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紀元前900–539

古代メソポタミアの帝国美術

宮殿浮彫とバビロンの門

紀元前9世紀、ティグリス川とユーフラテス川の流域には、麦畑やナツメヤシの園地、泥煉瓦で築いた町が広がっていました。北部のアッシリアでは軍隊と行政の仕組みが整えられ、周辺地域を支配下に収める遠征が繰り返されました。王たちは征服地から人々や木材、金属、工芸品を集め、ニムルドやニネヴェに新しい宮殿を築きました。石材に乏しい南部の平野では、焼いた煉瓦や色付きの釉薬を使う建築技術が発達していました。

北部の宮殿では、日干し煉瓦の壁の下部に大きな石板を並べ、国王の行進や狩猟、戦争、翼を持つ守護者を浅く彫りました。入口には人間の頭と牡牛や獅子の身体を組み合わせた石像が据えられ、王をたたえる楔形文字の碑文が図像と一緒に刻まれました。こうした装飾は王の儀礼や来訪者の動線と結び付いていました。

紀元前7世紀末にアッシリアの都ニネヴェが陥落すると、南部のバビロンが帝国の中心となりました。ネブカドネザル2世の治世には城壁や神殿が整備され、北側のイシュタル門は青い彩釉煉瓦と動物の浮彫で飾られました。ニムルドの石の宮殿とバビロンの色鮮やかな門は、違う材料を使いながら、帝国の政治と神々の保護を都市の空間に表した建築です。

新アッシリア帝国の都市と宮殿|石と煉瓦の役割

ニムルドの北西宮殿|アッシュルから移った王都

アッシリアの古い宗教都市アッシュルに代わり、アッシュルナツィルパル2世(在位紀元前883〜859年)は紀元前9世紀前半、ニムルド(古代のカルフ)に王宮を建てました。王の行政拠点には多数の広間と中庭があり、政治的な面会や饗宴、儀礼が行われました。建物の主要な壁材は日干し煉瓦で、表面に石板や塗り壁を施すことで内部を飾りました。

王宮の彫刻には、豊かな石材のある北メソポタミアで採れる石膏質の石、通称『モスル大理石』が使われています。石の色は乳白色から灰色で、表面に細かい線を入れやすく、髪の房や衣服の縁、刺繍まで刻めます。大型の板を床際へ据えて煉瓦の壁を保護するという建築上の役割もありました。(参照:ゲティ美術館|アッシリア王宮美術の展覧会解説/フランス文化省考古学アーカイブ|アッシリア浮彫の石材・施工・彩色)

壁の下部を覆った石板|材料の切り出しと固定

コルサバードの宮殿で使われた浮彫石板には、高さ4メートルを超えるものや、厚さ20センチほどのものがありました。石板の下端は床下に埋め込まれ、壁側には金属の留め具や木材へ固定するための痕跡が残ります。裏面にも楔形文字が刻まれた板があり、表で見せる図柄と、建造の記録が同じ石に収められました。

フランス文化省の発掘資料は、軟らかく彫りやすい石膏質の石が発掘時に崩れやすく、19世紀の記録画にしか残らない浮彫があることを指摘しています。博物館で見る一枚の石板も、もとは煉瓦壁に続けて据えられた壁面装飾の一部分です。(参照:フランス文化省考古学アーカイブ|アッシリア浮彫の石材・施工・彩色)

もとは色のある彫刻|顔料と光の調査

現在の石板は白っぽいものが多いものの、発掘時の記録や現存する顔料から、古代には顔や衣服、武具の一部が彩色されていたことが分かっています。ニムルドでは髪とひげの黒、飾りや履物に使われた赤などが記録されました。コルサバードでは馬具に赤、髪やひげに黒が残り、青の使用も認められます。

李蘇(Li Sou)は2015年の研究を基に、両宮殿の残存顔料を美術館の実物、発掘記録、壁画片から集めて比較しました。ニムルドとコルサバードで残る色の組み合わせが異なることを示すとともに、光の当たる角度が彫りの細部の見え方を変えることを実験しています。全壁面を何色で塗り分けたかを断定できるだけの顔料は残っておらず、復元図のうち観察に基づく部分と推定による部分を区別しています。(参照:李蘇(Li Sou)|アッシリア浮彫の彩色と照明の研究/フランス文化省考古学アーカイブ|アッシリア浮彫の石材・施工・彩色)

