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Art History

紀元前480–323

古代ギリシア・古典時代

パルテノン神殿と人体彫刻

紀元前5世紀のギリシア世界には、アテナイ、スパルタ、アルゴスなどの都市国家があり、エーゲ海の島々や小アジア沿岸にも多くのギリシア人が暮らしていました。オリーブやブドウの栽培、海上交易、職人の工房、神々を祭る聖域が都市の生活を支えています。紀元前480〜479年にはペルシア軍がギリシア本土へ侵攻し、アテナイのアクロポリスにあった神殿も破壊されました。その後のアテナイは海上同盟を率い、聖域を大理石の建築群として整え直していきます。

この時代には、競技の勝者や神々に捧げる青銅像、都市の祭礼を刻んだ神殿の浮彫、墓に置く石碑などが数多く制作されました。職人は大きな青銅像を部分ごとに鋳造し、彫刻家は立つ人間の脚と腰の動き、肩や腕との釣り合いを細かく考えています。紀元前4世紀になると、長い戦争を経た都市社会の変化を背景に、神像や墓碑の主題も広がりました。石像や青銅像が発見された場所、建築の会計記録、後世の模刻を照らし合わせると、当時の作品の姿と用途をより具体的にたどれます。

ペルシア戦争後の聖域|人物像と神殿の変化

『クリティオスの少年』|片脚に重心を置く裸体像

アクロポリス博物館の大理石像『クリティオスの少年』(収蔵番号698)は、直立した青年の裸体を表しています。左脚に体重を掛けるため左の腰が少し上がり、自由になった右脚の膝には緩みがあります。骨盤が傾く動きに合わせて胸と肩の左右の高さも変わり、紀元前6世紀のクーロス像に見られる正面性とは姿勢の仕組みが異なります。頭の巻き毛は短くまとめられ、目元と口元は抑えた表情です。

胴体は1865〜1866年にパルテノン神殿の南東側、頭部は1888年にアクロポリス南壁付近で発見されました。『クリティオス』という名は作者を証明する署名ではなく、彫刻家クリティオスの作風との関連から付いた呼称です。ジェフリー・ハーウィットは1989年、頭と胴の埋没状況を見直し、ペルシア軍が紀元前480年に壊した奉納像の一つと断定できないこと、むしろ戦後に奉納された可能性を論じました。博物館も制作年代を紀元前480年以降としています。(参照:アクロポリス博物館|『クリティオスの少年』/ジェフリー・ハーウィット(1989年)|『クリティオスの少年』の発見と年代)

デルフォイの御者像|競技の優勝を記念した青銅像

アポロンの神託で知られたデルフォイの聖域では、紀元前480〜470年頃の『御者像』が見つかりました。青銅の青年は長い上衣を帯で締め、両足をほぼ揃えて立ち、左手に手綱を残しています。衣の縦じわは胴から足元へ細く続きますが、胸より上では腕の動きに合わせて布の線が曲がります。眼には石やガラス、唇には銅、額の帯には銀など別の材料を用い、近くで見た顔に色の違いを付けていました。

像は1896年、フランス隊の発掘によって出土しました。もとは馬4頭が引く戦車と組み合わされた大きな奉納群で、現在は戦車や馬の破片もデルフォイ考古博物館に展示されています。奉納者はシチリアのゲラの支配者ポリュザロスとされ、ピュティア競技祭での戦車競走の勝利を記念した作品です。競技年を紀元前478年または474年とする説明がある一方、別の勝利を記念したという見方もあり、奉納の動機を単一の年に固定する資料は十分ではありません。(参照:ギリシア文化省・デルフォイ考古博物館|御者像/ギリシア文化省|デルフォイの御者像・材質と年代)

オリンピアのゼウス神殿|破風を占める競走と戦闘

ペロポネソス半島西部のオリンピアでは、紀元前470年代から450年代半ばにかけてドーリス式のゼウス神殿が建てられました。東の三角形の破風には、戦車競走の開始を待つペロプスとオイノマオス、両者の戦車に関わる人物や馬が配置され、中央にはゼウスが立ちます。競走そのものより、運命を決める直前の静かな場面を石像の並びで表しています。

西破風では、ケンタウロスとラピテス族の争いが一転して激しい動きになります。中央のアポロンの両側で男たちが怪物の腕をつかみ、女性たちは身を反らし、騒ぎの広がりに応じて身体の向きが変わります。神殿の柱の上にはヘラクレスの功業を表すメトープも置かれました。大理石の彫刻群は聖域の発掘で見つかり、現在はオリンピア考古博物館に収蔵されています。彫刻家の個人名は確実には分かっていません。(参照:ギリシア文化省|オリンピアのゼウス神殿と破風彫刻/ギリシア文化省|ゼウス神殿東破風・ペロプスとオイノマオス/ギリシア文化省|オリンピア考古博物館)

青銅像の制作|腕を広げる神々と武装した人物

ろう型鋳造|中空の青銅像を部分ごとに作る

大きな青銅像では、まず粘土でおおよその芯を作り、表面へろうを載せて人体の形を整えます。その外側を耐火性の土で覆い、熱を加えてろうを流し出すと、内外の土の間に薄い空間が残ります。そこへ溶けた青銅を注ぎ、冷えた後で外型を壊して鋳肌を整えるのが、ろう型鋳造です。頭、胴、腕、脚を別々に鋳造し、接合してから表面を仕上げる方法も使われました。

