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1943–1955

抽象表現主義の台頭

ニューヨーク・スクールと戦後アメリカ絵画

1943年から1955年にかけて、ニューヨークを中心とするアメリカの画家たちは、戦後の世界で絵画に何ができるのかを問い直した。ジャクソン・ポロックは絵の具を床へ置いたキャンバスに落とす方法を発展させ、ウィレム・デ・クーニングは人物像と抽象を行き来し、マーク・ロスコは色の広がりによって感情に働きかける画面を作った。バーネット・ニューマン、クリフォード・スティル、フランツ・クラインらも独自の方法を見いだしていく。これらの異なる作品が後に「抽象表現主義」「ニューヨーク・スクール」という名前で語られるようになった。

第二次世界大戦の終結が、この絵画を生み出した唯一の原因だったわけではない。1930年代から続くニューディールの美術支援、メキシコ壁画運動との接触、ヨーロッパから亡命したシュルレアリストとの交流、ニューヨークの画廊や美術館の発展など、長年にわたり蓄積された条件が重なっていた。画家たちは新しい時代の表現を求めながら、それまで学んできた美術を自分たちの方法へ変えようとした。

1940年代の試行錯誤は、1950年前後にそれぞれ特徴的な表現へつながる。ポロックの大きな線、デ・クーニングの塗り直された人体、ロスコの色面、ニューマンの垂直帯は、制作方法も鑑賞の仕方も異なっている。リー・クラスナーの記号的な小品と自作を切り直すコラージュ、ノーマン・ルイスの都市の抽象、ロバート・マザウェルの歴史への哀歌、若いジョアン・ミッチェルやヘレン・フランケンサーラーの試みも、この変化を形づくった。

この記事では、作品の大きさ、色や絵の具の使い方、制作に費やした時間を具体的にたどりながら、作家の考え方と社会的な条件を結びつけて解説する。同時に、批評家や美術館の評価が誰を中心に置き、誰の作品を見えにくくしたのかも扱う。抽象表現主義の誕生を一人の作家の発明として語るより、異なる画家が同じ時代に何を見つけたのかを比較することで、この運動の歴史が鮮明になる。

戦争後、ニューヨークで何が始まったのか

1943年から1955年を一つの時代として見る

1940年代のニューヨークでは、後に抽象表現主義と呼ばれる絵画が、何人もの画家の異なる試行錯誤から姿を現した。1943年にペギー・グッゲンハイムの画廊で個展を開いたジャクソン・ポロック、人物像と抽象を往復するウィレム・デ・クーニング、神話的な図像から色面へ進むマーク・ロスコ、1948年に一本の垂直帯を見いだすバーネット・ニューマン。彼らが同じ手法を使っていた時期はない。共通するのは、絵画の形式から時代にふさわしい表現を作ろうとする強い意志だった。

1943年から1955年を一つの期間とするのは、戦時中の模索が、1950年前後に独自の表現へ結びつき、1950年代半ばまでに展覧会や批評を通して歴史的な動向として認識されたためである。この時代をたどる際には、作品が生まれた順番と、後から運動名が付けられた順番を分けて考えると理解しやすい。(参照:メトロポリタン美術館|1943年から1955年を一つの時代として見る)

戦争の経験と新しい絵画の必要性

第二次世界大戦、ホロコースト、原爆の投下は、1945年前後の作家が生きた世界の背景となった。ヨーロッパでは多数の芸術家が迫害や占領を逃れ、ニューヨークへ移住していた。パリで展開されたシュルレアリスムや抽象芸術が、画家たちにとって雑誌上の遠い流行から、直接対話できる同時代の活動へ変わったのである。ニューマンは戦後に何を描くべきかという問いを語り、歴史的な危機の後の表現を根本から考えた。

彼らが戦争の出来事をそのまま描いたとは限らない。ロスコやゴットリーブは普遍的な神話や人間の悲劇を考え、スティルは過去の美術から切り離された表現を求めた。危機への応答は、人物や戦場の図解から離れ、色、線、大きさ、身体的な制作方法に新たな役割を与える方向にも向かった。(参照:MoMA|戦争の経験と新しい絵画の必要性)

「ニューヨーク・スクール」という名称の幅

ニューヨーク・スクールは、特定の住所に教室を構えた学校の名称ではない。ニューヨーク周辺で制作し、交流や議論を重ねた作家たちを後からまとめる呼び方である。彼らは正式な会員制度や共通の宣言を持たず、抽象表現主義という名称にもさまざまな態度を取った。スティルのように都市の中心から距離を置いた画家もおり、この名称は活動場所を厳密に限定しない。

1940年代にはロスコの記号的な人物画とポロックの神話的な絵画が並び、1950年代には大きな色面と黒い筆触が同時に展開した。この幅を保ちながら見ると、運動の歴史を一人の代表作家の成功談に狭めることなく、作家ごとの制作上の決断として読み解ける。(参照:MoMA|「ニューヨーク・スクール」という名称の幅)

ヨーロッパ前衛とアメリカ固有の経験

シュルレアリスムから受け取った自動性

ロベルト・マッタ、アンドレ・マッソン、マックス・エルンストら、ヨーロッパから移動した芸術家との交流によって、若いアメリカ人作家は無意識や自動性を重視する制作に直接触れた。描く前に完成像をすべて決める方法から離れ、線や物質の予想外の動きから形を見つけていく考えは、絵画を刷新するための重要な手がかりとなった。

この受容はシュルレアリスムの様式を移植する作業ではなかった。ポロックは塗料の流れを全身の動作へ結びつけ、マザウェルは自由な筆触をスペイン内戦の記憶へ接続した。自動性はそれぞれの画家によって再解釈され、制作方法と完成画面の関係を問い直すために用いられた。(参照:MoMA|シュルレアリスムから受け取った自動性)

壁画運動と大きな画面

1930年代にはメキシコ壁画運動の作家たちがアメリカで活動し、公共壁画が大きな注目を集めた。ディエゴ・リベラ、ホセ・クレメンテ・オロスコ、ダビッド・アルファロ・シケイロスが示した巨大な画面と多様な素材の使い方は、若い作家たちの視野を広げた。ポロックもシケイロスの実験工房に参加し、工業用塗料など従来の油彩以外の材料に接する経験を持った。

壁画と抽象表現主義の関係を、大型キャンバスの直接的な起源と考えると単純になりすぎる。壁画が示したのは、絵画が建物や鑑賞者の身体を意識した大きさで成立し得るという可能性だった。後のポロックやニューマンは、その規模を公共的な物語から切り離し、画面そのものを経験するために利用した。(参照:メトロポリタン美術館|壁画運動と大きな画面)

WPAが支えた制作生活

大恐慌期のニューディール政策による連邦美術計画は、ポロックをはじめ多くの芸術家が市場で作品を売る前から仕事を続ける条件を作った。政府の美術事業には写実的な地域風景も抽象作品も存在し、制作活動を続けることができた作家たちは、戦時中から戦後にかけて各自の絵画を育てていった。

ここで重要なのは、抽象表現主義の成立を一人の天才が突然画法を発見した出来事として捉えないことだ。制作を可能にする収入、アトリエ、仲間、発表の機会、過去の美術へ触れる環境が重なり、何年もの試行錯誤を支えた。作品の革新は制作を継続できた社会的な条件とともに考える必要がある。(参照:メトロポリタン美術館|WPAが支えた制作生活)

神話と無意識をめぐる最初期の試み

1943年、ロスコとゴットリーブの主題論

1943年、ロスコとアドルフ・ゴットリーブは、ニューマンの協力を得て新聞へ公開書簡を寄せ、絵画にとって重要な主題の必要性を訴えた。彼らは抽象的な形式を使う一方で、作品が人間の経験に深く関わることを望んでいた。古代神話や悲劇、精神分析への関心は、現代の出来事を歴史画のように描くことに代わる、別の表現の入口となった。

