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1924–1929

シュルレアリスムの絵画

自動性、夢、偶然の像

シュルレアリスムは、夢、無意識、偶然の連想を手がかりに、人間が世界をどのように見ているのかを探った美術と文学の運動です。1924年、詩人アンドレ・ブルトンがパリで『シュルレアリスム宣言』を発表した後、画家たちはその考えを絵画へ広げ始めました。速く線を走らせること、思いがけない模様を受け取ること、見慣れた物を不可能な関係で描くことなど、さまざまな方法が生まれました。

この運動が成立した背景には、第一次世界大戦後のヨーロッパ社会があります。戦争の惨禍を経験した詩人や芸術家の間では、合理的な判断や既成の文化の価値を問い直す動きが広がっていました。ダダによる挑発的な活動を経て、ブルトンたちは、夢や自動記述の実験から人間の精神に隠れた働きを探ろうとしました。1920年代のパリは、各国から集まった芸術家たちがその方法を交換する場所になりました。

1924年から1929年には、アンドレ・マッソンの自動描画、ジョアン・ミロの《世界の誕生》、マックス・エルンストのフロッタージュ、イヴ・タンギーの不可解な風景、ルネ・マグリットの写実的な謎の絵画が生まれました。画面の外観は大きく異なります。それぞれの作品を見ると、画家が制作に偶然を取り入れる方法と、明快に描くことで現実の意味を揺らす方法が、同じ時代に育っていたことが分かります。

本記事では、1925年にパリで開催された「シュルレアリスム絵画」展を歴史上の節目として、代表的な作品の画面、材料、制作手順を詳しく解説します。絵画から写真、共同制作、映画へと広がる実験も取り上げ、1929年のサルバドール・ダリの登場までをたどります。近代絵画が、完成した図像の美しさに加えて、イメージそのものが生まれる過程を問い始めたことが、この時期の大きな成果です。

1924年、シュルレアリスムが絵画に向かった理由

パリで始まった運動は何を求めたのか

1924年、詩人アンドレ・ブルトンは『シュルレアリスム宣言』を刊行しました。第一次世界大戦後のヨーロッパでは、合理性や進歩への信頼が揺らぎ、文学や美術の既成の規則を見直す動きが続いていました。ブルトンらが注目したのは、夢、突然浮かぶ言葉、意識の外で生じる連想など、人が日常的には整理してしまう精神の働きです。

シュルレアリスムは、フランス語の「現実を超える」という意味に由来する名称です。絵空事の世界へ逃げ込むための運動というより、普段の理性的な判断だけでは捉えきれない経験も現実の一部として探究しようとする試みでした。画家たちはこの問いを、線の動き、絵の具の扱い、物の配置、画面上の空間へ移していきます。(参照:ニューヨーク近代美術館|シュルレアリスム)

自動記述という文学の実験から

ブルトンとフィリップ・スーポーは1919年に自動記述を試み、翌年『磁場』を刊行しました。文章の筋を先に決め、順序よく書き進める習慣から離れ、思い浮かぶ言葉をできるだけ早く書き留める実験です。文学作品としての整合性よりも、思考が生まれる瞬間を捉えることを目指していました。

絵画には筆、紙、絵の具、色の選択、画面の大きさなど、固有の条件があります。手を動かすと生まれる線や、素材が思いがけない形を作る過程は、言葉を書き連ねる行為とは異なる可能性を持っていました。初期のシュルレアリストが直面した課題は、文学上の発想を絵画へそのまま置き換えることより、視覚芸術ならではの実験を見つけることにありました。(参照:ニューヨーク近代美術館|シュルレアリスム)

画家たちをつないだパリの環境

1920年代のパリには、ダダの活動を経験した芸術家、ヨーロッパ各地から移り住んだ画家、詩人や写真家が集まっていました。雑誌、画廊、カフェ、個人のアトリエでの交流を通じて、互いの仕事を知ることができました。マックス・エルンストはドイツのケルンでコラージュを実験しており、ジョアン・ミロはカタルーニャとパリを行き来していました。

この環境で重要だったのは、特定の画法を習得した作家だけが一つの学校を作ったわけではなかったことです。すでに異なる背景と技術を持つ人々が出会い、既存の作品に新しい意味を見いだしながら運動の輪郭を形づくりました。1925年の公開展覧会は、その多様性を社会へ示す機会となりました。

前の時代のダダでは、芸術を成立させる規則そのものを疑う活動が盛んでした。シュルレアリスムはその経験を引き継ぎ、人間の精神にある未解明の領域へ関心を広げました。画家たちにとって、筆を動かす前から描く物の意味を決めてしまう習慣も、新しい表現を考えるための重要な問題となったのです。(参照:メトロポリタン美術館|1925年「シュルレアリスム絵画」展のカタログ)

ダダから続く実験と、シュルレアリスムの新しい方向

コラージュが準備した異なる世界の接続

第一次世界大戦前後のキュビスムとダダでは、新聞、写真、印刷された図版、日用品を作品へ取り込む方法が試されていました。異なる場所から来た素材を並べると、作者が一つずつ描いたときには考えつかなかった関係が生まれます。エルンストはケルンで科学図版や商品カタログを切り貼りし、その違和感を積極的に利用しました。

シュルレアリストたちは、こうした方法に夢の連想に近い性質を見いだしました。誰もが知る現実的な図像が、予想できない位置関係に置かれた瞬間、別の意味を帯び始めます。絵の技術だけで奇妙な風景を描く方法に加えて、すでに存在するイメージの関係を組み替える方法が、視覚的なシュルレアリスムの基盤となりました。(参照:ニューヨーク近代美術館|エルンスト《ナイチンゲールに脅かされる二人の子ども》)

デ・キリコの絵画が与えた先例

イタリアの画家ジョルジョ・デ・キリコは、1910年代から、長い影が落ちる広場や古典彫刻、列車、建物を組み合わせた形而上絵画を制作していました。画面に描かれる建築や物体は見慣れた姿を保ちながら、場所や時間の関係がどこか不確かです。人のいない都市が、ありふれた現実の裏側にある不思議な静けさを感じさせます。

1925年のシュルレアリスム絵画展にデ・キリコが含まれたことは、運動が発足する以前の作品も重要な手がかりとして選ばれていたことを示します。シュルレアリストたちは、写実的に描かれた風景からも説明しきれない不安や謎を生み出せると知っていました。この方法は後にマグリットやタンギーがそれぞれの形で展開します。(参照:ニューヨーク近代美術館|デ・キリコ《モンパルナス駅》)

絵画に向かうための問いを整理する

シュルレアリスムの画家たちは、完成図を描く前に知っている必要があるのか、偶然できた模様をどう読むのか、目の前の物を正確に描いても不思議な絵が作れるのか、という問題を繰り返し探りました。問いは共通していても、それぞれが選んだ解決方法は違いました。

