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1917–1931

オランダで生まれたデ・ステイル

抽象絵画から建築・デザインへ

デ・ステイルは、1917年にオランダで生まれた前衛芸術運動です。画家たちは赤・青・黄、白・黒・灰色と、水平線や垂直線を使って、風景や人物を描かずに成り立つ新しい絵画を探しました。その代表がピート・モンドリアンです。運動の大きな特徴は、絵画で考えた線と色の関係を、家具や住宅、室内空間へ広げようとしたことにあります。私たちがよく知る幾何学的な画面は、人の暮らしまで新しくしたいという構想の出発点でした。

舞台となったオランダは、ヨーロッパ北西部の北海に面する国です。港や運河のある都市が発展し、絵画だけでなく建築、家具作りにも豊かな伝統がありました。1914年に第一次世界大戦が始まると、オランダは中立を保ちました。周辺で戦争が続き、人や情報の移動が難しくなるなか、国内にいた芸術家たちは新しい社会にふさわしい表現を考え始めます。モンドリアンもこの時期、帰国先のオランダで絵画の研究を進めていました。

1917年、画家で批評家のテオ・ファン・ドゥースブルフがライデンで雑誌『デ・ステイル』を創刊します。誌面にはモンドリアンをはじめ、画家、建築家、造形作家の考えが集められました。彼らは基本的な線と色を使えば、個人の好みや国ごとの伝統を越えた、調和のある形を作れると考えました。第一次世界大戦の時代にそのような芸術を求めた背景には、社会の対立を越えて人々が共有できる新しい秩序への期待がありました。

こうして生まれた考えは、リートフェルトの《赤と青の椅子》や1924年のシュレーダー邸、1928年の《オーベット》の室内へと展開します。この記事ではまずオランダの事情から始め、モンドリアンが自然の絵から抽象へ進んだ過程を見たうえで、雑誌、絵画、家具、建築、そして作家間の意見の違いをたどります。作品の実際の姿、制作年、使われた材料や空間を確かめながら、デ・ステイルが美術史に何を残したのかを18章で解説します。

オランダという土地から始めるデ・ステイル

1917年のオランダはどこに位置し、どんな国だったのか

オランダはヨーロッパ北西部、北海に面した小さな国です。港湾と商業の歴史を持ち、アムステルダムやロッテルダムなどの都市が発展してきました。水路や運河、整備された街路が日常の風景を形づくり、絵画や建築、家具作りにも長い伝統があります。1917年に成立したデ・ステイルを理解するには、まずこの国に、画家だけでなく建築家や家具職人が集まっていたことを知ると入りやすくなります。

運動の中心となる場所は一つの首都に集中していません。雑誌の創刊地はライデン、モンドリアンが戦時中に暮らしたのはラーレン、リートフェルトの工房と住宅はユトレヒトにありました。互いに異なる仕事を持つ人々が、文章と作品、交流を通して一つの問題を共有していったのです。(参照:ライデン市立ラーケンハル美術館|デ・ステイルの成立、デン・ハーグ美術館|デ・ステイルの100年)

第一次世界大戦で中立を保った国の事情

1914年に第一次世界大戦が始まると、オランダは交戦国にならず中立を維持しました。周辺の国々では戦闘と破壊が続き、国境を越える移動や芸術家同士の交流も難しくなります。戦争に参加していないという政治的立場は、芸術家の暮らしが影響を受けなかったことを意味しません。外国にいた画家が帰れなくなり、材料や情報の移動も制限されました。

モンドリアンは1914年に帰国していた間に戦争が始まり、数年間オランダにとどまることになります。彼がそこで行った絵画研究とファン・ドゥースブルフの雑誌構想が出会い、1917年の運動へつながりました。中立国に生まれたデ・ステイルは、戦争による社会の分断に対して新しい秩序や調和を求めた試みでもありました。(参照:ノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館|1914〜1920年のモンドリアン、同館|キュビスムとモンドリアンの抽象化、ライデン市立ラーケンハル美術館|デ・ステイルの成立)

美術・建築・生活用品が近かった環境

オランダには、画家が風景や室内を研究する伝統に加え、建築家や工芸家が住まいの形を考えてきた蓄積がありました。20世紀初めには建築や造形の近代化が進み、建物を合理的に組み立てること、生活の道具を設計し直すことが重要な課題になります。デ・ステイルはこうした活動を、絵画の中の線と色の研究と結びつけていきました。

たとえば絵画で赤い四角形と黒い線の釣り合いを考えることは、家具の板や棒の配置、壁と窓の位置、室内に差し込む光の扱いにも展開できます。1917年の雑誌が画家と建築家を一緒に招いたことには、そのような土台がありました。(参照:デン・ハーグ美術館|モンドリアンとデ・ステイル、デン・ハーグ美術館|デ・ステイルの100年、ライデン市立ラーケンハル美術館|デ・ステイルの成立)

1917年、ライデンで雑誌『デ・ステイル』が生まれる

ファン・ドゥースブルフが雑誌を創刊した理由

1917年10月、画家で批評家のテオ・ファン・ドゥースブルフは、ライデンで雑誌『デ・ステイル』を創刊しました。オランダ語で「様式」を意味するこの名前は、やがて雑誌の周囲に形成された芸術運動の名称にもなります。彼が考えたのは、各地で独自に進む新しい美術の考えを集め、互いの仕事を知るための共通の場を作ることでした。

雑誌は創刊当初から建築、室内、家具、造形理論、詩へ関心を広げ、異なる専門家が新しい社会のための芸術を議論できる場を目指しました。同じ課題を考える作家同士を結ぶ小さな出版活動が、やがて国際的な運動の出発点となりました。(参照:ライデン市立ラーケンハル美術館|デ・ステイルの成立、ラーケンハル美術館|1917年10月の創刊)

創刊号の表紙がすでに示していた形

雑誌の表紙を担当したのは、ハンガリー出身でオランダに活動拠点を持った画家ヴィルモシュ・フサールです。MoMAには1917年の『デ・ステイル』の表紙が、オフセット印刷の作品として収蔵されています。大きな文字を支えるように黒い四角形が組み合わされ、文字と幾何学的な構成が一つの印刷面になっています。

雑誌の題名をただ印刷するだけであれば、余白へ文字を並べても用は足ります。フサールの表紙では、読むための文字そのものが画面の構成に参加しています。雑誌は新しい美術について論じる場所であると同時に、その新しい造形を身近な印刷物で実験する場所でもあったのです。(参照:MoMA|フサール『デ・ステイル』1917年、ライデン市立ラーケンハル美術館|デ・ステイルの成立)

