1600–1700
イベリア帝国と大西洋世界の美術
スペイン領アメリカ、ポルトガル領ブラジル、宗教美術と現地工房
17世紀のヨーロッパで、画家たちが聖人の身振りや光の効果を追求していた頃、大西洋を隔てたメキシコやアンデスでも、大規模な祭壇画、金色に輝く彫刻、細密な装飾品が作られていました。ローマのバロック絵画を見てきた読者がプエブラ大聖堂の絵画に出会えば、身体の動きや天上の光に共通点を見つけるでしょう。ところが、教会の外に目を移すと、異なる言語を話す人々、地域ごとの技術、太平洋から届いた品物が、作品の形と意味を大きく変えていたことに気づきます。
スペインとポルトガルの支配するアメリカ大陸は、単にヨーロッパの美術が移された場所ではありませんでした。画家や彫刻家はヨーロッパ製の版画を参照しながら現地の礼拝空間に合う画面を設計し、先住民の職人は受け継いだ石工技術や織物の知識を新しい注文に用いました。アフリカから強制的に移送された人々とその子孫も、都市の建設、工房、社会生活を支えていました。こうした制作活動は、植民地支配の制度と深く絡み合っています。
作品を見ていくと、一枚の宗教画が人々を教え導く目的で発注される一方で、土地に固有の記憶や信仰を映し出していることがあります。豪華な銀器は職人の技量を示すと同時に、鉱山労働、海外交易、教会への寄進という長い経路を背負っています。本記事は1600年から1700年までを中心に、ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコを中心とするスペイン領)、ペルー副王領に含まれたアンデス、ポルトガル領ブラジルをたどり、大西洋世界の美術がどのように生まれたかを具体的な作品から解説します。
CONTENTS
大西洋を挟む帝国と美術のネットワーク
副王領、都市、教会――誰が作品を注文したのか
16世紀の征服と植民地化を経て、スペイン王権はメキシコ市を中心とするヌエバ・エスパーニャ副王領と、リマを中心とするペルー副王領を統治しました。17世紀の行政区分と現在の国境は一致せず、キト、クスコ、ポトシなども広いネットワークに組み込まれていました。ポルトガル領ブラジルには別の統治制度が置かれ、沿岸部の砂糖生産と大西洋交易を軸に都市が成長しました。これらの領域をまとめて語る際には、支配者の制度と実際に暮らす社会の多様さを区別する必要があります。
宗教施設では司教、修道会、兄弟会、個人の寄進者が建築や祭壇の制作を支え、都市の役人や裕福な商人は肖像画、銀器、家具、室内装飾を求めました。巨大な大聖堂の制作には建築家、石工、木彫職人、金箔を施す職人、画家など、多くの技能が必要でした。伝来する作品を美術史の資料として読むときは、何を描いたかと同じくらい、どの組織が費用を負担し、どこで誰が見るために作られたかが重要になります。 (参照:メトロポリタン美術館|スペイン領アメリカの美術、メトロポリタン美術館|スペイン領アメリカ美術(研究解説))
宗教画像の役割と改宗をめぐる力関係
スペインとポルトガルの植民地社会で、カトリックの宗教画像は説教、祈り、祭礼の中心に置かれました。教会の内部では聖書の場面を描く大画面が配置され、祭壇や聖人像の前では信徒が祈りを捧げました。ヨーロッパで宗教改革とカトリック改革を経て整えられた画像の使用法も参照され、物語を理解させるための身振り、文字、象徴が組み合わされました。どのような画像が必要とされたかは地域の伝道方針や注文主によって異なります。
礼拝に使われる作品の大きさも、制作の目的に応じて異なりました。大聖堂の奥で信徒の視線を受ける大画面と、小さな礼拝所へ運ばれる像では、鑑賞者の距離や見える細部が変わります。例えば人物の顔を遠くから見せるためには、身振りを明快にし、周囲との色の差を大きくする必要があります。祭礼で近くから見られる像では、衣装の素材や冠の細工などが重要になるでしょう。
現地の住民にとって、こうした画像は植民地統治と結びつくものであり、同時に、共同体の祈りや祭礼の中で独自の意味を帯びる場合もありました。先住民の手による制作を称賛するだけでは、改宗の強制や古くからの儀礼への規制を見落としてしまいます。作品の造形的な創意を読み取ることと、社会の不均衡を把握することを重ねて初めて、その時代の美術の実像が立ち上がります。 (参照:メトロポリタン美術館|スペイン領アメリカの美術、Smarthistory|リャーニョと先住民の共同制作者《天国と地獄への道》)
銀、砂糖、土地――美術を支えた富と労働
鉱山から産出する銀はスペイン領アメリカの経済を動かし、ポトシなどの採掘地は大西洋・太平洋の交易とつながっていました。銀は硬貨として使われただけでなく、教会の聖具や祭礼の装飾にも加工されます。金属の光沢や加工の精巧さを見るとき、その材料がどこから来たのかを考えることで、遠く離れた都市の人々の関係が見えてきます。
ブラジルでは砂糖農園で働く奴隷化されたアフリカ系の人々の労働が、輸出経済を支える大きな部分を占めました。スペイン領でも鉱山、農園、都市建設に強制的な労働制度が用いられました。教会の華やかな装飾を生み出す資金と、採掘や生産に従事した人々の生活条件には深い関係があります。美術作品は帝国の成功を示す証拠として残されがちですが、記録されにくかった制作者や労働者にまで視野を広げることが必要です。 (参照:メトロポリタン美術館|スペイン領アメリカの美術、Smarthistory|植民地時代のブラジル美術入門)
版画が運び、職人が描き直した図像
ヨーロッパで印刷された版画は、海を越えて工房へ届く重要な手本でした。画家は聖人の姿勢、天使の配置、聖書の場面の構成を版画から学び、それを壁画や油彩画へ移し替えました。同じ版画が遠く離れた教会で使われても、作品の大きさ、周囲の装飾、色の選び方は地域によって変わります。黒い線で描かれた小さな版画を、色彩豊かな祭壇の絵に拡張する仕事には、多くの判断が必要です。
