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紀元前550–330

古代ペルシア帝国の美術

巨大宮殿と王権の浮彫

紀元前6世紀の西アジアには、アナトリアのリュディア、メソポタミアの新バビロニア、イラン高原のメディアなど、異なる言語と習慣を持つ国々がありました。山地では石材と金属が採られ、ティグリス・ユーフラテス川流域には煉瓦で築いた都市が連なり、ペルシア湾から地中海まで人と物を運ぶ道が使われていました。紀元前550年頃、イラン南西部のペルシアを拠点とするキュロス2世が勢力を広げ、アケメネス朝の帝国が成立します。キュロスによるバビロンの征服は紀元前539年、ダレイオス1世の時代には支配領域がエジプト、中央アジア、インダス川方面に及びました。

広い領域は総督を置いた地方行政と街道、文書のやり取りによって結ばれました。各地の工房は石、木、煉瓦、金、銀、半貴石を加工し、王の宮殿には遠く離れた地域の材料と職人が集められました。王都も一つではなく、パサルガダエ、スサ、ペルセポリスなどで建築が進み、それぞれ異なる景観が作られています。石の階段に刻まれた服装の異なる人々、色鮮やかな弓兵の煉瓦壁、獣の前半身を形づくった杯は、宮廷の行事、ものづくり、支配を表す画像の違いを具体的に伝えています。

キュロス2世の都パサルガダエ|宮殿と庭園

石造の王墓|段を重ねた基壇と切妻屋根

イラン南西部ファールス地方のパサルガダエは、キュロス2世が紀元前6世紀に築いた王都です。広い平地には宮殿や門、庭、水路が分散して置かれ、城壁の内側に建物が密集する都市とは配置が異なります。遺跡の一角に立つキュロスの墓と伝えられる建造物は、明るい色の石材を積んだ六段の基壇と、その上の小さな長方形の石室からできています。石室の屋根は両側へ傾いた切妻形で、入口は人の背丈より小さく、地面からは段を上らなければ届きません。

石室の内部は装飾を抑えた造りで、古代の遺骸や副葬品が現状のまま残っているわけではありません。キュロスがここに葬られたという同定は古代の証言と場所の伝承に基づき、墓を築いた細かな工程や石棺の原状を直接見られる状態ではありません。後のナクシェ・ロスタムの王墓は崖の高所を十字形に彫り込む方式になり、同じ王家の墓でも外形は大きく変化しました。(参照:ユネスコ世界遺産センター|パサルガダエ/イラニカ百科事典|ナクシェ・ロスタムの王墓)

宮殿の柱と広い庭|独立した建物を結ぶ水路

パサルガダエの王宮地区には、門の建物、広間を持つ宮殿、住居にあたる建物が残ります。細い柱が並ぶ広間の周囲には屋外の庭が開け、石で縁を作った水路が幾何学的に通されていました。石柱の一部には異なる建築伝統を組み合わせた柱頭や基部が認められ、建物と庭を往来する空間の取り方は、後の西アジアに見られる庭園建築との関連から研究されています。

庭はかつて樹木や草花を伴ったと考えられていますが、現在見えるのは主に石の基礎と水路の線です。ユネスコは宮殿群と水路を含む配置を、区画されたペルシア式庭園の早い例として記録しています。何をどこに植えたかは、石の位置だけでは再現できません。背後の丘にはタッレ・タフトと呼ばれる大きな石造壇があり、王都には平地の宮殿とは別に高所の防御施設も設けられていました。(参照:ユネスコ世界遺産センター|パサルガダエ)

王都の成立と建設者|多地域の技術を組み合わせる

パサルガダエには、イラン高原で続いていた柱を用いる建築に加え、石の大きな部材を精密に組む方法などが見られます。キュロスの征服によってリュディアやバビロニアをはじめとする地域が支配下に入ると、各地で知られていた建設方法を王の施設に採用できる条件が整いました。宮殿の柱間を大きく取り、庭のなかで建物を独立させる設計は、後の巨大なペルセポリスの人工壇上の宮殿とは別の段階に位置します。

この遺跡の王宮群をキュロスの生前にすべて完成した建物とみるか、死後に手が加わった部分をどこまで認めるかには検討の余地があります。複数の時期に作られた遺構と後世の修理が重なっているためです。『ペルシア式』と一言で呼ばれる建築にも、材料を選ぶ段階、柱を設計する段階、庭を整える段階で、異なる地域の経験が関わっていました。(参照:ユネスコ世界遺産センター|パサルガダエ/メトロポリタン美術館|アケメネス朝ペルシア帝国)

ダレイオス1世の即位を刻む|ビストゥンの岩壁

岩壁に立つ王と捕らえられた人々

紀元前522年に王位に就いたダレイオス1世は、その正統性を西イランのビストゥンの崖に刻ませました。紀元前521年頃に制作が始まった岩壁の大きな浮彫では、王が左手に弓を持ち、足元に倒れた人物の胸を踏んでいます。後ろには弓と槍を持つ従者が立ち、王の前方には手を縛られた人物が一列に並びます。彼らは王位を争った敵対者として碑文に名が挙げられる人々です。

人物の上には翼を広げた円盤状の図像が彫られ、アフラ・マズダーと結び付けて解釈されています。王の勝利を示す図像を崖の高い場所に置き、長大な説明文と一体にした構成です。ユネスコの記録では彫刻と文字を含む範囲は高さ約15メートル、幅約25メートルに及びます。人々が近づいて細部を見る室内装飾ではなく、街道沿いの山体そのものを王の記念碑に変えた作品です。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ビストゥン/イラニカ百科事典|ビストゥンのダレイオス碑文)

古代ペルシア語・エラム語・バビロニア語|誰に語る碑文か

ビストゥンの文字は古代ペルシア語、エラム語、バビロニア語の三つで刻まれています。碑文はダレイオスの家系、王位をめぐる争い、反乱の鎮圧を王の視点から語り、正しい支配と虚偽の区別を繰り返し強調します。文字の順序と彫刻の配置は製作過程で変更された箇所があり、文字の一群が別の文章を避けて刻まれた場所も見つかっています。古代の彫刻家が一度で完成形を刻んだのではなく、記録を加えながら作業した石面です。

