欧米各地の都市に肖像写真館が開かれました。その後、紙のネガから写真を複数枚作る技術も発達し、風景や建築物、日常生活を記録する方法が広がります。

写真の登場は、絵画にも新しい問いをもたらしました。画家のなかには写真を制作の参考に用いる人が現れ、写真家たちも構図や光を工夫して表現を追求しました。人物や風景を正確に再現することに加えて、画家が何を見つめ、どのように描くのかが、いっそう意識される時代へと向かいます。(参照:The Metropolitan Museum of Art)

1841年|ロンドン|チューブ絵の具の開発とヨーロッパへの普及

19世紀前半まで、油絵の具は顔料を油と練って用意され、販売用や携帯用には豚の膀胱などで作った袋に詰められることもありました。袋から絵の具を取り出した後は口を閉じ直す必要があり、残りの絵の具を保存しながら持ち運ぶには手間がかかりました。画家たちは以前から戸外で自然を観察し、油彩の習作も制作していましたが、画材の扱いやすさは制作場所を選ぶうえで重要な条件でした。

1841年、ロンドンで活動していたアメリカ人画家ジョン・ゴッフェ・ランド(John Goffe Rand)が、軟らかい金属製容器を押して絵の具を取り出すチューブを考案し、イギリスで特許を取得しました。同年にはロンドンの画材商トーマス・ブラウンが販売を始め、1842年には英国の画材メーカー、ウィンザー&ニュートンも取り扱うようになります。同社のウィリアム・ウィンザーによるねじ式キャップの改良も加わり、必要な量だけ取り出して残りを保存できる、現在につながる絵の具の容器が普及していきました。

この変化は、ヨーロッパの画家たちの制作にも影響を与えます。フランスではバルビゾン派などが自然を直接観察する風景画を発展させ、19世紀後半にはチューブ入り絵の具、携帯用の画材、鉄道の発達によって、戸外で油彩画を制作しやすくなりました。モネやルノワールら印象派の画家たちは、屋外で変わり続ける光や色を捉えようとします。ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵するモネ《トルーヴィルの浜辺》(1870年)には、絵の具に砂粒が混じっており、海辺で制作されたことがうかがえます。チューブ入り絵の具は、画家が描く場所と時間、絵画の表現を広げた技術革新の一つでした。(参照:英国ナショナル・ポートレート・ギャラリー|ランドと英国の画材商・米国文化財保存研究所|金属チューブと屋外制作の技術史・ウィンザー&ニュートン|金属製チューブの歴史・ロンドン・ナショナル・ギャラリー|モネ《トルーヴィルの浜辺》)

1848年|1848年革命 — ヨーロッパ各地で自由と政治参加を求める

1840年代のヨーロッパでは、不作や物価の上昇、失業などによって生活への不安が強まりました。政治の権限は王や一部の有力者に集中し、多くの人々は選挙への参加も制限されていました。1848年、フランスでは選挙制度の改革を求める運動が二月革命へ発展し、国王ルイ・フィリップが退位して第二共和政が成立します。財産による制限のない成人男性の選挙権が導入されましたが、女性には選挙権がありませんでした。

同じ年、ウィーンやベルリン、イタリアの諸地域などでも革命や蜂起が相次ぎ、憲法の制定、言論の自由、政治参加、民族の自治や統一が求められました。運動の目標や対立する相手は地域によって異なり、多くの運動は1849年頃までに軍事力で抑えられました。フランスでも労働者の生活改善を求める六月蜂起が鎮圧され、共和政が成立しても社会の対立は解消しませんでした。こうした動揺のなかで、絵画でも王侯や神話上の英雄だけでなく、同じ時代に生きる普通の人々や労働の現実へ目が向けられます。クールベらのレアリスムも、1848年革命後の社会を背景として発展していきました。(参照:Oxford University Press)

1849–1855年|クールベ — なぜ「自分の時代」を描こうとしたのか

19世紀半ばまでのアカデミーでは、古代史、神話、聖書などの「高尚な主題」が大きな絵画にふさわしいとされていました。クールベは古い美術を学びながら、自分が生きる時代の現実を、自分自身の判断で描く道を選びました。1855年の「レアリスム館」の声明では、自分の時代の風俗、思想、外観を自分の評価によって表し、「生きた芸術」をつくることを目標に掲げました。《オルナンの埋葬》では、故郷の普通の住民の葬儀を、歴史画に使われてきた巨大な画面へ描いています。同時代の暮らしや人々の姿に大きな絵画の主題を見いだしたことが、クールベのレアリスムの重要な特徴です。(参照:The Met)

19世紀半ば|ヨーロッパ|都市化・鉄道・万国博覧会

1851年ロンドン万国博覧会のクリスタル・パレス
1851年のロンドン万国博覧会。開催中のクリスタル・パレスを北東側から見た様子。

都市が急速に拡大し、鉄道で郊外へ出かける人も増えました。万国博覧会では世界各地の商品や技術、美術が一か所に集められ、近代社会の新しさが大規模に展示されました。

1851年、産業革命を経たイギリスは、自国の工業力と国際貿易の発展を示すため、ロンドンで世界初の万国博覧会を開きました。アルバート公らが主導し、鉄とガラスで造られたクリスタル・パレスに機械や織物、工芸品などが並びます。博覧会国際事務局の記録では25か国が参加。ヨーロッパ諸国やアメリカなどのほか、当時イギリスが支配していたインドをはじめ、植民地からの出品もありました。展示は国際的な技術交流の場であると同時に、イギリスの産業力と帝国の広がりを示す場でもありました。

1855年には、皇帝ナポレオン3世のもと、フランスが第1回パリ万国博覧会を開催しました。先行したロンドン万博に対抗し、フランスの産業と文化の力を示す狙いがありました。参加は28か国で、イギリスやアメリカに加え、オスマン帝国、エジプト、ペルシア、中国などからも出品されました。パリでは産業製品に加えて美術の専用会場が設けられ、アングルやドラクロワらの作品も展示されました。こうした万国博覧会は、各国が技術や美術を披露し、国際的な競争を繰り広げる場となっていきます。(参照:博覧会国際事務局(BIE)|1851年ロンドン万博・博覧会国際事務局(BIE)|1855年パリ万博・ヴィクトリア&アルバート博物館|1851年万博とデザイン)

1855年|パリ|クールベ「レアリスム館」— 万博の公式展に対抗した個展

ギュスターヴ・クールベ《画家のアトリエ》(1855年)
ギュスターヴ・クールベ『画家のアトリエ』1855年(Wikipedia)

1855年、フランスでは初めてのパリ万国博覧会が開催されました。産業や技術の成果に加えて美術作品も展示され、各国の芸術家たちが作品を発表する大きな機会となりました。画家ギュスターヴ・クールベも出品を試み、11点の作品が受け入れられます。ところが、彼が重要視していた大作《画家のアトリエ》と《オルナンの埋葬》は、公式展への展示を認められませんでした。

