紀元前1070–332
古代エジプトの後期
神像と棺の装飾、王の彫像
紀元前11世紀、ナイル川沿いのエジプトでは、新王国時代のように一人の王が全土を強く統治する体制が緩みました。北部のデルタ地帯ではタニスを拠点とする王が政治を行い、上流のテーベではアメン神殿の高位神官が大きな権限を持ちます。穀物を育てるナイルの水と各地の神殿は生活の基盤であり続けましたが、王宮・神殿・地方有力者の力関係は数世紀にわたって入れ替わりました。
紀元前8世紀には、現在のスーダン北部に中心を持つクシュの王たちがエジプトを支配し、その後はサイスに都を置く王家が再統一を進めました。紀元前525年からはペルシア帝国の支配も経験します。エジプトの神々や葬儀の儀礼はそれぞれの政権のもとで続けられ、神殿には金・銀・銅合金の小像が奉納され、亡くなった人のためには彩色した棺、石棺、護符、パピルスが整えられました。
この約740年間には、美術の中心となる場所や注文主も変わりました。第21王朝のテーベでは入れ子式の木棺が細かな絵で覆われ、クシュ系王朝は独特の王冠を着けた王像を残します。第26王朝の彫刻家は古い王国の石像を研究して硬い石の表面を磨き、第30王朝の王は神と一体になる姿を石像に刻みました。出土した場所と制作年代を照合しながら、その違いをたどることができます。
CONTENTS
第3中間期のエジプト|北の王権と南の神殿
タニスとテーベ|紀元前1070年頃からの二つの中心
ラムセス11世の死後、北部ではスメンデスが即位し、第21王朝が始まりました。デルタ東部のタニスでは王の名を刻んだ神殿が使われ、上エジプトのテーベではアメン神の大司祭が神殿の財産と地域の行政を管理しました。政治が南北に分かれたことは、王像や寄進碑に現れる地名、神の名、官職からも読み取れます。
古い神殿や王墓は引き続き利用されました。テーベ西岸では、新しい大規模な岩窟墓を掘る代わりに以前の墓を使う葬儀が多くなります。その分、木棺の表と内側、ミイラを覆う板、護符やパピルスに絵を集中させました。現在の王朝区分は便宜的な年代の枠で、北と南で同時に異なる権力が存在した期間があります。(参照:J・アレン、M・ヒル/メトロポリタン美術館|第3中間期のエジプト(2004年、2018年改訂)/ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ|第3中間期の王統)
第22〜24王朝|デルタの王家と各地の小政権
紀元前945年頃、リビア系の家系に属するシェションク1世が王位につきました。第22王朝の王たちはエジプト式の王名と神への奉納を用いましたが、紀元前9〜8世紀になるとデルタと上エジプトの各都市で複数の王号が併立します。神殿の碑文には中央の王と地方の有力者の両方が現れ、単一の年代順に並べにくい例もあります。
こうした時期に、同じ神の像でも土地ごとに姿や付属品が変わり、小型の銅合金像が増えました。実際に残る品の多くは後世の購入品で、奉納した人の名は読めても、元の祭壇の位置まで確かめられるものは限られます。第3中間期を造形の衰退期とみなす見方は、金属像や棺の精密な製作例と一致しません。(参照:J・アレン、M・ヒル/メトロポリタン美術館|第3中間期のエジプト(2004年、2018年改訂)/M・ヒル編/メトロポリタン美術館(2007年)|『神々への贈り物』金属神像の研究)
第21王朝の彩色木棺|ヘネタウィの埋葬
長さ203センチの外棺|木材を継いで作る人の姿
紀元前1000〜945年頃、アメン神の歌手ヘネタウィはテーベ西岸のデイル・エル=バハリで埋葬されました。1923〜24年のメトロポリタン美術館の発掘で、以前の高官ミンモセの墓を再利用した埋葬が見つかっています。外棺の長さは203センチ、内棺は191センチ、最も内側のミイラ板は171.3センチで、木製の人形棺を三重に収める構成です。
蓋の顔は別の部材を取り付け、胴は何枚もの板を継ぎ合わせ、漆喰状の下地を塗って色を置いています。胸、腹、脚を神々と文字の細かな帯で埋め、全体を樹脂性の塗料で覆いました。厚い下地の盛り上がりで模様にわずかな立体感を付ける箇所もあります。埋葬者の身体は布で巻かれていましたが、念入りな防腐処置の痕跡は乏しく、華やかな棺の表面と遺体の処置は別々に考える必要があります。(参照:メトロポリタン美術館|アメン神歌手ヘネタウィの入れ子式木棺)
棺の絵が覆う身体|神話と保護の図像
人形棺の顔を囲むかつらと広い胸飾りの下には、広げた翼や聖なる舟、神々の列が細かな色面で並びます。棺に描かれた神の姿は飾り以上の役割を持ち、死者が守られ、太陽とともに再生できるようにする祈願に結び付けられました。墓室そのものに新しい壁画がほとんどなかった埋葬では、棺を開けるたびに内側から別の絵が現れる構造が選ばれています。
発掘者ハーバート・ウィンロックは色面を組み合わせる棺の複雑な装飾を記録しました。材木の継ぎ目、貼り付けた面、赤・青・黄・緑の塗り分けを観察すると、一枚の木を彫った品ではなく複数の工程で作った作品であることが分かります。製作費をかけた埋葬具と墓室の再利用は、当時の葬送の組み合わせの一例です。(参照:メトロポリタン美術館|アメン神歌手ヘネタウィの入れ子式木棺/J・アレン、M・ヒル/メトロポリタン美術館|第3中間期のエジプト(2004年、2018年改訂))
カルシェレの内棺|心臓の審判とソカル神の舟
アメン神殿の門番カルシェレの内棺は、第22王朝の木製彩色品で長さ187センチ。1885年にガストン・マスペロの調査でテーベのシェイク・アブド・エル=クルナから出土しました。額に帯を巻いた三分けのかつら、胸の幾何学模様入りの首飾り、その下の翼を広げた蛇神が、正面の輪郭をはっきり分けています。
脚へ向かう画面は上下に区切られ、上段にはトト神に導かれた死者と、アヌビス神による心臓の計量が表されます。中段にはイシスとネフティスがオシリスに結び付く柱を挟んで立ち、下段には祠に納められたソカル神の舟があります。場面の意味が異なる絵を縦に積み、死者が受ける審判と再生を一つの棺蓋に収めています。(参照:メトロポリタン美術館|カルシェレの内棺/メトロポリタン美術館|カルシェレの棺一式)
