紀元前10000–8000
新石器時代初頭の西アジア
巨大石柱と動物の彫刻
紀元前1万年頃、西アジアでは寒さが緩み、長い氷期から現在につながる温暖な時代への移り変わりが始まりました。トルコ南東部からシリア北部にかけての丘陵には、野生の小麦や大麦が育ち、ガゼルや野生のウシ、イノシシなどが生息していました。人々は狩猟や植物の採集を続けながら、同じ場所に長く住み、食料を蓄える生活を少しずつ広げていきました。
こうした暮らしの変化と同じ頃、現在のトルコ南東部では、高さ数メートルの石柱を並べた大きな建造物が造られました。ギョベクリ・テペの柱にはキツネやヘビ、鳥などの動物が彫られ、中央に立つT字形の石柱には人間の腕や手、腰帯が表されています。人々は金属の道具を使わず、石灰岩を切り出し、削り、運んでいました。
周辺のカラハン・テペでは、岩盤を掘り下げた部屋に柱を彫り残し、壁から人の顔を浮かび上がらせました。サイブルチでは、男性とヒョウ、雄牛を組み合わせた長い浮彫も見つかっています。これらの建物がどのような集まりに使われ、動物や人物が何を意味していたのかについて、発掘や年代測定、図像の研究が続いています。
CONTENTS
氷期の終わりと西アジアの新しい暮らし
寒さが緩んだ土地で、野生の穀物を集める
紀元前1万年頃、西アジアでは最終氷期末の寒冷期が終わり、現在につながる温暖な時代が始まりました。トルコ南東部からシリア北部にかけての丘陵や平野には、野生の小麦や大麦、ピスタチオなどの植物が生育し、ガゼル、野生のウシ、イノシシといった動物が生息していました。人々はこうした資源を採集・狩猟しながら、一定の場所に長く暮らす生活を増やしていきました。
この変化には長い前史があります。紀元前1万2500年頃からレヴァント地方で発達したナトゥーフ文化の集落には、石造りの住居、埋葬施設、穀物を砕くための重い道具が残されています。農耕の成立は一度に起きた出来事ではなく、植物の採集、貯蔵、栽培、家畜化が地域ごとに異なる速さで進んだ過程として研究されています。ギョベクリ・テペ周辺でも、植物遺体や地形などから当時の環境が調べられています。(参照:Grosmanほか(2016)|ナトゥーフ文化の居住遺構と生活/Knitterほか(2019)|ギョベクリ・テペ周辺の古環境)
土器が広まる前に建てられた石造施設
現在のトルコ南東部にあたる上部メソポタミアでは、土器が一般化するより早い時期に、大きな石柱を備えた建造物が造られました。考古学ではこの時期を「先土器新石器時代」と呼びます。名称は生活のすべてが旧石器時代と明確に切り替わったことを意味せず、土器の普及以前に石造建築や定住生活が発達した段階を指しています。
ギョベクリ・テペでは紀元前9600〜8200年頃、円形・楕円形から方形へと形を変えながら建造物が使用されました。高さ数メートルの石柱には動物の姿が彫られ、一部は人物の身体を表す形に仕上げられています。大規模な造形と、野生植物や動物に頼る生活が同じ地域・時期に存在したことが、この遺跡をめぐる研究の出発点となりました。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ギョベクリ・テペの遺構と年代/ユネスコ世界遺産センター|ギョベクリ・テペの遺構と年代)
ギョベクリ・テペの発見と円形建造物
石灰岩の丘で見つかった巨大な遺構
ギョベクリ・テペは、現在のトルコのシャンルウルファ近郊、ゲルムシュ山地の石灰岩の丘にあります。1960年代の調査で石器が確認され、1990年代にはクラウス・シュミットらの調査によって、地表近くに巨大な石造建築が残されていることが明らかになりました。建物の壁や石柱は、後の時代に堆積した土石の下に埋もれていました。
遺跡では、円形・楕円形の大型建造物に加え、小さな方形の建物や生活に関わる資料も見つかっています。発掘当初は巨大な建物に関心が集中しましたが、遺跡の利用には建物の改修や、異なる時期の活動が重なっています。紀元前9600〜8200年頃という幅は、すべての石柱が同時に造られたことを示す年代ではありません。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ギョベクリ・テペの遺構と年代/Dietrichほか(2019)|ギョベクリ・テペの穀物加工に関する研究)
中央の二本と周囲の石柱
