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1918–1922

ドイツのダダ

フォトモンタージュ、政治、メルツ

ドイツのダダは、第一次世界大戦の終わり頃から1920年代初頭にかけて、ドイツの複数の都市で展開した前衛美術の活動です。芸術家たちは新聞の写真や広告を切り貼りし、軍人や政治家を風刺し、捨てられた紙や日用品を作品へ変えました。それまで絵画や彫刻の材料として考えられていなかった身近なものを使い、美術の作り方と社会への伝え方を大きく広げた運動です。

背景には、1914年から1918年まで続いた第一次世界大戦があります。敗戦によってドイツ帝国が崩壊し、1918年には革命と共和国への移行が始まりました。兵士の帰還、政治的な対立、生活の混乱が続くなかで、新聞や写真、広告が人々の考え方に強い影響を与えていました。ダダの作家たちは、その社会が大量に作り出した画像や言葉そのものを材料にして、権威と常識を問い直しました。

この時期のダダは、都市によって特色が異なります。ベルリンではハンナ・ヘーヒらが写真を組み替えて政治やジェンダーを批評しました。ケルンではマックス・エルンストが図鑑や商品カタログの断片から奇妙な世界を作ります。ハノーファーではクルト・シュヴィッタースが街の廃材を集め、メルツという独自の造形を育てました。三つの都市を比べると、同じ時代にさまざまな制作方法が生まれたことが分かります。

この記事では、1918年のドイツの社会状況から1922年までを、実際の作品と当時の展覧会資料を手がかりにたどります。写真を切ると意味がどう変わるのか、軍服を着せた人形がなぜ論争を呼んだのか、捨てられた切符や木片がどう作品になるのか。作品の形、材料、制作の手順を丁寧に見ながら、ドイツのダダが20世紀美術にもたらした変化を18章で解説します。

第一次世界大戦後のドイツで、ダダは何を変えたのか

1918年、敗戦と革命のなかで始まった美術

1918年11月、ドイツ帝国が第一次世界大戦に敗れて皇帝が退位し、戦争の終結とともに共和国への移行が始まりました。戦場から戻る兵士、食料や燃料の不足、政治的対立は人々の生活を揺さぶり、首都ベルリンでは革命をめぐる衝突が起こります。美術家たちの目にも、国家が掲げてきた秩序や権威が人間を守れなかったことが、はっきりと映っていました。

こうした時期にベルリンで活動を広げたのがダダです。1916年にスイスのチューリヒで生まれたダダは、言葉の意味を崩す詩や挑発的な公演で知られていました。ベルリンではその精神が政治家や軍人の風刺、新聞写真の切り貼り、街角に流れる宣伝の組み換えへと向かいます。現実の社会が作った素材を使い、その社会へ問いを返すことが重要になりました。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ダダ展と六都市の活動、MoMA|ダダの歴史と表現方法)

新聞・写真・広告が作品の材料となった理由

20世紀初頭の都市では、新聞や雑誌、商品広告、ポスターが急速に身近なものになっていました。政治家の肖像写真や工場の写真は、実際の出来事を伝える証拠のように受け取られます。芸術家はその写真をはさみで切り取り、別の記事の文字や別人の身体と組み合わせることで、一枚の印刷物が持っていた意味を変えようとしました。

この方法はフォトモンタージュと呼ばれます。写真を新たに撮ることも、紙を切って貼ることも使われましたが、中心にあるのは既存のイメージを編集する行為です。画家が対象を模写しなくても、新聞に掲載された権威ある顔写真を切断するだけで強い風刺になります。戦後のドイツでは、作品を作る方法と社会を批評する方法が、同じ手の動きのなかで結びつきました。(参照:MoMA|ダダの歴史と表現方法、MoMA|ハンナ・ヘーヒの制作とベルリン・ダダ)

ベルリン、ケルン、ハノーファーという三つの場所

ドイツのダダを理解するうえで、三つの都市の違いが手がかりになります。ベルリンではハンナ・ヘーヒ、ラウール・ハウスマン、ジョン・ハートフィールド、ジョージ・グロスらが政治や社会制度を鋭く風刺しました。ライン川沿いのケルンではマックス・エルンストらが科学図版や商品カタログを組み替え、あり得ない生物や装置を生み出しました。

ハノーファーではクルト・シュヴィッタースが、街路で拾った切符、包装紙、木片や金属を用いて「メルツ」と名づけた独自の制作を進めます。人々が結んだ交流はありますが、政治的立場や表現の目的は同一ではありません。三都市を順に見ると、ダダという名のもとで、近代の社会と物質を扱う多様な方法が同時に開かれていたことが分かります。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ダダ展と六都市の活動、MoMA|ダダの歴史と表現方法)

チューリヒからベルリンへ――運動を運んだ人と言葉

ヒュルゼンベックの帰還と1918年の活動

リヒャルト・ヒュルゼンベックは、1916年にチューリヒのキャバレー・ヴォルテールで音響詩や公演に参加した作家です。その後ベルリンへ戻り、1918年にはダダの考え方を公の場で広める役割を担いました。ここで注目したいのは、ベルリン・ダダの出発が同年11月の敗戦より前にあったことです。戦争が続くなかで、芸術と政治をめぐる対立はすでに深まっていました。

チューリヒの活動から受け継がれたのは、伝統的な芸術の形式を揺さぶる詩、公演、宣言という方法でした。ベルリンでは宣言や朗読の舞台がそのまま政治的な挑発にもなります。作家たちは戦争を経験したドイツの都市で、目の前の新聞や軍服、議会の言葉に反応し、ダダの方向を変えていきました。(参照:MoMA|ダダの歴史と表現方法、ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ダダ展と六都市の活動)

芸術家の集まりが「ダダ・クラブ」になる

ベルリンではヒュルゼンベックの周囲に、ハウスマン、グロス、ハートフィールド、ヴィーラント・ヘルツフェルデ、ヨハネス・バーダーらが集まり、「ダダ・クラブ」と呼ばれる活動が形成されました。画家や詩人、印刷に関わる人々が、出版物や公演、展覧会を通じて共同で活動します。そこで重視されたのは、特定の形や色を使うという共通の画風より、文化的権威を揺さぶるための行動でした。

彼らは挑発的な肩書や奇妙な宣言を好んで使いました。自分たちを荘厳な芸術家として演出する代わりに、ふざけた称号を名乗り、真剣な言葉を誇張して笑いに変えます。権威ある文体をまねながら、その権威を空洞化するという手法が、後の展覧会のポスターや印刷物にも現れます。(参照:MoMA|ダダの歴史と表現方法、ベルリン市立美術館|1920年国際ダダ見本市のカタログ)

ベルリンの政治状況は作品にどう入ったか

第一次世界大戦の末期から戦後にかけて、ドイツには革命を求める人々も、新しい共和国を支持する人々も、旧来の秩序を守ろうとする人々もいました。ベルリン・ダダのメンバーの政治的立場にも違いがあります。作品は具体的な政治家を攻撃する場合も、軍隊やブルジョワ的な習慣を風刺する場合もあり、風刺の対象は一つに限定されません。