クールベは、農民や労働者、地方の人々の日常生活を大きな画面に描くことで、当時の絵画の常識に挑んでいました。それまで巨大な絵画は、歴史上の出来事や宗教、神話などを描くために用いられることが一般的でした。《オルナンの埋葬》では故郷の村の葬儀を歴史画に匹敵する大きさで描き、《画家のアトリエ》では自分自身を画面の中心に置き、周囲に社会のさまざまな階層の人々や友人、支援者を描いています。

公式展の判断に反発したクールベは、万博会場の近くに自費で仮設の展示館を建て、「レアリスム館(Pavillon du Réalisme)」と名づけました。ここで落選した大作を含む40点余りの作品を公開し、展覧会の目録では、自分が生きる時代の風俗や思想を、自分自身の判断で描くという考えを表明しました。国家や審査員が作品を選ぶ公式展に対して、芸術家が自ら発表の場をつくり、作品を直接観客に見せたのです。この試みは、後に画家たちが既存の展覧会制度から独立して活動する流れを考えるうえでも、重要な先例となりました。(参照:オルセー美術館|《画家のアトリエ》・クールベ美術館|クールベの生涯・メトロポリタン美術館|19世紀フランスのレアリスム)

1850s

1860年|アメリカ|綿花産業と約400万人の奴隷労働

1860年頃のアメリカ合衆国の奴隷州、自由州、準州を示す地図
1860年頃のアメリカ合衆国。奴隷州・自由州・準州の分布を示す概略図。

19世紀前半、南部の綿花栽培はアメリカの主要な輸出産業へ成長しました。1860年には奴隷とされた人々が約400万人に達し、綿花はアメリカの輸出を支える重要な商品になっていました。プランテーションで生産された綿花は、北部やイギリスの織物工場へ運ばれ、商人や投資家にも利益をもたらしました。アメリカの経済的な発展には、奴隷として働かされた人々の労働が深く組み込まれていたのです。翌1861年には南北戦争が始まります。(参照:スミソニアン国立アメリカ歴史博物館|アメリカの奴隷制と経済)

1862年|ロンドン万博 — 幕府使節団の視察と日本工芸の展示

1862年、ロンドンで開かれた第2回万国博覧会を、江戸幕府の竹内遣欧使節団が視察しました。使節団はヨーロッパ諸国との開港・開市延期の交渉を目的に派遣され、福沢諭吉らを含む総勢38人が渡欧しました。一行は5月1日の開会式に招かれ、会場では機械の展示に強い関心を示します。電信局や造船所、兵器工場なども見学し、産業革命を経たイギリスの技術に触れました。

この万博に日本からの正式な出品はありませんでした。会場に展示された漆器、刀剣、提灯、草履などの日本製品は、初代駐日英国公使ラザフォード・オールコック(Rutherford Alcock)が収集したものです。イギリスでは日本の工芸品や日用品が注目されましたが、使節団のなかには、こうした品々が日本を代表する展示として並ぶことに戸惑う人もいました。万国博覧会は、ヨーロッパが日本の造形文化を知ると同時に、日本の使節団がヨーロッパの産業や社会を観察する場にもなりました。(参照:国立国会図書館|1862年ロンドン万博と日本使節団・外務省外交史料館|万国博覧会との出会い)

1863年|パリ|《草上の昼食》はなぜスキャンダルになったのか — 娼婦を連想させた裸体画

エドゥアール・マネ《草上の昼食》
エドゥアール・マネ《草上の昼食》1863年

マネはラファエロやティツィアーノなど過去の名画を深く学びながら、その構図を1860年代の同時代の人物を描くために使いました。《草上の昼食》では、古典的な人物配置の中に服を着た現代男性と、裸の現代女性を置きます。古典絵画の構成を熟知したマネが、現代の生活を絵画の中心的な主題へ引き寄せたことが、この作品の革新性につながりました。さらに、滑らかな陰影や自然な奥行きより直接的な色と明暗が前に出たため、主題だけでなく完成された絵画の見え方まで当時の基準から外れました。公式サロンでは落選し、落選展で大きな論争を呼びました。

1863年は公式サロンで落選した作品が非常に多く、画家たちから不満の声が上がりました。これを受け、皇帝ナポレオン3世は落選作品を一般公開する「落選展」の開催を認めます。そこで展示された《草上の昼食》は、会場でも特に大きな注目を集め、観客の嘲笑や批評家の厳しい批判を招きました。

《草上の昼食》では、19世紀のパリで暮らす学生やブルジョワ階層の男性を思わせる、服を着た二人の男性のそばに、裸の女性が座っています。神話上の女神とは異なり、現実の女性を思わせるその裸体は、当時の観客に娼婦を連想させました。男女の間に性的な関係があるようにも受け止められ、作品は不道徳だとして激しい批判を浴びました。さらに、強い明暗の対比、奥行きの乏しさ、人物と背景の不自然な関係など、描写の方法も批判されました。この作品をめぐる騒動は、何を描き、どのように描くことが許されるのかという、当時の絵画の価値観を浮き彫りにしました。(参照:Musée d’Orsay・The Met)

1860年代|マネ — 自分の時代を、自分の目で描く

マネが活動した第二帝政期のパリでは、都市改造、鉄道、カフェ、劇場、娯楽、ファッションなど新しい都市生活が急速に広がっていました。同時代のボードレールも、移ろう現在の生活からその時代固有の美を取り出すことを「近代性」の課題として論じています。マネはラファエロ、ティツィアーノ、ベラスケスなど過去の巨匠を研究しながら、その構図や絵画の強さを現代の人物へ使いました。そして1867年の自身の個展では、「自分自身である」こと、自分の印象を誠実に表すことを重視したと説明しています。絵画では、アカデミーで完成作の基準とされた滑らかな陰影や仕上げに縛られず、色と明暗をより直接的に置きました。結果として身体や空間は従来より平たく見え、絵具や色面そのものが強く見えるようになります。マネが自分の時代を自分の見方に合う方法で描いた結果、絵画の平面性や絵の具の存在感がいっそう際立ち、近代絵画の新しい可能性が開かれていきました。(参照:The Met・Musée d’Orsay)

1865〜1870年|アメリカ|奴隷制廃止と黒人の市民権

アメリカでは植民地時代から黒人を奴隷として働かせる制度が続き、とくに南部の綿花栽培などを支えていました。南北戦争が終結した1865年、憲法修正第13条の批准によって奴隷制が廃止されます。1868年の第14条は市民権と法の平等な保護を、1870年の第15条は人種を理由に投票権を制限することを禁じ、黒人男性の投票権を保障しました。再建期には黒人の政治参加が広がりましたが、南部では人種差別的な暴力や権利の制限も続きました。(参照:米国国立公文書館|奴隷制廃止と憲法修正第13条)