よく知られるD建造物では、大きなT字形石柱が二本並んで立ち、その周囲を取り囲む壁にも小型の石柱が据えられています。円形の空間の中心を高い石柱が占め、周辺の石柱が内側を向く配置です。近くにあるA・B・Cなどの建造物にも同じような石柱が用いられていますが、平面形や彫刻の内容は異なります。
大型の円形建造物には直径がおよそ20メートルに及ぶ例があり、中央の石柱は高さ約5.5メートル、重さ約8〜10トンです。後の段階では、より小さな方形建造物に高さ2メートルほどの石柱を置く例もありました。巨大な施設だけを取り出して考えるより、敷地内の規模の異なる建物や、長い利用の過程を一緒に見る必要があります。(参照:ドイツ考古学研究所・Dietrich(2016)|巨石の採石と運搬/Dietrichほか(2019)|ギョベクリ・テペの穀物加工に関する研究)
T字形石柱に表された人の身体
第18号・第31号石柱の腕、手、腰帯
D建造物の中央の二本は、それぞれ第18号石柱と第31号石柱と呼ばれています。横長の頂部を持つT字形をしており、軸の側面には腕が彫られています。腕は肘を曲げるように下へ伸び、長い指を備えた手が腹部の前に置かれています。腰のあたりには帯が回り、その下には動物の毛皮を思わせる腰布の表現もあります。
石柱に目や鼻、口は刻まれていません。頭部に相当する幅広い石の形と、下部に表された腕や腰帯によって、顔のない人間の姿が示されています。建築を支えるように見える石柱そのものを身体として彫り上げた点は、動物を石柱の表面に浮彫する方法とは異なります。誰の姿を表していたのかは判明していません。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ギョベクリ・テペの遺構と年代/ドイツ考古学研究所・Dietrich(2016)|巨石の採石と運搬)
石柱の表面に刻まれた衣服と記号
中央の石柱には、人の腕や手だけでなく、腰帯に並ぶ幾何学的な模様や胸の下の記号も刻まれています。第18号石柱の身体に沿ってキツネの姿が彫られるなど、人の身体を表す部分と動物が同じ石の上に組み合わされています。
これらの模様が衣服、身分、所属集団、あるいは別の観念と結びついていたかどうかは研究上の問題です。確かめられるのは、制作者が石柱の幅や角を利用し、正面と側面に異なる要素を配置していたことです。立体的な石柱は、室内の位置を占める物体であると同時に、複数の方向から読まれる像でもありました。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ギョベクリ・テペの遺構と年代/ドイツ考古学研究所・Dietrich(2017)|ギョベクリ・テペの動物図像)
石の切り出しと運搬の痕跡
周辺の石灰岩台地には、彫りかけた石柱や採石の溝が残っています。調査チームのオリヴァー・ディートリヒは2016年、石材の周囲に石器で溝を掘り、岩の自然な割れ目を利用して切り離す工程を説明しました。石柱を運ぶ際には、木材や綱などの道具を使った可能性がありますが、具体的な運搬方法の細部は確定していません。
採石場には、長さ約7メートル、厚さ約1.5メートルの未完成のT字形石柱も残っています。仕上げ途中で放棄された理由は分かりません。運び終えた完成品だけでなく、切り出しの途中の石材が残されているため、当時の石工たちがどの程度まで石を加工し、どの段階で運搬を試みたのかを検討できます。(参照:ドイツ考古学研究所・Dietrich(2016)|巨石の採石と運搬)
石柱に刻まれた野生動物
キツネ、ヘビ、イノシシの浮彫
ギョベクリ・テペでは、石柱の平らな面や側面にキツネ、ヘビ、イノシシ、鳥、サソリなどが彫られています。動物の輪郭を残して周囲の石を低く削る浮彫が多く、一部には石柱の面から大きく突き出す高い浮彫もあります。野生のウシやガゼルなどの動物が生活資料に現れる一方、彫刻には獰猛な動物や危険を伴う小動物が目立ちます。
動物の種類には建造物ごとの偏りがあります。ディートリヒらの発掘チームは、A建造物ではヘビ、B建造物ではキツネ、C建造物ではイノシシの表現が目立ち、D建造物には鳥や昆虫など多様なモチーフが見られると整理しています。建物ごとの違いを集団の象徴とみる仮説もありますが、動物の選択理由を直接示す記録は残っていません。(参照:ドイツ考古学研究所・Dietrich(2017)|ギョベクリ・テペの動物図像/Notroffほか(2017)|第43号石柱の天文解釈への反論)
第43号石柱|鳥、サソリ、頭のない人物
