Art Library
Art History

1932–1945

国家と美術

退廃芸術展、社会主義リアリズム、WPA、プロパガンダと公共文化

1930年代の美術史を、抽象、シュルレアリスム、写真、モダンデザインといった様式の変化だけで追うと、決定的に抜け落ちる問題があります。それは、国家が美術の制作、展示、購入、教育、流通へ大規模に介入し始めたことです。ナチ・ドイツでは国家が作家の職業資格と展示可能性を人種・政治・美学の基準によって統制し、ソ連では芸術家団体が再編され、社会主義建設を可視化する公式の制作方法として社会主義リアリズムが制度化されました。米国では大恐慌に対する雇用政策の一部として連邦政府が数千人の美術家に仕事を与え、公共建築、版画、壁画、教育、美術センターを全国へ広げました。

この三つを「国家が美術を利用した」という一点だけで同列に並べることはできません。ナチ体制は人種主義と独裁のもとでユダヤ人や政治的・芸術的に不適格とされた人々を文化職から排除し、作品を没収し、近代美術そのものを攻撃しました。スターリン期ソ連では国家と党が芸術家組織を統合し、許容される制作の方向を制度的に狭め、指導者、労働、工業化、農業、若者の理想像を社会主義建設の物語として示しました。一方、米国のニューディール美術事業は失業救済と公共文化の拡充を目的とし、政治的論争や検閲は存在したものの、一つの公式様式へ全国の作家を強制的に統一した制度ではありませんでした。

したがってこの記事の主題は、「国家が芸術を支援すると芸術はプロパガンダになる」という単純な結論ではありません。重要なのは、誰が資金を出すのか、誰が職業に就けるのか、誰が作品を選ぶのか、どの建物に設置されるのか、観客はどう組織されるのか、そして国家が作品に対してどこまで強制力を持つのかという制度の違いです。同じ公共壁画でも、独裁国家の国家神話を示す壁画と、失業対策で制作された学校や郵便局の壁画とでは、制作条件も政治的意味も異なります。

ナチ・ドイツでは1933年の政権掌握後、文化生活を「同質化」する政策が急速に進みました。同年9月に帝国文化院が設けられ、美術、音楽、映画、演劇、文学、報道、ラジオまでが監督下へ置かれます。1937年にはミュンヘンで《大ドイツ美術展》と《退廃芸術》展が一日違いで開幕し、「国家が望む美術」と「国家が敵とする美術」を隣接する二つの展覧会で可視化するという、極めて明瞭な文化政策が実行されました。

《退廃芸術》展は単なる悪趣味な批評展ではありませんでした。ドイツの公立美術館から没収した近代美術を意図的に雑然と展示し、壁には侮辱的な文句を描き、精神疾患、人種的退廃、ボルシェヴィズムと結びつけて観客へ読み方を強制しました。モダニズムを「理解できない美術」として批判するのではなく、社会から除去すべき病理として示した点が重要です。その背後では、美術館職員の解任、作家の職業禁止、作品の国外売却や破壊が進行していました。

ソ連では別の仕方で美術制度が再編されます。1932年、共産党中央委員会は文学・芸術の独立した団体を解散させ、新しい統一的な創作家組織へ移行する方針を示しました。1934年の第1回ソ連作家大会で社会主義リアリズムが公式の制作方法として明確化され、視覚芸術でも同様の規範が強まります。作品は現実を単に写すのではなく、「革命的発展の中にある現実」を分かりやすく、肯定的に示すことを求められました。

ここで「リアリズム」という言葉には注意が必要です。社会主義リアリズムは、失業や貧困を告発する米国やメキシコのSocial Realismとは同じものではありません。ソ連の社会主義リアリズムは、国家が理想とする未来へ向かう労働者、農民、若者、指導者を、理解しやすい物語と英雄的な身体によって表現する制度化された方法でした。実際の困難を描く場合も、その困難は社会主義建設によって克服されるべき段階として構成されます。

同じ1930年代の米国では、1929年の大恐慌によって美術家も仕事を失いました。1933年末の公共事業美術計画(PWAP)を皮切りに、財務省の美術部門、WPAの連邦美術計画など複数の連邦事業が生まれます。これらはしばしば一括して「WPAアート」と呼ばれますが、目的と選考方法は異なります。特に財務省の美術部門は救済事業ではなく、競争審査で連邦建築の装飾を委嘱する制度でした。

WPA連邦美術計画では、壁画、油彩、版画、ポスター、写真、教育、地域美術センター、さらに《Index of American Design》のような工芸記録までが行われました。Stuart Davisの抽象的な壁画案も、Jackson Pollockのような後の抽象表現主義者も制度の中で働いています。つまり米国政府が「リアリズムだけ」を国家様式として強制したわけではありません。同時に、地域史や労働、産業、農村、公共事業を描く作品が多く、民主主義・勤労・共同体というニューディールの価値観が視覚化されたことも確かです。

この時代を比較することで、美術作品だけを見ていたときには見えにくい美術史が現れます。国家は美術館の収蔵品を移動させ、作家の職業資格を与えたり奪ったりし、公共建築を展示空間へ変え、展覧会を政治教育に使い、失業者を美術家として雇い、国民文化の過去を記録しました。1930年代は、「何を描いたか」だけでなく、「誰が美術を制度として編成したのか」を見る必要がある時代です。

