ヨーゼフ・ボイス(1921–1986)は、彫刻、ドローイング、パフォーマンス、インスタレーション、教育、政治活動を一つの連続した実践として扱い、「芸術とは何か」という定義そのものを大きく拡張した戦後ドイツの作家です。脂肪、フェルト、蜂蜜、銅、鉄、動物、黒板、日用品などを作品へ取り込み、物質の保温、伝導、変形、腐敗といった性質を社会や人間の変化と結びつけました。さらに1970年代以降は「社会彫刻(Soziale Plastik)」という考えを発展させ、教育、議論、直接民主主義、環境運動、人々の創造的参加までを芸術の領域として捉えます。ボイスを見るうえで重要なのは、奇妙な材料や神秘的なパフォーマンスだけではなく、物体、行為、言葉、教育、政治をすべて「社会を形づくるための彫刻」として連結しようとしたことです。
CONTENTS
生涯と制作の変遷
クレーフェで育ち、第二次世界大戦へ
ボイスは1921年、ドイツ西部クレーフェ近郊のクレーフェルトに生まれ、主にクレーフェで育ちました。少年時代から自然科学、動物、音楽、神話、歴史などへ関心を持っていたとされています。第二次世界大戦中はドイツ空軍に所属し、無線士や銃手として従軍しました。
1944年、搭乗していた航空機がクリミアで墜落し、ボイスは負傷します。この事故は後の作品と自己像に大きな意味を持つことになりますが、本人が後に語った救出物語と史実は一致しません。この点は、ボイスの作品を理解するうえで重要です。
戦後、彫刻を学ぶ
戦後、ボイスは美術を学ぶことを決め、1947年にデュッセルドルフ美術アカデミーへ入学します。ヨーゼフ・エンゼリング、のちにエヴァルト・マタレーに学び、彫刻を中心に制作しました。Guggenheimによれば、1951年に卒業した後、フランツ・ヨーゼフ・ファン・デル・グリンテンとハンス・ファン・デル・グリンテン兄弟が早くから作品を収集し、1953年には彼らの家で最初の個展が開かれました。
1950年代の作品には、動物、植物、十字架、神話的な形、身体、エネルギーを思わせるドローイングや小彫刻が多くあります。後年の大規模な政治活動とは外見上異なりますが、自然、治癒、変容、エネルギーへの関心はすでに現れています。
1961年、デュッセルドルフ美術アカデミー教授へ
1961年、ボイスはデュッセルドルフ美術アカデミーの記念碑彫刻教授に就任しました。同時期にFluxusと接触し、音、身体、時間、日用品を使うイベントやパフォーマンスへ制作を拡張します。National Galleries of Scotlandによれば、1963年にはアカデミーでFluxusの作家を招いた催しを行い、自身も《Siberian Symphony, First Movement》など初期の公開アクションを実施しました。
ボイスにとって教育は副業ではありませんでした。後年、「教師であることが自分の最大の芸術作品」という趣旨を語り、教室そのものを議論と社会変革の場として扱いました。
1965年:《死んだ野兎に絵を説明する方法》
1965年、デュッセルドルフのGalerie Schmelaで《Wie man dem toten Hasen die Bilder erklärt(死んだ野兎に絵を説明する方法)》を行います。ボイスは頭部を蜂蜜と金箔で覆い、死んだ野兎を抱きながら展示作品を一つずつ説明するように動きました。観客は最初、外から窓越しに見ることしかできませんでした。
この行為は「難しい現代美術を動物に説明する」という風刺だけではありません。ボイスにとって蜂蜜、金、野兎、足に装着したフェルトや鉄は、それぞれ熱、思考、自然、伝導、保護と結びついた材料でした。言語による理解だけでは芸術を捉えきれないという考えも含まれています。
1960年代後半:物体とアクションがつながる
1969年の《The Pack》では、フォルクスワーゲンのバンから24台の橇が飛び出すように並び、各橇にはフェルト、脂肪、懐中電灯が積まれています。個々の《Sled》はMoMAにも所蔵されています。ここでは日用品が単なる既製品ではなく、緊急時の「生存装置」のように組み替えられています。
フェルトは保温、脂肪は蓄積されたエネルギー、懐中電灯は方向を示す光として解釈できます。ただし、これらを固定された記号辞典として読む必要はありません。ボイスは同じ材料を作品ごとに異なる関係の中へ置き直しました。
1972年、アカデミーを解任される
