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1918–1930

秩序への回帰

第一次世界大戦後のヨーロッパ絵画

第一次世界大戦が終わった1918年頃から、ヨーロッパの画家たちの間で、人物や物をはっきりした形で描き、画面に安定感を与える表現が再び注目されました。この変化を美術史では「秩序への回帰」と呼びます。ピカソは古代の彫刻を思わせる大きな女性像を描き、ほかの画家たちも静物や肖像、古典的な構図を研究しました。前衛美術を経験した画家が、過去の美術から新しい表現を探し始めた時代です。

その背景には、1914年から4年間続いた第一次世界大戦があります。急速に発達した科学技術が大規模な破壊にも使われ、人々の生活や社会の価値観は大きく揺らぎました。戦後、形が明確で釣り合いの取れた絵画や、確かな重さを持つ人物像は、新たな意味を持ち始めます。古典的な美術への関心は、そうした時代の空気と、各画家の独自の制作上の問題が重なって広がりました。

この動きには、いくつもの方向があります。ピカソは古典的な人物画とキュビスムを同じ時期に描き、フェルナン・レジェは人間の身体を機械のような形へ変えました。オザンファンとル・コルビュジエは、瓶や器を単純な幾何学形として描く「ピュリスム」を提案します。イタリアではモランディやシローニらが、それぞれの方法で伝統と現代の関係を探りました。

この記事では、1918年から1930年までの絵画を中心に、なぜ古典的な表現が再び重要になり、画家たちが実際にどんな作品を作ったのかをたどります。代表作品の形と材料を具体的に説明し、フランスとイタリアの違い、当時の社会や政治との関係まで見ていきます。「秩序への回帰」を知ることで、抽象的な実験と古典的な表現が並行して発展した20世紀美術の豊かさが見えてきます。

「秩序への回帰」とは何だったのか

前衛美術の時代に古典的な絵画が再び注目された

第一次世界大戦後のヨーロッパでは、人物の輪郭や身体の量感、静物の安定した配置を改めて大切にする画家たちが現れました。この動きを美術史では「秩序への回帰」と呼びます。戦前のキュビスムでは対象が複数の面へ分解され、未来派では速さや運動が画面の中心になりました。戦後の画家たちは、そうした実験を経験したうえで、はっきりとした形や落ち着いた構図に新しい可能性を見いだします。

ギリシャ・ローマ美術やルネサンス絵画に学ぶ作家もいれば、機械製品の簡潔な形を使って現代的な秩序を探す作家もいました。古典主義が同じ意味を持つとは限りません。まず重要なのは、1918年を境にヨーロッパの絵画で「新しさ」を求める方向が複数になったことです。また、当時の画家が古典美術を参照したからといって、絵筆の使い方や人物の形まで同じになるわけではありません。どの時代の何を選び取ったかに、それぞれの独創性が現れます。(参照:ニューヨーク近代美術館|「秩序への回帰」の解説、グッゲンハイム美術館|「混沌と古典主義」展)

「秩序」が意味した輪郭・均衡・身体の重さ

「秩序」という言葉は、政治や生活の決まりだけを意味するものではありません。絵画の中では、形がどこで終わるのかを示す輪郭、画面の左右や上下の釣り合い、人物が確かな重さを持ってそこに存在する感覚などが大切になります。遠近法や陰影によって奥行きと体積を示す技法も、再び積極的に使われるようになりました。

第一次世界大戦以前の絵画実験が生み出した単純化や幾何学性は、そのまま生き残りました。ピカソの巨大な女性像には古典彫刻のような量感があり、レジェの人物には金属のような滑らかさがあります。外見の異なる作品を結びつけるのは、形を整理して画面全体に強い構造を与えようとする意識です。明快な輪郭を持つ絵画でも、絵具の厚さ、光の表現、背景と身体の関係は異なります。鑑賞するときには人物の表情とともに、形を支える線や色の配置を確かめてみると理解が深まります。(参照:グッゲンハイム美術館|「混沌と古典主義」展、ニューヨーク近代美術館|1920年代のパリ)

多様な作家を結んだ戦間期の美術的傾向

「秩序への回帰」は、全員が同じ宣言に署名した一つの芸術家集団の名称ではありません。戦後のフランスを中心に使われてきた美術史用語であり、比較研究ではイタリアやドイツの動向も関連づけて論じられます。作家の国籍や政治的立場、作品に使う材料は多様で、古典主義に向かう経緯も同一ではありません。

ピカソの新古典主義、オザンファンらのピュリスム、イタリアの造形的価値を見直す活動は、似た問題を別々の方法で追いました。1926年にはジャン・コクトーが『秩序への回帰』という題名の著書を刊行し、この時期の文化的な動向を表す言葉としても知られるようになりました。本記事は各作家の違いを残しながら、当時のヨーロッパ美術に現れた大きな変化をたどります。たとえば同じ静物画でも、器の形を現代的に整えるピュリスムと、繰り返し観察するモランディでは、制作の意図が違います。似ている部分と異なる部分を分けて読むことが大切です。(参照:ニューヨーク近代美術館|「秩序への回帰」の解説、ビルバオ・グッゲンハイム美術館|「混沌と古典主義」展、メトロポリタン美術館|フランスのアール・デコと古典主義)

第一次世界大戦が絵画に残したもの

1918年の終戦と、社会が求めた安定

第一次世界大戦は1914年から1918年まで続き、ヨーロッパの社会と生活に甚大な被害をもたらしました。国家の組織力や科学技術が兵器と結びつき、戦前に語られた進歩への期待も揺らぎます。戦争の終結後には復員や復興が進み、多くの人々が生活を立て直そうとしました。文化の世界でも、継続性や安定を示す形に関心が集まります。

グッゲンハイム美術館の展覧会「混沌と古典主義」は、戦後の画家が壊された身体のイメージに向き合い、全体としてまとまった人物像や明快な造形へ目を向けたことを大きな論点にしています。これは当時の動向を読み解く有効な視点です。個々の作品には、作家自身の経験と表現上の研究が重なっています。戦争前後の転換点を考える際には、作家の個人的な体験だけでなく、どの作品を展示・収集できたのかという文化の環境も含める必要があります。作品が広く知られるまでには、出版や画廊の活動も関わっていました。(参照:グッゲンハイム美術館|「混沌と古典主義」展、ビルバオ・グッゲンハイム美術館|「混沌と古典主義」展)

戦場を経験した作家と、異なる戦後の反応

戦争に動員された画家たちは、戦場で機械、負傷者、破壊された町などを経験しました。フェルナン・レジェは軍務を経て機械や工業生産の形への関心を強め、戦後には大胆な人物画や都市の絵を制作します。大きな戦争の経験から、より統一された形に向かう人と、社会を風刺する人がいたことも重要です。

同時期のダダは制度や常識を挑発し、ドイツの新即物主義は戦後社会を冷静に描きました。芸術家たちが戦争を受け止める方法には幅があります。「秩序への回帰」を理解するには、戦争への反応の一つとして位置づけ、当時共存したほかの表現にも目を向ける必要があります。レジェの金属的な人体とドイツの風刺画では、社会に向ける眼差しが大きく異なります。同じ年代の作品を並べて見ることが、戦後美術を一色に塗りつぶさない理解へつながります。(参照:グッゲンハイム美術館|「混沌と古典主義」展、ニューヨーク近代美術館|レジェ《三人の女》、ニューヨーク近代美術館|ドイツの新即物主義)

古典への関心は戦争以前から続いていた

古典彫刻やルネサンス絵画への関心は、1918年に突然始まったものではありません。ピカソにはキュビスム以前から人体の量感を重視する時期があり、イタリアのデ・キリコも戦前から古典建築や彫像を謎めいた画面へ取り込んでいました。戦後の展開を理解するには、それまでの表現と新しい時代の条件を一緒に考えることが大切です。