1867年|パリ万博 — 日本の初の公式出品とジャポニスム

1867年、ナポレオン3世のもとで開かれたパリ万国博覧会に、日本は初めて公式に出品しました。徳川幕府は将軍徳川慶喜の弟・徳川昭武を代表として派遣し、後の実業家・渋沢栄一も随行します。幕府に加えて薩摩藩と佐賀藩も参加しました。薩摩藩は独自の政治的立場を現地で示そうとし、万博には幕末の日本国内の対立も映し出されました。

会場には浮世絵、陶磁器、漆器などの日本の美術工芸品が展示され、ヨーロッパの人々の関心を集めました。日本の版画や工芸品は万博以前からヨーロッパに伝わっており、1867年の展示はその認知をさらに広げる契機となります。日本の版画の構図や色彩、工芸の意匠に刺激を受けた画家や工芸家たちの活動は、後に「ジャポニスム」と呼ばれる大きな流れへつながりました。パリ万博は、産業や外交の催しであると同時に、日本美術がヨーロッパの視覚文化に影響を与えていく重要な接点でもありました。(参照:外務省外交史料館|1867年パリ万博への公式出品・佐賀城本丸歴史館|1867年パリ万博と佐賀藩・メトロポリタン美術館|ジャポニスム)

1860s

1870年代|パリ|都市改造と新しい日常

パリでは街路や公園が整備され、カフェ、劇場、鉄道、郊外の行楽など新しい都市生活が広がりました。画家にとって、現代の日常そのものが重要な題材になります。

1870年|ニューヨーク|The Met設立 — 市民と民間の力がつくる巨大美術館

メトロポリタン美術館正面
メトロポリタン美術館正面
(Wikipedia)

メトロポリタン美術館は1870年、ニューヨークの市民指導者、実業家、芸術家、コレクター、慈善家らによって設立され、1872年に一般公開されました。ヨーロッパの王室コレクションを基盤にした美術館とは出発点が異なり、民間の寄付や収集を通して「芸術と美術教育をアメリカの人々へ届ける」ための大規模な美術館をつくろうとしたことが特徴です。ニューヨークがやがて国際的な美術の中心へ成長するための重要な文化基盤の一つになります。(参照:The Met)

19世紀|フランス|女性の美術教育が広がる

1870年代になると、女性も私塾や私立アカデミーで裸体モデルから人体を学べる機会が少しずつ増えます。女性クラスを設けたシャルル・シャプランのアトリエやアカデミー・ジュリアンは重要な受け皿になりました。国立のエコール・デ・ボザールが女性の正式入学を認めるのは、1897年になってからです。(参照:The Met)

1874年|パリ|第1回印象派展

当時のフランスでは、国が支える公式展「サロン」に選ばれることが、画家として評価され作品を売るための重要な道でした。1874年、モネ、ルノワール、ドガ、ピサロ、モリゾ、シスレーらはその仕組みだけに頼らず、自分たちで作品を発表するための団体をつくり、写真家ナダールの旧アトリエで展覧会を開きます。これが第1回印象派展です。

1874年|パリ|「未完成」と批判された新しい絵画

この展覧会では画家たち自身が会場や作品の見せ方を決め、公式サロンとは異なる発表の場をつくりました。批評には評価と批判の両方がありました。保守的な批評家の多くは、筆触が見え、形が細部まで描き込まれていない作品を「未完成の下絵のようだ」と厳しく批判しました。なかでもルイ・ルロワは、モネの《印象・日の出》などを題材にした風刺的な記事でこの新しい絵画を嘲笑し、「印象派」という呼び名を侮蔑的に用いました。

1870年代後半|批判から「印象派」の定着へ

展覧会への評価は当初厳しく、作品の技法や仕上げを批判する声も多くありました。やがて現代生活の描写や新しい技法に注目する批評家が現れ、1877年頃から画家たち自身も「印象派」という名称を使うようになります。

1886年|ニューヨーク港で自由の女神像が除幕

90秒でわかる自由の女神の歴史(TIME)

1886年10月28日、フランスから贈られた自由の女神像がニューヨーク港で除幕されました。アメリカ独立100周年を記念して構想されたこの像は、自由の象徴として知られ、やがて大西洋を渡って到着する移民たちを迎えるニューヨークの象徴にもなりました。(参照:米国国立公園局|自由の女神像の歴史)

1880s

1896年|アメリカ|人種隔離制度と「分離すれども平等」

ジム・クロウ法と人種隔離が行われていた南部(Daily Dose Documentary)

19世紀末、アメリカ南部では学校、鉄道、公共施設などで白人と黒人を分けるジム・クロウ法が広がりました。1896年、連邦最高裁判所はプレッシー対ファーガソン判決で「分離すれども平等」という考え方を認め、人種隔離を支える法的根拠を与えます。識字試験や人頭税、脅迫や暴力によって黒人の投票も妨げられました。南部での差別や暴力と、北部の工業都市での雇用機会は、20世紀初頭に多くの黒人が北部へ移住した「大移動」の背景となりました。(参照:米国国立公園局|プレッシー対ファーガソン判決)

1897年|フランス|女性が国立美術学校へ

1897年、フランス国立のエコール・デ・ボザールがようやく女性に正式に門戸を開き、最初に10人の女性学生を受け入れました。入学後も男性学生と同じ条件では学べず、絵画や裸体モデルの授業から除外されるなどの制限が残りました。実質的な平等には20世紀初頭まで時間がかかりました。(参照:The Met)

1900–1906年|初期ピカソ — 青の時代からバラ色の時代へ

初期ピカソに関する映像(YouTube)

スペインで美術を学んだピカソは、1900年に初めてパリを訪れました。1901年に親友カルロス・カサヘマスを失い、青を基調に貧困や孤独、悲しみを抱える人々を描く「青の時代」へ進みます。1904年頃からは色調が温かみを帯び、サーカスの芸人や道化師などを描く「バラ色の時代」へ移行しました。1906年にはルーヴル美術館でイベリア彫刻に接し、人物の形を新しく捉える実験を深めていきます。(参照:ピカソ美術館(パリ))

1904年|モンマルトル|バトー・ラヴォワールと芸術家たち

1910年頃に撮影された、パリ・モンマルトルのバトー・ラヴォワール
1910年頃のバトー・ラヴォワール。モンマルトルにあった芸術家たちのアトリエ兼住居。(Wikipedia)

1904年、ピカソはパリ・モンマルトルのラヴィニャン通り13番地(現在のエミール=グードー広場13番地)にある「バトー・ラヴォワール」にアトリエを構え、1909年まで暮らしました。古い建物に小さな仕事場が集まり、画家が生活と制作を重ねるこの場所には、詩人や画商、収集家も出入りしていました。1905年にはキース・ヴァン・ドンゲン、1906年にはフアン・グリスも加わり、ピカソはマックス・ジャコブ、アンドレ・サルモン、ギヨーム・アポリネールらと交流します。同じ1904年、ブラックも近くのオルセル通りにアトリエを借りていました。ピカソとブラックが出会うのは、それから3年後の1907年11月です。(参照:モンマルトル美術館)