ボイスは美術教育への入学制限に反対し、自分のクラスへ希望者を広く受け入れました。National Galleries of Scotlandによれば、1971年冬には学生数が233人に達し、大学当局との対立が深まります。1972年、定員制を無視して志願者を受け入れ続けたことを理由に、教授職を解任されました。
しかしこの出来事は、教育を芸術から切り離すのではなく、さらに社会彫刻の考えへ押し広げる契機になります。同年のdocumenta 5では「直接民主主義のための組織」の情報オフィスを設け、100日間にわたり観客と政治・教育・社会について議論しました。
1974年:《I Like America and America Likes Me》
1974年、ニューヨークのRené Block Galleryで、コヨーテと数日間同じ空間を共有する《I Like America and America Likes Me》を行いました。National Galleries of Scotlandによれば、ボイスは空港でフェルトに包まれ、救急車でギャラリーへ運ばれ、アメリカの地面へ直接足をつけないという設定を採用しました。
ギャラリー内ではフェルト、杖、手袋、三角形の楽器、『Wall Street Journal』などを使いながらコヨーテとの距離を変化させました。作品はベトナム戦争期のアメリカへの批判、先住民文化とコヨーテの関係、ヨーロッパとアメリカの歴史など複数の問題と結びついています。ただし、先住民文化をボイス自身の象徴体系へ取り込む方法については、現代の視点から文化的投影として批判的に検討する必要もあります。
1970年代後半:社会彫刻へ
1970年代、ボイスは作品制作だけでなく、講演、政党・市民運動、教育団体、直接民主主義運動へ活動を広げます。1973年にはFree International Universityの構想を立ち上げ、1974年には作家ハインリヒ・ベルらと自由国際大学を設立しました。
1977年のdocumenta 6では《Honigpumpe am Arbeitsplatz(職場の蜂蜜ポンプ)》を設置し、巨大なポンプで蜂蜜を会場内のパイプへ循環させました。同じ会場ではFree International Universityの議論や講演が継続し、蜂蜜の循環が社会の中を流れる思考やエネルギーの比喩として機能しました。
主要作品
脂肪とフェルトによる彫刻、動物を伴うアクション、生存装置のようなオブジェ、教育・社会彫刻、都市規模の環境プロジェクト、晩年の空間作品まで、ボイスの制作が物体から社会そのものへ拡張する流れを追える8作品を選びました。作品は現在も著作権保護下にあるため、ART LIBRARYでは画像なしで掲載します。
脂肪椅子
Fettstuhl (Fat Chair) / 1964–1985 / 木、ガラス、金属、布、塗料、脂肪、温度計 / 183 × 155 × 64 cm(ヴィトリーヌ含む)
ARTIST ROOMS, National Galleries of Scotland and Tate
日常的な木製椅子と脂肪を組み合わせた代表的彫刻。脂肪は温度によって硬さと形を変えるため、固定された彫刻とは異なる時間性を持ちます。National Galleries of Scotlandは、ボイスが脂肪の変形可能性を変容とエネルギーの重要なモデルとして扱ったことを説明しています。
死んだ野兎に絵を説明する方法
Wie man dem toten Hasen die Bilder erklärt (How to Explain Pictures to a Dead Hare) / 1965 / アクション/蜂蜜、金箔、死んだ野兎、フェルト、鉄ほか / Galerie Schmela, Düsseldorfでのアクション
行為作品/写真・映像・関連資料が複数機関に所蔵
頭を蜂蜜と金箔で覆い、死んだ野兎を抱いて展示作品を説明するように動いた代表的アクション。観客は当初ギャラリー外から窓越しに見ました。蜂蜜、金、野兎、フェルト、鉄という異なる物質を組み合わせ、言語的説明だけではない知覚や理解の方法を提示しました。
橇
The Sled (Schlitten) / 1969 / 木・金属製橇、フェルト、布ストラップ、懐中電灯、蝋、コード / 35.2 × 90.5 × 34.5 cm
The Museum of Modern Art, New York
