101–200
2世紀ローマ帝国の美術
トラヤヌス記念柱、パンテオンと各地の造形
紀元2世紀、地中海沿岸の都市では、港から届く穀物や油、ワイン、石材を使って生活が営まれていました。ローマから北海沿岸やナイル川流域へ通じる道には軍人、商人、職人、行政官が往来し、各都市で神殿、浴場、住宅、墓が建設されました。大理石は遠方の採石場から運ばれ、壁面や床を彩る石材、モザイクの小片、ガラス器や宝飾品にも広い交易網が関わっていました。
皇帝トラヤヌスのダキア戦争は101年に始まり、その戦果を記念する大きな広場と記念柱がローマに築かれました。続くハドリアヌスは各地を巡り、ローマのパンテオンやティヴォリの別荘群、ブリタニアの国境施設などで建設が進みます。後半にはアントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス、コンモドゥスの時代が続き、肖像彫刻や戦勝記念碑に異なる皇帝像が表れました。
帝国の都市は同じ建築技術や貨幣制度を共有しながら、地域ごとに異なる装飾を生み出していました。シリアの墓碑には現地の言語と衣装が刻まれ、エジプトでは木の板に描いた顔をミイラの包帯に納め、北アフリカの住宅では多色の床モザイクが作られます。皇帝の建築と各地の暮らしを伝える遺物を合わせて見ると、2世紀の造形の広がりを具体的にたどることができます。
CONTENTS
トラヤヌスのフォルムとダキア戦争の記念柱
広場、バシリカ、記念柱を結んだ建築計画
トラヤヌス帝のもと、ローマ中心部には新しいフォルムと呼ばれる公共広場が設けられました。敷地を確保するためにクイリナーレの丘の斜面を削り、巨大な柱廊広場とバシリカ・ウルピア、記念柱、図書室などを組み合わせています。皇帝を称える建築であると同時に、法務や集会、書物の保管に関わる場所を抱えた都市施設でした。
記念柱はバシリカの背後にある中庭に置かれ、その東西には二つの図書室が面していました。台座の碑文には、建設のために取り除いた地面の高さについての記述があります。建築家ダマスカスのアポロドロスが計画した可能性は古くから指摘されますが、個別の建物の設計を本人の仕事と断定できる署名資料は残っていません。(参照:コロッセウム考古学公園|トラヤヌス記念柱/セント・アンドルーズ大学|トラヤヌス記念柱の機能)
113年完成の記念柱|螺旋を描く155の場面
113年5月12日に完成を祝ったトラヤヌス記念柱には、紀元101〜102年と105〜106年のダキア戦争が浮彫に刻まれています。ルーニ産大理石を積み上げた柱の軸部は約29.5メートル。浮彫の帯は柱を23周しながら上昇し、全長は約200メートル、155場面が続きます。内部には約185段の螺旋階段があり、細い窓から光を取り入れます。
浮彫には船での渡河、軍の行進、木や石で築く陣地、皇帝が兵士に語りかける場面、降伏するダキア人が刻まれています。兵士の服装や軍旗、木造の橋や城壁を細かく彫り分ける一方、戦闘の経過を厳密な日付順で記録した絵巻ではありません。複数の場面で皇帝が繰り返し現れ、軍を統率する姿が強調されています。
元の頂部には青銅に金を施したトラヤヌス像が立ち、現在の聖ペテロ像は16世紀の置き換えです。台座内には皇帝の遺骨が納められ、戦勝の顕彰と皇帝の死後の記憶が同じ建造物に集められました。(参照:コロッセウム考古学公園|トラヤヌス記念柱/セント・アンドルーズ大学|トラヤヌス記念柱の機能)
見上げる浮彫をどう読むか|軍事記録と追悼の研究
地上から柱の上部を見上げると、人物の顔や道具の細部は遠く、螺旋に沿って物語を順番に追うことも難しくなります。セント・アンドルーズ大学の記念柱研究は、重要な場面が上下に対応する位置へ置かれている点に注目します。二つの戦争を区切る勝利の女神やドナウ川の渡河、ダキア王デケバルスの最期といった図像は、皇帝の勝利を繰り返し示しています。
考古学者ペネロピ・J・E・デイヴィスは1997年の論文で、柱を皇帝の墓と結びつけて考えました。柱の周囲を歩く動作を葬送儀礼になぞらえ、内部の暗い階段から頂部の光へ出る体験にも意味を見いだしています。浮彫の配置と建物内部の階段は実際に確認できます。古代の来訪者が全員そのような追悼の儀礼として体験したかは、解釈の問題として残ります。(参照:セント・アンドルーズ大学|トラヤヌス記念柱の機能/米国考古学誌|デイヴィス「トラヤヌス記念柱と追悼」(1997年))
パンテオン|円形の空間とコンクリートのドーム
アグリッパの碑文とハドリアヌス期の再建
ローマのパンテオンの入口には、紀元前1世紀の政治家アグリッパが建てたことを記す碑文が掲げられています。アグリッパの建物は火災で損傷し、現存する巨大な円形広間は主として118〜125年頃に再建されたものです。ハドリアヌスの治世に完成した建築が、入口では前代の造営者を記念する形になっています。
