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Art History

1963–1980

ビデオ・アートの誕生

テレビと電子映像が変えた現代美術

1960年代初頭、テレビは家庭でニュースや映画、広告を見るための身近な電化製品になっていました。画面の中で何が放送されるかを決めるのは、主に放送局や番組の制作者です。見る人はその映像を受け取り、決まった時間に番組を楽しんでいました。そんなテレビを画廊へ運び込み、映像をゆがめたり、横倒しにしたり、別の装置と組み合わせたりする芸術家たちが現れます。彼らはテレビという道具を、映像を受信する以外の目的で使い始めました。

この変化を理解するには、直前の美術史とのつながりが役立ちます。1950年代後半から60年代にかけて、フルクサスの作家たちは楽器を本来の演奏方法から解放し、日常の小さな行為まで芸術として扱いました。同時期のミニマリズムでは、工業製品や実際の空間が作品の重要な要素になっていました。テレビは、そうした実験が進む時代に登場した、映像も音も光も生み出す日常の装置だったのです。

1963年、ナム・ジュン・パイクは西ドイツで改造したテレビ受像機を展示しました。同じ頃、ヴォルフ・フォステルも受像機と放送信号を作品に取り込み、映像を乱し、テレビを壊すような行為を行っていました。これらは今日、ビデオ・アートの重要な出発点と考えられています。実際にテレビの映像を録画する機器が普及するより早く、テレビを芸術へ変える試みが始まっていたことが重要です。

1960年代半ばから携帯型の録画機が芸術家にも使われ始めると、撮影した映像をすぐに確かめ、繰り返し見ることができるようになります。画面に映るのは有名人や遠くの出来事だけではありません。自分の身体、誰かの何気ない動作、身近な部屋の風景、テレビで繰り返し見せられる女性像や政治家の振る舞いなど、さまざまなものが作品の対象になりました。

1970年代には、ジョーン・ジョナスや久保田成子、マーサ・ロスラーらが映像による独自の表現を発展させます。ニューヨークではThe Kitchenのように作品を上映し、機材を共有する場が生まれ、映像集団は商業テレビの外側から社会を撮影し始めました。美術館も映像作品の展示と収集に取り組み、ビデオは一時的な実験から、現代美術に欠かせない領域へ広がっていきます。

では、テレビを見るための装置は、どのように芸術を作る道具になったのでしょうか。この記事では1963年から1980年までを中心に、テレビとビデオの技術的な違いを押さえながら、実際の作品と出来事を年代順にたどります。画面の中身を変えた人々だけでなく、画面と観客、芸術家と社会の関係を変えようとした多様な実践を見ていきましょう。

テレビが芸術の素材になった時代

家庭のテレビが生活の中心へ入った

第二次世界大戦後、テレビは家庭の居間に置かれる代表的な電化製品になりました。アメリカでは1950年代からテレビ放送と受像機が急速に普及し、ニュース、娯楽、広告が同じ画面を通して届けられます。人々は遠くで起きた出来事を家庭で見るようになり、政治家の発言も企業の商品も、放送の時間割に従って受け取ることが日常になっていきました。

芸術家が注目したのは画面に映る番組の内容と、その番組を見せる装置の両方でした。テレビが流す映像は誰が選び、見る人はどこまで関われるのか。電源を入れると光る箱を作品として置き直したとき、私たちが毎日当たり前にしている「見る」という行為にも、新しい問いが生まれました。(参照:MoMA|《Signals》展)

映画とビデオの違いを押さえる

映像を使う芸術には映画という長い歴史がありました。フィルムによる映画は、撮影した光の像を感光材料に記録し、現像や編集を経て映写します。1960年代に芸術家が使い始めた電子的なビデオは、撮影した信号を磁気テープに記録したり、テレビ受像機へ送ったりすることができました。録画後に比較的すぐ画面で再生できる点が、当時の制作に新しい自由を与えます。

この違いは作品の見た目にも表れました。フィルムの映像は完成した一本の作品として上映されることが多く、ビデオでは撮影と再生を同じ場所で組み合わせたり、画面の乱れや遅延そのものを用いたりできます。初期の映像芸術にはフィルムとビデオの双方が使われており、作品の技術的な違いも見ながら歴史を追うことが大切です。(参照:MoMA|カメラの前で演じる芸術)

番組を見ることから、画面を変えることへ

家庭のテレビでは、放送局が作った番組を視聴者が受け取る構造が基本でした。1960年代初頭の芸術家たちは、その受け取り方を変えようとします。画面の信号をゆがめる、受像機を横倒しにする、身体や他の物と組み合わせる。機械の使い方を変えると、テレビは情報を届ける道具から、鑑賞者が見慣れた映像の仕組みを考える対象へ変わります。

この発想は、同時代のフルクサスが音楽や日常の動作を芸術として扱った試みとも結びついていました。芸術家にとってテレビは新しい絵筆のような道具であると同時に、大衆社会の価値観を映す装置でもありました。初期のビデオ・アートは、この二つの関心が重なる場所から始まります。(参照:ウォーカー・アート・センター|テレビと初期ビデオ芸術)

実験音楽とフルクサスからの出発

ジョン・ケージが広げた音楽の考え方

ナム・ジュン・パイクは、もともと音楽を学んだ人物でした。ドイツで活動していた1958年、作曲家ジョン・ケージとの出会いを通じて、音楽が必ずしも従来の旋律や和音から成立する必要はないという発想に強い刺激を受けます。音の偶然性、生活の中で鳴る物音、演奏者の予想外の行動が作品の一部になるとき、楽器や演奏会の規則自体が問い直されます。

パイクはレコード、録音テープ、ピアノなどを独自の方法で扱い、ときには演奏を身体的な行為へ発展させました。後にテレビ画面の信号を変えたのも、電気的な装置を演奏可能なものとして考える姿勢とつながっています。ビデオ・アートの歴史は、絵画史だけをたどっても十分には理解できず、実験音楽の革新を知ることで出発点が明瞭になります。(参照:MoMA|ナム・ジュン・パイク)

