1977–1985
ドイツ、イタリア、アメリカで新しい絵画が次々と登場する
新表現主義の国際的な台頭
1970年代の終わり頃、ドイツ、イタリア、アメリカの美術館や画廊で、大きな絵画が次々と注目を集め始めました。人物が上下逆さまに描かれた画面、荒れた土地や戦争の記憶を思わせる風景、鮮やかな色彩に包まれた神話的な人物像、文字や記号が入り乱れる都市の絵画。作品の姿はさまざまですが、人間の姿や物語、絵の具を扱う身体的な行為に、改めて関心が集まっていました。こうした国際的な動向は、広い意味で「新表現主義」と呼ばれるようになります。
なぜ、絵画が再び大きな話題になったのでしょうか。1960年代から1970年代にかけて、芸術家たちは絵画や彫刻の枠を越えて、写真、映像、言葉、行為、日常の物などを作品に取り入れていました。作品の完成形より考え方を重視する概念芸術も広がり、従来の絵画が現代美術の中心であり続ける必要はなくなっていました。そのような状況で、改めて絵を描くことを選ぶ芸術家たちが現れたのです。
ドイツでは、ゲオルク・バゼリッツやアンゼルム・キーファーが戦後社会の歴史と向き合いながら独自の制作を続け、1970年代末には西ベルリンやケルンの若い画家たちが激しい色彩と筆づかいで都市の生活を描き始めました。イタリアでは、サンドロ・キアやフランチェスコ・クレメンテらが古典美術、神話、夢のイメージを自由に取り込みました。絵画へ向かう理由は、国や作家によって異なっていました。
アメリカでも変化が起きます。ジュリアン・シュナーベルは割れた陶器の上に絵の具を重ね、ジャン=ミシェル・バスキアは人物や文字、黒人の歴史、都市の文化を一枚の画面に組み合わせました。スーザン・ローテンバーグは単純化された馬の形を描きながら、抽象絵画と具象絵画の関係を探りました。写真や広告のイメージを引用するデイヴィッド・サーレのように、同時代のピクチャーズ世代と重なる作家もいました。
この変化を世界へ知らせたのが、大規模な展覧会です。1980年のヴェネツィア・ビエンナーレ、1981年のロンドン《A New Spirit in Painting》展、1982年のベルリン《Zeitgeist》展、同年のドクメンタ7などで、多様な絵画が国境を越えて並べられました。批評家や画廊、美術市場も新しい絵画へ注目し、若い芸術家が短期間で国際的に知られる例が増えていきます。
「新表現主義」という言葉は、これらすべての作家が同じ考えで活動していたことを意味しません。ドイツの若い画家たちには独自の集まりがあり、イタリアでは「トランスアヴァングアルディア」という名称が生まれました。バゼリッツやキーファーは、1980年代に突然活動を始めたわけでもありません。それぞれの地域で積み重ねられた制作が国際展で出会い、美術史の中で一つの大きな動向として捉えられるようになったのです。
本記事では1977年から1985年を中心に、18の章で新表現主義の国際的な台頭をたどります。まずそれぞれの地域で何が起きたのかを確認し、代表作の姿や制作方法、作品に込められた歴史的な問題を詳しく見ていきます。あわせて、絵画が再び注目された背景にある展覧会、批評、画廊の役割を考えます。大胆な絵画が生まれた時代を知ることは、現代美術の中で絵を描くことがどのような意味を持つのかを考える手がかりになります。
CONTENTS
- 1970年代末、なぜ絵画が再び注目されたのか
- 1960年代から続いていた絵画の実験
- 1977年、西ベルリンに若い画家たちの拠点が生まれる
- 西ドイツに広がる「激しい絵画」と新しい世代
- 1978年ニューヨーク、「下手な絵画」という挑戦
- 1979年、イタリアでトランスアヴァングアルディアが語られる
- イタリアの画家たちは何を描いたのか
- トランスアヴァングアルディアが示した表現の幅
- 1980年、ヴェネツィアでドイツの絵画が論争を起こす
- アンゼルム・キーファーの絵画に刻まれた歴史
- 1980年の《Aperto 80》が生み出した国際的な舞台
- 1981年、ロンドンが絵画の新しい時代を示す
- ジュリアン・シュナーベルは絵画の表面を変えた
- バスキアの絵画に重なる都市、言葉、黒人の歴史
- アメリカの絵画はひとつの方向へ進んだのか
- 1982年、ベルリンとカッセルで国際的な評価が広がる
- 画廊、美術市場、批評が絵画の評価を変える
- 1985年までに何が変わり、その後へ何が残ったのか
- 略年表
- まとめ — 新表現主義の国際的な台頭が残したもの
- 参考資料・出典
1970年代末、なぜ絵画が再び注目されたのか
新表現主義という名称が指すもの
新表現主義は、1970年代末から1980年代前半にかけて広く注目された、人物や物語を扱う大胆な絵画の動きを説明するための名称です。大きな画面、強い色彩、絵の具を塗った痕跡、歴史や神話への関心などに共通点が見られます。美術館の展示室で並べると、絵を描く行為が新たな存在感を獲得したことが伝わってきます。古くからある絵画の形式が、同時代の新しい問題を受け止める場として使われました。
当時の作家が全員この名称を名乗っていたわけではありません。ドイツでは若い画家たちの激しい絵画、イタリアではトランスアヴァングアルディア、アメリカでは具象絵画の再評価など、別々の言葉と経緯がありました。後に国際展や美術史研究で比較されることによって、似た時期の変化を一つの視野に収められるようになります。本記事では名称の便利さを活かし、各作家が向き合っていた固有の問題も確かめていきます。(参照:ホイットニー美術館|1980年代の絵画)
ミニマリズムと概念芸術を経た時代
1960年代にはミニマリズムが彫刻の単純な形と鑑賞する空間の関係を追究し、概念芸術は作品の考え方や記述を重視しました。70年代には写真、映像、パフォーマンス、インスタレーションへ表現がさらに広がり、絵画を作るという選択は多くの可能性の一つになりました。新しい世代の画家は、そのような状況を学んでから、大きな画面や手による描写に取り組んでいます。
例えば、同じ1977年にニューヨークで開催された《Pictures》展は、すでに存在するイメージを新しい文脈へ移す方法へ注目を集めました。その頃ベルリンでは、手で絵の具を扱う若い画家が共同で展示場所を作っています。この二つの出来事は、ひとつの新様式が別の新様式に置き換わったという図式を越え、現代美術の選択肢が同時に増えていたことを示します。絵画と写真、引用と制作を対立させるより、画家がどの方法を組み合わせたのかを調べることが大切です。
例えばデイヴィッド・サーレは、写真の断片を参照しながら人物や物を描き、画面の中に異なる場面を重ねました。完成したものは絵画でも、イメージの選択や配置には概念芸術の考え方が生きています。1970年代末の変化は、絵画がほかの表現方法と関わる領域を広げた過程として理解できます。絵筆を持ち直すことは、過去の美術に戻る単純な行為ではなく、何を絵画へ持ち込めるかという新しい問いになったのです。(参照:ホイットニー美術館|デイヴィッド・サーレ)
「絵画の復活」という言葉の背景
1980年代初頭には、美術雑誌や展覧会で絵画が再び大きな話題になりました。画廊では大画面の作品が注目され、収集家や美術館の関心も高まります。その急激な変化を表すため、当時から「絵画の復活」という言い方が広まりました。ホイットニー美術館の研究展も、この時期に写真や映像が広がる中で、多くの芸術家が絵画の物質感や表現力を積極的に選んだ状況を振り返っています。
実際には1970年代にも絵画は継続して制作されていました。ゲルハルト・リヒター、ジグマー・ポルケ、フィリップ・ガストンらは、絵画の可能性をそれぞれの方法で探っていました。急変したのは、とりわけその受け止められ方です。絵画の新しいイメージが国際展に並び、若い作家の名前が短期間で広がったことが、時代の印象を作りました。制作の歴史と評価の歴史を分けて見ると、この時期の実像が分かりやすくなります。(参照:ホイットニー美術館|1980年代の絵画)
1960年代から続いていた絵画の実験
フィリップ・ガストンが1970年に描き始めた世界
フィリップ・ガストンは1950年代に抽象表現主義の画家として知られました。1970年にニューヨークのマールボロ画廊で発表したのは、靴や煙草、電球、フードをかぶった人物が登場する、漫画のような形態を持つ絵画でした。滑らかな抽象画に親しんでいた人々にとって、その変化は大きな驚きでした。抽象の色面の代わりに、使い古された日用品や人間の不安が大きな画面を占めるようになったのです。
メトロポリタン美術館所蔵の《Stationary Figure》(1973年)では、薄暗い室内で煙草をくわえた人物が横たわり、時計や電球が周囲に置かれています。画面は単純な形と重い筆触からなり、眠れない夜の感覚が伝わります。ガストンの転換は、人物や物語を絵に戻す際に、従来の写実的な描写へ進む必要がないことを示しました。後に登場する若い画家たちが見つけた自由の一つを、先に開いていたと考えられます。(参照:メトロポリタン美術館|フィリップ・ガストン《Stationary Figure》)
バゼリッツが人物を逆さまに描いた理由
ゲオルク・バゼリッツは1960年代から、戦後ドイツで人物や風景を描き続けていました。1969年、肖像や風景を上下逆さまに描く方法へ踏み出します。人間の顔や身体は確かに見えるのに、通常の向きで見るときのようには意味を捉えにくくなります。鑑賞者の目は、誰を描いたかという話から、色の重なりや筆づかい、絵画の構図へ向かいます。
