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Art History

紀元前8000–6000

新石器時代の西アジア

集落の壁画と人間の立像

紀元前8000〜6000年頃の西アジアでは、麦を育て、ヒツジやヤギを飼いながら、一つの場所に長く住む人々が増えていました。現在のトルコ中部の平原からヨルダン川流域にかけて、日干し煉瓦や石で造った家が集まり、食料を保存し、家の中で調理する暮らしが営まれていました。人々は狩猟や採集も続け、地域ごとの気候や地形に合わせて生活していました。

集落の家々では、壁や床を白く塗り、その上に赤い模様や動物の姿が描かれました。チャタル・ヒュユクでは住居が密集し、壁画や角を備えた浮彫が残っています。一方、現在のヨルダンにあるアイン・ガザルでは、葦の束と石灰を使って人間の大きな立像が作られました。エリコでは本物の頭骨に漆喰を塗り、貝殻を目にはめ込んで顔を表した遺物が見つかっています。

こうした造形は、日常の居住空間や埋葬の場所から発見されました。人物像や動物像が誰を表し、何のために作られたのかについては、発掘と材料分析、年代測定、埋葬資料の研究によって少しずつ情報が増えています。宗教や祖先との関係も論じられていますが、制作の目的を一つに決められる段階には至っていません。

西アジアに広がった定住と農耕

石灰岩の丘と平野に築かれた集落

紀元前8000年頃以降の西アジアでは、場所によって生活のあり方が異なっていました。現在のトルコ中部に広がるコンヤ平原には湿地や耕作に利用できる土地があり、南のレヴァント地方には河川沿いの集落や、乾燥地と草地の境界に位置する村がありました。麦類を育て、ヒツジやヤギを飼う暮らしが広がりましたが、狩猟と野生植物の採集も続いていました。

大きな共同建造物が造られた前の時代に続き、紀元前8000〜6000年頃には住居そのものが多様な造形の舞台になりました。家の床や壁には白い塗り壁が施され、ときには赤く彩色されました。人の像や動物の小像を作り、住居の床下に亡くなった人を埋葬する集落もありました。こうした行為は地域ごとに異なる形で記録されています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|チャタル・ヒュユクの集落と建築/テキサス大学・シュマント=ベセラ|アイン・ガザルの遺物)

土を固めた家と石灰の表面

住居の骨組みや壁には、地域に応じて日干し煉瓦や石が使われました。壁や床に塗る白色の材料には、土の中に含まれる石灰質の泥や、石灰岩を焼いて作る漆喰などがありました。漆喰は粉にした石灰岩を高温で焼き、水を加えて練り直す手間のかかる素材です。

チャタル・ヒュユクの壁材を調べた2014年の研究では、壁の下地と仕上げに異なる原料が使われていたことが報告されています。アイン・ガザルでは、住居の塗り壁に使う石灰の加工技術が、人間の大きな立像の制作にも応用されました。どちらの遺跡でも、表面を平らに整え、白く仕上げることが生活空間の一部になっていました。(参照:壁下地の分析研究(2014)|壁面の二種類の漆喰/Grissom(1996)|立像の保存と材料分析)

チャタル・ヒュユク|住居が密集する集落

チャタルヒュユクの古代都市を探訪する
Exploring the Ancient City of Çatalhöyük (World Wonders)

屋根から出入りする日干し煉瓦の家

チャタル・ヒュユクは現在のトルコ中部に位置する大規模な集落遺跡です。東丘ではおおむね紀元前7400〜6200年頃の居住が確認され、何度も建て直された家々が積み重なっています。家の壁は日干し煉瓦で造られ、多くの建物は互いに接するように並び、現在の町のような街路がほとんどありませんでした。

家の入り口は主に屋根にあり、屋上からはしごで部屋に下りたと考えられています。屋根は人が移動する通路の役割も担っていました。家が傷むと、その上や近くに新しい家が築かれ、集落の丘は高くなりました。壁画も浮彫も、こうした生活空間の内側に残っています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|チャタル・ヒュユクの集落と建築/チャタル・ヒュユク調査プロジェクト|発掘資料アーカイブ)