棺とともに納められた品|巻物・護符・シャブティ
『アムドゥアト』パピルス|夜の10時間目を描く
紀元前990〜970年頃の別のヘネタウィの埋葬から、長さ139センチ、幅23.5センチのパピルスが発見されました。1923〜24年の発掘時、巻物はミイラの両脚の間に細く巻かれていました。描かれているのは『アムドゥアト』と呼ばれる来世の書の一部で、太陽神ラーが夜の世界を進む12の時間のうち第10時に当たります。
新王国の王墓では大きな壁画になった神々や地下世界の住人が、ここでは文字を添えた巻物の中に縮小されています。暗い世界を進み、夜明けへ備える場面は、亡くなった人自身が太陽の再生に加わることを意図したものでした。同じヘネタウィという名が複数の埋葬に現れるため、外棺を持つヘネタウィとこの巻物の持ち主を一人の女性として扱わないことも大切です。(参照:メトロポリタン美術館|イセテムケブの娘ヘネタウィの『アムドゥアト』パピルス/メトロポリタン美術館|アメン神歌手ヘネタウィの入れ子式木棺)
護符の腕輪|金・ガラス・ファイアンスを結ぶ糸
外棺が残るヘネタウィの左手首には腕輪が4本あり、その一つは直径約3.8センチでした。二本撚りの亜麻糸に金の樽形ビーズ3点を通し、その間に、石英質の素材にガラス質の釉薬を施したファイアンス1点と濃青色ガラス2点のウジャト眼護符を並べています。糸には18個の結び目があり、長い糸を折り返して閉じた箇所にも結び目が残ります。
ウジャト眼は傷を癒やされたホルス神の眼に由来し、身体を守る象徴でした。ビーズ6点と結び目18個を合わせた24という数を太陽の一日と結び付ける解釈もあります。数の一致だけでは製作者の意図を断定できませんが、金属・ガラス・焼成品を糸へ組み込む加工技術と、護符を肌に接して身につけた位置は発掘記録から確かめられます。(参照:メトロポリタン美術館|ヘネタウィ墓出土の護符付き腕輪)
箱に詰める小像|ジェドムテサンクの埋葬
シャブティは死後の世界で墓主の代わりに働くと考えられた小像です。第21王朝のジェドムテサンクの埋葬では、デイル・エル=バハリの家族墓から、木箱に納めたシャブティの一群が出土しました。1923〜24年の発掘では、箱の一つが横倒しになり、小像が地面にこぼれた状態と、閉じ紐の残る箱が記録されています。
後世の所蔵品だけでは分かりにくい、箱の中身がどのように納められ、墓でどう動いたかを伝える記録です。小像の形と記された名前、箱の位置が合っていても、周辺の墓では古い埋葬の再利用や盗掘が起きています。発見された状態と葬儀の当初の配置を同じものとして読まない配慮が求められます。(参照:メトロポリタン美術館|ジェドムテサンクのシャブティ箱と人形/メトロポリタン美術館|ヘネタウィのシャブティ箱と人形)
リビア系王朝の造形|寄進碑と王名の働き
オソルコン1世の石碑|土地を捧げる王の姿
紀元前930年頃の石灰岩製寄進碑には、第22王朝オソルコン1世が、土地を表すヒエログリフを神々ラー・ホルアクティとネベトヘテペトに捧げる場面が刻まれています。高さは約70センチ。上部の王と神の図像の下に、神殿関係者へ与える耕地についての神官書体の文章が続きます。
碑文は、ヘリオポリス周辺の畑を神殿の人物へ寄進するよう王が命じる内容です。この種の寄進は実際には地方の個人が進めたと考えられる場合もあり、上段に王を描く図式と、下段の行政上の当事者は一致しません。王の奉納姿勢を一つの政治的な画面として読むと、神殿が保有する土地と地方の有力者の関係が具体的になります。(参照:メトロポリタン美術館|オソルコン1世第6年の土地寄進碑/J・アレン、M・ヒル/メトロポリタン美術館|第3中間期のエジプト(2004年、2018年改訂))
アーフェンムトの木碑|顔料を重ねる小さな画面
オソルコン1世の治世頃に作られたアーフェンムトの木碑は、高さ23センチ、幅18.2センチほど。テーベのエル=ホッハ地区の墓から1914〜15年のメトロポリタン美術館調査で出土しました。上には東と西の記号に支えられた太陽の舟があり、その下で財務書記アーフェンムトが、鷹の頭をしたミイラ姿の太陽神ラー・ホルアクティに香を捧げています。
神と墓主の間にはパン、果物、花を積んだ供物台があり、墓主は薄いひだ付きの衣装、幅広の首飾り、手首の飾りを着け、頭には香りのある蝋の円錐と蓮の蕾を載せています。木の表面に下地を置き、わずかな面積に墓主の身支度と神への供物を描き込みました。同時代の土地寄進碑も王の奉納を描きますが、葬送用のこの碑は発掘された墓での祈願に結び付いた作品です。(参照:メトロポリタン美術館|アーフェンムトの彩色木碑/メトロポリタン美術館|オソルコン1世第6年の土地寄進碑)
金属の小像が増えた背景|地方神殿の奉納
第3中間期の神殿には王だけでなく神官や地方有力者が関わり、姿の異なる神を表す小像が盛んに作られました。旧来のアメン神だけでなく、土地の女神や神の子を表す像が銅合金で鋳造されます。大きな建築物が一度に増えなかった地域でも、金属像や小型の祭具から制作活動を追うことができます。
マルシャ・ヒルらが2007年にまとめた神殿金属像の研究では、墓から出た像と神殿へ献納された像を区別し、奉納後も長年使われてからまとめて埋められた例を検討しています。古い神像が一括埋納されると、出土層の年代が個々の制作年より新しくなります。保管、祭礼、回収という扱いの違いを追わないと、小像の数からそのまま製作年ごとの流行を計算できません。(参照:M・ヒル編/メトロポリタン美術館(2007年)|『神々への贈り物』金属神像の研究/メトロポリタン美術館|神殿の金属像の発掘と埋納をめぐる調査)
金属像の技術|純金・青銅・異なる色の象嵌
高さ17.5センチの純金アメン神像|冠と剣
第22王朝のものとされるメトロポリタン美術館のアメン神像は、高さ17.5センチ、重さ約900グラムの金の鋳造品です。左脚をわずかに前へ出して立ち、反った先端の顎ひげ、平らな上面の冠を着け、胸の前に剣を斜めに持ちます。冠の上に付いていたはずの2枚の長い羽根は失われています。
