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1955–1960

抽象表現主義の国際的展開

美術館、批評、展覧会とアメリカ絵画の評価

1950年代半ば、抽象表現主義は戦後アメリカの新しい絵画として注目を集めていた。ジャクソン・ポロック、マーク・ロスコ、ウィレム・デ・クーニング、バーネット・ニューマン、クリフォード・スティルらはそれぞれ異なる表現に到達し、ニューヨークの画廊や美術館で作品を発表していた。その絵画が1950年代後半、ヨーロッパの主要な都市へまとまって紹介されることで、抽象表現主義の歴史は新しい段階に入る。

転換点となったのが、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の国際事業による展覧会《The New American Painting(新しいアメリカ絵画)》である。1958年から1959年にかけて17人の画家による81点がヨーロッパ8か国を巡り、1959年にはニューヨークへ戻った。大画面の作品を実見できたヨーロッパの観客と批評家は、筆触の力強さ、色面の広がり、画家ごとの構成の違いをそれぞれの言葉で評価し始めた。

この国際的な紹介を支えたのは、作品を制作する画家だけではなかった。ドロシー・C・ミラーらキュレーター、美術館の国際評議会、収集家、貸し出しに応じた所蔵者、展示先の美術館、雑誌や新聞の批評家が関わった。さらに冷戦期の文化外交という状況も、アメリカの美術が世界に紹介される意味を複雑にしていた。展覧会の選考は、誰を「新しいアメリカ絵画」の代表とするのかという問題も生んだ。

この記事では、1955年の国際展覧会を背景に、1956年の国内展示とポロックの回顧展、1957年以降の国際巡回、1958〜1959年の八都市での展示と批評、冷戦期の美術制度をたどる。抽象表現主義がどのような画風だったかを繰り返すのではなく、成熟した絵画がどのように見られ、論じられ、美術史の中で評価を確立していったのかを明らかにする。

CONTENTS

  1. 1955年を境に、抽象表現主義の歴史は何が変わるのか
  2. 1950年代のアメリカ美術を取り巻いた状況
  3. MoMAが築いた国際展覧会の仕組み
  4. 1955年「アメリカの近代美術」展が用意した土台
  5. 1956年、国内の美術館は抽象表現主義をどう見せたか
  6. 1956年のポロックの死と作品評価の転機
  7. 1957年、ポロック展が国際巡回を始める
  8. 1958年「新しいアメリカ絵画」展の構想
  9. 「新しいアメリカ絵画」の17人は誰だったのか
  10. 1958年春、バーゼルから始まった欧州巡回
  11. ベルリン、アムステルダム、ブリュッセル
  12. 1959年、パリとロンドンでの公開
  13. 展示された絵画はどのように見えたのか
  14. ロスコ、ニューマン、スティルが見せた色面の多様性
  15. 1958年、二つの国際展覧会が同じ会場に並んだ
  16. 1959年の展評が伝える、ほかの画家たちの作品
  17. ロンドンの批評家たちはどう評価したのか
  18. ロンドンでの支持と反発
  19. パリとヨーロッパの戦後抽象絵画との関係
  20. 1959年、展覧会はニューヨークへ戻る
  21. 展覧会図録と批評が作った共通の言葉
  22. 誰が国際的な代表作家に選ばれたのか
  23. 画廊、美術館、収集家が作った評価の経路
  24. 1959年の第2回ドクメンタで見えた国際的な位置
  25. 冷戦と抽象表現主義をめぐる歴史研究
  26. 国際的な成功が生んだ新しい問い
  27. 年表|抽象表現主義の国際的展開
  28. まとめ|国境を越えた作品と変化する評価
  29. 参考資料・出典

1955年を境に、抽象表現主義の歴史は何が変わるのか

形成された表現が国境を越える段階へ

1940年代から1950年代前半にかけて、ニューヨークの画家たちは筆触、色面、画面の大きさをめぐるそれぞれの方法を成熟させた。1955年以降に目立って変わるのは、完成した作品が国境を越えて展示され、その評価を外国の美術館、批評家、観客が自分たちの言葉で作り始めたことである。

新しい絵画はニューヨークのアトリエから画廊へ、さらに国際展覧会へと移動した。作品そのものの変化と、作品が置かれる場所の変化は連動する。パリ、ロンドン、ベルリンの観客が大作の前に立つとき、戦後アメリカの絵画は現地の美術史との比較にさらされた。(参照:ニューヨーク近代美術館|国際展覧会事業の沿革)

「台頭」の後に扱うべき問い

先行するNo.33では、ポロックの滴下、デ・クーニングの塗り直し、ロスコの色面、ニューマンの垂直帯などが、どのように成立したのかを具体的な作品からたどった。本記事は、それらの技法の誕生を繰り返す代わりに、出来上がった作品が美術史の中でどのような位置を獲得したのかを追う。

その鍵になるのは、美術館の収蔵と展覧会の選考、作品を論じる批評、写真や図録による紹介、国際巡回を支えた資金と物流である。評価は絵の中だけで完結せず、作品に出会うための仕組みと結びついて形成される。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》展覧会記録)

世界に紹介されたことと世界で認められたこと

1958年から翌年の《新しいアメリカ絵画》は、戦後アメリカの抽象絵画を欧州八か国へ紹介した。大規模な巡回展は大きな転機となったが、各都市で作品の受け取り方が一致したわけではない。肯定的な批評も、難解さや乱暴さを指摘する批評も現れた。

その反応の差こそ、抽象表現主義の国際的展開を考える材料になる。国際的な名声は単独の出来事で完成するものではなく、相反する評価や再展示を通じて少しずつ定着していった。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》巡回資料)

1950年代のアメリカ美術を取り巻いた状況

パリとニューヨークの関係の変化

第二次世界大戦以前、近代美術を学ぶアメリカの画家にとって、パリは重要な参照点だった。キュビスム、シュルレアリスム、抽象絵画の実験はヨーロッパで発展し、その作品や思想がアメリカへ紹介されてきた。戦後、ニューヨークに有力な画家と美術館、画廊が集まるにつれ、この関係は変化する。

1950年代後半には、ヨーロッパの美術館がアメリカの同時代絵画を積極的に紹介するようになる。これは文化の中心がある日突然移動したという物語以上に、作品の移動方向や、学ぶ側と紹介する側の関係が複雑になった変化だった。(参照:ニューヨーク近代美術館|国際展覧会事業の沿革)

「アメリカ美術」という名前の意味

「アメリカ絵画」という展覧会名は、ばらばらの考え方を持つ作家を一つの国名のもとに提示する。ポロック、ロスコ、ゴーキー、デ・クーニングらの出自や制作歴は多様であり、移民と亡命、ヨーロッパの近代美術への学習は彼らの表現に深く関わっていた。

展覧会が国名を掲げることには、作品を国際的に理解してもらうための便利さと、異なる経歴を一つにまとめる作用がある。出品作品の共通点をどこに見いだしたのか、キュレーターの選択を検討する必要がある。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》展覧会記録)