型を直接作る方式では、鋳造の際に元のろう像が失われます。別に作った原型から分割型を取り、その内側にろうを塗る間接法なら、原型を残して複数の部品を作れます。青銅は強度があるため、石では折れやすい突き出した腕や細い支えも形にできました。目、唇、歯、髪や装飾には別の金属、石、ガラスをはめ込む例があり、彫りだけで仕上げる大理石像とは工程が異なります。(参照:メトロポリタン美術館|古代ギリシア大型青銅像の鋳造技術)

アルテミシオン沖の神像|雷霆か三叉戟か

アテネ国立考古学博物館所蔵の『アルテミシオンのゼウスまたはポセイドン』(収蔵番号X15161)は、紀元前460年頃に制作された大型青銅像です。裸体の成熟した男性神が左右の脚を開いて踏ん張り、左腕を水平に差し出し、右腕を後方へ引いて何かを投げようとしています。腕の伸びと脚の幅によって、足元から指先まで身体が大きな空間を占めています。波打つ髪とひげは細かく鋳出され、力を入れる胸や腹部の形と対照を成します。

像はエウボイア島北端アルテミシオン沖の海域で見つかりました。1926年に左手が漁網に掛かり、船の残骸やほかの部品とともに調査が進められています。右手に持っていたものが失われたため、雷霆を投げるゼウスか、三叉戟を振るうポセイドンかは確定していません。どちらであっても、前方の左手を目標へ向け、後方の右手に武器を構えた全身の動きが、鋳造された青銅の形に組み込まれています。(参照:アテネ国立考古学博物館|アルテミシオン沖の青銅神像/アテネ国立考古学博物館|アルテミシオン沖の沈没船と発見史)

リアーチェの二体の戦士像|1972年の海底発見

イタリア南部カラブリア州リアーチェの沖合では1972年、海底からほぼ等身大を超える青銅の男性像二体が発見されました。現在はレッジョ・カラブリア国立考古学博物館に収蔵され、『青銅像A』『青銅像B』と区別されています。二体とも裸体の筋肉質な男性で、片脚に重心を置き、持ち上がった腕は失われた盾や槍を扱っていたと考えられています。Aは額に帯を巻いて巻き毛とひげを鋳出し、Bの頭部は兜をかぶせるための形に整えられました。

1972年8月、潜水中のステファノ・マリオッティーニが発見し、海底から引き上げられた後に修復が行われました。眼には方解石やガラス質の材料、唇などには銅、歯には銀が用いられています。紀元前5世紀のギリシア彫刻とされるものの、誰を表した像なのか、どの聖域に立っていたのか、制作した工房がどこかは分かっていません。海中で発見された位置が、そのまま古代の設置場所を意味するわけではありません。(参照:レッジョ・カラブリア国立考古学博物館|リアーチェの青銅像)

パルテノン神殿|建築とアテナ像

紀元前447年に始まる造営|大理石、柱列、床の曲線

アテナイのアクロポリスでパルテノン神殿の工事が始まったのは紀元前447年です。建築家イクティノスとカリクラテスが設計に関わり、彫刻家フェイディアスが彫刻制作を統括したと伝えられます。神殿はペンテリコン山産の白い大理石を用い、東西に8本、南北に17本の柱を並べたドーリス式の周柱式神殿です。外周の太い柱と柱上の梁の内側には、神像を安置する長方形の室があり、東西から別々に入る二室に分かれていました。

床や柱の上部を完全な直線として作らず、わずかに曲げ、柱を少し内側へ傾けるなどの調整が施されています。正面から見ると単純な柱の反復に見える建物ですが、石を積む職人は柱の接合面や角度を個々に合わせています。建物本体は紀元前432年頃に完成し、破風などの彫刻もこの前後まで制作されました。神殿の用材、屋根、装飾の細部については建築部材と近代の修復調査を照らし合わせて分かってきた部分が多くあります。(参照:アクロポリス博物館|パルテノン神殿の建築と展示/アクロポリス修復局|パルテノンの構造とアテナ像)

アテナ・パルテノス像|金と象牙を張った巨像

神殿の東側の広い室には、フェイディアスが制作したアテナ・パルテノス像が置かれていました。女神は兜をかぶって武装し、右手を差し出して勝利の女神ニケを載せ、左側に大きな盾を構える姿と伝えられます。木の芯に薄い金板を取り付け、顔や腕などの肌には象牙を用いる『金象牙像』でした。像の原作は現存せず、その姿は古代の著述、貨幣図像、小型の模刻から推定されています。

アクロポリスからは、この像に支出した費用を刻んだ大理石の会計銘文が出土しています。紀元前440年代末から430年代末の支出が記録され、金属や制作費が国家の監督を受けていた事情が分かります。金象牙像の復元図には細部の違いがあり、後世の小像が失われた原作のすべてを正確に写したと考えることはできません。建物の規模だけでなく、貴金属と象牙を組み合わせた神像の存在も、神殿の室内を考える際に欠かせません。(参照:アクロポリス修復局|パルテノンの構造とアテナ像/アクロポリス博物館|アテナ・パルテノス像の制作会計銘文)