たとえばグロスは1918年の素描《兵役適格》で、骸骨のような身体を前にした医師や軍人が、兵士としての適格性を判断する場面を描いています。戦争の人的被害を、官僚的な手続きの冷たさとして示す作品です。政治批評は抽象的な理念の説明より、具体的な社会の仕組みを見せることで鋭さを持ちました。(参照:MoMA|ダダの歴史と表現方法、MoMA|グロス《兵役適格》(1918年))

フォトモンタージュの発明と印刷物の現実

写真を切ることが社会への批評になる

印刷された写真は、カメラが記録した現実を伝えるものとして強い説得力を持っていました。フォトモンタージュはその写真を元の文脈から外します。たとえば軍人の頭を工業用の歯車につなぎ、新聞の活字と並べると、本人が意図しなかった新しい意味が現れます。写真の持つ現実らしさが残っているからこそ、組み合わせの不自然さが強い批判になります。

制作の過程では、雑誌や新聞を探し、必要な図像を切り抜き、重ねて置き、糊で貼り合わせます。写真を撮影して一枚の印画紙に仕上げる仕事とは異なる、編集と接合の技術です。絵具による手描きの線、印刷文字、写真の網点が一枚の紙に共存することで、誰が作った画像なのかという感覚まで複雑になります。(参照:MoMA|ハンナ・ヘーヒの制作とベルリン・ダダ、MoMA|ダダの歴史と表現方法)

キュビスムのコラージュとのつながりと変化

1912年頃のパリでは、ピカソやブラックが新聞紙や壁紙を絵画に貼るコラージュを発展させていました。既存の紙を作品へ取り込む発想はベルリンのダダにもつながります。ベルリンで際立っていたのは、大量印刷された人物写真や政治宣伝の図像を、その社会的な意味ごと切り取って使うことでした。

印刷された政治家の顔は、元の新聞ではその人物の発言を伝える資料であっても、別の身体と接続されれば皮肉の材料になります。文字も説明用の添え物から、画面の中で強い方向やリズムを作る形へ変わりました。写真と活字の既存の流通を使って作品を生み、再び印刷して社会に戻すという循環が、ダダの制作を特徴づけています。(参照:MoMA|ダダの歴史と表現方法、ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ダダ展と六都市の活動)

作者の役割が「描く」から「編集する」へ広がる

フォトモンタージュを作る人は、写真の被写体も撮影者も、印刷会社の仕事もすべて自分で管理しているわけではありません。既存の印刷物の中から選ぶこと、切る位置を決めること、複数の断片を出会わせることが制作の中心になります。その手順は、絵画の技術を否定するというより、作品の成立する場所を画面の外へ広げました。

ダダイストたちは、作者の独創性を単に筆遣いの巧みさで測る価値観に疑問を向けました。同時に、彼らの貼り合わせは偶然に任せるだけの仕事でもありません。どの写真を使い、どの語と接続するかによって、風刺の方向は変わります。選択と編集こそが、社会に向けて作品を成立させる具体的な技術になったのです。(参照:MoMA|ジョン・ハートフィールドのフォトモンタージュ、MoMA|ダダの歴史と表現方法)

ベルリンの雑誌と出版社――作品を流通させる仕組み

紙面は展覧会場と並ぶ重要な活動場所だった

ベルリン・ダダは公演や展覧会のほか、雑誌、冊子、ポスターを積極的に使いました。展覧会場へ来られる人数には限りがありますが、印刷物は複数部を作り、ほかの都市へ送り、別の読者の手に渡せます。写真の切り貼りと活字の組み方を一枚の紙面に結びつけることは、作品の形と届け方を同時に考える仕事でした。

ベルリンではヴィーラント・ヘルツフェルデの出版活動が、政治的な表現を社会へ流通させるための重要な土台となりました。作品が展示室の壁に掛けられるだけでなく、印刷されて読まれ、討論されることで意味を持つようになります。ダダの資料を調べる際に当時の雑誌そのものを確認する必要があるのは、紙面の造形が活動の一部だったからです。(参照:ベルリン市立美術館|1920年国際ダダ見本市のカタログ、MoMA|ダダの歴史と表現方法)

文字の配置とスローガンも造形になる

1920年の国際ダダ見本市のカタログには、赤く大きな文字、斜めに置かれた題名、逆さ向きの文章が組み合わされています。ベルリン市立美術館が所蔵する当時の印刷物を見ると、整然と並ぶ本の本文より、街角の広告や新聞の見出しに近い印象を受けます。印刷された言葉が、内容を読ませる前に視線と身体を動かす設計になっています。

広告や軍隊の命令文に見られる強い調子を、作品の中で誇張して使う方法にも意味がありました。命令する口調を借りながら、命令という行為の滑稽さを示すことができるためです。字体の大きさや回転、断片の並べ方が、言葉の意味と同じくらい観客への働きかけを担いました。(参照:ベルリン市立美術館|1920年国際ダダ見本市のカタログ、MoMA|バーダー《『キリストの十四通の手紙』の著者、自宅にて》)

大量複製を意識した制作と、手作りの原画

ダダのフォトモンタージュには、一枚の原画として作られた作品と、印刷されることを念頭に制作された図案があります。原画を直接見る場合には、紙片の厚みや切り口、糊の跡などが分かります。印刷された作品では、その凹凸が失われる代わりに、多数の読者が同じ図像に触れることができます。媒体が変われば、作品の受け取られ方も変わります。

ジョン・ハートフィールドは後に写真と文字による政治批評を大量に印刷する仕事を進めました。その成熟した反ナチズム作品の多くは1930年代のものです。1918〜22年の記事では、それ以前のダダ期に、作品を組み立てて社会へ届ける方法を探していた点に焦点を当てます。(参照:MoMA|ジョン・ハートフィールドのフォトモンタージュ、MoMA|ダダの歴史と表現方法)

ラウール・ハウスマン――音響詩から機械的な頭部へ

声、文字、機械を組み合わせる実験

ラウール・ハウスマンはベルリン・ダダの朗読や宣言、写真の貼り合わせ、立体作品に携わりました。意味が決まった言葉から離れ、声の響きや音節の連続に注目する活動は、チューリヒの音響詩ともつながります。同時にハウスマンは新聞や写真を用い、都市が人間の身体や思考をどのように変えるかを考えました。

画面に貼られた活字や数字は、読むべき情報であるとともに、見るべき形です。機械の部品も、動力を伝える実用品から、人間を測り分類する社会を表す材料へ変わります。詩、印刷物、彫刻という異なる方法を一人の作家が行き来したことに、ベルリン・ダダの特徴がよく現れています。(参照:MoMA|ダダの歴史と表現方法、ポンピドゥー・センター|ハウスマン《機械的頭部》と制作年代の検討)

