紀元前1550–1070
古代エジプト新王国時代
巨大神殿と墓室壁画
紀元前2千年紀半ばのナイル川流域では、毎年の増水がもたらす土を利用して穀物が栽培され、川を行き来する船が農産物や石材を運んでいました。上エジプトのテーベ(現在のルクソール)にはアメン神の大きな聖域があり、川の東岸に神殿、西岸の乾いた山地に王族や役人の墓が集まりました。王国の行政、神殿への供物、墓で続けられる祭祀は、川を挟んだ二つの岸を結び付けていました。
紀元前1550年頃、アハモセ1世がエジプトを再統一し、第18王朝が始まります。以後の王たちはヌビアやシリア・パレスチナ方面へ遠征し、各地との交易や外交を進めました。神殿には砂岩や花崗岩の柱、色を塗った浮彫、巨大な王像が加わり、岩山を掘って造る王墓には来世の太陽の旅を描いた場面が広がります。第19・20王朝を経た紀元前1070年頃まで、およそ480年間に多様な建築と絵画が制作されました。
CONTENTS
再統一された王国|神殿と墓の制作を支えた人々
アハモセ1世から第18王朝へ|ナイルと東地中海
第17王朝のテーベ勢力は、ナイル・デルタに拠点を置いたヒクソスの支配者と戦いました。紀元前1550年頃に即位したアハモセ1世は、デルタ東部のアヴァリスからヒクソスの王権を退け、ナイル流域を再統一します。その後のトトメス3世らは北方のレヴァントと南方のヌビアに軍を進めました。金や象牙、木材、鉱物などを得る経路が広がると、王の威信を示す神殿・彫像にも各地の材料が使われました。
アハモセ1世の肖像を伝える石灰岩浮彫の断片には、頭に下エジプトの赤冠を載せた王の横顔が刻まれています。メトロポリタン美術館は制作年代を紀元前1550〜1525年頃とします。王権を表す冠や額のコブラは古王国以来の表現を受け継ぎ、王国の再統一後も王の顔と称号を識別する仕組みとして用いられました。(参照:メトロポリタン美術館|新王国時代のエジプト/メトロポリタン美術館|赤冠をつけたアハモセ1世の浮彫/ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ|新王国の王統と年代)
東岸の神殿と西岸の墓|造営地の役割
テーベ東岸のカルナックはアメン・ラー神の祭祀を行う聖域で、南方のルクソール神殿とは行列路で結ばれていました。神像を祭りに合わせて船形の輿で運び、神殿内の中庭や柱廊を通って儀礼を進めます。入口となる門塔、その先の開けた中庭、柱が並ぶ広間、奥の聖所という空間のつながりは、後の王による増築を重ねながら形成されました。
西岸では、王墓を切り開く岩山と、死後の供物を捧げる葬祭殿が別の場所に置かれるようになります。王家の谷の墓は人目につきにくい乾いた谷に掘られ、ハトシェプストやラムセス2世の葬祭殿は平地や崖下に大きな正面を向けました。現在の遺跡は歴代の王の増改築と後世の損傷が重なった姿であり、柱一本にも最初の建設と後から刻まれた王名が併存する場合があります。(参照:エジプト観光考古省|テーベの神殿と墓地/エジプト観光考古省|王家の谷の墓制と盗掘/エジプト観光考古省|カルナックの神殿群)
ハトシェプスト女王の葬祭殿|三層のテラスと遠征浮彫
デイル・エル=バハリ|崖に向かって上る柱廊
紀元前1470年頃、テーベ西岸の断崖のふもとに、王位についたハトシェプスト女王の葬祭殿「ジェセル・ジェセル」が造られました。広い前庭の先に三つの高さの異なるテラスがあり、緩い斜路が中央を貫いて上段へ続きます。各段の奥には柱廊が横に延び、階段状の建築の背後に石灰岩の断崖が立ち上がっています。設計に関わったとされる王宮の高官センエンムトの名も残ります。
最上段の列柱前には、両腕を胸で交差させたオシリス姿の女王像が立ち並びました。奥へ進むと岩盤を切り込んだアメン神の聖所に至ります。メトロポリタン美術館の建築史研究は、隣接する中王国のメンチュヘテプ2世葬祭殿を受け継ぎながら、中央の軸線を神の行列のために開き、王像を外側の柱廊へ多数配置した違いを指摘しています。(参照:エジプト観光考古省|ハトシェプスト女王葬祭殿/D・アルノルト/メトロポリタン美術館|ハトシェプスト葬祭殿の模型と建築史)
プント遠征の壁面|船・樹木・住居が続く場面
中段テラスの柱廊には、プントと呼ばれた土地への遠征を表す彩色浮彫が残ります。船の帆柱や船体、水に浮かぶ魚、荷を運ぶ人々、香料樹や異国の住居が横に連なり、港から船へ積み込まれた品物が描き分けられています。遠征先は紅海の対岸、現在のエリトリア近辺などとの関係が論じられますが、碑文に現代の国境線と一致する位置が記されているわけではありません。
別の柱廊では、女王の即位を神アメンと父王に結び付ける場面が作られました。遠征記録の壁面もまた、王が遠国から得た香料や富を神殿にもたらすという公的な物語です。船の部品や樹木の細部には観察に基づいた表現が見られますが、絵の並びは儀礼と王の正統性を伝えるために選ばれた構成です。遠征の全行程を写したものとして読むには、碑文と考古資料の照合が求められます。(参照:エジプト観光考古省|ハトシェプスト女王葬祭殿/D・アルノルト/メトロポリタン美術館|ハトシェプスト葬祭殿の模型と建築史)
女王の坐像とスフィンクス|王の身体を表す決まり
葬祭殿周辺から出た石像には、王冠と腰布をつけ、身体を正面に向けた女王の坐像や、ライオンの身体に王の頭を載せたスフィンクスがあります。メトロポリタン美術館の大型坐像では肩幅を広くし、脚をそろえて坐る王の定型が使われます。別の像では表情に女王の面影を残し、王の役割を表す衣服・髭・冠との組み合わせが作品ごとに異なります。
