701–800
ブリテン・アイルランドの美術とカロリング朝の成立
装飾写本、金工、地中海の建築
ヨーロッパ北西部には、現在のイングランド、スコットランド、ウェールズがあるブリテン島と、その西側のアイルランド島があります。ブリテン島の三地域は英国(イギリス)に属し、アイルランド島はアイルランド共和国と英国の一部である北アイルランドに分かれています。「ブリテン・アイルランド」は、この二つの島を中心とした地域の呼び名です。8世紀には現在とは異なる王国や修道院共同体があり、海を渡って人や書物が行き交っていました。
7〜8世紀のブリテン島とアイルランドでは、複雑な組紐模様や動物文様を特徴とする装飾写本、金工品、石彫が発展しました。これらの造形は、美術史では「島嶼美術(インシュラー美術)」と総称されます。《リンディスファーン福音書》には十字や鳥獣を組み込んだ細密な装飾があり、アイルランドの銀製ブローチや聖杯にも、金属の小さな面へ文様を詰め込む技巧が見られます。
同じ8世紀、大陸のフランク王国ではカロリング朝が成立し、宮廷で豪華な写本が制作されました。イタリアでは古代の建築を利用した教会が整えられ、地中海東部とイベリア半島ではイスラム諸政権による礼拝建築の造営が進みました。ここからは、装飾写本や金工品の細部を見つめ、宮廷の書物と都市の建築へと目を向けながら、8世紀の美術をたどっていきましょう。
CONTENTS
- ノーサンブリア|《リンディスファーン福音書》の細密な世界
- ウェアマス=ジャロー|大型聖書と聖カスバートの福音書
- ブリテンの石彫と骨細工|十字架、詩、伝説
- アイルランドの金工|《タラのブローチ》と《アーダーの聖杯》
- スコットランドのピクト文化|銀のブローチと石碑
- 800年頃の《ケルズの書》|文字と絵の境界
- 大陸へ渡った修道院文化|フルダ、ライヒェナウ、ザンクト・ガレン
- ガリアの書物とフランク王国|王朝交代の前後
- カール大帝の宮廷写本|紫の羊皮紙と整った文字
- ランゴバルドのイタリア|石の祭壇と礼拝堂
- ローマと東ローマ帝国|壁画と聖像をめぐる議論
- ウマイヤ朝の建築|ダマスクスとクサイル・アムラ
- アッバース朝とコルドバ|新しい都市とモスク
- 8世紀末の建築|アーヘンとアルプスの修道院
- 略年表|701〜800年の出来事
- まとめ|8世紀に並び立った造形文化
- 参考資料・出典
ノーサンブリア|《リンディスファーン福音書》の細密な世界
700年頃の福音書と、後世に加えられた証言
現在のイングランド北東岸にあるリンディスファーンは、北海に面した島の修道院でした。ここにゆかりのある《リンディスファーン福音書》(大英図書館 Cotton MS Nero D IV)は、700年頃に制作された四福音書で、ラテン語の本文と対観表、福音書記者の肖像、装飾ページを備えています。
10世紀に司祭アルドレッドが書き加えた奥書は、司教イードフリスを制作に関わった人物として伝えます。さらにアルドレッドは、ラテン語本文の行間に古英語訳を書き込みました。約250年を隔てた記録と原制作の層を分けて見ると、一冊の写本が地域や時代を越えて読み継がれた歴史が分かります。(参照:大英図書館|《リンディスファーン福音書》書誌)
十字の装飾ページ、福音書記者像、キ・ローの文字
この写本には、細い組紐や鳥獣の形、幾何学模様を画面に敷き詰めた五つの「カーペット・ページ」があります。大きな十字形を囲む線は、近づくにつれて小さな動物や曲線に分かれ、金工品に刻まれる文様と共通する精密さを見せます。
各福音書の冒頭には、座って書物を扱う福音書記者が描かれました。地中海世界で受け継がれてきた人物像の形式です。マタイ福音書のキリストの名を表す「キ・ロー」の装飾文字では、大きな文字の内側へ鳥や組紐が入り込み、読む文字そのものが画像になっています。人物画と文様が一冊の中で異なる役割を担いました。(参照:大英図書館|《リンディスファーン福音書》書誌)