1907年|パリ|セザンヌ没後回顧展 — サロン・ドートンヌ

1904年のサロン・ドートンヌで展示されたセザンヌ室の風景
1904年のサロン・ドートンヌ、セザンヌ室の展示風景。撮影:アンブロワーズ・ヴォラール。(Wikipedia)

1906年にセザンヌが亡くなった翌年、1907年10月1日から22日まで、パリのグラン・パレで開かれたサロン・ドートンヌにおいて没後回顧展が開催されました。油彩画と水彩画を合わせて56点が展示され、風景、静物、人物など、セザンヌが長年取り組んだ絵画をまとめて見る機会となりました。セザンヌの作品は、1895年のヴォラール画廊での個展や1904年のサロン・ドートンヌを通じて、すでに若い画家たちの関心を集めていました。1907年の没後回顧展は、長年の制作をまとまった形で見渡し、その絵画を改めて評価する重要な機会となりました。(参照:フィラデルフィア美術館)

1907年|モンマルトル|ピカソとブラックの出会い — キュビスム成立前夜

1907年11月、詩人ギヨーム・アポリネールの紹介で、ピカソ(26歳)とブラック(25歳)はモンマルトルで出会いました。(参照:ピカソ美術館(パリ)「ピカソとブラック」)

ブラックはピカソが暮らすバトー・ラヴォワールを訪ね、同年6〜7月に制作された《アヴィニョンの娘たち》を見ます。この作品は10月のセザンヌ回顧展よりも前に描かれていました。その後ピカソも、近くにあったブラックのアトリエを訪れ、ブラックが南フランスのレスタックで描いた風景画を見ました。ブラックは1906年からセザンヌを意識してレスタックで制作しており、二人の探究は出会う以前から別々に進んでいました。1908年にはブラックも26歳になり、互いの作品を確かめ合う交流のなかで、キュビスムへとつながる実験が深まっていきます。

1913年|ニューヨーク|アーモリー・ショー — アメリカを揺さぶった近代美術展

1913年のアーモリー・ショーに関する映像(Bbcworldnewslive225)

1913年2月17日、ニューヨークで「国際近代美術展」が開幕しました。会場となった第69連隊兵器庫にちなみ、「アーモリー・ショー」と呼ばれています。展覧会を企画したのは、保守的な美術界のあり方に不満を持つアメリカの画家や彫刻家たちでした。彼らは国内の新しい作家を紹介するとともに、ヨーロッパで進んでいた近代美術の動きを、アメリカの人々に広く紹介しようとしたのです。

会場にはセザンヌ、ゴーギャン、ゴッホから、マティス、ピカソ、デュシャンまで、ヨーロッパの新しい美術を代表する作品がアメリカの作家たちの作品とともに並びました。それまでの写実的な絵画に慣れた観客にとって、鮮烈な色彩や、人物を幾何学的な形に分解するキュビスムの表現は大きな驚きでした。とりわけデュシャンの《階段を降りる裸体 No.2》は嘲笑と論争の的となり、新聞には作品をからかう風刺画やパロディーが数多く掲載されました。展覧会はシカゴとボストンにも巡回します。シカゴでは、美術学校の学生たちが新しい美術に反発し、マティスを被告に見立てた模擬裁判まで開きました。学生たちはマティスの絵画を模写した作品を証拠品として持ち出し、有罪判決を下した後、その模写を燃やすという抗議活動を行いました。新しい表現を学ぶ立場にある美術学生たち自身が、前衛美術に抵抗したのです。

こうした騒動は、従来の美術の価値観が大きく揺さぶられていたことを示しています。作品に戸惑い、反発する人々がいるなかで、新しい表現に可能性を見いだす画家や収集家も現れました。アーモリー・ショーをきっかけに近代美術への関心が広がり、アメリカでも新しい美術を収集し、展示する活動が発展していきます。この展覧会は、ヨーロッパの近代美術がアメリカで広く知られ、その後の美術の展開に大きな影響を与えた転換点となりました。(参照:スミソニアン協会|1913年アーモリー・ショーの一次資料・シカゴ美術館|アーモリー・ショー100周年記念研究)

第一次世界大戦|芸術家も戦場へ

第一次世界大戦では芸術家も兵士として動員されました。「青騎士」のアウグスト・マッケは1914年、フランツ・マルクは1916年に戦死。マックス・ベックマンは衛生兵として従軍し、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーやオットー・ディックスも戦争を経験しました。

1914年|第一次世界大戦 — ピカソとブラックの共同制作が中断

1907年に出会ったピカソとブラックは、1908年頃から互いのアトリエを行き来し、キュビスムの新しい表現を共同で探究していました。1914年に第一次世界大戦が始まると、フランス国籍のブラックは軍に動員され、スペイン国籍のピカソはフランス軍の徴兵対象とならず制作を続けました。二人が日々作品を見せ合って進めていた緊密な共同研究は、戦争を機に終わりを迎えます。

ブラックは1915年に前線で頭部に重傷を負い、1917年に絵画制作を再開しました。戦前のような二人の共同研究は再開されず、以後はそれぞれの制作を進めていきます。キュビスムは戦時中もピカソらによって展開され、復帰後のブラックも独自の探究を続けました。(参照:ピカソ美術館(パリ))

1915年|パリからニューヨークへ — 画家デュシャンの転換

マルセル・デュシャンは、キュビスムの影響を受けながら、1912年に《階段を降りる裸体 No.2》を制作しました。人物の動きを幾何学的な形態の連続として描いた作品です。無審査を掲げるパリのアンデパンダン展に出品しようとしたところ、同じキュビスムの画家たちから題名の変更などを求められ、デュシャンは作品を引き揚げました。

翌1913年、この作品はニューヨークのアーモリー・ショーで嘲笑の的となります。新聞では「屋根板工場の爆発」にたとえられ、絵の中の人物を見つけた人に賞金を出す企画まで登場しました。この騒動によってデュシャンの名前はアメリカで広く知られるようになります。同じ頃、彼は自転車の車輪や瓶乾燥器など、日常の物を使った実験を始めていました。

第一次世界大戦が続く1915年、デュシャンはパリを離れてニューヨークへ渡ります。現地の芸術家や収集家と交流しながら《大ガラス》の制作を進めました。1917年には「R. Mutt」と署名された男性用小便器《泉》が、無審査を掲げる独立美術家協会の展覧会に提出されます。運営委員会は展示を拒否し、協会の運営に関わっていたデュシャンは辞任しました。(参照:メトロポリタン美術館|マルセル・デュシャン・クリーヴランド美術館|《階段を降りる裸体》とアーモリー・ショー・フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる出来事)

