Art Library
Art History

紀元前1700–1200

青銅器時代のアナトリア

ヒッタイトの城門と石彫

アナトリア高原の中央部は、冬に雪が降り、夏には乾いた日が続く内陸の土地です。広い平野では麦を育て、丘の草地では羊や牛を飼いました。黒海へ向かう山道、南のシリアへ下る谷、西のエーゲ海方面へ続く街道が高原の町々を結び、銅や銀、交易で運ばれる錫、織物などが行き交っていました。周囲に岩山が迫る場所には、道を見下ろす集落や城壁が築かれました。

紀元前2千年紀の前半、現在のトルコ中部には独立した町や小王国がいくつもあり、カネシュ(キュルテペ)などではアッシリアの商人が取引の記録を粘土板に残しました。その後、ハットゥシリ1世が紀元前1650年頃にハットゥシャを王都とし、ヒッタイト王国が勢力を伸ばします。紀元前14〜13世紀にはアナトリアからシリア北部に及ぶ帝国となり、宮廷では楔形文字と、人物や動物の形を取り入れたアナトリア象形文字が併用されました。

この間に作られた品々は一種類の様式に収まりません。初期の陶器には祭礼に集まる人々が粘土の浮彫で並び、後期の都城では石造門に獅子や武神が刻まれました。巨大な岩壁には神々の行列が彫られ、銀の器には細かな奉納場面が打ち出されています。祭礼壺は器の周囲を回ると別の人物が現れる作りで、城門の獅子は通路の左右の石塊から胸を張り出します。人が手に取る器と、街道から見上げる門では、図像を置く場所も彫る方法も異なっていました。

ヒッタイト王国の成立と高原の古い造形

カネシュの交易都市からハットゥシャの王都へ

紀元前19〜18世紀のカネシュでは、アッシリアから来た商人と地元の人々が錫や織物、銅や銀を交換し、借金や売買契約を楔形文字で書き残しました。印章を転がして模様を付けるメソポタミア式の封印も、この交易の場で使われています。ハットゥシャにも同じ頃の集落があり、紀元前18世紀頃にはクッシャラの王アニッタによる攻略の伝承が残ります。

ハットゥシリ1世の頃、王権の中心は岩丘を抱くハットゥシャに移りました。町の名はそれ以前から使われていた地名を受け継いでいます。古王国の紀元前17〜16世紀には、ヒッタイト語が王朝の文書言語として用いられるようになり、南方へ軍事活動を行う一方、各地の神々と祭礼を王国に取り込んでいきました。後世の帝国時代に彫られた岩壁神像を、この成立期にさかのぼらせることはできません。(参照:メトロポリタン美術館|ヒッタイトの歴史と美術/トルコ文化観光省|ハットゥシャの遺構と発掘)

獅子と二頭の雄牛を刻んだ初期の印章

メトロポリタン美術館には、紀元前17〜16世紀頃のものとされる黒い赤鉄鉱製の印章があります。高さ3.5センチ、印面の直径2.6センチ。上部に槌の形をした持ち手が付いており、丸い印面には後ろ脚で立つ獅子と、互いに背を向けて横たわる二頭の雄牛が彫られています。獣たちの周囲を、帯を編んだような曲線文様が取り巻きます。

これは器物や封泥に押して図柄を残すスタンプ印章です。印面を実際に押した現代の型を見ると、細い文様がくっきりした輪を作ることが分かります。編み紐風の縁取りはアッシリア商人の活動期の印章に通じますが、ヒッタイト時代のアナトリアでは、転がす円筒印章よりも押し付ける印章が広く使われました。材料の硬い赤鉄鉱を彫る細工が、手に収まる小さな面に動物を配置しています。(参照:メトロポリタン美術館|獅子と雄牛を刻んだ黒色赤鉄鉱の印章(1999.325.203))

初期の祭礼用土器|動く人物を粘土で表す

イナンドゥック壺|四段の帯に並ぶ祭りの場面

アナトリア中部のイナンドゥックテペから出土した大きな祭礼壺は、高さ約82センチ。粘土を成形した胴に人物や動物を貼り付け、四段の帯に沿って場面をつないだ作品です。紀元前17世紀中頃の初期ヒッタイトの器として、現在はアンカラのアナトリア文明博物館に収蔵されています。人々の衣服や髪、楽器の輪郭を浮き上がらせ、彩色によって別々の人物を見分けられるようにしました。

下段には飲み物を扱う人々や楽師、上の段には雄牛と供犠に関わる行為、さらに人物が向き合う部屋のような場面が続きます。最上段の寝台上の男女像を含め、全体を婚礼または宗教的な婚姻儀礼と読む解釈が広く用いられています。王と王妃、神と女神のどちらの関係を描いたのか、行為の順序を器の周囲でどこから追うのかには研究の余地が残ります。出土した壺に「聖婚の式次第」を説明する文字はありません。(参照:トルコ文化財博物館総局|アナトリア文明博物館のイナンドゥック祭礼壺・青銅条約板/I・T・シパーヒ(2014年)|初期ヒッタイトの浮彫土器の再検討)

壺に描かれた大きな竪琴と演奏者

イナンドゥック壺の下部には、箱形の胴を高く立ち上げた竪琴があり、その左右に楽師が配置されています。器に表された楽器の大きさは演奏する人物の背丈を超え、上の横木には鳥や馬の頭のような端飾りが付いています。人物が楽器を挟む位置、弦に向ける腕、周囲の飲酒場面が、儀礼の中で音楽が奏でられた状況を伝えています。