石に刻まれた会計記録|誰が建設を管理したか

パルテノンの工事には、石切り、運搬、柱や彫刻の仕上げ、金具の加工など多くの職人が必要でした。アクロポリスで見つかった建設会計銘文には、監督官が収入と支出を管理した記録が残っています。もっとも古いものは紀元前447/446年、遅いものは433/432年の会計に属し、神殿が一度の工事で突然出来上がったのではなく、年ごとに資材と労働が投入されたことが分かります。

アテナイはデロス同盟の加盟都市から貢納金を集め、その一部をアクロポリス整備へ回しました。都市の海上支配と神殿建築には、このような財政上の結び付きがありました。石に刻まれた会計は、建築家や彫刻家の伝記と違って工事と同時代に作られた文書です。断片になっているため全予算の再現には限界があるものの、工事の継続期間や管理制度を具体的に確認できます。(参照:アクロポリス博物館|パルテノン神殿の建設会計銘文/アクロポリス博物館|パルテノン神殿の建築と展示)

パルテノンの浮彫と破風|神話、祭礼、色彩

92枚のメトープ|神殿の四辺で異なる戦い

パルテノンの外側の柱の上には、正方形に近い区画へ一場面ずつ浮彫を置いた『メトープ』が92枚ありました。紀元前445〜440年頃に作られた石板には、東面に神々と巨人の戦い、西面にアマゾン族との戦い、北面にトロイアの落城、南面にラピテス族とケンタウロスの争いが刻まれています。南側の浮彫では、馬の胴を持つケンタウロスが人間の首や腕へ迫り、人間が相手の髪や胴をつかみ返すなど、近接した二体の身体で力の向きを表しています。

四方それぞれに異なる神話を置いたため、周囲を歩く人が目にする戦闘の内容も場所によって変わります。ギリシア人とペルシア人の戦いを連想させる配置と説明されることがありますが、実際に刻まれているのは神話上の戦いです。大理石の風化や後世の損傷が強い板もあり、破片と近世の素描からかつての場面を補っているものがあります。(参照:アクロポリス博物館|パルテノンの92枚のメトープ)

東西の破風彫刻|アテナの誕生と土地の守護神

東正面の屋根下にある三角形の破風には、ゼウスの頭から生まれるアテナの神話が表されました。中央の人物群は大きく失われていますが、端には太陽神ヘリオスの馬が海から上がり、反対側に月の女神セレネの戦車馬が沈む姿が置かれていました。高い中央に立つ神々から低い両端の馬まで、三角形に狭まる空間へそれぞれ姿勢を合わせています。西破風は、アテナとポセイドンがアテナイの守護権を争う場面でした。

西破風に由来するケクロプスと娘パンドロソスの像は、地元の神話に関わる人物として考えられます。かつての中央群は失われ、個々の人物同定にも異論が残ります。大理石の群像は紀元前437〜432年頃に彫られました。残存部分からは、布の薄い縁を細く削り込む箇所と、身体の重みを伝える大きなひだを刻む箇所が見られ、屋根の上部という遠い位置から鑑賞されることを前提に大きな起伏が付けられています。(参照:アクロポリス博物館|パルテノン東破風の月の戦車/アクロポリス博物館|パルテノン西破風・ケクロプスとパンドロソス)

長さ160メートルのフリーズ|行列はどこから進むか

神殿本体の外壁上部には、ドーリス式の外柱列の内側にイオニア式の連続浮彫『フリーズ』が巡っていました。約160メートル、石板115枚に、神と人の姿378体、主に馬からなる動物220頭以上が彫られたとアクロポリス博物館は説明しています。紀元前443〜438年頃に制作された浮彫は、南西角から二組に分かれて長い南北の側面を進み、東正面で合流する構成です。馬に乗る若者、戦車、歩く男性、籠や水の器を運ぶ女性、供犠の牛などが連続します。

東側では座る大きな神々の間に人々が集まり、中央に衣を手渡すように見える数人の姿があります。多くの研究者は、女神アテナへ新しい衣を捧げる大パナテナイア祭の行列と解釈しています。西の角から東の中心へ人と動物の向きが変化する一方で、彫りの深さや人物の大きさには節度があり、長い壁面を途切れない祭礼の場面として構成しています。(参照:アクロポリス博物館|パルテノン・フリーズの図像と配置)

フリーズをめぐる議論|祭礼行列か、王家の神話か

18世紀末以降、フリーズ全体をアテナイ市民によるパナテナイア祭の行列とみる読み方が広まりました。祭礼で用いられる牛や水の器、馬に乗る青年、東側で渡される衣がその根拠です。これに対し、考古学者ジョーン・B・コネリーは1996年、東面の中心を王エレクテウスの家族と読み、国を守るために娘を犠牲にする神話を表していると論じました。神殿装飾には古い神話が多いのに、市民の同時代の祭礼だけを彫るのは珍しい、という問題提起です。

コネリー説では、衣を扱う数人の意味や東面の神々の位置を別の物語へ読み替えます。提案は研究を刺激しましたが、周囲の騎馬や牛の行列を含め全体をその神話で説明できるかには批判があり、一般に受け入れられた確定説ではありません。エリー・マッキン=ロバーツは2025年、奉納浮彫との比較から、神々と祭礼参加者が画面上で異なる領域を占めながら接する仕組みを検討しました。何を運び、誰がどの方向を向くかという観察と、その場面を特定の祭礼や神話へ結び付ける解釈を分けることで、なお残る論点が分かります。(参照:ジョーン・B・コネリー(1996年)|パルテノン・フリーズの神話的解釈/エリー・マッキン=ロバーツ(2025年)|フリーズの神々と祭礼参加者/アクロポリス博物館|パルテノン・フリーズの図像と配置)