1920年代に行われた同館の調査では、葬祭殿近くの採石跡や穴から砕けた像の破片が大量に見つかりました。頭部、肩、脚をつなぎ直した展示像も多く、見えている輪郭の一部は近代に接合したものです。発掘位置と石材の種類を追うことで、かつて神殿のどこにどの像が立っていたかが検討されています。(参照:メトロポリタン美術館|ハトシェプスト女王の大型坐像/メトロポリタン美術館|ハトシェプスト女王のスフィンクス/メトロポリタン美術館|オシリス姿のハトシェプスト女王像頭部)
女王像はなぜ壊されたのか|1920年代と2025年の研究
発掘を率いたハーバート・ウィンロックは1920年代、後継王トトメス3世がハトシェプストの記憶を消そうとして像を徹底的に砕いたと考えました。実際に女王の名前や姿が削られた碑文があり、女王像が神殿から撤去されたことも確認されています。このことから、王位継承をめぐる敵意が像の破壊を引き起こしたという説明が広まりました。
考古学者ジュン・イー・ウォンは2025年、メトロポリタン美術館の発掘写真・破片の出土位置を再分析しました。顔がほぼ完全に残る像と、首や膝で割れた像が混在し、破片の一部は後の建物に石材として再利用されていました。ウォンは政治的な名前の抹消を認めつつ、像から宗教的な力を取り除く処置、運搬時の破損、後代の再利用も損傷の原因になり得ると論じています。古い発掘記録だけでは、割れ目の一つひとつを作った人物や目的までは判定できません。(参照:J・Y・ウォン(2025年)|ハトシェプスト女王像の破損・再利用の再検証(Antiquity)/D・アルノルト/メトロポリタン美術館|ハトシェプスト葬祭殿の模型と建築史)
カルナック神殿|王が加えた建物と134本の柱
第18王朝の増築|聖船の通路と植物の浮彫
カルナックのアメン大神殿は一人の王が完成させた建物ではありません。ハトシェプストは高い花崗岩製のオベリスクを奉納し、トトメス3世は聖域の東側に祝祭殿アク・メヌを建てました。アク・メヌの一室には、遠征先などで見た珍しい動植物をかたどった浮彫が並びます。茎が細かく分岐する植物や鳥類などを、それぞれの輪郭が分かるよう壁から浮かび上がらせています。
トトメス3世の花や鳥の図像は、王が集めた知識と遠方の土地への権威を同時に表しました。柱や入口の位置は祭りの行列が進む方向を意識して整えられ、歴代の王は以前の門を取り込む形で新しい建物を足しています。その結果、壁面の浮彫や柱の寸法を読む際には、同じ聖域の中でも王ごとの建設段階を調べます。(参照:エジプト国立文明博物館|トトメス3世の造営と墓室/エジプト観光考古省|カルナックの神殿群)
大列柱室|高さ約20メートルのパピルス形円柱
第19王朝のセティ1世が中心となって造営した大列柱室には、砂岩の柱が134本立っています。中央通路を挟んで並ぶ12本は高さ約20メートルで、上が開いたパピルスの花を思わせる柱頭を持ちます。左右の低い122本はつぼみを閉じた形の柱頭が主体で、中央との高さの差に石の格子窓を設け、屋根の下へ日差しを取り入れました。
大列柱室は、アメン大神殿の第2門塔と第3門塔の間に設けられました。メンフィス大学とケベック大学の共同研究は、両門塔の建設時期と室内の刻文を照合し、セティ1世の建築の後にラムセス2世が装飾を加えた過程を記録しています。天井材と柱が支える石の重量、奥へ向かうにつれて変わる明るさは、柱頭の形と室内の構造を直接結び付けています。(参照:メンフィス大学・ケベック大学|カルナック大列柱室の建築史/カルナック大列柱室共同調査|巨大なパピルス柱)
彫りの深さと王名|セティ1世からラムセス2世へ
柱や壁の表面には、王が香や食物をアメン神へ捧げる場面と、王名を囲む細長い楕円形の枠が刻まれています。浅く周囲を削って人物を浮かび上がらせる浮彫と、輪郭の内側を彫り込む沈み彫りが場所によって使い分けられました。広い壁を区切る縦線や神の背後の文字列も、柱の曲面に合わせて配置されています。
共同調査隊はセティ1世の刻文の上にラムセス2世が手を入れた箇所や、後代の王名を追刻した例を記録しています。現在同じ通路で見られる絵でも制作は一度きりではありません。浮彫の種類、文字の輪郭、重なった刻線を調べることで、建築が使われていた間の装飾の改変が区別されます。(参照:カルナック大列柱室共同調査|王の献納浮彫と碑文/カルナック大列柱室共同調査|建設過程と王ごとの浮彫)
ルクソール神殿とアメンホテプ3世|祭礼の道と巨像
オペト祭の列柱廊|神々の船形の輿を運ぶ
ルクソール神殿はカルナックから南へ約3キロメートルの場所にあり、アメンホテプ3世が紀元前14世紀に中心部分を造りました。列柱廊では背の高い14本の柱が二列に並び、神像を載せた船形の輿を運ぶオペト祭の行列が壁に描かれます。王・神官・兵士・観衆が祭りに関わる様子を長い壁面に展開するため、人の列は画面の進行方向に沿って繰り返し現れます。
列柱廊の祭礼浮彫は、後のツタンカーメンとホルエムヘブの時期にも装飾が進みました。さらに紀元前13世紀、ラムセス2世は前庭と巨大な門塔を増築し、入口に巨像と一対のオベリスクを置きました。現在片方のオベリスクはパリにあり、神殿の正面に残る一本と合わせると、当初の入口の対称性が分かります。(参照:エジプト観光考古省|ルクソール神殿の造営とオペト祭)
西岸のアメンホテプ3世像|葬祭殿の入口
