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301–400

4世紀ローマ帝国の美術

コンスタンティヌス、キリスト教聖堂と石棺

4世紀のローマ帝国では、皇帝の宮廷が各地を移動し、軍の駐屯地や都市の行政機関が広い領土を支えていました。イタリア半島、ライン川沿岸、小アジア、シリア、エジプトには街道と港を通じて石材、金属、ガラス、書物が運ばれ、都市の職人たちは神殿、浴場、住宅、墓地の装飾を作り続けていました。皇帝ディオクレティアヌスが始めた複数皇帝による統治の仕組みは、世紀の初めに内戦を経験し、コンスタンティヌスが帝国を統一していきます。

この時代、キリスト教徒の集会と埋葬は都市生活の中に広がっていました。303年からの迫害を経て、311年と313年には信仰に関する政策が大きく変わり、皇帝や有力者が資金と土地を提供する大規模な教会建築が生まれました。ローマの公共建築で発達した列柱の広間、石棺に刻む人物浮彫、墓室の壁画、色石を組み合わせる床モザイクなどの技術が、新しい礼拝と葬送の場所に用いられています。

4世紀にはキリスト教を支持した人々と、伝統的な神々を崇敬した人々、ユダヤ教共同体が暮らしを重ねていました。作品の形だけで所有者の信仰が決まるとは限りません。凱旋門の古い浮彫を作り直した石工、聖堂の床に聖書の物語を並べたモザイク職人、家族の肖像を金箔で封じ込めたガラス職人など、残された物とその出土状況から4世紀の造形をたどることができます。

帝国の宗教政策と造形の注文主

303年の迫害から313年の宗教政策へ

ディオクレティアヌス帝の統治末期、303年に始まったキリスト教徒への大規模な迫害では、集会場所や書物の没収が命じられました。311年にはガレリウス帝がキリスト教徒の活動を一定の条件で認める寛容令を出します。312年10月、コンスタンティヌスはローマ郊外のミルウィウス橋付近でマクセンティウスを破り、帝国西部での地位を強めました。

313年、コンスタンティヌスとリキニウスはミラノで宗教政策を協議し、その後、地方の役人に実施を命じました。ラクタンティウスが伝えた文書には、キリスト教徒を含む人々が自ら選ぶ信仰を営む自由と、迫害で没収されたキリスト教共同体の財産を返還する措置が記されています。ミラノで出された単独の勅令という通称よりも、皇帝間の合意と各地に伝達された命令を区別すると、この政策が建物と土地の所有にどう関わったかが分かります。

この文書の伝承については、ラクタンティウスのラテン語文とエウセビオスのギリシア語文を比較した研究があります。ミラノ・カトリック大学の2017年の研究は、313年6月にニコメディアで公表された文書と、後にカイサリアで掲示された文書の関係、財産返還が実際の行政で持った意味を論じています。(参照:グルノーブル・アルプ大学|313年の宗教寛容文書(ラテン語)/ミラノ・カトリック大学|ラクタンティウスとエウセビオスの文書研究(2017年))

皇帝の寄進と4世紀末の政策

4世紀前半にローマと聖地で進められた教会建設には、皇帝と皇族が土地や資金を提供しました。礼拝堂のための敷地の取得、列柱や屋根材の調達、聖職者と集会に必要な空間の整備が大きな規模で行われるようになります。コンスタンティヌスは337年に亡くなる直前に洗礼を受けたと伝えられ、その在位期間の政策と後世に描かれた改宗物語は別々に検討されています。

4世紀後半にも宗教政策は段階的に変わりました。380年のテオドシウス1世らの命令はニカイア派の信仰を帝国内で公認する方向を強め、391年以降には伝統的な神殿祭祀の禁止が進みます。こうした政策と同じ時期にも、住宅の床や貨幣には伝統的な神話・勝利の女神・都市の擬人像が残されていました。政治的な命令の年と、個別作品を実際に作った年は資料ごとに確認する必要があります。(参照:ラテラノ大聖堂公式サイト|洗礼堂の由来/メトロポリタン美術館|ローマ帝国史と4世紀末の宗教政策/メトロポリタン美術館|コンスタンティノープルと東ローマ美術)

コンスタンティヌスの記念建築と肖像彫刻

315年の凱旋門|古い浮彫を一つの建築に組み合わせる

コロッセウムの南西に立つコンスタンティヌス凱旋門は、312年のミルウィウス橋の戦いでの勝利を記念し、315年7月25日に元老院によって奉献されました。大きな中央通路の左右に小通路を置き、正面には立像を載せた柱台とコリント式柱が並びます。上部の長い銘文と多数の浮彫は、ローマを訪れた人々の通る行列の道に向けられています。

門の彫刻の大きな特徴は、トラヤヌス、ハドリアヌス、マルクス・アウレリウス各帝の時代の記念物から取り外した浮彫が使われていることです。上部にはダキア人捕虜を表す彫像、丸い枠の中には狩猟と犠牲祭、長方形の石板には皇帝の公的な行為が並びます。古い皇帝の顔はコンスタンティヌスに似せて彫り直され、時代の違う場面が一人の統治者を顕彰する配置へ組み込まれました。(参照:コロッセウム考古学公園|コンスタンティヌス凱旋門)

新しく彫られた帯状浮彫と色大理石

門の下方を横に走る帯状浮彫は4世紀の制作です。軍の進発、戦い、ローマへの入城、フォルムでの演説、民衆への贈与が連続して描かれています。とくに演説や贈与の場面では、皇帝が画面の中央に正面向きに置かれ、周囲の人物が小さく並びます。皇帝を遠くからでも見分けられる構図が、古い時代の奥行きを伴う群像と同じ門の上に共存しています。