フルクサスとの結びつき

1960年代初頭、欧米で活動したフルクサスの作家たちは、短い指示、日常の物、偶然の出来事を使って音楽と美術の境界を越えようとしていました。パイクもその活動に参加し、楽器を加工したり、演奏の慣習から外れた振る舞いを試したりします。観客が何を芸術と感じるのかを、身近な道具や行為を通じて問いかける姿勢が共有されていました。

1963年にパイクがテレビ受像機へ向かったことは、このような実験の延長として理解できます。ピアノの音を変えるようにテレビの映像を変え、演奏会の構造を揺さぶるように視聴の規則へ介入する。前の記事で扱ったフルクサスとのつながりを知ると、テレビ画面が突然美術館へ持ち込まれたようには見えなくなります。(参照:スミソニアン・アメリカ美術館|パイク・アーカイブ)

ヴォルフ・フォステルが見ていたもの

同時期にテレビを使っていたドイツの芸術家ヴォルフ・フォステルは、放送映像を乱したり、受像機を壊したり埋めたりする行為を行いました。彼は、既存の画像を引き裂き、消し、崩すことに関心を寄せ、自らの方法をデコラージュと呼んでいます。その行為は、テレビを通じて流通するニュースや商品のイメージに、物理的な衝撃を与えるものでした。

パイクとフォステルはともにテレビを作品へ変えましたが、焦点は少し違います。パイクには音楽的な操作や映像生成の楽しさがあり、フォステルには破壊、社会の暴力、放送への疑問が強く現れました。ビデオ・アートの始まりには、機械そのものを造形へ転用する道と、マスメディアを批判的に扱う道が、早くから並行して存在していたのです。(参照:ウォーカー・アート・センター|パイクとフォステル)

1963年、テレビ受像機が作品になる

ヴッパータールの《音楽の展覧会―電子テレビ》

1963年3月、パイクは西ドイツのヴッパータールにあるパルナス画廊で《Exposition of Music – Electronic Television》を開催しました。会場には加工されたピアノ、さまざまな音の装置とともに、放送映像を通常とは異なる姿に変えるテレビ受像機が置かれました。テレビが家庭で番組を見るための製品だった時代に、その機械の動作自体を作品として示した画期的な展示です。

観客は作品を一枚の絵のように正面から眺めるだけで済みません。装置に近づき、周囲を移動し、画面の動きや音の変化に注意を向けます。パイクは同じ機械から別々の像が立ち上がる状況をつくり、テレビが一方向の放送を受信するための箱にとどまらない可能性を示しました。この展覧会はビデオ・アートの初期史を考える重要な基準点です。(参照:ウォーカー・アート・センター|テレビと初期ビデオ芸術)

《Zen for TV》では画面が一本の線になる

パイクの《Zen for TV》(1963年の構想、現存するMoMAの作品は1981年の制作)は、テレビ画面に現れる画像を一本の線へ変えてしまう作品です。ドラマもニュースも商品広告も消え、残されるのは光る細い線と、それを支えるテレビという物体です。大量の映像を届けるはずの装置から情報を取り去ると、ふだん見過ごしていた画面の物質的な存在が目立ってきます。

この作品は東洋思想を単純に図解した映像と見るより、電子的な仕組みを操作して極度に簡潔な視覚経験を生み出したものとして理解できます。画面を横切る線には、抽象絵画にも似た姿があります。現実の光によって現れる線であり、テレビの内部の動作にも依存しているため、絵の具の線とは成立の条件が異なります。(参照:MoMA|《Zen for TV》)

フォステルの《6 TV Dé-coll/age》

フォステルは1963年、ニューヨークのスモーリン画廊で《6 TV Dé-coll/age》を発表しました。テレビ画面を複数集め、正常な番組視聴を妨げることで、放送の統一されたメッセージが崩れるような経験を生み出しています。同じ年には《TV Burying》という行為も行い、受像機を攻撃し埋めることで、テレビという日用品を象徴的な対象へ変えました。

こうした試みは、後に広がる録画映像の制作とは技術的に異なる性格を持っています。重要なのは、1963年にはすでに、テレビの受像機や放送信号そのものを芸術に使う複数の方法が現れていたことです。ビデオ・アートの誕生を、持ち運べる録画機が売り出された一瞬にだけ結びつけると、この先行する歴史を見落としてしまいます。(参照:ウォーカー・アート・センター|パイクとフォステル)

持ち運べる録画機が変えた制作

1960年代半ば、録画技術が身近になる

1960年代半ばから、小型のビデオカメラと携帯型の録画機が芸術家にも利用され始めました。ソニーのポータパックに代表される機器によって、それまで放送局の大規模な設備に依存しがちだった電子映像の記録を、個人や小さな集団が手がける可能性が広がります。録画した映像をその場で再生して確かめられることは、制作の速度と実験の方法を大きく変えました。

パイクが1960年代半ばに携帯型の録画装置を早くから使ったことは、美術館の資料にも記録されています。機器の発売時期やパイクが初めて入手した年には資料ごとに違いがあるため、年を一つに固定して「その日にビデオ・アートが誕生した」とは考えません。技術が徐々に芸術家へ開かれ、多様な作品が生まれた過程として捉える方が実情に近いのです。(参照:スミソニアン・アメリカ美術館|ナム・ジュン・パイク)

撮る、見る、撮り直すという循環

ビデオによる記録は、撮影と確認の間に新しい関係を作りました。カメラの前で動作を試し、すぐに録画を再生して自分の姿を見て、再び演じる。この循環によって、芸術家は自分自身を素材として扱いやすくなります。画面が瞬時に映ることは、舞台上の行為を後から記録することにも、カメラの存在を前提に作品を作ることにもつながりました。

これにより映像作品の中心は物語や美しい風景だけに限られなくなります。同じ場所を歩く、手を動かす、姿勢を保つ、カメラへ語りかけるといった行為が、時間の長さとともに観察される対象になりました。テレビ番組では省略されやすい反復や待ち時間が、そのまま作品の重要な部分になっていきます。(参照:MoMA|カメラの前で演じる芸術)

