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Pablo Picasso

パブロ・ピカソ

スペイン/フランス / 1881–1973 / キュビスム/20世紀美術

The Mystery of Pablo Picasso (1956 Documentary) (Contemporary Art Fashion Slub Pop Kitsch)
『ピカソの謎』は、アンリ=ジョルジュ・クルーゾーが1956年に制作した映画である。この作品は、わずか75分間で、ピカソの絵画制作のプロセスや、形而上学的なメタ・プロジェクトの芸術的創造の過程を解き明かすことを目的としている。この映画は、ピカソによる20点のオリジナル作品の制作過程を記録している。ここでは、ピカソの初期の作品が主に黒インクで描かれ、所々にわずかな色彩が加えられていたが、次第に色の割合や範囲が拡大していった様子が見て取れる。また、ピカソの絵画の主な題材として、主に女性や女性の胸、闘牛、地中海の風景などが取り上げられている。これらは抽象的な性質を持っていたものの、時折、旧来のキュビズム的な装飾が見られる。

パブロ・ピカソ(1881–1973)は、20世紀美術の展開を考えるうえで避けて通れない作家です。青の時代、バラ色の時代、キュビスム、古典的な人物表現、政治的主題、彫刻、版画、陶芸まで、約80年に及ぶ活動のなかで制作方法を繰り返し変化させました。重要なのは、その変化を「一つの様式を完成させて次へ進んだ」という直線的な成長として見ることではありません。過去に試した方法へ戻り、異なる様式を同時に使い、絵画と彫刻、現実の物体と描かれた像を往復すること自体が、ピカソの制作の特徴でした。

生涯と制作の変遷

スペインでの教育とパリへの移動

ピカソは1881年、スペイン南部のマラガに生まれました。父ホセ・ルイス・ブラスコは画家であり美術教師でもあり、ピカソは幼い頃から絵を学びます。1895年に家族でバルセロナへ移り、ラ・ロンハ美術学校で学び、1897年にはマドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーへ進みました。しかし学校教育だけに留まらず、バルセロナの芸術家や作家が集まる「四匹の猫(Els Quatre Gats)」の周辺で前衛的な文化に接し、1900年には初めてパリを訪れます。

この時点のピカソは、すでにアカデミックな描写技術を身につけていました。後年の大胆な形態の変形は「正確に描けなかったから」生じたのではありません。むしろ、写実的に描く能力を持ちながら、何を残し、何を壊し、どの程度まで形を変形できるのかを意識的に試す方向へ進んだと考えた方が、長い制作歴を理解しやすくなります。

青の時代:色彩を限定する

1901年頃から1904年頃にかけて、ピカソは青を中心とした限られた色彩で、貧困、孤独、病、老いなどを主題とする作品を多く制作しました。親友カルロス・カサヘマスの死が大きな契機の一つとなり、人物は細長く、静かで閉ざされた姿として表されます。

1903年の《ラ・ヴィ(人生)》では、男女、母子、背景の人物像が一つの画面に組み合わされ、単純な物語には還元できない象徴的な構成がつくられています。クリーブランド美術館の調査によれば、この絵はさらに古い作品《最後の瞬間》の上に描かれており、制作途中でも人物の頭部などに変更が加えられていました。完成作だけを見るより、ピカソが一枚の画面を何度も作り直していたことが分かります。

青の時代は「青い絵を描いた時期」とだけ理解すると狭すぎます。色を限定することで、人物の身体、姿勢、画面の空間、感情の重さを強く前面に出す方法を試した時期でもありました。

バラ色の時代から《アヴィニョンの娘たち》へ

1904年にパリのモンマルトルへ本格的に移り、詩人ギヨーム・アポリネール、マックス・ジャコブ、作家アンドレ・サルモンらと交流します。色彩は青から桃色や土色へ移り、サーカスの芸人、道化師、旅芸人などが頻繁に登場するようになります。いわゆる「バラ色の時代」です。

しかし1906年から1907年にかけて、人物の身体は次第に単純化され、硬い量塊へ変わります。ピカソは古代イベリア彫刻を見ており、さらに当時パリで見ることのできたアフリカの造形にも接していました。1907年の《アヴィニョンの娘たち》では、五人の裸体像が浅い空間に押し込まれ、顔や身体が複数の方向から組み立てられたように描かれています。