金属光沢は太陽神ラーと結び付くアメンの姿を表します。頂部には吊り下げた痕跡があり、神殿で使う標章の上部だったか、儀礼で吊るしたかなどの案が提示されています。カルナック出土と伝えられますが、発掘の場面を記録した資料はなく、所蔵館も場所を推定として扱っています。材質と構造の観察は確かな一方、元の使い方は確定していません。(参照:メトロポリタン美術館|純金鋳造のアメン神小像/メトロポリタン美術館|古代エジプトの金工と神殿神像)
ペドゥバステ王像の胴体|中空鋳造と鉄の支え
ポルトガルのカルースト・グルベンキアン美術館にあるペドゥバステ王の青銅像胴体は、紀元前9〜8世紀頃の第23王朝の大型金属彫刻です。像は内部に空洞を作って鋳造され、鉄製の芯支えや、金の薄板と赤みの異なる金の象嵌を用いていました。中身まで金属で満たす小像とは材料の使い方が違います。
マルシャ・ヒルと保存研究者デボラ・ショーシュは2005年、残存部と鋳造の構造を調査し、王像をひとつの型で単純に作ったのではなく、複数の空洞や補強を組み合わせた技術を論じました。作品の出土場所は分かっておらず、タニス由来という説も確証のある発掘記録ではありません。王名と金属加工から制作時代を考える例として扱えます。(参照:M・ヒル、D・ショーシュ(2005年)|ペドゥバステ王青銅像の構造調査/メトロポリタン美術館|古代エジプト金属神像展の作品・材質・鋳造法)
青銅の表面を変える|鋳型・金箔・別材の差し込み
銅に錫などを加えた青銅は、溶かして型へ流し込み、冷えた後に表面を磨いて仕上げます。複雑な像では蝋で原形を作り、その周囲を型材で包んで蝋を抜く方法が使われました。大きな立像を軽くするため内部に芯を残して中空に鋳るものがあり、腕や装身具を別々に鋳造して取り付ける作品もあります。
表面には金箔を貼り、銅や銀など色の違う金属を溝に差し込んで目・帯・神々の模様を作ることもありました。2007年刊の『神々への贈り物』は、現存作品の材質検査と発掘記録を合わせて、同じ「青銅像」の中にも中空鋳造、無垢鋳造、後から付けた部材という差があることを示しています。材質名を作品ごとに確認し、錫や鉛の比率を測っていない像に一律の合金組成を当てはめないことが必要です。(参照:メトロポリタン美術館|古代エジプト金属神像展の作品・材質・鋳造法/M・ヒル編/メトロポリタン美術館(2007年)|『神々への贈り物』金属神像の研究)
第25王朝のクシュ系王像|ヌビアとエジプトの表現
ひざまずく王の青銅像|二重の聖蛇を削った跡
紀元前721〜664年頃のクシュ系王を表す小さな青銅像は、高さ7.3センチ。王は胸を張り、腰を狭くした身体でひざまずき、頭には縁取りのある帽子形の冠を着けています。額には本来2匹の聖蛇が並び、首にはアメン神に結び付く雄羊頭の護符をつけていました。新王国の王像にもある奉納の姿勢を、クシュ系王朝独自の王冠と装身具で表した作品です。
所蔵館の調査によると、後のサイス朝時代、額の2匹の聖蛇は1匹に直され、首の護符と帯の王名は叩いて消されました。後頭部の鷹の彫りや冠の細かな蛇飾りは残っています。もとのクシュ系王を示す特徴を消した跡が、像の表面に別の時代の手仕事として重なります。現在名前を特定できない王の像でも、造形の改変から政治的な交代を読み取れます。(参照:メトロポリタン美術館|ひざまずくクシュ系王の青銅像/J・アレン、M・ヒル/メトロポリタン美術館|第3中間期のエジプト(2004年、2018年改訂))
カワのタハルカ王像|神殿から出た花崗岩のスフィンクス
第25王朝のタハルカ王は紀元前690〜664年に統治し、ヌビアのカワにアメン神の神殿を建てました。大英博物館の花崗岩質の王のスフィンクス(EA1770)は、神殿Tの中央聖所の南側にある部屋から見つかっています。獅子の胴に王の頭を合わせ、額にはクシュ系王の特徴である二重の聖蛇をつけ、胸には王名が刻まれています。
同じカワ神殿から出た雄羊のスフィンクス(EA1779)は、前脚の間に小さなタハルカ王を守るように置き、台座に神々を讃える文字が刻まれています。雄羊はこの神殿の主神アメンに関わる動物です。神殿で像が置かれた場所が記録されているため、王の身に着ける護符や冠と、アメン神の保護を伝える室内装飾を具体的に結び付けられます。(参照:大英博物館|カワ神殿出土のタハルカ王スフィンクス(EA1770)/大英博物館|カワ神殿出土のタハルカ王を守る雄羊(EA1779))
ヌリのシャブティとタハルカの授乳図|王の二つの姿
タハルカ王の石製シャブティは、ヌビア特有の花崗岩で作られた高さ20.3センチの小像です。メトロポリタン美術館はヌリの王墓ピラミッドに由来すると推定しています。エジプトの王を務めたクシュ系王が、埋葬はナイル上流の故郷で行ったことを示す材料ですが、この個体の正確な出土位置は伝わっていません。
一方、紀元前690〜645年頃の首飾りの重りには、女神バステトが幼いタハルカに乳を与える場面を浅く刻んでいます。高さ9.6センチのファイアンス製で、神に育てられる王という考えを可視化しています。所蔵館は材質の繊細さから、実際に振って鳴らす祭具というより神殿への奉納物か埋葬用と考えています。出土地はヌビアの可能性にとどまり、元の用途も一つには決められません。(参照:メトロポリタン美術館|タハルカ王の石製シャブティ/メトロポリタン美術館|バステトがタハルカに授乳する首飾りの重り)
シャバカ石碑|古い文章を写したという王の主張
クシュ系のシャバカ王の名を持つ石碑(大英博物館EA498)には、メンフィスの神プタハに関する神学的な文章が刻まれています。冒頭は、傷んだ古い文書を王が見つけ、新しい石に写させたという内容です。石は後に石臼として再利用され、中心に開いた穴とそこから伸びる摩耗痕で多数の文字が失われました。
現存する碑面が第25王朝に刻まれたことと、書かれた物語がそれ以前に作られたことは別の問題です。古い文書を写したという記述だけで、全文を古王国時代の作と決めることはできません。また第25王朝の王位継承順にも再検討があり、クリストフ・ユルマンは2017年、東部砂漠とテーベの史料からシャバタカとシャバカの順序を問い直しました。王の名前を記す作品の前後関係自体も研究の対象となっています。(参照:大英博物館|シャバカ石碑(EA498)の文字と再利用/C・ユルマン(2017年)|クシュ系第25王朝の王位継承順をめぐる研究/メトロポリタン美術館|シャバカ王の土地寄進碑)