CONTENTS

  1. まず三つの制度を同一視しない
  2. 国家は美術の何を変えるのか
  3. 作家という職業を国家が支える/制限する
  4. 展示方法も政治になる
  5. 1933年ドイツ — 文化の「同質化」
  6. 帝国文化院
  7. 帝国美術院と職業資格
  8. 人種政策と文化政策
  9. 美術館・学校からの排除
  10. Weimar共和国期の美術館政策を壊す
  11. 1933年から始まった「恥辱展」
  12. ナチ美術政策も最初から完成していたわけではない
  13. 国家が奨励した美術
  14. 理想化された身体
  15. 農民という国家像
  16. 母性と家族
  17. 労働者像
  18. Haus der Deutschen Kunst
  19. 《大ドイツ美術展》
  20. 選考に国家指導者が介入する
  21. 国家展であり市場でもある
  22. 出品できるかが作家人生を左右する
  23. 1937年7月18日と19日
  24. 《退廃芸術》展は短期間で準備された
  25. 公立美術館からの没収
  26. 展示点数にも資料差がある
  27. 展示そのものが侮辱を作る
  28. 精神疾患との偽りの比較
  29. 「ユダヤ=ボルシェヴィキ」という政治的ラベル
  30. 攻撃対象は一つの様式ではない
  31. 観客数の大きさ
  32. 敵を見せる展覧会
  33. Max Beckmann
  34. Ernst Ludwig Kirchner
  35. Paul Klee
  36. Emil Noldeという矛盾
  37. 政治的忠誠だけでも安全ではない
  38. 没収作品のその後
  39. 1938年没収を法制化する
  40. 1939年Lucerne売却
  41. 来歴研究が1930年代を現在へつなぐ
  42. ソ連 — 1920年代の多様性から出発する
  43. 1932年 — 芸術団体の再編
  44. 1932年を起点にする理由
  45. 1934年ソ連作家大会
  46. 「革命的発展の中の現実」
  47. 写真のような写実ではない
  48. 未来を現在として描く
  49. 理解しやすさ
  50. 繁栄の神話
  51. Isaac Brodsky
  52. 《Lenin in Smolny》
  53. 指導者像の複製
  54. Stalinの人格崇拝
  55. 《平和の守護者》という構図
  56. Alexander Deineka
  57. モダニズムの技法は完全には消えない
  58. スポーツと「新しい人間」
  59. Alexander Samokhvalov
  60. 労働者
  61. 《Industry of Socialism》展
  62. 集団農場のイメージ
  63. 女性像
  64. 「楽観性」という制度
  65. 「形式主義」批判
  66. Rodchenkoと制度転換
  67. 前衛が突然消滅したわけではない
  68. 大粛清という背景
  69. 制度的強制の度合い
  70. Social RealismとSocialist Realismは違う
  71. 米国 — 大恐慌と美術家の失業
  72. New Dealと公共文化
  73. 「WPAアート」は一つの制度ではない
  74. 1933–34年 公共事業美術計画
  75. 「American Scene」
  76. 公共建築を美術の場所へ
  77. 財務省美術部門
  78. 救済ではなく競争委嘱
  79. 郵便局壁画
  80. 1935年 WPA連邦美術計画
  81. Holger Cahill
  82. Federal One
  83. 制作領域の広さ
  84. 全国規模の制作
  85. 壁画の時代
  86. メキシコ壁画運動からの刺激
  87. Jackson PollockとWPA
  88. PollockのWPAを後のdrip paintingへ直結しすぎない
  89. Stuart Davis
  90. Williamsburg Houses murals
  91. Arshile Gorky
  92. WPAには単一様式がなかった
  93. 米国のSocial Realism
  94. Regionalismとの並存
  95. Community Art Centers
  96. Harlem Community Art Center
  97. Augusta Savage
  98. William H. Johnson
  99. 人種とNew Deal art
  100. 《Index of American Design》
  101. 失業救済と文化史記録を結ぶ
  102. 「アメリカらしさ」の選択
  103. 米国的デザインを探す
  104. 版画と「人々のための美術」
  105. シルクスクリーンの発展
  106. WPAポスター
  107. 写真
  108. 《Changing New York》
  109. 「public art」の拡大
  110. 作品は誰のものか
  111. 米国でも政治的論争はあった
  112. New Deal artはpropagandaだったのか
  113. Federal Art Projectの終わり
  114. 戦時体制への移行
  115. 三国の「写実」を比較する
  116. 労働者像を比較する
  117. 身体の政治
  118. 農村の政治
  119. 指導者像の差
  120. 美術館に対する国家介入
  121. 作家の身分
  122. 「大衆」の意味
  123. それでもWPAを理想化しない
  124. Soviet artを全て「低品質propaganda」にしない
  125. ナチ公認美術にも差異はある
  126. 国家制度の中でも作家は選択する
  127. 亡命という美術史
  128. New Yorkへの重心移動
  129. 1939年MoMAと没収作品
  130. 現在の美術館に残る1930年代の痕跡
  131. New Dealの長期的遺産
  132. 「美術家も労働者である」
  133. 国家が最大のcollectorになる
  134. 国家が美術史を編集する
  135. 行政文書も美術史資料になる
  136. 数字は制度の規模を示すが慎重に扱う
  137. 1937年という交差点
  138. 1939年 — 戦争と制度の転換
  139. 1941–45年 — 戦争が主題を変える
  140. 1945年を区切りにする
  141. 比較は「同じだ」と言うためではない
  142. 最も重要なのは拒否できるか
  143. 政治制度と作品評価を混同しない
  144. 観客は受動的ではない
  145. 1930年代に「公共文化」が巨大化する
  146. ART HISTORYとしてのまとめ
  147. 次へ — 1913年以降のアメリカ美術の前史
  148. 参考資料・出典

まず三つの制度を同一視しない

ナチ・ドイツ、スターリン期ソ連、ニューディール期米国では、いずれも国家が美術へ強く関与しました。しかし政治体制、表現の自由、職業への強制、処罰、資金配分、作品選択の仕組みは根本的に異なります。国家介入という共通項を比較の入口にはできますが、そこから「どれも同じプロパガンダだった」と結論づけるのは歴史的に不正確です。

国家は美術の何を変えるのか

国家が注文主になると、作品の主題だけでなく大きさ、設置場所、観客、制作速度、材料、所有権まで変わります。美術館で売買される一点物とは異なり、郵便局や学校の壁画、官庁の彫刻、展覧会ポスターは、日常生活の中で大勢の人が見る公共イメージになります。

作家という職業を国家が支える/制限する

1930年代には美術家の職業そのものが制度化されました。米国では政府雇用が失業した作家へ賃金を与え、ドイツでは帝国文化院への加入資格が職業継続の条件となり、ソ連では統一された芸術家組織と国家注文が制作生活を左右しました。

展示方法も政治になる

何を壁に掛けるかだけでなく、どの作品を広く見せ、どの作品を嘲笑し、どの作品を公共施設へ恒久設置するかが政治的判断になります。1937年ミュンヘンの二つの展覧会は、そのことを最も露骨に示しました。

1933年ドイツ — 文化の「同質化」

1933年1月にナチ党が政権を握ると、政治機構だけでなく美術館、学校、出版、音楽、演劇など文化領域でも制度をナチ体制へ同調させる政策が進みました。Weimar共和国期の文化的多様性は、短期間で組織的な統制の対象になります。

帝国文化院

1933年9月に設立された帝国文化院は、映画、音楽、演劇、報道、文学、放送、美術の各部門を統括しました。米国ホロコースト記念博物館とドイツ歴史博物館は、これが文化活動を監督し、誰が職業として文化制作へ参加できるかを管理する装置だったことを強調しています。

帝国美術院と職業資格

美術家が専門職として活動するには帝国美術院への加入が事実上不可欠になりました。Haus der Kunstの研究によれば、1937年以降の《大ドイツ美術展》へ応募するためにも加入が前提でした。国家は展覧会の選考だけでなく、作家である資格そのものへ介入したのです。

人種政策と文化政策

ユダヤ人や「アーリア人」ではないとされた人々、政治的に信用できないと判断された人々は文化職から排除されました。ナチの美術政策は「抽象が嫌いだった」という趣味の問題ではなく、人種共同体を作る政策と不可分でした。

美術館・学校からの排除

1933年以降、近代美術を支持した美術館長、学芸員、教授、作家が職を失いました。公立美術館が1920年代に収集したExpressionism、Neue Sachlichkeit、Bauhaus関連の作品も、次第に展示・収蔵の対象から外されます。

Weimar共和国期の美術館政策を壊す

ナチ以前のドイツでは、国立・市立美術館がKirchner、Beckmann、Kleeなどの現代美術を積極的に収集していました。MoMAが《退廃芸術》研究で示すように、1933年以後の政策は作品だけでなく、近代美術を公的財産として蓄積してきた美術館制度そのものを解体する行為でした。

1933年から始まった「恥辱展」

大規模な《退廃芸術》展は1937年ですが、その前から地方都市では近代美術を嘲笑する「恐怖の部屋」「恥辱展」が開かれていました。米国ホロコースト記念博物館によれば、当初は地方当局による動きも多く、何を「退廃」とするかは数年間不統一でした。