MoMAによれば、ピカソはこの作品のために数百点に及ぶ素描や習作を制作しました。初期案では男性客や医学生も登場していましたが、最終作では取り除かれ、五人の女性が鑑賞者の側へ直接向き合う構図へ変化しています。つまり、この作品の急進性は突然のひらめきではなく、長い検討と構成変更の結果でした。

キュビスムは何を変えたのか

ブラックとの共同研究

1907年にジョルジュ・ブラックと出会った後、二人は非常に近い距離で制作を進めます。1909年頃から1912年頃の分析的キュビスムでは、人物、楽器、静物、建築などの対象を小さな面へ分解し、複数の角度から見た情報を一つの平面へ組み直しました。色彩は茶、灰色、緑などに抑えられ、何が描かれているかは次第に判別しにくくなります。

ここで重要なのは、「物を幾何学的に描く」という表面的な特徴だけではありません。ルネサンス以来の一点透視図法では、固定した一つの視点から世界を組み立てます。キュビスムでは、その前提を緩め、対象について知っている情報、時間の異なる視点、文字や記号などを同一画面へ並置できるようになりました。

《マ・ジョリ》:見えるものと読めるもの

1911–12年の《マ・ジョリ》では、女性とギターという主題が、細かな面と線へ分解され、ほとんど判読できない状態になっています。一方、画面下部には「MA JOLIE」という文字とト音記号がはっきり書かれています。像が読み取りにくくなるほど、文字は逆に明確な手掛かりとして機能します。

ここでは、絵画の中の「描かれた像」と「現実世界で使われる文字」が同じ平面上に存在しています。文字は何かを再現した像ではなく、それ自体が読める記号です。キュビスムが開いた問題は、空間表現だけでなく、絵画の中で異なる種類の情報をどう共存させるかという点にもありました。

コラージュと構成物

1912年以降、ピカソとブラックは新聞紙、壁紙、印刷物などを画面へ貼り付ける方法を取り入れます。描かれた木目の代わりに木目模様の印刷紙を貼る、新聞を描く代わりに実際の新聞紙を使う。ここでは「何かに見える絵」と「現実に存在する物質」の境界が曖昧になります。

同じ時期、ピカソはギターを紙、段ボール、金属などで組み立てた立体作品も制作します。伝統的な彫刻のように塊から形を削り出すのではなく、平らな面を切り、折り、組み合わせることで立体を作りました。この発想は後の構成彫刻やアッサンブラージュにもつながる重要な転換です。

キュビスムの後にもキュビスムは残る

第一次世界大戦後、ピカソは大きく滑らかな人物像や古典的な裸体を描き始めます。しかし、それはキュビスムを捨てたことを意味しません。1921年の《三人の音楽家》では、人物は平坦な色面に分かれ、切り紙を組み合わせたように構成されています。油彩でありながら、1910年代のコラージュの発想が大画面へ戻されています。

このようにピカソは、過去の方法を終わった様式として封印しませんでした。写実的な線、古典的な量感、キュビスム的分解、平面的な装飾性が同じ時期に並行することがあります。この「一つに決めない」態度は、ピカソを年代ごとの様式名だけで整理すると見えにくくなる部分です。

ピカソの作品をどう見るか

顔は一つの方向から見なくてよい

ピカソの人物画では、横顔と正面顔が一つの顔に共存することがあります。これは人物を奇妙に歪めることだけが目的ではありません。人を見る経験は、本来一つの瞬間、一つの角度だけに限定されません。横から見た鼻、正面から見た目、記憶のなかの顔。それらを一枚の画面に同時に置くことで、絵画に許される「見方」の範囲を広げています。

変形された身体を「デフォルメ」だけで終わらせない

身体の形は作品ごとに大きく異なります。細長く弱々しい青の時代の人物、重い彫刻のような1920年代の女性像、丸みを帯びた1930年代の人物、晩年の粗く素早い人物。それぞれの形は、単なる癖ではなく、その時期の画面構成や制作速度、主題と結びついています。

したがって「ピカソらしい顔」という固定した記号を探すより、なぜこの作品では目が二つの方向を向き、なぜ別の作品では身体が巨大化し、なぜある時期には線が急に簡潔になるのか、と作品ごとの差を見る方が有効です。

