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1490–1519

レオナルド・ダ・ヴィンチ

《最後の晩餐》《モナ・リザ》、素描と自然観察

BBCの歴史ドキュメンタリー レオナルド・ダ・ヴィンチ、天才の素顔
History Documentary BBC Leonardo DaVinci, behind a Genius
シンポジウム:「レオナルド・ダ・ヴィンチとその未完の作品」
Conference: Leonardo da Vinci and his unfinished works (Musée du Louvre)
「レオナルド・ダ・ヴィンチと未完成の作品:変容と連続量」 カルメン・C・バンバックによる講演
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)は、当時、特に絵画において作品を未完成のまま残すことで知られており、この評判は今日まで続いています。この講演では、レオナルドの「non finito」(未完成)を、彼の思想と作品のより広い文脈の中で探究します。16世紀の著述家たちは、この偉大な巨匠が絵画を完成させることができなかった理由をさまざまな方法で説明しようと試みました。一般的に、これらの初期の著述家たちは、レオナルドのプロジェクトの実際的、物質的な側面に焦点を当て、彼の完璧主義と作品に対する絶え間ない不満が未完成の主な理由であると示唆しました。カルメン・バンバック氏がこの講演で示そうとしているように、レオナルド・ダ・ヴィンチの創作過程へのアプローチと彼の理論的著作を考察することで、彼の「ノン・フィニート(未完成)」という言葉のより深い意味が理解できる。芸術家であり思想家でもある彼の創作過程は、特に開放的で、進行中の作品とアイデアの探求に重点が置かれており、しばしば完成や結論を犠牲にしていた。運動と変形の幾何学の研究は、彼に物質的および非物質的な無限の概念を芸術に取り入れることにつながった。絵画に関する彼の理論的著作では、色彩、光、大気遠近法の表現しがたい度合いを記述するために、「インフィニート(無限)」、「トランスミュタティオネ(変容)」、「クオンティタ・コンティヌア(連続量)」といった数学用語が頻繁に用いられている。カルメン・C・バンバック氏は、メトロポリタン美術館(Met)の素描・版画部門のキュレーターであり、アメリカ芸術科学アカデミーのフェローである。 2010年から2012年まで、彼女はナショナル・ギャラリー・オブ・アートのCASVA(視覚芸術高等研究センター)のアンドリュー・M・メロン教授を務めた。イタリア・ルネサンスの専門家であり、レオナルド・ダ・ヴィンチに関する国際的に認められた専門家である。彼女の著書『ミケランジェロ:神聖なる製図家とデザイナー』は、メトロポリタン美術館での彼女の展覧会のカタログであり、2019年にアメリカ・ルネサンス協会のフィリス・グッドハート書籍賞、2018年にアメリカ美術館学芸員協会賞を受賞した。

1490年代のミラノ。修道院の食堂で、キリストが裏切りを告げた瞬間に十二使徒が一斉に反応する《最後の晩餐》が生まれました。同じ頃、宮廷に仕えた若い女性の肖像《白貂を抱く貴婦人》には、何かに気づいて顔を向けた一瞬の動きが描かれています。やがてフィレンツェで制作が始まった《モナ・リザ》では、顔の表情、両手、遠い山並みが、輪郭を柔らかくぼかす光の表現によって結ばれました。(参照:《最後の晩餐》美術館|作品解説、クラクフ国立博物館|《白貂を抱く貴婦人》、ルーヴル美術館|《モナ・リザ》作品目録)

これらの作品を描いたレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519年)は、画家であると同時に、人体解剖、光学、水の運動、機械などを研究した人物です。作品と研究は別々の活動として切り離しにくく、人間の筋肉を調べた素描は宗教画や歴史画の身体表現に、光や視覚の研究は肖像画の陰影に結びついています。膨大な紙資料には、見たものを線で確かめ、考えを改めながら作品を構想していく過程が残されています。(参照:ロイヤル・コレクション|レオナルドの解剖学研究、ロイヤル・コレクション|素描による生涯の研究)

盛期ルネサンスを代表する三人としてレオナルド、ミケランジェロ、ラファエロの名が挙げられます。レオナルドの仕事を詳しく見ると、彼が大切にしたのは人物の生命感をどのような光と身振りから生み出せるかという問いでした。それは人間の内面を画面に感じさせる方法であり、同時に、自然を観察する方法でもありました。(参照:ルーヴル美術館|レオナルド回顧展公式図録、ロンドン・ナショナル・ギャラリー|《岩窟の聖母》)

この記事では1490〜1519年を中心に、フィレンツェでの修業期を振り返りながら、ミラノでの宮廷制作、肖像画と宗教画、失われた大壁画の構想、晩年の作品へと進みます。代表作品ごとに制作年代、設置場所、注文主、描写、材料、保存研究を確認し、素描や工房作品と比較します。次の記事で扱うミケランジェロ、ラファエロと比べられるよう、盛期ルネサンスのなかでレオナルドの独自性がどこにあったのかも整理します。(参照:ルーヴル美術館|レオナルド回顧展公式図録、ロイヤル・コレクション|レオナルドの素描)

レオナルドは盛期ルネサンスの何を変えたのか

レオナルドの仕事を理解する鍵は、絵画における観察と制作上の実験が、同じ過程に組み込まれていたことにある。1490年代の肖像画や《最後の晩餐》に始まり、1500年代の《モナ・リザ》《聖アンナと聖母子》へ進むにつれて、人物の輪郭、光、表情、空間の関係がいっそう緊密になる。完成作品のほかに、失われた壁画、数多くの素描、研究手稿を合わせて見ることで、その制作を立体的にたどることができる。(参照:ルーヴル美術館|レオナルド回顧展公式図録、ロイヤル・コレクション|素描による生涯の研究)

1490年を出発点に、前後の制作を見渡す

レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年にトスカーナのヴィンチ近郊で生まれ、1519年にフランスのアンボワーズで亡くなった。修業時代はフィレンツェ、1480年代からはミラノを主な拠点とし、その後も戦争や宮廷の人事に応じて滞在地を変えた。制作活動の最盛期を理解するうえでは、ミラノ宮廷での経験と1500年以降の大作を連続して眺める必要がある。

この記事の中心期間は1490〜1519年とする。15世紀末の《白貂を抱く貴婦人》と《最後の晩餐》、16世紀の《モナ・リザ》《聖アンナと聖母子》を軸に置き、必要に応じて1470〜1480年代の《受胎告知》《東方三博士の礼拝》まで遡る。これにより画風の変化を作品自身から読み取り、レオナルドの名声につきまとう逸話と具体的な制作記録を切り分ける。(参照:ウフィツィ美術館|《受胎告知》、クラクフ国立博物館|《白貂を抱く貴婦人》、《最後の晩餐》美術館|作品解説、ルーヴル美術館|《モナ・リザ》作品目録)

完成した絵画、未完の作品、膨大な素描

現存する真筆とされる絵画は限られ、制作途中の作品も少なくない。対照的に、素描には聖母子の姿勢を何度も試した線、人体の内部を示す断面、波や雲の動きを考える図など、手を動かしながら思考した過程が残る。完成像だけを追うと見えにくい決断の積み重ねが、紙の上では直接読み取れる。

レオナルドが絵画を科学の単なる応用と考えていたと説明するのも正確ではない。彼にとって視覚に見えるものを描くことは、自然の仕組みを問い直す作業と重なっていた。素描は絵画の準備であると同時に、知識をつくり上げるための実践でもあった。王室所蔵の資料群は、その両面を確認できる重要な手がかりとなる。(参照:ロイヤル・コレクション|素描による生涯の研究、ロイヤル・コレクション|レオナルドの素描)

フィレンツェで培われた観察と構図の研究

盛期の作品に見られる柔らかな光や複雑な身振りには、若いレオナルドがフィレンツェで学んだ工房の技術が関わっている。ヴェロッキオの周囲では絵画、彫刻、金属加工が近い距離で実践され、物体の重さや表面を多様な素材で表現する経験が積み重ねられた。(参照:ウフィツィ美術館|《受胎告知》、ウフィツィ美術館|《東方三博士の礼拝》)