アメンホテプ3世の葬祭殿があったテーベ西岸には、巨大な二体の坐像が並び、現在は「メムノンの巨像」とも呼ばれます。玉座にまっすぐ坐る王の脚のそばには小さな人物像が付され、王が神殿へ向かう道を見渡す形でした。巨大な神殿の建材は長い間に失われ、坐像だけが孤立して見える場所もあります。像だけを見て当初の建物の大きさを判断することはできません。
1998年から進められたエジプトと国際調査団の保存・発掘では、葬祭殿の柱廊や王像、ホルス神の大型像の破片が見つかっています。柱の基礎や庭の位置を調べると、現在広い空き地に見える場所にかつて建物と石像が並んでいたことが分かります。石像の再建作業では、元の部材と保存のための追加材が区別されています。(参照:エジプト観光考古省|アメンホテプ3世葬祭殿と巨像の調査/エジプト観光考古省|テーベの神殿と墓地)
王妃ティイとともに坐る家族像
この時代の王権表現は一人の王像だけに限られません。アメンホテプ3世と王妃ティイを並べ、二人の足元などに王女を小さく刻んだ巨大な家族像も制作されました。王妃を王と近い大きさで表した点に特徴があり、椅子の前面や衣服の細部に銘文と装飾が入っています。王の顔の左右対称性に加えて、王家の血縁そのものが記念像の主題になりました。
エジプト観光考古省はこの群像を新王国時代でも最大級の王家群像と紹介しています。複数の人物を一塊の石に彫るため、人物の間を完全に切り離さず、背もたれと脚部の石を構造上の支えとして残しています。石像の寸法と人物の配置は、王の個人的な家族写真というより、公的な王権表現として読むことができます。(参照:エジプト観光考古省|アメンホテプ3世と王妃ティイの群像)
アマルナの造形|太陽神アテンを中心にした王家
アクエンアテンの新都|大アテン神殿の中庭
紀元前1350年頃、アメンホテプ4世はアクエンアテンと改名し、太陽の円盤アテンの信仰を中心にした都アケトアテン(現在のテル・エル=アマルナ)を造りました。アメン神の聖域が建物の奥に神像を安置したのに対し、アマルナのアテン神殿は太陽光を受ける開放的な中庭と供物台を重視しました。神の姿は人間や動物の像ではなく、光線が伸びる太陽円盤として表されます。
アマルナ発掘調査隊は2012年以降、アテン大神殿の地面を区画ごとに掘り、石造建物の基礎と泥レンガの床、供物台などを記録してきました。バリー・ケンプらの2012年以降の報告と2023年に公表された発掘成果は、古い神殿跡の埋め戻しや改築の痕跡を示します。今日地上に整えられた石の輪郭の一部は近年の保存整備によるもので、遺構の復元線と当時の石積みを区別して読む必要があります。(参照:アマルナ発掘調査隊|アテン大神殿の発掘と平面調査/A・スティーヴンズほか(2023年)|テル・エル・アマルナ2022年発掘成果)
カルナックの初期アマルナ浮彫|王妃が単独で捧げる
アクエンアテンが新都へ移る前、カルナックにもアテンのための建築が造られました。メトロポリタン美術館所蔵の幅32センチの砂岩浮彫では、王妃ネフェルティティが片腕を上げて供物を捧げています。垂れた顎、細く傾いた眼、鋭く折れた鼻筋など、初期アマルナの強く誇張された顔立ちが刻まれています。
王妃の背後には娘を示す文字があり、周囲に残るアテンの光線から、太陽円盤が王妃の真上にあったと復元されています。アマルナ美術の研究者マリアンヌ・イートン=クラウスは、浮彫の残存線を読み、この場面では王妃が王の随伴者としてではなく、単独で神へ捧げ物をする姿だったと指摘しました。小さな断片でも王妃の儀礼上の役割を具体的に調べることができます。(参照:メトロポリタン美術館|ネフェルティティ王妃の砂岩浮彫)
石灰岩の王妃像|手で終わる太陽の光線
アマルナ期後半とされる石灰岩浮彫(メトロポリタン美術館1993.326)は縦23.8センチ、横44.5センチです。左端に王の肩がわずかに残り、その後方を進む王妃の顔へアテンの光線が伸びています。光線の先は人の手となり、二本の手は王妃の鼻と口へ生命を意味する印を差し出し、もう一本の手は額のコブラに触れています。
この顔は長くアクエンアテン王自身と同定されましたが、収蔵館は現在ネフェルティティなどの王妃を表した可能性が高いと説明しています。初期の極端な顔の誇張に比べ、顎の骨や頬の起伏は繊細に整えられています。同じアマルナ時代でも、王像の描き方には造営の段階に応じた変化がありました。(参照:メトロポリタン美術館|太陽神アテンの光を受ける王妃の石灰岩浮彫/メトロポリタン美術館|手の形で終わるアテンの光線の浮彫)
ネフェルティティ胸像|石灰岩・漆喰・色彩の層
ベルリンの新博物館にあるネフェルティティ胸像は高さ49センチで、紀元前1340年頃の作とされます。背の高い青い冠、長い首、赤褐色の頬、濃い眉、胸元の色とりどりの首飾りを持ちます。1912年12月6日、ルートヴィヒ・ボルヒャルトの調査隊がアマルナの建物P47.2の室内で発見しました。作品は当時の彫刻工房と関わるものと考えられています。
内部は石灰岩で、表面に厚みの異なる漆喰を重ねて顔を整えています。2006年の断層撮影がその層を示し、2009年の顔料調査では人工顔料のエジプシャン・ブルー、黄・赤の鉱物顔料、炭の黒などが確認されました。右眼は黒く着色した蜜蝋に透明な水晶を重ね、左眼には同じ埋め込みがありません。発見者ボルヒャルトは1923年の著作で左眼は最初から作られていなかったと考えましたが、その理由を制作途中の未完成と決めるには、工房内での役割の検討が残ります。(参照:ベルリン国立博物館|ネフェルティティ胸像の構造・顔料・眼/ベルリン国立博物館|ネフェルティティ胸像の1912年発見記録)