この声明を読むと、初期の画家たちが抽象を「意味を捨てること」と同じように考えていたわけではないことが分かる。形が何を表すかすぐに分からなくても、絵画には観客へ届く切実な内容が必要だという発想だった。後の色面絵画も、こうした主題への関心からつながっている。(参照:メトロポリタン美術館|1943年、ロスコとゴットリーブの主題論)

ゴットリーブの絵文字的な画面

ゴットリーブは1941年頃から、格子状の区画に奇妙な顔や記号を置く「ピクトグラフ」シリーズを展開した。1946年の《Voyager’s Return》では、区切られた画面の中で図像同士が隣り合いながら、普通の物語のような順番を作らない。画家は古代美術、精神分析、さまざまな地域の造形文化を参照し、既存の文字体系に属さない視覚言語を模索した。

区画を持つ構造は整理されているのに、内部の記号は読み解くことを拒むように見える。そこで鑑賞者は意味を探す行為そのものへ向き合う。ゴットリーブの仕事は、戦後の抽象が非具象へ向かう前に、記号と神話をめぐる豊かな実験を含んでいたことを示す。(参照:MoMA|ゴットリーブの絵文字的な画面)

記号から色や線へ主題を移す

初期の画家が古代文化や神話へ向かった背景には、戦争の後で共有できる人間的な経験を探す気持ちがあった。ゴットリーブが区画の中で試した記号や、ロスコが描いた半ば人間的な形は、抽象の始まりを語る際に見落とせない。そこにはすでに、一人ひとり異なる視覚言語を作るための選択があった。

1950年代へ進むと、それらの画家は画面の構成をいっそう簡潔にしていく。記号の意味を探す過程は、色や輪郭、隣り合う形がどんな感覚を生み出すかという問題へ引き継がれた。初期の図像的な作品と成熟期の非具象作品を並べて見ると、主題が消えたというより、主題を担う手段が変わったことが分かる。(参照:MoMA|記号から色や線へ主題を移す)

ギャラリーと人々のつながり

ペギー・グッゲンハイムの画廊

ペギー・グッゲンハイムが1942年にニューヨークで開いたアート・オブ・ディス・センチュリーは、ヨーロッパ前衛とアメリカの若い作家が同じ環境で紹介される場所となった。1943年、ポロックはここで初個展を開き、グッゲンハイムから継続的な支援を受ける。後に重要な作家として知られるまでには、作品を見せ、批評され、生活を維持する実際の仕組みが必要だった。

画廊の展示活動は、完成した名作を世に出すための終点にとどまらない。作家の試作段階に観客や批評家を結びつけることで、制作の方向を考える環境にもなる。形成期のニューヨークでは、画廊、個人の支援者、作家同士の交流が互いに重なっていた。(参照:グッゲンハイム美術館|ペギー・グッゲンハイムの画廊)

1940年代後半の発表の場

グッゲンハイムの画廊が1947年に閉じた後、ベティ・パーソンズの画廊などが抽象表現主義の画家を紹介していった。多くの画家はまだ作品の売上だけで安定して暮らせず、画家仲間の評判と少数の支持者によって次の展覧会の機会を得ていた。こうした市場の小ささも、形成期の歴史の一部である。

展示会場によって作品を見る距離や並び方が変わり、同じ画家の作品でも受け取られ方は異なる。アトリエで制作した絵が画廊に掛けられ、批評を通して他の画家の作品と比較されることで、個人の実験が時代の動向として認識され始めた。(参照:メトロポリタン美術館|1940年代後半の発表の場)

1950年前後の作家同士の議論

マンハッタンのダウンタウンでは、画家たちがアトリエ、飲食店、作家の集まりで議論を重ねた。東8丁目の「クラブ」は、絵画、批評、哲学、制作技法について意見を交わす場となり、1951年にはジョアン・ミッチェルも交流へ加わった。画面の見た目は違っていても、制作の考え方を共有し、意見をぶつける社会的な基盤があった。

誰がその議論に参加できたかも重要である。女性の画家や非白人の画家は、美術界の交友関係や展覧会の機会にさまざまな障壁を経験した。ニューヨーク・スクールを一つの親密な仲間集団として理想化すると、内部の力関係や活動機会の差を見落とすことになる。(参照:MoMA|1950年前後の作家同士の議論)

アーシル・ゴーキーが結んだ二つの時代

ヨーロッパ絵画からの学習

アーシル・ゴーキーは、ピカソやミロなどの近代絵画を集中的に研究しながら、1940年代に独自の形態へ到達した作家である。アルメニア系の出自を持ち、幼少期には虐殺と離散を経験した。ニューヨークでの制作はヨーロッパ前衛への深い学習を背景にし、後に抽象表現主義と呼ばれる画家たちへ重要な刺激を与えた。

画面に描かれた有機的な形は、動物や植物の断片にも、身体にも見える。対象を完全に定めない形が絡み合い、線と色が自由に移り変わる。デ・クーニングを含む同時代の画家にとって、ゴーキーの仕事はヨーロッパから受け取った技法を自分の絵画へ変える実例となった。(参照:MoMA|ヨーロッパ絵画からの学習)

《鶏冠である肝臓》の色と形

1944年の《鶏冠である肝臓》には、色鮮やかな大小の形が重なり、明確な上下や奥行きを持たない世界が広がる。ゴーキーは1943年の素描を起点に、大きな油彩画へ構成を発展させた。線は一見自在に動いているように見えても、制作の途中には習作と画面上の細かな調整がある。

生物的な形が互いに触れ、ほどけ、増殖するように感じられる点に、この作品の魅力がある。画家の記憶、想像力、身体の感覚が直接説明されることなく、複雑な色と線に置き換えられている。抽象表現主義へ向かう画家たちは、こうした形の不確かさから多くを学んだ。(参照:MoMA|《鶏冠である肝臓》の色と形)

模索の先にある個別の作家性

ゴーキーをポロックの前段階という位置だけで捉えると、彼自身の絵画が持つ固有の緊張が薄れてしまう。彼は写生や素描を重視し、それを異なる色彩と形の関係へ発展させた。制作に自動性が関わる場合でも、観察や記憶、構成への繰り返しの判断が画面に残っている。

1948年にゴーキーは亡くなったが、その作品は戦後アメリカ絵画の重要な橋渡しとして残った。先行する美術を学び抜いたうえで独自の言語へ変えるという姿勢は、後の画家たちを比較する際にも役立つ視点である。(参照:MoMA|模索の先にある個別の作家性)

ポロックが滴下技法へ向かうまで

1943年《壁画》と身体の大きさ

ポロックは1943年、ペギー・グッゲンハイムの依頼で大きな《壁画》を制作した。広い画面には、人物や動物を連想させる形と複雑な筆触が横方向へ連なっている。後の滴下技法による作品と比べると、まだ具体的な像を読み取れそうな部分が残る。それでも、どこから見始めても絵が続く画面の展開には、後の全面的な構成を予告する性質がある。

ポロックは若い頃から地域主義、メキシコ壁画、シュルレアリスムを学び、大きな身体運動と絵の具の流れを組み合わせる方法へ近づいていた。1943年の仕事は、その蓄積が大画面で試された節目として位置づけられる。(参照:アイオワ大学スタンリー美術館|1943年《壁画》と身体の大きさ)

1945年、クラスナーとスプリングスへ

ポロックは1945年にリー・クラスナーと結婚し、ロングアイランドのスプリングスへ移り住んだ。都市を離れた生活と制作環境は、絵を床へ置いて作業するための場所を確保することにもつながった。広い画面の四方を歩きながら扱う方法には、アトリエの物理的な条件が深く関わっている。

同時期の《Eyes in the Heat》(1946年)などを見ると、眼や生命体に似た形と、厚く押し広げられた絵の具が入り混じっている。絵に何かが描かれている感覚と、材料そのものが動いている感覚が徐々に接近していく。1947年の新しい技法は、こうした試行錯誤を経て生まれた。(参照:MoMA|1945年、クラスナーとスプリングスへ)