戦争は、すでに存在していた関心を強めたり、別の意味へ変えたりするきっかけとなりました。古典の再解釈は地域によっても異なります。フランスではパリの前衛芸術と結びつき、イタリアでは自国の美術史を再評価する機運と重なりました。過去の美術との対話が戦争を挟んで続いていたことは、作家が新しい表現を突然発明するという見方を改めてくれます。技法や題材の変化を作品の制作年に沿って確かめることが重要です。(参照:ビルバオ・グッゲンハイム美術館|「混沌と古典主義」展、ビルバオ・グッゲンハイム美術館|モランディ《静物》1920年)

ピカソ――1917年のイタリア体験と舞台芸術

バレエ《パラード》の制作に参加する

1917年、ピカソはセルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュスの《パラード》の舞台美術と衣装を担当しました。音楽にはエリック・サティ、企画にはジャン・コクトーが関わり、さまざまな分野の芸術家が参加した公演です。メトロポリタン美術館には、制作に関わる1916〜17年の書簡や草稿などが残っています。

舞台の制作では、実際の身体が動き、衣装は踊り手の動作に合わせて見え方を変えます。ピカソは立体や日用品に関心を向けてきた経験を、新しい形式で生かしました。絵画、音楽、舞踊が協働する環境は、彼の人物表現を考えるうえでも重要な経験でした。完成作の背後には、衣装を着て踊る人の動きや、舞台上の空間を考える経験がありました。絵画の構図と舞台の設計を関連づけると、ピカソの制作が絵画の枠を越えていたことが見えてきます。(参照:メトロポリタン美術館|バレエ《パラード》制作資料、メトロポリタン美術館|1917年のバレエ・リュス)

ローマで古典美術と現実の身体に向き合う

バレエ団のイタリア滞在中、ピカソはローマの美術や建築に接する機会を得ました。踊り手の姿を素描することも、制作の重要な部分でした。メトロポリタン美術館の資料は、彼が1917年のローマでバレエ団の稽古に立ち会い、舞台制作に関わっていた様子を伝えています。

古典美術の研究と舞台上の身体の観察は、異なる場所で行われる活動です。ピカソの場合、その両方が1910年代後半に重なりました。後年の巨大な人物画だけを見て「突然古典へ戻った」と理解するより、この具体的な活動をたどる方が、表現の移り変わりをつかみやすくなります。古典芸術に学ぶことと、現代の身体を描くことが同じ仕事の中で生まれています。そこに、1917年の活動を後年の人物画と結びつけて考える意義があります。(参照:メトロポリタン美術館|1917年のバレエ・リュス、メトロポリタン美術館|バレエ《パラード》制作資料)

オルガとの出会いと肖像への関心

《パラード》の仕事を通じてピカソはバレエ・リュスの踊り手オルガ・ホフロワと知り合い、1918年に結婚しました。彼女を描いた素描や肖像は、キュビスムの複雑な分解とは違い、顔や姿勢を明瞭に示す方向への関心を考える手がかりになります。

同時期のピカソが描いた形は、家庭生活の変化だけで説明できるものではありません。古典的な作風の追究、舞台での協働、従来から続くキュビスムの研究が重なっています。作品に現れた多様な方法は、作家が過去の表現を捨てて一方向へ進んだという単純な見取り図を超えています。画家の生活史は作品を理解する手がかりになりますが、同じ頃の素描・油彩・舞台装置を比較することで、どの表現上の問題に取り組んでいたかを、さらに具体的に確認できます。(参照:メトロポリタン美術館|バレエ《パラード》制作資料、ニューヨーク近代美術館|1921年フォンテーヌブローのピカソ)

ピカソ――1921年《泉のほとりの三人の女》

三人の女性を古典的な集団像として描く

ピカソが1921年の夏にフォンテーヌブローで制作した《泉のほとりの三人の女》は、三人の大きな女性像を描いた油彩画です。人物たちはゆったりとした衣服をまとい、泉のそばに集まっています。古代の衣装を思わせる表現と、複数の人物を一つの安定した塊へまとめる方法には、伝統的な人物画とのつながりが見られます。

作品を所蔵するニューヨーク近代美術館は、ギリシャ・ローマ古代やフランスのアカデミックな絵画の図像との関係を指摘しています。ピカソはこの主題について異なる形や配置を何度も試しており、大作はその実験を集約したものです。三人の身体の間にできた空間まで見ると、彫像を並べたような配置の意図が感じられます。衣のひだや手の向きは、人物をひとつの集団として結びつける重要な形です。(参照:ニューヨーク近代美術館|ピカソ《泉のほとりの三人の女》、ニューヨーク近代美術館|1921年フォンテーヌブローのピカソ)

古典的でありながら不自然な身体

女性たちの腕や脚は頑丈な円柱のように見え、顔には仮面を思わせる硬さがあります。手足のつながり方にも独特のぎこちなさがあり、柔らかく自然な身体を再現することだけが作品の目標であったとは考えにくい造形です。古典的な題材を用いながら、人体が幾何学的な構造へ組み替えられています。

MoMAの解説は、女性たちの硬い身振りや仮面のような顔に加え、泉を描きながら水が流れていない奇妙さにも注目しています。伝統的な美しさを参照した絵画に、どこか不穏な感覚が残るのです。秩序への回帰は、過去の美術を忠実に再現する行為と一致しません。泉の水が流れないという違和感は、題名で予想した物語と、目の前の絵画との間に距離を作ります。古典的な世界を描きながら、作品自体が新しい疑問を生み出しています。(参照:ニューヨーク近代美術館|ピカソ《泉のほとりの三人の女》)

古典の再解釈がもたらした新しい大画面

《泉のほとりの三人の女》は高さ約2メートルの大作です。巨大な身体が鑑賞者の前に立つことで、画中の人物は古代の彫像に近い存在感を獲得します。画面全体の色彩は控えめで、衣服や肌に与えられた形の重さが目立ちます。絵の具で描かれた画面が、石や彫刻のような量感を生み出しています。

ピカソは古典的な形式から力を引き出しながら、顔や四肢を意図的に単純化しました。かつてキュビスムで形を分析した経験も、人体を大きな面として構成する判断に生きています。古典と前衛の両方を経験した画家ならではの作品と言えます。大画面で身体をどうまとめるかという課題には、絵画と彫刻の両方の歴史が関わっています。制作の意図を考える際には、表情の細部だけでなく全身の量感と群像の配置にも注目できます。(参照:ニューヨーク近代美術館|ピカソ《泉のほとりの三人の女》、ニューヨーク近代美術館|1921年フォンテーヌブローのピカソ)

ピカソ――古典主義とキュビスムは並行していた

同じ1921年に《三人の音楽家》も描いていた

ピカソは1921年夏のフォンテーヌブローで、古典的な人物群を描く一方、《三人の音楽家》の大作も制作しました。画面にはピエロ、アルルカン、修道士のような人物が現れ、色のついた紙を切って貼ったかのような平面的な形が組み合わされています。実際には油彩で描かれていますが、画面の組み立て方は総合的キュビスムと深くつながっています。

MoMAが公開した当時のアトリエ写真に関する研究から、この二つの全く異なる様式の大作が同じ夏に並行して制作されていたことが分かります。ピカソの作品を一つの様式から次の様式へ移る直線的な発展として説明することには限界があります。同じ作家が、同じ場所で二種類の画面を追求した事実は、作品の年代だけで作風の変化を説明する難しさを示しています。表現方法は、個々の制作の目的に応じて選ばれました。(参照:ニューヨーク近代美術館|ピカソ《三人の音楽家》、ニューヨーク近代美術館|1921年フォンテーヌブローのピカソ)