雑誌に集まった人々は同じ作風だったのか

創刊期にはモンドリアン、ファン・デル・レック、フサール、建築家のJ・J・P・アウト、ヤン・ウィルスらが関わり、のちにリートフェルトやファントンヘルローなども活動の周囲に加わります。絵画の非具象化を進める人、都市の住宅を考える人、家具を設計する人では、実際の仕事も重視する問題も異なっていました。

デ・ステイルは一つの学校や固定した会員制度で動く集団より、雑誌を中心に共通の理念を作ろうとする緩やかなつながりでした。参加者の意見が変わると距離が生まれ、新しい人が交流に加わります。そうした変化を含めて雑誌の歴史を読むと、運動の内部にも多様な考え方があったことが見えてきます。(参照:オランダ文化遺産事典|デ・ステイル1917–1931、デン・ハーグ美術館|モンドリアンとデ・ステイル、ライデン市立ラーケンハル美術館|デ・ステイルの成立)

モンドリアンが自然の絵から抽象へ進むまで

木、海、風景を描いていた若いモンドリアン

ピート・モンドリアンは1872年に生まれ、初めから赤・青・黄の四角い絵画を描いていたわけではありません。若い頃は風景、樹木、水辺、風車など身近な自然の風景を描き、光や季節による色の変化を研究していました。デン・ハーグ美術館が所蔵する《赤い樹》や風車の作品を見ると、実際の風景を出発点にしながら色と輪郭を大胆に変えていることが分かります。

枝の広がりや幹の曲がり方は、次第に単純な線の方向として見えるようになりました。空や地面も、物を描くための背景から、画面を支える色の領域へ変わっていきます。自然をよく観察した経験が、後に形の関係だけを残す制作の出発点にありました。(参照:デン・ハーグ美術館|モンドリアンとデ・ステイル、同館|キュビスムとモンドリアンの抽象化)

1911年以降、キュビスムから得た手がかり

モンドリアンは1911年頃からパリでキュビスムに接し、ピカソやブラックによる形の分解に強い刺激を受けます。木の枝や建物の輪郭は短い直線や面へ置き換えられ、絵の中で何が手前か、何が奥かという関係も変わっていきました。自然物を描くことから、目に見える形を成り立たせる基本の関係を探すことへ、問題が移っていきます。

キュビスムの作品では人物や楽器などの題材が残ることも多くありました。モンドリアンはその先へ進み、対象を特定できる痕跡をさらに減らそうとしました。彼にとって直線や面は流行の模様である前に、普遍的な関係を探るための道具でした。(参照:同館|キュビスムとモンドリアンの抽象化、デン・ハーグ美術館|モンドリアンとデ・ステイル)

1914年の帰国とラーレンでの研究

1914年の夏、モンドリアンは一時的にオランダへ戻っていました。第一次世界大戦が勃発すると、パリへ帰ることが難しくなり、ラーレンなどで暮らしながら制作を続けます。海の桟橋、水平線、波の動きなどをもとに、横の短い線と縦の短い線の組み合わせへ画面を整理していきました。

波が水面に並ぶ方向と、桟橋が沖へ伸びる方向を見比べると、横と縦の関係を取り出す発想を想像できます。自然から始まった研究が、作品の中で対象を示さない線の配置へ変わっていく。ここに1917年のデ・ステイルへ続く重要な変化がありました。(参照:ノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館|1914〜1920年のモンドリアン、デン・ハーグ美術館|モンドリアンとデ・ステイル)

ファン・デル・レックと色を減らす実験

赤・青・黄を使ったもう一人の重要な画家

バルト・ファン・デル・レックは、1910年代半ばから赤、青、黄と白、黒を用い、日常の対象を大きく整理した画面を作っていました。MoMA所蔵の1917年の《無題》は、グワッシュと鉛筆による紙作品です。小さな幾何学形が白い地の中に間隔を保って置かれ、色を絞り込むことで、それぞれの形がはっきりと見える構成になっています。

モンドリアンの三原色の絵画を運動の唯一の出発点と考えると、こうした同時代の研究を見失います。ファン・デル・レックは色彩を限られた基本色へ絞る方法を早くから試み、モンドリアンにも影響を与えました。色を減らすことは、画面に残る色と空白の関係をより厳密に考えることにつながりました。(参照:MoMA|ファン・デル・レック《無題》1917年、デン・ハーグ美術館|デ・ステイルの100年)

対象の痕跡が残る絵画と純粋な抽象

ファン・デル・レックの画面には、対象を簡略化した形だと読み取れる場合があります。人や動物、仕事の場面を色の小さな断片に整理しながら、対象と造形とのつながりを完全には断ち切らない方法です。モンドリアンが対象を示す手がかりを取り除くことを重視したのに対し、ファン・デル・レックは別の距離感を保っていました。

同じ赤・青・黄を用い、白い地に幾何学形を置いても、その制作目的は一致するとは限りません。この違いは、デ・ステイルの造形を見た目の特徴だけで理解することの限界を教えてくれます。二人の交流は重要でしたが、作品の個性と思想はそれぞれに残り続けました。(参照:MoMA|ファン・デル・レック《無題》1917年、デン・ハーグ美術館|モンドリアンとデ・ステイル)

共通言語をつくる過程にあった意見の違い

1917年に雑誌が始まった時点では、参加者たちの造形理論は完成していませんでした。ファン・デル・レックの色彩研究、モンドリアンの水平と垂直の研究、ファン・ドゥースブルフの構図の実験は互いを刺激します。同時に、絵画にどこまで対象の記憶を残すか、空間へどう拡張するかについて議論が続きました。

この歴史を、先に決まった規則へ皆が従った過程として見ると実態を狭めます。運動の最初の数年間は、異なる実験から共有できる原理を探していた時期でした。のちに作家同士が別の方向へ進むことも、その活発な議論の延長にあります。(参照:オランダ文学電子図書館|『デ・ステイル1917–1931』成立史、デン・ハーグ美術館|モンドリアンとデ・ステイル、MoMA|ファン・デル・レック《無題》1917年)

新造形主義――線と色で調和を考える

モンドリアンが書いた「新造形主義」とは

モンドリアンは雑誌『デ・ステイル』で、絵画の原理を論じる文章を発表しました。日本語では一般に「新造形主義」と呼ばれます。彼が目指したのは、個々の風景や人物の特徴から離れ、線、色、比例、位置の関係を通して広く共有できる調和を示すことでした。絵画を外界の再現から解放し、画面そのものをひとつの関係として成立させようとしたのです。