《受胎告知》—光が宗教的な出来事を包む

1470年代初め頃の《受胎告知》(ウフィツィ美術館)は、聖母マリアが大天使ガブリエルから受胎を告げられる場面を、庭と建築のある現実的な空間に移している。天使が差し出すユリは聖母の純潔を示し、囲われた庭も伝統的な象徴を担う。画面左の木立と水辺へ続く遠景を追うと、宗教的主題と自然観察が同時に進められていることが分かる。

注目したいのは天使の翼と衣服の裾、芝生に落ちる影である。羽根は現実の鳥を観察したように組み立てられ、衣服は身体の動きと重さに従って折れ曲がる。遠近法による建物の配置も、人物を置くための舞台という役割を果たす。聖母の腕に感じられる比例上の不均衡は、初期の実験の痕跡として見られることがある。(参照:ウフィツィ美術館|《受胎告知》)

《東方三博士の礼拝》—未完から見える制作の順序

レオナルドは1481年、フィレンツェ郊外サン・ドナート・ア・スコペート教会の主祭壇画として《東方三博士の礼拝》を受注した。幼子を抱く聖母を中心に人々が半円状に集まり、手を伸ばし、跪き、驚きの表情を交わす。背後には階段のある建築や戦う騎馬像が配され、目の前の礼拝と人間世界の混乱が同時に展開している。

画面は素描と茶系統の下塗りを多く残した状態で中断された。完成画では隠れるはずの構想の線が見え、どの人物を強調するか、奥行きをどうつくるかという判断を知ることができる。2012〜2017年の修復によって複雑な描写が一段と読みやすくなった。やがて教会はフィリッピーノ・リッピに同主題を依頼し、1496年に別の祭壇画が完成した。(参照:ウフィツィ美術館|《東方三博士の礼拝》、ウフィツィ美術館|未完の《東方三博士の礼拝》と修復)

宗教画の人物を「生きた関係」として描く

伝統的な聖母子や礼拝の場面では、人物の配置や身振りによって信仰上の意味を伝える工夫が重ねられてきた。レオナルドはその伝統に立ちながら、誰かが振り向けば周囲の人も反応する、抱かれた幼子が身体をよじる、といった具体的な動きで物語をまとめようとした。人物の心理を語る際にも、まず身体と視線の配置に注目すると、実際の造形の問題として理解しやすい。

大英博物館の《猫を抱く聖母子》素描では、幼子に抱きしめられた猫が抜け出そうとする動きが、身体のねじれを生んでいる。宗教図像として珍しい組み合わせだが、レオナルドは日常の小さな反応を通して、複数の身体が連動する仕組みを研究していたことが分かる。後年の《聖アンナと聖母子》にも、幼子と動物の接触から全体の動きが生まれる発想が引き継がれている。(参照:大英博物館|《猫を抱く聖母子》素描、ルーヴル美術館|《聖アンナと聖母子》)

ミラノ宮廷で広がった仕事の領域

1480年代初頭にミラノへ移ったレオナルドは、ルドヴィーコ・スフォルツァの宮廷を中心に、肖像画、宗教画、祝祭の演出、彫刻計画など多様な仕事に携わった。フィレンツェの工房で培った技能を、宮廷の政治的な自己表象や学術的関心へ接続する環境がここにあった。(参照:クラクフ国立博物館|《白貂を抱く貴婦人》、《最後の晩餐》美術館|作品解説)

《白貂を抱く貴婦人》—振り向く人物の肖像

1490年頃に描かれた《白貂を抱く貴婦人》(クラクフ、チャルトリスキ美術館)は、宮廷女性チェチリア・ガッレラーニの肖像である。身体は画面のこちらを向きながら、顔と視線は外側の何かへ反応するように右へ向けられる。腕の中の白い動物も同じ方向へ顔を上げ、二つの身体が一瞬の動作としてつながる。横顔を記念碑のように固定する肖像画とは異なる、生きた時間の表現が生まれている。

貂の意味については純潔の象徴や、ガッレラーニという姓との語呂、ルドヴィーコの称号との関連などが指摘されてきた。いずれも宮廷社会の文化を踏まえた解釈であり、動物の象徴を一つに断定するより、人物と動物の関係が政治的・私的な意味を同時に担う可能性に注目したい。衣服や髪形にも、当時のミラノ宮廷で好まれた装いが反映されている。(参照:クラクフ国立博物館|《白貂を抱く貴婦人》、クラクフ国立博物館|《白貂を抱く貴婦人》所蔵目録)

手、顔、毛皮を同じ光のもとに置く

絵を近くで見ると、動物を包むチェチリアの右手には関節の凹凸があり、指の下では毛が押さえられているように見える。顔は一方向からの光で柔らかく照らされ、頬や顎が暗部へ沈んでゆく。皮膚、絹、宝石、毛皮を別々の材料として表すだけでなく、共通する光にさらすことで、画面全体に一つの空気が生まれている。

背景は現在ほぼ黒色に見えるが、所蔵館は19世紀の加筆によって背景の見え方が変わったと説明する。現状の強い明暗の印象をそのままレオナルドの当初の意図とみなせない点は、古い板絵を鑑賞する際の重要な注意点である。肖像画の革新を考えるには、制作時の画面と後世の変更を分けて理解する必要がある。(参照:クラクフ国立博物館|《白貂を抱く貴婦人》)

《ラ・ベル・フェロニエール》と宮廷肖像の展開

ルーヴル美術館所蔵の《女性の肖像》(通称《ラ・ベル・フェロニエール》)は1490年代の制作とされる。画面下部の手すりのような水平線、正面に近い身体、横を向く視線が組み合わさり、鑑賞者とモデルのあいだに微妙な距離をつくる。布地の光沢、髪飾り、首もとの影の扱いにも、レオナルドが肖像の印象を緊密に組み立てたことが現れている。

この作品に伝わる通称はモデルの確実な身元を示す名称ではなく、ルーヴルの目録もその点に留意している。《白貂を抱く貴婦人》のように人物をほぼ確定できる肖像と比較すると、肖像画の研究では美しい絵の描写と、誰を描いたかという文献上の問題が別々に検証されることが分かる。(参照:ルーヴル美術館|通称《ラ・ベル・フェロニエール》、クラクフ国立博物館|《白貂を抱く貴婦人》)

巨大騎馬像計画と、実現しなかった造形

ミラノ宮廷で構想されたフランチェスコ・スフォルツァの騎馬像は、王朝の威信を示す巨大な記念碑の計画だった。レオナルドは馬の体つきや動き、重量のある像をどう鋳造するかに取り組んだが、計画は完成に至らなかった。模型や技術の構想と、政治・軍事状況による中断を合わせて考えると、芸術家の仕事が宮廷の資源配分に大きく左右されたことが分かる。

現存する馬の素描では、筋肉の張りや脚の構造が細かく追究されている。こうした図には、彫刻の準備と動物の動態への関心が重なっている。レオナルドの業績を完成した絵画だけで評価すると、当時の宮廷が求めた大規模事業と、その失敗から生まれた知識を見落とすことになる。(参照:ロイヤル・コレクション|素描による生涯の研究)

二つの《岩窟の聖母》と、画面を改め続ける制作

《岩窟の聖母》は一枚の名画として知られるが、現在パリとロンドンに異なる版が存在する。1483年に成立した注文契約と長い制作過程、技法調査によって見つかった下絵の変更を合わせて見ると、同じ主題を再構成する画家の仕事が浮かび上がる。(参照:ルーヴル美術館|《岩窟の聖母》、ロンドン・ナショナル・ギャラリー|《岩窟の聖母》)