人々の移動と同じく、紙、顔料、金属、織物などの材料も移動しました。欧州の様式を学んだことと、現地の芸術家が独自の表現を発展させたことは矛盾しません。共通の図像が各地でどのように作り替えられたかを確かめると、影響関係を単純な模倣として捉えるよりも、実際の制作に近づくことができます。 (参照:メトロポリタン美術館|スペイン領アメリカ美術(研究解説)、Smarthistory|ディエゴ・キスペ・ティト《最後の審判》)
ヌエバ・エスパーニャ――メキシコ市とプエブラの美術
首都の広場と大聖堂という視覚空間
メキシコ市では中央広場を囲む大聖堂、副王宮、商業施設が、政治・宗教・交易の中心を形作っていました。都市を歩く人々は、教会の正面、鐘楼、役所、商店の並びを日々目にし、祝祭や宗教行列の際には同じ空間が儀礼の舞台へ変わりました。街路の格子状の構成はスペイン統治下の都市計画と結びつきつつ、征服以前から人々が暮らした土地の上に築かれていました。
プエブラはメキシコ市とメキシコ湾岸を結ぶ交通の要衝として発展しました。大聖堂や修道会の教会、富裕な住宅が並び、焼き物のタイルを使った外壁や室内装飾にも地域の特色が現れます。現存する建物には後の時代の工事も重なっています。17世紀の美術を理解するには、現在の景観をそのまま過去の完成形と見なさず、いつ、どの部分が作られたかを確認する視点が欠かせません。 (参照:ユネスコ|プエブラ歴史地区、Smarthistory|ビジャルパンド《メキシコ市中央広場の眺め》)
ビジャルパンド《青銅の蛇とキリストの変容》――二つの物語を一枚に
クリストバル・デ・ビジャルパンドは1683年、プエブラ大聖堂の礼拝堂のために、高さ約8.65メートルに及ぶ《青銅の蛇とキリストの変容》を描きました。旧約聖書でモーセが青銅の蛇を掲げる場面と、新約聖書でキリストが山上で姿を変え、光に包まれる場面が大画面の中で結びつけられています。作品の大きさを考えると、細部の表情を近くで読むだけでなく、遠くの鑑賞者がどの方向へ視線を動かすかを想像することが重要になります。
モーセの周囲で苦しむ人々の姿勢には地上の混乱があり、上方ではキリストの光が視覚的な中心になります。身体が斜めに動き、布が翻り、空間の奥行きと天上の光が重なることで、二つの物語が一連の救済の構想として結びつけられます。描かれた人物の動きをひとつずつ追うと、聖書の出来事を学ぶための説明であるとともに、礼拝堂の高さを活用する壮大な構図であることが分かります。
画家は署名に「inventor」という語を添え、図像を構想した自身の役割を明示しました。これは大きな画面を塗り上げる技術だけでなく、複雑な内容を設計する能力が画家の仕事として認識されていたことを示します。メトロポリタン美術館の2017年の展覧会では、この作品が修復を経て紹介され、当地で生まれた絵画が国際的な研究対象となっていることも示されました。 (参照:メトロポリタン美術館|ビジャルパンドとメキシコのバロック絵画、メトロポリタン美術館|ビジャルパンド展研究資料)
《メキシコ市中央広場の眺め》――都市の繁栄を描く視線
1695年頃の《メキシコ市中央広場の眺め》では、ビジャルパンドは都市の広場を多くの人々、商店、荷物、建築で満たしました。屋根の向こうには遠い山並みが見え、広場の中ほどには商品が集まる市場が描かれます。画面に近づくと、売買や移動の異なる行為が小さく描き分けられていることが分かります。教会内の天上世界を描いた画家が、ここでは同時代の都市そのものを重要な主題にしました。
この絵は1692年の騒乱と副王宮の損傷を読み取れる資料でもあります。広場の活気や都市の豊かさを示す画面は、注文者が見せたい都市の姿を選び取ったものであり、そこで暮らすすべての人々の経験を公平に写した記録ではありません。建物と人の配置を現地の歴史と照らし合わせると、風景のように見える作品の中にも、権力の観点と画家の構成が働いていることが分かります。 (参照:Smarthistory|ビジャルパンド《メキシコ市中央広場の眺め》)
フアン・コレアの屏風――征服の歴史と貴族の室内
17世紀後半のメキシコでは、折り畳める屏風「ビオンボ」が富裕な住宅の装飾に用いられました。日本の屏風に由来する形式が太平洋交易を通じて伝わり、現地の画家たちは油彩や金色の装飾を加え、土地の歴史や四大陸の寓意を描きます。フアン・コレアによる1675年頃の両面屏風は、片面にコルテスとモクテスマ2世の出会い、もう片面に寓意的な図像を置きます。形を変えながら持ち運び、室内の空間を仕切る家具であることも、絵画の見え方を左右します。
コレアはアフリカ系の出自を持つメキシコの画家として知られ、宗教画や世俗画で活動しました。屏風に描かれた征服の場面では、人物の服装、馬、持ち物、序列が細かく演出されています。民族的な多様さを見せるようでありながら、アフリカ系の人々の存在が画面からほとんど消えている点は重要です。描かれた歴史は誰の視点で整えられ、誰がそこから省かれたのか。室内装飾から植民地社会の記憶の形成まで考えることができます。 (参照:Smarthistory|ヌエバ・エスパーニャの世俗美術と屏風、Smarthistory|植民地時代の絵画におけるアフリカ系住民の表象)
画家組合と工房、作者としての誇り
大規模な祭壇画や屏風を作るには、構図を考える画家だけでなく、キャンバスを準備し、下絵を写し、顔料をすり、金箔を扱う職人の協力が必要でした。17世紀のメキシコには画家の職業的な組織があり、注文者は名の知られた画家へ教会や都市の重要な仕事を依頼しました。ビジャルパンドの署名は、構想と実制作を担う職業人としての自負を読む手がかりになります。
17世紀後半の大画面を近くで見ると、人物の衣服と背景で絵具の塗り方が異なる場合があります。まず布の重さを表す広い面を作り、次に縁へ細い線を加えるなど、仕上げの順序が鑑賞の印象を変えます。工房制作の実態を考えると、画家の自筆である部分を技法的に調べる研究がなぜ重要なのかが分かります。記録に作者名があっても、下地から細部まですべて一人が仕上げたとは限りません。