白い石像に残る顔料|2023年の科学分析

現在の破風彫刻やフリーズは白い大理石として見られますが、制作当時は彩色が加えられていました。ジョヴァンニ・ヴェッリらは2023年、大英博物館所蔵のパルテノン彫刻に斜めから光を当てた撮影、蛍光を利用した画像解析、分光分析などを行い、肉眼で見つけにくい顔料と工具痕を報告しました。青色顔料『エジプシャン・ブルー』は、東破風の水面に当たる部分や人物の衣、東面フリーズの一部などから検出されています。

調査では紫色の着色材の痕跡も確認され、衣に模様を付けた部分が見つかりました。表面を粗く削る尖ったのみ、細い爪状ののみ、衣の深いひだを掘る錐など、加工の順序も残る痕跡から検討されています。色のあった場所がいくつか判明しても、像全体の色の組み合わせまで完全に復元されたわけではありません。衣のしわを彫り分けた作業と、塗装して布の模様や水を表す作業は、同じ彫刻の制作工程に含まれていました。(参照:ジョヴァンニ・ヴェッリほか(2023年)|パルテノン彫刻の工具痕と彩色分析)

身体の釣り合いと運動|ミュロンとポリュクレイトス

ミュロンの『円盤投げ』|動きの一瞬を固定する

紀元前460〜450年頃、彫刻家ミュロンは、競技者が円盤を投げる直前の姿を青銅で作ったと考えられています。片脚を深く曲げ、胴体を前へかがめ、円盤を持った腕を後ろへ大きく引いています。反対の腕は膝の近くへ下がり、両腕と胴体の曲がり方が一つの円を描くように結び付いています。円盤を手放して空へ飛ばす場面ではなく、身体をねじって力をためる一瞬です。

ミュロンの原作は残っておらず、姿はローマ時代の大理石模刻から知られます。ローマ国立博物館パラッツォ・マッシモの『ランチェロッティの円盤投げ』は比較的原型をよく伝える模刻です。一方、大英博物館の『タウンリーの円盤投げ』には近代の修復で別の古代頭部が接合され、顔の向きが本来の作品と違います。今日見る像がどの時代の作で、どこまで修復されているかを確認してから、紀元前5世紀の身体表現を考える必要があります。(参照:大英博物館|ミュロンの『円盤投げ』に基づくローマ時代の模刻/大英博物館|『円盤投げ』像の頭部と近代修復)

『槍を持つ人』|脚と肩がつくる反対の傾き

アルゴスで活動したポリュクレイトスは、紀元前440年頃に『ドリュフォロス』(槍を持つ人)という裸体の青年像を作ったと伝えられます。身体の重みは片脚に掛かり、もう片脚は後ろに引かれます。骨盤の傾きに対して肩が反対向きに傾き、腕にも力が入る側と休む側があります。頭を少し横に向けた人物は、まっすぐに立ちながら次の一歩へ移れそうな状態です。

青銅の原作は失われ、ナポリ国立考古学博物館にあるポンペイ出土の大理石模刻などを通して形が知られます。大理石像には細い腕や脚を支えるための木の幹などが添えられる場合があり、青銅像の形をそのまま保存したものではありません。古代の人々がこの姿を称賛したことと、作者がどの長さを測って身体の比率を決めたかを証明できることは、別の問題です。(参照:メトロポリタン美術館|古典時代のギリシア美術/アンドルー・スチュワート|ポリュクレイトスの作品と古代文献/メトロポリタン美術館|ギリシア彫像とローマ時代の模刻)

『カノン』の研究史|比例をどこまで復元できるか

ポリュクレイトスは人体の各部分の釣り合いを論じた『カノン』という著作を残したと古代の文献に伝えられます。原著は失われ、後世の医師ガレノスなどが伝えた断片的な記述と、彫像の模刻が研究の根拠です。身体の美しさを、指と掌、腕と肩などの大きさの関係で捉えたとされますが、計算式をそのまま記した完全な文章は残っていません。

美術史研究者リチャード・トービンは1975年、ナポリの『ドリュフォロス』を測り、手の小指の末節骨を基本単位として比率を組み立てる復元案を提示しました。これは古代文献の失われた内容を直接発見したものではなく、現存する模刻の寸法に基づく一つの仮説です。アンドルー・スチュワートらの研究も、作品の帰属や古代文献の読み方を比較しています。『カノン』を一つの単純な数値比に置き換える説明は、現存する証拠の範囲を超えてしまいます。(参照:リチャード・トービン(1975年)|ポリュクレイトスの『カノン』の数学的再構成/アンドルー・スチュワート|ポリュクレイトスの作品と古代文献)