1483年の契約と、祭壇画の本来の場所

1483年4月25日、レオナルドはデ・プレディス兄弟とともに、ミラノのサン・フランチェスコ・グランデ聖堂に設けられた無原罪懐胎信心会の礼拝堂の祭壇画制作を契約した。作品は独立した額絵として生まれたのではなく、彫刻や金箔装飾を伴う祭壇全体の一部だった。注文の宗教的背景には、聖母マリアの無原罪懐胎をめぐる当時の信仰と論争がある。

洞窟の中にいる聖母、幼子イエス、幼い洗礼者ヨハネ、天使という組み合わせは、見る人に図像の読み解きを促す。聖母は守るようにヨハネの肩に手を置き、もう片方の手をイエスの上へ広げる。ヨハネは祈り、イエスは祝福し、天使はその関係を観客へ示す存在となっている。(参照:ルーヴル美術館|《岩窟の聖母》)

ルーヴル版—植物と岩石の世界に宿る聖なる出来事

ルーヴル版(1483〜1494年頃と所蔵館は記載)は、明るく開けた聖母子の背景を捨て、暗い岩の奥から人物を浮かび上がらせる。石の割れ目や湿った地面の植物、水面へ続く遠景は、舞台装置のようでありながら観察に根ざした物質感を持つ。人物の輪郭は暗部に溶け込むように処理され、どこまでが身体で、どこからが空間なのかが自然につながる。

ここでの光は聖人の存在を知らせる金色の背景という形を取らない。洞窟へ差し込む光が顔や手を照らし、観客の視線を集める。人物たちの手の動きを一つずつ追うと、宗教的意味と造形上の構成が密接に結びついている。岩石や植物の細部も、世界の中に聖なる物語を置こうとするレオナルドの関心を支えている。(参照:ルーヴル美術館|《岩窟の聖母》)

ロンドン版—時間を隔てて描き直された画面

ロンドン・ナショナル・ギャラリーの版は、同館の研究では1491〜1499年頃と1506〜1508年頃の制作段階を持つとされる。天使の衣の色、指差す動作の有無、幼子の姿勢、全体の色の抑え方などにルーヴル版との違いがある。特に青、黄、褐色を基調とする画面は、光で形を浮かび上がらせる手法をいっそう強く感じさせる。

赤外線などによる調査では、完成画の下に別の構図が描かれていたことが確認された。画家は初めの案をそのまま塗り進めたのではなく、途中で人物の位置や形を改め、最終的にパリ版と近い構図へ戻している。下絵と彩色層の食い違いは、レオナルドの構想が長い時間をかけて変わったことを具体的に示す証拠である。(参照:ロンドン・ナショナル・ギャラリー|《岩窟の聖母》)

スフマートと空気遠近法を区別して見る

レオナルドの絵画を語る際によく使われる「スフマート」は、形の境界を滑らかな調子の移行によって曖昧にする処理を指す。頬と背景の境目、鼻の側面、柔らかな陰影に注目すると分かりやすい。空気遠近法は距離によって遠くの物体が淡く、青みを帯び、輪郭を失って見える現象を画面に取り込む考え方である。

両者は画面に連続する空間を生むが、同じ技法の名前ではない。《岩窟の聖母》では、人物の周囲に生じる柔らかい陰影と、洞窟の開口部から見える遠景のかすみを見比べると、それぞれの働きを確認できる。遠近法による幾何学的な奥行きに、光学的な見え方を重ねる点にレオナルドらしい研究がある。(参照:ロンドン・ナショナル・ギャラリー|《岩窟の聖母》、ルーヴル美術館|《岩窟の聖母》)

《最後の晩餐》—ひとつの言葉から生まれる動き

ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に描かれた《最後の晩餐》(1495〜1498年頃)は、レオナルドの絵画理論が大規模な壁面に展開された作品である。主題はキリストが使徒の一人による裏切りを告げる瞬間に置かれ、十二使徒の反応が画面を動かしている。(参照:《最後の晩餐》美術館|作品解説)

修道院の食堂に描くという条件

幅約8.8メートル、高さ約4.6メートルの壁画は、修道士たちが食事を取る場所に向けて描かれた。食卓という日常に近い題材は、共同体が自分たちの食事とキリストの最後の食事を重ね合わせる契機となった。依頼を支えたルドヴィーコ・スフォルツァの宮廷政治と、ドミニコ会修道院という宗教的環境の双方を理解することが、作品の成立を知る手がかりとなる。

同室の反対側にはドナート・モントルファーノの《磔刑》があり、受難の異なる場面が向かい合う。レオナルドの構図は、現実の食堂の向こうに別の室内が開けるように建築を描き込み、修道士のいる場所と聖書の場面を視覚的に接続する。(参照:《最後の晩餐》美術館|作品解説)

十三人の動作を三人ずつに組み立てる

中央に静かに座るキリストの左右で、十二使徒は三人ずつの四組にまとまる。ある者は隣へ身を寄せ、ある者は自分を指し、ある者は手を大きく広げる。視線と腕の動きが次の人物へ連鎖し、告げられた言葉が一瞬で全員へ広がったように見える。顔の表情だけを追うよりも、手、肩、身体の傾きまで同時に見ると、その構成の精密さが分かる。

キリストは両腕をテーブルに広げて三角形をつくり、周囲の激しい動きの基準点となる。ユダは画面の奥に追いやられた単独の存在として描かれるのではなく、ほかの使徒と同じ食卓に置かれる。近接する人物の身振りや、影に沈む顔の扱いによって、彼の役割が示される。この選択が出来事の緊張を一層強くしている。(参照:《最後の晩餐》美術館|作品解説)

一点透視図法がキリストの位置を支える

壁面上の天井や側壁の線をたどると、奥へ向かう線はキリストの頭部付近へ集まる。テーブルの長い水平線、背後に開く三つの窓、建物の左右対称な配置も、中心を明確にする。透視図法を知らなくても、画面を見た瞬間にキリストへ目が向かうのは、この空間と人物の配置が一緒に働いているためである。

壁画を美術館の複製画で見ると、長方形の画面として完結した作品に見える。元来の食堂という空間では、実際の壁と描かれた室内の連続性が強く意識された。鑑賞者の身体が置かれる位置を含めて構成する点に、壁画としての大胆さがある。(参照:《最後の晩餐》美術館|作品解説)

描き直す自由と、早い劣化を生んだ技法

レオナルドは濡れた漆喰に短時間で描き切る伝統的なフレスコ画法を採らず、乾いた壁面に下地を設けて絵の具を重ねた。細かい陰影を時間をかけて描き、部分を修正できる方法だった。油彩板絵に近い速度で仕事を進めたいという制作上の希望が、大規模な壁画の技法選択に影響した。

この方法は壁と絵の具の密着を弱くし、完成から比較的早い時期に傷みが進んだ。今日の画像に見える部分のうち、レオナルドの絵の具が残っている箇所は限られる。画面が失った情報は多く、現存する状態だけを根拠に当初の色彩や筆致を細部まで確定することは難しい。(参照:《最後の晩餐》美術館|保存・修復、《最後の晩餐》美術館|作品解説)

修復と複製が伝えたもの

《最後の晩餐》は長い年月の間に加筆や補彩を受け、1943年の空襲では周囲の建物が損壊した。20世紀後半に進められた大規模な保存修復は1999年に終了し、過去の重ね塗りを取り除きながら残存する原画部分を見極めることに重点が置かれた。現在は温湿度と入室人数の管理によって、繊細な表面が守られている。

各時代に作られた模写も、失われた細部を研究する手がかりとなる。保存状態を知ったうえで作品を見ると、人物の動きを生み出した構図の確かさと、それを支えた繊細な彩色の脆さを同時に理解できる。絵画史的な重要性と保存科学の問題が、これほど直接に結びついた作品は多くない。(参照:《最後の晩餐》美術館|保存・修復、《最後の晩餐》美術館|作品解説)

フィレンツェへの帰還と大画面の構想

1499年、フランス軍によるミラノ占領でスフォルツァ家の宮廷は大きく変わり、レオナルドは拠点を移した。1500年頃にフィレンツェへ戻った彼は、宮廷の肖像画や宗教画で培った表現を、共和国の公共空間と個人の注文による作品へ向け直す。(参照:ロイヤル・コレクション|レオナルドの解剖学研究、ルーヴル美術館|《モナ・リザ》作品目録)