テーベの神官と大墓|古い墓の図像を選び直す
メンチュエムハトの墓TT34|二つの中庭と小鳥の浮彫
第25〜26王朝の転換期、テーベの有力者メンチュエムハトはアサシーフに巨大な墓(TT34)を造りました。東側には日干し煉瓦の門塔があり、その西に広い掘り下げた中庭、さらに小さな中庭と地下の通路が続きます。紀元前680〜650年頃の石灰岩浮彫断片には籠に入れられた鳥4羽と、さらに鳥を押し込もうとする人、外へ逃げようとするアヒルが表されています。
この断片は高さ10.3センチ、幅19.3センチほどで、第1中庭の西側にあった柱廊の一部と考えられています。テーベの第18王朝墓には鳥猟の絵が多く、古い画題の継承が見られますが、所蔵館はこの断片と正確に一致する旧作の手本を特定していません。石質が弱く多くの浮彫が損傷しているため、元の壁面の全体構成は復元の途中にあります。(参照:メトロポリタン美術館|メンチュエムハト墓の鳥籠浮彫)
石製シャブティの再登場|有力者の墓と素材
メンチュエムハトのシャブティは、緑色を帯びた蛇紋岩製で高さ11センチ。メトロポリタン美術館は1918〜19年、テーベ西岸の彼の墓の近くから同種の小像3点を発掘しました。古くは中王国や第18王朝にもあった石製の大きめのシャブティが、第25王朝に王、アメン神の妻、テーベの高官の埋葬具として改めて選ばれました。
同じ葬送人形でも、テーベの富裕層の硬石製品と、型で数多く作るファイアンス像とでは材料費や工程が違います。古い形式を用いることが、製作技術そのものを昔に戻したことを意味するわけではありません。手で整えた石の輪郭と表面の文字を見れば、埋葬者の肩書と、職人がどこまで細かく仕上げたかが分かります。(参照:メトロポリタン美術館|メンチュエムハトの蛇紋岩シャブティ/メトロポリタン美術館|メンチュエムハト墓の鳥籠浮彫)
神殿に立つブロック像|名前と供物の呼びかけ
紀元前690〜610年頃のモンチュ神官ジェドコンスウエフアンクのブロック像は、高さ30.7センチの斑れい岩製。膝を引き寄せた身体を一塊の石として表す形式で、表面を磨いて顔と文字を際立たせています。正面には本人と父母の名前、官職が刻まれ、台座には像の前を通る人々へ供物を求める文章が置かれています。
もともと置く場所として記されているのはルクソール神殿です。背の柱には後に「サイス朝の定型」と呼ばれる祈願文があり、古王国風の厳しい顔立ちと新たな宗教文の組み合わせが見られます。神殿に残した像は礼拝する人に存在を伝え続ける役割を持ち、墓の中に隠して納めるシャブティとは見る人が異なりました。(参照:メトロポリタン美術館|モンチュ神官ジェドコンスウエフアンクのブロック像)
第26王朝サイス朝の彫刻|古い形式と新しい顔
プサメティク1世期の王像|頬と口元の彫り
紀元前664年、サイスを本拠とする第26王朝が成立し、プサメティク1世は各地の王権をまとめました。メトロポリタン美術館にあるサイス朝初期の王の胸像は、細長い顔と目の縁、口角の周囲の筋肉を細かく彫り、眉から鼻梁への移り変わりを硬い石に表しています。胸より下を失っていますが、もとはひざまずく王像だった可能性があります。
第25王朝の締まった顔立ちを受け継ぎながら、第26王朝では細い曲線と磨いた表面の扱いが変化します。王名が確認できない像を、顔立ちだけからプサメティク1世本人と断定することは避け、所蔵館が示す「サイス朝の王像」という同定に従います。造形様式を調べる際にも、残った部分と失われた身体は分けて考えます。(参照:メトロポリタン美術館|サイス朝の王の胸像/J・アレン、M・ヒル/メトロポリタン美術館|末期王朝時代のエジプト(2004年、2018年改訂))
ハトホルの標章を抱く神官|旧王国に学ぶ筋肉表現
アメンオペエムハトのひざまずく石像は、紀元前664〜610年頃の第26王朝初期の品で、高さ64.5センチ。両腕の前には、柱の頂部に牛の耳を持つ女性の顔を表したハトホル女神の標章を掲げています。標章の髪の波と、人物の肩から鎖骨、胸の中央へ続く浅い起伏とが、同じ硬石の中で彫り分けられています。
神官の職名は北部の歌手を統率する役職とアメンオペ神の歌手を監督する役職を示します。神官の父の像がタニスで発見されたことから、一族の職務と土地の関係も検討されています。均整の取れた肩や胸の彫りには古王国・中王国の人物像を参照した様子がありますが、標章の細部や神官本人の官職は第26王朝の事情を伝えます。(参照:メトロポリタン美術館|ハトホル標章を捧げるアメンオペエムハト像)
サイス長官のブロック像|体の前面を祠にする
サイスの長官プサメティクセネブのブロック像は高さ31センチ、灰緑色の硬い石で作られました。膝と胴を合わせた四角い身体の前に祠を彫り、その内部に立つオシリス神を浮彫で表します。髪が額の上でわずかにくぼみ、細長い腕が塊の両側から露出する形は第26王朝初期の特徴です。
碑文と別の遺物から、プサメティク1世の時代にサイス地方を治めた人物と比定されています。本人の名は一部が欠けています。像はオシリス神殿に置くためのものでしたが、現在の収蔵記録ではローマ時代のハドリアヌス帝別荘から来た可能性も示され、エジプトでの原設置地点と近代に見つかった場所を同一視できません。(参照:メトロポリタン美術館|サイスの長官プサメティクセネブのブロック像)
将軍アマシス像|1950年代に見つかった接合関係
メトロポリタン美術館にある将軍アマシス像の頭部は、口元、頬、目尻の線を細かく整えた第26王朝中頃の石彫です。1898年、デルタ東部サフト・エル=ヘンナで頭を失った下半身が発見され、1950年代にエジプト学者ヘルマン・デ・ムーレネーレが美術館の頭部と同一の像だと突き止めました。下半身は現在カイロのエジプト博物館にあります。