手法の転換は長い過程だった

滴下や流し込みは、ポロックが1947年に突然無から生み出した操作ではない。工業用塗料への関心、重力を利用する実験、シケイロスの工房の経験、シュルレアリスムの自動性、広い画面への取り組みが、長い時間をかけて結びついた。初期作と成熟作を並べると、彼が既存のモチーフを少しずつ線や色へ変換していく様子が見えてくる。

新しい作品を理解する際には完成した技法の見た目に加え、何を試し、どのような結果を選び残したかに目を向けるとよい。ポロックの革新は、絵の具と重力、身体の動きを、構図を生み出すための中心的な条件にしたことである。(参照:MoMA|手法の転換は長い過程だった)

1947年、ポロックのポアリングが成立する

床に置いたキャンバスと塗料の流れ

1947年頃、ポロックは張っていないキャンバスを床へ敷き、薄めた塗料を棒や筆から落とし、流し、弾く方法を本格的に発展させた。顔料を塗り広げて輪郭を作るだけでなく、重力によって空中を移動した塗料が布へ着地する過程も絵の一部となる。塗料の粘度、落下する高さ、動く速さ、作業の間合いによって、細い線や大きな溜まりが生まれる。

画家は画面の正面に立ち続けず、周囲を移動して四方から制作できる。線がどのように走るかは身体の行為と材料の反応によって決まる。作品は計画を実行する場であると同時に、作業の途中に新しい判断を生み出す場所となった。(参照:MoMA|床に置いたキャンバスと塗料の流れ)

《Number 1A, 1948》に残る手形

1948年の《Number 1A, 1948》には、黒、白、茶、銀色の線が重なり、画面の右上付近にポロック自身の手形が残る。油絵の具とエナメル塗料が重ねられ、線の密度や飛散によって各所に異なる表情が生まれる。手形は作者の身体が実際に制作へ関わったことを示し、筆による署名とは別の形で痕跡を残している。

MoMAの所蔵記録によれば、この作品は1949年に展示されたときには売れなかった。その後1950年に美術館へ収蔵される。後世の評価から見ると革新的な技法が一瞬で支持されたように感じられるが、同時代の鑑賞者や購入者が新しい絵画へ適応するには時間が必要だった。(参照:MoMA|《Number 1A, 1948》に残る手形)

全面に広がる構成と制御

ポロックの作品では、画面中央に主要人物を置いて背景を従わせる構成が目立たなくなる。線や色が端まで続き、見る人の視線は一箇所へ固定されず、絵の中を移動する。こうした「オールオーバー」の構成は、大きな画面のどの部分も絵画の出来事へ参加するという感覚を生み出した。

その一方で、塗料をいつ追加し、どこで止め、どの線を重ねるかは画家が判断している。偶然に任せた部分と、蓄積した経験による選択が同時に働いていた。目に見える線を一筆ずつ描く方法から離れたことが、制作の統制そのものを放棄したことを意味するわけではない。(参照:MoMA|全面に広がる構成と制御)

1950年、ポロックの画面が到達した場所

《One: Number 31, 1950》のスケール

1950年の《One: Number 31, 1950》は、幅5メートルを超える大作である。キャンバスには細い塗料の糸、激しい飛沫、濃い溜まりが重なり、どこにも安定した中心がない。MoMAは、この作品が同年に制作された巨大な連作の一つで、絵の具を缶から直接流したり棒や固くなった筆を使ったりしたことを紹介している。

画面から離れれば全体に広がる大きな動きを感じ、近づくと塗料が交差した場所や布の表面の細部が見えてくる。大きさは単に圧倒するための数字ではなく、見る距離によって画面の経験を変える条件となっている。身体を動かして制作した絵画が、鑑賞者にも身体を移動させて見ることを求める。(参照:MoMA|《One: Number 31, 1950》のスケール)

《秋のリズム》と線の重なり

同年の《秋のリズム:第30番》も、線が連続して広がる巨大なキャンバスである。絵の具が交差するところには濃い部分が生まれ、周囲には塗料の隙間が残る。その密度の差によって、平面でありながら重なった時間や奥行きを感じられる。題名には自然の季節を思わせる言葉が含まれるが、木や空を説明的に描いた風景画として見る必要はない。

メトロポリタン美術館がこの作品について公開している解説からも、制作行為と完成画面の関係を読み取ることができる。画面の複雑さを単なる混沌として扱うと、線の強弱、空間の抜け、重なりの秩序を見落としてしまう。ポロックは偶然を利用しながらも、一枚の絵が成立するまで判断を重ねた。(参照:メトロポリタン美術館|《秋のリズム》と線の重なり)

写真と雑誌が作った「行為する画家」像

ポロックの制作風景は、床へ置いた大画面の周囲を歩く独特な姿として広く知られるようになった。1949年の『ライフ』誌による紹介や、1950年にハンス・ネイマスが撮影した写真と映像は、完成作品とは別に、画家の身体がどのように作業するかを大衆へ示した。絵画の評価に、制作行為を記録するメディアが加わったのである。

この映像的なイメージだけから作品を理解すると、すべてが激情に任せた行為だったように見えてしまう。画面を見直し、塗料を追加する順序や色を選ぶことも制作の一部だった。後の「アクション・ペインティング」という呼び方は、作品を読む一つの有力な視点になったと同時に、画家の慎重な判断を見えにくくする面も持っていた。(参照:MoMA|写真と雑誌が作った「行為する画家」像)

リー・クラスナーの別の抽象

独自の制作歴を持つ画家

リー・クラスナーは、ポロックと出会う以前から抽象絵画を研究し、ハンス・ホフマンの指導を受けていた。彼女の作品を結婚生活の一部として理解すると、長い制作歴や、同時代の作家と交わした議論を捉えにくくなる。クラスナー自身は、完成した様式を維持するより、以前の方法を壊して新しい方法へ進むことを繰り返した。

1945年の結婚後にはポロックの活動を支える仕事も担い、その負担と自身の制作の両方に向き合った。こうした条件を考慮しながら、彼女が画面上で何を試したかを見ることが重要である。クラスナーの絵画には、当時の抽象表現主義の内部でも独自の方向がある。(参照:MoMA|独自の制作歴を持つ画家)

「リトル・イメージズ」の記号と反復

1940年代後半の「リトル・イメージズ」は、クラスナーが卓上に支持体を置いて制作した作品群である。1949年の《無題》では、格子のような構造の内部に、短い筆触や不規則な線がぎっしり並ぶ。厚い絵の具をチューブから直接押し出す場合もあり、絵の具の量や線の繰り返しが表面に細かな起伏を与えている。

クラスナーは、その記号が幼い頃に習ったヘブライ文字を思わせると語った。読み書きを忘れていた文字の形が、特定の意味を示さない私的な記号へ変わる。ここではポロックの大きな線とは異なる、近くで見て初めて細部が立ち上がる密度が作られていた。(参照:MoMA|「リトル・イメージズ」の記号と反復)

小さな画面が開いた可能性

抽象表現主義は巨大な絵画として語られがちだが、クラスナーの作品は画面の大小とは別の問題を示す。机の上で描く行為は、上から画面を見下ろす点ではポロックの床上制作に通じる部分がある。筆触の大きさや繰り返し方は大きく異なり、近い距離から読む絵画の時間を生む。

格子の中で形が増殖するような構造は、書くことと描くことの境界にも近い。絵の具を反復して置きながら、画面がひとつの組織としてまとまる様子を探る。クラスナーの1940年代は、制作環境を工夫しながら独自の抽象言語を育てた時期として理解できる。(参照:MoMA|小さな画面が開いた可能性)

クラスナーが描いたものを壊し始める

1950年代前半の転換

1950年代に入ると、クラスナーは「リトル・イメージズ」の緻密な反復から、より大きな画面や異なる材料の関係へ関心を広げた。彼女は一度得た表現を自分の決まった様式として繰り返すことに満足せず、描き上げた作品を見直し、別の構成へ変える方法を模索した。

