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1919–1933

ドイツのバウハウス

美術と工芸、建築を結んだ新しい教育

バウハウスは、1919年から1933年にかけてドイツで活動した美術・工芸・建築の学校です。絵を描くこと、家具を作ること、建物を設計することを一つの教育の中で結びつけ、現代の暮らしにふさわしい形を探しました。椅子、照明、書体、写真、住宅など、今も広く知られる成果を生み出した学校ですが、最も大きな革新は、芸術家と職人、工場の技術者が協力して制作するための新しい教育を考えたことにあります。

バウハウスが生まれたのは、第一次世界大戦の終結直後のドイツ中部、ヴァイマールという都市です。ドイツ帝国が崩壊し、共和国が始まった時代には、住宅不足や経済の混乱に直面しながら、新しい社会と生活を築こうとする動きも広がっていました。初代校長ヴァルター・グロピウスは、美術学校と工芸の教育を結び直し、材料に触れながら色や形を学び、実際に使える物を作る学校を開きます。

学校の姿は時代とともに変わります。最初は中世の職人共同体に理想を求め、1923年頃からは工場で生産できる家具や照明の開発へ進みました。1925年に工業都市デッサウへ移ると、ガラス張りの校舎や教師住宅、鋼管の家具、織物、写真、印刷物が次々に作られます。1928年以後は社会住宅を重視するハンネス・マイヤー、1930年以後は建築教育を中心とするミース・ファン・デル・ローエが学校を率いました。

1919年の創設から14年後、バウハウスは政治的圧力によって閉校します。その間に生まれた教育方法は、教師や学生の移住を通して世界へ広がり、美術大学の基礎課程やデザイン教育へ受け継がれていきました。本記事では、三つの都市を移動した学校の歴史をたどり、クレーやカンディンスキーの授業、女性たちの工房、家具、写真、舞台、建築を具体的に見ながら、バウハウスが美術と生活の関係をどう変えたのかを考えます。

バウハウスとは何か――戦後ドイツに生まれた学校

1919年、どこで何のために始まったのか

バウハウスは、1919年にドイツ中部のヴァイマールで設立された造形教育の学校です。第一次世界大戦の敗戦によって帝政が崩壊し、共和制へ移った社会では、住宅、労働、教育のあり方を見直す動きが広がっていました。建築家ヴァルター・グロピウスは、美術学校と工芸教育の系譜を一つの学校へまとめ、生活の中で使われる物から建物までを総合的に考える教育を始めました。

当時、美術学校での絵画や彫刻と、職人が作る家具・布・金属器は、別の領域として教えられることが多くありました。バウハウスは、その間を往復しながら、形、色、材料、制作方法を一体として学ぼうとしたのです。「バウハウス」という名前の意味を理解するには、まず作品よりも学校の目的に注目することが大切です。

「バウハウス」は現在のドイツにある特定の学校の名前で、1919年当時は新しい共和国の政治と教育政策の中に置かれていました。前衛芸術家が集まったという特徴と、公費で運営された教育機関だったという特徴の両方を踏まえることで、後の政治的な衝突も理解しやすくなります。(参照:ヴァイマール・バウハウス大学|学校創設の歴史、メトロポリタン美術館|バウハウス1919–1933)

ヴァイマール、デッサウ、ベルリンの三つの時代

学校は14年の間に三つの都市を移りました。1919~1925年のヴァイマール時代には手仕事と造形の基礎教育が充実し、1925年に移ったデッサウでは工業生産を念頭に置いた試作や建築が大きく発展します。1932年には政争によってデッサウ校が閉鎖され、ベルリンの私立学校として再出発しました。1933年には国家社会主義政権下で活動を終えます。

同じ学校の名の下で、理念と教育制度は繰り返し組み直されました。その変化を知ると、表現主義的な木版画、抽象絵画、舞台衣装、鋼管の椅子、社会住宅までが、なぜ一つの学校の歴史に含まれるのかが見えてきます。

学校の歴史を地図の上に置くと、政治や産業との関係も浮かびます。文化都市ヴァイマールから工業都市デッサウへ、最後は首都ベルリンの小さな私立校へと移ったことには、学校を支える資金や行政の変化も表れています。(参照:バウハウス・デッサウ財団|学校の沿革)

三人の校長が変えた学校の方向

初代校長のグロピウスは美術と職人技術の統合を掲げ、1923年頃から工業技術との結びつきを強めました。1928年に二代目となったハンネス・マイヤーは、住宅や学校を必要とする人々の暮らし、費用、衛生、利用条件を設計の中心に置きます。1930年に就任したミース・ファン・デル・ローエは、建築教育を重視し、政治的衝突から学校を守るため制度を再編しました。

校長三人はいずれも建築家でしたが、教育の優先順位は異なっています。この違いを確かめることが、バウハウスの複雑さを理解する基本になります。(参照:バウハウス・デッサウ財団|学校の沿革、メトロポリタン美術館|バウハウス1919–1933)

創設宣言――芸術家と職人が共同で建築を作る

グロピウスが統合した二つの学校

ヴァイマールには、バウハウス以前から美術と工芸の教育が存在していました。ベルギー出身の建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデは、20世紀初頭に同地の工芸学校と建物の整備に関わり、質の高い工芸と生活を結びつけようとしました。第一次世界大戦によってドイツを離れる際には、後任候補の一人としてグロピウスを推薦しています。

グロピウスが1919年に設立した国立バウハウスは、こうした先行する教育改革を引き継ぎ、絵画、彫刻、工芸を共通の目標へ向けて再編した学校でした。学校の出発点を理解するとき、ドイツ国内に蓄積されていた工芸改革も重要な背景になります。(参照:ヴァイマール・バウハウス大学|学校創設の歴史)

1919年の宣言とファイニンガー《大聖堂》

グロピウスは創設宣言で、建築をさまざまな芸術が集まる最終的な目標として掲げました。宣言の表紙を飾ったライオネル・ファイニンガーの木版《大聖堂》には、鋭い線で組み上げられた塔が上方へ伸び、尖塔の周囲に星の光が広がっています。黒と白の明暗が結晶のような構造を生み、建物は共同体の理想を示す象徴になりました。

この作品からは、後年のガラスと鉄による校舎とは異なる初期の精神が伝わってきます。バウハウスの最初の構想には、芸術家と職人が協力して未来の社会を築くという強い期待がありました。

木版の黒い線は塔を細かな三角形に分け、建物全体を光が放射するような形に変えています。ここに描かれた建築は、現実に建設する建物の図面というより、異なる芸術が集まる理想の姿です。学校の理念がまずイメージによって示されたことにも注目できます。(参照:ヴァイマール・バウハウス大学|学校創設の歴史、メトロポリタン美術館|バウハウス1919–1933)