『ディアドゥメノス』|勝利の帯を頭へ結ぶ青年

同じポリュクレイトスの作とされる『ディアドゥメノス』は、競技で勝った青年が頭に帯を結ぼうとする像です。両腕を持ち上げた姿勢のため、片脚で支えた身体の上に肩と腕が横に広がり、胸の形が『ドリュフォロス』とは違って見えます。メトロポリタン美術館のローマ時代の大理石模刻(収蔵番号25.78.56)では、頭部、腕、膝から下の脚と樹木形の支えが古代の部分です。胴体などは、デロス島出土の別の古代模刻から型を取った復元材で補われています。

元の青銅像が置かれた場所は特定されていません。競技に関わる姿から、オリンピアやデルフォイのような聖域に立っていた可能性が指摘されています。模刻には時代や工房ごとに表面の彫り方、首の角度、支え方などの違いがあり、残存する原作と同じ精度でポリュクレイトス自身の彫りを観察できるわけではありません。(参照:メトロポリタン美術館|ポリュクレイトスに帰属する『ディアドゥメノス』/メトロポリタン美術館|ギリシア彫像とローマ時代の模刻)

紀元前5世紀末のアクロポリス|小神殿と女性柱像

アテナ・ニケ神殿|入口を見下ろすイオニア式

パルテノンより西、アクロポリスへ上がる入口の南西の突端には、小さなアテナ・ニケ神殿が建てられました。工事年代は紀元前427〜420年頃とされ、建築家カリクラテスに帰属します。ペンテリコン産大理石を使い、東西の正面へ4本ずつイオニア式の細い柱を並べた構成です。柱の上には神々や戦闘を刻んだ連続浮彫が巡り、崖に近い高い基壇のため、入ってくる人の目には神殿が空を背景に立つように見えました。

同じアクロポリスの神殿でも、四辺に太い柱を巡らせたパルテノンと、小さな矩形の室を両側から挟むニケ神殿は平面が異なります。ニケ神殿は後世に解体され、建築部材を使って再建された歴史があるため、現在見える建物も保存修復の成果を含みます。(参照:アクロポリス修復局|アテナ・ニケ神殿)

『サンダルを直すニケ』|薄い布と身体の起伏

神殿の基壇の周りには紀元前410年頃、高さ約1メートルの大理石の欄干が設けられ、外側に翼を持つニケたちが彫られました。その一枚『サンダルを直すニケ』では、女神が身体を前へかがめ、片足を上げてサンダルに手を伸ばしています。膝を曲げた脚の輪郭や腹部のふくらみは、薄い衣を身体へ密着させる彫りによって見え、下半身には重い外衣の深いひだが落ちます。顔は失われています。

ほかの欄干板には、牛を引くニケ、戦勝の記念品に武具を飾るニケ、座るアテナなどが刻まれました。身をかがめる女神の仕草を聖域へ裸足で入る準備とする説明がある一方、アフロディテ像を思わせる姿勢から近くのアフロディテ聖域と結び付ける研究もあります。少しの身振りを布の薄さと折り重なりで彫り分ける造形は、神殿の祭礼と勝利の主題の中で使われていました。(参照:アクロポリス博物館|『サンダルを直すニケ』浮彫)

エレクテイオンの女性柱|屋根を支える六体

アクロポリス北側のエレクテイオンは、紀元前421年から406年頃に造営されたイオニア式の建物です。地面の高さが異なる場所へ複数の礼拝空間を設け、東側には古くから祭られたアテナ・ポリアスの木製神像、西側にはポセイドンなどに関わる祭祀の場がありました。南面の小さな柱廊には通常の柱の代わりに6体の女性立像を置き、その頭上の籠状の柱頭で屋根の重さを受けています。

女性像の衣の縦ひだは柱の溝のように長く下へ伸び、髪を太く編んで首の後ろへ落とした部分が、構造上細くなりやすい頭と肩をつなぎます。女性の身元については、神話上の王ケクロプスに供物を捧げる娘たちとする説などがあり、古い建築銘文では彼女たちを単に『コレー』と呼んでいます。現在、アクロポリス博物館に原作5体が、ロンドンの大英博物館に1体があり、屋外の柱廊には複製を設置しています。(参照:アクロポリス修復局|エレクテイオンの建築と祭祀/アクロポリス博物館|エレクテイオンの女性柱像A/アクロポリス博物館|エレクテイオン建設費の銘文)

壺絵と墓碑|色と線で表した人物の暮らし

『ニオベの混酒器』|人物を上下に散らした神話画

ルーヴル美術館所蔵の『ニオベの混酒器』(収蔵番号MNC 511、G 341)は、紀元前460〜450年頃にアテナイで作られた赤像式の大型混酒器です。片面には、アポロンとアルテミスがニオベの子どもたちを弓で射る場面が描かれ、傷ついた人物が岩や地面に沿うように倒れています。器の側面に人物を一列に並べるのではなく、高さの違う位置へ置き、わずかな地形の線で屋外の奥行きを感じさせる構図です。

反対面にはヘラクレス、アテナと武装した人物たちが描かれ、その集まりが何の場面かは研究者の間で解釈が分かれています。作品はイタリア中部オルヴィエートで発見されました。アテナイの絵付け工房が作った器がエトルリア地域へ運ばれた例です。壁画家ポリュグノトスの多層的な人物配置との関係が指摘されますが、失われた壁画そのものをこの器から正確に復元することはできません。(参照:ルーヴル美術館|ニオベの子どもたちの混酒器(MNC 511))