ここでいう「普遍的」という考えは、同じ絵を大量に作るという意味ではありません。個人の好みや特定の対象に依存しない造形上の秩序を、具体的な作品で探そうという理想です。背景には当時の精神的・思想的な探究もあり、単に図形を規則どおり配置する作業より深い問題がありました。(参照:デン・ハーグ美術館|モンドリアンとデ・ステイル、MoMA|モンドリアン《赤、青、黒、黄、灰のコンポジション》、MoMA|デ・ステイルの概説)

水平線と垂直線に絞った理由

水平線は画面を左右へ、垂直線は上下へ導きます。互いに直交する二つの方向を組み合わせれば、斜めの奥行きや立体の陰影を描かずに、面の広がりと緊張を作れます。モンドリアンはこの単純な関係を使い、画面のどこに重みが集まるか、どこに余白が必要かを探りました。

例えば太い黒線を一本入れただけで、その左右の白い領域は違う形に分かれます。線を少し動かすと、それまで同じように見えた二つの領域の釣り合いが変わる。その小さな差を積み重ねる制作が、新造形主義の絵画を支えました。(参照:MoMA|モンドリアン《赤、青、黒、黄、灰のコンポジション》、デン・ハーグ美術館|モンドリアンの1921年の構成)

三原色、白、黒、灰色が果たした役割

デ・ステイルを紹介するときは赤・青・黄の三原色がよく挙げられます。モンドリアンの作品を見ると、それらの色と同じくらい白、黒、灰色も重要です。明るい白い面の広さと、小さな青い面の強さは面積だけでは比べられません。線の太さや色面の位置によって、画面全体の重心が変わります。

限られた色数は表現を貧しくするための条件ではありません。色と色の関係を明確にし、微妙な違いを感じ取れるようにするための選択でした。赤の強さを白が受け止め、黒線が色面の範囲を定める。完成作の静かな見た目の内部には、非常に繊細な判断が働いています。(参照:MoMA|モンドリアン《赤、青、黒、黄、灰のコンポジション》、デン・ハーグ美術館|大きな赤い色面を持つ構成)

モンドリアンの1921年の絵画を詳しく見る

《赤、青、黒、黄、灰のコンポジション》

MoMAが所蔵する1921年の《赤、青、黒、黄、灰のコンポジション》は、油彩・キャンバスの作品です。画面は直線によっていくつもの長方形に分かれ、白や灰色の領域の間に赤、青、黄が置かれています。題名には色の名前が並びますが、見るときには各色の面積と位置に注意すると、絵画が具体的に何を問題にしているかをつかみやすくなります。

大きな白い領域が画面を軽く保つ一方、小さくても強い色が視線を引きつけます。黒い線は区画を分けると同時に、途切れる場所や画面の端との関係によってリズムを生みます。何かの風景を想像しなくても、画面の中で起きている出来事を読み取れる作品です。(参照:MoMA|モンドリアン《赤、青、黒、黄、灰のコンポジション》)

同じ大きさの四角形を並べていない理由

モンドリアンの画面には、規則正しい格子模様に見える印象があります。実際には、長方形の幅や高さ、線の位置、色の広さに細かな違いがあります。同じ大きさを単純に繰り返すと均等な模様になりますが、彼はあえて面積を変え、非対称の関係で全体を釣り合わせました。

一か所の色や線を動かせば、他の部分との関係も変化します。このため画面の完成は、決められた図案を塗り終える作業というより、全体の関係を調整し続ける過程でした。静止した形の中に緊張感を感じる理由も、こうした非対称の構成から説明できます。(参照:MoMA|モンドリアン《赤、青、黒、黄、灰のコンポジション》、デン・ハーグ美術館|モンドリアンの1921年の構成)

描かれた線と色面は実際の絵具でできている

モンドリアンの幾何学絵画は印刷物のように見える場合がありますが、1921年の代表作は油絵具で描かれたキャンバスです。黒い線や白い面にも実際の筆による塗膜があり、画面の端を確認すると、図面上の数学的な線とは違う物質として存在しています。塗り重ねや表面の調子は鑑賞体験に関わる要素です。

絵画を基本形へ絞り込むことと、絵具を使う作業を放棄することは別の問題でした。線の位置、色面の境界、画面の質感を調整する具体的な制作が、彼の理念を支えています。作品を見るときには写真の小さな再現だけで判断せず、可能なら実物の大きさや表面の差にも注目したいところです。(参照:MoMA|モンドリアン《赤、青、黒、黄、灰のコンポジション》、デン・ハーグ美術館|大きな赤い色面を持つ構成)

ファン・ドゥースブルフの絵画――牛から幾何学へ

《コンポジションVIII(牝牛)》の連続した習作

ファン・ドゥースブルフは1917年頃、牛を描いた写実的な素描から出発し、輪郭を繰り返し整理して幾何学的な構成へ近づけました。MoMAには《コンポジションVIII(牝牛)》のための複数の鉛筆習作と、1918年頃の油彩作品が所蔵されています。素描を順に見ると、背中や脚、頭部を思わせた形が、角張った小さな面へ変わっていく過程を追えます。

完成した絵では元の動物の姿をすぐには読み取れなくなっています。大切なのは、牛を奇妙な図形に見せることより、目に見える対象をどの程度まで単純化できるかを段階的に確かめた点です。習作と完成画を区別して眺めることで、抽象化が具体的な観察と作業から生まれたことが分かります。(参照:MoMA|ファン・ドゥースブルフ《コンポジションVIII(牝牛)》、MoMA|《コンポジションVIII(牝牛)》の習作)

《ロシア舞踊のリズム》(1918年)と動き

1918年6月に制作された《ロシア舞踊のリズム》では、縦長の画面に色のついた長方形が断続的に配置されています。題名が示すのは舞踊のリズムですが、人物の体は画面に直接現れません。色面の間隔や高さの違いによって、動作が次々に移っていくような感覚が生まれます。

音楽や踊りのように時間の中で展開する経験を、静止した画面の形へ移せるかという試みでした。モンドリアンが水平と垂直の均衡を強く追究したことと比べると、ファン・ドゥースブルフには間隔の変化や動きへの関心が早い段階から見られます。二人の作品を同じ規則で説明しきれない理由が、ここにもあります。(参照:MoMA|ファン・ドゥースブルフ《ロシア舞踊のリズム》、MoMA|ファン・ドゥースブルフ《コンポジションVIII(牝牛)》)