炉、壁際の台、床下の埋葬

住居内では、炉やかまどの近くで調理が行われる一方、壁際には一段高い台が設けられました。これらの台は座ったり眠ったりする場所として用いられたと考えられ、床の下には亡くなった人が埋葬されました。遺体は身体を折り曲げた姿勢で納められる例が多く、同じ家で埋葬を繰り返した場合もあります。

2022年にショッツマンスらが調べた資料では、壁を彩色した場所と埋葬が集中する場所の関係が時期によって変化していました。中期の住居では、彩色された壁や台の多くが、床下に埋葬のある空間と重なります。家の中で生活し、死者を埋葬し、壁を塗り直す行為が同じ場所で重なっていたことが発掘から分かります。(参照:Schotsmansほか(2022)|壁の彩色と住居内の埋葬)

集落の壁に描かれた色と図像

白い壁を覆う赤い面と幾何学文様

チャタル・ヒュユクの壁画には動物や人間を表すものが知られていますが、壁面の彩色は具象的な絵だけではありません。壁や床、台などの白い塗り壁に赤色を広く塗る例が多く、線や帯、格子状の模様を組み合わせる例もあります。赤には主に鉄分を含む顔料が用いられました。

ショッツマンスら(2022年)が調べた178の考古学的な単位には計323層の彩色が含まれていました。そのうち単色の赤い層が約6割を占め、幾何学文様は約15%、手をかたどった模様は少数でした。この数字は分析対象となった資料の内訳であり、集落全体の壁画の割合をそのまま示すものではありません。(参照:Schotsmansほか(2022)|壁の彩色と住居内の埋葬)

繰り返し塗られた壁と顔料の粒子

住居の壁は一度描いて終わりではなく、白い塗り壁を重ねたり、同じ模様を塗り直したりしていました。壁画を薄く切って顕微鏡で調べると、顔料の層と下地の層が重なる様子が見えます。2014年のアンダーソンらの研究では、一部の幾何学文様から赤と黒の塗料が複数回重ねられた痕跡が認められました。

その赤い塗料には、鉄分を含む土の顔料とともに、赤色や無色の黒曜石の微粒子が混じっていました。黒曜石は磨くと光を反射する火山ガラスです。研究者たちは微粒子が塗料の見え方に影響した可能性を指摘していますが、光らせる目的で意図的に混ぜられたのかどうかは確認されていません。(参照:Andersonほか(2014)|赤色顔料と黒曜石の微粒子/Andersonほか(2014)|壁画の赤色顔料の分析)

動物の群れと人間を表す壁画

1960年代の発掘では、大きなウシやシカのような動物を囲む人々、飛ぶ鳥、人体に似た姿などを描いた壁画が報告されました。動物の身体を横から描き、その周囲に小さな人物を配した画面があります。鳥の翼を広げた形が、首のない人間の姿とともに現れる図像も知られています。

これらの場面を狩猟や死者との関係で解釈する研究があります。画面そのものには説明の文字がなく、場面を単純に実際の狩りの記録とみなすことはできません。鳥やウシの姿は、壁画だけでなく家に固定された浮彫や骨の扱いにも現れており、描かれた動物と実際の生活との関係が研究されています。(参照:チャタル・ヒュユク世界遺産推薦書|浮彫と角の造形/Hodder・Meskell(2011)|初期集落の動物と人物表現)

集落図か、ヒョウの皮か|約3メートルの壁画

東丘の第VII層、かつて「第14神殿」と呼ばれた建物から、幅約3メートルにわたる壁画が見つかりました。画面の下側には約80の四角い区画が蜂の巣のように並び、上側には二つの頂を持つようにも見える形があります。発掘者のジェームズ・メラートは1960年代に、家並みを上から見た図と、遠方のハサン山を表した可能性を論じました。