《The Pack》を構成するタイプの生存装置的オブジェ。橇にフェルト、脂肪/蝋、懐中電灯などが取り付けられ、緊急時に必要な保温、エネルギー、方向を示す道具を思わせます。MoMAは1969年作品として所蔵し、現在もARS/VG Bild-Kunst管理の作品として表示しています。
私はアメリカが好き、アメリカも私が好き
I Like America and America Likes Me / 1974 / アクション/コヨーテ、フェルト、杖、手袋、三角形楽器、新聞ほか / René Block Gallery, New Yorkでのアクション
行為作品/関連資料・写真・映像が複数機関に所蔵
ニューヨークのギャラリーでコヨーテと数日間同じ空間を共有したアクション。ボイスは空港からフェルトに包まれ救急車で運ばれ、アメリカの地面へ直接足をつけない設定を採用しました。ベトナム戦争期のアメリカ、先住民文化、自然と文明の関係など複数の問題を重ねた作品です。
傷を見せよ
zeige deine Wunde (Show Your Wound) / 1974–1975 / ミクストメディア・環境/解剖台、農具、亜鉛箱、ガラス容器ほか / 環境作品、展示空間に応じて設置
Lenbachhaus, Munich
1976年にミュンヘンのKunstforumで環境作品として設置され、1979年にLenbachhausが購入した代表的インスタレーション。医療、死、傷、治癒を思わせる物体が対になって並びます。同館によれば、取得時には現代美術の価値をめぐる大きな公共論争も起きました。
職場の蜂蜜ポンプ
Honigpumpe am Arbeitsplatz (Honey Pump at the Workplace) / 1977 / 蜂蜜、ポンプ、チューブ、機械装置/アクション・インスタレーション / documenta 6, Kasselでの会場規模インスタレーション
プロジェクト/関連資料が複数機関に所蔵
documenta 6で、ポンプによって液体の蜂蜜を会場内のパイプへ循環させた作品。同じ場所でFree International Universityによる討論や講演が行われました。蜂蜜の循環を、人間社会を流れる思考・労働・エネルギーのモデルとして可視化した社会彫刻の重要例です。
7000本の樫
7000 Eichen (7000 Oaks) / 1982–1987 / 7000本の樹木、7000本の玄武岩柱/都市規模の社会彫刻 / Kassel市内および周辺各所
Kassel, Germany/継続的な公共プロジェクト
documenta 7で開始。7000本の樹木それぞれに一本の玄武岩柱を対応させ、市内に分散して植樹しました。Dia Art Foundationの支援を受けて5年間続き、ボイス死後の1987年に最後の木が植えられました。環境、都市計画、市民参加、長い時間を作品へ組み込んだ社会彫刻の代表例です。
プライト
Plight / 1985 / フェルト、羊毛、木、金属、ガラス、水銀、グランドピアノ、黒板、温度計 / 310 × 890 × 1813 cm
Centre Pompidou, Musée national d’art moderne, Paris
Anthony d’Offay Galleryのために制作された晩年の空間作品。284本のフェルトロールで二つの部屋の壁を覆い、閉じたグランドピアノ、音符のない五線譜、温度計を配置しています。Centre Pompidouは、フェルトによる保温と吸音が暖かさ・保護と同時に閉塞・沈黙を生む、身体的な環境作品として説明しています。
戦争体験と「タタール神話」
事故は事実だが、救出物語は史実ではない
ボイスは、クリミアでの航空機事故の後、遊牧民タタール人に救助され、身体を脂肪で覆われ、フェルトに包まれて治療されたと繰り返し語りました。この物語は、脂肪とフェルトを使う理由として長く紹介されてきました。
しかしNational Galleries of Scotlandは、事故そのものは事実である一方、実際にはドイツ軍に救出されており、タタール人による救助は本人が作った「起源神話」であると明記しています。現在では、この逸話をそのまま史実として扱うことはできません。
なぜ自分自身の神話を作ったのか
重要なのは「嘘だったから作品と無関係」と切り捨てることでもありません。ボイスは自分の人生を作品の素材として構成し、墜落、死、生還、治癒、再生という物語を芸術家としての自己像へ組み込みました。