画家であり編集者でもあった人物像

ファン・ドゥースブルフの活動は絵を描くことにとどまりません。作家へ手紙を書き、雑誌を編集し、理論を文章にし、講演や展覧会で仲間の研究を紹介しました。芸術の新しい形式を広めるには、作品を実際に見せる場と、それについて語る言葉の両方が必要だと考えていたのです。

彼の仕事は、ひとりの画家の様式変遷として読むだけでは十分に見えてきません。雑誌が別の都市へ届き、建築家が理論を読んで空間を構想し、室内装飾の注文につながるという広がりを持っていました。デ・ステイルが絵画を越えて活動したことには、編集者としての彼の働きが大きく関係しています。(参照:ライデン市立ラーケンハル美術館|デ・ステイルの成立、オランダ文学電子図書館|デ・ステイルの国際的展開、MoMA|デ・ステイルの概説)

絵画の周囲にいた建築家・彫刻家・詩人

フサールが絵画と室内空間をつないだ方法

フサールは雑誌創刊号の表紙をデザインしただけでなく、色面の組み合わせを室内に広げる実験にも参加しました。白や灰色の壁に異なる濃さの面を配置すれば、建築そのものの輪郭や明るさの感じ方が変わります。印刷された紙の上で行っていた構成が、人の体が入る空間の問題へ移っていくのです。

1923年には作家ティル・ブルフマンの室内に色彩構成を行い、リートフェルトの家具と組み合わせました。部屋を一枚の絵で飾る発想から、壁や家具の関係を一体として設計する方向へ進んだ例です。(参照:MoMA|フサール『デ・ステイル』1917年、オランダ美術史研究所|ティル・ブルフマンと室内装飾、アムステルダム国立美術館|ティル・ブルフマンの室内装飾研究)

J・J・P・アウトらが抱えていた建築の課題

建築家ヤコーブス・ヨハネス・ピーテル・アウトは、デ・ステイル初期の重要な協力者です。建築では、抽象的な形の美しさと同時に、住む人の生活や建設費、工法が問題になります。建物には室内の大きさや窓、入口といった具体的な条件があり、画面上の線と色をそのまま拡大すれば住宅になるわけではありません。

だからこそ建築家の参加は運動にとって重要でした。絵画の理念を実際に使われる空間で試せば、構成の自由と住宅の機能をどう両立させるかという新たな課題が現れます。デ・ステイルが建築に向かった意味は、こうした現実的な設計上の判断にもあります。(参照:デン・ハーグ美術館|モンドリアンとデ・ステイル、MoMA|展覧会図録『デ・ステイル1917–1928』、オランダ文化遺産事典|デ・ステイル1917–1931)

ファントンヘルローが数学的な関係を立体にした

ベルギー出身のジョルジュ・ファントンヘルローは、彫刻の体積や比例を数学的な関係として研究しました。MoMAが所蔵する《量塊関係の構成》(1921年)は、マホガニーによる小さな木製彫刻です。積み重なった直方体の形は、身近な人物や風景を表すものというより、部分の寸法と全体の関係を立体として確かめるための構成です。

絵画の水平と垂直を、重さと奥行きを持つ材料で実現したと考えると、同じ理念が別の媒体でどのように変化するかを理解できます。彼の参加によって、デ・ステイルの造形が絵画と建築の間を結ぶ、より広い研究であったことが見えてきます。(参照:MoMA|ファントンヘルロー《量塊関係の構成》、ライデン市立ラーケンハル美術館|デ・ステイルの成立)

1918年の宣言に表れた社会への希望

「第一宣言」は何を訴えたのか

1918年、雑誌『デ・ステイル』には運動の立場を説明する「第一宣言」が掲載されました。宣言は、時代の意識が個人的なものから普遍的なものへ向かっていると述べ、戦争を古い社会の矛盾と結びつけています。新しい芸術の形には、個人と社会全体の均衡を実現する力があるという期待が込められていました。

ここで語られているのは、幾何学模様を広めるための宣伝だけではありません。芸術を通じて人間の生活や文化の関係を変えるという、大きな社会的な構想です。作品の色数が少ない理由も、この理想と合わせて読むことで違った意味を持ってきます。(参照:アイオワ大学図書館|1918年の『デ・ステイル』第一宣言、ライデン市立ラーケンハル美術館|デ・ステイルの成立)

世界大戦の経験と「普遍性」という理想

1918年は第一次世界大戦が終わった年です。デ・ステイルの参加者たちは、人々を分断した国家や個人の利害を越えて、共有できる造形の言葉を求めました。水平線や垂直線、基本色へ絞り込むことは、特定の地域の風景や伝統的な装飾に依存せずに作品を成立させようという考えとつながっています。

もちろん戦争への見方や社会への態度が参加者全員で完全に一致していたわけではありません。ファン・ドゥースブルフが戦争の原因を過度な個人主義に見いだしたという説明も、当時の本人の考えとして捉える必要があります。歴史的事実としての戦争と、芸術家がそこから導いた理論を区別することで、宣言をより正確に読めます。(参照:ライデン市立ラーケンハル美術館|デ・ステイルの成立、アイオワ大学図書館|1918年の『デ・ステイル』第一宣言)

なぜ新しい芸術が日常生活に必要とされたのか

絵画が美術館に掛けられているだけでは、人々が毎日暮らす環境の形は変わりません。デ・ステイルの芸術家たちは、街や住まい、家具、印刷物にも同じような秩序が生まれれば、生活の中で新しい感覚を経験できると考えました。芸術と生活を結びつけようとする願いが、建築家や家具職人との協力を後押しします。

その願いがどの程度実現したのかは、実際に作られた椅子や住宅を確かめる必要があります。宣言には社会全体の変革が描かれ、具体的な作品には材料や使用方法という条件が現れます。理念と実践を往復して見ることが、運動の歴史を理解する方法になります。(参照:アイオワ大学図書館|1918年の『デ・ステイル』第一宣言、デン・ハーグ美術館|デ・ステイルの100年、MoMA|デ・ステイルの概説)

リートフェルトの《赤と青の椅子》はどう生まれたのか

1918年頃の椅子はまだ赤と青ではなかった

家具職人ヘリット・リートフェルトが1918〜19年頃に試みた椅子は、木の細い棒と平らな板を組み合わせたものでした。初期のものは木の色や暗い塗装を生かした姿で、現在よく知られる赤い背板、青い座面、黄色い棒の端という配色は1920年代初めに加えられました。MoMAは《赤と青の椅子》を1918〜1923年の作品と表記しています。