この年代の判断には、建築に使われた煉瓦の製造刻印や基礎・壁の調査が役立っています。刻印は煉瓦の製造や工房の情報を伝えますが、建物に積まれた日付を直接記録したものではありません。近年は一部の工事がトラヤヌス期から始まった可能性も議論されており、現存建築の完成期と着工期は分けて考えられています。(参照:イタリア文化省|パンテオン/オーストラリア国立大学|ローマの刻印煉瓦とパンテオン)
直径43.3メートルの室内と天窓
入口の柱廊を抜けると、奥には直径約43.3メートルの円形広間が開きます。円形の壁から頂部までの高さもほぼ同じで、壁厚が6メートルを超える部分が上のドームを受け止めています。ドームの内側には四角い凹みが同心円状に並び、頂部に直径約9メートルの円い天窓が開いています。外から入る自然光はこの天窓が主要な入口です。
壁とドームには火山灰などを混ぜたローマン・コンクリートが用いられ、下部の重量のある部分と上部で材料の選び方が変わります。構造研究は、ドームが上に行くほど薄くなり、骨材も軽くなる構成を分析しています。雨は天窓から床へ落ち、床面の排水孔から流れ出る仕組みです。大きな一室を実現するための荷重の処理と、室内での光・水の動きが一体となっています。(参照:イタリア文化省|パンテオン/イタリア文化省|パンテオンの建築史/構造工学研究論文|パンテオンのドームの亀裂と材料(2019年))
太陽光と神々の空間をめぐる解釈
パンテオンの天窓から差す光は季節や時刻とともに円形の壁を移動します。ロバート・ハンナとジュリオ・マリは2011年の論文で、太陽光が建築の象徴的な意味に深く関わると論じ、特定の日に入口へ差す光を皇帝の登場や神格化と結びつけました。建築内の光の位置は観察でき、太陽の通り道も計算できます。
古代の式典が何日にどこで行われたのかを伝える記録は限られています。建物がどの神々のために、どのような儀礼で使用されたかにも研究の余地があります。天窓の採光を宗教的な構想に結びつけた説は、建築の使われ方を考えるための研究仮説として扱われています。(参照:イタリア文化省|パンテオンの建築史/『Numen』|ハンナ/マリ「パンテオンと太陽」(2011年))
ハドリアヌスの別荘|水路、柱廊、彫像
ティヴォリに広がる皇帝の建築群
ローマの東にあるティヴォリのヴィッラ・アドリアーナは、117〜138年のハドリアヌス期に整備された大規模な別荘群です。丘陵の約120ヘクタールに宮殿、浴場、宴会の施設、庭、水路が広がり、現存する遺構だけでも三十ほどの建物が確認されています。小さな避暑用住宅というより、皇帝と側近、使用人、多くの働き手が出入りする複合施設でした。
建物は直線状の柱廊、曲線を組み合わせた壁、庭を囲む長い回廊など、平面の形を変えて配置されています。各所に水を引き、池や噴水と大理石の壁面を重ねました。敷地全体が一度に完成したと考えるのは難しく、現存する遺構には後世の改修や彫像の移動も含まれています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ヴィッラ・アドリアーナ)
「海の劇場」|円い水路で囲んだ小さな建物
別荘の「海の劇場」と呼ばれる一角は、円形の柱廊に囲まれた水路の中央に、小さな建物を載せた島がある独特の平面を持っています。島には居室にあたる空間があり、周囲の水面が内側と外側を隔てます。列柱と屋根を通る光は水面に反射し、島の建物の周りには歩くための通路が設けられていました。
名称は近代に付いたもので、古代に劇が上演された場所と確認されたわけではありません。皇帝の私的な場所と考える説があります。イタリア文化省による近年の修復では、水路の防水層と古い仕上げの痕跡を調べ、排水と再注水を通じて遺構の保存が進められています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ヴィッラ・アドリアーナ/イタリア文化省|ヴィッラ・アドリアーナの円形水路の保存)
カノプス|池と柱廊の間に並んだ彫刻
長い水盤を中心とする「カノプス」の一帯では、池の両側に列柱が続き、奥に半円状の大きな建築空間が置かれています。水盤の周りには人物像や動物像が並び、エジプトを思わせる意匠が組み合わされました。「カノプス」「セラピスの広間」は研究・発掘史の中で定着した呼び名であり、古代の施設名や儀礼の全容を保証するものではありません。
カノプスの水辺からは大理石のワニ像も知られています。緑がかった縞模様をもつ石の一塊から彫ったと考えられ、表面の筋が動物の皮膚の質感を伝えます。近代の発掘・修復では像の複製が設置された場所もあり、現地で見える彫像の並びをそのまま2世紀の配置と考えることはできません。池の縁、彫像の台座、建物の残存箇所を手掛かりに、配置の復元が続いています。(参照:イタリア文化省|カノプスとセラピスの広間/イタリア文化省|カノプスの大理石のワニ像)