工房では欧州から来た材料を用いることが多かったものの、現地で調達できる材料や技術も重要でした。メトロポリタン美術館が紹介するコレアの資料には、18世紀初頭にチアの油を調達する記録があり、画材の歴史を欧州製のリンシードオイルだけから考えない視点を示しています。この記録は1715年のもので、17世紀に同じ使い方をしていたと断定できる証拠ではありません。制作史を考える際、資料が示す年代を大切にしたいところです。 (参照:メトロポリタン美術館|ビジャルパンド展研究資料、メトロポリタン美術館|フアン・コレアとチア油の研究)
太平洋と大西洋を横断した工芸品
プエブラのタラベラ陶器――白い釉薬と青の装飾
プエブラのタラベラ陶器は、白く不透明な錫釉をかけた陶器に色彩を描く技術によって知られます。1660〜1680年頃に制作されたとされる薬壺には、白い表面を背景に、濃い青や植物文様が描き込まれています。輪郭がわずかに滲んだ部分と、筆の速度が感じられる部分を見比べると、焼き物の装飾も画家の筆触によって表情を変えることが分かります。器の曲面に絵を合わせるため、平らな絵画とは異なる配置の工夫が必要でした。
タラベラの薬壺には実際の用途があり、容器の大きさや口の形もデザインを決める条件でした。飾り棚に置かれたとき、視線が届く正面に主要な文様を配し、手に取って回転させると側面の植物文様が続いて見える。こうした形と装飾の関係は、絵画の構図を考える方法ともつながります。表面が焼成時にどのように変化するかを理解した職人の経験が、仕上がりを支えていました。
技術の一部はスペインの陶業とつながっています。1653年にはプエブラの陶工組合が成立し、地域の製造が職業として組織されました。17世紀末から18世紀にかけて増える青と白の意匠には、中国磁器への関心も認められます。海を渡って届いた磁器を職人が実際に見て、自分たちの窯と釉薬で新しい製品を作り出したことは、世界交易が地域の表現を変える具体例となっています。 (参照:メトロポリタン美術館|プエブラのタラベラ陶器、メトロポリタン美術館|ダミアン・エルナンデス作とされる薬壺、メトロポリタン美術館|1680年頃のメキシコ製皿)
マニラ・ガレオン船と象牙のキリスト像
フィリピンのマニラとメキシコ西岸のアカプルコを結んだガレオン船は、絹、陶磁器、香辛料、象牙細工などを運びました。アメリカ大陸の銀も反対方向へ流れ、交易の経路は太平洋だけでなくメキシコ湾岸から大西洋側へ続いていました。メキシコの室内を飾ったアジア由来の品物は、遠い海の向こうで作られた形や素材を土地の生活へ持ち込む役割を果たしました。
メキシコ市のフランツ・マイヤー美術館にある17世紀の象牙製《キリスト磔刑像》は、その交流を立体物から考えられる作品です。スペイン領フィリピンや中国との関わりを示す象牙彫刻では、ヨーロッパのキリスト教図像をアジアの職人が彫った可能性があります。細い指先、身体の滑らかな表面、繊細な衣の彫りは材料の扱いに熟達した技術を示します。完成した像がどの土地の礼拝者の手に渡ったかによって、作品の意味と来歴はさらに広がります。 (参照:Smarthistory|17世紀のスペイン領フィリピン製キリスト磔刑像、メトロポリタン美術館|スペイン領アメリカ美術(研究解説))
銀器と聖具――光る素材に込められた寄進
メトロポリタン美術館所蔵の聖体顕示台は、1646〜1649年の制作とされ、リマで活動したディエゴ・デ・アティエンサへの帰属が提案されています。銀に金鍍金とエナメルを施した作品で、聖体を示す部分が光を放つ太陽のように広がります。中心から外へ伸びる装飾は、金属の実際の反射と重なって、見る人の視線を聖体の位置へ集めます。彫刻的な形態は祭壇で用いられる状況を想像して見ると分かりやすくなります。
この作品は、ペルーとエクアドルで活動した修道士ペドロ・デ・ウラカと関わる奉納品と考えられ、スペインの教区に贈られた可能性が指摘されています。新大陸で作られた銀器が大西洋を渡ってヨーロッパの教会で使われる経路は、工芸品の移動が植民地から本国へ向かう一方向ではなかったことを示します。金属の加工技術、聖体信仰、寄進者の記憶を一つの作品として読むことができます。 (参照:メトロポリタン美術館|ディエゴ・デ・アティエンサ作とされる聖体顕示台、メトロポリタン美術館|スペイン領アメリカの美術)
アンデスの絵画――クスコ、村の教会、先住民の工房
クスコで絵画の中心が育つまで
旧インカ帝国の中心だったクスコでは、スペインの統治下で教会と都市が再編され、宗教画が大量に求められました。16世紀にヨーロッパから来た画家たちは、聖書主題や宗教人物の描き方を教え、素描や油彩の制作方法を伝えました。17世紀には現地の画家や職人が大きな役割を担い、地域の工房が宗教施設からの注文に応えるようになります。後世に「クスコ派」とまとめられる絵画には、作者も工房も時代も異なる幅広い作品が含まれます。
絵画の中には人物を理想的に描き、金色の装飾と鮮明な色彩を重視するものがあります。欧州の版画を参照することも多く、人物や背景の構成に複数の伝統が重なります。その特徴を「ヨーロッパと先住民文化の混合」とだけ説明すると、実際に何を変えたのかが見えにくくなります。作家が特定できる作品を詳しく見て、どの図像を採用し、どの細部を作り替えたかを確かめることが重要です。 (参照:Smarthistory|クスコ派の絵画、メトロポリタン美術館|スペイン領アメリカ美術(研究解説))
ディエゴ・キスペ・ティト《最後の審判》(1675年)
ディエゴ・キスペ・ティトの《最後の審判》は1675年に制作された油彩画で、現在もクスコのサン・フランシスコ修道院に伝わります。画面は天上の救済、浄罪、地獄の苦しみという階層的な構成を取り、上方には神聖な存在が、下方には罰を受ける人々が描かれています。画面を上から下へ追うと、秩序ある天の世界と、さまざまな苦痛が連続する地獄が強い対照をなしていることが分かります。