ニムルドの北西宮殿|王、聖樹、守護者

翼のある人間と鷲頭の人物|入口を守る浮彫

アッシュルナツィルパル2世の北西宮殿には、人間の顔と翼を持つ人物、鷲の頭をした有翼人物が繰り返し描かれました。人物は長い巻き毛とひげ、角の付いた冠、細い房のある衣服をまとい、肩から広がる羽の一本一本が線刻されています。王や木の図像を左右から挟むように立つ例が多く、出入口に近い場所にも配置されました。

メトロポリタン美術館の石板(32.143.14)は高さ78.7センチ、幅67.3センチで、二段に図像を分けた部屋の一部です。角のある冠をかぶった有翼人物が右を向き、聖樹へ手を差し伸べています。この部屋では文字の帯を挟んで上下に守護者を置き、別の部屋に多い等身を超える一段構成とは異なる装飾を採用していました。(参照:メトロポリタン美術館|ニムルド北西宮殿の浮彫(32.143.14)/メトロポリタン美術館|ニムルドの聖樹と楔形文字の浮彫)

バケツと円錐状の道具|守護者は何をしているのか

翼ある人物の片手には小さな手提げ容器、もう片手には先の細かい円錐形の物が表されることがあります。容器の側面には小さな翼ある人物を彫り込んだ例もあり、人物自身の持ち物まで装飾の対象になっています。円錐形の物を植物の実や花に見立て、水を振りかける清めの儀礼と関係させる解釈があります。

メトロポリタン美術館は、これらの守護者を古い賢者『アプカル』と結び付ける説を紹介しています。入口の下へ埋められた守護人形と儀礼文書が、この見方の根拠です。聖樹は実在の一種類の樹木を写した姿ではなく、左右対称の枝や輪を組み合わせた図案です。王権、豊穣、土地の繁栄など複数の意味が議論され、図像一つに固定した名称を当てることは慎重に扱われています。(参照:メトロポリタン美術館|小容器を持つ翼ある守護像と聖樹/メトロポリタン美術館|ニムルド北西宮殿の浮彫(32.143.14))

人物と聖樹を横切る楔形文字|王の標準碑文

北西宮殿の多くの石板では、胸や胴の高さを横切るように楔形文字が刻まれています。『標準碑文』と呼ばれる反復した文章で、王の系譜や称号、軍事遠征、ニムルドの宮殿建造を述べます。文字は絵を説明する小さな札ではなく、人物像や樹の枝を横断する幅広い帯として壁面全体に組み込まれました。

王が聖樹に向かって立つ浮彫には、頭上の有翼円盤に神の姿を描いた例があります。王の身振り、守護者の反復、文字の帯を組み合わせた壁面は、王の事績と神々による保護を同じ部屋で示していました。石板の多くが異なる博物館に移った現在、もとの部屋と配置を調べることが図像を読む前提になっています。(参照:大英博物館|王と聖樹を描いた北西宮殿浮彫/メトロポリタン美術館|ニムルド北西宮殿の浮彫(32.143.14))

五本脚の有翼獅子|前からと横からで変わる姿

玉座室の入口には、人間の頭、翼、獅子の身体を組み合わせた一対の巨像が立っていました。大英博物館所蔵の像は石膏質の石から彫られ、額の角と長い巻きひげ、肩から重なる羽、筋肉の盛り上がる胸が一体になっています。入口へ入る人は、石の獣の間を通って王の広間へ進みました。

像には脚が五本あります。正面では二本の前脚をそろえた静止姿、側面では前へ歩き出す四本脚の姿になるよう彫り分けた結果です。後世の鑑賞者が数えた脚の多さは、二方向の視線へ同時に応じるための造形として説明されています。門の守護像は後のコルサバードでも採用されました。(参照:大英博物館|アッシュルナツィルパル2世の玉座室を守った有翼獅子/ルーヴル美術館|サルゴン2世の宮殿とコルサバード中庭)

王の狩猟と軍事場面|誰に見せる絵だったか

ニムルドの王宮には獅子や牡牛を狩る国王、馬車や兵士、敵の城を攻める軍隊の浮彫も置かれました。弓を引く王の手、疾走する馬の脚、突き進む獣の身体は横向きの姿を基本に彫られ、武器や装備の線が画面の動きを作っています。戦いの場面では城壁や川を併記し、王の軍勢が遠くへ赴いたことを具体的な地形で表しました。

これらは宮殿で王に会う使節や官吏が通る空間に設置されました。王は常に統率者や勝利者として中心に描かれ、戦争の犠牲者や捕虜は周辺に置かれます。図像が示すのは王国が望んだ勝利の姿であり、出来事の経過を再現するときは同時代の文書や遺跡を照合する必要があります。(参照:ゲティ美術館|アッシリア王宮の狩猟浮彫/ゲティ美術館|アッシリア王宮美術の展覧会解説)