こうした変化は、絵画が完成した時点で永久に固定されるという考えを揺さぶる。絵を描くことと、以前の絵を改めて見ることがつながり、失敗や不満足が次の制作の材料になる。クラスナーの独自性は一枚の画面の見た目と同じくらい、制作を続けながら自分の方法を更新する姿勢に現れている。(参照:LACMA|1950年代前半の転換)

古い絵を切り、貼り直すコラージュ

1953年から1955年頃、クラスナーは自分の絵や素描を切り裂き、断片をキャンバスへ貼り付けるコラージュ作品を発展させた。捨てようとした紙の線や色をもう一度取り上げ、切断面や重なりを新しい構図の要素にする。制作は一度の塗りによって完成へ向かう直線的な過程から、過去の制作を再編成する過程へ変わった。

断片は元の作品で担っていた役割を失い、別の断片と隣り合うことで新しい動きを生む。切り取るという判断と、貼り直して配置する判断が二度重なるところにも、この方法の特徴がある。絵画を素材として扱うことが、クラスナーの作品を独自の方向へ導いた。(参照:LACMA|古い絵を切り、貼り直すコラージュ)

発表と評価に存在した格差

クラスナーの仕事を理解するには、制作上の発見と、当時それがどのように紹介されたかを分けて考える必要がある。戦後ニューヨークでは女性の画家が多く活動していたが、批評と展覧会の中心的な語りは一部の男性画家へ集中しがちだった。ポロックの妻という紹介が、クラスナー自身の作品への注目を妨げる場合もあった。

近年の展覧会研究では、当時の女性たちが小さな集団だったという単純な理解が見直されている。クラスナーの作品を自立した制作として読み直すことは、抽象表現主義の歴史を後から広げる行為であると同時に、当時実際に存在していた多様な試みを取り戻すことでもある。(参照:スミソニアン協会|発表と評価に存在した格差)

デ・クーニングが抽象と人物を往復する

ニューヨークでの長い模索

オランダで生まれたウィレム・デ・クーニングは、1920年代にアメリカへ渡った後、広告や看板などの仕事を経験しながら絵画を続けた。1940年代には、人体の一部を思わせる形と抽象的な構成を重ね、どちらか一方へ完全に収束しない方向を育てた。彼にとって抽象は、目の前の世界を忘れる手段というより、形を自由に変形させる方法だった。

線を引き、塗り直し、削るうちに、身体に見えた形が別の形へ変わり、再び人物を思わせる輪郭が現れる。絵が完成するまで形を決め切らないことによって、画面には制作中の思考が残る。そのあり方はポロックの滴下技法と違う経路で、絵画を動き続ける場へ変えていた。(参照:メトロポリタン美術館|ニューヨークでの長い模索)

1948年の《絵画》を近くで見る

1948年の《絵画》は黒と白が入り組んだ作品で、油彩と看板用のエナメル塗料が用いられている。デ・クーニングは人物の素描の一部をトレーシングペーパーで画面へ写し、その上へ絵の具を重ねた。黒い形と白い余白は、身体や文字や道具に見えそうになりながら、どの意味にも固定されない。

絵の具は流れ、固まり、薄く引き延ばされる。少ない色数の中で密度の異なる表面が作られ、視線は安定しない。この作品は具象的な出発点を持ちながら、描き直す行為によって複雑な抽象へ展開したものである。抽象と具象を境界で切り分けない彼の考え方がよく表れている。(参照:MoMA|1948年の《絵画》を近くで見る)

黒と白の対立の中にある色彩

デ・クーニングの1940年代後半の絵画では、限られた色の使用が、形と絵の具の動きへ注意を集中させる。黒い面が重く見える場所もあれば、細い線によって軽く感じられる場所もある。白は何も描かれていない地というより、他の形を押し返す要素として機能する。

完成した一枚の画面の中で、塗ること、消すこと、写し取ることが重なっている。その工程をたどると、見えている形は最初から配置された記号ではなく、制作しながら変わっていったものだと分かる。この方法は、1950年代の《女》シリーズにもつながっていく。(参照:MoMA|黒と白の対立の中にある色彩)

《Woman I》と1950年代の人体

1950年から1952年まで描き続けた人物

デ・クーニングは1950年から《Woman I》に取り組み、何度も描き直しながら1952年に完成させた。画面には正面を向いた巨大な女性が現れ、目や歯、胸が強調され、身体と周囲の絵の具が激しく絡み合う。筆触は素早い一瞬の動きのように見えても、制作には多くの習作と長い時間が費やされた。

MoMAの調査は、絵の具の層を削り取り、塗り直す工程が繰り返されたことを紹介している。姿が崩れていく部分と再び浮かび上がる部分が同居し、画面には対象を描くことへの執着と、形を壊していく行為が残っている。(参照:MoMA|1950年から1952年まで描き続けた人物)

画面の厚みと視覚的な圧力

《Woman I》では、白、黄、橙、緑、青、桃色の筆触が互いに食い込み、黒い輪郭が女性の姿を辛うじて留めている。油絵の具に金属質の塗料も組み合わせられ、表面の重なりは複雑である。胸や歯の描写には広告や古い女神像を連想させる部分もあり、人物の表現には美術史と大衆的な図像が交差する。

画家の手の動きは大きく感じられるが、制作に長く時間をかけてきたことを知ると、激しさの中に繰り返しの判断が見えてくる。絵の具が人物を作り、同時に人物を解体するような状態が、この作品の緊張を支えている。(参照:MoMA|画面の厚みと視覚的な圧力)

女性表象への批判も含めて考える

《Woman I》は発表当時から強い反応を呼んだ。抽象絵画の時代に人物へ戻ったことを後退と見なす声があり、その女性像を威嚇的で女性を物として扱う描写と考える批判もあった。MoMAは現在の作品解説でも、この受け取られ方と制作上の意図の両方を紹介している。

造形的な革新が重要だからといって、何がどのように描かれたかという問いが消えるわけではない。女性の身体を巨大な記号として扱うことがどんな意味を持つか、鑑賞者がどこに魅力や暴力性を感じるかも作品の歴史に含まれる。デ・クーニングの成熟期は、絵画の技法と表象の問題が緊密に結びついた時期である。(参照:MoMA|女性表象への批判も含めて考える)

ロスコが神話的な形から色面へ進む

具象的な記号が薄れていく1940年代

マーク・ロスコの1940年代前半には、神話、鳥、植物、人物を思わせる形が画面の中に漂っている。1945年にアート・オブ・ディス・センチュリーで個展を開いた頃も、作品にはシュルレアリスムの影響が見られた。戦争の時代に人間へ何を伝えられるのかという問題を考えながら、彼は既存の物語を説明する形を少しずつ整理していった。

1940年代後半には、多数の柔らかい形が漂う「マルチフォーム」と呼ばれる画面へ進む。人物らしさは薄れ、色同士が隣り合って広がるようになる。これは意味のあるものを消すための変化というより、色と形がそれ自体で経験を生み出せるかを探る過程だった。(参照:ナショナル・ギャラリー|具象的な記号が薄れていく1940年代)

1949年頃に生まれた横長の色面

1949年頃、ロスコは境界が柔らかい横長の矩形を上下に配する構成へ到達した。色面は完全な幾何学のように硬く閉じられず、輪郭にわずかな揺らぎが残る。地の色と重ねた色が互いに影響し、静かな画面の中で奥へ下がったり前へ出たりする感覚が生まれる。

この時期の作品をポロックと比べると、一方は線を広げ、もう一方は形を絞り込んでいる。それでも両者は大きな画面を使い、鑑賞者がその前に立ったとき何を経験するかを強く意識した。抽象表現主義の成熟には、このように異なる方向が同時に存在していた。(参照:ナショナル・ギャラリー|1949年頃に生まれた横長の色面)