保存調査では、黄色の大理石柱、赤い斑岩の飾り板、灰白や紫を帯びた色石などを組み合わせた表面装飾も確認されています。現在は白い石造記念碑に見える部分にも、異なる石材の色で構成された装飾がありました。再利用された浮彫の制作年代と、門全体を構成した315年の工事年代は分けて考えられます。(参照:コロッセウム考古学公園|コンスタンティヌス凱旋門/コロッセウム考古学公園|凱旋門の保存と色石の調査)

マクセンティウスのバシリカと巨大な皇帝座像

フォルム近くのバシリカは、マクセンティウスが308年に着工し、勝利したコンスタンティヌスが一部を変更して完成させました。中央の広間に三つの大きな交差ヴォールトを架け、側廊をそれぞれ三室に区切った建物です。現在残る北側廊では、煉瓦とコンクリートの壁が大きく立ち上がり、半円形の窪みと天井の格子模様を確かめられます。建物は裁判や公の活動に使われるローマのバシリカであり、礼拝堂とは用途が異なります。

コンスタンティヌスはこの建物の後陣に、自身の巨大な座像を据えました。1486年に見つかった大理石の頭、腕、手、脚などの断片は、現在カピトリーノ美術館に保存されています。頭部は大きく開いた目と額に落ちる髪をもち、全身像は高さ10メートルを超えたと推定されます。肌を見せる部分を大理石で作り、衣服の部分には別の素材を組み合わせる巨大像でした。(参照:コロッセウム考古学公園|マクセンティウスのバシリカ/カピトリーノ美術館|巨像の頭部)

巨像の2024年復元と石に刻まれた肖像の型

カピトリーノ美術館は2024年、断片の立体撮影と比較彫刻の調査に基づく実物大復元像を公開しました。復元は、残る頭部や足の寸法から座った身体を組み立て、欠けた胴や衣の部分を古代の類例を参照して補ったものです。金属あるいは金箔を施した漆喰が衣に使われたという推定も、復元上の選択として明示されています。展示される復元像の全体像を古代の現物と取り違えないよう、断片と推定部を分けた研究が行われています。

メトロポリタン美術館にあるコンスタンティヌスの大理石肖像頭部は高さ約95センチで、制作年代は325〜370年頃と幅を持って登録されています。髭のない長い顔、整えられた短髪、上方を向く視線は、カラカラの眉を強く寄せた肖像や3世紀の軍人皇帝像と異なります。美術館はこの形式をアウグストゥスやトラヤヌスの皇帝像を意識した表現として説明しています。(参照:カピトリーノ美術館|コンスタンティヌス巨像と復元研究/メトロポリタン美術館|コンスタンティヌスの大理石肖像)

西方宮廷とコンスタンティノープル|公共建築と貨幣

トリーアの皇帝広間|煉瓦で作る巨大な室内

現在のドイツ西部にあるトリーアは、ライン川防衛と皇帝の政治活動を支えた都市でした。4世紀初めのアウラ・パラティナは、細長い長方形の広間の奥に半円形の後陣を設けた皇帝の謁見施設です。巨大な煉瓦壁には高い窓が二段に並び、かつては大きな木造屋根が空間を覆っていました。後陣に置かれた皇帝の座は、長い広間を通して訪問者の視線を集めます。

同じバシリカという呼び名が、ローマでは公的施設にも、キリスト教の集会所にも用いられました。トリーアの建物は皇帝が人々を迎えるためのもので、奥の半円形空間と広い身廊の構成は公的な謁見に適しています。建物は後世に教会として使用され、19世紀にも改築されました。現在の室内の仕上げをそのまま4世紀の状態とみなせない理由は、この長い使用史にあります。(参照:ユネスコ世界遺産センター|トリーアのローマ建築群)

324〜325年の金貨|ニコメディアで刻んだ勝利の女神

コンスタンティヌスは金貨ソリドゥスを帝国の新しい貨幣体系の中心に据えました。ベルリン国立博物館が所蔵する324〜325年のニコメディア鋳造金貨は、直径約20ミリメートル、重さ4.39グラムです。表には帯状の宝飾冠を付けた皇帝の横顔が刻まれ、顎はわずかに上を向きます。裏面には座った勝利の女神が小さな勝利像と豊穣の角を持ち、脇には盾が置かれています。

この金貨は、キリスト教会の建設を進めた皇帝が、伝統的な女神像を貨幣に残していたことを示します。打刻用の金属型で大量に製造する貨幣には、都市ごとの工房記号と皇帝の称号が記されました。巨大な石像から直径2センチの貨幣まで、髪形と顔の輪郭を共有する統治者像が作られています。(参照:ベルリン国立博物館貨幣室|324〜325年のコンスタンティヌス金貨)

330年の新都記念銀貨|城壁冠と船首の女神

コンスタンティヌスが330年に新都コンスタンティノープルを奉献したことを記念する、ベルリン国立博物館所蔵の銀製記念貨があります。直径約30ミリメートル、重さ16.81グラムの大ぶりな貨幣で、表には皇帝の横顔、裏には城壁の形の冠を付けた都市の女神が玉座に座り、片手に豊穣の角を持っています。女神の足は船首の上に載り、新都市と海の交通との関係を図像にしています。

330年の記念貨の女神は、古代都市を女性の姿で表す伝統的な図像に属します。新都市は皇帝の政治拠点となり、ギリシア語圏とバルカン半島、黒海への交通を結ぶ位置にありました。4世紀後半も首都では金貨や建築によって皇帝の正統性が示され、コンスタンティウス2世の金貨では槍と盾を持つ軍装の皇帝が、直径約2センチの面に打刻されています。