こうした違いは、作品を見る手がかりになります。マッソンの線が描かれていく速度、ミロの下地と記号の順番、エルンストの物質的な痕跡、マグリットの静かな筆遣いを比べると、夢や無意識という言葉の奥にある具体的な制作が見えてきます。運動を理解するには、思想と作品の作り方を一緒に追うことが有効です。

既製の図版を切り貼りする作品では、素材がもともと掲載されていた雑誌や本の意味が切り離され、画面上に別の関係ができます。この方法は、描き手が白い紙の上に最初から全部を作る絵画とは違う発想をもたらしました。新しいイメージは、すでにあるものを見直す行為からも生まれると考えられたのです。(参照:ニューヨーク近代美術館|シュルレアリスム)

1925年「シュルレアリスム絵画展」の意味

ギャルリー・ピエールでの開催

1925年11月14日から25日まで、パリのギャルリー・ピエールで「シュルレアリスム絵画」展が開かれました。現存する展覧会カタログには、ブルトンとロベール・デスノスが文章を寄せた記録が残っています。絵画におけるシュルレアリスムという領域を、公の展覧会として具体的に示した節目です。

1924年の宣言を読んだ人でも、どのような絵画がそれに当たるのかを容易には想像できなかったはずです。展覧会という場所で作家の作品を並べることによって、運動の名前と実物の絵が結びつきました。同時に観客は、同じ名称の下にかなり異なる外観の作品が集まっていることにも気づいたでしょう。(参照:メトロポリタン美術館|1925年「シュルレアリスム絵画」展のカタログ)

出品した九人の作家

当時のカタログに記録されたのは、ジャン・アルプ、ジョルジョ・デ・キリコ、マックス・エルンスト、パウル・クレー、アンドレ・マッソン、ジョアン・ミロ、パブロ・ピカソ、マン・レイ、ピエール・ロワです。すでに知られていた画家も、これからシュルレアリスムとともに名を広める作家も含まれています。

ピカソやクレーがこの展覧会に名を連ねたことは、運動への正式な加入と出品を区別するうえで重要です。ブルトンらは自分たちの宣言を共有する仲間だけを集めたのではなく、夢、自由な連想、形の変容といった関心に響く表現を既存の近代美術の中からも見つけていました。展覧会は、新しい絵画史の見取り図を示す場でもありました。(参照:メトロポリタン美術館|1925年「シュルレアリスム絵画」展のカタログ)

「シュルレアリスム絵画」の境界はまだ動いていた

展示作品を眺めると、クレーの小さな幻想的世界、ピカソの構成、エルンストのコラージュ的な画面など、多様な技法が共存していたことが分かります。作品を結びつけていたのは、既存の視覚的な決まりを揺さぶるという緩やかな関心でした。

1925年の時点で「どの作家が本当のシュルレアリストなのか」という線引きは、まだ固定されていませんでした。詩人が絵画を評価し、画家が詩人の実験を受け取り、その過程で運動の範囲が変わっていきます。この歴史を知ると、後世の教科書で並ぶ代表作だけをさかのぼって結びつける理解より、当時の試行錯誤が具体的に感じられます。

この展覧会のカタログが現在も美術館や図書館に残っていることは、当時の集団が自分たちをどのように示したかを確かめるうえで貴重です。後から定着した「代表的なシュルレアリスト」の一覧を当時へ重ねるだけでは見えない、展覧会の開かれた境界や、詩人たちの選択を知ることができます。(参照:メトロポリタン美術館|1925年「シュルレアリスム絵画」展のカタログ)

アンドレ・マッソン、自動描画の出発点

《自動素描》1924年の線を見る

アンドレ・マッソンの《自動素描》(1924年)は、インクの細い線が紙の上を縦横に走り、入り組んだ網のような形を作る作品です。輪郭は最初から安定せず、人物の身体、物の断片、動物のような姿が線の絡まりの中から浮かび上がります。丁寧に仕上げた下描きのような秩序は、画面のどこにも優先されていません。

MoMAの作品解説によれば、マッソンははっきりした主題や構図を先に決めず、ペンを速く動かすところから始めました。その後、見えてきた形に意識的な加筆を行う場合もありました。鑑賞者は、線が作られた時間と、その線の中から画家が何かを発見した時間を重ねて見ることができます。(参照:ニューヨーク近代美術館|マッソン《自動素描》)

線の運動が図像を生む

伝統的な人物素描では、目や鼻、手足など描く対象があらかじめ決まり、線は対象を捉えるために使われます。マッソンの自動描画では、線の連続が先にあり、身体らしい形はその後で見つかります。この順番の転換が、制作中に生じる偶然を積極的に受け入れる方法になりました。

線が速く交差すると、画面には重なり、反復、急な方向転換が残ります。鑑賞者も最初から意味を知ることはできず、細部を追ううちに物の輪郭を発見します。画家の体の動きが残した痕跡が、見る人の想像を促すという二重の働きこそ、初期の自動描画がもたらした重要な経験です。(参照:ニューヨーク近代美術館|マッソン《自動素描》)

無意識と意識的な判断の関係

自動描画を理解する際、実際の制作をすべて無意識の行為とみなすと、作品に残る複数の段階を見逃してしまいます。マッソンは最初の線を自由に動かし、その中に現れた形を認識してから、必要に応じて輪郭を強めました。これは実作の記録に即した説明です。

ここで起きているのは、作者がすべてを計画する習慣をいったん緩め、偶然から生まれた形を受け取る過程です。生み出す人と発見する人が、同じ制作の中に現れます。この発想はマッソンの絵画だけで完結せず、エルンストが外部の表面から模様を取る方法や、ミロが流動する絵の具を受け入れる方法にもつながっていきました。

作品の実物は小さな紙上のドローイングであり、大規模な絵画として鑑賞する場合とは印象が異なります。線の細さ、重なり、インクの勢いを丁寧に追うと、手が画面を移動した順序を想像できます。シュルレアリスムが世界を変えようとした大きな思想も、こうした手元の小さな作業から具体化されたことが分かります。(参照:ニューヨーク近代美術館|マッソン《自動素描》)

マッソン《魚たちの戦い》――砂と絵の具が作る暴力の形

1926年の作品の素材と画面

《魚たちの戦い》(1926年)には、鋭い歯や尾を持つ生き物が絡み合うような場面が現れます。MoMAの所蔵記録による材料は砂、ジェッソ、油彩、鉛筆、木炭です。砂を含む表面は平滑な絵肌から離れ、ざらつきのある物質そのものが生物の輪郭や水中の動きを形づくる役割を持っています。