ヴュルツブルク大学の楽器研究は、この図像に見られる大きさや二人の奏者に着目し、楽器自体に宗教的な役割が与えられていた可能性を論じています。箱形の竪琴にはメソポタミアの楽器文化との共通点も見られます。音の高さや実際の構造は陶器の浮彫だけでは決められず、研究者はほかの地域の楽器図像を参照しながら復元を試みています。(参照:ヴュルツブルク大学|イナンドゥック壺の竪琴図像研究)

ヒュセインデデの浮彫壺|踊り手・楽師・牛跳び

チョルム地方のヒュセインデデ・テペでは、1990年代末からの発掘で古王国時代の建物と浮彫土器の破片が見つかりました。修復された壺のひとつには、弦楽器を弾く男性、打楽器を持つ女性、その間で両腕を上げて踊る女性が並びます。人物は胴の周囲を巡る粘土の帯に貼り付けられ、指先や衣服の表面まで別々に整えられています。

別の壺では、角を持つ雄牛の近くで身を反らせたり、跳び越そうとしたりする人物が表されます。発掘者のタイフン・ユルドゥルムらは2001・2002年の報告で、踊り手と奏楽者の配置を調べ、楽器を伴う祭礼の実際の動作について検討しました。クレタ島の牛跳びの図像と共通する身振りもありますが、二つの地域が同一の儀礼を行ったという確証はありません。制作年代はおおむね紀元前16世紀の初期ヒッタイト期に置かれます。(参照:T・ユルドゥルム(2001年)|ヒュセインデデ祭礼壺に刻まれた踊り手/T・ユルドゥルム(2002年)|ヒュセインデデの第二浮彫壺と奏楽図/I・T・シパーヒ(2014年)|初期ヒッタイトの浮彫土器の再検討)

浮彫の貼り付けと彩色|器の上に小さな行列を作る

これらの壺は、器の表面に直接線を引いて人物を描くだけでなく、別に成形した粘土の身体や動物を付け、焼く前に細部を整える方法で飾られました。胴を一周する段を重ねると、見る人は器の周囲を回りながら、楽師や飲酒する人物、供犠の場面を順に追えます。白と赤褐色の色分けは、浮彫の輪郭に沿って人物や背景の面を区別する役割を持ちます。

イナンドゥックとヒュセインデデの壺だけでなく、ビティクやエスキヤパルなどでも浮彫土器の破片が出土しました。シパーヒの2014年の研究は、各遺跡の帯の構成と登場人物を比較し、王権儀礼、動物への奉納、演奏場面の組み合わせを検討しています。破片一つしか残らない器について、完全な祭礼の順番を再構成することは難しく、出土した位置と壺のどの高さに属するかを区別して調べています。(参照:I・T・シパーヒ(2014年)|初期ヒッタイトの浮彫土器の再検討)

ハットゥシャの都城|石の基礎と日干し煉瓦の建物

岩山と谷を使った下の町・上の町

ハットゥシャは現在のボアズカレにあり、谷の北側に下の町、斜面を登った南側に上の町が広がります。岩山を切り崩すのではなく、突出した岩を防備や建物の一部に取り込み、谷間の道と高台の宮殿を結びました。外周には長大な城壁が巡り、現在の発掘図には下の町、ブユックカレの王宮丘、上の町の神殿群、複数の城門が描かれています。

石を積んだ下部はよく残りますが、壁の上部は日干し煉瓦や木材が中心でした。現在の石組みだけで古代の建物の高さを推定する際は、柱穴や焼け落ちた煉瓦、扉の軸を受ける穴も参照します。2024年に発表した発掘責任者アンドレアス・シャハナーの研究は、放射性炭素年代や建物の重なりを用いて、都市の区画が時期ごとに移ったことを示しました。一般的な復元平面図に描かれる全域が、ある一時点で同時に建物で満たされていたとは考えられていません。(参照:UNESCO世界遺産センター|ハットゥシャの都市・城門・岩壁彫刻/A・シャハナー(2024年)|ハットゥシャの都市発展と年代の再検討)

大神殿|中庭・二つの聖所・巨大な貯蔵甕

下の町の大神殿、通称「第1神殿」には、広い中庭と、その奥に二つの独立した奥室が置かれています。主に天候を司る神とアリンナの太陽女神のための聖域と理解され、敷石の庭を歩いて奥室へ進む平面でした。現在地表に残る石の土台には、整形した大きな石材を並べた場所と、細かい石で壁を支えた場所があり、その上には日干し煉瓦壁や木製の柱が立っていたと考えられます。

神殿の周囲には列状の細長い部屋が築かれ、大甕を据えた倉庫、道に面した部屋、書記の記録を残した場所が見つかっています。大甕の位置が動かない状態で出土した例は、食料や液体を貯える施設だったことを裏づけます。ドイツ考古学研究所が2024年に刊行した発掘報告では、寺院と周辺建築の造営を帝国形成期に関連づけて見直しました。今見える建物の一群を、王国成立当初に一括して築いたと考える従来の説明は再検討されています。(参照:トルコ文化観光省|ハットゥシャの遺構と発掘/ドイツ考古学研究所|ハットゥシャ大神殿・倉庫・南地区の発掘報告(2024年))

上の町の神殿群|庭から奥室へ向かう建物

上の町では獅子門と王の門を結ぶ城壁の内側に、大小の神殿の基礎が集中しています。中央の庭を囲む部屋の並びから、前室を経て奥の深い室内へ至る例が確認できます。神殿ごとに入口の向きや庭の形は異なり、祭壇や祭器を置いた場所も同じ配置ではありません。王朝がさまざまな土地の神々を祀ったことと、都の中に複数の聖域が必要だったことが結び付いています。

