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Art History

1967–1972

石、布、火、植物など、身近な素材から芸術を生み出す

イタリアのアルテ・ポーヴェラの誕生

美術館の展示室に、石炭の入った麻袋が置かれている。冷たい金属板には霜が生まれ、磨いた鏡の前に立つと、自分の姿が作品の中へ入り込む。さらには画廊に生きた馬が連れてこられる。1960年代後半のイタリアでは、こうした作品が次々に現れました。絵画や彫刻のための特別な材料を使わず、身の回りにあるものと、そこで実際に起きる現象から芸術を考え直す動きです。

この動向は「アルテ・ポーヴェラ」と呼ばれています。イタリア語の「貧しい芸術」という名称から、石や布など安価な材料を用いた素朴な美術を想像するかもしれません。実際の作品には、工場で作られた鉄やプラスチック、電気を使うネオン、冷却装置、精巧な鏡面まで登場します。作家たちは材料の価格より、物が持つ重さ、温度、匂い、成長する時間といった性質に関心を向けました。

例えば、野菜を石の間に挟んだ彫刻では、野菜がしおれると作品の構造も変わります。布や金属も、置き方や吊り方によって形が変化します。美術作品の価値を完成された形だけに求める習慣に対して、素材の変化、制作した人の行為、展示された場所、見る人の身体が関わる新しい経験が生まれました。

こうした実験の舞台となったのは、急速な工業化を経験したトリノをはじめ、ジェノヴァ、ローマ、ミラノなどの都市でした。戦後イタリアでは自動車産業や大量消費が広がり、その変化と並行して学生運動や労働運動も活発になりました。自然物と工業製品、古典的な彫刻と現代の生活用品が同じ作品に現れる背景には、異なる価値観が交差する当時の社会がありました。

1967年、批評家ジェルマーノ・チェラントは、各地で活動していた芸術家たちの仕事を「アルテ・ポーヴェラ」という名前で紹介しました。そこにはマリオ・メルツ、ヤニス・クネリス、ミケランジェロ・ピストレット、アリギエロ・ボエッティ、ジョヴァンニ・アンセルモらが含まれます。マリサ・メルツやジュゼッペ・ペノーネ、ルチアーノ・ファブロ、ジュリオ・パオリーニなども、その歴史を理解するうえで重要な存在です。

作家たちは共通の材料や制作技法を守っていたわけではありません。鏡を用いる人、樹木の成長を作品にする人、数字や言葉の規則に向かう人など、それぞれの方法には大きな隔たりがあります。同じ名称のもとに集められたことで、個々の仕事が互いにどのような問いを共有していたのかが見えてきます。

この記事では1967年の命名から1972年頃までを中心に、代表的な作品を一つずつ見ながらアルテ・ポーヴェラの歴史をたどります。素材が変化する現象に加え、作家を支えた画廊、批評家の役割、国際展覧会での紹介、作品を保存する美術館の課題まで扱います。最後に、前後の記事で取り上げるポスト・ミニマリズムやランド・アートとのつながりも整理します。

身近な素材は、なぜ美術作品になったのか

大理石やブロンズの外に広がる素材

アルテ・ポーヴェラを「貧しい素材の美術」とだけ説明すると、作品の重要な部分が抜け落ちます。確かに土、枝、石、布、麻袋、野菜など、伝統的な高級美術材料ではないものが頻繁に使われました。ネオン、工業用金属、プレキシガラス、冷却装置、化学物質といった、必ずしも安価でも素朴でもない素材や技術が重要な役割を担っています。

「ポーヴェラ」が指しているのは、材料費よりも、美術材料の序列そのものを組み替える態度だと考える方がよいでしょう。大理石やブロンズだから価値が高く、古布や野菜だから価値が低いという序列を受け入れず、物質が現実に持つ重さ、温度、表面、臭い、導電性、可燃性、腐敗性、成長性を作品の条件として扱うのです。(参照:ニューヨーク近代美術館|アルテ・ポーヴェラ)

石とネオンが同じ場所に並ぶ

ここでは古代的なものと現代的なものも対立しません。石、火、木、動物といった人類の歴史に古くから存在するものが、ネオン、鉄鋼、ガラス、プラスチック、冷凍技術と同じ展示空間で出会います。そのためアルテ・ポーヴェラを「自然へ帰る反工業化運動」と見ることも適切ではありません。むしろ自然物と工業素材を衝突させ、現代社会が自然を加工し、管理し、消費する関係そのものを可視化したと考えられます。

むしろ重要なのは、美術館や市場が「美術作品にふさわしい」と考えてきた物質と、それ以外の物質の境界が崩されたことです。石は彫刻になる前の石として、布は絵画の支持体になる前の日用品として、鉄は産業社会の構造材として現れます。素材は使われてきた履歴や物理的性質を持ったまま作品に入ってきます。(参照:スミソニアン/ハーシュホーン美術館|Zero to Infinity展)

物質が実際に起こすことを見る

したがって作品を見る際には、「この素材は何を象徴しているのか」だけでなく、「この素材は実際に何をしているのか」と問う必要があります。石は重く、銅線は曲がり、鏡は反射し、ネオンは光り、野菜は水分を失い、冷却装置は霜を発生させます。意味は記号的な解釈だけでなく、物理的な作用と鑑賞者の経験から生まれます。

アルテ・ポーヴェラの最も大きな転換の一つは、作品を完成した「物体」として見る考えから、素材が変化し続ける過程へと視線を移したことでした。重力、熱、冷気、電気、化学反応、成長、張力といった力は通常、彫刻の背後に隠れている条件です。アンセルモやゾリオ、カルツォラーリらは、その見えない力自体を作品の中心へ引き出しました。(参照:ポンピドゥー・センター|アルテ・ポーヴェラの展開)

1960年代のイタリアと、作品が生まれた場所

「経済の奇跡」と工業都市の暮らし

1950年代後半から60年代にかけてのイタリアは、いわゆる「経済の奇跡」と呼ばれる急速な成長を経験しました。農村部から工業都市への人口移動、製造業の拡大、自動車や家電の普及、大量消費社会の形成が進み、同時に格差や労働問題も深まりました。アルテ・ポーヴェラの作品に、石や木と鉄やプラスチック、手仕事と機械、生物とネオンが同時に現れることは、このように自然と産業が日常の中で複雑に絡み合っていた社会環境と無関係ではありません。

工業化の中心地であったトリノでは、工場の生産方式、規格化された部品、金属やプラスチックといった新しい材料が日常の視覚環境に入り込んでいました。一方、イタリアには農村的な生活、職人的な手仕事、古い都市構造も残っていました。アルテ・ポーヴェラの作品に、工業製品と枝、ネオンと石、金属と手編みが同時に現れるのは、この急速な近代化が異なる時間層を同じ都市の中へ重ねていたこととも響き合います。(参照:スミソニアン図書館|Zero to Infinity展カタログ)