《三人の音楽家》に残ったコラージュの発想

《三人の音楽家》の人物は、色面の輪郭が組み合わされた複雑な形として表されます。顔、楽器、衣服、背景が似た平面性を持ち、画面のどこまでが人物なのかを探しながら見ることになります。楽譜は実際の紙片のように描かれ、1912年頃からのコラージュ実験を思わせます。

この作品にはイタリアの伝統的な喜劇の登場人物も用いられており、主題には古くからの舞台文化が含まれます。伝統的な題材を、絵画の前衛的な方法で描くことも可能だったのです。古典主義的な《泉のほとりの三人の女》と比べることで、ピカソの幅広い制作の姿勢が明確になります。人物の境界を探しながら鑑賞すると、ピカソが奥行きの錯覚を抑え、平面の形同士の関係を強めたことが実感できます。伝統的な役柄も、切り紙のような造形へ変わっています。(参照:ニューヨーク近代美術館|ピカソ《三人の音楽家》)

「古典へ回帰したピカソ」という説明をどう読むか

美術史では、ピカソの1910年代末から1920年代前半を「新古典主義の時期」と呼ぶことがあります。この名称は、人物の量感や古典的な主題が強まったことを理解するうえで役立ちます。同じ時期にキュビスムや舞台制作も続いていたため、特定の様式名で制作全体を覆い尽くすと、重要な実験を見落とします。

MoMAのフォンテーヌブロー研究は、まさに異なる二つの大作が同時に存在する事実を中心に据えています。芸術家が古典へ向かうときにも、前衛の経験は形の中に残ります。回帰という言葉を、過去の方法と現代の方法を行き来しながら制作する動きとして捉えると、作品理解が深まります。このような同時進行を知ってから二つの作品を見直すと、「古典主義」「キュビスム」という名前が、ひとりの作家の多面的な制作を整理する手がかりだと分かります。(参照:ニューヨーク近代美術館|1921年フォンテーヌブローのピカソ、ニューヨーク近代美術館|1920年代のパリ)

フェルナン・レジェ――機械の時代に描く人物

兵役を経て、機械と生活を結びつける

フェルナン・レジェは第一次世界大戦に従軍した画家です。戦争を経た彼は、工業製品や機械の部品が日常生活に入り込む時代の姿を、鮮明な色彩と幾何学的な形で描いていきます。金属の円筒や車輪のような形は、1910年代のキュビスムにも通じますが、戦後のレジェはそれらをより明快で大きな構造へ整理しました。

古典的な安定感は、レジェの場合、機械文明への関心と結びつきます。人物の身体を頑丈で円滑な量感として描けば、現代の工業製品と人間を共通の造形原理で考えることができます。その選択には、戦争で使われた機械への恐怖と、機械がもたらす新しい生活への期待が同じ時代に存在したという複雑さもあります。円筒や球体は、人間の身体と工業製品の間にある形の共通性を見せます。この造形上の発見が、後の大きな人物画を支える考え方になりました。(参照:ニューヨーク近代美術館|レジェ《三人の女》、ニューヨーク近代美術館|1920年代のパリ)

《都市》(1919年)の色と文字

1919年の《都市》は、近代都市の看板や建築、階段、文字の断片が交差する画面です。赤、青、黄などの強い色が区切られ、垂直線と水平線が全体を組み立てています。視点を一つに固定した街路の再現から離れ、歩き回る都市の刺激を視覚的な構成へ変換しています。

MoMAが所蔵するこの油彩画からは、レジェが都市の情報量を整理された形の連続として扱っていたことが分かります。街に見えるものをそのまま写し取るのでは、交通や広告のリズムを十分に捉えられません。画面を構成する線や色の秩序は、現代生活を描くための新しい方法として働いています。絵の中では文字のような記号と色面が並び、都市の情報が同じ強さで迫ってきます。見る順序を一つに決めにくいところに、現代の街を歩く感覚が表れています。(参照:ニューヨーク近代美術館|レジェ《都市》)

機械の形を借りて「人間」を描き直す

レジェが人物の身体へ再び強い関心を向けたとき、そこには円筒、球、規則的な曲線など、機械を思わせる形が残りました。手足や胴体の立体感は明瞭で、絵画の中に安定した人物群が現れます。機械的な構成は人間の存在と結びつき、古典的な人物画を現代の室内や生活へ持ち込む方法になります。

この方向は《三人の女》で鮮明になります。ギリシャ・ローマの彫刻に学んだピカソの人物とは異なる姿であっても、画面の中心へ力強い身体を戻そうとする意識は共通しています。作品を比較することで、「秩序への回帰」が複数の現代的な表現を含むことが理解できます。身体の一部をどこまで幾何学形として扱えるかという問いは、キュビスムの経験から発展しました。レジェはその成果を、人物の重量感を失わない方向で使っています。(参照:ニューヨーク近代美術館|レジェ《三人の女》、グッゲンハイム美術館|「混沌と古典主義」展)

レジェ《三人の女》――古典的な裸婦と機械の造形

1921〜22年の大作に見える三人の女性

レジェの《三人の女》(1921〜22年)は、室内でくつろぐ三人の女性を描いた大きな油彩画です。家具や床、背景の装飾が幾何学的な形へ変えられ、人物はそれらの間で堂々とした存在感を持ちます。伝統的な裸婦の集団像に通じる主題ですが、身体の描かれ方は非常に現代的です。

MoMAの作品解説によれば、彼女たちの腕や脚は金属のように滑らかで、家具も同じ精密な質感を持っています。人物と住まいが共通の形式で描かれることで、機械の時代の生活が新しい調和として提示されます。作品の大きさも、静かな室内場面に記念碑的な強さを与えています。人物を置く家具や床の模様も、身体と同じくらい画面の構成に関わります。背景の細部を追うと、女性たちが機械的な都市生活の空間に組み込まれていることが感じられます。(参照:ニューヨーク近代美術館|レジェ《三人の女》)

銀色の身体と整えられた家具

人物の肌は銀色や黄褐色の面として表され、影は規則的に置かれます。曲線を描く肩や腕は球体や円筒の集まりのように見え、髪や顔の特徴も整った形式で反復されます。床や椅子の形までよく見ると、身体と室内が同じ視覚的な仕組みで構成されていることが分かります。

人物の顔は一人ずつ細かく描き分けられるより、全体のリズムの一部として扱われています。個人の肖像を中心とする絵画とは違い、複数の身体と物体の関係から画面を作っているのです。古典的な裸婦という主題に、工業デザインの時代ならではの形の感覚を与えた作品と言えます。絵画の中の人体は、伝統的な裸婦画の柔らかさから離れています。その見え方によって、鑑賞者は現代生活の造形が人間の姿まで変えたような感覚を受け取ります。(参照:ニューヨーク近代美術館|レジェ《三人の女》、ニューヨーク近代美術館|1920年代のパリ)

古典主義と工業社会が共存する絵画

この作品は、美術史上長く描かれてきた「室内にいる女性たち」という主題を使っています。背景の家具や装飾が現代の生活用品に見えることで、過去の人物画の形式が日常の環境へ移されています。歴史的な主題と工業製品に似た造形は、一つの画面の中で自然につながっています。

MoMAはこの作品を、人間と機械の調和を目指したレジェの独特な考え方を示すものとして解説しています。戦争で機械の破壊力を経験した時代にも、芸術は機械の形に美的な可能性を見いだしました。秩序への回帰の中には、未来の生活への期待を含む表現もありました。二十世紀初頭に身近になった量産品や工業デザインを、この作品は独特の身体表現に結びつけました。古い主題に現在進行形の生活を取り込んだことが重要です。(参照:ニューヨーク近代美術館|レジェ《三人の女》、グッゲンハイム美術館|「混沌と古典主義」展)