冷戦の時代における文化の発信

戦後のアメリカとソ連は政治的・軍事的な緊張関係にあり、文化的な影響力も国際社会で意味を持つようになった。抽象表現主義の国外紹介は、その状況の中で進められた。美術館にとっては優れた同時代の作品を知らせる活動であり、国際関係の観点ではアメリカ文化の存在を示す活動でもあった。

美術と政治の関係を調べる際には、企画者が実際に記録した目的、資金提供者、政府との協力、後世の研究者の解釈を区別することが大切である。これらは重なる部分を持ちながら、同じ説明へまとめきれない。(参照:ニューヨーク近代美術館|国際事業と冷戦をめぐる対話)

MoMAが築いた国際展覧会の仕組み

1952年の国際巡回展事業

ニューヨーク近代美術館(MoMA)は1952年、海外の美術館へ展覧会を送り出す国際事業を開始した。ロックフェラー兄弟基金による資金援助がこの活動を支え、ポーター・マクレーが初代責任者を務めた。個々の作家の海外進出を超え、美術館が継続して展覧会を企画する体制が整えられた。

同事業は抽象表現主義だけを広める組織として始まったわけではない。写真、デザイン、建築、版画なども国際的に紹介し、アメリカの美術文化を幅広く見せようとしていた。抽象絵画の巡回展は、この大きな事業の中で実現した。(参照:ニューヨーク近代美術館|国際展覧会事業の沿革)

1953年の国際評議会と資金調達

MoMAでは1953年に国際評議会が組織され、国際事業の長期的な支援にあたった。作品を何か月も海外へ貸し出すためには、輸送、保険、梱包、展示、広報、現地との交渉に費用と人手が必要だった。展覧会の成功には、選ばれた絵画の質と同じくらい、運営の持続性が関わっていた。

資料には展覧会の旅程、作品一覧、出品者との往復書簡、図録の制作記録、新聞記事の切り抜きなどが残る。国際的な評価は華やかな開幕式だけで生まれたのではなく、こうした事務的な作業を積み重ねる制度に支えられていた。(参照:ニューヨーク近代美術館|国際展覧会事業の沿革)

キュレーターと現地美術館の共同作業

MoMAが選んだ作品は、展示先の建物や観客に合わせて配置される。ニューヨークで成立した展示の意味を、そのまま別の都市へ移せるわけではない。現地の担当者が壁面、照明、鑑賞距離を調整し、ときには所蔵館や作家との間で意見を交わした。

また、海外の館長やキュレーターからの要望が巡回企画の出発点となる場合もあった。アメリカ側が文化を一方向に送り出したという図式に加え、ヨーロッパ側が何を見たいと求めたのかを見れば、国際交流の実際の姿がよりよく理解できる。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》巡回資料)

1955年「アメリカの近代美術」展が用意した土台

広い分野を見せる展覧会の構想

1955年、MoMAの国際事業は《Modern Art in the United States》を欧州へ送り出した。絵画だけに限定せず、彫刻、写真、建築、デザイン、映画などを含む広い構成を採り、アメリカの近代文化を一つの展覧会で紹介しようとした。

この幅広さは、次に抽象表現主義へ焦点を絞った展覧会を考えるうえでも重要である。外国の観客にアメリカの芸術活動の多様性を見せる段階から、特定の絵画の成果を集中して示す段階へと、展覧会の役割が変化していく。(参照:ニューヨーク近代美術館|国際展覧会事業の沿革)

パリの企画と文化交流

1955年のパリでは、アメリカとフランスの文化交流を目的とした催しが行われ、MoMAの国際事業も関わった。アメリカに所蔵されているフランス美術の名作を紹介する別の展覧会も組まれ、交流はアメリカ美術を欧州へ輸出する行為だけに限定されなかった。

フランスの近代美術がアメリカの収集家や美術館によって大切にされていることを示す企画と、同時代のアメリカ美術を紹介する企画は、互いに異なるメッセージを持つ。国際展覧会は作品の鑑賞に加え、国家間の文化的な関係を築く場でもあった。(参照:ニューヨーク近代美術館|国際展覧会事業の沿革)

1956年のロンドン展示へつながる経験

広範なアメリカ美術を紹介した展覧会は、ロンドンのテート・ギャラリーでも1956年に開催された。英国の観客は抽象表現主義を含む作品に出会う機会を得たものの、アメリカの美術を一度に理解したわけではない。展示は新しい関心と多くの疑問を生み出した。

その数年後、抽象表現主義の作品を集中的に見せる展覧会が再びロンドンにやって来る。二つの展覧会を比較すると、海外での紹介が一度の成功に終わらず、より深い理解を求めて繰り返されていたことが分かる。(参照:テート|1959年《新しいアメリカ絵画》展の受容)

1956年、国内の美術館は抽象表現主義をどう見せたか

MoMA「12人のアメリカ人」展

1956年5月から9月にかけて、MoMAはドロシー・C・ミラーの企画による「12人のアメリカ人」展を開催した。フィリップ・ガストン、ジェームズ・ブルックス、フランツ・クライン、グレース・ハーティガンらの作品が、異なる画家による今日の表現として並んだ。

この展覧会の意義は、作家を画一的な様式へ押し込まず、それぞれの制作の特徴を示す構成にあった。国際的な巡回展でも、さまざまな作家を一つの展覧会の中で紹介しながら、その違いをどこまで見せるかが課題になる。(参照:ニューヨーク近代美術館|「12人のアメリカ人」展)

少数の作家へ広い展示空間を与える

「12人のアメリカ人」展は、大勢の画家から一点ずつ集める通常の大規模公募展とは異なる考え方で企画された。限られた作家にまとまった場所を与え、複数の作品の間にある変化や継続性を見せる。観客は一人の画家の制作を、隣の画家との比較だけに頼らず理解できる。

抽象絵画は一枚の代表作だけを見ると、画面の違いが偶然の効果として映ることもある。何点かを並べると、色、形、筆触、密度を繰り返し選び取っている姿が浮かび上がる。展示形式が作品理解の深さを変えた。(参照:ニューヨーク近代美術館|「12人のアメリカ人」展)

美術館が評価することの重み

現代美術館が同時代の画家を大きく紹介すると、その画家は特定の画廊の支持者だけでなく、研究者や一般観客の目に触れるようになる。作品の収集や図録の刊行は、画家が残した試みを後から検証する資料にもなる。

同じ時代に活動していても、誰が美術館の展示に選ばれたかによって、その後の紹介の機会には差が生じる。作品の価値と展示制度による可視性を切り分けて見ることは、抽象表現主義の歴史を読むうえで欠かせない。(参照:ニューヨーク近代美術館|ドロシー・C・ミラー資料)

1956年のポロックの死と作品評価の転機

予定されていた企画が追悼展に変わる

ジャクソン・ポロックは1956年8月11日に交通事故で亡くなった。MoMAでは生前から個展の計画が進んでおり、同年12月から翌年2月にかけて開催された展覧会は、結果として追悼的な回顧展となった。作家の生涯をたどる視点が、制作中の新作を紹介する視点に加わった。