キスペ・ティトは、フランス出身でローマで活動した版画家フィリップ・トマサンによる1606年の版画、あるいはそれに基づく複製を手本としたと考えられています。地獄の口、拷問の道具、人物の群れなど、版画に由来する図像を油彩の画面に置き換え、色彩によって場面の意味を強めました。人物を一体ずつ眺めた後に画面全体を見ると、恐怖や救済の物語がどのように秩序立てられているかが分かります。
《最後の審判》を前にした鑑賞者は、まず最上部の秩序ある人物の列を見てから、中央の不安定な動きへ、さらに地獄の群像へと視線を下ろしていくでしょう。天国と地獄が同じ画面内にありながら、人物の向きや形の密度が変わるため、二つの世界が明確に読み分けられます。主題が宗教的であっても、画家の造形の選択をひとつずつ観察することで、その説得力がどこから生まれるかが分かります。
各層に添えられた説明文も重要です。文字を読める人には図像と文が組になって意味を伝え、文字を十分に読めない人も身体の動きや場面の配置から教えを受け取ることができました。ここには宗教教育のための画像という用途と、先住民の画家が版画の構成を大画面へ変換する仕事とが重なっています。ヨーロッパで作られた原図が届いたという事実だけでは捉えきれない、地域の絵画制作の力量が示されています。 (参照:Smarthistory|ディエゴ・キスペ・ティト《最後の審判》)
リャーニョと先住民の協働《天国と地獄への道》(1626年頃)
クスコ近郊のアンダワイリリャス、サン・ペドロ教会には、ルイス・デ・リャーニョと先住民の共同制作者による1626年頃の壁画《天国と地獄への道》が残ります。入口付近で、天国へ向かう狭い道と、地獄へ至る広い道が対置され、人物たちは誘惑や苦難に直面しています。礼拝者が建物へ入る際にこの絵を目にする位置関係は、画面を飾りとして見るだけでは分からない重要な点です。
画面には宴会、悪魔、道を進む人々、最後に至る場所が描かれ、聖書の文言が場面を補います。狭い道を選ぶ人物の姿と、広い道の先に待つ苦痛を比べると、見る人自身に選択を促す構成が見えてきます。司祭フアン・ペレス・ボカネグラの伝道活動との関係が研究されており、説教で壁画が実際に使われた可能性も指摘されています。
研究者が注目するのは、地獄の場面の近くに描かれたインカの衣装や器を持つ小人物です。他の部分と筆遣いが異なることもあり、共同制作に加わった先住民の助手の仕事を示す手がかりとされています。こうした細部には、キリスト教の教化という枠組みに地域の具体的な文化を取り込む過程が刻まれています。その取り込み方には当時の信仰への規制も関わり、異文化の美しい共存という一語で説明しきれない問題を含みます。 (参照:Smarthistory|リャーニョと先住民の共同制作者《天国と地獄への道》)
バシリオ・サンタ・クルス・プマカリャオ《ベレンの聖母》
17世紀後半のクスコで活躍したバシリオ・サンタ・クルス・プマカリャオは、ケチュア系の親方画家として多くの仕事を担いました。彼の作とされる《ベレンの聖母》(1661〜1700年、クスコ大聖堂)は、礼拝される聖母像を中心に、その像が地域へもたらされた経緯や奇跡の物語を周囲に描く作品です。絵の中心に静かに示された聖母像と、周囲で次々に起こる出来事を対比して見ると、信仰の対象とその歴史が同じ画面に重ねられていることが分かります。
船の事故を経て像が到着したという物語、運搬や行列、聖堂への安置などの場面には、地域の人々が礼拝像を守り、祈りの対象として受け入れる行為が描かれます。左側の奇跡物語では、像として表された聖母と、信仰の対象である聖母自身の働きが描き分けられています。こうした図像は聖像の扱い方を示す宗教的な説明と、クスコで語り継がれた具体的な出来事を結びつけています。
画面の周辺にある小さな挿話は、一枚ずつ独立した絵として見ると断片的に感じられます。中心の聖母像から視線を移すと、港、街道、教会、行列という異なる場所が一つの信仰の歴史にまとめられていることが分かります。聖母像の形が繰り返されることによって、時期や距離の離れた出来事が同じ対象への崇敬によって結びつきます。時間を並べる絵画の構成という点でも、豊かな見どころがあります。
制作の背景には、1670年代以降にクスコの教会装飾を後援した司教マヌエル・デ・モリネドの活動があります。先住民の親方画家が重要な注文を受けていた事実は、植民地期の美術をヨーロッパ出身画家の活動だけで構成できないことを示します。現在の帰属は研究上の判断であり、作者名を確定的に扱わず、作品に残る地域的な表現と注文の仕組みを見ていくことが適切です。 (参照:Smarthistory|バシリオ・サンタ・クルス・プマカリャオ作とされる《ベレンの聖母》)
《グアプロの聖母》――彫像の姿を絵画にする
メトロポリタン美術館の《グアプロの聖母》は、エクアドルのキト近郊で崇敬された聖母像をクスコの画家が絵画化したとされる作品です。豪華な衣をまとった像の姿を大きく描き、王冠や装飾を通じて、祭礼や礼拝の中で見られる聖像の外観を伝えています。立体の聖母像がどのように飾られ、共同体がどのように祈りを託したかを考える資料になります。
この作品の年代は扱いに注意が必要です。同館の2002年の展覧会資料では1680年頃と説明されましたが、現在の所蔵作品記録では18世紀とされています。17世紀後半のアンデスを巡る聖母信仰の広がりを理解する例として取り上げつつ、現存するこの絵そのものを1680年の制作と確定しません。美術館の目録が更新されることも、作品研究の歴史の一部です。 (参照:メトロポリタン美術館|《グアプロの聖母》所蔵作品情報、メトロポリタン美術館|スペイン領アメリカの美術)
絵画の外に残された先住民の視点
グアマン・ポマ『新しい記録と良き統治』
フェリペ・グアマン・ポマ・デ・アヤラの『新しい記録と良き統治』は、1615年前後にまとめられた大部の挿絵入り写本です。現在はデンマーク王立図書館が原本の画像と翻刻を公開しています。描かれたのはインカの歴史、日常生活、統治制度、スペイン人の行動、教会関係者、都市や道など、きわめて広い主題です。著者は図と文章を組み合わせて世界を説明し、スペイン王への訴えを構成しました。