ウェアマス=ジャロー|大型聖書と聖カスバートの福音書
《コデックス・アミアティヌス》と716年の旅
イングランド北東部のウェアマス=ジャロー修道院では、修道院長チェオルフリズの下で大型のラテン語聖書が作られました。その一冊《コデックス・アミアティヌス》は、ほぼ全体が伝わる貴重な写本です。大量の羊皮紙を用い、整った文字で聖書全巻を筆写するには、長期にわたる共同作業が求められました。
チェオルフリズは716年、この聖書をローマへ届けようと旅立ち、途中で亡くなりました。書物はイタリアで守られ、現在はフィレンツェに伝わっています。北海沿岸の修道院が地中海の教会へ大きな聖書を贈ろうとした事実は、信仰と学問を結ぶ遠距離の交流を伝えます。(参照:大英図書館|ウェアマス=ジャローの大型聖書断簡、大英図書館|ベーダと古英語の初期写本)
《聖カスバート福音書》の革表紙とベーダの学問
同じノーサンブリアに由来する《聖カスバート福音書》(大英図書館 Add MS 89000)は、ヨハネ福音書を収めた小型の本です。赤い革の表紙には細い線と植物を思わせる飾りが型押しされ、本文とともに初期の装丁が良好な状態で残っています。聖人の棺に結び付いて伝わった経緯からは、本そのものが大切に守られたことがうかがえます。
ジャローで学んだベーダは、731年頃に『英国民教会史』を完成させました。修道院では聖書の筆写に加え、歴史、暦の計算、聖書注釈なども研究されています。巨大な聖書と手のひらに収まる福音書は規模こそ異なりますが、書物を作り、読み、保存する文化の広がりを具体的に伝える組み合わせです。(参照:大英図書館|《聖カスバート福音書》、大英図書館|ベーダと古英語の初期写本)
ブリテンの石彫と骨細工|十字架、詩、伝説
ルースウェル十字架に刻まれた人物とルーン文字
スコットランド南部にあるルースウェル十字架は、8世紀前半頃にさかのぼるノーサンブリア系の石彫です。背の高い石柱にキリスト教の人物像を浮彫とし、その縁にラテン語とルーン文字の銘文を刻んでいます。ルーン文字には古英語の詩『十字架の夢』に関係する句が含まれ、図像と文字が同じ石面で響き合います。
十字架は17世紀に破壊され、19世紀に断片を再び組み合わせて修復されました。今日見られる十字頭には補われた部分があるため、原制作の彫刻と近代の復元を分けて観察できます。8世紀の作品に、後世の信仰や文化財保護の歴史が重なった例です。(参照:ヒストリック・エンバイロメント・スコットランド|ルースウェル十字架、ヒストリック・エンバイロメント・スコットランド|ルースウェル十字架の来歴)
《フランクスの小箱》に共存する聖書と伝説
大英博物館の《フランクスの小箱》は、クジラ骨を彫って作られた8世紀前半頃の箱です。鍛冶師ヴェルンドの伝説、キリストの誕生に関わる東方三博士、ローマの建国伝説など、異なる物語がそれぞれの面に刻まれています。場面の周囲にはルーン文字とラテン文字が巡り、素材に触れた謎かけの文章も見られます。
動物や人物の小さな姿を連続して彫る技量に加え、複数の言語と物語を同じ品に選んだ点が特徴です。箱の当初の使い道と注文主は分かっていません。遺物の姿から確かめられるのは、8世紀のブリテンで聖書・古典・在地の伝承が、ともに造形の題材となっていたことです。(参照:大英博物館|《フランクスの小箱》)
アイルランドの金工|《タラのブローチ》と《アーダーの聖杯》
《タラのブローチ》の表と裏に広がる装飾
《タラのブローチ》は8世紀のアイルランドで制作された装身具です。名称にあるタラの丘で発見された品ではなく、東岸のベティスタウン付近で見つかりました。ほぼ環状の大きな留め具と長い針を持ち、銀や金、彩色ガラスなどを用いて小さな区画へ複雑な組紐や動物文様を詰め込んでいます。
表面の装飾だけを見ても精巧ですが、裏面にも細い線と小さな飾りが続きます。衣服に留めた際には、針や留め具の形とともに金属の光沢が働いたことでしょう。書物のページを埋める曲線模様と比較すると、同じ地域の作り手が平面と立体のそれぞれで細密な装飾を追求していたことが分かります。(参照:アイルランド国立博物館|《タラのブローチ》、アイルランド国立博物館|初期中世コレクション)