撮影機材の自由と、その限界

携帯型ビデオ機器の登場は制作の自由を広げましたが、初期の装置は現在の携帯電話のように軽く安価なものではありませんでした。磁気テープの規格や編集装置の制約もあり、映像の複製、保存、公開には費用と技術が必要でした。映像を誰でも自由に発信できる世界がすぐに実現したわけではなく、芸術家は限られた機材を共有しながら試行錯誤を続けます。

その共有から、小さな上映会や共同制作の場が育っていきます。貸し借りされる機材、相互に学ぶ編集技術、映像を見せるための場所を用意する活動までが、ビデオ・アートの発展を支えました。作品を制作する技術と、その作品を人へ届ける仕組みは、初期から密接に結びついていたのです。(参照:The Kitchen|沿革)

電子信号そのものを操作する

パイクと阿部修也による映像合成の実験

パイクは日本の技術者・阿部修也と協力し、複数の映像や色彩を電子的に変化させる装置の開発を進めました。1969年頃から始まった共同研究は、後に「パイク=アベ・ビデオ・シンセサイザー」として知られる実験へ結びつきます。そこで重要だったのは、カメラの前にある物を写すことだけに映像制作を限定しなかったことです。

信号を混ぜ、変形し、色を変えることで、現実の被写体とは異なる形や流れが画面に現れます。音を電気的に加工する電子音楽と同じように、映像を素材として操作する領域が開かれました。完成した画面のイメージに加えて、どのような装置を作り、操作するかという技術的な設計も、表現の重要な一部になったのです。(参照:スミソニアン・アメリカ美術館|ナム・ジュン・パイク)

テレビの乱れを欠陥から表現へ変える

家庭でテレビの画像が乱れれば、通常は故障や受信状態の悪さとして受け止められます。映像芸術家たちは、そうした乱れやちらつき、横や縦へのずれを積極的な表現へ変えていきました。画面が安定して同じ像を届けるという期待を崩すと、私たちは画像の向こうにある世界とともに、画像を成立させる信号にも注意を向けるようになります。

この試みを抽象絵画と比較すると、重要な違いが見えてきます。色や形の抽象性は共通していても、ビデオでは映像が時間の中で生成され、装置の設定や電子的な条件によって絶えず変化します。光る画面は固定された絵肌の代わりに、持続的に更新される表面として機能しました。(参照:スミソニアン・アメリカ美術館|映像芸術展)

映像は必ずしもカメラから始まらない

初期の電子映像では、実際に撮影した人物や風景を用いず、電気信号から抽象的な模様を生み出す制作も進みました。1970年代には、ステイナとウディ・ヴァスルカらが電子信号の特性を探り、機器の操作によって色や形が移り変わる映像を発表しています。こうした映像では、何を写したかより、画面の中で何が起きるかが関心の中心になります。

このような作品を理解するには、動画という言葉だけでは少し説明が足りません。時間とともに画像が変化するだけでなく、変化の仕組みそのものを作家が設計しているからです。実験音楽から受け継いだ発想が、電子映像の造形へ姿を変えたと考えることができます。(参照:スミソニアン・アメリカ美術館|1970年代の映像芸術)

1969年、テレビを創造的な媒体として示す

ハワード・ワイズ画廊の歴史的な展覧会

1969年、ニューヨークのハワード・ワイズ画廊で《TV as a Creative Medium》が開催されました。複数の芸術家がテレビ受像機や映像信号を作品に使う取り組みを一つの場で紹介し、映像を美術の新しい領域として認識する契機になりました。テレビは家庭で見る娯楽装置であると同時に、画廊の空間を変える実験的な素材として提示されたのです。

ここで注目したいのは、展示された作品が単にテレビ番組の代わりに芸術的な映像を流しただけではなかったことです。受像機を並べる方法、撮影と再生の時間差、観客を映像に取り込む仕組みなど、装置の働きを作品に組み込む試みがありました。1963年の先駆的実験が、1969年には美術館や画廊で広く議論される新しい現象になっていたとわかります。(参照:MoMA|フランク・ジレットと映像芸術史)

《Wipe Cycle》は観客を画面へ取り込んだ

フランク・ジレットとアイラ・シュナイダーの《Wipe Cycle》(1969年)は、九台のテレビモニターを組み合わせた作品です。録画された映像、放送中のテレビ番組、会場の人々を映す監視カメラの画像を切り替えながら、複数の画面に表示します。観客が自分の姿を目にするとき、普段はテレビを見る側だった人間が、突然画面に映る側へ移動します。

この作品では画面の一部に映像が現れ、別の画面へと移り、消えていきます。受像機を九台並べる配置も、映像が切り替わる順序も、鑑賞の体験を決める要素です。美術作品はモニターに映る一つの映像だけで完結せず、会場の人、カメラ、録画装置、時間差によって構成されていました。(参照:MoMA|《Wipe Cycle》)

見る人が作品の中に入るという転換

《Wipe Cycle》は、見る人に特別な演技を求めることなく、その人の存在を作品の一部に変えてしまいます。展示室に入った観客は、テレビの視聴者であると同時に、テレビに映される被写体となります。この二つの立場が重なる経験は、放送局から家庭へ一方的に映像が送られる通常のテレビ体験とは異なります。

同時代のミニマリズムでは、作品と鑑賞者の身体が同じ空間にあることが重要な問題となりました。ビデオ・アートでも鑑賞者と空間の関係は大きな役割を持ちます。そこへ映像の即時性や時間のずれが加わることで、作品は見る人の姿をその場で変化する映像へ結びつけられるようになりました。(参照:MoMA|《Wipe Cycle》)

閉回路映像が生んだ新しい鑑賞

映す時間と見る時間が重なる

テレビの放送は遠くの出来事を家庭へ届けます。閉回路テレビでは、会場に置かれたカメラがその場所を撮影し、同じ会場のモニターへ画像を送ります。録画された過去の映像を見せる代わりに、今その場で起きている出来事を映すことができます。カメラとモニターの間をつなぐ回路そのものが作品の構造となり、鑑賞者の立つ位置や動作が映像を変えていきます。