共和国の政治と《アンギアーリの戦い》

1503年頃、レオナルドはフィレンツェの政庁舎ヴェッキオ宮殿の大評議会室に、1440年のアンギアーリの戦いを描く計画を進めた。共和国が戦勝の記憶を通じて自らの政治的な歴史を示す公共事業であり、相手方のミラノ軍と戦った騎兵たちが主題となる。レオナルドは軍馬の表情や身体の交錯、人間の怒りを表すために、戦闘の中心部へ観客を引き寄せる構図を考えた。

原作の大画面は現存せず、制作経緯と姿を知る材料は素描や後代の模写に限られる。よく知られる騎馬の激突図も、失われた絵の全体像そのものではない。現存する図を完成壁画と同一視せず、どこまでが計画と制作の痕跡かを区別することが重要である。(参照:ロイヤル・コレクション|レオナルドの解剖学研究)

怒りを描くための筋肉と顔の研究

《アンギアーリの戦い》の習作では、馬の首、開いた口、食いしばる顎、突き出した腕など、緊張によって形を変える部位が強調される。静止した人体の美しい比例を示すだけでは、衝突の瞬間を説得力あるものにできない。力の向き、関節の可動範囲、複数の身体がぶつかるときの重心までが、構図の問題として現れる。

王室所蔵の解剖学研究の解説では、この大壁画の構想が、1500年代後半の人体研究の再開に関わったことが示されている。芸術作品の要請が観察の主題を生み、観察が次の絵画構想を支えるという循環が、ここで具体的に確認できる。(参照:ロイヤル・コレクション|レオナルドの解剖学研究、ロイヤル・コレクション|素描による生涯の研究)

ミケランジェロとの競争と、実現しなかった二つの壁画

同じ大評議会室ではミケランジェロも《カッシナの戦い》の構想を進めた。若い彫刻家の裸身表現と、レオナルドの馬と兵士の激突は、1500年代のフィレンツェにおける人体表現の二つの方向を示す。両計画とも当初の予定どおりの壁画としては完成せず、準備素描や模写を通じて後世へ知られることになった。

この競争を単なる「天才同士の対決」という物語にまとめると、共和国の注文と公共空間に託された政治的意味が見えなくなる。もともとは都市が大規模な歴史画を欲し、二人の芸術家の才能を同じ場所に集めた事業だった。その過程で生まれた人体や動きの研究が、16世紀初頭の画家たちへ新しい課題を示した。(参照:ロイヤル・コレクション|レオナルドの解剖学研究、ロイヤル・コレクション|素描による生涯の研究)

《モナ・リザ》—肖像画のなかで時間が続く

《モナ・リザ》はその知名度の高さから、微笑みの「謎」をめぐる話が先行しやすい。作品の技術と構成を丁寧に見ると、16世紀初頭の肖像画が、人物の存在感をどのように生み出そうとしていたかが明確になる。(参照:ルーヴル美術館|《モナ・リザ》作品目録)

誰を、いつから描いたのか

ルーヴル美術館は《モナ・リザ》を、フィレンツェの絹商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザ・ゲラルディーニの肖像として登録する。制作は1503年頃に始まり、レオナルドの死まで加筆や調整が続いた作品とされる。1503年10月のアゴスティーノ・ヴェスプッチの書き込みには、レオナルドが「リザ・デル・ジョコンド」の肖像に取り組んでいることが記されている。

レオナルドはこの絵を長く手元に置き、フランスへの移住後も所有していた。ルーヴルの目録は、1518年頃にフランソワ1世へ渡った可能性を高く見ている。制作開始時期、モデルの身元、後世の伝来を史料に沿って押さえると、作品がもともとフィレンツェの家庭に由来しながら、宮廷と王室の収集史へ移っていったことが分かる。(参照:ルーヴル美術館|《モナ・リザ》作品目録)

顔より先に、両手と身体の向きを見る

人物は欄干のある開口部に座り、胸から上を斜めにひねり、顔をこちらへ向けている。右手は左手の上に重ねられ、肩から腕を経て手首へと流れる曲線が、身体全体を落ち着かせる。目と口だけを切り取ると「不思議な微笑み」の絵になるが、上半身と手を合わせて見ると、静かな姿勢の内部にわずかな動きが残されていることが分かる。

背景の地平線は左右で高さの印象が異なり、曲がりくねる道や水辺、橋が遠くへ続く。人物を囲む近景は強い輪郭を持たず、遠景は霧の中へ消えるように柔らかい。鑑賞者の眼が身体から背景へ往復するたびに、人物が手前に浮き、同時に広い自然の中に存在するように見える。(参照:ルーヴル美術館|《モナ・リザ》作品目録)

微笑みの輪郭を固定しないスフマート

口の両端やまぶたの下には、はっきりした線の代わりに、微細な暗さの変化が置かれている。見る距離や目を向ける位置によって、口もとが明るく感じられたり、陰に沈んだりする。微笑みが多様に読み取られる背景には、人物の性格を暗号のように隠したという話よりも、この柔らかな調子の積み重ねがある。

レオナルドにとって輪郭は、物体の周囲に実際に引かれた黒い線ではなかった。光が変われば境界の見え方も変わり、空気を隔てれば明暗の差も小さくなる。顔の肉づきから遠景まで同じ原理を繰り返し検討することで、画面の中に自然なつながりが生まれた。(参照:ルーヴル美術館|《モナ・リザ》作品目録、ロンドン・ナショナル・ギャラリー|《岩窟の聖母》)

板絵の材料と、現在の色の見え方

《モナ・リザ》はポプラ材の板に油彩で描かれ、高さ約79.4センチ、幅約53.4センチという比較的小さな作品である。実物の寸法を知ると、細部を穏やかに積み重ねた密度の高さがよく分かる。大きな歴史画のような劇的な身振りの代わりに、顔、手、衣服、遠景の間のわずかな調子の変化が絵を支えている。

現在の画面は、何世紀にもわたる経年変化や表面の状態の影響を受けている。濃い茶色の印象から当初の色彩を一対一で想像することは難しい。完成時の画面がどのように見えたかを探るには、肉眼による観察のほか、保存研究や同時代の工房作品を参照する必要がある。(参照:ルーヴル美術館|《モナ・リザ》作品目録、プラド美術館|工房による《モナ・リザ》と技法調査)

プラド美術館の同時代の模写が教えること

マドリードのプラド美術館には、レオナルドの工房で制作された《モナ・リザ》の模写がある。2012年の調査と修復で黒い後補の背景が取り除かれると、岩山や道のある風景が現れた。さらに赤外線調査では、下絵の修正がルーヴル版と密接に対応することが判明し、後世の単純な複製よりも、制作現場に近い存在であると理解されるようになった。

この発見から、レオナルドが一人きりで完全に独立した作品をつくり、弟子は完成品をなぞっただけだという工房像は見直されている。複数の画家が同じ構図に取り組み、師の修正を見ながら技術を学ぶ状況が考えられる。ルーヴル版の柔らかな陰影とプラド版の比較は、スフマートという技法が画家個人の仕事としてどれほど精密であったかも示している。(参照:プラド美術館|工房作《モナ・リザ》、プラド美術館|2021年レオナルド工房の研究、プラド美術館|工房による《モナ・リザ》と技法調査)

《聖アンナと聖母子》—三世代の身体がつくる構図

《聖アンナと聖母子》は、レオナルドが長期間にわたり改変し続けた作品の代表例である。聖アンナ、娘の聖母マリア、幼子イエスを重ね合わせる構図は、親子の親密さとキリストの受難を一つの場面にまとめる。(参照:ルーヴル美術館|《聖アンナと聖母子》、ロンドン・ナショナル・ギャラリー|《バーリントン・ハウスの原寸大下絵》)