第19王朝の巨大神殿|彫り込まれた聖所と王の姿
アビドスのセティ1世神殿|神々へ向かう彩色浮彫
セティ1世は、古くからオシリス神の信仰が盛んなアビドスに神殿を築きました。列柱の奥に複数の礼拝室が並び、王が神像に香を供え、衣を着せ、食物を捧げる場面が石灰岩の壁面に刻まれています。神々の冠や手に持つ笏、王の腕の角度、供物の種類まで小さな線で分けられ、赤・青・黄などの色が残る箇所もあります。
エジプト考古当局が進めるアメン・ラー礼拝室の保存作業は、彩色の残る部分と表面の堆積物を調べながら壁を安定させるものです。神殿はセティ1世の死後にラムセス2世による工事も受けているため、建物の完成時期と各壁画の制作を一つの年にそろえることはできません。(参照:エジプト観光考古省|アビドスのセティ1世神殿・アメン礼拝室修復/エジプト観光考古省|ラムセス2世葬祭殿ラムセウム)
ラムセウム|砕けた巨像と葬祭殿の中庭
テーベ西岸のラムセウムはラムセス2世のための葬祭殿です。砂岩の門塔と中庭、パピルス形柱の広間が奥へ連なり、王が神々へ近づく建築の軸が設けられています。かつて敷地には高さ17メートルを超えたとされる巨像が立ち、現在は大きな頭部や胴の破片が残ります。石に刻まれた王名と、動物・人物の浮彫は巨大な石材の表面を覆っています。
神殿の壁面には戦いや祭礼の場面が彫られました。像の顔や手の大きさを揃えることに加え、大きな画面で王を他の人物より大きく表し、見る人の視線を王へ集めています。神殿は王の死後の祭祀を続ける場所であるとともに、在位中の権力を公の場に示す記念建築でもありました。(参照:エジプト観光考古省|ラムセス2世葬祭殿ラムセウム)
アブ・シンベル|岩壁から掘り出した四体の王像
ヌビアのアブ・シンベル大神殿は紀元前1260年頃、ラムセス2世が山の岩盤を直接掘り抜いて造りました。正面の巨大な四体の坐像はそれぞれ高さ約20メートルで、一本の岩壁から王の膝、腕、頭を残すように削り出されています。一体は古代に崩れ、その頭部などの破片が足元に残ります。奥の列柱室には王をオシリスの姿にした立像が並び、最深部に神々と王の像が置かれました。
近くの小神殿には、ハトホル女神と王妃ネフェルタリに関わる像が並びます。両神殿は20世紀のアスワン・ハイダム建設で水没の危機にあり、UNESCOの国際事業によって岩を切り分けて高所に移されました。現地で見られる石像の面と彫刻は古代のものですが、神殿を支える現在の丘と配置は移設後の構造です。(参照:エジプト観光考古省|アブ・シンベルの岩窟神殿/UNESCO世界遺産センター|アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡)
メディネト・ハブ|戦争浮彫と王の記録
ラムセス3世葬祭殿|門塔から聖所まで
紀元前12世紀のラムセス3世はテーベ西岸のメディネト・ハブに、泥レンガの周壁をめぐらせた葬祭殿を建てました。東の大門を通ると門塔、二つの中庭、柱の立つ広間、奥の礼拝室へと進みます。内側には王宮に関わる部屋、倉庫や管理施設もあり、神殿を支える職員の活動を想定した配置が残っています。
中庭にはオシリス姿の王像を柱に添えた部分があり、王を神と結び付ける像が実際の建築を支える柱と並びます。祭礼の列や供物の彫刻は奥へ進む壁面にも続き、軍事場面だけを描いた神殿ではありません。ラムセス2世のラムセウムから引き継いだ平面形式の中に、第20王朝の王の事績が刻まれました。(参照:エジプト観光考古省|メディネト・ハブのラムセス3世葬祭殿)
海上戦と『海の民』|敵の船と王の矢
メディネト・ハブ外壁の戦争浮彫には、帆と高い船首を持つ船が衝突し、船上の戦士が弓を引き、倒れた敵が水中へ落ちる様子が重なって描かれています。敵側には鳥の羽のような冠をつけた人物などが見られ、碑文は複数の敵集団の名を挙げます。大きく表されたラムセス3世は戦車や弓とともに敵を圧倒する位置に置かれます。
シカゴ大学の碑文学調査隊は1930年の第1巻とその後の第2巻で、図像の輪郭と文字を位置ごとに写し取り、原壁面と対照できる図版を公表しました。王の銘文は勝利の記念記録であり、戦闘の日付や参加人数、敵の行方をすべて中立的に記録した戦況報告ではありません。『海の民』と呼ばれる集団の出自や移動を検討するときは、浮彫・碑文と他地域の考古資料を合わせて検証します。(参照:エジプト観光考古省|メディネト・ハブのラムセス3世葬祭殿/シカゴ大学碑文学調査隊(1930年)|メディネト・ハブ第1巻・初期歴史記録/シカゴ大学碑文学調査隊|メディネト・ハブ第2巻・後期歴史記録)
王家の谷|太陽の夜の旅を描く墓室
王墓を岩山の奥に掘る|第18王朝の葬制
王家の谷はテーベの西方にある涸れ谷で、王墓の入口から階段と下り坂を進み、柱のある広間や棺を納める部屋へ至ります。第18王朝のトトメス1世が埋葬されたことが確実な初期の王の一人です。王の葬祭殿を谷の外に置いたため、参拝者が儀礼に集まる場所と、王の遺体を安置する場所が分かれました。
人目を避けて造られた王墓も古代から盗掘に遭っています。各墓から出た品物の残り方には大きな差があり、現存する壁画は埋葬室の装飾を伝える一方、当初の金属・木製副葬品の全体像を示しているわけではありません。墓室の壁を覆う経文は王ごとに選択と配置が異なるため、王家の谷全体を一つの固定した装飾規則で説明することも難しいものです。(参照:エジプト観光考古省|王家の谷の墓制と盗掘)
トトメス3世墓(KV34)|十二の時間に分かれる夜