年代を押さえると、最初からモンドリアン風の配色を家具へ写した作品だという印象が変わります。リートフェルトはまず椅子の骨組みや接合の方法を研究し、その形に色彩による空間の分節を加えていきました。形の実験と色彩の変化を、一つの制作史として見ることが重要です。(参照:MoMA|リートフェルト《赤と青の椅子》、リートフェルト財団|《赤と青の椅子》の色彩史)

板と角材をどう組み合わせているか

この椅子では、背を支える板と座るための板が、それぞれ独立した平面として見えます。腕を支える横棒、脚を形づくる縦棒も、一本ずつ位置を追うことができます。木の棒が交差する場所に接合を設け、部材が互いの端を越えて伸びているため、椅子全体が空間の中へ開いているように感じられます。

通常の家具では、接合部を目立たなく仕上げたり、板や脚を一体の塊として見せたりします。リートフェルトは構造を隠さず、どの線と面が椅子を成立させているかを読み取れる姿にしました。形の単純化は、当時入手しやすい規格材を利用する構想とも結びついていました。(参照:MoMA|リートフェルト《赤と青の椅子》、リートフェルト財団|椅子の造形と色彩の変遷)

座るための道具から空間の構成物へ

《赤と青の椅子》は、実際に座るための家具でありながら、座面の青、背板の赤、棒の黒と黄色が空間の中で独立して見える作品です。背板の赤と座面の青を面として追い、その周囲に黒い線状の部材を見れば、デ・ステイルの絵画と似た関係が立体に生まれていることが分かります。

リートフェルトは構造を簡潔にし、将来の機械生産も視野に入れていました。実際の初期製作は工房での仕事であり、理想としての量産と歴史上の製造工程は区別して考える必要があります。家具は、造形実験と生活のための道具が同じ場所で出会う作品となりました。(参照:MoMA|リートフェルト《赤と青の椅子》、リートフェルト財団|椅子の造形と色彩の変遷)

建築へ広がる構成――住宅と街を設計する

画面の四角形と実際の建物の違い

一枚の絵では、形や色の配置を画面の中だけで考えることができます。住宅になると、人が通る幅、窓から入る光、雨を防ぐ屋根、支柱の位置などが必要です。デ・ステイルの建築的な試みは、抽象絵画の単純な外観を再現する作業から、使うための空間をどう構成するかという仕事へ進みました。

建築家が運動に加わると、色と形は立面図だけでなく、壁の厚さや室内の区切り、外壁と窓の関係に現れます。絵画の理論が実際の建物で試されるとき、理念は具体的な工法や予算に向き合うことになります。(参照:MoMA|展覧会図録『デ・ステイル1917–1928』、デン・ハーグ美術館|モンドリアンとデ・ステイル)

アウトにとって住宅は社会のための仕事だった

アウトはロッテルダムの住宅建設や都市の環境を考えた建築家です。住宅は個人の趣味を示す建物であると同時に、多くの人々が住むための社会的な施設でもあります。連続する窓、壁面の区分、外壁に色をどう使うかといった課題には、デ・ステイルの造形研究が応用できる可能性がありました。

同時に、共同住宅には繰り返し使える平面や設備、暮らしやすさが求められます。画家が理想とする自由な構成と、建築家が負う実務上の責任は完全には重なりません。アウトの活動を含めて見ると、デ・ステイルの内部でも芸術と社会の関わり方が多様だったことが分かります。(参照:デン・ハーグ美術館|モンドリアンとデ・ステイル、MoMA|展覧会図録『デ・ステイル1917–1928』、オランダ文化遺産事典|デ・ステイル1917–1931)

建築図面が新しい空間を伝える媒体になる

実際に建物を建てる前に、建築家は平面図、立面図、透視図や模型で構想を示します。デ・ステイルの作家たちは、この図面自体を造形の実験の場としました。色を塗った平面が前後にずれ、上下に交差すると、まだ存在していない空間の構造を想像できるようになります。

この段階の作品には、実際に建てられた住宅と、設計案や造形的な研究として描かれた計画があります。建築の歴史として読むときには両者を区別することが必要です。後のファン・ドゥースブルフとファン・エーステレンの計画では、この違いが特に重要になります。(参照:MoMA|ファン・ドゥースブルフとファン・エーステレン《反構成計画》、MoMA|展覧会図録『デ・ステイル1917–1928』)

1923年の建築展と「反構成」の空間

ファン・エーステレンとの共同研究

1922年頃、ファン・ドゥースブルフは建築家コルネリス・ファン・エーステレンと交流し、建築の新しい表現を共同で研究しました。1923年にはパリのレオンス・ローゼンベルクの画廊で建築計画を紹介し、絵画と建築が同じ造形原理を使う可能性を示します。実際の建築を注文された仕事と、空間の原理を実験する構想が並ぶ時期でした。

二人の研究では、建物を閉じた箱として正面から眺める発想から、水平・垂直の面が空間の中で交差する発想へ進みます。ここには、外壁を装飾する以上の、建築そのものの組み立て方を変えたいという意志があります。(参照:MoMA|ファン・ドゥースブルフとファン・エーステレン《反構成計画》、MoMA|集団的構成と1923年の理論)

《反構成計画》(1923年)の図を読む

MoMA所蔵の《反構成計画(軸測図)》(1923年)は、リトグラフの上にグワッシュで色を加えた紙作品です。図の中では色のついた水平・垂直の面が複数の方向へ伸び、中心の周囲に空間が開いています。上から斜めに見下ろす図法のため、壁のような面が前後左右に交差する様子を同時に見ることができます。

MoMAは、この作品を特定の建物の実施設計図とは説明していません。戸口や窓、屋根といった具体的な建築の要素を省き、面と色の関係そのものを探った図です。したがって建築案がそのまま完成した建物だと考えず、当時の理念を空間の形で伝える研究として理解することが大切です。(参照:MoMA|ファン・ドゥースブルフとファン・エーステレン《反構成計画》)

色は表面の飾りから空間を区切る要素へ

《反構成計画》では赤、青、黄などの色彩が、形を分ける役割を持っています。ひとつの面が赤くなると隣の面との差が強まり、見る人は異なる方向へ伸びる構造を読み取りやすくなります。色は完成した建物の外側に追加する飾りというより、空間の関係を伝える設計上の要素になっています。

絵画の色面が建築の面と結びついたことで、住まいを外から眺めるだけでなく、内部を移動する人の経験も考えられるようになりました。シュレーダー邸のような実現例と、反構成の研究図を見比べると、理念と建築の距離が具体的に把握できます。(参照:MoMA|ファン・ドゥースブルフとファン・エーステレン《反構成計画》、ユネスコ|リートフェルト・シュレーダー邸)