D建造物の第43号石柱は「ハゲワシの石」とも呼ばれます。広い面の上方には翼を広げた大きな鳥が彫られ、その近くに丸い形や別の鳥が置かれています。下方にはサソリ、ヘビ、鳥の首が見え、右下には頭を欠いた小さな人物が表されています。人物の陰茎も明瞭に彫られており、単に破損した立像の断片とは異なる構図です。
ディートリヒは2016年、この鳥と人物の組み合わせを死に関わる図像として読む可能性を説明しました。同じ石柱には、細い側面にも動物が彫られています。広い面の図柄だけでひとつの物語や天文現象に結びつける解釈には限界があり、複数の面に刻まれた図像と建造物全体の関係が検討されています。(参照:ドイツ考古学研究所・Dietrich(2016)|第43号石柱の鳥と人物/Notroffほか(2017)|第43号石柱の天文解釈への反論)
色が残っていた実物大のイノシシ像
2023年、D建造物の北側で、石灰岩から彫られたほぼ実物大のイノシシ像が発見されました。長さ1.35メートル、最大の高さは70センチメートル。牙と口を開いた頭部が大きく表され、前脚も彫り出されています。石柱に沿った細い浮彫とは違い、建物内の石のベンチの上に置かれた立体彫刻です。
発掘を行ったドイツ考古学研究所は、像の舌に赤、身体の別の部分に黒と白の顔料が残っていたと2023年に報告しました。イノシシ像が立っていたベンチの正面には、H字形の記号、三日月形の模様、二匹のヘビ、三つの顔または仮面が彫られています。石柱と彫刻が灰色の石だけで構成されていたという現在の印象を見直す、色彩の直接的な証拠となりました。(参照:ドイツ考古学研究所(2023)|D建造物で発見された彩色イノシシ像)
食べ物を用意し、人が集まった場所
七千点を超える石製の道具
ギョベクリ・テペの発掘では、石臼、すり石、杵、鉢など、植物を砕く道具が大量に見つかっています。ローラ・ディートリヒらは2019年、7,000点を超える石製資料を調べ、摩耗痕や付着物、石の表面の分析から、野生の穀物を加工していたことを示しました。大きな石柱のある場所で、食料を準備する作業も活発に行われていたのです。
同じ研究では植物に由来する微細な物質も分析され、穀物利用の痕跡が確かめられました。これだけでギョベクリ・テペの住民が栽培された小麦だけを食べていたと結論づけられるわけではありません。石を並べた大きな空間を維持する人々が、どこで、どのように食事を調達したかについて、植物と動物の遺存物の研究が続いています。(参照:Dietrichほか(2019)|ギョベクリ・テペの穀物加工に関する研究)
大きな石の容器と共同の食事
同じ遺跡には大きな石製容器もあります。2020年にディートリヒらが発表した研究では、600点前後の石製容器の資料が検討され、なかには容量が約165リットルに達する大きな石槽もありました。表面の摩耗や残留物、再現実験の結果から、穀物を煮る調理に使われた可能性が示されています。
こうした容器や臼の存在から、多数の人々が集まった際の食事の準備を想定する研究があります。大人数が石柱の製作に関わった可能性と、食料の共同利用との間に関連があったのかは、現在も検討されています。「祭りのための施設」だったという解釈も、具体的な食事の痕跡や建物の構造を組み合わせて考える必要があります。(参照:Dietrichほか(2020)|ギョベクリ・テペの石製容器と加熱調理/ドイツ考古学研究所・Notroff(2017)|集会と共同飲食の考古学)
カラハン・テペ|岩盤に彫られた柱と顔
『ギョベクリ・テペ』と『カラハン・テペ:世界初の巨石遺跡』(2023年)の著者であるヒュー・ニューマンが、トルコ南東部のカラハン・テペを探検します。紀元前9400年に遡るこの遺跡で、ヒューはドローンによる素晴らしい映像、独占写真、新しい映像、復元図、遺跡で発見された新しい遺物の3Dスキャンなど、新たに発掘されたエリアすべてを紹介します。また、ヒューはJJエインズワースと自身が遺跡で発見した驚くべき冬至の配列について最新情報を提供し、最後の氷河期の終わりに遡る世界初の「超文明」を明らかにしているタシュ・テペラー・プロジェクトについても議論します。
石灰岩を掘り込んだ建造物群
ギョベクリ・テペから東へ離れたカラハン・テペでも、大きな石柱と石彫が見つかっています。2019年から始まった発掘では、石灰岩の地面を掘り下げた空間と、そこにつながる建造物群が現れました。調査責任者ネジミ・カルルは2021年の報告で、これらを先土器新石器時代の後半にかけて使用された施設として紹介しています。