1918年、ピュリスムが提案した新しい秩序

オザンファンとジャンヌレの『キュビスム以後』

1918年、画家アメデ・オザンファンとシャルル=エドゥアール・ジャンヌレは『キュビスム以後』を発表しました。ジャンヌレは後に建築家ル・コルビュジエとして知られる人物です。二人は、キュビスムの複雑さを整理し、明快な構図と比例関係を重視する絵画を提案しました。この考え方が「ピュリスム(純粋主義)」の基礎となります。

ル・コルビュジエ財団は1918年刊行の文献を保存し、論考の構成を公開しています。そこには絵画の現状、現代の生活、法則、そして「キュビスム以後」という議論が並んでいます。二人は絵画の美しさを個人の気分だけに任せず、形の秩序を意識的に研究しようとしました。本の題名にある「以後」は、キュビスムが残した成果を見つめ直し、次に何をすべきかを議論する姿勢も表しています。彼らの絵画では分析された形が再び簡潔に整えられました。(参照:ル・コルビュジエ財団|『キュビスム以後』1918年、ポンピドゥー・センター|オザンファンの静物とピュリスム)

ピュリスム――器や瓶が選ばれた理由

ピュリスムの画家たちが好んだのは、瓶、コップ、皿、楽器など、形が明確な日用品でした。こうした物には使うための構造があり、輪郭や量感を簡潔な形として捉えやすい特徴があります。工業製品の規則的な形を画面に置くことは、近代的な生活の秩序を表す方法でもありました。

ポンピドゥー・センターは、二人が1918年に提案したピュリスムを、具象と幾何学の結合として説明しています。日用品をよく見れば、円、楕円、直線、円筒などの形を見いだせます。画家はそれらを画面に配置し、日常的な物から普遍的な造形を取り出そうとしたのです。透明な器の内側と外側をどう描き分けるか、似た輪郭をどの間隔で配置するかという問題が、画面の緊張を生みます。身近な物を見る行為が絵画の研究へ変わっています。(参照:ポンピドゥー・センター|オザンファンの静物とピュリスム、ル・コルビュジエ財団|『キュビスム以後』1918年)

前衛の方法を引き継いだ「現代の古典主義」

ピュリスムは、古代ギリシャの人物像を直接再現することを中心としません。工業技術によって作られた物の明晰さと、古典美術が重んじてきた比例や調和を結びつけました。そこにはキュビスムが進めた形の分析も引き継がれています。画面を整えるという目標は共通していても、使う題材には現代社会の生活が現れていました。

ポンピドゥー・センターの研究は、ピュリスムが1918〜25年に展開したことを記録しています。時代とともに作品は変化しますが、単純な輪郭、透明な器の重なり、安定した構図への関心が続きました。古典主義を現代の生活環境に結びつけた点が、この運動の特徴です。伝統的な静物画では果物や花なども重要な題材でした。ピュリスムが規則的な器に強く惹かれたことは、作品に現代の製品文化が深く関わっていたことを示します。(参照:ポンピドゥー・センター|オザンファン《食器棚のある静物》、ニューヨーク近代美術館|「秩序への回帰」の解説)

ピュリスムの静物を実際に見る

オザンファン《花瓶》(1925年)の反復

オザンファンの《花瓶》(1925年)は、生活用品の形が画面全体の秩序を生む静物画です。瓶や器の輪郭を繰り返し見ると、縦に伸びる円筒や曲線、口の楕円形が画面の構成を支えていることに気づきます。似た形の物体を複数並べると、個々の製品名よりも、比例や形の共通性が目に入ります。

この作品はMoMAに所蔵され、油彩画として記録されています。静物という昔からの題材が、近代的な器の形と明快な配置によって更新されました。ピュリスムの画家は、ごく普通の物を選びながら、絵画全体の秩序を細かく調整していたのです。個々の瓶を別々の製品として見ると地味な題材に感じられます。輪郭の反復を一つの絵画として見ると、単純な物から豊かな構成が生まれていることが分かります。(参照:ニューヨーク近代美術館|オザンファン《花瓶》、ポンピドゥー・センター|オザンファン《食器棚のある静物》)

《食器棚のある静物》における色と透明感

1925年のオザンファン《食器棚のある静物》では、器や容器が重なり合い、白、赤、灰色を中心とする色彩が配置されています。絵の中には透明な素材を思わせる部分や、物体の前後を暗示する重なりがあり、平面的な形と立体的な量感が共存しています。カップや瓶を眺める行為が、建築のように整えられた空間を読む体験へ変わります。

ポンピドゥー・センターの詳細な解説は、作品の左側に置かれた縦溝のある容器をドーリス式円柱に関連づけています。古典建築を引用しながら、現代の食器という身近な題材に置き換えている点が興味深いところです。古典的な円柱を思わせる器と透明な容器を同じ画面に並べる方法は、異なる時代の美意識を日常の物に結びつけています。絵具の色面は、その組み合わせを整理する役割を担っています。(参照:ポンピドゥー・センター|オザンファン《食器棚のある静物》)

ル・コルビュジエ《静物》と線描の実験

ジャンヌレことル・コルビュジエも、ピュリスムの時期には絵画と素描を続けていました。MoMAが所蔵する1920年の《静物》は油彩画で、1923年の《物のある静物》は紙にコンテ・クレヨンで描かれた作品です。同じ「静物」という題材が、絵具と線描の異なる方法で追究されていたことが分かります。

彼の制作を建築の付属的な趣味と考えると、この絵画研究の役割が見えにくくなります。日用品の比例や重なり、形を整理する判断は、建築家としての活動とも並行して進みました。絵画と建築を同じ人が制作していた事実は、1920年代に広がった造形の研究を理解する手がかりになります。画面に描かれた線の強さと、実際の建物の壁や柱の大きさには違いがあります。両者の造形的な共通性を見つめることは、同時代の絵画と建築の研究を比較する方法になります。(参照:ニューヨーク近代美術館|ル・コルビュジエ《静物》、ニューヨーク近代美術館|《物のある静物》1923年、ル・コルビュジエ財団|『キュビスム以後』1918年)

雑誌と建築――ピュリスムが広がる場所

1920年の『レスプリ・ヌーヴォー』創刊

1920年、オザンファンとジャンヌレらは雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』(新しい精神)を創刊しました。絵画をめぐる議論に加え、建築、デザイン、技術などを取り上げ、現代の造形を広い分野から考える場を作ります。新しい美術を伝えるのは、展覧会場だけではありませんでした。図版や文章を読める雑誌は、制作の考え方を遠方へ運ぶ手段になりました。

MoMAの「パリの新しい精神」展示では、この雑誌の創刊号の表紙が1920年代のパリを理解する手がかりとして紹介されています。異なる分野を結びつける姿勢は、ピュリスムの静物画を絵画内部の出来事としてだけでは捉えきれない理由の一つです。出版物は、作品画像と理論を同時に伝えることができます。特定の画家の活動が一地域に閉じず、広く議論されていく背景には、このような複製メディアの役割がありました。(参照:ニューヨーク近代美術館|「パリの新しい精神」展示、ニューヨーク近代美術館|1920年代のパリ)

絵画の比例感覚と建築の設計

ル・コルビュジエの建築とピュリスムの絵画には、形を整理して明快な構造を作るという共通の関心が見られます。静物で瓶をどこに置くか、壁や床をどのように構成するかは、対象の規模が違っても、比例や空間の関係を扱う判断です。絵画は完成した建物を説明する図面とは異なる独自の制作物でした。