神殿地区の調査では土器や道具、祭祀に用いた小品、文字資料が、それぞれの建物に対応する形で記録されました。ドイツ考古学研究所の出土遺物報告は、神殿の建て替えと城門周辺の建物の関係も調べています。どの神殿で誰に何を供えたかという問題は、部屋の大きさだけでなく、祭礼文書と残された祭器を照合して研究されています。(参照:ドイツ考古学研究所|ハットゥシャ上の町・神殿地区の出土遺物/トルコ文化観光省|ハットゥシャの遺構と発掘)

ブユックカレ|王宮丘の中庭と行政の部屋

下の町を見下ろす岩丘ブユックカレには、門を抜けていくつもの中庭を通る王宮の複合建築がありました。石の基礎の上には木柱と日干し煉瓦を使った部屋が並び、回廊や広い集会用の空間、倉庫、記録の保管場所が組み込まれていました。丘の高低差が大きいため、各建物は同じ床の高さに並ぶのではなく、段差を持つ区画に分かれています。

門・庭・廊下を通って機能の異なる部屋へ移る動線が、王宮の建物群をつないでいました。発掘で見つかった粘土板の文書や封泥と、倉庫や出入口の位置を照合することで、外交文書を扱う場所と物資を管理する場所の関係が研究されています。石組みと建物の位置は残っていますが、上階や屋根の姿にはなお推定が含まれます。(参照:トルコ文化観光省|ハットゥシャの遺構と発掘/A・シャハナー(2024年)|ハットゥシャの都市発展と年代の再検討)

城門の石彫|獅子・武神・スフィンクス

獅子門|開いた口と前へ張り出す胸

上の町の南西にある獅子門には、外側に顔を向ける一対の大きな獅子が刻まれています。門の左右の石材から頭と胸が盛り上がり、開いた口には歯の形、顔には目と鼻筋が深く彫られます。獅子の身体は門口の石組みと一体になっており、壁に絵を貼った装飾とは異なります。城外から門に近づくと、二頭の視線が通路を挟んで向かい合う姿になります。

門の石は角をそろえて積み、上部の日干し煉瓦壁の重みを支えていました。現地では左右の獅子の保存状態が違い、傷んだ部分には近代の修復が加えられています。門が築かれた時期は帝国期の紀元前14〜13世紀を中心に考えられますが、城壁と門の造り替えが一度で終わったとは確定していません。彫刻の未完成に見える部分を、紀元前1200年頃の都市の終焉と直接結び付ける解釈にも検討が続いています。(参照:UNESCO世界遺産センター|ハットゥシャの都市・城門・岩壁彫刻/A・シャハナー(2024年)|ハットゥシャの都市発展と年代の再検討)

王の門|兜と斧を持つ武神像

上の町の南東にある「王の門」では、門の内側の石壁に、前へ踏み出す人物が大きく浮き彫りにされています。短い腰衣をまとい、頭には角の付いた兜をかぶり、肩の後ろには刃が曲がった斧、腰には剣を備えています。人物の腕や脚の筋肉、衣服の細い線を石の表面に刻み、建物を通る人の目の高さより大きく見えるようにしました。

発見後「王の門」と呼ばれたのは、当初この人物を王の姿と考えたためです。兜の角はヒッタイトの図像で神格を表す特徴なので、現在は守護を担う神、あるいは武神として説明されます。誰という神名まで確実に読める銘文はこの像に残っていません。原像はアンカラのアナトリア文明博物館に移され、門にあるのは複製です。門の建造年代も獅子門と同様、壁の改築段階を含めて研究されています。(参照:コチ大学デジタルコレクション|ハットゥシャ王の門の武神像/UNESCO世界遺産センター|ハットゥシャの都市・城門・岩壁彫刻/A・シャハナー(2024年)|ハットゥシャの都市発展と年代の再検討)

イェルカプのスフィンクス門|高い人工土塁と地下通路

最も高い南側の城壁に設けられたスフィンクス門は、イェルカプと呼ばれる大きな人工の土塁の頂上にあります。斜面には石を敷き詰め、外側の両脇に階段を設け、土塁の下には石材を互いに寄せかけて天井を作る地下通路を通しました。巨大な土木構造の上に門を置くため、城門へ近づく人は斜面と石壁を下から見上げることになります。

門の両側を飾った人頭と獅子の身体を組み合わせるスフィンクス像は、20世紀の発掘後、修復のため国外に運ばれたものがありました。ベルリンに保管されていた像について2011年にトルコへの返還が合意され、現在のイェルカプの門には保存のための複製が設置されています。現地の石像と古代の石像を区別することは、傷みやすい野外の彫刻を理解するうえでも欠かせません。(参照:UNESCO世界遺産センター|ハットゥシャの都市・城門・岩壁彫刻/ドイツ考古学研究所|ハットゥシャの門・城壁・神殿の保存修復報告/プロイセン文化財財団(2011年)|ハットゥシャのスフィンクス像返還)

ヤズルカヤの岩壁聖所|神々が向かい合う二つの室

自然の岩の割れ目に彫られた神々

都の郊外約2キロメートルにあるヤズルカヤは、岩が自然に向かい合ってできた空間を利用する聖所です。岩室の前面には神殿式の建物も設けられ、訪れる人は開けた前庭から岩壁の間へ進みました。彫刻の向きと順序は、入口から奥へ向かう通路と岩肌の方向に合わせて決められました。主要な仕上げは紀元前13世紀、トゥドハリヤ4世の頃に行われたと考えられています。