後年の作品《Adler im Fenster(窓辺の鷲)》(1982年)では、窓辺の黄色い鷲と叫ぶような人物が、荒い筆触の画面に描かれています。メトロポリタン美術館の所蔵解説によると、彼はこの作品も上下逆さまに描き、内容の説明より画面構成や絵の具の表面へ注意を向けようとしました。逆転が一時的な思いつきではなく、作家の長い制作を支える方法だったことが分かります。そうした継続性を知ると、1980年代に初めて生まれた運動として彼を扱うことの難しさも理解できます。
メトロポリタン美術館は1969年の肖像画群について、バゼリッツが物語や感情の直接的な表現を抑え、絵画そのものへ関心を向けるために像を反転させたと説明しています。この事実は「新表現主義」の理解を深めます。画面が激しく見えることと、画家が感情をそのまま放出しようとしていることは必ずしも一致しません。バゼリッツにとって逆転は、具象画の慣習を揺さぶる理性的な手続きでもあったのです。(参照:メトロポリタン美術館|バゼリッツの転換点)
スーザン・ローテンバーグと馬の絵
スーザン・ローテンバーグは1974年頃から、単純化した馬の輪郭をキャンバスに描き始めました。馬は誰でも見分けやすい動物ですが、画面は背景も馬の身体も平坦な筆触で構成され、自然な奥行きはほとんどありません。具象的な形が、抽象画の構成要素にも見えてきます。彼女は物語の登場人物として馬を描くのではなく、絵画の中で線や面がどう成立するかを探っていました。
《For the Light》(1978–79年)では、大きな馬が正面からこちらへ向かってくるように描かれ、頭部から白い骨のような形が下へ伸びています。ホイットニー美術館は、この不可思議な形が作家の描く過程から生まれたものであり、内省的な意味も持つと説明します。動物を描くことが新鮮な表現となり、平面性の実験と個人的な感覚が同じ画面で結びつきました。(参照:ホイットニー美術館|ローテンバーグ《For the Light》)
1977年、西ベルリンに若い画家たちの拠点が生まれる
画家たちが共同で開いたモーリッツ広場の画廊
1977年、西ベルリンではライナー・フェッティング、サロメ、ヘルムート・ミッデンドルフらが、モーリッツ広場の画廊を活動の拠点としました。若い画家が自分たちで展覧会を企画し、作品を発表する場所です。美術界から評価を受けるのを待つより、制作と発表の場を自ら作る姿勢がありました。画廊は作品を売るためだけの場所ではなく、仲間と考えを交わし、同時代の都市文化と接する場として機能しました。
シュテーデル美術館の作家資料は、フェッティングのほかベルント・ツィマーらがこの活動に関わったことを記録しています。後に「若い野獣派」と呼ばれる画家たちにとって、こうした自主的な画廊の存在は重要でした。戦前のドイツ表現主義を懐かしむ場というより、壁によって分断されたベルリンで、彼ら自身の日常を描き出す実験の場所だったのです。(参照:シュテーデル美術館|ライナー・フェッティング)
フェッティング《最初の壁の絵》の人工的な色彩
フェッティングの《最初の壁の絵》(1977年)には、夜のベルリンを思わせる建物と、街を区切る壁が描かれています。黄色い空と紫がかった壁という不自然な配色、鋭い影、窓からの光が強い緊張を作ります。作品は160センチ×190センチのテンペラ画で、作者が当時暮らしていた壁の近くの風景をもとにしています。シュテーデル美術館は、この画面を分断都市で暮らす感覚の寓意として紹介しています。
この作品は現在、シュテーデル美術館の所蔵作品として確認できます。同館の記録には1977年の制作年と、2010年に作家から寄贈された来歴が掲載されています。制作当時、分断された街の感覚を担った画面が、数十年を経て美術館で保存・展示される対象になったわけです。描かれた壁は歴史上の出来事となり、かつての日常の切実さは資料による説明とともに読み直されます。作品そのものの視覚的な強さと、時代を越えた受け止め方の変化を考えられる好例です。
ここでは壁はニュース写真の背景として登場するだけでなく、視界をふさぐ巨大な平面として画面に立ちはだかります。現実の政治的な境界線が、絵画では色や形の強い構成に変わっています。荒々しい色彩を用いながら、何を描いたのかという主題がはっきりしている点が重要です。新表現主義的な外見の奥に、生活する都市への具体的な反応が見えてきます。(参照:シュテーデル美術館|フェッティング《最初の壁の絵》)
絵画、音楽、映画が近づく都市の文化
西ベルリンの若い画家たちは、当時の音楽や映画、夜の街の文化とも近い場所にいました。ミッデンドルフやフェッティングの作品には、都市の照明、身体の姿勢、人物の動きが鋭い色彩で取り込まれています。古い表現主義の作品と似ている部分はあっても、実際の制作を刺激していたのは1970年代末の街の空気でした。素早く描かれたように見える像にも、現代的な生活のリズムが現れています。
シュテーデル美術館の研究では、ベルリン、ハンブルク、ラインラントで異なる理由から具象画が活性化したことが強調されています。同じ「激しい絵画」という呼び名で広まっても、活動した場所や仲間、発表方法によって作品の姿は変わりました。西ベルリンの場合には、若者が自主的に展示する場所を持ち、分断都市の日常を自分たちの絵画へ変えたことに重要な意味があります。(参照:シュテーデル美術館|1980年代西ドイツの具象絵画)
西ドイツに広がる「激しい絵画」と新しい世代
1980年の《激しい絵画》展
1980年、西ベルリンのハウス・アム・ヴァルトゼーでは《Heftige Malerei(激しい絵画)》展が開かれました。モーリッツ広場で活動していた若い画家たちが、具象と大胆な筆触を使った作品を紹介した重要な機会です。「激しい」という言葉は画面の勢いを示すとともに、何を絵画に描いてよいのかという自由な態度も伝えました。鮮やかな色と歪んだ形は、日常の風景をそのまま描き写す方法とは異なる都市の現実を示します。
この動きは後に「新しい野獣派」などの名称でも紹介されました。シュテーデル美術館は、若い画家の登場以前から活動していたバゼリッツやリヒター、ポルケを先駆的な世代として区別しています。新しい画家たちはそうした先行者の作品を知りながら、都市で暮らす自分たちの感覚から絵画を組み立てました。作品の大きさや筆触に共通点があっても、作家の世代と活動歴を確認することが大切です。(参照:シュテーデル美術館|若い画家たちの活動)
ケルンの共同アトリエ「ミュールハイマー・フライハイト」
西ドイツのケルンでは1980年、ヴァルター・ダーン、イジー・ゲオルク・ドコピル、ペーター・ベンメルスら6人が、ミュールハイマー・フライハイト通りに共同アトリエを構えました。道路の名前がそのまま集団の呼び名になります。制作場所を共有することで、互いの作品への反応や日々の会話が絵画に入り込みました。美術館の展示室では同じ一群に見える絵も、その成立には共同作業や地域の場が深く関係しています。
ヴァルター・ダーンが1981年に描いた仲間の姿は、グループの名前が後世に記憶されるうえでも興味深い作品です。仲間たちが共用したアトリエは、展覧会場へ出品するための作品を制作する場所であると同時に、人間関係そのものが形成される場でした。公式資料に残る制作の経緯からは、画家の集まりが宣言文で始まる例ばかりではないことが分かります。互いの絵への反応や日常的な会話の蓄積が、結果として美術史で一つの集団として語られることもあるのです。
ダーンの《ミュールハイマー・フライハイトの誕生》(1981年)は、この集まりの仲間を画面に描いた作品です。シュテーデル美術館は、彼らがありふれた事物や文化産業の話題を取り込み、意図的に稚拙に見える描法も使ったと説明しています。巧みに仕上げた絵を競うより、絵画の中に失敗や奇妙な形を残すことを選びました。共同アトリエは、そうした試行錯誤を続けるための具体的な場所だったのです。(参照:シュテーデル美術館|若い画家たちの活動)
わざと不器用に見せる描き方の意味
ケルンやハンブルクの若い画家たちは、ときに形の整わない人物や不格好な物体を描きました。画面に絵の具の跡を残し、背景の処理を不均一にし、日常的で取るに足りないと思われていた場面を大きな絵にすることもありました。見る人は、画家に期待する熟練や「よい趣味」の基準が通用しないことに気づきます。意図的な不器用さは、確立した技巧と権威を揺さぶる方法として機能しました。
こうした作品は単なる勢い任せの制作とは異なる側面を持っています。芸術家たちは既存の美術史を知り、その期待を外す方法として俗っぽい図像や冗談、安っぽさを選びました。シュテーデル美術館が紹介するアルベルト・エーレンらの展開にも、過去の絵画や当時の文化に対する皮肉が含まれます。「野性的」に見える画面の裏に、絵画が何を価値あるものとするかを問い直す知的な操作があったのです。(参照:シュテーデル美術館|1980年代西ドイツの具象絵画)
1978年ニューヨーク、「下手な絵画」という挑戦
ニュー・ミュージアムの《バッド・ペインティング》展