中世の工房を手本にした新しい学校制度

「バウハウス」という名称は、歴史的な建築職人の共同体を連想させます。中世の大聖堂は石工、彫刻家、木工職人、ガラス職人など多くの技術によって作られました。グロピウスは、個人の天才に制作を委ねるより、専門性の異なる人々が同じ目的のもとで働く教育を構想しました。

学生は実際の材料を扱う工房へ進み、形や色を学ぶ教師と技術を教える職人から指導を受けました。作品の見た目を整えることに加え、何をどのように作るかを学ぶ仕組みです。この制度が、その後の美術・デザイン教育に長く影響しました。

「職人」という言葉が強調されたのは、材料を知る技術への敬意を示すためでもありました。画家が椅子を考えるときには木の加工が必要になり、職人が製品を作るときには色と形の判断が必要になります。双方が教え合う仕組みを学校の制度にしようとしたのです。(参照:メトロポリタン美術館|バウハウス1919–1933)

予備課程――素材から形を考える教育

ヨハネス・イッテンと予備課程の役割

入学した学生は、すぐに家具や建築を専門に選ぶのではなく、まず予備課程で材料、色、形、構成を実験しました。初期の予備課程を率いたヨハネス・イッテンは、既存の名作を模写して正しい形を覚える授業から、素材の特徴を自分の手と目で発見する授業へ重点を移します。

紙の折り目から面の硬さを知り、糸の張りから緊張を感じ、木や金属の質感を比較する。こうした練習では、結果としてできた物と、作る過程で得た発見が同じほど重要でした。デザインの前に観察と実験を置くという考え方が、学校の根幹にありました。

例えば紙を切り、折り曲げ、立てる課題では、平らな紙が立体としてどこまで自立するかを試せます。結果は同じ形に揃わず、学生によって違う工夫が生まれます。こうした課題は、素材を知ることと発想を育てることを一度に行う方法でした。(参照:メトロポリタン美術館|バウハウス1919–1933)

触覚・明暗・色彩対比を学ぶ

材料研究では、同じ形でも紙、布、木、ガラス、金属によって触感や光の反射が変わることを確かめます。色彩の授業では、赤や青の名称を覚える以上に、隣に置く色、面積、明度、補色の関係が画面の印象をどう変えるかを考えました。イッテンはこうした対比の学習を体系化し、造形の判断を身体で経験できるようにしました。

一見すると抽象的な色や形の練習も、後に椅子の座面、照明の光、壁の塗装、織物の組織を扱うときの基礎になります。専門分野を分ける前の共通言語として、造形教育が位置づけられていたのです。

同じ赤でも、暗い背景の上と明るい背景の上では違って感じられます。ガラスや金属では、照明の位置によって表面の明るさと反射が変わります。制作中に起きるこうした現象を観察することが、色や形を理論だけで扱わない授業につながりました。(参照:メトロポリタン美術館|バウハウス1919–1933)

精神的な教育観とイッテンの退任

イッテンの授業には呼吸や身体運動も含まれ、学生の集中と内面的な感覚を重視する特徴がありました。彼が信奉したマズダズナンという生活改革・宗教的思想も学校生活に影響を与えます。現代の研究では、この思想に含まれていた人種観や階層的な考え方も批判的に検討されています。

1923年、工業生産や企業との協働を重視するグロピウスと教育理念が離れ、イッテンは学校を去りました。基礎教育の重要性は残りながら、内容はモホリ=ナジやヨーゼフ・アルバースらによって新しい方向へ展開します。

後から振り返ると、色彩教育の体系化と宗教的な思想は区別して論じられます。当時の学校の授業では、その両方が同じ教師の考え方に含まれていました。1919年から1923年までのバウハウスを理解するには、工業技術へ進む以前の教育環境も確かめる必要があります。(参照:バウハウス協会|イッテンとマズダズナンの研究、バウハウス・デッサウ財団|学校の沿革)

クレーとカンディンスキー――抽象絵画を教える

パウル・クレーの授業で学ぶ線と成長

パウル・クレーは1920年末にバウハウスへ招かれ、線、面、色彩の関係を綿密に分析する授業を行いました。クレーにとって、線は物の外形をなぞるだけの道具ではありません。点が移動して線になり、線が広がって面になり、画面に方向や力の関係が生まれる過程を考えることができました。

植物が伸びる様子や水の流れなど、自然の変化を観察して抽象的な構成へ移し替える視点も、彼の教育の特徴です。学生たちはクレーの絵に似せるより、形がどのような原理によって生まれるかを学びました。

クレーの考え方は、花や葉の形を写し取ることからもう一段進みます。枝が分かれる方向、葉が並ぶ間隔、形の増減など、自然の秩序を抽出することで、具体的な対象から離れても説得力のある画面を組み立てられると考えたのです。(参照:メトロポリタン美術館|バウハウス1919–1933、ニューヨーク近代美術館|バウハウス展1919–1933)

カンディンスキーが分析した点・線・面

1922年に参加したワシリー・カンディンスキーは、色と形の働きを理論的に整理し、抽象絵画の構成を教えました。点が一つ置かれると画面に緊張が生まれ、線の向きが変わると動きが変化し、面の広さによって色の感じ方も違ってきます。このような関係を、作品を作る前に考えるための授業です。

カンディンスキーが以前から探究してきた色彩の精神的な力は、学校では色面と幾何学、配置の分析に結びついていきました。絵画の抽象的な問題が、工芸や印刷にも利用できる構成の言語へと広がります。

縦線と横線では、同じ長さでも目に与える印象が違います。画面の中心に置く形と端に置く形でも、周囲との関係が変わります。こうした課題は抽象絵画の表現を深めるとともに、ポスターや壁面の構成を検討する際にも生かせる知識になりました。(参照:メトロポリタン美術館|バウハウス1919–1933)

画家の個性と学校の共同制作

クレーとカンディンスキーは、同じ学校で教えながら異なる絵画を描き続けました。クレーには線の成長や生き物を思わせる形があり、カンディンスキーには幾何学と色面の緊張が見られます。その違いを認めながら、両者の授業は学生に造形の原理を学ばせる役割を担いました。

木製家具、金属器、織物、ポスターの見た目に共通する部分があるのは、同じ装飾模様を使ったからというより、形の比率や色の関係を共有して学んだからです。美術家の個人制作と学校の実用品の制作が、授業を介して結びついていました。(参照:メトロポリタン美術館|バウハウス1919–1933、ニューヨーク近代美術館|バウハウス展1919–1933)

工房教育――絵画・彫刻と日用品を結ぶ

形を教える教師と技術を教える職人

初期の工房では造形を指導する教師と、実際の加工を熟知した熟練職人が協力しました。金属を切ったり接合したりする知識、織機を動かす技術、陶器を焼く条件などは、絵画の知識だけで身につくものではありません。学生は材料を扱いながら構造と制作の手順を学び、図案を実物へ変える過程を経験します。