ブラッスキのアンティノウス像|古い部分と修復の部分
130年、ハドリアヌスに近しい青年アンティノウスがエジプトのナイル川で亡くなり、皇帝の命で神として祀られるようになりました。バチカン美術館の「ブラッスキのアンティノウス像」はその死後間もない時期に作られた巨大な大理石像です。葉と蔦の実を重ねた冠、若者の顔と身体には、ギリシアのディオニュソスとエジプトのオシリスを結びつける意匠が見られます。
像は1792〜1793年、現在のパレストリーナ近くの発掘で発見されました。頭部の冠の頂点にある松かさ状の飾り、手にした杖などには近代修復の追加が含まれます。バチカン美術館は元の頭飾りについてコブラまたは蓮の花の可能性を示しています。見た目の全体を古代の制作物とみなすと、神像の宗教的な意味まで誤って読み取るおそれがあります。(参照:バチカン美術館|ブラッスキのアンティノウス像)
皇帝家と都市住民の肖像彫刻
トラヤヌスとハドリアヌスの顔の作り方
2世紀前半の皇帝肖像には、本人の名前を刻む銘文が失われても、硬貨や別の彫像と照らして人物を推定できるものがあります。コロッセウム考古学公園のトラヤヌス頭像は、額へ短く下りる整えた髪、口元の皺、目の下のふくらみを持ち、成熟した皇帝の顔を表しています。髪の束は幅の狭い溝で区切られ、顔の表面は比較的平滑に仕上げられています。
ハドリアヌスの肖像では、頭を囲む豊かな巻き毛と顎を覆う髭が目立つようになります。大英博物館が所蔵する軍装の胸像では、鎧をまとった胸部と顔の細かな髭が一つの皇帝像を形作ります。髭の有無を個人の好みだけから説明できるわけではなく、ギリシア文化への関心や皇帝の公的なイメージとも関わる肖像形式でした。(参照:コロッセウム考古学公園|トラヤヌスの肖像/大英博物館|ハドリアヌスの大理石胸像/メトロポリタン美術館|ローマの肖像彫刻研究)
アントニヌス・ピウス|巻き毛の彫りと穏やかな表情
メトロポリタン美術館が所蔵するアントニヌス・ピウスの大理石頭像は、高さ40.2センチで、皇帝の在位した138〜161年頃の制作とされます。額の上に巻いた髪と顎を囲む豊かな髭が、深く彫られた溝によって幾層にも重なります。光が溝に落ち、磨き上げた頬や額には柔らかな明るさが残ります。
この肖像には、先代ハドリアヌスの髭を生かした表現が継承されています。皇帝家では血縁と養子縁組によって継承が進み、彫像の髪や表情も王朝の連続性を表すための型として用いられました。頭部だけが残る彫像は、元の全身像にどのような服装や持物があったのかを特定しにくいため、顔の細部と同時代の硬貨を合わせて研究されています。(参照:メトロポリタン美術館|アントニヌス・ピウスの肖像)
マティディア・ミノルと女性の髪形
ハドリアヌス帝の妃サビナの異母姉妹マティディア・ミノルの頭像では、頭頂に編み込んだ髪を巻き重ね、額から上を高く整えています。メトロポリタン美術館の像は、イタリアのスエッサ・アウルンカの劇場から見つかった彫像などとの比較によって、この人物と同定されています。多くの皇帝家の女性像と同じく、顔は若々しく整えられ、髪形が人物の識別に大きな役割を果たします。
同館には150〜175年頃の名の分からない女性の肖像もあります。頭髪を後ろで輪のように結び、瞳の部分を深く彫り、肌を滑らかに磨く表現です。この像の髪形と加工はルキウス・ウェルスの宮廷に近い時期の作例と比較され、年代が推定されています。皇帝家の肖像を通じて広がった髪形は、都市住民の墓像や顕彰像にも取り入れられました。(参照:メトロポリタン美術館|マティディア・ミノルの肖像/メトロポリタン美術館|2世紀の女性肖像)
マルクス・アウレリウスの騎馬像|金を施した青銅
ローマのカピトリーノ美術館に残るマルクス・アウレリウス騎馬像は、176〜180年頃の金色に仕上げた青銅像です。馬は右前脚を上げ、首をやや曲げています。筋肉や脚の腱、手綱を受ける口の部分まで鋳造と仕上げによって細かく作られ、皇帝は馬上で右手を前に差し出しています。金箔や金めっきの痕跡が残り、完成時の像は現在より広い範囲で金色に輝いていたと考えられます。
この像は中世以後もローマに残り、1538年にカンピドリオ広場へ移されました。屋外環境による腐食を避けるため、オリジナルは現在美術館内に置かれ、広場には複製が設置されています。屋外の騎馬像の成立を伝える珍しい現存例ですが、古代に最初に置かれた正確な位置は確定していません。(参照:カピトリーノ美術館|マルクス・アウレリウス騎馬像の調査資料/カピトリーノ美術館|騎馬像の保存と修復)
161年以後の顕彰浮彫と戦争のイメージ
アントニヌス・ピウスの記念柱基壇|皇帝夫妻の昇天