コンスタンティノープルでは、360年にコンスタンティウス2世の下で初代ハギア・ソフィア聖堂が奉献されました。後の騒乱でこの建物は失われ、現在見る巨大なドームを持つ聖堂は6世紀の再建です。330年の都市創建、360年の最初の聖堂、537年に完成した現存建築の主要部分は、それぞれ異なる工事の年代です。(参照:ベルリン国立博物館貨幣室|330年のコンスタンティノープル記念銀貨/メトロポリタン美術館|コンスタンティウス2世の金貨/メトロポリタン美術館|コンスタンティノープルと東ローマ美術/米国土木学会|ハギア・ソフィア聖堂の歴代建築)

ローマの大聖堂|列柱の広間と使徒の墓

ラテラノ大聖堂|司教の集会に使われる長い空間

コンスタンティヌスはローマのラテラノ地区に土地を与え、4世紀初めに大きなキリスト教聖堂が建設されました。後のサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂です。建物は司教座聖堂として使われ、奥の半円形の後陣へ向かって中央の広い身廊が伸び、その左右を柱で区切った側廊が並ぶ形式を採りました。列柱は屋根を支えると同時に、集まった人々と聖職者のいる場所を視覚的に分けました。

皇帝の謁見のための長い広間や、ローマの裁判・商業に使われたバシリカの建築技術が、キリスト教の礼拝建築へ応用されています。ラテラノの敷地には聖堂と司教の居所、洗礼を行う設備が組み合わされ、教会が都市で活動するためのまとまった拠点になりました。現在の聖堂はその後の大改築を受け、初期の平面と内装を考える際には地下遺構と文書史料が参照されています。(参照:ラテラノ大聖堂公式サイト|ラテラノ司教座と宮殿の成立/ユネスコ世界遺産センター|トリーアのローマ建築群)

ラテラノ洗礼堂|コンスタンティヌス期と5世紀の形

ラテラノ大聖堂の近くには独立した洗礼堂が設けられました。公式の建築史によると、コンスタンティヌス期には敷地に残っていた浴場の水を使う建物が洗礼のために改修されました。共同体へ新たに加わる人が水を用いた儀礼を受けるための空間で、聖堂での礼拝と異なる設備が必要でした。

今日の洗礼堂の中心に見える八角形の水槽と、柱を二層に重ねた主要な構成は、432〜440年にローマ司教シクストゥス3世が行った改修によります。4世紀の建設と5世紀の意匠を分けると、当初の施設がのちに拡張され、独自の記念建築へ発展した様子を理解できます。4世紀のキリスト教建築を描く復元図に現在の八角形の姿をそのまま置く場合は、年代上の検討が必要です。(参照:ラテラノ大聖堂公式サイト|洗礼堂の由来/ラテラノ大聖堂公式サイト|洗礼堂の4・5世紀建築段階)

旧サン・ピエトロ大聖堂|墓地の地形を変えて建てる

バチカンの丘の斜面には、もともとローマ時代の墓地が広がっていました。コンスタンティヌスは320〜327年頃、その上にペテロの墓として崇敬されていた地点を中心に据えた大聖堂を建てさせました。中央身廊とその左右の四つの側廊が列柱で仕切られ、奥に横方向の広い空間と後陣を設けた五廊式の大規模な建物です。墓と考えられていた場所を後陣近くに残すため、地形を均し、既存の墓の一部を覆う大きな造成が行われました。

聖堂は16世紀以後に現在のサン・ピエトロ大聖堂へ建て替えられました。地下には古い墓所とコンスタンティヌス期の建築の遺構が残ります。聖堂が「ペテロの墓の上」に建てられたという歴史的な信仰と、地下で確認できるローマ時代の埋葬施設はそれぞれ異なる種類の資料です。発掘した壁や墓の位置、後世の改築記録を合わせて、旧聖堂の姿が復元されています。(参照:メトロポリタン美術館|旧サン・ピエトロ大聖堂とネクロポリス/ユネスコ世界遺産センター|バチカン市国の考古遺構)

円形の墓廟と皇族の斑岩石棺

サンタ・コスタンツァ|環状回廊のある墓廟

ローマのノメンターナ街道沿いには、殉教者アグネスの墓地を中心とした聖堂と皇族の墓廟が建てられました。サンタ・コスタンツァと呼ばれる墓廟は、コンスタンティヌスの娘コンスタンティナに関わる4世紀の建物で、円形の中心室を二重の柱が囲み、その外側を環状の通路が一周します。中心の高い空間には上部の窓から光が入り、周囲の通路は低い曲面天井で覆われています。

通路の曲面天井に残る4世紀のモザイクは、葡萄の枝と葉、鳥、果物、花、小さな人物が区画ごとに並びます。葡萄を収穫する人物や籠を運ぶ姿はローマ時代の豊穣と酒神に関わる装飾にも通じます。青と白を基調とする幾何学模様、繊細な植物の枝、果実を集める群像を小さな石やガラスの片で構成し、歩く位置によって違った天井面が見えるようになっています。(参照:ローマ市文化観光局|サンタ・コスタンツァの建築とモザイク)

コンスタンティナの石棺|赤い斑岩と葡萄摘み

バチカン美術館には、サンタ・コスタンツァの墓廟に置かれていた赤紫色の斑岩石棺が保存されています。コンスタンティナは354年に亡くなり、この石棺は彼女の埋葬に使われた可能性が高いとされています。硬い斑岩の厚い棺の四面に葡萄の蔓と大きな葉が広がり、その間で小さな翼のある子供たちが葡萄を踏み、仕事をしています。下方には孔雀と羊も刻まれています。