この教育は、頭の中で理想の形を考える時間と、材料が示す抵抗や制約を確かめる時間を結びつけました。使う人の身体や製造工程を考える態度は、後の工業デザイン教育にも受け継がれていきます。(参照:メトロポリタン美術館|バウハウス1919–1933)

木工・陶器・壁画・織物の多様な実践

バウハウスには木工、金属、陶器、壁画、織物、版画、舞台など、時期によってさまざまな工房が存在しました。ヴァイマール近郊のドルンブルクには陶器工房が設けられ、食器の形と焼成技術が研究されました。壁画工房では建物の壁に色を塗る仕事を通じて、色彩を平面作品から建築空間へ広げる試みが行われます。

すべての工房が1933年まで同じ姿で残ったわけではありません。校舎の移転や方針転換に合わせて、工房は統合されたり役割を変えたりしました。学校の活動を考える際には、この変化の過程にも目を向ける必要があります。

陶器なら粘土の可塑性と焼成後の強さ、織物なら縦糸と横糸の組み合わせ、壁画なら光が当たる空間での色の見え方が問題になります。作る物によって条件が変わるため、学生は同じ抽象理論を材料ごとに応用し直す経験を重ねました。(参照:メトロポリタン美術館|バウハウス1919–1933、バウハウス・デッサウ財団|学校の沿革)

建築を掲げながら建築科が遅れて設立された理由

創設宣言では建築が芸術の統合先として描かれていましたが、正式な建築科の開設は1927年です。それ以前の学校は、素材と工房の教育を充実させることに多くの力を注ぎました。実際の建築事業にはグロピウスの私設事務所が関与し、学生が参加する機会もありましたが、教育上の建築部門はまだ十分に整っていませんでした。

理念として建築を目指すことと、建築家を専門的に養成することは、学校の歴史の中で時間をかけて結びついていきます。正式な建築科ができるまでの八年間は、そのための教育実験の時期でもありました。(参照:バウハウス・デッサウ財団|デッサウ校舎、バウハウス・デッサウ財団|学校の沿革)

1923年の転換――芸術と技術、新たな統一

ファン・ドゥースブルフがもたらした別の造形観

オランダのデ・ステイルに参加したテオ・ファン・ドゥースブルフは、1921年頃からヴァイマールに滞在し、バウハウスの周辺で講義や交流を行いました。水平線と垂直線、明快な色面による構成は、学生たちに強い刺激を与えました。初期バウハウスの表現主義的な色彩や精神的な授業とは、異なる造形の考え方が学校の外から入ってきたのです。

ファン・ドゥースブルフはバウハウスの正式な教師ではありませんでした。デ・ステイルとの接触は、学校が国際的な前衛と議論しながら方向を探していたことを示しています。

前の記事で扱ったデ・ステイルの運動では、絵画の水平・垂直の構成を家具や建築にも広げることが試みられていました。バウハウスでも、抽象画の形を実用品へ生かすことが課題になり、オランダの造形実験との交流はその思考を促しました。(参照:メトロポリタン美術館|バウハウス1919–1933、バウハウス・デッサウ財団|学校の沿革)

グロピウスの標語が示した教育方針

1923年、グロピウスは「芸術と技術、新たな統一」という方針を打ち出しました。職人が一つずつ手で作る工芸品の技術を生かしながら、工場で繰り返し作れる製品を設計する方向へ進んだのです。照明や家具を作るときにも、完成品の美しさに加えて、部品、材料、価格、同じ品質で作り続けられるかが問題になります。

この転換は、学校の工房を産業と社会へ結びつける試みでした。新しい暮らしを広く実現するには、教師や学生が発明した形を工業生産の技術と接続する必要があると考えられたのです。

大量生産を考えると、一つの優れた形を決めるだけでは足りません。使う素材が安定して供給されるか、誰がどの工程で加工するか、修理できるかも重要になります。学校の工房がこうした問題に向き合ったことが、後のデザイン教育とのつながりを強めました。(参照:バウハウス・デッサウ財団|学校の沿革、メトロポリタン美術館|バウハウス1919–1933)

試作品を社会へ送り出す仕組み

バウハウスの工房は、商品として売れる完成品を最初から大量に作ったわけではありません。機能や材料を試す試作品を作り、そこで得た結果を企業に伝えて、製造の可能性を検討しました。工房で考えた椅子や照明は、工場に移す際に形や仕様を変えることもあります。

一点物の制作と量産品の設計には、違う技術と経費が必要です。バウハウスの歴史を具体的に読むと、理想を掲げるだけで製品が普及するわけではなく、社会へ届ける仕組みまで設計しようとしていたことが分かります。(参照:メトロポリタン美術館|バウハウス1919–1933)

1923年の実験住宅《ハウス・アム・ホルン》

ムッヘが設計した一軒の家

1923年、ヴァイマールで開かれたバウハウス大展覧会では、学校の教育成果を実際の住まいとして示すため、実験住宅《ハウス・アム・ホルン》が建てられました。基本設計を担ったのは画家でもあったゲオルク・ムッヘです。中央の居間を囲むように寝室、子ども部屋、台所などが配置され、生活の動きを短い経路で結ぶことが意識されました。

住宅の建設にはグロピウスの事務所が関わり、家具や照明、織物などにはバウハウスの工房が参加しました。建築が形の総合を目指すという創設以来の理念を、一般の人が歩いて見学できる形にしたことが、この住宅の大きな意味です。

正面の印象は落ち着いた四角い住宅ですが、計画の中心には家族の生活があります。居間の周囲に部屋を集める構成は、日常の移動に必要な距離を小さくする考えと結びつきます。家の形と生活の機能を同じ問題として扱った実験でした。(参照:ヴァイマール古典財団|ハウス・アム・ホルン)

子ども部屋に見えるアルマ・ジートホフ=ブッシャーの発想

《ハウス・アム・ホルン》の子ども部屋には、アルマ・ジートホフ=ブッシャーが考案した家具と玩具が取り入れられました。子どもの身長に合わせた収納や、遊びによって形を変えられる道具は、家具を固定された大人の生活用品として考えていた時代に新しい視点を与えます。

使う人の動作と身体の大きさを設計の出発点にする考え方は、のちのデザイン教育にもつながります。家を作る際に、大人のための整った外観を考えるだけでなく、そこで暮らす子どもが何をするのかまで想像する。住宅が社会や教育の問題と接続した実例です。

子どもにとって家具は、座る、しまう、遊ぶという複数の行為を支える道具です。積み木や組み替え可能な造形は、決まった使い方を指示するより、使う人の発想を引き出します。予備課程で材料と形を試した経験が、遊びのための道具にも表れています。(参照:ヴァイマール古典財団|ハウス・アム・ホルン、メトロポリタン美術館|バウハウス1919–1933)