画廊や美術館が発表した情報は、ポロックの絵画が近代ヨーロッパの影響を受けながら独自の画面空間に到達したことを強調した。初期作から成熟作をまとめて見ることによって、滴下技法だけで知られていた作家の位置づけが改めて検討された。(参照:ニューヨーク近代美術館|ポロック年譜)

1956〜1957年MoMAの回顧展

1956年12月19日から1957年2月3日までのポロック展は、1930年代末から晩年までの作品を通して、その画業を見渡す機会になった。MoMAの展示記録には会場写真が残され、複数の時期の絵画が同じ場所で紹介されていたことを確認できる。

大きなドリッピング絵画だけを取り出すと、ポロックは突然新しい技法を生んだ画家に見える。回顧展の形式によって、初期の人物像や神話的図像、後年の黒い線の作品なども、同じ画家の複雑な変化として読めるようになった。(参照:ニューヨーク近代美術館|1956年ポロック展)

亡くなった画家が国際展覧会で代表者になる

ポロックの死後、彼を紹介する展覧会や記事は、抽象表現主義全体の象徴としての役割を強めた。米国内で成熟した表現を外国の観客へどう紹介するかを考える際、ポロックの代表作は欠かせないものになった。

同時に、同じ時代を生きたロスコ、ニューマン、スティル、デ・クーニングらの絵画は、ポロックの物語だけでは説明できない。後の国際展覧会は、彼の存在を中心的に扱いながら、第一世代の表現がいかに多様であるかも示そうとした。(参照:ニューヨーク近代美術館|ポロック展の国際巡回)

1957年、ポロック展が国際巡回を始める

サンパウロ・ビエンナーレという出発点

1957年、ポロックの回顧展はブラジルのサンパウロ・ビエンナーレで紹介され、その後ヨーロッパへ巡回した。MoMAの国際事業が選んだ作品を海外へ運び、画家個人の制作歴を大きな展覧会として示した。

ニューヨークとヨーロッパの往復だけに限定すると、この動きは見えにくい。サンパウロの国際展覧会は、戦後美術の新しい出会いが生まれる重要な場の一つとなっていた。展示の経路が広がることによって、アメリカ絵画の受け手も広がっていった。(参照:ニューヨーク近代美術館|ポロック展の国際巡回)

フランク・オハラが担った作品選定

この国際巡回のポロック展では、詩人としても知られるフランク・オハラが作品選定に関わった。彼はMoMAの国際事業で活動し、ポロックの初期から後期までの作品を示す展示を実現した。美術館の企画には、画家以外にも、研究と編集を担う多様な人々が加わっていた。

回顧展の構成は、どの作品を一人の画家の特徴として選ぶかという判断の集合である。技法がよく知られた画家でも、展示作品の選択次第で、無意識との関係、具象との関係、晩年の変化が異なる比重で見える。(参照:ニューヨーク近代美術館|フランク・オハラ資料)

欧州の展示室で問われた巨大画面の置き方

ポロック展の欧州巡回では、壁面の大きさや会場の形状に応じた展示の工夫が行われた。ローマでは大画面を空間の構造に合わせて配置し、ロンドンのホワイトチャペル・ギャラリーでは天井や壁に布を使って作品の見え方を整えたことが、MoMAの記録に残っている。

この工夫が示すのは、巨大な抽象絵画が額縁の中だけで完結する視覚体験ではなかったということである。絵の前にどれだけ空間を取れるか、観客がどこまで近づけるかが、作品の意味を伝える条件になっていた。(参照:ニューヨーク近代美術館|ポロック展の国際巡回)

1958年「新しいアメリカ絵画」展の構想

ヨーロッパの美術館からの要望

《The New American Painting》は、アメリカの抽象表現主義をまとめて見たいというヨーロッパ側の要望を背景に組織された。1950年代半ばには、雑誌や図録を通じて作品の写真を知っていても、本物の巨大な画面を目にした経験の少ない観客が多かった。

展示の目的は新奇な写真イメージを広めることだけではなかった。絵の具の厚み、色の広がり、身体との尺度を実物で確かめられる機会を作ることで、抽象表現主義を批評上の言葉から鑑賞可能な作品へ引き戻した。(参照:テート|1959年《新しいアメリカ絵画》展の受容)

ドロシー・C・ミラーの選考

MoMAのキュレーター、ドロシー・C・ミラーは、この巡回展のために17人の画家から81点を選んだ。少数の画家を複数点ずつ示す形式は、作家ごとの表現の幅を伝えることを重視する彼女の展覧会構成とつながっていた。

出品者にはポロックやロスコ、ニューマン、スティルだけでなく、ゴーキー、バジオティス、ハーティガン、ガストン、トムリン、トワーコフらも含まれる。観客は抽象表現主義を一人の成功談ではなく、異なる画家が並び立つ状況として見ることになった。(参照:ニューヨーク近代美術館|ドロシー・C・ミラー資料)

81点の絵画が生んだ厚み

作品は公開・個人のコレクションから集められ、1940年代半ばから1950年代後半にかけての幅を持っていた。画面の大きさも、絵の具の扱いも、作品が生む空間も一様ではなかった。多数の絵画をまとめて実見することで、写真だけでは伝わりにくい差が前面に現れる。

巨大な作品を持ち運ぶには、輸送手段の確保、梱包材の準備、借用条件の確認などが欠かせない。展覧会の実現そのものが、これほど大規模なアメリカの新しい絵画を国際的に動かせる美術館組織の力を表していた。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》巡回資料)

「新しいアメリカ絵画」の17人は誰だったのか

ポロックからニューマンまでの第一世代

出品した17人には、ウィリアム・バジオティス、ジェームズ・ブルックス、サム・フランシス、アーシル・ゴーキー、アドルフ・ゴットリーブ、フィリップ・ガストン、グレース・ハーティガン、フランツ・クライン、ウィレム・デ・クーニングが含まれた。

さらにロバート・マザウェル、バーネット・ニューマン、ジャクソン・ポロック、マーク・ロスコ、テオドロス・スタモス、クリフォード・スティル、ブラッドリー・ウォーカー・トムリン、ジャック・トワーコフが並んだ。抽象表現主義と呼ばれた画家たちの年代も作風も、単純な一列の系譜では説明できない。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》展覧会記録)

生きた作家とすでに亡くなった作家

1948年に亡くなったゴーキーと1956年に亡くなったポロックの作品は、存命の画家の新しい作品とともに展示された。これによって、展覧会は現在進行形の新作紹介であると同時に、すでに一部の画家の全生涯を歴史として見直す場にもなった。

一つの運動を理解する際、年代順の展示と作家別の展示は別の意味を持つ。時期の近い作品を並べれば同時代の違いが見え、作家別にまとめればそれぞれの変化が見える。巡回展はこの二つの読み方が交わる場所だった。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》展覧会記録)

女性作家の存在と選考の限界

17人の中で女性作家はグレース・ハーティガン一人だった。先行する抽象表現主義の成立期には、リー・クラスナー、エレイン・デ・クーニング、ジョアン・ミッチェル、ヘレン・フランケンサーラーなど、重要な女性作家が活動していた。