トリノ、ローマ、ジェノヴァを結ぶ画廊

アルテ・ポーヴェラはしばしばトリノを中心とする運動として語られます。実際、トリノはフィアットを中心に急速な工業化を経験した都市であり、ボエッティ、ピストレット、アンセルモ、ゾリオ、マリオ・メルツ、マリサ・メルツら多くの重要作家が活動しました。大量生産、工業製品、労働、都市化が日常の景観を変えていくなかで、自然物と工業素材を同じ作品に置くことは、単純な自然回帰とは異なる意味を持ちました。

運動の活動圏はジェノヴァやローマ、ミラノにも広がっていました。ジェノヴァにはチェラントとラ・ベルテスカ画廊があり、ローマではヤニス・クネリスやピノ・パスカーリが活動し、ラッティコ画廊が重要な実験の場となりました。ミラノではルチアーノ・ファブロらが活動し、各都市の画廊が、美術館よりも早く若い作家の実験を支えました。トリノのスペローネ画廊やChristian Stein、ローマのL’Attico、ジェノヴァのLa Bertescaといった民間画廊の存在なしに、アルテ・ポーヴェラの初期史を説明することはできません。(参照:ボエッティ公式アーカイブ|1967年の展覧会記録)

鏡、切れ目、既製品という前史

「アルテ・ポーヴェラ」という名称が生まれる以前から、後にその中心に位置づけられる作家たちはすでに重要な実験を始めていました。ピストレットは1960年代初頭から磨いた金属板に人物像を組み合わせる「鏡絵画」を展開し、固定された像の中へ現実の観客と展示空間を取り込んでいました。ピノ・パスカーリは自然や武器を人工的な構造へ作り替え、ジュリオ・パオリーニは支持体、額縁、複製、美術史的引用を通して「作品を見ること」そのものを問題にしていました。

さらに前史として、ルーチョ・フォンタナやピエロ・マンゾーニの存在も重要です。フォンタナはキャンバスを切り開き、絵画の表面に実際の空間を接続しました。マンゾーニは作者、作品、署名、価値の制度そのものを問い直しました。二人はアルテ・ポーヴェラの「メンバー」ではありませんが、戦後イタリアで絵画や彫刻の前提を崩し、美術作品の物質的・制度的条件を露出させた先行例として大きな意味を持ちます。(参照:スミソニアン/ハーシュホーン美術館|Zero to Infinity展)

1967年、アルテ・ポーヴェラという名前が生まれる

ジェノヴァの《アルテ・ポーヴェラ―空間》展

1967年9月27日から10月20日まで、ジェノヴァのラ・ベルテスカ画廊で《アルテ・ポーヴェラ―空間》が開催されました。アリギエロ・ボエッティの公式アーカイブも、この展覧会をアルテ・ポーヴェラの歴史的出発点として記録しています。チェラントが企画したこの展覧会は、後に大きな運動名となる「Arte Povera」を具体的な作家と作品へ結び付ける最初期の重要な場でした。

ジェルマーノ・チェラントが「Arte Povera」という語を公に提示したのは1967年です。この名称が重要なのは、統一された形式を持つ作家集団に後からラベルを付けたというより、まだ互いにかなり異なっていた制作を、一つの批評的な視野の中で関連づけた点にあります。チェラントは同年の論考「Arte Povera: ゲリラのための覚書」で、固定された制度や文化的価値に従属しない、柔軟で可変的な制作のあり方を論じました。(参照:ボエッティ公式アーカイブ|1967年のグループ展)

チェラントが掲げた「ゲリラ」の芸術家像

「ゲリラのための覚書」という副題も、作品の外見を説明する言葉ではありません。美術家が一つの安定した専門職や様式に自分を固定せず、その都度異なる素材や状況を使いながら制度の期待をかわしていく姿勢を、当時の政治的語彙を借りて強調したものです。この言葉は後にアルテ・ポーヴェラの反制度的性格を象徴する表現となりましたが、個々の作家の政治的立場まで同じだったことを意味しません。

この時点でチェラントが強調したのは、芸術家があらかじめ用意された役割や美的カテゴリーから自由になることでした。そのため、アルテ・ポーヴェラの初期作品には、荒い素材の作品だけでなく、鏡のように高度に加工された表面、工業部品、照明技術、言語的な作品まで含まれます。名称を素材の外見に結び付けるよりも、制作を固定された様式へ閉じないための戦略として読む方が、実際の作家の幅を説明できます。(参照:ボエッティ公式アーカイブ|1967年の展覧会記録)

異なる作家を結ぶ批評と展覧会

ここで注意すべきなのは、アルテ・ポーヴェラには公式な会員制度も、すべての作家が署名した統一宣言もなかったことです。参加作家は展覧会ごとに変わり、制作上の関心も大きく異なりました。そのためアルテ・ポーヴェラは、作家たちが自然発生的に結成した団体というより、チェラントの文章、展覧会、作家選択によって輪郭を与えられた批評的・展覧会的なカテゴリーとして理解する方が正確です。

「運動が先にあり、批評家が後から名前を付けた」という通常の図式をここへそのまま当てはめると、歴史が単純化されます。チェラントは同時代の作品を選び、並べ、共通の問題を言語化し、その選択を国内外へ流通させる編集者でもありました。作家たちも、その枠組みとの距離を変えながら、独自の制作を展開していきました。アルテ・ポーヴェラの歴史は、制作、批評、展覧会、画廊の相互作用によって形成されたと考える必要があります。(参照:スミソニアン/ハーシュホーン美術館|Zero to Infinity展)

1968年、作品は行為と場所へ広がる

アマルフィで行われた三日間の実験

1968年10月4日から6日にかけて、アマルフィで《アルテ・ポーヴェラ+貧しい行為》が開催されました。Museo e Real Bosco di Capodimonteに残るLia e Marcello RummaのアーカイブやPhiladelphia Museum of Artの資料によれば、マルチェッロ・ルンマとジェルマーノ・チェラントが重要な役割を担った三日間の催しで、従来の展示物だけでなく、行為や場所そのものが前面に出ました。

展覧会名に「Azioni Povere(貧しい行為)」が加わったことは象徴的です。その場で行われる行為や、短い時間だけ成立する出来事、都市や歴史的建築との関係が重要になります。こうした実践では、作品の意味は物体の内部に加えて、どこで、いつ、誰が、どのように関わったのかによって決まります。(参照:フィラデルフィア美術館|1968年アマルフィ展の再検証)

街や建築の中で変わる作品の意味

画廊や美術館の白い展示室を離れ、歴史的な街や建築へ出ることは、展示空間を中立的な容器として扱わない姿勢でもありました。のちに「サイト・スペシフィック」と呼ばれる考え方へ単純に先取りとして回収するべきではありませんが、作品と場所を切り離さない発想がこの時点ですでに重要になっていたことは確かです。

アマルフィでは、観客が作品を鑑賞するだけでなく、その場で進行する出来事へ立ち会うことになります。作品が時間を持つということは、鑑賞者もまたその時間の中へ入るということです。これは後のパフォーマンスや参加型作品と重なりますが、アルテ・ポーヴェラでは物体と行為が互いを排除せず、同じ状況の中で併存していた点が重要です。(参照:フィラデルフィア美術館|1968年アマルフィ展の再検証)

