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1968–1975

石や木を置き、ものと空間の関係を問い直す

日本の「もの派」の誕生

美術館で石が一つ床に置かれているのを見たとします。近くには木材や鉄板があり、そこには人や風景が描かれているわけでも、石が動物の形に彫られているわけでもありません。なぜこれが芸術作品なのでしょうか。1960年代末、日本で制作を始めた若い芸術家たちは、まさにその問いを作品を通じて考えました。石の重さ、木材の長さ、鉄板の硬さ、床との接触。目の前にあるものと空間の関係を新しく経験することが、作品の中心へ移っていきます。

この動向は後に「もの派」と呼ばれるようになります。1968年、神戸の須磨離宮公園に関根伸夫が制作した《位相―大地》は、その歴史を考えるうえで欠かせない作品です。地面に円柱形の穴を掘り、取り出した土を隣に同じ形の円柱として積み上げる。単純にも見える操作によって、大地の内部と外部、物質の量と空間の広がりが、今までと違う姿で現れました。

同じ頃、李禹煥は石とガラス、鋼板などを組み合わせ、ものと見る人が出会う関係を考えました。菅木志雄は石や木、パラフィンなどの置かれた「状況」を追究し、小清水漸は紙と石の接触や、天井から垂れる一本の線によって空間を意識させました。吉田克朗、成田克彦、高山登、榎倉康二、原口典之らも、異なる材料や方法で従来の作品概念を揺さぶります。

もの派は、全員が同じ主張のもとに活動した正式な団体ではありません。共通の実験を行った仲間の存在に加え、理論をめぐる意見の違いや、後世の展覧会による分類の変化もあります。初期作品の多くは一時的であり、現存する写真や再制作から歴史をたどる必要があります。そのため、一つの作品が作られた当時の出来事と、後からもの派の代表例として紹介されるようになった経緯を分けて考えることも大切です。

当時の日本は高度経済成長のただ中にあり、1968年前後には大学紛争や反戦運動が広がっていました。東京では新しい美術の展示が相次ぎ、1970年には中原佑介が企画した「人間と物質」展に、日本と海外の作家が集まりました。もの派の実践は、同時期にアメリカやヨーロッパで進行していた素材と制作行為の実験とも比較できます。そこには共通点とともに、作家ごとの思想や表現の違いがあります。

「日本のもの派」という呼び名は、その活動が主に日本の美術界で形成されたことを示します。理論的に重要な役割を果たした李禹煥は朝鮮半島に生まれ、日本で哲学を学び、韓国やヨーロッパとも関わりながら制作しました。もの派の歴史は、日本の中だけで完結する物語として捉えるより、戦後東アジアの経験と国際的な美術の動向が交差する歴史として読むことで輪郭がはっきりします。

本記事では、1968年の《位相―大地》から1975年頃までを中心に、具体的な作品と資料をたどります。なぜ作家たちは完成した形を作ることから距離を取り、石や木を置く行為へ向かったのか。ものは場所を変えるとどう見え、見る人の身体はその関係へどう入るのか。作品を写真でしか見られなくなったとき、何を歴史として残せるのか。こうした問いを通して、戦後日本美術の大きな転換を見ていきます。

「もの派」はどのような美術だったのか

石や木をそのまま置くと、何が変わるのか

床に石が一つ置かれ、その近くに鉄板や木材がある。絵画のような像も、彫刻のように彫り上げられた形も見当たらない。1960年代末の日本で、こうした光景を美術として提示する若い作家たちが現れた。彼らが注目したのは、石の重さや鉄の硬さ、布の柔らかさと、それらが床や壁、周囲の空間と取り結ぶ関係だった。

目の前にあるものを改めて見ると、石が床を押す力、板が傾く理由、物体同士の距離など、普段は意識しない条件が感じられる。もの派の作品では、その気づきが鑑賞の中心となる。自然物と工業製品を組み合わせた作品も多く、人の手によって設定された状況の中で、ものの存在が新鮮に立ち上がる。(参照:国立国際美術館|もの派―再考)

運動の名前と、作家たちの実際の活動

「もの派」という名称は、1968年頃から1970年代前半の美術をまとめる際に使われる。印象派のような共同声明や正式な会員制度によって生まれた団体ではない。美術学校や画廊を介して交流した作家たちの実験が重なり、批評や展覧会を通して、後から共通の動向として理解されるようになった。

作家ごとに制作の動機も方法も異なる。李禹煥は知覚と出会いの問題を理論化し、関根伸夫は空間の見え方を変える彫刻を作り、菅木志雄はものの置かれた状況を追究した。高松次郎や野村仁まで含めるかについても研究者によって違いがある。名称を手掛かりとしながら、個々の作品を具体的に見る必要がある。(参照:artscape|もの派・美術用語解説)

自然物を並べただけの作品と考えない

石や土を用いたことから、もの派は自然への回帰や東洋的な静けさと結びつけて説明されることがある。実際にはガラス、鋼板、ビニール、パラフィン、電球、ゴムなどの工業製品も広く使われていた。作品に現れる緊張や違和感は、異なる性質を持つものを同じ空間に置くことで生まれる。

しかも、その配置には作家の意図や作業がある。板を支える角度を選び、石を落とし、布を引っ張り、穴を掘る行為が行われる。鑑賞者に求められたのは、ものを神秘的に拝むことより、出来事が成立する現実の条件を意識することだった。この点から、当時の国際的な彫刻やコンセプチュアル・アートとも比較できる。(参照:グッゲンハイム美術館|李禹煥ともの派の作品)

1960年代の日本で始まった転換

高度経済成長と、作品を作ることへの疑問

1960年代後半の日本では、高度経済成長によって都市と工業生産が急速に変化していた。同時に大学紛争、ベトナム戦争への抗議、国家や権威への批判が広がり、芸術家の役割も問い直された。新しい造形物を次々に生産することが、そのまま新しい芸術になるのか。若い作家たちは作品の成立条件に関心を向け始める。

この時代の美術は政治的なスローガンだけで説明できない。作家たちは個別の主題を直接描く代わりに、ものを見る習慣や、作者が素材を思い通りに支配する方法を疑った。社会全体で価値と権威が揺れていた状況と、彫刻や絵画の内部で起きた変化が、同じ時間の中で進行していた。(参照:国立国際美術館|1968年展・新しい美術の模索)

高松次郎から続く、現実と知覚のずれ

もの派に先行する重要な存在が高松次郎である。影や遠近法、数の作品を通して、高松は見えているものと実際に存在するものの差を探っていた。1967年の《遠近法の椅子とテーブル》では、日常的な家具が通常の遠近法の感覚を裏切る姿に変わり、見る人は自分の知覚を疑うことになる。