1958年の出品者名簿は、当時の作品評価を示すと同時に、その時点で誰が国際的な代表として紹介されやすかったかを示す記録でもある。選ばれた17人を理解することと、選考の外に置かれた人々を見直すことは、同じ歴史研究の中で進められる。(参照:ニューヨーク近代美術館|ドロシー・C・ミラー資料)

1958年春、バーゼルから始まった欧州巡回

4月、スイス・バーゼルでの開幕

展覧会は1958年4月19日、スイスのバーゼル美術館ではなくクンストハレ・バーゼルで開幕した。ここから同年と翌年にかけて八つの国の都市を巡る旅程が始まる。最初の展示はその後の紹介記事や次の開催地での期待を生む出発点になった。

バーゼルで作品が示された意味は、アメリカの絵画をヨーロッパの現代美術の環境に直接置いたことにある。作品の寸法、絵の具の跡、色面の密度は、展覧会で実物と向き合う観客にとって初めて比較可能な情報になった。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》巡回資料)

6月、ミラノでの展示

巡回展は1958年6月、イタリアのミラノ市立近代美術館へ移った。イタリアでは戦後の抽象絵画やアンフォルメル、物質を重視する表現が展開されており、アメリカ絵画はそうした同時代の実験と並べて見られることになった。

近似した大画面や強い筆触が見えても、そこに至る背景や理論は作家によって異なる。海外での展示が与えたのは、「似ている」あるいは「違う」という感想を、実際の作品の前で検証する可能性だった。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》巡回資料)

7月から8月、マドリードでの開催

同年7月16日から8月11日まで、展覧会はスペインのマドリードにある国立現代美術館へ巡回した。美術館の担当者は翻訳された図録や作家資料を利用して、アメリカ絵画の歴史的な背景を現地の観客へ説明した。

国をまたぐたびに作品そのものは同じでも、読者が接する言語や美術教育は変わる。展覧会の国際化は、ただ作品が移動することだけではなく、作品を紹介する言葉が現地で作り直される過程でもあった。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》巡回資料)

ベルリン、アムステルダム、ブリュッセル

1958年9月、ベルリンでの出会い

1958年9月、展覧会は西ベルリンの美術教育機関を会場として開催された。戦後ドイツでは破壊と復興、ナチ体制下で断絶させられた近代美術の歴史の再検討が進んでいた。アメリカの大規模抽象絵画は、その新しい環境で紹介された。

ベルリンにおける展示を美術史上の転機として読むときには、展覧会が自由な表現の象徴として語られ得た政治状況と、個々の作品が持つ絵画の問題を分けて考える必要がある。作品の評価には複数の文脈が働いていた。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》巡回資料)

10月、アムステルダムの市立美術館

10月17日から11月24日には、アムステルダム市立美術館で展示された。同館は同時代の国際的な美術を紹介する重要な拠点であり、大胆な抽象絵画を近代美術史の中でどこに置くかという課題に向き合った。

この会場でも、色と筆触の見た目だけで全作家を同じ画風にまとめることは難しい。ロスコのやわらかな矩形とニューマンの垂直の帯は、作品の前に立つ観客へまったく異なる空間感覚をもたらすからである。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》巡回資料)

12月、ブリュッセルへ

1958年12月6日から翌1959年1月4日まで、展覧会はブリュッセルのパレ・デ・ボザールで公開された。巡回展が年をまたいで続いたことは、作品が長期間にわたり米国を離れ、別々の鑑賞者によって見られていたことを意味する。

各会場から寄せられた新聞記事、広報資料、写真はMoMAの国際事業記録に保存されている。同じ展覧会を地域ごとに読み比べると、国際的な評判が一つの統一された声として生まれたわけではないことが確認できる。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》巡回資料)

1959年、パリとロンドンでの公開

1月、フランスの国立近代美術館

1959年1月16日から2月15日まで、パリの国立近代美術館で《新しいアメリカ絵画》が開催された。かつて近代美術の主要な実験地であったパリで、アメリカの抽象絵画をまとめて紹介することには、強い象徴性があった。

アメリカの絵画をパリの戦後美術と並べることは、単純な優劣の争いとしては捉えきれない。タシスムやアンフォルメルとアメリカの作品には共通して見える部分があり、同じ画面上の技法でも歴史的な意図は異なっていた。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》巡回資料)

2月から3月、テート・ギャラリーでの展示

ロンドンのテート・ギャラリーでは1959年2月24日から3月23日まで開催された。1956年の幅広いアメリカ美術展を見ていた英国の観客にとって、今回は抽象絵画を集中して比較する機会となった。

批評家ローレンス・アロウェイは、ロスコ、スティル、ニューマンらを一堂に見られることの意義を高く評価した。展示室に入ることで、印刷写真ではつかみにくい画面の実際の規模と、画家ごとの違いが明確になったのである。(参照:ArtReview|ローレンス・アロウェイによる1959年の展評)

八都市を一つの巡回展として読む

バーゼル、ミラノ、マドリード、ベルリン、アムステルダム、ブリュッセル、パリ、ロンドンという旅程は、八か国にある現地の美術制度が一つの企画へ参加したことを示している。各都市は作品を受け取るだけでなく、図録、批評、展示方法を通じて展覧会の意味を作った。

結果として抽象表現主義は、ニューヨークで知られた特殊な画風という枠を超え、ヨーロッパの主要な美術館の中で議論される対象になった。巡回は名前を広める活動であるとともに、美術史へ位置づけるための公開討論の場でもあった。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》展覧会記録)

展示された絵画はどのように見えたのか

大画面と鑑賞者の身体

抽象表現主義の絵画は、画集のページでは大きさが伝わりにくい。ポロックやニューマンの巨大なキャンバスを実際の壁面に掛けると、絵の外側まで視野を動かし、遠近の距離を変えて見る必要がある。欧州巡回展はその経験を多くの観客に開いた。

展覧会場では、絵画と絵画の間隔、出入口、照明や壁面の長さが作品の見え方を決める。大画面の作品は展示室の中に新しい空間的な関係を生み、観客にそれまでとは違う鑑賞の姿勢を求めた。(参照:ArtReview|ローレンス・アロウェイによる1959年の展評)

ポロックとクラインの筆触は同じか

ポロックの画面では、落下した塗料が細く連続し、交差しながら全体を覆う。フランツ・クラインの黒い形は太く、構図上の白い領域と激しく組み合わさる。どちらも身体的な勢いを感じさせるが、その線が画面を組織する方法は異なる。

この違いを意識すると、アクション・ペインティングという言葉が示す身体性だけで作品を捉えることの難しさが分かる。作品の表面へ残った筆触の幅、重なり、余白の扱いまで見ることで、作家ごとの構成の判断が見えてくる。(参照:ArtReview|ローレンス・アロウェイによる1959年の展評)

厚い表面と透ける色彩

スティルの不規則な色面には厚い塗り跡や裂けたような輪郭が残り、ロスコの色面では透ける層や柔らかな境界が視覚に働く。どちらも大きな色面を使うため同じ系列に置かれやすいが、絵の具の物質感と空間の現れ方は異なる。