ナチ美術政策も最初から完成していたわけではない

1933年に政権が成立した瞬間から、許容される様式が完全に決まっていたわけではありません。党・官僚内部にも近代美術を部分的に利用できるのではないかという揺れがありましたが、最終的にはHitlerの古典的・写実的趣味と人種的美学が強く優先されました。

国家が奨励した美術

ナチ体制が奨励した美術には、写実的な裸体、農民、母子、兵士、労働者、風景、神話、指導者像が多く見られます。米国ホロコースト記念博物館は、古典的リアリズムを通して労働、自己犠牲、家族、戦闘的英雄性、「アーリア的純粋性」を示そうとしたと説明しています。

理想化された身体

彫刻や裸体画では健康、若さ、筋力、均整が強調されました。個人の複雑な心理より、人種的・国家的理想を体現する身体が求められ、Arno BrekerやAdolf Zieglerらが象徴的な存在になります。

農民という国家像

農村と農民は、都市の混乱や国際的モダニズムと対置される「土地に根ざしたドイツ性」の象徴として利用されました。農業の現実を記録するより、永続的で純粋な共同体という神話が強調されます。

母性と家族

女性身体は母性、生殖、家族の維持と結びつけられました。国家が望む人口政策と美術上の女性像は無関係ではなく、個人女性の人生より「民族共同体を再生産する身体」が理想化されました。

労働者像

ナチ美術にも工場労働者や鉱夫は登場します。しかし階級闘争を描くのではなく、労働者を民族共同体へ統合された勤勉な身体として表現する傾向がありました。

Haus der Deutschen Kunst

MunichのHaus der Deutschen KunstはPaul Ludwig Troostの設計で建設され、1937年7月18日に最初の《大ドイツ美術展》とともに開館しました。建物そのものが、ナチ国家が「ドイツ美術」の新しい中心を作るという政治的宣言でした。

《大ドイツ美術展》

《大ドイツ美術展》は1937年から1944年まで毎年開催されました。Haus der Kunstとドイツ歴史博物館によれば、ここは単なる国家式典ではなく作品販売の場でもあり、ナチ体制下で美術家が市場と国家の承認を得る最重要舞台になりました。

選考に国家指導者が介入する

1937年展では大量の応募作品から審査が行われましたが、Hitlerは当初の選定に不満を示し、Heinrich Hoffmann、Gerdy Troost、Karl Kolbらに再選考を委ねました。最終的な判断にHitlerの意向が大きく影響し、美術審査と政治権力が直接接続しました。

国家展であり市場でもある

Haus der Kunstの研究は、《大ドイツ美術展》が販売展でもあったことを強調しています。国家が特定の様式を優遇すると、その承認は名誉だけでなく作品販売と作家の経済的成功へ直結しました。

出品できるかが作家人生を左右する

帝国美術院への所属と国家展への参加可能性は、美術家の職業的将来へ大きく影響しました。国家美学への適合は、美術上の評価だけでなく生活手段の確保という問題でもありました。

1937年7月18日と19日

7月18日に《大ドイツ美術展》が開幕し、翌19日に近隣で《退廃芸術》展が開きました。二つの展覧会を対にすることで、国家は「見るべき美術」と「拒絶すべき美術」を比較させる巨大な教育装置を作りました。

《退廃芸術》展は短期間で準備された

米国ホロコースト記念博物館によれば、1937年の展覧会は数週間ほどの短期間で組み立てられました。急造であること自体が、整然とした《大ドイツ美術展》との対比を強める効果を持ちました。

公立美術館からの没収

1937年、ドイツ各地の公立美術館から近代美術が大規模に没収されました。MoMAと米国ホロコースト記念博物館は最終的に2万点を超える作品が公的収蔵から取り除かれたとしていますが、ドイツ歴史博物館には約1万6千点とする記述もあり、対象期間や集計方法によって数字には差があります。

展示点数にも資料差がある

DHMはMunichの展示を650点、MoMAは約740点、USHMMは600点以上としています。資料ごとに作品数の数え方が異なるため、本記事では一つの数字を絶対値として扱わず、「数百点の没収作品が意図的に侮辱的な方法で展示された」という事実を中心に据えます。

展示そのものが侮辱を作る

作品は狭い空間へ過密に掛けられ、額を外されたり、誤った説明を付けられたり、壁に侮辱的な文句を書かれたりしました。展覧会は中立的に作品を見せたうえで批判するのではなく、観客が嫌悪するよう展示条件を設計していました。

精神疾患との偽りの比較

近代美術の変形や抽象を精神疾患と結びつける展示が行われました。これは医学的評価ではなく、モダニズムを社会的病理へ見立てて排除を正当化するプロパガンダでした。

「ユダヤ=ボルシェヴィキ」という政治的ラベル

Expressionism、Dada、Cubismなどは「ユダヤ的」「ボルシェヴィキ的」と攻撃されました。実際の作家の出自や政治思想と一致しない場合も多く、作品を人種・政治の敵へ一括して分類するための宣伝語でした。

攻撃対象は一つの様式ではない

Expressionism、Dada、Neue Sachlichkeit、Cubism、Surrealism、Fauvismなど、互いに異なる美術がまとめて「退廃」とされました。ナチ美術政策は特定の形式を細かく批評したのではなく、近代美術の多様性そのものを敵視しました。

観客数の大きさ

Munich会場には200万人を超える観客が訪れたとUSHMMは推定し、巡回展全体ではDHMが300万人超としています。侮辱を目的とした展覧会が、同時開催の《大ドイツ美術展》より圧倒的な注目を集めたことは、政策側にとっても複雑な結果でした。

敵を見せる展覧会

国家が好ましい美術だけを見せるのではなく、「敵の美術」を大量に展示することで、自らの価値観を強化する方法が取られました。美術館的展示が、政治的な見世物と境界線の教育へ転用されたのです。

Max Beckmann

Beckmannは1933年に教授職を失い、多くの作品が没収されました。1937年《退廃芸術》展開幕直後にAmsterdamへ去り、そのまま亡命生活へ入ります。作品排除が作家の地理的移動を直接引き起こした例です。

Ernst Ludwig Kirchner

MoMAによればKirchnerの作品は1937年に公的コレクションから600点以上取り除かれました。Brückeを代表する作家が「ドイツ美術」の国家的正統から排除されたことは、「民族的なドイツらしさ」という基準が美術史上の国籍とは別物だったことを示します。

Paul Klee

Kleeも1933年にDüsseldorfの職を追われ、Switzerlandへ移りました。Dresden所蔵の《Around the Fish》なども1937年に「退廃」として没収され、後に国外市場へ流出しています。

Emil Noldeという矛盾

Noldeはナチ党員で体制への支持を持ち続けたにもかかわらず、彼のExpressionist worksは大量に没収され、《退廃芸術》展でも強く攻撃されました。Staatliche Museen zu Berlinは、この事実を「迫害された反ナチ作家」という戦後の単純な神話では説明できないと再検討しています。

政治的忠誠だけでも安全ではない

Noldeの例は、ナチ文化政策が作家本人の政治的立場だけで決まらなかったことを示します。人種政策、様式、官僚的判断、党内の美学的対立が複雑に作用し、支持者であっても作品が排除されることがありました。