1916年|スイス・チューリヒ|ダダの誕生

1916年、第一次世界大戦中のスイス・チューリヒでダダが誕生しました。戦争への反発を背景に、既成の芸術観や社会の常識を問い直す運動が広がりました。

1917年|ニューヨーク|デュシャン《泉》の展示拒否 — 誰が芸術を決めるのか

マルセル・デュシャン《泉》
マルセル・デュシャン《泉》1917年

1917年、マルセル・デュシャンは市販の男性用便器を購入し、「R. Mutt」と署名して《泉》と名づけました。出品先はニューヨークの独立美術家協会展です。デュシャン自身もこの協会の創設メンバーで運営に関わっており、協会は「審査なし・賞なし」を掲げ、出品料を払えば誰でも作品を出せることを原則としていました。ところが《泉》は、作品として認められないとして展示を拒否されます。デュシャンはこの決定に抗議して協会を辞任しました。

《泉》の展示拒否は、何を芸術作品と認めるのか、その基準を誰が決めるのかという問題を浮かび上がらせました。デュシャンは既製品を選び、署名と題名を与えて展示しようとする行為を通じて、芸術家の役割と展覧会制度のあり方を問い直します。この出来事は、後のレディメイド、コンセプチュアル・アート、制度批判を考える重要な出発点となりました。

1919年|ヴァイマル|バウハウス設立 — 美術・工芸・建築の教育改革

第一次世界大戦後の1919年、ヴァルター・グロピウスはドイツのヴァイマルで国立バウハウスを設立しました。美術学校と工芸学校を統合し、造形の基礎教育、素材研究、工房での制作を組み合わせる新しい教育を構想します。バウハウスは1925年にデッサウへ移転し、近代建築や家具、印刷、デザインの分野にも影響を広げました。(参照:バウハウス・デッサウ財団|年表)

1910s

1920〜1930年代|ニューヨーク|ハーレム・ルネサンスと黒人近代美術

20世紀初頭、アメリカ南部から北部へ移り住む黒人が増え、ニューヨークのハーレムは文学、音楽、演劇、美術の創造的な拠点になりました。ジャズが広がるなか、画家アーロン・ダグラスは黒人の歴史を幾何学的な形で描き、写真家ジェームズ・ヴァン・ダー・ジーはハーレムの人々の暮らしや肖像を記録しました。アーチボルド・モトリーや彫刻家オーガスタ・サヴェージらも、近代都市に生きる黒人の経験を多様な方法で表現しました。(参照:メトロポリタン美術館|ハーレム・ルネサンス)

1929年|ニューヨーク|MoMA開館 — 「いまの時代の美術」を美術館へ

1937年、ニューヨークの西53丁目にある美術館の前に集まったMoMA職員たち
1937年、西53丁目のMoMA旧館前に集まった職員たち。撮影:ソイチ・スナミ。
(WIKI COMMONS)

Museum of Modern Art(MoMA)は1929年、リリー・P・ブリス、メアリー・クイン・サリヴァン、アビー・アルドリッチ・ロックフェラーらによって、近代美術を専門に扱う新しい美術館として設立されました。MoMAは同時代の新しい美術を積極的に収集し、展覧会を通してその動向を整理・紹介する役割を担いました。写真、建築、デザイン、映画なども美術館の重要な領域へ広げ、20世紀美術をどう理解するかという枠組み自体に大きな影響を与えました。(参照:MoMA・MoMA公式Flickr)(1939年MoMA新館開オープニング)

1920s

1933年以降|ナチ政権の迫害、文化統制と亡命

The Degenerate Art Exhibition (United States Holocaust Memorial Museum)

1933年に成立したナチ政権は反ユダヤ政策と文化統制を進め、戦時下にはユダヤ人の組織的な大量虐殺(ホロコースト)に至りました。ユダヤ人を含む多くの芸術家や知識人が迫害や活動の制限を受けます。ジョージ・グロスは1933年にアメリカへ移り、バウハウス閉鎖後にはアルバース夫妻も渡米しました。画家マックス・ベックマンは1933年に教職を追われ、1937年にオランダへ逃れた後、1947年にアメリカへ渡っています。こうした人々の移動は、ヨーロッパの前衛美術がアメリカへ伝わる要因の一つになりました。(参照:メトロポリタン美術館「ヒンデミットとベックマン」)

1937年|パリ|ピカソ《ゲルニカ》— スペイン内戦と戦争の悲劇

Pablo Picasso, Guernica (Smarthistory)

1937年4月26日、スペイン内戦のさなか、バスク地方の町ゲルニカがドイツとイタリアの航空部隊による爆撃を受けました。スペインに生まれ、当時パリで暮らしていたパブロ・ピカソは、祖国で起きた惨事を知り、スペイン共和国政府から依頼されていたパリ万国博覧会のスペイン館のために、大作《ゲルニカ》を制作しました。

戦争によって傷つく人々の姿は、特定の事件を超えた普遍的な悲劇を伝えるものとなりました。《ゲルニカ》はその後、戦争と暴力に抗議する20世紀美術の象徴的な作品として知られるようになります。現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターに所蔵されています。(参照:ソフィア王妃芸術センター|《ゲルニカ》)

1944年|アウシュヴィッツ=ビルケナウとホロコースト

BBCニュース「アウシュヴィッツで何があったのか? 解放から75年」(2020年)

ナチス・ドイツは1933年以降、ドイツ国内や占領地域に強制収容所、強制労働施設、ゲットーなどを広げました。アウシュヴィッツは、強制収容や強制労働に加えて大規模な殺害が行われた複合施設です。1944年にはハンガリーから多くのユダヤ人が移送され、到着後の「選別」によって多数が殺害されました。ホロコーストは、ナチス政権とその協力者がヨーロッパ各地で進めた組織的な迫害と大量殺害であり、アウシュヴィッツはその中心的な現場の一つでした。(参照:アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館)

1945年|ヒトラーの自決とドイツの敗戦 — 分割占領へ

1945年春のヨーロッパ戦況を示す概略図。西側連合軍とソ連軍のドイツへの進攻方向が描かれている。
1945年春のヨーロッパ戦況。西側連合軍とソ連軍の進攻方向を示した概略図。
(正確な地図は専門書を確認して下さい。)

1945年春、東からソ連軍、西からアメリカやイギリスなどの連合国軍がドイツに進攻し、首都ベルリンは包囲されました。4月30日、アドルフ・ヒトラーはベルリンの地下壕で自決。ドイツ軍は5月に無条件降伏し、5月8日にヨーロッパでの第二次世界大戦が終結しました。その時点でも、アジア・太平洋での戦争は続いていました。

戦後のドイツでは、空襲や戦闘で多くの都市が破壊され、住居や食料が不足しました。東方からの避難民や追放された人々も流入するなか、ドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連による四つの区域に分けて占領されます。1945年11月にはナチス指導者らの戦争犯罪を裁くニュルンベルク裁判が始まりました。やがて占領国間の対立が深まり、1949年には西ドイツと東ドイツが成立しました。(参照:ドイツ歴史博物館)