国際展覧会で実物が並ぶと、こうした違いは抽象表現主義の内部にある重要な問題として浮かび上がった。色面絵画を単色の広がりとだけ考えるのでは十分ではなく、制作方法が鑑賞経験の差へつながることが分かる。(参照:ArtReview|ローレンス・アロウェイによる1959年の展評)

ロスコ、ニューマン、スティルが見せた色面の多様性

ロスコの五点を比較したアロウェイ

1959年のロンドンでローレンス・アロウェイは、展示されたロスコの五点に注目し、構図が似ていても色の組み合わせ、面積の比率、光の感じられ方が違うと論じた。作品を複数点並べることによって、見かけの単純さの中に豊かな変化があると捉えたのである。

この観察は、国際展覧会の重要な成果を端的に示している。図版で「長方形が重なる絵画」とだけ見ていた作品も、同じ場所で比較すれば、色彩の関係を時間をかけて調整していたことが伝わる。(参照:ArtReview|ローレンス・アロウェイによる1959年の展評)

ニューマンを評価する言葉の変化

アロウェイはニューマンの作品について、少ない造形要素が大きな画面空間を成立させていることを高く評価した。垂直帯で色面を区切る構造を単純な幾何学模様として片づけず、鑑賞者の知覚の中で色面が広がる作用に目を向けた。

ニューマンは、発表当初から誰もが理解した画家ではなかった。1959年のロンドン評では、その極端な簡潔さが他の作品の複雑さを問い直す基準にまでなっている。国際展覧会は、一人の作家の評価が変わる過程を示した。(参照:ArtReview|ローレンス・アロウェイによる1959年の展評)

スティルの絵画の厚みを読み直す

スティルの作品について、アロウェイは絵の具の厚みや表面のしわ、乾いたような箇所を区別して論じている。彼の色面は平坦な塗り分けではなく、物質を押し広げた痕跡と不規則な形が強く作用する画面だった。

ロスコ、ニューマン、スティルを実物で比較したことによって、色面絵画の異なる三つの方向がよく分かる。作品の見た目を一つの語で括るだけでなく、どのような絵の具の使い方で広い空間を作ったのかを考える視点が育った。(参照:ArtReview|ローレンス・アロウェイによる1959年の展評)

1958年、二つの国際展覧会が同じ会場に並んだ

バーゼル、ベルリン、パリで同時に見られた作品群

MoMAの国際事業記録によれば、ポロックの回顧展はバーゼル、ベルリン、パリで《新しいアメリカ絵画》と同時期に開催された。観客は、抽象表現主義の多彩な画家を集めた展覧会と、一人の画家の制作歴に焦点を当てた展覧会を、同じ都市で見る機会を得た。

この組み合わせは、それぞれの絵画の特徴を理解する方法を広げた。ポロックだけを見れば技法の進化を追える。複数の画家を見れば、同じ時代に成立した異なる制作上の答えが浮かび上がる。二つの展覧会が重なることで、作家の個人史と運動の歴史を往復できた。(参照:ニューヨーク近代美術館|ポロック展の国際巡回)

一人の回顧展と17人の展覧会の違い

ポロックの回顧展では、1930年代から1950年代までの作品を通して、人物や神話の図像から大きな抽象絵画へ変化していった過程を見せられる。17人の展覧会では、一人の画家の長い制作歴を細部まで追う代わりに、相異なる画家同士の関係が前面へ出る。

1950年代のヨーロッパでは、ポロックを抽象表現主義の代表として知る人がいても、ロスコやスティル、ニューマンを同じ深さで知っていたとは限らない。二つの展示が併存したことで、運動の入口となる代表者像と、そこから広がる多様な作家像をつなぐことができた。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》巡回資料)

画家の個性が集団の名前に吸収される問題

大規模な巡回展は、外国の観客が抽象表現主義を一つの歴史的現象として理解するきっかけになった。同時に、集団を代表する名前が強くなれば、個々の画家の目的や手法の違いが見えにくくなる。ポロックを中心とした物語は、同じ時代に生まれた色面絵画の複雑さを説明しきれない。

回顧展と集団展を同じ地域へ送り出すことは、この問題を考える機会にもなった。個人の成果を深く見ることと、時代全体の変化を見ることは、互いに補い合う。美術史の記事と作家研究を分けて構成する際にも、この違いを意識する必要がある。(参照:ニューヨーク近代美術館|ポロック展の国際巡回)

1959年の展評が伝える、ほかの画家たちの作品

ゴーキーとバジオティスの有機的な形

アロウェイはロンドンでの展評で、アーシル・ゴーキーとウィリアム・バジオティスが近くに展示されたことに注目した。両者には、生き物の身体や内臓を思わせる不定形のモチーフという共通点があった。形を説明的に定義しないことで、線や色が生きて動いているような感覚を生む。

画面の似た部分を発見することは、作家の違いを消すためではない。ゴーキーの線と色が作る優雅な流れと、バジオティスの不思議な生物形態を比べると、シュルレアリスムへの関心がそれぞれ異なる絵画へ変わったことが分かる。展示の並べ方が比較の視点を生み出した。(参照:ArtReview|ローレンス・アロウェイによる1959年の展評)

フィリップ・ガストンに残る形の記憶

ガストンの抽象絵画について、アロウェイは1954年の《Painting》を取り上げ、短い筆触の繰り返しや格子のような構成が持つ豊かさを論じた。画面全体を覆う筆触には、形のまとまりが生まれたり崩れたりする複雑な関係があった。

ロスコが色面を簡潔に整える方法と比べると、ガストンでは描かれた形が別の記憶や形を呼び寄せてくるように感じられる。こうした比較は、抽象表現主義を行為と色面の二つに分けるだけでは説明できない表現の厚みを示している。(参照:ArtReview|ローレンス・アロウェイによる1959年の展評)

マザウェルとトワーコフ、分類からこぼれる個性

《新しいアメリカ絵画》には、マザウェルやジャック・トワーコフも出品した。マザウェルの《スペイン共和国への哀歌》のような反復する黒い形は、ポロックの全体を覆う線とも、ニューマンの垂直帯とも異なる歴史への関心を持つ。トワーコフは筆触を重ねながら、画面全体の秩序を探った。

アロウェイはトワーコフに対しても好意的な評価を示し、マザウェルの作品が展示空間の中でどう見えるかにも言及した。国際展覧会を詳しく読むと、後世の代表的な数人以外にも、この運動を支えた多彩な制作が存在したことが見えてくる。(参照:ArtReview|ローレンス・アロウェイによる1959年の展評)

ロンドンの批評家たちはどう評価したのか

ローレンス・アロウェイの高い評価

英国の批評家ローレンス・アロウェイは、1959年の展評で、アメリカの抽象絵画が持つ表現の幅を強く評価した。ポロックの激しい線だけで運動を判断せず、ロスコの色面やニューマンの簡潔な構成、ガストンの複雑な筆触を比較する姿勢を示している。