この碑文の『反乱者』という呼び名は、ダレイオスが自分の勝利を説明した言葉です。実際の政治的対立を検討する際には、勝者が作らせた文章という史料の性格を踏まえます。2017年のエラム語版校訂研究は、傷んだ文字と既知の写本を再検討し、どの版にどの表現が残るかを整理しました。19世紀に三言語の読み解きが進んだことによって、楔形文字の解読に大きな進展がありましたが、彫刻が述べる政治的評価をそのまま歴史的事実へ置き換える作業とは別です。(参照:CDLI(2017年)|ビストゥン碑文エラム語版の校訂研究/ユネスコ世界遺産センター|ビストゥン)

王の肖像はどこまで個人を表すのか

ビストゥンでダレイオスは、長い衣をまとい、整えた髭と髪を持つ姿で描かれます。顔の皺や表情から実在の王の容貌を読み取るよりも、王の持つ弓、敵を踏む足、左右に従う人物という関係が主題を伝えます。メソポタミアには、勝者と捕虜を一つの画面に収める浮彫の伝統があり、ペルシアの宮廷はその表現を王の即位を語るために用いました。

この図像はのちのペルセポリスで反復される『王が人々を整然と迎える』場面とは印象が異なります。ビストゥンでは敵対者が縛られ、王が彼らを制圧します。ペルセポリスでは儀礼的な列に並ぶ人々が王へ近づきます。どちらも現場の出来事を写真のように再現するためではなく、どのような秩序を王が望んだかを石に固定する表現でした。(参照:イラニカ百科事典|ビストゥンのダレイオス碑文/イラニカ百科事典|アパダーナの年代と図像の研究史)

スサの王宮|彩釉煉瓦と遠方から来た材料

アパダーナの広間|36本の柱と三方の柱廊

エラム地方の古都スサでは、ダレイオス1世が王宮を大きく整備しました。北側のアパダーナと呼ばれる建物には、一辺約58メートルの中央広間があり、その中に六列ずつ、合計36本の柱が立ちました。北・東・西の三方には、それぞれ二列六本の柱を持つ柱廊が付き、四隅にも小部屋が設けられていました。建物全体は一辺約109メートルの範囲に広がります。

石柱の下には深く掘った穴へ砂利を詰めた基礎があり、壁は煉瓦で築かれました。石柱と煉瓦壁を組み合わせる方法は、石だけで巨大な建物を作る方式とは異なります。スサの宮殿はのちのアルタクセルクセス2世の時代にも再建されているので、現存する柱や基礎を一括して紀元前6世紀末の完成時の姿とみなせません。スサの柱広間はペルセポリスの同名の広間と似た平面を持ち、二つの王宮の設計を結び付けて調べられています。(参照:イラニカ百科事典|スサのアケメネス朝期/イラニカ百科事典|アパダーナの年代と図像の研究史)

『弓兵のフリーズ』|色を焼き付けた壁面

スサの宮殿で使われた『弓兵のフリーズ』は、色のついた釉薬を掛けた煉瓦を並べた壁面装飾です。ルーヴル美術館のパネルAOD 487には、長い衣を着て槍と弓を持つ五人が同じ方向へ並びます。巻き髪と髭、髪飾り、靴、衣の市松模様や小花が、青、白、黄色、茶色などの色面として組み合わされています。身体は横向きで、正面を向く脚と規則的な歩幅が列の連続を生みます。

このパネルは高さ475センチ、幅375センチ、厚さ17センチ。型で成形した珪質の煉瓦に釉薬と多彩色を施したものです。1884〜1886年にマルセル・デュラフォワらの調査によってスサのダレイオス宮殿から発見され、現在はルーヴル美術館に収蔵されています。煉瓦の各片を組み合わせて人物像を作るため、石に線を彫り出したペルセポリスの浮彫と違い、着衣の文様を大きな色の区画で表現できます。展示されている面には発掘後の組み直しと保存作業も関わっています。(参照:ルーヴル美術館|スサ出土『弓兵のフリーズ』AOD 487)

獅子と有翼獣の煉瓦装飾|宮殿を覆った色彩

スサの壁面には弓兵の列のほか、獅子、翼を持つ雄牛、グリフィン、向き合うスフィンクスなどの図像が配置されました。ルーヴル美術館の『獅子のフリーズ』AOD 489 Bは、高さ360センチ、幅368センチの大きなパネルで、一頭半の獅子が左へ歩いています。色の付いた珪質の煉瓦を型で成形し、動物の外形と身体の模様を連続させた壁面装飾です。1884〜1886年にスサの宮殿の東の中庭から発見されました。

多彩色の煉瓦が残るのは、表面を焼いて固めた素材が崩れずに出土した部分に限られます。現在の石造遺跡がほぼ灰色に見えても、当時の王宮が同じ無彩色だったとは限りません。スサの煉瓦パネルは、ペルシア王の建築の一部に青や黄を含む色彩が広く用いられたことを、残存する素材の上で確かめられる例です。(参照:ルーヴル美術館|スサ出土の向き合うスフィンクスの煉瓦装飾/ルーヴル美術館|スサ出土『獅子のフリーズ』AOD 489 B/イラニカ百科事典|アパダーナの年代と図像の研究史)

造営碑文が記す材料の産地と職人

スサの造営について、ダレイオス1世の碑文「DSf」は具体的な調達先を列挙しています。レバノンの杉材をアッシリア人がバビロンまで運び、そこからカリア人とイオニア人がスサに運んだこと、金はリュディアとバクトリアから、青金石と紅玉髄はソグディアナから、銀と黒檀はエジプトから来たことが記されます。建築に使われた石柱はエラムから供給されたといい、遠方の産物を集めて一つの宮殿へ運ぶ工程が文章になっています。