没収作品のその後

没収作品の一部は国外で外貨獲得のために売却され、一部は破壊されました。作品は「価値がない」と宣伝されながら、同時に国際市場では資産として利用されるという矛盾した扱いを受けます。

1938年没収を法制化する

1938年には「退廃芸術作品の没収」に関する法律によって、すでに行われた収蔵作品の取り上げが法的に正当化されました。MoMAの来歴調査では、この法律を経てドイツ国家の所有とされ、画商を通じて国外へ移った作品が多数確認されています。

1939年Lucerne売却

1939年にはSwitzerlandのLucerneで著名な没収作品が競売にかけられました。今日の美術館が所蔵する作品の中にも、この国家没収と国外売却を経たものがあり、来歴調査が現在まで続いています。

来歴研究が1930年代を現在へつなぐ

1930年代の国家介入は過去の展覧会史だけではありません。誰の所有だったのか、どの美術館から奪われたのか、誰が売却したのかを調べる来歴研究は、現在の美術館倫理と返還問題へ直接つながっています。

ソ連 — 1920年代の多様性から出発する

革命後のSoviet artにはConstructivism、Productivism、photomontage、AKhRR、OSTなど複数の動向が存在しました。1930年代の社会主義リアリズムは、革命直後から唯一の公的様式だったのではなく、複数の実験が存在した後に制度が集約されていく過程として見る必要があります。

1932年 — 芸術団体の再編

1932年、共産党中央委員会は文学・芸術団体を解散し、分野ごとの統一組織へ再編する方針を示しました。これによって、革命後に競合していた複数の芸術家団体が国家・党の統制下でまとめられていきます。

1932年を起点にする理由

本記事を1932年から始めるのは、この制度再編が1930年代の国家美術を考える重要な境界だからです。作家の様式が一夜に変わったわけではありませんが、どの組織を通して仕事を得るかという条件が変化しました。

1934年ソ連作家大会

1934年の第1回ソ連作家大会では、社会主義リアリズムが公式な制作方法として明確化されました。定義は文学分野で制度化されましたが、1930年代には視覚芸術を含む文化全体へ同様の規範が広がります。

「革命的発展の中の現実」

社会主義リアリズムは現実をありのまま記録するだけではありません。現在を、社会主義の未来へ向かう歴史的過程として理解し、その方向性を作品の中で可視化することが求められました。

写真のような写実ではない

写実的な人物描写は重視されましたが、現実の苦難を無選択に写すことが目的ではありません。労働者、農民、学生、スポーツ選手、兵士が、社会主義的未来の主体として明るく、健康に、目的を持って描かれる傾向が強まりました。

未来を現在として描く

社会主義リアリズムの特徴の一つは、国家が目指す未来をすでに実現しつつある現実として描くことです。工場、集団農場、都市開発、教育、スポーツは、未完成の政策であっても成功へ向かう物語として構成されました。

理解しやすさ

State Russian Museumは、社会主義リアリズムが大衆に理解しやすく、物語的で教育的、かつ壮観な形式を採ったと説明しています。難解な抽象より、誰が何をしているかが読み取れる構図が政治的に有効と考えられました。

繁栄の神話

1930年代には飢饉、強制集団化、労働の過酷さ、大粛清が存在しましたが、公式美術では豊かな農村、誇り高い労働者、健康な若者、指導者への信頼が強調されました。美術は現実の一部を描きながら、別の部分を見えにくくする役割を果たしました。

Isaac Brodsky

BrodskyはLenin像を大量に制作し、革命指導者を歴史画・肖像画として定着させた重要人物です。State Russian Museumが指摘するように、一部のLenin像は繰り返し複製され、指導者の視覚的な標準像を形成しました。

《Lenin in Smolny》

1930年の《Lenin in Smolny》では、革命の指導者が豪華な英雄的舞台ではなく、質素な室内で書類へ向かう勤勉な人物として描かれます。写実的な具体性が、「働く指導者」という政治的イメージを説得力あるものにしました。

指導者像の複製

指導者肖像は一点物の美術作品としてだけでなく、複製、印刷、公共施設を通じて大量流通しました。美術と政治的アイコンの境界が薄れ、個別の作家性より「正しい指導者像」の反復が重要になります。

Stalinの人格崇拝

1930年代後半にはStalinを中心とする指導者像がさらに強まりました。State Russian MuseumはGerasimovの《Stalin and Voroshilov in the Kremlin》を、人格崇拝を象徴する作品として明確に位置づけています。

《平和の守護者》という構図

Kremlinを歩くStalinとVoroshilovは、都市を上から見守る英雄のように配置されました。具体的な日常場面を装いながら、国家と軍が人民を守るという神話的役割を与えています。

Alexander Deineka

Deinekaは社会主義リアリズムへ単純に同化した作家としてだけでは捉えにくい存在です。1920年代の《Textile Workers》から、平面性、写真・ポスター的な切断、運動感を持つ独自のModernist languageを発展させながら、労働、スポーツ、若者という国家的主題を描きました。

モダニズムの技法は完全には消えない

Deinekaの構図には大胆な余白、非対称、リズム、画面の切断が残ります。社会主義リアリズムの制度化を「前衛がすべて古典写実へ置き換わった」とだけ説明すると、1930年代ソ連美術内部の形式的多様性が見えません。

スポーツと「新しい人間」

State Russian Museumによれば、1930年代のスポーツ選手は健康、意志、集団性を示す「新しい人間」の代表として盛んに描かれました。若い身体は未来社会の生命力を可視化する政治的・美学的モチーフでした。

Alexander Samokhvalov

Samokhvalovのスポーツ人物は、彫刻的な大きさと壁画的な明快さを持ちます。競技場、若者、女性アスリートは、身体文化と社会主義的未来像をつなぐ主題になりました。

労働者

工場労働は単に生産を記録する主題ではなく、国家建設に参加する英雄的行為として描かれました。機械そのものより「機械を使いこなす人間」が中心になることが、1930年代後半の公式方針でも強調されます。

《Industry of Socialism》展

State Russian Museumの資料によれば、1930年代後半の大規模展では、どの産業や指導者をどのように描くかについて具体的な主題指示が作られる場合もありました。国家注文は作品テーマを大枠だけでなく細部まで組織し得ました。

集団農場のイメージ

集団農場の人物は、疲弊や不足より誇り、健康、将来への確信を表す「タイプ」として描かれることが多くありました。個人の固有性を描きながら、理想的な社会階層を代表する人物へ一般化されます。

女性像

女性は農業、工場、スポーツ、教育に参加する新しい社会主体として描かれました。従来の母・家庭像だけでなく公共労働者として表象された一方、国家が求める理想的役割を示す規範的イメージでもありました。

「楽観性」という制度

労働や社会変革の困難を描いても、最終的には前進、連帯、未来への信頼へ結びつくことが期待されました。悲劇を描く場合でも、社会主義の歴史的勝利が否定されない構造が重要です。

「形式主義」批判

抽象、形式実験、作品内部の問題を優先すると「形式主義」と批判される危険がありました。Rodchenkoの写真のように革命後の前衛から生まれた実験でも、1930年代には政治的に疑われるようになります。