《No. 10》に重なる色と感情

1950年の《No. 10》には、暖かい黄色や、青、白、灰色といった冷たい色の広がりがある。色の境界が硬い線で区切られないため、色面が呼吸するように前後へ動いて見える。MoMAは、ロスコが色の効果を通して観客の感情に働きかけようとしたことを、この作品の解説で重視している。

ロスコは絵画の主題が重要だという考えを持ち続けていた。1950年の作品に神話の人物は現れなくても、色の組み合わせを通して深い感情や経験へ近づこうとしていた。色彩の単純さの中に、鑑賞者が時間をかけて見るための複雑さがある。(参照:MoMA|《No. 10》に重なる色と感情)

ロスコの巨大な色面は何を生むのか

色が空間になる経験

ロスコの成熟期の絵画では、色の矩形が大きくなり、鑑賞者の視野の多くを占める。境界が曖昧な色面は一枚の平らなキャンバスの上にありながら、奥へ沈むようにも、こちらへ広がるようにも見える。画面の前でしばらく立ち止まると、隣り合う色の関係がゆっくり変化する感覚がある。

こうした経験を作るために、色彩の選択、塗り重ね、画面の大きさが結びついている。絵が巨大だから威圧的になるという単純な関係ではなく、近い距離で個人的な経験を生み出すために大きな画面が用いられた。色面絵画を、描かれた物の少なさだけから評価することはできない。(参照:MoMA|色が空間になる経験)

薄く重ねた色彩と境界

ロスコの画面では、輪郭を一つの定規の線として閉じるより、色が隣の色へ少しずつ滲むように見える状態が重要になる。筆の跡や層の透け方が、表面の一見単純な構造に奥行きを与える。見えている矩形は工業製品の均質な色面とは異なり、人の手で何度も調整された色の関係である。

近づくと境界の微細な揺らぎや重なりが分かり、離れると複数の色が大きなひとつの構成として見える。見る距離の変化を絵画の経験に含める点で、ロスコの作品はポロックの大作と別の形で、従来の額縁の中の絵を見る習慣を変えていった。(参照:MoMA|薄く重ねた色彩と境界)

静かな絵画にも強い主題がある

ロスコの成熟作を安らぎや瞑想のための装飾と理解すると、作品が持つ重さを読み落とす。彼は人間の感情、悲劇、時間の経験へ関心を持ち、形の数が減っても、絵画が伝える内容を重要視していた。色は画家の個人的な趣味の説明から離れ、鑑賞者に向けて働く表現として選ばれた。

抽象表現主義における「表現」は、筆を激しく動かすことだけを指さない。色彩が長い時間をかけてどのように感じられるか、鑑賞者の感情がどこで動くかという静かな問題にも及んでいる。その幅を知ると、この運動の多様性がいっそう明確になる。(参照:MoMA|静かな絵画にも強い主題がある)

ニューマンが一本の垂直帯を発見する

1948年《Onement I》

バーネット・ニューマンは1948年、《Onement I》で赤褐色の小さな画面に明るい垂直帯を置いた。帯は左右の色面を分けると同時に、画面全体をひとつにつなぐ働きを持つ。画面上の要素は極めて少ないが、その少なさのために色の広がり、境界、垂直方向の感覚が強く意識される。

ニューマンは後にこうした垂直の帯を「ジップ」と呼んだ。一本の帯は人物や風景を表す記号として読まれる必要がなく、絵がどのように空間を作るかを直接問いかける。ニューマンがこの作品を成熟した表現の始まりと考えた理由も、そこで新しい画面の仕組みを見いだしたことにある。(参照:MoMA|1948年《Onement I》)

《Vir Heroicus Sublimis》の赤い広がり

1950年から1951年にかけて制作された《Vir Heroicus Sublimis》は、幅5メートルを超える赤い画面を、複数の細い垂直帯が横切る作品である。帯ごとに色や幅が異なり、赤の広がりも一様に感じられるわけではない。鑑賞者が画面へ近づくと、視野の中に色が広がり、一本の帯と隣の帯の間隔が身体の感覚へ働きかける。

ニューマンは作品の大きさを、鑑賞者との対面の経験と結びつけて考えていた。色面と帯の関係が、描かれた物語の代わりに強い内容を生む。題名が示す「崇高」は、画面の外にある風景を見せるより、今そこで絵を見る経験を通して考えられている。(参照:MoMA|《Vir Heroicus Sublimis》の赤い広がり)

1948年の「崇高は今」という問い

ニューマンは1948年の文章「崇高は今」で、過去の神話や伝説に頼ることなく、同時代にどのような崇高な経験を作れるかを問うた。歴史上の英雄を描かなくても、色と空間によって人間の存在をめぐる大きな問題を扱えるという考えが、成熟期の作品へ結びついていく。

ニューマンとロスコは、ともに色面を大きく扱いながら、画面構造も鑑賞の仕方も異なる。ニューマンでは垂直帯が色面の関係を決定し、見る身体が作品と同じ空間にあることが重要になる。似た色面絵画という分類の内部にも、独立した考え方が存在する。(参照:MoMA|1948年の「崇高は今」という問い)

クリフォード・スティルの孤立した色面

1944年の《1944-N No. 2》

クリフォード・スティルの《1944-N No. 2》では、深い黒の厚い絵の具の中を、鋭く裂けた赤や明るい色が走る。パレットナイフによる凹凸が画面に残り、色面の境界は不規則である。柔らかな線を引くロスコとも、細い垂直帯を置くニューマンとも異なり、画面が裂け目によって断たれるような緊張を生む。

巨大な作品でありながら、中心には説明的な人物像や遠近法による風景はない。MoMAは、スティルが過去のヨーロッパ美術から切り離された表現を強く求めたことを、この作品の解説で紹介している。鋭い形は自然物を連想させることがあっても、画家自身はそうした連想による説明を好まなかった。(参照:MoMA|1944年の《1944-N No. 2》)

画面の厚みと切断された色の境界

スティルの絵画では、色は薄い幕として平らに置かれるだけではなく、ナイフの跡を伴う物質の厚みとして現れる。大きく塗られた領域が突然途切れ、別の色が裂け目のように入り込む。その境界を目でたどると、色面が互いに押し合い、押し返すような力を感じられる。

画面の大きさと素材の厚みが同時に働くことで、絵は壁に掛けられた一枚の装飾として収まらない存在感を持つ。大画面の抽象が必ず薄い色面へ向かうわけではないことを、スティルの作品はよく示している。(参照:MoMA|画面の厚みと切断された色の境界)

カリフォルニアで教えた期間

スティルは1946年から1950年にかけて、カリフォルニア美術学校で教えた。ニューヨークの画家と比較されながらも、彼の活動は一つの都市へ収まらない。自分の作品がどのように展示され、売買されるかについても強い意思を持ち、画廊や美術市場と緊張関係を築くことがあった。

「ニューヨーク・スクール」という呼び方は、ここでも実態の一部を切り取っている。複数の地域で新しい絵画が発展し、画家たちは交流と独立の間でそれぞれ異なる選択を行った。運動名より個々の作品と活動を先に見ることが重要になる。(参照:メトロポリタン美術館|カリフォルニアで教えた期間)

フランツ・クラインの黒と白

小さな素描を大きく拡大する

フランツ・クラインの力強い黒い筆触は、見る人に一気に描かれた即興の印象を与える。実際には、1940年代末に小さな素描を投影機で拡大した際、線の見え方が変わることに強く惹かれた経験が制作の転機となった。小さな線が壁に大きく映ると、そこには元の対象を説明する働きと別の、巨大な形の関係が現れる。

クラインはこれを大画面の絵画へ発展させ、筆触の勢いと画面全体の構成を両立させた。MoMAの解説によれば、多くの作品には小さな習作を大きく再構成する工程が存在する。激しい筆の動きが見えるからといって、作品が計画なしに生まれたと考えるのは正確ではない。(参照:MoMA|小さな素描を大きく拡大する)