この探究は、もの派とそのまま重なるわけではない。高松は自身をもの派の一員とみなしていなかったと伝えられる。それでも、作家の表現内容より現実の成り立ちや見ることの条件へ関心を移す動きは、若い世代へ重要な刺激を与えた。国立国際美術館も、もの派の形成を高松らの実践との関係から再検討している。(参照:国立国際美術館|もの派―再考)

多摩美術大学と横浜の制作仲間

関根伸夫、吉田克朗、小清水漸、菅木志雄らの活動を考えるうえで、多摩美術大学とその周辺の交流は欠かせない。作家たちは斎藤義重の指導を受けた環境で、構成、素材、現代彫刻の理論を学び、卒業後も横浜などで制作場所と議論を共有した。実験は孤立した個人のひらめきから始まったものではなかった。

当時の若い作家にとって、画廊に作品を発表することと、仲間の制作現場で手を動かし議論することは密接につながっていた。1968年に関根が大地を掘る作品を作った際にも、同世代の作家が制作を支えた。もの派は、思想の一致から発足した団体というより、同じ時代の問いを共有する制作上の関係から育っていった。(参照:国立国際美術館|吉田克朗・作家解説)

1968年、関根伸夫《位相―大地》

神戸の公園に現れた穴と土の円柱

1968年10月、神戸の須磨離宮公園で開かれた第1回現代彫刻展に、関根伸夫は《位相―大地》を出品した。地面を円柱状に深く掘り、その土を隣に同じ形と大きさの円柱として積み上げる。鑑賞者の前には、地中へ続く空洞と地上へ立つ土の塊が並ぶ。土の総量は操作の前後で連続しているのに、空間の印象は大きく変わる。

普通なら土を掘り出した後に何かを建設する。《位相―大地》では掘る行為と、掘り出された土そのものが作品である。穴は欠落した形であると同時に、地面の中へ新たに現れた空間となる。人間が造形した二つの円柱と、もともとそこにあった大地が、同じ作品として経験される。(参照:国立国際美術館|もの派―再考)

《位相―大地》という題名が示す考え

「位相」という言葉は、関根が関心を寄せた位相幾何学に由来する。ものの量や形を単純に変えるというより、空間の関係を別の状態へ移してみせる発想がそこにある。円柱状に積み上げた土と、その土を取り去った空洞を隣り合わせることで、同じ大地の内側と外側が同時に意識される。

作品の重要性は、巨大な造形物を完成させた技術だけでは説明できない。穴があるために地面の平坦さが見え、盛り土があるために地中にあった量が想像される。互いが互いを成立させる関係が、見慣れた大地を異なるものにする。この発想が、その後のもの派を語る際の出発点になった。(参照:美術批評家・吉竹美香|もの派の形成と制作)

作品が残らないことと、写真の役割

《位相―大地》は恒久的な彫刻として保存された作品ではない。屋外の土を掘って作った状態は展覧会の後に失われ、制作時の写真がその姿を現在へ伝えている。村井修による記録写真は、もの派の誕生を象徴するイメージとして美術史の本や展覧会で繰り返し紹介されてきた。

作品が失われるという性質は、もの派が後年どのように語られるかにも関わる。写真は穴の深さや周囲の風景を伝えるが、現地で大地と身体が向き合った感覚は別の経験である。記録が歴史を支え、同時に記録からは見えにくい部分が生まれる。もの派を理解するには、残された写真と当時の展示条件を併せて読む必要がある。(参照:国立国際美術館|もの派―再考)

《位相―大地》の後に生まれた議論

見える形を作ることから、存在する条件へ

関根の作品を見た李禹煥は、形を新しく作ったこと以上に、世界が目の前へ現れる仕方の変化に可能性を感じた。土の塊と穴は、それぞれ単独の彫刻として完結しない。大地、空間、鑑賞者の立ち位置が一体となって経験される。李は、この出来事を自らの哲学的な思考と結びつけて論じた。

ここで焦点になるのは、作家が自分の考えを物体に封じ込めるという従来の図式である。関根の作品では、制作した当人も、見ている人も、もともとある世界を新しく感じ取る側になる。ものが作者の意図を越えて現れるという認識が、もの派の議論を支える重要な手掛かりとなった。(参照:美術史研究|李禹煥と戦後日本のもの派)

李禹煥の論考が広げた問題

李は1969年に「事物から存在へ」などの議論を展開し、1970年には「出会いを求めて」を発表した。これらは単純な作品解説を越え、近代美術の制作観や、人間が対象を認識する方法への問いを含んでいた。作家が新しい物体を作り出す活動の限界を考え、すでに存在する世界との関係を芸術の重要な場として捉えたのである。

李が哲学を学んだ背景は重要だが、もの派の作品を難解な用語へ置き換える必要はない。石がガラスを割る瞬間や、土の穴が地面を変える状態を具体的に見れば、理論がどのような現象から考えられたかが伝わる。文章と作品は互いを説明し合う関係にあった。(参照:アートプラットフォームジャパン|李禹煥・作家資料)

「作らない芸術」という説明の限界

もの派の特徴として、素材に手を加えず、そのまま提示したことが挙げられる。実際の作品には、穴を掘り、木材を切り、石を落とし、紙を配置するといった多くの作業が含まれている。作家が完全に何もしなかったという説明では、そうした行為によって状況が生まれる過程を捉えられない。

重要なのは、どの程度の加工をしたかという量の問題にとどまらない。作者の構想を実現するために素材を徹底して従わせる制作と、素材の性質や場所の条件を受け入れながら状況を作る制作とでは、作品への向き合い方が異なる。もの派の作家たちは、その違いをそれぞれの方法で探っていた。(参照:グッゲンハイム美術館|李禹煥ともの派の作品)

李禹煥の思想と「出会い」

韓国から日本へ、哲学と美術のあいだで

李禹煥は1936年に朝鮮半島南部で生まれ、1956年に来日した。日本大学で哲学を学びながら制作を続け、1960年代末にもの派の理論的な中心人物として知られるようになった。日本で形成された動向に深く関わりつつ、韓国と日本の双方の歴史や思想に触れてきた経歴を持つ。

この経歴は、もの派を日本文化だけに由来する様式と理解することの難しさを教える。李の文章は現象学など欧州哲学と東アジアの思想的背景を横断し、近代化と人間中心的な制作観を問い直していた。もの派を国境の中に閉じた物語にしないためにも、李の存在を丁寧に位置づけたい。(参照:NTTインターコミュニケーション・センター|李禹煥)

「出会い」を作品の中心に考える

李の考える「出会い」は、誰かと偶然顔を合わせるという意味だけに収まらない。目の前の石、床、空気、ガラス、そこへ立つ自分の身体を、あらかじめ知っているものとして処理する習慣から離れることに関わる。ふだんは道具や材料として扱うものと、思いがけない関係を結び直す経験が問題にされる。

石は単なる彫刻の材料ではなく、重量や時間を帯びて存在する。ガラスは透明であるために普段は見過ごされるが、石が触れて割れれば突然その性質が現れる。作家の仕事は、こうした出会いが起きる場を整えることになる。李の議論を知ると、簡潔な配置に多くの思考が含まれていることが見えてくる。(参照:みすず書房|李禹煥『出会いを求めて』)

人間とものを上下関係に置かない

近代の造形では、素材は作者が形を与える対象として理解されることが多かった。李は人間の意志が世界のすべてを決めるという前提を再検討し、人ともの、自然物と工業製品、作品と空間が互いに働きかけ合う関係を重視した。素材の抵抗や、予想外の変化は制作上の失敗として処理されない。

この思想は当時の近代化や物の大量生産への批評とも関わっていた。ものを用途や所有の対象としてしか見なくなる感覚から離れ、別の関係を経験することが芸術の可能性になる。作家がすべてを説明してしまう空間より、見る人が自身の知覚に気づく余地を持つ空間が重要視された。(参照:グッゲンハイム美術館|李禹煥展・概要)

李禹煥の作品に現れる素材の関係

石とガラスが接触する瞬間

李の1968年の作品《現象》や1969年の《現象と知覚》の系列では、石、ガラス、鉄板、ゴムなどが組み合わされる。石をガラスへ落として割る作品は、自然物と工業製品が接触する一瞬を示す。ひびは作者が筆で描いた図柄ではない。石の重さ、ガラスの脆さ、落下の行為が重なって現れた具体的な痕跡である。

割れ目が生じた後、鑑賞者はガラスという素材が持っていた透明さと脆さを同時に感じる。石もまた単なる重しから、出来事を生じさせた存在として見直される。残された配置は、物体の説明に加え、その場で起きた時間を想像させる。ここにもの派が扱う関係の多層性がある。(参照:グッゲンハイム美術館|李禹煥ともの派の作品)

測る道具が思い通りに働かなくなる

1969年の《現象と知覚A》では、目盛りを付けたゴムの帯の上に石を置く。石の重さによって帯が伸びたり歪んだりすると、等しい間隔を示すはずの目盛りが安定しなくなる。私たちが当たり前に頼っている測定の仕組みも、実際の物質に触れれば変化することが目に見える。

この作品に大掛かりな装飾はない。目盛り、ゴム、石の組み合わせによって、数字で世界を把握しようとする感覚と、ものがその場所で示す現実との間にずれが生まれる。物理的な変化と考える行為が同時に始まることが、もの派の豊かさの一つだった。(参照:グッゲンハイム美術館|李禹煥ともの派の作品)

《関係項》と、場所によって変わる作品

李は1972年、従来の立体作品を含めて《関係項》という名称を用いるようになった。石、鋼板、ゴム、布、クッションなどの配置は、置かれる部屋の寸法、光、鑑賞者が通る場所によって経験が変わる。物体の形を保存しても、配置された環境を無視すれば作品の重要な部分が失われる。

例えば石と柔らかなクッションが接する作品では、石の重量と布製品の柔らかさが互いを強く意識させる。鑑賞者はそれらの間を歩き、床との距離や影の変化を経験する。李の作品は独立した一個の彫刻という範囲を越え、複数の要素が関係し続ける状態として成立する。(参照:グッゲンハイム美術館|李禹煥回顧展・年表)

菅木志雄が追究した「状況」

李禹煥とは異なる思考の道筋

菅木志雄は1944年に盛岡で生まれ、多摩美術大学で学んだ。1968年頃から自然物と工業製品を置き合わせる制作を始め、やがて「状況」という独自の考えを展開する。李禹煥が出会いと知覚の問題を重視したのに対し、菅は、あるものが他のものや場所に依存しながら存在する状態を、多数の具体的な配置によって探った。

木や石を同じ種類のものとしてまとめず、一つ一つがどんな力を受け、どの場所を占めるかを見る。床面の境界、壁の角、窓、屋外の地形なども作品の成立に関わる。菅の仕事は、ものが自分だけで完結するという見方を疑い、周囲とのつながりに着目する点で、もの派の内部にも独自の広がりをもたらした。(参照:国立国際美術館|菅木志雄・作家解説)

1969年《並列層》とパラフィンの物質

1969年、菅は田村画廊で《並列層》を発表した。パラフィンを用いて大きな囲いのような構造を作り、その物質が積み重なった状態を展示空間へ置く。工業材料であるパラフィンは、木や石とは異なる光沢、質感、透け方を持ち、塊であることと複数の層からなることを同時に感じさせる。

同作は後年の展覧会で再制作され、その都度場所や規模に応じて提示されてきた。作品をただ一つの保存物として扱うと、こうした変化を理解しにくい。重要なのは、素材をどのように立ち上げ、その周囲にどんな状況が生まれるかという制作上の関係である。(参照:菅木志雄公式サイト|《並列層》)

1970年《ソフト・コンクリート》

1970年の《ソフト・コンクリート》では、四方に置いた鋼板とコンクリートの塊を組み合わせ、硬い材料のはずのコンクリートを、落ち着かない状態として提示した。素材の名称から想像する性質と、目の前にある形との間にずれが生まれる。作家が与えた配置によって、素材が持つ抵抗や重さが強く感じられる作品である。

鋼板がつくる境界と、内部に置かれたコンクリートとの緊張は、彫刻の台座や独立した塊という考えを揺さぶる。作品を完成した形として眺めながらも、周囲の床や壁、材料を動かした人の行為まで意識することになる。菅のいう状況は、このように複数の要素が互いの存在を決める場として現れる。(参照:菅木志雄公式サイト|作家と初期作品)

菅木志雄の1971–1972年の展開

水面に石を浮かせる《状況律》

1971年、菅は宇部市で開催された野外彫刻展に《状況律》を発表した。水面に置いた長い樹脂製の板の上へ石を並べ、重い石が水に浮かぶ板によって支えられる状態を作った。石は自力で浮いているわけではなく、水、板、重さの関係によって一時的にその位置にある。

遠目には石が水の上に並んでいる不思議な光景に見える。近づくと、板がたわむことや、水面が動くことまで作品の一部として感じられる。どれか一つの要素を取り除けば状態は変わる。ものを単体で見る習慣から、その成立を支える条件へ視線を移す作品である。(参照:菅木志雄公式サイト|《状況律》)

置かれた場所が変われば状況も変わる

《状況律》は1995年の展覧会で屋内用に再構成され、2017年のヴェネツィア・ビエンナーレでも再制作された。1971年の水辺、屋内の水槽、ヴェネツィアの水面では、空間の広さも光の状態も異なる。作品の構成要素が近くても、見る人が経験する状況は毎回変化する。

これは作品の再展示が複雑な行為であることを示す。寸法と素材だけを厳密に複製する方法では、場所の違いを説明できない。菅の制作では、その環境に応じてもの同士の関係を成立させることが重要になる。再制作も新たな状況を生む行為として理解できる。(参照:菅木志雄公式サイト|《状況律》とヴェネツィア再制作)

1972年《臨界状況》と境界の意識

1972年、菅は《臨界状況》を発表した。作品名に含まれる「臨界」は、ものがそのまま安定しているように見えても、置かれる条件が少し変われば別の状態へ移り得ることを想像させる。菅は、単一の素材の美しさにとどまらず、ものを支える境界や周囲の条件に継続して関心を向けた。

同作は2005年の国立国際美術館「もの派―再考」展でも紹介された。1970年代初頭の菅の仕事を通して見えるのは、ものの位置が周囲の空間を変え、その空間が逆にものの意味を変えるという関係である。この関心は、1975年以降の屋外での作業やさまざまな場所での設置にもつながっていった。(参照:国立国際美術館|もの派―再考)

関根伸夫と吉田克朗の制作を読む

関根の「位相」から広がる別のかたち

《位相―大地》以後の関根伸夫は、素材と空間の関係をさまざまな作品へ展開した。土の空洞と円柱のように、見る人の想像を引き起こす構造を用いながら、素材がもともと持っている性質を作品へ取り込んだ。作者が形を整える行為と、世界がすでに備えている量や力のあいだが制作の問題となる。

関根をもの派の創始者という一つの役割へ固定すると、作品ごとに異なる実験が見えにくくなる。初期の関根は位相幾何学への関心を持ち、現実と知覚のずれを造形によって問い、そこから物質との接触へ進んだ。もの派の成立は、関根自身の関心の変化を追うことによって、より具体的に理解できる。(参照:美術批評家・吉竹美香|もの派の形成と制作)

吉田克朗《Cut-off》と素材の断面

吉田克朗は1968年、机を切断した《Cut 1》を発表し、翌年には鉄管へ綿を詰めた《Cut-off》などを制作した。日常の道具を本来の用途から外し、内部や断面を露出させることで、ものの存在を改めて意識させる。鉄の硬さと綿の柔らかさは、隣り合うことで互いの性質をはっきり示す。

この方法は、単に異質な素材を並べて驚かせることに尽きない。普段は機能のために組み合わされる材料が、美術空間で別の関係を結ぶ。何を支え、何が支えられるのか。吉田はものの接触と組み合わせを通して、ありふれた物体が自明な存在ではないことを示していった。(参照:国立国際美術館|吉田克朗・作家解説)

《Cut-off No.2》の鉄板と重力

吉田の1969年作《Cut-off No.2》では、角柱と厚さの異なる鉄板が組み合わされ、鉄板は重みを受けて異なる角度にたわむ。重力という目に見えない力が、鉄の変形を通して現れる。作品の形は幾何学的に設計された部分と、素材が実際に力を受ける部分の関係から成立する。

この作品は後年に再制作され、国立国際美術館には1969/1990年の作品として収蔵されている。制作年と再制作年を区別することは、もの派を理解するうえで重要だ。素材の挙動を重視する作品では、再制作されたものが当時と全く同じ状態であるとは限らない。資料と展示の両方からその成立を考える必要がある。(参照:国立国際美術館|1968年展・新しい美術の模索)

小清水漸――紙と木材に触れる

巨大な石を紙で包むという行為

小清水漸の1969年の《かみ》の系列では、大きな石と和紙が関係づけられる。紙は通常、描いたり書いたりする平面として理解される。ところが、大きな石と出会うことで、紙の薄さや裂けやすさ、包むことの難しさが目の前へ現れる。石もまた、和紙を押し上げ、紙の張りを生じさせる存在として経験される。

この作品では、石の形を美しく造形し直す作業は中心にならない。石の表面と紙の表面が触れ合い、その間に生まれる状態が問題になる。石と紙のどちらが主役なのかを決めるより、両者が接触するとき初めて感じられる重さや質感を見ることが、作品への入口になる。(参照:東京画廊|小清水漸・作品資料)

《垂線》が指し示す床上の一点

1969年の《垂線》では、天井からピアノ線でつるされた真鍮製の分銅が、床の一点を指し示す。垂直を測る道具としての分銅は、彫刻を制作するための補助器具にもなる。小清水はその器具を展示空間に置くことで、完成した形の背後にある垂直、重力、位置という条件を直接見せた。

分銅が指す一点には、特別な装飾も印も必要ない。天井から床までの空間が一本の線によって意識され、通常は何もない場所にも緊張が生じる。鑑賞者は作品の部品だけでなく、自分が立つ空間の高さや床面まで感じるようになる。測る行為そのものが、見ることを変える。(参照:東京画廊|小清水漸《垂線》)

《表面から表面へ》と木材の連なり

1971年の《表面から表面へ》では、加工された木材が多数組み合わされ、素材の表面と表面が出会う関係が提示される。木は彫刻の材料として古くから使われてきたが、ここでは木材を人や動物の形に変えることが目的にならない。木の断面、長さ、重み、隣接する部材との接触そのものが鑑賞の中心となる。

小清水の仕事をたどると、もの派が「自然に手を加えない」という一文で説明できないことがよく分かる。木材を切る行為にも、紙を扱う作業にも、人の手による判断がある。そうした判断が素材の性質を隠す方向に働くのか、それとも素材を新しく経験させるのか。その違いが作品の理解を深める。(参照:東京画廊|小清水漸・作品資料)

成田克彦と高山登――燃焼と記憶

成田克彦《SUMI》と炭化した木

成田克彦は木材を焼き、炭化した状態を作品として提示した。1970年の《SUMI 5,6》は、燃えるという出来事の後に残る物質を示している。木は燃焼によって形や表面を変え、硬さや脆さも変化する。目の前の炭を見れば、そこにあった熱や時間を想像することになる。

木材を削って狙い通りの像を作る彫刻と異なり、成田は火が起こした変化を受け止める。人が火を使うという操作は明確に存在し、その後の物質の変化には人が細部まで支配しきれない部分が残る。もの派の中で、ものが変化する時間を考えるうえで重要な実践である。(参照:国立国際美術館|もの派―再考)

燃やす行為が残す、取り戻せない時間

一度炭になった木を、以前と同じ木材の状態へ戻すことはできない。この不可逆な変化は、素材が時間の中にあることを強く示す。作品に残る黒い表面や欠けた部分を見れば、炎そのものが見えなくても、何かがそこで起きたことを感じられる。

もの派が扱う時間には、素材が配置されている現在だけでなく、素材がそこへ至るまでの過程も含まれる。石と鉄を置く作品でも、採集や加工、運搬という過去がある。成田の炭は、そうした時間を視覚的に明瞭な形で示す。素材のあり方に注目すると、作品の外側に見えない作業が想像される。(参照:菅木志雄公式サイト|「ものと知覚」展の記録)

高山登の枕木と《地下動物園》

高山登は古い鉄道の枕木などを用い、木材が持つ使用の痕跡を作品へ取り込んだ。1969年の《地下動物園》は、もの派に連なる作品として後年の美術館展でも紹介されている。工業的な流通や輸送を支えてきた枕木には、自然の木とは異なる時間と用途の記憶が刻まれている。

一見すると木の塊が並んでいるだけのようでも、その表面には重さ、摩耗、汚れ、過去の使われ方が残る。石や木を単純に「自然」と呼ぶと、そうした社会的な履歴を見落とす。高山の作品は、素材が置かれた場所と、その素材がたどってきた歴史の両方へ鑑賞者の関心を向けさせる。(参照:国立国際美術館|もの派―再考)

原口典之、榎倉康二と周辺の実験

原口典之が選んだ工業材料

原口典之は鉄や油などの工業材料を使い、現実に存在する物質の大きさや重さを際立たせた。1971年の《無題》は、国立国際美術館による「もの派―再考」展でも紹介された。原口の実践をみると、もの派の関心が石や木のような自然物に限られず、現代の産業社会で大量に流通する素材にも向けられていたことが分かる。

工業材料には規格や機能がある。それを本来の用途から切り離して展示空間へ置くと、素材の見慣れた印象が変わる。鉄の表面や液体の質感が、便利な材料という評価から離れて経験される。その変化が、もの派と呼ばれる広い動向に原口の仕事が位置づけられる理由の一つになった。(参照:国立国際美術館|もの派―再考)

榎倉康二――身体がものに触れるとき

榎倉康二は、素材が置かれる場所と人の身体が接触する状態を写真や行為を通して探った。1972年の《予兆―海・肉体》では、海と身体という異なる存在の接触が主題となる。これらの作品では、鑑賞者の前に独立した彫刻が残るというより、ある場所で起きた関係が写真によって伝えられる。

身体そのものが、石や木と同様に世界の中に存在するものとして経験される。触れる、接近する、離れるといった動作によって、場所の境界が変わって見える。もの派に連なる実践の中でも、榎倉は身体と環境の接触を強く意識させる作品を残した。その特質は、同時期のパフォーマンスや写真の歴史ともつながっている。(参照:国立国際美術館|榎倉康二《予兆―海・肉体》)

一つの名前に収まらない同時代の作家

野村仁は物体が時間の中で変化する様子を記録し、狗巻賢二はものと知覚の関係を探り、さらに周辺の作家たちが異なる方向へ制作を広げていた。2005年の国立国際美術館の展覧会には、高松次郎や野村仁の作品も含まれた。ここに見えるのは、もの派を固定した顔ぶれによる集団として扱うことの難しさである。

同じ展覧会に並んだからといって、全員が同じ理論や目的を共有していたことにはならない。作品が作られた時期、作家間の交流、後世の美術史が付けた分類は、少しずつ異なる。むしろ境界の曖昧さによって、1960年代末の日本美術が多方面から変化していたことが見えてくる。(参照:国立国際美術館|もの派―再考)

1969年、作品と批評が交差する

京都の「現代美術の動向」展

1969年、京都国立近代美術館の「現代美術の動向」展には、李禹煥、小清水漸、吉田克朗らの作品が出品された。ガラス、石、紙、木材などを用いた作品が美術館の中に並び、作品という物体の新しいあり方を示した。作家たちの実験が、個別の画廊だけでなく、美術館の展覧会を通じて広い観客の前へ現れ始めたのである。

作品の見た目が似ていたから共通の運動になったという説明では、当時の変化を十分に捉えられない。石を落とす、紙を広げる、木を切断するという方法は異なるが、いずれも作家の想像した像を再現することより、素材の具体的な状態を鑑賞者に経験させる。こうした近さが批評と交流によって意識されていった。(参照:アートプラットフォームジャパン|李禹煥・作家資料)

雑誌で交わされた「ものがひらく新しい世界」

1970年2月号の『美術手帖』には、李禹煥、小清水漸、関根伸夫、菅木志雄、成田克彦、吉田克朗による座談会「〈もの〉がひらく新しい世界」が掲載された。そこでは既成の作品概念への違和感や、新しい表現をどのように考えるかが語られた。制作現場で共有されていた問題が、印刷された言葉として広く伝わる段階に入った。

この座談会は、作家たちの考えが一つに統一されていた証明というより、共通の問題を異なる言葉で語り合った記録として重要である。李は後年、発言を編集する際に菅とともに苦労したことを振り返っている。意見の差を含んだ対話そのものが、もの派の形成を伝える一次資料になっている。(参照:日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ|李禹煥)

作品を読む言葉と、作品を一括する名称

もの派をめぐる言葉は、作品が作られる過程と並行して形成された。批評家が名称を与え、作家自身が理論を発表し、展覧会がそのまとまりを可視化していった。制作方法が先に統一され、その定義に沿って全員が活動したという順序ではない。作家の関心と批評の言葉が互いに影響し合う形で、美術史上の動向が輪郭を持っていった。

この経緯を知ると、1968年の《位相―大地》がその瞬間から完成された「もの派の代表作」だったという見方も変わる。後に何度も紹介されることで、作品は運動の出発点として特別な位置を与えられた。美術史を理解することは、作品が誕生したときの意味と、後世に付け加えられた意味を併せて考えることでもある。(参照:美術批評家・吉竹美香|もの派の形成と制作)

1970年「人間と物質」展の重要性

中原佑介が企画した東京ビエンナーレ

1970年、第10回日本国際美術展は「人間と物質」をテーマに開催された。中原佑介が企画を担い、国内外から約40人の作家が参加した。絵画や彫刻という従来の分類を越え、素材や制作行為、観客と空間の関係を探る実践が同じ展覧会に集められた。戦後の国際展のあり方を考えるうえでも重要な出来事である。

展覧会にはカール・アンドレやダニエル・ビュレンなど海外の作家と、小清水漸、榎倉康二ら日本の作家が参加した。もの派だけを紹介した展覧会ではなく、同時期に世界各地で起きていた変化を比較できる場だった。日本の新しい美術が、国際的な議論の中で経験される機会となった。(参照:兵庫県立美術館|中原佑介と「人間と物質」展)

国別代表と受賞制度を見直した国際展

「人間と物質」展では、従来の国際展で重視されていた国別の参加方式や受賞制度が見直された。作家が国の代表として競い合う形式から離れ、制作の問題や展示空間のあり方を中心に据える企画へ変わった。展覧会そのものの制度を変える試みも、1970年という時代を物語っている。

海外から輸入した新しい様式を日本の作家が受け取るという単純な関係では説明できない。素材や行為の実験は、各地で異なる背景のもとに進められていた。東京で作品が出会ったことによって、その共通点と違いが観客や作家の前へ現れた。もの派の位置づけも、こうした具体的な国際交流から考える必要がある。(参照:artscape|1970年「人間と物質」展)

もの派を国際的な同時代性の中で見る

1970年には欧米でポスト・ミニマリズム、アルテ・ポーヴェラ、コンセプチュアル・アートなどの新しい制作が進行していた。床に物質を置く作品や、制作中の行為を重視する作品は、日本だけに現れたわけではない。中原の展覧会は、それらを同時に見る機会を作り、素材を扱う方法の国際的な広がりを可視化した。

共通する形式だけを比較すると、地域ごとの思想や社会状況は見えにくくなる。もの派では、李の哲学的な議論、菅の状況への関心、関根の空間の操作などが独自の展開を見せた。国際的な同時代性と各作家の固有の問題を一緒に読むことによって、もの派が世界美術史の中で持つ位置もより明瞭になる。(参照:東京ビエンナーレ|1970年「人間と物質」展)

1970年8月、美術館に現れた新しい光景

「1970年8月 現代美術の一断面」展

1970年8月、東京国立近代美術館では「1970年8月 現代美術の一断面」展が開かれた。李禹煥らの作品が紹介され、素材をそのまま提示する方法が日本の美術館の中で大きく可視化された。展示室は、壁に作品を掛けて鑑賞する場所というだけではなく、床や柱、壁との距離を使って状況を作る場へ変わっていった。

作品を運んで所定の台座へ置けば展示が終わるという方法も変化する。石をどこに置くか、板をどの角度で立てるか、観客がどこを歩くかが体験に直接関わる。もの派の作品は、展示空間の条件を作品成立の一部として意識させる。そこに後の設置型美術へつながる重要な変化がある。(参照:グッゲンハイム美術館|李禹煥回顧展・年表)

李禹煥の《関係項》と建築の柱

この展覧会で李禹煥は《関係項》の初期作品を複数発表した。鋼板や木材、縄などが展示室の柱や壁と関係し、鑑賞者は部材だけでなく美術館の建築を意識するようになる。柱は単に作品を囲む建物の一部ではなく、ものの配置を成立させる要素へ変化する。

建築は普段、展示される絵や彫刻を見るための背景として扱われる。ところが部材が柱に寄りかかったり、縄によって結ばれたりすると、その位置と硬さが強く感じられる。李が重視した出会いは、自然物と工業製品だけで起きるのではない。建物と鑑賞者を含む関係へ広がる。(参照:グッゲンハイム美術館|李禹煥回顧展・年表)

大阪万博の年に、別の未来を問う

同じ1970年、日本では大阪万博が開催され、科学技術と経済成長による未来が大規模に提示された。その年にもの派の作家たちは、人工物を高度に加工することや、技術によって新しい映像体験を作ることと別の方向で制作を進めていた。石や板を置く行為から、ものが存在する条件を考え始めていたのである。

大阪万博ともの派を対立する二つの陣営として一括することには慎重さが必要だ。個々の作家の活動や関心には違いがある。大切なのは、同じ年に日本社会が見せた多様な未来像を並べて考えることだ。技術の進歩と向き合いながら、目の前にある物質の存在を問い直す実践もまた、現代美術の重要な選択肢になった。(参照:グッゲンハイム美術館|李禹煥回顧展・年表)

場所、時間、保存――一時的な作品を考える

作品を置く場所は自由に選べるのか

もの派の実践では、床や壁だけでなく、地面、水辺、建物の外部も重要な場となる。石や木材の配置は、それらが置かれる場所の条件を引き受ける。土の上と美術館の床では、同じ石でも見える輪郭や接触の仕方が異なる。作品が場所に応じて経験を変えることが、意識的な制作上の問題となった。 美術館が絵画を収蔵する場合、通常はキャンバスや絵の具を保存対象とする。もの派には、地面を掘った作品や、水面に素材を置く作品のように、当初の状態を物体として保管しにくい例が多い。何を残せば作品を後世へ伝えられるのかという問題が、制作の方法そのものから生まれてくる。

土地を選ぶことは、素材を選ぶことと同じくらい重要になる。《位相―大地》は地面を掘れる場所を必要とし、《状況律》は水面の存在によって成立した。作品を置く場所が、完成後に決める展示の都合から、制作を成立させる条件へ変わったのである。 記録写真、図面、作家の説明、素材の寸法、再制作時の判断が保存の手掛かりになる。作品の同一性が一つの物体に集中しない場合、美術館は物理的な保存と、制作の条件を伝えることの両方を考える必要がある。この問題は、現代美術の保存全体に広がる重要な課題である。(参照:菅木志雄公式サイト|「ものと知覚」展の記録)

天候や時間が作品を変える

屋外では光、風、雨、水位、気温などによってものの状態が変わる。人が作った配置は、自然の動きに完全には抗えない。もの派の作家が関心を寄せたのは、そうした変化を排除して永久的な形を守ることより、ある瞬間にもの同士がどのような関係にあるかという問題だった。 関根《位相―大地》や菅《状況律》などの初期作品は、後の展覧会で再制作されてきた。その際、最初の作品が置かれた土地や時代を完全に再現することはできない。新しい場所で同じ手続きを行ったとき、何を引き継ぎ、何が変わるのかという問いが生まれる。

鑑賞者が訪れる時間によって影の長さも異なり、同じ作品が違う姿を示す。作品が一度だけ成立する場合もあり、現地での経験は次第に記録へ置き換わる。ものと空間の関係を扱うことは、その関係が時間とともに変わることを受け入れることでもある。 《状況律》の再制作は、作品の核が素材の関係にあることを具体的に示す。水面の場所が変わっても、石、板、水の支え合いが新たな環境で成立すれば、作品は現在の観客に再び経験される。その経験は初回の複製というだけでなく、ものの置かれた状況を改めて考える機会になる。(参照:菅木志雄公式サイト|《状況律》とヴェネツィア再制作)

写真記録が美術史へ残したもの

もの派の初期作品には、展覧会後に解体されたり、現地から撤去されたりしたものが多い。当時の写真には、素材の配置だけでなく、画廊の狭さ、屋外の地形、観客との距離などが写り込んでいる。写真を通して作品が広く知られるようになったという事実も、この動向の受容を形作った。 現在、もの派の作品を知る人の多くは、当時の写真を通して作品に出会う。土の穴、床の石、たわんだ鉄板などが写された写真は、制作の具体的な姿を伝えてきた。同時に写真の構図や掲載方法によって、もの派がどのような美術に見えるかも形作られてきた。

写真は作品を再現できる反面、素材に触れたときの質感や、見る人が移動しながら感じた空間を完全には伝えられない。後年、初期作品が再制作された際には、残された記録が重要な根拠となった。資料としての写真と、現地で経験される作品との違いを意識することが、もの派の歴史を読む手助けになる。 石と鉄だけが切り取られた写真では、撮影者の位置や展示室の広さが分かりにくいこともある。作品を歴史化する際には、展示写真だけでなく当時の批評、作家の文章、会場資料などを読み合わせることが有効だ。記録の条件を知ることも、作品そのものへの理解につながる。(参照:国立新美術館|安齊重男フォトアーカイブ)

国際的な比較と日本美術史に残した転換

ポスト・ミニマリズムと重なる問題

アメリカでは1960年代末、ロバート・モリスがフェルトを垂らし、リチャード・セラがゴムや鉛の性質を利用する作品を発表した。工業材料の重さ、柔らかさ、偶然の結果を受け入れるという点では、もの派と関心が重なる。厳密に形を決めた幾何学的な彫刻から、素材そのものの振る舞いへ移る動きが各地で起きていた。 もの派の作家たちは、画面を作って壁に掛けることや、素材を彫って台座に置くことに代わる方法を示した。床へ置かれた石や木、壁にもたれる鉄板、水面に浮かぶ板は、絵画や彫刻の伝統的な分類からは捉えにくい。作品を成立させるものとして、周囲の空間や鑑賞者との関係が前景化した。

そのうえで作品がどのような問題を中心にしていたかを見たい。モリスのフェルトは制作行為と素材の重力への反応を強調し、李の石とガラスは接触によって現れる関係や知覚を問う。見た目が近くても、個々の作家が考えていたことには違いがある。もの派を欧米美術の模倣とも、完全に独立した現象とも決めつけず、作品ごとに比較する必要がある。 その影響は、日本の現代美術が多様な素材と場所を扱ううえで重要な基盤となった。作品がどこに置かれ、何と接し、見る人がどう動くかという問いは、設置型の表現にも受け継がれる。1960年代末に試みられた方法は、その後の制作が考えるべき課題を大きく広げた。(参照:美術史研究|李禹煥と戦後日本のもの派)

アルテ・ポーヴェラとの共通点と差異

イタリアのアルテ・ポーヴェラも、1960年代末に木、石、布、工業材料、火などを使い、美術作品を支える価値観を問い直していた。自然物やありふれた材料を重視した点で、もの派との共通性は分かりやすい。作家たちの作品が国際展の中で並ぶと、それぞれの地域で素材の役割がどのように考えられていたかが比較できる。 もの派では、作者が素材へ完全な形を与えることと、世界にすでにあるものとの関係を整えることの違いが問われた。制作における作家の判断は残り、その判断が石の重さや風の動き、水面の状態を見えるようにする。作品は作家の考えを単独で表すものから、ものと人が出会う状況へ広がった。

アルテ・ポーヴェラでは、素材に含まれるエネルギーや社会的な記号、変化する過程が重要な役割を持つ作品も多い。もの派の内部では、ものを取り巻く空間や、人とものとの出会いを中心に考える作家がいた。共通する材料から出発しながら、別々の問いが立ち上がる。その違いを残すことで、両者をより豊かに理解できる。 ここには、人間が何でも加工できる材料として世界を見る姿勢への問いも含まれている。鑑賞者自身もまた、その場に立つ身体として関係へ参加する。見る人の理解が作品の意味を一方的に決めるのではなく、目の前のものの性質によって自分の知覚が変えられる経験が大切になる。(参照:国立国際美術館|1970年代日本美術・もの派)

東洋的な精神性という説明を検討する

海外で紹介されるとき、もの派は日本の伝統的な自然観や禅の思想と結びつけられる場合がある。実際の形成過程には、欧州哲学、工業社会への批判、美術学校での実験、1968年前後の社会運動など、多様な背景があった。李禹煥のように韓国から日本へ移った作家が重要な役割を果たしたことも、単純な国民文化の説明を難しくする。 1995年の「物質と知覚」展や2005年の「もの派―再考」展、2012年の「太陽へのレクイエム」展などによって、もの派の作品と資料は繰り返し検証されてきた。初期作品の再制作や記録の公開が進むことで、当時の一時的な実験が後世の鑑賞者にも具体的に伝えられるようになった。

「日本らしさ」という言葉を先に当てはめると、石や木の配置がなぜその時代に必要だったのかを見失いやすい。作品の構造を確かめ、同時代の資料を読むことで、国際的な接点も地域固有の条件も見えてくる。もの派の独自性は、自然物を使ったという事実だけで測ることはできない。 再評価が進むほど、どの作家をもの派に含めるか、理論と作品の関係をどう読むかといった問題も改めて浮かび上がる。運動を一つの完成した様式として閉じず、異なる作家の作品を読み直せるところに、その歴史的な豊かさがある。もの派は、芸術が世界とどのような関係を結べるかという問いを現在にも残している。(参照:美術史研究|李禹煥と戦後日本のもの派)

1971–1975年、活動の広がりと変化

1971年パリ青年ビエンナーレへの参加

1971年、李禹煥はパリ青年ビエンナーレへ参加し、石とゴムなどの関係を扱う作品を発表した。李は韓国の作家として出品し、同時に日本で生まれたもの派の重要な実践者として活動していた。ひとりの作家が複数の文化圏にまたがって制作し、国際展を通して別の観客と出会う状況が、具体的に現れた。

この参加は、もの派の作品が日本の内部でだけ評価されていた段階から、国外での経験と議論へ開かれていく過程を示す。その後、李はヨーロッパの作家たちと交流し、立体作品と絵画を継続して発展させた。1970年代の活動を追う際には、日本の展覧会史と李個人の国際的な制作史を合わせて見ることが重要になる。(参照:グッゲンハイム美術館|李禹煥回顧展・年表)

菅木志雄が続けた屋外と画廊での実験

1973年から1975年にかけて菅木志雄は、ものの依存関係や場の成り立ちを扱う個展を継続した。1973年の田村画廊での発表や、1974年の京都・ギャラリー16での個展、1975年に都内の複数の画廊で開いた展覧会など、活動は各地へ広がっていく。1969年からの素材の探究は、流行的な様式として短期間で終わることなく、菅自身の長い制作の基盤になっていった。

作品が複数の素材を使うことより、それらが具体的な場所でどのようなつながりを作るかが重要だった。菅は室内の設置に加え、屋外での作業も継続し、場所が変わるたびに異なる条件と向き合った。もの派と呼ばれた時期の経験が、その後の制作へどのように受け継がれたかを見ることができる。(参照:菅木志雄公式サイト|1975年までの個展記録)

1975年を区切りにする意味

もの派が特に密度の高い活動を見せたのは、1968年から1972年頃までだった。1975年は、作家たちの実験がその後どのように展開したかを確認するための区切りとして位置づけられる。作品の制作や作家同士の交流がその年に一斉に終わったわけではない。

李は《点より》《線より》の絵画を発展させ、菅は場所を使う制作を続け、小清水も木材や制作の道具へ関心を広げた。もの派という名称が指す歴史的なまとまりと、作家個人の長い制作史には異なる時間の幅がある。この二つを分けて考えると、運動が終わった後も問題意識が生き続けることが分かる。(参照:グッゲンハイム美術館|李禹煥回顧展・年表)

年表|もの派の成立から展開と再評価まで

作品と展覧会の制作年に加え、後から運動名や評価が形づくられてきた過程も含めて、主な出来事を整理します。作品の再制作年は初出年と区別して扱います。

  1. 1964年|関根伸夫や吉田克朗らの世代が多摩美術大学で学び、後の制作仲間との交流が形成される。
  2. 1966–1967年|高松次郎が遠近法や知覚を扱う作品を展開し、現実と見え方の関係が重要な問題になる。
  3. 1968年5月|吉田克朗が切断した机による《Cut 1》を発表。
  4. 1968年10月|関根伸夫が神戸・須磨離宮公園で《位相―大地》を制作。
  5. 1968年頃|菅木志雄が自然物と工業材料の配置による制作を本格化させる。
  6. 1969年|李禹煥が「事物から存在へ」などの論考を発表し、制作と言葉の双方で活動する。
  7. 1969年|菅木志雄が《並列層》を発表。
  8. 1969年|小清水漸が石と紙を扱う《かみ》や《垂線》を展開。
  9. 1969年|吉田克朗が《Cut-off》の系列を制作。
  10. 1969年8月|京都国立近代美術館「現代美術の動向」展に李、小清水、吉田らが出品。
  11. 1970年2月|『美術手帖』に座談会「〈もの〉がひらく新しい世界」と李の論考「出会いを求めて」が掲載される。
  12. 1970年5月|第10回日本国際美術展「人間と物質」が東京で始まり、その後各地へ巡回。
  13. 1970年|成田克彦が炭化した木材による《SUMI》の系列を発表。
  14. 1970年8月|東京国立近代美術館で「1970年8月 現代美術の一断面」展が開催。
  15. 1971年|李禹煥の論集『出会いを求めて』が刊行。
  16. 1971年|菅木志雄が宇部で《状況律》を発表。
  17. 1971年|李禹煥がパリ青年ビエンナーレへ参加。
  18. 1971年|小清水漸が《表面から表面へ》を制作。
  19. 1972年|菅木志雄が《臨界状況》などを発表。
  20. 1972年|榎倉康二が《予兆―海・肉体》などを制作。
  21. 1973–1975年|菅が屋外と画廊での実験を継続し、李も立体と絵画を発展させる。
  22. 1995–1996年|巡回展「物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」が開催される。
  23. 2005年|国立国際美術館が「もの派―再考」を開催。
  24. 2012年|ロサンゼルスで「太陽へのレクイエム―もの派の美術」展が開催される。

まとめ|ものと空間の関係を作品として見る

1968年の《位相―大地》は、大地を掘り、掘り出した土を隣に置くという行為から、現実の空間が別の姿で現れる経験を生んだ。そこから李禹煥は人とものの「出会い」を理論化し、菅木志雄は素材や場所が互いの状態を決める「状況」を追究した。小清水漸は紙や木と身体の関係を、吉田克朗は重力と断面を、成田克彦は燃焼後の物質を、それぞれ作品の中心にした。

作品の見た目だけを比べると、もの派は木や石を並べた抽象彫刻に見えるかもしれない。実際には、ものがそこにある理由や、もの同士が接触することで何が変わるかを考える多様な実践だった。作家たちの問いは、絵画や彫刻という形式から、素材、行為、場所、鑑賞者、そして時間へ広がっていった。

1970年の「人間と物質」展は、その変化を国際的な同時代の中に位置づけた。作品が置かれる場への関心は、海外の美術の動向と共鳴しながら、個々の作家によって異なる思想を伴っていた。日本という制作の場に加え、李禹煥が持つ韓国との関係も、もの派の歴史を広い視野から読む手掛かりになる。

初期の作品の多くは現在、写真や後年の再制作を通して知られている。作品を保存するとは何か、場所が変わっても同じ作品と呼べるのかという問題は、もの派の歴史を現在の美術館で読み直す際にも残る。石や木を置くという簡潔な行為は、芸術家が世界とどのような関係を結び、見る人がその関係へどう参加するのかを問う方法となった。

参考資料・出典

本記事は、国立国際美術館、グッゲンハイム美術館、作家公式資料、国立美術館の所蔵記録、戦後日本美術に関する研究資料などを参照し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しました。作品の初出年と後年の再制作、同時代の活動と後世の評価を区別しています。もの派の範囲については研究上の違いがあることも本文に記しました。

資料確認日:2026年10月14日 / ART LIBRARY