同じ碑文には、土台を掘り煉瓦を作ったバビロニア人、石を加工したイオニア人とリュディア人、金を加工したメディア人とエジプト人など、作業に関わった集団も登場します。これは王が自らの支配の広がりを示そうとした公式文章であり、すべての職人の個人名や工期を記録した帳簿ではありません。それでも、どの材料をどこから持ち寄り、どの技能を各地の人々に担わせたと王が述べたのかを直接読み取れます。(参照:ダレイオス1世のスサ造営碑文(DSf)|原文・翻訳/イラニカ百科事典|スサのアケメネス朝期)

エジプトで彫られたダレイオス像|石と文字の旅

スサの門の付近からは、頭部を欠いたダレイオス1世の大きな石像が見つかっています。像の衣はペルシア風の長い服ですが、片脚を前に出し片腕を胸に曲げる立ち方はエジプト彫像の方式です。石材は紅海方面のワディ・ハンママート産と判定され、エジプトで作られた後、スサへ運ばれたと考えられています。残存部分はテヘランのイラン国立博物館にあります。

衣には楔形文字とエジプトの聖刻文字による文章が刻まれ、台座には上エジプトと下エジプトを結び付ける記号や、服装の異なる国々の人物が並びます。碑文は『ペルシアがエジプトを領有する』という王の主張を彫像として示します。造形はエジプト式の身体の置き方とペルシアの王服を合わせており、単純に『エジプト作品』『ペルシア作品』のどちらか一方の技術へ分けられない実例です。(参照:イラニカ百科事典|エジプトで製作されたダレイオス石像とスサの宮殿)

ペルセポリスの大宮殿|人工の高台と列柱

紀元前518年頃からの建設|山裾の巨大な壇

現在のイラン南西部に残るペルセポリスでは、ダレイオス1世が紀元前518年頃から山裾の地形を利用して広大な壇を築かせました。自然の岩を削った場所に土や石を積み足して平坦な敷地を作り、その上へ宮殿と広間を次々に配置しています。ユネスコが記す宮殿地区の広さは約13ヘクタール。ダレイオスの時代に始まった建設は、クセルクセス1世、アルタクセルクセス1世らの治世にも続きました。

壇への入口は幅広い二重の階段で、長い衣を着た人々や物を運ぶ人々が行き交える緩やかな段になっています。上りきると、巨大な門、柱広間、比較的小さな宮殿、倉庫に相当する区画が連なります。ほぼ同時期の一つの建築家が全体を一度で完成させたものではなく、建設・付け足し・改修によって敷地の輪郭が変わりました。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ペルセポリス/イラニカ百科事典|ペルセポリスの建築・浮彫・発掘史)

万国の門と大広間|獣が守る通路

壇の北西側にはクセルクセス1世の時代の『万国の門』があり、巨大な人面有翼の雄牛が入口を挟むように配置されています。大きな翼、巻いた髭、四つ脚を備えた獣は、アッシリアの宮殿門に立った守護像の形式を受け継ぎながら、ペルセポリスの石の柱間に合わせた彫刻になっています。通路を横切る人は、建物の壁だけでなく、その両側に突き出す獣の量感を間近に見ることになります。

近くの『アパダーナ』は王の謁見や集会に用いられたとみられる大きな広間です。中央室に36本の柱を六列六本で配置し、三方に柱廊を持つ平面はスサのアパダーナと共通しています。高い柱の上に木の梁を渡し、中央の広い床面を少数の支持点で覆う設計です。『アパダーナ』の名から一つの儀式に用途を限定するのではなく、王の接見や宮廷の集まりなどがどのように行われたかを平面と文書から検討します。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ペルセポリス/メトロポリタン美術館(2017年)|エルンスト・ヘルツフェルトとペルセポリス発掘/イラニカ百科事典|アパダーナの年代と図像の研究史)

雄牛の柱頭|石柱の上で木梁を支える

アパダーナの柱は高さが約20メートルに達し、細長い柱身の上には背中合わせに座る二頭の雄牛の前半身を彫った柱頭が据えられました。二つの動物の間に梁を載せる部分があり、雄牛の胴は建物の荷重を受ける構造材でもあります。下方には植物の葉に似た彫刻や渦巻き形の部材が組み合わされ、柱は単純な円筒ではなく、下から上へ異なる形の石を重ねて組み立てられました。

メトロポリタン美術館が収蔵する雄牛の頭部(47.100.83)は、石灰岩を彫った柱頭の一部です。後世に近隣のイスタフルへ移して再利用され、ヘルツフェルトの調査で見つかりました。出土地がイスタフルであることと、部材が本来ペルセポリスの宮殿に属したという判断は、区別して説明する必要があります。同じ宮殿の柱頭には雄牛以外に獅子や想像上の獣の姿も使われました。(参照:メトロポリタン美術館|柱頭に使われた雄牛の頭部/メトロポリタン美術館(2017年)|エルンスト・ヘルツフェルトとペルセポリス発掘/ユネスコ世界遺産センター|ペルセポリス)

タチャラと百柱の間|小さな王宮から大規模広間まで

ダレイオスの宮殿『タチャラ』では、玄関や階段、入口の脇に人物や王の浮彫が刻まれました。衣を着た人物が壺を持って階段を上る姿や、頭上に日除けを差しかけられた王の姿は、部屋へ入る人の視線に合わせて配置されています。大宮殿の内部にも、壁全体を覆う大型の連続図像だけでなく、扉の脇の狭い石面に一人の人物を彫る使い方がありました。

一方、『百柱の間』と呼ばれる広間では柱が十列十本に並び、多数の屋根材を支えていました。大きな正方形の室内に等間隔の柱が連なると、入口から反対側の壁まで視線は柱列に沿って進みます。建物には複数の王の時代にまたがる施工が認められ、柱が倒れた場所や木材が焼失した部分から、当初の屋根の姿が調べられています。(参照:イラニカ百科事典|ペルセポリスの建築・浮彫・発掘史/ユネスコ世界遺産センター|ペルセポリス/メトロポリタン美術館(2017年)|エルンスト・ヘルツフェルトとペルセポリス発掘)