棺の蓋には植物の綱飾りを顔の形の飾りで結ぶ模様が続きます。墓廟の回廊にある葡萄のモザイクと同じ主題が、石棺では深く彫り込まれた立体表現になりました。現在の棺を支える四頭の雌ライオン像は後世に作られたもので、1790年にバチカンへ運ばれた際の取り扱いも収蔵館が記録しています。古代の棺身と展示用の後補部分を区別できます。(参照:バチカン美術館|コンスタンティナの斑岩石棺/ローマ市文化観光局|サンタ・コスタンツァの建築とモザイク)

ヘレナの石棺|軍事図像を持つ皇族の埋葬

コンスタンティヌスの母ヘレナの石棺も、バチカン美術館に残る赤紫色の斑岩製です。ヘレナは335年頃に亡くなり、ローマ郊外のトル・ピニャッタラに造られた皇族の墓廟へ葬られたと考えられています。棺には騎馬の兵士、倒された敵兵、捕虜の姿など、勝利を記念する軍事的な図柄が彫られています。

女性の埋葬に使われた棺に軍事的な場面があることから、制作当初は男性の皇族を想定したという研究上の推定があります。候補にはコンスタンティウス・クロルスやコンスタンティヌス自身が挙げられてきました。実際に埋葬に使われた人と、最初に図像が選ばれた意図は同じ問題ではありません。1777年にバチカンへ移され、修復と新しい台座の追加を受けた経緯も記録されています。(参照:バチカン美術館|ヘレナの斑岩石棺)

エルサレムとベツレヘム|聖地を囲む建築

聖墳墓教会|岩の墓とバシリカを結ぶ

コンスタンティヌスの時代、エルサレムではイエスの埋葬と復活に関わる場所を記念する大規模な建設が進みました。聖墳墓教会の初期複合施設には、礼拝に使う列柱のバシリカ、中庭、岩を切り残した墓の上を覆う円形の建築が組み合わされました。長い身廊を持つ聖堂と、崇敬する一点を中心に巡る円形建築が、一つの巡礼地に並んだ構成です。

聖墳墓教会はその後の破壊、再建、改修を繰り返しており、現存する外観の大部分を4世紀のものとして見ることはできません。古代の史料と後世の建築、発掘された基礎や石材の検討によって、当初の回廊や墓を囲む空間が研究されています。信仰の対象とされた岩の位置が、周囲に大きな建物を作る配置を決めていました。(参照:米国海外研究協会|ジョーダン・J・ライアン「コンスタンティヌスの聖墳墓教会」(2021年)/ユネスコ世界遺産センター|エルサレム旧市街)

ベツレヘムの降誕聖堂|洞窟の上に置かれた建築

ベツレヘムでは、イエスの誕生に関わると伝えられた洞窟の上に、4世紀前半から教会が建設され、339年に完成しました。初期の建物には長方形の集会空間と、洞窟の場所を示す特別な部分が組み合わされていました。土台となる自然の場所を残しながら、柱と屋根のある集会施設を加える方法は、都市の司教座聖堂とは異なる建築上の条件から生まれています。

建物は6世紀に建て替えられ、現在の外観と柱列には後代の工事が重なっています。ユネスコの保存資料は4世紀の初期建設と533年頃の再建を区別し、古い床モザイクの一部が保存されていると報告しています。巡礼者が見ていた4世紀の内装を復元するときは、現存する6世紀以後の壁や装飾をそのまま当てはめることを避ける必要があります。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ベツレヘム降誕聖堂の建築段階)

380年代の巡礼記|人が歩いた聖堂の内部

4世紀の巡礼者エゲリアは、381〜384年頃にエルサレム、シナイ半島、メソポタミアなどを旅し、聖地の建物と礼拝を記録しました。『エゲリア巡礼記』は、聖書の朗読が行われる場所や、信徒が集まる時間帯、墓と聖堂を行き来する習慣を伝えています。教会の空間は屋根と柱の構造だけで完結せず、人々が祭日や祈りの順序に合わせて移動する場所として使われました。

2024年に刊行された巡礼儀礼の研究では、エゲリアが見た十字架の木、油を注ぐ器、ソロモンの指輪と考えられていた品など、参詣者が触れたり示されたりした物を詳しく検討しています。これらは当時の人々が聖なる物と信じた対象を示す史料です。現在の考古学で物の由来を確定できるかという問題とは分けて、4世紀の巡礼者の経験を読み取ることができます。(参照:オックスフォード古典事典|エゲリアの巡礼記(381〜384年)/ケンブリッジ大学出版局|エゲリアの巡礼における物と儀礼(2024年))

4世紀の石棺|聖書の物語とローマの彫刻技法

サビヌスの石棺|祈る女性と奇跡の連続浮彫

バチカン美術館所蔵の「サビヌスの石棺」は310〜320年頃に作られた大理石棺です。蓋に残る碑文によって、45歳になる前に亡くなったサビヌスのために妻が献じたことが分かります。棺身の中央には両腕を広げて祈る女性が置かれ、両脇にカナの婚礼での奇跡、ペテロの逮捕、牢番への洗礼、盲人の治癒、パンと魚を増やす奇跡、ラザロの復活が横に連なります。

中央の女性像が描かれているため、棺は最初からサビヌス一人のために完成したものではなく、後に転用された可能性が収蔵館によって指摘されています。狩猟図を刻んだ蓋の肖像部分には現代の修復もあります。人物を前後に密集させて彫る工法と、注文の変更に伴う石棺の利用は、一つの作品に重なった別々の履歴です。(参照:バチカン美術館|サビヌスの石棺(310〜320年頃))