この作品を見ると、マッソンが自動描画の方法を紙からキャンバスへ発展させたことが分かります。ペンによる素早い線に、重力、砂粒の散らばり、地塗りの粘りといった要素が加わりました。画家が触れた素材の痕跡から、不穏な生き物の姿が立ち上がるところに、この作品固有の強さがあります。(参照:ニューヨーク近代美術館|マッソン《魚たちの戦い》)

ジェッソに砂を撒く制作順序

マッソンは画面の一部にジェッソを自由に塗り、砂を撒き、余分な砂を払い落としました。その結果生まれた形を手がかりに、鉛筆や絵の具で素早く線を加えています。素材が先に輪郭の候補を作り、作家はそれを見ながら主題を発展させるという工程です。

砂の粒は画家の完全な統制に従わず、同じ動作でも散らばり方が変化します。そうして生まれた面の不規則さが、魚の鋭い姿や動きと結びついていきます。制作技法を知ると、画面の激しさが主題の選択からだけ生まれたのではなく、手で操作した物質の偶然と密接に関わっていることが理解できます。(参照:ニューヨーク近代美術館|マッソン《魚たちの戦い》)

戦争体験と絵画に現れる闘争

マッソンは第一次世界大戦で負傷した経験を持ち、身体と精神の傷を抱えて制作を続けました。MoMAの作品解説は、《魚たちの戦い》に見られる残酷な生存競争を、作家が偶然に任せた画面から引き出したものとして紹介しています。画面の魚は、美しい水中生物として静かに描かれているのではなく、互いを傷つける不穏な存在として現れます。

当時の画家にとって、無意識の探究は心地よい夢を描くことだけに結びついていたわけではありません。恐怖、暴力、衝動など、理性的に制御したい経験に向き合うことも重要でした。社会史を踏まえて鑑賞すると、戦争の傷を抱えた人が偶然の線や素材に何を見いだしたかという、作品の切実な側面が立ち上がってきます。

砂を撒き、余分な粒を払う操作は、絵の具を均一に塗る行為とは異なる時間を持っています。描き始める前の下地の段階から、残った形に応じて次の選択が変わるため、制作の途中で結果が変化します。画面に残った物質の凹凸をよく見ることは、魚の表情や配置を見ることと同じくらい重要です。(参照:ニューヨーク近代美術館|マッソン《魚たちの戦い》)

ジョアン・ミロ――カタルーニャの風景から記号の世界へ

故郷モンロッチとパリの往復

スペイン北東部のカタルーニャに生まれたジョアン・ミロは、故郷の土地とパリの前衛芸術のあいだで制作を続けました。農場、畑、植物、動物といった身近な風景が作品の出発点です。1920年代のミロは、それらを遠近法に従って描き込む方法から、線や記号の組み合わせによって表す方法へ移っていきました。

故郷への関心は単なる田園への懐かしさにとどまらず、地域の言語や文化、土地に結びつく記憶とも関わります。パリで詩人たちと交流したミロは、言葉の意味が予想外につながる経験を視覚表現に移しながら、自分の風景を別の形で取り戻そうとしました。作品には身近な現実と自由な想像が同じ密度で置かれています。(参照:ニューヨーク近代美術館|ミロ《狩人(カタルーニャの風景)》)

《狩人(カタルーニャの風景)》を読む

1923年から1924年にかけて描かれた《狩人(カタルーニャの風景)》には、細い棒状の人物、ひげやパイプ、手に持つ獲物、旗、文字の一部などが散りばめられています。ぱっと見た印象は抽象的でも、MoMAの解説に沿って細部を追うと、狩人とウサギ、銃、畑の風景に結びつく記号が読み取れます。

絵の中の狩人は大きく単純化され、人体の重量や実際の縮尺には従いません。土地で経験した出来事が、記憶の中で強く残った特徴だけに変えられたように見えます。ミロは対象を消し去ったというより、目に見える姿から特徴的な要素を選び、絵画上の新しい語彙へ組み替えていたのです。(参照:ニューヨーク近代美術館|ミロ《狩人(カタルーニャの風景)》)

記号と文字が同じ画面で働く

《狩人》には、人物や動物の姿とともに文字の断片が描き込まれています。MoMAによれば、カタルーニャの伝統舞踊を示す言葉の一部や、地域に関係する旗も登場します。小さな文字は説明文のように意味を固定するより、ほかの形と並ぶ一つの視覚的な印として機能しています。

記号の大きさも、実物の寸法に従う必要がありません。画面の中では小さな昆虫のような形が大きな意味を持ち、画家の経験が自由な比率へ組み替えられます。身近な場所を題材としながら、誰も見たことのない世界のように映るのは、こうした独自の記号体系が成立しているからでしょう。

シュルレアリスムがパリの運動として知られていても、ミロの作品を育てた経験はカタルーニャの土地に深く結びついていました。故郷の自然や言葉が視覚的な記号へ変わる過程を見ると、国際的な前衛芸術の方法と、個人が育った地域の記憶が出会っていることが理解できます。(参照:ニューヨーク近代美術館|ミロ《狩人(カタルーニャの風景)》)

ミロ《世界の誕生》――偶然と計画が重なる絵画

《世界の誕生》1925年の全体像

《世界の誕生》(1925年)は、淡く不均一な背景に、細い線や円形、ひも状の形が点在する大きな絵画です。何かが生まれつつあるような、まだ輪郭の定まらない空間が広がります。人の頭のような白い形や鳥・凧を思わせる線があっても、すべての要素を一つの物語に整理することはできません。

ミロはこの作品に、生命の始まりを連想させるような発想を重ねていました。画面には重力によって流れた絵の具の痕跡と、形を配置する繊細な判断が同居しています。奇妙な記号だけに注目すると見逃しがちですが、背景の広い面そのものが作品の印象を決める重要な部分になっています。(参照:ニューヨーク近代美術館|ミロ《世界の誕生》)

流す、刷毛で広げる、飛ばす

MoMAの作品記録によれば、ミロは均一に下塗りされていないキャンバスに絵の具を流し、刷毛で広げ、ときには飛ばして下地を作りました。絵の具は場所によって支持体に染み込んだり、表面にとどまったりします。同じ色でも濃さや境界が異なり、画家の腕だけでは予測しきれない変化が生まれます。

その下地の上に、ミロは事前の習作で考えていた線や形を加えました。背景の偶然性と、後から重ねる図像の計画性は、この作品の中で一つのリズムを作っています。何を描くかを完全に固定せず、発生した画面の条件を見て構成を進めるという制作が、作品の表情に直接現れているのです。(参照:ニューヨーク近代美術館|ミロ《世界の誕生》)

絵画が生まれる順序を変えた意味

一般的な制作の説明では、画家が頭の中に完成形を思い浮かべ、それをキャンバスに再現すると考えられがちです。《世界の誕生》を見ると、絵の具を動かす行為が画面の展開を先に導く場合もあることが分かります。画家は絵の具の流れ方や色の重なりを受け止め、その結果を踏まえて次の操作を選びました。