1924年、リートフェルト・シュレーダー邸

トゥルース・シュレーダーが望んだ新しい住まい

1924年、ユトレヒトにリートフェルト・シュレーダー邸が完成しました。建築を依頼したのは、夫を亡くして子どもたちと暮らすトゥルース・シュレーダーです。彼女は従来の住宅のように生活の場所を細かく固定するより、家族の活動に合わせて変えられる自由な空間を望みました。リートフェルトはその希望を聞きながら設計を進めました。

世界遺産として知られるこの住宅は、建築家一人の形式実験だけで理解するには惜しい建物です。住み手の具体的な生活上の要求と、デ・ステイルの空間理念が出会い、実現した点に大きな価値があります。シュレーダーが設計に果たした役割を踏まえると、見た目の斬新さにも生活上の理由が見えてきます。(参照:ユネスコ|リートフェルト・シュレーダー邸、中央博物館|シュレーダー邸の歴史とトゥルース・シュレーダー、ユトレヒト中央博物館|シュレーダー邸の設計図)

外観にはどのような線と面があるのか

シュレーダー邸の外観を見ると、白や灰色の壁面、水平に伸びる板状の部分、黒い枠、赤・青・黄の小さな要素が組み合わされています。壁面や庇は互いにずれながら配置され、建物全体が一つの閉じた箱というより、複数の面を組み合わせた姿に見えます。角へ回り込むと、面の重なり方も変化します。

この外観をモンドリアンの絵画と比較すると、垂直と水平、非対称の釣り合い、限られた色彩という共通点が見えます。住宅ではそれに加えて窓の開閉や光の入り方、実際の壁の厚さがあり、二次元の構成が生活の空間へ置き換わっています。(参照:ユネスコ|リートフェルト・シュレーダー邸、中央博物館|シュレーダー邸の設計史)

可動間仕切りと家族の暮らし

住宅の上階には、移動させられる間仕切りが設けられています。仕切りを開けば広い共有の空間となり、閉じれば活動ごとに区切った場所を作ることができます。時間帯や人数に合わせて部屋を使い分けられる仕組みです。建物の形の新しさが、実際に住む人の行動と直接結びついています。

ユネスコは、この柔軟な室内構成をシュレーダー邸の重要な価値として評価しています。デ・ステイルが目指した生活の変化は、赤や青を壁に塗ること以上に、空間を固定的に使う考えを変えるところに具体化しました。(参照:ユネスコ|リートフェルト・シュレーダー邸、中央博物館|シュレーダー邸の歴史とトゥルース・シュレーダー)

ワイマールへ――バウハウスとの交流

1920年代、雑誌は国外の作家にも届いた

戦争が終わると、ファン・ドゥースブルフは国外への移動を活発にし、雑誌や講演を通じてデ・ステイルの思想を紹介しました。小さな雑誌の存在は、作品そのものを運ばなくても形と色の研究を伝えられるという利点を持ちました。図版や理論は国境を越え、ドイツなどの若い作家や建築家にも読まれるようになります。

運動はオランダの各都市にいた作家の交流から始まり、やがてより広いヨーロッパの建築・デザインの議論に参加します。自国だけの様式を作るというより、異なる地域の作家が共有できる造形の方法を探ることが当初からの目標でした。(参照:オランダ文学電子図書館|デ・ステイルの国際的展開、ライデン市立ラーケンハル美術館|デ・ステイルの成立、デン・ハーグ美術館|デ・ステイルの100年)

ファン・ドゥースブルフと1922年のワイマール

ドイツのワイマールでは1919年にバウハウスが創設され、美術、工芸、建築を結びつける教育が始まっていました。ファン・ドゥースブルフはその活動に関心を持ち、1921〜22年頃にワイマールでデ・ステイルの考えを広めます。彼は1922年に独自の講習を行い、学生らに水平・垂直の構成と基本色を用いる方法を示しました。

両者には造形と生活を結びつける共通の問題がありましたが、教育の仕組みや具体的な目的には違いがありました。ファン・ドゥースブルフはバウハウスの外部で講習を行い、その学生たちへ新しい構成方法を紹介しました。資料によって影響の大きさには評価の幅があるため、相互交流として読むことが適切です。(参照:MoMA|バウハウス史とファン・ドゥースブルフ、オランダ文学電子図書館|デ・ステイルの国際的展開)

複数の前衛運動が形と社会を考えた時代

同じ頃のヨーロッパでは、ロシア構成主義の作家たちも材料、空間、社会的な生産の関係を研究していました。デ・ステイルが重視したのは、水平と垂直、色面の釣り合いによる普遍的な造形秩序でした。各運動には独自の成立事情がありながら、絵画を越えた活動へ進もうとする問題意識が交差していました。

ファン・ドゥースブルフが建築や教育へ関心を広げたことは、当時の前衛美術に共通する大きな流れの一部でもあります。デ・ステイルはこの交流のなかで独自の方法を発展させ、次第に国際的な近代建築やグラフィックデザインへ影響を与えていきました。(参照:MoMA|集団的構成と1923年の理論、MoMA|バウハウス史とファン・ドゥースブルフ、MoMA|展覧会図録『デ・ステイル1917–1928』)

モンドリアンとファン・ドゥースブルフの考え方が分かれる

二人が共有していた水平と垂直の理論

初期のモンドリアンとファン・ドゥースブルフには、自然の再現を離れて線と色の関係から新しい美術を作りたいという共通の目標がありました。二人は雑誌を通じて理論を発表し、芸術がより調和した社会に役立つと考えます。けれども、作品の中にどのような運動感覚を認めるかについては、次第に考え方の差が大きくなりました。

モンドリアンは水平線と垂直線の関係に徹底して向き合い、色面の釣り合いを作品ごとに調整していきます。ファン・ドゥースブルフは建築や舞踊の経験を通じて、絵画の中にもっと直接的な動きや緊張を取り入れたいと考えるようになりました。(参照:オランダ文学電子図書館|『デ・ステイル1917–1931』成立史、MoMA|モンドリアン《赤、青、黒、黄、灰のコンポジション》、MoMA|ファン・ドゥースブルフ《同時的反コンポジション》)

1920年代半ば、斜線が持ち込まれる

1920年代半ば、ファン・ドゥースブルフは画面を斜めに横切る方向を取り入れる構成を進め、自ら「エレメンタリスム」と呼ぶ考えを展開しました。水平と垂直だけで作った画面を斜めに傾けると、画面全体に動きが生まれます。重力に対して傾いたように見える面は、静かな均衡とは違う緊張感を作ります。