彼の文章は、外国の批評家がアメリカから渡ってきた作品をそのまま受け入れた事例ではない。出品作の質を見きわめ、強い部分を評価し、展示方法や人選への批判も含めて自分の判断を発表した、同時代の美術批評の記録である。(参照:ArtReview|ローレンス・アロウェイによる1959年の展評)

「行為する画家」という印象への疑問

アロウェイは、抽象表現主義が「激しい身体の動作」や「絵の具の飛散」という印象だけで理解されることに疑問を示した。即興に見える作品にも、画面の構成や制御が存在する。制作行為のイメージと完成作品の実際を区別するよう求めたのである。

この批評は、画家がどのように描いたかを無視する主張とは違う。身体の行為を出発点として認めながら、完成した絵にある均衡、反復、色の関係、形の選択へも目を向けることで、作品を深く理解できると考えた。(参照:ArtReview|ローレンス・アロウェイによる1959年の展評)

展示方法と人選への批判

アロウェイは展示作品を熱心に評価しながら、ロンドン会場での並べ方に不満も述べた。スティルを他の画家の間に置いた展示や、デ・クーニングを出入口近くの狭い場所へ配置したことが、作品同士の関係を読み取りにくくしていると考えた。

また、ハンス・ホフマンが出品していないことも問題にしている。国際的な権威ある展覧会だからといって、選考や展示が批評から免れるわけではない。完成した作品と、それを社会へ示す方法の両方が議論の対象となった。(参照:ArtReview|ローレンス・アロウェイによる1959年の展評)

ロンドンでの支持と反発

好意的な批評だけが存在したわけではない

ロンドンでの抽象表現主義の紹介には、高い評価とともに戸惑いや拒否感も伴った。巨大な画面や従来の対象を描かない構成を、力強い新表現と感じた観客がいる一方、調和や意味を読み取れないと考えた批評家もいた。

この反応の幅は、国際的な展覧会があらかじめ決まった美術史を確認するだけの行事ではなかったことを示す。現地の観客は自国の近代美術との違いを考え、それぞれの価値基準から作品を評価した。(参照:テート|1959年《新しいアメリカ絵画》展の受容)

英国の美術との比較

アロウェイは同世代の英国やヨーロッパの画家を念頭に置き、アメリカの絵画が達成した規模と強さを論じた。こうした比較は当時の議論を活性化させたが、美術の歴史を国家間の勝敗だけに還元する危険も伴う。

重要なのは、実際の作品のどの部分が新鮮に見えたかを読み取ることである。ロスコの色の経験やニューマンの空間の扱いを具体的に論じると、単なる「アメリカの勝利」という言葉を超えた、批評上の意味が見えてくる。(参照:ArtReview|ローレンス・アロウェイによる1959年の展評)

展示をめぐる議論が残したもの

1959年のロンドンで交わされた意見は、その場の新聞評として終わらず、後の研究者が抽象表現主義の欧州受容を考える手がかりになった。批評家が何を好み、何を退けたかによって、当時の英国美術界が抱えていた価値観も分かる。

国際展覧会の歴史を考える際には、来場者数や権威ある会場の名前に加え、どのような批評が生まれたのかを読む必要がある。賛成と反対が交わることで、作品は新しい文化圏における論点として定着していった。(参照:テート|1959年《新しいアメリカ絵画》展の受容)

パリとヨーロッパの戦後抽象絵画との関係

アンフォルメルと並べて見る

1950年代のパリでは、フォートリエ、ヴォルス、デュビュッフェらによる物質や筆触を重視した美術が展開していた。アメリカの抽象表現主義にも、厚く塗られた表面や制御を超えたように見える線が現れる。

共通する造形があっても、それぞれの作家が同じ歴史や批評理論から出発したとは限らない。欧州の観客が比較できるようになったことは、表現を直接の影響関係で説明し切らず、同時代に生まれた複数の方法として考える契機になった。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》巡回資料)

タシスムという語とアメリカ絵画

欧州の批評では、絵の具のしみや即興的な身振りを強調する「タシスム」という呼び方も使われていた。アメリカの作品に接した批評家は、自分たちが知っている語彙で理解しようとし、その語彙だけでは十分に説明できない相違にも向き合った。

ポロックの画面とクラインの画面の関係が一様でないように、欧州の抽象画家たちの制作も同じ方法へ収束しなかった。国際的な紹介によって、美術運動の名称は作品を理解するための仮説として改めて検討された。(参照:テート|1959年《新しいアメリカ絵画》展の受容)

パリが持ち続けた重要性

アメリカの抽象絵画がヨーロッパで注目されたことは、パリの美術活動が消えたことを意味しない。1950年代のパリには美術館、批評、画廊、国際的な作家が集まり、抽象絵画だけでなく、多様な造形実験が続いていた。

アメリカの作品がその場所へ巡回したからこそ、別々の伝統や理論を持つ絵画が直接比較される状況が生まれた。美術史上の中心地の変化を考えるには、都市同士を単純に入れ替えるより、作品の往来と相互の評価を追う方が実態に近い。(参照:ニューヨーク近代美術館|国際展覧会事業の沿革)

1959年、展覧会はニューヨークへ戻る

5月28日から9月8日までMoMAで公開

欧州八か国を巡った《新しいアメリカ絵画》は、1959年5月28日から9月8日までMoMAでも展示された。国外へ向けて企画された展覧会がニューヨークへ戻り、アメリカの観客にも改めて紹介されたのである。

この順序は重要である。アメリカの美術館が海外の観客へ向けてまとめた同時代の成果を、自国の観客が後から一つの展覧会として見る。美術史の形成は国内から世界へという一本道ではなく、国外の経験を経て国内へ戻る過程を持っていた。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》展覧会記録)

会場写真から見える展示の仕方

MoMAはこの展覧会の会場写真を保存・公開している。画像を見ると、同時代の大型絵画が美術館の壁に掛かり、個々の画家の作品と隣の作品との距離を調整しながら展示されていたことが分かる。

絵画をどこに、どの順番で置くかによって、鑑賞者の比較の仕方は変わる。同じ作品群が欧州の複数会場とニューヨークの展示室で見られた事実は、抽象絵画の展示空間そのものを研究するための重要な資料になる。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》展覧会記録)

巡回展の記録が作品とともに残る

MoMAの国際事業の文書には、旅程表、図録、作品一覧、各国の新聞評、輸送や梱包の資料が含まれる。作品が展示される前後の作業や、展覧会がどのように報道されたかをたどれる。

絵画を見て生じた感情は記録しきれないが、実際にいつどこで展示されたか、誰が企画したか、どんな言葉で紹介されたかは検証できる。作品の歴史に展示の歴史を重ねることで、評価が成立した具体的な過程が見えてくる。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》巡回資料)

展覧会図録と批評が作った共通の言葉

作家の言葉を載せる意味

《新しいアメリカ絵画》の図録には、作家の経歴や発言が収められた。絵画を見ただけでは理解しにくい制作の考え方を、作品と合わせて知る手がかりになる。複数の画家の文章を同じ一冊の中で読むことで、似た外見の絵画でも意図が異なることが伝わる。