学生運動と労働運動の時代

アルテ・ポーヴェラが形成された時期は、イタリア社会が大きく揺れていた時期と重なります。1968年前後には大学での抗議運動が広がり、1969年には「熱い秋」と呼ばれる大規模な労働争議が起こりました。工業化と消費社会の拡大は生活水準を変える一方、労働条件、格差、教育制度、文化制度への不満も強めました。

こうした状況の中で、チェラントは1967年の論考で「ゲリラ」という言葉を用いました。この言葉をそのまま「アルテ・ポーヴェラの作家は全員政治的なゲリラだった」と理解するのは誤りです。チェラントの「ゲリラ」は、固定された文化制度や役割に取り込まれず、状況に応じて柔軟に移動し、価値体系へ抵抗する芸術家像を示す強い批評的修辞として読む必要があります。(参照:スミソニアン/ハーシュホーン美術館|Zero to Infinity展)

重さ、熱、時間――素材が形を決める

目で見る経験から、身体で受け取る経験へ

さらに観客の身体も作品の外に置かれません。鏡には観客自身が入り込み、生きた動物のいる空間では音や匂いを感じ、冷却装置のある作品では温度の差が意識されます。大きなイグルーや環境的な構成では、見る者は作品の周囲を歩き、距離や位置を変えながら経験します。こうしてアルテ・ポーヴェラは、見ることを単なる視覚的鑑賞から、身体的・時間的な経験へ拡張しました。

アルテ・ポーヴェラは、美術を「見るもの」だけに限定しませんでした。石炭、土、タバコ、動物、植物は匂いを持ち、金属や動物は音を生み、火や冷却装置は温度を変えます。観客は形や色を認識するだけでなく、自分の身体が置かれている環境そのものを意識します。(参照:スミソニアン/ハーシュホーン美術館|Zero to Infinity展)

腐敗し、溶け、成長する美術

時間も重要です。霜は気温や装置の稼働によって生まれ、電源を切れば消えます。生野菜は水分を失って形を変え、木は人間の鑑賞時間をはるかに超えて成長し続けます。火は燃えているあいだしか同じ状態にはなく、生きた動物は観客の期待通りに静止しません。作品は条件によって現れたり変化したりする状態として経験されます。

この転換は、彫刻の定義そのものを広げました。彫刻が「固い物質を形作った三次元物体」である必要がなくなれば、重力も、冷気も、成長も、時間も、観客の移動も彫刻を成立させる要素になります。作品を一つの物体に閉じ込めず、複数の条件の組み合わせとして考えることは、その後のインスタレーションや一時的な作品を理解する基盤にもなりました。(参照:ニューヨーク近代美術館|アルテ・ポーヴェラ)

偶然と設計のあいだで成立する作品

アルテ・ポーヴェラの作家が皆「物質を自然に任せた」わけではありません。精密な配置、人工的な装置、数学的構造、美術史的引用も同じくらい重要です。自然な変化と人為的な構成、偶然と設計が同じ作品の中で緊張関係を作ることが、この運動を単純な反形式主義から区別します。

視覚以外の感覚が重要になると、展示空間の設計も変わります。作品との距離、換気、安全管理、電力、照明、観客の導線までが作品経験へ影響します。これはアルテ・ポーヴェラが美術館制度へ突き付けた実務的な問題でもありました。作品は壁に掛ければ成立するとは限らず、空間全体を調整する必要が生じます。(参照:スミソニアン/ハーシュホーン美術館|Zero to Infinity展)

ミケランジェロ・ピストレット――鏡と古着

鏡絵画に映り込む現在の展示室

ミケランジェロ・ピストレットは1960年代初頭から、磨いた金属板に人物像を組み合わせた「鏡絵画」を展開しました。描かれた人物は作品の中で固定されていますが、鏡面に映る観客や展示空間は常に変化します。従来の絵画では背景は画家が描いた虚構空間でしたが、ピストレットの鏡では、現実の部屋とその瞬間にいる人々が背景そのものになります。

ここで絵画は、過去に制作され完成した像であると同時に、現在を絶えず取り込む装置へ変わります。鑑賞者は作品を見ると、自分自身が作品の内部に現れていることにも気づきます。鏡という素材は作品と現実、像と観客、固定された時間と現在進行形の時間を同じ表面へ重ねるための構造として機能しました。(参照:フィラデルフィア美術館|ピストレットの鏡絵画)

見る人が作品の一部になる

ピストレットの仕事では、観客が作品の「外側」にいるという近代美術の習慣も不安定になります。鏡の前に立てば、自分の身体だけでなく、ほかの鑑賞者、壁、照明、展示室の奥行きまで同じ面に現れます。鑑賞するたびに内容が変わるため、作品の現在は観客がその場にいることで毎回生成されます。

このようにピストレットは、作品の表面と展示空間を切り離せなくしました。鏡面は作品の外にあるものを取り込み続けるため、展示場所を変えれば作品の見え方も変わります。作品そのものを運んでも、そこへ映る環境は毎回異なります。この可変性は、場所と観客を作品の条件として考えるアルテ・ポーヴェラ全体の問題ともつながっています。(参照:フィラデルフィア美術館|ピストレットの鏡絵画)

《ぼろ布のヴィーナス》が向き合わせた二つの時間

《ぼろ布のヴィーナス》では、古典的なヴィーナス像と大量の古着が向き合います。永続的な美の理想を象徴する古典彫刻と、身体に触れ、使用され、消費され、捨てられる布が同じ場に置かれることで、美術史的価値と日常的消費の時間が衝突します。ここで古着を単なる「貧困の象徴」と読むのは不十分です。布切れには身体の使用痕、色彩、ファッション、流通、廃棄といった複数の履歴があり、ピストレットはそれを古典的価値体系へぶつけています。

《ぼろ布のヴィーナス》でも、古典彫刻とぼろ布の対比だけでなく、量の差が重要です。一体の均整の取れた像に対して、布は不定形に積み上がり、個々の形を失いながら膨張します。古典的な「完成した形」と、使用と廃棄を繰り返す消費社会の物質が向き合うことで、作品は美術史と現代生活を一つの場に衝突させます。(参照:スミソニアン/ハーシュホーン美術館|《ぼろ布のヴィーナス》)

ヤニス・クネリス――石炭、火、そして十二頭の馬

絵画の中の記号から、本物の物質へ

ギリシャ生まれでローマを拠点としたヤニス・クネリスは、初期には文字や記号を画面に取り込み、その後、石炭、コーヒー、麻袋、鉄、火、生きた動物などへと素材を広げました。彼の作品では、素材は視覚的な象徴にとどまりません。石炭は重量と臭いを持ち、工業化を支えたエネルギー資源としてその場に存在します。麻袋やコーヒーも、貿易、労働、物流、身体的感覚を伴って画廊へ入ってきます。

クネリスはしばしば彫刻家として分類されますが、彼の出発点には絵画があります。文字や記号を描いていた時期から、やがて現実の物質そのものを空間に置く方向へ進みました。石炭や火は黒さや熱を実際に発生させるものとして使われます。この移行を見ると、アルテ・ポーヴェラにおける素材の導入は、絵画が扱ってきた色、光、空間を現実の現象へ置き換える試みでもあったことが分かります。(参照:プラダ財団|ヤニス・クネリス回顧展)