紀元前15世紀のトトメス3世墓では、埋葬室の壁に「アムドゥアト」と呼ばれる来世の書が描かれています。太陽神が夜の間に地下世界を通る旅を十二の時間に区切り、神々、舟、敵対する存在を細い線で連ねています。人物の輪郭は細い黒線と赤線が中心で、淡い地の上に文字と像が密に並ぶ様子は、広げたパピルスの巻物を思わせます。
この墓は王名の入った石棺が残り、描かれた旅の終わりが王の再生と結び付くように構成されています。エジプト国立文明博物館は、この十二時間の夜の描写を墓の中心的特徴として紹介します。大きな王像を描いて室内を埋める方法とは異なり、細い線の繰り返しと時間の順序によって来世の道筋が示されました。(参照:エジプト国立文明博物館|トトメス3世の造営と墓室)
セティ1世墓(KV17)|星の天井と複数の来世の書
紀元前1290年頃のセティ1世墓は、通路から柱室を経て、天井が弧を描く埋葬室へ続きます。壁にはアムドゥアトのほか「門の書」「ラーへの讃歌」などが刻まれ、色を塗った神々や王が文字列の間に現れます。埋葬室の天井には濃い青の夜空を思わせる地に星と天体の図像が並び、地上で見える星空を来世の天の秩序へ結び付けています。
王家の谷の調査ではKV17が全面的に装飾された初期の例の一つとされ、近世にはジョヴァンニ・ベルツォーニが発見した墓として知られました。1821年には墓室の模写がロンドンの展示会場に再現され、エジプトの壁画を当時の欧州の人々に伝えています。展示の彩色模写と岩壁に残る当時の顔料は、保存状態と記録方法の違いを持っています。(参照:エジプト観光考古省|王家の谷セティ1世墓(KV17))
ラムセス6世墓(KV9)|直線の通路と天文画
第20王朝のラムセス6世墓では、入口から埋葬室まで通路がほぼ一直線に下ります。壁は「門の書」「洞窟の書」など複数の来世の書で覆われ、赤・黄・青・黒の図像と文字列が順に続きます。天井には天空の女神や太陽の運行に関わる絵が置かれ、頭上の長い画面と左右の壁がつながって地下世界の秩序を表します。
KV34の細い線による図像、KV17の広く展開する彩色場面、KV9の天井を含む複雑な図像は、いずれも王が来世を通るための宗教的な記録でありながら、画面の作り方が異なっています。同じ年代の建物を並べた比較ではなく、第18王朝から第20王朝までの墓室装飾の変化として読み取ることができます。(参照:エジプト観光考古省|王家の谷ラムセス6世墓(KV9)/エジプト観光考古省|王家の谷セティ1世墓(KV17)/エジプト国立文明博物館|トトメス3世の造営と墓室)
ツタンカーメン王墓|小さな埋葬室と黄金の副葬品
1922年の発見と壁面|金地に描かれた葬儀
紀元前1320年頃に埋葬されたツタンカーメンの墓(KV62)は、王家の谷の多くの王墓に比べて小さく、装飾は埋葬室の壁に集中しています。黄色を基調にした壁面には、後継者アイが王のミイラへ葬送の儀礼を行う場面や、王が神々と向き合う場面が描かれています。地下世界を進む十二時間の旅は一部分だけが採用され、セティ1世墓ほどの長大な図像はありません。
ハワード・カーターとエジプト人の作業員を含む調査隊は1922年に墓の入口を発見し、その後およそ十年かけて品々を記録・搬出しました。カーターの配置図、遺物カード、ハリー・バートンの発掘写真はオックスフォード大学グリフィス研究所に残っています。壁画の完成時期を、発見された1922年と取り違えず、葬送当時の制作として考えます。(参照:エジプト観光考古省|ツタンカーメン王墓(KV62)の壁画と副葬品/オックスフォード大学グリフィス研究所|カーター発掘資料・ツタンカーメン王墓記録)
およそ5000点の品々|王宮生活と葬送用の道具
墓の小さな部屋には椅子、箱、寝台、戦車、衣服、装身具、武器、容器などおよそ5000点の品が密に置かれていました。金箔を張った木製家具と、石を磨いて作った容器、青いガラスや宝石をはめ込んだ工芸品では、材料と用途が大きく異なります。王が生前に使った家具と葬送に合わせて準備した品が同じ墓に納められ、発掘時の位置関係が両者の検討に用いられています。
墓が小さい理由には、若い王が短期間で亡くなったために準備が間に合わなかったという説明があります。エジプト観光考古省は、現在KV62と呼ぶ墓が別の人物のために準備され、後から王用に変更された可能性も紹介しています。部屋の形と副葬品の数量は分かっていても、工事がどの時点で誰のために始まったかは研究が続いています。(参照:エジプト観光考古省|ツタンカーメン王墓(KV62)の壁画と副葬品/オックスフォード大学グリフィス研究所|カーター発掘資料・ツタンカーメン王墓記録)
黄金のマスク|打ち出した金と色石の嵌め込み
ツタンカーメンのミイラの頭部を覆っていた黄金のマスク(収蔵番号JE 60672)は高さ54センチ、幅39.3センチ。青と金の縞の頭巾をつけ、額にはハゲワシとコブラの王権標章が並びます。目には黒曜石と水晶、眉と瞼にはラピスラズリが用いられ、胸の幅広い首飾りには色ガラスと半貴石が組み込まれています。
国際エジプト博物館連携データベースは、金の薄板を加熱・打ち出し・接合する工程を記録しています。マスクの表面は彫刻された顔であり、裏側は実際のミイラを保護するために作られています。金色が太陽や神性と結び付けられた意味と、薄い金板を成形する工房の技術は別の観点ですが、一つの葬送具の中で重なっています。(参照:国際エジプト博物館連携データベース|ツタンカーメン王黄金マスク(JE 60672))