フェルトと脂肪は実際の救命処置の記録ではなくても、ボイスの作品世界では「保温」「エネルギー」「変容」「治癒」を担う材料として機能しました。したがって、史実と本人が構築した神話を区別したうえで、その神話が作品でどのように働いたかを見る必要があります。
戦争責任を神話で覆っていないかという批判
ボイスはナチ体制下のドイツ空軍に従軍した世代です。その後の作品では傷、治癒、再生という語彙を頻繁に用いました。この自己神話化が、ドイツ社会の戦争責任や本人自身の従軍経験を個人的な「再生物語」へ置き換えてしまうのではないかという批判もあります。
そのため現在のボイス研究では、本人の象徴体系をそのまま受け入れるのではなく、戦後ドイツにおける記憶、責任、自己演出という問題も含めて作品を見ることが重要です。
脂肪・フェルト・銅――材料をどう見るか
脂肪:固体と液体の間
ボイスが脂肪に惹かれた理由の一つは、温度によって状態が変わることでした。冷えれば固まり、温まれば柔らかくなり、さらに熱を加えれば溶けます。National Galleries of Scotlandは、ボイスがこの変化を、変容やエネルギーの象徴として扱ったと説明しています。
《Fat Chair》では、日常的な椅子の座面に大きな脂肪の塊を置きます。椅子は通常、人間の身体を支える安定した物体ですが、その上に時間と温度によって変化する不安定な物質が置かれます。固定された彫刻という考えが崩れます。
フェルト:温める/遮断する
フェルトには高い断熱性と吸音性があります。ボイスはその性質を、保護や熱の保存と結びつける一方、音や情報を遮断する材料としても使いました。
《Felt Suit》では人間の身体を包む衣服が、保護と隔離の両方を思わせます。《Plight》では284本のフェルトロールが部屋の壁を覆い、外部の音を吸収します。Centre Pompidouは、この空間が暖かさと保護を感じさせると同時に、閉塞や沈黙も生み出すと説明しています。
銅:伝導する
フェルトが熱や音を遮断・蓄積する材料だとすれば、銅は熱や電気を伝える材料です。Centre Pompidou所蔵《Fonds VII/2》では、積み重ねたフェルトの上に銅板が置かれています。同館は、フェルトを熱の蓄積、銅を伝導として捉え、生命やコミュニケーションを示す「エネルギーのモデル」と説明しています。
ここで重要なのは、ボイスの材料が見た目の質感だけで選ばれていないことです。熱を通す、遮る、溶ける、吸収するという物理的性質が、そのまま作品の考え方へ接続されています。
蜂蜜:社会を循環するもの
蜂蜜もボイスの重要な材料です。蜂の集団的な活動によって生まれ、流動し、栄養となる蜂蜜は、彼にとって社会や思考のモデルでもありました。《Honey Pump at the Workplace》では、実際の蜂蜜がポンプによって展示空間のパイプ内を循環しました。
材料を「何かを表す記号」として見るだけでなく、実際に流れ、温まり、伝導し、変質する物質として見ることが、ボイスを理解する鍵になります。
「アクション」とは何だったのか
演劇でも単なるパフォーマンスでもない
ボイスは自分の行為作品をしばしば「Aktion(アクション)」と呼びました。Fluxusから影響を受けていますが、短いジョークのようなイベントだけでなく、数時間、数日、あるいは社会活動そのものへ広がる場合があります。
National Galleries of Scotlandによれば、1963年の初期アクションから1986年までに約70のアクションを行いました。そこでは音、動物、脂肪、フェルト、黒板、歩行、沈黙、議論などが使われています。
身体は「作品を作る人」ではなく作品の一部になる
《死んだ野兎に絵を説明する方法》では、ボイス自身の身体、金箔を貼った頭、野兎、足のフェルトと鉄、歩く速度がすべて作品を構成します。《I Like America and America Likes Me》でも、作家とコヨーテの距離が時間とともに変化します。
完成した物体だけが作品なのではなく、その場で起きた時間、身体、他者との関係が作品になります。その後に残った写真、道具、フェルト、杖などは、アクションの痕跡として別の作品やヴィトリーヌへ組み替えられることもありました。
「シャーマン」という自己像
ボイスはフェルト帽、フィッシングベスト、杖など特徴的な服装を身につけ、治癒や儀式を思わせる行動を行いました。そのため「シャーマン」と呼ばれることが多くあります。National Galleries of Scotlandも、ボイス自身の人格と人生物語が「シャーマン、羊飼い、導く者」という芸術家像と密接に結びついていたと説明しています。