1950年《Chief》と白の役割

《Chief》(1950年)には、黒い太い線が曲がり、交差し、画面の外まで続くように見える。題名はクラインの幼少期の記憶にある列車に由来し、画面から機械や橋梁を連想する観客もいる。作品は具体的な列車を描いたものとして固定されず、黒い形が画面の大きさを変えていく抽象として成立している。

重要なのは白い領域である。クラインは黒を描いた残りが白だと考えるのではなく、白も描くべき要素として扱った。白い広がりが黒い線を押し戻し、形が互いに侵入し合うことで、画面に動きが生まれている。二色の関係だけで大きな緊張を作った作品である。(参照:MoMA|1950年《Chief》と白の役割)

1950年代半ばまでの黒白絵画

クラインは1950年代前半を通して、黒と白による大画面の構成を続けた。太い線には一瞬の勢いが感じられるが、完成までに形を検討する時間も重要であった。写真に写された制作場面や、展覧会で目にする強い筆触の印象と、実際の画面づくりの複雑さを分けて考えることができる。

彼の作品は、後の美術史でアクション・ペインティングの代表例として紹介される。クライン自身が重視した黒と白の双方の構成を見れば、身体の身振りだけで作品を説明することの限界も分かる。筆触の外見と、その筆触が配置された関係の両方が重要だった。(参照:MoMA|1950年代半ばまでの黒白絵画)

マザウェルと歴史を記憶する抽象

シュルレアリストとの交流と自動性

ロバート・マザウェルは1940年代にシュルレアリストたちと交流し、コラージュや自動的な素描の可能性を探った。哲学や文学にも強い関心を持つ彼にとって、制作は無意識の働きを引き出すことと、歴史的な経験を考えることが交差する行為だった。自由な線を引いた後、その中に現れた形を見ながら構成を組み立てる過程が、作品の出発点となることもあった。

ポロックの大規模な身体運動と比較すると、マザウェルの画面には幾何学的に見える形や、黒と白のまとまりが明確に残る。異なる手段で制作を進めながら、抽象が何を表現できるかという問いを共有していた。(参照:MoMA|シュルレアリストとの交流と自動性)

1948年から始まる《スペイン共和国への哀歌》

1948年の《スペイン共和国への哀歌 第1番》は、インクで描かれた小さな紙作品である。黒い楕円形と縦長の形が並ぶ構成は、その後何十年も続く連作の起点となった。マザウェルはスペイン内戦と共和派の敗北を長く意識し、ロルカの詩などを通して、喪失と記憶を絵画へ持ち込もうとした。

黒と白の反復は、特定の人物や戦闘場面を再現しない。それでも、形の重さや間隔、沈黙するような余白を通して、歴史的な悲しみへ近づく。抽象絵画が社会や歴史から切り離されたものという理解では捉えきれない重要な作例である。(参照:MoMA|1948年から始まる《スペイン共和国への哀歌》)

1950年代に展開する反復の構成

《スペイン共和国への哀歌》の連作は、1950年代にもさまざまな大きさと構成で続けられた。メトロポリタン美術館の《第35番》では、黒い楕円と縦方向の形が白い場に置かれ、筆触の形と間隔が異なる緊張を生む。似た構造を繰り返しながら、作品ごとに黒い形の重さと余白が変化している。

反復は同じ作品の複製を意味しない。歴史上の出来事を繰り返し考え、形へ変えることで、見る人に新しい問いを投げかける。マザウェルの活動は、抽象表現主義が個人の感情だけを扱ったのではなく、政治的な記憶を持続的に考える方法でもあったことを示している。(参照:メトロポリタン美術館|1950年代に展開する反復の構成)

ノーマン・ルイスと都市の抽象

ハーレムの経験と抽象への移行

ノーマン・ルイスはニューヨークのハーレムで活動し、1930年代には社会問題や労働に関わる具象作品を制作した。1940年代には、自分が見てきた都市の暮らしと、絵画の線や色による表現を結びつけながら抽象へ進んでいく。彼の活動は、抽象表現主義が白人男性の画家だけから生まれたという後の単純な歴史像を問い直す。

抽象へ進んだことによって、黒人として生きる社会的経験が自動的に消えたわけではない。都市の光や人の集まり、夜の気配が、具体的な場面の再現から離れた線や色へ姿を変える。画家の経歴と作品の形の両方から、その変化を考える必要がある。(参照:MoMA|ハーレムの経験と抽象への移行)

1949年《City Night》の細い線

《City Night》(1949年)は、暗い画面を細い明るい線が横切る作品である。電線や洗濯物の綱、都市の路地を思わせる要素がありながら、どれも明確な風景として固定されない。木製の支持体に描かれた小さな画面の中で、闇と光が交錯し、夜の都市が持つ複雑な気配が現れる。

MoMAの解説は、ルイスが絵画の要素そのものを一つの言語として捉えていたことを紹介する。描かれた対象を説明し尽くすことより、明暗と線の関係によって見る経験を成立させる。その独立した表現に、彼の抽象の特徴がある。(参照:MoMA|1949年《City Night》の細い線)

主流の美術史から見えにくくなった理由

抽象表現主義の歴史がポロック、デ・クーニング、ロスコら少数の名前を中心に語られたとき、ルイスのような作家が果たした役割は見えにくくなった。作品の独自性だけで美術家としての評価が決まるわけではなく、画廊、収集家、批評家、美術館にアクセスする条件にも差があった。人種差別が存在する社会で、黒人芸術家はこうした環境の制約を受けていた。

ルイスの絵画を改めて詳しく見ることは、単に代表作家の一覧へ一人を追加する作業にとどまらない。抽象と社会経験、都市の感覚との関係を考え直し、抽象表現主義そのものが持っていた多様な可能性を理解することにつながる。(参照:MoMA|主流の美術史から見えにくくなった理由)

ゴットリーブとバジオティスの異なる方向

ゴットリーブの《Voyager’s Return》を読む

1946年のゴットリーブ《Voyager’s Return》では、油彩とテンペラによる図像が区画ごとに置かれ、それぞれが独立した記号として見える。古代の物語や異なる地域の造形を参照しつつ、絵の中の順番を明確に決めない構成によって、観客の連想を促す。自由に漂う形を一つの画面へまとめるために、格子が役立っている。

この方法は、絵を素早く描くことと同じではない。区画の大きさや記号の位置を判断し、形の異なるもの同士を並べる作業には構成への意識が働く。初期ニューヨーク・スクールの作品が、多様な歴史や文化への関心を持っていたことが分かる。(参照:MoMA|ゴットリーブの《Voyager’s Return》を読む)

バジオティスが探った有機的な形

ウィリアム・バジオティスは、シュルレアリスムの自動性や水中生物のような形に関心を持ち、形の輪郭と色の関係を探った。作品には魚や生き物を思わせる形が現れるが、具体的な対象の輪郭は曖昧である。見える世界と想像上の世界の間にある形を、柔らかな色面と線によって組み立てていった。

この方法をロスコの色面やニューマンの垂直帯と比べると、抽象表現主義の内部にある造形の幅が分かる。画家たちは同じ時代に無意識や神話を考えながら、自分が見たい像へそれぞれ異なる方法で近づいた。(参照:グッゲンハイム美術館|バジオティスが探った有機的な形)

初期の図像を見直す意味

後の抽象表現主義を知ってから1940年代前半の作品を見ると、人物や動物に見える形を過渡期の未熟さとして捉えがちである。実際には、その時期の作家にとって、古代文化や神話、精神分析から普遍的な表現を探ること自体が大切な課題だった。抽象を制作する理由は、最初から明確な技法として与えられていたわけではない。

成熟した作品が有名になるほど、途中の模索が見えにくくなる。初期の記号、身体の断片、曖昧な有機形態を残すことによって、抽象絵画がさまざまな可能性を試す中から育った歴史が伝わる。(参照:メトロポリタン美術館|初期の図像を見直す意味)