第二次世界大戦前後|ヨーロッパからニューヨークへ

第二次世界大戦前後には、ピエト・モンドリアンが1940年、マルク・シャガールとマックス・エルンストが1941年にアメリカへ渡りました。アンドレ・ブルトン、アンドレ・マッソン、フェルナン・レジェらもニューヨークへ移り、ヨーロッパの抽象美術やシュルレアリスムがアメリカへ直接持ち込まれました。

1948年|ヴェネツィア|ビエンナーレ再開 — 戦後の国際美術展

ヴェネツィア・ビエンナーレの歴史をたどる映像(Artsy)

第二次世界大戦による中断を経て、1948年にヴェネツィア・ビエンナーレの国際美術展が再開されました。ファシズム期に排斥された近代美術も改めて紹介され、ピカソの回顧展やペギー・グッゲンハイムのコレクション展示が注目を集めます。ヨーロッパの復興期に、国境を越えて美術を展示し、近代美術の歴史を再検討する場が再び開かれました。1955年に始まるドクメンタとともに、戦後の国際展の歴史を考える重要な出来事です。(参照:ヴェネツィア・ビエンナーレ|公式沿革)

1949年|東西ドイツの成立 — 復興と冷戦の分断

敗戦後のドイツでは暮らしと経済の再建が進められ、同時にナチス政権の犯罪と向き合うことが社会の大きな課題になりました。占領した連合国の間で対立が深まり、1949年には西側の占領地域に西ドイツ(ドイツ連邦共和国)、ソ連の占領地域に東ドイツ(ドイツ民主共和国)が成立します。西側では民主主義と市場経済、東側では社会主義体制のもとで、社会や文化の仕組みが異なる道を歩み始めました。この分断は美術教育や作品発表の環境にも影響を与えていきます。(参照:ドイツ連邦政治教育センター)

1954年|アメリカ|学校の人種隔離に違憲判決 — 公民権運動の広がり

1954年、連邦最高裁判所はブラウン対教育委員会判決で、公立学校を人種によって分ける制度は憲法に違反すると判断しました。黒人の保護者と全米黒人地位向上協会(NAACP)が長年続けてきた法廷での取り組みが実を結んだ出来事です。南部の各地では学校統合への抵抗も起こりました。1955年のモンゴメリー・バス・ボイコットをはじめ、各地で差別の撤廃を求める市民運動が広がっていきます。(参照:米国国立公園局|ブラウン対教育委員会判決)

1955年|第1回ドクメンタ — 戦後ドイツと近代美術の再出発

1955年の第1回ドクメンタに関する映像(YouTube)

西ドイツのカッセルで国際美術展「ドクメンタ」が始まりました。ナチス政権から「退廃芸術」として排斥された近代美術を改めて紹介し、ドイツの美術を国際的な交流へつなぎ直そうとする試みでした。初期のドクメンタには、冷戦下での西側の文化的な立場も反映され、東ドイツの美術はほとんど紹介されませんでした。(参照:ドクメンタ公式サイト)

1950s

1960年代|欧米|消費社会と社会運動

テレビ、広告、スーパーマーケット、大量生産の商品が日常生活にあふれるようになりました。同時に、公民権運動や反戦運動など、社会の価値観を問い直す動きも広がります。

1961年|ベルリンの壁建設 — 分断されたドイツと美術家たち

1975年11月、ポツダム広場付近のベルリンの壁を東側に向かって撮影した写真
1975年11月、ポツダム広場付近のベルリンの壁。東側を望む。
(WIKIMEDIA COMMONS)
1961年以降のドイツ分断を示す概略図。西ドイツと東ドイツ、東西ベルリンの位置関係と米英仏・ソ連の影響圏を色分けした地図。
冷戦下の東西ドイツとベルリンの分断(概略図)。クリックすると地図を拡大表示します。

第二次世界大戦後、ドイツは西側のアメリカ・イギリス・フランスと東側のソ連が占領する地域に分かれ、1949年には西ドイツと東ドイツが成立しました。東ドイツの領域内にあるベルリンも東西に分かれ、西ベルリンは米英仏の管理区域に由来する特別な地域でした。1961年、東ドイツ政府は西側への人口流出を止めるため、東西ベルリンの境界などに壁を築きます。東西の往来は厳しく制限され、ベルリンの壁は冷戦とドイツ分断の象徴になりました。東ドイツで美術を学んだゲルハルト・リヒターは、壁が築かれる直前に西側へ移りました。

1960年代以降のドイツでは、ジグマー・ポルケが西側の消費社会を皮肉り、ヨーゼフ・ボイスは芸術と社会との関係を問い、アンゼルム・キーファーはナチス時代の歴史と記憶に向き合います。作家ごとに表現は異なりますが、敗戦と分断を経験した社会の背景を知ることは、彼らの作品を理解する手がかりになります。(参照:ドイツ連邦政治教育センター)

1963年|資本主義リアリズム(Capitalist Realism)— 西ドイツの消費社会と美術

1963年の資本主義リアリズムに関連する映像(YouTube)

1963年、西ドイツのデュッセルドルフで、ゲルハルト・リヒター、ジグマー・ポルケ、コンラート・リューク、マンフレート・クットナーが共同展を開き、「資本主義リアリズム」という言葉を掲げました。東ドイツの公式美術であった「社会主義リアリズム」を意識した皮肉な名称で、広告や商品、雑誌のイメージを用いながら、西側の豊かな消費社会も批評的に見つめました。同年10月にはリヒターとリュークが家具店で《ポップとともに生きる》を開催し、展示された家具や自分たち自身を美術作品のように見せました。(参照:クンストハレ・デュッセルドルフ)

1963年|ニューヨーク|黒人芸術家集団スパイラル — 公民権運動と美術

「ヒストリー・スペシャルズ」:キング牧師がワシントン行進を率いる (HISTORY)

1963年8月28日、首都ワシントンで「仕事と自由のためのワシントン大行進」が開かれ、約25万人が人種差別の撤廃や雇用の平等、公民権の保障を求めて集まりました。リンカーン記念堂ではキング牧師が「私には夢がある」と演説し、公民権運動の歴史に残る出来事となりました。同じ年、ニューヨークではロメール・ベアデン、ノーマン・ルイス、チャールズ・アルストンら黒人芸術家が「スパイラル」を結成しました。芸術家として公民権運動にどう関わるかを議論しながら、絵画やコラージュなど各自の制作を続けます。1965年にはグループ展「Black and White」を開催しました。参加作家の表現は抽象から具象まで幅広く、社会的な問題と造形上の探究をそれぞれの立場から考えました。(参照:ハーレムのスタジオ・ミュージアム)