《アーダーの聖杯》に集められた銀・金・ガラス
《アーダーの聖杯》は、19世紀にアイルランドのリムリック県で発見された8世紀の銀製の器です。広い鉢形の本体に台座と把手を付け、口縁の下には使徒の名が刻まれました。金線細工、色ガラス、動物文様が帯状の装飾を作り、金属の広い面と微細な模様の差が際立つ造形です。
衣服を留めるブローチと、キリスト教の典礼に関わる聖杯には、異なる用途があります。制作技術には細い金属線を置く方法や小さな色面を組み合わせる工夫が共通していました。聖杯の発見地は埋納された場所を示すもので、制作した工房の所在地には研究上の検討が残ります。(参照:アイルランド国立博物館|《アーダーの聖杯》、アイルランド国立博物館|初期中世コレクション)
スコットランドのピクト文化|銀のブローチと石碑
《ハンターストンのブローチ》とセント・ニニアン島の銀製品
スコットランド西部で発見された《ハンターストンのブローチ》は、8世紀の作品で、アイルランドとスコットランド西部のどちらで作られたかについて議論があります。大きな銀の留め具には金線細工や組紐文様が広がり、裏側には後世にルーン文字が加えられました。製作時の姿と、その後の所有者が残した痕跡が一つの品に同居しています。
北海に浮かぶシェトランド諸島のセント・ニニアン島からは、8世紀頃の銀製ブローチや金具などがまとまって見つかっています。衣服を飾る小さな工芸品は、石碑とともにこの地域の造形技術を伝える資料です。複数の品が一括して保管された事情を、制作年代と埋納の時期を分けながら考えられます。(参照:スコットランド国立博物館|《ハンターストンのブローチ》、スコットランド国立博物館|セント・ニニアン島の銀製ブローチ)
アバーレムノの彫刻石に刻まれた十字と記号
スコットランド東部アンガスのアバーレムノには、ピクト文化の彫刻石が数基残っています。そのうち大きな十字を刻んだ石板は、十字の周囲や裏面に人物・動物・幾何学的な記号を配したものです。キリスト教のしるしと地域固有の記号がひとつの石に置かれ、当地の信仰と造形の関係を伝えています。
アバーレムノの石碑には制作時期に幅があり、すべてを8世紀の同じ工房に帰することはできません。彫りの深さ、記号と人物の位置、石板の両面の使い方を見比べると、記念物としての働きと造形上の選択が具体的になります。(参照:ヒストリック・エンバイロメント・スコットランド|アバーレムノの彫刻石)
800年頃の《ケルズの書》|文字と絵の境界
キ・ローの頁と、動物が入り込む文字
アイルランドのダブリン大学トリニティ・カレッジ図書館が所蔵する《ケルズの書》(MS 58)は、800年頃に制作されたと考えられる四福音書です。なかでもマタイ福音書の「キ・ロー」の頁は、キリストの名を表す二文字を大きく広げ、内部や周囲に渦巻、鳥、動物、人の姿を織り込んでいます。
遠くからは巨大な装飾文字が浮かび、目を近づけるほど小さな生き物や模様に気づきます。青、赤、黄、緑などの色は、羊皮紙の狭い面に何段階もの線と色面を重ねて生み出されました。文字を読むことと図像を見ることが切り離せない、装飾写本ならではの表現です。(参照:ダブリン大学トリニティ・カレッジ図書館|《ケルズの書》)
制作地をめぐる議論と顔料の研究
《ケルズの書》の制作地は確定していません。スコットランド西岸のアイオナ修道院を有力とする見方に加え、アイルランドのケルズ、ノーサンブリア、スコットランド東部のピクト地域などが候補として論じられています。美術史家レイチェル・モスが2025年に紹介した議論も、ピクト地域の考古学的資料と写本の文様との比較に着目したものです。