Rodchenkoと制度転換

MoMAは、Rodchenkoが1930年代に理想化された公式像と異なる社会的現実を写真で示し、その形式実験が「形式主義」と批判されたことを紹介しています。Avant-gardeの技法が国家革命の象徴から疑わしい表現へ変わる転換が見えます。

前衛が突然消滅したわけではない

Constructivist artistsが1934年を境に全員活動を止めたわけではありません。写真、展示、雑誌、舞台、建築の技能は国家機関の中で別の役割へ転換し、個々の作家は妥協、適応、沈黙、継続を異なる仕方で選びました。

大粛清という背景

1936–38年の大粛清は文化界にも恐怖を広げました。美術作品の様式だけを見ていると、制作判断が職業上の評価だけでなく、政治的生存と結びつく環境だったことを見落とします。

制度的強制の度合い

国家注文や芸術家組織を通じて作品制作の機会が集中すると、公式方針から外れることは仕事・発表機会を失うことへ直結します。社会主義リアリズムは市場流行ではなく、政治制度の中で強制力を持つ制作方法でした。

Social RealismとSocialist Realismは違う

米国のSocial Realismは貧困、労働争議、差別、都市生活を批判的に描く幅広い左派的傾向で、国家が定めた公式様式ではありません。一方、Soviet Socialist Realismは国家・党の文化制度と結びついた公式方法です。日本語では似た訳語になりやすいため、区別が重要です。

米国 — 大恐慌と美術家の失業

1929年の株価暴落後、銀行倒産、失業、企業閉鎖が広がり、美術品市場も縮小しました。美術家も例外ではなく、作品を売れない、家賃を払えない、画材を買えないという状況に置かれ、政府の雇用政策が制作生活を直接支えることになります。

New Dealと公共文化

Franklin D. Roosevelt政権は失業対策と公共事業を広げ、美術家、音楽家、俳優、作家も「働く専門職」として政府雇用の対象へ組み込みました。美術を富裕層の贅沢ではなく、公共生活に必要な仕事として扱う発想が制度化されます。

「WPAアート」は一つの制度ではない

1930年代の連邦美術事業にはPWAP、財務省の美術部門、Treasury Relief Art Project、WPA Federal Art Projectなどがありました。名前と管轄が似ているため混同されやすいですが、期間、雇用条件、選考方式、対象建築は異なります。

1933–34年 公共事業美術計画

PWAPは1933年12月に財務省のもとで始まり、1934年夏までの短期間に全国で約4,000人の美術家を雇いました。Smithsonianはこれを米国初の全国規模の連邦美術支援事業と位置づけています。

「American Scene」

PWAPでは地域の風景、街路、労働、産業、農村など「アメリカの情景」が奨励されました。特定の抽象・写実の様式を一つに統一するというより、恐慌下でも存在する地域社会と労働を公共建築へ見せる役割が期待されました。

公共建築を美術の場所へ

PWAP作品は学校、病院、役所、図書館など公共空間を装飾しました。美術館へ行かない人にも日常的に作品が届くという考えは、後のNew Deal art programsへ受け継がれます。

財務省美術部門

1934年に設けられたSection of Painting and Sculpture、後のSection of Fine Artsは、WPAの救済雇用とは異なります。Smithsonian Archivesによれば、主目的は新しい連邦建築を装飾することで、作家は競争審査によって契約を得ました。

救済ではなく競争委嘱

Sectionでは失業者であることより作品案の選考が中心でした。この違いを無視して郵便局壁画をすべて「WPA」と呼ぶと、New Dealの美術政策がどのように複数の仕組みを使い分けたかが見えなくなります。

郵便局壁画

各地の郵便局や連邦建物へ地域史、農業、産業、交通を描く壁画が設置されました。地方住民にとって美術館外で大画面の美術を見る重要な機会となった一方、地域表象をめぐる論争も起こりました。

1935年 WPA連邦美術計画

WPAのFederal Project Number Oneの一部としてFederal Art Projectが1935年に始まりました。National Archivesによれば当初の全国組織は1939年に再編され、その後も州単位の事業が1943年まで続きました。

Holger Cahill

FAPの全国ディレクターHolger Cahillは、美術家を失業救済の対象としてだけでなく、社会に必要な文化労働者として位置づけました。制作と同時に教育、展覧会、美術センター、工芸記録を広げた点に彼の構想の特徴があります。

Federal One

WPAのFederal Oneには美術だけでなく、音楽、演劇、作家、歴史記録の事業がありました。Library of Congressが指摘するように、失業した専門職を「社会的に有用な仕事」へ雇用する大規模な文化政策でした。

制作領域の広さ

FAPには壁画、油彩、彫刻、グラフィック、ポスター、教育、写真など多様な部門がありました。美術を一点の絵画販売だけではなく、公共施設と教育を含むサービスとして考えています。

全国規模の制作

National Gallery of Artの教育資料は、FAPが48州で活動し、壁画、版画、ポスター、写真、絵画、素描を含む約20万点の視覚作品を生み出したと説明しています。数字は事業全体の数え方に左右されますが、規模の大きさは明らかです。

壁画の時代

1930年代米国では壁画が美術の中心的媒体の一つになりました。Mexican muralismの影響、New Dealの公共建築事業、作家雇用が重なり、学校、住宅、放送局、郵便局などに大画面作品が制作されます。

メキシコ壁画運動からの刺激

Diego Rivera、José Clemente Orozco、David Alfaro Siqueirosの大規模公共壁画は米国作家へ強い影響を与えました。労働、歴史、政治を大勢の観客へ見せる方法は、1930年代の米国壁画文化を考える重要な先行例です。

Jackson PollockとWPA

Pollockは1935年から数年間Federal Art Projectで働きました。MoMAの年譜によれば、この継続的な政府給与が若いPollockの生活を支え、Siqueirosの実験工房やMexican muralismを含む幅広い経験の中で制作を続ける条件になりました。

PollockのWPAを後のdrip paintingへ直結しすぎない

WPAにいたから直接drip paintingが生まれたわけではありません。しかし、若い作家が市場で成功する前に長期間制作を続けられたことは、戦後American artの形成条件として重要です。

Stuart Davis

DavisはFederal Art ProjectのMural Divisionから大規模作品の委嘱を受けました。《Swing Landscape》では港湾・都市・jazzの感覚を抽象化した構成を作り、国家事業の中でも非写実的なModernist paintingが可能だったことを示します。

Williamsburg Houses murals

New Yorkの公共住宅Williamsburg Housesでは、Burgoyne Dillerのもとで複数作家が壁画案を制作しました。Davis、GorkyなどのModernistsが参加し、公共住宅が抽象・近代美術の実験空間にもなりました。

Arshile Gorky

Gorkyも1930年代の公共壁画事業へ参加し、のちのAbstract Expressionismへつながる世代の一人となりました。政府事業がRegionalismやSocial Realismだけでなく、異なるModernismを生活面で支えたことが分かります。

WPAには単一様式がなかった

写実的な労働者像、地方風景、抽象壁画、版画、広告的ポスターが同じ制度内に存在しました。作品内容への審査や政治的圧力はありましたが、Soviet Socialist Realismのような一つの公式制作方法は制定されませんでした。

米国のSocial Realism

Ben Shahn、Philip Evergood、Jacob Burckなどの作家は、労働者、裁判、貧困、政治的抑圧を批判的に描きました。彼らの左派性はNew Deal政府と完全に一致したわけではなく、政府事業の中にも社会批判の緊張が存在しました。