ロンドンの大画面素描で何が試されたか

ロンドン・ナショナル・ギャラリーの《聖アンナと聖母子、幼い洗礼者ヨハネ》は、木炭や白いチョークを用いた原寸大に近い大画面の素描で、1506〜1508年頃とされる。アンナの膝に聖母が座り、聖母は幼子イエスに手を伸ばす。イエスは幼いヨハネに触れ、アンナの指は天を示す。複数の身体が折り重なるのに、顔と手の向きによって関係をたどれる構成が生まれている。

顔や布の一部は陰影を重ねて立体的に仕上げられ、他の部分は輪郭だけが残る。仕上げの程度に差があることで、どの部分で光と形を特に検討していたかも分かる。この素描がそのままルーヴルの絵に移されたと考えるのは適切ではなく、同じ主題をめぐる異なる構想として比較することに価値がある。(参照:ロンドン・ナショナル・ギャラリー|《バーリントン・ハウスの原寸大下絵》、ルーヴル美術館|《聖アンナと聖母子》準備素描)

ルーヴル版—幼子と小羊の動き

ルーヴル美術館所蔵の《聖アンナと聖母子》(1503〜1519年)は、幼子イエスが小羊に抱きつき、それを止めようとするように聖母が身体を前へ伸ばす場面を描く。小羊はキリストの犠牲を予告する伝統的な象徴であり、幼子が自らそれに近づく動きには受難を受け入れる意味が読み込まれてきた。アンナはその様子を見守り、三世代の身振りが緊密に結びつく。

人物の膝や腕の重なりを追うと、一見すると複雑な配置も、大きな斜めの動きによってまとまっていることが分かる。画面右奥から左下へ続く地面の流れと、身体の傾きが響き合い、人物群を背景から切り離さずに置いている。岩山と水路の遠景は、この親密な家族の物語を壮大な自然の時間へ結びつける。(参照:ルーヴル美術館|《聖アンナと聖母子》)

注文主と完成の問題

ルーヴルの詳しい目録では、この絵の成立をめぐる注文関係には複数の説があると説明している。1501年にイザベラ・デステがレオナルドの仕事を問い合わせた書簡など、制作を追う史料が残るものの、作品が誰のために始められたかは確定していない。本人の創意によって取り組まれた可能性も重要な見解である。

画家はフランスへ移るまで作品を保持し、1519年の死に至るまで手を入れたと考えられる。長い制作期間は、絵を仕上げられないという性格上の問題としてのみ説明しきれない。構図、表面の調子、人物間の関係を改め続ける実験が作品の中心にあったことを、素描と完成に近い板絵の差から確認できる。(参照:ルーヴル美術館|《聖アンナと聖母子》、ルーヴル美術館|《聖アンナと聖母子》準備素描)

絵画と素描を比べる鑑賞方法

ロンドンの素描には幼いヨハネが登場し、アンナは指で天を示す。ルーヴルの絵ではヨハネが小羊に替わり、聖母と幼子の間の動作がさらに強まった。構想を変更する際、レオナルドは単に人物の数を変えたのではない。神学的な意味を、身体と身体の接触から感じ取れる表現へまとめ直した。

二つの作品を写真で並べて見るなら、顔の高さ、腕の方向、膝の位置を順に追うとよい。目に見える線が違っていても、互いに支え合う三人を一つのかたまりとして見せる関心は共通している。作品を見ることと制作過程を読むことが、同じ視覚体験としてつながる代表例である。(参照:ロンドン・ナショナル・ギャラリー|《バーリントン・ハウスの原寸大下絵》、ルーヴル美術館|《聖アンナと聖母子》)

光学と自然観察—絵画の見え方を組み立てる

レオナルドは自然を正確に写すことに強い関心を持っていたが、その正確さは細部を無数に書き加えることだけで得られるものではなかった。光が何を見せ、空気がどの形を曖昧にし、見る場所が色と距離をどう変えるかを研究し、その結果を構図へ組み込もうとした。(参照:ロンドン・ナショナル・ギャラリー|《岩窟の聖母》、ロイヤル・コレクション|素描による生涯の研究)

輪郭、明暗、空気の層

手前にある指や布には濃淡の差があり、遠くの山は淡く見える。光を受けた額から頬の陰へ視線を移すと、境目にくっきりした線はほとんどない。レオナルドの表現は、線遠近法で物体の位置を定める操作に加え、見る条件によって物体の明瞭さが変わるという観察から成り立っている。

《岩窟の聖母》では暗い洞窟から顔が現れ、《モナ・リザ》では人物の背後に遠い山岳地形が続く。宗教画と肖像画で題材は異なっても、光と空気の働きを通じて同じ空間に存在するように見せる探究は一貫している。作品の輪郭が曖昧に見えるところこそ、注意深く観察したい部分である。(参照:ロンドン・ナショナル・ギャラリー|《岩窟の聖母》、ルーヴル美術館|《モナ・リザ》作品目録)

岩、植物、水を描く意味

岩の層、渦を巻く水、芽吹く植物は、絵の背景を飾るための模様以上の意味を持つ。洞窟の地形や河川の流れを観察することで、レオナルドは自然界の現象を、物質の運動と変化として考えた。紙の上には水の波紋や流れの図が繰り返し現れ、絵画にも水辺や山岳地形の複雑な表情が取り込まれた。

王室所蔵の素描解説には、衣服の習作と同じ紙面に水の落下や波紋の動きを記した例も紹介されている。絵画のための研究と自然への関心が、紙を隔てて別々に記録されていたわけではないことが分かる。同じ画家の手が、袖のひだと水の広がりを、動きとして比べていたのである。(参照:ロイヤル・コレクション|レオナルドの素描、ロンドン・ナショナル・ギャラリー|《岩窟の聖母》)

観察結果と象徴的な風景のあいだ

《聖アンナと聖母子》の遠景は、現実の一地点を正確に地図化したものとして見る必要はない。岩と水の形には観察が生かされながら、複数の形を組み合わせ、壮大な自然の広がりをつくっている。地形を理解しようとする関心と、宗教画にふさわしい世界を想像する関心とが、同じ風景の中で交わる。

この特徴は後世の画家たちにも重要な課題を与えた。人物の背後に景色を加える方法から、人物と自然を同じ空気のもとで成立させる方法へ、絵画の可能性が広がった。自然描写が単独の風景画へ発展する以前にも、画面の奥行きと光を通じて世界を描く試みが豊かに進んでいたことが分かる。(参照:ルーヴル美術館|《聖アンナと聖母子》、ルーヴル美術館|《モナ・リザ》作品目録)

素描と人体比例—見ることを記録する技術

レオナルドの手稿は、作品の予備資料であると同時に、身体と自然の構造を自分の言葉と図で確かめる場所だった。鉛筆のような黒チョーク、赤チョーク、ペンとインク、紙の下地などを使い分け、同じ対象を異なる角度から反復して観察している。(参照:ロイヤル・コレクション|素描による生涯の研究、ロイヤル・コレクション|レオナルドの素描)

《ウィトルウィウス的人体図》の円と正方形

《ウィトルウィウス的人体図》は、古代ローマの建築家ウィトルウィウスによる人体比例の考え方を、レオナルドが自ら検討した素描として知られる。両腕と両脚の位置を変えた一人の人体を円と正方形に重ね、中心の位置や各部の長さの関係を示している。重なる身体の輪郭を見れば、単純に美しい比率を図示するだけではなく、異なる姿勢を同じ紙面で比較していると分かる。

所蔵するヴェネツィア・アカデミア美術館は、作品を保存上の理由から通常展示していないと案内する。紙という支持体の脆さも、レオナルドの制作が現代に伝わる条件の一つである。この図を「黄金比の証明」という一つの説明へ押し込めるより、身体寸法を通じて古代の知識を再検討した実践として捉えるのが適切だろう。(参照:ヴェネツィア・アカデミア美術館|《ウィトルウィウス的人体図》)