様式の変化を進歩として見ない

MoMAはピカソの長い活動について、多様な様式、主題、媒体への開放性と、芸術の変化を単純な進歩として捉えない態度を重要な特徴として挙げています。青の時代からキュビスムへ進み、そこからさらに高度な様式へ到達した、という見方ではピカソの制作を説明できません。

実際には、キュビスムの後に古典的な人物へ戻り、さらに再び平面化し、過去の巨匠を引用し、陶器を作り、既製品を組み合わせた彫刻を作ります。作品を見るときは「この作品は何期か」を確認するだけでなく、「ここでは何を再び使い、何を変えたのか」を見る必要があります。

制作過程そのものを見る

《アヴィニョンの娘たち》には大量の習作があり、《ラ・ヴィ》には下層の別作品があり、《ゲルニカ》の制作過程はドラ・マールによって段階的に撮影されています。ピカソの代表作の多くは、完成形だけを見れば一気に描かれたような強さを持っていますが、実際には変更、消去、反復を重ねています。

この点は、ピカソを「天才だから一瞬で描けた作家」という神話から少し離して見るうえでも重要です。大量の試行、別案、再制作、同じ主題の反復が、その長い制作を支えていました。

他者の作品を使い直す

晩年のピカソは、ベラスケス《ラス・メニーナス》、ドラクロワ《アルジェの女たち》、マネ《草上の昼食》など、美術史上よく知られた作品を繰り返し描き直しました。これは原作を忠実に模写する作業ではありません。構図や人物関係を借りながら、色、形、画面の密度を変え、自分自身の制作方法を過去の作品へぶつけています。

若い頃に古い美術から学び、キュビスムで既存の空間表現を壊し、晩年には再び過去の絵画へ戻る。この往復も、ピカソを単純な「革新の作家」としてだけ捉えられない理由です。

ピカソの『ゲルニカ』:偉大な芸術を解説|Great Art Explained

主要作品

ピカソ作品は現在も著作権保護下にあるため、ART LIBRARYでは主要作品の画像を掲載せず、作品情報・所蔵館リンクと解説で構成します。長い制作の変化を追えるよう、青の時代、キュビスム、1920年代、1930年代、政治的作品、彫刻まで7作品を選びました。

ラ・ヴィ(人生)

La Vie / 1903 / 油彩・カンヴァス / 196.5 × 129.2 cm

Cleveland Museum of Art

青の時代を代表する大作。男女、母子、背景の裸体像が一つの画面に組み合わされています。X線調査により、下層には以前の作品《最後の瞬間》が存在することが確認され、制作途中で人物の頭部なども変更されました。完成した構図の背後に、複数の試行と上描きがあることを示す重要な作品です。

所蔵館の作品情報 ↗

アヴィニョンの娘たち

Les Demoiselles d’Avignon / 1907 / 油彩・カンヴァス / 243.9 × 233.7 cm

The Museum of Modern Art, New York

五人の裸体像を浅い空間へ押し込み、身体と顔を幾何学的に分解した作品。MoMAによれば、完成までに数百点の習作が作られ、初期案にいた男性客や医学生は最終構図から消えました。キュビスムの直接的な出発点の一つとして位置づけられますが、1907年に公開されたわけではなく、公の展示は1916年まで待つことになります。

所蔵館の作品情報 ↗

マ・ジョリ

Ma Jolie / 1911–1912 / 油彩・カンヴァス / 100 × 64.5 cm

The Museum of Modern Art, New York

分析的キュビスムの代表例。女性とギターの像は多数の面や線へ分解され、ほとんど判読できませんが、画面下には「MA JOLIE」の文字とト音記号が明確に描かれています。絵画的な像、文字、音楽を示す記号という異なる情報が一枚の平面に共存しています。

所蔵館の作品情報 ↗

三人の音楽家

Three Musicians / 1921 / 油彩・カンヴァス / 200.7 × 222.9 cm

The Museum of Modern Art, New York

第一次世界大戦後に制作された大画面。油彩作品ですが、切り紙を重ねたコラージュのような平坦な色面で三人の人物が構成されています。ピエロ、アルルカン、修道士という人物像を用いながら、1912年前後に発展させた総合的キュビスムの方法を再び大規模な絵画へ戻しています。