石炭や炎が展示室へ運ぶもの

火を用いた作品でも、炎は「火を描いた像」ではありません。実際に熱を発し、危険を伴い、時間とともに状態が変わる現象です。見る者は視覚だけでなく、熱や距離を身体的に意識せざるを得ません。クネリスはこうした素材によって、画廊という空間を中立的な背景から、現実の物質と力が作用する場所へ変えていきました。

クネリスの素材には、産業化の現在だけでなく、より古い記憶が重なることがあります。石炭、鉄、麻袋、火、動物は、工場、港、倉庫、交易、農業、家庭など、美術館とは異なる社会空間の履歴を持ちます。画廊に持ち込まれたとき、それらは生活や労働の文脈を部分的に引きずったまま、美術の空間を変質させます。(参照:プラダ財団|ヤニス・クネリス回顧展)

1969年、ローマの画廊に生きた馬を置く

その最も有名な例が、1969年にローマのラッティコ画廊で行われた12頭の生きた馬による展示です。馬は生きた身体としてその場に存在し、動き、音を立て、匂いを発し、世話を必要とします。画廊は生命の時間が進行する場所に変わりました。現在から見れば、生きた動物を作品に用いることには動物福祉の問題も伴いますが、美術史的には、作品を固定された物体から生きた状況へ変えた重要な事例です。

1969年の馬の展示が強烈なのは、非日常的な驚きだけが理由ではありません。作品を「所有可能な一個の物体」と考える制度に対して、生きた馬は所有、保存、複製、展示期間というすべての条件を変えてしまいます。また、観客が安全な距離から一方向的に眺めることも難しくなり、画廊の空間が動物と人間の共有空間へ変わります。ここでは作品、展示、生活の境界が具体的な身体によって再編されます。(参照:プラダ財団|ヤニス・クネリス回顧展)

マリオ・メルツ――ネオンが貫く日用品とイグルー

傘や瓶を貫くネオン管

グッゲンハイム美術館の作家資料によれば、マリオ・メルツは1966年頃から、瓶、傘、レインコートなどの物体へネオン管を貫通させる作品を制作し始めました。ネオンは電気エネルギーが物質へ侵入したような視覚を作ります。後のイグルーでも、原始的な住居を思わせる構造へ工業的な光が組み合わされ、自然/人工、古代/現代という二項対立を単純に分けられなくします。

マリオ・メルツは絵画から出発し、やがてネオン、拾得物、枝、石、ガラス、金属、新聞、テーブルなどを組み合わせるようになりました。なかでもイグルーは彼を代表する形式です。メルツ財団はイグルーを、内部と外部、個人と集団、自然と都市といった境界を考える「住居」の構造として位置づけています。(参照:グッゲンハイム美術館|マリオ・メルツ)

《イグルー》は何を囲い、何を開くのか

重要なのは、同じ半球状の形式があっても、素材が固定されていないことです。枝、石、ガラス、金属、新聞、ネオンなどが組み合わされ、原始的な住居を思わせる形と現代的な工業素材が同居します。イグルーは人間が環境の中に一時的な住まいを作る行為と、近代都市の人工的素材を重ねる装置でした。

メルツのイグルーが重要なのは、建築でも彫刻でも家具でもない中間的な存在だからでもあります。人が住めそうな形を持ちながら、展示空間の中で内側と外側を区切る最低限の構造として立ち上がります。そこへ新聞やネオン、ガラスなど現代社会の素材が加わることで、「原始的な住まい」という単純な回帰像は崩れます。(参照:メルツ財団|イグルーと初期作品)

数列で捉える生命の増殖

1970年代初頭からはフィボナッチ数列が重要な要素となります。メルツはこの数列をネオンなどで作品へ取り込み、植物や生物に見られる成長と増殖の規則を、数学的な構造として空間に示しました。また、テーブルも繰り返し登場します。テーブルは彫刻であると同時に、食事、会話、会合、共同体の場でもあります。メルツの作品では、彫刻、家具、住居、数字といった異なる領域が一つの環境へ重ねられました。

フィボナッチ数列も、単なる数学的な装飾ではありません。メルツ財団は、この数列を自然界の成長や拡大を示す構造として説明しています。数は抽象的な記号でありながら、植物や生物の増殖、共同体の広がり、空間の拡張と結び付けられます。イグルー、テーブル、数字が同じ制作の中に現れることで、住むこと、集まること、成長することが互いに接続されます。(参照:メルツ財団|数字と成長の構造)

マリサ・メルツ――工業素材と手仕事が出会う

アルミニウムの薄い面を吊るす

マリサ・メルツは、アルミニウム板、銅線、粘土、紙、ドローイングなどを用いながら、家庭空間と制作空間、彫刻と手仕事の区別を揺さぶりました。薄いアルミニウム板を切り、ねじり、吊るした作品では、工業的で硬い素材が、軽く有機的で、重力に応じて揺れる構造へ変わります。手で加工することで異なる身体感覚を引き出しているのです。

マリサ・メルツの作品では、家庭が制作の条件そのものになります。大規模な工房や工場的制作を前提としない手作業は、素材へ身体の反復運動を刻み込みます。銅線を編むという行為では、金属は工業的でありながら、加工の仕方は極めて身体的です。この矛盾が、アルテ・ポーヴェラの「自然対産業」という単純な図式を崩します。(参照:メトロポリタン美術館|マリサ・メルツ回顧展)

銅線を編むことが彫刻になる

銅線を編む作品では、金属という工業素材と、編み物という家庭的労働が交差します。編む、縫う、家庭で作るといった行為は、長く「高級美術」の中心から低く位置づけられてきました。マリサ・メルツはそれらを彫刻の言語へ持ち込み、何を美術の労働とみなし、どの場所を制作の場とみなすのかという階層そのものを問い直しました。

制作行為も多様です。編む、切る、持ち上げる、ねじる、冷やす、燃やす、育てるといった動作は、手仕事と工業的工程のあいだを行き来します。とりわけマリサ・メルツの制作は、家庭での手仕事を彫刻へ持ち込み、何が「芸術的な労働」とみなされてきたのかを問い直しました。(参照:ニューヨーク近代美術館|マリサ・メルツ《無題》(1966))

美術史の中で彼女をどう位置づけるか

彼女を「マリオ・メルツの妻」として周辺化することは適切ではありません。二人の生活と制作が交差していたことは重要ですが、マリサには独自の素材感覚、身体感覚、空間への関心があります。メトロポリタン美術館による2017年の大規模回顧展など、美術館による再検討は彼女をアルテ・ポーヴェラの主要な作家として改めて位置づけています。この再評価は、アルテ・ポーヴェラのカノンが長く男性中心に形成されてきたことを問い直す契機にもなりました。