ペテロとキリストの石棺|深浮彫と近代の修復

メトロポリタン美術館の「ペテロとキリストの物語を刻む石棺」は4世紀初めの大理石作品で、高さ約67.3センチ、長さ約212.1センチです。正面左側には、ローマで捕らえられるペテロと、牢獄で岩から水を湧かせると伝えられた場面が深い浮彫で刻まれています。人物の頭と胸が棺の前面から大きく突出し、顔や腕の陰影が強くなっています。

正面右側のキリストに関する場面は、人物の膝から上の多くが近代に補われました。そこに表された髭のあるキリスト像も後補の部分です。修復で加わった人物の姿を初期4世紀の図像として論じると、実際の制作時期が混同されます。美術館の記録は、深く彫られたペテロの場面と浅い後補部分の違いを明示し、復元された石棺の見た目を検証しています。(参照:メトロポリタン美術館|ペテロとキリストの物語を刻む石棺)

「教義の石棺」|上下二段で旧約と新約を結ぶ

340年頃の「教義の石棺」は、バチカン美術館が所蔵する大きな棺で、ローマのサン・パオロ大聖堂に埋葬された有力な人物のために作られたと考えられています。前面を上下二段に分け、上段にエヴァの創造、下段にダニエルと獅子などを配置しています。上段の中央には亡くなった人々の肖像を入れる円形の枠があり、顔は最後まで完成されませんでした。

エヴァの創造の場面には三人の人物が現れます。バチカン美術館は325年のニカイア公会議以後の教義的な議論を反映する可能性を指摘し、三位一体の図像として読まれることがあると説明しています。彫り込まれた三人の姿は観察できます。制作者が神学的な教義をどこまで直接表そうとしたかは、同時代の石棺や文書との比較によって検討されています。(参照:バチカン美術館|「教義の石棺」(340年頃))

350年頃の受難石棺|冠とキリストの記号

ドミティッラ地下墓地の周辺から出た350年頃の「受難場面の石棺」は、ねじれた柱を小さな区画の間に並べ、各場面を建築のように区切ります。左には十字架を担ぐキレネ人、茨の冠を与えられるキリスト、右にはピラトの前に立つキリストと手を洗うピラトが表されています。茨の冠は宝石を付けた王冠のような形に彫られ、苦難の場面に王権の図柄が組み込まれています。

中央には十字架の上にギリシア語のキリストの頭文字を重ねた記号があり、足元には驚いた兵士が二人座ります。キリストの死体を十字架につけた姿は描かれていません。ここでは復活と勝利に結びつく記号として十字架が用いられました。立像を囲む小柱と三角形の破風には、伝統的なローマの石棺彫刻に使われてきた形式が続いています。(参照:バチカン美術館|受難場面の石棺(350年頃))

359年のユニウス・バッスス石棺|十の枠に分けた人物群

359年に亡くなったローマ市長官ユニウス・バッススの石棺には、二段に五区画ずつ、合計十の聖書場面が刻まれています。上段の中央では若いキリストがペテロとパウロを左右に従えて座り、その足元に天を擬人化したカエルスが広げた布を支えています。下段にはロバに乗るキリストのエルサレム入城、獅子の中のダニエルなどが置かれ、柱とアーチが各場面を細かく区切ります。

棺の碑文は死者の職位と359年の没年を伝え、作品の制作年代を論じる確かな起点となります。美術史家エリザベス・ストラザーズ・マルボンは1990年の研究で、上下の場面を独立した聖書挿絵として見るだけでなく、古代ローマの公的肖像や石棺の構成と関連づけて読みました。中央の若いキリストが皇帝のように座り、天の擬人像を足元に置く構図は、当時の視覚表現を宗教図像へ取り入れた例です。原物はバチカンに保存され、ローマ文明博物館には石膏複製があります。(参照:ローマ文明博物館|ユニウス・バッスス石棺(359年)の記録/エリザベス・ストラザーズ・マルボン|ユニウス・バッスス石棺の図像研究(1990年)/北米キリスト教外典文学研究会|ユニウス・バッスス石棺の図像配置)

「三人の羊飼いの石棺」|墓主の信仰をどう判断するか

4世紀後半の「三人の羊飼いの石棺」は、ローマのプレテスタート地下墓地付近から出た大理石棺です。前面には羊を肩に担ぐ三人の牧人が台座の上に並び、間には葡萄を摘む小さな翼のある人物たちが刻まれています。左右の側面まで農村の場面が続き、背面には庭の柵を思わせる格子模様があります。四面すべてが彫刻で飾られているため、独立した墓廟の中で周囲から見られる位置に置かれた可能性があります。

羊を担ぐ若者は、伝統的なローマ美術にもキリスト教の「善き羊飼い」にも登場します。バチカン美術館は、この作品がキリスト教墓地の近くから出た事実と、図柄が古代の牧歌的な来世表現に通じる事実を併せて示し、注文主の宗教的な所属について研究が続いていると説明しています。発見場所と単独のモチーフだけから信仰を断定できない事例です。(参照:バチカン美術館|「三人の羊飼いの石棺」の解釈/バチカン美術館|羊を担ぐ牧人像と18世紀の修復)

地下墓地の壁画と金箔入りガラス|信仰の重なる場所

ディーノ・コンパーニ通りの地下墓室|神話と聖書の絵

ローマのラティーナ街道沿いにあるディーノ・コンパーニ通りの地下墓室は、4世紀の富裕な複数の家族が利用した施設です。小さな埋葬室や通路の壁に百点を超える絵が残り、聖書に基づく場面と伝統的な神話の場面が近い場所に描かれています。部屋ごとに天井の円や壁の帯で画面を区切り、人物像をその中へ配置した、地下に設けられた多彩な絵画空間です。