1964〜1965年|アメリカ|公民権法と投票権法 — 法的平等への大きな転換

1963年のワシントン大行進など、公民権運動が全国へ広がるなか、1964年に公民権法が成立し、公共施設や雇用などでの人種差別が法律で禁止されました。1965年には投票権法が成立し、識字試験などを利用した投票の妨害を規制します。黒人芸術家たちもスパイラルなどの集団を結成し、作品を発表する機会や美術館での扱われ方について議論を深めていきました。(参照:米国国立公文書館|1964年公民権法)

1965〜1970年代|アメリカ|ブラック・パワーとブラック・アーツ・ムーブメント

1964年の公民権法と1965年の投票権法の成立を経て、黒人コミュニティでは政治や経済、文化のあり方を自ら決めようとするブラック・パワー運動が広がりました。文化の分野では1965年、詩人アミリ・バラカがニューヨークのハーレムに劇団を設立し、詩や演劇などを通じて黒人の歴史や経験を表現するブラック・アーツ・ムーブメントを推進します。1968年にはシカゴで黒人芸術家集団AfriCOBRAの前身となるCOBRAが結成され、鮮やかな色彩や力強い図像を用いて黒人社会の連帯や誇りを表しました。作品を誰に届け、地域の文化とどう結びつけるかという問いは、芸術家たちの活動を支える重要なテーマになりました。(参照:米国国立公文書館|ブラック・アーツ・ムーブメント)

1965〜1975年|ベトナム戦争と揺れるアメリカ社会

ベトナム戦争、1970年:小隊が銃撃を受ける様子をCBSのカメラが捉える(CBS Evening News)

冷戦下、アメリカは共産主義の拡大阻止を掲げて南ベトナムを支援し、1965年から大規模な地上軍を投入しました。ベトナムでは多くの兵士や民間人が犠牲となり、戦争が長期化するにつれてアメリカ国内でも徴兵や軍事介入への批判が広がります。テレビで伝えられる戦況、若者による反戦デモ、公民権運動の高まりが重なり、人種差別や貧困を抱える社会が海外で戦争を続けることへの疑問も強まりました。学生や芸術家たちは、デモだけでなくポスターや写真、音楽などを通じても抗議の意思を表しました。(参照:National Archives)

1968年|アメリカ|キング牧師暗殺と公正住宅法の成立

マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの最後の演説(HISTORY)

1968年4月4日、公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師がテネシー州メンフィスで暗殺されました。全米各地で追悼と抗議の動きが広がり、一部の都市では暴動も発生します。同月11日、ジョンソン大統領は公正住宅法を含む1968年公民権法に署名しました。公正住宅法は、住宅の売買や賃貸における人種などを理由とした差別を禁じるもので、住まいを選ぶ権利の平等を進める重要な一歩となりました。居住地域の分離や住宅を通じて生じる経済格差は、その後も社会の大きな課題として残りました。(参照:スミソニアン国立アメリカ歴史博物館|1968年公正住宅法)

1968年|パリ|五月革命と芸術家たち — 街に広がったポスター

1968年5月、パリで学生の抗議運動が広がり、大規模な労働者ストライキへ発展しました。美術学校の学生や芸術家たちは、占拠された美術学校の「アトリエ・ポピュレール」で、シルクスクリーンなどを用いたポスターを共同制作します。短い言葉と簡潔な図像で政治的な主張を伝えるポスターは街に貼られ、抗議活動と視覚表現が直接結びつきました。美術をどこで、誰に届けるかという問題が公共空間の中で新たな形を取りました。(参照:ポンピドゥー・センター|1968年のアトリエ・ポピュレール)

1969年|ニューヨーク|「Harlem on My Mind」展と黒人芸術家の抗議

1969年、メトロポリタン美術館はハーレムを紹介する「Harlem on My Mind」展を開催しました。会場は写真や新聞資料、音声などで構成され、黒人画家や彫刻家による作品は展示されませんでした。ベニー・アンドリュース、ロメール・ベアデンらは展示方針に抗議し、黒人芸術家の活動を美術館がどう紹介し、誰が企画に参加するのかを問いました。こうした動きは、黒人芸術家による美術制度への働きかけを広げました。(参照:メトロポリタン美術館|展覧会の再検証)

1960s

1971〜1972年|フェミニズムと美術制度 — 教育と評価の再検討

1971年、美術史家リンダ・ノックリンは「なぜ偉大な女性芸術家はいなかったのか?」を発表し、女性の美術教育や展示機会、美術史の評価を形づくる制度を検討しました。1972年にはジュディ・シカゴ、ミリアム・シャピロと学生たちがロサンゼルスで《ウーマンハウス》を制作し、住居空間全体を使った共同作品を発表します。同じ年にはニューヨークに女性芸術家によるA.I.R.ギャラリーも設立され、展示と教育の場を自ら組織する動きが広がりました。(参照:米国ナショナル・ギャラリー|女性と美術)

1970年代|ニューヨーク|地下鉄グラフィティ — 都市を走る文字

1970年代のマンハッタン:汚く、危険で、そして活気に満ちた街(NYC Nostalgia)

1970年代初頭のニューヨークでは、若者たちが地下鉄車両や街の壁に自分の名前を記すグラフィティが広がりました。文字は次第に大型化し、色彩や複雑な書体を競う表現へ発展します。リー・キニョネス、ドンディ・ホワイト、レディ・ピンク、フューチュラ2000らが制作を重ね、地下鉄は作品が都市を移動する舞台となりました。公共交通機関への無許可の描画として取り締まられた活動は、のちに美術館で保存・研究される対象にもなります。(参照:ニューヨーク市立博物館|Above Ground)

1975年|ニューヨーク|財政危機 — 工場の流出、税収減少、都市の変貌

第二次世界大戦後のアメリカは世界有数の経済大国となり、ニューヨーク市も金融・貿易・製造業の中心として繁栄しました。1950年代以降、工場や雇用が郊外・他州へ移り、中間層の郊外移住も進みます。人口と税収が減るなか、教育、医療、福祉などの公共サービスを維持する支出がかさみ、市は資金不足を短期の借入れで補い続けました。1970年代の不況と物価上昇が財政をさらに圧迫し、1975年には新たな資金調達が難しくなって、財政破綻の瀬戸際に立たされました。

財政再建に伴う公共サービスの縮小は、市民の暮らしにも影響しました。サウス・ブロンクスなどでは、それ以前から失業や住宅の放棄が進み、生活環境が厳しくなっていました。同じ時代、ニューヨークの若者たちは地下鉄や街の壁に独自の文字を描くグラフィティを発展させ、ブロンクスではヒップホップ文化も育っていきます。1960年代末から1970年代初頭に始まったこれらの活動を、都市の変化とともにたどることで、後のストリート・アートの背景が見えてきます。(参照:ニューヨーク連邦準備銀行)

1976年|ロサンゼルス|「Two Centuries of Black American Art」展

LACMAによる黒人アメリカ美術の2世紀展(Arsames Qajar)