161年にアントニヌス・ピウスが死去すると、マルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスは記念柱を奉献しました。現在バチカン美術館にある基壇の正面には、翼のある人物に抱えられた皇帝と亡き妻ファウスティナが空へ昇る場面が刻まれています。下方では女神ローマと、オベリスクを支えるマルスの野の擬人像が見守っています。
基壇の両側面には葬儀に伴う騎兵の行列が円を描くように彫られています。上に立っていた柱の軸部は、物語浮彫を持つトラヤヌスの記念柱とは異なり、エジプト産の桃色の花崗岩で作られた滑らかな柱でした。基壇は1703年、ローマのカンプス・マルティウスで発見されました。石材と図像を変えることで、帝国の勝利よりも死後の皇帝顕彰に重心を置いています。(参照:バチカン美術館|アントニヌス・ピウス記念柱の基壇)
マルクス・アウレリウス記念柱|北方戦争を刻む
ローマのマルクス・アウレリウス記念柱は、皇帝が180年に死去した後から193年頃までに作られたとされます。大理石の円柱に螺旋状の浮彫を巡らせる形はトラヤヌス記念柱を受け継ぎ、ゲルマン諸集団やサルマタイ人との北方戦争を刻んでいます。兵士の行進や敵の集落への攻撃、人物の身体を深くえぐる彫刻が重なり、遠くからでも強い明暗が生まれます。
浮彫には、軍の上空に広がる髭を生やした翼のある人物から、雨が激しく流れ落ちる場面があります。いわゆる「雨の奇跡」です。画面では水を受けるローマ兵と苦しむ敵兵が対照的に表されます。彫刻が伝えているのはローマ側に有利な出来事の表象であり、超自然的な現象を歴史的事実として立証した記録ではありません。(参照:ローマ市公式観光局|マルクス・アウレリウス記念柱/ハンガリー科学アカデミー|コヴァーチ「皇帝記念柱の神々」(2017年))
「雨の奇跡」の神格をめぐる研究とコンモドゥス像
雨の場面をめぐっては、古代の記述の中でも神への帰属が分かれています。研究者ペーテル・コヴァーチは2017年、記念柱に刻まれた雨の神の姿をほかのローマ時代の河川神像と比べ、類似する造形を探りました。イド・イスラエロヴィチは2008年、古代の伝承がどのように共有されたかを検討しています。浮彫に神の名前は刻まれておらず、特定の神格への同定には議論が続いています。
2世紀末には皇帝自身を神話の英雄と重ねる表現も現れました。カピトリーノ美術館の「ヘラクレスに扮したコンモドゥス像」は、182〜192年頃の皇帝をライオンの毛皮、棍棒、黄金の林檎の持物で表します。高さ133センチの大理石胸像は1874年、ローマのエスクイリーノの地下室から発見されました。英雄の姿と皇帝の顔を一体にした像は、コンモドゥス期の君主顕彰の特徴を明瞭に伝えています。(参照:ハンガリー科学アカデミー|コヴァーチ「皇帝記念柱の神々」(2017年)/『Greece & Rome』|イスラエロヴィチ「雨の奇跡」(2008年)/カピトリーノ美術館|ヘラクレスに扮したコンモドゥス像)
オスティア|港湾都市の浴場と集合住宅
ネプトゥヌス浴場|床に広がる海神の行列
ローマの外港都市オスティアでは、2世紀に港湾施設と住宅地が拡張され、公共浴場も改修されました。「ネプトゥヌス浴場」は前世紀末の施設をもとにハドリアヌス期に再建され、139年にアントニヌス・ピウスのもとで完成しました。道路に向かう側にはアーチを連ねた柱廊が置かれ、浴場内部へ人を導く構造です。
床の白黒モザイクでは、海神ネプトゥヌスが海馬の引く四頭立ての車に乗り、周囲に魚、イルカ、トリトンなどが散らばります。隣の床には海馬に乗るアンピトリテが描かれ、別の区画には海の怪物スキュラの姿もあります。黒い石片による輪郭と白地の余白で、巨大な床面を歩きながら神々や動物の位置を確かめられるよう作られています。(参照:オスティア考古学公園|ネプトゥヌス浴場/オスティア考古学公園|ネプトゥヌス浴場のモザイク)
ディアナの集合住宅|店舗、住居、後世の壁画
「ディアナの家」と呼ばれる集合住宅は、ハドリアヌス期の2世紀前半に建てられました。道路に面した一階には店舗が開き、内側には柱廊を持つ中庭があります。建物はもともと五階ほどあった可能性が示されています。床の初期装飾には白黒の幾何学模様のモザイクや多色の石片が用いられ、食堂には形を整えた大理石片の床が作られました。
中庭には2世紀後半に大理石の噴水が加えられ、現存する壁画の多くは世紀末の装飾に属します。3世紀には床の高さが変えられ、新しいモザイクが加わりました。発掘された一つの建物の中にも、建設時の床、後から設けた噴水、数世代後の壁画が重なっています。住宅美術は住む人の入れ替わりとともに制作され続けました。(参照:オスティア考古学公園|ディアナの集合住宅)
119〜120年の倉庫群|物を保管するための建築