石壁に表された人々は、短い服を着た神、丈の長い衣服の女神、山や動物の姿を組み込んだ神々に分かれます。立像の体は横を向きながら胸を正面に近く見せる表現が多く、脚をそろえて前へ進む姿勢が繰り返されます。もとの岩の面を削り残す浮彫によって、岩室そのものに連続した行列を作りました。(参照:トルコ文化観光省|ヤズルカヤ岩壁聖所のA・B室/トルコ文化観光省|ヤズルカヤの造営段階とトゥドハリヤ4世/G・ベックマン(2013年)|ヒッタイトの聖域と岩山の造形)

A室|男神と女神の列が中央へ集まる

広いA室の西側壁面では、角のある先のとがった帽子、短い腰衣、先の反った靴を身に付けた男神たちが奥へ向かって進みます。手に曲刀や棍棒を持つ姿が繰り返され、人物の間には象形文字で名を添えた例があります。向かい側の東側には長い衣を着た女神たちが列を作り、頭には筒状の飾りを載せています。異なる装束の二列が北の奥壁で向かい合う構成です。

中央の大きな群像では、嵐の神テシュブと女神ヘバトが向かい合い、その近くに息子のシャルマ、双頭の鷲、山を人の形にした神々が置かれています。テシュブは山の神々に支えられる形で高い位置に立ち、神々の身分や関係を大きさと足元の動物・山によって描き分けています。ここでの神名と神々の関係には、ヒッタイト王国に取り込まれたフルリ系の宗教文化が反映されています。(参照:トルコ文化観光省|ヤズルカヤ岩壁聖所のA・B室/G・ベックマン(2013年)|ヒッタイトの聖域と岩山の造形)

B室|十二神の行進と剣の形をした神

狭い通路から入るB室では、翼のある獅子頭の人物像が入口を守り、内部の西壁には同じ姿勢の十二神が列をなします。神々は短い腰衣と円錐形の帽子を着け、肩から先の姿が互いに重なるほど近くに並びます。向かい側には下へ長く伸びる剣身を中心に、柄を人物の頭と向かい合う獅子頭に見立てた「剣の神」の大きな浮彫があります。

B室の別の壁面には、シャルマ神に抱き寄せられるトゥドハリヤ4世の像と、王名を示す象形文字があります。三つの壁龕も掘られています。剣形神や十二神を冥界に関わる神々と解釈し、この室を王の死後の祭祀と結び付ける説があります。壁龕に遺灰が納められていたかどうかは発掘で確定していないため、王墓そのものと断定する説明は避けるべきです。(参照:トルコ文化観光省|ヤズルカヤ岩壁聖所のA・B室/トルコ文化観光省|ヤズルカヤの造営段階とトゥドハリヤ4世)

王の保護と暦の仮説|読み取れることの範囲

A室の東側にはトゥドハリヤ4世を大きく刻んだ像があり、王が神々の秩序の中に位置づけられています。岩壁の図像には王と神を結び付ける装束、名を記した記号、互いに向かい合う配置が残ります。この聖所で何月のどの祭礼が行われたのかを直接記した碑文は見つかっておらず、行列が儀礼の参加者を描くのか神々の集まりを象徴するのかも検討されています。

エバーハルト・ツァンガーとリタ・ガウチらは2019年から暦との関係を提唱し、2021年にはA室の64の神格図像を日、月、年の周期に対応づけ、A・B両室を天空・地上・冥界を含む宇宙像と読む研究を公表しました。図像を数えて周期に割り当てる論証と、実際に暦を記録していた証拠とは別です。図像の欠損、彫り直し、祭礼文書との対応などを踏まえ、暦としての具体的な使い方を立証できるかが議論されています。(参照:E・ツァンガー、R・ガウチ(2019年)|ヤズルカヤの暦機能仮説/E・ツァンガーほか(2021年)|ヤズルカヤの天文暦・宇宙像仮説/トルコ文化観光省|ヤズルカヤ岩壁聖所のA・B室/G・ベックマン(2013年)|ヒッタイトの聖域と岩山の造形)

アラジャ・ホユック|地方の門を飾る物語の浮彫

スフィンクス門と門柱の石彫

ハットゥシャの北東にあるアラジャ・ホユックでは、紀元前14世紀を中心とする帝国時代のスフィンクス門が見つかっています。門口を挟む二体のスフィンクスは、獅子の太い前脚とふくらんだ身体の上に人の顔を付けた姿です。門柱の内側には双頭の鷲が小動物をつかむ図像もあり、門の外側に置かれた石板には人物や動物の行列が浮き彫りにされています。

門の左右の塔の基部に据えた彫刻石板を「オルソスタット」と呼びます。地面に近い高さに横並びにして、建物の表面を連続する場面で飾る方法です。現地には古代の石と修復・移動を経た石材があり、石板の一部はアンカラへ運ばれています。アラジャ・ホユックでは古い王墓からも金属製品が大量に見つかりましたが、それらは主に紀元前3千年紀の遺物で、スフィンクス門の彫刻よりずっと古い時代に属します。(参照:トルコ文化観光省|アラジャ・ホユックのスフィンクス門と石彫/アナトリア研究誌|アラジャ・ホユック門柱に表された大王妃の検討)

雄牛の前で祈る人々と祭礼の行列

門の石板には、雄牛の前で祈る王と王妃とみられる人物、神への供え物を運ぶ人々、奏楽者や曲芸をする人物が続きます。背後では牛や羊が引かれ、長い衣服の人物と短い服の人物が交互に現れます。下段に祭礼、上段に狩猟という二つの主題を組み合わせた石板があり、鹿を追う人や野猪の姿も彫られました。