ここにはシュルレアリスムの自動性と、画家としての構成感覚が自然に結びついています。偶然をきっかけに作品が展開し、その上へ決められた線を置くことで、意味を確定しない空間が保たれます。1925年のミロは、絵画の完成形だけでなく、作品が生じていく順序自体を探っていました。

この作品は、絵画をどの時点で完成とみなすかについても考えさせます。最初の絵の具の動きによって十分に複雑な画面が生まれても、ミロはそこで制作を終えず、記号の位置や線の強さを検討しました。偶然が入り込む余地を残したまま、全体の響きに責任を持つ画家の判断も画面に存在します。(参照:ニューヨーク近代美術館|ミロ《世界の誕生》)

マックス・エルンスト――絵の中へ実物が入り込む

ダダのコラージュから立体的な絵画へ

ドイツ出身のマックス・エルンストは、ケルンのダダで図版を切り貼りするコラージュを発展させ、パリでその実験をさらに広げました。彼にとって、すでにある絵や物を移動させることは、作者が意識的に描く形とは異なるイメージを得るための方法でした。既製の素材が持つ歴史や用途も、作品の中へ入り込んでいきます。

1924年には、平面上のコラージュからさらに進み、木製の部品などを絵画へ取り付ける作品を生み出しました。絵の中に奥行きを描くだけでなく、物理的な出っ張りや動く構造が作品に加わります。画面と現実の境目があいまいになる経験は、のちのシュルレアリスム・オブジェを考える際にも重要な先例となりました。(参照:ニューヨーク近代美術館|エルンスト《ナイチンゲールに脅かされる二人の子ども》)

《ナイチンゲールに脅かされる二人の子ども》の画面

1924年の《ナイチンゲールに脅かされる二人の子ども》には、広い青空、二人の少女、小さな鳥、屋根の上を歩く男が描かれています。一人の少女は刃物を掲げ、もう一人は草の上に倒れています。小さな鳥が大きな脅威になり、人々の行動の理由が分からないまま物語が進む、夢特有の不安が漂う場面です。

MoMAの所蔵作品を見ると、画面には木製の門、玩具の家の部品、額の縁から突き出すつまみが取り付けられています。門を開く行為や、つまみを握る感覚まで鑑賞者に想像させる構造です。平面の物語が実物の木片によって途切れることで、描かれた世界と目の前の現実が不思議なつながりを持ち始めます。(参照:ニューヨーク近代美術館|エルンスト《ナイチンゲールに脅かされる二人の子ども》)

子どもの記憶と物の不条理な大きさ

エルンストはこの作品の着想に、子どもの頃の病気の際に経験した幻覚の記憶を結びつけていました。木目が鳥や顔など別の形に見えたという回想は、後のフロッタージュにも通じます。作品の鳥は小さいのに人を怯えさせ、屋根の上の男は画面の外側にあるつまみへ向かって手を伸ばしています。

物体の本来の用途や大きさ、絵画の中と外の関係が突然変わるところに、この作品の異様さがあります。細密な空想画を見せるだけなら絵画の平面で完結したでしょう。木製の仕掛けを加えたことで、鑑賞者は絵の前で立ち止まり、何が実物で何が描かれているのかを見直すことになります。

作品の前で角度を少し変えると、貼り付けられた木片の厚みや額との距離が目に入ります。平面的な図版で見ると失われやすいこの物質的な要素は、夢のような物語をさらに複雑にしています。現実の材料が画面に加わることで、作品が描いた世界と鑑賞者の立つ場所の関係まで変化します。(参照:ニューヨーク近代美術館|エルンスト《ナイチンゲールに脅かされる二人の子ども》)

エルンストのフロッタージュ――表面から生まれる別の自然

木目や網の凹凸を紙へ写す

1925年頃、エルンストはフロッタージュという方法を本格的に試みました。床板、葉、ひも、網、しわのある紙などの上へ薄い紙を置き、鉛筆やクレヨンでこすると、下の凹凸が不規則な模様として浮かび上がります。物体を写し取る動作は簡単でも、出来上がる模様の細部を完全に予測することはできません。

エルンストはその模様の中から、森や鳥、奇妙な生き物、建築の断片を見つけて線を加えました。木目が木の絵になるという単純な対応にとどまらず、ひもや網から思いもよらない物の姿を引き出す点が特徴です。身の回りの表面を見つめ直す行為が、新しい図像を生むための入口になりました。(参照:ニューヨーク近代美術館|エルンスト《逃亡者》)

《博物誌》1926年の出版

1926年、エルンストはフロッタージュに基づく34点を収めた版画集『博物誌』を刊行しました。MoMAの所蔵記録によると、1925年のこすり出しによって生まれた図像を、コロタイプという印刷方法で複製した作品集です。手で得た偶然の模様が、複数の人へ届けられる印刷物になったことも重要です。

『博物誌』という題名は、動植物や鉱物を分類する科学的な図鑑を思わせます。ところがページに現れるのは、現実の分類には収まらない想像上の生物や景色です。科学図版の精密な外観と、そこに描かれた説明しにくい形の組み合わせが、知っているようで知らない自然を生み出しています。(参照:ニューヨーク近代美術館|エルンスト《博物誌》)

《逃亡者》に見る発見の過程

『博物誌』に収められた《逃亡者》では、こすり出しによる模様が奇妙な生き物の姿へ発展しています。線の濃淡と繰り返しには、下に置いた物の凹凸の痕跡が残ります。その痕跡の上へ、作家が生き物の形を発見し、輪郭を整えていくという二段階の制作が読み取れます。

MoMAの解説も、偶然に得たテクスチャーへ意識的な加工を加えることで作品が成立している点を指摘しています。フロッタージュでは、模様を得る材料と、その模様を何として見るかという判断が分かれています。誰もが試せる単純な操作を、絵画や版画の複雑な想像力へ結びつけたことが、この発明の大きな意義です。

フロッタージュの表面をつくる木材や網は、最初から美術のために準備された特別な材料とは限りません。日常の中で触れている床や物の凹凸が、紙を介して別の風景になるのです。素材の特徴を見て、新しい像を思い浮かべる行為は、どこにでもある環境を制作のきっかけへ変えるものでした。(参照:ニューヨーク近代美術館|エルンスト《逃亡者》)

グラッタージュ――削る行為が森や鳥を作る

紙からキャンバスへ移った実験

フロッタージュの可能性を絵画へ広げるため、エルンストは絵の具を塗ったキャンバスに凹凸のある物を当てたり、道具で塗膜を削ったりするグラッタージュを発展させました。紙に鉛筆をこすりつける方法とは材料が異なり、厚みのある絵の具の重なりや、色が削り取られた跡も画面の一部となります。