教皇庁聖考古学委員会は、この墓室を4世紀のローマの有力家族の共同墓として説明し、利用者の全員がキリスト教徒になっていたわけではなかったとしています。ある部屋には神話を題材にした連続画面があり、隣の部屋には聖書の出来事が描かれました。ローマでは信仰の異なる家族が同じ葬送文化の中で職人と材料を利用していたことを、具体的な壁の位置から確かめられます。(参照:教皇庁聖考古学委員会|ディーノ・コンパーニ通りの地下墓室)

地下墓地の埋葬と壁画|4世紀に変わったこと

3世紀に整えられたローマの地下墓地は、4世紀にも埋葬の場所として使われ、通路の壁に作られた横穴や、漆喰を塗った家族墓室に新しい装飾が加わりました。墓室の天井では、中央の円形区画に羊飼いや祈る人物を置き、周囲にヨナ、ダニエル、パンと魚の奇跡などを配置する構成が続きます。地上には殉教者の墓を記念する聖堂も建てられ、地下の埋葬と地上での集会が関係を深めていきました。

地下墓地の壁画は、埋葬に立ち会う家族が比較的近い距離で見るための絵です。長い通路から墓室へ進むと、曲がった天井や半円形の壁面に人物が現れます。洞窟の暗さ、灯火の使用、塗られた漆喰の色といった物理的な条件が、絵の見え方を左右しました。すべての墓室が同じ年代に描かれたわけではなく、通路の拡張と壁画の制作順序が調査されています。(参照:教皇庁聖考古学委員会|キリスト教地下墓地の保存/教皇庁聖考古学委員会|ディーノ・コンパーニ通りの地下墓室)

金箔入りガラス|器の底を墓の印に使う

4世紀のローマでは、薄い金箔を透明なガラスに挟んで絵を残した「金箔入りガラス」が多く作られました。金箔を刻んで人物や文字の輪郭を作り、上から別のガラスで封じると、金の細い線と光沢がガラスの内部に保たれます。もとは食器の底や小さな装飾品として作られたものが、割り離されて地下墓地の埋葬穴を閉じるモルタルに嵌め込まれた例があります。

メトロポリタン美術館が刊行した2002年の学術研究は、19世紀に制作された金箔入りガラスの模写と古代の現物を比較し、図柄の記録と収集・保存の履歴を整理しました。小さな円形のガラス底は、墓に葬られた個人や家族に関わる品であった可能性があります。器として使われたときと墓の印に転用されたときでは、同じ画像の見られる場所が変わりました。(参照:メトロポリタン美術館学術誌|地下墓地の金箔入りガラス研究(2002年))

ペテロとパウロ、そして母子|同じ技法の異なる題材

同館の4世紀後半のガラス底は直径約9.9センチで、中央のキリストの頭文字を重ねた記号を挟んでペテロとパウロが向かい合います。二人は髪と髭の形によって区別され、周囲のガラスは薄く平らに残っています。聖人の顔と文字を金箔で描き、透明な表面越しに見せる方法です。

同じ館にある4世紀初めの直径約4.8センチの金箔入りガラスメダルには、髪を結った母と首飾りを付けた子供が描かれています。こちらはエジプトのアレクサンドリアで作られたと推定され、装身具として着用するための品です。宗教像と家族の肖像は同じガラス技法で作られ、器、墓の飾り、身に着ける装身具として異なる形に利用されました。(参照:メトロポリタン美術館|ペテロとパウロの金箔入りガラス底/メトロポリタン美術館|母子を表す金箔入りガラスメダル)

ユダヤ教の金箔入りガラス|七枝燭台と律法の櫃

メトロポリタン美術館所蔵の300〜350年頃の金箔入りガラスの破片には、巻物を納めた開いた櫃と、左右に立つ七枝燭台、角笛、柑橘の実が描かれています。遺物は約7センチ四方の残存片で、もとの器底の一部です。櫃の棚には巻かれた書物が置かれ、宗教儀礼で用いる物が線の細かな図柄として封じ込められています。

ローマのユダヤ教徒も地下墓地を利用し、七枝燭台や律法の櫃を図柄とするガラス片を墓に添えました。キリスト教徒の墓に聖人の肖像が用いられるのと同じように、器の底という身近な品を記念のために選んでいました。二つの共同体が同じ都市の職人技術を使っても、描かれた記号と物語の内容はそれぞれの信仰に属しています。(参照:メトロポリタン美術館|燭台・律法櫃・角笛を表す金箔入りガラス/メトロポリタン美術館|古代末期のユダヤ教美術)

帝国各地の床モザイクと墓室壁画

アクイレイア|テオドルス聖堂の760平方メートルの床

北イタリアのアクイレイアでは、313年後まもなく司教テオドルスの時代にキリスト教の集会施設が造られました。初期の建物は二つの長方形の広間を並べ、その床に小さな石片を敷き詰めたモザイクを持ちました。南側広間に残る床の面積は約760平方メートルで、複数の幾何学的な枠の中に人物、動物、魚、鳥、植物を組み合わせています。司教の名を含む奉献の銘文も床に組み込まれています。

東側の大きな区画は『ヨナ書』の物語で占められます。海の中で魚が泳ぎ、怪物に飲み込まれるヨナ、岸に吐き出されるヨナ、植物の下で休むヨナが、漁師の姿とともに描かれています。4世紀の集会所で、魚や波の色と動きを示す装飾の中に救済に関わる聖書の物語が置かれました。現在の大聖堂の柱や壁は11世紀以後の工事も含み、1909年に後世の床下から見つかったモザイクこそが初期4世紀の確かな遺構です。(参照:アクイレイア財団|テオドルス聖堂と床モザイク/イタリア文化省|アクイレイアの4世紀モザイク)