オザンファンの《食器棚のある静物》は、ル・コルビュジエが設計した住宅に置かれた経歴を持ちます。ポンピドゥー・センターの記録は、収集家ラウル・ラ・ロッシュの住居と作品の関係を伝えています。絵画、建築、収集という複数の営みが、同じ時代の芸術を形づくりました。絵の中の器が建築の柱や室内の配置を思わせる瞬間、観察する対象の大きさを超えて形の問題がつながります。二つの分野の関係は、作品の具体的な構造から考えることができます。(参照:ポンピドゥー・センター|オザンファン《食器棚のある静物》、ニューヨーク近代美術館|《物のある静物》1923年)

1925年前後に現れた生活空間への広がり

1920年代半ばになると、絵画で追究されていた線と形の秩序は、建築や室内装飾をめぐる議論にも広がります。これを理解するうえで大切なのは、同じ時代の様々な美術家が、安定した形式を求めながら別々の答えを示していたことです。オザンファンは静物の絵画へ、ル・コルビュジエは建築へ活動を広げました。

1925年の国際装飾美術博覧会は、デザインや生活用品をめぐる美術史上の重要な節目です。装飾に豊かさを求める方向と、工業製品の簡潔な形を重視する方向が同時に存在していました。秩序の美しさを生活へどう取り込むかという問いは、絵画の外にも及んでいました。工業的な簡潔さと伝統的な装飾は、1920年代の生活文化で異なる魅力を持っていました。展覧会や住宅で実際に使われた物を見ると、芸術家の理念が暮らしの形にどう現れたかが分かります。(参照:メトロポリタン美術館|フランスのアール・デコと古典主義、ニューヨーク近代美術館|1920年代のパリ、ル・コルビュジエ財団|『キュビスム以後』1918年)

イタリアで進んだ古典主義の再評価

イタリアには独自の美術史の蓄積があった

第一次世界大戦後のイタリアでは、ルネサンスや古代ローマを含む自国の美術史を現代の制作へどう生かすかが大きな問題となりました。未来派は戦前に速度や都市を称え、従来の文化を強く批判していました。戦後には、頑丈な人体、明快な空間、静かな静物へ関心を向ける画家が増えます。

イタリアの美術史には、宗教画、壁画、人物像、建築など長い伝統があります。画家たちはそれらの形を見直しつつ、新しい芸術を作ろうとしました。古典という共通の言葉が使われていても、フランスのピュリスムとは歴史的な背景が異なります。地域の古典的な美術を見直す選択は、画家にとって新しい造形の手がかりになります。その関心が国民文化という大きな言葉と結びついたときには、作品と政治的な状況を慎重に読む必要も生まれます。(参照:ビルバオ・グッゲンハイム美術館|「混沌と古典主義」展、ビルバオ・グッゲンハイム美術館|モランディ《静物》1920年)

雑誌『ヴァローリ・プラスティチ』の役割

1918年に創刊された雑誌『ヴァローリ・プラスティチ』(造形的価値)は、イタリアで古典的な形式を再評価する重要な媒体になりました。編集者マリオ・ブロリオのもとで、近代美術と伝統の関係が議論され、作品が印刷を通じて紹介されます。ここで問われたのは、人体や静物を確かな形として描くことの価値でした。

雑誌を通じてデ・キリコ、カルロ・カッラ、モランディらの活動が結びつけて紹介されました。モランディは1919年にブロリオと契約し、1921年には関連作品の展覧会がドイツ各地へ巡回しています。雑誌と展覧会が地域を越えて作品の評価を広めたことは、この時代の重要な制度的変化です。印刷物では、作家自身の文章と作品写真が隣り合います。こうした編集を通じて、別々に制作されていた作品が、一つの同時代的な傾向として読者へ紹介されていきました。(参照:ティッセン=ボルネミッサ美術館|ジョルジョ・モランディ、ビルバオ・グッゲンハイム美術館|モランディ《静物》1920年)

形而上絵画から継承された静けさ

デ・キリコらの形而上絵画では、古典建築や彫像、マネキンが不思議な静けさを帯びて描かれました。遠近法が使われていても、時間が止まったような画面になることがあります。こうした形の安定感と謎めいた空気は、戦後イタリアの一部の画家にとって重要な手がかりとなりました。

モランディの1918〜19年頃の作品には、日用品とマネキンを組み合わせる実験が見られます。やがて彼は容器だけを見つめる静物へ進み、個人的な造形研究を深めました。形而上絵画との関係は、その後の表現の変化を理解するための前史として位置づけられます。形而上絵画と1920年代の静物画の連続性を見れば、古典主義への変化が制作上の試行錯誤の積み重ねだったことが分かります。画家は静けさを残しながら、新しい物の存在感を探りました。(参照:イタリア文化財総合目録|モランディ《マネキンのある静物》、MAPFRE財団|モランディ展と形而上絵画)

モランディ――身近な静物から確かな形を探す

1918〜19年の《マネキンのある静物》

ジョルジョ・モランディは、イタリアのボローニャを拠点に活動した画家です。1918〜19年頃の《マネキンのある静物》には、机上の瓶や箱とともに、人体の代わりに置かれたマネキンが登場します。日用品と人間の形の一部分が同じ静かな空間に置かれ、身近な物が謎めいた存在に変わっています。

イタリアの文化財総合目録には、この作品が1918年と記されながらも、制作と加筆は1919年だった可能性があると記録されています。雑誌『ヴァローリ・プラスティチ』に紹介された経緯も示されており、作品がこの時代の古典主義的な議論と結びついていたことを確認できます。マネキンの形は、人間の姿を直接描かずに人体を連想させます。そのため机上の配置が静物画でありながら、一種の舞台のように見えるのもこの時期の作品の特徴です。(参照:イタリア文化財総合目録|モランディ《マネキンのある静物》、ティッセン=ボルネミッサ美術館|ジョルジョ・モランディ)

《静物》(1920年)の四つの物体

1920年のモランディ《静物》は、器や容器を簡潔な形へ整理した作品です。ビルバオ・グッゲンハイム美術館の教育資料では、四つの物体の配置に注目し、それぞれが独立した形でありながら画面全体の秩序を作っていると説明しています。容器の輪郭や間隔が、絵画の構造を強く支えています。

物体は日常生活で使われるありふれたものですが、形を単純化し、色と光を慎重に配置することで、記念碑のような存在感を帯びます。作家は実物をよく観察しながら、近代的な画面の中で形の安定を追究しました。抽象画とは異なる方法で、同じように造形の秩序を深く考えていたことが分かります。静物画に置かれた四つの物の距離を目で追うと、空いている場所まで画面の構成に参加していることが分かります。そこにモランディの絵画を見る面白さがあります。(参照:ビルバオ・グッゲンハイム美術館|モランディ《静物》1920年)

反復される瓶と器が生む独自の世界

モランディはその後も瓶、箱、器などを繰り返し描きました。対象の数や置き方、光の方向、容器と容器の間隔を変えることで、ほぼ同じ題材から新しい絵画を生み出しています。何気ない物をじっくり見ると、輪郭のわずかな違いや、背景との境界が持つ意味が浮かび上がります。

ティッセン=ボルネミッサ美術館の作家解説は、形而上絵画に関わった時期から、日用品の詩的な表現へ向かう変化をたどっています。モランディの歩みは、秩序への回帰が一人の画家の長い研究へ結びついた例です。大きな政治的標語よりも、日々の観察と構成の積み重ねに表現の核があります。繰り返し同じ種類の物を使っていても、描かれた光と色彩の関係は作品ごとに違います。変化の小ささを丁寧に見ることが、モランディの制作を理解する方法です。(参照:ティッセン=ボルネミッサ美術館|ジョルジョ・モランディ、ビルバオ・グッゲンハイム美術館|モランディ《静物》1920年)