別の研究者は上部をヒョウの皮の形と読み、下側の模様も集落図とは限らないと考えています。シュミットら(2014年)はハサン山の噴火堆積物を測定し、紀元前7000年頃に近い時期の噴火を報告しました。壁画の制作時期と重なる可能性はありますが、山が実際に噴火したことと、その絵が噴火を描いたことは別の問題です。「世界最古の地図」という呼び名は、確定した作品名ではありません。(参照:Schmittほか(2014)|集落図・火山図説と噴火年代)

角を備えた浮彫と土製の小像

ウシの頭骨と角を壁や台に埋め込む

チャタル・ヒュユクの住居には、ウシの頭部を表す立体的な造形も残っています。実際の野生ウシの頭骨や角の芯を土や漆喰で包み、頭部の形を整えて壁や台に取り付けたものです。ウシの角が壁から前に突き出した例や、台の上に角が並ぶ例もありました。第VI層の建物では、長い台から七本の角が突き出す造形も報告されています。

角は目立つ場所に据えられるだけでなく、壁の内部に埋められて見えなくなる場合もあります。トゥウィスとラッセル(2009年)は、角や頭骨の用途を狩猟の記念品だけで説明することには限界があると述べています。住居の修復や廃絶とともに動物の一部を埋め込む行為にも注目しています。(参照:チャタル・ヒュユク世界遺産推薦書|浮彫と角の造形/Twiss・Russell(2009)|住居内に飾られたウシの角)

家畜のいる集落で、野生の動物が描かれた

この集落ではヒツジやヤギの飼育が暮らしを支える一方、壁画や浮彫には危険な野生動物が繰り返し表されました。ウシの頭骨を使った造形に見られるのは、当時まだ主として野生だったオーロックス(原牛)です。住居の中に埋め込まれた角や、描かれた動物を、現代の家畜牛の姿として一括りにはできません。

ウシの骨を調べた研究では、集落で野生のウシが狩られていたことや、肉を分け合う行為が論じられています。2005年のラッセルらの研究は、古い発掘資料だけで家畜化の時期を確定することの難しさを指摘しました。動物の彫刻が何を象徴したのかは、食料としての利用と造形の両方から検討されています。(参照:Russellほか(2005)|チャタル・ヒュユクのウシの家畜化/Twiss・Russell(2009)|住居内に飾られたウシの角)

女性像だけではなかった小さな人物・動物像

チャタル・ヒュユクからは土製や石製の小像も見つかっています。座った姿勢で腰や腹部が大きく表された女性像はとりわけ有名ですが、発掘では動物をかたどった像や、性別を判別しにくい人物像、形を簡略化した土製品も多数確認されています。

メスケルら(2008年)は、1960年代の出土品と1993年以降の資料をまとめて再検討しました。小像の多くは、作られたままの場所ではなく、廃棄物の堆積や建物の埋め土などから見つかっています。この出土状況から、すべてを祭壇に置かれた神像と考える解釈は再検討されました。像が使われ、移動し、捨てられた過程も研究の対象になっています。(参照:Meskellほか(2008)|人物・動物小像の出土状況/チャタル・ヒュユク調査プロジェクト|地母神説の再検討)