この仕組みの面白さは、誰が何を撮影するかという演出を超えて、その場の状況が絶えず映像化されることにあります。カメラの視野に入れば自分が画面へ現れ、離れれば消えます。テレビを見るという日常の習慣が、映像を通して自分を観察する体験へ変わるため、芸術と自己認識の関係も新しくなりました。(参照:MoMA|《Wipe Cycle》)

時間を遅らせると自分の姿が変わる

カメラで撮った映像をわずかに遅らせて表示すると、鑑賞者は現在の自分と少し前の自分を続けて見ます。歩く、振り返る、立ち止まるという簡単な動作が、時間差によって奇妙な経験へ変わります。現在という瞬間が、すでに画面の中では過去になっている。そのずれが、身体をどのように感じるかに影響を与えます。

作品の内部に特別な物語がなくても、観客自身の動きと時間の経過によって経験が成立します。1970年代の映像設備は、現在のデジタル機器のように複雑な加工を必要とせず、カメラ、録画装置、モニターの組み合わせだけで、こうした感覚の変化をつくることができました。(参照:MoMA|《Wipe Cycle》)

展示室そのものが作品の条件になる

ビデオを使う展示では、画面の配置、観客の動線、壁からの距離、室内の明るさ、音の届き方なども作品経験を左右します。録画した映像を単独のモニターで上映する方法と、複数のモニターを空間的に組み合わせる方法では、同じ画像が見えていても鑑賞の意味が変わります。

ここに、ビデオ・アートとインスタレーションが深く結びつく理由があります。テレビ画面は映像を入れる容器であると同時に、展示室の中に実際の大きさを持つ物体です。初期の芸術家たちは、受像機の配置と映像の時間を同時に扱うことで、美術館の中で作品を見る体験を変えていきました。(参照:スミソニアン・アメリカ美術館|映像芸術展)

身体を撮影する行為も作品になる

ブルース・ナウマンのスタジオでの動作

ブルース・ナウマンは1960年代後半、スタジオで自分の身体を動かす様子を撮影し、その行為を作品として提示しました。《Walking in an Exaggerated Manner Around the Perimeter of a Square》(1967〜68年)では、床に貼った正方形の線に沿って、不自然に誇張した歩き方で前後へ移動します。画面は固定され、身体がフレームの外へ出る場面もあります。

この作品は16ミリフィルムで撮影されたもので、厳密な意味で初期の磁気テープによるビデオとは技術が異なります。それでも、カメラの前で行う単純な行為を作品にするという点で、同時代の映像芸術を理解する重要な例です。芸術家がスタジオで何をしているのかという問いそのものが、制作の出発点になっています。(参照:MoMA|ブルース・ナウマン作品)

反復の時間が作品の形になる

ナウマンの作品では、歩く動作の一回ごとに劇的な出来事が起きるわけではありません。繰り返される動作、身体の姿勢、画面からはみ出す部分を時間をかけて見続けることが鑑賞になります。身近な行為が持つ規則性と不自然さが、映像の中で強く浮かび上がります。

こうした作品はハプニングやフルクサスの活動ともつながります。特別な題材を用意する代わりに、行為そのものに注意を向ける点が共通しているからです。映像によってその行為を繰り返し見せられること、撮影時に起きた動作を別の場所でも経験できることが、新しい表現の可能性を生みました。(参照:MoMA|ブルース・ナウマン作品)

ヴィト・アコンチとカメラの関係

ヴィト・アコンチは1970年代初頭、カメラを単なる記録装置として使う方法からさらに進みました。カメラへ近づく、見る側に語りかける、別の人物と身体的な関係を作るなど、映像を見ている人を意識した行為を制作へ組み込みます。1971年の《Pryings》などの作品では、身体同士の緊張がカメラの前で展開されます。

ここでは作家の身体が、他人へメッセージを届けるための透明な道具にはなりません。映像は、見る人がどのような距離で作家を受け止めるかという問題を生み出します。テレビ放送の親しみやすい語りかけの形式を借りながら、その関係に居心地の悪さや圧力を生じさせることも、ビデオ・アートの重要な表現でした。(参照:MoMA|カメラの前で演じる芸術)

パイクとシャーロット・ムーアマン

音楽家との協働が映像を舞台へ運ぶ

パイクは1964年にニューヨークへ移り、チェロ奏者シャーロット・ムーアマンと長期にわたる協働を始めました。二人の活動では、演奏と身体の行為、電子装置、テレビ画面が組み合わされます。音楽家が舞台で音を奏でるとき、その動作を映像と結びつければ、聴くことと見ることが同時に作品を構成します。

フルクサス以来の実験音楽の方法は、テレビの装置と結びつくことで新しい舞台表現へ発展しました。パイクが映像を発明した芸術家、ムーアマンがその装置を使って演奏した音楽家という単純な役割分担では、作品全体の意味は捉えきれません。演奏する身体の存在が、テレビという機械に独自の緊張を与えていたのです。(参照:PBS|ナム・ジュン・パイク年譜)

《TV Bra for Living Sculpture》と身体

1969年の《TV Bra for Living Sculpture》では、ムーアマンが小型のテレビ画面を身体に装着し、チェロを演奏しました。テレビ受像機は家庭の家具や会場の備品として置かれる位置から離れ、演奏者の身体に取り付けられます。動作する身体と電子的に変化する映像が一つの作品になり、技術と人間の関係が観客の目の前で示されました。

テレビが人間の身体へ近づくことで、画面に映るものと身体の意味が同時に変化します。電子機器の新しさだけが作品の価値を決めるのではなく、その機器をどのような状況に置くのかが重要になります。1960年代末のこうした実践には、テレビを映像表示の道具として扱う範囲を超え、身体と社会の規範へ介入する可能性が見えていました。(参照:PBS|ナム・ジュン・パイク年譜)