挿絵は油彩画のような陰影や遠近法を主な目標とせず、人物の服装、持ち物、位置関係を使って意味を伝えます。王の衣装に描かれた幾何学模様や象徴的な装身具を見れば、人物が誰であり、どのような権威を帯びているのかが分かります。絵が文章に従属しているのではなく、絵の選択や省略が社会の見方を伝える働きを持っています。植民地時代の美術を大聖堂の祭壇画だけで考えないために、欠かせない資料です。 (参照:デンマーク王立図書館|グアマン・ポマ『新しい記録と良き統治』原本、Smarthistory|グアマン・ポマの『新しい記録と良き統治』)
《悪い告解》――画像を使って不正を告発する
写本中の《悪い告解》では、先住民の女性が司祭の前にひざまずき、身体を痛めつけられる場面が描かれています。女性の服装には地域の衣の特徴が表れ、顔の表情と司祭の足の位置が、二人の間の力関係を直接示します。見る人は人物の大小や背景の豪華さに頼らず、身振りそのものから暴力の意味を読み取れます。
この挿絵を、当時のすべての司祭や告解の実態を示す記録として扱うことには慎重さが求められます。著者が改革を求めて描いた具体的な非難として読むことで、画像がどのように政治的な発言を担ったかが明らかになります。宗教画が教会の教えを伝えるために使われた同じ世紀に、先住民の著者は図像を支配や虐待を批判するためにも使っていたのです。 (参照:Smarthistory|グアマン・ポマの挿絵《悪い告解》、デンマーク王立図書館|グアマン・ポマ『新しい記録と良き統治』原本)
アンデスの教会建築と礼拝空間
キト――多様な装飾伝統が結びつく都市
キトの歴史地区にはサン・フランシスコ修道院やサント・ドミンゴ修道院など、16世紀から整備された宗教施設が残ります。17世紀には教会内部のヴォールトやドーム、金色の祭壇装飾が発展し、欧州から導入された形式と現地の工房技術が結びつきました。建物の内部で視線を上げれば、天井の構造、彫刻、彩色された装飾が一体となって、祈る人の身体を取り囲むことが分かります。
今日キトのバロックを代表するラ・コンパニア聖堂の豪華な内部装飾には、17世紀から18世紀までの長い建設・装飾の歴史が重なっています。17世紀の姿を説明する際には、後年に完成した装飾を分けて考える必要があります。ユネスコの資料が示すように、この地域の建築はスペイン、イタリア、フランドル、イスラーム圏に由来する造形と先住民の技能を組み合わせて発展しました。建築が残ること自体が、多くの世代の制作をたどる手がかりです。 (参照:ユネスコ|キト市街)
リマ――地震とともに変わる建築
ペルー副王領の行政中心だったリマには大聖堂、修道院、官庁、住居が建ち並びました。宗教施設の中には巨大な聖堂を中心とする複合的な構成を持つものがあり、礼拝者や修道者の動線に合わせて中庭、回廊、部屋が配置されました。都市の建築は政治的な権威を示すものであり、同時に熱帯沿岸の気候、限られた材料、たび重なる地震への対応によって変わりました。
1687年には大きな地震があり、建物の維持と再建が重要な課題となりました。上部構造に木材や土を利用する建設技術などが、地域の建築を支えています。現在のリマの歴史地区に残る建物を鑑賞する際は、石の正面だけでなく、壁の材料、上階の構造、修復された部分にも注意を向けるとよいでしょう。現存する建築は一時点の完成品というよりも、災害と都市生活の中で継続的に作り直された歴史を示しています。 (参照:ユネスコ|リマ歴史地区)
アレキパ――火山岩の石積みと装飾
アンデス山脈の麓にあるアレキパは、地域で産出する火山岩の石材を利用した都市建築で知られます。石材は建物の明るい外観を作ると同時に、厚い壁やアーチの構築にも用いられました。17世紀の教会建築と後の装飾を見ていくと、彫刻のように加工された石の表面、柱と壁の境界、彫りの深さによって変わる光の陰影が見どころになります。
ユネスコはアレキパの建築を、ヨーロッパ由来の設計と先住民・地元職人の技術が重なった例として評価しています。地震の多い土地で建物を維持するため、構造と装飾は長期にわたり変化しました。現地の石材と施工技術は、ヨーロッパの図面をそのまま実現するだけでは成立しない地域の建築文化を物語っています。建築の細部は、制作を担った人々の判断を読み取る場所でもあります。 (参照:ユネスコ|アレキパ歴史地区)
ラ・プラタ(現在のスクレ)――宗教都市と周辺地域
現在のボリビアにあるスクレは、植民地時代にはラ・プラタと呼ばれ、広いアンデス地域の司法・宗教の拠点となりました。1609年には大司教座が置かれ、宗教施設や教育機関が発展しました。近隣のポトシを中心とする鉱業との関係も都市の経済を支えました。教会の建築には、スペインから伝わった形式と土地の材料・技術が用いられ、長く続いた工事と修復の履歴が重なっています。
当時の宗教的な中心地を考えるときは、現存する装飾をすべて同じ時代へ戻さず、建設が始まった年代と完成までの時間を分けて捉えることが必要です。大聖堂のような長期の工事では、画家や彫刻家の世代交代も起こります。都市の規模や石工の能力、祭礼の需要は、宗教画像の流通と制作を支える条件になりました。 (参照:ユネスコ|スクレ歴史地区)
アンデスの聖像、金色、軍装の天使
衣装を着せる聖像と絵画の関係
木彫や塑像の聖母像に本物の布や宝飾品を着せる慣行は、スペイン領アメリカの多くの共同体で重要でした。姿を変える立体像を絵画へ写すと、衣装の形や華やかさ、祭礼の記憶が固定された像として広がります。クスコやキトに関わる聖母像を描いた作品では、衣装の裾が三角形に広がり、冠や光背が人物を包み込むことがあります。