ただし、それを実際の特定文化のシャーマニズムと同一視するのは適切ではありません。ボイスが20世紀ヨーロッパの芸術家として複数文化のイメージを取り込み、自分自身の象徴的な人物像を作ったものとして見る必要があります。
ボイスの作品をどう見るか
まず材料の物理的性質を確認する
フェルトなら保温・吸音、脂肪なら温度による変形、銅なら伝導、蜂蜜なら粘性と循環というように、最初に材料が現実世界でどう働くかを見ると作品を理解しやすくなります。
ボイスの作品では、その物理的性質が社会的・精神的な概念へ拡張されています。最初から象徴だけを暗記するより、材料の働きから考える方が自然です。
一つの意味に固定しない
フェルトは保護すると同時に遮断します。脂肪は生命を支えるエネルギーである一方、腐敗もします。コヨーテは自然、アメリカ、先住民文化など複数の連想を持ちます。
ボイスの作品では、一つの素材や動物が必ず一つの意味に対応するわけではありません。相反する意味が同時に残ることが重要です。
「物」を見るだけでなく、その前後の行為を見る
美術館で《Sled》《Felt Suit》やヴィトリーヌを見ると、静かな彫刻に見えます。しかし、それらの一部はアクションで使われたり、社会活動と関連したりしています。
作品がいつ、どこで、何のために使われ、その後どのように展示物になったのかを追うと、物体が固定された完成品ではなく、長い活動の一断面であることが分かります。
本人の説明をそのまま真実として受け取らない
ボイスは自作について大量に語り、図を描き、講演を行いました。そのため本人の言葉は非常に重要です。しかし「タタール神話」の例が示すように、自分自身の経歴さえ作品として構成しました。
本人の説明を唯一の正解とするのではなく、史実、作品の物質性、当時の政治状況、現在の研究を並べて見る必要があります。
社会彫刻と「すべての人は芸術家である」
彫刻を物体から社会へ広げる
ボイスの「社会彫刻」は、社会全体を人々が共同で形づくる彫刻として捉える考えです。National Galleries of Scotlandは、1970年代のボイスが「社会=芸術作品」という考えを発展させ、講演や討論そのものを社会変革の手段として扱ったと説明しています。
このとき彫刻の材料は石や金属ではありません。教育制度、経済、政治、コミュニケーション、人間の思考や意思までが「形づくられるもの」になります。
「すべての人は芸術家である」は職業の話ではない
ボイスの有名な言葉「Jeder Mensch ist ein Künstler(すべての人は芸術家である)」は、全員が画家や彫刻家になればよいという意味ではありません。National Galleries of Scotlandは、この言葉を、すべての人間が持つ創造的な能力を社会形成へ用いるべきだという考えとして説明しています。
つまり「芸術家」は職業名より広い概念です。考える、判断する、制度を変える、他者と協力するという行為まで創造として捉えています。
社会彫刻には政治思想も含まれる
ボイスは東西の資本主義的体制や政党政治を批判し、直接民主主義、教育改革、環境問題をめぐる運動に参加しました。1970年代には複数の政治・教育団体を設立し、1979年にはドイツ緑の党の設立期にも関わりました。
したがって社会彫刻は抽象的な「みんなで創造的になろう」という標語だけではありません。具体的な教育制度、政治参加、環境政策へ関わろうとした実践でした。一方で、その理念がどこまで現実的な政治制度として実現可能だったのかについては、当時から批判や議論があります。
教育・黒板・議論を作品にする
教室が作品になる
デュッセルドルフ美術アカデミーでボイスは、入学試験で排除された学生まで自分のクラスに受け入れました。これは大学制度との衝突を生みましたが、ボイスにとって教育は芸術の外側にある制度ではなく、社会を変化させる直接的な実践でした。
1972年に解任された後も、講演、討論、Free International Universityなどを通じて教育活動を続けました。
黒板は完成作品ではなく思考の痕跡
講演では黒板へ円、矢印、言葉、図式を描きながら話しました。National Galleries of Scotland所蔵の1974年の黒板では、人間、動物、自然を線で結び、社会有機体の考えを説明しています。