アイン・ガザル|石灰で作られた大きな人間像

アイン・ガザル像の謎:起源不明の最古かつ最も包括的な遺物
Mystery of Ayn Ghazal Statues: Oldest & Most Comprehensive Artifacts Ever Found of Unknown Origins (Discovery Future)
1974年、ヨルダンのアンマン近郊で日常的な建設工事中に、新石器時代の社会に対する私たちの理解を永遠に変えることになる驚くべき考古学的発見がなされました。それがアイン・ガザルの彫像です。土の層の下に埋もれていたこれらの見事な石灰漆喰と葦の彫刻は、約9000年前のもので、先史時代の芸術と古代文明の信仰を垣間見ることができる貴重な資料です。アイン・ガザル遺跡から発掘されたこれらの彫像は、放棄された家屋の下に丁寧に埋められた2つの地下貯蔵庫で発見されました。合計15体の全身像と15体の胸像が発掘され、その卓越した職人技が示されています。これらの像は男性、女性、そして謎めいた双頭の姿を表現しており、それぞれが細部にまでこだわって作られています。これらの彫像は、学者や愛好家に多くの疑問を投げかけています。このような高度な芸術を成し遂げることができた人々は一体誰だったのでしょうか?これらの像はどのような目的で作られたのでしょうか?宗教的な象徴だったのでしょうか?敬愛する祖先を表したものだったのでしょうか?それとも神聖な儀式の一部だったのでしょうか?なぜこれほど丁寧に埋葬されたのでしょうか?そして、コミュニティの日常生活においてどのような意味を持っていたのでしょうか?アイン・ガザル像の魅惑的な歴史を掘り下げながら、その芸術的な特徴、建造技術、そしてレバント地方における新石器時代初期の興味深い文化的背景を探っていきます。また、これらの古代像を取り巻く謎を解き明かすための現在進行中の研究についても議論します。新たな研究や技術の進歩によって、これらの像の真の意義や、それらを創造した文明について、より多くのことが明らかになるかもしれません。アイン・ガザル像の秘密を解き明かすこの旅に、ぜひご参加ください。人類最古のコミュニティの一つを形作った芸術、文化、そして人間の表現の交わりを探ります。これらの時代を超越した遺物が、いかにして好奇心と驚きを呼び起こし、私たち共通の人類史を思い出させてくれるのか、ぜひ発見してください。

ザルカ川沿いの集落と二つの立像群

アイン・ガザルは現在のヨルダンの首都アンマン近郊、ザルカ川流域にあった新石器時代の集落です。紀元前7250年頃に住み始めた人々は、石や土で家を建て、農耕とヤギの飼育、周囲の野生動物の狩猟を組み合わせて暮らしていました。集落の周辺には川沿いの植生、草地、乾燥地が近接していました。

この集落では1983年と1985年に、石灰を主な材料とする多数の人物像が、建物の床を掘り込んだ穴からまとまって見つかりました。シュマント=ベセラの整理では二つの群はおおむね紀元前6750年頃と紀元前6500年頃に属すると推定されています。土器が広く使われる以前に、手で持つ小像よりはるかに大きな人物表現が制作されていました。(参照:テキサス大学・シュマント=ベセラ|アイン・ガザルの遺物/Schmandt-Besserat|アイン・ガザル立像の形と解釈/アイン・ガザルの動物骨研究(1993)|山羊と野生動物)

細い身体、大きな目、二つの頭

立像には、脚を備えた全身像と、胸から上を表す胸像があります。1985年の群には高さ約1メートルの全身像が二体、二つの頭を持つ胸像が三体含まれていました。肩や胴体は薄く平たい形で、腕は身体に沿って表され、足先などの細部は簡略化されています。

それに対して顔には強い関心が向けられています。大きく見開かれた目、隆起した眉、鼻筋、口が表され、目の周りには黒い天然アスファルトを使った線が残ります。二つの頭が一つの胴体の上に並ぶ像が何を表すのか、なぜ人間に近い大きさで作られたのかは分かっていません。ルーヴル美術館が所蔵する像にも、こうした細長い身体と顔の表現が認められます。(参照:スミソニアン博物館保存研究所|アイン・ガザル像/ルーヴル美術館|アイン・ガザルの立像(DAO 96)/Schmandt-Besserat|アイン・ガザル立像の形と解釈)

葦の束を芯に、寝かせた状態で形を作る

保存修復家キャロル・グリソムが2000年に発表した研究では、立像の内部に葦の束を紐で結んだ芯があったことが分かっています。葦は腐って失われましたが、石灰の内部にその跡が残っていました。制作時には新しい葦を束ね、石灰と土を練った材料を少しずつ塗り重ねて、胴体や頭部の形を作ったと考えられています。