オスティアの「小市場」と通称される建物は、119〜120年に建てられた倉庫を含む一帯の一部です。ハドリアヌス期には複数の倉庫と穀物を計量するための建物がまとまって配置されました。大量の商品を収める空間には、出入口、内側の通路、荷物を積み下ろしする場所の位置が決められていました。
この建物群は2世紀末にも改修されています。祭壇や彫像を置く公共広場とは異なり、穀物や商品を効率よく動かす空間です。運河や道路、倉庫、商店を整えた港湾都市の都市計画を見れば、ローマの巨大建築を支えた物流の拠点がどのような構造だったかも分かります。(参照:オスティア考古学公園|119〜120年の倉庫群)
帝国各地の都市と国境|小アジア、ブリタニア、北アフリカ
アフロディシアスの浴場|大理石の都市建築
小アジア南西部のアフロディシアスでは、豊かな石材資源と彫刻工房を背景に、都市の公共建築が整備されました。ハドリアヌス浴場と呼ばれる施設は、列柱をもつ大きな中庭と入浴室群からなり、市街の約二街区を占めています。石積みの壁とヴォールト状の天井の構造に、大理石の壁面装飾や彫像を組み合わせました。床下を温める設備をもつ部屋もあり、各室の温度や用途に応じて造りが変えられています。
浴場からはギリシア神話の英雄アキレウスと女戦士ペンテシレイアを表す彫像群も知られます。しかし、オックスフォード大学の発掘研究によれば、この彫像群が浴場に移されたのは古代末期のことです。現存する出土位置は、そのまま2世紀の建設時の装飾配置を示してはいません。浴場の建築年代と、そこに後から運び込まれた彫刻の年代を分ける必要があります。(参照:オックスフォード大学|アフロディシアスのハドリアヌス浴場/オックスフォード大学|浴場のアキレウスとペンテシレイア像)
122年に着工したハドリアヌス長城|石積みと築造碑文
帝国の北西端にあたるブリタニアでは、122年にハドリアヌス長城の建設が始まりました。現在のイングランド北部を東西に横断する防衛線で、一定の間隔を置いて小さな門付きの砦が設けられ、さらに大きな駐屯地や監視塔が組み合わされています。東部では石造の壁、西部の初期区間では土と芝を積み上げる工法も使われ、建設途中に当初の計画が変更された場所があります。
長城沿いで見つかった築造碑文には、皇帝の名前や工事を担当した部隊名が刻まれています。碑文集に収録された一例は、ハドリアヌスの称号から122〜126年頃とされ、石面に刻まれた文字によって建設の一時期を絞り込めます。長城は一枚の巨大な記念浮彫をもつ建造物ではありません。壁の石積み、門の形、碑文の配置そのものに、軍の労働と国境の管理の仕組みが残っています。(参照:イングリッシュ・ヘリテージ|ハドリアヌス長城の構造と建設/ブリタニア碑文集|ハドリアヌスの築造碑文 RIB 1637)
イタリカの新市街|住宅の床と列柱
現在のスペイン南部にあるイタリカは、トラヤヌスとハドリアヌスの出身地につながる都市として知られます。ハドリアヌス期を中心に市街地が拡張され、広い道路に沿って大規模な住宅、浴場、公共施設が配置されました。住宅には列柱の中庭があり、その周囲の部屋を床モザイクが飾っています。幾何学模様だけでなく、神々や動物を色の違う小石で表した床も残ります。
これらの装飾は、広場から遠い地方都市に一方的にローマの形式が伝わったという図式では捉えきれません。イタリカの住宅はローマの都市建築に通じる造りをもつ一方、家の規模と床の図柄の選択は地元の土地所有者や工人の活動にも関わっています。建築と装飾の年代には幅があり、都市の成立を一つの皇帝の在位年へすべて帰することもできません。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ハドリアヌス期のイタリカ)
ティムガッドとドゥッガ|北アフリカの公共建築
北アフリカのティムガッドは、トラヤヌス帝の治世が始まった後の100年に、軍の退役兵に関わる植民市として建設されました。創建は101〜200年の範囲よりわずかに前ですが、2世紀を通じて都市は発展しています。直角に交わる道路、広場、浴場、住宅が整えられ、石造の街区にローマ都市の計画が見られます。舗装道路に残る車輪の通り道や建物の敷居は、華やかな記念碑とは違う日常の使われ方を伝えています。
現在のチュニジアのドゥッガでは、もともとのヌミディア系の集落の上にローマ支配下の公共建築が加わりました。劇場は2世紀後半に建てられた施設の一つで、丘の斜面を利用した観客席を備えます。現存する神殿や浴場のすべてを2世紀に置くことはできず、3世紀以後に造られた建築も多くあります。同じ「ローマの都市遺跡」でも、既存集落の改変と新都市の建設では成り立ちが異なります。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ティムガッドの都市遺跡/ユネスコ世界遺産センター|ドゥッガ遺跡)
床モザイクと墓碑|属州に残る神話と生活の図像
ダフネ出土の女性像モザイク|花冠と果実