1971年《TV Cello》が示したこと

1971年の《TV Cello》では、テレビ受像機をチェロの形に積み重ね、ムーアマンが楽器を演奏する動作を行いました。映像には演奏する彼女自身などが映し出され、視覚と音楽の関係が重なります。古典的な楽器の姿をテレビで作り直すという発想には、機械と伝統文化を遊び心を持って結びつけるパイクらしさがあります。

この作品を単に面白い形のテレビ彫刻として見ると、演奏者が生み出す時間と動きを見落とします。受像機はチェロの形をした物体であると同時に、演奏の現在を示す動く画面でもありました。映像、彫刻、音楽、身体が一つの芸術作品の中で交わった代表的な例です。(参照:スミソニアン・アメリカ美術館|ナム・ジュン・パイク)

1971年、映像を見せる場所が生まれる

ステイナとウディ・ヴァスルカが設立したThe Kitchen

1971年、ニューヨークでステイナとウディ・ヴァスルカらが、映像と音楽の実験を発表する場として「The Kitchen」を立ち上げました。名称の由来となった場所は、マーサー・アーツ・センターの旧キッチンでした。画廊での個展や映画館での上映だけに頼らず、芸術家が新しい機器を試し、作品を持ち寄り、観客と出会う環境が整えられました。

The Kitchenの歴史が重要なのは、作品の種類を初めから狭く限定しなかった点です。電子音楽、実験映像、身体を使った表現などが同じ場所で発表され、異なる分野の作家が互いの方法に触れることができました。ビデオ・アートは機械技術だけで成長したのではなく、芸術家同士が作品を見せ合う場を通じて発展したのです。(参照:The Kitchen|沿革)

1972年の映像祭と自由上映

The Kitchenでは、芸術家が自分のテープを持ち込める自由上映の仕組みが重視されました。1972年の初期の映像祭にも、さまざまな作品を広く受け入れる上映枠が設けられています。既に有名な作家の完成品だけを選んで並べるのではなく、経験の少ない作家や新しい発想の映像も観客へ届けることができました。

この運営方法は当時の映像技術と深く関係しています。作品を撮っても上映設備や発表の機会がなければ、誰にも見てもらえません。機材を共有し、上映し、互いに批評する環境を育てることが、芸術の新しい制度を作ることでした。The Kitchenは1970年代の映像文化を支えた重要な場所です。(参照:The Kitchen|初期の自由上映)

画廊の外へ広がった共同制作

映像を扱う作家たちは、従来の画廊の運営方法や一点物を売買する市場と異なる発表の方法を探りました。磁気テープは複製できるため、展示ごとに一つの物体を運ぶ以外の流通方法が考えられます。共同で編集機材を使ったり、小規模な上映会を開いたりすることも、新しい作品の交流に役立ちました。

ここで生まれたのは、作品を作る人、展示する人、見る人が固定されない場でした。上映会の参加者が翌週には作品を持参することもできます。ビデオ・アートが絵画や彫刻と異なる方向へ進んだ背景には、映像技術によって可能になったこうした制作と流通の文化があります。(参照:The Kitchen|沿革)

ヴァスルカ夫妻と映像の構造

ステイナ・ヴァスルカの視覚実験

ステイナ・ヴァスルカは音楽を学んだ経験を持ち、電子映像の形や動きに独自の関心を向けました。カメラの映像をそのまま記録するだけでなく、装置が生み出す変形や信号の動作を研究し、映像自体にリズムや構造を与えました。外界をどのように再現するかという問題から、電子的な画像がどのように現れるかという問題へ重点を移していきます。

こうした制作では、機材は完成映像を作るための裏方ではありません。撮影装置や信号処理装置が何をできるか、その可能性を試す行為が制作の中心になります。ビデオを使うことは映像に新しい題材を与えるだけでなく、画像を作る規則そのものを作家が調べることでもありました。(参照:スミソニアン・アメリカ美術館|1970年代の映像芸術)

ウディ・ヴァスルカが開いた電子的な造形

ウディ・ヴァスルカも電子的な画像生成と信号処理を探究し、カメラによる撮影映像を加工する方法や、信号から直接画面を作る方法を試しました。1974年の《C-Trend》などの作品には、画面の変化を映像の主題として捉える姿勢が表れています。抽象的な像が動き続ける様子は、画面の外にある対象を撮影した動画とは異なる経験を生みます。

絵画における筆触や色彩の組み合わせに相当するものが、電子映像では信号の調整や時間の変化となります。同じ電子画像でもパイクの映像合成とヴァスルカ夫妻の実験には異なる関心があります。多様な方向を並べて見ることで、1970年代のビデオ・アートが一つの画風にまとまらないことがわかります。(参照:スミソニアン・アメリカ美術館|1970年代の映像芸術)

映像の技術がそのまま内容になる

一般的なテレビ番組では、視聴者は画面の背後にいる人物や出来事に注意を向けます。初期の実験的ビデオでは、映像のゆがみ、反復、色の変化などが前面に出てきます。画像を成立させる過程に目を向けることで、見る人は「何が映っているか」と同時に、「どのように映っているか」を考えるようになります。

現代のデジタル画像でも、画像を加工する方法は多く存在します。1970年代の作品はその前段階にあたり、電子信号を直接扱う独自の物質感を持っています。初期機材の制約と可能性が表現に深く刻まれているため、技術の歴史と作品の歴史を分けずに理解することが重要です。(参照:スミソニアン・アメリカ美術館|映像芸術展)

ジョーン・ジョナスと映像に映る自己

1972年《Vertical Roll》の画面

ジョーン・ジョナスの《Vertical Roll》(1972年)は、画面を縦方向へ移動する黒い帯が繰り返し現れ、作家自身の身体の像が断続的に見える作品です。ジョナスはテレビ受像機の垂直同期を意図的に乱し、その画像を再び撮影しました。テレビでは正常に映らない状態として扱われる現象を、映像のリズムを作る方法へ変えたのです。

羽飾りや仮面、衣装を身に着けた身体が見え隠れし、金属のスプーンを打ちつける音が映像の断続的な動きに重なります。画面の中の人物像は安定せず、鑑賞者は一瞬ごとの断片をつなぎ合わせながら見ることになります。映像の不具合に見える仕組みが、人物をどのように認識するかという問題へつながっています。(参照:ホイットニー美術館|《Vertical Roll》)