小さな素描から大画面をつくる

レオナルドの準備作業では、手や顔の局所的な習作、人物を組み合わせる構図素描、原寸大に近い下絵がそれぞれ役割を持つ。手首の角度が変わると抱く幼子の姿勢が変わり、人物の視線を移すと画面全体の意味が変わる。小さな研究を何度も繰り返すのは、大きな絵の中で複数の要素を一度に働かせるためだった。

《バーリントン・ハウスの原寸大下絵》では、聖母とアンナの顔は豊かに陰影が付けられるが、手や足の一部は輪郭だけのままである。仕上げの程度を一律にそろえず、構想の核となる部分を重点的に調べる方法が見える。完成した絵を見る際にも、視線の集まる箇所と、少ない情報で示された箇所の関係を考える手がかりとなる。(参照:ロンドン・ナショナル・ギャラリー|《バーリントン・ハウスの原寸大下絵》、ロイヤル・コレクション|素描による生涯の研究)

紙に残った鏡文字と、書き留める習慣

手稿にしばしば見られる右から左への筆記は、レオナルドの記録を特徴づける要素である。そこには光や水に関する観察、器具の構想、人体の説明、仕事の覚え書きが、図と文章を入り交ぜて並ぶ。手帳を閉じた体系的な論文と見るより、知りたいことをその場で描き、説明し、次の研究へつなげる仕事場として読むと、制作の動きが理解しやすい。

素描は後世の人が「万能の天才」という像をつくる材料にもなった。けれどもページの中には、考え直しや誤認、途中で止まった企画も含まれる。そうした未整理の状態まで含めて、ひとつの問題を追い続ける画家の具体的な姿を知ることができる。(参照:ロイヤル・コレクション|素描による生涯の研究、ロイヤル・コレクション|レオナルドの解剖学研究)

解剖学の研究—身体の内側から動きを考える

レオナルドは人体の外側だけを描写したのではなく、骨格、筋肉、血管、臓器を観察し、その構造を図として理解しようとした。ロイヤル・コレクションに残る研究は、1490年頃と1506〜1513年頃に集中する調査の過程を詳しく示している。(参照:ロイヤル・コレクション|レオナルドの解剖学研究)

1489年の頭蓋骨—切断面から考える

1489年の頭蓋骨研究には、顔の表面と内部の空洞との関係を理解しようとする断面図が見られる。骨を一つの外形として描くだけでなく、内部を切り開いた状態として提示する方法は、目に見えない構造を理解するための工夫だった。レオナルドは感覚がどこで統合されるのかという問いも抱えており、観察と当時の伝統的な人体観が交じり合っている。

この初期の図に、現在の医学的知識をそのまま期待することはできない。本人が見たものと、古い学説を引き継いで描いた部分は区別が必要である。重要なのは、絵を描く能力を用いて、身体の中身を検証可能な形に整理しようとした点にある。(参照:ロイヤル・コレクション|頭蓋骨の断面研究、ロイヤル・コレクション|レオナルドの解剖学研究)

1510〜1511年の骨格・筋肉研究

1500年代の末からレオナルドは人間の解剖により深く取り組み、1510〜1511年頃にはパヴィアの解剖学者マルカントニオ・デッラ・トッレとともに研究したと考えられている。肩と腕の筋肉を何層にも分け、同じ部位を正面、背面、上方から描く素描には、身体を機械的な働きの連なりとして把握する視点が表れる。

腕が回転する際の骨と筋肉の位置関係や、指を曲げたときに何が動くかといった問題は、人体を正確に描く画家にとっても重要だった。複数の視点と断面を使って対象を描く方法は、建築図や工学図と共通する視覚的な説明法を採り入れたもので、人体図の表現自体を発展させた。(参照:ロイヤル・コレクション|レオナルドの解剖学研究、ロイヤル・コレクション|腕と脚の骨格研究)

心臓、脳、胎児—観察の成果と限界

ロイヤル・コレクションの解説では、レオナルドが心臓や血管、脳の構造、胎児の成長にも研究を広げたことが示されている。脳室の形を調べるために蝋を流し込む実験など、目で見ただけでは分からない構造を確かめる工夫を試みた。体内の複雑な形を、図を使ってどう伝えるかという課題がここでも中心となる。

よく知られる胎児の図には、人間の観察と動物解剖から得た情報が組み合わされ、胎盤の表現には牛などに由来する特徴が含まれる。美しい図面を科学的に完全な正解とみなすことはできない。レオナルドの価値は、当時の知識の限界の中で観察し、間違いも含めた探究の過程を残したことにある。(参照:ロイヤル・コレクション|レオナルドの解剖学研究)

解剖学書が刊行されなかった意味

レオナルドは人体の研究を体系的な書物にまとめる構想を持っていたが、生前に刊行されることはなかった。彼の死後、素描と手稿の多くは弟子フランチェスコ・メルツィらを経て伝えられ、後世の収集家によって整理された。人体の知識が書籍として広く伝わる過程と、個人の紙束として長く保管された研究の歴史は異なる。

この事実は、レオナルドを「近代科学を一人で発明した人物」とする通俗的な説明を考え直すきっかけになる。観察は独創的でも、その成果が当時の学術共同体へ十分に流通したとは限らない。科学史上の影響を評価する際には、本人の発見と、知識が出版・共有された時期を区別して考える必要がある。(参照:ロイヤル・コレクション|レオナルドの解剖学研究、ロイヤル・コレクション|素描による生涯の研究)

工房と弟子—レオナルドの表現はどう共有されたか

レオナルドの作品には、本人が長く手を入れた絵、弟子が近くで制作した複製、構想だけを借りた後代の作品がある。真筆と工房作の関係を理解することは、個人の画風がどのように周囲へ広がったのかを考えるために欠かせない。(参照:プラド美術館|2021年レオナルド工房の研究、ロンドン・ナショナル・ギャラリー|《岩窟の聖母》)

ひとつの構図を複数の画家が扱う

《モナ・リザ》の工房模写に関するプラド美術館の研究は、原作に近い時期から弟子が並行して作業していた可能性を示している。絵画工房では、基本構図の共有、素描を使った転写、師の指導、仕上げの手法の学習が重なっていた。単に完成後の名画を複製する活動より、複雑で共同的な制作環境が存在したことが分かる。

保存技術によって下絵が確認できるようになると、表面が似ている二枚の絵でも制作方法を比較できる。どの段階で輪郭を直したか、背景の構成をどう変更したかという情報は、作者帰属を考える具体的な証拠になる。工房の研究は、画家を取り巻く人々の働きを美術史へ戻す試みでもある。(参照:プラド美術館|2021年レオナルド工房の研究、プラド美術館|工房作《モナ・リザ》)

サライ、メルツィと、手稿の伝来

レオナルドの周囲には長く仕えたジャン・ジャコモ・カプロッティ(通称サライ)や、晩年に重要な役割を担ったフランチェスコ・メルツィらがいた。弟子たちは制作の手助けをし、師の死後には絵や紙資料の伝来にも関わった。現存する素描の一部がまとまって保存されたことには、こうした人間関係と収集の歴史が大きく影響している。

誰がどの作品のどの部分を描いたかは、文献だけで確定できない場合もある。レオナルドの近くで制作されたという情報を踏まえ、絵の層や手法を調べる必要がある。独創性を評価する際に工房の共同作業を丁寧に見ることは、画家の成果を具体的に理解する助けとなる。(参照:ロイヤル・コレクション|レオナルドの解剖学研究、プラド美術館|2021年レオナルド工房の研究)

ミラノの画家たちへ伝わった柔らかな陰影

レオナルドのミラノ滞在以後、ロンバルディアの画家たちは柔らかな陰影、三角形にまとまる聖母子像、静かな表情などを取り入れた。レオナルドの工房と周辺の画家を同時に研究すると、似た構図が広く描かれるようになった理由を、単純な模倣以上の制作上の連続性として理解できる。