出土した石板の並びには、調査史上の問題があります。1907年に発掘したテオドール・マクリディは落下した狩猟浮彫を見つけ、その原位置を復元しました。マフテルド・メリンクは1970年、石板の上下にある切り欠きや接合部を調べ、狩猟図が祭礼図の上に載ったという復元を支持しています。描かれた行事の意味を論じる際には、人物の図柄とともに、石板が実際にどこにはまっていたかという建築的な根拠が使われています。(参照:トルコ文化観光省|アラジャ・ホユックのスフィンクス門と石彫/M・J・メリンク(1970年)|アラジャ・ホユックの狩猟浮彫と石材配置)

街道と岩壁に刻まれた王権

フラクトゥンの岩壁浮彫|王と王妃による献酒

カイセリ地方のフラクトゥンでは、山麓の岩壁に二組の献酒の場面が並びます。紀元前13世紀頃の王ハットゥシリ3世は天候の神に向かい、王妃プドゥヘパは女神ヘバトに向かって、それぞれ器から液体を注いでいます。王と神の組、王妃と女神の組が横に並ぶ構図で、女性の長い衣服や器の輪郭、人物の上方に添えられた文字が岩の凹凸に沿って刻まれています。

プドゥヘパは王の外交文書にも名が現れる女性で、フラクトゥンの図像は王だけでなく王妃が神に奉納する姿を独立して表しています。ルーヴル美術館には、現地の岩壁浮彫を型取りした資料が収蔵されています。現場の石の風化状態や銘文の読みに応じて人物の同定が検討され、王の角付きの頭飾りを死後の神格化と関係づける説もありますが、彫った年を一点に決める証拠はありません。(参照:ルーヴル美術館収蔵目録|フラクトゥン岩壁浮彫の型取り資料/T・ファン・デン・ハウト(2018年)|ヒッタイトの牡鹿形銀杯と王族の奉納)

カラベルの峠道|ミラ王タルカスナワの姿

西アナトリア、現在のイズミル地方のカラベル峠には、岩肌に人物一人を大きく彫り出した浮彫があります。人物は横向きに立ち、短い衣服をまとって武器を持ち、上方にはアナトリア象形文字が残されています。山道を通る人が目にする岩壁に権威を刻むこの像は、王都の神殿内部に並べる彫刻とは場所の使い方が異なります。

古代ギリシアのヘロドトスはこの一帯の岩像をエジプト王のものと考え、近代の旅行者も長くその理解を引き継ぎました。J・D・ホーキンズは1998年の論文で、峠の文字とハットゥシャで見つかった封泥を照合し、この人物を紀元前13世紀頃のミラ王タルカスナワと読む論証を示しました。ミラはヒッタイト大王に従属する西アナトリアの国であり、この像は帝国の王自身ではなく地方王の存在を表しています。2025年の研究は、19世紀以降の模写に誤った姿が含まれたことも検証しています。(参照:J・D・ホーキンズ(1998年)|カラベル浮彫とミラ王タルカスナワの解読/考古学研究誌(2025年)|カラベル岩壁浮彫の記録と解釈の変遷)

銀・金・青銅の工芸|小さな器に彫られた祭礼

牡鹿形の銀杯|枝角と打ち出しの儀礼図

メトロポリタン美術館の牡鹿形銀杯は高さ18センチで、紀元前1400〜1200年頃のヒッタイト帝国時代に属するとされます。牡鹿の前半身を膝を折った姿で表し、顔には大きな目、頭には枝分かれした角、胸には細く彫り込んだ毛並みがあります。体をつくる部分は多数の銀板を打ち出して組み立て、図像の一部に金をはめ込んでいます。銀の器と立体的な動物像とが一体になった、飲み物を供えるための形です。

杯の上縁には、座る女神と鹿に乗る神格、供え物を持つ人物、狩猟に関わる場面が細い浮彫帯として巡っています。輪郭は裏側から叩き出し、表面から細部の線を整える方法で刻まれました。器の出土地を確実に示す発掘記録はなく、ハットゥシャから出た品として扱うことはできません。金の銘文の読みにも議論があり、作り手、奉納者、元の納置場所は研究されています。(参照:メトロポリタン美術館|銀・金象嵌の牡鹿形杯(1989.281.10)/T・ファン・デン・ハウト(2018年)|ヒッタイトの牡鹿形銀杯と王族の奉納)

二つの金色の記号をめぐる2018年の研究

牡鹿形銀杯の祭礼図には、金で縁取った楕円形の銘文が二つはめ込まれています。文字はアナトリア象形文字ですが、欠けや形の読み取りに難しさがあり、古くからすべての字を確定できていたわけではありません。神々への奉納場面の中で、銘文が神格と供え物を持つ人々の近くに置かれていることが、単なる装飾との違いです。

ヒッタイト語研究者テオ・ファン・デン・ハウトは2018年、金の記号と楔形文字史料を比較し、王女または王妃を意味する可能性のある言い回しを読み取り、王族女性による奉納品という仮説を示しました。誰の名前が書かれたか、どこの出身を表すかは確定できず、研究者自身も結論を開いたままにしています。銘文の位置と女神像を結び付ける推論は、銀杯の用途を考える一つの具体的な解釈です。(参照:T・ファン・デン・ハウト(2018年)|ヒッタイトの牡鹿形銀杯と王族の奉納)