顔料の科学分析では、青や黄などに当時の作り手が選んだ材料が確認され、遠方の高価な鉱物を多用したという古い想像が見直されています。本文の写し方と装飾の密度から、典礼で特別に示す書物だったという解釈もあります。いずれも作品の観察や調査から導く理解であり、制作者が目的を記した同時代の文書が残っているわけではありません。(参照:トリニティ・カレッジ・ダブリン|レイチェル・モスによる制作地論争(2025)、ダブリン大学トリニティ・カレッジ図書館|《ケルズの書》)
大陸へ渡った修道院文化|フルダ、ライヒェナウ、ザンクト・ガレン
ボニファティウスと744年のフルダ修道院
8世紀、ブリテン出身のボニファティウスはヨーロッパ大陸のゲルマニアやフリースラントで活動し、教会制度と修道院の整備に関わりました。744年に成立したフルダ修道院は、のちに書物の筆写と教育で知られる重要な中心地となります。宣教者は各地へ典礼書や手紙を持ち運び、書物を介して共同体の活動を結び付けました。
フルダの後世の文化的な繁栄を、そのまま744年の創建時にさかのぼらせることはできません。8世紀に進んだのは、継続して学び、書物を作る共同体と制度の整備です。宮廷や司教座と修道院を結ぶ道筋が、やがて写本制作を支える基盤となりました。(参照:メトロポリタン美術館|フランスの美術500〜1000年)
ライヒェナウとザンクト・ガレンに残る書物の交流
現在のドイツ南部、ボーデン湖のライヒェナウ島には724年に修道院が創設されました。湖上の島はアルプスを越える道やフランク領の交流に接しており、人々と文書が集まる場所でした。スイス東部のザンクト・ガレンにも、アイルランド系の写本を含む蔵書が残っています。
ライヒェナウの華麗な写本や壁画が大きく発展するのは主に9世紀以後です。有名な《ザンクト・ガレン修道院平面図》も820年代頃の作成に属します。8世紀の共同体の成立と、9世紀に実を結ぶ書物・建築の制作を分けることで、修道院文化が長い時間をかけて育ったことが分かります。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ライヒェナウ修道院島、ユネスコ世界遺産センター|ザンクト・ガレン修道院)
ガリアの書物とフランク王国|王朝交代の前後
《ジェローヌ典礼書》と地域ごとに異なる書体
8世紀末のガリアで制作された《ジェローヌ典礼書》(フランス国立図書館 Latin 12048)は、礼拝の祈祷文を収める写本です。冒頭の文字には人物や動物を取り込んだ装飾が施され、ひとつの文字の形が図像へ広がっています。日々の典礼で使う文章にも、細かな造形の工夫が加えられました。
フランク領の修道院や司教座では、それぞれに異なる書体や略字が使われていました。こうした筆写文化は王朝が替わった後も続き、後のカロリング小文字体の整備へつながります。古い地域の書体と新しい書字の方法は、8世紀末には同じ世界に並んでいました。(参照:フランス国立図書館|メロヴィング期の写本と《ジェローヌ典礼書》、フランス国立図書館|写本の装飾と書字文化)
ピピン3世からカール大帝へ|教会と王権の協力
751年、ピピン3世がフランク王となり、カロリング朝が始まりました。754年には教皇ステファヌス2世との関係を深め、王権を支える宗教儀礼も重みを増していきます。修道院や司教座への保護と寄進は、教会建築や典礼用品、書物を整えるための資金と制度を支えました。
768年に即位したカール大帝は、774年にランゴバルド王国を征服し、イタリアの教会や古代建築に接する機会を広げました。宮廷ではラテン語の文書、聖書の校訂、教育のあり方が重要な課題となり、8世紀末の写本には政治的な権威と宗教的な理想が重なって表現されています。(参照:メトロポリタン美術館|フランスの美術500〜1000年、フランス国立図書館|カール大帝宮廷写本群)
カール大帝の宮廷写本|紫の羊皮紙と整った文字
781〜783年《ゴデスカルク福音書》の制作
《ゴデスカルク福音書》(フランス国立図書館 NAL 1203)は、カール大帝と王妃ヒルデガルトのため、781〜783年に制作されました。書写者ゴデスカルクの名と献辞が残り、初期カロリング朝の宮廷写本の中でも年代を明確に捉えられる一冊です。