ノヴェチェント――イタリアの新しい古典主義

1920年代ミラノで作家たちが集まる

1920年代初頭のミラノでは、画家や批評家がイタリア美術の新たな方向を探り、「ノヴェチェント」と呼ばれる動きが形づくられました。マリオ・シローニ、アキッレ・フーニ、ピエロ・マルッシグらは、簡潔で確かな形、人物の量感、画面の構造に関心を向けました。過去の美術を研究しながら、20世紀にふさわしい表現を作ろうとしたのです。

この活動を支えたのが批評家・文化活動家マルゲリータ・サルファッティでした。ミラノの20世紀美術館は、書簡や当時の出版物、絵画などを通じて、彼女が展覧会や国際交流を組織したことを紹介しています。制作と美術の紹介活動が連動していました。画家が作品を制作するだけでは、運動としての評価は成立しません。批評家が言葉を与え、展覧会が作品を並べることによって、共通の目標が社会に伝わっていきました。(参照:ミラノ20世紀美術館|マルゲリータ・サルファッティ展、トレント・ロヴェレート近現代美術館|サルファッティ文書・ノヴェチェント史)

1923年の展覧会と1926年の国際的な展開

ノヴェチェントの最初期の重要な展覧会は、1923年にミラノのペーザロ画廊で開催されました。1925年頃に組織は再編され、1926年には「ノヴェチェント・イタリアーノ」の大規模な展覧会がミラノで開かれます。こうした出来事によって、個々の画家の制作が大きな文化運動として紹介されるようになりました。

トレント・ロヴェレート近現代美術館の文書資料は、1923年の展覧会と1926年の展覧会の日程、サルファッティの役割、海外での展開を詳しく記録しています。年表の上では「ノヴェチェント」という語が一度で完成したように見えますが、実際にはグループの構成と活動範囲が変化していました。同じ名称のもとで活動が続く間にも、参加者や展示の規模は変化しました。具体的な展覧会の記録を追えば、運動の内部にさまざまな立場があったことも理解できます。(参照:トレント・ロヴェレート近現代美術館|サルファッティ文書・ノヴェチェント史、ミラノ20世紀美術館|マルゲリータ・サルファッティ展)

芸術的な秩序と国家の政治が接近した

1920年代のイタリアではファシズムが台頭し、文化を通じて国の威信を示そうとする動きが強まります。サルファッティとムッソリーニの関係、ノヴェチェントの展覧会への政治的な関与は、この運動を考える際に避けて通れない歴史です。伝統や「イタリアらしさ」という言葉が、芸術を評価する議論と政治的な宣伝の両方で使われました。

同じグループの作家でも、表現上の関心と政治への関わり方は一様ではありません。作品の美しさと当時の制度的な支援を、両方とも具体的に調べる姿勢が重要です。グッゲンハイム美術館の比較展も、戦間期の古典主義が政治的な理念へ接近していく過程を重要な問題として扱っています。美術館の研究では、個々の作品と同時にポスター、写真、書簡が重要な資料として扱われます。それらが制作と権力の関係を具体的に説明するからです。(参照:トレント・ロヴェレート近現代美術館|サルファッティ文書・ノヴェチェント史、グッゲンハイム美術館|「混沌と古典主義」展)

マリオ・シローニ――静かな都市と重い人物

未来派との関わりから新しい造形へ

マリオ・シローニは、未来派の芸術家と交流しながら、独自の重厚な表現を作り上げました。彼の絵画には、機械的な形や幾何学的な構成への関心が見られます。その形は、急速な運動を示すよりも、建物や人物の重さを感じさせる方向へ変化していきます。画家の歩みからは、未来派の経験が戦後の古典主義とどのように関わったかが分かります。

ポンピドゥー・センターの研究には、シローニが1920年に「絵画におけるあらゆる回帰に反対する」趣旨の宣言へ署名した記録があります。表現と思想が複雑に変化したことを考えるうえで重要な事実です。戦後イタリアの画家を一律に「古典へ戻った」と整理すると、こうした葛藤が見落とされます。運動が掲げる理論と、実際の画面が示す形には時に距離があります。シローニのような作家を調べると、そのずれ自体が美術史を理解する重要な手がかりになります。(参照:ポンピドゥー・センター|シローニ《都市風景》1924年、ポンピドゥー・センター|シローニ《二人の人物》)

《都市風景》(1924年)に描かれた空虚な街

シローニの1924年の素描《都市風景》では、建物の形と道の遠近が強く示され、人影の少ない街が広がっています。窓や壁面は重たい幾何学的な形に整理され、街は日常の活気から切り離されたように見えます。都市を描いていても、未来派が称えた速度や騒音からは遠い静けさがあります。

ポンピドゥー・センターは、この素描を形而上絵画のデ・キリコの都市表現と関係づけながら、戦後社会の不安を表すものと説明しています。建物を明快に描くことは、社会が安定したと宣言することとは同じではありません。重厚な秩序の中に、不安や孤独が表れることもあるのです。道路を奥へ向かって見る構図は、実際の街で感じる遠近に近いものです。視線を画面の奥へ進めると、空虚さや重さの感覚が強まり、都市を描いた作品が心理的な風景にも見えてきます。(参照:ポンピドゥー・センター|シローニ《都市風景》1924年)

《二人の人物》に見える矛盾と不安

シローニの《二人の人物》は、人体を単純化し、硬い造形として見せる作品です。ポンピドゥー・センターの解説は、彼の制作に前衛的な機械への憧れと古典的な形式への関心が同時に現れていたことを指摘しています。人物は安定して見えると同時に、どこか閉ざされた感覚を持ちます。

シローニはノヴェチェントに加わり、当時の政治文化にも関係していきました。それでも、彼の作品を単純な明るい国家礼賛だけで説明するのは難しいところがあります。美術館が示すように、画面には憂鬱や不安が読み取れます。時代の思想と個々の作品に現れる感情の両方を見ていく必要があります。この時期の作品には、明確な輪郭によって安心感を生む表現と、硬い形によって緊張を強める表現が並んでいました。シローニの人物画は、その複雑さを具体的に示しています。(参照:ポンピドゥー・センター|シローニ《二人の人物》、ミラノ20世紀美術館|マルゲリータ・サルファッティ展)

アンドレ・ドラン――色彩の革命から古典的な裸体へ

フォーヴィスムの画家が選び直した表現

アンドレ・ドランは、1905年頃のフォーヴィスムで強い色彩を用いた画家の一人です。戦間期には人物、静物、肖像をより落ち着いた形で描くようになり、古典的な絵画との関係を深めました。絵画で何を革新と考えるかという判断は、作家自身の制作の中でも長く変化します。

ドランの1920年《アトリエの画家》など、同時期の素描や絵画をたどると、人物を明確な輪郭で捉え、制作の現場を見つめる関心が確認できます。初期の激しい色彩だけをドランの特徴と考えると、1920年代の作品の重みが見えにくくなります。同じ画家が違う年代に描いた作品を見比べると、何を変え、何を残したのかが分かります。ドランの場合、色彩の激しさと人物の構図の関係を追うことが、画業を理解する手がかりになります。(参照:メトロポリタン美術館|ドラン《アトリエの画家》1920年、ポンピドゥー・センター|ドラン《緑のカーテンの前の裸体》)

《緑のカーテンの前の裸体》(1923年)