銀製の雄牛形杯|二枚の銀板と角・目の細工

同じ美術館には、前脚を折った雄牛を表す銀製の杯があります。頭と胴は二つの銀製部分からなり、首の付け根を溝のある帯でつないでいます。丸い目と眉、鼻には別素材をはめた跡が残り、頬には花びらに似た隆起を重ね、胸元の垂れた皮膚を波形の線で表現しています。体の筋肉も裏側から打ち出して盛り上げられました。

ヒッタイトの祭礼文書には神々に動物形の飲用器を贈る記述があり、雄牛は嵐の神テシュブと強い結び付きがあります。所蔵館はこの杯が嵐の神の祭具であった可能性を挙げていますが、誰が使った器かを示す出土場所や奉納文はありません。銀板の継ぎ目、動物の顔に施した細工、書かれた儀礼の記録をそれぞれ区別して用途を考えることができます。(参照:メトロポリタン美術館|銀製の雄牛形杯(1989.281.11))

金箔を貼った有翼神像と文字のある銀塊

メトロポリタン美術館の青銅製の有翼神像は高さ4.1センチほどで、丸い帽子の一部に金箔を施してあります。短い腰衣を着た小さな身体から、鎌のように曲がる翼が左右へ伸び、足先も上へ反っています。片手には棒状のものを持ち、左翼には古い修理の可能性のある傷が残ります。ヤズルカヤの神々の行列にはよく似た有翼神があり、図像の近さから神格の同定が試みられています。

別の銀塊は約7.8×9センチで、表面にアナトリア象形文字が刻まれています。文字は判読が難しく、金工職人の材料だったのか、定まった重さで取引した銀だったのかは分かれている解釈です。金箔を貼った青銅像は鋳造と表面の装飾、銀杯は板金と打ち出し、銀塊は素材の保管と書記という、同じ工芸分野の中でも異なる工程を伝えています。(参照:メトロポリタン美術館|金箔を施した青銅製有翼神像(1990.255)/メトロポリタン美術館|アナトリア文字を刻んだ銀塊(1989.281.16))

ヒュセインデデの金属分析|銅とニッケルの合金

祭礼壺が見つかったヒュセインデデでは金属製品も出土しています。ゴンジャ・ダルデニズ、トゥンチ・シパーヒ、タイフン・ユルドゥルムは2019年の『Anatolian Studies』で、紀元前16世紀頃の遺構に関わる小規模な金属遺物群について材質分析を報告しました。結果には銅とニッケルの合金が含まれ、同種の技術が帝国期の王都だけに限られなかったことが分かりました。

当時の青銅は銅に錫などを加えて性質を変える材料でしたが、分析された遺物は一様な組成ではありません。金属器の用途、地中での腐食、製作時の混合によって見かけの色や硬さが変わります。銅・ニッケル合金が見つかった事実からすぐに産地や交易路まで断定することはできず、金属組成と鉱石の供給地は別の問題として調査されています。(参照:G・ダルデニズほか(2019年)|ヒュセインデデの初期ヒッタイト金属製品の分析)

封泥と青銅条約板|王の姿・文字・行政

二種類の文字を併用した王の印

ヒッタイトの王印には、円形の中心にアナトリア象形文字で王の名を記し、周囲に楔形文字で称号を並べる形式があります。小さな円の内側と外側で異なる書体を使い分けることで、印面に名前と公的な権威の両方を収めました。楔形文字は主として粘土板の文書に、アナトリア象形文字は印章や石の記念碑にも使われます。象形文字は主にルウィ語を表す体系として解読されています。

印章を押し付けた粘土には、図像のほか紐や布の表面が一緒に残る場合があります。これは文書や容器を封じた行為を物理的に記録した痕跡です。獅子や雄牛を刻んだ古王国期の小印章と、王名を文字で囲む帝国期の印とでは、絵と文字の割合が異なります。印面の図柄を歴史資料として扱うときには、文字の判読だけでなく何を封じた粘土なのかも調べます。(参照:ピサ高等師範学校|アナトリア象形文字の王印の書記法/メトロポリタン美術館|獅子と雄牛を刻んだ黒色赤鉄鉱の印章(1999.325.203))

ニシャンテペの封泥|王と王妃の印の大量出土

ハットゥシャのニシャンテペ地区では、多数の封泥がまとまって発見されました。粘土の小塊に円形の印が押され、中心の象形文字と周囲の楔形文字によって、帝国時代の王や王妃、高官の名と称号を読み取れる例があります。王家の人々の称号と行政の関係を追う資料で、封印の対象だった木板や包みが残らない場合にも、紐を巻いて閉じた跡が粘土に刻まれています。

ステファノ・デ・マルティーノらの2025年の研究は、この封泥群の一部を三次元計測し、肉眼では分かりにくい摩耗、縄目、布目、指紋、印面の細部を記録しました。凹凸の細かな分布から元の印章の形を再構成することも試みています。封泥に刻まれた王の姿は図像であると同時に、文書や物品の封印に使われた実務の道具の跡でもあります。(参照:トルコ文化観光省|ハットゥシャの遺構と発掘/トリノ大学・デ・マルティーノほか(2025年)|ニシャンテペの封泥の三次元観察)

トゥドハリヤ4世とクルンタの青銅条約板

1986年、ハットゥシャ南部のイェルカプ付近で、楔形文字をぎっしり刻んだ青銅の板が見つかりました。スフィンクス門の西約35メートル、道の舗装の下に意図的に埋められた位置にあり、両面に条約文が彫られています。紀元前13世紀中頃、ヒッタイトの大王トゥドハリヤ4世が、タルフンタッシャの王クルンタに与えた領土や義務を記したものです。原品はアンカラのアナトリア文明博物館に収蔵されています。