紫色に染めた羊皮紙に金銀のインクで文字を書き、飾りのある頭文字と全頁挿絵を組み合わせています。本文の金銀文字には古い書体が用いられ、献辞には整いつつあったカロリング小文字体が現れます。用途と位置に応じて書体を選び分けることが、宮廷での書物制作の特色となりました。(参照:フランス国立図書館|カール大帝宮廷写本群、ユネスコ|カール大帝宮廷学校の装飾写本、フランス国立図書館|カロリング朝の文化と写本制作)
古代を学んだ福音書記者像と《生命の泉》
《ゴデスカルク福音書》には、地中海の古代末期の絵画を思わせる人物像や建築的な枠組みが取り入れられています。《生命の泉》の挿絵には、水をたたえる泉が建築の中に描かれ、洗礼や再生を連想させる主題が表されています。細い組紐や幾何学模様でページを覆う北方の写本とは異なる見え方です。
宮廷が古代の図像や書体を学び直したことは、8世紀末の文化政策と関係しています。人物の姿を描く方法、装飾文字、整った本文を一冊の中で組み合わせる取り組みは、後のカロリング朝の写本へ受け継がれました。(参照:ユネスコ|カール大帝宮廷学校の装飾写本、フランス国立図書館|カロリング朝の文化と写本制作)
《ダグルフ詩篇》と789年の教育改革
《ダグルフ詩篇》(ウィーン、オーストリア国立図書館 Cod. 1861)は、783〜795年に制作された宮廷写本です。カール大帝が教皇ハドリアヌス1世へ贈ることを意図したと読める献辞があり、紫色の羊皮紙と金文字の組み合わせで詩篇を飾りました。福音書とは題材が違うため、ページの構成でも文字の役割が大きくなっています。
789年の『一般勧告令』は、教会や修道院での教育と祈祷文の正確な伝達を重視しました。宮廷に招かれた学者アルクインらの活動も、写本の校訂や筆写のあり方に関わります。新しい文字の形は、書写者が学び、何度も書き写して共有する仕事を通じて広がっていきました。(参照:ユネスコ「世界の記憶」|宮廷写本群の学術申請資料、フランス国立図書館|789年の一般勧告令、フランス国立図書館|カロリング朝の文化と写本制作)
ランゴバルドのイタリア|石の祭壇と礼拝堂
チヴィダーレ《ラッチスの祭壇》の四つの面
イタリア北東部、フリウリ地方のチヴィダーレに残る《ラッチスの祭壇》は、8世紀中頃のランゴバルド石彫です。奉献者ラッチスに関わる銘文があり、直方体の四面に《マギの礼拝》《聖母訪問》などの宗教場面が浮彫にされています。
人物は大きな頭と正面性の強い姿を持ち、衣服を刻む線が石の面に装飾的なリズムを作っています。四つの面で場面が展開する祭壇の構造に合わせ、物語と人物の姿が整理されました。祭具そのものを装飾する仕事に、当時の信仰と権力者の奉献が結び付いています。(参照:チヴィダーレ国立考古学博物館公開論考|《ラッチスの祭壇》)
《テンピエット・ロンゴバルド》とブレシアの修道院
チヴィダーレの《テンピエット・ロンゴバルド》は、8世紀の小礼拝堂です。壁の高い位置には漆喰で造形された聖女の立像が並び、彫刻が室内の壁と一体になっています。細長い衣のひだや立ち姿には、古代から続く人物表現の要素も見られます。
イタリア北部ブレシアでは、753年頃にサン・サルヴァトーレ修道院が創設されました。都市に残るローマ期の建材や建築形式が、新しい教会施設で再利用されています。現存する複合施設には後世の改築も多く、創建時の建築と現在の全体像を区別することが大切です。(参照:ユネスコ世界遺産センター|イタリアのランゴバルド権力拠点、ブレシア観光局|サン・サルヴァトーレ修道院の成立)
ローマと東ローマ帝国|壁画と聖像をめぐる議論
サンタ・マリア・アンティクアに重なった壁画
ローマのフォロ・ロマーノ近くにあるサンタ・マリア・アンティクア聖堂は、古代の建築を礼拝空間として使い続けた場所です。壁には6〜9世紀に描かれた人物画が層をなして残り、8世紀の制作も含まれています。ギリシア語圏とラテン語圏に由来する聖人の姿が同じ空間に置かれ、ローマと東地中海の文化的な関係が見えてきます。