身体を映すことと、身体を見せること

ジョナスは自分自身を撮影の対象にしましたが、そこに現れるのは一つに固定された肖像ではありません。衣装、仮面、映像の乱れによって、その都度異なる姿が生じます。女性の身体を画面へ映し出すことと、その身体が他人にどのように見られるかという関係を、作品の構造として扱っていました。

1970年代初頭のフェミニズムの広がりも、この作品を考える重要な背景です。テレビや映画では、女性の身体が既に多くの決まった方法で示されていました。ジョナスは映像の仕組みを意図的に乱し、その見方を揺さぶります。電子技術の実験と身体表現が結びついた代表作です。(参照:ホイットニー美術館|《Vertical Roll》)

モニターは鏡と同じなのか

ビデオカメラとモニターを組み合わせると、自分の身体を別の位置から観察できます。鏡では見ることのできない角度を記録したり、少し前の動きを繰り返し見たりできます。ジョナスの制作は、映像が自分の姿を映すという性質を利用しながら、その像を断片化し、見る人の期待を揺さぶりました。

画面は自分自身を客観的に示す窓のように感じられます。実際には、カメラの位置、映像信号、編集や再生の条件によって姿が大きく変わります。その仕組みを作品として明らかにすることは、個人の身体の問題であるとともに、テレビが人のイメージをどのように作るかを問い直すことでもありました。(参照:ホイットニー美術館|《Vertical Roll》)

フェミニズムと映像表現の広がり

マーサ・ロスラー《Semiotics of the Kitchen》

1975年のマーサ・ロスラー《Semiotics of the Kitchen》では、作家がキッチンに立ち、料理番組の司会者のように道具を紹介していきます。ナイフ、泡立て器、麺棒などを順番に手にし、その動作は次第に攻撃的な印象を帯びます。家庭で料理をする女性というテレビの定型的なイメージを借りながら、そこに押し込められてきた役割への怒りを映像化した作品です。

この作品の力は、日常的な台所の光景が途中から落ち着かないものへ変わるところにあります。料理の作り方を教えるはずの映像が、何を当然の女性像として見せてきたのかを問い始めるのです。身近な場所で撮影でき、作家自身が画面の前で演じることのできるビデオは、社会の中で繰り返される表象を作家が自分の手で作り直す方法になりました。(参照:MoMA|《Semiotics of the Kitchen》)

久保田成子とビデオ彫刻

日本からニューヨークへ渡った久保田成子は、1960年代のフルクサスを経て、1970年代にビデオ彫刻を発展させました。テレビ受像機を木製の構造物へ組み込み、映像と立体が一つの空間的な作品になる方法を追究します。1976年の《Duchampiana: Nude Descending a Staircase》では、階段状の構造へ複数のモニターを置き、階段を降りる人物の動く映像を見せました。

この作品はマルセル・デュシャンの《階段を降りる裸体》を参照し、絵画が表現した運動を電子映像で新しく考えます。見る人は階段状の立体と内部の画面を同時に経験します。映像は彫刻を飾る映像として置かれたのではなく、立体の形と意味を作る不可欠な要素として機能しているのです。(参照:MoMA|《Duchampiana》)

女性作家たちは新しい技術をどう捉えたか

ビデオ・アートの初期史では、ナム・ジュン・パイクの先駆的役割が目立ってきました。女性作家たちも早い段階から独自の方法を築いています。ジョナスは映像の乱れと身体表現を結びつけ、ロスラーは家庭の役割を批評し、久保田は立体と映像を融合させました。同じ技術を使いながら、問いの立て方はそれぞれ異なります。

久保田は後年、ビデオが新しく比較的利用しやすい媒体だったことに触れ、女性にとっての可能性を語っています。また本人はパイクとの仕事の違いを明確にし、自身の制作を独立したものとして説明しました。ビデオ・アートの歴史では、技術を開拓した人物の名前を覚えるだけでなく、作家たちがそれぞれの問題をどのように映像へ持ち込んだかを見ることが重要です。(参照:MoMA|久保田成子のインタビュー)

テレビの外側で社会を記録する

小型カメラが開いた別の報道

持ち運べる録画機が利用できるようになると、テレビ放送局の取材とは異なる視点から社会を記録する集団が登場しました。1960年代末のアメリカでは、政治運動、地域社会、文化的な出来事にカメラを向け、商業放送が取り上げにくい対象を撮影する試みが広がります。録画した映像を小規模な上映会などで共有し、別の情報経路を作ろうとしました。

この活動の一部は、後にゲリラ・テレビと呼ばれるようになります。放送局による映像制作が多額の費用や制度を必要とする時代に、芸術家や活動家が自分たちの撮影装置を持つことには社会的な意味がありました。ビデオ・アートの歴史は、美術館の展示室の外に広がる映像文化とも深く結びついています。(参照:MoMA|《Signals》展)

TVTV《Four More Years》と政治の舞台裏

映像集団TVTVは1972年、アメリカ共和党全国大会を取材し、《Four More Years》を制作しました。政治の公式な演説だけを記録するのではなく、会場の舞台裏や関係者の振る舞いにカメラを向け、メディアによって演出される政治行事の姿を別の角度から示しました。この作品はアメリカ各地で放送され、芸術家の映像が美術館外の視聴者へ届いた例となりました。

この作品ではビデオの機動性が重要でした。大がかりなテレビ中継とは異なる方法で人々へ近づき、日常的な言葉や動作を記録できます。映像をどこで上映するかも、作品の意味を決める要素になります。政治を扱うビデオは芸術の新しい形式であると同時に、報道や公共的な議論に参加する手段にもなったのです。(参照:MoMA|TVTV《Four More Years》)