現在のトルコ南部アンタキヤに近い古代ダフネで発見された床モザイクは、2世紀に制作されたとされます。1937年にオリーブ畑から見つかった作品は、約226×251センチの石片を組み合わせた床で、中央に女性の上半身を配しています。女性は植物を編んだ冠を頭につけ、周囲には葉や花、果実が置かれています。肌や衣服の陰影には、白・灰・赤褐色など近い色の小片が選び分けられています。
この作品は長く「春」の擬人像と呼ばれてきました。メトロポリタン美術館は現在、冠や持物の組み合わせから「豊穣」そのものを表す女性像と説明しています。自然の恵みを人物で示す古代の図像は季節や豊作と結びつきますが、画面に人物名を確定する銘文はありません。作品の呼び名も、個々の植物や比較作品の研究によって見直されています。(参照:メトロポリタン美術館|ダフネ出土の床モザイク)
カルタゴの饗宴準備|180〜190年頃の多色モザイク
北アフリカのカルタゴで1875年に見つかった床モザイクには、料理や饗宴の準備をしている人々が並びます。ルーヴル美術館は180〜190年頃の制作としており、現在残る部分は約213×235センチです。人物は横を向いて歩き、器や道具を運んでいます。肌、衣服、床の影には石灰岩、大理石、ガラスなど異なる色と光沢をもつ小片が使われています。
正面向きの神像を中央へ置く構図とは異なり、複数の人が同じ方向に進む仕事の場面が広い床を横切っています。図柄には宴席や儀礼の準備を連想させる要素がありますが、実際にどの家で何のために使われた部屋なのかは、発見当時の記録だけでは確定しません。制作年代と、描かれた行為の具体的な意味には証拠の差があります。(参照:ルーヴル美術館|カルタゴ出土の饗宴準備モザイク)
パルミラの女性墓碑|名前、髪飾り、宝飾品
シリアのパルミラでは、石灰岩に死者の上半身を浮彫にした墓碑が墓室の納骨用の窪みを閉じる石板として用いられました。メトロポリタン美術館が所蔵する150〜200年頃の女性墓碑は、高さ約44.9センチ、幅41.8センチです。女性は胸元で留めた襞のある衣服を着て、額には文様を刻んだ冠状の飾りを重ねています。耳には大小の玉をつないだ形の垂飾が見え、頭と肩を長いベールが覆っています。
碑文にはパルミラのアラマイ語で「ザブディボルの娘アライヤト」の名が刻まれています。女性は右手で肩の高さにあるベールの端をつかみ、左手にも布のひだを持っています。人物を飾る宝飾品の意匠は、地中海沿岸の女性像にも通じる一方、名前の表記と言語、墓碑をはめ込む形式はパルミラの地域的な慣習です。頭飾りが実物の服装をどこまで正確に再現したかは、別に検討されています。(参照:メトロポリタン美術館|パルミラの女性墓碑(02.29.5))
テセウスとアリアドネの石棺|花綱と神話の小場面
ローマの大理石石棺には、2世紀中頃から人物と神話を刻んだ例が多く残ります。メトロポリタン美術館の「テセウスとアリアドネ」の石棺は130〜150年頃の制作で、高さ約78.7センチ、長さ217.8センチです。正面には翼を持つ小さな人物たちが花綱を支え、綱の上下にギリシア神話の場面が細かく彫られています。
石棺の背面は前面ほど細かく仕上げられていません。壁を背にして置かれ、見える面に彫刻の労力を集中した可能性があります。神話の人物が葬られた人の徳や死後の希望を示したと考える研究がありますが、石棺の持ち主の意図を示す銘文がない作例では、図柄の意味を一つに絞ることはできません。石棺がどこで、どのように置かれたかも読み取りに関わります。(参照:メトロポリタン美術館|テセウスとアリアドネの石棺)
オレステスの物語を刻む石棺|浮彫の物語表現
2世紀中頃の石棺には、ギリシア悲劇の筋を複数の場面に分けて刻むものもあります。メトロポリタン美術館に残るオレステス物語の石棺断片では、母クリュタイムネストラらを殺す場面や復讐の女神たち、神殿へ逃れるオレステスが一続きの浮彫に組み込まれています。衣の深い溝や手足の動きによって、異なる時点の出来事が狭い石面に重ねられています。
このような作品は、亡くなった人を直接描いた肖像ではありません。古代の文学に親しむ観者へ、神話の場面を通じて苦難や運命を連想させた可能性があります。現存する浮彫は欠損や後世の修復を受けている例もあり、各場面の登場人物の判定と、注文主が意図した意味は分けて考えられています。(参照:メトロポリタン美術館|オレステイアの浮彫石棺)
ローマ期エジプトの板絵肖像と金属・ガラス工芸
エウテュケスの肖像|木板に描かれた少年の顔
ローマ支配下のエジプトでは、木板に描いた人物の顔をミイラの顔の位置へ組み込む習慣が続いていました。メトロポリタン美術館の「エウテュケス」と呼ばれる少年の肖像は、100〜150年頃の作品で、縦約38センチ、横19センチです。大きな茶色の目、短く整えた巻き毛、白い衣服に入る細い紫の線が描かれ、少年は顔を斜めに向けています。明るいオリーブ色の背景に対し、片側の頬や首に影が差します。