所蔵館の作品情報 ↗

鏡の前の少女

Girl before a Mirror / 1932 / 油彩・カンヴァス / 162.3 × 130.2 cm

The Museum of Modern Art, New York

女性と鏡像を左右に置きながら、横顔と正面像、明るさと暗さ、若さと老いを一つの画面へ重ねた作品。左右対称に近い構造を持つ一方、身体や顔は大きく変形され、鏡像も単純な反射としては描かれていません。1930年代のピカソが、人物像を複数の視点と象徴的色彩によって再構成した代表例です。

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ゲルニカ

Guernica / 1937 / 油彩・カンヴァス / 349.3 × 776.6 cm

Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía, Madrid

スペイン共和国政府から依頼された1937年パリ万国博覧会スペイン館のための大作。ゲルニカ爆撃を受けて主題が変更され、馬、牡牛、叫ぶ人物、倒れた兵士などを巨大なモノクローム画面へ組み合わせました。事件の写実的記録ではなく、断片化された身体と象徴的モチーフによって戦争と暴力を表現しています。

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牡牛の頭

Tête de taureau (Bull’s Head) / 1942 / 自転車のサドル、ハンドル(革・金属) / 33.5 × 43.5 × 19 cm

Musée national Picasso-Paris

自転車のサドルとハンドルを組み合わせ、ほとんど加工せず牡牛の頭へ見立てた作品。二つの日用品が配置の変更だけで別の像として立ち上がります。ピカソの彫刻では、素材を一から造形するだけでなく、すでに存在する形を発見し、別の意味へ変換する方法が重要でした。

所蔵館の作品情報 ↗

絵画だけではないピカソ

彫刻:既製の形を別の物へ変える

ピカソの彫刻では、絵画とは異なる思考がはっきり見えます。1942年の《牡牛の頭》では、自転車のサドルとハンドルを組み合わせただけで、二つの既製品が突然、牡牛の頭部として見えてきます。サドルは顔、ハンドルは角になる。物体自体を大きく加工するのではなく、配置と見立てによって意味を変えています。

これはデュシャンのレディメイドと比較すると違いが分かりやすくなります。デュシャンでは「選ばれた既製品が作品として成立する条件」が大きな問題になりますが、ピカソの《牡牛の頭》では二つの物体の形が別の像へ変換される視覚的な発見が中心にあります。同じ既製品の利用でも、作品が向かう問題は異なります。

陶芸:器の形を身体へ変える

第二次世界大戦後、ピカソは南フランスのヴァロリスで陶芸制作へ本格的に取り組みました。1946年に陶芸家シュザンヌとジョルジュ・ラミエの工房Madouraと出会い、その後、皿、壺、ピッチャーなど多数の陶器を制作します。

陶器では、器の取っ手が耳や腕に、胴が人物や動物の身体に見立てられることがあります。平らなキャンバスへ像を描くのではなく、既にある立体形状を読み替えて別の像へ変える方法です。《牡牛の頭》の見立てとも共通する、形を別の意味へ転換する感覚を見ることができます。

版画と反復

ピカソは版画も大量に制作しました。版画では、一つのイメージを複数の状態へ変化させたり、線を削り、重ね、刷り直すことができます。晩年までエッチング、リノカットなどさまざまな技法を使い続けました。

同じ主題を少しずつ変えて何度も作ることは、ピカソの制作全体に通じています。完成した唯一の傑作だけを見るより、一つのモチーフが絵画、素描、彫刻、版画、陶器へ移動する過程を見ると、媒体の違いそのものが彼にとって制作上の道具だったことが分かります。

20世紀美術のなかでの位置

《ゲルニカ》と政治的イメージ

1937年、スペイン共和国政府からパリ万国博覧会スペイン館のための作品を依頼されていたピカソは、同年4月26日のバスク地方ゲルニカへの爆撃を受けて主題を変更し、巨大な《ゲルニカ》を制作しました。Reina Sofíaによれば、制作は1937年5月1日から6月4日にかけてパリで行われています。

画面には特定の戦闘場面や爆撃機が写実的に描かれているわけではありません。叫ぶ人物、倒れた兵士、馬、牡牛、炎などが断片化されたモノクロームの空間に置かれています。そのため《ゲルニカ》は、単一の事件を記録する報道画像とは異なり、戦争や暴力をめぐる広い象徴として受容されてきました。