1978年1月14日から2月28日まで、ニューヨークのニュー・ミュージアムで《“Bad” Painting》展が開催されました。企画したのは館長のマーシャ・タッカーです。全米各地から集められた14人の作家が、伝統的な素描や美しい仕上げの規範から離れた人物画などを出品しました。展示にはジョーン・ブラウン、ジュディス・リナレス、ニール・ジェニー、ウィリアム・ウェグマンらが参加しています。
展覧会の公式図録は40ページの冊子として刊行され、参加作家の言葉やマーシャ・タッカーの文章を収録しています。当時の美術館が何を新しく見ていたのかを知るうえで、作品写真だけでなく、このような文章資料も役に立ちます。画家が自分の作品をどのように説明したか、企画者が何を展示の共通項と考えたかを比較できるからです。《バッド・ペインティング》は後世の便利な分類名で一括する前に、1978年という具体的な時点で何が評価されたのかを考えるための資料を残しています。
この展覧会は後の新表現主義と同じ作家を集めた企画ではありません。1970年代末に、絵画の形や題材への考え方が変わり始めていたことを示す重要な出来事です。ニュー・ミュージアムの記録では、歴史的な美術の引用と大衆文化、俗っぽさ、個人的な空想が自由に混ざる作品が紹介されています。そこから、よい絵画はどのように描かれるべきかという前提が揺らぎ始めます。(参照:ニュー・ミュージアム|《バッド・ペインティング》1978年)
なぜ「下手」という言葉を使ったのか
展覧会名の「バッド」は、作品の質が悪いという意味で付けられたものではありません。タッカーは、デッサンの正確さや洗練された趣味を当然の評価基準とする考えを、皮肉を込めて問い直しました。人物が不自然に変形していても、荒い輪郭や奇妙な色が作者の世界観をよく示すことがあります。従来の基準では欠点に見える性質が、表現上の強みになる可能性を提示したのです。
公式記録には、高尚な美術と大衆的なイメージを混ぜ、幻想的で時に不穏な内容を描く作家の姿が残されています。絵画は上手に対象を再現する技術だけで価値を判断できるのでしょうか。1978年のこの展覧会は、のちにドイツでも見られる意図的な不器用さや、アメリカで広がる絵画の多様性を理解する前段階になります。具象絵画を制作すること自体が、多くの違った方法を選べる行為になっていました。(参照:ニュー・ミュージアム|《バッド・ペインティング》図録)
進歩を一本の線で捉える美術史への疑問
タッカーの展覧会資料には、過去の様式や大衆的な題材を自由に組み合わせる態度が、美術の進歩を一方向に考える見方への疑問と結びつけて説明されています。例えば、ある芸術様式の次にはそれを乗り越える新しい様式が登場しなければならないという考え方です。画家が自分の好む歴史上の形式を使い直せるなら、その順番に従う必要は薄れていきます。
パターン&デコレーションも工芸や装飾の価値を再検討し、同じ頃に別の問題を提起していました。こうした動向が並ぶ1970年代末には、進歩や純粋な形式という考えに代わって、異なる文化や時代を参照する制作が活発になります。新表現主義に分類される作品の多くにも、過去の絵画や神話の断片を自由に扱う姿勢があります。後のポストモダン美術につながる重要な変化です。(参照:ニュー・ミュージアム|《バッド・ペインティング》1978年)
1979年、イタリアでトランスアヴァングアルディアが語られる
ボニート・オリーヴァが示した新しい名称
1979年、イタリアの批評家アキーレ・ボニート・オリーヴァは『Flash Art』誌に「La Trans-avanguardia italiana」を発表しました。彼は、前衛芸術が新しい様式を次々に生み出して進歩するという歴史観を検討し、画家が複数の時代や文化を自由に行き来する姿勢を論じます。「トランスアヴァングアルディア」は、前衛を横断するという意味を持つ言葉です。
原文には、芸術家が過去の様式へ自由に出入りするという発想が示され、絵画を楽しむことや素材に触れることへの関心が述べられています。同時に、前衛芸術を一方向の発展として整理する考えへの批判も展開されます。これは単なる「昔の絵が好きになった」という説明よりも広い意味を持ちます。歴史上の様式を一度きりの段階と見なす代わりに、現在の作家が使える可能性として開くこと。絵画に登場する古典的な形や神話が、当時新鮮なものとして受け止められた背景です。
その論考では、絵画の素材に触れる行為や作る喜び、イメージを自由に生み出す力が強調されました。計画を先に完全に決める制作から、描きながら予想外の形に出会う制作へ関心を移す発想も見られます。ボニート・オリーヴァの文章は美術史の一般論を述べるだけでなく、当時活動する作家の絵画を紹介し、国際的に理解するための名称を与えました。(参照:『Flash Art』|ボニート・オリーヴァの1979年論考)
批評家が美術運動を形づくる仕組み
トランスアヴァングアルディアの成立には、批評家による命名と展覧会の企画が強く関わっています。作家たちはそれぞれ独立した作品を制作していました。そこにボニート・オリーヴァが共通する傾向を見いだし、文章や紹介を重ねることで、美術運動としての輪郭が明確になりました。1979年の論考が、翌1980年のヴェネツィア・ビエンナーレにつながっていく流れは、その作用をよく示します。
読者にとって美術運動の名前は便利な案内になります。名前ができると、ばらばらに見えていた作品を比較しやすくなり、出版や展覧会で広く紹介できます。その過程で、似ている部分が強調され、違いが見えにくくなる場合もあります。イタリアの5人の画家をひとまとめに理解する前に、批評家が何を見出し、各作家が実際にどのような作品を作ったのかを分けて確かめる必要があります。(参照:『Flash Art』|トランスアヴァングアルディア再録資料)
古典美術と現代のイメージを行き来する
イタリアの若い画家たちは、人物、神話、寓話、抽象的な模様などを自由に描きました。ルネサンスや古代美術を思わせる形を採用することもあれば、夢のような人物像や現代的な記号を同じ画面へ取り入れる場合もありました。過去の美術を歴史資料として保存するだけでなく、現在の絵画を作るための素材として扱ったのです。
ボニート・オリーヴァの論考が興味深いのは、画家が一つの様式に一生忠実である必要を重視していないことです。絵を描く人は別の時代の表現へ自由に触れ、それらを自分の画面で組み替えることができます。この態度は西ドイツの若い画家たちの都市的な表現とも、アメリカの広告写真の引用とも異なる歴史を持っています。イタリアで生まれた動きとして捉えると、作品への理解が深まります。(参照:『Flash Art』|ボニート・オリーヴァの1979年論考)
イタリアの画家たちは何を描いたのか
サンドロ・キアと力強い人物像
サンドロ・キアの作品には、大きな身体を持つ人物や、寓話の一場面のような情景が登場します。形を強調された人物は古典的な絵画や彫刻を連想させ、色彩や姿勢には誇張が加えられています。1981年の版画《Courageous Boy》にも、人物を一つの象徴的なイメージへ変える関心を見ることができます。物語の詳しい前後を知らなくても、身体の姿や画面の動きそのものが鑑賞者へ働きかけます。
版画《Courageous Boy》は、1981年のエッチングとアクアチントによる作品としてメトロポリタン美術館に記録されています。こうした版画の存在も、キアの人物表現を理解する際に重要です。描かれる身体の勢いは、大きな油彩の画面だけに依存して生まれるものではありません。小さな版に線と濃淡を刻む方法でも、人物の誇張や寓話的な雰囲気を作ることができます。同じ主題が媒体によってどのように変わるかを考えると、運動の視覚的な豊かさが見えてきます。
キアの絵画は、1970年代に注目された素材の実験や概念芸術の方法とは違った仕方で、画面を豊かなイメージで満たします。古い絵画の人物像を思わせる点がありながら、現在の作家が自由に形を使い直した独特の印象を持ちます。版画や素描を含む制作の幅も重要です。イタリアの運動が単に巨大な油彩画を増やした出来事ではなく、多様な技法でイメージを扱う実践だったことを示しています。(参照:メトロポリタン美術館|サンドロ・キア《Courageous Boy》)
フランチェスコ・クレメンテの身体と変容
フランチェスコ・クレメンテは、人間の身体、顔、手、夢を思わせる像を繰り返し描きました。人物の輪郭は実際の解剖学に従うとは限らず、身体が植物や別の物質へ移り変わるような画面も生まれます。薄い色彩の重なりや水彩のような繊細な表現もあり、「荒い筆づかい」という新表現主義の一般的なイメージでは捉えにくい作家です。絵画を通して自己や身体の感覚が変わる過程に関心を寄せています。
グッゲンハイム美術館は、クレメンテが関わったトランスアヴァングアルディアを、1980年前後に起きた国際的な絵画の再評価と結びつけて紹介しています。その背景にはイタリアの美術史のほか、作家が接した異なる文化への関心があります。鑑賞者は一つの物語を読み解くというより、身体の姿と象徴の組み合わせをたどります。同じイタリアの集団に属していても、キアの記念碑的な人物像とは異なる絵画の世界が広がっています。(参照:グッゲンハイム美術館|クレメンテと絵画の再評価)
エンツォ・クッキの土地と不穏な象徴