講演後、その黒板が美術館に保存されることで、口頭で行われた議論の一時的な図が作品になります。思考の過程と美術作品の境界が曖昧になります。
《Honey Pump at the Workplace》
1977年documenta 6の《Honey Pump at the Workplace》では、蜂蜜を循環させる装置と、Free International Universityによる100日間の会議・討論が同じ場で展開しました。
蜂蜜の物理的な循環と、会場内を巡る人、言葉、思考を重ねることで、社会彫刻を文字通り「循環するシステム」として可視化しました。物体、機械、教育、討論が一つの作品になっています。
《7000 Oaks》――都市そのものを彫刻する
7000本の木と7000本の玄武岩
1982年、documenta 7でボイスは《7000 Eichen(7000 Oaks)》を開始しました。計画はカッセル市内と周辺に7000本の樹木を植え、それぞれの木の隣に玄武岩の柱を一本ずつ設置するというものでした。Dia Art Foundationによれば、プロジェクトは同財団の大規模な支援を受け、5年間かけて進められました。
最初に7000本の玄武岩がdocumenta会場前へ積まれ、木が一本植えられるたびに石が一本ずつ市内へ移されました。そのため石の山が減ること自体が、都市全体で進むプロジェクトの可視的な指標になりました。
完成は作家の死後
ボイスは1986年に死去し、7000本すべてが植えられる瞬間を見ることはできませんでした。Diaによれば、最後の木は1987年、documenta 8の開幕時に植えられました。
作品が作家一人の身体や寿命を超え、行政、市民、支援者、植樹する人々によって継続されたことは、社会彫刻の考えを最も分かりやすく示しています。
木は成長し、石は変わらない
樹木は年々成長し、枝葉を広げます。一方、玄武岩はほぼ同じ大きさのまま残ります。時間が経つほど二つの比率が変化し、作品は完成後も変わり続けます。
《7000 Oaks》は環境保護のメッセージを持つと同時に、公共空間、都市計画、共同参加、時間、生物と非生物の関係を扱う長期的な彫刻でもあります。
ボイスをどう位置づけるか
Fluxusだけでは説明できない
ボイスはFluxusと密接に関わりましたが、典型的なFluxus作家として一括りにするのは難しい作家です。Fluxusから、日常物、音、イベント、反芸術的な態度の刺激を受けながら、ボイス自身は神話、治癒、教育、政治、社会変革へ独自に展開しました。
コンセプチュアル・アートとも違う
作品の考え方や言葉が重要という点ではコンセプチュアル・アートと接します。しかしボイスは物質を捨てませんでした。むしろ脂肪の匂い、フェルトの熱、銅の伝導性、蜂蜜の粘りなど、身体で感じる材料の性質を非常に重視しました。
アイデアと物質を対立させず、思考そのものも一種の物質的エネルギーとして扱ったところに独自性があります。
芸術家自身を作品化した
フェルト帽、ベスト、杖、語り口、タタール神話、シャーマン的な振る舞いまで、ボイスは自分自身の人物像を作品の一部として作りました。そのカリスマ性は社会彫刻の考えを広める力になった一方、「すべての人は芸術家」と言いながら、ボイス本人が特別な預言者のように見えるという矛盾も生みました。
この矛盾はボイスを批判的に見るうえで重要です。民主的参加を唱える思想と、強烈な個人崇拝を生みやすい芸術家像が同時に存在しています。
作品が物体から制度へ拡張した
ボイスの影響は、特定のフェルト彫刻やパフォーマンス形式を真似した作家だけに限りません。教育、政治、エコロジー、コミュニティ、討論、都市環境を芸術実践として扱う考えは、ソーシャリー・エンゲージド・アートや参加型美術など後の多くの実践へ大きな参照点を与えました。
ただし、現在の社会参加型美術がすべてボイスから直接派生したわけではありません。重要なのは、20世紀後半に「作品とは何か」「芸術家は社会で何をするのか」という範囲を大きく押し広げた一人だったことです。
画像利用について
ボイスは1986年に死去しており、作品は現在も著作権保護下にあります。MoMAは2026年現在、ボイス作品をArtists Rights Society(ARS)/VG Bild-Kunstの著作権管理下として表示し、National Galleries of ScotlandもEstate of Joseph Beuysの著作権表示を掲載しています。ART LIBRARYでは主要作品画像を無断転載せず、現段階では作品情報と公式所蔵館・研究機関へのリンクで構成します。