条約の文章は王位継承をめぐる過去の事情に触れ、領土の境界を町や川の名前で細かく定めています。金属板への刻字は公文書としても珍しく、トーマス・ツィンマーマンらは2010年、板の表面を傷付けない方法で金属組成を調べました。表面では錫の比率が非常に高く、銀色の光沢を出す処理を施した可能性が提案されています。測定は表面近くの成分を捉えるため、板の内部まで同じ組成だと決めることはできません。(参照:テキサス大学言語研究センター|トゥドハリヤ4世・クルンタ条約の原文と解説/T・ツィンマーマンほか(2010年)|ハットゥシャ青銅条約板の材質分析/トルコ文化財博物館総局|アナトリア文明博物館のイナンドゥック祭礼壺・青銅条約板)

帝国末期の造形と都市のその後

ギュネイカレの岩室|神像と長い碑文

ハットゥシャの上の町、ギュネイカレの人工池に接する「第2室」は、石を寄せかけて奥へすぼまる空間を作っています。壁には長い衣を着た人物と、翼を広げた日輪のような頭飾りが浮き彫りにされ、別の壁にはアナトリア象形文字が長く刻まれています。池と岩室を組み合わせた施設であり、入口から内部の図像へ視線が向かう建築です。

この建造物は末期の大王シュッピルリウマ2世の時代に関係づけられることが多く、岩室の人物を本人と読む解釈もあります。人物の頭飾りや碑文の語形から別の同定を提案する研究もあるため、像の名が刻まれていると即断はできません。王の権威を表す石彫と、行政的な内容を含む長文の文字が同じ施設に現れたことは、帝国末期の表現の特徴です。(参照:トルコ文化観光省|ハットゥシャの遺構と発掘/UNESCO世界遺産センター|ハットゥシャの都市・城門・岩壁彫刻)

紀元前1200年頃の変動と、残された石造遺構

紀元前13世紀末から12世紀初頭にかけて、ヒッタイトの中央王権は消滅し、ハットゥシャの行政・祭礼に使われた建物も使われなくなっていきました。古い概説には都が一度の攻撃で焼き払われたとするものがありますが、焼失のある区域と放棄された区域を区別する必要があります。シャハナーは2024年、都市各部の年代と建物の重なりを集め、住民が場所を移しながら都市を利用してきた長い過程を復元しました。

スチュアート・マニングらは2023年、ハットゥシャから西に離れたゴルディオンの墳丘墓に使われた木材の古い年輪を調べ、年輪の幅と炭素同位体比から紀元前1198〜1196年頃を中心とする三年続きの厳しい乾燥を報告しました。推定年には数年の幅があります。測定したのは古代の都に積もった灰ではなく、後の墓の建築に使われた木材です。この干ばつが農業と国家の維持に重い負担を与えた可能性はありますが、気候だけで帝国の崩壊を説明した研究ではありません。

ハットゥシャでは日干し煉瓦や木造の上部構造が失われても、城門の巨大な石材、神殿の土台、岩壁の浮彫、王印を残した封泥が調査できます。ヒッタイト系の言語や神々の図像を受け継ぐ北シリアの諸王国は、その後の鉄器時代にも存続しましたが、そこに残る紀元前1千年紀の石板浮彫は制作時代を分けて考えられます。都市の終焉については、焼失の前後関係、王宮を離れた人々の動き、交易と食料の供給を照らし合わせる研究が続いています。(参照:A・シャハナー(2024年)|ハットゥシャの都市発展と年代の再検討/メトロポリタン美術館|ヒッタイトの歴史と美術/S・マニングら(2023年)|樹木年輪・炭素同位体とヒッタイト帝国末期の干ばつ/コーネル大学|ゴルディオン木材の年輪で調べた紀元前1200年頃の干ばつ)

略年表

  • 紀元前1700年頃|アナトリア中部で複数の王国が争い、カネシュの交易文化を背景にヒッタイト王権が形成されていく
  • 紀元前1650年頃|ハットゥシリ1世の頃、ハットゥシャが王都となる
  • 紀元前1650〜1550年頃|イナンドゥックの浮彫壺に、飲酒・奏楽・奉納を含む祭礼の場面が作られる
  • 紀元前1600年頃|ヒュセインデデの浮彫壺や銅・ニッケル合金を含む金属器が用いられる
  • 紀元前1400年頃|ヒッタイト王国が帝国として勢力を広げ、城壁と祭祀建築の大規模な造営が進む
  • 紀元前1400〜1300年頃|アラジャ・ホユックのスフィンクス門と祭礼・狩猟の浮彫が作られる
  • 紀元前1400〜1200年頃|動物形の銀杯、金箔の有翼神像、王名を記した印章などが作られる
  • 紀元前1300年頃|ハットゥシャ上の町の城門・神殿地区で造営と改築が続く
  • 紀元前1270〜1240年頃|ハットゥシリ3世と王妃プドゥヘパの献酒がフラクトゥンの岩壁に刻まれる
  • 紀元前1250〜1220年頃|トゥドハリヤ4世の頃、ヤズルカヤの主要な岩壁彫刻と聖所の整備が進む
  • 紀元前1250〜1230年頃|トゥドハリヤ4世とクルンタの条約が青銅板に刻まれ、後にイェルカプ近くに埋められる
  • 紀元前1230〜1200年頃|ハットゥシャのギュネイカレで岩室と長い象形文字碑文が作られる
  • 紀元前1200年頃|ヒッタイト帝国の中央王権が終わり、ハットゥシャの建物の利用と居住は変化する