台所、家具、照明を一つの住まいに組み込む

実験住宅では部屋の広さや窓の位置だけでなく、食器の収納、作業台の高さ、明かりの当たり方、家具の移動など、日常生活の具体的な場面が検討されました。各工房が別々に作った製品を並べるだけでなく、生活空間全体の中で役立つかを試す機会になりました。

《ハウス・アム・ホルン》は、ヴァイマール時代に実現したバウハウスの建築として特別な位置を占めています。現在は世界遺産の構成資産にも含まれ、学校が抱いた住宅の理想を確かめることができます。

こうした住宅の実験には、家事にかかる時間を減らしたいという時代の希望も表れていました。収納の場所や作業台の位置を見直すことは、生活の労力を具体的に変える設計です。便利さを誰が享受し、家の中の仕事を誰が担うかという問題も含んでいました。(参照:ヴァイマール古典財団|ハウス・アム・ホルン、ユネスコ世界遺産センター|ヴァイマール、デッサウ、ベルナウのバウハウス)

女性たちと織物工房――学校を支えた造形

入学の機会と工房選択の壁

1919年の創設時、バウハウスは女性にも入学を開き、多くの女性が新しい教育を求めて集まりました。女性が美術教育を受ける機会が広がった時代の変化が、学校にも表れていました。実際の工房では、金属や木工、建築が男性中心とみなされ、女性が織物へ進むよう促されることが多くありました。

この環境の中で、女性たちは技術を磨き、学校の活動を大きく発展させていきます。織物工房は、芸術上の実験と製品開発の両方で成果を残し、商業収入によって学校の経営にも貢献しました。入学制度と実際の教育機会を合わせて見ることで、バウハウスを支えた人々の姿がより明確になります。

当時の女子学生にとって、先進的な学校へ入ること自体が大きな選択でした。入学後に希望する専門分野へ進めるかは別の問題で、進路の制約が創作の方向を左右しました。現在の研究で女性作家の作品が再評価される背景には、こうした制度上の経緯があります。(参照:メトロポリタン美術館|バウハウス1919–1933)

グンタ・シュテルツルが発展させた織物の構造

グンタ・シュテルツルは学生として入学し、織物工房の技術と教育を発展させ、1927年には女性で初めて正式なマイスターの地位を得ました。彼女の仕事では、抽象的な色面の組み合わせが糸の密度や交差の仕方として実現されます。布を近くで見ると、色彩の面は印刷された図柄ではなく、縦糸と横糸が作る構造そのものです。

織物工房では遮光、耐久性、音の吸収、椅子張りの強さなど、建築や家具と結びつく機能も研究しました。画面に絵の具で模様を作るのとは異なる、素材と用途を同時に考える抽象の実践でした。

光を通す織り方、椅子張りに必要な摩耗への強さなど、布には見た目からは分かりにくい性能があります。シュテルツルは技術と造形を結びつけ、抽象模様を生活の道具として働かせる方法を追究しました。布の設計を高度な専門領域へ育てた点も重要です。(参照:メトロポリタン美術館|バウハウス1919–1933)

アンニ・アルバースと新しい繊維の実験

アンニ・アルバースは織物を通して、色彩だけでなく手触り、光の反射、布の強さを探究しました。バウハウスの織物工房では、伝統的な綿や羊毛とともに、セロファンや金属を含む新しい材料が試され、建築空間で使える布の可能性が広がっていきます。

アルバースは後にアメリカで制作と教育を続け、織物を現代美術とデザインの重要な領域として発展させました。バウハウスの女性たちの仕事を見れば、学校の革新が椅子や建築にとどまらず、柔らかく折り曲げられる素材の中にもあったことが分かります。

糸の種類と組織を変えると、同じ面積の布でも、厚さ、重さ、透け方、触ったときの感覚が変わります。織物を建物の壁や椅子の一部として考えるときには、そうした物理的な特性の理解が求められました。芸術と技術の協働が、柔らかい素材の中でも実現していたのです。(参照:メトロポリタン美術館|バウハウス1919–1933、バウハウス資料館|1933年以降の活動)

金属工房――照明と日用品を作り直す

マリアンネ・ブラントの金属器

マリアンネ・ブラントは、女性が少なかった金属工房で制作を始め、やがて工房を代表するデザイナーとなりました。彼女の1924年の小型茶こし器や灰皿では、球、半球、円筒、平らな円盤などの幾何学的な部品が、使うための器具として組み合わされています。金属の光沢と、接合部分の見せ方も形の印象を決める要素です。

小型の茶こし器では、丸い胴体、口、持ち手、蓋の関係を簡潔にまとめながら、茶葉を扱う手の動きまで考えられています。銀色に輝く表面の美しさに、実際に使う道具としての機能を結びつけようとした作品です。

単純な球や半球が組み合わされていても、それだけで扱いやすい器具になるとは限りません。手でつかむ部分、注ぐための口、置いたときの安定性を調整する必要があります。幾何学的な形の美しさと、細かな使用条件が同じ製品の中に現れています。(参照:メトロポリタン美術館|ブラント《茶こし器》、ニューヨーク近代美術館|マリアンネ・ブラント《灰皿》)

ヴァーゲンフェルトのランプと工房の試作

ヴィルヘルム・ヴァーゲンフェルトとカール・ヤーコプ・ユッカーに結びつく1924年の卓上ランプは、円形の台座、まっすぐな支柱、半球状のガラスシェードから構成されます。単純な幾何学を組み合わせた形は工場で作られた製品のように見えますが、初期の制作には手作業による高度な加工が必要でした。

学校の工房で作る試作品と、市場で同じ品質を繰り返し提供する量産品には違いがあります。ランプの歴史は、現代的なデザインの外観が先に生まれ、製造の仕組みが後から追いつく場合もあることを示しています。

半球形のシェードは電球の光をやわらげ、透明な支柱は内部の構造を見せます。製品を明るく照らすための機能と、材料の性質を見せる造形が重なった設計です。学校の試作品がその後も長く販売される意匠になったことは、制作の記録を確認する意義を教えてくれます。(参照:メトロポリタン美術館|バウハウス1919–1933)

工場との契約で照明が社会へ出ていく

金属工房では、器具を一点制作する仕事から、企業と協力して照明を製造する仕事へと活動が広がりました。電球や配線、熱、金属部品の扱いを考えながら、日常生活で繰り返し使われる製品を設計します。学校で作った形を家庭や職場に届けるためには、価格と耐久性、製造者の技術まで考える必要がありました。