《われわれの時代の精神》は何でできているのか

ハウスマンの《機械的頭部》、別題《われわれの時代の精神》は、木製の理髪用頭部模型に、巻尺、定規、時計の歯車、活字の部品、管などを取り付けた作品です。ポンピドゥー・センターの所蔵記録によれば、高さは約32.5センチメートルです。頭部という人間を表す形の周囲に、測る道具や情報を扱う部品が取り付けられています。

頭の中で自由に思考する人物像より、外部から取り付けられた数字や規格に囲まれた存在が浮かび上がります。作品を眺めると、木の柔らかな表面と金属器具の硬さ、顔の静けさと周囲の道具の雑多さが対立します。社会が人間の能力を測定し、管理する仕組みを、説明文ではなく実際の部品によって見えるようにした点が特徴です。(参照:ポンピドゥー・センター|ハウスマン《機械的頭部》と制作年代の検討)

制作年代と保存状態をどう確かめるか

《機械的頭部》についてポンピドゥー・センターは1919年と表示していますが、所蔵館の詳細な研究では1920〜21年に作られた可能性にも触れています。作品が1920年の国際ダダ見本市に出品された確証もありません。後年の展覧会図録に掲載された写真や作家の回想は重要な資料でありながら、その記録時点と制作時点を区別することが必要です。

また、この作品は後年の修理や部品の位置の変更が研究対象になっています。現在の姿を当初の状態と同一視せず、所蔵館による物質的な調査を踏まえて読むことで、作品が百年以上にわたり受け継がれてきた歴史も見えてきます。ダダの実物作品を理解するには、造形に加えて、その保存と記録の歴史が欠かせません。(参照:ポンピドゥー・センター|ハウスマン《機械的頭部》と制作年代の検討)

ハンナ・ヘーヒ――印刷物の現場から生まれた表現

出版社で働いた経験と写真素材への距離

ハンナ・ヘーヒは、ベルリンの大手出版社ウルシュタインで図案や装飾に関わる仕事をしていました。女性向け雑誌、ファッション写真、手芸の図版など、大量に複製される視覚資料に日常的に触れていたことは、彼女のフォトモンタージュを理解する重要な背景です。出版社で仕事として扱っていた印刷物が、そのまま作品を組み立てる材料にもなりました。

雑誌に写る女性は、髪型、衣服、姿勢を通じて「望ましい女性像」を示されます。ヘーヒはその写真を切り分け、別の頭や脚、機械の部品と結びつけました。一見すると奇妙な身体ですが、そもそも雑誌が人々の姿を選び、加工し、並べて見せていたことを浮き彫りにする方法です。彼女の作品には、日常的な労働と社会批評が深く結びついています。(参照:MoMA|ハンナ・ヘーヒの制作とベルリン・ダダ、MoMA|ヘーヒのフォトモンタージュと作家としての立場)

写真の身体を切り分け、別の身体を作る

ヘーヒの作品では、人物の頭部と胴体が別の写真から選ばれ、突然大きさが変わることがあります。人間の一部分が、歯車や建物、活字の横へ貼られることもあります。もともとの雑誌写真にあった撮影場所や職業、年齢といった情報が薄れ、別の意味が生まれます。写真の切断は、社会の中で自然なものとして見せられていた人間像を改めて考える手段になりました。

ここでは細かい技術も重要です。写真の大きさを変えずに重ねると、頭だけが大きく見える場合があります。逆さに置いたり、周囲の写真を途中で切ったりすれば、身体の連続性が失われます。そうした不均衡は絵画のデッサンの失敗ではなく、印刷物が作っていた秩序を崩すための造形として働きます。(参照:MoMA|ハンナ・ヘーヒの制作とベルリン・ダダ、ベルリン国立美術館|ヘーヒ《台所包丁で切る》所蔵記録)

運動の中心にいた女性作家の立場

ベルリン・ダダには社会の権威を批判する男性作家が数多く参加していました。ヘーヒも活動の中心にいましたが、仲間から常に対等な専門家として扱われたわけではありません。MoMAには、男性の同僚たちが女性作家を魅力的なアマチュアとして捉えていたという、ヘーヒ自身の後年の回想が紹介されています。

この経験を踏まえると、ヘーヒの作品に現れる女性像は、外の社会だけを批評したものとして見ることができません。運動内部に残るジェンダーの不均衡も、彼女の活動を理解する背景となります。芸術運動の先進性を考える際には、その宣言と、参加者が実際に置かれた状況を両方見る必要があります。(参照:MoMA|ハンナ・ヘーヒの制作とベルリン・ダダ、MoMA|ヘーヒのフォトモンタージュと作家としての立場)

《台所包丁で切る》――一枚の画面に現れた共和国

1919年の大作に並ぶ政治家、機械、ダンサー

ヘーヒの《台所包丁で切る――ドイツ最後のワイマール・ビール腹文化時代をダダが切断する》は、ベルリン国立美術館の記録で1919年制作とされています。画面には政治家、軍人、群衆、ダンサー、機械の写真が入り乱れ、さまざまな大きさの人物が共存しています。もとの雑誌では別々の記事に載っていた写真が一枚の作品へ集まり、当時の共和国の混乱が目に見えるようです。

この作品は1919年制作の大作で、1920年の国際ダダ見本市にも出品されました。見る人は、中央の人物の顔や体を追ううちに、機械部品や活字の隣へ視線を移さざるを得ません。一枚の絵に統一された遠近法はなく、断片から断片へ動く視線が作品を成立させます。写真の集積によって、都市の情報を一度に見るような経験が作られています。(参照:ベルリン国立美術館|ヘーヒ《台所包丁で切る》所蔵記録、MoMA|ハンナ・ヘーヒの制作とベルリン・ダダ)

「台所包丁」という題名に込められた批評

題名の「台所包丁」は、料理に使う身近な道具です。当時、家事は女性の仕事と考えられることが多く、台所は男性が主導する政治の場から離れた領域と見なされていました。その言葉を作品の題名に置くことで、ヘーヒは家庭の道具を使って政治と文化の秩序を切断するという強い比喩を作り出しました。

実際の制作では紙をはさみで切る手つきが、写真の顔や文章を分断しています。切ることが物理的な作業であると同時に、社会の慣習を問い直す行為になります。題名のユーモアは画面の混乱と響き合い、政治的な演説だけでは示せない、身体や家庭から見た社会の姿を浮かび上がらせます。(参照:ベルリン国立美術館|ヘーヒ《台所包丁で切る》所蔵記録、MoMA|ヘーヒのフォトモンタージュと作家としての立場)

女性参政権と「新しい女性」のイメージ

1918年にドイツでは女性参政権が認められ、翌1919年には新しい政治制度のもとで女性が国政選挙へ参加しました。《台所包丁で切る》には女性の参政権を示す地図や、ヘーヒ自身の写真が組み込まれていることが指摘されています。雑誌に登場する女性モデルの写真も、同じ画面で政治家や機械の図像と混ざり合います。