Regionalismとの並存

Thomas Hart Benton、Grant Wood、John Steuart Curryに代表されるRegionalismも1930年代に大きな支持を得ました。大都市前衛とは異なる農村・地域史を描きましたが、New Deal art全体をRegionalismと同一視することはできません。

Community Art Centers

FAPは全国に100を超えるcommunity art centerを支援し、一般市民へ低料金または無料の美術教育を提供しました。国家支援が「作家へ注文を出す」だけでなく、「観客と学習者を作る」方向へ広がった点が重要です。

Harlem Community Art Center

Harlem Community Art Centerは1930年代後半にWPA支援で運営され、Augusta Savageらが教育と運営に関わりました。Smithsonianによれば、絵画、彫刻、版画、写真、工芸などを地域住民へ開き、Jacob LawrenceやRoy DeCaravaら次世代の形成にもつながりました。

Augusta Savage

Savageは彫刻家であると同時に教育者・組織者として、African American artistsへの機会拡大を求めました。WPA制度が差別を完全に解消したわけではなく、制度内部で平等な支援を要求する活動が必要だったことも重要です。

William H. Johnson

Johnsonは1939年からHarlem Community Art Centerで教え、African American lifeを都市と南部双方の主題として描きました。公共教育の仕事と自身の絵画制作が同じ文化環境でつながっています。

人種とNew Deal art

FAPはAfrican American artistsにも雇用と教育機会を提供しましたが、米国社会全体の人種差別から自由ではありませんでした。地域ごとの制度運営、展示機会、作品主題には不平等が残り、Savageらはその改善を求めました。

《Index of American Design》

FAPの大規模事業の一つが、植民地期から1900年頃までの米国工芸・民芸品を精密な水彩画で記録するIndex of American Designです。National Gallery of Artは18,257点の水彩と約1,000人の作家を含むcollectionとして保存しています。

失業救済と文化史記録を結ぶ

この事業には、失業美術家の技能を維持すること、米国の工芸遺産を記録すること、現代の作家・デザイナーの資料にすることという複数の目的がありました。描く行為が同時に文化財調査となりました。

「アメリカらしさ」の選択

NGAは近年、Indexが中立的な全国記録ではなく、主にEuropean-originの民芸・装飾芸術を中心に選び、Indigenous、African American、Asian Americanの物質文化を十分に含めなかったことを明確に指摘しています。国家的文化遺産を作ることは、何を「国民文化」に含めるかという選択でもあります。

米国的デザインを探す

Europeの歴史様式を模倣するのではなく、quilts、weather vanes、shop signs、toys、furnitureなど日常物からAmerican designの系譜を作ろうとしました。Modern designとfolk artをつなぐ国家的自己理解の試みです。

版画と「人々のための美術」

Federal Art ProjectのGraphic Arts部門は多数の版画を制作し、図書館、学校、公共施設へ配布しました。Library of Congressは、手頃な価格と複製性によって美術を広い層へ届ける民主的目標と結びついていたと説明しています。

シルクスクリーンの発展

1930年代末にはFAP内でsilkscreenがfine art mediumとして発展しました。商業印刷の技術を美術制作へ転用することで、色面の明快な版画を大量に制作・配布できるようになります。

WPAポスター

展覧会、健康教育、観光、演劇、図書館、community art centerなどを告知するWPA postersは、公共情報とModern graphic designを結びつけました。国家プロジェクトは絵画だけでなく日常のvisual communicationを大量に生み出しました。

写真

Federal Art Projectや周辺New Deal agenciesでは写真も記録・広報に使われました。Berenice Abbottの《Changing New York》のように、都市の近代化と消えつつある古い街並みを同時に記録する事業も生まれています。

《Changing New York》

Abbottの計画はNew Yorkの高層建築、交通、商業施設、古い建物の消失を写真で記録し、公立学校や図書館へ届けられました。国家資金が「現在の都市を未来の資料として保存する」写真活動を支えた例です。

「public art」の拡大

1930年代のNew Deal programsによって、美術は記念碑だけでなく住宅、学校、郵便局、community centerへ広がりました。今日のpublic art制度を考える前史として、公共予算で誰のために何を作るのかという問題が大規模に試されました。

作品は誰のものか

政府給与で制作された作品の多くは公共機関へ配分されました。個人作家の作品でありながら国家・公共施設の財産でもあり、制作後の管理、移転、紛失、保存が現在まで課題として残ります。

米国でも政治的論争はあった

民主主義国家の公共事業であっても無制限な自由があったわけではありません。左派団体との関係、労働争議、政治的壁画、Federal Theatre Projectなどをめぐり「税金でpropagandaを作っている」という批判が議会や保守派から起こりました。

New Deal artはpropagandaだったのか

公共事業の成果や労働の尊厳を肯定的に描く作品には政策広報的な側面がありました。一方で失業、貧困、人種問題を批判する作品や抽象作品も制度内に存在したため、New Deal art全体を政府宣伝へ還元することはできません。

Federal Art Projectの終わり

National Archivesによれば全国組織としてのFAPは1939年に再編され、その後の州事業は1943年まで継続しました。戦時生産によって失業が減り、政府の救済事業としての必要性が低下したことも終了の大きな背景です。

戦時体制への移行

第二次世界大戦への参戦後、米国政府の美術・デザイン需要は救済事業から戦時ポスター、情報、軍事生産の広報へ移ります。1930年代の公共文化政策は、1940年代には別の国家的視覚コミュニケーションへ再編されます。

三国の「写実」を比較する

ドイツ、ソ連、米国の国家関連美術には写実的表現が多くありますが、その意味は同じではありません。ナチ美術では人種共同体の理想、ソ連では社会主義建設の歴史的必然、米国New Dealでは地域社会・労働・公共事業の可視化が中心となり、政治体制と制度目的によって同じ写実でも役割が変わります。

労働者像を比較する

鉱夫や工場労働者は三つの体制すべてに現れます。ナチでは階級対立を超えた民族共同体の一員、ソ連では社会主義国家を建設する英雄、米国では勤労の尊厳や恐慌下の生活、公共事業の主体として描かれました。

身体の政治

健康で若い身体はドイツとソ連双方で理想化されますが、ドイツでは人種論、ソ連では社会主義的「新しい人間」という異なるイデオロギーへ接続します。米国でもスポーツや労働身体が描かれましたが、国家による生物学的人種理想の公式規範とは性格が異なります。

農村の政治

農民や農場も三国で重要でした。ナチでは「血と土」の国民神話、ソ連では集団化された農業と豊かな未来、米国ではDust Bowl、地域農業、New Deal支援といった別の歴史条件を可視化します。

指導者像の差

Soviet artではLeninやStalinの指導者像が大量に制度化され、Nazi GermanyでもHitlerの肖像と国家的儀礼が文化空間を支配しました。一方、New Deal public artの中心はRoosevelt個人の神格化ではなく、地域史、労働、産業、国民生活の場面でした。

美術館に対する国家介入

ドイツでは公立美術館から作品を没収してcollectionを破壊し、ソ連ではcollection・展覧会政策を国家的歴史叙述へ組み込み、米国では政府が新たに公共建築へ作品を配分しました。国家とmuseumの関係も一様ではありません。