同時に、作家の発言は発言された時点の自己理解を示す資料であり、そのまま唯一の正解にはならない。批評家の読みと照らし合わせることで、同じ作品が異なる立場から考えられてきたことが分かる。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》巡回資料)

翻訳が作品理解を変える

MoMAの所蔵する資料には、英語だけでなくスペイン語、ドイツ語などで用意された作家の経歴・発言・作品一覧が含まれる。国外で展示するため、抽象絵画に関する考え方を現地の言葉へ移す必要があった。

翻訳されるのは単語だけではない。作品が「行為」「色面」「主題」「抽象」という語でどう説明されるかによって、現地の読者が注意を向ける点が変化する。国際巡回を支えた図録の編集には、絵画を見るための言語を広げる役割があった。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》巡回資料)

新聞評から学術研究へ

各都市の批評記事や宣伝資料が後にアーカイブへ保存されたことで、当時の反応を長い時間の後にも検討できるようになった。ある都市で評価された画家が別の都市では批判されることもあり、その違いが研究の対象になる。

抽象表現主義は作品が美術館に収蔵されたことで歴史に残っただけでなく、展覧会の会場写真、図録、新聞批評、作家の手紙が残ったことによって、何度も解釈し直せる美術史上の対象となった。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》巡回資料)

誰が国際的な代表作家に選ばれたのか

展覧会が作る代表者の顔ぶれ

1959年の展覧会で紹介された17人は、同時代に制作していた画家全体の一覧ではない。ミラーが選んだ作品群が、欧州の多くの観客にとって「アメリカの新しい絵画」の具体的なイメージを形づくることになった。

企画展には必ず選択が伴い、選ばれた作品の質と選考の偏りは同時に検討できる。どの画家がより多くの作品を出品したのか、どのような特徴が重要視されたのかを調べることは、美術史の形成過程を見ることにつながる。(参照:ニューヨーク近代美術館|ドロシー・C・ミラー資料)

女性画家の活動と展示機会

グレース・ハーティガンは17人の中に含まれたが、女性画家の参加は一人にとどまった。クラスナーのコラージュ、ミッチェルの勢いある色彩、フランケンサーラーの薄く広がる色面などは、当時の絵画の変化を説明するうえで重要だった。

当時国際展覧会で可視化された画家の顔ぶれと、実際に制作していた画家の幅を並べると、評価の偏りが見えてくる。これを確かめることは誰かの芸術的な成果を否定するためではなく、当時の創作環境をより正確に再現するための方法である。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》展覧会記録)

ニューヨーク以外の活動が見えにくくなる

展覧会がニューヨークを中心にした新しい絵画を主題にすると、西海岸などの別の地域で展開した仕事は見えにくくなる。クリフォード・スティルのように、サンフランシスコで長く制作・教育を行った画家も、展示ではニューヨーク・スクールの一人として扱われる。

一つの展覧会が強い名前を持つことによって、独立した地域的な歴史がその名前の中に吸収されることがある。作品だけでなく、それぞれの作家がどこで誰と制作し、何を教えていたのかを考える必要がある。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》巡回資料)

画廊、美術館、収集家が作った評価の経路

画廊で紹介されてきた作品が美術館へ

抽象表現主義の画家は、1940年代には画廊や少数の収集家に支えられながら制作と発表を続けた。1950年代後半、彼らの作品が大規模な美術館展で国際的に並ぶことで、作品を受け取る観客は飛躍的に広がった。

画廊での個展、美術館による紹介、収集家の貸し出しは対立する別々の仕組みではなかった。作品が公共の展示へ出るためには、実際に所有する人々と企画する人々の協力が必要だった。評価の国際化には、こうした関係が深く関わっていた。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》巡回資料)

貸し出しと輸送に必要な信頼

大型のキャンバスを長期間にわたり海外の複数館へ移すには、所有者からの借用承諾、輸送中の管理、受け入れる美術館との調整が必要になる。MoMAの資料には、梱包一覧や輸送記録、各都市との書簡が整理されている。

展示された作品が無事に次の会場へ届くことは、当たり前のようで大きな仕事だった。現代美術の国際的な評価は、絵画を他国へ送れる制度的な信頼と、作品を借り受ける美術館同士の協力に支えられている。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》巡回資料)

市場価値と美術史的評価を分けて考える

大きな展覧会への出品が画家の知名度を高め、市場の関心へつながることはあり得る。1950年代後半の抽象表現主義も、美術館の評価、批評、画廊での紹介という複数の経路で社会的な地位を高めていった。

作品価格の変化を単一の展覧会の結果として説明するには、売買記録など個別の根拠が必要になる。本記事で確認できるのは、作品を国内外の美術館で見せる制度が拡大し、評価が形成される場そのものが変わったことである。(参照:ニューヨーク近代美術館|国際展覧会事業の沿革)

1959年の第2回ドクメンタで見えた国際的な位置

カッセルでの国際美術展

西ドイツのカッセルでは1959年、第2回ドクメンタが開催された。第一次世界大戦以降の近代美術を振り返り、戦後の同時代絵画を考える国際的な枠組みの中で、アメリカの抽象画家たちも紹介された。

これは、MoMAが作品を送り出す巡回展と異なる場だった。ヨーロッパで構成された国際展覧会がアメリカの画家をどのように選び、世界の美術の中に置いたかを見ることで、抽象表現主義の評価の広がりを別の角度から確認できる。(参照:ドクメンタ|第2回ドクメンタ(1959年)出展記録)

ヨーロッパとアメリカが同じ展示に並ぶ

第2回ドクメンタの参加作家には、バジオティスやブルックスをはじめ、欧州で活動する多様な前衛美術家も含まれた。異なる地域で制作された絵画や彫刻が、一つの歴史的・国際的な構成の中で紹介された。

アメリカの作品が欧州の美術館に招かれた意味は、単に輸出されたという事実以上にある。ヨーロッパ側の企画者が自分たちの美術史の見取り図へアメリカの仕事を組み込むようになったことが重要だった。(参照:ドクメンタ|第2回ドクメンタ(1959年)出展記録)

抽象絵画を国際的に評価する場の増加

MoMAの巡回展とドクメンタのような国際展覧会を合わせて考えると、1950年代末には抽象表現主義が複数の制度を通じて評価されていたことが分かる。一つの美術館の権威だけで広まったのではなく、異なる主催者が作品を選び直す場が増えていた。

そこでは作品の見た目、制作方法、戦後文化の背景、国家間の関係が重なっていた。展覧会の開催主体を区別することは、評価がどのように広まったのかを具体的に説明するうえで重要である。(参照:ドクメンタ|第2回ドクメンタ(1959年)出展記録)

冷戦と抽象表現主義をめぐる歴史研究

文化外交の一環としての国際展示

1950年代の海外展覧会は、冷戦期の国際政治から切り離せない環境で行われた。アメリカの美術館は、自国の同時代美術を紹介することが国際的な文化的存在感を示すことにもなると認識していた。

