紀元前6000–4000
新石器時代末のメソポタミア
彩文土器と集落建築
紀元前6000〜4000年頃、現在のイラクからシリア北東部、トルコ南東部にかけての地域では、農耕と牧畜を営む集落が広がっていました。北部には季節の雨を利用して麦を育てられる土地があり、南部にはティグリス川とユーフラテス川が運んだ土砂による広い平野が続いていました。南の低地では水路や湿地に近い場所で暮らす人々が、粘土を使って家や器を作っていました。
この時代の造形を特徴づけるのは、土器の表面に描かれた文様です。北部のハラフ文化では、鉢や皿に細かな線、三角形、花や動物が描かれました。ティグリス川流域のサーマッラー文化にも、人物や動物を幾何学的に並べた土器が残っています。南部で発達したウバイド文化では、明るい色の器面に暗色の文様を描き、日干し煉瓦を使った大きな建物が造られるようになりました。
土器は食物を盛り、貯蔵し、ときには墓にも納められた生活の道具でした。その形や装飾には、地域ごとの好みや制作技術が現れています。集落の円形建物や部屋を組み合わせた住居、人物をかたどった小さな像も残っており、当時の暮らしと造形文化を伝えています。
CONTENTS
川と雨に支えられた農耕集落
北部の雨に頼る農耕と南部の沖積平野
メソポタミアの北部は、丘陵や谷に冬から春の雨が降り、麦や豆類の畑と家畜の放牧地をつくることができました。シリア北東部のテル・サビ・アビヤドでは、紀元前6000年頃まで続く小規模な住居群が発掘され、家々が同じ位置に固定されず、集落内で建て替えられていたことが分かっています。(参照:Akkermansほか(2006)|テル・サビ・アビヤドの初期土器集落)
これに対して南部の沖積平野では、川の流れや湿地と暮らしの関係が密接でした。地域ごとの自然条件は違っていても、どちらでも土を成形して器を焼き、日干し煉瓦で建物を築く技術が使われました。ウバイド文化の遺跡は、南部のエリドゥから北部へと広く分布しています。(参照:メトロポリタン美術館|ウバイド文化(紀元前5500〜4000年))
手で成形した土器と器面の文様
この時代の土器は主に手で成形され、表面を滑らかに整えた後、焼く前に文様を描いたり線を刻んだりしました。素地の淡い色を生かして暗色の顔料を置く器もあれば、明るい化粧土を塗り、赤や黒の模様を重ねた器もあります。器の内側の底、外側の胴、口縁など、模様を置く場所は器形に応じて選ばれていました。(参照:大英博物館|テル・アルパチヤのハラフ彩文鉢(1934,0210.30))
土器の技術は単純なものから複雑なものへ一直線に発展したわけではありません。ニューウェンハイゼらの2010年の研究では、シリア北部の早い段階の土器にも鉱物を混ぜた素地や磨いた器面が見つかり、当地の土器作りが初めから多様だったことが示されています。(参照:Nieuwenhuyse・Akkermans・van der Plicht(2010)|シリア最初期の土器技術)
ハッスーナとサーマッラー|線刻文と動物の図柄
ハッスーナの刻線と赤褐色の彩色
イラク北部のテル・ハッスーナで出土した土器片には、口の下に赤褐色の文様を描き、さらに縦のジグザグ線を刻んだ例があります。大英博物館所蔵の破片は縦7センチ、横7.7センチほどで、淡い化粧土の上に塗られた色と、器面を彫り込んだ線の両方が確認できます。顔料には鉄を含む成分が使われていました。(参照:大英博物館|ハッスーナの線刻・彩色土器片(1962,0725.3))
ハッスーナに由来するこうした土器は、紀元前6000年以前にさかのぼるものもあります。後のサーマッラーやハラフの土器が突然現れたのではなく、北部では刻むことと描くことを組み合わせる技術が、すでに試みられていました。(参照:大英博物館|ハッスーナの線刻・彩色土器片(1962,0725.3))
サーマッラーの皿に描かれた人物・鳥・サソリ
ティグリス川中流域で知られるサーマッラー文化の土器には、皿の内面を使った複雑な構図が見られます。長い髪をなびかせた人物、鳥、魚、ヤギの仲間、サソリなどを、皿の中心から放射状に配置する作例があります。人物や動物は写実的に描き込まれるというより、少ない線で輪郭や姿勢を示し、繰り返しによって回転するような構図を作っています。(参照:古代美術事典Treccani|テル・エス=サワンの建築とサーマッラー土器)