アクイレイアの住宅広間|聖堂と共有した技法

アクイレイアでは、2009〜2010年の発掘によって、4世紀初めの住宅に付属した大きな広間とモザイク床も調査されました。半円形の奥まった部分を持つ部屋で、床には布の幕が垂れているように色の濃淡を並べた模様が施されています。建物の壁と床は数段階に改修され、その後、5世紀の司教の居所と考えられる建築が重ねられました。

聖堂の床に聖書の場面を刻んだ職人がいた同じ都市で、私的な広間には来客を迎えるための華やかなモザイクが作られました。宗教施設の装飾と住宅装飾では題材が違います。小さな石片を色ごとに並べ、広い床面の区画を整理する制作技術が共有されていたことは、二つの出土場所から確かめられます。(参照:アクイレイア財団|4世紀の住宅広間の発掘/アクイレイア財団|テオドルス聖堂と床モザイク)

ロドの床モザイク|動物と船を下絵から組み立てる

現在のイスラエル中部のロドでは、1996年の道路工事中に大型の床モザイクが発見されました。瓦礫の中に3〜4世紀の土器や貨幣があり、制作は300年頃と推定されています。古代の住宅の広間を飾っていたと考えられ、中央の多角形の枠にはライオン、象、キリン、サイなどが描かれています。その近くには魚とイルカ、帆を張る船と帆を降ろした船を並べた海の場面が広がります。

調査では、石片を埋め込むモルタルの下地に線で引いた輪郭や、石を置く前に施した下描きが見つかりました。柔らかなモルタルには作業者の裸足と履物の跡も残っていました。色石の微細な並べ方と制作中の手順が一緒に調べられた貴重な例です。画面に宗教を明示する図柄がないため、所有者が伝統的な神々を信仰した人か、ユダヤ教徒か、キリスト教徒かは分かっていません。(参照:メトロポリタン美術館|ロドの床モザイクと制作痕跡)

ペーチュ|地上の礼拝所と地下の家族墓室

現在のハンガリー南部、ローマ時代のソピアナエに当たるペーチュでは、4世紀の地下墓室群が保存されています。地下には石造の埋葬室があり、その上に地上の記念礼拝堂を重ねる構造を持つ例があります。地下の壁には聖書の人物や植物などが描かれ、墓室を使う家族の記念のために小さな建築が造られました。

ユネスコの記録では主要な構造物が16件保存され、その周囲にはより小さな墓が500基以上あります。4世紀の属州都市でも、ローマの地下墓地とは異なる石造の小建築と壁画が発達しました。現在の発掘・保存施設では地上と地下の空間の関係を観察でき、出土した構造の修復部分と古代に残る部分が区別されています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ペーチュの4世紀地下墓地)

エジプトのバガワト墓地|ドーム天井の出エジプト壁画

エジプト西部のハルガ・オアシスには、土煉瓦で造られた小さな墓廟が集まるバガワト墓地があります。メトロポリタン美術館の発掘記録は、平らな屋根やドームを持つ墓廟が263棟残ることを報告しています。4世紀の「出エジプトの礼拝堂」では、ドーム天井を三段ほどの帯に分け、ノアの箱舟、ヨナ、アダムとエヴァ、獅子の中のダニエル、モーセと民衆などの旧約聖書場面が描かれました。

20世紀前半の調査では、色のある壁画を記録するため紙にテンペラで模写が作られました。現地の原画には失われた部分が多く、現在メトロポリタン美術館にある紙の画像は調査時の複製です。同じ旧約聖書の物語がローマの石棺にも現れますが、エジプトの墓廟はドーム状の壁面へ図像を並べ、石灰質の漆喰と彩色で空間を飾っています。地元の葬送文化と地中海世界に広がる宗教図像が同じ場所に残されました。(参照:メトロポリタン美術館|ハルガ・オアシスの壁画と現代調査/メトロポリタン美術館|バガワト墓地の考古調査)

4世紀の書物と布|絵画以外の制作技術

シナイ写本|羊皮紙の四列組と写字生の仕事

4世紀中頃に制作された『シナイ写本』は、ギリシア語の聖書を大判の羊皮紙に筆写した書物です。開いた一枚のページに縦四列の文字が規則正しく並ぶ珍しい構成を持ちます。ページにはあらかじめ線が引かれ、写字生がそれぞれの列へ文字を記しました。大きな書物を作るためには羊皮紙を整え、写す原本を準備し、複数の人の作業を振り分け、筆写した後で校正し、折り丁を決められた順番に綴じ合わせる必要がありました。

シナイ写本共同研究事業の書き手の分析では、少なくとも三人の筆跡が区別され、四人目が存在する可能性も検討されています。19世紀のティッシェンドルフは四人と推定しましたが、その後の研究で人数の数え方が見直されました。写本の制作場所と詳細な年は確定しておらず、文字の形や本文の比較によって4世紀中頃と位置づけられます。細密な挿絵の有無よりも、版面の構成と筆写工程そのものが、この時代の書物制作を物語ります。(参照:シナイ写本共同研究事業|4世紀写本の制作工程/シナイ写本共同研究事業|写本の年代と分蔵記録)

分蔵された写本と保存調査|残された紙面を読む

『シナイ写本』の現存部分は現在、英国図書館、ライプツィヒ大学図書館、ロシア国立図書館、シナイの聖カタリナ修道院に分かれて保存されています。19世紀にティッシェンドルフが持ち出した葉と、1975年に修道院で新たに見つかった断片は別の時期の発見です。共同研究事業は分散した原本を撮影し、元の丁付けを確かめながらデジタル上でつなぎ直しています。