エンツォ・クッキは、人間の身体、動物、火や土地を思わせる形を用い、強い明暗や記号的な構成を持つ絵画を制作しました。形は物語を正確に再現するために置かれているというより、死や移動、土地の記憶などを連想させるものとして現れます。画面には物語が始まる気配がありながら、その結末ははっきり示されません。鑑賞者は人物や風景の断片を、自分の経験とも結びつけて見ることになります。
クッキも1980年の《Aperto 80》で国際的に紹介された中心作家の一人でした。ビエンナーレの公式史料に並ぶ5人の名前は同じ運動の形成を示していますが、その画面の違いは大きなものです。クッキの土地への関心とクレメンテの身体表現を比べれば、「イタリアの新表現主義」という共通名だけで作品を説明するのが難しいことが分かります。作家ごとの図像と表現方法を具体的にたどることで、運動の幅が理解できます。(参照:ヴェネツィア・ビエンナーレ|公式歴史年譜)
トランスアヴァングアルディアが示した表現の幅
ミンモ・パラディーノと古代的な記号
ミンモ・パラディーノの絵画や立体作品には、単純化された頭部、人物、古代の彫像を思わせる形、謎めいた記号が登場します。それらは特定の神話を正確に再現するための図像というより、古い文化の記憶が現代へ現れたような印象を与えます。画面の表面に残された痕跡と、静かで記念碑的な形との関係が重要です。激しさだけを基準とする新表現主義の説明からは、こうした落ち着いた造形の魅力が抜け落ちます。
パラディーノはボニート・オリーヴァが提唱したイタリアの中心作家の一人として、1980年のヴェネツィアで紹介されました。絵画と彫刻の両方を手がけることも、この運動を理解する手がかりです。画家たちは古い時代の美術に出会い直すことで、何をいま描き、どのような形で示すかを選んでいました。複数の時代が同じ作品の中に入り込む感覚が、トランスアヴァングアルディアの重要な特徴です。(参照:ヴェネツィア・ビエンナーレ|公式歴史年譜)
ニコラ・デ・マリアの色彩と抽象的な空間
ニコラ・デ・マリアは、鮮やかな色彩や記号的な形を用い、抽象的な空間を作る方向へ進みました。人物や物語を大きく描く作家と同じ運動に位置づけられながら、画面には色彩の自由な展開が強く現れます。ここを見ると、トランスアヴァングアルディアを「具象絵画への回帰」とだけ説明することの難しさが分かります。重要だったのは、様式の選択に厳格な制限を設けず、絵画に取り組む自由を広げたことでした。
イタリアの5人を一つの場へ集めた1980年の《Aperto 80》は、作品の違いを直接比較する場になりました。色彩を中心に画面を作る作家と、神話的な人物を描く作家が並ぶことによって、批評家が提唱した名称の幅を観客が知ることができます。抽象表現を続けながら同じ動きに参加することができた点は、当時の絵画が「人物を描くこと」だけで定義されていなかった証拠です。作品に触れた人がその場で受け取る印象と、後世の運動名の関係を考える材料になります。
1979年のボニート・オリーヴァの論考では、抽象と人物像の間を移動することや、作品の制作中に想像力が展開することが肯定されています。デ・マリアの仕事は、その考えを具体的に示しています。イタリアの5人に共通する色使いや大きな画面の印象だけで理解するより、個々の作品で色がどのような役割を持つかに注目することで、抽象と具象の境界を自由に扱う時代の特徴が見えてきます。(参照:『Flash Art』|ボニート・オリーヴァの1979年論考)
アルテ・ポーヴェラ以後のイタリア美術
1960年代後半のイタリアでは、アルテ・ポーヴェラが石、布、木、金属、火などを使い、作品と素材や場所の関係を問い直していました。1970年代末の若い画家は、こうした動向が美術界で重要視された後に活動しています。グッゲンハイム美術館は、クレメンテらの絵画の台頭を、ミニマリズムやアルテ・ポーヴェラの影響力を背景にした変化として説明しています。
トランスアヴァングアルディアにとって重要だったのは、絵画を古い形式として扱うのをやめ、歴史的な図像や色彩を制作へ再び使えるようにしたことです。素材の現実や行為を重んじた先行世代への反応として理解できます。そのなかには美術史への強い興味も含まれます。従来の作品と方法が異なる理由を知るには、同じイタリアで直前に何が起きていたのかを踏まえ、単純な世代交代の物語にまとめないことが重要です。(参照:グッゲンハイム美術館|クレメンテと絵画の再評価)
1980年、ヴェネツィアでドイツの絵画が論争を起こす
西ドイツ館に選ばれたバゼリッツとキーファー
1980年の第39回ヴェネツィア・ビエンナーレで、西ドイツ館を担当したクラウス・ガルヴィッツは、ゲオルク・バゼリッツとアンゼルム・キーファーを紹介しました。ドイツ対外文化関係研究所の記録によれば、マルクス・リュペルツにも参加の打診がありましたが、実際の展示は二人で構成されました。両者の作品は、戦後ドイツの芸術が国家の歴史や象徴をどう扱うかという議論を巻き起こします。
国際展のドイツ館は、国を代表する芸術を海外へ示す場所です。そこでナチズムの過去を連想させる像や、荒々しい造形を示すことには、特別な意味がありました。展示への反応も、作品の美しさを評価するだけのものには収まりません。戦争の記憶に向き合う芸術の方法、国家の文化を代表する作品の選び方をめぐる問いが生まれました。新表現主義の台頭に、政治的な歴史が深く関わっていたことを示す節目です。(参照:ドイツ対外文化関係研究所|1980年ヴェネツィアのドイツ館)
バゼリッツの木彫《彫刻のための模型》
ドイツ館で注目された作品の一つが、バゼリッツの《Modell für eine Skulptur(彫刻のための模型)》(1979–80年)です。木を荒く削って作られた人物が横たわるような姿で示され、手の身振りは強い印象を与えます。木材には切削の跡が残り、滑らかな彫像とは異なる重さを感じさせます。絵画を代表作とするバゼリッツが、立体作品でも身体や造形の問題を追究していたことが分かります。
彫刻は、展示された場所の建築や鑑賞者の動きによって印象が変わります。国際展の国家館の中央に置かれたこの木彫は、ドイツという国の過去を連想させる場で見られました。同じ姿勢の人物像でも、街の公園や個人のアトリエに置かれた場合とは意味の広がりが異なるでしょう。作品が彫刻としてどのような形をしているかに加え、どこで、どのような歴史を知る人々によって見られたのかを確かめることが、当時の論争を理解する助けになります。
この人物像の身振りはナチス式敬礼を思わせるとして、当時の批評で論争になりました。ドイツ館の公式記録は、過去の危険な象徴を作品に取り込むことが、批判なのか再び強い力を与えるのかという受け止め方の難しさを伝えています。作者が何を意図していたか、観客がどのように見たか、社会がどのような歴史を抱えていたかが重なって、作品の意味が問われた事例です。(参照:ドイツ対外文化関係研究所|1980年ヴェネツィアのドイツ館)
戦争とナチズムの記憶をどう描けるのか
1945年以降のドイツで、戦争や国家神話に関わる図像は重い歴史を負っていました。ナチズムによって政治的に利用された象徴を、芸術家がもう一度作品に登場させた場合、鑑賞者は複雑な感情を抱きます。キーファーが古い英雄像やドイツの神話に向き合ったことも、1980年のドイツ館で注目された理由の一つでした。絵画に歴史が戻るとは、見やすい物語が戻るという意味ばかりではありません。
戦後の記憶を扱う絵画は、見る人に不安や疑問を抱かせる場合があります。画面の大きさや粗い素材が、その経験をさらに強めます。この問題を理解するには、現代の鑑賞者が図像から何を読み取るかと、作家がそれを作った当時の政治的な条件を合わせて考える必要があります。新表現主義に分類されるドイツ絵画の歴史的な重要性は、そのような緊張を抱えたイメージを公の場へ持ち出した点にもあります。(参照:ドイツ対外文化関係研究所|1980年ヴェネツィアのドイツ館)
アンゼルム・キーファーの絵画に刻まれた歴史
《ドイツの精神的英雄たち》と記憶の空間
キーファーは1970年代から、ドイツの神話や歴史を作品の中心に据えました。1973年の《ドイツの精神的英雄たち》には、木造の長大な室内空間が描かれ、過去の文化的人物の名前が記されています。床や梁が奥へ伸びる画面は、壮大な記念堂のようにも、使われなくなった建物の内部のようにも見えます。場所そのものが、誰を称え、どの記憶を残すのかという問いを含んでいます。
1980年のヴェネツィアのドイツ館では、こうした歴史的な主題の絵画が強い議論を呼びました。展示資料によれば、キーファーは麻布や壁紙などの上に木炭、油彩、酸化鉄を用い、大きな空間の感覚を作っていました。描かれた建築を鑑賞者が歩き回ることはできませんが、実際の身体の尺度に迫るほどの画面が、歴史の重さを物理的に感じさせます。(参照:ドイツ対外文化関係研究所|1980年ヴェネツィアのドイツ館)
《ライン川》に現れる土地の記憶
《Der Rhein(ライン川)》(1983年)をはじめ、キーファーは川、森林、建築など、ドイツの土地と結びついた主題を繰り返し扱いました。川は地理的な場所であるとともに、詩、伝説、国民的な記憶の中で意味を与えられてきた存在です。キーファーがその名を作品に掲げるとき、自然の風景は美しい景色として完結せず、歴史的な象徴と結びついたものとして立ち上がります。