同じ文化の器には、格子、山形、階段状の線、菱形を帯状に並べたものもあります。装飾が目立つ大皿のほか、短い首を持つ壺や、胴が張った深い鉢が作られました。文様の意味がすべて解読されているわけではなく、どの器が普段の食事に使われ、どれが特別な場面に選ばれたのかも、出土状況ごとに考える必要があります。(参照:古代美術事典Treccani|テル・エス=サワンの建築とサーマッラー土器)
テル・エス=サワンの建物と墓に残った小像
サーマッラー近郊のテル・エス=サワンでは、日干し煉瓦を使った大きな住居群と、その床下に設けられた墓が見つかっています。墓には淡い色の石で作られた器や人物像が納められ、人物像には顔や身体を単純な形に整理したものがあります。建物の平面や埋葬の仕方も、土器の文様と並んでこの集落を特徴づけます。(参照:Breniquet|テル・エス=サワンの建築層と研究上の問題)
発掘資料の再検討では、最も古い建築層の年代や、各墓をどの文化段階に属させるかについて議論があります。バーバラ・ヘルウィングは2016年、発掘時の土器資料と墓の位置関係を調べ直し、建物のすべてを一時期のものとして扱うことに慎重な見方を示しました。(参照:Helwing(2016)|テル・エス=サワンの墓地の再検討)
ハラフ文化|鉢と皿を埋め尽くす彩文
アルパチヤの鉢に重ねられた線と三角形
イラク北部のテル・アルパチヤで見つかったハラフ文化の深い鉢は、平らな底とほぼ直立する胴を持ち、口径17.3センチ、高さ9.5センチあります。淡いクリーム色の化粧土を塗り、外側には黒色や赤褐色の線と三角形を描いています。器は割れた破片を接合して復元されたもので、火による煤や変色の痕も残っています。(参照:大英博物館|テル・アルパチヤのハラフ彩文鉢(1934,0210.30))
この鉢は1933年にマックス・マローワンらが発掘した資料です。所蔵する大英博物館は、当初の報告にある「最下層」という位置づけについて、その後の発掘によってさらに下の層が明らかになったことも記しています。文化の年代を考える際には、発見当初の地層の呼び方にも再検討が必要になります。(参照:大英博物館|テル・アルパチヤのハラフ彩文鉢(1934,0210.30))
浅皿の中央に描かれた花のような文様
同じアルパチヤ出土の浅皿は高さ2センチ、口径15センチ。明るい地色の皿の内側中央に花を思わせる図柄があり、黒と赤の顔料で彩色されています。1933年の発掘で「焼失家屋」と呼ばれる建物の部屋から見つかった資料の一つです。皿の中心を強調する構成は、斜め上から器の内側を見たときにも模様が分かりやすいものです。(参照:大英博物館|ハラフ彩文浅皿(1934,0210.85))
こうした器の文様には、実際の花や葉を表したと考えられるものと、幾何学模様との境界が曖昧なものがあります。花びらに見える形が必ず特定の植物を指すのか、その区別は図像の比較に基づいて検討されています。(参照:Garfinkel・Krulwich(2025)|ハラフ土器の植物文様と構図の分析)
ヘビと斑点のある動物|幾何学文以外の表現
ハラフ土器は線や三角形だけで飾られていたのではありません。アルパチヤ出土の高さ10.5センチほどの土器片には、舌を出したヘビの姿が彩色されています。淡黄色の器面は細かく磨かれており、うねる動物の輪郭がその表面に沿って描かれました。(参照:大英博物館|ヘビ文の土器片(1934,0210.142))
別の破片には、斑点を持つ四足獣が光沢のある黒色で描かれています。大英博物館はヒョウの可能性を挙げていますが、動物の種類は確定していません。人物や動物の図柄についても、儀礼を表すのか、身近な生き物への関心を表すのかを直接示す記録は残っていません。(参照:大英博物館|斑点を持つ動物の彩文土器片(1934,0210.116))
2025年の研究が調べた植物文様と左右対称の構成
ヨセフ・ガーフィンケルとサラ・クルウィッチは2025年、北部メソポタミアのハラフ彩文土器を集め、花、低木、枝、樹木と解釈できる図柄を調査しました。花状の文様では、四つ、八つ、十六などの部分を規則的に配した例があり、皿の円形に合わせて模様を分割する技術に注目しています。(参照:Garfinkel・Krulwich(2025)|ハラフ土器の植物文様と構図の分析)