「新しい女性」という言葉は、就労やスポーツ、都市生活に参加する女性像を表すようになりますが、雑誌のイメージがその生活をどこまで反映しているかは別の問題です。ヘーヒは、社会が作り出す理想像を切り貼りし、単純な賛美にも批判にも収まらない不安定な身体へ変えました。政治制度の変化が視覚文化にどのように現れたかを、この作品から読み取れます。(参照:ベルリン国立美術館|ヘーヒ《台所包丁で切る》所蔵記録、MoMA|ハンナ・ヘーヒの制作とベルリン・ダダ)

ジョージ・グロス――軍国主義を笑いによって告発する

《兵役適格》――医師の判断が生む不条理

グロスの《兵役適格》(1918年)は、軍の医師による身体検査を風刺した素描です。軍服姿の人物に囲まれて現れた対象者は、ほとんど骸骨のように描かれています。戦場で消耗した人間が、再び戦争へ使えるものとして判定される状況が、見る人に強い違和感を残します。人体を正しく写すことより、骨と制服、診察室の権威を同じ画面に置くことが目的になっています。

線の速さや表情の誇張には、新聞の風刺画に近い性格もあります。見る人は詳細な政治史を知らなくても、医師と軍人の姿勢から制度の冷酷さを感じ取ることができます。第一次世界大戦の大量動員は、個々の人間の生命を数字や条件として扱う問題を突きつけました。グロスはその問題を、難しい理論の説明より一場面の皮肉で伝えます。(参照:MoMA|グロス《兵役適格》(1918年)、MoMA|ダダの歴史と表現方法)

《共和国の自動人形》――国旗を掲げる機械の身体

《共和国の自動人形》(1920年)では、人間のような姿をした人物が、円筒形の頭や箱のような胴体、直線的な手足を持っています。胸や身体には幾何学的な区切りがあり、都市の建物や旗とともに、機械化した市民社会を思わせます。MoMAの所蔵記録によれば、画材は水彩と鉛筆です。複雑な機械を実際に組み立てた立体ではなく、紙の上の絵画的な風刺として成立しています。

共和国を支えるはずの市民が、自分で考える個人より、国旗や記号を身につけた装置のように見えます。ここには旧体制が倒れたあとも残る権威への服従をめぐる批判が読み取れます。人間を機械のように描く同時代の表現には、近代化の賛美もありました。グロスの場合は、政治的な自動性を示すことで、社会の新しさを無条件には信じられない感覚を表しています。(参照:MoMA|グロス《共和国の自動人形》、MoMA|グロス《兵役適格》(1918年))

グロスの風刺は1920年代へどう続くか

グロスはベルリン・ダダの時代に、軍人や官僚、資本家を戯画化する表現を発展させました。彼の描く都市には、戦争から帰った兵士、政治家、酔客、歩行者などが登場します。多くの場合、線画や水彩という比較的伝統的な方法が用いられました。フォトモンタージュだけがダダの表現だったわけではないことを、彼の活動は示しています。

1920年代にグロスの社会批評はさらに継続し、ドイツの新即物主義とも接するようになります。ここでは1918〜22年のベルリン・ダダに焦点を置き、詳しい後年の展開は別の時期の美術史へつなげます。芸術家が手描きの線を使いながら、大衆向けの印刷物や公共の議論に関わる点も、ベルリン・ダダの重要な特徴でした。(参照:MoMA|グロス《兵役適格》(1918年)、MoMA|グロス《囚人――組立工ジョン・ハートフィールド》)

ハートフィールド――組立工として政治に向き合う

名前を変えた作家の反戦意識

ジョン・ハートフィールドはドイツ生まれで、本名をヘルムート・ヘルツフェルトといいました。第一次世界大戦中に英語風の名前を使うようになった背景には、ドイツの排外的なナショナリズムへの反発があります。彼はベルリンで兄ヴィーラント・ヘルツフェルデらと活動し、印刷物を通じて政治的な主張を届ける仕事に深く関わりました。

名前を変えるという行為は、作品の見た目よりも先に公の社会へ向けられた批評でした。国家が求める同一性や愛国主義に距離を取り、作家自身の名乗りを政治的な発言へ変えたのです。のちに制作する写真による政治批評も、社会の中で実際に読まれ、広がることを強く意識していました。(参照:MoMA|ジョン・ハートフィールドのフォトモンタージュ、MoMA|グロス《囚人――組立工ジョン・ハートフィールド》)

《囚人――組立工ハートフィールド》に見る芸術家像

グロスの《囚人――組立工ジョン・ハートフィールド》(1920年)には、頭を剃り上げた男が囚人のような姿で描かれています。胸の部分には心臓に代わるように機械が描き込まれ、強く握った手は挑戦的です。MoMAによれば、ハートフィールドが自らを「組立工」と名乗ったことがこの作品の主題と関係します。

ドイツ語のモンターは、機械の部品などを組み立てる仕事をする人を意味します。作品を制作する人を天才的な画家として表現するより、部品を扱い、構造を組み立てる労働者として示す呼称でした。グロスの風刺画は友人を称える肖像でありながら、芸術家の職業や社会的な役割を問い直す一枚にもなっています。(参照:MoMA|グロス《囚人――組立工ジョン・ハートフィールド》)

出版のための図案と1930年代への連続

ハートフィールドは写真と文字を組み合わせ、雑誌、書籍の表紙、ポスターなどを通じて作品を流通させる方法を発展させます。完成した原画を一度だけ展示する場合と、印刷して多くの人が読む場合では、制作の目的も変わります。新聞の見出しと同じように、遠くから見ても伝わる図像の強さが重要になります。

彼の代表的な反ナチズム・フォトモンタージュは後年の仕事として知られています。1918〜22年には、その基礎となる写真の編集、政治的な言葉、出版との協働が形づくられました。ダダの経験が、後の社会批評に用いられる実践的な方法を育てたことを確認できます。(参照:MoMA|ジョン・ハートフィールドのフォトモンタージュ、MoMA|グロス《囚人――組立工ジョン・ハートフィールド》)

1920年の国際ダダ見本市――展覧会が挑発になる

オットー・ブルヒャルトの画廊で何が起きたか

1920年、ベルリンの画商オットー・ブルヒャルトの画廊で「第1回国際ダダ見本市」が開かれました。現存する当時の資料には6月30日の開催開始を示すものがあり、ベルリン市立美術館の解説では7月1日開幕と記されています。会期の終わりは8月25日です。開幕日の資料上の違いを踏まえても、1920年夏のベルリンで大規模な公開活動が行われたことは確かです。

ベルリン市立美術館が伝える規模は約180点、参加者31人。ヘーヒ、ハウスマン、グロス、ハートフィールドらに加え、ほかの都市の作家の作品も紹介されました。壁には絵画や写真の貼り合わせが密集し、文字やポスターも展示空間を埋めます。落ち着いて一枚の絵を見る美術館の慣習とは違う、強い視覚的な混乱が意図されました。(参照:ベルリン市立美術館|1920年国際ダダ見本市のカタログ、ドイツ・デジタル図書館|国際ダダ見本市の当時の広告と開催日)