ニューヨーク近代美術館は《Der Rhein》を1983年の作品として所蔵しています。こうした制作を見ると、キーファーの絵画が土地を描く方法と、美術史や文学の記憶を扱う方法を結びつけていたことが分かります。歴史上の出来事を図解するだけの絵画なら、内容を理解した時点で役割は終わります。キーファーの作品では、土地の像や文字がいくつもの意味を引き寄せ、鑑賞者は過去との関係を考え続けることになります。(参照:ニューヨーク近代美術館|キーファー《ライン川》)
鉛、写真、木版を重ねた《紅海》
1984–85年の《The Red Sea(紅海)》は、油彩に加えて鉛、木版、写真、シェラックをキャンバスへ用いた巨大な作品です。ニューヨーク近代美術館の所蔵記録では、高さ約2.8メートル、幅約4.25メートルの画面であることも確認できます。そこでは絵を描くことが、色を置くだけの行為を越えています。異なる素材を重ねることで、表面に重さや痕跡が現れ、絵画は物体としての存在感を帯びます。
《紅海》がニューヨーク近代美術館に所蔵されていることは、素材を組み合わせた絵画を将来にわたってどう保存するかという問題にもつながります。油彩と鉛、写真、木版は、それぞれ異なる物理的性質を持ちます。作品の表面には時間とともに変化する部分が生まれる可能性があります。素材を単なる効果として見るだけでなく、なぜその物質を画面へ取り込んだかを考えることが大切です。キーファーの作品では、歴史が重なっていく感覚が物質としても示されているように感じられます。
キーファーは藁や鉛、写真などを用いる制作を続けてきました。素材は画面を美しく飾るために選ばれるばかりではなく、腐食、変化、重さ、記憶を連想させる役割を持ちます。したがって彼の仕事は「人物や歴史を描く伝統的な絵画への回帰」という説明だけでは捉えられません。1960年代以降に広がった素材の実験を受け継ぎながら、大画面の絵画という形式へ組み込んでいたのです。(参照:ニューヨーク近代美術館|キーファー《紅海》)
1980年の《Aperto 80》が生み出した国際的な舞台
ヴェネツィアに設けられた若い作家の部門
1980年のヴェネツィア・ビエンナーレでは、アキーレ・ボニート・オリーヴァとハラルド・ゼーマンが《Aperto 80》を企画しました。若い作家を紹介する新しい部門で、従来の国別展示とは異なる国際的な顔合わせが実現しました。ビエンナーレの公式史によれば、この企画は1993年まで続く《Aperto》の最初の回です。1980年という節目に、当時の最新の動向を広く示そうとした場所でした。
同時代の芸術を一つの都市でまとめて見る機会は、作家の作品がどのように受け止められるかにも影響します。それまで別々の国で制作されていた作品が隣り合うと、共通点が見つかることも、違いが浮かぶこともあります。《Aperto 80》は、絵画が新たに注目されていることを可視化するとともに、映像や立体を含む多様な表現を紹介しました。国際的な絵画への関心は、このような総合的な展示の中で広まっていきます。(参照:ヴェネツィア・ビエンナーレ|公式歴史年譜)
イタリアの5人が同じ場所に並ぶ
《Aperto 80》には、ボニート・オリーヴァがトランスアヴァングアルディアとして紹介したサンドロ・キア、フランチェスコ・クレメンテ、エンツォ・クッキ、ニコラ・デ・マリア、ミンモ・パラディーノの5人が参加しました。1979年に批評文で提示された動向が、翌年には大規模国際展で具体的な作品の集まりとして見えるようになったのです。美術運動が名前を得て広がる過程を示す、分かりやすい例です。
実際の作品では、人物像の誇張、柔らかな身体の変化、謎めいた記号、抽象的な色彩の配置など、方法はそれぞれ異なります。同じ国の若い作家が一度に紹介されたからこそ、その多様性も鑑賞者には伝わりました。国際展における発表は、批評家の文章だけでは届きにくかった作品の物理的な大きさや色彩を知らせる機会となります。イタリアの動きが世界で注目される重要な節目でした。(参照:ヴェネツィア・ビエンナーレ|公式歴史年譜)
アメリカの画家たちとの接点
《Aperto 80》には、アメリカのジュリアン・シュナーベルやスーザン・ローテンバーグも参加しました。彼らの絵画と、イタリアの画家たちの作品が同じ会場で紹介されたことは、1980年代初頭に「絵画が国際的に再び強くなっている」という印象を生みました。そこにはアメリカの大画面、イタリアの神話的な人物像、ほかの媒体による作品が共存していました。
ローテンバーグが1960年代以来の抽象絵画の問題を受け継いでいたことも、この展示の読み方に関係します。彼女の馬は、誰もが見慣れた像でありながら、輪郭や色面を使った絵画の実験として成立しています。そこへシュナーベルの陶器片による作品を並べれば、具象の扱い方も画面の材料も大きく異なることが一目で分かります。国際的な企画展は似た作品を紹介するだけの場ではありません。異なる作品を同時に鑑賞し、絵画の選択肢を広く認識する機会でもあったのです。
この顔合わせが意味するのは、全員が一つの運動を結成したということではありません。シュナーベルには絵画の表面を物体として扱う関心があり、ローテンバーグには平面性と具象像を結びつける独自の方法がありました。国際展は異なる制作のあいだに比較の機会を作ります。後に新表現主義として語られる広い歴史像も、こうした展示や批評による接続から形成されていったのです。(参照:ヴェネツィア・ビエンナーレ|公式歴史年譜)
1981年、ロンドンが絵画の新しい時代を示す
《A New Spirit in Painting》展の開催
1981年1月15日から3月18日まで、ロンドンのロイヤル・アカデミーで《A New Spirit in Painting》展が開催されました。クリストス・ヨアヒミデス、ノーマン・ローゼンタール、ニコラス・セロータが企画した展覧会です。国際的な作家を集め、絵画がさまざまな世代と方法を通して継続し、新しい重要性を獲得していることを示しました。展覧会図録の記録からは、その規模と参加者の広さを確認できます。
1980年代初頭に絵画を見直す動きが広まったことを説明する際、この展覧会は欠かせません。若い画家の作品を単独で紹介するのに加え、すでに評価されてきた画家たちと並べることで、絵画の歴史を新たに語る試みになりました。展覧会の題名も、一つの画風を定めるものより、絵画をめぐる空気の変化を表しています。国際的な台頭が単一の作家集団の活動に収まらなかったことが分かります。(参照:e-artexte|《A New Spirit in Painting》展図録)
ピカソから若い画家までを並べた理由
出品作家にはバゼリッツ、キーファー、キア、パラディーノ、シュナーベルのほか、ピカソ、デ・クーニング、フランシス・ベーコン、フィリップ・ガストン、アンディ・ウォーホル、ゲルハルト・リヒターなどが名を連ねています。世代も作風も大きく異なる画家たちです。もし「新表現主義の展覧会」とだけ考えると、この歴史的な幅を見失います。
1981年の展覧会図録には、参加した画家や企画者の名前が詳細に記録されています。ピカソやガストン、ウォーホルまで含まれていたという事実は、企画者たちがこの時期の絵画を長い歴史のなかへ位置づけようとしたことを教えます。新しい絵画を理解するために過去の作品を並べると、鑑賞者には似ている点と変わった点の両方が見えます。新表現主義に属するとされる若い作家の作品も、過去の美術がどのような条件で描かれたかを知ることで、さらに具体的に読めるようになります。
図録を見ると、絵画の新しい活力を、若手の突然の登場だけに求めなかったことが理解できます。前の世代の人物画、抽象表現、ポップアートと、同時代の画家の挑戦をひと続きの展示の中に置いています。古い絵画とのつながりを示すことは、若手の新鮮さを消す行為ではありません。絵画が以前からさまざまな方向で変化していたことを踏まえて、新しい時代の制作を位置づける方法だったのです。(参照:e-artexte|《A New Spirit in Painting》展図録)
「絵画への回帰」がつくられた過程
美術史では、展覧会が作品を発表するだけでなく、時代の見方を作ることがあります。1981年のロンドン展も、そのような役割を果たしました。すでに各都市で注目されていた画家たちを並べることで、ばらばらの制作が国際的な現象として見えてくるようになります。その見方は批評や図録、次の企画展へと広まりました。
ここで「絵画への回帰」という物語が説得力を持ちます。多くの芸術家が写真、映像、概念などへ制作を広げていた時代に、画面と絵筆の力を示す大規模展が実現したからです。その物語に含まれた作家の経歴は、実際には長く複雑でした。作品が生まれた時期と、それらが一つの歴史としてまとめられた時期を区別することが、新表現主義を理解するために必要です。(参照:e-artexte|《A New Spirit in Painting》展図録)
ジュリアン・シュナーベルは絵画の表面を変えた
皿の破片を貼り付けたプレート・ペインティング
ジュリアン・シュナーベルの代表的な方法の一つが、割れた皿や陶器片を支持体に固定し、その上から絵の具を塗る「プレート・ペインティング」です。画面は滑らかな平面から大きく盛り上がり、破片の影や光沢が見えます。通常のキャンバスに絵を描く場合、絵の具の下地はできるだけ均一に整えられます。シュナーベルは、その前提を変えることで絵画そのものを物理的な存在へ近づけました。