隣接する《四十人の殉教者礼拝堂》には、殉教した兵士たちの物語を描く壁画が残ります。古代の政治的な中心地だった場所で、キリスト教の人物像が繰り返し描かれていたのです。今日の壁面に見える重なりは、礼拝の場が何世代もかけて姿を変えた記録でもあります。(参照:コロッセオ考古学公園|サンタ・マリア・アンティクア)
754年と787年の会議|聖像に向ける敬意
コンスタンティノープルを中心とした東ローマ帝国では、キリストや聖人の像にどのような敬意を払うべきかが、8世紀の大きな神学的・政治的論争となりました。754年のヒエレイア会議は聖像崇敬を否定する立場を示しています。
787年の第2ニカイア公会議は聖像崇敬を認め、神に向ける礼拝と画像に向ける敬意を区別しました。各地での画像制作や論争の経緯は複雑で、8世紀を通して同じ対応が採られていたわけではありません。ローマに残る人物壁画と併せて見ると、宗教画像をめぐる実践が地域ごとに異なっていたことが分かります。(参照:バチカン|第2ニカイア公会議と聖像、バチカン|第2ニカイア公会議1200周年書簡)
ウマイヤ朝の建築|ダマスクスとクサイル・アムラ
ダマスクスの大モスクと金地のモザイク
現在のシリアの首都ダマスクスでは、ウマイヤ朝のカリフ、ワリード1世の時代(705〜715年)に大モスクが造営されました。都市の中心に広い中庭と列柱を設け、壁には金色のガラス・モザイクを施しています。小さなガラス片を集めた画面には樹木、川、建物を思わせる形が広がり、豊かな風景が礼拝空間を飾りました。
モザイクの技法は、古代地中海や東ローマの工人文化とも結び付いています。楽園を思わせる風景という解釈があり、描かれた建物の具体的な意味には議論も残ります。大モスクは幾度もの火災と修理を経て現在に至っており、創建時の装飾を考える際には残存部分と後世の仕事を区別する必要があります。(参照:フランス文化省考古学情報|ダマスクスの大モスク、フランス文化省考古学情報|ダマスクスの樹木と建築のモザイク)
《クサイル・アムラ》の人物壁画と黄道十二宮
ヨルダン東部の《クサイル・アムラ》は、8世紀前半に造られたウマイヤ朝の宮廷施設です。来客を迎える部屋と浴場の壁には、人物や狩猟、動物、権威を表す場面が描かれています。宗教施設の壁面とは性格の異なる、王侯の生活空間を彩る絵画です。
高温浴室のドーム状天井には黄道十二宮などの天体図が配置され、天を見上げるような構図を作っています。古典古代の天文学的な図像や東地中海の絵画技法が、この建物の装飾にも関わりました。大モスクの風景モザイクと人物を描いた宮廷壁画は、同じウマイヤ朝の中でも用途によって主題が大きく異なったことを伝えます。(参照:ユネスコ世界遺産センター|クサイル・アムラ)
アッバース朝とコルドバ|新しい都市とモスク
750年のアッバース朝成立と762年のバグダード
750年、アッバース朝が成立すると、政治の中心はシリアからイラクへ移りました。カリフのマンスールは762年、ティグリス川沿いに新しい都バグダードの建設を始めます。宮殿と大モスクを中心とする円形都市の計画は、文献記録から知られています。
8世紀の円形都市の建物は、今日ほとんど残っていません。残存する壁や柱を観察できるダマスクスの大モスクとは、復元に使える資料の種類が異なります。文献からたどる建設計画にも、政権交代後の新しい都市づくりが表れています。(参照:メトロポリタン美術館|アッバース朝美術(750〜1258))
ラッカの柱頭に見られる浅い斜切りの装飾
メトロポリタン美術館には、シリアのラッカで制作された可能性がある8世紀末の柱頭が収蔵されています。植物を思わせる曲線を斜めに彫り下げ、石の表面に浅い陰影を連続させた作品です。彫刻の奥行きよりも、曲線と面がつくる装飾の広がりに特徴があります。