金属工房の活動は、バウハウスが掲げた「芸術と技術」を生活用品で実践した代表例です。学校での学びが、社会の中でどう役立つかを試す場にもなっていました。(参照:メトロポリタン美術館|バウハウス1919–1933、バウハウス・デッサウ財団|学校の沿革)

マルセル・ブロイヤー――椅子の構造を変える

木製家具から鋼管家具へ進んだ学生

マルセル・ブロイヤーは学生としてバウハウスに入り、木工工房で家具を制作しました。初期には直線的な木材を組み、背もたれや脚の構造を明快に見せる椅子を設計しています。1925年頃になると、鋼管を曲げて作る家具の実験を始めました。軽く、強く、曲げられる鋼管に注目したことが、大きな転換になります。

彼は自転車のハンドルに使われる管から着想したと述べています。工業製品で使われていた素材を家具へ移すことで、木材の厚い部材に頼らず身体を支える構造を考えられるようになりました。(参照:ニューヨーク近代美術館|ブロイヤー《B3クラブチェア》、ニューヨーク近代美術館|マルセル・ブロイヤー所蔵作品)

《B3クラブチェア》の線と空間

ブロイヤーが1925年に初期案を作り、後に《ワシリー・チェア》として知られる《B3クラブチェア》は、伝統的な大型肘掛け椅子の形を鋼管の線へと置き換えたような作品です。輝く管が直角に折れ曲がって空間を囲み、座面、背、肘掛けには布が張られています。身体は鋼の枠へ直接触れず、宙に浮くように支えられます。

ニューヨーク近代美術館が所蔵する1927~28年の例では、クロムめっきした鋼管とキャンバスが使われています。座るための家具を、線、面、空間の関係としても見ることができる作品です。

厚いクッションを持つ従来のクラブチェアを思い浮かべると、ブロイヤーの設計の大胆さがはっきりします。座る人を包み込む量感を減らし、身体を支えるために必要な線と布の面を残す。そこでは椅子の内側と外側を隔てる境界も薄くなっています。(参照:ニューヨーク近代美術館|ブロイヤー《B3クラブチェア》)

《ワシリー》という後年の名前と量産の課題

この椅子は初めから《ワシリー》の名で販売されたわけではありません。カンディンスキーが初期の設計を高く評価したことにちなみ、後年その名で知られるようになりました。現在目にする復刻品も、1920年代に作られた試作品や初期製品とは製造者、細部、材料が異なる場合があります。

鋼管は形を標準化しやすい材料でしたが、新しい家具を一般家庭へ安く届けるには、製造設備と販売網も必要でした。バウハウスの家具を考えるとき、形の発明と商品の普及を分けて追うことが、その歴史を具体的に理解する手がかりになります。(参照:ニューヨーク近代美術館|ブロイヤー《B3クラブチェア》)

1925年の移転とデッサウ校舎

ヴァイマールから移ることになった政治的背景

ヴァイマールの学校は、1919年の創設からまもなく政治的な対立の対象となりました。1924年の州議会選挙で保守・右派勢力が力を強めると、学校の予算が大幅に削減され、教員の雇用にも影響が及びます。バウハウスは1924年末にヴァイマールでの活動終了を表明し、1925年には新しい所在地を探すことになりました。

受け入れ先となったデッサウは工業が発展し、当時は社会民主党が行政を担う都市でした。学校が進めていた工業生産への転換を、都市の産業と結びつけられる環境が整っていました。

バウハウスは公的資金によって運営される学校だったため、地方議会の方針が教育環境を大きく変えました。実験的な美術教育が社会の中で存続するには、教師や学生の熱意に加え、行政の支援や制度上の安定が必要だったことが、この移転から分かります。(参照:バウハウス・デッサウ財団|学校の沿革)

1926年開校の校舎を歩いて理解する

デッサウの新校舎は、グロピウスの私設事務所が設計し、1926年12月4日に開校しました。ガラスに覆われた工房棟、職業学校棟、両者を結ぶ橋状の管理棟、学生寮、講堂、食堂が異なる高さで組み合わされています。建物には一方向から全体を見渡せる正面がなく、周囲を歩くことで各部のつながりが理解できる構成です。

ガラス、鋼、コンクリートが使われた建物は、教育施設でありながら、学校の造形思想を示す大きな作品にもなりました。建築の外観と、内部での実際の生活を一緒に考えることが重要です。

校舎の橋状の部分は道路の上にかかり、離れた棟をつなぎます。そこを通ることで、工房と教室、管理部門の関係が身体の移動として経験されます。建築全体を一枚の正面図で説明することの難しさも、機能を組み合わせた構成に由来します。(参照:バウハウス・デッサウ財団|デッサウ校舎)

ガラスの壁は何を見せたのか

校舎の工房棟では、鉄骨の外側に大きなガラス面が張られています。外から室内の制作活動を感じ取ることができ、内部からは周囲の景色が広く見渡せます。使われた高品質のガラスは景色を反射するため、昼と夜、見る位置によって建物の印象が変わります。

透明な壁は、光を取り入れる機能とともに、開かれた学校というイメージを都市へ伝える役割を担いました。校舎には当時まだ正式な建築科がなかったため、設計はグロピウスの事務所の協力者たちが進めたという事実も、この建築の制作過程を理解するうえで欠かせません。

近づくとガラス面に周囲の樹木や空が映り、遠くから見ると室内の柱や床が重なって見えます。透明な材料がすべてを同じように見せるわけではなく、光や視点によって表情が変わります。ガラスを選ぶこと自体が空間の視覚的な経験を設計する行為でした。(参照:バウハウス・デッサウ財団|デッサウ校舎)

建築の内側――色彩・住宅・共同生活

白い校舎の内部に広がる色彩計画

バウハウスの校舎は、白い外壁と大きなガラス窓の写真で知られています。実際には、ヒンネク・シェーパーらの壁画工房が、廊下、階段、扉、壁に色を与え、空間の使い方や見え方を調整しました。色は建物に後から足す飾りというより、場所を区別し、光や身体の動きを意識させる建築の一部として働いていました。

室内の色彩は、白黒写真だけでは十分に伝わりません。図面、当時の記録、修復された空間を確かめると、バウハウスの建築が幾何学と素材、色彩の総合によって成立していたことが分かります。

階段や廊下の色が変わると、同じ形の壁でも近さや広さの感じ方が変わります。壁画工房の仕事には、平面上の色彩の原理を、実際に歩いて体験する建築へ移す意味がありました。造形教育が建物の中で具体化された部分です。(参照:バウハウス・デッサウ財団|デッサウ校舎)

マイスター住宅に見る新しい暮らし

1925~26年、学校の近くの松林に、教師たちが暮らすマイスター住宅が建設されました。グロピウスの独立住宅と三棟の二世帯住宅は、立方体を組み合わせた外観を持ち、広い窓、テラス、バルコニーが生活空間を外へ広げています。暖房、温水、収納などの設備も、当時の新しい住宅のあり方を示しました。