当時のカタログから読む企画の性格

ベルリン市立美術館が所蔵する展覧会カタログは、赤と黒の文字を大胆に重ねた印刷物です。題名は斜めに大きく配置され、背景には断片的な文字や図像が見えます。ジョン・ハートフィールドがデザインしたこの冊子は、展覧会で何を見せるかの案内であると同時に、紙面そのものを実験的な造形へ変えていました。

カタログには、通常の美術品販売や高尚な鑑賞のあり方を揶揄する言葉が含まれています。「見本市」という名称も、美術品を商業の場で扱う慣習を皮肉る役割を持ちました。作品を「商品」のように扱う言い方を借りて、芸術市場や権威を笑う。見本市では、展示する作品だけでなく、知らせ方や題名も運動の主張となりました。(参照:ベルリン市立美術館|1920年国際ダダ見本市のカタログ)

観客に向かって配置された写真、物体、標語

国際ダダ見本市では、壁に貼られた作品だけでなく、天井から吊り下がる人形や、観客に呼びかける言葉が会場の一部となりました。展示空間を記録した写真には、新聞の見出しのような文字と、多数の額や貼り紙が入り乱れています。観客は作品を一つずつ鑑賞するというより、批判的な言葉と不意に出会いながら会場を進むことになります。

展覧会は物を見せるための透明な箱というより、鑑賞者の反応を引き出すために組み立てられた環境でした。吊り下げる高さ、標語の方向、作品同士の距離も体験を変えます。こうした発想は、後の展示デザインや空間を用いた美術を考える際にも重要な歴史的な手がかりとなります。(参照:ベルリン市立美術館|1920年国際ダダ見本市のカタログ、MoMA|ハートフィールドとシュリヒター《プロイセンの大天使》)

見本市の作品が示した、笑いと政治の切実さ

《プロイセンの大天使》――軍服と豚の頭

国際ダダ見本市で展示された《プロイセンの大天使》は、ジョン・ハートフィールドとルドルフ・シュリヒターが制作した作品です。軍服姿の人形に豚の頭を付け、会場の天井から吊り下げました。MoMAの解説によれば、作品に付けられた札は、軍事訓練を長時間行うことで作品を理解できるという趣旨の皮肉を含んでいました。

軍人への敬意を求める社会の中で、頭上に豚頭の軍服人形が浮かぶ光景は強烈な挑発でした。そのため、この作品は当局の反応を招き、軍を侮辱したことをめぐる法的な問題にも発展します。彫刻のように形を鑑賞するだけでなく、展示の場で権威へ直接働きかけることが作品の一部になりました。(参照:MoMA|ハートフィールドとシュリヒター《プロイセンの大天使》、ベルリン市立美術館|1920年国際ダダ見本市のカタログ)

バーダーの「上級ダダ」という役割

ヨハネス・バーダーは、自らを「上級ダダ」と名乗り、軍人や宗教的権威のような肩書を誇張して用いました。MoMA所蔵の《『キリストの十四通の手紙』の著者、自宅にて》(1920年)では、室内を写した写真を切り抜き、別の像を重ねています。切り抜いた人物の痕跡と室内の鏡像によって、本人の姿が複雑に現れる仕組みです。

MoMAの解説によれば、切り抜かれた部分には1920年のダダ見本市で展示されたバーダーの人形の写真が見えます。この作品では自画像が、記録写真と舞台的な扮装、宗教や軍の権威を笑う役割を一体化させています。人物の肖像を実際の顔の似姿だけで示さず、演じる肩書と印刷された像を組み立てて表した点が面白さです。(参照:MoMA|バーダー《『キリストの十四通の手紙』の著者、自宅にて》)

「タトリン万歳」の標語が語る他運動との接点

国際ダダ見本市の会場には、従来の芸術の死と、タトリンの機械的な芸術への期待を結びつける標語も掲げられました。ロシアのウラジーミル・タトリンは、金属や木材を組み合わせる立体や、革命後の巨大な記念塔の構想で知られていました。彼の名前は、ベルリンのダダイストにとって、従来の美術を超える制作の象徴として使われたのです。

この標語によって、ベルリン・ダダとロシア構成主義が同じ思想や制作方法を共有したと断定することはできません。それぞれの社会的な環境も作家の考えも異なります。大切なのは、異なる都市の前衛芸術家が、機械、組み立て、社会の中で働く芸術という共通の問題に関心を向け、互いの名前や言葉を借りていたことです。(参照:ベルリン市立美術館|1920年国際ダダ見本市のカタログ、ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ダダ展と六都市の活動)

ケルンのダダ――図版が思いがけない世界を作る

エルンスト、アルプ、バールゲルトの出会い

ベルリンから西へ離れたライン川沿いのケルンでも、第一次世界大戦後にダダの活動が生まれました。中心となったのはマックス・エルンスト、ジャン/ハンス・アルプ、ヨハネス・テオドール・バールゲルトです。エルンストは戦争を経験した後、絵画や版画の方法を改めて考え、印刷された図版を別の用途へ移す実験に取り組みました。アルプとの交流は、その表現を広げる重要な契機になります。

ケルンの作家たちは、ベルリンで行われていたように政治家の顔を直接攻撃する方法より、図版の意味そのものを変えることへ強い関心を示しました。科学の説明図、商品カタログ、解剖図、動植物の図版などは、通常は正確な知識を伝えるために印刷されています。それらを切り離して組み合わせると、物事を説明するはずの図版が、逆に不思議な世界への入口になります。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ダダ展と六都市の活動、MoMA|エルンストとダダ期の作品群)

「ヨハネス・バーダー」と「バールゲルト」を区別する

ベルリンのヨハネス・バーダーと、ケルンで活動したヨハネス・テオドール・バールゲルトは別の人物です。名前の響きが似ていても、参加した活動や作品の性格が異なります。バーダーはベルリンで「上級ダダ」という人物像を演じ、宗教や軍事の権威を風刺しました。バールゲルトはケルンでエルンストらと協働し、雑誌やコラージュの制作へ関わりました。

都市の違いを意識することは、作品の理解にも役立ちます。同じ時期に新聞や印刷された画像を使っていても、ベルリンでは現実の政治を直接批判する文脈が強く、ケルンでは図版同士の予想外のつながりを探る活動が目立ちます。個別の作家と活動場所を確認してこそ、「ドイツのダダ」という大きな名称の内部にある多様性が見えてきます。(参照:MoMA|バーダー《『キリストの十四通の手紙』の著者、自宅にて》、MoMA|エルンストとダダ期の作品群)

合理的な図版を使って不合理な像を生む

たとえば飛行機の図版を切り抜いて上下逆さに置き、その上へ魚や昆虫を貼れば、科学的な説明図のような精密さを保ったまま、現実には存在しない光景が生まれます。エルンストは、もとの図版が何を説明していたのかを完全に消さず、それが別のものへ変わる瞬間を作品の力としました。見る人は既知の物体を認識しながら、それらが出会う理由を探すことになります。