メトロポリタン美術館が2017年の回顧展で彼女をアルテ・ポーヴェラの「唯一の女性の中心的存在」として紹介したことは、運動の歴史記述がいかに男性中心だったかを逆に示しています。彼女の作品を彫刻と生活、労働と素材、親密さと空間の関係を再編した実践として読むことで、アルテ・ポーヴェラの定義そのものが広がります。(参照:メトロポリタン美術館|マリサ・メルツ回顧展)

アリギエロ・ボエッティ――物から仕組みへ

1967年、資材店のような初個展

アリギエロ・ボエッティは、1967年にトリノのクリスティアン・シュタイン画廊で開いた初個展で、布、プレキシガラス、コルク、管材などの工業製品を密集して展示しました。ニューヨーク近代美術館が所蔵する《Untitled (Invitation)》1966–67では、その個展で用いた素材の断片が格子状に配置され、展覧会案内そのものが素材の見本帳のような構成になっています。

この初期展示は、白い展示空間に単独の彫刻を美しく置くというより、金物店や資材店の棚を思わせる密度を持っていました。工業都市の日常に流通する素材が、そのまま美術の展示へ持ち込まれることで、「美術作品らしい見せ方」の規範が揺さぶられます。(参照:ニューヨーク近代美術館|ボエッティ《無題(招待状)》)

郵便、数字、言葉へと広がる制作

ボエッティは物質中心の制作を起点として、やがて郵便、数字、言葉、地図、他者への制作委託などへ急速に展開していきます。彼の存在は、アルテ・ポーヴェラが「特定の素材を使う美術運動」ではなかったことをよく示します。素材への関心は、制度、情報、言語、分業、作者性の仕組みそのものを考える方向へつながっていきました。

ボエッティの展開が示すのは、アルテ・ポーヴェラに参加したことが、その後も同じ形式を続ける義務を意味しなかったことです。むしろ初期の工業素材への関心から、物を並べる規則、情報の伝達、作者と他者の分業へ関心が移っていきます。作品の「素材」が、物質から制度や手順へ変わったと見ることもできます。(参照:ボエッティ公式アーカイブ|1967年の展覧会記録)

画廊での見せ方も作品を変える

この変化は、アルテ・ポーヴェラとコンセプチュアル・アートを完全に別の箱へ分けることが難しい理由でもあります。1960年代末の作家たちは、一つの運動名に忠実に留まるより、物質、言語、時間、制度のあいだを行き来していました。後世の分類は理解を助ける一方、当時の流動性を見えにくくする場合があります。

ボエッティの初期作品を「工業素材を使った彫刻」とだけ記述すると、その展示方法の意味が抜け落ちます。素材が密集し、見本や部品のように見えることは、完成品を一点ずつ鑑賞する美術館的な見方とは異なる視覚を作ります。物を見る秩序そのものが、工場、倉庫、店舗、展示室のあいだで揺れ動くのです。(参照:ニューヨーク近代美術館|ボエッティ《無題(招待状)》)

ジョヴァンニ・アンセルモ――目に見えない力

《トーション》に蓄えられたねじれ

ジョヴァンニ・アンセルモは、彫刻の形を作ること以上に、その形を成立させている力へ注目しました。重力、張力、圧力、エネルギーは目に見えませんが、物体を支配している現実の条件です。ニューヨーク近代美術館所蔵の《トーション》1968では、セメント、革、木が組み合わされ、ねじられた素材に蓄積された力そのものが作品の緊張を作ります。

この考え方は、完成した彫刻を静止した結果として見る伝統から大きく離れます。重力は常に働いていますが、通常の彫刻では支えるための技術として隠されます。アンセルモはその力を隠さず、むしろ作品の主題へ転換しました。見えない力を見える関係として構成することが、彼の彫刻の特徴です。(参照:ニューヨーク近代美術館|アンセルモ《トーション》)

石の間で生きた野菜が果たす役割

また、生野菜と石を組み合わせる作品では、野菜が構造を維持する物理的な要素として働きます。野菜は時間とともに水分を失い、しおれ、形を変えるため、作品の状態も変化します。ここでは彫刻を維持する条件が「生きた物質の変化」に依存しており、永続的な物体としての彫刻という考え方が根本から揺さぶられます。

アンセルモの作品では、観客が目にしているのは形そのものより、形が崩れないために働いている力です。石の重さ、素材のねじれ、野菜の水分といった条件が変われば、作品も同じ状態には留まりません。そのため作品は「何でできているか」だけでなく、「何がそれを成立させ続けているか」という問いへ鑑賞者を導きます。(参照:グッゲンハイム・ビルバオ|アンセルモ作品資料)

素材を交換しながら作品を守る

このような作品では、保存も特殊な問題になります。1968年当時と同じ野菜を永久に残すことはできません。必要なのは、素材同士の関係や力の状態を再び成立させることです。後の美術館保存にとって、これは「作品の真正性を何に求めるか」という大きな課題になりました。

アンセルモの生野菜を含む作品のように、素材を交換しながら関係を再現する必要がある場合、保存されるべきものは素材同士の位置、張力、重量、変化の条件、作家が残した資料であることがあります。カルツォラーリの霜の作品でも、重要なのは冷却によって霜が現れる条件を成立させることです。(参照:グッゲンハイム・ビルバオ|アンセルモ作品資料)

ゾリオとカルツォラーリ――反応する物質

ゾリオが引き出す化学反応とエネルギー

ジルベルト・ゾリオは、化学反応、液体、熱、金属などを使い、物質がエネルギーを蓄えたり放出したりする状態にあることを作品化しました。1968年のアマルフィで記録された《Il fuoco è passato》のような作品では、完成形そのものよりも「火が通過した」という出来事と、その痕跡が重要になります。作品は物質の表面に起きた結果であると同時に、過去の反応を示す記録でもあります。

ゾリオとカルツォラーリを並べると、アルテ・ポーヴェラの「エネルギー」が実際の物理現象として扱われていたことが分かります。燃焼、冷却、化学反応、熱、液体の変化は、作品を現実に変化させる力です。鑑賞者は結果だけでなく、その変化が起きる条件を意識することになります。(参照:フィラデルフィア美術館|1968年アマルフィ展の再検証)

冷却装置によって生まれる霜

ピエール・パオロ・カルツォラーリは、塩、鉛、泡、タバコ、冷却装置などを用い、温度と物質変化を作品へ導入しました。ピノー・コレクションが所蔵する《Oroscopo come progetto della mia vita》1968では、冷却システムと周囲の空気との温度差によって実際の霜が形成されます。霜は条件が整ったときに発生する現象です。

電源を止めれば霜は溶け、表面は変化します。したがって作品は、装置、気温、湿度、時間の関係から立ち上がる状態になります。ゾリオとカルツォラーリの仕事は、アルテ・ポーヴェラにおいて「素材」が物質の名称だけを意味せず、反応やエネルギーまで含む概念へ拡張されたことを明確に示しています。(参照:ピノー・コレクション|カルツォラーリ《私の人生の計画としての星占い》)

変化の最中にあるものを展示する

カルツォラーリは1960年代後半、氷や霜だけでなく、塩、泡、タバコ、鉛、ネオン、日用品、生きた動物なども用いました。ピノー・コレクションの資料によれば、1967年頃から空間を「活性化」する実践を展開し、1968年には《Casa ideale》という構想へつながっていきます。ここでも作品は複数の素材と現象が会話する環境として考えられていました。