MoMAの国際事業は政府との関係を持つ活動も担い、国際評議会や民間基金の支援も受けた。美術史を書く際には、企画の目的や資金の仕組みを具体的にたどり、政治と文化の結びつきを過度に単純化しないことが重要になる。(参照:ニューヨーク近代美術館|国際展覧会事業の沿革)

CIAをめぐる議論の位置づけ

後世の研究では、抽象表現主義を冷戦期の文化政策との関係から分析する議論が現れた。1974年に発表されたエヴァ・コッククロフトの論考は、MoMAの国際事業と政治とのつながりを考える重要な契機の一つとして知られている。

MoMAが公表したインタビューでも、CIAの関与をめぐる主張が紹介され、当時の関係者の立場から反論や慎重な説明が示されている。作品が展示された事実、資金や運営の記録、政策的な意図についての研究上の推論を分ける必要がある。(参照:ニューヨーク近代美術館|国際事業と冷戦をめぐる対話)

自由の象徴という読みの限界

自由な筆触や非具象の画面が、社会主義リアリズムに対抗する自由の象徴として語られることはあった。そうした受容があったことと、すべての画家が政治的な宣伝を目的に制作していたという主張は区別しなければならない。

抽象表現主義の作家たちは、神話、人間の存在、身体、色彩、絵画の平面など、異なる課題を追究していた。絵画に後から与えられた国際政治上の意味を理解しながら、個々の制作の複雑さを残すことが歴史記述の課題になる。(参照:ニューヨーク近代美術館|国際事業と冷戦をめぐる対話)

国際的な成功が生んだ新しい問い

何がアメリカ絵画の代表とされたのか

1959年には《新しいアメリカ絵画》が国外を巡り、ニューヨークへ戻った。美術館、批評家、観客がその作品を戦後アメリカ絵画の重要な成果として議論したことにより、抽象表現主義の歴史的な位置づけは確かなものになっていった。

その過程で何が代表作とされたのか、誰が国際的な画家の一覧に入ったのかという問いも生じる。成功を語ることと、代表者を選ぶ仕組みを調べることを組み合わせれば、この時代の美術史はより立体的になる。(参照:ニューヨーク近代美術館|《新しいアメリカ絵画》展覧会記録)

次の世代は何を引き継いだか

1950年代末、若い画家たちは第一世代が獲得した大画面や色彩の自由を前提として制作を始めていた。彼らは筆触そのものを増幅することも、絵の具を薄く広げて輪郭を減らすことも、既成の物体を絵画へ結びつけることもできた。

抽象表現主義が重要な地位を得るほど、その方法を継承することと、そこから別の表現を切り開くことが新しい課題になった。国際的な成功は美術史の終点ではなく、次世代が参照し、批判し、変更するための背景を作った。(参照:ニューヨーク近代美術館|国際展覧会事業の沿革)

No.55「抽象表現主義のその後」への接続

フランケンサーラー、モーリス・ルイス、ケネス・ノーランドらによる色彩の展開、フランク・ステラによる反復と明確な画面構造は、1950年代末から1960年代へ続く変化として重要になる。

これらの表現を詳しく理解するには、今回の時代に抽象表現主義がすでに国際的な基準として認識されていたことを踏まえる必要がある。次のART HISTORY記事群では、その基準を受け継ぐ画家や、別の方法を選んだ画家たちの仕事を詳しくたどる。(参照:ニューヨーク近代美術館|国際展覧会事業の沿革)

年表|抽象表現主義の国際的展開

主要な展覧会と関連する出来事を、国際的な評価が広がっていった順序に沿って整理する。1955年以前の制度的な準備も含め、展示の場所と歴史的な変化を確認できる。

  1. 1952|MoMAが国際巡回展事業を設立。ロックフェラー兄弟基金が初期事業を支援。
  2. 1953|MoMAが国際評議会を組織し、継続的な国際展示を支える仕組みを整える。
  3. 1954|ヴェネツィア・ビエンナーレのアメリカ代表展示でデ・クーニングらが紹介される。
  4. 1955|《Modern Art in the United States》がパリなどで紹介される。
  5. 1956|ロンドンのテート・ギャラリーで《Modern Art in the United States》が開催される。
  6. 1956年5–9月|MoMAでドロシー・C・ミラー企画の「12人のアメリカ人」展が開催。
  7. 1956年8月|ジャクソン・ポロックが交通事故で死去。
  8. 1956年12月–1957年2月|MoMAでポロックの回顧展を開催。
  9. 1957|ポロック回顧展がサンパウロ・ビエンナーレに出品され、のち欧州へ巡回。
  10. 1958年4–5月|《新しいアメリカ絵画》展がスイス・バーゼルで開幕。
  11. 1958年6月|巡回展がイタリア・ミラノで開催。
  12. 1958年7–8月|巡回展がスペイン・マドリードで開催。
  13. 1958年9–10月|巡回展が西ベルリンで開催。
  14. 1958年10–11月|巡回展がオランダ・アムステルダムで開催。
  15. 1958年12月–1959年1月|巡回展がベルギー・ブリュッセルで開催。
  16. 1959年1–2月|巡回展がフランス・パリで開催。
  17. 1959年2–3月|巡回展が英国・ロンドンのテート・ギャラリーで開催。
  18. 1959年|ローレンス・アロウェイが巡回展の作品選考と展示方法を詳細に論評。
  19. 1959年5–9月|《新しいアメリカ絵画》がMoMAで公開される。
  20. 1959年|西ドイツ・カッセルの第2回ドクメンタでアメリカの抽象絵画も紹介される。
  21. 1960年|美術館による国際交流と海外での作品紹介が続き、次世代の絵画の展開へつながる。

まとめ|国境を越えた作品と変化する評価

1955年から1960年にかけて、抽象表現主義はニューヨークで成熟した新しい絵画から、ヨーロッパの主要な美術館でも直接見られ、論じられる美術へと変化した。1956年の美術館展やポロックの回顧展、1957年以降の国際巡回、1958〜1959年の《新しいアメリカ絵画》が、その過程の大きな節目になった。作品の造形的な価値に加え、展示の選考、輸送、図録、翻訳、現地の批評が国際的な評価の成立を支えた。

その中で、ロスコとニューマンの色面、スティルの厚い絵肌、ポロックとクラインの線は、同じ「抽象表現主義」という名前にまとめられながら、異なる絵画の問題として議論された。国際展覧会は作品の多様性を示すとともに、代表者の選択による偏りも残した。冷戦の文化的な状況を含めて考えることで、美術が歴史として位置づけられていく仕組みを理解できる。

1960年代へ向かう若い画家たちは、すでに国際的な地位を得た抽象表現主義を参照しながら、新しい色彩、平面性、反復、日常の物体といった別の問題に取り組んでいく。その変化はNo.55「抽象表現主義のその後」をはじめとする次の記事につながる。

参考資料・出典

本記事は、MoMAの国際事業記録、展覧会の公式記録、当時の批評、ドクメンタの出展記録などを確認し、各都市での展示と国際的な評価の変化を中心に独自に構成・執筆した。作家自身の発言、批評家の解釈、今日の美術史研究による評価はそれぞれ区別して扱っている。

資料確認日:2026年10月14日 / ART LIBRARY