AD建造物は直径約23メートルに及び、一部の壁は岩盤を高さ4メートル以上削って作られています。壁に沿って段状のベンチが設けられ、中央には石柱を置いた痕跡が残っています。石を地面から切り出して建てる部分と、もとの岩盤を掘って空間を作る部分とが同じ建造物で使われていました。(参照:Karul(2021)|カラハン・テペの埋められた建造物)
AB建造物|十一の柱と壁の人頭
隣接するAB建造物は約7メートル×6メートルで、岩盤を掘った半地下の部屋です。南側から階段で降りる構造になっており、西側の壁には額、唇、あごひげを備えた人間の頭部が、岩から突き出すように彫られています。頭部はわずかに入口の方を向いています。
室内には、地面の岩盤から彫り残された十本の柱があります。頭部に向き合う前列の四本は高さ約1.6〜1.7メートル、奥側の六本は約1〜1.4メートルです。さらに別に作られた石材が一本据えられていたため、柱状の造形物は計十一あります。カルルはこれらを男性器に似た形と記述していますが、その形が何を意味し、どのような行為に用いられたかは確定していません。(参照:Karul(2021)|カラハン・テペの埋められた建造物)
建物を石で埋め、使用を終える
カラハン・テペのAB建造物では、柱の周囲を埋めた石の層や、階段をふさいだ堆積物が確認されています。カルルは2021年、石の量や詰め方から、施設の使用を終える際に意図的に埋め戻されたと解釈しました。建築の中心に据えられた人頭や柱が、後に土石の下に覆われたことになります。
一方、より大きなAD建造物には壁の崩壊や解体を伴う跡があり、建造物ごとに使用終了の過程が異なります。埋め戻しがなぜ行われたのかについては、儀礼的な終結、場所の再利用、建築上の理由など複数の可能性があります。埋めたという行為の痕跡と、その目的の解釈は区別する必要があります。(参照:Karul(2021)|カラハン・テペの埋められた建造物)
サイブルチ|人と動物が並ぶ石の浮彫
ギョベクリ・テペの影に隠れるように、現代のトルコの村の下には、1万1000年前の集落、サイブルチが眠っている。2025年、考古学者たちは巨大な集会所の傍らで、口を縫い合わされた不気味な人間の顔を発見した。しかし、真の驚きは彫刻そのものではなく、その周囲に残る70もの建造物だった。人類最初の入植者たちが実際に生活し、料理をし、集会を開いていた場所が明らかになったのだ。これは、世界最古の物語、家族の誕生、そして今もなお地中から掘り出され続ける石器時代の町の物語である。
集会に使われたと考えられる円形の建物
シャンルウルファ地方のサイブルチでは、2021年の調査で円形の石造建造物と、その内部のベンチに彫られた人物・動物の浮彫が見つかりました。建物は直径約11メートルで、床は石灰岩を削り、周囲に沿って座る場所が設けられています。浮彫のある面は、室内へ向かって開いています。
浮彫は高さ約70〜90センチメートル、幅約3.7メートルの帯状の範囲に彫られています。発掘者エイレム・オズドアンが2022年に発表した研究では、建物の平面とベンチの造りから、人々が集まるための特別な空間だった可能性が論じられました。年代はおおむね紀元前9千年紀の遺跡に属します。(参照:Özdoğan(2022)|サイブルチの人物・動物浮彫)
二人の男性とヒョウ、雄牛の浮彫
浮彫には五つの姿が横に連なっています。一方には大きな角の雄牛と、膝を曲げ、片手を上げた男性が向かい合っています。男性の手には六本の指が表され、もう一方の手にはヘビか音の出る道具とも読めるものを持っています。雄牛は胴体が横向きで、頭は二本の角が同時に見えるように彫られています。
もう一方には、歯を見せて口を開く二頭のヒョウが、正面を向く男性を挟むように配置されています。中央の男性だけは身体を大きく浮き上がらせる高浮彫で、顔には大きな目と唇、首元には三角形の飾りが刻まれています。オズドアン(2022)は、別々の人物と動物を一列に並べただけではなく、互いに関係する場面が構成されていると論じました。何の出来事や物語を示したかは明らかになっていません。(参照:Özdoğan(2022)|サイブルチの人物・動物浮彫/Özdoğanほか(2024)|サイブルチの集落と造形の再検討)
「神殿」なのか|巨大建造物の解釈
シュミットの儀礼施設説と後の発見