蝋を結合材として顔料を木に定着させる技法が使われ、頬の色や髪の明暗は絵具を重ねて作られています。衣服の胸元にあるギリシア語銘文のうち、「カサニオスの解放奴隷エウテュケス」という部分は研究者の間でほぼ一致しています。その後に続く人名の関係や「署名した」という言葉が画家を指すのか、解放の証人を指すのかについては解釈が分かれます。(参照:メトロポリタン美術館|少年エウテュケスの板絵肖像/ゲティ保存研究|ミイラ肖像画の絵具結合材の研究(2020年))
金の花冠を付けた女性像|ミイラ肖像の制作
同館の「金の花冠を付けた年配の女性」の肖像は、100〜125年頃とされ、薄い木板に蝋を用いた絵具で描かれています。縦約34センチ、横18.4センチで、暗い髪をまとめた女性の頭に金色の花冠がのり、耳元には装身具が見えます。口元の皺や頬の影は年齢を感じさせますが、正面から見開いた眼は強く輪郭づけられています。
木板の縁には、ミイラの包帯の下へ差し込むために切り詰められたような形が見られる作品があります。肖像とミイラの年齢を比較した研究では、多くの肖像が死の前後に描かれた可能性が示されています。個別作品がいつ、どこで描かれたのかまでは確定しない例も多くあります。肖像の顔、包帯、棺や葬送の品々は一体の葬儀用品であり、板絵だけが美術市場に移動して出土地の記録を失った例もあります。(参照:メトロポリタン美術館|金の花冠を付けた年配女性の板絵/ゲティ保存研究|板絵に使われた木材の顕微鏡調査(2020年))
顕微鏡で調べる顔料|エジプシャン・ブルーと蝋
ゲティ保存研究所などの国際共同研究は、板絵の木材、下地、顔料、絵具を結びつける材料を、顕微鏡や光を使った分析で調べてきました。2020年に公表された研究では、蜜蝋を温めて塗る技法と、別の結合材を用いる絵具の違い、木板の種類や木目による加工方法が詳しく検討されています。見た目が似た板絵でも、すべてが同一の技法で描かれたわけではありません。
「エジプシャン・ブルー」と呼ばれる古代の青色顔料は、目に見える青い部分だけでなく、他の顔料に混ぜた色からも検出されることがあります。特定の光に反応する性質を使った撮影では、黒や灰色に見える箇所へ少量混ぜられた青も調べられます。この分析は顔料の選択を示しますが、描いた人物の名前や制作目的まで化学分析だけで決まるわけではありません。(参照:ゲティ保存研究|ミイラ肖像画の絵具結合材の研究(2020年)/ゲティ保存研究|板絵に使われた木材の顕微鏡調査(2020年)/ゲティ保存研究|エジプシャン・ブルーの検出(2020年))
面取りガラス杯と金・ガラスの首飾り
2世紀のガラス製品には、吹きガラスで器の形を作り、表面を研磨して削るものがあります。メトロポリタン美術館所蔵の面取り装飾を持つ透明なガラス杯は、高さ約10.3センチです。外面に大小の面を幾何学的に刻むと、薄いガラスの厚さが部分ごとに変わり、光が屈折して器の輪郭に細かな明暗が生まれます。
同館にはローマ期エジプトで作られた金と緑色ガラスの首飾りも残っています。長さ約27.9センチの装身具は、宝石の緑柱石に似せた緑色ガラスの玉を、金の細い線で作った鎖と組み合わせています。貴金属と人工素材を一緒に使う例からは、材料の価値だけでなく色彩と輝きを選ぶ工芸の工夫が分かります。作品の流通経路は個別に判明する範囲が異なり、同じ素材からすべての品の産地を決めることはできません。(参照:メトロポリタン美術館|面取り装飾のガラス杯/メトロポリタン美術館|ローマ期エジプトの金・ガラス首飾り)
略年表|101〜200年の主な出来事
- 101年|トラヤヌスによる第1次ダキア戦争が始まる。戦争は102年まで続く
- 105年|第2次ダキア戦争が始まり、106年にダキアがローマの属州となる
- 113年|ローマでトラヤヌス記念柱が完成する
- 117年|ハドリアヌスが皇帝となり、ティヴォリの別荘群の整備が進む
- 118年頃|この頃からパンテオンの現存建築の再建が進む。完成年代は125年頃までとされる
- 119年|オスティアで倉庫群が建設される。工事は120年頃まで続く
- 122年|ブリタニアでハドリアヌス長城の建設が始まる
- 130年頃|エジプトでアンティノウスが死去し、肖像と崇拝が広がる
- 138年|ハドリアヌスが死去し、アントニヌス・ピウスが即位する
- 139年|オスティアのネプトゥヌス浴場が完成する
- 161年|アントニヌス・ピウスが死去。記念柱の基壇に夫妻の昇天が刻まれる
- 176年頃|この頃からマルクス・アウレリウス騎馬像の制作が始まったと推定される
- 180年|マルクス・アウレリウスが死去し、コンモドゥスが単独皇帝となる