霜や燃焼の作品は、写真だけでは経験の一部しか伝わりません。霜の白さ、冷却装置の存在、温度差、火の熱や燃えた痕跡は、実物の空間で身体が知覚することで意味が立ち上がります。このことは、アルテ・ポーヴェラが後世に写真資料だけで紹介されるとき、物質的経験の一部が失われるという問題も示しています。(参照:ピノー・コレクション|カルツォラーリ《私の人生の計画としての星占い》)

ジュゼッペ・ペノーネ――樹木と身体の長い時間

1968年、森で始まった《海辺のアルプス》

ジュゼッペ・ペノーネは1968年から、イタリア北西部ガレッシオ周辺の森林で樹木と身体を関係づける行為を始めました。《海辺のアルプス》では、木に針金などを取り付けたり、幹へ身体を押し当てたりする小さな介入を行い、その後の成長過程を含めて作品としました。リヴォリ城現代美術館の資料も、これらの初期作品を、樹木の成長、身体との接触、写真記録が結び付いた実践として位置づけています。

リヴォリ城現代美術館が保存する資料によれば、《海辺のアルプス》は1968年に森で行われた複数の小さな行為を写真によって記録した作品群として展開しました。人間が成長を妨げない程度の介入を加え、その後の時間を自然へ委ねる点が特徴です。人間の身体と樹木は異なる時間尺度を持つ存在として接触します。(参照:ジュゼッペ・ペノーネ公式アーカイブ|《海辺のアルプス》(1968))

木が育つことで完成へ近づく彫刻

ここで重要なのは、人間の短い行為と植物の長い時間が重なることです。作家が木に触れる瞬間は数分でも、木はその後何年、何十年と成長を続けます。彫刻の時間が人間の鑑賞時間を超え、作品の一部が自然の成長へ委ねられることになります。

ペノーネの場合、自然は人間の制作を拒む外部でも、自由に加工できる材料でもありません。作家は木の成長を完全に支配できず、ただ成長の過程へ一時的に介入します。そのため作品には、作家の意図と自然の自律性が同時に存在します。この関係は、作家が材料へ一方的に形を与える伝統的な彫刻観とは大きく異なります。(参照:ジュゼッペ・ペノーネ公式アーカイブ|海辺のアルプス)

樹皮と皮膚が触れ合う地点

ペノーネの制作では触覚も重要です。皮膚、樹皮、石、ガラスなどの表面が接触し、身体と外界の境界がどこにあるのかが問われます。1970年前後には皮膚の痕跡を写真やガラスへ展開し、身体の表面を風景のように扱う仕事も生まれます。彼の作品を後のランド・アートと比較することはできますが、巨大な大地の改変よりも、身体と樹木の微細な接触と成長の時間に重点がある点が異なります。

ペノーネが後に皮膚の痕跡をガラスや写真へ展開したことも、この接触への関心の延長です。リヴォリ城現代美術館の資料では、《Svolgere la propria pelle》の後期版に、身体の痕跡をガラス板へ展開した写真が含まれることが確認できます。皮膚は身体の内外を分ける境界であると同時に、世界と接触する表面です。樹皮、皮膚、石の表面を連続的に捉える視点は、ペノーネ独自の彫刻観を形成しました。(参照:ジュゼッペ・ペノーネ公式アーカイブ|略歴)

ファブロとパオリーニ――国土と美術史も素材になる

ファブロがイタリア半島を吊るす

ルチアーノ・ファブロは、空間、重力、支持、素材の扱いに加え、イタリア半島の形そのものを作品化しました。《イタリア》シリーズでは、地図として見慣れた国土の輪郭を金属や布などで立体化し、吊るしたり逆さにしたりすることで、固定された国家像を物理的な物体として不安定にします。これは地理的な記号がどのように身体化され、象徴化されるのかをずらす試みです。

ファブロの《イタリア》シリーズも、地図記号をそのまま政治的主張に変えるものではありません。誰もが知っている国土の形を物質化し、向きや支持方法を変えることで、イタリアという国家像を固定した記号から不安定な彫刻へ変えます。美術史的な形、国家的な象徴、物質の重さが同時に働く点に、彼の作品の複雑さがあります。(参照:ポンピドゥー・センター|アルテ・ポーヴェラの展開)

パオリーニが過去の肖像画を見つめ直す

一方、ジュリオ・パオリーニは、キャンバス、額縁、複製、美術史、観客の位置そのものを作品の問題にしました。1967年の《ロレンツォ・ロットを見る若者》では、ロレンツォ・ロットの肖像画の複製と題名を組み合わせることで、鑑賞者を「描かれる人物を見る画家」の位置へとずらします。ニューヨーク近代美術館の資料も、この作品を観客と芸術家の関係を反転させるものとして説明しています。

パオリーニの仕事は、アルテ・ポーヴェラが「現実の物質を美術館へ持ち込む」運動だけではなかったことを特に明確にします。彼の作品では、絵画を見る位置、過去の作品を複製する行為、額縁や支持体、展示の向きといった、美術制度の中で通常は意識されにくい条件が前景化します。作品は新しいイメージを作るより、すでにある美術の枠組みを見直す装置になります。(参照:ニューヨーク近代美術館|ジュリオ・パオリーニ展資料)

石や木を使わない作品の共通性

ファブロとパオリーニは、石や植物のような「貧しい素材」を使うことだけではアルテ・ポーヴェラを説明できないことを示します。ファブロにとっては国土の形、美術史的な彫刻の形式、支持の問題が素材になり、パオリーニにとっては過去の作品、複製、展示制度、見るという行為そのものが素材になります。アルテ・ポーヴェラには、物質を扱う実験と同時に、美術史と制度への自己言及的な思考が含まれていました。

パオリーニの自己言及性と、ファブロの国家的形象は、アルテ・ポーヴェラが「自然物と身体」にだけ向かったわけではないことを示します。過去の美術作品、地図、国土の輪郭、額縁、複製といった文化的に作られた記号も、石や木と同じように再配置可能な素材として扱われました。既存の意味を固定しないことが共通しています。(参照:ニューヨーク近代美術館|ジュリオ・パオリーニ展資料)

ピノ・パスカーリと、人工的な自然を作る作家たち

1967年《約32平方メートルの海》

代表作《約32平方メートルの海》1967では、複数の金属製容器に着色した水を入れ、画廊内に約32平方メートルの「海」を作りました。Galleria Nazionale d’Arte Moderna e Contemporaneaは、この作品を30個の金属製容器と色を付けた水によって構成された作品として紹介しています。水は実物ですが、「海」は人工的な格子状の単位へ切り分けられています。

《約32平方メートルの海》では、一つひとつの容器は規格化された工業的な単位ですが、中に入っているのは形を固定できない水です。硬い格子と流動する物質が同居するため、ミニマル・アート的な幾何学と、変化する自然物質が同じ作品の中で衝突します。この二重性は、アルテ・ポーヴェラと国際的な同時代美術を比較する際にも重要です。(参照:ローマ国立近現代美術館|パスカーリ《約32平方メートルの海》)