ギョベクリ・テペの発掘を主導したクラウス・シュミットは、巨大な石柱と動物図像を備えた建造物を、儀礼に関わる特別な施設として重視しました。農耕が十分に広まる前の狩猟採集民が、この規模の建築を残したことは、食料生産の発達が集団の儀礼や大規模建造物の出現に先立つという単純な考え方を問い直す契機となりました。
しかし「世界最古の神殿」という呼び名から、現代の宗教建築と同じ用途だったと想像するのは慎重であるべきです。ユネスコも、これらを共同体の建造物と説明し、儀礼との関係は可能性として示しています。生活用と考えられる建物の発見によって、丘全体が儀礼だけに使われていたという初期の見方も修正されてきました。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ギョベクリ・テペの遺構と年代/Banning(2011)|新石器時代の「神殿」解釈をめぐる批判)
住居と儀礼を分けられるのか
考古学者エドワード・バニングは2011年、ギョベクリ・テペの建物を「神殿」と断定する根拠に疑問を示しました。大きく装飾された建物にも生活の場としての機能があった可能性を挙げ、現代人の「日常生活」と「宗教」を厳密に分ける感覚を、そのまま先史時代へ当てはめることを批判しました。
一方で、中央に巨石を据えた建物が通常の住居と同じ役割だったと確定したわけでもありません。穀物を砕く大量の道具、調理用の石槽、異なる形式の建物、動物の彫刻が同じ遺跡に残されていることが分かり、居住、食事、共同の集まり、儀礼をどう組み合わせて考えるかが議論されています。(参照:Banning(2011)|新石器時代の「神殿」解釈をめぐる批判/Dietrichほか(2019)|ギョベクリ・テペの穀物加工に関する研究)
頭骨の加工と死者をめぐる仮説
ギョベクリ・テペからは人間の頭骨の破片も出土しています。ユリア・グレスキー、ユリアーネ・ヘルム、リー・クレアは2017年、三人に由来する頭骨の破片に深い溝が刻まれ、そのうち一つに孔が開けられていたと報告しました。頭骨に石器で何度も切り込みを入れた痕跡があり、装飾や吊り下げに関わる加工だった可能性があります。
研究者たちは、祖先を敬う行為や敵の頭を展示する行為などを仮説として検討しています。第43号石柱の頭のない人物とハゲワシの表現も、死者の扱いとの関連が論じられてきました。頭骨への加工自体は実物で確認できますが、どちらの儀礼が行われていたか、彫刻がその場面を描いたかについては決定的な証拠がありません。(参照:Gresky・Haelm・Clare(2017)|ギョベクリ・テペの加工された頭骨/ドイツ考古学研究所・Dietrich(2016)|第43号石柱の鳥と人物)
天文暦として読む説と批判
第43号石柱の鳥や動物を星座と結びつける説もあります。マーティン・スウェットマンは2024年の論文で、刻まれた記号の数や組み合わせを暦の表現とみなし、月と太陽の周期を表していると論じました。この解釈は考古学界で確立した読み方ではありません。
発掘チームのイェンス・ノトロフらは2017年、天文・彗星に結びつける先行仮説に対して、建物や石柱が改修・再配置されてきたこと、図像の一部だけを選んでいること、後世の星座をそのまま古代へ当てはめる問題を指摘しました。異なる解釈を区別して考えるには、石柱のある場所と年代、彫刻の全体像を確かめる必要があります。(参照:Sweatman(2024)|ギョベクリ・テペの暦・天文解釈/Notroffほか(2017)|第43号石柱の天文解釈への反論)
年代と発掘の進展
石柱を直接測れないという難しさ
石灰岩で作られた柱には、製作年を直接示す文字もありません。発掘では、柱の周辺の土層や壁材に含まれる炭化物などを調べ、建造物の使用時期を推定しています。ディートリヒらが2013年に公表した放射性炭素年代研究も、測定対象が石柱自体ではなく、遺構と関係する有機物であることを踏まえて年代を検討しています。
ギョベクリ・テペ全体の利用年代は紀元前9600〜8200年頃と整理されています。一方、2023年に見つかったイノシシ像について、発掘チームは紀元前8700〜8200年頃という年代を示しています。施設全体の長い歴史、個別建造物の使用時期、特定の彫像が置かれた段階には違いがあります。(参照:Dietrichほか(2013)|ギョベクリ・テペの放射性炭素年代研究/ドイツ考古学研究所(2023)|D建造物で発見された彩色イノシシ像)