胴体の碑文には、プサメティク2世のもとでヌビア遠征に参加した将軍の肩書が刻まれています。アブ・シンベルの巨像に残るギリシア語・フェニキア語・カリア語の軍人の刻文にも遠征軍が現れ、アマシスの名が指揮官として記されています。この像は顔の造形を観賞するだけでなく、別々に収蔵された破片と史料を付き合わせて人物の経歴を調べられる例です。(参照:メトロポリタン美術館|将軍アマシス像の頭部と胴体の同定/J・アレン、M・ヒル/メトロポリタン美術館|末期王朝時代のエジプト(2004年、2018年改訂))
ネコ2世の王名を持つ銀像|女神か王族か
紀元前610〜595年のネコ2世の王名が両上腕に刻まれた銀の女性小像は、高さ23.8センチ。身体は裸で、短いかつら、耳飾り、幅広の首飾り、腕輪、足輪を身につけています。額のかつらには銀線を残す二つの穴があり、王や神の額を飾る聖蛇が取り付けられた可能性があります。銀の表面に残る細部と、王名を囲む枠の彫りが観察できます。
この像はテーベで購入されたもので、カルナック神殿か「アメン神の妻」と呼ばれる高位の女性祭祀職の埋葬に関係したという説があります。裸の女性像を以前は出産の願いと結び付けることが多くありましたが、神殿から出土した同種品の研究は治癒の儀式や女神の表現という可能性も示しています。1980年代後半のX線調査と洗浄で肩の王名が読めるようになり、年代の確認が進みました。この役職に就いた女性自身の肖像という同定は未確定です。(参照:メトロポリタン美術館|ネコ2世の王名を刻む女性銀像/メトロポリタン美術館|古代エジプトの銀とネコ2世王名女性像の再調査)
第26王朝の棺と石棺|塗られた空と刻まれた祈り
ウェジャレネスの木棺|蓋の女神ヌトと裏側の柱
紀元前600〜575年頃のウェジャレネスの棺には、タマリスクとイチジクの木材が使われています。蓋の正面には翼のある頭飾り、編んだかつら、花を連ねた首飾りを持つ女性が表され、胸では天空の女神ヌトが翼を広げています。棺の内側では、ヌトの姿を横向きと正面向きの二つの構図で描き分け、腕と脚の間に赤い太陽の円盤を置いています。
日が暮れるとヌトが太陽をのみ込み、朝に生み直すという神話が棺の内面に表されました。外面の下部には死者を守る神々と呪文、背面にはオシリスの背骨を象徴する柱が描かれています。横たわる身体を収める箱に空と地下世界の双方を描き、棺そのものの面を複数の神話の場として使いました。(参照:メトロポリタン美術館|ウェジャレネスの彩色木棺)
イセティルディスの棺|女神と金の象形文字
第26王朝のイセティルディスの木棺は長さ180センチ、幅50センチ。テーベ西岸アサシーフの、遺体処置に関わった品々をまとめた場所から、1918〜19年のメトロポリタン美術館調査で見つかりました。顔を挟むかつらには花弁のような頭飾りと禿鷲の翼が付き、首元は幅広い花の首飾りになっています。
胸の中央ではヌト女神が「金」を表す象形文字の上にひざまずき、蓋の左右には柱の上に立つ聖なる雄羊が並びます。女神ヌトは別の棺では翼を大きく広げますが、ここでは小さな座像となって金の記号と重ねられています。保存された図像は、古代の葬儀で誰を守るために祈りが書かれたかを棺の持ち主の名前と一緒に伝えます。(参照:メトロポリタン美術館|イセティルディスの彩色木棺)
ハルケビトの硬石棺|サッカラの深い墓から
紀元前595〜526年頃のハルケビトの石棺は、灰緑色の硬い石から彫り出した全長約256.5センチ、肩の幅127センチの大きな人形棺です。顔は頬を膨らませた四角い輪郭、胴はなめらかな面、足先はわずかに突き出した形です。蓋の『死者の書』に由来する文字は、表面を彫り下げる方法で線を揃えています。
1902年にサッカラの墓の埋葬室が発掘されたとき、棺内には傷んだ金箔張りの杉材の木棺と、銀に金を施したマスクを着けたミイラ、指先にかぶせる金具、護符が残っていました。副葬品はカイロへ、石棺はエジプト政府からの購入でニューヨークへ移されています。碑文の彫り下げた面が粗いのは、当初色を塗る予定だった可能性があり、現在の石の地色だけが完成時の姿ではありません。(参照:メトロポリタン美術館|ハルケビトの硬石棺と1902年の発掘)
ハルシエセの屋根形石棺|古王国の建築模様
神官ハルシエセの石灰岩棺は、長さ192.5センチの長方形の箱に丸い屋根のような蓋を載せた形です。箱の長辺下部に刻まれた細い凹凸は、宮殿や神殿の外壁を連想させる入り組んだ装飾で、上の帯には神々が並びます。この屋根形の蓋と壁のような模様は、遠く古王国時代の石棺にも使われた形式でした。
第25〜26王朝には、木棺でも同じ形式の外棺が作られました。古い時代の様式を使いながら、その上に後期の祈願文や神像を組み合わせています。ハルシエセの石棺は第26王朝と推定されていますが、出土地は「上エジプト北部の可能性」という範囲です。名前が刻まれていても発掘場所まで確実になるとは限りません。(参照:メトロポリタン美術館|ハルシエセの屋根形石棺)
シャブティと『死者の書』|数百点の人形と長い巻物
海軍監督ヘカエムサフの401体|型と釉薬の仕事
紀元前570〜526年頃、王の船団を監督したヘカエムサフの墓には、シャブティ401体の一組が置かれました。1903年の発掘で見つかったその一体は高さ17.1センチのファイアンス製で、低い台座に立ち、後ろには細い支柱があります。頭に長いかつらと曲がった付けひげを着けたミイラ姿に、規則的な文字列が重なります。
400体を超える組は日々の労働を引き受ける人形と、その人形を指揮する役を含む編成として説明されますが、すべての時代の墓で同じ数だったわけではありません。多くの品を型で作ると形は似ますが、釉薬の色や文字の彫り、焼き具合は一体ずつ異なります。墓からまとまって出た数と、現在各館に分かれた個数を区別して扱います。(参照:メトロポリタン美術館|海軍監督ヘカエムサフのシャブティ/ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ|古代エジプト王朝年代表)
プサメティクセネブの小像|籠と農具、十行の文字