グリソムらが実物大の像を再制作した実験では、重い材料を支えるために像を横に寝かせて作業した可能性が示されました。全身像では脚を別に成形し、あとから胴体に接合した痕跡があります。石灰岩を焼いて材料を作るには高温が必要でした。頭にかつらや飾りを付けていたという説もありますが、その付属品が確実に残っているわけではありません。(参照:Grissom(2000)|アイン・ガザル像の制作工程/Grissom(1996)|立像の保存と材料分析)

穴の中に納められた像と慎重な保存修復

立像は、完成後に穴へまとめて納められていました。1983年の群と1985年の群は別々の場所で発見され、像の形や保存状態にも違いがあります。像の一部には埋める前から傷んでいたと考えられるものがあり、制作直後に埋めたのか、一定期間使ったあとに片づけたのかについては議論があります。

1985年に発見された像は非常にもろく、発掘現場では周囲の土ごと包んで運び出されました。スミソニアン博物館の保存研究所で内部を少しずつ調査し、長期の修復を経て、ヨルダンで展示されるようになりました。像が穴に納められていた事実は確認できますが、それを神への奉納、祖先の記念、儀礼の終了のいずれと解釈するかは決着していません。(参照:スミソニアン博物館保存研究所|アイン・ガザル像/Grissom(2000)|アイン・ガザル像の制作工程/Schmandt-Besserat|アイン・ガザル立像の形と解釈)

死者の顔を作り直す|エリコとアイン・ガザル

貝殻の目を持つエリコの漆喰頭骨

現在のパレスチナ自治区ヨルダン川西岸にあるエリコでは、実際の人間の頭骨を土や漆喰で覆い、顔を再現した遺物が発見されています。大英博物館の収蔵品はおおむね紀元前8200〜7500年頃のものとされ、1953年にキャスリーン・ケニヨンの調査隊が発見した七つの頭骨の一つです。時期の初めは紀元前8000年を少しさかのぼります。

この頭骨では下顎を外し、鼻、口、頬、耳を漆喰で形作り、目には小さな二枚貝の殻をはめ込んでいます。底面も漆喰で整えられ、頭部だけで立てられる形になっています。2014年にアレクサンドラ・フレッチャーが報告したCT調査から、頭骨は成熟した成人のもので、頭蓋の形を生前に変える処置がなされていた可能性も指摘されました。(参照:大英博物館・Fletcher(2014)|エリコの漆喰頭骨とCT調査/大英博物館|エリコ出土の漆喰頭骨の収蔵記録)

アイン・ガザルに残された三つの漆喰の顔

アイン・ガザルでも頭骨の周囲に漆喰を塗る習慣がありました。1984年に発見された三つの漆喰製の顔は、研究当初、大型の立像から外れた頭部とも考えられました。修復と調査の結果、頭骨の表面から取り外された顔の部分である可能性が高いとされました。

1998年のグリフィン、グリソムらによる報告では、三つの顔は地面に伏せるように置かれ、頭骨そのものは伴っていませんでした。これらは紀元前7100年頃より古い層との関係が報告されています。人間の頭部をそのまま残すだけでなく、漆喰で顔を作り、さらに骨から顔の部分を取り外したことが分かります。誰のために行われたのかは、依然として研究上の問題です。(参照:Griffin・Grissomほか(1998)|アイン・ガザルの三つの顔/Rollefsonほか(1998)|アイン・ガザルの装飾された頭骨)

人や動物の像には、どんな意味があったのか

「地母神」の解釈と小像の再調査

チャタル・ヒュユクを1960年代に発掘したジェームズ・メラートは、ふくよかな女性像や建物の装飾を、豊穣や母なる女神を中心とする信仰と結びつけて解釈しました。この説明は広く知られるようになりましたが、その後の発掘では女性像以外の土製品が多数見つかり、どの場所から出たものかを含めて研究が見直されました。

メスケル、ナカムラら(2008年)は、小像の形だけでなく発見場所と廃棄の状況を分析し、女性像だけに特別な宗教的意味を与える説明に慎重な立場を示しました。一方、ユンジュら(2025年)が埋葬人骨の遺伝情報を調べたところ、同じ住居内での母方の血縁関係が強く、女児の墓には男児より副葬品が多い傾向が確認されました。この成果は当時の社会関係を知る資料ですが、特定の女性像が女神を表す証拠にはなりません。(参照:Meskellほか(2008)|人物・動物小像の出土状況/Yüncüほか(2025)|チャタル・ヒュユクの母系のつながり/チャタル・ヒュユク調査プロジェクト|地母神説の再検討)