この技法によって、作家は木の葉を一枚ずつ描写する代わりに、素材の抵抗や工具の動きから森に見える複雑な表面を生み出しました。筆で意図した場所へ色を置く行為と、絵の具の一部を取り除く行為が同じ制作で結びつきます。何が現れるかは途中で変化し、画家はその変化を観察しながら次の操作を選びました。(参照:ニューヨーク近代美術館|エルンスト《森の上の鳥たち》)

《森の上の鳥たち》1929年

1929年の《森の上の鳥たち》は、暗い色面の中に鳥や木々を思わせる形が重なった絵画です。MoMAによれば、エルンストは歯のある左官用の櫛で絵の具を引き伸ばし、縞状の模様を作りました。さらに緑、青、赤などの色を重ね、塗り足しと削り取りを繰り返すことで複雑な形を形成しています。

画面の縞や傷は、素材の表面に実際の力が加わった証拠です。その細部が鳥の羽根にも樹木の密生した枝にも見えるため、鑑賞者は模様と生き物のあいだを行き来しながら見続けます。作品を理解するうえでは、描かれた対象の名称だけでなく、その像が物質的な操作から生じたことが重要です。(参照:ニューヨーク近代美術館|エルンスト《森の上の鳥たち》)

技法が図像と切り離せない理由

エルンストの森や鳥は、個人的な記憶と結びつく主題でもありました。同じ題材を繰り返し制作していても、一枚ごとに異なる模様が生じるため、見える像は変わります。グラッタージュでは、作者の好むイメージと、道具が生む予測できない形が画面の中で出会います。

このことは、絵画制作を一つの完成図へ向かう作業として考える習慣を変えます。材料が作り出す偶然が、何を描くのかという決定に加わるからです。フロッタージュとグラッタージュを合わせて見ると、エルンストが無意識を神秘的な言葉で語るだけに終わらせず、紙、鉛筆、絵の具、工具を使う具体的な手順へ置き換えていたことが分かります。

紙の上でのこすり出しに比べ、絵の具を削る方法には塗膜の厚さや乾燥状態が関わります。削った部分と残した部分の差が画面に立体的な感触を作り、色が何層にも現れます。技法を知った鑑賞者は、森の奥行きと絵の具の重なりが同時に見えるという、この時期ならではの絵画体験に出会います。(参照:ニューヨーク近代美術館|エルンスト《森の上の鳥たち》)

「優美な屍骸」――複数人で一枚の絵を描く

折った紙を順番に渡す遊び

1920年代半ば、シュルレアリストたちは「優美な屍骸」と呼ばれる共同制作の遊びを始めました。一人が紙の一部に絵を描き、その部分を折って隠し、次の人へ渡します。次の人はほとんど見えないまま続きを加えます。全員が描き終えたあとに紙を開くと、予想外の組み合わせを持つ身体や物体が現れます。

この方法で重要なのは、描画技術の上手さ以上に、他人が何を描いたのか分からないという条件です。前の絵を見られないため、全体の完成形を一人で支配できません。それぞれが独立して下した判断が、最後に一枚の紙の上へ結びつきます。共同制作そのものが、作者の予測を越える像を生むための仕組みとなりました。(参照:ニューヨーク近代美術館|「優美な屍骸」《裸体》)

1926–27年の《裸体》を見る

MoMAが所蔵する《裸体》(1926–27年)は、イヴ・タンギー、ジョアン・ミロ、マックス・モリズ、マン・レイの共同制作です。複数の描き手による部分が上下につながり、人間の身体に見えながらも、葉のような耳や不思議な足を持つ奇妙な存在が生まれています。素材はインク、鉛筆、色鉛筆を組み合わせた紙上の描画です。

一人ひとりの部分は独立して制作されていますが、紙を開いた瞬間に、それらは一つの姿として読まれ始めます。つながり方が自然かどうかを考える前に、鑑賞者の目は全身の形を探します。意図しなかった組み合わせから新しい人物像が成立することを、遊びを通じて具体的に体験できる例です。(参照:ニューヨーク近代美術館|「優美な屍骸」《裸体》)

作者の役割を複数に分けること

近代の絵画はしばしば、一人の芸術家が独自の視点から世界を表現するものとして評価されてきました。「優美な屍骸」では、作者の判断は参加者の間へ分散します。しかも、参加者たちは完成する絵を誰も事前には見ていません。描く人も最後に鑑賞者として驚く構造が作られています。

この実験は、シュルレアリスムが個人の心の内部だけを探っていたという印象を広げてくれます。他者との関係や情報の不足も、偶然を発生させる条件でした。絵を描くことが共同の出来事になると、作品は個人の意図を越えて変化していきます。その柔軟な発想は、後年の共同制作やゲームを用いた現代美術にもつながる視点を与えます。

この遊びは、完成した絵の出来映えを競うための方法として始まったものではありません。互いの作業が隠されている状況で、異なる想像がどう結びつくかを楽しむ実験でした。描き手にとっても予想外の姿が現れることから、作品を見る時間と作る時間がつながるという発想が生まれます。(参照:ニューヨーク近代美術館|「優美な屍骸」《裸体》)

マン・レイ――写真にも開かれた視覚的実験

レイヨグラフが示した光の作用

アメリカ出身でパリを拠点に活動したマン・レイは、1922年頃から、カメラを使わず印画紙の上に物を置いて光を当てる写真を制作しました。本人はこれを「レイヨグラフ」と呼びました。透明な物や不透明な物の重なりによって、白い輪郭、灰色の影、黒い面が生まれ、日用品が正体の分かりにくい形へ変わっていきます。

印画紙は光に反応するため、配置した物の輪郭だけでなく、露光の強さや重なり方も像を左右します。画家が線を描かなくても像を生むという点で、この方法は自動性の実験と響き合っていました。写真を現実の出来事の記録として使うだけにとどめず、実際の光と物体を操作して新しい像を作る媒体として利用したのです。(参照:ニューヨーク近代美術館|マン・レイ《レイヨグラフ》)

1920年代の写真とシュルレアリスム

マン・レイの活動は、絵画、写真、オブジェ、映画を横断していました。カメラの前にあるものを写す写真と、暗室で物と光を直接組み合わせるレイヨグラフでは、像が作られる条件が異なります。1920年代のシュルレアリストにとって写真は、現実に存在する物を出発点としながら、想像を越える視覚を作り得る媒体でした。

前の記事で扱った近代写真の技術革新とも接続する部分ですが、ここでは運動全体の中での役割が重要です。絵画、素描、写真はそれぞれ独自の素材と技術を持ちながら、計画に収まりきらない像をどう得るかという問いを共有しました。シュルレアリスムの視覚表現が絵画以外へ広がる条件は、1920年代半ばには整い始めていました。(参照:ニューヨーク近代美術館|マン・レイ《レイヨグラフ》)