布や装身具の重要性は、アンデスに古くから伝わる織物文化とも関係します。聖像の装飾に人々が費用や労力をかけることは、単に豪華さを競う行為ではなく、共同体の守護者として祈りを託す行為でもありました。像を描いた油彩画を眺める際には、衣の文様だけでなく、立体の聖像が祭礼で実際にどう見られたかを想像することで、その画面が持つ役割を理解できます。 (参照:メトロポリタン美術館|《グアプロの聖母》所蔵作品情報、Smarthistory|バシリオ・サンタ・クルス・プマカリャオ作とされる《ベレンの聖母》)
金色の装飾と図像の読み方
アンデスの宗教画には、衣服や背景へ金色の線や模様を描き込む作例が見られます。光を受ける金色は絵具の陰影とは異なる実際の輝きをもたらし、祭壇のろうそくや教会内部の装飾と響き合います。布の文様を細かく追うと、人物の表情よりも衣装の威厳を際立たせる絵画もあり、ヨーロッパの強い自然主義とは異なる視覚の優先順位が示されます。
こうした表現がどの作品に、どの段階で用いられたかには地域差があります。金色が見えるから先住民の画家、陰影が深いからヨーロッパの画家という判定はできません。工房の分担、注文主の好み、材料の入手状況を調べながら、何のためにその表面が選ばれたのかを考えることが重要です。 (参照:Smarthistory|クスコ派の絵画、メトロポリタン美術館|スペイン領アメリカの美術)
武装した天使の絵画――17世紀末から18世紀へ
アンデスでは華麗な軍服や羽飾りをまとい、銃を構えた天使の図像が広まりました。武器を持つ天使の表現は17世紀末頃から展開したと考えられますが、個々の作例の年代は慎重に扱う必要があります。たとえば「カラマルカの画家」による《火縄銃を持つ天使》は、18世紀初頭の制作とされる研究があり、17世紀の確実な現存作として数えることはできません。
この天使像では身体の動きを誇張するより、羽根、レース、刺繍、銃の向き、靴の形が鑑賞者の目を引きます。軍装は天使の守護者としての性格を伝え、同時代の貴族的な服装への関心も表します。17世紀の宗教画と18世紀のアンデス美術をつなぐ主題として触れることで、様式が世紀の境目で突然切り替わるものではなかったことが分かります。 (参照:Smarthistory|カラマルカの画家《火縄銃を持つ天使》)
ポルトガル領ブラジル――沿岸都市、教会、砂糖
サルヴァドール――港と教会が隣り合う都市
1549年にポルトガル領の行政中心として整備されたサルヴァドールは、17世紀に港湾都市として成長しました。海に面する低地に交易施設が集まり、高台には行政・宗教の中心が置かれ、都市の高低差が建築の見え方を大きく変えました。海から到着する人の目には、斜面の上に建つ教会や公共建築が都市の輪郭として現れます。今日の歴史地区には、その都市構造を理解する手がかりが残されています。
サルヴァドールの教会は16〜18世紀にかけて建てられ、内装はさらに後の時代へ更新されました。17世紀の宗教美術を説明する際には、現在の金色の祭壇や青いタイルをすべて当時のものと考えないことが重要です。都市は砂糖産業と奴隷貿易の拠点でもありました。華やかな建築と港の繁栄の背後には、アフリカから強制移送された人々の労働と生活がありました。 (参照:ユネスコ|サルヴァドール・デ・バイーア歴史地区、Smarthistory|植民地時代のブラジル美術入門)
ブラジルの宗教彫刻と工房文化
ブラジルの宗教施設でも木彫、彩色、金箔、祭具などの制作が行われました。祭壇像は建物の一部として置かれ、祝祭や行列の際には宗教的な共同体の中心となります。欧州由来の聖人図像が彫刻の手本となった例もあり、現地の木材や制作環境に合わせて形が作り替えられました。作品を鑑賞する際には、聖人の顔つきや衣の彫りだけでなく、実際に人が近づき、祈りを捧げる距離も考えると理解が深まります。
宗教彫刻と建築の関係を考える際、彫られた像が祭壇のどの位置に立っていたかも重要です。暗い聖堂の奥では、手前へ差し出した手や金色の光背が視線を集めます。近距離では彩色された皮膚や衣の細部が見え、離れた位置では全体の輪郭が主題を伝えます。この二つの距離を想像することによって、祭壇装飾を単に技巧的な物体の集まりとして見るよりも、その宗教的機能を理解できます。
植民地時代のブラジルで芸術制作を担ったのは、ヨーロッパ系の職人だけではありません。アフリカ系の人々や奴隷化された労働者の仕事が建築や工芸の成立に深く関わりました。美術館の目録に作者名が残らない場合にも、材料の加工や長期間にわたる建設には多数の手が必要でした。後に著名となるアレイジャジーニョらの作品は主に18世紀の展開に属するため、17世紀の制作と混同せず、次の時代の発展として位置づけます。 (参照:Smarthistory|植民地時代のブラジル美術入門、ユネスコ|サルヴァドール・デ・バイーア歴史地区)
オランダ領となったレシフェ――フランス・ポストとエクハウト
ブラジル北東部の一部は1630年から1654年にかけてオランダ側の支配下に入りました。この時期、ヨハン・マウリッツ・ファン・ナッサウの周囲には画家や研究者が集まり、地域の植物、動物、人々、風景が絵画の主題になりました。フランス・ポストの風景画とアルベルト・エクハウトの人物・博物学的な描写は、宗教施設の注文とは異なる目的で南米を絵画にした例です。
ポストの風景では、湿地、樹木、道、建物が広い空の下に配置され、ヨーロッパの風景画の構図を用いてブラジルの地形や生物が表されます。エクハウトの人物表現では、衣服や携行品、果物などの細部が強く意識されました。これらの画像も植民地支配者の関心と結びついており、当地の人々の暮らしを中立的に記録した絵とは言い切れません。ポルトガル領を中心とする17世紀ブラジルの美術史には、短期間のオランダ支配という複雑な層も含まれています。 (参照:Smarthistory|植民地時代のブラジル美術入門)
ミナスジェライスの金と18世紀への展開
17世紀末から内陸での金の発見が進み、ブラジルの美術の中心は次第に鉱山地帯へも広がっていきます。オウロ・プレトがよく知られるのは18世紀に発展した教会や彫刻のためであり、17世紀のサルヴァドールや砂糖産業の都市と同じ段階に置くと、歴史の時間差を見失います。鉱山の富、都市の形成、宗教団体の注文が重なって、後のバロック建築は大規模化しました。