この表面処理は、9世紀に発達するサーマッラーの斜切り装飾と比較される技法です。サーマッラーで大規模な都市建設が始まるのは836年以後で、ラッカの柱頭と後の装飾の広がりには時間差があります。(参照:メトロポリタン美術館|8世紀末の斜切り装飾の柱頭)
コルドバの創建モスク|十一の身廊と二段アーチ
711年以後、イベリア半島にはイスラムの諸政権が成立しました。756年にコルドバを拠点としたアブド・アッラフマーン1世は、786〜788年頃に大モスクの創建部分を築きます。礼拝堂には十一の身廊が並び、石柱の上へ二段のアーチを重ねることで天井の高さを確保しました。
赤みを帯びた色と明るい石のアーチが反復し、列柱の間に奥行きのある空間が広がります。ローマや西ゴート期の建材が再利用された点も、創建部分の特徴です。今日よく知られる豪華なミフラーブや複雑なアーチの一部は、10世紀の増築によるものです。8世紀の建設と後世の装飾を分けると、この大建築が何世代もかけて完成したことが見えてきます。(参照:コルドバのモスク=大聖堂|建築史、コルドバのモスク=大聖堂|アブド・アッラフマーン1世の創建部分)
8世紀末の建築|アーヘンとアルプスの修道院
アーヘン宮廷礼拝堂の八角形の空間
カール大帝は現在のドイツ西部アーヘンに宮廷の重要な拠点を置き、790年代頃に宮廷礼拝堂の造営を始めました。八角形の中心空間には高い天井が架けられ、その周囲を回廊が囲んでいます。古代ローマやラヴェンナの集中式建築を意識した石造の計画です。
今日のアーヘン大聖堂には後世の工事が重なっており、礼拝堂は805年に献堂されたと伝えられます。8世紀末に大規模な建築工事が始まった時期、宮廷では豪華な写本も制作されました。建築と書物の制作は、王権の宗教文化を異なる規模で伝えています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|アーヘン大聖堂)
ミュスタイアの創建と9世紀の壁画
スイス南東部、アルプスの谷に位置する聖ヨハネ修道院は、775年頃に創設されたと考えられています。フランク王権との関係が論じられ、山岳地帯の交通と宗教活動を結び付ける場所になりました。
現在の教会にはキリスト伝などの大きな壁画群が残りますが、その主要な制作時期は9世紀前半とされています。8世紀末の修道院の成立と、その後に内部を覆った絵画を分けることで、建物と装飾が異なる時期に整えられたことが分かります。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ミュスタイアの聖ヨハネ修道院)
略年表|701〜800年の出来事
- 701年頃|《リンディスファーン福音書》の制作期。後の10世紀に古英語訳が加わる
- 705〜715年|ウマイヤ朝がダマスクスの大モスクを造営する
- 711年|イスラム勢力がイベリア半島へ進出する
- 716年|チェオルフリズが大型聖書を携えローマへ向かう
- 8世紀前半|《クサイル・アムラ》の人物壁画と天体図が制作される
- 724年|ライヒェナウ修道院が創設される
- 731年頃|ベーダが『英国民教会史』を完成させる
- 744年|フルダ修道院が創設される
- 750年|アッバース朝が成立する
- 751年|ピピン3世がフランク王となり、カロリング朝が始まる
- 754年|ヒエレイア会議が聖像崇敬を否定する立場を示す
- 756年|アブド・アッラフマーン1世がコルドバで政権を確立する
- 762年|アッバース朝が新都バグダードの建設を始める
- 768年|カール大帝がフランク王に即位する
- 774年|カール大帝がランゴバルド王国を征服する
- 775年頃|ミュスタイアに聖ヨハネ修道院が創設される
- 781〜783年|《ゴデスカルク福音書》が制作される
- 786〜788年頃|コルドバの大モスクの創建部分が築かれる
- 787年|第2ニカイア公会議が聖像崇敬を認める
- 789年|カール大帝が『一般勧告令』を発する