作家の身分

ナチ・ドイツでは職業許可を失うことが制作活動そのものの禁止へつながり、ソ連では公式組織から外れることが発表と注文を極端に困難にしました。米国FAPでは失業資格と雇用制度が作家生活を支えましたが、事業終了後は再び市場へ戻る必要がありました。

「大衆」の意味

三つの制度はいずれも「多くの人に理解される美術」を重視する場面がありました。しかしナチとスターリン体制では大衆が政治的教化の対象となるのに対し、New Dealでは美術教育と文化へのaccess拡大という民主的公共サービスの理念も強く含まれていました。

それでもWPAを理想化しない

New Deal programsにも国家的自己像、Americanism、地域の固定化、人種・ジェンダーの偏りがありました。《Index of American Design》の選択範囲やBlack artistsが直面した差別は、民主的制度も社会の不平等をそのまま持ち込むことを示します。

Soviet artを全て「低品質propaganda」にしない

社会主義リアリズムの制度的強制を批判的に理解することと、個々の作品の形式的複雑さを無視することは別です。Deineka、Samokhvalov、Pimenovらは制約の中でも構図、色、写真性、速度感など独自の造形を発展させました。

ナチ公認美術にも差異はある

《大ドイツ美術展》に出品された作品は一枚の均一なstyleではありませんでした。風景、genre painting、industrial subject、nude、sculptureなど幅があり、国家が許容する範囲内で作家差は存在しました。ただし、その許容範囲を人種・政治・美学の国家基準が決定した点は変わりません。

国家制度の中でも作家は選択する

作家は国家命令の単なる受動的な実行者ではありません。応募する、拒否する、亡命する、様式を変える、制度内で仕事を得ながら個人的研究を続けるなど、状況に応じて異なる選択をしました。その選択可能性の幅自体が体制ごとに大きく違いました。

亡命という美術史

1930年代後半、ドイツ・中欧から多数の美術家、建築家、写真家、画商、学芸員が国外へ移動しました。1930年代の国家文化政策はEuropeの美術を内部で再編しただけでなく、London、Amsterdam、New York、Los Angelesなどへ人材を移動させ、戦後の美術地図を変えました。

New Yorkへの重心移動

European avant-garde artistsの移住、American artistsへのWPA支援、MoMAなど新しいmuseum institutionsの発展が重なり、1940年代にはNew Yorkが国際Modern artの主要中心へ成長する条件が整います。

1939年MoMAと没収作品

MoMAは1939年、ドイツから「退廃」として排除されたKirchnerやKlee、Matisseなどの作品を取得しました。Nazi stateが排除したmodern artがNew Yorkのmodern art museumへ移ることは、美術の国際的な価値体系が政治によって再配置されたことを象徴します。

現在の美術館に残る1930年代の痕跡

作品の来歴欄に「1937 confiscated as degenerate art」「1939 consigned to dealer」と書かれていることがあります。1930年代の国家政策は、現在の美術館collectionの構成そのものへ刻まれています。

New Dealの長期的遺産

政府が美術家を雇い、公共施設へ作品を設置し、地域の美術教育を支援するという発想は、その後の米国public artや文化助成の議論に長い影響を残しました。国家支援と芸術家の自由をどう両立するかという問題も同時に残ります。

「美術家も労働者である」

WPAが持った最も重要な思想の一つは、美術家を慈善の対象ではなく仕事をする専門職として雇用したことです。この考えはArtists Unionなど1930年代の作家運動とも重なり、制作を労働として捉える視点を強めました。

国家が最大のcollectorになる

1930年代の三つの体制では、国家機関が作品の主要な購入者・所有者・展示者になりました。市場の趣味だけではなく、行政の判断が「残る作品」と「消える作品」を決める力を持ちました。

国家が美術史を編集する

何をmuseumから外し、何を国民的名作として展示し、何を公共建築へ配るかによって、国家は同時代の美術史を編集します。《退廃芸術》の没収、Soviet leader imagesの複製、Index of American Designの選択は、異なる形でその編集作用を示しています。

行政文書も美術史資料になる

この時代を研究すると、作品そのものだけでなく応募用紙、給与記録、選考表、没収台帳、展示catalogue、写真、契約書が不可欠になります。国家が美術へ介入するほど、美術史は行政史・労働史・provenance researchと重なります。

数字は制度の規模を示すが慎重に扱う

没収作品数、WPA制作点数、展覧会来場者数には資料ごとの差があります。大きな数字だけを印象的に並べるより、何を一作品として数えたのか、巡回展を含むのか、制度再編後を含むのかを確認することが重要です。

1937年という交差点

Munichでは《大ドイツ美術展》と《退廃芸術》展が開き、Soviet UnionではGreat Terrorの最中にStalin cultが強まり、米国ではWPA printやmural事業が全国で活発に展開していました。同じ年に国家と美術の関係がまったく異なる三つの方向へ強く現れています。

1939年 — 戦争と制度の転換

Europeで第二次世界大戦が始まり、Nazi Germanyは占領地の文化財略奪へ政策を拡大します。米国ではFAP全国組織が再編され、Soviet Unionでも文化は戦争へ向かう国家体制の中で変化します。1930年代の文化政策が戦時文化へ接続する境界です。

1941–45年 — 戦争が主題を変える

Soviet artでは祖国防衛と戦争が中心主題となり、米国では戦時propaganda・情報デザインが増えます。Nazi Germanyでは《大ドイツ美術展》が1944年まで続く一方、文化統制は戦争・占領・略奪と結びついてさらに暴力的になります。

1945年を区切りにする

1945年にNazi regimeは崩壊し、Europeの政治地図と文化制度は再編されます。一方、Soviet Socialist Realismは戦後も長く続き、New Dealの文化政策はすでに1943年までに終了しています。したがって1945年は三つの制度が同時に終わる年ではなく、1930年代から続いた「国家と美術」の関係が新しいCold War構造へ移る境界として置いています。

比較は「同じだ」と言うためではない

比較の目的は、独裁国家と民主主義国家の文化政策を同一視することではありません。むしろ同じ「国家支援」「公共美術」「写実」という言葉が、政治制度によってどれほど異なる意味を持つかを見分けるためです。

最も重要なのは拒否できるか

国家と美術の関係を比べるとき、作家が国家注文を断れるか、別の様式を制作できるか、別の場所で展示できるか、国外へ移動できるか、拒否したことで刑事・職業的迫害を受けるかという点が重要です。資金の出所だけでは自由度は測れません。

政治制度と作品評価を混同しない

政治的に抑圧的な制度から生まれた作品に造形的価値がないとは限らず、民主的制度の作品が自動的に優れているわけでもありません。美術史では制度の倫理と作品の形式を分けながら、両者がどこで接続するかを見る必要があります。

観客は受動的ではない

《退廃芸術》展へ予想以上の人々が訪れたように、国家が意図した読み方と観客の経験は必ずしも一致しません。公共壁画でも地域住民が支持・批判し、作品の意味は行政が完全に統制できませんでした。

1930年代に「公共文化」が巨大化する

展覧会、壁画、poster、community art center、museum collection、mass reproductionを通して、美術は従来以上に大規模な公共へ届けられました。それが教育、福祉、国家神話、排除のどれに使われるかは政治体制と制度設計によって大きく異なります。