白地のレキュトス|墓前に立つ人と死者

紀元前5世紀半ば以降、アテナイでは表面を白く塗ってから細い線と彩色で絵を描く『白地のレキュトス』が、墓に供える油壺として作られました。メトロポリタン美術館のアキレウスの画家に帰属するレキュトス(収蔵番号1989.281.72、紀元前440年頃、高さ約37.4センチ)には、細い墓標の両側に若者二人が立っています。布を巻いた墓標の上に、死者を示す小さな翼ある魂が浮かぶため、右側の青年が亡くなった人物だと読み取れます。

薄い白地に描かれた肩や腕の線は、わずかな濃淡で身体のふくらみを表し、衣の色は現在かなり薄くなっています。酒杯や混酒器に宴会の様子を描く赤像式とは異なり、この油壺は墓で使われるため、訪問者、死者、供物、別れの場面が繰り返し選ばれました。同じ人物表現の技法が、器の用途によって異なる主題を描き分けています。(参照:メトロポリタン美術館|アキレウスの画家・白地レキュトス(1989.281.72))

『ヘゲソの墓碑』|椅子に座る女性と従者

アテナイのケラメイコス墓地からは、紀元前5世紀末頃の『ヘゲソの墓碑』が知られています。大理石の墓碑は上部を小さな神殿のように枠で囲み、椅子に座った女性が、目の前に立つ従者の差し出す小箱から装身具を取ろうとする場面を浮彫にしています。衣の深いひだが膝と床へ落ち、互いに視線を向ける二人の手が画面の中央で近づいています。現在はアテネ国立考古学博物館に収蔵され、収蔵番号は738です。

こうした墓碑は、神や勝者の理想的な裸体だけでなく、死者の身近な生活を記念するために作られました。装身具を取り出す仕草は家庭内の場面に見えますが、像に描かれた従者の感情や、実際に暮らしていた屋内の様子をそのまま再現した場面とは限りません。女性を大きく、従者を小さく表す身分差も、浮彫の構成に含まれています。(参照:アテネ国立考古学博物館|『ヘゲソの墓碑』と古典期の墓標)

女性と小箱の墓碑|石の銘文が伝える名前

紀元前400〜390年頃のアテナイで作られたメトロポリタン美術館の大理石墓碑(収蔵番号36.11.1、高さ約178センチ)には、柱のような枠に寄りかかる若い女性と、小箱を持って立つ年少の人物が刻まれています。女性は外衣を肩へかけ、顔をやや下向きにして、前の少女と向き合います。少女が短髪なのは喪の表現とも解釈され、家族か従者かは決まっていません。

別の墓碑『ファイニッペ』(同館、収蔵番号53.11.7、紀元前400〜390年頃)では、故人の名前が銘文で分かります。女性は左手に鏡を持ち、手前の従者は宝石箱などを抱えています。従者の袖のある衣はトラキアや小アジアに関わる服装と解説されています。女性と道具の配置が似ていても、名前が分かるか、製作された地域がどこか、従者の衣に何を描いたかを調べると、個々の墓碑の事情は異なります。(参照:メトロポリタン美術館|若い女性と従者の墓碑(36.11.1)/メトロポリタン美術館|ファイニッペの墓碑(53.11.7))

紀元前4世紀の彫刻と建築|都市を越えて広がる注文

『平和の女神と富の神』|子どもを抱く女神

アテナイでは長いペロポネソス戦争の後、平和と暮らしの安定が政治的な願いとして表されるようになりました。彫刻家ケフィソドトスが作った『エイレネとプルトス』は、平和を人格化した女神が幼い富の神プルトスを抱く像で、紀元前375年頃にアテナイに立てられたと伝えられます。大きな女性は長い衣をまとい、左腕で子どもを支え、互いの顔へ視線を向けます。槍や武具の代わりに、抱かれた子どもが都市の豊かさを示す組み合わせです。

青銅の原作は失われ、ローマ時代の大理石模刻が伝わります。メトロポリタン美術館の例は後世の模刻で、像の原作が紀元前375〜359年頃のいずれかの時点で成立したことは、古代の文章だけでなく、紀元前360/359年の賞品壺にこの像の図柄が表されたことからも検討されています。像の制作年を一点に固定せず、建てられた時期と図柄が流布した時期を分けて考えることができます。(参照:メトロポリタン美術館|ケフィソドトス原作の『エイレネとプルトス』)

プラクシテレスのアフロディテ|失われた大理石の女神像

紀元前4世紀半ば、アテナイの彫刻家プラクシテレスは、現在のトルコ西南部クニドスに置かれた裸体のアフロディテ像を制作したと伝えられます。女神は右脚に重心を置き、片手で身体の前を覆い、もう片方の手を脇の水瓶の上に垂れる衣へ伸ばす姿でした。紀元前5世紀の大規模な女性像では服のひだに身体の輪郭を託す例が多く、裸体の女神をほぼ実物大以上に表すこの像は新しい試みでした。

クニドスの原作は現存しません。ローマ時代の模刻、小さな青銅像、古代の著述から大まかな姿を知ることができます。大英博物館の同型の大理石像(収蔵番号1898,0519.2)も、紀元前4世紀の原作ではなく紀元後2世紀頃の模刻です。模刻によって頭の向きや腕の位置、付け加えられた支えが異なり、現在有名な姿の細部すべてをプラクシテレス自身の選択とみなせるわけではありません。(参照:メトロポリタン美術館|クニドスのアフロディテ像に基づく小青銅像/大英博物館|『クニドスのアフロディテ』型のローマ時代像/メトロポリタン美術館|アフロディテ像の模刻と後世の補修)