研究者たちは、こうした図柄の規則性から数を扱う能力との関係も論じました。一方、左右対称の模様を描けることと、抽象的な数学の概念をどこまで持っていたかは同じ問題ではありません。器面に何が描かれ、どのように分割されたのかは確認できますが、作り手がどんな数の知識を意識していたかは推測の領域にあります。(参照:Garfinkel・Krulwich(2025)|ハラフ土器の植物文様と構図の分析)
ハラフの集落建築|円形の建物と特別な部屋
円形建物「トロス」と直線的な建物
ハラフ文化の集落には、日干し煉瓦で造った円形建物があり、考古学では「トロス」と呼ばれます。円形の部屋に細長い入り口部分を付けた例や、周囲に長方形の建物を配置した例が知られています。アルパチヤでは、大きな円形建物の上に後の建物が重なった場所も発掘されました。(参照:Campbell(2000)|アルパチヤの「焼失家屋」の再検討)
テル・サビ・アビヤドの調査では、複数の部屋を持つ長方形の建物と、小さな円形建物が並ぶことが分かっています。円形建物を一律に神殿や穀物倉庫と決めることはできず、床の状態や中に残された物、出入り口の造りなどから、個別に用途を検討する必要があります。(参照:Akkermans・le Mière(1992)|テル・サビ・アビヤドのハラフ期建築)
アルパチヤの「焼失家屋」と黒曜石の装身具
アルパチヤの丘の頂部にあった「焼失家屋」では、鮮やかな彩文皿に加え、石の器、印章、小像、黒曜石の製品などがまとまって見つかりました。黒曜石には刃物に使うものだけでなく、板状に加工して連結した装身具も含まれています。これらの資料は、建物が火災に遭った状態のまま一部残ったため、同じ場所に置かれていた品々の組み合わせを知ることができます。(参照:Campbell・Healey|アルパチヤの黒曜石製品の分析)
マローワンの1933年の発掘後、この建物の役割について、共同の保管場所、富裕者の施設、交易に関わる場所など複数の考え方が出されました。スチュアート・キャンベルは2000年、出土品と発掘記録を再検討し、黒曜石などの交換が社会的に管理される場だった可能性を示しました。火災が意図的なものだったかどうかも確定していません。(参照:Campbell(2000)|アルパチヤの「焼失家屋」の再検討)
ドムズテペで見つかった大規模な集会の痕跡
現在のトルコ南東部にあるドムズテペは、紀元前6000〜5450年頃に営まれた大きなハラフ文化の集落です。円形と長方形の建物、彩文土器、印章、動物の骨が出土しています。カフラマンマラシュ盆地という内陸の土地にありながら、土器の形や文様には近隣地域との共通点と、集落固有の特徴が見られます。(参照:Carter・Campbell・Gauld(2003)|ドムズテペのハラフ期集落)
まとまった大量の動物骨や炉の跡から、共同で食事をした活動が繰り返されたと考えられています。人骨を含む特異な集積も発見され、埋葬や儀礼をめぐる議論が続いています。そこに残された器が日常用と同じものだったのか、特別な集まりのために選ばれたのかという問題も、出土位置や動物骨の分析を通じて調べられています。(参照:Open Context|ドムズテペの家畜と共同の食事の考古学資料)
ウバイド文化|南部で発達した土器と器形
エリドゥの墓に納められた三重の輪を持つ鉢
南メソポタミアのエリドゥでは、墓に多くの土器が納められました。墓地136号墓から出土した鉢は高さ6.9センチ、口径24.3センチ。淡い色の器面に、暗褐色の顔料で三重の同心円が描かれています。最も太い線は口縁を巡り、内側の帯には中心に向かう二重の半月形を三組並べています。(参照:メトロポリタン美術館|エリドゥ墓地136号墓の彩文鉢(49.133.2))
この器は、絵の種類を増やすのではなく、円と半月形を配置することで内側の広い面をまとめています。ウバイド文化の土器は一般に明るい器面に暗色の文様を描くことで知られますが、器形も装飾も年代や地域によって変化しました。エリドゥの墓から見つかった器は、当時の土器の変化を追うための資料です。(参照:メトロポリタン美術館|エリドゥ墓地136号墓の彩文鉢(49.133.2))
余白を残した浅鉢|エリドゥ墓地134号墓
エリドゥ墓地134号墓の鉢は高さ5.1センチ、口径23.8センチで、浅く大きく開いた形です。器の外側の縁には絵付けの帯を巡らせ、網目状に交差する線を菱形にまとめた図柄を三か所に置いています。器の中央には文様を描き詰めず、淡い地色が広く残されています。(参照:メトロポリタン美術館|エリドゥ墓地134号墓の彩文鉢(49.133.3))