王妃ネフェルタリの墓|鮮やかな壁画と保存修復
王妃の姿と神々|王妃の谷の塗り壁
ラムセス2世の王妃ネフェルタリの墓(QV66)は、テーベ西岸の王妃の谷にあります。室内の壁を塗って滑らかにした上に、白い衣を着た王妃、赤や青の冠の神々、聖なる文字が鮮やかに描かれました。腕や脚を動かす人物の輪郭は濃い線で引かれ、広い色面の上に手首の飾りや衣の帯が描き込まれています。室内の場面は『死者の書』に関係する神々との出会いなど、王妃が来世へ進むためのものです。
1904年にエルネスト・スキアパレッリが墓を調査した時点で、塗り壁には剥離と欠損がありました。石の表面に残る色は現在も鮮やかですが、壁面全体が制作当時の状態で保存されているわけではありません。塗り下地を支える壁の状態、塩類の移動、訪問者による影響が損傷の調査対象です。(参照:ゲティ保存研究所|王妃ネフェルタリ墓の壁画保存事業(1986〜1992年)/ゲティ研究所|『ネフェルタリ墓の壁画保存』(1993年)調査資料)
1986〜1992年の保存事業|描き足さずに支える
ゲティ保存研究所とエジプト考古当局は1986〜1992年、ネフェルタリ墓の壁画を共同で調査・保存しました。損傷部分の記録、壁面の状態分析、剥がれかけた彩色層の固定、表面の清掃を組み合わせる作業でした。ゲティの記録によれば1980年代までに壁画の少なくとも五分の一が失われていました。
研究所は保存処置を主に固定と清掃へ限定し、失われた人物や文字を新しく描いて補うことを避けました。1993年には事業の成果を報告書にまとめ、修復作業の写真や劣化の記録を残しています。現地に残る顔料、古い剥落跡、現代の補修材を区別することが、墓の制作技術を調べるうえでも欠かせません。(参照:ゲティ保存研究所|王妃ネフェルタリ墓の壁画保存事業(1986〜1992年)/ゲティ研究所|『ネフェルタリ墓の壁画保存』(1993年)調査資料)
役人と職人の墓|生活風景を描いた壁画
ネバムン墓室の鳥猟|水辺に広がる魚と羽
紀元前1350年頃、テーベの役人ネバムンは、自らの墓の壁に湿地で鳥を狩る様子を描かせました。大英博物館所蔵の壁画断片では、小舟に立つネバムンが投げ棒を持ち、後ろに妻、足元に娘がいます。パピルスの茂みから水鳥が一斉に飛び立ち、猫がそのうちの数羽に飛びかかります。水面の下には細長い魚の身体が描かれ、水中と空中が同じ画面に重なっています。
ネバムンの顔と脚は横向き、肩や胸は広く見える角度で描かれ、小舟と鳥を一つの壁に見やすく収めています。魚や鳥は種類が分かるほどに描き分けられますが、すべての動きが同じ瞬間に起きた光景とは限りません。狩猟の場面は墓の中で生前の豊かな暮らしと死後の供給を表す図像として置かれていました。(参照:大英博物館|ネバムン墓室『湿地での鳥猟と漁』壁画(EA37977))
庭園の池と収穫の記録|平面と横顔を組み合わせる
別のネバムン墓室断片には、長方形の池をほぼ上から見た形で置き、周りにナツメヤシやイチジクの木を横から見た姿で立てた庭園が描かれています。水中には魚、岸には鳥が並び、画面の片隅には樹木に結び付く女神の姿も見られます。池の平面図と樹木の横姿を組み合わせることで、庭全体の構造とそこで生きるものの両方を示しています。
ネバムンの墓には、収穫を計算する場面を描いた断片もあり、穀物の管理と車両の絵が上下の帯に分かれています。図像が豊かな自然や祝宴だけを表していたのではなく、税や領地経営に関わった墓主の職務も扱っていたことが分かります。現存する断片は墓室の壁から取り外されたもので、すべての壁を元の配置で見ることはできません。(参照:大英博物館|ネバムン墓室『庭園と池』壁画(EA37983)/大英博物館|ネバムン墓室『収穫物と税の検査』壁画(EA37982))
ナクト墓室|農地と供物の場面を写し残す
テーベのナクト墓(TT52)は、第18王朝の書記官で天文に関わる職務を持った人物の墓です。農作業や供物を扱う壁面には、人が穀物を刈り、運び、神や墓主へ供える工程が分けて描かれました。横長の帯の中で人物の大きさと行動を揃え、穀物の穂、衣服、道具を色分けしています。
現在メトロポリタン美術館にあるナクト墓東壁の大きな模写は、ノーマン・デ・ガリス・デイヴィスらが1908〜1910年に制作したもので、古代の壁面から切り取った原画ではありません。写された時点の色と線を伝える貴重な記録ですが、模写者の技法や欠損の扱いも含まれます。実物の塗り壁と近代の模写を明記して扱うことで、保存と研究の経緯が混同されません。(参照:メトロポリタン美術館|ナクト墓室東壁と20世紀初頭の模写)
センネジェム夫妻|来世でも耕す畑
王家の谷を造る職人村デイル・エル=メディーナのセンネジェム家の墓(TT1)には、紀元前13世紀頃の彩色画が残ります。『死者の書』第110章に関わる畑の場面で、センネジェムと妻イイネフェルティが穀物を刈り、種をまき、亜麻を引き抜いています。整然とした畑の区画と水路は、死後も食物が得られる理想の土地として描かれました。
メトロポリタン美術館が所蔵するこの場面の図版は、チャールズ・ウィルキンソンが1922年に紙へテンペラで描いた模写です。原画は新王国時代、模写は20世紀の制作という二つの年代があるため、収蔵品の年代欄もそのように分けています。墓の図像と、実際の絵具層・線の保存状態を調べるときは、この二種類の物を区別します。(参照:メトロポリタン美術館|センネジェム夫妻の来世の農耕壁画と模写/C・ローリヒ(2004年)/メトロポリタン美術館|新王国時代の墓を造った職人)