1976年、ロサンゼルス郡立美術館(LACMA)で、デイヴィッド・ドリスケルが企画した「Two Centuries of Black American Art」が開かれました。18世紀半ばから20世紀半ばまでの黒人アーティスト63人による200点以上を集め、絵画、彫刻、版画、工芸など幅広い制作を紹介します。美術館が黒人アーティストの歴史をまとまった形で取り上げた重要な展覧会となり、翌年には全米の美術館を巡回しました。(参照:LACMA|展覧会記録)

1977年|パリ|ポンピドゥー・センター開館 — 美術館を総合文化施設へ

パリのポンピドゥー・センターの外観。建物の外側に透明なエスカレーターや構造体が見える。
パリのポンピドゥー・センター外観。構造体やエスカレーターを建物の外側に見せる設計が特徴的。写真:Pixabay

1977年に開館したポンピドゥー・センターは、国立近代美術館、公共情報図書館、音楽・音響研究施設などを一つの建物に集めました。近代・現代美術の展示に、デザイン、写真、実験映画、映像、音楽、文学などを接続し、ジャンルごとに分かれていた文化を横断的に扱います。人々が集まり、作品を見たり、本を読んだり、音楽を聴いたり、議論したりする総合的な文化施設として、美術館の可能性を広げました。(参照:Centre Pompidou)

1980〜1983年|ニューヨーク|地下鉄から美術館へ — グラフィティとダウンタウン文化

ドキュメンタリー映画『バスキアのすべて』予告編(シネマトゥデイ)

1980年の「Times Square Show」、1981年のP.S.1「New York/New Wave」などを通じて、地下鉄のグラフィティ、音楽、ダウンタウンの美術が接点を持ち始めました。ファブ・ファイブ・フレディやフューチュラ2000が文化圏を結び、バスキアはSAMOの街頭活動から絵画へ進み、キース・ヘリングは地下鉄駅の広告用黒紙にチョークで描きます。街頭で育った表現が画廊や美術館に紹介され、作品を誰が、どこで見るのかという環境も変化しました。(参照:ニューヨーク市立博物館|Beyond Words)

1980年代|欧米中心の美術観を問い直す国際展

現代美術の国際化は、冷戦が終わる前から進んでいました。1984年にキューバで始まったハバナ・ビエンナーレは、当初は中南米・カリブ海地域の作家を紹介し、1986年にはアフリカやアジア、中東へと対象を広げました。1989年にはパリで《大地の魔術師たち》が開かれ、欧米と非欧米の作家を同じ現代美術の展覧会で紹介しました。こうした試みを通じて、欧米を中心に組み立てられてきた美術の評価や展示のあり方が問い直されていきます。(参照:Centre Pompidou)

1981〜1987年|アメリカ|エイズ危機と美術 — 喪失から抗議へ

1981年、アメリカで後にエイズと呼ばれる疾患の初期症例が報告され、感染の拡大は人々の生活と文化活動に深刻な影響を与えました。偏見や医療へのアクセス、政府の対応をめぐって議論が広がり、1987年3月にはニューヨークでACT UPが結成されます。ポスター、グラフィック、街頭での抗議活動は、病気についての情報と当事者の声を広く届ける手段となりました。芸術家たちはそれぞれの制作を通じて、喪失の経験や生きる人々の尊厳を表現していきます。(参照:ニューヨーク公共図書館|ACT UPアーカイブ)

1980s

1990年代|冷戦終結と美術の国際交流の拡大

1989年のベルリンの壁崩壊と1991年のソ連解体を経て、東西冷戦の対立構造が終わり、旧東欧・旧ソ連圏では社会や美術を取り巻く環境が大きく変化しました。国際展では1980年代から欧米中心の美術観を見直す動きが進んでおり、冷戦終結後には各地域の文化的な交流がさらに広がっていきます。1993年にはオーストラリアで第1回アジア・パシフィック・トリエンナーレが開催されるなど、国際展の舞台も広がります。異なる地域の歴史や文化を踏まえ、現代美術を捉え直す視点がいっそう重視されるようになりました。(参照:QAGOMA)

1992年|ロサンゼルス|警察暴力と人種差別への抗議

1991年3月、黒人男性ロドニー・キングがロサンゼルス市警察の警察官から暴行を受け、その様子を撮影した映像がテレビで広く報道されました。翌1992年4月29日、警察官4人に大部分の訴因で無罪評決が下されると、ロサンゼルスでは抗議が広がり、暴動、略奪、放火が数日間続きました。この出来事は、警察による暴力や人種差別に加え、都市の貧困や地域社会の緊張を改めて浮き彫りにします。黒人芸術家ソーントン・ダイアルは事件を受けて《Top of the Line (Steel)》を制作し、複雑に重なる人物像や素材を通じて街の混乱と人種間の緊張を表現しました。(参照:スミソニアン・アメリカ美術館|ソーントン・ダイアル作品解説)

1990年代|ニューヨーク|KAWSと広告への介入

KAWS - FIRST BUS-STOPS- NYC, 1997

1990年代にグラフィティを描いていたKAWS(ブライアン・ドネリー)は、1996年にニューヨークへ移ってから、バス停や電話ボックスの広告ケースを開き、取り出したポスターに自身のキャラクターを加筆して戻す活動を展開しました。街頭の広告とグラフィティを組み合わせるこの方法は、都市で流通する商業イメージそのものを制作の素材にしました。のちに絵画、彫刻、商品デザインへ活動を広げていきます。(参照:Vogue|KAWS本人への取材)

2000年代|インターネットとデジタル画像の普及

2000年代には、インターネットの高速化やデジタルカメラの普及によって、写真や映像を撮影・編集し、複製して世界中の人々と共有することが身近になりました。2001年のGoogle画像検索、2004年の写真共有サービスFlickr、2005年の動画共有サイトYouTubeなどが登場し、多くの人が膨大な画像にアクセスし、自分でも画像や映像を公開できる環境が広がっていきます。

こうした変化は、美術作品の制作や発表の方法にも影響を与えました。美術家たちはデジタル技術やインターネット上の画像を素材として用い、自身のウェブサイトなどで作品を発表するようになります。画像が複製され、異なる場所へ広まり、共有されていくこと自体も、美術の新たな表現や問いにつながっていきました。

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2020年|アメリカ|黒人差別への抗議と美術 — Black Lives Matter

2020年、ジョージ・フロイドが警察官に殺害された事件をきっかけに、2013年に始まったBlack Lives Matterを掲げる抗議活動が全米各地へ広がりました。芸術家たちは壁画、写真、ポスター、肖像画を通じて犠牲者の記憶や社会の現実を表し、美術館でも黒人の歴史と表現をどう伝えるかが改めて議論されます。2021年にはスミソニアンの国立アフリカ系アメリカ人歴史文化博物館が展覧会「Reckoning」を開催し、美術と社会的な抗議の歴史を紹介しました。(参照:スミソニアン|Reckoning展と黒人芸術家の表現)