下エジプトの財務を司ったプサメティクセネブのシャブティは高さ16.6センチ。腕を胸の前で組んで農具を握り、右手から後ろの籠へ綱が伸びています。背中の柱を挟んで胴から脚へ10行の文字が巡り、本人の名、両親の名、農作業を頼まれたとき死者の代わりに答えるという『死者の書』第6章の言葉を刻んでいます。
メトロポリタン美術館に8体、カイロに22体など、同じ人物の小像が各館にあります。所蔵館の8体でも顔や細部は一つとして同じではありません。制作年代は紀元前595〜380年の幅で示され、墓の位置は不明です。上級官僚という肩書からサッカラへの埋葬が推測されていますが、実際に発掘された場所として書くことはできません。(参照:メトロポリタン美術館|プサメティクセネブのシャブティと第6章銘文)
カムホルの『死者の書』|散らばったパピルス
サイス朝のカムホルの『死者の書』は、所蔵館の大きな部分だけで長さ295.5センチ、幅37センチのパピルスです。1923〜24年、デイル・エル=バハリの墓の入口付近のごみから発見され、同じ巻物の断片がほかの博物館にも分かれています。古代に墓が荒らされた後、風で動いた可能性が考えられています。
近くのハトシェプスト女王葬祭殿の床下に持ち主の埋葬があったという推定があり、棺の蓋はカイロの収蔵品と結び付けられています。紙片のある場所と埋葬の元の位置は同じではありません。図像と文字を継ぎ合わせる作業では、古い発掘日誌、複数館の断片、棺に残る持ち主の名を照合し、散逸した一巻の構成を復元します。(参照:メトロポリタン美術館|カムホルの『死者の書』と出土記録)
神々の小像|寺院で祈るための青銅工芸
オシリス神の立像|王笏と鞭を持つ身体
紀元前664〜332年の範囲に収められるオシリス神の銅合金像は、高さ23.2センチ。包帯で覆われたミイラ状の身体に腕の位置が分かるほどの起伏をつけ、両手で王の杖と鞭を持ちます。顔の細部は第26王朝前半を思わせますが、首には別の像の頭と身体を接いだ痕跡があり、今見える姿を当初から一体で作られたものとして扱えません。
オシリス像は各地の神殿に多数捧げられ、本人の聖所だけでなくほかの神を祀る場所や動物の墓地にも置かれました。小像の型が似ていても、名前を刻んだ台座、金属の厚さ、頭と身体の接合の有無が異なります。奉納された場所が分からない品の用途は、同種の発掘例と合わせて慎重に考えられています。(参照:メトロポリタン美術館|末期王朝のオシリス青銅小像/メトロポリタン美術館|神殿の金属像の発掘と埋納をめぐる調査)
バステト女神|猫の頭と揺らす楽器
第26〜30王朝のバステト女神小像の一つは高さ10.2センチの銅合金製です。猫の頭を持つ女神が、片方の腕に横縞の籠をかけ、胸の前に獅子頭の護符形の標章を持ち、もう片方の手には儀礼で鳴らすシストラムという楽器を握ります。楽器の一部は失われています。衣服には斜めの筋を交差させる細かな模様が入り、裾の境目も刻まれています。
この模様を猫の縞毛に結び付ける見方はありますが、所蔵館は確定した意味としてはいません。バステト信仰の中心ブバスティスでは猫のミイラや神像が多数出土し、サッカラにも関連する地下墓地があります。この小像自体の発掘場所は分かっておらず、同じ神の図像を持つことだけでブバスティスから来たと決めることはできません。(参照:メトロポリタン美術館|標章・楽器・籠を持つバステト小像/メトロポリタン美術館|猫の木製奉納像)
イシスと幼子ホルス|神像に刻まれた奉納者
第3中間期から末期王朝にかけて、イシスが幼子ホルスを膝に抱いて乳を与える像が銅合金やファイアンスで作られました。母子の関係と王権の保護を表す場面で、イシスの頭の冠、長いかつら、玉座の形などは作品によって異なります。神像を正面から礼拝できる小さな立体へ置き換え、祈る人の手が届く祭具として使われました。
サイス朝のイシス像にはホルという奉納者の名が刻まれ、その父パディホルレスネトはテーベのアメン神の妻ニトクリスに仕えた高官として知られます。所蔵館は奉納者の在任期間から年代を絞っています。個別の神像の出土位置はしばしば不明でも、刻まれた親族名や官職が、神殿を支えた人々の系譜と像の製作時期を考える材料になります。(参照:メトロポリタン美術館|ホルスに授乳するイシス小像/J・アレン、M・ヒル/メトロポリタン美術館|第3中間期のエジプト(2004年、2018年改訂))
ペルシア支配下の造形|聖域の継続と外国との往来
紀元前525年の征服後|エジプトの神殿を使う王
紀元前525年、ペルシアのカンビュセス2世がエジプトを征服しました。第27王朝のダレイオス1世はエジプトのファラオの称号を用い、西方砂漠のカルガ・オアシスにあるヒビスのアメン神殿を大きく造営しました。神殿の壁にはエジプト式の冠をつけた王が神へ供物を捧げる浮彫があり、政治の支配者が変わっても神殿の図像体系は使われました。
ヒビス神殿は紀元前500年頃以降を中心に建設され、1907年から1930年代前半までメトロポリタン美術館がその周辺を調査しました。『ダレイオス1世がアメン神に捧げる姿』として同館にある画像資料は、チャールズ・ウィルキンソンが紙へテンペラで写した近代の模写です。制作された古代の壁面と、現代に展示される写しの年代・材質を区別する必要があります。(参照:メトロポリタン美術館|カルガ・オアシスのヒビス神殿調査/メトロポリタン美術館|ヒビス神殿・ダレイオス1世浮彫の記録模写/J・アレン、M・ヒル/メトロポリタン美術館|末期王朝時代のエジプト(2004年、2018年改訂))
メンフィスとデルタ|軍人・商人・石工の往来
第26王朝のメンフィスには、エジプト人のほかギリシア、フェニキア、カリアなどの出身者が軍人や職人として暮らしていました。ナイル・デルタ西部のナウクラティスにはギリシア人の交易拠点が成立します。一つの石像に彫られた名前や王の称号だけで、その作品を造った職人の出自を推測することはできませんが、文字資料から往来した人々の存在が確かめられます。