ウバイド期の南部では、年代が下るにつれて細密な彩文が簡略化される器もあります。装飾が少ない器でも、口縁に線を集める構成や、広く残した余白によって形が強調されます。墓に納められたという発見状況は確かですが、その器が生前に日常的に使われたものか、埋葬のために用意されたものかは別の問いです。(参照:メトロポリタン美術館|エリドゥ墓地134号墓の彩文鉢(49.133.3))
高さ5センチの壺と、器面を回転させる仕上げ
テル・アル=ウバイド出土の小さな壺は高さ5センチ、直径約7センチで、淡い素地に黒い幾何学文様を描いています。手で成形され、器を回しながら形を整えた痕跡が記録されています。サイズが小さいことから用途は一つに決められず、保存容器、供物用、模型的な器などの可能性を考える場合にも出土状況が重要になります。(参照:大英博物館|テル・アル=ウバイドの小型彩文壺(1924,0920.270))
同時代の別の土器片には、素地の表面を薄く覆った化粧土、茶色の帯、仕上げの際に回転させた痕が確認されています。土器を回して整えることと、後世の高速のろくろを使った大量生産は異なる技術です。個々の製法については実物の加工痕から判断する必要があります。(参照:大英博物館|ウバイド土器の表面と成形痕(1919,1111.4762))
ウバイド文化の小像|人物の身体と顔の表現
細長い顔と切れ長の目を持つ女性像
テル・アル=ウバイドで見つかった高さ4.2センチの土製小像は、女性の頭と肩の部分が残っています。顔は前方に細長く突き出し、目は斜めに深く刻まれ、頭の後ろには髪をまとめたような突起があります。目や口、胸、首飾りの部分には黒い色が塗られていました。細い目のくぼみには、別の材料がはめ込まれていた可能性も指摘されています。(参照:大英博物館|テル・アル=ウバイドの人物像頭部(1924,0920.155))
こうした形はしばしば「トカゲのような頭」と呼ばれますが、実際に爬虫類を表そうとしたかどうかは分かっていません。似た形の頭部は南部の別の遺跡からも見つかっています。大英博物館にある別の頭部像でも、細長い目と、後頭部の髪形や首飾りの色が目立ちます。(参照:大英博物館|細長い顔を持つウバイド文化の小像頭部(1929,0715.43))
子を抱く土製女性像の姿勢と彩色
ウルから出土した高さ13.8センチの女性像は、左腰に子どもを抱く姿を表しています。大人の頭部は欠けていますが、身体と子どもの姿は残り、首飾りの結び目、肩の点と線、手首の飾り、腰帯などが黒色で描き分けられています。子どもの顔も細長く表されています。(参照:大英博物館|子を抱くウバイド文化の土製女性像(1930,1213.173))
この像は足元が円錐状になっており、直立させられる造りです。発掘記録では土の中から単独で見つかったとされ、頭部が古代に意図的に折られた可能性も研究者によって論じられています。母子の姿そのものは確認できますが、家庭用の像だったのか、特別な行為に用いたものだったのかは決まっていません。(参照:大英博物館|子を抱くウバイド文化の土製女性像(1930,1213.173))
印章と小さな粘土のしるし
ウバイド文化の遺跡からは、表面に図柄を刻んだ印章や小さな粘土製のしるしも出土しています。印章の図柄には鳥やヘビ、人物と動物の組み合わせがあり、食器とは異なる小さな面に線や形を彫り込む技術が使われました。粘土のしるしは、品物の数量や種類に関わる記録として使われた可能性が考えられています。(参照:メトロポリタン美術館|ウバイド文化(紀元前5500〜4000年))
北部のテル・サビ・アビヤドでも、より早い時期から粘土の封泥が倉庫などの管理と結びついていました。ウバイド期の印章がすべて同じ管理制度に使われたとはいえず、装身具や所有の表示など複数の役割が想定されます。印章の用途は、押し付けた粘土の痕跡と出土場所から検討されています。(参照:Akkermansほか(2006)|テル・サビ・アビヤドの初期土器集落)
集落建築の変化|エリドゥの建物と南部の計画
日干し煉瓦で築かれたエリドゥの建物群