画面表面の質の高さだけで真筆を判断するのは難しい。後世の加筆がある作品、複数の手が加わった作品、下絵にレオナルドの構想が残る作品がそれぞれ存在する。所蔵館の最新の帰属や技法研究を確かめながら見ることで、伝承上の名称と研究の成果を整理できる。(参照:プラド美術館|2021年レオナルド工房の研究、ロンドン・ナショナル・ギャラリー|《岩窟の聖母》)

地図と機械の構想—画家の技能が社会で果たした仕事

レオナルドが作成した地図や機械の図面は、芸術家の好奇心だけから生まれたものではなかった。都市の防御、測量、交通や水の管理に関心を持つ君主や為政者は、精確に描き、形を理解し、具体的な設備を構想できる技術者を必要としていた。(参照:ロイヤル・コレクション|レオナルドの生涯と仕事、ロイヤル・コレクション|1502年《イモラの地図》)

1502年の《イモラの地図》に見る測量と描写

1502年、レオナルドはチェーザレ・ボルジアの軍事技術者・建築家として活動した。ロイヤル・コレクション所蔵の《イモラの地図》は、市壁に囲まれた都市をほぼ真上からとらえ、通りの交差や方位を明確に示す。斜めから見上げる都市の風景画では、建物は高く描けても道路のつながりや城壁の位置を同じ精度では示しにくい。そこで建築物の高さを抑え、平面として構造を把握できる視点が選ばれている。

王室所蔵の資料によれば、レオナルドは道の長さを歩測で確かめ、塔などから方位を調べた。地図という目的に合わせて観察方法と表現方法を切り替えたことが分かる。そこにはルネサンスの絵画で学ばれた空間を表す技能が使われていると同時に、見る人が街を管理するための実用的な情報を優先する判断もある。(参照:ロイヤル・コレクション|1502年《イモラの地図》)

兵器の図面から読み取れる宮廷の要請

ミラノで描かれた兵器工廠の素描では、巨大な大砲をクレーンで持ち上げ、複数の人間が作業する様子が記録されている。画面内の身体は、宗教画の人物のように感情を伝えるために配置されているのではなく、重い物体を運ぶ力の向きや作業工程を明らかにする役割を担う。身体と機械を関連づけて描く方法に、技術的な課題を視覚化する能力が表れている。

こうした素描を、後に実用化されたあらゆる兵器の発明図として扱うことには慎重さが必要である。描かれた計画が実際に製作されたか、どれほど新規であったかは作品ごとの検討を要する。重要なのは、工房の材料技術と観察の技能が、軍事や都市の業務にも応用される環境にレオナルドがいたことである。(参照:ロイヤル・コレクション|兵器工廠の素描、ロイヤル・コレクション|レオナルドの素描)

水の流れ、建築、鳥の翼を一枚に描く

1512〜1513年頃の素描には、肋骨や横隔膜を調べる図と、噴水、建物の平面図、鳥の翼、滑車、水についての覚え書きが表裏に組み合わされている。現代の学問分野で分類すれば解剖学、建築学、工学、生物学に分かれる内容だが、レオナルドは動きと構造を知る問いとして紙の上で行き来していた。

噴水から落ちる水を考えるときも、腕の筋肉が働くときも、何がどの方向へ動き、その動きが次に何を引き起こすかを調べる。絵画で人物の身振りを組み立てる作業と、水路や滑車の働きを考える作業の間には、観察された運動を図に置き換えるという共通した方法があった。(参照:ロイヤル・コレクション|建築と鳥の翼の研究、ロイヤル・コレクション|レオナルドの解剖学研究)

植物素描に見える選択と省略

1506〜1512年頃の植物素描では、枝から分かれる葉の向き、小さな葉の連なり、茎の曲がり方が慎重に描かれている。植物を装飾の型として反復するのではなく、一つの枝が成長する際の方向や個々の葉の形を区別して記録しようとする姿勢が見える。絵画の《岩窟の聖母》に描かれた植物も、この観察への関心と合わせると見どころが増す。

完成する絵画では、自然の細部を観察したうえで、画面に必要なものを選んでいる。葉の一枚一枚まで明瞭に見せれば絵全体が豊かになるとは限らない。柔らかな影の中へ植物を沈めたり、光を受ける一部分だけを強調したりする判断もまた、自然を描く技術の一部だった。(参照:ロイヤル・コレクション|植物の素描、ルーヴル美術館|《岩窟の聖母》)

未完の作品が多い理由をどう考えるか

レオナルドは完成までの時間が長く、さまざまな計画が途中で終わったことで知られる。その特徴を性格の逸話だけで説明せず、当時の注文制度、材料と技法、構図を改める過程を合わせて考えると、制作の実態が見えてくる。(参照:ウフィツィ美術館|《東方三博士の礼拝》、ロイヤル・コレクション|レオナルドの生涯と仕事)

注文の期限と、制作途中に変わる社会

《東方三博士の礼拝》は教会から依頼を受けた祭壇画だったが、レオナルドのミラノ移住で中断した。《アンギアーリの戦い》は共和国の公共事業であり、当時の政治的な条件を背負っていた。ミラノの騎馬像の計画もスフォルツァ家の宮廷からの支援を前提としていた。異なる作品が完成に至らなかった事情を一つにまとめるより、それぞれの制作環境に即して調べる必要がある。

大きな注文ほど、場所、資金、政治的な意向、材料の調達が作品に深く関わる。政治が変われば予定されていた設置場所が失われ、宮廷が技術者に求める仕事の内容も変化する。芸術家の計画と社会の事情を一緒に考えることは、ルネサンスを個人の才能だけで語らないための重要な視点となる。(参照:ウフィツィ美術館|《東方三博士の礼拝》、ロイヤル・コレクション|レオナルドの生涯と仕事)

描き直しと完成の境界

《モナ・リザ》や《聖アンナと聖母子》は、後年までレオナルドが保有し、長い時間をかけて手を入れていた。《岩窟の聖母》の技法研究からは、同じ板絵の下に別の構図が残ることも分かっている。ひとつの作品に時間をかけたことは、人物の向き、光の層、図像の意味を繰り返し組み替えた過程と結びついている。

作品を前にすると、完成しているかどうかは観客の視覚的な印象にも左右される。静かな輪郭や細密な顔が十分に描かれていても、衣服や背景の別の部分は最後まで変更された可能性がある。研究で「未完成」とされる場合には、契約上の納品が終わっていないのか、特定の部分に下塗りが残るのか、本人が生前に継続して作業したのかという、異なる事実を区別する必要がある。(参照:ルーヴル美術館|《モナ・リザ》作品目録、ルーヴル美術館|《聖アンナと聖母子》、ロンドン・ナショナル・ギャラリー|《岩窟の聖母》)

ローマからフランスへ—晩年の制作と《洗礼者聖ヨハネ》

1510年代のレオナルドは、再びミラノで過ごしたのちローマへ移り、1516年にはフランソワ1世に迎えられてフランスへ渡った。生涯の末期にも絵画を手元に置いて研究を続け、数多くの紙資料を残した。(参照:ルーヴル美術館|《聖アンナと聖母子》、ルーヴル美術館|《洗礼者聖ヨハネ》、ロイヤル・コレクション|レオナルドの解剖学研究)

宮廷を移動する画家の立場

ミラノのスフォルツァ家の衰退、イタリア諸国の戦争、教皇庁での活動、フランス王の後援は、レオナルドの仕事場を変えていった。画家が都市や宮廷のあいだを移動することは、新しい注文を得る機会であると同時に、それまでの計画を中断する要因にもなった。未完の大作が多いことを考える際には、こうした政治的・社会的な条件を無視できない。

1516年からはアンボワーズ近郊でフランス王の庇護を受け、1519年に亡くなった。晩年にフランスで所蔵されることになった絵画は、ルーヴル所蔵のレオナルド作品が多い理由とも関わる。フランスに渡った作品の伝来を追うことは、イタリア・ルネサンスの絵画がヨーロッパの宮廷文化へ受け入れられる過程を知ることでもある。(参照:ルーヴル美術館|《モナ・リザ》作品目録、ルーヴル美術館|《聖アンナと聖母子》、ルーヴル美術館|《洗礼者聖ヨハネ》)