まとめ

初期ヒッタイトの祭礼壺では、器の胴に粘土の人物を貼り付けて帯状に連ね、彩色で奏楽者や動物、供物を描き分けました。帝国期のハットゥシャでは、大きな石材を門に組み込み、獅子の頭や武神の身体を門口から盛り上がるように彫っています。ヤズルカヤでは自然の岩壁を削り、男神と女神の行列を二方向から向かい合わせました。近くのアラジャ・ホユックでは、門の下部に据える石板を並べ、祭礼と狩猟の場面を上下の帯に分けています。

銀杯には何枚もの銀板を成形して組み合わせる技術と、器の縁に細い奉納図を打ち出す技術が見られます。押印した粘土には文字だけでなく紐や布、指の痕跡が残り、青銅の条約板には王の政治的な約束が金属そのものに刻まれました。こうした制作と使用の方法は、遺物の表面と出土場所を一緒に調べることで具体的に分かってきました。

まだ決められないのは、イナンドゥック壺の図柄がどの祭礼をどの順に描いたか、ヤズルカヤの岩室が暦として使われたか、出土地の確定しない銀杯を誰が奉納したかといった点です。王の門の人物像やギュネイカレの神像の同定、都城の各区域がいつ使われなくなったかにも解釈の幅があります。近年は石材の接合、封泥の三次元計測、建物の年代分析、象形文字の再読解が、それぞれの問いを少しずつ絞り込んでいます。

参考資料・出典

  1. UNESCO世界遺産センター|ハットゥシャの都市・城門・岩壁彫刻
  2. メトロポリタン美術館|ヒッタイトの歴史と美術
  3. トルコ文化観光省|ハットゥシャの遺構と発掘
  4. A・シャハナー(2024年)|ハットゥシャの都市発展と年代の再検討
  5. ドイツ考古学研究所|ハットゥシャ大神殿・倉庫・南地区の発掘報告(2024年)
  6. ドイツ考古学研究所|ハットゥシャ上の町・神殿地区の出土遺物
  7. ドイツ考古学研究所|ハットゥシャの門・城壁・神殿の保存修復報告
  8. ドイツ考古学研究所|ボアズキョイ=ハットゥシャ発掘報告シリーズ
  9. トルコ文化財博物館総局|アナトリア文明博物館のイナンドゥック祭礼壺・青銅条約板
  10. ヴュルツブルク大学|イナンドゥック壺の竪琴図像研究
  11. I・T・シパーヒ(2014年)|初期ヒッタイトの浮彫土器の再検討
  12. T・ユルドゥルム(2001年)|ヒュセインデデ祭礼壺に刻まれた踊り手
  13. T・ユルドゥルム(2002年)|ヒュセインデデの第二浮彫壺と奏楽図
  14. G・ダルデニズほか(2019年)|ヒュセインデデの初期ヒッタイト金属製品の分析
  15. メトロポリタン美術館|獅子と雄牛を刻んだ黒色赤鉄鉱の印章(1999.325.203)
  16. UNESCO世界遺産センター|獅子門を含むハットゥシャの城壁
  17. コチ大学デジタルコレクション|ハットゥシャ王の門の武神像
  18. プロイセン文化財財団(2011年)|ハットゥシャのスフィンクス像返還
  19. トルコ文化観光省|ヤズルカヤ岩壁聖所のA・B室
  20. トルコ文化観光省|ヤズルカヤの造営段階とトゥドハリヤ4世
  21. G・ベックマン(2013年)|ヒッタイトの聖域と岩山の造形
  22. E・ツァンガー、R・ガウチ(2019年)|ヤズルカヤの暦機能仮説
  23. E・ツァンガーほか(2021年)|ヤズルカヤの天文暦・宇宙像仮説
  24. トルコ文化観光省|アラジャ・ホユックのスフィンクス門と石彫
  25. M・J・メリンク(1970年)|アラジャ・ホユックの狩猟浮彫と石材配置
  26. アナトリア研究誌|アラジャ・ホユック門柱に表された大王妃の検討
  27. ルーヴル美術館収蔵目録|フラクトゥン岩壁浮彫の型取り資料
  28. T・ファン・デン・ハウト(2018年)|ヒッタイトの牡鹿形銀杯と王族の奉納
  29. J・D・ホーキンズ(1998年)|カラベル浮彫とミラ王タルカスナワの解読
  30. 考古学研究誌(2025年)|カラベル岩壁浮彫の記録と解釈の変遷
  31. メトロポリタン美術館|銀・金象嵌の牡鹿形杯(1989.281.10)
  32. メトロポリタン美術館|銀製の雄牛形杯(1989.281.11)
  33. メトロポリタン美術館|金箔を施した青銅製有翼神像(1990.255)
  34. メトロポリタン美術館|アナトリア文字を刻んだ銀塊(1989.281.16)
  35. トリノ大学・デ・マルティーノほか(2025年)|ニシャンテペの封泥の三次元観察
  36. ピサ高等師範学校|アナトリア象形文字の王印の書記法
  37. テキサス大学言語研究センター|トゥドハリヤ4世・クルンタ条約の原文と解説
  38. T・ツィンマーマンほか(2010年)|ハットゥシャ青銅条約板の材質分析
  39. トルコ文化観光省|ギュネイカレの岩壁浮彫・碑文と池
  40. S・マニングら(2023年)|樹木年輪・炭素同位体とヒッタイト帝国末期の干ばつ
  41. コーネル大学|ゴルディオン木材の年輪で調べた紀元前1200年頃の干ばつ