従者の階段浮彫|盆に載せた革袋と手をつなぐ案内役

メトロポリタン美術館の石灰岩浮彫(34.158、高さ89センチ、幅64センチ)には、階段を上るペルシア人が彫られています。男は大きな革袋らしいものを盆に載せて持ち、前方の段には蓋付き容器を持つメディア人が立ちます。背中の位置や二人の歩幅に段差が反映され、宮廷へ飲食物を運ぶ動作を狭い石面に収めています。収蔵館は革袋を水か酒の容器と考え、紀元前358〜338年頃、アルタクセルクセス3世期の作品として、ダレイオス宮殿の修復部か宮殿Hの装飾に由来すると推定しています。

同館の別の浮彫(39.133、高さ74.5センチ)は紀元前405〜359年頃の制作とされ、丸い帽子と腰帯付きの衣を着たメディア人が、ペルシア人の案内役と手をつないで歩く姿を表します。もとはダレイオス宮殿西側の階段に属していたと考えられています。使節の大集団と違い、飲食物を運ぶ二人や隣り合う案内役は、人が通る階段そのものを舞台にして短い動作が組み立てられています。石片が宮殿から切り離されても、持ち物と衣装、段の形から元の建築との関係を調べられます。(参照:メトロポリタン美術館|飲食物を運ぶ従者の浮彫/メトロポリタン美術館|ペルセポリス階段のメディア人浮彫)

階段の浮彫|王へ進む行列の細部

23組の使節|帽子、衣、髪形を彫り分ける

アパダーナの東・北階段には、異なる地域の人々が品物や動物を携える行列が刻まれました。東階段の使節像には23組の集団があり、各組は服装の似た人物でまとまり、その先頭にはペルシア風の衣を着た案内役が立ちます。案内役が使節の一人と手をつなぐ場面もあり、武器で追い立てる図像ではなく、手を添えて導く動作になっています。人物の間には植物や空間の境目を示す彫刻が置かれ、行列は段ごとに整理されています。

先の尖った帽子、長い外套、丈の短い服、髪や髭の形といった違いが、どの地域から来た集団かを示す目印として使われています。現在『リュディア人』『メディア人』『インド方面の使節』などの名前で呼ばれる組がありますが、アパダーナのすべての集団の頭上に民族名が刻まれているわけではありません。王墓の人物銘文や服装との比較から同定されるため、特定しにくい組については研究者間で名称が異なります。(参照:オックスフォード大学|アパダーナ東階段の23組の使節/イラニカ百科事典|アパダーナの年代と図像の研究史)

容器と動物|使節が持つものの形

行列の人々は金属製と思われる浅い鉢、深い容器、柄のある酒器、織物らしい布などを携えます。腕輪のような曲がった装身具を持つ人物もあり、曲がった部分の先端は動物の頭として彫られています。こうした持ち物は、後に残された実際の金製腕輪や銀器と形を比べることができます。図像には牡牛、羊、馬などの動物を連れて歩く集団もあります。動物の角の向き、手綱の持ち方、歩く脚の交互の位置まで彫り分けられています。

これらを一律に『税として徴収された品々』と呼ぶ解釈には慎重さが求められます。貢納、王への贈答、宮廷の祝宴を表すなど、行列の意味は複数の角度から論じられてきました。浮彫で確認できるのは、各地の人々が王のいる場所へ向けて進み、地域を区別する衣装と品物を示していることです。実際に何月何日にこの姿の行列が開かれたかを、石の画像だけで特定することはできません。(参照:オックスフォード大学|アパダーナ東階段の23組の使節/マーガレット・クール・ルート(1985年)|アパダーナとパルテノンの行列浮彫/大英博物館|オクサス宝物のグリフィン頭飾りの金製腕輪)

王の謁見図と跡継ぎ|中心の画面は移された

アパダーナの階段の中央部には、王の謁見を示す石板がかつて組み込まれていました。座った王に臣下が近づき、背後には王位の継承者とみられる人物が立つ構図です。中央図は建築の改変に伴って移され、いま『宝物庫の浮彫』と呼ばれている石板がこれに当たると考えられています。そのため今日の階段で見える中心部の配置が、最初からずっと変わらなかったわけではありません。

王と継承者の二人を並べた姿は、反乱者を制圧するビストゥンの王像とは別の政治的なメッセージを持ちます。王がすでに定まった秩序の中で人々を迎え、後継者が近くにいる構成です。イラニカ百科事典のアパダーナ研究は、浮彫の計画がダレイオスの治世に始まり、実際の彫刻が息子クセルクセスの時代に進んだ可能性を論じています。階段のすべての石面を一つの制作年に置くことはできません。(参照:イラニカ百科事典|アパダーナの年代と図像の研究史/イラニカ百科事典|ペルセポリスの建築・浮彫・発掘史)

獅子が雄牛を襲う場面|図像の意味をめぐって

アパダーナ東階段の三角形の石面には、獅子が雄牛の背へ跳びかかり、爪で身体を押さえ、口を開けて噛みつく場面が刻まれています。二頭の身体は強く重なり、雄牛の頭が外へ向けてねじれます。この獣同士の闘いは、それ以前の西アジアでも繰り返された図像です。階段の中央で植物文様や兵士の列と隣り合う位置にあるため、単なる動物観察画として置かれたとは考えにくい作品です。

解釈には王権の力、敵対する勢力、季節の移行などの説があります。獅子と牡牛を星座と結び付け、春分や新年祭を表すとする説明もよく知られますが、当時の碑文がこの浮彫を『新年』と呼んでいるわけではありません。2021年に発表された動物図像の研究も複数の解釈を整理し、ほかの獅子表現との関連を論じています。特定の暦日と結び付けるには、図像だけでなく儀礼を記した文書が必要です。(参照:『Arts』誌(2021年)|アケメネス朝の獅子・動物図像研究/イラニカ百科事典|ペルセポリスの建築・浮彫・発掘史)

『新年祭の写し』か『理想の帝国像』か|研究の移り変わり

20世紀の研究では、行列を春の新年祭で各地から献上品を運ぶ儀礼の写しとみる説明が広まりました。ロマン・ギルシュマンらが1950年代に展開した新年祭との結び付けは、儀礼用の広間と各地の使節の並びをまとめて説明できるように見えました。現在もこの祭礼との関連を検討する研究はありますが、宮殿の用途を年一回の特定行事に固定する文書証拠は限られています。