この制作方法では、絵を一から描く技術に加えて、既存の画像を見つける目と、組み合わせる判断が求められます。科学や産業のための図版が、合理性の奇妙さや、作者の想像力を表す媒体へ移されるのです。エルンストのコラージュは、後のシュルレアリスムへ続く重要な表現を、ダダの時期にすでに示していました。(参照:MoMA|エルンスト《ここではまだすべてが宙に浮いている》、MoMA|エルンスト《帽子が男を作る》)

マックス・エルンストのコラージュを実際に見る

《ここではまだすべてが宙に浮いている》の三つの図像

エルンストの《ここではまだすべてが宙に浮いている》(1920年)は、印刷物の複製図版を切り貼りした小さな作品です。MoMAの解説によれば、土台に使われたのはドイツ軍の航空に関する本から取った、空中からの化学爆弾攻撃を示す図版でした。作者はその画像を上下逆に置き、さらに半分に切られた甲虫と魚の断面の図版を重ねています。

印刷されたものを貼っただけと聞くと簡単な工作のように感じられるかもしれません。けれども、もとの図版が持っていた戦争の意味と、生物の身体を説明する意味が、一つの画面の中で突然接続します。軍事技術と生き物の断片が同じ空間へ現れ、現実の資料で作られた不可能な風景が生まれます。作品の題名はアルプが付けたとMoMAは説明しています。(参照:MoMA|エルンスト《ここではまだすべてが宙に浮いている》)

《帽子が男を作る》と商品カタログの変容

《帽子が男を作る》(1920年)は、帽子を並べた商品カタログの図版を使ったコラージュです。もとのページでは、帽子は購入のために比較される商品として整列していました。エルンストはそこへさらに帽子の画像を貼り重ね、絵具や線を加えて、塔のような奇妙な形を作っています。MoMAの作品記録では、ガッシュ、鉛筆、油彩、インクなどが使われていることを確認できます。

図版の反復は、人体や植物のようにも見える形へ変わります。題名は「人は身なりで決まる」という慣用的な発想をもじり、見かけと社会的な役割の結びつきを揺さぶります。MoMAはフロイトの著作との関連も指摘しています。ここでは精神分析による読みを唯一の答えとするより、商品カタログの実用的な画像が、作者の編集によって不安定な意味を帯びたことを押さえたいところです。(参照:MoMA|エルンスト《帽子が男を作る》)

切り貼りした原画と印刷された図像の二重性

《ここではまだすべてが宙に浮いている》を近くで見ると、異なる印刷物が貼られ、輪郭が切り取られたことが分かります。作品の主題を作る画像は、作者が一から描いたものばかりではありません。図鑑や本を刷った印刷技術も、元の写真や版画を作った人々の仕事も、エルンストの作品の材料として入り込んでいます。

いくつもの手を経た画像が一枚に集まることで、独創性の意味も変化します。作者はまったく新しい生物を精密に描き出すより、既存の図版がすでに持っている説得力を組み替えました。そこから生じる非現実の感覚が、シュルレアリスムの視覚へつながっていきます。作品に何が貼られ、どんな種類の資料から切り取られたかを確認すると、方法の新しさが具体的に見えてきます。(参照:MoMA|エルンスト《ここではまだすべてが宙に浮いている》、MoMA|エルンスト《帽子が男を作る》)

ケルンの展覧会とパリへの展開

1920年のケルンで展示方法が問われた

1920年、ケルンのダダイストたちは、通常の画廊の格式を笑うような展覧会を開きました。会場への入り方や作品の並べ方にも挑発的な仕掛けがあり、展示という制度そのものが活動の対象となりました。こうした出来事は写真や当時の出版物、後年の回想によって伝えられています。会場のすべてを再現できるだけの物的な記録が残るわけではないため、個々の逸話は資料の性格を区別して読む必要があります。

重要なのは、作品が壁に掛けられた後も制作が続いているような性格を持ったことです。作品を見る前に観客が何を経験するか、どのような言葉に迎えられるかで、展覧会の意味が変わります。ベルリンの見本市とケルンの催しには異なる政治的な文脈がありましたが、どちらも美術展を権威ある作品の単なる陳列と考える習慣を問い直しました。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ダダ展と六都市の活動、MoMA|エルンストとダダ期の作品群)

詩人たちがエルンストの作品に注目する

ケルンで発展したコラージュは、やがてパリの詩人や美術家の関心を集めます。エルンストは印刷された図版の組み換えを通じて、意味の確定しない情景や、夢の中のように異なるものが出会う場面を作っていました。その方法は、詩において言葉同士を思いがけない関係へ置く実験とも響き合いました。

1921年にはパリでエルンストの作品が紹介され、1922年にはエルンスト自身がパリへ移ります。彼はのちにシュルレアリスムの主要作家となりますが、その前にケルンで試した切り貼りの方法は重要な出発点でした。都市をまたぐ作家と作品の移動をたどることで、新しい芸術運動が一夜で別の運動へ交代したという単純な理解から離れられます。(参照:MoMA|エルンスト《帽子が男を作る》、MoMA|エルンスト《ここではまだすべてが宙に浮いている》)

政治風刺と夢のようなコラージュの違い

ベルリンのフォトモンタージュは、政治家や軍人など、現実に社会的な役割を持つ人物を読者が識別できることによって強い効果を生みました。ケルンのエルンストは、軍事資料や商品カタログという見慣れた図版を用いながら、何を表しているのか簡単には分からないイメージへ組み立て直します。出発する材料が似ていても、作品が鑑賞者へ求める読み方は異なります。

ベルリンでは誰を、どの制度を批判しているのかが比較的具体的に示されます。ケルンでは見えるものの名前は分かっても、その結びつきに説明を与えるのが難しい。どちらも写真や印刷物の信頼性を利用し、その印象を崩す方法でした。違いを知ることは、後の政治的な写真表現と、夢や無意識を扱う表現がダダの時代に並行して育ったことを理解する助けになります。(参照:MoMA|グロス《囚人――組立工ジョン・ハートフィールド》、MoMA|エルンスト《ここではまだすべてが宙に浮いている》)

ハノーファーのシュヴィッタース――メルツという独自の方法

1919年、街の断片から始まった制作

ハノーファーのクルト・シュヴィッタースは、1919年頃から自分の制作に「メルツ」という名称を使うようになりました。ベルリンのダダ・クラブとは距離を持ち、ダダと交流しながらも独立した制作を進めた作家です。彼が材料として選んだのは、新聞の切れ端、切符、広告、包装紙、木片、布など、都市の生活を通じて手に入る物でした。

これらは役割を終えた後、捨てられることの多い材料です。シュヴィッタースは、その物が元の用途で価値を持つかという判断から離れ、色、形、文字、質感、厚みを見ながら作品に組み込みました。第一次世界大戦後の社会を象徴するような「破片」という意味も見いだせますが、作品の実際の成立には、拾った物を選び、組み合わせる高度な造形判断が必要でした。(参照:シュプレンゲル美術館|シュヴィッタースと《メルツバウ》、シュプレンゲル美術館|メルツの100年と制作活動)