メトロポリタン美術館は、彼が抽象表現主義の巨大な画面や力強い筆触を具象絵画へ結びつけ、陶器片などの日用品を画面へ取り入れたことを特徴として紹介しています。破片は飾りとして画面に載っているだけではありません。絵筆がその上を通り、色が凹凸に乗るため、下地の形が絵画の出来上がりを左右します。絵を描く行為と物を組み立てる行為が、一つの作品の中で重なっているのです。(参照:メトロポリタン美術館|シュナーベル《Bones and Trumpets…》)
1981年《Bones and Trumpets…》の具体的な構造
《Bones and Trumpets Rubbing Against Each Other Towards Infinity》(1981年)は、高さ約2.7メートル、幅約4メートルの大きな作品です。木の支持体に石膏、陶器、鹿の角や脚、油彩、ワックスなどが組み合わされ、赤い不均一な表面に、木や楽器を連想させる形が描かれています。メトロポリタン美術館は、洞窟画を思わせる図像と古代や暴力への連想を指摘しています。
メトロポリタン美術館の作品記録では、この《Bones and Trumpets…》は、一般的な絵画というより立体的な物質を多く含む作品として分類されています。名称や分類は美術館ごとの方針にも関係しますが、作品の姿を理解するうえで興味深い事実です。絵具を使って表面を描いていても、画面が大きく盛り上がり、実際の陶器や動物の一部を固定していれば、絵画と彫刻の境界に位置することになります。シュナーベルはその境界で、大きな画面をどこまで物質的にできるかを試していました。
見る人は、まず大きな画面と荒い物質感に圧倒されます。近づくと、絵に見えていた部分が実際の陶器片だったり、塗られた色の下に物体が固定されていたりすることが分かります。イメージと物質の境界が移動するような経験です。この作品は、新表現主義が単なる絵具の厚塗りや感情的な描写に収まらないことを示します。素材の扱いに関しては、先行する立体作品や素材の実験ともつながっています。(参照:メトロポリタン美術館|シュナーベル《Bones and Trumpets…》)
大画面の絵画と立体作品の境界
絵画は壁に掛けられ、彫刻は空間に置かれるという区別は、1960年代の美術ですでに多くの作家によって問い直されていました。シュナーベルの作品は壁に掛ける絵画の形式を保ちながら、そこに陶器片や立体的な材料を加えます。作品を横から見ると、表面が鑑賞者の側へ突き出していることが分かります。絵画は物語を示す窓であると同時に、実際の厚みと重量を持つものになります。
こうした方法は、絵画が過去の純粋な形式へ戻ったという説明を改めるきっかけになります。新しい画家たちは、すでにミニマリズムやポスト・ミニマリズムが示した物体としての作品の問題を知っています。絵画を選びながら、その境界を広げることができたのです。シュナーベルの表面を考える際には、人物や象徴的な図像の意味とともに、支持体や素材をどのように構成したかを見ることが重要になります。(参照:メトロポリタン美術館|シュナーベル《Bones and Trumpets…》)
バスキアの絵画に重なる都市、言葉、黒人の歴史
1981年《New York/New Wave》からの登場
1981年、ニューヨークのPS1でディエゴ・コルテスが企画した《New York/New Wave》展には、芸術家、音楽家、作家ら118人が参加しました。写真、絵画、音楽、街の文化が一つの展示に混在する展覧会です。ジャン=ミシェル・バスキアも参加し、美術界から大きく注目されるきっかけになりました。彼はそれ以前からSAMOの名で街に言葉を残し、紙やキャンバスへの制作も進めていました。
ニューヨーク近代美術館の資料によれば、展覧会にはキース・ヘリング、ナン・ゴールディン、ロバート・メイプルソープらも関わっていました。ここで重要なのは、バスキアの活動を新表現主義だけの歴史に閉じ込めないことです。絵画の台頭は、ヒップホップ、パンク、クラブ、写真、街頭の表現が近づく都市文化の中でも進んでいました。彼の名前が短期間で国際的に広まった経緯を理解するには、その環境を知る必要があります。(参照:ニューヨーク近代美術館|PS1とニューヨークの音楽・美術)
《Hollywood Africans》が語る表象の歴史
バスキアの《Hollywood Africans》(1983年)は、黄色を基調とした画面に、3人の人物の顔や数多くの言葉が描かれた作品です。中央付近には本人と、友人のラメルジー、トキシックが登場します。彼らがロサンゼルスを訪れた経験が制作の背景にあります。「Sugar Cane」「Tobacco」「Gangsterism」などの言葉は、古いハリウッド映画で黒人に押しつけられてきた役割や歴史へ視線を向けさせます。
ホイットニー美術館によれば、作品はアクリル絵具とオイルスティックを使った約2.1メートル四方の画面です。文字の断片と人物の輪郭が、広い黄色の地の上で何層にも重なっています。まず遠くから全体の構成を見ると、鮮やかな色と顔の配置が目に入ります。近づくと、単語の読み取りや消された跡が気になり、見ている時間とともに別の意味が浮かんできます。大画面の絵画が強い印象を与えることと、近距離で読むように見ることが、同じ作品で成立しているのです。
ホイットニー美術館の作品解説は、映画産業における黒人の固定観念と、本人たちの経験が同じ画面に組み合わされていることを示しています。鑑賞者は鮮烈な色と人物の姿に引きつけられながら、言葉を読み進めることで社会的な問題に出会います。荒い線や勢いを表現主義的な特徴と呼ぶことはできますが、作品の歴史的な意味は言葉の選び方や引用の背景まで見て初めて分かります。(参照:ホイットニー美術館|バスキア《Hollywood Africans》)
描いて、書いて、消すという方法
バスキアの作品では、文字と絵が同じ画面に入り、単語が線で消されていることがあります。消された文字は完全に読めなくなっているとは限りません。むしろ、消した跡によって文字の存在が気になります。《Hollywood Africans》でも、人物の周りに単語や数字が散らばり、円で囲まれたり強調されたりしています。そこには自画像的な情報、歴史的な言及、音楽や都市文化を思わせる記号が重なっています。
ホイットニー美術館は、バスキアが文字を消す行為を、そこへ注意を向けさせるための方法として説明していたことを紹介しています。筆触だけで自分の感情を表す絵画とは異なり、読み取れる情報を意図的に配置し、その意味を複数の方向へ広げる制作です。黒人の歴史や美術史への関心、都市にあふれる言葉を一つの画面へ集めたことが、バスキアの独自性につながっています。(参照:ホイットニー美術館|バスキア《Hollywood Africans》)
アメリカの絵画はひとつの方向へ進んだのか
デイヴィッド・サーレと写真からの引用
デイヴィッド・サーレは1970年代末から、雑誌写真や美術史の図像を参照し、複数の人物や物体を一つの絵画へ配置する制作を進めました。ある場面では人物の顔が途中で切れ、別の場面には大衆文化を思わせるイメージが置かれます。鑑賞者は個別の像が何かを見分けられても、全体として一つの物語には結びつけにくくなります。映画の編集や写真の切り貼りに近い方法が、絵筆を使った大きな画面に入り込んでいます。
ホイットニー美術館はサーレを、具象絵画が再び注目された動向と、既存のイメージを流用するピクチャーズ世代の双方にまたがる作家として紹介しています。絵画が強い存在感を示す同じ時代に、写真や広告のイメージも重要な制作の資源でした。彼の作品は、1970年代の表現が一度終わってから絵画が始まったという理解を改めます。同じ画面に両方の関心が存在しているのです。(参照:ホイットニー美術館|デイヴィッド・サーレ)
エリザベス・マレーが変えたキャンバスの形
エリザベス・マレーの《Druid》(1979年)は、四角いキャンバスの中に整った構図を収めるという期待を変える作品です。緑の有機的な形や明るい色彩が、切り抜かれたような支持体の形と関係しています。画面の端そのものが作品の形となり、壁に置かれた一つの物体として見えてきます。ホイットニー美術館の資料には、マレーが従来の四角い画面に飽き、壁との関係を変えるため変形キャンバスを試したという発言が残っています。
マレー自身の発言を伝える美術館の記録には、支持体の角が増えることによって、画面の内側と外側の関係が広がるという考えも残っています。長方形の画面では、四辺を境界として絵画の構成を考えることが多くなります。変形キャンバスでは輪郭も絵画の一部となり、壁の余白が画面の見え方へ入り込んできます。形の自由さは単に奇抜な外観を生むためのものではありません。絵画を鑑賞する際の身体や空間との関係を考える方法にもなっていました。
マレーの作品は、絵画が1970年代末にどれほど多様な形で再検討されていたかを教えてくれます。人間の姿や歴史を激しく描く方法とは違い、画面の輪郭、色、形の関係そのものを使って新しい表現を作っています。新表現主義を中心に時代を整理する場合にも、近くで進んでいたこうした実験を視野に入れることが大切です。絵画の広がりは、特定の流行だけから生まれたものではありません。(参照:ホイットニー美術館|エリザベス・マレー《Druid》)
女性画家たちの存在と歴史の書き方