マーガレット・クール・ルートは1985年の論文で、アパダーナの行列を強制的な貢納の場面とする伝統的な見方を再検討しました。彼女が重視したのは、使節の服装と贈り物が整然と表され、異なる人々の関係が調和した社会秩序として構成されている点です。これは行列が実際に一度も行われなかったと主張するものではなく、石の浮彫が特定の日の出来事を記録する以上に、王が理想とする支配の姿を表したという読みです。両者の違いは、『何が描かれているか』と『その絵がどの場面を記録したか』を分けるところにあります。(参照:マーガレット・クール・ルート(1985年)|アパダーナとパルテノンの行列浮彫/イラニカ百科事典|アパダーナの年代と図像の研究史)

ナクシェ・ロスタムの王墓|崖に彫る宮殿

十字形の正面と30人の台座を支える人物

ペルセポリスに近いナクシェ・ロスタムの崖には、ダレイオス1世の墓をはじめとする四つの王墓が刻まれています。ダレイオスの墓は、崖の表面を大きな十字形に削り、中段に柱と入口を持つ宮殿の正面に似た形を設け、その上へ王の宗教儀礼を彫った造りです。入口から内部へ進むと墓室と遺体を安置するためのくぼみがあり、外側の華やかな図像とは対照的に室内は簡素です。

最上部では王が段の上に立ち、祭壇の火に向かって片手を上げています。王の足元の台は、衣装の異なる30人が両手で支える形になっています。彼らは一人ずつの名前を示す銘文と結び付けられ、ペルシア、メディア、エジプト、イオニアなど帝国の諸地域を表しています。人物の列は階段の使節行列と異なり、王が立つ場所そのものを下から支える構成です。(参照:イラニカ百科事典|ナクシェ・ロスタムの王墓/オックスフォード大学|ナクシェ・ロスタムのダレイオス王墓)

墓の碑文と図像|実在の宮廷場面とは異なる構成

ダレイオスの墓の碑文は、王の支配する国々を列挙するとともに、石に彫られた王座を担ぐ人物を見るよう促します。文章が読者に図像を見ることを命じ、図像は文章に挙がる国々を衣装の違う人間の姿へ置き換えます。王の座を30人が支える場面は実際の葬儀の一瞬ではなく、複数の地域が王の下に集まるという政治的な関係を視覚化したものです。

十字形の墓の外観は後継の王墓にも反復されますが、内部の部屋数や損傷、追加された別時代の彫刻の有無は異なります。後のサーサーン朝もこの崖に王の浮彫を残しました。現在一続きに見える岩壁の画像をすべて紀元前5〜4世紀のアケメネス朝作品とみなさないためには、碑文の文字、制作年代、彫刻の重なりを個々に確認する必要があります。(参照:イラニカ百科事典|ナクシェ・ロスタムの王墓/オックスフォード大学|ナクシェ・ロスタムのダレイオス王墓)

金銀の器|飲む道具に彫られた動物

獅子形の金杯|上部の容器と獣の胸

メトロポリタン美術館の金製『獅子形杯』(54.3.3)は、紀元前6〜5世紀頃のアケメネス朝金工とされる、高さ17センチの器です。上部には口の広い容器の部分があり、下方は前脚を折った獅子に似た想像上の獣の前半身へと変わります。獣の顔と前脚は立体的に作られ、器の上部には細い金線を44列に巻いた帯が付いています。所蔵館の解説によれば、金線の全長は約41.5メートル。複数の部材を継ぎ目が目立たないようにろう付けした技術が確認されています。

こうした獣頭付きの角杯は、後にリュトンと呼ばれる酒器の伝統につながります。王侯の饗宴で使われた可能性は高いものの、この個体には王名と使用場所を示す発掘記録が付いていません。上に開いた杯と下の獣の形は観察できますが、誰がどの行事で口をつけたかを作品だけから復元することはできません。(参照:メトロポリタン美術館|金製『獅子形杯』54.3.3/メトロポリタン美術館|アケメネス朝ペルシア帝国)

山羊の銀製リュトン|角、髭、翼の彫り分け

紀元前5世紀頃の銀製リュトン(メトロポリタン美術館1989.281.30a、b)は、高さ約20.65センチ。上半分は横方向の細い筋を並べた角形の器で、下には膝を折った山羊のような獣の前半身があります。大きく曲がる角、尖った耳、細い顎髭、胸に重なる巻き毛が立体的に作られ、胴の側面には小さな羽根らしい文様も刻まれています。口縁の下には蓮華と植物の文様が帯状に続いています。

リュトンは下部に注ぎ口があり、酒や別の液体を流して使う器です。博物館の収蔵記録は、この個体の角形の杯と獣の部分が現在は透明樹脂製の環で接合されており、もともと同一作品だったかは確実でないと記しています。古代の接合を確認できない部分は、展示された一体の姿のまま制作工程を断定できません。獣の身体の形は、ザグロス山地に生息する山羊の仲間と結び付けて説明されています。(参照:メトロポリタン美術館|山羊の前半身を表す銀製リュトン)

花弁形の銀鉢|一枚の金属板を打ち起こす

アケメネス朝の宮廷では、中央に丸い膨らみを持つ浅い金属鉢が用いられました。メトロポリタン美術館の銀鉢(55.122.1)は紀元前5〜4世紀の作で、直径28.58センチ、高さ5.08センチ。中央の膨らみを囲んで16個のくぼみと、花弁のようにふくらむ部分が放射状に並びます。縁は外側へ返され、側面は緩い角度で開いています。

器は一枚の銀板を叩いて持ち上げ、反対側を押し下げる加工で形作り、細かな線は後から鏨で加えました。中央の突起は、器の裏側から指で支えて持つ役割もありました。飲食器の底に装飾的な小円を据えるだけではなく、使うときの手の位置まで考えた形です。古代ギリシア語では『フィアレ』とも呼ばれますが、王宮の銀器は西アジアの金属加工の伝統の中で展開しました。(参照:メトロポリタン美術館|放射状文様の銀製浅鉢55.122.1)