見慣れた物から違う存在を引き出す

レイヨグラフでは、紙の上に置かれた物が影や輪郭としてしか残らないため、鑑賞者は何が使われたのかを簡単には特定できません。小さな道具が巨大な建築のように見えたり、透明な素材の縁が強く現れたりします。物の用途から離れ、光学的な条件によって別の姿が現れることが、この写真の魅力でした。

こうした視覚的な転換は、エルンストが木目を森へ変え、ミロが土地の記憶を記号へ変える操作と並べると分かりやすくなります。用いる媒体と作業は異なっても、すでに知っているものが別の姿を見せる瞬間に注目しているのです。初期のシュルレアリスムを絵画だけで捉えきれない理由が、ここにあります。

レイヨグラフの図版だけを見ると、何かの形を黒と白で描いた抽象画のように見えるかもしれません。実際には、感光紙へ直接作用した光の痕跡です。像の境界や濃淡は物の透明度、距離、露光時間などによって変わり、画面上の造形と物理的な出来事が強く結びついています。(参照:ニューヨーク近代美術館|マン・レイ《レイヨグラフ》)

イヴ・タンギー――見知らぬ土地のような絵画

地平線と不可解な物体

イヴ・タンギーは1920年代半ばから、広い地面や空気を思わせる空間に、名前をつけられない物体が点在する絵画を発展させました。画面には影や奥行きがあり、遠くまで続く場所のように感じられます。そこに置かれた形は岩にも生物にも機械の部品にも見え、鑑賞者は物の正体を確定できません。

タンギーの作品では、マッソンの網目状の線やミロの明るい記号とは異なる時間が流れます。細かな筆の操作によって空間は静かに描かれ、光の当たり方も説明できそうに見えます。その静けさが、名づけられないものの奇妙さを強めます。見慣れない景色を、どこか実在する場所のように感じさせることが彼の表現の特色です。(参照:ニューヨーク近代美術館|タンギー《サンテ通り》)

《サンテ通り》1925年の初期作品

MoMAが所蔵する《サンテ通り》(1925年)は、実在するパリの通りの名前を題名に持つ油彩画です。題名から都市の道路や建物を想像しても、画面で経験する場所は普通の街並みとは異なります。タンギーは、この頃から具体的な地名と説明しきれない空間の関係を試していました。

この作品は、後年のタンギーに見られる広大な荒野と不思議な物体の絵へ至る初期の段階として重要です。題名と絵の間にずれが生じると、鑑賞者は知っている場所の記憶を手がかりにしながらも、その場所を再現した風景として理解できないまま見続けます。絵画が作る空間の信憑性そのものが問いになります。(参照:ニューヨーク近代美術館|タンギー《サンテ通り》)

写実的な奥行きと無名の形

タンギーの画面には、遠近感や柔らかな陰影が用いられます。これらは伝統的な風景画でも物体の存在感を表すために使われてきた方法です。シュルレアリスムの中では、その技術が名前を持たない形を実在するように見せるために働きます。画面が整然としているほど、何が存在しているのか分からない感覚が強くなります。

この方法は、絵の具が偶然に作った模様から像を探す実験と並行して発展しました。タンギーは絵の描写力を使い、作り上げた世界の内側の論理を不可解なものにしています。夢が持つ現実感を視覚化するためには、激しい筆遣いだけでなく、静かな絵の空間も有効だったことが分かります。

タンギーの空間は、海辺や砂漠のように見える場合があっても、特定の土地を描いた地図のようには読めません。そこに立つ物の素材も、大きさも、使い道も分からないため、見る人は普段の経験から意味を探します。鑑賞者自身の連想が作品を完成させていくという点で、別の方法による自動性の実験と通じるものがあります。(参照:ニューヨーク近代美術館|タンギー《サンテ通り》)

ルネ・マグリット――ベルギーから生まれたもう一つの方法

ブリュッセルで始まったシュルレアリスム絵画

ルネ・マグリットはベルギー出身の画家で、1920年代後半に身近な物や人物の描き方を大きく変えていきました。帽子、窓、雲、室内、人物といった日常的な要素を明快な輪郭で描きながら、その位置や大きさ、組み合わせをずらします。絵の具の激しい動きより、ありふれた物同士の不可解な関係が作品の中心になります。

1927年にはブリュッセルでの個展を経てパリへ移り、ブルトンらの周辺で活動するようになりました。マグリットの仕事を考えるとき、シュルレアリスムがパリだけで完結した現象ではなかったことも見えてきます。ベルギーの前衛芸術の環境から生まれた発想が、パリの思想や出版文化と出会い、独自の絵画へ発展しました。(参照:ニューヨーク近代美術館|ルネ・マグリット)

普通の絵の描き方が不思議さを強める

マグリットは物体の形を観客が理解できるように描くことが多く、リンゴはリンゴ、窓は窓として認識できます。だからこそ、物の大きさが変わったり、あり得ない場所へ移ったりしたとき、その違和感が際立ちます。見た目の明瞭さが、状況全体を理解できない感覚を強める仕組みです。

鑑賞者はまず何が描かれているかを認識し、それからなぜその物がここにあるのかと考えます。知っている物を画面へ集めることが、知っている世界への安心感へつながるとは限りません。細密な筆遣いに支えられた画面が、現実の秩序に対する根本的な疑問を生み出すという方法が、マグリットの重要な特徴となりました。(参照:ニューヨーク近代美術館|ルネ・マグリット)

パリへの移住と1920年代後半

MoMAの作家解説によれば、マグリットは1927年9月にパリへ移り、以後の約3年間に非常に多くの作品を制作しました。ブリュッセルで生まれた表現を持ち込んだ彼は、パリの詩人や芸術家との交流を通じて、絵画における意味のずれをさらに深く探りました。

この時期の作品では、ひとつの場面が演劇の舞台のように組み立てられ、人物たちは動きを止めたまま謎めいた状態に置かれます。文学や映画に見られる物語の手がかりが、最終的な説明へとつながりません。こうした方法は1927年の《脅かされる暗殺者》に特にはっきり現れており、絵画が謎を作り出す仕組みそのものが主題となっています。

目の前の物を精密に描く伝統は、ヨーロッパ絵画の長い歴史に支えられています。マグリットはその技術を利用して、何が描かれているのか分かっていても、どうしてそのような状況が起きたのか分からない画面を作りました。絵画にとって写実性が常に説明の明快さにつながるとは限らないことを示しています。(参照:ニューヨーク近代美術館|ルネ・マグリット)

《脅かされる暗殺者》――物語が解けない絵

室内に置かれた人物と物の配置

マグリットの《脅かされる暗殺者》(1927年)は、大きな室内に女性の遺体らしい姿、そばで蓄音機を聴く男、扉の外で待ち構える二人の男、窓の向こうから室内を見る三人の男を描いた作品です。描写は明快で、衣服や家具の形も分かります。見る人は自然に犯罪事件の場面を想像します。