羊皮紙の肉面と毛面の交互の並び、糸で綴じた穴、削られた文字、古い訂正の筆跡を調べると、筆写から綴じ付け、使用中の修正まで、書物の履歴が残っています。保存担当者はインクの組成も調査課題に挙げています。文字列の内容に加えて紙面の幅や折り丁の順番が重要になるのは、写本が手で作られ、繰り返し使われた物だからです。(参照:シナイ写本共同研究事業|写本の年代と分蔵記録/シナイ写本共同研究事業|羊皮紙とインクの保存調査)

エジプトの壁掛け布|染色と絵画の出土履歴

ローマ領エジプトでは、麻布や羊毛に色を施した布が衣服、住居、葬儀に使われました。メトロポリタン美術館は2015年の展覧会で、輪状に織った糸がモザイクのように見える布と、紅海を渡る旧約聖書の物語を描いた布の断片を分析し、建築内の壁掛けや埋葬用の布としての使い方を検討しました。絵画やモザイクで知られる物語が、折り畳みや移動のできる繊維の上にも描かれていました。

紅海横断図の五つの断片は、青く染めた粗い麻布に顔料で人物を描いたもので、制作年代は2世紀中頃から4世紀中頃という幅を持ちます。美術館の作品記録によると、資料は2022年8月に返還され、現在は同館の所蔵品ではありません。研究ではキリスト教とユダヤ教のどちらの用途だったかにも議論があり、当初の使用場所や埋葬時の転用を区別する必要があります。原物の移動と出土の経緯まで記録することが、布の歴史を調べるために欠かせません。(参照:メトロポリタン美術館|エジプト出土の儀礼用織物調査(2015年)/メトロポリタン美術館|紅海横断図の布断片と2022年の返還)

略年表|301〜400年の主な出来事

  • 303年|ディオクレティアヌスらの下でキリスト教徒への大規模な迫害が始まる
  • 308年|マクセンティウスがローマの大バシリカの建設を始める
  • 311年|ガレリウス帝がキリスト教徒に対する寛容令を出す
  • 312年|コンスタンティヌスがミルウィウス橋の戦いでマクセンティウスを破る
  • 313年|コンスタンティヌスとリキニウスの宗教政策が各地へ伝達される
  • 315年|ローマでコンスタンティヌス凱旋門が奉献される
  • 320年頃|この頃までにアクイレイアで司教テオドルスのモザイク床が作られる
  • 324年|コンスタンティヌスが帝国の単独皇帝となる
  • 325年|ニカイアでキリスト教の公会議が開かれる
  • 327年頃|この頃までに旧サン・ピエトロ大聖堂の建設が進む
  • 330年|コンスタンティノープルの奉献が行われ、記念貨が打刻される
  • 335年頃|この頃、ヘレナが亡くなり斑岩石棺が墓廟に置かれる
  • 337年|コンスタンティヌスが死去する
  • 339年|ベツレヘムの降誕聖堂が完成する
  • 340年頃|この頃「教義の石棺」が制作される
  • 354年|コンスタンティナが亡くなり墓廟へ葬られる
  • 359年|ユニウス・バッススが死去し、碑文のある石棺が残る
  • 360年|コンスタンティノープルで初代ハギア・ソフィア聖堂が奉献される
  • 380年|テオドシウス1世らがニカイア派の信仰を支持する命令を出す
  • 384年頃|この頃までに巡礼者エゲリアがエルサレムなどを記録する
  • 391年|テオドシウス1世の下で伝統的な神殿祭祀への禁止措置が進む
  • 395年|テオドシウス1世が死去し、息子たちが帝国の東西をそれぞれ統治する

まとめ|4世紀の建築・彫刻・画像

4世紀のローマ帝国では、皇帝のために古い浮彫を組み直した凱旋門と、従来の公共建築を引き継いだ大聖堂が同じ都市で造られました。列柱の長い広間、煉瓦とコンクリートの大きな屋根、石棺に人物を彫る技法、色石を敷く床モザイクなどは、ローマ各地で蓄積されていた建築と工芸の技術です。教会建設の広がりに伴い、聖書の場面や殉教者の記憶が大きな建物と墓室の装飾に組み込まれました。

確かな年を持つ作品もあります。315年の凱旋門には2世紀の浮彫が再使用され、359年のユニウス・バッスス石棺には同年に亡くなった人物の記録が残ります。4世紀初めのアクイレイアではヨナの物語が広い床に描かれ、300年頃のロドでは動物や船のモザイクを作った職人の足跡と下描きが保存されました。建築の材料や床の施工跡は、どのような場所が作られ、どのように飾られたかを具体的に示しています。

墓室と小工芸品の解釈には未解決の問題があります。羊を担ぐ牧人像は複数の宗教で用いられ、ロドの床の注文主がどの信仰に属したかは分かっていません。コンスタンティヌス巨像の衣の材料やヘレナの石棺が最初に誰のために作られたかも、断片と比較資料に基づいて検討されています。現存する聖堂には後世の改修が多く、古い基礎と新しい装飾を区別する調査が続きます。4世紀の作品を理解するうえでは、信仰の歴史とともに、いつ、どこで、誰のために作られた物かを個別に確認することが欠かせません。(参照:バチカン美術館|「三人の羊飼いの石棺」の解釈/カピトリーノ美術館|コンスタンティヌス巨像と復元研究/バチカン美術館|ヘレナの斑岩石棺)

参考資料・出典