壁画を塗り直すことと、死者を埋葬すること

壁を赤く塗る理由についても、単一の説明はありません。住居の美観のためだった可能性、共同生活の節目に壁を塗り直した可能性、埋葬に関わる行為だった可能性などが検討されています。チャタル・ヒュユクでは、同じ建物で壁面の塗り直しと床下埋葬が何度も繰り返される例がありました。

ショッツマンスら(2022年)は、建物ごとの埋葬人数と彩色層の数を調べ、両者に統計的な関連があると報告しています。この結果は壁の彩色と死者の扱いが関係していた可能性を示しますが、埋葬のたびに必ず塗り直したことまでは証明していません。色を塗る行為の詳しい意味は、建物の使われ方と合わせて検討が続いています。(参照:Schotsmansほか(2022)|壁の彩色と住居内の埋葬)

アイン・ガザルの二つの頭は誰の姿か

アイン・ガザルの立像について、シュマント=ベセラは祖先、霊的な存在、神などの解釈を比較しています。目や顔の細部を強く表したこと、全身像と胸像で姿が異なること、使われなくなった建物の床を掘ってまとめて埋められたことが、議論の材料です。二つの頭を持つ胸像は、実在した人物の肖像として単純に説明しにくい形をしています。

当時の人々が何のために像を作り、どのような場所に置いていたかを直接示す記録は残っていません。エリコの漆喰頭骨も祖先を敬う行為と結びつけられることがありますが、実際に誰の頭骨が選ばれたのかは十分に分かっていません。立像、壁画、漆喰頭骨の用途を一つの宗教にまとめず、それぞれの出土状況と制作方法から調べる研究が続いています。(参照:Schmandt-Besserat|アイン・ガザル立像の形と解釈/大英博物館・Fletcher(2014)|エリコの漆喰頭骨とCT調査)

略年表

  • 紀元前8200〜7500年頃|エリコで、人間の頭骨に漆喰で顔を作り、貝殻で目を表した遺物が制作される。
  • 紀元前7400年頃|チャタル・ヒュユク東丘の居住期が始まるとする年代整理がある。
  • 紀元前7250年頃|アイン・ガザルで集落生活が始まったと推定される。
  • 紀元前7100年以前|アイン・ガザルで発見された漆喰製の顔が属すると考えられる時期。
  • 紀元前6750年頃|アイン・ガザルで、石灰で作った人物像の一つの群が納められる。
  • 紀元前6600年頃|チャタル・ヒュユクの集落図・火山図とも解釈される壁画が属する時期。
  • 紀元前6500年頃|アイン・ガザルの別の立像群が納められたと推定される。
  • 紀元前6200年頃|チャタル・ヒュユク東丘の居住期について、ユネスコの概要が示す終末の年代。

まとめ

チャタル・ヒュユクでは、住居の壁を何度も塗り直し、赤い面や幾何学文様を重ね、ウシの頭骨や角を壁や台に取り付けていました。アイン・ガザルでは葦の束を芯にして石灰を塗り重ね、顔の細部を表した大きな人物像を作っています。エリコの頭骨には、亡くなった人の骨を用いて新たに顔を作る技術が残されています。

これらの遺物が家の中や建物の床下から発見されることは、人や動物の像が集落の生活と深く関わっていたことを示します。誰を表した人物像なのか、なぜ一部の壁や台を彩色したのか、立像を穴に埋めた理由は何だったのかについては、祖先や儀礼との関係を含む複数の解釈があります。新たな発掘、材料分析、人骨の研究によって具体的な事実は増えていますが、当時の人々がそれぞれの像に与えた意味は、今も十分には解明されていません。

参考資料・出典