この変化は、モンドリアンの原理との違いをよりはっきり示しました。二人の思想的な距離を説明する際に斜線は重要な手がかりになります。交流の変化には活動拠点や性格、理論上の問題も関係するため、一つの出来事だけで運動の分岐を説明しない姿勢が大切です。(参照:オランダ文学電子図書館|『デ・ステイル1917–1931』成立史、MoMA|ファン・ドゥースブルフ《同時的反コンポジション》)

《同時的反コンポジション》1929〜30年

MoMA所蔵のファン・ドゥースブルフ《同時的反コンポジション》(1929〜30年)は、油彩・キャンバスによる作品です。画面では色面の境界が斜めへ走り、形は見る人の視線を対角線方向へ導きます。モンドリアンの水平・垂直の格子と見比べると、同じ限られた色と直線を使っていても、画面に生まれる動きが大きく違うことが分かります。

ここでは斜めの方向そのものが画面の構成原理になります。1917年に共有していた造形上の出発点が、1930年頃にはそれぞれ異なる方法に発展したことを示す作品です。デ・ステイルの歴史は一つの完成された様式の普及であると同時に、作家同士の考えの違いが作品を変化させた歴史でもあります。(参照:MoMA|ファン・ドゥースブルフ《同時的反コンポジション》、オランダ文学電子図書館|『デ・ステイル1917–1931』成立史)

部屋全体をデザインする実験

ティル・ブルフマンの住居をめぐる共同制作

作家ティル・ブルフマンは、1920年代にデ・ステイルやダダの芸術家と交流し、自宅の部屋の設計に彼らの仕事を取り入れました。1923年にはファン・ドゥースブルフやフサールが室内の色彩構成を考え、リートフェルトの家具も置かれます。オランダ美術史研究所やアムステルダム国立美術館の研究には、当時の写真や資料に基づく具体的な記録が残されています。

そこでは床から見える家具の脚、椅子の座面、壁の明暗が同時に見えることで、部屋全体が一つの構成として感じられます。絵画の研究を実際に暮らす部屋へ移すには、住む人の使い方や好みも関わってきます。(参照:オランダ美術史研究所|ティル・ブルフマンと室内装飾、アムステルダム国立美術館|ティル・ブルフマンの室内装飾研究)

灰色の壁と白い椅子が作る関係

ブルフマンの住居に関する写真記録では、フサールによる灰色の濃淡を使った壁面と、リートフェルトの白い椅子などが見られます。鮮烈な赤・青・黄だけを思い浮かべていると、灰色と白の落ち着いた組み合わせが意外に感じられるかもしれません。デ・ステイルの考えは、特定の派手な色遣いに限定されていませんでした。

壁を一色に統一する代わりに濃淡の面で分けると、同じ室内の中に距離や方向の違いが感じられます。家具の輪郭もそれに呼応します。ここでは住まいの内部を、暮らしに合わせて繰り返し眺める空間として構成する試みが行われました。(参照:オランダ美術史研究所|ティル・ブルフマンと室内装飾、アムステルダム国立美術館|ティル・ブルフマンの室内装飾研究)

記録写真から分かる実生活との折り合い

当時の写真には、設計者が意図した厳密な色彩構成に加えて、住人が置いた小物や座り心地を改善するクッションも写っています。オランダ美術史研究所は、この実用的な手直しを住む人自身の選択として紹介しています。理念に沿って設計された部屋も、実際に使われれば生活用品が増え、人の好みに合わせて変化します。

ここには美術の理想と日々の暮らしが接する面白さがあります。完成写真だけを見て純粋な幾何学空間を想像するより、使われていた部屋の記録を読むことで、デ・ステイルが目指した芸術と生活の接点をより具体的に理解できます。(参照:オランダ美術史研究所|ティル・ブルフマンと室内装飾、アムステルダム国立美術館|ティル・ブルフマンの室内装飾研究)

1928年《オーベット》――人が入る抽象空間

ストラスブールの娯楽施設という実際の仕事

1928年、現在のフランス・ストラスブールで娯楽施設《オーベット》の内部空間が完成しました。計画に関わったのはファン・ドゥースブルフ、ゾフィー・トイバー=アルプ、ハンス/ジャン・アルプの三人です。映画を上映し、踊り、食事や会話をするための複数の部屋を、前衛美術の原理に基づいて設計しました。

制作では壁、天井、床の色彩に加え、家具や表示、各室の使われ方も考えられています。デ・ステイルの思想が美術館の絵画から公共の生活空間へ広がった例であり、三人の異なる仕事が交差した共同制作でもあります。(参照:ストラスブール市立美術館|オーベット1928、ストラスブール市立美術館|オーベットの制作・修復史)

斜めの色面が室内に生んだ動き

ファン・ドゥースブルフが担当した映画・舞踏の空間には、壁から天井へ続く大きな斜めの色面が用いられました。人が室内を歩くと、色面は視線の位置に応じて違う角度で現れます。平面の絵画にある斜めの緊張感が、身体を包む空間へ広がったのです。

ここで重要なのは、人が作品の前に立つだけでなく、その中を移動できることです。階段を上がる、踊る、座るといった日常の行為の中で、色面と身体との関係が次々に変わります。作品と鑑賞者の関係を作り直すという意味でも、オーベットは大きな実験でした。(参照:ストラスブール市立美術館|オーベット1928、ストラスブール市立美術館|オーベットの制作・修復史)

失われた内装と修復された空間

《オーベット》の斬新な内装は、開業後の利用者や運営者に必ずしも好意的に受け止められませんでした。次第に装飾が変えられ、1938年までに多くが覆い隠されます。現在見ることのできる室内には、写真や図面を手がかりに修復された部分があります。1928年当時のオリジナルの塗装と、後世の復元を区別して理解する必要があります。

ストラスブール市立美術館は修復の経緯を公開しています。かつての利用者の評価と、後世の美術史的価値が一致しない例でもあります。実現された空間がどのように使われ、変えられ、再び知られるようになったかまで見ることで、作品の長い歴史が見えてきます。(参照:ストラスブール市立美術館|オーベットの制作・修復史、ストラスブール市立美術館|オーベット1928)

1931年までの展開とデ・ステイルが残したもの

雑誌の活動と1931年の節目

『デ・ステイル』は1917年に始まり、1920年代を通じてさまざまな作家の理論や作品を紹介しました。創刊時の参加者の活動は次第に分かれ、雑誌が国外から発行される時期もありました。小さな出版物であっても、抽象絵画と建築を結びつけるための重要な資料として読まれ続けます。