アント・ファーム《Media Burn》

サンフランシスコを拠点とした集団アント・ファームは、1975年に《Media Burn》という行為を実施しました。改造した自動車を炎上するテレビ受像機の壁へ突入させ、ニュース報道の形式も模した映像作品として発表しました。作品はテレビという装置を物理的に壊しながら、その行為を再びテレビ的な映像にして広めるという二重の構造を持っています。

ここでは批判の対象になっているマスメディアが、同時に作品を広める道具にもなります。人々が強烈な映像に引きつけられることを見越して行為を演出し、それをニュースのように見せる。テレビが人々の現実認識を左右する仕組みを、作品そのものの中で示したのです。(参照:MoMA|アント・ファーム《Media Burn》)

1973〜1975年、映像が世界とつながる

《Global Groove》が見せた多様な文化

1973年、パイクは《Global Groove》を制作しました。ダンス、音楽、各地の文化的な映像などを、電子的な加工や素早い切り替えによってつなぎ合わせた作品です。テレビの画面が国境を越えた文化の交流を伝える場所になる可能性を、映像の構成によって示しました。放送の決められた形式に従う代わりに、異なる時間と場所の断片を一つのリズムへ組み替えています。

この作品を見ていると、映像が単に出来事を記録するための道具から、複数の文化の関係を創造するための道具へ変わったことがわかります。パイクは既にある映像を選び、加工し、編集することで、未来のテレビが持ち得る姿を考えました。1970年代のビデオ・アートには、マスメディアへの批判と、その技術が生み出す可能性への期待が同時に存在していました。(参照:MoMA|《Global Groove》)

《TV Buddha》が結びつけた静止と時間

1974年の《TV Buddha》は、仏像とテレビ画面を向かい合わせた作品です。カメラによって仏像の姿がテレビへ映し出され、彫像は自分自身の像を見つめているかのように置かれます。動かない仏像、現実の時間を映す画面、鑑賞者のいる展示空間が一つの関係を作ります。

仏像と電子機器を並べると、古いものと新しいものが目に見える形で出会います。より重要なのは、テレビが絶えず現在の像を作る仕組みです。仏像は動かなくても、画面の像は装置の働きによって更新され続けています。静止と時間、物体と映像、見ることと見られることを簡潔に示した作品として考えられます。(参照:スミソニアン・アメリカ美術館|ナム・ジュン・パイク)

《TV Garden》と映像の環境

パイクは1974年以降、《TV Garden》のように複数のテレビ受像機を植物の間へ置くインスタレーションにも取り組みました。画面は一台ずつ独立して鑑賞する対象として並ぶのではなく、植物と光る映像が混在する環境の一部になります。観客はその空間を歩きながら、同時にいくつもの画面と出会います。

テレビはふだん室内の家具として使用されます。その装置を植物の中へ置くことで、人工的な光と自然の成長が対照的に見えてきます。受像機の外側にある空間を含めて作品を考える方法は、単独の映像を画面で見る鑑賞から、映像に囲まれる体験へと発展する重要な流れでした。(参照:スミソニアン・アメリカ美術館|ナム・ジュン・パイク)

美術館と映像の流通が変わる

美術館がビデオを展覧会へ迎える

1970年代前半、美術館もビデオを継続して紹介する方法を模索し始めました。ニューヨーク近代美術館では1974年8月から《Projects: Video I》が開催され、ビデオを扱う芸術家の作品が定期的に紹介される仕組みが整えられます。従来の絵画や彫刻と同じ展示室の論理では扱いにくい映像を、どのように見せ、どのように観客へ届けるかという問題が生まれました。

映像は上映する機器や時間を必要とします。美術館が作品を収集し展示するには、録画テープだけでなく、適切な再生装置やモニターの用意も欠かせません。展示制度が変わることは作品の評価にも影響し、ビデオ・アートが一時的な技術の流行を超え、美術史の一領域として位置づけられる道を開きました。(参照:MoMA|《Projects: Video I》)

映像作品を複製して届ける仕組み

絵画や彫刻では、多くの場合、一つの物体を美術館や画廊へ運んで展示します。ビデオは録画テープを複製して、別の会場へ届けることができます。映像作品を配給し、上映の機会をつくる専門的な組織が発展したことは、作家にとって大きな支えになりました。機器の種類やテープの規格が異なるため、作品を届ける作業には実務的な知識も必要でした。

作品が容易に複製できるという性質は、作者の権利や上映の条件を考える必要も生みました。美術作品を一点物として所有する仕組みから、一定の条件のもとで映像を何度も上映する仕組みへと領域が広がります。制作された作品が歴史に残るためには、保存し、複製し、見せる制度が必要であることも、この時代に意識されました。(参照:MoMA|フランク・ジレットと映像芸術史)

1977年のドクメンタと国際的な広がり

1970年代後半になると、ビデオ彫刻や実験映像はヨーロッパの重要な国際展にも登場するようになりました。1977年の第6回ドクメンタでは、久保田成子の《Duchampiana》をはじめとする新しい映像表現が注目を集めました。初期には特定の作家や小さな上映会に結びついていた映像の実験が、国際的な美術制度の中でも紹介されるようになったのです。

この発展は、技術が新しければ自動的に芸術として受け入れられるという過程ではありません。どの作品を選び、どの装置で再生し、どう展示するかという判断を通じて、映像表現の歴史が作られていきました。芸術家、批評家、美術館、上映組織の関係が、ビデオ・アートの領域を形づくったのです。(参照:MoMA|久保田成子のインタビュー)

映像がテレビそのものを批判する

《Television Delivers People》のメッセージ

1973年、リチャード・セラとカルロッタ・スクールマンは《Television Delivers People》を制作しました。画面には文章がスクロールし、陽気な音楽とは対照的に、テレビが広告主と視聴者の関係をどのように作っているかを問いかけます。この作品では、画面に人物や美しい風景を映す必要がありません。文字と音楽の組み合わせが、テレビを見るという行為そのものを考えさせます。

二人は実際にテレビ放送の時間を購入し、この映像を放送しました。映像の意味は美術館で見る場合と家庭のテレビで突然出会う場合で異なります。企業が商品を宣伝するために利用してきた画面を、視聴者自身がどう扱われているかを考える場所へ変えたのです。(参照:MoMA|《Television Delivers People》)