「メルツ」という言葉が生まれた経緯

「メルツ」という名称は、シュヴィッタースが初期のコラージュで使った「コメルツ」という商業関係の文字の一部から生まれたとされています。MoMAは、印刷物の断片から切り取られた音節が、新しい制作方法の名前になった経緯を説明しています。雑誌や広告の文字が画面に入ると、元の言葉から離れて別の読み方を求められることがあります。

シュヴィッタースはこの語を、単なるコラージュの技法名を超える活動の名称として使いました。絵画、詩、出版、デザイン、立体制作までを一つの原理で考えるための言葉です。破片を拾って別のまとまりを作るという行為が、作品の種類を越えて広がっていく。メルツを知ると、同じ時代のベルリン・ダダと異なる制作上の関心が見えてきます。(参照:シュプレンゲル美術館|メルツの100年と制作活動、シュプレンゲル美術館|シュヴィッタースと《メルツバウ》)

ベルリンと違う立場からダダを考える

シュヴィッタースはベルリン・ダダの政治的な姿勢と距離を取り、独自の造形と言葉の研究を続けました。ベルリンでは政治家の顔写真や軍服姿の人形が社会批評の材料になります。ハノーファーでは、捨てられた切符の数字や包装紙の色が、画面に新しいリズムを与えます。どちらも大量に流通する物に向き合っていましたが、作品を作る目的は同じではありません。

美術史ではシュヴィッタースもダダとともに語られ、ワシントン・ナショナル・ギャラリーは2006年の大規模展でハノーファーをダダの主要な都市の一つに数えました。そうした広い位置づけと、本人が独自の「メルツ」を掲げたことを合わせて考えると、都市の文化的な交流が単純な所属関係に収まらないことが分かります。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ダダ展と六都市の活動、シュプレンゲル美術館|シュヴィッタースと《メルツバウ》)

《チェリー・ピクチャー》――捨てられた物を組み立てる

作品の中央に置かれたサクランボの学習カード

《メルツ絵画32A チェリー・ピクチャー》(1921年)は、シュヴィッタースの制作を具体的に理解できる作品です。中央にはサクランボの絵が印刷された語学学習用のカードが貼られ、その周りを新聞紙、包装紙、布、木片などが取り囲んでいます。MoMAの所蔵記録によれば、油彩や鉛筆、インクも使われています。見つけた物をただ並べる仕事ではなく、描くことと貼ることを組み合わせた制作です。

カードの近くには、ドイツ語として文法的に不自然な「Ich liebe dir!」という言葉が書かれています。詩を思わせる言葉と学習カードが結びつき、日用品の断片に個人的な意味が入り込みます。商品の説明や語学の学習という元の役割を持っていた紙が、色と文字、記憶を扱う作品の一部へ変化しています。(参照:MoMA|シュヴィッタース《メルツ絵画32A チェリー・ピクチャー》)

木、金属、コルク、布が画面を立体化する

《チェリー・ピクチャー》には、薄い紙片ばかりでなく、木、金属、コルクなど厚みのある物体も貼り付けられています。MoMAの解説には、表面から突き出す壊れたパイプの存在も記されています。異なる高さを持つ素材が光を受けると、影の長さや質感が変わります。絵画の中に奥行きを描くだけでなく、実際に表面が盛り上がる構造が作られているのです。

元の板には暗い色の絵具が残り、その上へ薄い紙、布、立体物が重なります。鑑賞者は材料の種類を見分けながら、どこまでが絵画でどこからが物体かを考えることになります。作品の上部には直交する線のようなまとまりがあり、偶然集まった廃材の中にも造形上の秩序が組み立てられています。(参照:MoMA|シュヴィッタース《メルツ絵画32A チェリー・ピクチャー》)

偶然の収集と作者の構成が共存する

シュヴィッタースは街で見つけた材料を用いましたが、拾った順にそのまま貼り付けたわけではありません。MoMAは《チェリー・ピクチャー》について、物を慎重に配置し、糊や釘で板に固定していることを説明しています。偶然手に入った物を使うという出発点と、画面全体の関係を作る判断が結びついています。

作品を近くで見ると、元の用途が異なる断片のあいだに、新しいつながりができていることに気づきます。紙に印刷された文字は形にもなり、木片は周囲の紙の色を変えて見せ、布は表面の質感を変化させます。都市に散らばっていた物が、一つの構成を持つ作品として再び出会ったのです。(参照:MoMA|シュヴィッタース《メルツ絵画32A チェリー・ピクチャー》、シュプレンゲル美術館|メルツの100年と制作活動)

メルツの広がり――詩、出版、空間、そして美術史へ

拾った物から言葉や音へ

シュヴィッタースの活動は、絵画やコラージュの範囲にとどまりませんでした。詩の中でも通常の文章の意味をずらし、繰り返される音や言葉の響きを試しました。出版物や宣伝のデザインにも関わり、印刷された文字を構成の材料として扱います。メルツという名称には、媒体を越えて素材を結びつける姿勢が込められていました。

1918〜22年にはコラージュや詩などの基礎的な実験が進み、その後の1923年以降には雑誌『メルツ』も刊行されます。本記事の対象期間を越える展開として区別しておくと、彼が1920年前後に発見した制作原理が、のちに広い活動へ育ったことを理解できます。(参照:シュプレンゲル美術館|メルツの100年と制作活動、シュプレンゲル美術館|シュヴィッタースと《メルツバウ》)

《メルツバウ》へ進む空間の実験

シュヴィッタースはのちに自宅の一部を増殖するような立体空間へ変える《メルツバウ》を制作しました。ハノーファーのシュプレンゲル美術館によれば、その制作は1923年から1936年に進み、1943年の空襲で失われました。現在美術館で見ることができるのは、1933年の記録写真などに基づく1983年の再構成です。現存する原作と再現を区別することが欠かせません。

平面のコラージュでは、材料が画面の上で重なります。《メルツバウ》では、その重なりが人間の身体の周囲へ広がり、建物の内部を変化させます。1921年の《チェリー・ピクチャー》に見られる物の集積を出発点として考えると、廃材を結びつける方法が空間へ発展する道筋も理解しやすくなります。(参照:シュプレンゲル美術館|シュヴィッタースと《メルツバウ》、MoMA|シュヴィッタース《メルツ絵画32A チェリー・ピクチャー》)

ほかの作家との交流がメルツを育てた

シュヴィッタースは自分の活動に独自の名称を与えながら、アルプやヘーヒ、リシツキーなど同時代の作家と交流しました。シュプレンゲル美術館の資料も、彼らとの関係を含めてメルツの歴史を紹介しています。個人の活動として始まった仕事が、雑誌や展覧会、造形の実験を介して国際的な前衛へつながっていきました。