エリドゥでは、古い建物の上に次の建物が繰り返し建てられ、重なり合った建築層が発掘されています。初期の建物は比較的小規模ですが、後の段階には長方形の平面を持ち、中央の部屋と周囲の小室を組み合わせた大きな建物が現れます。土を煉瓦状に成形し、積み上げた壁で空間を仕切る方法が使われました。(参照:MIT図書館|エリドゥの重層する建築平面図)
エリドゥのこの一連の建築は伝統的に「神殿」と呼ばれてきました。平面図には紀元前5000年頃の第XVII層、紀元前4900年頃の第XVI層などの建物が示されていますが、古い段階の建物で実際に何が行われたかは、遺構と出土品から慎重に判断する必要があります。(参照:MIT図書館|エリドゥの重層する建築平面図)
中央の部屋と側室を組み合わせた平面
ウバイド期後半の建築では、細長い中央室の左右に複数の部屋を置く平面が発達しました。エリドゥの後期建物には、壁面の凹凸や出入り口の配置を工夫し、部屋のつながりを計画して造った例があります。こうした長方形の建築は、後の都市時代にも使われる形式と関係しています。(参照:Paléorient(1990)|ウバイド時代建築の平面計画と寸法の研究)
1990年には、エリドゥなどの平面寸法を調べ、約72センチの共通単位が使われたという仮説も提案されました。建物に一定の比例関係がある可能性を示す研究ですが、現存する壁の寸法から当時の設計規則を完全に復元できるわけではありません。(参照:Paléorient(1990)|ウバイド時代建築の平面計画と寸法の研究)
居住施設と共同施設の境界
南メソポタミアでは、エリドゥの建築を単独で見るより、周辺の集落に残る住居形式と比べることで当時の建て方が分かります。中央の部屋を囲む構成は、特別な建物だけでなく、住居にも取り入れられていました。部屋数が多いことや、建物が繰り返し同じ場所に建てられたことは、人々が土地と建築を長期にわたって管理していた状況をうかがわせます。(参照:メトロポリタン美術館|ウバイド文化(紀元前5500〜4000年))
それらが誰の住居で、どこが共同の集会や儀礼の場所だったのかは、建築だけで一律に決まりません。ウバイド時代の建築には、社会的な役割を分ける仕組みが現れ始めていたと考えられますが、建物と権力の関係にはなお議論が残っています。(参照:Paléorient(1990)|ウバイド時代建築の平面計画と寸法の研究)
土器と建築の広がり|地域差を残した交流
北部でのハラフからウバイドへの変化
紀元前6千年紀の北部では、ハラフ文化の彩文土器と円形建物が広がっていました。紀元前5千年紀には、南部に特徴的なウバイド系の土器や建物の形式が北へ広まり、同じ集落でもそれまでと異なる器が使われるようになります。ハラフ文化が一斉に消えて新しい人々に置き換わったと見ることはできず、地域ごとに変化の時期も内容も異なりました。(参照:大英博物館|ウバイド文化の年代と分布)
2003年のカーター、キャンベル、ゴールドの研究は、ハラフと呼ばれる広い地域にも、集落の構造と遺物の組み合わせに地方差があったことを示しました。土器の文様が似ているからといって、人々の暮らしや社会の仕組みまで同じだったとは限りません。(参照:Carter・Campbell・Gauld(2003)|ハラフ文化の地域差と集落研究)
ペルシア湾沿岸へ運ばれたウバイド系の土器
ウバイド文化に特徴的な土器は、メソポタミア南部だけでなく、現在のクウェートやサウジアラビア東岸などペルシア湾沿岸でも発見されています。これは湾岸の人々が内陸の集落と物をやり取りしていたことを示す資料です。器が現地で使われたのか、作られたのかを考えるには、粘土の成分や胎土に混ぜた粒子、周囲の土器との違いを調べる必要があります。(参照:メトロポリタン美術館|ウバイド文化(紀元前5500〜4000年))
ウバイド期からその後の時代にかけての黒曜石の産地分析では、遠方の火山地域から運ばれた石材が、複数の地域を経由して分布していたことも明らかになっています。器形と文様の共通性、材料の移動、居住者の移動はそれぞれ別の証拠であり、広い文化のつながりを説明する際には区別して扱われます。(参照:Journal of Archaeological Science: Reports|ウバイド期の黒曜石流通と地域間交流)
略年表
- 紀元前6000年頃|メソポタミア北部で線刻や彩色を組み合わせた土器の製作が続き、ハラフ文化の彩文土器が広がる。