王名を刻んだ銀鉢|誰の食卓で使われたか

メトロポリタン美術館の別の銀鉢(47.100.84)は、内側の縁に古代ペルシア語の楔形文字が刻まれています。そこにはアルタクセルクセス1世の名と、クセルクセス、ダレイオスへさかのぼる王家の系譜が記され、『この王の家で作られた』と述べられます。直径29.2センチ、高さ4.6センチで、大きく開く縁と中央の突起を持ち、その周りに14個の舌形のくぼみと花弁形の盛り上がりがあります。王の名を入れることで、似た形の無銘銀鉢とは製作環境を結び付ける証拠が異なります。

博物館によれば、同じ銘文を持つほぼ同形の銀鉢が四点知られています。王の食卓での使用や、王から招待客へ贈られた可能性が検討されていますが、現存する鉢に受け取った人の名前まで刻まれているわけではありません。文字は宮廷との結び付きを示し、実際に誰が口をつけたかについては、王の饗宴の慣行を示すほかの資料と合わせて解釈されています。(参照:メトロポリタン美術館|アルタクセルクセス1世銘文入りの銀鉢)

オクサス宝物|中央アジアの金工と出土の問題

グリフィン頭の金製腕輪|失われた象嵌

中央アジアのアム・ダリヤ川流域と結び付けられる『オクサス宝物』には、金銀の装身具、薄い金板、容器、小像、戦車の模型などが含まれます。その一つ、大英博物館所蔵の金製腕輪(1897,1231.116)は、完全な輪を閉じず両端が向かい合う形で、端には角と翼を備えたグリフィンに似た獣の頭部があります。獣の前半身は立体的に作り、後脚と腰は低い浮彫として輪の側へ伸ばしています。

翼の羽根や胸の毛は細かな金属の仕切りをはんだ付けした小区画で表され、元は青金石を含む色石などが嵌められていました。現在ほとんどの石は失われています。頭、耳、角、翼は別に作って取り付けた部分があり、獣の細部と腕輪の強度を異なる工程で確保しています。似た対の腕輪はヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に属し、大英博物館へ長期貸与されています。(参照:大英博物館|オクサス宝物のグリフィン頭飾りの金製腕輪)

四頭立て戦車の金模型|顕微鏡で調べた接合

同じ宝物群の金製戦車模型(大英博物館1897,1231.7、長さ約19.5センチ)では、四頭の馬が横に並んで車を引き、車上には御者と、その後方に腰掛ける乗客が表されています。車体は後方が開く形で、車輪の輻、馬の脚、手綱に相当する細い部材まで小さく作られています。前面にはエジプトで知られるベス神の頭部を付け、車輪の外周には小さな金の粒を規則的に並べています。

大英博物館のアウデ・モンジャッティ、ナイジェル・ミークス、セントジョン・シンプソンは2010年、X線撮影と顕微鏡観察、金属成分の分析によって製作工程を調べました。人と馬の胴は薄い金板を打ち出して中空に作り、車体は一枚の金板を折り曲げています。車輪の金粒や部材の一部はろう付け、座席は鋲によって固定されています。馬の一頭には古代の修理の痕跡も見つかりました。内部に近い部分の分析値は金約88%、銀約5%、銅約7%で、表面だけを測ると金が多く見える原因も検討されています。金の産地は川砂から採る自然金の可能性が高いと論じられましたが、制作した工房や注文主までは判明していません。(参照:大英博物館|オクサス宝物の金製四頭立て戦車模型/モンジャッティ、ミークス、シンプソン(2010年)|金製戦車模型の材料・接合法分析)

発見場所と宝物の一体性|調査記録の限界

オクサス宝物は19世紀後半、現在のタジキスタン南部のアム・ダリヤ川付近から現れ、交易を経て博物館へ集められました。統制された一回の考古学発掘で出土層と各品の位置が記録された資料群ではありません。大英博物館の金製腕輪や模型をアケメネス朝の金属工芸とみる判断には、造形の特徴と比較資料が用いられています。伝えられる『宝物』の範囲に年代の異なる貨幣などが含まれるため、すべてが同時期に一か所で埋められたとも言い切れません。

フランツ・グルネは2023年の研究で、発見地と伝えられるタフティ・クワドと、その上流にあるタフティ・サンギンの神殿遺跡を比較しました。金板を含む宝物が、失われたアケメネス朝期の聖所に由来した可能性を支持しつつ、現存する神殿自体は後の時代に築かれたことを区別しています。発見記録が十分でないため、神殿への奉納品だったのか、別の場所の財宝だったのかについては研究上の見解に幅があります。(参照:オックスフォード古典学事典|オクサス宝物の出土事情と年代/フランツ・グルネ(2023年)|オクサス宝物・奉納金板と出土地の検討)

薄い奉納金板|武器と衣服を線で刻む

オクサス宝物には、人物の姿を薄い金板に打ち出した小さな板も含まれます。長い衣を着て棒や武器を持つ人物が、正面または横向きで表され、輪郭を浮き上がらせた後に細い線で衣の縁や腕を刻んだ例があります。厚い金製腕輪の立体的な獣頭とは違い、少量の薄い金を使って一人の人物を表せる方法です。

グルネは2023年、オクサスの金板約50点とアフガニスタンのミール・ザカー出土とされる金板を比較し、服装、手にする物、神々の図像から奉納の性格を検討しました。人物が誰を表すかは一律に決められず、金板の一部の真贋や所属をめぐる議論もあります。似た素材であっても、武具、衣の形、人物の向きという個々の図像を確かめながら、宗教的な行為との関係が研究されています。(参照:大英博物館|オクサス宝物の人物像を刻んだ金製奉納板/フランツ・グルネ(2023年)|オクサス宝物・奉納金板と出土地の検討)