若い世代の女性画家たち

ジョアン・ミッチェルと風景の記憶

ジョアン・ミッチェルは1949年にニューヨークへ移り、1950年代初頭から勢いのある筆触と豊かな色彩による抽象を発展させた。彼女の画面では、線が一つの形を閉じるために働くより、色のまとまりと衝突しながら動き続ける。目の前の景色や光の記憶が絵画の感覚に関わり、描かれた風景として再現されないまま残ることもある。

1951年の第9丁目展に参加したミッチェルは、その後もニューヨークとヨーロッパの両方で活動した。彼女の仕事は、ニューヨーク・スクールが一世代の画家で完結した集団という見方を広げ、1950年代の新しい作家たちへ連なる歴史を示している。(参照:MoMA|ジョアン・ミッチェルと風景の記憶)

グレース・ハーティガンの具象と抽象

グレース・ハーティガンは1950年代のニューヨークで、身振り的な抽象と人物や日常的な情景を往復する制作を展開した。1954年の《Grand Street Brides》には、都市の生活や結婚式のイメージを想起させる要素があり、画面は抽象的な筆触の動きと外部の出来事への関心を同時に含む。

その作品を見ると、人物や物のイメージに戻ることが必ずしも新しい絵画から離れる選択ではなかったと分かる。ハーティガンは同時代の画家や詩人と交流し、絵画の内側に身の回りの文化が入り込む可能性を探った。(参照:ホイットニー美術館|グレース・ハーティガンの具象と抽象)

1951年の展覧会に参加した女性たち

1951年の「第9丁目美術展」には、リー・クラスナー、エレイン・デ・クーニング、ペルル・ファイン、ヘレン・フランケンサーラー、ジョアン・ミッチェル、グレース・ハーティガンら、多数の女性作家が参加した。当時の抽象絵画に女性の作家が実際に関わっていたことは、後の展覧会記録からも確認できる。

後世には、数人の男性画家を中心とする集合写真や英雄的な逸話が繰り返され、女性作家の活動が見えにくくなった。作品だけでなく展覧会の参加記録や作家同士の交流を確認すると、形成期の歴史をより豊かに捉え直せる。(参照:スミソニアン協会|1951年の展覧会に参加した女性たち)

1952年のフランケンサーラーと色彩の新しい展開

《山と海》が生まれた背景

ヘレン・フランケンサーラーは1952年、カナダのノバスコシア州ケープ・ブレトン島への旅の経験から《山と海》を制作した。画面には風景を直接示す輪郭がほとんどなく、色の広がりや流れが光と空気の印象を伝える。水平方向に広がる色や淡い形を見ていると、景色を思い出す感覚に近い経験が生まれる。

若い画家だったフランケンサーラーはポロックの作品などを見て、床に置いた画面や液状の絵の具が生む可能性に関心を持っていた。個別の影響を受けながら、自身の風景の経験と色彩の感覚から独自の方法を作り出した。(参照:ナショナル・ギャラリー|《山と海》が生まれた背景)

未処理キャンバスへ染み込む絵の具

《山と海》は、下地処理をしていないキャンバスに薄めた油絵の具を流し、布へ染み込ませる方法で制作された。絵の具が表面に厚く乗らず、布の織り目を通して色が広がることで、色彩と支持体が一体になったように見える。輪郭は筆で完全に囲まれず、色が染みた境界に自然な揺らぎが残る。

この技法は後の色面絵画へ重要な影響を与えた。画材の保存という観点からは、油分と未処理の布の接触が長期的な変化へ関わることも考えられる。作品の画面効果は、材料の使い方に支えられている。色の見え方と支持体の物質的な条件を一緒に理解することが大切である。(参照:ナショナル・ギャラリー|未処理キャンバスへ染み込む絵の具)

ルイス、ノーランドへ続く流れの起点

1953年、批評家クレメント・グリーンバーグは、モーリス・ルイスとケネス・ノーランドをフランケンサーラーのアトリエに案内し、作品を紹介した。二人はそこで見た染み込みによる色彩の可能性を、それぞれ独自の絵画へ展開する。画家の発明が人から人へ伝わり、別の画面構造へ変わっていく具体的な事例である。

そのため、1952年の《山と海》は初期抽象表現主義の終わりというより、その内部から次の表現が生まれる節目として位置づけられる。ポロックの身体的な操作と異なる色彩の可能性が開かれ、1950年代後半からの色面絵画へつながっていった。(参照:スミソニアン協会|ルイス、ノーランドへ続く流れの起点)

美術教育と批評が生んだ共通の場

ハンス・ホフマンと学ぶことの意味

ドイツで絵画を学んだハンス・ホフマンは、アメリカで重要な教師として活動し、リー・クラスナーを含む多くの画家へ影響を与えた。色と色が互いに前へ押し出したり奥へ引いたりするように感じられる関係について考え、絵画の構成を実際の視覚経験から検討した。後のロスコの色面を考える際にも、ホフマンの色彩理論は重要な背景となる。

抽象表現主義を独学の天才たちが偶然集まった運動として説明すると、こうした教育の役割が見えなくなる。作家は学校や仲間との批評を通じて過去の絵画を学び、そこから自分の表現を作っていった。(参照:メトロポリタン美術館|ハンス・ホフマンと学ぶことの意味)

1948年「サブジェクツ・オブ・ジ・アーティスト」

1948年、マザウェル、ロスコ、バジオティス、デイヴィッド・ヘアらは、「サブジェクツ・オブ・ジ・アーティスト」という学校をニューヨークで始めた。技法の習得だけでなく、現代の画家が何を主題にし、どのように表現へ到達するのかを討論する場所として考えられた。戦後に絵画を作る意味を共有する試みである。

学校の活動は長く続かなかったが、そこに現れた関心は重要だった。描く行為に伴う判断を言葉にし、技法と主題を同時に考えることは、同じ時代に作品を制作する人々の問題意識を明確にした。絵の見た目が違っていても、議論する場は存在していた。(参照:グッゲンハイム美術館|1948年「サブジェクツ・オブ・ジ・アーティスト」)

グリーンバーグとローゼンバーグの批評

1940年代のクレメント・グリーンバーグはポロックを早くから評価し、戦後アメリカ絵画を近代絵画の長い歴史へ位置づけようとした。1952年、ハロルド・ローゼンバーグは「アメリカのアクション・ペインターたち」を発表し、キャンバスを画家が行為する場として捉える見方を示した。同じ作品を、完成した画面の構造から読むか、制作の出来事から読むかという違いがあった。

批評家の言葉は作家が作品を制作する理由をすべて説明するものではない。絵を見て何を重要と考えるかについて複数の見方が存在したこと自体が、1950年代の絵画の新しさを伝えている。批評は作品の歴史的な位置づけを形づくる大きな力を持つようになった。(参照:MoMA|グリーンバーグとローゼンバーグの批評)

1950年代、展覧会が運動を可視化する

1950年の美術館への抗議

1950年、メトロポリタン美術館の「現代アメリカ絵画」展をめぐり、ポロック、ロスコ、ニューマン、デ・クーニングらを含む作家たちが、美術館の方針に抗議する公開書簡を送った。この出来事は、美術館の選考と、若い画家たちが自分たちの作品をどのように見てほしいかという期待が衝突したことを示している。

翌年には彼らの集合写真が『ライフ』誌に掲載され、「怒れる人々」という呼び名が広がった。芸術家がまとまって姿を見せる写真は、作品とは別の形で時代の存在を伝えた。同じ様式を共有していたから集まったというより、既存の制度へ対する違和感が共通していたのである。(参照:メトロポリタン美術館|1950年の美術館への抗議)

1951年の第9丁目展

1951年、グリニッジ・ヴィレッジの第9丁目で、美術家たち自身が中心になった絵画・彫刻展が開かれた。ジョアン・ミッチェル、リー・クラスナー、フランツ・クライン、デ・クーニングら、多様な作家が参加し、画廊の通常の選考を離れた集団的な発表の機会となった。作品の姿はばらばらでも、新しい絵画を目指す人々が同じ場所に並ぶことによって、一つの動向として見えてきた。