『死者の書』と制作現場|パピルス・下描き・ガラス
アニのパピルス|心臓を量る場面の色
紀元前13世紀頃の『アニのパピルス』には、亡くなった書記官アニが死後の審判を受ける場面が描かれます。中央では天秤の一方に心臓、もう一方に正義を表すマアトの羽根が置かれ、動物の頭をした神々が計量を見守ります。横にはオシリスの玉座と死者を導く場面が連なり、赤と黒の文字が図像の間を埋めています。
墓室の岩壁に描いた王の来世の書と異なり、アニの書はパピルスを長く継ぎ合わせて作られた巻物です。小さな絵を節に沿って配置し、書記官が唱える言葉を文字で添えました。裁判を表す図像には、死者を正しい秩序の中へ迎え入れるという目的があり、当時の法廷をそのまま記録した写生ではありません。(参照:大英博物館|死者の書『アニのパピルス』心臓の審判(EA10470,3))
職人村デイル・エル=メディーナ|王墓を分担して造る
王家の谷と王妃の谷の間には、石切り職人、下絵を描く職人、彫刻家、絵師、書記官と家族が住む村デイル・エル=メディーナがありました。墓の壁を削って平らにし、下地を塗り、図像の輪郭を引き、文字を彫って彩色する仕事は分担されていました。完成を急ぐ王墓のほかに、職人たちは自分たちの家族の墓を造り、生活に使う器や箱も整えていました。
メトロポリタン美術館のキャサリン・ローリヒは2004年、センネジェムとその子コンスの墓・棺・日用品を使って職人の暮らしと制作の関係を説明しました。王の墓を飾る職人が自家の墓で見せた表現には、神殿の巨大な画面と違った小さな場面や身近な道具が残ります。地位の高い王や神官だけが絵を発注していたのではなく、職人自身も造形の依頼者となっていました。(参照:C・ローリヒ(2004年)/メトロポリタン美術館|新王国時代の墓を造った職人)
下描きの赤線と照明の帳簿|小さな石片の記録
石灰岩の破片に絵や文字を書いた「オストラコン」は、大きな壁画の製作現場を伝えます。メトロポリタン美術館の一片(14.6.195)は縦15センチ、横13センチで、王らしい人物が子供を抱く下描きが残ります。赤い線で描いた子供の頭の位置を変更した痕跡があり、壁面に移す前の検討や絵の修正を具体的に観察できます。
別の石灰岩片(09.184.755)には、王墓制作に用いる松明や灯りの配給が、崩した書体の文字で記録されています。彫刻のデザインだけでなく、暗い墓室の作業を照らす燃料や労働の管理が必要だったことを、当時の書面が伝えています。赤と黒の墨による図案と事務記録が同じ種類の石材に残る点も、職人の制作環境をよく表しています。(参照:メトロポリタン美術館|王と子供の下描きが残る石灰岩片(14.6.195)/メトロポリタン美術館|王墓制作の照明配給を記録した石灰岩片)
マルカタのガラス工芸|青地に白と黄の波模様
紀元前14世紀のアメンホテプ3世宮殿跡マルカタからは、小さなガラス器の破片と、製作の途中に生じたガラスくずや棒状の材料が出土しています。メトロポリタン美術館所蔵のガラス花瓶(高さ9.9センチ)は同宮殿の発掘で集めた破片を接合したものです。器に使われたガラスが、宮廷の近くで実際に加工されていた可能性を示す出土状況です。
同館の縞文の香油瓶(高さ15.3センチ)は濃青色の胴と長い首を持ち、白・黄・青緑色のガラスを筋状に置いて山形や波状の模様を作りました。職人は粘土質の芯へ柔らかいガラスを巻き付け、表面をならし、冷えた後に芯を取り除きます。コバルトを使った深い青と、銅による青緑など異なる色を重ねられる技法は、第18王朝の宮廷で発達しました。(参照:メトロポリタン美術館|マルカタ宮殿出土のガラス器/メトロポリタン美術館|芯に巻き付けて成形した縞文ガラス瓶)
略年表
- 紀元前1550年頃|アハモセ1世がエジプトを再統一し第18王朝が始まる
- 紀元前1500年頃|テーベ西岸で王墓と葬祭殿を分ける造営が進む
- 紀元前1470年頃|ハトシェプスト女王の葬祭殿が造られ、プント遠征の浮彫や女王像が置かれる
- 紀元前1450年頃|トトメス3世の王墓(KV34)に太陽の夜の旅を表す図像が描かれる
- 紀元前1390〜1350年頃|アメンホテプ3世がルクソール神殿を増築し、テーベ西岸に巨像を伴う葬祭殿を造る
- 紀元前1350年頃|アクエンアテンが新都アケトアテンを建設し、アテン信仰の寺院と王家の浮彫が作られる
- 紀元前1340年頃|ネフェルティティ王妃の彩色胸像がアマルナの工房で作られる
- 紀元前1320年頃|ツタンカーメン王墓に彩色壁画と黄金マスクを含む副葬品が納められる
- 紀元前1290年頃|セティ1世によるカルナック大列柱室の造営とアビドス神殿の装飾が進む
- 紀元前1270〜1250年頃|ラムセス2世のアブ・シンベル大神殿とテーベ西岸のラムセウムが造られる
- 紀元前1250年頃|王妃ネフェルタリ墓の壁画が制作され、各地の王妃・役人墓に来世の図像が描かれる
- 紀元前1180〜1150年頃|ラムセス3世のメディネト・ハブ葬祭殿に戦争や神殿祭礼の浮彫が刻まれる
- 紀元前1140〜1130年頃|ラムセス6世墓(KV9)に来世の書と天文図像が描かれる
- 紀元前1070年頃|第20王朝が終わり、新王国時代から第3中間期の政治体制へ移る
まとめ
新王国時代の神殿では、砂岩や石灰岩の表面に王と神々を彫り、赤・黄・青・黒の色を重ね、中央の通路へ光を入れるよう柱の高さを変える工夫が用いられました。ハトシェプスト葬祭殿では三層のテラスと女王像が一つの正面を形作り、カルナック大列柱室では134本の柱が屋根を支えました。後の王が同じ場所へ装飾を足したため、各建物は数世代にわたる制作の記録も残しています。