1923年の《緑のカーテンの前の裸体》は、ドランが伝統的な人体表現を再研究していた時期の作品です。座る女性の身体が柔らかな陰影で示され、緑のカーテンと肌の色が対比されています。身体の輪郭は比較的明瞭で、絵画の歴史で繰り返し使われた室内の裸婦という主題に改めて向き合っています。

ポンピドゥー・センターは、この作品にラファエロやコローの影響を指摘しています。伝統的な表現に学ぶ姿勢が、ただ過去の作品を写す行為に終わらず、色彩や構図の選択へ生かされているのです。制作当時のドランが収集家に高く評価された背景も、作品が持つ端正さと関わっています。緑の布の強い色が肌を引き立てる一方、姿勢の落ち着きは過去の人物画を思わせます。この二つの要素が共存することで、絵画に古典的な節度と鮮やかさが生まれています。(参照:ポンピドゥー・センター|ドラン《緑のカーテンの前の裸体》)

肖像に残る個人の姿と古典的な節度

ドランが1922年に描いた《リュシー・カーンヴァイラーの肖像》では、モデルの顔や姿勢を認識できるように示し、人物を画面の中心に置いています。衣服や身体の形に目を向ければ、日常的な人間の存在感を、古典的な肖像画の枠組みの中で表そうとする意識が見えます。

ドランの作品をピカソと比べると、同じ時代の古典への関心にも違いがあることが分かります。ピカソの人物画には大きな変形が残り、ドランの作品はモデルの個別性や絵画の伝統的な構成に重きを置きます。複数の作家を並べて見ることが、「秩序への回帰」を一つの画風へ縮めない理解につながります。肖像では、モデルの個性を伝えることと画面全体の形を整えることが同時に求められます。ドランはその両方を使って、人物が鑑賞者の前にいる感覚を作っています。(参照:ポンピドゥー・センター|ドラン《リュシー・カーンヴァイラーの肖像》、ポンピドゥー・センター|ドラン《緑のカーテンの前の裸体》)

マティスとヴァラドン――1920年代の人物と室内

マティスのニース時代と室内画

アンリ・マティスは1917年末から南仏ニースを訪れ、室内、人物、窓辺、装飾布などを繰り返し描きました。第一次世界大戦後の画面には、身近な空間で光と色彩を丁寧に組み立てる姿勢が見られます。初期のフォーヴィスムで強い色を使ったマティスが、穏やかな室内にも独自の表現を見いだしたことは、この時期の多様性を理解する手がかりです。

MoMA所蔵の《ヴァイオリンケースのある室内》(1918〜19年)は、椅子や窓辺、室内の奥行きを題材にしています。これを一律に「秩序への回帰」と分類するより、同時代に生まれた室内画の異なる可能性として見る方が、マティスの独自性が伝わります。室内にある布や家具は、人物画と同じように色彩と形を探る対象になります。日常生活の落ち着いた場面でも、画家は色と空間の関係を細かく組み立てていました。(参照:ニューヨーク近代美術館|マティス《ヴァイオリンケースのある室内》、ニューヨーク近代美術館|マティスのニース時代と室内画)

《ヴァイオリンケースのある室内》の光と静けさ

《ヴァイオリンケースのある室内》では、左側の椅子に置かれた楽器のケースが、音楽を連想させる手がかりになっています。窓の外には海を臨むニースの景色があり、室内と屋外の光が一つの画面に共存しています。生活の中にある形を落ち着いて組み立てる点で、同時代の絵画と響き合います。

MoMAの2025年の研究記事は、絵の中で楽器そのものが見えないこと、室内を通じて音楽の存在を感じさせることに注目しています。形が整っているから感情が消えるのではありません。静かな画面にも、作者が見た場所や生活の気配が伝わります。窓の向こうと室内の間で視線を行き来させると、空間の明るさや奥行きが変化して感じられます。静かな画題であっても、視線を動かす構成が画面の魅力を支えています。(参照:ニューヨーク近代美術館|マティスのニース時代と室内画、ニューヨーク近代美術館|マティス《ヴァイオリンケースのある室内》)

シュザンヌ・ヴァラドンの人物表現

1920年代の人物画には、画家自身の経験と観察に根ざした独自の作品もありました。シュザンヌ・ヴァラドンは明確な輪郭と力強い色を使い、身近な人物の姿を描きました。MoMA所蔵の《ザマロン夫人の肖像》(1922年)は、ひとりの女性を画面の中心に据えた油彩画です。人物を再び重視する時代の広がりを考えるうえで参考になります。

ヴァラドンを特定の男性画家たちの「秩序への回帰」に組み込むだけでは、その画業の独自性が見えにくくなります。彼女は以前から人物を主要な題材としてきました。同時代の絵画を理解するときには、誰が新しい方向へ変化し、誰が一貫した研究を続けていたのかという違いも大切です。戦間期の人物画を理解するには、古典主義を提唱した作家以外の作品も視野に入れる必要があります。ヴァラドンの作品は、人物を描く方法の多様さを示す重要な比較対象になります。(参照:ニューヨーク近代美術館|ヴァラドン《ザマロン夫人の肖像》、ニューヨーク近代美術館|「パリの新しい精神」展示)

古典主義と社会――1920年代のもう一つの問題

「伝統」「国民文化」が政治と重なるとき

戦間期のヨーロッパでは、古典的な美術を自国の文化的な誇りと結びつける考え方が広がりました。歴史の長さを強調する美術は、社会が不安定な時代に継続性や権威を示す役割を担うことがあります。作品に現れた安定した人物像や記念碑的な形式は、時代の政治的な言葉と結びつく可能性を持っていました。

グッゲンハイム美術館の展覧会は、戦間期の古典主義がパリの文化的な理想からイタリアの政治理念、さらに1930年代の国家的な表現へ変化する過程を紹介しています。重要なのは、作品の形式とその用途を具体的に確認することです。古典的な形が似ていても、制作の目的と政治との距離は異なります。同じように大きく描かれた人体でも、どこで誰に見せることを目的としたかによって社会的な意味は変わります。作品が発表された場所や展示の主催者にも目を向けたいところです。(参照:グッゲンハイム美術館|「混沌と古典主義」展、ビルバオ・グッゲンハイム美術館|「混沌と古典主義」展)

イタリアのファシズムとノヴェチェント

1922年にムッソリーニが政権を握ると、イタリアの文化活動も新しい政治体制との関係を持つようになります。ノヴェチェントの展覧会は政治的な後援や演説と結びつき、近代的な古典主義を国の文化として提示する場になりました。サルファッティの活動を研究する公的アーカイブには、その展覧会運営と政治的なつながりが記録されています。

作家による絵画の研究と、国家が美術をどのように利用したかを分けて確認することが大切です。個々の作品には伝統的な形への関心があり、展覧会には当時の権力関係が存在しました。芸術の価値と制度の歴史を両方読むことで、戦間期美術の複雑さが理解できます。展覧会の演説と個々の絵画は、異なる種類の資料です。両方を確認することによって、当時の美術がどのような環境で支持されたのかが分かります。(参照:トレント・ロヴェレート近現代美術館|サルファッティ文書・ノヴェチェント史、ミラノ20世紀美術館|マルゲリータ・サルファッティ展)

ドイツの新即物主義と共有する問題

1920年代のドイツでは、新即物主義と呼ばれる傾向が広がりました。オットー・ディックスやゲオルク・グロスらは、人物や社会を明瞭な形で描き、戦後の現実を鋭く見つめます。抽象的な表現から具象的な描写への関心が強まった点は、戦間期の広い動向と関係しています。