円筒印章と粘土板|宮廷の仕事を記録する

獣と向き合う王|長さ3センチ足らずの石

アケメネス朝の円筒印章は、柔らかい粘土の上で小さな円筒を転がし、石の側面に彫り込んだ画像を連続した帯として写す道具です。メトロポリタン美術館の印章(36.106.2)は、碧玉と赤鉄鉱からなる高さ2.9センチほどの小品。王冠を着けた男が左右の獅子グリフィンを両手で押さえる図像が彫られ、近代の押印によって、平らな面へ展開した全体の絵を見ることができます。

この印章にはエジプトの聖刻文字でトト神の守護を祈る文章も刻まれています。ペルシア風の王、古くから西アジアにある獣との格闘、エジプトの文字が、一つの小石に同居しています。同館の別の玉髄製円筒印章(1999.325.114)には、敗れた敵を王が槍で突く場面が彫られています。印章は本人の身分や権限を示すために使われましたが、個々の印章を誰が持ち、どの行政文書に押したかを確かめるには対応する粘土の印影が必要です。(参照:メトロポリタン美術館|二頭の獅子グリフィンを押さえる王の円筒印章/メトロポリタン美術館|敵を突く王を彫った円筒印章)

城砦文書と印影|穀物・酒・移動を管理する

1933年、ペルセポリスの城壁につながる小部屋から大量の粘土板と破片が見つかりました。シカゴ大学が調査を担った『城砦文書』は、主にエラム語で書かれ、紀元前509〜493年頃の地域の物資や人の移動を記録しています。食糧や酒などをどこからどこへ送り、誰がどれだけ受け取ったかを記した内容で、石の王の浮彫とは異なる規模の社会活動を伝えます。

文書には印章を押した粘土も含まれ、同じ人物や組織に関わる印影を複数の文書で比較できます。リチャード・ハロックが1969年に刊行した粘土板の研究は、物資支給が一定の基準に従って管理されていたことを示しました。ここで出てくる労働者や旅行者は王宮で描かれた理想化された行列の人物とは別の資料によって知られます。装飾的な印章図像と日々の行政の仕組みが、一つの遺跡で結び付きます。(参照:南カリフォルニア大学|ペルセポリス城砦文書発見の記録/シカゴ大学古代文化研究所|ハロック『ペルセポリス城砦文書』(1969年))

財務文書に残る職人への支払い

ペルセポリスでは城砦文書と別に、宝物庫からの支払いを記した粘土板も出土しています。これらには労働者や職人へ銀を渡した記録があり、穀物や羊、酒などで定められた給付の全部または一部を、銀に置き換えた例が読み取れます。宮殿で働く人々への支給が現物と銀の両方で処理されたことを示す資料です。

王宮の建造碑文は各地から集めた職人を王の権力の表現として挙げ、財務文書は労働に対して支払われた具体的な数量を記します。両者を区別して読むと、『多くの民族が王宮を作った』という公式の主張だけでなく、現場の人々が物資や銀を受け取る仕組みを確かめられます。文書の残る場所と年代には偏りがあり、帝国全域のすべての工房に同一の制度があったと一般化することはできません。(参照:イラニカ百科事典|ペルセポリス財務文書と銀による支払い/ダレイオス1世のスサ造営碑文(DSf)|原文・翻訳)

発掘と研究|遺構の姿が変わって見える理由

1930年代の調査|階段、柱頭、粘土板の記録

ペルセポリスは古代から人々に知られていましたが、遺跡全体を測り、建物の前後関係を発掘で確かめる調査は20世紀に本格化しました。エルンスト・ヘルツフェルトは1920年代に遺構を図面に記録し、1931年からシカゴ大学東洋研究所の発掘を率いました。調査隊は石の階段や柱頭を記録し、地下の排水路や城砦文書など、地上の浮彫を見るだけでは分からない施設を調べています。

ヘルツフェルトが1934年に調査を離れた後はエーリヒ・シュミットが指揮を引き継ぎました。石の浮彫は古くから知られていても、どの段階で作られ、どの石板が移されたかという研究は、発掘写真や出土位置の記録によって進みました。博物館へ移された部材には、たとえば雄牛柱頭のように古代の建物から後世の別の場所へ転用されたものもあります。現在の展示場所と当初の建築上の位置は、必ずしも一致しません。(参照:スミソニアン国立アジア美術館|ペルセポリス初期発掘と調査写真/メトロポリタン美術館(2017年)|エルンスト・ヘルツフェルトとペルセポリス発掘)

色、儀礼、制作年|確かなことと未解決のこと

スサの彩釉煉瓦は元の色と成形法を伝え、ペルセポリスの石灰岩浮彫には衣のひだや髭の線が残ります。石の表面に残った塗料の痕跡や、発掘で見つかる粉状の顔料は、彫刻が現在のような石の地色だけで見られていたのかを検討する材料です。建築の部材が移動したかどうかは、継ぎ目や以前の固定穴、古い写真を照合して調べられています。

アパダーナの行列が実際のどの宮廷行事に対応するか、オクサス宝物がどの施設に集められたか、個々の杯や印章を誰が所有したかはまだ確定していません。研究者たちは、王の碑文が語る理想像、石に彫られた衣服や品物、支払いを記した粘土板、金属製品の加工痕を別々の証拠として照合しています。これにより、王権を示す美術と、それを作り使った人々の仕事がどこでつながるかを具体的に検討できます。(参照:メトロポリタン美術館(2017年)|エルンスト・ヘルツフェルトとペルセポリス発掘/マーガレット・クール・ルート(1985年)|アパダーナとパルテノンの行列浮彫/フランツ・グルネ(2023年)|オクサス宝物・奉納金板と出土地の検討)