青銅の門と黒色オベリスク|遠征と貢納を刻む

バラワトの門|木製の扉を覆った青銅帯

ニムルド近郊のバラワト(古代のイムグル=エンリル)で出土したシャルマネセル3世の門では、木製の大きな扉に細長い青銅帯が横に巻き付けられていました。青銅帯には打ち出しと線刻を組み合わせて上下二段の図像を入れ、上下の縁に小さな花形の飾りを置きました。丸い鋲の頭はその飾りの位置に合わせて打たれています。

大英博物館所蔵の一枚には、フェニキアのテュロスとシドンからの貢納、シリアのハザズの攻略が描かれています。別の帯ではウラルトゥの町を攻める兵士、さらにティグリス川の源流へ向かう王の遠征が続きます。扉の表面が王の遠征を記す長い金属の物語になっていました。(参照:大英博物館|バラワト門の青銅帯・テュロスとシドンの貢納/大英博物館|バラワト門の青銅帯・ウラルトゥ攻略/大英博物館|バラワト門の青銅帯・ティグリス川源流遠征)

シャルマネセル3世の黒色オベリスク|五段の貢納図

紀元前825年頃、シャルマネセル3世は黒い石のオベリスクを建てました。ニムルドでオースティン・ヘンリー・レイヤードが1846年に発見したこの碑は、四面に五段ずつ図を刻み、各段の人物と貢納品の列を周囲へ回り込ませています。王の前に屈む人々、行列で運ばれる馬や珍しい動物など、地方の違いを示す品々が見られます。

二段目の銘文には『オムリの家』からの貢納が記され、北イスラエル王イエフの姿として紹介されてきました。人物の身元は刻まれた王名と当時の外交関係に基づく同定で、同じ段の人物が実際の王本人か代理の貢納使節かについては検討の余地があります。貢納場面をめぐる絵と文字の関係を観察できる、紀元前9世紀の公的な記念碑です。(参照:大英博物館|シャルマネセル3世の黒色オベリスク)

ティグラト・ピレセル3世の浮彫|攻城図を二段に分ける

紀元前8世紀後半、ティグラト・ピレセル3世(在位紀元前745〜727年)は宮殿を増築し、都市攻略や行列の様子を石板へ刻ませました。ニムルドの中央宮殿の浮彫には上下二段の画面があり、境界の楔形文字帯が王の遠征を記します。攻められる町の城壁、弓兵、捕らえられた人々が別々の場面に配されました。

大英博物館が所蔵する中央宮殿の石板では、上側の画面と王の事績を述べる文章が独立しており、浮彫の地名を確かめるには図のそばの小さな説明銘が役立ちます。王の碑文全体を、その石板一枚の場面名として扱うと、異なる戦役を混同する危険があります。(参照:大英博物館|ティグラト・ピレセル3世の攻城浮彫)

サルゴン2世の新都コルサバード|宮殿と巨像

紀元前713年頃の新都建設|200室を持つ宮殿

サルゴン2世(在位紀元前722〜705年)は紀元前713年頃、ニムルドから離れた場所に新都ドゥル=シャルキンを築き始めました。現在のイラク北部コルサバードにあたり、都市は広い城壁で囲まれ、宮殿には中庭と多数の部屋がありました。ルーヴル美術館はその部屋や中庭をおよそ200に及ぶ建築として紹介しています。

宮殿は日干し煉瓦の上に石の浮彫板を張る構造で、王の広間へ向かう中庭には使節、運搬夫、兵士の列が描かれました。サルゴンが紀元前705年に戦死すると、新都の造営は終息し、次王センナケリブはニネヴェを拠点としました。完成を目指して計画された広大な都市と、実際に使われた期間を分けて考える必要があります。(参照:ルーヴル美術館|サルゴン2世の宮殿とコルサバード中庭/フランス文化省考古学アーカイブ|コルサバードの都市/フランス文化省考古学アーカイブ|コルサバードの宮殿)

門を挟むラマッス|人面牡牛の二つの見え方

コルサバードの宮殿入口には、人間のひげ顔、牡牛の身体、鷲の翼を持つ石像が置かれました。ルーヴル美術館の『コルサバードの中庭』にある像は、一つの石塊を彫り出したもので、一体がおよそ28トンに達します。高い冠の角、整ったひげ、肩の羽毛、足の筋肉が明確に刻まれ、入口の門幅に合わせて対で置かれていました。