プサメティク2世のヌビア遠征に加わった将軍アマシスは、エジプト側の軍団を率い、別の将軍は外国語を使う軍勢を指揮したと記録されます。紀元前593年の遠征をめぐるアブ・シンベルの碑文にはエジプト語以外の文字も残されました。これらの銘文を一緒に見ることで、王の彫像や神殿の造営を支えた国家が、多言語の人々との接触の中にあったことが分かります。(参照:J・アレン、M・ヒル/メトロポリタン美術館|末期王朝時代のエジプト(2004年、2018年改訂)/メトロポリタン美術館|将軍アマシス像の頭部と胴体の同定)
同じ神の像にも続く年代幅|ペルシア期の識別
オシリスやバステトの小像には、所蔵館が第26王朝から第30王朝までという数百年の制作年代を示すものがあります。王名が刻まれた像や発掘記録の明瞭な像に比べ、出土地のない神像は、顔・冠・鋳造の様子だけで細かな世紀を決められない場合があります。ある女神の祭祀がペルシア支配下でも続いたことと、個別の像がペルシア時代に作られたことは同じ事実ではありません。
メトロポリタン美術館の末期王朝史解説も、ペルシア支配期に明確に帰属できる彫像が少ないという研究上の限界を述べています。神像をまとめて埋めた層の年代が分かっても、それ以前のどの治世に鋳造されたかは別に検討します。行政文書や神殿造営の碑文を年代の基準として使い、無記名の小像は広い制作年代のまま紹介するのが適切です。(参照:J・アレン、M・ヒル/メトロポリタン美術館|末期王朝時代のエジプト(2004年、2018年改訂)/メトロポリタン美術館|末期王朝のオシリス青銅小像/M・ヒル編/メトロポリタン美術館(2007年)|『神々への贈り物』金属神像の研究)
第30王朝の王像と神殿|ネクタネボ2世の姿
巨大な鷹と小さな王|ホルスに守られる像
紀元前360〜343年のネクタネボ2世を表す石像は、高さ72センチ、幅20センチ、奥行46.5センチの灰色の硬石彫刻です。二重王冠を着け、翼を閉じて立つ鷹の大きな脚の下に、小さな王が身体を寄せるように置かれています。作品はヘリオポリスの聖牛ムネヴィスの墓から来たと伝えられますが、記録に確実な発掘位置はありません。
王が片手に剣、もう片方に祭礼を表す記号を持つ形は、鷹神ホルスと組み合わせると王のエジプト語名「ナクトホルヘブ」を読めるという解釈があります。一方、台座に記されたのはネクタネボとオシリス・ムネヴィスで、ホルスの名は刻まれていません。王と鷹の結び付きが王の神格化を表すのか、王名を造形化したのかは、作品の文字と形から複数の読み方が示されています。(参照:メトロポリタン美術館|ネクタネボ2世を守るホルスの鷹像)
デルタのイシス神殿|花崗閃緑岩に刻む奉納
ネクタネボ2世はデルタ中部のベフベイト・エル=ハガルに、イシス神を祀る大きな石造神殿を建てました。現存する紀元前360〜343年の浮彫片には、王が香と首飾りをオシリス・ヘマグ神へ捧げる姿が表され、高さ約93.2センチ、幅約170.8センチの花崗閃緑岩の面に文字と人物が刻まれています。
神殿は古い建物の上に増築されたと考えられ、ネクタネボ2世の時点で屋上のオシリス礼拝堂などの装飾が進みました。ほかの部分の工事は王の治世に終わらず、後のプトレマイオス朝に引き継がれています。発見される石材は崩れた建物の断片なので、同じ場所の浮彫でも第30王朝の制作とそれ以後の追刻とを区別します。(参照:メトロポリタン美術館|ネクタネボ2世のオシリス奉納浮彫/J・アレン、M・ヒル/メトロポリタン美術館|末期王朝時代のエジプト(2004年、2018年改訂))
将軍チャハピムの立像|王位継承の家族関係
ネクタネボ2世の父、将軍チャハピムの像は、高さ75.3センチの灰色の硬石製です。腰帯には王の兄弟・王の父という地位が刻まれ、背の柱には息子ネクタネボ2世の名が残ります。表面は強く磨かれ、胸や腕には張った筋肉を彫って、直立する人物の重量感を出しています。1907〜08年、メンフィスで行われた発掘から収蔵されました。
ネクタネボ1世の後継者テオスが国外遠征中、チャハピムはエジプトの統治を任され、その息子が軍の支持を得て王位についたという経緯が伝えられます。石像に刻まれた血縁と地位を、文書で伝わる王位継承と照らすと、父王の像とは違う官人の姿からも時代の政治が見えてきます。像に示された肩書のうち、王の兄弟に当たる関係の詳しい説明には近年の再検討があるため、確定した家系図として単純化しません。(参照:メトロポリタン美術館|将軍チャハピムの石像と1907〜08年発掘/J・アレン、M・ヒル/メトロポリタン美術館|末期王朝時代のエジプト(2004年、2018年改訂))
略年表
- 紀元前1070年頃|新王国が終わり、タニスの王とテーベのアメン神官を中心とした第21王朝の体制が始まる
- 紀元前1000〜945年頃|テーベでアメン神の歌手ヘネタウィの三重の木棺と護符が納められる
- 紀元前990〜970年頃|別のヘネタウィの埋葬に太陽の夜の旅を記す『アムドゥアト』パピルスが納められる
- 紀元前945年頃|リビア系のシェションク1世が即位して第22王朝が始まる
- 紀元前930年頃|オソルコン1世の第6年の土地寄進碑に王と神々が刻まれる
- 紀元前820〜790年頃|ペドゥバステ王の中空青銅立像など、複数部材を組み合わせた金属王像が作られる
- 紀元前730年頃|クシュ王ピイがエジプトの諸王と戦い、ヌビア系王朝の支配が北へ広がる
- 紀元前720〜664年頃|クシュ系の王たちが第25王朝の王として統治し、二重の聖蛇をつけた王像を奉納する
- 紀元前690〜664年頃|タハルカ王がヌビアのカワでアメン神殿を造営し、王像と石製シャブティが作られる
- 紀元前680〜650年頃|テーベのメンチュエムハトが大型墓TT34を建て、鳥猟などの浮彫を施す
- 紀元前664年頃|サイスを拠点とする第26王朝が始まり、石造の王像や官人像が盛んに作られる
- 紀元前610〜595年頃|ネコ2世の名を腕に刻んだ銀製女性像が作られる
- 紀元前600〜575年頃|ウェジャレネスの木棺に翼を広げるヌト女神と太陽の再生が描かれる
- 紀元前595〜526年頃|サッカラにハルケビトの硬石製人形棺が納められる
- 紀元前570〜526年頃|アマシス王の青銅小像、海軍監督ヘカエムサフのシャブティなどが作られる
- 紀元前525年|ペルシアがエジプトを征服し、第27王朝が始まる