略年表

  • 紀元前550年頃|キュロス2世が勢力を拡大し、アケメネス朝の帝国が成立する
  • 紀元前550〜530年頃|キュロス2世の時代にパサルガダエの宮殿・庭園の建設が進む
  • 紀元前539年|キュロス2世がバビロンを征服する
  • 紀元前522年|ダレイオス1世が即位する
  • 紀元前521年頃|ビストゥンの王の勝利を表す岩壁浮彫と三言語碑文の制作が始まる
  • 紀元前520〜500年頃|ダレイオス1世の治世にスサの宮殿建設と彩釉煉瓦装飾が進む
  • 紀元前518年頃|ダレイオス1世がペルセポリスの巨大な宮殿地区の造営を始める
  • 紀元前510〜490年頃|ダレイオスの時代にスサの多地域の資材・職人を記す造営碑文が作られる
  • 紀元前509〜493年頃|ペルセポリス城砦文書に物資の移動や給付が記録される
  • 紀元前500年頃|ペルセポリスのアパダーナ造営・基礎の整備が進む
  • 紀元前500〜486年頃|ナクシェ・ロスタムにダレイオス1世の岩窟墓が設けられる
  • 紀元前486〜465年|クセルクセス1世の治世に万国の門やアパダーナの装飾が整えられる
  • 紀元前465〜424年|アルタクセルクセス1世の時代に王名を記した銀製浅鉢が作られる
  • 紀元前405〜359年頃|ペルセポリスの王宮階段に人物行列の浮彫が追加される
  • 紀元前359〜338年頃|アルタクセルクセス3世の治世にもペルセポリスの宮殿装飾が続く
  • 紀元前330年|アレクサンドロス軍がペルセポリスを占領し、宮殿の一部が焼失する

まとめ

アケメネス朝の宮殿建築では、パサルガダエの庭と離れた柱広間、スサの煉瓦壁と36本の柱を持つアパダーナ、ペルセポリスの人工壇と高い石柱が、それぞれ異なる条件で作られました。スサの造営碑文にはレバノンの杉材、リュディアとバクトリアの金、エラムの石材に加え、材料を運び加工した人々が書き分けられています。彩釉煉瓦や大型の石造柱頭を見ると、同じ王家の建物でも素材と表面の仕上げが大きく異なっていたことが分かります。

ビストゥンの岩壁浮彫は縛られた敵を王が制圧する姿を示し、ペルセポリスの階段は服装と品物の異なる人々が王の場所へ進む行列を刻みました。ナクシェ・ロスタムの王墓では、諸国の人物が王の台座を支えます。王権を表す画像の構図は一つではなく、戦勝、接見、諸地域の支えという異なる関係で組み立てられています。

金銀の腕輪や杯には立体的な獣頭、色石の象嵌、金属板を打ち起こした花弁文様が用いられました。城砦文書や財務文書は物資と支払いを記録し、こうした製品と王宮の背景にある人々の活動を別の資料から伝えます。アパダーナの行列がどの儀式を表したか、オクサス宝物がどのように集積したか、出土地の記録がない器を誰が使ったかについては、研究の見解が分かれています。新たな出土資料と既存の碑文、金属分析、発掘記録の再検討が続いています。(参照:マーガレット・クール・ルート(1985年)|アパダーナとパルテノンの行列浮彫/フランツ・グルネ(2023年)|オクサス宝物・奉納金板と出土地の検討)

参考資料・出典

  1. メトロポリタン美術館|アケメネス朝ペルシア帝国
  2. ユネスコ世界遺産センター|パサルガダエ
  3. ユネスコ世界遺産センター|ペルセポリス
  4. ユネスコ世界遺産センター|ビストゥン
  5. CDLI(2017年)|ビストゥン碑文エラム語版の校訂研究
  6. イラニカ百科事典|ビストゥンのダレイオス碑文
  7. イラニカ百科事典|スサのアケメネス朝期
  8. イラニカ百科事典|エジプトで製作されたダレイオス石像とスサの宮殿
  9. ダレイオス1世のスサ造営碑文(DSf)|原文・翻訳
  10. ルーヴル美術館|スサ出土『弓兵のフリーズ』AOD 487
  11. ルーヴル美術館|スサ出土の向き合うスフィンクスの煉瓦装飾
  12. ルーヴル美術館|スサ出土『獅子のフリーズ』AOD 489 B
  13. メトロポリタン美術館(2017年)|エルンスト・ヘルツフェルトとペルセポリス発掘
  14. イラニカ百科事典|ペルセポリスの建築・浮彫・発掘史
  15. メトロポリタン美術館|柱頭に使われた雄牛の頭部
  16. メトロポリタン美術館|ペルセポリス階段のメディア人浮彫
  17. メトロポリタン美術館|飲食物を運ぶ従者の浮彫
  18. イラニカ百科事典|アパダーナの年代と図像の研究史
  19. オックスフォード大学|アパダーナ東階段の23組の使節
  20. マーガレット・クール・ルート(1985年)|アパダーナとパルテノンの行列浮彫
  21. 『Arts』誌(2021年)|アケメネス朝の獅子・動物図像研究
  22. イラニカ百科事典|ナクシェ・ロスタムの王墓
  23. オックスフォード大学|ナクシェ・ロスタムのダレイオス王墓
  24. メトロポリタン美術館|金製『獅子形杯』54.3.3
  25. メトロポリタン美術館|山羊の前半身を表す銀製リュトン
  26. メトロポリタン美術館|放射状文様の銀製浅鉢55.122.1
  27. メトロポリタン美術館|アルタクセルクセス1世銘文入りの銀鉢
  28. 大英博物館|オクサス宝物のグリフィン頭飾りの金製腕輪
  29. 大英博物館|オクサス宝物の金製四頭立て戦車模型
  30. モンジャッティ、ミークス、シンプソン(2010年)|金製戦車模型の材料・接合法分析
  31. オックスフォード古典学事典|オクサス宝物の出土事情と年代
  32. フランツ・グルネ(2023年)|オクサス宝物・奉納金板と出土地の検討
  33. 大英博物館|オクサス宝物の人物像を刻んだ金製奉納板
  34. メトロポリタン美術館|二頭の獅子グリフィンを押さえる王の円筒印章
  35. メトロポリタン美術館|敵を突く王を彫った円筒印章
  36. シカゴ大学古代文化研究所|ハロック『ペルセポリス城砦文書』(1969年)
  37. 南カリフォルニア大学|ペルセポリス城砦文書発見の記録
  38. イラニカ百科事典|ペルセポリス財務文書と銀による支払い
  39. スミソニアン国立アジア美術館|ペルセポリス初期発掘と調査写真