ハリカルナッソスのマウソロス廟|王の墓を飾る大理石群像

紀元前4世紀半ば、小アジア西南部カリア地方のハリカルナッソスでは、支配者マウソロスの墓として大規模な霊廟が築かれました。高い台座と柱列を持つ石造建築の周囲には、アマゾン族と戦う人物の浮彫、馬や人物の大理石像が飾られました。大英博物館所蔵の『マウソロス像』と呼ばれる男性立像は、長い髪とひげを持ち、細かなひだの衣を身体へ巻いています。作品の通称はマウソロス本人を写した肖像という確証を意味しません。

19世紀のチャールズ・ニュートンらによる発掘で彫刻の破片が見つかり、現在はロンドンをはじめ各地の博物館に分かれて保存されています。アマゾン族との戦いを彫った長い石板には、倒れ込む人物や走る馬が刻まれ、アテナイの神殿で使われた神話の主題が、カリアの支配者の墓にも採用されていました。古代の文献は複数のギリシア人彫刻家の名を伝えますが、現存する各断片をそれぞれ誰が彫ったかについては見解が分かれます。(参照:大英博物館|ハリカルナッソスのマウソロス廟展示/大英博物館|マウソロス像と呼ばれる大理石立像/大英博物館|マウソロス廟のアマゾン戦闘図浮彫)

エピダウロスの劇場と聖域|治療の場に建つ円形施設

ペロポネソス半島東部のエピダウロスには、病やけがからの回復を祈るアスクレピオスの聖域が発達しました。紀元前4世紀に神殿、円形の柱廊を持つトロス、参籠して眠るための建物、入口の柱廊、劇場が整えられます。劇場は山の斜面を利用して半円形に座席を積み、中心の円形の演技空間へ向けて石段を広げています。設計者として、彫刻家ポリュクレイトスとは別人である『若いポリュクレイトス』の名が伝わります。

トロスは円形の建物で、周囲を柱が巡り、平面も立面もパルテノンとは異なります。聖域には祭礼や競技だけでなく、参籠、入浴、滞在などを支える建物が必要でした。ユネスコの遺産資料は、出土した施設の役割が一つの聖域にまとまって残る点を挙げています。古典時代の建築は大都市の守護神を祭る巨大な神殿に限られず、治療を求める人や各地から訪れる人の動きにも応じて設計されていました。(参照:ユネスコ世界遺産センター|エピダウロスのアスクレピオス聖域)

略年表

  • 紀元前480〜479年|ペルシア軍がギリシア本土に侵攻し、アテナイのアクロポリスの神殿が破壊される
  • 紀元前480〜470年頃|『クリティオスの少年』とデルフォイの青銅の御者像が作られる
  • 紀元前470〜456年頃|オリンピアのゼウス神殿が建てられ、東西の破風に石像群が配置される
  • 紀元前460年頃|アルテミシオンの神像など大型青銅彫刻が作られる
  • 紀元前460〜450年頃|ミュロンの『円盤投げ』の原作と、ニオベの子どもたちを描く混酒器が制作される
  • 紀元前447年|アテナイでパルテノン神殿の建設が始まる
  • 紀元前445〜440年頃|パルテノンのメトープ92枚が彫られる
  • 紀元前443〜438年頃|パルテノンの連続フリーズが制作される
  • 紀元前440年頃|ポリュクレイトスの『ドリュフォロス』の原作と白地の墓用油壺などが作られる
  • 紀元前437〜432年頃|パルテノンの破風彫刻が作られ、建物本体が完成する
  • 紀元前427〜420年頃|アクロポリスの入口にアテナ・ニケ神殿が建てられる
  • 紀元前421〜406年頃|複数の祭祀空間をもつエレクテイオンが造営される
  • 紀元前410年頃|アテナ・ニケ神殿の周囲に女神ニケたちの浮彫のある欄干が設けられる
  • 紀元前400年頃|『ヘゲソの墓碑』など家庭内の身振りを表す大理石の墓標が作られる
  • 紀元前375〜359年頃|ケフィソドトスの『エイレネとプルトス』の原作が成立し、都市の平和と富を人物で表す
  • 紀元前360〜340年頃|プラクシテレスの『クニドスのアフロディテ』に代表される裸体の女神像が広まる
  • 紀元前360〜350年頃|カリア地方ハリカルナッソスでマウソロスの霊廟が建てられる
  • 紀元前350〜330年頃|エピダウロスのアスクレピオス聖域で劇場などの施設整備が進む
  • 紀元前338年|カイロネイアの戦いでマケドニアのフィリッポス2世がギリシアの諸都市を破る
  • 紀元前323年|アレクサンドロス大王が死去し、各地の王国文化へ展開する時期を迎える

まとめ

紀元前5世紀のギリシアでは、神殿の外側に神話の戦いを刻み、内側の壁には都市の祭礼と考えられる長い行列を彫る一方、聖域に独立した青銅の人物像を立てました。オリンピアの破風では、三角形の空間に応じて立つ人、座る人、身を反らす人を配しています。青銅彫刻では中空のろう型鋳造によって腕や脚を広げた姿が作られ、石像でも片脚へ体重を掛ける姿勢が一般化しました。