略年譜
- 1921
- 5月12日、ドイツのクレーフェルトに生まれ、主にクレーフェで育つ。
- 1941–1945
- 第二次世界大戦中、ドイツ空軍に所属し無線士・銃手として従軍。
- 1944
- クリミアで航空機事故に遭い負傷。後にタタール人に脂肪とフェルトで救助されたという自己神話を形成する。
- 1947
- デュッセルドルフ美術アカデミーへ入学。エヴァルト・マタレーらに学ぶ。
- 1951
- アカデミーを卒業。彫刻、ドローイングを中心に制作。
- 1953
- クランネンブルクのファン・デル・グリンテン兄弟宅で最初の個展。
- 1961
- デュッセルドルフ美術アカデミーの記念碑彫刻教授に就任。
- 1962–1963
- Fluxusとの交流を深め、公開アクションを開始。
- 1964
- 《Fat Chair》制作開始。
- 1965
- Galerie Schmelaで《死んだ野兎に絵を説明する方法》を実施。
- 1967
- メンヒェングラートバッハ市立美術館で大規模個展。政治・社会活動も拡大。
- 1969
- 《The Pack》《Sled》を制作。
- 1970
- 《Felt Suit》を制作。スコットランドを訪れ《Celtic (Kinloch Rannoch) Scottish Symphony》を実施。
- 1972
- 入学制限を拒否して希望者を受け入れ続けたことをめぐり、デュッセルドルフ美術アカデミーを解任。documenta 5で直接民主主義の情報オフィスを100日間運営。
- 1973–1974
- Free International Universityの構想・設立を進める。
- 1974
- ニューヨークで《I Like America and America Likes Me》を実施。
- 1976
- 《Show Your Wound》をミュンヘンで設置。ヴェネツィア・ビエンナーレ西ドイツ館にも参加。
- 1977
- documenta 6で《Honey Pump at the Workplace》とFree International Universityの討論活動を展開。
- 1979
- Solomon R. Guggenheim Museumで生前最大規模の回顧展。ドイツ緑の党の設立期にも関与。
- 1982
- documenta 7で《7000 Oaks》を開始。
- 1985
- ロンドンのAnthony d’Offay Galleryのために《Plight》を制作。
- 1986
- 1月23日、デュッセルドルフで死去。64歳。
- 1987
- 《7000 Oaks》最後の樹木がdocumenta 8開幕時に植えられ、計画が完了。
参考資料・出典
本ページはNational Galleries of Scotland / ARTIST ROOMS、The Museum of Modern Art、Solomon R. Guggenheim Museum、Centre Pompidou、Dia Art Foundation、Lenbachhausなどの美術館・研究機関資料を参照してART LIBRARYが独自に執筆しました。原文の全文翻訳ではありません。
- National Galleries of Scotland — Joseph Beuys
- National Galleries of Scotland — Joseph Beuys Learning Resource
- Solomon R. Guggenheim Museum — Joseph Beuys
- The Museum of Modern Art — The Sled
- National Galleries of Scotland — Fettstuhl [Fat Chair]
- Lenbachhaus — Joseph Beuys
- Centre Pompidou — Fonds VII/2
- Dia Art Foundation — Joseph Beuys, 7000 Oaks
- Centre Pompidou — Plight
- Centre Pompidou — Joseph Beuys / Art et écologie
資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY