1792–1828
ゴヤ
宮廷、啓蒙、戦争、暴力、近代的人間の暗部
フランシスコ・デ・ゴヤは、スペイン王室の宮廷画家として最も高い地位にまで進みながら、宮廷で求められる肖像画とは大きく異なる作品を生み出した。《カルロス4世の家族》では王族の衣装と表情を克明に描き、《ロス・カプリチョス》では無知や権威を笑いの対象にした。さらに戦争の版画では切断された身体や飢餓に目を向け、晩年には自宅の壁へ不気味な神話と群衆を描いている。
これほど異なる作品が同じ画家の手から生まれたのは、なぜだろうか。ゴヤは王室、貴族、教会、知識人から注文を受ける職業画家だった。同時に、依頼者が決めた主題から離れ、小型の絵画、版画、素描帳を通して社会を観察し、自分自身の想像力を試す制作も続けた。美術を作る場所と発表の方法の違いが、作品の姿を大きく変えている。
1792年には美術教育の自由を主張する意見書を提出し、その年末から翌年にかけて重い病を経験した。聴覚を失った後も肖像画の仕事は続き、1799年には第一宮廷画家に昇進する。病気、政治、思想、制作技法を一つの原因へ還元するより、複数の条件が変化する中で作品を見ていくと、ゴヤの幅広さが具体的に理解できる。
1808年からの半島戦争では、画家の周囲の社会そのものが深く傷ついた。《戦争の惨禍》と1814年の《1808年5月3日》は、国家の英雄像から無名の人々の身体へ視点を移した作品として重要である。戦後の《闘牛技》《ディスパラテス》《黒い絵》、さらにボルドーでのリトグラフまでたどると、技法と主題を変え続けた姿が見えてくる。
本記事は1792年から1828年までを中心に、宮廷と啓蒙思想、肖像画と版画、占領下の政治、戦争の記憶、晩年の壁画をつないで考える。代表作の構図、筆触、画面の明暗、制作や刊行の記録を具体的に読み解きながら、ゴヤが新古典主義からロマン主義、さらに近代絵画へ与えた問いを探る。
CONTENTS
宮廷画家ゴヤの立場と1790年代の転換
王室・アカデミー・自主制作が交差する仕事
フランシスコ・デ・ゴヤは、新古典主義、啓蒙主義、ロマン主義、リアリスムのどれか一つに完全には収まりません。宮廷画家として王家や貴族を描きながら、同時期に社会風刺、狂気、迷信、戦争、飢餓、拷問、悪夢のようなイメージを自主制作しました。そのためゴヤを理解するには、「暗い画家」「近代美術の先駆者」という後世の一語でまとめるより、依頼仕事と自主制作、啓蒙思想と幻想、国家権力の内部とその暴力への批判的視線が同時に存在したことを見る必要があります。
ゴヤは1746年に生まれ、1770年代から王立タペストリー工場の原画制作を通して宮廷へ進み、1789年には宮廷画家に任命されていました。本記事はその全生涯を幼少期から追うのではなく、成熟期の転換が始まる1792年を起点にします。1792年には王立サン・フェルナンド美術アカデミーからの求めに応じ、美術教育について自由を重視する意見書を提出しました。その直後、1792–93年に重い病を経験し、不可逆的な聴覚喪失を負います。
以後、公式注文と並行して、依頼主の制約から離れた制作が大きく増えていきます。ゴヤは体制の外部から権力者を批判するだけの作家ではありません。1780年代には国王、貴族、政府高官の肖像を多数手がけ、1789年4月30日にカルロス4世の宮廷画家となりました。この経歴は重要です。彼は宮廷社会を外から想像したのではなく、その内部で人間関係、服装、地位、権力の演出を長く観察していました。
ゴヤの仕事をたどる際には、注文を受けた大画面と、主題を自分で選んだ小品を時期ごとに分けて観察すると理解しやすい。宮廷への出入りは顔料や衣装の再現から贈答の作法まで、画家に膨大な知識を与えた。王室に仕えながら制度を批判的に眺めることもできた、その複雑な距離感こそ成熟期の制作を支えた。 (参照:プラド美術館|ゴヤの略歴と年表、プラド美術館|《戦時のゴヤ》展)
タペストリー原画に蓄積された生活の観察
1775年からゴヤは、マドリードの王立サンタ・バルバラ・タペストリー工場のために原画を制作しました。狩猟、踊り、遊戯、市場、郊外の娯楽など、当時の都市生活を明るい色彩で描いています。これらの作品は後年の暗いイメージと対照的に見えますが、市井の人々、流行、男女関係、社会的身振りを観察する経験は、《ロス・カプリチョス》へもつながります。
《日傘》や《盲人の鬼ごっこ》などの原画は、糸で織り上げられることを前提に色面と輪郭が構成されている。画面の軽やかさは単なる気晴らしではなく、布へ移されて王室の室内を飾るという用途に対応する。街路の娯楽や衣服の着こなしを観察した経験は、のちに社会風刺へ転化するが、制作当時は宮廷空間を彩る仕事として評価された。 (参照:プラド美術館|ゴヤの略歴と年表)
1792年の意見書と聴覚喪失
1792年10月、ゴヤは王立サン・フェルナンド美術アカデミーの求めに応じ、美術教育についての意見を提出しました。プラド美術館の伝記資料によれば、彼は絵画教育における自由の必要性を主張し、絵画を「神聖な科学」と表現しました。規範的な模倣だけで優れた作家が育つという考えから距離を取り、個々の才能に応じた自由を重視していたことが分かります。1792年末から1793年にかけて、ゴヤは原因が現在も確定していない重い病に倒れました。
震え、めまい、歩行の不安定、視覚障害などが記録され、最終的に聴覚を失います。病名については鉛中毒、感染症など多くの説がありますが、確定していません。美術史上重要なのは、原因を推測することより、この病後にゴヤの生活と制作条件が大きく変わったことです。1793年の病後、ゴヤは不可逆的な聴覚喪失を抱えました。1794年には電気治療を試みた記録も残っています。「耳が聞こえなくなったから絵が暗くなった」という説明は単純すぎます。
宮廷肖像や宗教画の注文制作も続きます。変化は、聴覚喪失だけでなく、依頼主から離れた自主制作、啓蒙思想を共有する友人、政治的不安、版画という媒体など複数の条件から考える必要があります。
重い病から回復した後も、絵画の構成力や社会的な人脈は保たれた。病気の診断名には多くの推測があり、絵具に含まれる鉛などを原因として特定することは現存記録からは難しい。1792年の意見書が求めた自由は、教育制度内で認められてきた規範との向き合い方に関わる。独創性を身体的な苦痛の直接の結果とする説明より、制度への見解と制作の選択を具体的に追いたい。 (参照:プラド美術館|ゴヤの略歴と年表、プラド美術館|《戦時のゴヤ》展)
小型作品で現れた事故・恐怖・混乱
1793年にマドリードへ戻った後、ゴヤは小型の金属板などに、難破、火災、盗賊、闘牛、狂人、牢獄といった題材を描きました。プラド美術館はこれらを、依頼主の要求から自由になり、ゴヤ自身の考えをより直接に表現した重要な転換として位置づけています。社会の周辺、事故、恐怖、不安が、公式注文ではなく自主制作で前景化します。《狂人の中庭》では、閉ざされた空間に裸や半裸の人物が押し込められ、暴力や混乱が描かれます。
理性を持つ人間を理想化する啓蒙の時代に、理性が崩れた場所を描くことは強い逆説を持ちます。後の《ロス・カプリチョス》や《黒い絵》に通じる、文明の薄い表皮への不信がすでに現れています。病後の小品では、難破や夜の火災など、人間が制御できない極限状況も扱われました。これは後のロマン主義が重視する崇高な自然と接続するゴヤの場合、自然の壮大さより、混乱の中に投げ込まれた人間の脆弱さが強く意識されます。
《狂人の中庭》で目立つのは、奥に閉じた建築の輪郭と、それに対して狭い場所に押し込められる身体の衝突である。小さな支持体の中に視線を集め、乱れた手足や陰影を急な筆触で記す構成は、公式肖像の整然とした姿勢と強く異なる。難破や火災も、歴史上の偉人から離れた人間の極限状況を主題とする点で連続している。 (参照:プラド美術館|ゴヤの略歴と年表、プラド美術館|《戦時のゴヤ》展)
啓蒙思想、素描帳、怪奇的な想像力
知識人との交流と理性をめぐる問い
ゴヤはガスパル・メルチョール・デ・ホベリャーノス、レアンドロ・フェルナンデス・デ・モラティン、フアン・アグスティン・セアン・ベルムーデスら、スペイン啓蒙思想に関わる知識人と交流しました。教育、迷信、社会制度の改善を重視する啓蒙的な考えは、《ロス・カプリチョス》の風刺と深く関係します。ゴヤは理性を単純に勝利者として描かず、理性そのものが眠り、怪物が現れる不安定な世界を示しました。
ホベリャーノスやモラティンは改革を唱えた知識人だが、スペインの政治制度の内部で活動し、時には厳しい圧力を受けた。ゴヤの風刺には、理性が勝利した社会を描くより、理性的であるべき人々が不合理な行為へ陥る場面が多い。迷信の絵柄の背後には、知識の流通を妨げる習慣や権威への関心がある。 (参照:プラド美術館|ゴヤの略歴と年表、プラド美術館|《ゴヤの素描》展)
素描帳に描かれた身体と生活
1790年代半ばからゴヤは複数の素描帳を制作し、街の女性、男女関係、夢、奇妙な身振り、社会の矛盾を自由に描きました。素描帳は王や教会へ提出する作品ではありません。画家が自分の観察と思考を試す場所であり、そこから《ロス・カプリチョス》の図像が生まれました。1794–95年頃の素描には、日常の女性、身体、対人関係を観察した軽快な表現が見られます。後に《夢》と呼ばれる素描群では、現実観察が次第に幻想、動物、人間の倒錯した関係へ変化していきます。現実から悪夢へ移る過程自体が、《カプリチョス》の構想を準備しました。
素描帳には版画に転用される構想もあるが、完成品を決めずに描かれた試みも多い。人物の背中を一筆で示したり、顔の向きや体重のかかり方を変えたりする過程が残り、観察と想像が同じ紙面で往復する。長く個人の手元にあった素描が後世に分割され、現在は複数の美術館に所蔵されていることも、制作順序を理解する際に重要である。 (参照:プラド美術館|《ゴヤの素描》展、プラド美術館|素描帳と版画の資料)
魔女の表象とオスーナ公爵家の注文
1790年代後半、ゴヤは魔女、悪魔、空を飛ぶ人物などを繰り返し描きました。魔女の像には、恐怖を呼び起こす視覚表現と迷信を批判する意図が重なっている。プラド美術館は、迷信、無知、悪、権力の倒錯を批判するため、当時の民間文化に広く存在した魔女像を利用したと説明しています。1797–98年頃、ゴヤはオスーナ公爵夫妻のために魔女を主題とする小型作品群を制作しました。《魔女の飛翔》はその一つです。自主制作的な幻想と貴族の収集趣味が重なる例であり、怪奇的主題が完全に制度外にあったわけではないことが分かります。
《魔女の飛翔》では浮遊する人物群と地面の人物の距離が極端に引き離され、常識的な空間の関係が崩れて見える。恐怖を生む像でありながら、特権階級の邸宅に置かれる装飾的な作品としても受け入れられた。社会を風刺する図像と怪奇的な物語を楽しむ趣味は、互いに排除し合うものではなかった。 (参照:プラド美術館|《戦時のゴヤ》展、プラド美術館|《お化けが来るぞ》と《カプリチョス》)
《ロス・カプリチョス》――社会風刺の版画集
80点の連作を一冊の本として読む
《ロス・カプリチョス》は80点からなる版画集で、1797–99年頃に制作され、1799年に刊行されました。その構想は1794年頃からの素描帳と1797年頃の《夢》の素描群に遡ります。個別の社会風刺を集めたというより、人間社会全体の愚かさ、迷信、欲望、教育、権力を一冊の本として構成した点が重要です。プラド美術館の調査によれば、1799年の初版は綴じられた状態で販売されました。
つまり各版を独立した絵として見るだけでなく、順番に読み進める本として構想されていました。現実的な風俗場面から始まり、後半へ進むにつれて動物、魔女、悪夢の世界が増えます。社会の昼から幻想の夜へ進むような構造です。
1799年刊の80枚には番号と短い言葉が付され、鑑賞者は紙をめくりながら人物の愚かさを次々と経験する。最初は比較的読みやすい社交や生活の場面が多く、後半には夜や飛行、動物への変身が増える。この順序は個々の絵柄を独立した挿絵として見るのとは違う時間を生み、風刺が次第に理解しがたい幻想へ近づいていく印象を作る。 (参照:プラド美術館|《理性の眠りは怪物を生む》、プラド美術館|《お化けが来るぞ》と《カプリチョス》、プラド美術館|《カプリチョス》初版の刊行と残部)
エッチングとアクアチントの表現
《カプリチョス》ではエッチングとアクアチントが組み合わされました。アクアチントは線だけでなく面の濃淡を作ることができ、暗い背景、霧、夜、強い光の対比に適しています。技術は単なる手段ではありません。黒い面の中から顔や身体が浮かび上がることで、社会風刺が悪夢のような心理的圧力を持ちます。
線を刻むエッチングでは人物の輪郭や物の形を定着させ、アクアチントでは粒状の腐食によって連続した濃淡を作る。ゴヤは白く残した顔と、暗く沈む壁や背景を近づけ、見る者の目を表情へ集中させた。同じ版から複数枚の印刷が可能な媒体でありながら、黒い面の濃度や印刷状態は刷りによって変わりうる。技法の選択が、読み手に与える心理的な距離を変えている。 (参照:プラド美術館|《理性の眠りは怪物を生む》、メトロポリタン美術館|《理性の眠りは怪物を生む》所蔵作品)
ロバ、結婚、教育が暴く社会の構造
プラド美術館は《カプリチョス》を、社会の誤り、悪習、無知を批判し、教育によって改善しようとする啓蒙思想と関係づけています。不合理な結婚、偽善、無知な教育、身分の虚栄、売春、迷信、聖職者への批判、司法や権力の濫用など、多様な問題が人間の滑稽な行為として描かれます。《カプリチョス》には、人間の服を着たロバが教師や学者、権威ある人物のように振る舞う場面があります。
動物化は個人を単に侮辱する漫画ではなく、能力と地位が一致しない社会を逆さまに見せる古い風刺表現を更新したものです。若い女性と裕福な男性の結婚を扱う版では、恋愛より身分や経済が優先される社会を風刺しています。ゴヤの批判は特定の男女だけでなく、個人の自由な選択を阻む社会慣習へ向けられています。《カプリチョス》では、教師と生徒の関係、子どものしつけ、無知の継承も繰り返し扱われます。啓蒙思想にとって教育は社会改善の重要な手段でした。だからこそ、誤った教育によって愚かさが再生産される場面は深刻な風刺になります。
人間の衣服を着たロバは、学識や地位を誇る人物の姿を反転させる。上位者が賢明であるとは限らず、教育が無知を繰り返すこともあるという逆転が、滑稽な身体の形にまとめられた。女性と結婚の場面でも個人の感情と社会的な取引が衝突する。どの版も特定の人物の肖像と決めつけるより、反復される社会的役割に着目すると読みが広がる。 (参照:プラド美術館|《お化けが来るぞ》と《カプリチョス》、プラド美術館|《カプリチョス》初版の刊行と残部)
魔女と迷信――笑いが恐怖へ変わる
魔女、精霊、奇怪な儀式は、《カプリチョス》後半の主要モチーフです。プラド美術館は、民衆に広まった迷信と、それを利用・増幅する宗教者への批判が重要な主題だったと説明しています。幻想的な像は理性の敵を可視化する道具になります。
暗い空間に浮かぶ魔女や奇妙な集会を描く際、ゴヤは現実の儀式を忠実に報告しようとはしていない。現実には存在しないものを恐れる人々の心理、恐怖を利用して支配する者、説明を失った群衆の動きが、ありえない身体の組み合わせとなって現れる。笑うための図像に、理解できないものへの不安が入り込む点が連作の特徴である。 (参照:プラド美術館|《理性の眠りは怪物を生む》、プラド美術館|《お化けが来るぞ》と《カプリチョス》)
《理性の眠りは怪物を生む》と準備素描
第43番《理性の眠りは怪物を生む》では、机に伏した人物の背後を、フクロウやコウモリが取り囲みます。この版は《カプリチョス》全体を象徴する作品として知られますが、意味は一つではありません。プラド美術館は、理性が迷信を追い払う啓蒙的解釈、理性と幻想を芸術の中で調整する必要を説く解釈、理性そのものの敗北を示す悲観的解釈など、複数の読みを紹介しています。ゴヤは幻想を排除すればよいと考えていたわけではありません。
《カプリチョス》自体が、自由な想像力によって作られた作品だからです。問題は、理性を失った幻想が迷信や暴力へ変わることです。理性と想像力の緊張が、ゴヤの近代性を形作ります。
机に突っ伏す人物の近くには画材が置かれ、背後にはフクロウやコウモリが密集する。人物と獣の間には明確な境界があり、眠る身体を軸に明部と暗部が組み立てられた。現存する準備素描には構想の揺れが残り、「理性の眠り」が世界の不合理を招くのか、作者が想像力へ入る瞬間なのか、解釈は一つに定まらない。 (参照:プラド美術館|《理性の眠りは怪物を生む》、プラド美術館|《理性の眠りは怪物を生む》準備素描、メトロポリタン美術館|《理性の眠りは怪物を生む》所蔵作品)
1799年の販売広告と版画市場
《カプリチョス》80点は1799年2月6日、『ディアリオ・デ・マドリード』で販売開始が告知されました。数日後にも再度広告が出ています。プラド美術館の調査によれば、一般書店ではなくゴヤの住居と同じ住所にあった香水店で販売されました。批判的内容を持つ本を扱う書店が受ける検閲を避ける意図があったと説明されています。1803年、ゴヤが銅版と残部を王立銅版印刷所へ譲渡した際、初版267部のうち240部が残っていたと記録されています。販売できたのは27部でした。今日の美術史的重要性と、刊行当時の商業的成功は一致しません。後世の評価によって《カプリチョス》はゴヤを代表する作品になりました。
批判的な内容を版画集として販売することは、買い手へ作品を直接届ける試みだった。1803年に残部と原版を王室へ譲る段階で相当数の在庫が残っていたという記録は、今日の有名作品が同時代にも人気商品だったとする思い込みを修正する。印刷物の値段、販路、検閲をめぐる不安は、版画の題材と同じほど制作の社会的条件を明らかにする。 (参照:プラド美術館|《カプリチョス》初版の刊行と残部、プラド美術館|《理性の眠りは怪物を生む》)
第一宮廷画家としての肖像――権力と個人
第一宮廷画家への昇進と《カルロス4世の家族》
《カプリチョス》を刊行した同じ1799年、ゴヤはカルロス4世から第一宮廷画家に任命されました。社会や権力を風刺する版画家と、王室最高位の画家が同じ人物の中に共存しています。これを矛盾として片付けず、18世紀末の芸術家が複数の顧客と制作領域を持っていた現実として考える必要があります。1800年、第一宮廷画家となった直後にゴヤは《カルロス4世の家族》を制作しました。
大人数の王族を豪華な衣装と勲章の中に配置しながら、一人ひとりの顔立ちを強く個別化しています。プラド美術館はこの作品を、人物を個別に描き分けるゴヤの技量を示す王室肖像として位置づけています。画面左奥にはゴヤ自身が大きなカンヴァスの前に立っています。この構成は、スペイン宮廷画家の先例であるベラスケス《ラス・メニーナス》を想起させます。ゴヤは王家を描くだけでなく、王家を描く画家である自分自身の地位も画面に組み込みます。
1800年の大画面では、人物が横へ並びながら王妃マリア・ルイサの存在が視線を引きつける。絹の光沢と宝石の反射は大きな色面の中で輝き、顔の輪郭には細かな差異が与えられている。画家自身を左奥に置く仕組みは《ラス・メニーナス》を意識した構想として理解できるが、その参照によって作品全体を戯画と断定することはできない。 (参照:プラド美術館|ゴヤの略歴と年表、プラド美術館|《カルロス4世の家族》)
《カルロス4世の家族》の顔と衣装をどう見るか
《カルロス4世の家族》は、王族の容姿を容赦なく描いたため、後世に隠れた風刺や風貌の戯画と解釈されることがあります。王室から不興を買ったという明確な同時代証拠はなく、作品は公式注文として成立しました。個性的な容貌を描くことと、王家を嘲笑することを同一視しない方が慎重です。ゴヤの肖像では、衣装や勲章の豪華さと同時に、目、口元、姿勢の違いが人物の存在感を作ります。貴族、官僚、知識人、新興市民を描く中で、社会的身分を示す公式性と、個人の心理的な気配が同時に現れます。
公式肖像では勲章や帯、礼服の描写が王朝の序列を示す。ゴヤはこうした記号を明瞭に表すと同時に、一人ひとりの年齢や表情を異なるものとして描いた。似姿への厳しい観察が、のちの鑑賞者に時として辛辣に映るのは、王族を常に理想化して描くという期待との距離から生じる。注文当時の受け止め方は、現存史料の範囲で検討する必要がある。 (参照:プラド美術館|《カルロス4世の家族》)
《ホベリャーノスの肖像》と考える身体
1798年のガスパル・メルチョール・デ・ホベリャーノスの肖像では、政治家・啓蒙思想家を堂々とした公式像ではなく、机に肘を置き思索する人物として描きます。公的役割より思考する個人の状態を前景化する点で、宮廷肖像とは異なる近代的な人物像が生まれています。
1798年の肖像では、机に肘をつき片手で頭を支える姿勢が、職務の重みと内省を感じさせる。机に置かれた書類や執筆道具は公務に就く人物であることを伝えつつ、整えられた服装と疲労を思わせる身振りが緊張を生む。思想家の肖像という主題と、実際の身体が見せる一瞬の状態を結びつけるところに、ゴヤの観察力が現れる。 (参照:プラド美術館|《ホベリャーノスの肖像》、プラド美術館|ゴヤの略歴と年表)
《チンチョン伯爵夫人》――薄い絵具と下層の肖像
《チンチョン伯爵夫人》には、淡く輝くドレスと暗い背景の間に座る人物の存在感がある。画面を満たす大きな白い衣装と、椅子に落ち着いて腰掛ける身体の小さな動きが緊張を生み、指輪や髪飾りの細部が注文主の社会的な環境を伝えている。
1800年の《チンチョン伯爵夫人》では、淡い衣服の輪郭が広い暗い背景に浮かび、顔や手の肌の柔らかさが際立つ。プラド美術館のX線調査は、画面の下にゴドイの立像など別の肖像があることを示した。画布の再利用という実務的な判断と、完成画で人物に与えた静かな存在感が重なる。装身具の麦穂にも、当時の装いと豊穣の象徴という意味がある。 (参照:プラド美術館|《チンチョン伯爵夫人》技法調査と注文記録)
《裸のマハ》――裸体画と近代の視線
二つの《マハ》とゴドイの私的収集
《裸のマハ》は1795–1800年頃、《着衣のマハ》はやや後に制作されたと考えられています。1808年のマヌエル ゴドイのコレクション記録には両作が確認できます。モデルがアルバ公爵夫人だったという有名な伝説には確実な根拠がありません。プラド美術館もその同定を支持していません。西洋裸体画では神話上のヴィーナスとして女性裸体を描く伝統が長くありました。《裸のマハ》もゴドイの私的空間でベラスケス《鏡のヴィーナス》などと並べられていました。画面にはキューピッドや神話的属性がなく、女性は正面から観客を見る現代的な存在として描かれます。古典的裸体画の制度を、同時代の身体へ引き寄せた作品です。
《裸のマハ》の女性は寝台に横たわり、腕を頭の後ろで組んだ姿勢のまま観客をまっすぐ見る。眼差しがこちらへ向くため、鑑賞者は見る立場にあることを強く意識する。神話的な持物を添えず、肉体の肌理と白い寝具のしわを前景化した点は注目される。対作品とされる《着衣のマハ》の制作順序や使われ方にはなお議論が残る。 (参照:プラド美術館|《裸のマハ》、プラド美術館|《二つのマハ》資料解説)
異端審問所と裸体画の公開可能性
ゴドイの失脚後に押収されたコレクションから、《裸のマハ》《着衣のマハ》は1814年末に異端審問所から「猥褻」として問題視されました。プラド美術館の資料によれば、1815年にゴヤは作者と依頼主について説明を求められました。ゴヤがどう回答したかは分かっていません。
ゴドイの失脚を経て私的な所有空間が変わると、裸体画をめぐる評価も変化した。1815年にゴヤが異端審問所から説明を求められた記録は、美術作品の許容範囲が鑑賞環境や政治制度と深く関係したことを示す。裸体が古典の女神であれば許されると単純に割り切れた時代でもなく、画面の具体的な姿と所有の事情をあわせて見る必要がある。 (参照:プラド美術館|《裸のマハ》、プラド美術館|《二つのマハ》資料解説)
1808年の戦争と宮廷画家の政治的位置
王政崩壊とフランス軍の占領
1808年、ナポレオンの介入によってスペイン王室は退位し、ナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトが王位に就きました。各地で反発と戦闘が起こり、半島戦争へ発展します。ゴヤはこの期間もマドリードに残りました。宮廷官僚としてジョゼフ・ボナパルト政権への忠誠宣誓を行い、一部の政府関係者の肖像も制作しています。1808–1814年の半島戦争では、フランス軍、スペイン軍、ゲリラ、イギリス・ポルトガル軍などが戦い、民間人も深刻な被害を受けました。ゴヤの戦争作品では、大規模な戦略や将軍より、処刑、略奪、飢餓、負傷、死体といった個々の身体が中心になります。
半島戦争では、正規軍同士の戦闘とゲリラによる襲撃、フランス軍の報復が複雑に重なった。マドリードでは物価高騰や食料不足も深刻になり、市民の生活は長期的に傷ついた。ゴヤの戦争表現に無名の住民や飢えた人々が多いことには、首都に暮らす画家が見聞きした社会の変化という背景がある。 (参照:プラド美術館|《戦時のゴヤ》展、プラド美術館|《1808年5月2日》)
占領下で公職を保った画家
後世にはゴヤを一貫してフランス軍へ抵抗した愛国的画家として描く物語も作られました。実際には、彼は占領下のマドリードで公職を維持し、新政権へ形式的に従いました。《戦争の惨禍》ではフランス軍、スペイン側、民衆の暴力を広く描いています。特定陣営の英雄化より、戦争そのものが人間へ与える破壊を見ている点が重要です。
ゴヤはジョゼフ・ボナパルトの統治下でも宮廷画家として位置を保ち、王政復帰後も活動を続けた。革命の理念と占領への抵抗、生活を維持するための現実的な判断は、同時代の人々にとって相容れない単純な二択だったわけではない。政治上の行動を確認する資料と、作品の中で示される人間への視線は、別々の証拠として検討する必要がある。 (参照:プラド美術館|ゴヤの略歴と年表、プラド美術館|《戦時のゴヤ》展)
戦争の体験が版画の主題となるまで
ゴヤは1810年頃から戦争を主題とする版画制作を開始し、1810年代から1820年頃までに多数の版を制作しました。プラド美術館では82点の版が確認され、1863年に初めて公刊された版では80点が収録されました。ゴヤの生前にはシリーズとして一般販売されていません。《戦争の惨禍》が生前に刊行されなかった理由については、政治的危険、販売可能性、制作の未完性など複数の説明があります。確実なのは、ゴヤが完全な試刷りセットを友人セアン・ベルムーデスへ渡していた一般向けの出版は1863年まで行われなかったことです。
《戦争の惨禍》は銅版を刻み、試刷りを重ねて作られた連作で、生前に広く販売された作品集とは制作・流通の条件が異なる。戦争が終わった後にも制作が続き、政治的風刺を含む後半の版へ主題が広がった。1830年代の出版を想定して作られたという確かな記録があるわけではなく、1863年の初刊は後世の編集的な判断を含む。 (参照:プラド美術館|《1808年5月2日・3日》制作資料、大英博物館|《戦争の惨禍》版画集、プラド美術館|《戦時のゴヤ》展)
《戦争の惨禍》――無名の身体を描く
小さな版画が生む近距離の暴力
《戦争の惨禍》ではエッチング、アクアチント、ドライポイントなどが組み合わされます。大きな歴史画の距離ではなく、小さな紙面の近距離に身体を置くことで、観客は暴力から逃げにくくなります。多くの版では、誰が歴史上の英雄なのか分かりません。名のある将軍ではなく、兵士、女性、子ども、飢えた市民、死者が画面を占めます。勝敗や国家的栄光より、戦争が人間の身体へ何をするのかが主題になります。
《戦争の惨禍》にはフランス軍の残虐行為だけでなく、スペイン側が加える暴力も描かれます。被害者と加害者が固定された単純な愛国的宣伝ではなく、暴力が連鎖する構造そのものへの視線が強くあります。
人物を大きく見せるために画面を余白の少ない構成とし、背景の地理的情報を省く版が多い。暴力の場面では体が折り曲げられ、吊され、時には地面へ投げ出される。観客は英雄のいる戦場を遠くから眺める位置を与えられず、名前を知らない人々の身体へ近づくことになる。襲う側の衣装や武器にも注意を向けると、暴力の連鎖が一方向ではないことが伝わる。 (参照:大英博物館|《戦争の惨禍》版画集、プラド美術館|《さらにひどい》と死体の表現)
《そして彼女たちは野獣のように》と戦う女性
女性は受動的な被害者としてだけでなく、子どもを守る者、兵士へ抵抗する者としても描かれます。大英博物館所蔵の《そして彼女たちは野獣のように》では、子を抱えた女性たちが兵士へ抵抗します。戦争の現実が、男性兵士だけの歴史ではないことを示します。
この第5番では、子どもを抱えた女性が体の向きを急に変え、長い槍状の道具や石で武装兵へ抵抗する。大英博物館は、女性たちが武器に乏しい状態で戦う様子と、エッチング・アクアチント・ドライポイントを組み合わせた技法を記録している。人物の腕と道具が画面を斜めに横切り、相手の兵士との間を切迫した距離へ縮めている。 (参照:大英博物館|《そして彼女たちは野獣のように》)
《なんという勇気!》――生き残った者の行動
《なんという勇気!》では、一人の女性が死体の積み重なる場所で大砲へ火をつけます。この人物はサラゴサの抵抗で知られるアグスティナ・デ・アラゴンと結びつけて読まれてきました。版画の小さな画面に、個人の勇気と大量死が同時に置かれます。
第7番とされるこの場面では、倒れた身体の上に立つ女性が大砲を操作する。ゴヤは勇敢な個人を描きながら、足元の死者を同時に示すことで行為に重さを与えた。サラゴサの抵抗で名を知られるアグスティナ・デ・アラゴンとの関連は後世の解説でも繰り返されるが、図像と史実を完全な一致として扱うことには慎重さが求められる。 (参照:大英博物館|《なんという勇気!》、大英博物館|《戦争の惨禍》版画集)
飢餓、死体、非人間化された風景
シリーズ中盤にはマドリードの飢餓を扱う版が多くあります。戦争被害は戦場だけで起きるのではなく、物流崩壊、食糧不足、病気によって都市住民へ広がります。《戦争の惨禍》が近代的なのは、兵士同士の戦闘だけでなく、戦争が社会全体へ浸透する様子を描いた点にもあります。切断された身体、吊された身体、積み上げられた死体が、古典的な英雄的裸体へ変換されず描かれます。人体の美を示すアカデミックな裸体表現とは正反対に、身体が壊される現実を観客へ突きつけます。
戦闘が見えない版でも、階段に倒れた人々や壁際に積まれた身体が戦争の結果を語る。空腹によって身体を動かせなくなった人々を描くとき、画面には戦場の栄誉を語る記号がほとんど現れない。《さらにひどい》などに描かれた人体のねじれは、古代裸体像の美しい比例への意識を逆向きに使い、死の不条理を際立たせる。 (参照:プラド美術館|《さらにひどい》と死体の表現、プラド美術館|《こんな方法でも》、大英博物館|《戦争の惨禍》版画集)
短い題名と「私は見た」という言葉
《戦争の惨禍》では「同じことが別の場所でも」「これを見た」「そしてこれも」といった短い題が、像の意味を強めます。説明的な長文ではなく、目撃、反復、無力感を示す短い言葉によって、版画が一種の証言のように感じられます。ゴヤが各場面を実際にその場で目撃したかどうかはすべて確認できません。プラド美術館も、一部を目撃した可能性や情報を得ていた可能性を慎重に述べています。
したがって《戦争の惨禍》を写真報道のような直接記録とみなすのは適切ではありません。観察、報告、記憶、想像力を再構成した作品です。それでも、《戦争の惨禍》は後の戦争写真や反戦美術と比較される重要な前例になりました。国家の勝利を記念する歴史画ではなく、戦争の無名の犠牲者と暴力の反復を連続画像として見せる方法が、近代以降の戦争表象へ大きな影響を持ちました。
数語だけの題名は、像を説明し尽くす文章ではなく、読者の判断を引き出す問いかけとして働く。「これを見た」という言葉が添えられていても、実際に一場面を現場で見た証拠と同じには扱えない。重要なのは、ゴヤが目撃者を思わせる視点を版画に与え、戦争を英雄譚へと整える言葉に対抗する経験を作ったことである。 (参照:大英博物館|《戦争の惨禍》版画集、プラド美術館|《1808年5月2日・3日》制作資料)
1814年の二大作――五月の蜂起と銃殺
記念画二点の注文・制作・展示
1813年末のヴァランセ条約によってフェルナンド7世の帰国が決まり、1814年にスペイン王政が復帰しました。ゴヤは新たな政治状況の中でも宮廷画家として活動を続けます。占領期に新政権へ仕えた事実と、戦争被害を描いた作品の双方を持つため、彼の政治的位置を単純な一語で表すことは難しいです。1814年、ゴヤはマドリードで1808年5月2日の蜂起と、その翌日のフランス軍による処刑を描いた二枚の大画面を制作しました。
以前は市街の記念行事のために描かれたと説明されることがありましたが、プラド美術館の近年の調査では、その用途を示す資料はなく、王宮側の支出記録から1814年5月以後に王室費で制作された可能性が高いとされています。
プラド美術館の研究によれば、1814年の制作は摂政政府からの注文に始まり、国王の復帰後も継続された。額縁代が王室の費用として記録されており、作品が街頭の記念祭典に飾られたという古い説明には裏づけがない。王室の資金で制作された二枚が、フランス軍への抵抗と報復の犠牲を描いている点に、王政復古直後の政治的な複雑さがある。 (参照:プラド美術館|《1808年5月2日》、プラド美術館|《1808年5月3日》)
《1808年5月2日》――中心を失った群衆
《1808年5月2日》では、マドリード市民とフランス軍側のマムルーク騎兵が激しく入り乱れます。中央に明確な英雄を置かず、身体が四方から衝突する構図によって、蜂起は秩序ある戦闘ではなく混乱そのものとして描かれます。
画面に入ると、馬の巨体と地上の人物が複雑に重なり、顔と刃物が同じ距離でぶつかって見える。画家は建築の背景を大きく整理せず、視線が特定の指導者に落ち着かない構成を選んだ。マムルーク騎兵の服装は占領軍の複雑な編成を伝え、街で起きた暴力が敵味方の見分けにくい接近戦となったことを強く感じさせる。 (参照:プラド美術館|《1808年5月2日》)
《1808年5月3日》――二つに分けられた人々
《1808年5月3日》では、夜の丘で捕らえられた人々が銃殺隊と向き合います。地面のランタンが犠牲者側を照らし、兵士たちは背を向けた匿名の集団として描かれます。武器を持つ側には顔がほとんどなく、処刑される側には恐怖、祈り、絶望といった個別の表情があります。国家的勝利ではなく、殺す機械と殺される個人の非対称性が画面の中心です。中央の白いシャツの人物は両腕を大きく広げ、強い光を受けています。
その姿勢や手の傷を思わせる描写からキリストの磔刑との関係が指摘されてきました。画面に奇跡や救済は起こりません。宗教的な犠牲像の形式が、近代の政治的処刑へ移されています。
銃殺隊は揃った背中と銃身でひとつの機械のように見え、反対側の民衆には恐怖や祈りが個々の姿勢として現れる。中央の白い服はランタンの光を受ける面積が広く、周囲の闇と強い対比を作る。両手を上げる動きは殉教図像を想起させるが、画面の下部には血を流して倒れた身体がすでにあり、次の犠牲者が順番を待っている。 (参照:プラド美術館|《1808年5月3日》)
地上のランタンが見せる暴力の構造
光源は天上からではなく、地面に置かれた人工のランタンです。啓蒙を象徴する「光」がここでは処刑を可能にする照明装置になっているようにも見えます。理性、文明、技術が自動的に人道へつながるわけではないというゴヤの世界観と重なります。古い宗教画では殉教者の死が信仰や救済へつながります。《1808年5月3日》はその構図を参照しながら、死の後に意味が保証される場面を示しません。
すでに殺された死体、これから殺される人々、その後ろで待つ人々が連続し、暴力が反復される時間として描かれます。ゴヤは大画面の歴史画という伝統的な格式を維持しながら、理想的な英雄や古代の教訓を中心から外しました。そのため《1808年5月3日》は、ジェリコー《メデューズ号の筏》、ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》へつながる同時代史の絵画として重要です。
光は天から降り注ぐのではなく、銃殺が進む場を照らすために置かれた人工の道具から来る。その明かりが最も強く当たるのは武器を持つ側より殺される側であり、見る者も犠牲者の表情と手を避けて通れない。画面の明暗は、事件を知るための視覚と殺害を遂行する技術とが、同じ場所で重なることを際立たせている。 (参照:プラド美術館|《1808年5月3日》、プラド美術館|《1808年5月2日・3日》制作資料)
《闘牛技》と《ディスパラテス》
《闘牛技》――危険な運動を版画にする
戦争が終わればゴヤの暗い作品が終わるわけではありません。むしろ1814年以後、幻想、不合理、暴力への関心は《闘牛技》《ディスパラテス》《黒い絵》へ別の形で続きます。戦争だけを原因として後期作品を説明することはできません。1814–16年、ゴヤは闘牛の歴史と技術を描いた版画集《闘牛技》を制作し、1816年に販売しました。古代から同時代までの闘牛を扱い、華麗な見世物だけでなく、転倒、突撃、死亡事故など危険な瞬間を多く含みます。
プラド美術館によれば、《闘牛技》は販売面では大きな成功を得ませんでした。現在の知名度と当時の市場評価が一致しない点は《カプリチョス》と共通します。ゴヤの版画シリーズは、必ずしも同時代の需要に適合した商品ではありませんでした。ゴヤ自身は闘牛を好んでいましたが、《闘牛技》は単純な礼賛ではありません。プラド美術館は、啓蒙期スペイン社会で闘牛の正当性が議論されていたことを指摘し、シリーズにも美しさと暴力が同時に存在すると説明しています。
1816年に刊行された《闘牛技》では、角を突き上げる牛と人間が小さな紙面で衝突し、運動の方向が一瞬で逆転する。祝祭の技量と、身体が損なわれる危険は同じ構図に描き込まれている。闘牛文化への関心を持つゴヤは競技の知識を示しながら、見物人の興奮の裏にある切迫した力学を描いた。 (参照:プラド美術館|《闘牛技》作品資料、プラド美術館|ゴヤの略歴と年表)
《ディスパラテス》――意味の定まらない場面
1815年頃からゴヤは、今日《ディスパラテス》と呼ばれる謎めいた版画群を制作しました。巨大な人物、飛行する人間、不自然な集団、奇妙な儀式、恐怖と笑いが混ざった場面が現れます。具体的な政治事件への直接的言及より、人間の不合理そのものが前景化します。ゴヤはこのシリーズを完成した形で刊行しませんでした。現在知られる22点の構成や順番は、後世の資料によって整理されています。
1864年に王立サン・フェルナンド美術アカデミーが18点を《ことわざ》の題で初めて刊行しました。ゴヤ自身が決めた最終的な題名や順序と考えることはできません。《ディスパラテス》の多くは、短い風刺として解読しやすい《カプリチョス》より意味が曖昧です。何が起こっているのか完全には説明できないこと自体が、恐怖、群集、権力、不合理を感じさせます。
巨大な人物が歩いたり、密集する身体が不可解な儀式を行ったりする場面では、現実の社会を再現するための大きさの約束が破られる。作品の説明に役立つと思える動作が、次の瞬間には不条理なものへ変わる。この連作は生前に一冊の作品集として発売されず、1864年の初刊では《ことわざ》という後世の題名が用いられた。 (参照:プラド美術館|《ディスパラテス》作品資料、プラド美術館|《ゴヤの素描》展)
戦後のスペイン政治と連作の不穏さ
フェルナンド7世の復帰後、スペインでは自由主義者や啓蒙派にとって厳しい政治状況が続きました。ゴヤの友人や知人にも亡命や処罰を経験した人物がいました。プラド美術館は《ディスパラテス》について、戦後に進歩的な世界の一部が崩れたことへの幻滅が背景にあると説明しています。
フェルナンド7世の復位後には立憲派への抑圧が強まり、改革思想を共有していた人々の立場が変わった。だからといって不可解な場面をそれぞれ具体的な政治事件に一対一で対応させることはできない。社会的な不安や閉塞感が、寓意として読もうとする観客の努力を何度も裏切る形で表れた可能性を考えたい。 (参照:プラド美術館|《ディスパラテス》作品資料、プラド美術館|ゴヤの略歴と年表)
《黒い絵》――家の壁に描かれた異様な世界
1819年の別荘と再度の病
1819年、72歳のゴヤはマドリード郊外のマンサナレス川近くに小さな別荘を購入しました。後にキンタ・デル・ソルド(聾者の家)と呼ばれる家です。名称はゴヤ以前から使われていたとされますが、ゴヤ自身も聴覚を失っていたため、後世には彼の状態と強く結びつけて記憶されました。同年末、ゴヤは再び重い病に倒れました。医師エウヘニオ・ガルシア・アリエタの治療で回復し、その感謝を《医師アリエタとの自画像》に表しました。この作品では弱った画家を医師が後ろから支え、周囲に暗い人物群が浮かびます。病と介護が個人的な主題として描かれます。
1819年に取得した別荘は郊外で生活するための住宅だった。建物内部へ描かれた絵には、注文主、納品日、公開会場という通常の制度的条件が当てはまりにくい。同じ年の重い病を直接の制作動機とみなすことにも限界がある。医師への感謝を表す《アリエタ医師との自画像》のような明確な題材も同時期にあり、晩年の制作には幅がある。 (参照:プラド美術館|《聾者の家》壁画と再構成、プラド美術館|《黒い絵》研究資料)
壁画からカンヴァスへ――現存する14作品
1820–23年頃、ゴヤはキンタ・デル・ソルド(聾者の家)の二つの部屋の壁に油彩で直接絵を描きました。今日《黒い絵》と総称される作品群は、暗い色調と不穏な主題から後世に付けられた名称です。ゴヤ自身がこの14点を《黒い絵》というシリーズ名で公開したわけではありません。《黒い絵》はサロンや宮廷へ提出する作品ではなく、自宅内部の壁面に描かれました。プラド美術館は、私的空間だったことがゴヤに大きな自由を与えたと説明しています。
「誰にも見せる意図がなかった」とまで断定する資料はありません。現在プラド美術館で見る《黒い絵》は、もともと壁へ直接描かれたものを1870年代にカンヴァスへ移した状態です。移転時には欠損部分への補筆や切断も行われました。今日の画面はゴヤの自宅で見えた状態と完全には同じではありません。プラド美術館では14点が《黒い絵》として保存されています。資料によっては当初15点あったと考えられ、そのうち1点は失われています。作品の配置は19世紀の写真や記録から再構成されており、正確な意味や連作構造には今も議論があります。
壁に施された絵は1870年代に布へ移され、その後プラド美術館へ収蔵された。壁面からの剥離や補修で失われた部分もあり、今日の長方形の画面が建物内に存在した状態をそのまま伝えるとは限らない。題名の多くも後世の呼称で、部屋の配置と鑑賞の順序については写真・目録・研究から再構成されている。 (参照:プラド美術館|《聾者の家》壁画と再構成、プラド美術館|《黒い絵》研究資料)
《我が子を食らうサトゥルヌス》の身体
《我が子を食らうサトゥルヌス》では、神話上のサトゥルヌスが人間の身体へ噛みつく姿が暗闇から浮かびます。古典神話はここで美しい裸体や理想的人体の根拠ではなく、親が子を食う恐怖の像に変わります。老いや子どもの死、政治権力、戦争などと結びつける解釈が多数ありますが、作品の意味を一つへ決定する資料はありません。プラド美術館も《黒い絵》全体の解釈はいまだ謎が多いと明記しています。心理診断のように画家の精神状態へ還元することは避けるべきです。
暗闇の中から浮かぶ神の目は大きく開き、腕と指は人間の身体を強くつかむ。神話を知る観客にとってさえ、ここに描かれるのは整った古代彫刻の身体から遠い、切迫した捕食の動作である。神話上の父の恐怖を画家の精神状態や当時の政治へ直結させる解釈は多いが、絵はそれらのどれか一つに従属しない強い身体的な印象を持つ。 (参照:プラド美術館|《我が子を食らうサトゥルヌス》、プラド美術館|《黒い絵》研究資料)
《犬》――広大な空間と小さな頭
《犬》では、小さな犬の頭だけが広大な斜面あるいは空間からのぞきます。物語、場所、行為がほとんど説明されず、観客は孤独、不安、期待などを自ら投影します。19世紀初頭の作品とは思えないほど、意味を決定する情報が少ない画面です。
大きな淡色の領域と下方から斜めに立ち上がる暗い領域が、犬の頭を驚くほど小さく見せる。犬が斜面に埋もれているのか、見上げているのか、周囲の状況はほとんど分からない。人物も出来事も乏しい画面に、鑑賞者は自然に物語を探そうとする。絵が説明を差し控えたように見えること自体が、作品の不安定な印象を生んでいる。 (参照:プラド美術館|《聾者の家》壁画と再構成、プラド美術館|《黒い絵》研究資料)
《サン・イシドロの巡礼》と群衆の表情
マドリードの祝祭を描く主題は若い頃のタペストリー原画にもありましたが、《黒い絵》では群衆が暗い顔を連ね、祝祭の明るさがほとんど失われています。同じ民衆文化が、若年期の社交的な場面から、群集の不穏さを示す像へ変化しています。
若い時代に祝祭の人物を描いたゴヤが、同じマドリードの行事を晩年には密集する暗い顔の列として描いた点は興味深い。人物をそれぞれ識別できるように並べるより、顔がひとつの流れとなって前へ迫る構成が強調される。歌や行進を思わせる動作も祝祭的な喜びとしては簡単に受け取れず、群衆の集合が独特の不穏さを生んでいる。 (参照:プラド美術館|《黒い絵》研究資料)
《棍棒での決闘》と《魔女の夜宴》
二人の男が互いに棍棒を振り下ろす《棍棒での決闘》は、暴力の反復を象徴する作品として広く知られています。政治的内戦の寓意など多くの解釈がありますが、題名も意味も後世の整理を含みます。確実なのは、逃げ場のない対立が画面の中心にあることです。《黒い絵》でも魔女や怪物的集団の主題が戻ります。1790年代の《カプリチョス》では啓蒙的風刺として比較的読解しやすかった迷信の世界が、後期作品ではより曖昧で巨大な集団心理の像へ変わっています。
棍棒を振るう二人の姿は左右に大きく開かれ、足元をめぐる空間の曖昧さが逃げ場のなさを感じさせる。《魔女の夜宴》では、山羊の姿の怪物を前に群衆が集まり、集団の心理を読み取ろうとしても誰が何を信じているのか定かでない。個人の暴力と集団の恐怖が、別々の形で可視化されている。 (参照:プラド美術館|《魔女の夜宴、あるいは大山羊》、プラド美術館|《黒い絵》研究資料)
《黒い絵》をどう解釈するか
暗い色と暴力的主題から、ゴヤの精神状態を診断するような解釈がしばしば行われます。作品だけから医学的状態を推測することはできません。同時期にも肖像、素描、版画を制作し、1824年以後は新しいリトグラフ技法へ積極的に取り組んでいます。
制作時の壁面状態や題名が正確に残されていない以上、作品の一つ一つへ確定的な意味を割り振ることは難しい。伝記上の病気、戦争の記憶、宗教や神話の図像を参照しながら、造形そのものを観察することが重要となる。見える範囲と分からない範囲を区別する読み方が、私的な壁画を理解するための基本である。 (参照:プラド美術館|《聾者の家》壁画と再構成、プラド美術館|《黒い絵》研究資料)
ボルドー――老年期の技術と視線
政治の変化と1824年のフランス行き
ゴヤは晩年まで素描帳を作り続けました。老人、貧困、飛行、暴力、滑稽な人物、都市生活など、題材は広い範囲に及びます。完成作品のための準備だけではなく、思考そのものとして描く習慣が生涯続きました。1820年、ラファエル・デル・リエゴの蜂起をきっかけに1812年憲法が再び施行され、スペインでは自由主義的な政治期が始まりました。プラド美術館は、《ディスパラテス》の制作がこの頃までに弱まった可能性を指摘しています。
政治環境の変化と作品の暗い世界が単純に一致しなくなった可能性があります。1823年、フランス軍の介入によってフェルナンド7世の絶対王政が復活し、多くの自由主義者が国外へ出ました。ゴヤも翌1824年に国王の許可を得てフランスへ向かいます。プラド美術館は、彼自身が直接迫害されていたことを示す明確な資料はないと注意しています。1824年、ゴヤは健康療養を名目にフランスへ渡り、パリを経てボルドーを生活拠点としました。
78歳になっていましたが制作をやめず、現地の街、人々、技術へ関心を持ち続けます。プラド美術館の伝記資料によれば、パリ滞在中のゴヤは公共空間を歩き、建築や文化施設を見ていたことが警察記録などから確認されています。「老いて暗い世界へ閉じこもった画家」という像だけでは、晩年の好奇心を説明できません。
1820年に立憲政治が一時復活し、1823年に絶対王政が再び強まると、改革派と結びついた人々は厳しい状況に置かれた。ゴヤは翌年、王の許可を得てフランスへ向かった。パリでの滞在を経てボルドーを拠点としたが、外出や新しい制作を重ねていた記録も残る。亡命をめぐる政治的事情と、老画家の日々の活動の双方に目を向けたい。 (参照:プラド美術館|ゴヤの略歴と年表、プラド美術館|《ゴヤの素描》展)
1825年《ボルドーの闘牛》とリトグラフ
ゴヤはマドリード時代からリトグラフに関心を持っていましたが、ボルドーでその表現可能性を本格的に試しました。石へ直接描いて印刷できるため、線と面を素早く扱うことができ、高齢のゴヤにも適した技法でした。1825年、ゴヤはシプリアン・ゴロンの工房で4点の大型リトグラフ《ボルドーの闘牛》を制作しました。それぞれ100部が刷られました。群衆、牛、騎手が渦を巻くように動き、細かな線と黒い面によって強い速度感が作られます。
《ボルドーの闘牛》が重要なのは、ゴヤの革新性を若い時代だけのものにできないことです。80歳近くになっても新しい印刷技術を学び、自分の表現へ取り込みました。制作方法を固定しない姿勢が晩年まで続きます。
リトグラフでは石の表面へ描画材で直接筆を動かし、油と水の反発を利用して印刷する。金属板の線を腐食させる銅版画とは工程が異なり、筆やクレヨンの勢いを保った濃淡が作りやすい。ボルドーのゴロン工房で制作した闘牛の四枚には、暴れる牛、闘牛士、観客席が速い筆勢で重ねられ、印刷を新しい絵画的な実験へ変える姿勢が見られる。 (参照:プラド美術館|《ボルドーの闘牛》資料、プラド美術館|《ゴヤの素描》展)
ボルドー素描帳と「まだ学ぶ」
1824–28年のボルドー素描帳には、街で見た人々、老人、貧困、滑稽な身体、幻想的な出来事が描かれます。プラド美術館は、この時期に社会風刺がよりグロテスクな表現へ変わったと説明しています。現実観察と想像力が最後まで分離していません。ゴヤの晩年を象徴するものとして、老人が杖をついて歩く素描に「アウン・アプレンド(まだ学ぶ)(私はまだ学ぶ)」と書かれた作品が知られています。
帰属や制作年を含む資料的検討は必要ですが、晩年のゴヤ像と結びついて広く参照されてきました。少なくとも実際の制作活動を見る限り、高齢になっても新しい技法と像を試していたことは明らかです。
晩年の素描には若者だけでなく老人の姿も多く、手足の小さな動作を簡潔な線でとらえている。「まだ学ぶ」の文字で知られる杖をつく老人の素描は、ゴヤの老年像を代表する存在となった。帰属や年代の検討を残しながら、この言葉をすべての晩年作品の唯一の鍵とすることは控え、実際の技法実験と並べて理解したい。 (参照:プラド美術館|《ゴヤの素描》展、プラド美術館|素描帳と版画の資料)
《ボルドーのミルク売り娘》の明るい色彩
1827年頃の《ボルドーのミルク売り娘》は、晩年の暗い作品群とは大きく異なる明るい色調を持ちます。若い女性と淡い青の画面は、《黒い絵》だけをゴヤの最終到達点とみなす見方を修正します。晩年にも軽やかな光と日常的な人物を描くことができました。ゴヤは1828年4月16日、ボルドーで81歳で死去しました。宮廷装飾からタペストリー、宗教画、肖像、版画、壁画、素描、リトグラフまで、半世紀以上にわたり媒体と顧客を変えながら制作を続けた生涯でした。
淡い青と白の面の中に若い女性の頭部と肩が描かれ、乳の容器が隣に置かれる。筆触には細かな部分とほとんど溶けたような部分があり、空気と人物の境界は柔らかい。プラド美術館は視点の低さによって騾馬に乗った姿を示唆していると説明する。闇と暴力だけでゴヤの晩年を語ると、このような日常への視線が見えにくくなる。 (参照:プラド美術館|《ボルドーのミルク売り娘》)
ゴヤの制作が美術史に残した問い
権力の肖像と自主制作が共存する
《カルロス4世の家族》と《黒い絵》を並べると、まるで二人の別の画家の作品に見えることがあります。両者を分断するとゴヤの重要性を見失います。権力の表面を観察してきた同じ眼が、人間の愚かさ、群衆、暴力、欲望へ向いています。ゴヤは迷信や無知を批判する啓蒙的な立場に近い理性がすべてを解決すると信じる楽観主義には留まりませんでした。《理性の眠りは怪物を生む》から《黒い絵》まで、理性の外側にあるものが何度も戻ってきます。近代の理性と近代の不安が同時に生まれる地点にゴヤは立っています。
《カルロス4世の家族》を描く能力と、怪物に取り囲まれた眠る人物を描く発想は、どちらも人物の身振りを観察してきた同じ画家に属している。画面を誰に見せるかという条件が変われば、表現の強度と用途も変わる。王室の注文を受けた事実が社会への批判的な眼差しを消すわけでも、版画の風刺がすべての公式肖像を秘密の批判へ変えるわけでもない。 (参照:プラド美術館|ゴヤの略歴と年表、プラド美術館|《カルロス4世の家族》)
暴力を描くことと、新しい主題の広がり
《戦争の惨禍》《1808年5月3日》では、戦争は国家の栄光として描かれません。暴力を受ける無名の身体へ焦点を移したことによって、歴史画の役割は「偉大な出来事を記念すること」から「歴史が個人に与える苦痛を見せること」へ大きく変わります。狂人、売春、教育の失敗、飢餓、処刑、老い、夢、魔女、普通の都市住民まで、ゴヤは従来の高位ジャンルが避けてきた多くの対象を作品化しました。何を描くに値するかという序列そのものが広がった点で、後のロマン主義とリアリスムの両方へつながります。
戦争を描くとき、勝利する将軍へ焦点を集める代わりに、逃げる人々や飢えた住民を画面の主人公としたことは、歴史画の見方を変える。狂気や貧困、社会制度の欺瞞も、古代の理想像に従わないからこそ描くに値する出来事となった。作品に登場する人々の名前がなくても、その生の存在感を伝える方法が磨かれていった。 (参照:プラド美術館|《1808年5月3日》、大英博物館|《戦争の惨禍》版画集)
版画と素描が作った作者の自由
自主制作、素描帳、《カプリチョス》《黒い絵》では、作品の意味を依頼主の用途だけでは説明できません。画家自身の観察、恐怖、批判、想像力が作品を成立させる根拠になり、近代的な「作者」の概念へ近づいていきます。ゴヤの近代性は油彩画だけからは理解できません。版画によって連続画像を構成し、社会批判を複製可能な形式にしました。《カプリチョス》では社会風刺、《戦争の惨禍》では暴力、《闘牛技》では伝統と危険、《ディスパラテス》では不合理が、それぞれ異なる連作として展開されます。
複製によって読者へ直接届きうる版画と、長らく公開されず手元で試すための素描帳は、制作と鑑賞の条件が対照的である。双方に共通するのは、注文主が決めた画題から離れて観察したことを形にする可能性だった。版画集が売れたか、連作が公開されたかという事実も踏まえると、近代的な作者の自由には、制作の自由だけでなく発表の難しさが伴ったと分かる。 (参照:プラド美術館|《ゴヤの素描》展、プラド美術館|素描帳と版画の資料、大英博物館|《戦争の惨禍》版画集)
ロマン主義からマネへ――後世の読み直し
19世紀後半になると、ゴヤの版画と絵画はフランスを中心に広く知られるようになり、マネをはじめ多くの近代画家が参照しました。プラド美術館は《闘牛技》の図像がマネの作品へ取り込まれた具体例も示しています。ゴヤの同時代的評価だけでなく、後世の受容が彼を「近代の先駆者」として形成しました。ゴヤを「最初の近代画家」と呼ぶ表現はよく使われますが、美術史上の近代化を一人の人物から始めることはできません。
ダヴィッド、ターナー、フリードリヒ、ジェリコーなど同時代の作家も別の方法で近代的問題へ向かっていました。ゴヤの重要性は「最初」であることより、宮廷制度の内部から、近代の不安、暴力、作者の自由を極端な幅で可視化したことにあります。ゴヤは後のロマン主義と多くの主題を共有します。個人の内面、夢、怪奇、崇高、戦争、感情、古典的秩序への不信です。彼の成熟はロマン主義が確立する前から始まっており、彼自身を後世の分類へ完全に閉じ込めることはできません。
むしろロマン主義が生まれる条件を先行して可視化した画家として見る方が理解しやすいでしょう。ゴヤが戦争と暴力を描いていた1810年代末、フランスではジェリコーが《メデューズ号の筏》を制作します。両者は直接同じ運動へ参加していたわけではありませんが、英雄的な歴史画の形式を、無名の死者や同時代の惨事へ向けた点で大きく響き合います。ドラクロワは文学、革命、暴力を大画面へ持ち込み、ゴヤの作品にも強い関心を持つことになります。
19世紀のロマン主義者にとってゴヤは、古典的規範では扱いきれない感情と現実を描く先例として重要になりました。ゴヤの影響はロマン主義だけで止まりません。マネはスペイン絵画へ強い関心を持ち、ベラスケスとゴヤを重要な参照源にしました。歴史的主題を現代へ変換する方法、強い明暗、平面的な画面、暴力の描写などを通じ、ゴヤは19世紀後半の近代絵画にもつながります。
ジェリコーやドラクロワの同時代的な惨事への関心、さらにマネによるスペイン絵画の研究を考えると、ゴヤの仕事が後続世代に多様な形で読み直されたことが分かる。直接の影響関係を示す文書がない例まで系譜として固定する必要はない。誰を先駆者と呼ぶかという議論より、版画や絵画がいつ、どこで、誰に知られ、どのように参照されたかをたどることが重要となる。 (参照:プラド美術館|ゴヤの略歴と年表、プラド美術館|《1808年5月3日》、プラド美術館|《闘牛技》作品資料)
ゴヤとスペイン美術の年表
- 1746年:サラゴサ近郊のフエンテトードスに生まれる。
- 1775年:王立タペストリー工場向けの原画制作を始め、宮廷の仕事に関わる。
- 1780年:王立サン・フェルナンド美術アカデミーの会員となる。
- 1786年:宮廷画家に任じられ、国王と宮廷からの注文が増える。
- 1789年:カルロス4世の宮廷画家となる。
- 1792年:美術教育の自由に関する意見書を提出。年末に重い病を患う。
- 1793年:病後に聴覚を失い、小型絵画の自主制作を進める。
- 1794〜1798年:素描帳を制作し、女性の姿、社会風刺、夢や魔女の図像を展開する。
- 1798年:《ホベリャーノスの肖像》を制作。
- 1799年:80点の《ロス・カプリチョス》を刊行。第一宮廷画家へ昇進する。
- 1800年:《カルロス4世の家族》《チンチョン伯爵夫人》などの肖像を制作。
- 1803年:《ロス・カプリチョス》の銅版と残部を王室へ譲渡する。
- 1808年:フランス軍の介入とマドリード蜂起。半島戦争が始まる。
- 1810年頃:《戦争の惨禍》の銅版制作を始める。
- 1812年:戦争中の飢饉がマドリードの住民に深刻な被害を与える。
- 1814年:《1808年5月2日》《1808年5月3日》を制作する。
- 1815年:《裸のマハ》などについて異端審問所から説明を求められる。
- 1816年:版画集《闘牛技》を刊行する。
- 1815〜1823年頃:後世《ディスパラテス》と呼ばれる版画群を制作する。
- 1819年:郊外の別荘キンタ・デル・ソルドを購入し、重い病も経験する。
- 1820〜1823年頃:別荘の壁面に、後世《黒い絵》と呼ばれる作品群を描く。
- 1820年:スペインで立憲政治が一時復活する。
- 1823年:フランス軍の介入を経てフェルナンド7世の絶対王政が復活する。
- 1824年:フランスへ移り、ボルドーを活動拠点とする。
- 1825年:大型リトグラフ《ボルドーの闘牛》を制作する。
- 1827年頃:《ボルドーのミルク売り娘》を制作する。
- 1828年:ボルドーで死去する。
- 1863年:《戦争の惨禍》が初めてまとまった形で刊行される。
- 1864年:《ディスパラテス》の18点が《ことわざ》の題で刊行される。
- 1870年代:《黒い絵》が建物の壁からカンヴァスへ移される。
- 20世紀:戦争表象と幻想の歴史において、ゴヤが広く研究・再評価される。
まとめ――宮廷と悪夢のあいだで何を描いたのか
ゴヤは王室のために肖像を描く高度な職業的技術を持ちながら、社会風刺、戦争の被害、神話の怪物、群衆の不安といった主題を独自に探求した。1799年に《ロス・カプリチョス》を刊行し、同じ年に第一宮廷画家となったことは、その二つの活動が同じ社会の中で成り立っていたことを象徴している。
《戦争の惨禍》と《1808年5月3日》では、国王や将軍の勝利より、殺される人々の身体へ視点が置かれた。版画という複製可能な媒体と、公的な注文による巨大な絵画の両方を用い、戦争を記憶する方法が新しく考えられた。《黒い絵》では、壁という私的な支持体の上で物語や意味を確定しにくい像が生まれ、鑑賞の条件そのものも変化した。
ボルドーで晩年を過ごしたゴヤは、リトグラフを学び、素描帳に人々を描き、《ボルドーのミルク売り娘》のような明るい絵画も残している。宮廷の華やかさから暗い幻想へ向かう一本道の物語では、こうした創作の持続を理解しにくい。理性と想像力、制度と自主制作、政治と個人の経験が一人の画家の中で交差したことこそ、ゴヤを後の絵画史へつなぐ重要な点である。
参考資料・出典
作品の制作年代、技法、注文、初版の刊行、来歴、修復研究は、プラド美術館、大英博物館、メトロポリタン美術館などの公式資料を参照した。元原稿の主要な論点を継承し、作品の表現と近年の研究成果を加えて再構成している。解釈が複数ある箇所では、制作当時の記録と後世の推測を区別した。
- プラド美術館|ゴヤの略歴と年表
- プラド美術館|《戦時のゴヤ》展
- プラド美術館|《理性の眠りは怪物を生む》
- プラド美術館|《お化けが来るぞ》と《カプリチョス》
- プラド美術館|《カプリチョス》初版の刊行と残部
- メトロポリタン美術館|《理性の眠りは怪物を生む》所蔵作品
- プラド美術館|《カルロス4世の家族》
- プラド美術館|《裸のマハ》
- プラド美術館|《二つのマハ》資料解説
- プラド美術館|《1808年5月2日》
- プラド美術館|《1808年5月3日》
- プラド美術館|《1808年5月2日・3日》制作資料
- 大英博物館|《戦争の惨禍》版画集
- 大英博物館|《そして彼女たちは野獣のように》
- 大英博物館|《なんという勇気!》
- プラド美術館|《ゴヤの素描》展
- プラド美術館|《闘牛技》作品資料
- プラド美術館|《ディスパラテス》作品資料
- プラド美術館|《聾者の家》壁画と再構成
- プラド美術館|《我が子を食らうサトゥルヌス》
- プラド美術館|《黒い絵》研究資料
- プラド美術館|《ボルドーの闘牛》資料
- プラド美術館|《ボルドーのミルク売り娘》
- プラド美術館|《チンチョン伯爵夫人》技法調査と注文記録
- プラド美術館|《ホベリャーノスの肖像》
- プラド美術館|《さらにひどい》と死体の表現
- プラド美術館|《こんな方法でも》
- プラド美術館|素描帳と版画の資料
- プラド美術館|《理性の眠りは怪物を生む》準備素描
- プラド美術館|《魔女の夜宴、あるいは大山羊》
資料確認日:2026年10月12日 / ART LIBRARY