MoMAは新即物主義を、表現主義の理想化に距離を置き、現実の社会を批評的に描いた運動として説明しています。同じ「明確な形」を使う絵画でも、古典的な均衡を求める表現と、社会の矛盾を暴き出す風刺は異なる方向へ進みます。ドイツの新即物主義については、別の記事で詳しく扱う構成とします。同時代のドイツを考える際には、冷たい輪郭が風刺や不安の表現になることにも注目できます。明晰さという共通の特徴から、非常に違う絵画が生まれたのです。(参照:ニューヨーク近代美術館|ドイツの新即物主義、グッゲンハイム美術館|「混沌と古典主義」展)

1930年までに何が変わったのか

古典的な造形は新しい表現として残った

1918年から1930年までの絵画を見渡すと、古典的な姿勢や伝統的な主題が、前衛の経験を通して変形されていることが分かります。ピカソは量感のある人体を描きながらキュビスムも続け、レジェは金属のような人物を室内に置きました。ドランは肖像や裸体を通じて伝統的な技法を再評価し、モランディは静物の繰り返しから独自の画面を作りました。

これらを「新しい表現が終わって古い表現へ戻った」と一括すると、作品の実際の形が見えなくなります。古典という歴史的な蓄積が、現代の生活と表現方法の中に改めて取り込まれたことが、この時代を理解する鍵です。作品を年代順に並べて比較すると、古典的な形が時代遅れの要素として残ったのではなく、新しい絵画を組み立てる材料になっていたことが明確になります。(参照:グッゲンハイム美術館|「混沌と古典主義」展、ニューヨーク近代美術館|1920年代のパリ、ビルバオ・グッゲンハイム美術館|モランディ《静物》1920年)

絵画と建築・出版を結ぶ美術の新しい仕事

秩序への回帰をめぐる活動では、絵画をどこで見せ、どのように社会へ伝えるかも変わりました。オザンファンとジャンヌレは宣言と雑誌を発表し、絵画と建築を並行して研究しました。イタリアでは雑誌『ヴァローリ・プラスティチ』やノヴェチェントの展覧会が、作家たちの考え方を国境の外へ広めています。

こうした印刷物や展覧会をたどると、美術史が作品の見た目の変化だけで作られているわけではないことが分かります。作品を選び、紹介し、議論する人々の活動が、ひとつの時代の芸術として認識される条件を作りました。どの作品が有名になったかという結果と、作家たちが当時何を問題にしていたかという歴史は分けて考えられます。出版と展覧会の資料は、その過程を確かめるための手がかりです。(参照:ル・コルビュジエ財団|『キュビスム以後』1918年、トレント・ロヴェレート近現代美術館|サルファッティ文書・ノヴェチェント史、ニューヨーク近代美術館|「パリの新しい精神」展示)

次の時代へ――1930年代の古典主義とその影

1930年代に入ると、ヨーロッパ各地で政治的な緊張が強まり、美術の展示や制作にも新たな制約が生まれます。古典的な人物像や大きな公共的表現は、権力の象徴として用いられる場合もありました。戦間期の古典主義には、個人の造形研究と政治的な利用という異なる歴史が重なっています。

グッゲンハイム美術館の「混沌と古典主義」展は、1918〜36年という期間でこの変化を追っています。本記事は1930年までを中心に、再び見いだされた「秩序」が多様な絵画を生み出した過程を扱いました。その後の美術統制や国家的な宣伝については、1930年代以降を扱う記事に接続します。この後に続く1930年代の美術史は、1918年以降に始まった試みを受け継ぎながら大きく変化します。絵画の形式と社会的な役割をともに考えることが、次の時代を読む土台になります。(参照:グッゲンハイム美術館|「混沌と古典主義」展、ビルバオ・グッゲンハイム美術館|「混沌と古典主義」展、メトロポリタン美術館|フランスのアール・デコと古典主義)

年表:1917〜1930年の主な出来事

第一次世界大戦の終結前後から、1930年までの主な作品、出版物、展覧会を整理しました。

  1. 1917年 ピカソがバレエ・リュスの《パラード》に参加し、イタリアで舞台制作に携わる。
  2. 1917年末 マティスが南仏ニースを訪れ、室内と人物を扱う新たな制作を進める。
  3. 1918年 第一次世界大戦が終結。戦後のヨーロッパ各地で古典的造形への関心が広がる。
  4. 1918年 オザンファンとジャンヌレが『キュビスム以後』を刊行する。
  5. 1918年 イタリアで雑誌『ヴァローリ・プラスティチ』が創刊される。
  6. 1918〜19年 モランディがマネキンを用いた形而上絵画を制作する。
  7. 1919年 レジェが《都市》を制作する。
  8. 1919年 モランディが編集者マリオ・ブロリオと契約する。
  9. 1920年 モランディが《静物》を制作する。
  10. 1920年 『レスプリ・ヌーヴォー』が創刊され、絵画と建築をめぐる議論を広める。
  11. 1921年 ピカソがフォンテーヌブローで《泉のほとりの三人の女》と《三人の音楽家》を制作する。
  12. 1921年 『ヴァローリ・プラスティチ』関係の美術がドイツ各地で紹介される。
  13. 1921〜22年 レジェが《三人の女》を制作する。
  14. 1922年 ドランが《リュシー・カーンヴァイラーの肖像》を制作する。
  15. 1922年 ヴァラドンが《ザマロン夫人の肖像》を制作する。
  16. 1922年 イタリアでムッソリーニが政権を掌握する。
  17. 1923年 ノヴェチェントの最初期の主要展覧会がミラノのペーザロ画廊で開かれる。
  18. 1923年 ドランが《緑のカーテンの前の裸体》を制作する。
  19. 1924年 シローニが《都市風景》を制作する。
  20. 1925年 オザンファンが《花瓶》《食器棚のある静物》を制作する。
  21. 1925年 パリで国際装飾美術博覧会が開かれる。
  22. 1926年 ミラノで「ノヴェチェント・イタリアーノ」の大規模な展覧会が開かれる。
  23. 1926年 ジャン・コクトーの著書『秩序への回帰』が刊行される。
  24. 1929年 イタリアで第2回ノヴェチェント・イタリアーノ展が開かれる。
  25. 1930年 戦間期の古典主義が、次の10年間の美術と政治の課題へつながっていく。

まとめ:古典をもう一度描くことの意味

第一次世界大戦後に広がった「秩序への回帰」は、人物や物を確かな形として描き、古典的な構図や均衡を改めて研究する動きでした。戦争が残した傷跡と不安定な社会の中で、古典美術の持つ安定感が新しい意味を持ちました。ピカソの《泉のほとりの三人の女》やドランの裸体画は、過去の絵画との対話から生まれた作品です。

画家たちは同じ方向へ進んだわけではありません。ピカソはキュビスムを並行して続け、レジェは機械の形を使って人体を描きました。オザンファンとジャンヌレは日用品の幾何学性から「現代の古典主義」を追究し、モランディは静物の小さな違いを見つめ続けました。こうした多様性に、20世紀美術の豊かさが現れています。

イタリアでは伝統の再評価が雑誌や大規模展覧会を通じて広まり、政治的な権力との関係も生まれました。古典的な形は、個人の造形研究にも、国家の文化的な象徴にも用いられました。作品の姿と、それを取り巻く制度をともに調べることで、この時代をより正確に理解できます。秩序への回帰は、過去の絵画が現代の表現として再解釈された、戦間期の重要な美術史的動向です。

参考資料・出典

ニューヨーク近代美術館、ポンピドゥー・センター、グッゲンハイム美術館、ル・コルビュジエ財団、イタリアの美術館・公的アーカイブなどの作品記録と研究資料を確認し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。作品の制作年や運動の範囲は、資料で確認できる表記を優先しました。

資料確認日:2026年10月13日 / ART LIBRARY