- 紀元前6000〜5500年頃|サーマッラー文化の絵付け土器と、テル・エス=サワンの建築・埋葬資料。年代や文化区分には研究上の幅がある。
- 紀元前5800〜5450年頃|ドムズテペで円形・長方形の建物、彩文土器、共同の食事に関わる遺物が残される。
- 紀元前5500〜5200年頃|テル・アルパチヤで細かな彩文鉢・浅皿が使われ、円形建物の上には後に「焼失家屋」が建てられる。
- 紀元前5500年頃|南メソポタミアのウバイド文化が発達し、彩文土器や土製人物像が作られる。
- 紀元前5000〜4900年頃|エリドゥで初期の長方形建築が繰り返し建てられる。
- 紀元前5000〜4500年頃|ウバイド系の土器・建築形式が北部にも広がり、地域ごとの土器構成が変化する。
- 紀元前4500〜4000年頃|南部の集落建築と土器生産が変化し、後のウルク時代につながる形式が見られる。
まとめ
紀元前6000〜4000年頃のメソポタミアでは、北部で線刻文や多彩な絵付けを施した土器が作られ、南部では暗色の文様を持つウバイド土器が広く使われました。アルパチヤの細密な彩文皿とエリドゥの余白を生かした鉢は、同じ土器でも器形や装飾の方法が異なっていたことを伝えています。集落には円形建物、部屋を組み合わせた住居、大きな長方形建築があり、土器の製作と使用は日々の生活だけでなく、埋葬や共同の集まりとも関わっていました。
発掘調査や材料分析によって、土器の制作方法、出土場所、遠方から運ばれた物の種類は詳しく分かるようになってきました。一方、皿に描かれた動物や植物の意味、人物像の使い方、建物が住居と共同施設のどちらを主な役割としていたのかについては、複数の解釈があります。北部と南部の文化がどのように交流し、変化したのかも、集落ごとの資料を用いて研究が続いています。
参考資料・出典
- Akkermansほか(2006)|テル・サビ・アビヤドの初期土器集落
- メトロポリタン美術館|ウバイド文化(紀元前5500〜4000年)
- 大英博物館|テル・アルパチヤのハラフ彩文鉢(1934,0210.30)
- Nieuwenhuyse・Akkermans・van der Plicht(2010)|シリア最初期の土器技術
- 大英博物館|ハッスーナの線刻・彩色土器片(1962,0725.3)
- 古代美術事典Treccani|テル・エス=サワンの建築とサーマッラー土器
- Breniquet|テル・エス=サワンの建築層と研究上の問題
- Helwing(2016)|テル・エス=サワンの墓地の再検討
- 大英博物館|ハラフ彩文浅皿(1934,0210.85)
- Garfinkel・Krulwich(2025)|ハラフ土器の植物文様と構図の分析
- 大英博物館|ヘビ文の土器片(1934,0210.142)
- 大英博物館|斑点を持つ動物の彩文土器片(1934,0210.116)
- Campbell(2000)|アルパチヤの「焼失家屋」の再検討
- Akkermans・le Mière(1992)|テル・サビ・アビヤドのハラフ期建築
- Campbell・Healey|アルパチヤの黒曜石製品の分析
- Carter・Campbell・Gauld(2003)|ドムズテペのハラフ期集落
- Open Context|ドムズテペの家畜と共同の食事の考古学資料
- メトロポリタン美術館|エリドゥ墓地136号墓の彩文鉢(49.133.2)
- メトロポリタン美術館|エリドゥ墓地134号墓の彩文鉢(49.133.3)
- 大英博物館|テル・アル=ウバイドの小型彩文壺(1924,0920.270)
- 大英博物館|ウバイド土器の表面と成形痕(1919,1111.4762)
- 大英博物館|テル・アル=ウバイドの人物像頭部(1924,0920.155)
- 大英博物館|細長い顔を持つウバイド文化の小像頭部(1929,0715.43)
- 大英博物館|子を抱くウバイド文化の土製女性像(1930,1213.173)
- MIT図書館|エリドゥの重層する建築平面図
- Paléorient(1990)|ウバイド時代建築の平面計画と寸法の研究
- 大英博物館|ウバイド文化の年代と分布
- Carter・Campbell・Gauld(2003)|ハラフ文化の地域差と集落研究
- Journal of Archaeological Science: Reports|ウバイド期の黒曜石流通と地域間交流