ART HISTORYとしてのまとめ

1930年代の国家と美術を理解する鍵は、写実対抽象という様式論だけではありません。Nazi Germanyでは国家が「誰が作家か」「何がドイツ美術か」を人種・政治・美学の基準で選別し、Soviet Unionでは芸術家組織と公式制作方法によって社会主義の未来像を制度化し、United Statesでは大恐慌への雇用政策を通して政府が美術家を公共文化の労働者として大量に雇いました。三者を同一視せず、国家が資金、職業、展示、collection、観客をどう組織したかを見ることで、1930年代美術は単なるstyleの歴史から社会制度の歴史へ広がります。

次へ — 1913年以降のアメリカ美術の前史

弱点補強を続けるなら、次はArmory Show 1913、Alfred Stieglitzと291、Precisionism、Edward Hopper、Regionalism、Mexican muralismの米国への影響をまとめると、このNew Deal artから1940年代New Yorkへつながる前史がより明確になります。

参考資料・出典

本ページは、United States Holocaust Memorial Museum、Deutsches Historisches Museum、Haus der Kunst、Museum of Modern Art、Staatliche Museen zu Berlin、State Russian Museum、National Archives and Records Administration、Library of Congress、Smithsonian American Art Museum、Archives of American Art、National Gallery of Art等の美術館・公文書館・研究機関の資料を参照し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。原文の全文翻訳ではありません。

Nazi Germanyの文化統制についてはUnited States Holocaust Memorial MuseumとDeutsches Historisches Museumを参照し、1933年9月のReichskulturkammer設立後、film、music、theater、press、literature、radio、fine artsが監督対象となり、Jewish artistsや政治的・芸術的に不適格とされた人々が文化職から排除されたことを扱いました。

《Große Deutsche Kunstausstellung》についてはDeutsches Historisches MuseumとHaus der Kunstのhistorical archiveを参照し、1937年7月18日にHaus der Deutschen Kunstの開館展として始まり1944年まで年次開催されたこと、Reich Chamber of Fine Arts membershipがprofessional artistsに事実上必須だったこと、展覧会が国家的文化宣言であると同時に作品販売市場でもあったことを扱いました。

1937年《Entartete Kunst》についてはUSHMM、DHM、MoMAを参照し、7月19日にMunichで開幕し、Expressionism、Dada、Neue Sachlichkeit、Cubism、Surrealism等のmodern artを「degenerate」として侮辱的に展示したこと、作品を過密に掛け、侮辱的なsloganや精神疾患との比較によって観客の読み方を誘導したことを扱いました。

《Entartete Kunst》展の作品数については資料間に差があります。DHMは650点、MoMAは740点、USHMMは600点以上と記録しています。また没収総数についてMoMA・USHMMは20,000点以上、DHMの一部資料は約16,000点とします。本記事では集計対象・時期の差を考慮し、一つの数字を絶対値として固定していません。

没収作品の処分についてはUSHMMとMoMA Provenance Researchを参照し、1938年の法制化後、一部がforeign currency獲得のためart dealersや1939年Lucerne auctionを通して国外へ売却され、一部が破壊されたことを扱いました。Kirchner《Street, Berlin》、Klee《Around the Fish》、Matisse《The Blue Window》等の来歴はMoMA collection recordsで確認しました。

Emil NoldeについてはStaatliche Museen zu Berlinの2019年展「Emil Nolde. A German Legend. The Artist during the Nazi Regime」を参照しました。NoldeがNazi Party memberで政権支持を持ちながら、作品が大量に「degenerate」として没収され職業禁止を受けたことを、単純な「反Naziの迫害芸術家」像を修正する重要な事例として扱っています。

Soviet Socialist RealismについてはState Russian Museum「Radiant Future. Art of Socialist Realism」、MoMAのRodchenko資料、Russian Museumの各作品記録を参照しました。1930年代に国家がartistic processを強く規制し、Socialist Realismを大衆に理解可能で教育的・物語的な公式方法として位置づけたことを記事の基本枠としています。

Alexander DeinekaについてはState Russian Museum《Textile Workers》《Midday》およびUSSR 100th anniversary virtual exhibitionを参照し、poster-like flatness、rhythm、photographic reference等のmodernist elementsを残しながら、labor、industry、sport、youthを中心にSoviet public lifeを描いたことを扱いました。

Stalin cultについてはState Russian Museum所蔵のYury VasilyevによるAlexander Gerasimov《Joseph Stalin and Kliment Voroshilov in the Kremlin》のauthorized copyと解説を参照し、leader imagesが国家防衛・平和の守護者という神話的役割を担い、大量複製されたことを扱いました。

New Deal art programsについてはSmithsonian Archives of American Art、National Archives、Library of Congress、National Gallery of Artを参照し、PWAP(1933–34)、Treasury Section of Painting and Sculpture / Section of Fine Arts(1934–43)、WPA Federal Art Project(1935年開始)を別制度として整理しました。特にTreasury Sectionはrelief projectではなくjuried competitionによるfederal building commissionsであったことを明記しています。

PWAPについてはSmithsonian American Art MuseumとArchives of American Artを参照し、1933年12月から1934年6月頃までの短期間に約4,000 artistsを雇用し、「American Scene」を扱う作品を公共建築へ制作したことを扱いました。

WPA Federal Art ProjectについてはNational Archives Record Group 69、Library of Congress、National Gallery of Artを参照し、1935年にFederal Project Number Oneの一部として開始され、mural、easel painting、graphic arts、poster、art education、community art centers、Index of American Design等を展開したことを扱いました。全国組織の再編後もstate projectsは1943年まで継続しました。

Stuart Davis《Swing Landscape》についてはNational Gallery of Artのonline catalogueを参照し、New York WPA/FAP Mural Divisionのcommissionとして制作され、public housing projectのための抽象的・jazz的な大型構成であったことを扱いました。New Deal artがrealism一色ではなかった重要な例です。

Jackson PollockについてはMoMA chronologyとartist profileを参照し、1935年からFederal Art Projectで働き、mural/easel divisionsを経験し、政府給与が市場成功以前の制作を支えたことを扱いました。WPA経験を後年のdrip paintingの単一原因とはしていません。

Harlem Community Art CenterについてはSmithsonian American Art MuseumとLibrary of Congressを参照し、WPA/FAP支援のもと無料・低料金のart classesを提供し、Augusta Savage、Gwendolyn Bennett、William H. Johnsonらが関わり、Jacob LawrenceやRoy DeCaravaを含む若い世代へ影響したことを扱いました。

Index of American DesignについてはNational Gallery of Artを参照し、18,257 watercolor renderings、約1,000 artistsからなる巨大なdocumentation projectであり、unemployed artistsの雇用、American decorative/folk artsの記録、contemporary designの資料化を目的としたことを扱いました。同時にNGAの近年研究が指摘するIndigenous、African American、Asian American material cultureの排除・不足も明記しています。

本記事ではNew Deal artをNazi・Soviet state artと単純に同一視していません。国家資金という共通項と、政治体制・職業強制・様式規制・異議申し立て可能性の違いを分け、比較の目的を「同じだと示すこと」ではなく「国家が美術へ介入する方法の差を理解すること」としています。

資料確認日:2026年10月2日 / ART LIBRARY