王墓の壁画は、トトメス3世の細線による十二時間の夜の旅から、セティ1世の豊かな彩色、ラムセス6世の天文図像へと表現を変えました。ネバムンやセンネジェムの墓には湿地の鳥、池と庭、来世の畑が描かれ、死後も食物を得るという願いが別の形で表されています。王の墓を造った職人の下描きや灯りの配給記録も残り、完成作品だけでは分からない制作手順を伝えています。
王像が取り外されて割れた経緯、ツタンカーメン王墓が小さく造られた理由、軍事浮彫に描かれた戦闘の実際の経過には、なお検討する点が残っています。2025年のハトシェプスト像の再研究は、敵意による破壊だけでなく、像の宗教的な扱いや石材の再利用にも目を向けました。ネフェルタリ墓の保存調査やアマルナの継続的な発掘では、彩色の層、床の改築、欠けた彫刻の出土位置が調べられています。制作当時に何が造られ、後の時代にどう扱われたかを分けて調べる仕事が続いています。(参照:J・Y・ウォン(2025年)|ハトシェプスト女王像の破損・再利用の再検証(Antiquity)/ゲティ保存研究所|王妃ネフェルタリ墓の壁画保存事業(1986〜1992年)/アマルナ発掘調査隊|アテン大神殿の発掘と平面調査)
参考資料・出典
- メトロポリタン美術館|新王国時代のエジプト
- ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ|新王国の王統と年代
- メトロポリタン美術館|赤冠をつけたアハモセ1世の浮彫
- エジプト観光考古省|テーベの神殿と墓地
- エジプト観光考古省|ハトシェプスト女王葬祭殿
- D・アルノルト/メトロポリタン美術館|ハトシェプスト葬祭殿の模型と建築史
- メトロポリタン美術館|ハトシェプスト女王の大型坐像
- メトロポリタン美術館|ハトシェプスト女王のスフィンクス
- メトロポリタン美術館|オシリス姿のハトシェプスト女王像頭部
- J・Y・ウォン(2025年)|ハトシェプスト女王像の破損・再利用の再検証(Antiquity)
- エジプト観光考古省|カルナックの神殿群
- エジプト国立文明博物館|トトメス3世の造営と墓室
- メンフィス大学・ケベック大学|カルナック大列柱室の建築史
- カルナック大列柱室共同調査|巨大なパピルス柱
- カルナック大列柱室共同調査|王の献納浮彫と碑文
- カルナック大列柱室共同調査|建設過程と王ごとの浮彫
- エジプト観光考古省|ルクソール神殿の造営とオペト祭
- エジプト観光考古省|アメンホテプ3世と王妃ティイの群像
- エジプト観光考古省|アメンホテプ3世葬祭殿と巨像の調査
- アマルナ発掘調査隊|アテン大神殿の発掘と平面調査
- A・スティーヴンズほか(2023年)|テル・エル・アマルナ2022年発掘成果
- メトロポリタン美術館|ネフェルティティ王妃の砂岩浮彫
- メトロポリタン美術館|太陽神アテンの光を受ける王妃の石灰岩浮彫
- メトロポリタン美術館|手の形で終わるアテンの光線の浮彫
- ベルリン国立博物館|ネフェルティティ胸像の構造・顔料・眼
- ベルリン国立博物館|ネフェルティティ胸像の1912年発見記録
- エジプト観光考古省|ラムセス2世葬祭殿ラムセウム
- エジプト観光考古省|アビドスのセティ1世神殿・アメン礼拝室修復
- エジプト観光考古省|アブ・シンベルの岩窟神殿
- UNESCO世界遺産センター|アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡
- エジプト観光考古省|メディネト・ハブのラムセス3世葬祭殿
- シカゴ大学碑文学調査隊(1930年)|メディネト・ハブ第1巻・初期歴史記録
- シカゴ大学碑文学調査隊|メディネト・ハブ第2巻・後期歴史記録
- エジプト観光考古省|王家の谷の墓制と盗掘
- エジプト観光考古省|王家の谷セティ1世墓(KV17)
- エジプト観光考古省|王家の谷ラムセス6世墓(KV9)
- エジプト観光考古省|ツタンカーメン王墓(KV62)の壁画と副葬品
- オックスフォード大学グリフィス研究所|カーター発掘資料・ツタンカーメン王墓記録
- 国際エジプト博物館連携データベース|ツタンカーメン王黄金マスク(JE 60672)
- ゲティ保存研究所|王妃ネフェルタリ墓の壁画保存事業(1986〜1992年)
- ゲティ研究所|『ネフェルタリ墓の壁画保存』(1993年)調査資料
- 大英博物館|ネバムン墓室『湿地での鳥猟と漁』壁画(EA37977)
- 大英博物館|ネバムン墓室『庭園と池』壁画(EA37983)
- 大英博物館|ネバムン墓室『収穫物と税の検査』壁画(EA37982)
- メトロポリタン美術館|ナクト墓室東壁と20世紀初頭の模写
- メトロポリタン美術館|センネジェム夫妻の来世の農耕壁画と模写
- C・ローリヒ(2004年)/メトロポリタン美術館|新王国時代の墓を造った職人
- 大英博物館|死者の書『アニのパピルス』心臓の審判(EA10470,3)
- メトロポリタン美術館|王と子供の下描きが残る石灰岩片(14.6.195)
- メトロポリタン美術館|王墓制作の照明配給を記録した石灰岩片
- メトロポリタン美術館|マルカタ宮殿出土のガラス器
- メトロポリタン美術館|芯に巻き付けて成形した縞文ガラス瓶
- エジプト観光考古省|ヌビアのアマダ神殿・新王国浮彫