グロピウスは工業的に作られた部材を使う合理的な建設を目指しましたが、技術上の条件から実現は部分的なものでした。教師たちの住宅は生活の場であると同時に、近代的な暮らしを見せる実験として人々の注目を集めました。(参照:バウハウス・デッサウ財団|マイスター住宅)

学生寮、食堂、舞台が結んだ学校生活

デッサウ校舎には学生用の小部屋が並ぶ寮があり、教師や学生の生活と制作の距離が近くなりました。講堂と食堂の周辺では、舞台公演、講演、祝祭なども開かれます。教室で学んだ色彩や材料の実験が、衣装や照明、飾り付けとして実際の空間へ広がる機会もありました。

写真に残る屋上やバルコニーでの学生の姿は、当時の学校が授業だけで成立していた場所ではなかったことを伝えています。生活と制作が重なる共同体としての経験も、バウハウスの教育を形づくりました。(参照:バウハウス・デッサウ財団|デッサウ校舎、メトロポリタン美術館|バウハウスの写真展)

写真が変えた視覚――モホリ=ナジとルチア・モホリ

モホリ=ナジのフォトグラムと新しい視点

1923年に加わったラースロー・モホリ=ナジは、写真を近代的な造形教育へ積極的に取り入れました。感光紙の上に物体を置いて光を当てるフォトグラムでは、カメラを使わずに透明な物の影や輪郭を記録できます。写真の制作は、目の前の風景を写す行為から、光と物の関係を実験する行為へ広がっていきました。

カメラを使う場合にも、建物を真下から見上げ、屋上から地面を俯瞰し、手や金属の表面を大きく写すなど、見慣れたものが違う形に見える視点を探しました。「新しい視覚」と呼ばれたこの探究は、写真を通して人間の見る経験を広げる試みでした。

透明な物は光を部分的に通し、不透明な物ははっきりした影を残します。配置を変えれば、それまで見えなかった輪郭や重なりが感光紙に記録されます。フォトグラムの実験には、造形を手で描く行為から、光学的な条件を整える行為へ拡張する意味がありました。(参照:バウハウス資料館|写真教育の歴史、メトロポリタン美術館|バウハウスの写真展)

ルチア・モホリが残した学校の姿

ルチア・モホリは、デッサウの校舎、教師住宅、工房製品、教師や学生を精密に撮影した写真家です。建物の水平線や垂直線、ガラスに映る光、家具の輪郭が分かるように考えられた写真は、雑誌や出版物を通してバウハウスの姿を世界へ広めました。今日、学校の建物を思い浮かべる際に頼りにする写真の多くも、彼女の仕事と結びついています。

写真は学校の記録であると同時に、その評価を形づくる表現でした。ルチアの仕事では長く撮影者の名前が十分に知られなかった面があり、現在では彼女自身の作者性を明確にする研究も進んでいます。

写真で建築を紹介するとき、撮影する位置、時間帯、印画紙の調子によって、同じ建物の印象が変わります。ルチア・モホリの精密な写真は、学校を遠方の人々へ知らせる資料であると同時に、近代建築の姿を伝える独自の視覚表現として読むことができます。(参照:バウハウス資料館|写真教育の歴史、ニューヨーク近代美術館|ルチア・モホリ)

1929年に始まった正式な写真教育

写真の実験が広がっていたバウハウスで、正式な写真課程が設けられたのは1929年でした。広告・印刷に関わる部門の中に写真教育が置かれ、ヴァルター・ペーターハンスが担当します。ペーターハンスは物体の質感や形がよく分かる照明、精密なピント、印画の技術を重視しました。

モホリ=ナジの実験的な視覚と、ペーターハンスの厳密な撮影技術は、写真に対する異なる考え方を示しています。写真を専門技術として教えることと、造形の実験として使うことの双方が、バウハウスの歴史に含まれています。(参照:バウハウス資料館|写真教育の歴史)

タイポグラフィと印刷――文字も空間を作る

印刷物を使って学校を伝える

バウハウスは、学校の活動を展覧会や製品だけで伝えたのではありません。ポスター、招待状、雑誌、書籍、製品カタログも重要な媒体でした。文字の大きさ、余白、行の方向、写真との位置関係を考えることで、必要な情報を読み取りやすくしながら、学校の新しい造形観を広く伝えようとしました。

非対称に配置した見出し、太い罫線、写真を組み込むレイアウトなどには、印刷を一つの構成空間として扱う発想が見られます。学校で制作した物を社会へ伝える活動も、デザイン教育の一部になっていきました。(参照:ニューヨーク近代美術館|バウハウス展1919–1933、メトロポリタン美術館|バウハウス1919–1933)

ヘルベルト・バイヤーと小文字の実験

ヘルベルト・バイヤーは学生として学んだ後、デッサウで印刷・広告の仕事を率いました。1925年頃には、大文字を省き小文字を中心とする「ユニバーサル」と呼ばれる文字の構想を進めます。円や直線など簡潔な形を使い、文字の構造を整理する試みでした。

当時のドイツ語表記では大文字の使用が重視されていました。バイヤーは、読むための機能と印刷工程を考え直すことで、従来の習慣に新しい提案を行ったのです。現在よく見る「バウハウス風の書体」は、こうした複数の実験と後世の再解釈から形づくられています。

文字を円や直線から構成すると、似た部品を繰り返し使うことで統一感が生まれます。その反面、文字ごとの読み分けやすさとの調整も必要になります。書体は幾何学的な図柄であると同時に、言葉を正確に届ける道具なのです。(参照:ニューヨーク近代美術館|ヘルベルト・バイヤー、ニューヨーク近代美術館|バウハウス展1919–1933)

写真と文字を組み合わせた新しいグラフィック

モホリ=ナジやバイヤーが手がけた印刷物では、文字と写真が一つの画面上で対等に扱われます。人物や製品の写真は挿絵としてページの隅に置かれるだけでなく、文字と重なりながら視線を誘導する部分になりました。写真の切り取り方や文字の角度によって、読む順序そのものが変化します。

これは新聞、広告、案内表示にも応用できる考え方でした。美術と工芸を結びつける学校の理念が、印刷物を通して情報の伝わり方を設計する領域へ広がった例といえます。(参照:ニューヨーク近代美術館|ヘルベルト・バイヤー、ニューヨーク近代美術館|バウハウス展1919–1933)

舞台と身体――シュレンマーの実験

《トリアディック・バレエ》の衣装が動きを変える

オスカー・シュレンマーの《トリアディック・バレエ》は1922年にシュトゥットガルトで初演され、1923年にはバウハウスでも上演されました。舞台に立つ人物は、球体や円筒、円盤のような硬い形を組み合わせた衣装を身につけています。踊り手の手足の動きは衣装によって制約を受け、その結果、普段の身体では生まれない独特の振付が現れます。