18世紀の建築を参照する意味は、17世紀に準備された社会的な仕組みが何を可能にしたかを理解できる点にあります。港から内陸への人と物の移動、鉱山で働いた人々、職人と工房のネットワークを考えることで、後の装飾が突然生まれたものではないことが分かります。本記事の中心となる1600〜1700年の美術と、その後に残された代表建築は年代を分けて把握します。 (参照:ユネスコ|オウロ・プレト歴史都市、Smarthistory|植民地時代のブラジル美術入門)
国境を越える伝道施設と先住民の制作
グアラニーのイエズス会伝道施設――集落全体が制作の場
現在のアルゼンチン、ブラジル、パラグアイにまたがる地域には、17〜18世紀にイエズス会の伝道集落が作られました。教会の周囲に広場、住居、教育・生産の施設が設けられ、宗教活動と日々の生活が一つの都市的な構成の中で営まれました。現存する遺構からは、建築が単体の教会だけでなく、居住と労働の空間を含む計画だったことが分かります。
集落での活動を考える際、ヨーロッパの修道会が整えた制度と、土地にもともと暮らしていたグアラニーの人々の知識や技能を区別して見る必要があります。石材や木材の加工、宗教器物の制作、農業生産などには共同体の労働が関わりました。伝道施設の建設と維持には宗教的な目的があり、入植や統治の歴史ともつながっています。現地の人々が果たした役割と統制の条件を併せて扱うことで、建築の歴史を立体的に理解できます。 (参照:ユネスコ|グアラニーのイエズス会伝道施設群)
現存する遺構を当時の作品としてどう読むか
サン・イグナシオ・ミニやサン・ミゲル・ダス・ミソオエスなどの遺構は、異なる時期に建設された施設の一部を伝えます。教会の壁だけが残る場所と、街路や広場の構成が分かる場所では、歴史の読み方も変わります。現在の石造教会には18世紀に築かれた部分が含まれるため、17世紀の伝道開始と同じ年に完成したと考えないようにします。
修復された建物や保存された遺跡を訪れるときは、どこが原材で、どこが後世に補われたかを確認すると、制作の技術と保存の歴史が見えてきます。壊れている箇所も、建築が放棄されたことや後に転用された歴史を伝えています。教会の前に広がる空地や道路の位置を眺めることは、そこを歩いた人々の身体の動きを想像するための大切な手がかりとなります。 (参照:ユネスコ|グアラニーのイエズス会伝道施設群)
人物像と歴史画に表れた権力の視点
征服の物語を描き直すという行為
屏風や歴史画に描かれる征服の場面には、何が起きたかを伝える役割と、後世の人々がその出来事をどう記憶したいかを示す役割があります。コルテスとモクテスマ2世の対面は象徴的な場面であり、人物の距離や姿勢、周囲の集団によって、礼節ある出会いとしても、権力の交代を予告する出来事としても表すことができます。画家がどの瞬間を選ぶかは、社会の歴史観と関わっています。
コレアの屏風のような作品は、メキシコの富裕層が室内で眺める歴史の形でもありました。主人公として描かれた人々のほかに、誰が背景へ追いやられ、誰が画面にいないかを確認すると、歴史画が作る権力の構図が分かります。アフリカ系の住民や多様な先住民集団の姿が省かれる場合、作品の持ち主に好まれた歴史像がそこに現れている可能性があります。 (参照:Smarthistory|ヌエバ・エスパーニャの世俗美術と屏風、Smarthistory|植民地時代の絵画におけるアフリカ系住民の表象)
署名を持つ画家と、名が残らなかった制作者
ビジャルパンド、コレア、キスペ・ティト、プマカリャオのように名前が分かる画家たちは、研究の手がかりになります。作品がその土地で評価され、重要な注文を得ていたことも記録から分かります。では、祭壇の木彫部分を組み立てた人や、壁画の下地を作った人の名前が分からない場合、その仕事は美術史の外に置かれてしまうのでしょうか。
一つの教会や大画面の絵を仕上げるまでには複数の工程があり、制作に関わった人の身分や性別、雇用形態も多様でした。手の痕跡を確認する技法調査、契約書、工房の記録、使用材料の分析を通じて、著名な作者名だけでは見えない制作体制が研究されています。帰属が不明な作品でも、材料の選択や形態、設置場所から論じられる事柄は多くあります。 (参照:メトロポリタン美術館|スペイン領アメリカ美術(研究解説)、Smarthistory|バシリオ・サンタ・クルス・プマカリャオ作とされる《ベレンの聖母》、Smarthistory|植民地時代のブラジル美術入門)
作品を見るための五つの視点
光はどこから来て、何を目立たせるか
プエブラ大聖堂のビジャルパンドでは、地上の人々の動きと高所の光が救済の物語を強調します。クスコの聖母画では金色の装飾や衣が、礼拝の対象に視線を集めます。同じ宗教画像でも、光の強弱、画面の高さ、実際の金属や金箔の輝きが鑑賞の経験を変えます。画面の明るい場所から暗い場所へ目を移し、次に作品が本来置かれた教会の採光を考えると、表現と使用環境のつながりが見えてきます。 (参照:メトロポリタン美術館|ビジャルパンドとメキシコのバロック絵画、Smarthistory|バシリオ・サンタ・クルス・プマカリャオ作とされる《ベレンの聖母》)
誰が動き、誰が見ているか
キスペ・ティトの《最後の審判》では多数の人物の身体が地獄の苦しみや天上の秩序を示し、リャーニョの壁画では道を選ぶ人物が鑑賞者自身の選択を想起させます。人物の視線の先、手の向き、どちらへ足を踏み出すかに注意すると、絵に描かれた物語が読み取りやすくなります。大きな場面でも、まず一人の身体から見始めることが理解の助けになります。 (参照:Smarthistory|ディエゴ・キスペ・ティト《最後の審判》、Smarthistory|リャーニョと先住民の共同制作者《天国と地獄への道》)
材料の産地と技術をたどる