- 190年頃|この頃までにカルタゴの饗宴準備モザイクが作られ、ローマの北方戦争記念柱も180年以後に整備される
- 193年頃|マルクス・アウレリウス記念柱はこの頃までに完成したとされる
まとめ|建築、彫像、床画から分かること
2世紀のローマでは、トラヤヌス記念柱の長い浮彫、パンテオンの大きなコンクリート製ドーム、ハドリアヌスの別荘にある曲線の建築と水路が作られました。建築と彫刻を一体にした皇帝の公共施設は、石材を運び、煉瓦を焼き、工人を組織する大規模な作業によって成り立っていました。後半の皇帝像には髭と巻き毛を深く彫り分ける方法が用いられ、記念柱には戦争や皇帝夫妻の死後の顕彰が異なる構図で刻まれています。
同じ頃、オスティアの浴場には白黒の海神モザイクが敷かれ、カルタゴでは多色の小石で働く人々が描かれました。パルミラの墓碑は地域の言語と装身具を刻み、エジプトのミイラ肖像は木板に顔料を重ねて顔を表しています。作品ごとの材質、出土地、用途には大きな違いがあり、帝国全体を一つの造形様式で説明することはできません。
何のために図像が選ばれたのかをめぐっては、記念柱の見せ方、パンテオンの光と儀礼、石棺に刻まれた神話の意味などに複数の説があります。煉瓦の刻印や遺構の発掘、顔料の分析から制作年代と技法を絞れる一方、古代に行われた儀礼や個々の注文主の意図を記す資料は限られています。出土位置の再検討と材料の調査が、作品の元の姿を確かめる研究として続いています。(参照:米国考古学誌|デイヴィス「トラヤヌス記念柱と追悼」(1997年)/『Numen』|ハンナ/マリ「パンテオンと太陽」(2011年)/ゲティ保存研究|ミイラ肖像画の絵具結合材の研究(2020年))
参考資料・出典
- コロッセウム考古学公園|トラヤヌス記念柱
- セント・アンドルーズ大学|トラヤヌス記念柱の機能
- 米国考古学誌|デイヴィス「トラヤヌス記念柱と追悼」(1997年)
- イタリア文化省|パンテオン
- オーストラリア国立大学|ローマの刻印煉瓦とパンテオン
- イタリア文化省|パンテオンの建築史
- 構造工学研究論文|パンテオンのドームの亀裂と材料(2019年)
- 『Numen』|ハンナ/マリ「パンテオンと太陽」(2011年)
- ユネスコ世界遺産センター|ヴィッラ・アドリアーナ
- イタリア文化省|ヴィッラ・アドリアーナの円形水路の保存
- イタリア文化省|カノプスとセラピスの広間
- イタリア文化省|カノプスの大理石のワニ像
- バチカン美術館|ブラッスキのアンティノウス像
- コロッセウム考古学公園|トラヤヌスの肖像
- 大英博物館|ハドリアヌスの大理石胸像
- メトロポリタン美術館|ローマの肖像彫刻研究
- メトロポリタン美術館|アントニヌス・ピウスの肖像
- メトロポリタン美術館|マティディア・ミノルの肖像
- メトロポリタン美術館|2世紀の女性肖像
- カピトリーノ美術館|マルクス・アウレリウス騎馬像の調査資料
- カピトリーノ美術館|騎馬像の保存と修復
- バチカン美術館|アントニヌス・ピウス記念柱の基壇
- ローマ市公式観光局|マルクス・アウレリウス記念柱
- ハンガリー科学アカデミー|コヴァーチ「皇帝記念柱の神々」(2017年)
- 『Greece & Rome』|イスラエロヴィチ「雨の奇跡」(2008年)
- カピトリーノ美術館|ヘラクレスに扮したコンモドゥス像
- オスティア考古学公園|ネプトゥヌス浴場
- オスティア考古学公園|ネプトゥヌス浴場のモザイク
- オスティア考古学公園|ディアナの集合住宅
- オスティア考古学公園|119〜120年の倉庫群
- オックスフォード大学|アフロディシアスのハドリアヌス浴場
- オックスフォード大学|浴場のアキレウスとペンテシレイア像
- イングリッシュ・ヘリテージ|ハドリアヌス長城の構造と建設
- ブリタニア碑文集|ハドリアヌスの築造碑文 RIB 1637
- ユネスコ世界遺産センター|ハドリアヌス期のイタリカ
- ユネスコ世界遺産センター|ティムガッドの都市遺跡
- ユネスコ世界遺産センター|ドゥッガ遺跡
- メトロポリタン美術館|ダフネ出土の床モザイク
- ルーヴル美術館|カルタゴ出土の饗宴準備モザイク
- メトロポリタン美術館|パルミラの女性墓碑(02.29.5)
- メトロポリタン美術館|テセウスとアリアドネの石棺
- メトロポリタン美術館|オレステイアの浮彫石棺
- メトロポリタン美術館|少年エウテュケスの板絵肖像
- ゲティ保存研究|ミイラ肖像画の絵具結合材の研究(2020年)
- メトロポリタン美術館|金の花冠を付けた年配女性の板絵
- ゲティ保存研究|板絵に使われた木材の顕微鏡調査(2020年)
- ゲティ保存研究|エジプシャン・ブルーの検出(2020年)
- メトロポリタン美術館|面取り装飾のガラス杯
- メトロポリタン美術館|ローマ期エジプトの金・ガラス首飾り