1931年には創刊者ファン・ドゥースブルフが亡くなります。この年は運動を区切って考えるうえで大きな節目です。雑誌の発行史には最終号の刊行時期などをめぐる説明の違いもあるため、1917年の創刊と1931年の創刊者の死を軸に、大きな活動の流れを捉えると分かりやすくなります。(参照:ライデン市立ラーケンハル美術館|デ・ステイルの成立、オランダ文化遺産事典|デ・ステイル1917–1931、デン・ハーグ美術館|モンドリアンとデ・ステイル)

どのような作品が残り、何が受け継がれたのか

デ・ステイルの成果は、モンドリアンの油彩画、ファン・ドゥースブルフの構成画、ファン・デル・レックの色彩研究、リートフェルトの椅子と住宅、室内空間や雑誌など、多様な形で残っています。絵画では線と色の関係を厳密にし、家具では部材の組み立てを見せ、建築では部屋と暮らしの関係を組み替えました。

こうした実験は、後の建築や工業デザイン、印刷物の視覚表現に大きな影響を与えました。現在の美術館では、当時作られた原作と、後世に再制作された家具や復元された室内の双方に出会うことがあります。どの時代のどの資料を見ているかを確かめれば、影響の広さをより正確に理解できます。(参照:MoMA|デ・ステイルの概説、デン・ハーグ美術館|デ・ステイルの100年、ユネスコ|リートフェルト・シュレーダー邸、ストラスブール市立美術館|オーベット1928)

1917年のオランダから現代の造形へ

1917年のライデンで創刊された雑誌は、オランダ各地の作家や建築家を結びつけ、やがて国際的な活動へ広がりました。第一次世界大戦中の社会の不安を背景に、参加者たちは共通の秩序や調和を芸術に求めます。線と色を絞り込む絵画の実験から、家具、住宅、公共の室内空間まで、同じ問題が異なる材料で試されました。

デ・ステイルの歴史を理解すると、モンドリアンの赤・青・黄の絵画も、見慣れた幾何学模様以上のものとして見えてきます。そこには、個々の画家が何を観察し、何を捨て、何を残したかという制作の歴史と、日常生活そのものを変えたいという社会的な理想が重なっています。(参照:ライデン市立ラーケンハル美術館|デ・ステイルの成立、MoMA|モンドリアン《赤、青、黒、黄、灰のコンポジション》、ユネスコ|リートフェルト・シュレーダー邸)

年表:1911〜1931年の主な出来事

  1. 1911年頃 モンドリアンがキュビスムに接し、対象を幾何学的な構成へ置き換える研究を進める。
  2. 1914年 第一次世界大戦が始まり、オランダは中立を維持。帰国中のモンドリアンは国内にとどまる。
  3. 1914〜1916年 モンドリアンが桟橋や海の波などを出発点に、短い水平・垂直線の研究を深める。
  4. 1916年 ファン・ドゥースブルフが同じ方向を探る作家と交流し、雑誌構想を進める。
  5. 1917年10月 ライデンで雑誌『デ・ステイル』創刊。フサールが表紙をデザインする。
  6. 1917年 ファン・デル・レックが基本色と幾何学形を用いる作品を発表。
  7. 1917〜1918年 ファン・ドゥースブルフが《コンポジションVIII(牝牛)》の習作と作品を制作。
  8. 1918年 雑誌に「第一宣言」が掲載され、個人と普遍性の均衡や芸術の社会的役割が論じられる。
  9. 1918〜1919年頃 リートフェルトが木の角材と板からなる初期の椅子を設計・製作。
  10. 1919年 モンドリアンがパリでの活動を再開する。
  11. 1920年 リートフェルトが吊り下げ照明など、家具以外の生活用品も構想。
  12. 1921年 モンドリアンが水平・垂直線と基本色による代表的な構成画を制作。
  13. 1921年 ファントンヘルローが《量塊関係の構成》を制作。
  14. 1921〜1922年 ファン・ドゥースブルフがワイマールなどで活動し、1922年に独自の講習を開く。
  15. 1923年 ファン・ドゥースブルフとファン・エーステレンが建築の《反構成計画》などを発表。
  16. 1923年頃 リートフェルトの椅子に、現在よく知られる赤・青・黄・黒の配色が現れる。
  17. 1923〜1926年 ティル・ブルフマンの室内で、複数の芸術家が色彩構成と家具の設計に関わる。
  18. 1924年 ユトレヒトにリートフェルト・シュレーダー邸が完成。
  19. 1920年代半ば ファン・ドゥースブルフが斜めの方向を取り入れたエレメンタリスムを展開。
  20. 1926年 ファン・ドゥースブルフ、トイバー=アルプ、アルプが《オーベット》の内装計画に関わり始める。
  21. 1928年2月 ストラスブールで《オーベット》の娯楽空間が開業する。
  22. 1929〜1930年 ファン・ドゥースブルフが《同時的反コンポジション》を制作。
  23. 1931年 ファン・ドゥースブルフが死去。創刊以来の活動は大きな節目を迎える。
  24. 2000年(後世) シュレーダー邸がユネスコ世界遺産に登録される。

まとめ:線と色から生活の空間へ

デ・ステイルは、第一次世界大戦中に中立を保ったオランダで、画家、建築家、造形作家が新しい芸術の共通原理を考えた運動です。1917年の雑誌創刊は、各地で進んでいた実験を互いに結びつける役割を果たしました。モンドリアンの絵画では水平線、垂直線、基本色の釣り合いが追究され、ファン・ドゥースブルフはその考えを文章、図面、室内空間へ積極的に広めました。

運動の理念はリートフェルトの家具やシュレーダー邸で生活に触れる形となり、さらに国際的な建築やデザインの活動へ広がります。美術史上の意義は、直線と四角形の独特な外観とともに、絵画の研究を人が使う空間へ移したことにあります。参加者が共有した社会的な理想と、それぞれの作家が異なる方向へ進んだ歴史を併せて見ることで、作品の魅力と運動の広がりがより明確になります。

参考資料・出典

本記事は、美術館の所蔵作品記録、デ・ステイルの雑誌資料、建築物の公式解説と美術史研究を参照し、作品の材質・制作年・現存状況・後世の復元を区別しながら構成しました。作品の色や形の説明には、各所蔵館が公開する作品画像と記録を参照しています。

資料確認日:2026年10月13日 / ART LIBRARY