部屋の奥と手前には明確な距離があり、人物の視線や動作は物語の手がかりになりそうです。ところが誰が犯人で、誰が誰を脅かしているのか、登場人物同士の関係は決まりません。解決へ向かうための情報があるように見えながら、最終的な筋を組み立てられないことが、この絵画を見続けさせます。(参照:ニューヨーク近代美術館|マグリット《脅かされる暗殺者》)

犯罪映画『ファントマ』との関係

MoMAの解説によると、マグリットは第一次世界大戦前に人気を集めた犯罪小説・映画『ファントマ』シリーズを愛好していました。《脅かされる暗殺者》では、扉の両側に立つ二人の人物の配置を、1913年公開の映画の場面から参照したとされています。

観客は犯罪映画のような演出を見て、次に何が起こるかを予想したくなります。映画なら場面が進んで謎の一部が明らかになるかもしれません。絵画はその瞬間を動かさずにとどめるため、鑑賞者はいつまでも手がかりを探します。映画的な構図が、解決されない物語を生み出すことに役立っているのです。(参照:ニューヨーク近代美術館|マグリット《脅かされる暗殺者》)

静止した時間と鑑賞者の想像

画面には複数の人物がいるのに、全員が不思議なほど静かです。蓄音機の音が聞こえるような場面でも、音そのものは画面から届きません。窓越しの人物も、何を見ているのか十分に分かりません。静止した場面へ鑑賞者が時間と音を補おうとすることが、作品の経験を形づくります。

マグリットは物を曖昧にぼかす代わりに、物と人物を明晰に示し、筋道だけを未解決のまま残しました。見る人は作品の中へ入り込むほど、想像で補う部分を増やしていきます。日常の場面に似た絵が強い謎を持つ理由を、この作品は具体的に教えてくれます。

犯罪の場面は、通常なら犯人や被害者の立場、事件の前後を考えさせます。マグリットは鑑賞者のその習慣を利用しながら、物語を解くための確かな順序を与えません。作品の中に蓄音機があることも、無言の画面へ想像上の音を加え、見る人を場面の中へ引き込む仕掛けとして働きます。(参照:ニューヨーク近代美術館|マグリット《脅かされる暗殺者》)

マグリット《イメージの裏切り》――見えるものと言葉

1929年のパイプの絵

1929年の《イメージの裏切り》は、パイプを描いた絵の下に「これはパイプではない」という文章が置かれた作品です。絵の物体は分かりやすく描かれています。見る人がすぐに「パイプだ」と認識するところへ、文字が異なる判断を差し出します。このずれによって、目の前にある像と言葉の関係が問題になります。

作品はロサンゼルス郡立美術館(LACMA)の所蔵品です。描かれたパイプには奥行きや陰影があり、写真のような正確さを連想させます。文字は広告や教科書の説明のようにも見えます。普段なら絵を補足するはずの文章が、絵を見て生まれた確信を揺さぶる仕掛けとなっています。(参照:ロサンゼルス郡立美術館|マグリット《イメージの裏切り》)

物体、絵、言葉の三つの関係

現実に手で持って使えるパイプと、キャンバスに描かれたパイプの像は、経験の上で異なります。言葉の「パイプ」は、さらに別の表し方です。マグリットはこの三つを一つの画面の中で意識させました。見る人は似ているものを同一視する自分の習慣に気づくことになります。

これは1920年代のシュルレアリスムが、夢や偶然の模様だけを扱っていたわけではないことを示す重要な作品です。身近な画像と言葉の組み合わせも、現実を理解する仕組みを問い直す装置になりました。マグリットの絵画では、形を正確に描く技術が、その形の意味を確定できない経験へ結びついています。(参照:ロサンゼルス郡立美術館|マグリット《イメージの裏切り》)

雑誌、広告、印刷文化との共通点

1920年代の都市では、商品の広告、新聞、雑誌などを通じて、人々は日々大量の画像と文字を目にしていました。絵と説明文を組み合わせる形式は、当時の生活にすでに深く浸透していました。マグリットの《イメージの裏切り》は、その慣れ親しんだ組み合わせを少し変えるだけで意味が不安定になることを示します。

文字は画面の下で整然と配置され、絵のような曖昧な装飾として描かれているわけではありません。その読みやすさが、「描かれたものを見れば意味が分かる」という期待を揺さぶります。絵と言葉を同時に扱うこの方法は、後世の概念芸術や画像文化を考える際にも重要な手がかりとなっています。

この作品の前では、絵を見て認識する行為と、文章を読んで理解する行為が続けて起こります。二つは普段の広告や本の中で自然に結びついているため、その関係がずらされると強い違和感が生まれます。画面に登場する物がきわめて日常的なパイプであることも、問いを身近なものにしています。(参照:ニューヨーク近代美術館|マグリットの文字と絵画)

1929年、ダリと映画によって広がった表現

サルバドール・ダリの登場

スペイン出身のサルバドール・ダリは1929年にパリのシュルレアリストたちとの関係を深め、非常に精密な描写を用いて夢や欲望、不安を表す絵画を展開しました。マッソンの素早い線やミロの偶然的な背景とは異なり、細部を明快に描き込むことで、現実には成立しない状況を強い存在感で示します。

MoMAの作家解説は、1929年公開の映画《アンダルシアの犬》が、ダリをシュルレアリスムの中心へ近づけたことを説明しています。1929年は、この運動が新しい人物と表現方法を迎えて変化していく時期でした。ダリの後年の絵画で有名になる手法については、続く1929〜36年の記事で詳しく扱います。(参照:ニューヨーク近代美術館|サルバドール・ダリ)

《アンダルシアの犬》の映像と時間

《アンダルシアの犬》は、映画監督ルイス・ブニュエルとダリが協力し、1929年にパリで公開した映画です。場面が突然変わり、互いに説明のつかない映像が次々につながります。鑑賞者は、普段の物語映画のような原因と結果を探しますが、その期待に沿った順序は成立しません。

映画なら、絵画と違って画像を時間の中で切り替えられます。モンタージュによって離れた場面を突然つなげ、夢の中で経験するような飛躍を生むことができます。この映画は、1920年代のシュルレアリスムが求めてきた不意の連想を、動く映像の中で具体化した代表例として評価されています。(参照:ニューヨーク近代美術館|《アンダルシアの犬》上映資料)

ダリ《照らし出された快楽》1929年

ダリの《照らし出された快楽》(1929年)は、舞台や映画のスクリーンのような箱状の構造の中に、顔や身体に関わる不安なイメージが配置された絵画です。MoMAの作品記録では、素材は板に油彩とコラージュであり、幻想的な場面と実際の貼り込みが組み合わされています。