後の歴史ではこの展覧会が抽象表現主義の象徴的な出来事として語られる。参加者の違いを残し、誰が展示に参加したかを調べると、一枚の代表的な集合写真から受ける印象より幅広い美術家たちが活動していたことが分かる。(参照:スミソニアン協会|1951年の第9丁目展)

1952年MoMA「15人のアメリカ人」展

1952年、ニューヨーク近代美術館のドロシー・C・ミラーは「15人のアメリカ人」展を企画した。ロスコ、ポロック、スティル、バジオティスら、表現の異なる作家をそれぞれ独立した展示空間で紹介し、個々の制作を詳しく見せる構成だった。ミラーの準備ノートは、作品の選択が美術館の収蔵とも関わっていたことを伝える。

同年、ロスコの《No. 10》が美術館へ寄贈され、彼の作品として初めて同館の収蔵品となった。画家の新しい試みは、このような展覧会と購入、寄贈、批評の積み重ねを通して公共の歴史へ組み込まれていった。(参照:MoMA|1952年MoMA「15人のアメリカ人」展)

1955年の到達点と、その先の美術史

同じ名前の内部に残った多様性

1955年頃までに、ポロックの滴下技法、デ・クーニングの人物と抽象、ロスコの大きな色面、ニューマンの垂直帯、スティルの切り裂かれたような色面、クラインの黒白の構成などがそれぞれ成熟していた。クラスナー、マザウェル、ルイス、ゴットリーブ、ミッチェルらの作品も異なる問題を追究していた。ここに、抽象表現主義を一つの画風として説明することの難しさがある。

作家たちは自由な表現という言葉でまとめられることが多い。それぞれが何から自由になろうとしたのか、何を残そうとしたのかを見れば、答えは作品ごとに異なる。彼らの強さは共通する見た目にあるというより、同じ時代に多くの独立した表現が成立したところにある。(参照:メトロポリタン美術館|同じ名前の内部に残った多様性)

英雄的な美術史が見落としてきた人々

抽象表現主義の普及には、ポロックを中心とする強い男性画家像が大きく作用した。写真、雑誌、批評、展覧会の選考が特定の作家へ注目を集めた結果、同じ時代に作品を作った女性や黒人芸術家、ニューヨーク以外で活動した画家たちの役割が後景へ退いた。現在の研究は、その偏りを美術史の成立過程として検討している。

評価の不均衡を見直すことは、既に知られた画家の功績を消す作業ではない。作品の実際の出来栄えと、それがいつ誰に評価されたかを区別し、当時活動していた人々の関係をより正確に示す取り組みである。抽象表現主義の歴史には、まだ読み直すべき重要な作品が多く残る。(参照:スミソニアン協会|英雄的な美術史が見落としてきた人々)

抽象表現主義が開いた次の絵画

1950年代半ば以降、抽象表現主義の影響はアメリカ国内を越えて広がり、同時にその方法への批判や別の方向も強まった。染み込む色彩を追究するフランケンサーラー、モーリス・ルイス、ケネス・ノーランドの流れ、絵画の反復や平面性を探るフランク・ステラ、具象的な物と絵を結びつけるラウシェンバーグらは、異なる問いを発展させていく。

抽象表現主義は一つの完成形として止まった運動というより、制作方法、画面の大きさ、色彩と身体、主題と抽象の関係を新たに考える出発点となった。その後の現代美術を理解するには、この時代に生まれた複数の答えを知り、それぞれがどのように受け継がれ、問い直されたかを追うことが重要になる。(参照:メトロポリタン美術館|抽象表現主義が開いた次の絵画)

年表|抽象表現主義の形成と台頭

形成期を理解するための主な出来事を、1943年以前の背景から1955年まで年代順に整理した。作家たちの試作、展覧会、評価の変化を一つの流れで確認できる。

  1. 1935|ニューディールの連邦美術計画が始まり、多くの芸術家の制作生活を支える。
  2. 1939|ヨーロッパで第二次世界大戦が始まり、亡命芸術家がアメリカへ移動する。
  3. 1941|ゴットリーブがピクトグラフのシリーズを始める。
  4. 1942|ペギー・グッゲンハイムがニューヨークにアート・オブ・ディス・センチュリーを開く。
  5. 1943|ポロックが画廊で初個展を開き、《壁画》を制作。ロスコとゴットリーブが絵画の主題について声明を発表。
  6. 1944|ゴーキー《鶏冠である肝臓》、スティル《1944-N No. 2》が制作される。
  7. 1945|第二次世界大戦が終結。ポロックとクラスナーが結婚し、スプリングスへ移住。
  8. 1946|ゴットリーブ《Voyager’s Return》。批評で「抽象表現主義」の名称が用いられる。
  9. 1947|ポロックが滴下・流し込みの技法を本格的に展開。
  10. 1948|デ・クーニング《絵画》、ニューマン《Onement I》、ポロック《Number 1A, 1948》。マザウェルの《スペイン共和国への哀歌》が始まる。
  11. 1948|ニューヨークで「サブジェクツ・オブ・ジ・アーティスト」が活動を始める。
  12. 1949|ロスコが成熟した色面構成へ向かい、クラスナー《無題》、ルイス《City Night》を制作。
  13. 1949|ポロックの活動と制作方法が大衆向け雑誌で広く紹介される。
  14. 1950|ポロック《One: Number 31, 1950》《秋のリズム》、ロスコ《No. 10》、クライン《Chief》。
  15. 1950|画家たちがメトロポリタン美術館の展覧会方針へ抗議する。
  16. 1950–1951|ニューマン《Vir Heroicus Sublimis》を制作。
  17. 1951|ニューヨークで第9丁目展が開かれ、女性を含む多数の作家が参加。
  18. 1951|画家たちの集合写真が『ライフ』誌に掲載される。
  19. 1952|フランケンサーラー《山と海》を制作。ローゼンバーグがアクション・ペインティングを論じる。
  20. 1952|MoMAが「15人のアメリカ人」展を開催し、ロスコ《No. 10》が同館へ収蔵される。
  21. 1952|デ・クーニング《Woman I》完成(1950年着手)。
  22. 1953|MoMAが《Woman I》を収蔵し、フランケンサーラーの制作方法がルイスとノーランドへ紹介される。
  23. 1953–1955|クラスナーが自作の断片を再構成するコラージュ作品を発展させる。
  24. 1954|ハーティガン《Grand Street Brides》。
  25. 1955|抽象表現主義の多様な成熟作が評価され、次の世代へ影響を広げる。

まとめ|異なる絵画が同じ時代に成立した

1943年から1955年にかけて、アメリカでは抽象表現主義と呼ばれる多様な絵画が形成された。ポロックの流れる線、デ・クーニングの塗り直された人物、ロスコの境界が揺れる色面、ニューマンの垂直帯、スティルの厚い色面、クラインの黒白の構造は、それぞれ別の問題へ向けられた独立した発見だった。絵画を単純な見た目で分類するほど、個々の作家が何を試したかは見えにくくなる。作品の材料と構図、制作の時間を追うことによって、それぞれがなぜ新しい表現となったのかを考えられる。

また、クラスナー、ルイス、マザウェル、ミッチェル、ハーティガン、フランケンサーラー、ゴットリーブらを含めた歴史は、抽象表現主義をより広い出来事として示している。戦争や大恐慌の経験、教育、移民と亡命、画廊、収集家、美術館、批評は作品が生まれ、評価される条件を形づくった。1950年代後半には、ここで生まれた方法から、色面絵画や幾何学的な抽象、絵画と物体の境界を問う新たな試みが広がっていく。

参考資料・出典

本文は、美術館の所蔵作品解説、作家研究、展覧会記録と、既存の「1945–1950|ニューヨーク・スクールの形成」の原稿をもとに再構成した。作品の制作年と材料、展覧会の経緯は公開資料と照合し、個々の作品の見方についてはART LIBRARYが独自に記述している。

資料確認日:2026年10月14日 / ART LIBRARY