遊びと虚構を使った自然の再制作

ピノ・パスカーリは、偽物の武器、動物、土、水、農耕的な形態などを使いながら、自然と人工の境界を遊戯的に組み替えました。1968年に若くして亡くなったため活動期間は短いものの、アルテ・ポーヴェラの形成期における重要な存在です。

パスカーリの作品には遊びや虚構の感覚が強く、アルテ・ポーヴェラを厳格で禁欲的な運動としてだけ見る見方を修正します。偽物の武器や人工的な動物、区画された海は、一見すると分かりやすい対象を示しながら、その素材や尺度によって現実と模倣の関係を混乱させます。人間が自然を分類し、再現し、所有可能な単位へ変える行為も含めて提示します。(参照:ピノ・パスカーリ公式アーカイブ|略歴)

ジラルディの柔らかな「自然の絨毯」

後世のアルテ・ポーヴェラのカノンを考えるうえで、ピエロ・ジラルディとエミリオ・プリーニは重要です。ジラルディはポリウレタンフォームを使い、石、果物、河床など自然の断片を模した《Tappeti-natura(自然の絨毯)》を制作しました。自然物のように見えるものが実際には柔らかな合成素材でできており、触れることのできる人工的な「自然」として現れます。

この作品は、自然と人工を単純に対立させる見方を反転させます。工業素材が自然を模倣し、観客の身体に触れられる敷物になることで、自然はすでに人工的に再構成され、商品化されうるものとして示されます。(参照:リヴォリ城現代美術館|ジラルディと《自然の絨毯》)

運動の幅を広げた実験と国際的な展覧会

プリーニが扱った測定、記録、不在

一方、エミリオ・プリーニは、写真、測定、行為、情報、技術、さらには「不在」を扱い、分かりやすい物質的様式を形成することから距離を取りました。アルテ・ポーヴェラを、石や木や金属を大量に使う環境的な美術とだけ考えると、プリーニのような実践は見えにくくなります。彼の存在は、運動の中に物質性の強い作品だけでなく、情報や記録、最小限の介入へ向かう方向もあったことを示します。

プリーニのような作家が重要なのは、運動の歴史が「有名な代表作」の連続だけでは成立しないことを教えるからでもあります。視覚的に分かりやすい象徴を持たない作品や、記録が少ない実践は、回顧展や教科書の中で目立ちにくくなります。カノン形成を考えることは、何が歴史に残りやすかったのかを検討することです。(参照:MACRO美術館|エミリオ・プリーニ)

1969年ベルンで世界の前衛と出会う

1969年には、ハラルド・ゼーマンがベルンで企画した《態度が形になるとき》にボエッティらイタリアの作家が参加し、アルテ・ポーヴェラはコンセプチュアル・アート、プロセス・アート、アンチ・フォームなど、同時代の国際的な動向と並べて理解されるようになりました。ここでは国別の運動名よりも、作品を態度、行為、過程として捉える共通の問題意識が前面に出ました。

1960年代後半、アルテ・ポーヴェラと並行して、アメリカではミニマル・アート、コンセプチュアル・アート、ランド・アート、プロセス・アートなどが展開していました。工業素材、単純な形態、作品と場所の関係、物質の挙動、言語や仕組みへの関心など、重なる問題は多くあります。作品が生まれたイタリア固有の社会的・歴史的な状況も、比較の中で確認する必要があります。(参照:スミソニアン/ハーシュホーン美術館|Zero to Infinity展)

1970年東京ビエンナーレ《人間と物質》

その後、ベルン、デュッセルドルフ、ロンドン、ニューヨークなど国際的な展示機会が増え、イタリア国内の複数都市から生まれた実践が世界的な現代美術のネットワークへ組み込まれていきます。1970年の東京ビエンナーレ《人間と物質》にはマリオ・メルツも参加しました。この展覧会は、世界各地で物質、場所、行為、展示の関係が再考されていたことを示す重要な接点でした。

国際展への参加は、アルテ・ポーヴェラを「イタリア国内の特殊な運動」から、戦後美術全体の変化を考える参照点へ変えました。同時に、海外では個々の作品がミニマル、ポスト・ミニマル、コンセプチュアル、ランド、プロセスなど別のカテゴリーと並べられ、イタリア国内での文脈とは異なる読み方も生まれます。国際化は単に知名度を上げただけでなく、作品の分類と意味を変える作用も持っていました。(参照:メルツ財団|マリオ・メルツ年譜)

市場、美術館、批評家――作品を支える仕組み

画廊を通じて発表された反制度的な作品

アルテ・ポーヴェラには、永続的な商品としての美術作品を不安定にする側面がありました。作品の多くは画廊で発表され、コレクターに支えられ、のちに美術館へ収蔵されています。つまり市場や制度の完全な外部へ出た運動ではありません。反商品化の姿勢を含む作品が、画廊という販売制度の内部で発表されるという矛盾こそ、アルテ・ポーヴェラの歴史を現実的に考えるうえで重要です。

市場との関係も同様に単純ではありません。販売しにくい素材を使うことが市場批判として機能したとしても、作家たちは作品を見せるために画廊を必要とし、画廊は国際展やコレクターとの接点を作りました。やがて作品は美術館に収蔵され、再展示のための設置方法や素材交換の手順が整備されていきます。制度に抵抗する作品が、制度を通じて歴史に残るという緊張は、最初から完全に避けられるものではありませんでした。(参照:ロサンゼルス現代美術館|Zero to Infinity展)

写真と記録が出来事を美術史へ運ぶ

また、一時的な行為や変化する作品は、写真、映像、カタログ、設置指示、批評文がなければ後世へ伝わりません。作品が物体から出来事へ近づくほど、記録の役割は大きくなります。これは「非物質化」が写真や出版物、展覧会記録の重要性を高めたことを意味します。

記録の問題は、美術史の形成にも直結します。一時的な行為は、誰が撮影したか、どの写真が出版されたか、どのカタログに掲載されたかによって後世の印象が大きく変わります。強い一枚の写真が作品全体を代表してしまう場合もあります。そのためアルテ・ポーヴェラの歴史を読む際には、現存する物体だけでなく、展覧会記録と出版物がどのように運動のイメージを作ったかにも注意する必要があります。(参照:フィラデルフィア美術館|1968年アマルフィ展の再検証)

チェラントが選び取った運動の輪郭

2001–02年にテート・モダンやウォーカー・アート・センターなどで展開された《ゼロから無限へ:アルテ・ポーヴェラ 1962–1972》では、ジョヴァンニ・アンセルモ、アリギエロ・ボエッティ、ピエール・パオロ・カルツォラーリ、ルチアーノ・ファブロ、ピエロ・ジラルディ、ヤニス・クネリス、マリオ・メルツ、マリサ・メルツ、ジュリオ・パオリーニ、ピノ・パスカーリ、ジュゼッペ・ペノーネ、ミケランジェロ・ピストレット、エミリオ・プリーニ、ジルベルト・ゾリオという14人が中心に扱われました。