1980年代の絵画を紹介する展覧会や批評では、巨大な作品を制作し短期間で有名になった男性画家の名前が大きく扱われてきました。同じ時代には、スーザン・ローテンバーグ、エリザベス・マレー、ジョーン・スナイダー、ジョアン・ブラウンら女性画家たちも、それぞれ独自の制作を続けています。作品の外見も、人物や身体への向き合い方も異なり、全員を新表現主義の名称へ収める必要はありません。
ホイットニー美術館が2017年に開催した1980年代の絵画展は、バスキアやシュナーベルとともに、異なる立場の画家たちの仕事を改めて紹介しました。何を時代の象徴とするかは、当時の画廊や美術館の選択、後年の研究にも左右されます。美術史を読むときには、名前がよく知られた作家をたどるだけでなく、その周辺でどのような実験があったのかを考えると、より豊かな時代像が見えてきます。(参照:ホイットニー美術館|1980年代の絵画)
1982年、ベルリンとカッセルで国際的な評価が広がる
《Zeitgeist》展に各国の画家が集まる
1982年10月から翌年1月にかけて、西ベルリンのマルティン・グロピウス・バウで《Zeitgeist(時代精神)》展が開催されました。クリストス・ヨアヒミデスとノーマン・ローゼンタールが企画し、ドイツ、イタリア、アメリカなどの作家が幅広く紹介されます。建物は戦争による傷を残し、すぐ近くにはベルリンの壁がありました。会場の歴史的な条件と国際的な作品の集まりが、展覧会の特徴となりました。
バゼリッツ、キーファー、フェッティング、キア、クレメンテ、クッキ、シュナーベル、サーレなどが同じ時代の作家として注目され、当時の批評でも大きく取り上げられます。展示は絵画だけで構成されたものではありませんが、大画面の具象絵画が強い存在感を示しました。国を越えた作品の並びによって、新表現主義がひとつの国際的現象として語られる力を得たことが分かります。(参照:アムステルダム国立美術館|《Zeitgeist》展図録書誌)
ドクメンタ7で絵画はどう扱われたか
同じ1982年、カッセルではルディ・フックスを芸術監督とするドクメンタ7が開催されました。公式記録によれば会期は6月19日から9月28日、参加作家は182人です。フックスは芸術の美的な自律性を重視し、展示室で異なる作品が対話する構成を試みました。大きく鮮やかな具象画が人々の注目を集め、国際的な絵画の展開が明確に示されました。
ドクメンタの公式資料によれば、展示では作品を厳密な様式別に分けるというより、異なる作品の関係を意識して並べる方法が重視されました。絵画だけが美術を代表するという古い考えへ戻るのではなく、さまざまな作品が共存するなかで具象画が注目されたのです。キアやクッキの人物や神話と、西ドイツの作家たちの日常的な都市像は異なる主題を持っています。同じ会場に集まったことが、それぞれの地域で進んでいた制作を国際的な美術史の中で比較する機会になりました。
参加作家にはイタリアのトランスアヴァングアルディアの画家たち、ドイツの若い画家、バゼリッツやキーファー、バスキアなどがいました。公式資料は、新しい具象絵画がこの展覧会で大きく注目されたことを伝えています。ドクメンタには彫刻、写真、概念的な作品も参加していました。絵画が多様な美術と同じ場で展示されたことが、1980年代の絵画の位置を考えるうえで重要です。(参照:ドクメンタ|1982年ドクメンタ7公式記録)
国際展と批評がつくった共通の歴史
1980年のヴェネツィア、1981年のロンドン、1982年のベルリンとカッセルをたどると、離れた場所で生まれた絵画が短期間に何度も並べられたことが分かります。批評家や学芸員は、共通する勢いや形を見出すとともに、過去の美術との関係を論じました。観客も展覧会を通して作家の名前や作品に接し、国際的な絵画の動向を認識するようになります。
ここで大切なのは、展示によって一緒に紹介された作家の制作意図が同じだったと推測しないことです。ドクメンタ7の資料を見れば、ドイツの歴史に向き合う画家、イタリアの神話的な図像を扱う画家、ニューヨークの都市文化から生まれた画家が共存していました。美術史の名称は、違うものを比較するために役立ちます。違いを確かめながら読むことで、国際化がどのように進んだかをより正確に理解できます。(参照:ドクメンタ|ドクメンタ7参加作家一覧)
画廊、美術市場、批評が絵画の評価を変える
1980年代初頭の画廊とコレクター
1980年代初頭のニューヨークでは、新しい画廊や自主的な展示空間が増え、若い作家の作品が急速に紹介されるようになりました。ホイットニー美術館の調査では、1980年代の絵画の注目が高まった背景として、画廊の増加、美術市場の拡大、展覧会と批評が交差する状況が挙げられています。作品が見られる機会と売買される機会が増えたことは、作家の活動を支える重要な条件になりました。
大画面の絵画は展示室で強い印象を与えるとともに、美術館や収集家が所蔵できる物体として扱われます。概念芸術や一時的なパフォーマンスとは、保存や販売の方法が違います。形式が注目される背景には作品の新しさだけでなく、展覧会を企画する人、作品を紹介する画廊、購入する人々の関係がありました。この経済的な条件まで見ることで、絵画が国際的に台頭した理由をより広く考えられます。(参照:ホイットニー美術館|1980年代絵画展の解説)
若い画家の急速な成功と批判
バスキアやシュナーベルのように、短期間で大規模な展覧会や市場の注目を集めた作家もいました。雑誌や新聞の紹介が増えると、作品を見る前に作家の人物像だけが広く知られることもあります。新表現主義という言葉には、若い才能への期待と、大画面の絵画が高額で売れる状況への批判が同時に集まりました。画家は作品を作る人であるとともに、メディアで語られる存在にもなっていきます。
当時の記録を読むと、美術市場が大きくなったことへの期待と、それを受けた批判が同時に存在していたことが分かります。展覧会で高く評価された作品が、画廊や収集家の注目によってさらに知られるようになることもありました。急速な成功を経験した作家が、その後どのような制作を続けたのかを長い時間で見ることが必要です。一時期の価格や評判だけで、美術史に残る仕事の意味を決めることはできません。作品の変化と評価の変化を分けてたどることが、当時の熱狂を理解するための方法になります。
1982年当時の批評には、ベルリンの《Zeitgeist》展を高く評価する声と、急速な人気が作家の表現に与える影響を疑問視する声の両方がありました。作品の評価と市場価格は連動する場合がありますが、同じ指標で測れるものではありません。華やかな1980年代のイメージをたどる際には、制作の実態、展覧会での受容、商品としての流通を分けて考える必要があります。(参照:1982年当時の《Zeitgeist》展評)
「男性的な絵画」という評価を見直す
大きなキャンバスに絵の具を勢いよく塗る作家の姿は、1980年代の新表現主義を象徴するイメージとなりました。国際展や市場で目立った画家には男性が多く、後年の議論では、その成功と「英雄的な画家像」の関係も検討されています。制作する身体の勢いを評価するだけで、誰が展覧会に選ばれ、どの作品が広く紹介されたのかを知ることはできません。
実際にはスーザン・ローテンバーグやエリザベス・マレーのように、同じ時代に絵画の重要な実験を続けた女性作家がいました。ニュー・ミュージアムの《バッド・ペインティング》展にも女性作家が参加しています。美術館の回顧展が多様な作家を紹介するのは、1980年代の絵画が一種類の男性的な身振りへまとめられるほど単純なものではなかったためです。新表現主義を歴史的に読む際には、その時代の評価を誰が作ったのかも大切な問題になります。(参照:ホイットニー美術館|1980年代の絵画)
1985年までに何が変わり、その後へ何が残ったのか
「表現主義の再来」という説明の難しさ
新表現主義という名称を聞くと、20世紀初頭のドイツ表現主義がそのまま戻ったと感じるかもしれません。確かに、歪んだ人物像、強い色彩、筆の動きが見える表面には共通する印象があります。実際の1980年代の画家たちは、第二次世界大戦後の歴史、写真や映画のイメージ、大衆文化、古代やルネサンスの美術など、幅広い材料から作品を作っていました。ひとつの過去の様式を忠実に復活させることが中心だったとは言い切れません。
例えばバゼリッツの反転した人物は、物語の意味をすぐに読ませないための方法でもありました。クレメンテの身体は静かな色彩と変容のイメージを持ち、サーレは異なる写真の断片を絵画に重ねています。作品ごとの目的や形式を知ると、「激しい筆づかい」という共通の印象だけでは捉えられない違いが明らかになります。名称は国際的な流れを理解する入口として使い、そこから作品の細部を見ていくことが重要です。(参照:メトロポリタン美術館|バゼリッツの転換点)
概念芸術や写真の後に絵画ができたこと
1977年にはニューヨークで《Pictures》展が開かれ、同じ頃に西ベルリンの若い画家たちは独自の画廊を立ち上げました。1980年代初頭には写真や映像、引用の方法を使う作家と、大画面に絵を描く作家が同時に活動していました。サーレはその両方を一枚の絵画で結びつけています。時代を「写真の次は絵画」という順番だけで整理すると、この同時進行する試みを捉えにくくなります。