大衆文化の映像を引用するという方法

1970年代後半には、テレビ番組の既存映像を編集し直し、女性の描かれ方や大衆文化の価値観を批評する表現も広がります。ダラ・バーンバウムらの仕事は、テレビの映像をそのまま受け取るのではなく、反復や切り取りによって異なる意味を生み出す方向を示しました。新しい映像を撮影することと、既存の画像を組み替えることが、映像制作の二つの重要な方法になります。

この流れは、1960年代のポップアートともつながっています。ウォーホルが既に知られた画像を反復して別の意味を生み出したように、ビデオ・アートの作家も身近なテレビの映像を取り出して再構成しました。動く映像では、その反復の速さや音の切り替えまで操作できるため、時間の中でイメージへの見方を変えることができました。(参照:MoMA|《Signals》展)

1980年《Free, White and 21》へ

ハワーデナ・ピンデルの《Free, White and 21》(1980年)は、1970年代に発展した映像による自己表現と社会批評を考える重要な到達点です。ピンデルは自身が受けてきた人種差別の経験をカメラへ語り、白人女性に扮した別の人物を自ら演じて、その経験を否定する声を画面へ登場させました。二つの役を演じ分けることで、社会の不平等が日常の言葉の中に現れる仕組みを示しています。

作家が自分の部屋でカメラに向かい、個人的な経験を世界へ語る。その簡潔な形式には、1970年代を通じて広がったビデオの表現可能性が集まっています。映像は作家の身体を撮る道具であると同時に、社会で繰り返される否定や無理解を形にする道具にもなりました。(参照:MoMA|《Free, White and 21》)

1980年頃までに何が変わったのか

一つの画面から、多様な形式へ

1963年に改造されたテレビ受像機を芸術作品として提示した試みは、1970年代末までに多様な表現へ広がりました。電子信号による抽象映像、作家自身の身体を撮る映像、女性や少数者の経験を伝える作品、政治や社会を記録する集団、複数のモニターで展示室を作り変える作品が現れます。これらを一つの見た目でまとめることはできません。

共通しているのは、映像を受け取るだけの仕組みから、芸術家が映像を作り、組み替え、批評し、観客との関係を変える仕組みが広がったことです。1960年代のテレビは巨大な放送制度に支えられていました。そこで使われていた装置を別の目的へ開いたことが、ビデオ・アートの歴史的な意味です。(参照:MoMA|《Signals》展)

磁気テープと再生装置を残す難しさ

ビデオ・アートには保存の問題が早くからつきまといました。磁気テープは時間とともに劣化し、録画規格や再生機器も短い期間で変わります。作品を将来まで残すには、記録された映像を新しい媒体へ移すだけでなく、画面の大きさ、受像機の形、展示装置の反応、音との関係など、作品の経験を支える条件を調べる必要があります。

例えば複数のブラウン管テレビを用いた作品では、映像だけが残っても元の展示の意味が十分には伝わらない場合があります。保存の専門家や美術館は、技術的な装置と芸術的な意図の関係を検討しながら、作品を次の時代へ渡そうとしています。ビデオが美術館の収集対象になったことは、こうした保存方法の発展にもつながりました。(参照:MoMA|フランク・ジレットと映像芸術史)

現代の映像環境へ続く美術史

1980年頃までに、テレビや電子映像は芸術の多様な表現を支える媒体になっていました。後のデジタル編集、映像インスタレーション、インターネットを介した作品、携帯端末で制作する映像も、この時代に生まれた問いとつながっています。誰が映像を作るのか、映像はどこで流通するのか、画面の前の人はどのように扱われるのかという問題は、現在も続いています。

ビデオ・アートの誕生を理解することは、画面が増えた歴史を知ることにとどまりません。芸術家たちがテレビという日用品へ手を加え、人間の身体や社会との関係を変えていった過程を知ることです。絵画、彫刻、音楽、映画、パフォーマンスとつながりながら成立したこの領域は、20世紀後半の美術が何を作品として扱うかを大きく広げました。(参照:MoMA|《Signals》展)

年表|1963–1980年

  • 1963|パイクがヴッパータールで《音楽の展覧会―電子テレビ》を開催。フォステルもテレビを使った作品を発表。
  • 1964|パイクがニューヨークへ移り、シャーロット・ムーアマンとの協働を開始。
  • 1965頃|携帯型ビデオ録画機が一部の芸術家にも使われ始める。
  • 1967–1968|ブルース・ナウマンがスタジオでの身体的な行為を16ミリフィルムなどで撮影。
  • 1969|ハワード・ワイズ画廊で《TV as a Creative Medium》展。パイクと阿部修也による映像合成の研究。
  • 1969|パイクとムーアマンによる《TV Bra for Living Sculpture》。
  • 1971|The Kitchenが設立される。パイクとムーアマンによる《TV Cello》。
  • 1972|ジョーン・ジョナス《Vertical Roll》。The Kitchenで初期の映像祭。
  • 1973|パイク《Global Groove》。セラとスクールマン《Television Delivers People》。
  • 1974|パイク《TV Buddha》と《TV Garden》。MoMAで《Projects: Video I》が始まる。
  • 1975|ロスラー《Semiotics of the Kitchen》。アント・ファーム《Media Burn》。
  • 1976|久保田成子《Duchampiana: Nude Descending a Staircase》。
  • 1977|第6回ドクメンタでビデオや新しいメディアの実践が国際的に紹介される。
  • 1970年代後半|既存のテレビ映像の引用や編集によって大衆文化を批評する制作が広がる。
  • 1980|ハワーデナ・ピンデル《Free, White and 21》。

参考資料・出典

本記事は、美術館、研究機関、作品を所蔵する組織が公開する資料を参照し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。1963年から1980年までを初期の展開を理解するための対象期間として扱い、ビデオ・アートの実践が1980年以降も続くことを前提にしています。原文の全文翻訳ではありません。

資料確認日:2026年10月14日 / ART LIBRARY