衣装は役柄を説明する飾りから、動作そのものを決める構造物へ変わりました。人体を立体的な形として考え、動く空間の中で色や形がどう変化するかを確かめる試みでした。

球形の衣装は身体を大きく見せ、円盤状の部品は方向転換の際に輪郭を変化させます。硬い材料による衣装は、動作の自由を減らすことで逆に新しい動きの可能性を引き出しました。作品の意味は舞台上の姿と、衣装を着る身体との関係の中にあります。(参照:バウハウス資料館|シュレンマー《トリアディック・バレエ》)

色・形・光が変える舞台空間

シュレンマーの舞台では、衣装の色や体の輪郭が背景と関係し、踊り手が移動するたびに構成が変化します。写真で見たときの幾何学的な形は、実際の上演では回転や重なりによって新しい姿になります。銀色に輝くワイヤーの衣装では、暗い背景の中で身体が消えたように見え、金属の輪が動きの形として浮かび上がります。

絵画や彫刻では固定される色と形が、舞台では時間と身体を通して変化します。バウハウスの総合芸術という理念は、舞台においても具体的な経験になりました。(参照:バウハウス資料館|《トリアディック・バレエ》記録写真、バウハウス資料館|シュレンマー《トリアディック・バレエ》)

学校の祝祭と共同体の文化

学生や教師たちは、仮装、舞台公演、音楽、踊りを組み合わせた祝祭にも参加しました。自分で衣装を設計し、空間を飾り、照明を工夫する活動は、工房で得た技術を共同で使う機会でした。制作した物が観客の動きや光と出会うことで、授業で学んだ理論が現実の体験へ変わります。

祝祭の写真には、近代デザインの堅いイメージとは異なる遊びやユーモアが残されています。そこには、色や形を生活の中で試しながら、教育と共同体を結びつけようとする学校の姿が表れています。(参照:メトロポリタン美術館|バウハウスの写真展、ニューヨーク近代美術館|バウハウス展1919–1933)

ハンネス・マイヤー――社会の必要を設計する

1927年の建築科設立と1928年の校長交代

1927年、バウハウスに正式な建築科が設けられ、スイス出身の建築家ハンネス・マイヤーがその教育を担いました。翌1928年、グロピウスが校長を退くと、マイヤーが二代目校長になります。彼は住宅を必要とする人、建設費、採光、衛生、家族の生活といった条件を分析し、形を導き出す方法を重視しました。

設計者の美的な好みを示す建物から、そこで暮らす人の条件を調べて計画する建物へと、教育の重点が変わります。工房での活動も、実際の社会の需要と結びつけて考えられるようになりました。(参照:バウハウス・デッサウ財団|学校の沿革、バウハウス・デッサウ財団|外廊下式集合住宅)

デッサウ=テルテンの外廊下式集合住宅

1929~30年、マイヤーの指導下でバウハウス建築科が手がけた外廊下式集合住宅では、低い家賃で暮らせる住宅が追究されました。三階建ての住棟の北側には住戸へ入るための廊下が通り、南側の居室には日光が入るように配置されています。各住戸は約48平方メートルで、台所、浴室、トイレなど必要な設備がコンパクトに収められていました。

共同の洗濯施設や庭、子どもの遊び場も計画され、住宅を建物一棟で完結するものと考えず、近隣の暮らしと結びつけて設計しています。デッサウ財団は、この建築を授業と実際の建設が結びついた代表的な成果として位置づけています。

外廊下は住戸へ入るための通路であると同時に、住人が顔を合わせる半公共の場所にもなりました。南に居室を向け、北側へ設備や通路を集める配置は、少ない面積で光と生活の両方を確保しようとする判断です。住宅の形が暮らしの仕組みを決めています。(参照:バウハウス・デッサウ財団|外廊下式集合住宅)

ベルナウの労働組合学校と共同設計

マイヤーとハンス・ヴィットヴァーらが設計したベルナウの労働組合学校は、1928~30年に建設された、教育と宿泊を組み合わせた建築です。斜面に沿った建物の配置、授業室や宿泊室への採光、共同生活の動線が検討され、建物全体が利用者の活動に応じて構成されました。

この学校とデッサウの外廊下式住宅は、現在ユネスコ世界遺産に含まれています。美術館で展示される椅子や照明とともに、働く人々の教育や住まいに向けた建築も、バウハウスの大切な成果だったことを示しています。

労働組合のための学校では、多くの人が同じ時間に学び、食事をし、休息することが想定されます。個人住宅とは違う集団生活の条件が、教室、宿泊室、食堂の配置を考える基準になりました。建築を社会的な活動のための仕組みとして扱うマイヤーの姿勢がよく表れています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ヴァイマール、デッサウ、ベルナウのバウハウス、バウハウス・デッサウ財団|外廊下式集合住宅)

ミース時代――専門化と政治的な危機

1930年、ミース・ファン・デル・ローエが就任

1930年、マイヤーが校長を解任された後、ミース・ファン・デル・ローエが三代目校長に就任しました。マイヤー時代には学生の政治活動や学校の方針をめぐって対立が激しくなっており、ミースは規律を強め、学校を政治的衝突から距離のある場所へ戻そうとしました。教育面では建築を中心に据え、工房をその補助となる方向へ整理していきます。

1920年代初めに学校を特徴づけていた予備課程も縮小され、1932年には廃止されました。14年間という短い歴史の中で、教育制度そのものが大きく変化したことが分かります。(参照:バウハウス・デッサウ財団|学校の沿革)

1932年、デッサウ市議会が閉校を決める

1929年の世界恐慌以後、ドイツの経済不安と政治的な分断はさらに深まりました。デッサウでは国家社会主義ドイツ労働者党が勢力を強め、国際的な前衛教育を行うバウハウスへの攻撃を続けます。1932年8月22日、市議会は同党の要求を受け、10月1日付で学校を閉鎖する決議を行いました。

学校の教育内容や建物が突然機能を失ったために起きた出来事ではありません。近代美術、教育制度、公的予算が政治の争点となり、自治体の決定が学校の存続を左右しました。

1925年には学校を歓迎したデッサウ市が、1932年には閉校を決めました。同じ都市でも政権や予算、文化政策が変われば、教育機関を取り巻く条件も変わります。バウハウスの歴史は、前衛美術が社会の制度と密接に結びついていたことを示しています。(参照:バウハウス・デッサウ財団|学校の沿革)

ベルリンでの再開と1933年の解散

ミースは学校をベルリンのシュテーグリッツにある旧工場へ移し、私立の教育機関として再開しました。製品の使用許諾による収入などを資金に、限られた条件で教育を続けようとしたのです。1933年4月11日、ゲシュタポが建物を捜索・封鎖し、学校の活動は大きく制約されました。