パルテノンの会計銘文は、建築と金象牙像の制作がアテナイの財政と職人の分業によって進められたことを伝えます。2023年の科学分析では、破風とフリーズに青色や紫色の顔料が残り、衣の模様と石材の彫りが組み合わされていたことが確認されました。白地の墓用油壺や大理石の墓碑でも、人の身体を描く技法が葬送と記憶の場面に使われています。紀元前4世紀には平和を子どもとともに表す神像や、クニドスのアフロディテ像、カリアの霊廟など、注文される場所と主題が増えました。

失われた青銅の原作の姿は、ローマ時代の模刻と古代の文献から部分的に再構成されています。ポリュクレイトスの比例の規則をどの数値で表すか、パルテノンのフリーズが実際の祭礼を描いたか神話を語るのか、リアーチェの二体がどこに置かれていたのかには未解決の点が残ります。作品の材料と加工痕、同時代の銘文、出土場所、模刻の修復箇所を個別に確認する研究が続いています。(参照:ジョヴァンニ・ヴェッリほか(2023年)|パルテノン彫刻の工具痕と彩色分析/ジョーン・B・コネリー(1996年)|パルテノン・フリーズの神話的解釈/メトロポリタン美術館|ギリシア彫像とローマ時代の模刻)

参考資料・出典

  1. メトロポリタン美術館|古典時代のギリシア美術
  2. アクロポリス博物館|『クリティオスの少年』
  3. ジェフリー・ハーウィット(1989年)|『クリティオスの少年』の発見と年代
  4. ギリシア文化省・デルフォイ考古博物館|御者像
  5. ギリシア文化省|デルフォイの御者像・材質と年代
  6. ギリシア文化省|オリンピアのゼウス神殿と破風彫刻
  7. ギリシア文化省|ゼウス神殿東破風・ペロプスとオイノマオス
  8. ギリシア文化省|オリンピア考古博物館
  9. メトロポリタン美術館|古代ギリシア大型青銅像の鋳造技術
  10. アテネ国立考古学博物館|アルテミシオン沖の青銅神像
  11. アテネ国立考古学博物館|アルテミシオン沖の沈没船と発見史
  12. レッジョ・カラブリア国立考古学博物館|リアーチェの青銅像
  13. アクロポリス博物館|パルテノン神殿の建築と展示
  14. アクロポリス博物館|パルテノン神殿の建設会計銘文
  15. アクロポリス博物館|アテナ・パルテノス像の制作会計銘文
  16. アクロポリス修復局|パルテノンの構造とアテナ像
  17. アクロポリス博物館|パルテノンの92枚のメトープ
  18. アクロポリス博物館|パルテノン東破風の月の戦車
  19. アクロポリス博物館|パルテノン西破風・ケクロプスとパンドロソス
  20. アクロポリス博物館|パルテノン・フリーズの図像と配置
  21. ジョーン・B・コネリー(1996年)|パルテノン・フリーズの神話的解釈
  22. エリー・マッキン=ロバーツ(2025年)|フリーズの神々と祭礼参加者
  23. ジョヴァンニ・ヴェッリほか(2023年)|パルテノン彫刻の工具痕と彩色分析
  24. 大英博物館|ミュロンの『円盤投げ』に基づくローマ時代の模刻
  25. 大英博物館|『円盤投げ』像の頭部と近代修復
  26. メトロポリタン美術館|ポリュクレイトスに帰属する『ディアドゥメノス』
  27. メトロポリタン美術館|ギリシア彫像とローマ時代の模刻
  28. リチャード・トービン(1975年)|ポリュクレイトスの『カノン』の数学的再構成
  29. アンドルー・スチュワート|ポリュクレイトスの作品と古代文献
  30. アクロポリス修復局|アテナ・ニケ神殿
  31. アクロポリス博物館|『サンダルを直すニケ』浮彫
  32. アクロポリス修復局|エレクテイオンの建築と祭祀
  33. アクロポリス博物館|エレクテイオンの女性柱像A
  34. アクロポリス博物館|エレクテイオン建設費の銘文
  35. ルーヴル美術館|ニオベの子どもたちの混酒器(MNC 511)
  36. メトロポリタン美術館|アキレウスの画家・白地レキュトス(1989.281.72)
  37. アテネ国立考古学博物館|『ヘゲソの墓碑』と古典期の墓標
  38. メトロポリタン美術館|若い女性と従者の墓碑(36.11.1)
  39. メトロポリタン美術館|ファイニッペの墓碑(53.11.7)
  40. メトロポリタン美術館|ケフィソドトス原作の『エイレネとプルトス』
  41. メトロポリタン美術館|クニドスのアフロディテ像に基づく小青銅像
  42. 大英博物館|『クニドスのアフロディテ』型のローマ時代像
  43. メトロポリタン美術館|アフロディテ像の模刻と後世の補修
  44. 大英博物館|ハリカルナッソスのマウソロス廟展示
  45. 大英博物館|マウソロス像と呼ばれる大理石立像
  46. 大英博物館|マウソロス廟のアマゾン戦闘図浮彫
  47. ユネスコ世界遺産センター|エピダウロスのアスクレピオス聖域