- 790年代|アーヘン宮廷礼拝堂の建設が進む
- 800年頃|《ケルズの書》が制作される。制作地には複数の見方がある
- 800年|カール大帝がローマで皇帝として戴冠する
まとめ|8世紀に並び立った造形文化
ブリテン・アイルランドでは、細い線や組紐、動物を取り込んだ装飾が写本、銀の装身具、石彫に展開しました。《リンディスファーン福音書》の文字と十字、《タラのブローチ》の表裏に続く金細工、《ケルズの書》の巨大な装飾文字は、異なる素材を通じて同じ地域の造形の豊かさを伝えています。
大陸では修道院の制度が整い、カロリング朝の宮廷が書物の制作と教育を支えました。《ゴデスカルク福音書》では紫の羊皮紙や金銀文字、古代を学んだ人物像がひとつの書物に集まります。王権と教会の関係は、建築への寄進や書物の注文にも現れました。
地中海世界の同時代の作品も、8世紀の美術が持つ幅を示しています。ダマスクスのモザイク、ヨルダンの人物壁画、コルドバの列柱と二段アーチには、それぞれ異なる宗教・政治・建築の条件があります。800年頃の《ケルズの書》とアーヘンの工事は、次の世紀へ続く制作活動が複数の地域で進んでいたことを物語ります。
参考資料・出典
作品の制作年代、現存する部分、後世の修復や加筆を区別し、所蔵館、大学図書館、文化財機関、調査資料の公開情報を参照しています。代表的な資料は次のとおりです。
- 大英図書館|《リンディスファーン福音書》書誌
- フランス文化省考古学情報|ダマスクスの大モスク
- 大英図書館|ウェアマス=ジャローの大型聖書断簡
- 大英図書館|《聖カスバート福音書》
- 大英図書館|ベーダと古英語の初期写本
- ヒストリック・エンバイロメント・スコットランド|ルースウェル十字架
- ヒストリック・エンバイロメント・スコットランド|ルースウェル十字架の来歴
- 大英博物館|《フランクスの小箱》
- アイルランド国立博物館|《タラのブローチ》
- アイルランド国立博物館|《アーダーの聖杯》
- アイルランド国立博物館|初期中世コレクション
- スコットランド国立博物館|《ハンターストンのブローチ》
- スコットランド国立博物館|セント・ニニアン島の銀製ブローチ
- ヒストリック・エンバイロメント・スコットランド|アバーレムノの彫刻石
- ダブリン大学トリニティ・カレッジ図書館|《ケルズの書》
- トリニティ・カレッジ・ダブリン|レイチェル・モスによる制作地論争(2025)
- メトロポリタン美術館|フランスの美術500〜1000年
- ユネスコ世界遺産センター|ライヒェナウ修道院島
- ユネスコ世界遺産センター|ザンクト・ガレン修道院
- フランス国立図書館|メロヴィング期の写本と《ジェローヌ典礼書》
- フランス国立図書館|写本の装飾と書字文化
- フランス国立図書館|カール大帝宮廷写本群
- ユネスコ|カール大帝宮廷学校の装飾写本
- ユネスコ「世界の記憶」|宮廷写本群の学術申請資料
- フランス国立図書館|789年の一般勧告令
- チヴィダーレ国立考古学博物館公開論考|《ラッチスの祭壇》
- ユネスコ世界遺産センター|イタリアのランゴバルド権力拠点
- ブレシア観光局|サン・サルヴァトーレ修道院の成立
- コロッセオ考古学公園|サンタ・マリア・アンティクア
- バチカン|第2ニカイア公会議と聖像
- バチカン|第2ニカイア公会議1200周年書簡
- フランス文化省考古学情報|ダマスクスの樹木と建築のモザイク
- ユネスコ世界遺産センター|クサイル・アムラ
- メトロポリタン美術館|アッバース朝美術(750〜1258)
- メトロポリタン美術館|8世紀末の斜切り装飾の柱頭
- コルドバのモスク=大聖堂|建築史
- コルドバのモスク=大聖堂|アブド・アッラフマーン1世の創建部分
- ユネスコ世界遺産センター|アーヘン大聖堂
- ユネスコ世界遺産センター|ミュスタイアの聖ヨハネ修道院
- フランス国立図書館|カロリング朝の文化と写本制作