交渉が続く中、教員たちは同年7月20日に学校の解散を決定します。1919年に生まれた教育実験は、ヴァイマール共和国の終焉と重なる時期に幕を閉じました。(参照:バウハウス・デッサウ財団|学校の沿革)

閉校後の広がり――何が世界に残ったのか

教師と学生が各地に持ち出した教育方法

1933年以後、バウハウスで学び、教えた人々の一部は国外で活動を続けます。ヨーゼフ・アルバースはアメリカのブラック・マウンテン・カレッジで色や素材の教育を深め、モホリ=ナジは1937年にシカゴでニュー・バウハウスを開きました。グロピウスはアメリカの建築教育へ、ミースはシカゴの建築教育へと影響を広げます。

その際、学校の形がそのまま別の国へ移されたわけではありません。各地の学生、産業、社会条件に合わせて授業が変化し、バウハウスの方法が新しい教育の中に受け継がれていきました。

アメリカの学校で行われた材料実験や色彩の授業は、ドイツ時代の制度を単に繰り返す形にはなりませんでした。新しい土地の産業、言語、学生の経験が加わり、教育方法自体も変わっていきます。バウハウスの影響は、一つの固定した様式が普及したこと以上に、学び方が変化しながら広がったことにあります。(参照:バウハウス資料館|1933年以降の活動)

バウハウスの家具・書体・写真をどう見るか

現在、バウハウスの名から鋼管の椅子、ガラスの校舎、簡潔な書体を思い浮かべる人は多いでしょう。そこにはブロイヤーの構造実験、バイヤーの文字の研究、ルチア・モホリの撮影、工房での材料の試行錯誤が積み重なっています。歴史的な製品と後世の復刻品を区別することも、当時の制作を理解する助けになります。

作られた形には、それを可能にした授業、工房、企業との協働がありました。デザインを見た目の特徴だけで覚えるより、素材と社会に向き合った制作過程を読むことで、バウハウスの成果を立体的に理解できます。(参照:メトロポリタン美術館|バウハウス1919–1933、ニューヨーク近代美術館|バウハウス展1919–1933)

20世紀美術史に残した最大の変化

バウハウスは、絵画、彫刻、家具、照明、織物、写真、印刷、舞台、建築を教育の中でつなげ、制作と使用の両方から形を考える環境を生み出しました。学校に集まった教師と学生の考え方は多様で、社会的理想と製品の価格、男女の機会、学校の自立と政治的圧力など、さまざまな課題も抱えていました。

それでも、素材を試し、形を分析し、他の専門家と制作し、生活の中で確かめるという考え方は、20世紀の造形教育を大きく変えました。バウハウスの歴史は、現代の美術とデザインがどのように社会の活動へ広がっていったかを知るための重要な手がかりになります。(参照:ニューヨーク近代美術館|バウハウス展1919–1933、バウハウス資料館|1933年以降の活動)

主要年表

  1. 1919年4月 ヴァルター・グロピウスがヴァイマールに国立バウハウスを創設。
  2. 1919年 ファイニンガー《大聖堂》を表紙にした創設宣言が発表される。
  3. 1919年 ヨハネス・イッテンらが予備課程を発展させる。
  4. 1920年 パウル・クレーが教員として招かれる。
  5. 1921年頃 テオ・ファン・ドゥースブルフがヴァイマールで活動し、デ・ステイルの理念を紹介。
  6. 1922年 ワシリー・カンディンスキーが教員に加わる。
  7. 1922年 オスカー・シュレンマーの《トリアディック・バレエ》がシュトゥットガルトで初演される。
  8. 1923年 「芸術と技術、新たな統一」の方向が打ち出される。
  9. 1923年 ヴァイマールのバウハウス大展覧会で実験住宅《ハウス・アム・ホルン》を公開。
  10. 1923年 イッテンが退任し、モホリ=ナジが参加。
  11. 1924年 マリアンネ・ブラントの金属器、ヴァーゲンフェルトらの卓上ランプが制作される。
  12. 1924年12月 ヴァイマールのバウハウスが活動終了を宣言。
  13. 1925年 デッサウへ移転し、工業的な試作と製品開発を強める。
  14. 1925年頃 マルセル・ブロイヤーが鋼管家具《B3クラブチェア》の初期案を制作。
  15. 1926年12月4日 グロピウスの事務所が設計したデッサウ校舎が開校。
  16. 1927年 バウハウスに正式な建築科が設置される。
  17. 1927年 グンタ・シュテルツルが女性初の正式なマイスターとなる。
  18. 1928年 グロピウス退任、ハンネス・マイヤーが第二代校長に就任。
  19. 1929年 ヴァルター・ペーターハンスによる正式な写真教育が始まる。
  20. 1929~1930年 マイヤー指導のもとデッサウ=テルテンの外廊下式集合住宅が建設される。
  21. 1930年 マイヤーが解任され、ミース・ファン・デル・ローエが第三代校長となる。
  22. 1932年8月22日 デッサウ市議会が10月1日付の学校閉鎖を決定。
  23. 1932年 ミースがベルリンで私立学校として活動を再開。
  24. 1933年4月11日 ベルリン校がゲシュタポの捜索・封鎖を受ける。
  25. 1933年7月20日 教員たちがバウハウスの解散を決定。
  26. 1937年 モホリ=ナジがシカゴでニュー・バウハウスを開く。

まとめ――14年間の学校が残したもの

バウハウスが1919年に掲げたのは、芸術家と職人が共同で制作する新しい教育でした。学校はヴァイマールで材料と形の基礎を学び、デッサウで工業生産、写真、印刷、家具、建築へと活動を広げました。クレーとカンディンスキーの授業、ブラントの金属器、シュテルツルらの織物、ブロイヤーの鋼管椅子、シュレンマーの舞台は、それぞれ異なる造形の方法を示しています。

ハンネス・マイヤーの集合住宅では、低い家賃で暮らす人の生活条件が設計の中心に置かれました。女性たちの工房での仕事や、写真家ルチア・モホリが残した記録にも、学校の歴史を支えた重要な成果があります。政治の変化によって学校は1933年に活動を終えましたが、教師と学生は各地で学びの方法を発展させていきました。材料を試し、形を分析し、異なる専門家と協力して生活を作る。その考え方が、バウハウスから現在へと続く大きな遺産です。

参考資料・出典

本記事は、バウハウス・デッサウ財団、バウハウス資料館、ヴァイマール古典財団、ニューヨーク近代美術館、メトロポリタン美術館、ユネスコ世界遺産センターなどが公開する資料を確認し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆したものです。

資料確認日:2026年10月13日 / ART LIBRARY