作品は第二次世界大戦後も長くニューヨーク近代美術館に預けられ、ピカソはスペインに自由が回復するまで戻さない意向を示しました。1981年にスペインへ戻り、現在はマドリードのMuseo Reina Sofíaに所蔵されています。

革新だけでなく、再利用の作家として見る

ピカソはキュビスムの共同創始者として美術史に位置づけられています。しかし、その重要性を「新しい様式を発明した人」という一点に絞ると、長い活動の半分以上が説明できません。

ピカソは、古代美術、スペイン絵画、セザンヌ、アフリカの造形、新聞、広告、日用品、写真、古典絵画など、多くの既存イメージや物質を自分の制作へ取り込みました。そして一度使った自分自身の様式も、後に再利用しました。新しいものを無から発明するより、すでに存在するものを分解し、組み直し、別の文脈へ移す能力が極めて高かった作家と見ることもできます。

「ピカソらしさ」を一つに固定しない

現在、ピカソという名前から連想されやすいのは、目や鼻の位置がずれたキュビスム的な人物像です。しかし、それは膨大な制作の一部です。《ラ・ヴィ》と《マ・ジョリ》と《三人の音楽家》と《鏡の前の少女》と《ゲルニカ》は、知らなければ同じ作家の作品とは思えないほど違います。

この違いこそがピカソを見る重要な手掛かりです。スタイルを確立して同じ形式を反復するのではなく、形式そのものを制作ごとに選び直す。その結果として、ピカソの「作家性」は特定の筆致や形ではなく、変化を止めない方法の側に現れています。

晩年も制作は止まらなかった

1940年代後半以降は南フランスを拠点とし、陶芸、彫刻、版画、絵画を大量に制作しました。1950年代から1960年代には、ベラスケス、ドラクロワ、マネなど過去の巨匠の作品を連作として描き直します。1960年代後半には銃士や画家とモデル、裸体などを、太い線と強い色彩で急速に描く作品が増えました。

晩年の作品は、かつては若い時期の革新に比べて粗いと評価されることもありましたが、Musée Picasso Parisが記録するように、80代後半になっても非常に大量の絵画と版画を制作しています。1972年には死を思わせる自画像も描き、1973年4月8日にフランスのムージャンで死去しました。

略年譜

1881
スペイン、マラガに生まれる。
1895
家族とバルセロナへ移り、ラ・ロンハ美術学校で学ぶ。
1897
マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーへ入学。
1900
初めてパリを訪れる。
1901
青の時代が始まる。パリのVollard画廊で個展。
1903
《ラ・ヴィ》を制作。
1904
パリのBateau-Lavoirへ移る。バラ色の時代へ移行。
1907
《アヴィニョンの娘たち》を制作。ジョルジュ・ブラックと交流を深める。
1909–1912
ブラックとともに分析的キュビスムを展開。
1912
コラージュ、papier collé、ギターの構成物などを制作し、総合的キュビスムへ展開。
1917
Ballets Russesの《パラード》に参加。舞台・衣装制作にも携わる。
1921
《三人の音楽家》などを制作。キュビスムと古典的表現を並行して用いる。
1927
マリー=テレーズ・ワルテルと出会う。
1932
パリで大規模な回顧展。《鏡の前の少女》などを制作。
1936
スペイン内戦が始まる。プラド美術館館長に任命される。
1937
パリ万国博覧会スペイン館のため《ゲルニカ》を制作。
1942
自転車のサドルとハンドルを組み合わせた《牡牛の頭》を制作。
1946–1947
ヴァロリスで陶芸制作を開始。Madoura工房との協働を深める。
1950–1960年代
陶芸、彫刻、版画を続ける一方、ベラスケス、ドラクロワ、マネなど過去の絵画を大規模に再解釈する。
1966以降
銃士、画家とモデル、裸体などを主題とする晩年の大作群を制作。
1973
4月8日、フランスのムージャンで死去。

参考資料・出典

本ページは以下の美術館・所蔵館資料を参照してART LIBRARYが独自に執筆しました。原文の全文翻訳ではありません。ピカソ作品は現在も著作権保護下にあるため、ART LIBRARYでは作品情報と画像利用を分けて扱い、本稿では主要作品画像を掲載していません。

資料確認日:2026年9月30日 / ART LIBRARY