- 紀元前500年頃|ダレイオス1世のもとでカルガ・オアシスのヒビス神殿が大きく整備される
- 紀元前404年|エジプトでペルシア支配が終わり、第28〜30王朝の独立期へ移る
- 紀元前380年頃|ネクタネボ1世が即位し、各地の神殿造営を進める
- 紀元前360〜343年頃|ネクタネボ2世がホルスの鷹を伴う王像とデルタの神殿浮彫を制作させる
- 紀元前343年|ペルシアの再征服で第31王朝が始まる
- 紀元前332年|アレクサンドロス3世がエジプトへ入り、次のマケドニア・プトレマイオス朝の時代に移る
まとめ
第21王朝のヘネタウィの埋葬具には、木材を継いで作った三重の人形棺、漆喰状の下地に重ねた色彩、護符を結んだ亜麻糸が残っています。第22王朝の土地寄進碑は王を神々の前に描き、金属工房は純金の小像や、内部に空洞と補強を設けた大きな青銅像を製作しました。墓と神殿で注文された品には、材質、描く内容、置く場所の違いがあります。
クシュ系王朝の王像は帽子形の冠と二重の聖蛇を持ち、カワの神殿では雄羊とスフィンクスがタハルカ王を守る形に作られました。サイス朝の神官像や王像には以前の時代の彫刻を研究した表現があり、硬石棺の深い刻字や、棺の内外へ広げたヌト女神の図像にも新たな工夫が見られます。第30王朝ではネクタネボ2世の名と鷹神を組み合わせた彫刻が造られました。
残された品の中には、発掘室や副葬品の位置が記録された棺がある一方、出土地が伝承だけの神像や、後世に頭を付け替えた青銅像もあります。小像を神殿でどれほど長く使ったか、クシュ系の王名を後の時代に消した理由、鷹と王の組み合わせをどのように読んだかについては、資料ごとに検討が続いています。2005年の大型青銅王像の技術調査や2007年の神殿奉納像の研究は、製作工程と埋納経緯を調べる方法を進めましたが、制作年代や用途をすべて一つに定めたわけではありません。(参照:M・ヒル、D・ショーシュ(2005年)|ペドゥバステ王青銅像の構造調査/M・ヒル編/メトロポリタン美術館(2007年)|『神々への贈り物』金属神像の研究/メトロポリタン美術館|ネクタネボ2世を守るホルスの鷹像)
参考資料・出典
- J・アレン、M・ヒル/メトロポリタン美術館|第3中間期のエジプト(2004年、2018年改訂)
- J・アレン、M・ヒル/メトロポリタン美術館|末期王朝時代のエジプト(2004年、2018年改訂)
- ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ|古代エジプト王朝年代表
- ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ|第3中間期の王統
- メトロポリタン美術館|アメン神歌手ヘネタウィの入れ子式木棺
- メトロポリタン美術館|ヘネタウィ墓出土の護符付き腕輪
- メトロポリタン美術館|カルシェレの内棺
- メトロポリタン美術館|カルシェレの棺一式
- メトロポリタン美術館|イセテムケブの娘ヘネタウィの『アムドゥアト』パピルス
- メトロポリタン美術館|ジェドムテサンクのシャブティ箱と人形
- メトロポリタン美術館|ヘネタウィのシャブティ箱と人形
- メトロポリタン美術館|アーフェンムトの彩色木碑
- メトロポリタン美術館|オソルコン1世第6年の土地寄進碑
- メトロポリタン美術館|純金鋳造のアメン神小像
- メトロポリタン美術館|古代エジプトの金工と神殿神像
- M・ヒル、D・ショーシュ(2005年)|ペドゥバステ王青銅像の構造調査
- M・ヒル編/メトロポリタン美術館(2007年)|『神々への贈り物』金属神像の研究
- メトロポリタン美術館|古代エジプト金属神像展の作品・材質・鋳造法
- 大英博物館|シャバカ石碑(EA498)の文字と再利用
- メトロポリタン美術館|シャバカ王の土地寄進碑
- C・ユルマン(2017年)|クシュ系第25王朝の王位継承順をめぐる研究
- メトロポリタン美術館|ひざまずくクシュ系王の青銅像
- 大英博物館|カワ神殿出土のタハルカ王スフィンクス(EA1770)
- 大英博物館|カワ神殿出土のタハルカ王を守る雄羊(EA1779)
- メトロポリタン美術館|タハルカ王の石製シャブティ
- メトロポリタン美術館|バステトがタハルカに授乳する首飾りの重り
- メトロポリタン美術館|メンチュエムハト墓の鳥籠浮彫
- メトロポリタン美術館|メンチュエムハトの蛇紋岩シャブティ
- メトロポリタン美術館|モンチュ神官ジェドコンスウエフアンクのブロック像
- メトロポリタン美術館|サイス朝の王の胸像
- メトロポリタン美術館|ハトホル標章を捧げるアメンオペエムハト像
- メトロポリタン美術館|サイスの長官プサメティクセネブのブロック像
- メトロポリタン美術館|将軍アマシス像の頭部と胴体の同定
- メトロポリタン美術館|ネコ2世の王名を刻む女性銀像
- メトロポリタン美術館|古代エジプトの銀とネコ2世王名女性像の再調査
- メトロポリタン美術館|ウェジャレネスの彩色木棺
- メトロポリタン美術館|イセティルディスの彩色木棺
- メトロポリタン美術館|ハルケビトの硬石棺と1902年の発掘
- メトロポリタン美術館|ハルシエセの屋根形石棺
- メトロポリタン美術館|海軍監督ヘカエムサフのシャブティ
- メトロポリタン美術館|プサメティクセネブのシャブティと第6章銘文
- メトロポリタン美術館|カムホルの『死者の書』と出土記録
- メトロポリタン美術館|末期王朝のオシリス青銅小像
- メトロポリタン美術館|標章・楽器・籠を持つバステト小像
- メトロポリタン美術館|猫の木製奉納像
- メトロポリタン美術館|ホルスに授乳するイシス小像
- メトロポリタン美術館|カルガ・オアシスのヒビス神殿調査
- メトロポリタン美術館|ヒビス神殿・ダレイオス1世浮彫の記録模写
- メトロポリタン美術館|ネクタネボ2世を守るホルスの鷹像
- メトロポリタン美術館|ネクタネボ2世のオシリス奉納浮彫
- メトロポリタン美術館|将軍チャハピムの石像と1907〜08年発掘
- メトロポリタン美術館|神殿の金属像の発掘と埋納をめぐる調査