この14人は現在もっとも有力な「アルテ・ポーヴェラの作家一覧」の一つですが、1967年から不変だった公式名簿ではありません。初期展覧会ごとに参加者は異なり、後から加わった作家、早く離れた作家、運動との距離を変えていった作家もいます。したがって、14人という数を歴史的事実として固定するより、後世の大規模展や研究がどのように運動の輪郭を整理したのかを見る必要があります。(参照:スミソニアン図書館|Zero to Infinity展カタログ)

1972年以後にも残ったもの

変わる素材の保存と再展示

アルテ・ポーヴェラは、美術館の保存という制度にも難しい問題を突き付けました。野菜は腐り、霜は溶け、火は消え、植物は成長し、布や金属も時間とともに変化します。作品の「オリジナル」を、最初に使われた物質そのものとして考えるだけでは、多くの作品を維持できません。

また、再制作や素材交換が認められる作品では、作家や財団による指示、過去の展示写真、寸法、素材の仕様などの記録が重要になります。ここでドキュメンテーションは作品を将来成立させる条件の一部へ近づきます。(参照:ニューヨーク近代美術館|アルテ・ポーヴェラ)

今日の環境的な視点から読み直す

ペノーネの樹木、メルツの成長のモデル、ジラルディの人工的な自然などは、今日では環境や生態系をめぐる美術の文脈から読まれることがあります。自然を人間の身体、産業、時間、成長と結び付いた動的なものとして扱った点は、確かに現在の環境的関心と接続します。

今日の環境的読解が有効なのは、アルテ・ポーヴェラが自然を人間から切り離された純粋な外部として扱わなかったからです。樹木には人間の身体が触れ、人工素材が自然を模倣し、数学的な数列が生物の成長と結び付けられます。自然、技術、身体は相互に作用するものとして現れます。当時の問題設定と現在の読みを二層に分けて考える必要があります。(参照:ジュゼッペ・ペノーネ公式アーカイブ|海辺のアルプス)

作家の異なる歩みと、その後の美術への影響

1970年代初頭になると、各作家の国際的な活動が広がり、「アルテ・ポーヴェラ」という集合名より、それぞれの制作の固有性が前面に出るようになります。そのため美術史では1972年頃までを一つの形成期・展開期として区切ることがあります。これは作家たちが1972年に制作をやめたという意味ではありません。

マリオ・メルツのイグルーや数列、ペノーネの樹木、ピストレットの鏡はその後何十年にもわたって継続されました。ボエッティは言語、地図、他者への委託へ展開し、各作家がそれぞれ異なる方向へ進みます。したがって1972年は「運動の終了年」というより、共同のラベルが前面に出る時期から、個々の作家史へ重心が移る便宜的な区切りと理解した方が適切です。(参照:スミソニアン/ハーシュホーン美術館|Zero to Infinity展)

年表|1967年前後から1972年へ

アルテ・ポーヴェラの成立には、名称が付く前から始まっていた制作、1967年の展覧会、各都市の画廊、1968年以降の国際的な発表が重なっています。ここでは作家ごとの重要な出来事を年代順に並べ、運動の形成と広がりを確認します。

  • 1958–59|ピエロ・マンゾーニらが、素材・署名・作品価値をめぐる実験を展開する。
  • 1960|ジュリオ・パオリーニが絵画の支持体と鑑賞の条件を問い始める。
  • 1961–62|ピストレットが鏡絵画の制作を始める。
  • 1964–65|ピノ・パスカーリが人工的な武器や自然の造形へ関心を広げる。
  • 1965|ピエロ・ジラルディが合成素材による「自然の絨毯」を制作する。
  • 1966|マリオ・メルツが日用品とネオン管を結びつける制作へ進む。
  • 1966|マリサ・メルツが金網と麻を使った《無題》を制作する。
  • 1967年1月|トリノのクリスティアン・シュタイン画廊でボエッティ初個展が開かれる。
  • 1967年9月|ジェノヴァのラ・ベルテスカ画廊で《アルテ・ポーヴェラ―空間》展が始まる。
  • 1967年|チェラントが「Arte Povera: Appunti per una guerriglia」を発表する。
  • 1967年|パスカーリが《約32平方メートルの海》を制作する。
  • 1967–68|トリノの複数画廊で《Con temp l’azione》が行われる。
  • 1968年|マリオ・メルツがイグルーの形式を用い始める。
  • 1968年|アンセルモが《トーション》や生野菜を用いた作品を制作する。
  • 1968年|ペノーネが《海辺のアルプス》の森で樹木への介入を始める。
  • 1968年10月|アマルフィで《アルテ・ポーヴェラ+貧しい行為》が開催される。
  • 1969年|ローマのラッティコ画廊でクネリスが12頭の馬を展示する。
  • 1969年|ベルンの《態度が形になるとき》展にイタリアの作家たちが参加する。
  • 1969年|ペノーネがトリノで初個展を開く。
  • 1970年|マリオ・メルツがフィボナッチ数列を作品に用い始める。
  • 1970年|第10回東京ビエンナーレ《人間と物質》にマリオ・メルツが参加する。
  • 1971年|ミュンヘンで《Arte Povera: 13 italienische Künstler》展が開催される。
  • 1972年|国際的な発表機会が広がり、個々の作家の活動が独自の方向を深める。
  • 2001–03|《Zero to Infinity: Arte Povera 1962–1972》展が運動初期史を再検討する。

まとめ|アルテ・ポーヴェラが変えたもの

1967年、チェラントによる命名はイタリア各地で進んでいた実験をひとつの視野へ結びつけました。石や布、火や植物は、画家や彫刻家の考えを示すための記号として使われるだけでなく、重力、温度、消耗、成長といった現実の作用をそのまま展示室へ運びました。作品の形が完成してから鑑賞が始まるという習慣は、物質が動き続ける状況によって大きく変化しました。

ピストレットの鏡には鑑賞者が映り、クネリスの馬は画廊に生命の時間を持ち込みます。マリオ・メルツはネオンとイグルーで住まいや成長を問い、マリサ・メルツは手仕事と工業素材を結びつけました。アンセルモは重力を、カルツォラーリは霜を、ペノーネは樹木の成長を作品にします。同じ運動名のもとにある表現がこれほど異なること自体、この時代の美術の広がりを示しています。

アルテ・ポーヴェラは、戦後イタリアの工業化や政治的変化、画廊の新しい展示方法の中から形作られ、欧米のプロセス・アートやコンセプチュアル・アートとも同時代的な関係を持ちました。作品を支える素材やエネルギーだけでなく、批評家が名前を与え、画廊が発表の場を作り、美術館が保存するという仕組みも歴史の一部です。次のランド・アートの記事では、こうした問いが展示室を離れ、土地や地形、写真記録を通してどのように展開したかを考えます。

参考資料・出典

記事執筆にあたり、美術館の展覧会資料、作家・財団の作品記録、公式年譜と所蔵作品解説を参照しました。作品の制作年と後年の展覧会・再制作の年を区別し、チェラントによる1967年の命名とそれ以前の活動も分けて整理しています。

資料確認日:2026年10月15日 / ART LIBRARY