《洗礼者聖ヨハネ》—暗闇と身振り

ルーヴル美術館の《洗礼者聖ヨハネ》は、暗い背景の中から半身の人物が浮かび上がり、片手の指を上方へ向ける作品である。体をひねりながらこちらを見つめる顔は、光の当たる頬や肩から暗部へなだらかにつながる。画面を覆う暗さは細部を隠しつつ、顔と手の存在感を際立たせる。

指が天を示す身振りは、ヨハネがキリストの到来を告げる役割と関係する。伝統的な聖人の姿でありながら、肉体の存在感と象徴的な動作の結びつきによって、近い距離で人物に向き合うような印象をつくる。ルーヴルの目録は制作事情や注文主を確定しておらず、1510年代にかけて手を入れた作品として慎重に位置づけている。(参照:ルーヴル美術館|《洗礼者聖ヨハネ》)

晩年の絵を「到達点」と見るとき

《聖アンナと聖母子》《モナ・リザ》《洗礼者聖ヨハネ》には、柔らかな陰影、身体がわずかにひねられる姿勢、観客と人物のあいだに生まれる視線の関係が共通する。晩年の一連の絵を比べると、レオナルドが人物の生命感を、細部の増加によってではなく光と動きの連続から構成しようとしたことが分かる。

完成という言葉の意味もこの時期の作品では複雑である。所蔵目録には死まで加筆が続いたとされる作品が含まれ、本人がどの状態を最終的な完成と見なしたのかは明らかでない。修復や技術調査で明らかになる層の重なりを、制作の時間が残した証拠として見ることができる。(参照:ルーヴル美術館|《モナ・リザ》作品目録、ルーヴル美術館|《聖アンナと聖母子》、ルーヴル美術館|《洗礼者聖ヨハネ》)

レオナルドは16世紀の絵画に何を残したか

レオナルドの重要性は、奇抜な発明の図面や不可解な逸話だけで説明できるものではない。人体と光の観察を通じて、人物同士の関係を描く方法を変えたこと、また未完の試みも含めた制作過程が周囲の画家に課題を示したことにある。(参照:ルーヴル美術館|レオナルド回顧展公式図録、ロイヤル・コレクション|素描による生涯の研究)

ラファエロに受け継がれた聖母子の構想

レオナルドが描いた聖母子群では、複数の身体が三角形のまとまりをなし、互いに触れ合うことで画面の中心がつくられる。16世紀初頭にフィレンツェを訪れたラファエロも、人物をつなぐ身振りや柔らかな立体表現から刺激を受けた。ラファエロがそれを独自の明快な構図へ組み替えた過程は、盛期ルネサンスの画家同士の関係を理解する重要なテーマとなる。

二人の作品を比較すると、同じ聖母子という主題でも画面の作り方が異なる。レオナルドでは人物が互いの重さを受け止めながら一つのかたまりとなり、ラファエロは人物の位置を整理して視線の流れをより明瞭にする。この違いは、次に扱うラファエロの独立記事で詳しく検討したい。(参照:ロンドン・ナショナル・ギャラリー|《バーリントン・ハウスの原寸大下絵》、ルーヴル美術館|《聖アンナと聖母子》)

壁画、肖像画、素描という三つの遺産

《最後の晩餐》は、多数の人物を感情の連鎖で一つの場面へ統合する手法を示した。《モナ・リザ》は、静かな肖像の中で顔、手、風景を共通する光で結びつけた。解剖学や自然の研究素描は、図を使って観察を整理する新たな方法を積み重ねた。三つを並べると、絵の題材が変わっても、動きと見え方を研究し続けた一貫性が浮かび上がる。

同時に、その成果は作品の保存状態や伝来によって見え方が変わってきた。《最後の晩餐》は傷み、板絵は加筆され、素描は長期間公開されなかった。今日の研究が修復や科学的調査に大きく依存するのは、レオナルドという作家について知られる事実が、現存資料の条件に左右されているからである。(参照:《最後の晩餐》美術館|保存・修復、ルーヴル美術館|《モナ・リザ》作品目録、ロイヤル・コレクション|レオナルドの解剖学研究)

盛期ルネサンスのなかでレオナルドを位置づける

15世紀に発展した線遠近法、人体研究、油彩の技術を受け継いだレオナルドは、それらを使って、人物がその場で呼吸しているような関係を絵画に組み込んだ。完成画の少なさは、構想を繰り返し見直す制作方法とも結びつく。絵を細部から読み解くと、レオナルドの独創性は「万能」という曖昧な評価よりも、具体的な造形上の決断として理解できる。

この作品論を踏まえて次にミケランジェロを見ると、絵画と彫刻における身体の重さや力の捉え方の違いが鮮明になる。ラファエロの構図を見れば、複数の人物を一つの物語へ統合する別の解答が分かる。盛期ルネサンスの豊かさは、同じ都市と時代に異なる方法が併存し、作品を通じて相互に刺激を与えていたところにある。(参照:ルーヴル美術館|レオナルド回顧展公式図録、ロイヤル・コレクション|素描による生涯の研究)

年表|レオナルドの生涯と作品

作品の制作時期には複数の見解があるため、所蔵館の目録に沿って「頃」「前後」を用いています。長期間制作された作品は、開始とその後の作業期間を分けて示しました。

  1. 1452年 トスカーナのヴィンチ近郊に生まれる。
  2. 1470年代前半 ヴェロッキオの工房で学び、《受胎告知》など初期作品に取り組む。
  3. 1481年 フィレンツェ郊外サン・ドナート・ア・スコペート教会から《東方三博士の礼拝》を受注する。
  4. 1482年頃 ミラノへ移り、宮廷の仕事を始める。
  5. 1483年 《岩窟の聖母》を含む祭壇画の契約を結ぶ。
  6. 1489年 頭蓋骨を切断面から調べた素描を制作する。
  7. 1490年頃 《白貂を抱く貴婦人》を制作する。人体比例の研究も進める。
  8. 1490年代 宮廷肖像画、スフォルツァ騎馬像計画に取り組む。
  9. 1495〜1498年頃 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院食堂に《最後の晩餐》を描く。
  10. 1499年 フランス軍によるミラノ占領ののち、宮廷を離れる。
  11. 1500年頃 フィレンツェへ戻り、聖母子の新しい構図を探究する。
  12. 1503年頃 《モナ・リザ》の制作を始める。アンギアーリの戦いを描く構想を進める。
  13. 1505年頃 《アンギアーリの戦い》の壁画事業に取り組む。原作は現存しない。
  14. 1506〜1508年頃 ロンドン所蔵の《聖アンナと聖母子、幼い洗礼者ヨハネ》の大画面素描が制作される頃。
  15. 1506〜1508年頃 ロンドン版《岩窟の聖母》に再び取り組む。
  16. 1508〜1513年頃 人体解剖と観察の研究を集中的に進める。
  17. 1510〜1511年頃 パヴィアで解剖学研究を行い、骨格・筋肉の重要な素描を残す。
  18. 1513年 ローマへ移る。
  19. 1516年 フランソワ1世の保護を受けてフランスへ渡る。
  20. 1518年頃 《モナ・リザ》《聖アンナと聖母子》などがフランス王の収集に入ったと考えられる。
  21. 1519年 アンボワーズで死去。素描・手稿が弟子たちへ伝えられる。
  22. 1977〜1999年 《最後の晩餐》の長期修復事業が行われる。
  23. 2012年 プラド美術館による工房作《モナ・リザ》の修復研究が広く紹介される。
  24. 2019年 レオナルド没後500年にあたり、ルーヴル美術館などで大規模な研究展が開催される。

参考資料

作品の制作年代、材質、所蔵と研究上の見解は、美術館・文化財研究機関が公表する所蔵目録、修復研究、展示解説に基づいて確認しています。出典を本文各所にも示し、個別作品の最新の帰属や技法調査を確認できるようにしました。