五本脚を備える理由は、正面からは止まった獣、横からは歩く獣に見えるようにするためです。古代の名称には『アラドラッム』などがあり、現在はラマッスという呼び方でも知られます。角は超自然的な存在を示し、人間と動物を合わせた姿で宮殿の入口を守る役割を与えられました。(参照:ルーヴル美術館|サルゴン2世の宮殿とコルサバード中庭)

ライオンを抱える巨人と国王|中庭の人物像

コルサバードの中庭には、手に杖を持つサルゴン2世と高官の浮彫、向き合う使節、運搬人の列が据えられていました。人物は横向きで、王の高い冠、折り重なる長衣、侍従の持ち物を描き分けています。広い中庭を囲む壁面全体で王の宮廷を示す配置です。

ルーヴル美術館には、胸に抱えた獅子の首を片腕で押さえる高さ5メートルを超す英雄像も残ります。人物の胴は正面を向き、横向きの獅子の頭と四肢が組み合わされています。古代メソポタミアの英雄ギルガメシュと呼ばれることがありますが、像にその名が刻まれているわけではなく、同定は研究上の解釈です。(参照:ルーヴル美術館|サルゴン2世の宮殿とコルサバード中庭/フランス文化省考古学アーカイブ|サルゴン2世を描いた浮彫)

海から運ぶ杉の丸太|宮殿の建設工事を描く

コルサバードの壁面には、丸太を船から降ろす人々を描いた浮彫があります。長い木材の片端を肩に載せ、船と岸の間で運ぶ人物が連なり、材木の質感は太い線を平行させて表しました。レバノン方面からの杉材輸送と考えられる場面で、石に乏しい巨大都市を建てるため遠方から木材を集めた様子が見えます。

人物の役割は、軍隊を率いる国王から建築を実際に担った運搬人へ広がります。宮殿の巨大な門や屋根は、現地の石膏質の石と外から集めた建材を組み合わせて作られました。王が資材を動かす力を、建造物そのものと、その壁面に刻んだ労働の光景の両方で示しています。(参照:フランス文化省考古学アーカイブ|コルサバードの木材輸送図/ルーヴル美術館|サルゴン2世の宮殿とコルサバード中庭)

施釉煉瓦の花文様|石の宮殿に残る色

コルサバードの神殿区では、煉瓦の表面に青、緑、白、黄などの色を焼き付けた装飾が使われました。発掘時に画家フェリックス・トマが残した記録には、花形の連続文様や守護者を並べた入口のアーチが描かれています。現物が失われた部分でも、図面と残存する破片から色の帯と人物の位置が調べられます。

古いニムルドの煉瓦には、絡まり合う帯を塗り分けた六角形の装飾品もあります。メトロポリタン美術館の紀元前9世紀の一例は長さ約35.6センチで、濃い色と明るい色の線を幾何学的に交差させています。施釉煉瓦は南部の新バビロニアで初めて現れた技術ではなく、アッシリアの都市装飾にもすでに使われていました。(参照:フランス文化省考古学アーカイブ|コルサバードの彩釉煉瓦/メトロポリタン美術館|9世紀ニムルドの施釉装飾煉瓦/フランス文化省考古学アーカイブ|コルサバード神殿区)

1843年の発掘と復元図|ルーヴルへ渡った石板

コルサバードの石像や浮彫が広く知られるようになったのは、1843年にフランスの外交官ポール=エミール・ボッタが調査を始めてからです。発掘時に露出した巨大な石板には、長く土の重みを受けて亀裂が走っているものもありました。運び出せない作品は現場で絵に記録し、一部の石板と有翼牡牛は輸送のために切り分けられました。

発掘品の一部は1847年にルーヴル美術館で公開され、フランスの研究者によるメソポタミア遺跡の調査が広がりました。現在のルーヴルにある石板と19世紀の図面を照合すると、保存されている作品だけでなく、当初の建築にどの場面があったかを検討できます。切り出しや運搬の過程そのものも、作品の現在の姿を決めています。(参照:フランス文化省考古学アーカイブ|ポール=エミール・ボッタの発掘/ルーヴル美術館|サルゴン2世の宮殿とコルサバード中庭)