現地に残る石柱と世界遺産としての保存
ギョベクリ・テペの巨大な石柱は、建物の基礎や壁とともに現地で保存されています。2018年にはユネスコの世界遺産に登録されました。見学用の屋根や保護施設が設けられていますが、遺跡の全域が発掘されているわけではなく、地中には今も未調査の建造物が残されています。
発掘によって、彩色の残る彫刻、生活に関わる道具、建物の使用終了時の石の詰め方など、新しい資料が見つかっています。これらは彫刻の意味を一度に解き明かすものではありませんが、石柱の作られ方と使われ方を、以前より具体的に考えられるようにしています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ギョベクリ・テペの遺構と年代/ドイツ考古学研究所(2023)|D建造物で発見された彩色イノシシ像)
略年表|紀元前10000–8000年頃の主な変化
- 紀元前10000年頃|西アジアの各地で、定住生活や野生植物の利用を進める集団が広がる。
- 紀元前9600年頃|ギョベクリ・テペで大きな石造建造物が造られ始める時期の目安。
- 紀元前9000年頃|ギョベクリ・テペで円形・楕円形の建造物が使われ、石柱に動物や人物が彫られる。
- 紀元前8700〜8200年頃|ギョベクリ・テペD建造物の彩色イノシシ像が属するとされる時期。
- 紀元前8500年頃|サイブルチで人物と動物を組み合わせた浮彫が制作されたと考えられる。
- 紀元前8200年頃|ギョベクリ・テペの主要な新石器時代の利用が終わる時期の目安。
- 1994年|シュミットがギョベクリ・テペの巨大石造遺構に注目し、後の本格調査につながる。
まとめ|石柱と彫刻から分かること、残る疑問
ギョベクリ・テペのT字形石柱には、腕や手、腰帯を刻んで人間の身体を表したものがあり、周囲の石柱にはキツネ、ヘビ、鳥、イノシシなどの野生動物が彫られています。採石場に残る未完成の石柱からは加工の途中を、建造物の内側で見つかった石製容器やすり石からは、食料を用意していた人々の活動を知ることができます。2023年に発見されたイノシシ像の顔料は、当時の石彫に色が用いられたことを示す直接的な資料となりました。
カラハン・テペでは、岩盤そのものを彫って柱や人の頭部が作られ、サイブルチでは人物と動物を組み合わせた場面がベンチに刻まれました。三つの遺跡に共通するのは、石の彫刻が建物の中に置かれ、そこで人々が集まった可能性があることです。一方、建物がどれほど日常生活に使われたか、人物や動物の姿が誰に何を伝えていたかは、まだ明らかになっていません。
儀礼施設とみる説、住居との連続性を重視する説、死者の扱いと関連づける説など、解釈は分かれています。発掘の進展によって建築の構造や彫刻の年代は少しずつ詳しくなっていますが、石柱の前で実際に何が行われていたかを復元するには、なお多くの資料が必要とされています。
参考資料・出典
- Grosmanほか(2016)|ナトゥーフ文化の居住遺構と生活
- Knitterほか(2019)|ギョベクリ・テペ周辺の古環境
- ユネスコ世界遺産センター|ギョベクリ・テペの遺構と年代
- Dietrichほか(2019)|ギョベクリ・テペの穀物加工に関する研究
- ドイツ考古学研究所・Dietrich(2016)|巨石の採石と運搬
- ドイツ考古学研究所・Dietrich(2017)|ギョベクリ・テペの動物図像
- Notroffほか(2017)|第43号石柱の天文解釈への反論
- ドイツ考古学研究所・Dietrich(2016)|第43号石柱の鳥と人物
- ドイツ考古学研究所(2023)|D建造物で発見された彩色イノシシ像
- Dietrichほか(2020)|ギョベクリ・テペの石製容器と加熱調理
- ドイツ考古学研究所・Notroff(2017)|集会と共同飲食の考古学
- Karul(2021)|カラハン・テペの埋められた建造物
- Özdoğan(2022)|サイブルチの人物・動物浮彫
- Özdoğanほか(2024)|サイブルチの集落と造形の再検討
- Banning(2011)|新石器時代の「神殿」解釈をめぐる批判
- Gresky・Haelm・Clare(2017)|ギョベクリ・テペの加工された頭骨
- Sweatman(2024)|ギョベクリ・テペの暦・天文解釈
- Dietrichほか(2013)|ギョベクリ・テペの放射性炭素年代研究