銀の聖具、錫釉の器、象牙像、油彩画を並べると、材料によってできる表現が大きく異なります。銀は反射して光を広げ、象牙は滑らかな肌を作り、陶器の釉薬は色と光沢を焼成によって定着させます。作品の材料を知ることは技法を理解するだけでなく、材料を運んだ交易路と、それを加工した人々の仕事をたどることにもつながります。 (参照:メトロポリタン美術館|ディエゴ・デ・アティエンサ作とされる聖体顕示台、メトロポリタン美術館|プエブラのタラベラ陶器、Smarthistory|17世紀のスペイン領フィリピン製キリスト磔刑像)
誰のための画像だったのか
祭壇画なら寄進者や礼拝者、屏風なら屋内の住人や来客、都市景観なら注文者や都市の有力者というように、想定する鑑賞者は変わります。作品に描かれた内容だけでなく、どの高さで、どれほど近くから、何度見られるものだったかに目を向けましょう。見え方の設計を知ることは、形の意味を理解するための方法です。 (参照:メトロポリタン美術館|スペイン領アメリカの美術、Smarthistory|ビジャルパンド《メキシコ市中央広場の眺め》)
現在の姿と17世紀の姿を分ける
今日の教会には18世紀以降の改築が重なり、博物館には過去の作品記録と異なる年代で登録された絵画もあります。17世紀の建築を説明するときは当時の部分を確かめ、後に完成した装飾は別の時期として扱います。所蔵館の帰属や年代が更新された作品も、最新の資料を優先して読んでいきます。こうした確認の積み重ねが、美術史を正確に学ぶための基盤となります。 (参照:メトロポリタン美術館|《グアプロの聖母》所蔵作品情報、ユネスコ|オウロ・プレト歴史都市、ユネスコ|リマ歴史地区)
1600–1700年の大西洋世界と美術の年表
- 1600年頃:スペイン領アメリカとポルトガル領ブラジルで教会・都市の美術制作が拡大する。
- 1606年:フィリップ・トマサンが《最後の審判》の版画を制作。後にアンデス絵画の図像源となる。
- 1609年:ラ・プラタ(現在のスクレ)に大司教座が置かれる。
- 1615年頃:グアマン・ポマが挿絵入り写本『新しい記録と良き統治』をまとめる。
- 1620年代:クスコ周辺の教会で宗教壁画と礼拝装飾が制作される。
- 1626年頃:リャーニョと先住民の共同制作者が《天国と地獄への道》を制作。
- 1630年:オランダ側がブラジル北東部の一部を占領し、1654年まで支配を続ける。
- 1630〜1640年代:レシフェ周辺でフランス・ポスト、アルベルト・エクハウトらが活動する。
- 1646〜1649年:リマで制作されたとされるディエゴ・デ・アティエンサ帰属の聖体顕示台。
- 1653年:プエブラで陶工組合が成立する。
- 1654年:オランダ側がブラジル北東部の支配を失う。
- 1660〜1680年頃:プエブラで錫釉陶器の薬壺などが制作される。
- 1670年代:クスコの司教モリネドの後援のもとで教会の絵画制作が活発になる。
- 1675年:ディエゴ・キスペ・ティトが《最後の審判》を制作。
- 1675年頃:フアン・コレアが征服の歴史を描いた屏風を制作。
- 1680年代:ビジャルパンドがメキシコで重要な祭壇画の注文を得る。
- 1683年:ビジャルパンドがプエブラ大聖堂《青銅の蛇とキリストの変容》を制作。
- 1687年:リマで大地震が発生し、都市建築に被害が生じる。
- 1692年:メキシコ市で騒乱が発生し、副王宮が損傷する。
- 1695年頃:ビジャルパンドが《メキシコ市中央広場の眺め》を描く。
- 17世紀末:ブラジル内陸で金の発見が進み、次世紀の鉱山都市の形成につながる。
- 18世紀初頭:アンデスの武装した天使の図像が広まり、ミナスジェライスの教会美術も発展する。
まとめ――植民地社会の中で生まれた多様な美術
17世紀のイベリア帝国と大西洋世界では、ヨーロッパからもたらされた宗教画像や都市の形式が、遠い土地で新しい役割を得ました。プエブラ大聖堂のビジャルパンドは巨大な聖書画に構想力を示し、クスコのキスペ・ティトやプマカリャオは欧州の図像と地域の信仰を結びつけ、現地の工房が宗教画を制作しました。メキシコの屏風はアジアの形式を取り込み、銀器や陶器、象牙像は太平洋と大西洋の交易を介して流通しました。
これらの作品は制作に携わった芸術家の知識や創意を伝えています。そこには植民地統治、改宗の圧力、労働の強制、富の集中という社会的な条件も刻まれています。グアマン・ポマの図像は同じ社会を別の立場から描き、教会のために制作された画像と並ぶ重要な記録を残しました。作品が美しく見える理由を丁寧に説明することと、その美を可能にした歴史をたどることを併せて考えることで、17世紀の美術をより深く理解できます。
イタリアのバロックに始まった17世紀美術史の旅は、フランドル、スペイン、オランダ、フランス、イングランド、中欧を経て、大西洋の両岸と太平洋にまで広がりました。その広がりの中で重要なのは、一つの様式が世界中で同じ姿になったという理解ではありません。作品の材料、空間、信仰、工房、注文主が変わるたびに、絵画や建築も新しい形を獲得していたことです。17世紀編を終えるこの地点から、18世紀の美術が生まれる多様な条件を見渡すことができます。
参考資料・出典
本記事は所蔵美術館、文化財保護機関、研究・教育機関が公開する資料をもとに構成しました。個々の作品年代、作者帰属、現存する装飾の制作時期が変動する例では、最新の作品目録と歴史研究を区別しています。先住民やアフリカ系の人々の役割については、植民地社会の史料と作品に残る表現の両面から説明しました。
- メトロポリタン美術館|スペイン領アメリカの美術
- メトロポリタン美術館|スペイン領アメリカ美術(研究解説)
- メトロポリタン美術館|ビジャルパンドとメキシコのバロック絵画
- メトロポリタン美術館|ビジャルパンド展研究資料
- Smarthistory|ビジャルパンド《メキシコ市中央広場の眺め》
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資料確認日:2026年10月11日 / ART LIBRARY