今回の時代の隣には、写真を引用して新しいイメージを作るピクチャーズ世代、装飾や手仕事を問い直すパターン&デコレーション、芸術と社会制度の関係を扱う実践も存在していました。新表現主義の画家たちは、これらすべてと同じ方法を選んだわけではありません。それぞれの動向が重なっていたことによって、1980年代の絵画は多様な問題を吸収するようになったのです。美術史の記事を年代順に読む場合にも、前の動向が終わってから次が始まったと考えるより、複数の歴史が交差する時代として理解すると自然です。
絵画は、すでにあるイメージの引用、素材の組み合わせ、展示空間との関係など、1960年代以降に広がった問題を取り込むことができました。キーファーの素材、シュナーベルの陶器片、バスキアの言葉は、その広がりを具体的に示しています。絵を描く行為そのものが、何を意味し、どのような歴史の中に置かれるかを考える対象にもなっていたのです。新表現主義が現代絵画へ残した重要な成果は、この複数の方法が共存できる状況を示したことです。(参照:ホイットニー美術館|デイヴィッド・サーレ)
国際的な台頭から次の時代の絵画へ
1977年から1985年を振り返ると、西ベルリンやケルンの画家の集まり、イタリアのトランスアヴァングアルディア、アメリカの多様な絵画が、国際展や美術市場を通じて結びついていく過程が見えてきます。絵画に人物や歴史を大胆に描くことが強い関心を集め、巨大な画面や変わった素材が新たな可能性を示しました。作品への評価は作家によって異なり、この時期の熱狂がずっと同じ強さで続いたわけでもありません。
1980年代後半以降も、絵画はさまざまな方向へ広がります。アルベルト・エーレンやマルティン・キッペンベルガー、マルレーネ・デュマ、クリストファー・ウールらは、引用や写真、描く行為、表面の扱いをそれぞれの方法で追究しました。この流れを見ると、新表現主義の歴史を一時的な絵画の流行として閉じる必要はありません。過去の美術を知ったうえで新しい絵画を作るという問題は、その後の作家たちにも引き継がれています。(参照:シュテーデル美術館|1980年代西ドイツの具象絵画)
略年表
新表現主義が国際的に注目されるまでの前史と、1977〜1985年の主要な出来事を年代順に整理しました。個々の制作と展覧会の開催が、同じ時期に重なっていたことが分かります。
- 1969年 ゲオルク・バゼリッツが肖像画などで像を上下逆さまに描く方法を本格的に用い始める。
- 1970年10月 フィリップ・ガストンがニューヨークのマールボロ画廊で新しい具象絵画を発表する。
- 1973年 アンゼルム・キーファーが《ドイツの精神的英雄たち》を制作する。
- 1974年頃 スーザン・ローテンバーグが馬の形を描いた絵画を制作し始める。
- 1977年 西ベルリンに若い画家たちの活動拠点、モーリッツ広場の画廊が生まれる。
- 1977年 ライナー・フェッティングが《最初の壁の絵》を制作する。
- 1978年1月14日 ニューヨークのニュー・ミュージアムで《“Bad” Painting》展が開幕する。
- 1978–1979年 ローテンバーグが《For the Light》を制作する。
- 1979年 エリザベス・マレーが変形キャンバスを用いた《Druid》を制作する。
- 1979年10–11月 アキーレ・ボニート・オリーヴァが『Flash Art』誌にトランスアヴァングアルディアの論考を発表する。
- 1979–1980年 バゼリッツが木彫《彫刻のための模型》を制作する。
- 1980年 ケルンで画家たちが共同アトリエ「ミュールハイマー・フライハイト」を形成する。
- 1980年 西ベルリンのハウス・アム・ヴァルトゼーで《Heftige Malerei(激しい絵画)》展が開催される。
- 1980年 ヴェネツィア・ビエンナーレの西ドイツ館でバゼリッツとキーファーが紹介される。
- 1980年 同ビエンナーレに新設された《Aperto 80》でイタリアと海外の若い作家が紹介される。
- 1981年1月15日 ロンドンのロイヤル・アカデミーで《A New Spirit in Painting》展が開幕する。
- 1981年2月15日 ニューヨークのPS1で《New York/New Wave》展が開幕し、バスキアらが参加する。
- 1981年 ジュリアン・シュナーベルが《Bones and Trumpets Rubbing Against Each Other Towards Infinity》を制作する。
- 1981年 サンドロ・キアが版画《Courageous Boy》を制作する。
- 1982年6月19日 ルディ・フックスを芸術監督とするドクメンタ7がカッセルで開幕する。
- 1982年 ジャン=ミシェル・バスキアがドクメンタ7に参加する。
- 1982年10月16日 ベルリンのマルティン・グロピウス・バウで《Zeitgeist》展が一般公開される。
- 1983年 バスキアがロサンゼルスで《Hollywood Africans》を制作する。
- 1983年 キーファーが《Der Rhein(ライン川)》を制作する。
- 1984–1985年 キーファーが鉛や木版、写真などを組み合わせた《The Red Sea(紅海)》を制作する。
まとめ — 新表現主義の国際的な台頭が残したもの
1977年から1985年にかけて、ドイツ、イタリア、アメリカでは異なる背景を持つ画家たちが大画面の絵画に取り組みました。西ベルリンの若い画家は分断都市の生活を描き、イタリアでは美術史や神話を自由に行き来する絵画が展開しました。アメリカでは、陶器片で作られた画面や写真の引用、文字や都市の文化を組み合わせる作品が生まれます。そうした制作が大規模展で国際的に紹介され、新表現主義という広い言葉で語られるようになりました。
バゼリッツの逆さの人物、キーファーの歴史的な風景、クレメンテの身体像、シュナーベルの陶器片、バスキアの言葉。見た目や制作意図が異なる作品をたどることで、1980年代初頭の絵画の多様性が分かります。画家たちは1960年代と1970年代に広がった写真、素材、概念、映像の問題も知っていました。絵画はそれらを取り込みながら、新しい表現の場として改めて使われていきます。
国際的な展覧会と画廊、美術市場の働きによって、この変化は短期間に広く認識されました。今日の美術史でも新表現主義は重要な手がかりとなっています。名称を通じて時代全体の流れを捉えた後、それぞれの画家がどこで何を描き、何に向き合っていたのかを確かめることで、この時期の作品への理解がいっそう深まります。
参考資料・出典
本記事は美術館の公式作品解説、国際展の記録、同時代の批評と展覧会図録を照合し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しました。ドイツ、イタリア、アメリカの異なる動きを、具体的な作品と展覧会史から説明しています。各小節の末尾に対応する参照資料を示しました。
- ホイットニー美術館|1980年代の絵画
- ホイットニー美術館|デイヴィッド・サーレ
- メトロポリタン美術館|フィリップ・ガストン《Stationary Figure》
- メトロポリタン美術館|バゼリッツの転換点
- ホイットニー美術館|ローテンバーグ《For the Light》
- シュテーデル美術館|ライナー・フェッティング
- シュテーデル美術館|フェッティング《最初の壁の絵》
- シュテーデル美術館|1980年代西ドイツの具象絵画
- シュテーデル美術館|若い画家たちの活動
- ニュー・ミュージアム|《バッド・ペインティング》1978年
- ニュー・ミュージアム|《バッド・ペインティング》図録
- 『Flash Art』|ボニート・オリーヴァの1979年論考
- 『Flash Art』|トランスアヴァングアルディア再録資料
- メトロポリタン美術館|サンドロ・キア《Courageous Boy》
- グッゲンハイム美術館|クレメンテと絵画の再評価
- ヴェネツィア・ビエンナーレ|公式歴史年譜
- ドイツ対外文化関係研究所|1980年ヴェネツィアのドイツ館
- ニューヨーク近代美術館|キーファー《ライン川》
- ニューヨーク近代美術館|キーファー《紅海》
- e-artexte|《A New Spirit in Painting》展図録
- メトロポリタン美術館|シュナーベル《Bones and Trumpets…》
- ニューヨーク近代美術館|PS1とニューヨークの音楽・美術
- ホイットニー美術館|バスキア《Hollywood Africans》
- ホイットニー美術館|エリザベス・マレー《Druid》
- アムステルダム国立美術館|《Zeitgeist》展図録書誌
- ドクメンタ|1982年ドクメンタ7公式記録
- ドクメンタ|ドクメンタ7参加作家一覧
- ホイットニー美術館|1980年代絵画展の解説
- 1982年当時の《Zeitgeist》展評
- メトロポリタン美術館|バゼリッツ《窓辺の鷲》
- ホイットニー美術館|スーザン・ローテンバーグ
- ニュー・ミュージアム|展覧会年譜
- メトロポリタン美術館|キア《Two Boys on a Raft》
- ニューヨーク近代美術館|アンゼルム・キーファー
- ニューヨーク近代美術館|《New York/New Wave》
資料確認日:2026年10月15日 / ART LIBRARY