画面の箱は、絵の中の世界がさらに小さな舞台へ分かれているような印象を生みます。見る人は、それぞれの場所に描かれた出来事をひと続きの物語に結びつけようとしますが、像は簡単には整理できません。映画の映像に刺激を受けた1929年のダリの関心を、絵画の空間構成から理解できる作品です。

《アンダルシアの犬》の公開年は1929年です。MoMAの所蔵データには作品制作年を1928年とする表記もあり、制作と公開の年が異なる場合があることを示しています。美術史記事では発表の時点を明確にし、映画がパリの観客やシュルレアリストたちに届いた1929年の出来事として位置づけることが大切です。(参照:ニューヨーク近代美術館|ダリ《照らし出された快楽》)

多様な方法が残した1920年代の成果

自動描画と写実的な描写を並べて見る

1924年から1929年に制作された作品を並べると、マッソンの自動描画、ミロの記号と色面、エルンストの表面の転写、マグリットの精密な人物画、タンギーの空間表現は、驚くほど外観が異なります。それぞれの画家は、意識的な計画と予期せぬ出来事の関係を、自分の使う技術に合わせて探っていました。

こうした違いは、シュルレアリスムを学ぶときの重要な手がかりです。画面が自動的に生まれるように条件を作ることと、丁寧な描写を用いて非合理な世界を作ることは、制作の出発点が異なります。どちらの方法も、身近な現実を見直す経験へ結びつく点で、同じ運動の中から育っていきました。(参照:ニューヨーク近代美術館|シュルレアリスム)

1920年代の芸術家たちが共有した問題

同じ運動に参加した画家たちが共通に探っていたのは、人間の想像がどこから生まれるのかという問題でした。夢のような連想、体が素早く動いたときの痕跡、紙の下にある模様、他人が隠して描いた図像など、意識だけでは整理しにくい経験が、制作の条件として選ばれました。

これらは抽象絵画、写真、コラージュ、映画など異なる媒体で追究されました。美術史の中では、その影響が第二次世界大戦後の制作にも続いていきます。ここで大切なのは後世の作品をすべて同じものとして説明することより、偶然や身体、他者を作品制作にどう参加させられるかという問いが、長く引き継がれたことです。(参照:メトロポリタン美術館|1925年「シュルレアリスム絵画」展のカタログ)

1930年代のシュルレアリスムへ続く

1929年にはダリが運動へ加わり、絵画と映画の関係がさらに強まりました。1930年代にはシュルレアリスムの表現が日用品を使うオブジェ、彫刻、展示空間などへ広がっていきます。マグリットは物と言葉の関係を探り続け、ダリは明晰な描写で複雑な心理的イメージを展開しました。

次の記事では、1929年から1936年にかけての拡張を扱います。本記事で見てきた自動性、偶然、想像上の空間という基礎を押さえておくと、その後の作品がどのように立体や日用品へ展開したのかを理解しやすくなります。1924〜29年は、シュルレアリスムが理念から多様な視覚表現へ成長した重要な時期でした。

1920年代の実験は、完成した画面だけからすべてを推測できるものではありません。制作過程の記録、当時の展覧会カタログ、作品の材料や技法についての所蔵館の調査を重ねることで、違いが具体的に見えてきます。本記事のように作品の制作条件に注目すると、シュルレアリスムをより深く理解できます。(参照:ニューヨーク近代美術館|マグリットの1926〜1938年)

1924–1929年の年表

第一次世界大戦後の社会と、1924年の運動成立から1929年の絵画・映画の展開までを、作品制作の流れとともに振り返ります。

  1. 1914–1918 第一次世界大戦。ヨーロッパで社会・文化の価値を問い直す動きが強まる。
  2. 1916 チューリヒでダダの活動が始まる。
  3. 1919 ブルトンとスーポーが自動記述を試みる。
  4. 1920 ブルトンとスーポーの『磁場』が刊行され、パリでダダの催しが活発になる。
  5. 1921 パリでエルンストのコラージュが紹介される。
  6. 1922 マン・レイがカメラを使わないレイヨグラフを実験する。
  7. 1923–1924 ミロが《狩人(カタルーニャの風景)》を制作。
  8. 1924 ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表。
  9. 1924 マッソンが《自動素描》を制作。
  10. 1924 エルンストが《ナイチンゲールに脅かされる二人の子ども》を制作。
  11. 1924 シュルレアリスム研究所の開設と雑誌『シュルレアリスム革命』の創刊。
  12. 1925 ミロが《世界の誕生》を制作。
  13. 1925 エルンストがフロッタージュを利用した一連の制作を進める。
  14. 1925 タンギーが《サンテ通り》を制作。
  15. 1925年11月14–25日 パリのギャルリー・ピエールで「シュルレアリスム絵画」展が開催される。
  16. 1926 マッソンが《魚たちの戦い》を制作。
  17. 1926 エルンストの版画集『博物誌』が刊行される。
  18. 1926–1927 タンギー、ミロ、モリズ、マン・レイが共同制作《裸体》を描く。
  19. 1927 マグリットが《脅かされる暗殺者》を制作。
  20. 1927年9月 マグリットがパリへ移住。
  21. 1928 マグリットが絵と言葉の関係を探る制作を進める。
  22. 1929 マグリットが《イメージの裏切り》を制作。
  23. 1929 エルンストが《森の上の鳥たち》を制作。
  24. 1929 ブニュエルとダリによる映画《アンダルシアの犬》が公開される。
  25. 1929 ダリが《照らし出された快楽》を制作。
  26. 1930年代 シュルレアリスムの表現が立体、オブジェ、映画、展示空間へさらに広がる。

まとめ――シュルレアリスム絵画が変えたもの

1920年代のシュルレアリスム絵画は、夢や無意識への関心を、作品を実際に生み出すための操作へ結びつけました。マッソンは線を自由に走らせ、ミロは絵の具が作る偶然の場に計画した形を重ね、エルンストは物の表面から予想外の像を引き出しました。画家たちは制作の途中で生じた変化を観察しながら、描くという行為のあり方を考え直したのです。

タンギーとマグリットは、明快な描写を用いて不可解な世界を作り、視覚的な理解がどのように成り立つかを問いかけました。1929年にはダリと映画の登場によって、想像、欲望、時間を扱う方法も広がりました。画面の見た目の違いと、制作の工程に共通する問題の両方を見ることで、シュルレアリスムが近代美術にもたらした変化をより具体的に理解できます。

参考資料・出典

この記事は、美術館や公的美術資料機関が公開する作品の所蔵記録、展覧会カタログ、作家解説を確認し、ART LIBRARYが独自に執筆・編集しました。作品の制作年と展覧会の開催年は、確認できる一次資料の表記に沿って記載しています。

資料確認日:2026年10月14日 / ART LIBRARY