こうした交流を見ると、ダダ、構成主義、抽象美術という名称だけで作家を区分することの難しさが分かります。素材の選び方や制作の目的に違いがありながら、文字を図形として扱うこと、既存の印刷物を再構成すること、絵画と空間の境界を越えることなど、共有する問題も多くありました。(参照:シュプレンゲル美術館|シュヴィッタースと《メルツバウ》、ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ダダ展と六都市の活動)

1918–1922年の成果――三つの都市から生まれた新しい美術

政治批評、非現実の像、物質の構成を比べる

1918年から1922年までのドイツのダダを振り返ると、三つの都市の仕事には明確な違いが見えます。ベルリンでは新聞写真や軍服、政治家の顔を使い、社会制度への怒りを視覚化しました。ケルンでは科学や商品カタログの図版が予想外に組み合わされ、不合理な光景を作りました。ハノーファーでは捨てられた紙や物体が丁寧に組み直され、生活の断片が一つの作品になりました。

三都市の作家は統一した様式を掲げていたわけではありません。人間が作り出す言葉、情報、商品、制度を、別の使い方へ移す点に共通の関心がありました。完成した作品だけを見比べると、政治風刺と抽象的なコラージュが遠く感じられるかもしれません。材料の出どころと、それを組み立てる方法を知ると、両者の歴史的なつながりが見えてきます。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ダダ展と六都市の活動、MoMA|ダダの歴史と表現方法)

ダダが後の美術へ残した制作方法

新聞や写真を切り貼りする方法は、その後の政治的な印刷物や写真表現にも受け継がれます。エルンストのコラージュは、夢や無意識への関心を強めるシュルレアリスムに接続しました。シュヴィッタースのメルツは、廃材や日用品を作品の構造に取り込む立体制作や空間の実験に大きな手がかりを残しました。

ここで重要なのは、後の芸術が同じ形を繰り返したことだけではありません。作家が何を素材とし、どこで発表し、誰に届けるのかという制作の条件そのものが変化しました。芸術家が描くだけでなく、選ぶ、切る、組み立てる、編集する、印刷するという多様な行為によって作品を作れるようになったのです。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ダダ展と六都市の活動、MoMA|ジョン・ハートフィールドのフォトモンタージュ、MoMA|シュヴィッタース《メルツ絵画32A チェリー・ピクチャー》)

次の時代を読むための手がかり

1920年代前半、ダダの担い手たちはそれぞれ新しい方向へ進みます。ベルリンの政治的な批評は別の形で継続し、エルンストはパリへ移ってシュルレアリスムの形成に関わります。シュヴィッタースはメルツを出版や空間の制作へと広げました。運動としての集団活動が変化しても、1918〜22年の制作方法が消えたわけではありません。

ベルリンの政治風刺、ケルンの図像の組み換え、ハノーファーの素材の構成を押さえることで、次に登場する新即物主義、シュルレアリスム、戦後のコラージュやアッサンブラージュへの道筋を具体的に見ることができます。第一次世界大戦後のドイツでダダが行ったのは、社会の混乱を映し出すことと、混乱した世界の断片から新しい制作の方法を発見することでした。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ダダ展と六都市の活動、MoMA|エルンストとダダ期の作品群、シュプレンゲル美術館|シュヴィッタースと《メルツバウ》)

年表:1914〜1923年の主な出来事

  1. 1914年8月 第一次世界大戦が始まり、ドイツ帝国が参戦する。
  2. 1916年 チューリヒでキャバレー・ヴォルテールが開かれ、ダダの活動が形成される。
  3. 1917年 ヒュルゼンベックがチューリヒからベルリンへ戻る。
  4. 1917年頃 ヘーヒがハウスマンと出会い、ベルリンの前衛芸術家と交流を深める。
  5. 1918年 ヒュルゼンベックらによるベルリンでのダダ活動が公に展開する。
  6. 1918年11月 第一次世界大戦が終結し、ドイツ帝国が崩壊する。
  7. 1918年 グロスが《兵役適格》を制作する。
  8. 1918〜1919年 ベルリンで政治的な対立と革命後の社会変動が続く。
  9. 1919年 ヘーヒが《台所包丁で切る》を制作する。
  10. 1919年頃 ケルンでエルンスト、アルプ、バールゲルトらのダダ活動が展開する。
  11. 1919年 シュヴィッタースが「メルツ」の名称を用い始める。
  12. 1919年 ドイツの新しい政治制度のもとで女性が国政選挙に参加する。
  13. 1919〜1921年頃 ハウスマンが《機械的頭部》を制作したとされる。正確な年代には研究上の議論がある。
  14. 1920年 グロスが《共和国の自動人形》などを制作する。
  15. 1920年 エルンストが《ここではまだすべてが宙に浮いている》《帽子が男を作る》を制作する。
  16. 1920年6月30日〜8月25日 ベルリンで第1回国際ダダ見本市が開催される。開幕日には7月1日とする記述もある。
  17. 1920年 《プロイセンの大天使》が国際ダダ見本市に展示される。
  18. 1920年 バーダーが《『キリストの十四通の手紙』の著者、自宅にて》を制作する。
  19. 1920年 ケルンで挑発的なダダの展覧会が開かれる。
  20. 1921年 シュヴィッタースが《メルツ絵画32A チェリー・ピクチャー》を制作する。
  21. 1921年 エルンストのコラージュがパリでも紹介される。
  22. 1922年 エルンストがパリに移る。
  23. 1923年以降(補足) シュヴィッタースが雑誌『メルツ』や《メルツバウ》を展開する。

まとめ:新聞写真、図版、廃材が変えた芸術

第一次世界大戦の末期から1922年までのドイツでは、ダダが都市ごとに異なる形で発展しました。ベルリンの作家たちは、政治家や軍人の写真、印刷された文字を組み合わせて社会制度を批評しました。ケルンではエルンストらが、科学図版や商品カタログを不合理な情景へと変えます。ハノーファーのシュヴィッタースは、街に捨てられた物を組み立て、独自のメルツを育てました。

こうした活動が美術史に残した重要な成果は、作品に使える材料と、制作を成立させる行為が広がったことです。写真を編集すること、印刷物を再配置すること、日用品を集めること、展示空間そのものを設計することが、美術の方法として試されました。芸術家たちは作品を社会へ届けるための媒体にも目を向け、絵画、出版、政治批評、舞台や空間の境界を動かしました。

ドイツのダダは、のちの政治的フォトモンタージュ、シュルレアリスム、廃材によるアッサンブラージュ、空間を使う美術などにさまざまな手がかりを残します。その歴史を三都市の作品から読み直すことは、20世紀の美術がどのように現実の社会や生活の材料を取り込み、従来の芸術の枠を広げていったのかを理解することにつながります。

参考資料・出典

作品の制作年代、素材、所蔵状況、当時の展示記録は、所蔵館・研究機関の公開資料を優先して確認しました。各H3小節の参照リンクから、説明の根拠となる資料を確認できます。

資料確認日:2026年10月13日 / ART LIBRARY