ニネヴェのセンナケリブ宮殿|戦争と都市の水路

ラキシュ攻囲図|紀元前701年の戦争を部屋へ描く

センナケリブ(在位紀元前704〜681年)の南西宮殿には、ユダ王国の町ラキシュを包囲した軍事遠征の図が設置されました。紀元前701年のラキシュ攻略は、現在のイスラエルに残る発掘層とアッシリアの文書で時期が確かめられています。図はニネヴェの宮殿第36室を囲む石板の連続場面として作られ、王の宮殿に戦争の経過を展開しました。

兵士の列は城壁へ向かい、城壁側からは火や飛び道具が降り注ぎます。図の場所によって斜面、攻城兵器、逃げる人々が描き分けられ、兵器を押す人の脚や盾が密に重なっています。レイヤードらが19世紀にニネヴェで発見した一連の石板は、現在は大英博物館に所蔵されています。(参照:大英博物館|ラキシュ攻囲図・攻撃の始まり/大英博物館|ラキシュ攻囲図・城壁への攻撃/Y・ガーフィンケルほか(2021年)|ラキシュの攻城道と浮彫の照合)

土を盛る攻城道|浮彫と遺跡を照合した研究

ラキシュの攻囲図には、城壁に向けて斜めに土を盛り、攻城兵器を押し上げる攻城道が描かれています。現地の遺跡でも、町の南西隅に攻め手が築いた土石の斜面が残っています。描かれた場所と発掘位置が対応するため、浮彫の一部は実際の包囲戦の工学的な仕組みを検討する資料となりました。

ヨセフ・ガーフィンケルらは2021年、現地の石材、城壁の位置、地形写真の測量データを、浮彫と史料に照らして攻城道の築造方法を再構成しました。石材の運搬経路や斜面の作業順序は計算による復元です。宮殿の絵が詳細であっても、作業の全工程がそのまま記録されたとは限らず、遺跡側の資料が復元の条件を与えています。(参照:Y・ガーフィンケルほか(2021年)|ラキシュの攻城道と浮彫の照合/大英博物館|ラキシュ攻囲図・城壁への攻撃)

略奪品と捕虜の列|勝利の後に描かれた人々

攻囲図の後半には、町から運び出された車や武具、祭具を抱えた人々が現れます。大英博物館の石板には、ラキシュの役人が使っていた宮殿からの香炉や椅子、戦車、盾などが図示され、城を落とした後に何が移されたかを具体的に描いています。捕虜の列には家族と見られる人々もおり、軍人と市民の姿が区別されています。

別の石板ではセンナケリブの前へ連れてこられる捕虜と処罰の場面が描かれます。王宮に置かれたこの連続場面は征服した都市の名前を明記し、アッシリアの力を見せる記念として作られました。軍隊が町を占領した事実と、王が見せたかった勝利の構図とは、別の資料と照合して読むことができます。(参照:大英博物館|ラキシュ攻囲図・戦利品の搬出/大英博物館|ラキシュ攻囲図・捕虜とセンナケリブ)

水路と山の庭園|戦争以外の国王の仕事

センナケリブはニネヴェの宮殿とその周囲を整備し、遠方の水源から水を引く運河と水路橋を建設しました。孫のアッシュルバニパルの北宮殿に残る浮彫には、木々を植えた丘へ水が流れ込む景色が描かれています。石を積んだアーチ形の水路、段になった斜面、樹木に囲まれた建物が細い線で彫り分けられています。

この図の庭園は、センナケリブが作った水利施設に関係すると大英博物館は説明しています。ニネヴェ周辺では運河や水路橋の遺構も知られ、王の建設事業が軍事施設から庭園や都市の給水へ広がっていたことが分かります。(参照:大英博物館|ニネヴェ北宮殿の水路と庭園の浮彫)

『バビロンの空中庭園』とニネヴェ説|2013年の議論

古代の七不思議の一つと伝わる『バビロンの空中庭園』は、後世のギリシア語資料に壮大な庭園として登場します。アッシリア学者ステファニー・ダリーは2013年の著書で、センナケリブの碑文にある揚水装置、水路の遺構、ニネヴェの庭園浮彫をもとに、伝承の舞台は実際にはニネヴェだったと提唱しました。

美術史家ティモシー・ポッツは同年の論評で、センナケリブの庭園と水利施設が存在した根拠は強いと認めながら、後世の『空中庭園』の伝承をその庭園へ完全に結び付ける説明には検討すべき点が残ると指摘しました。現存する浮彫はニネヴェの庭園を描いた資料であり、古代の伝承に記された庭園の所在地そのものを確定するものではありません。(参照:S・ダリー(2013年)|『バビロンの空中庭園』の所在地をめぐる研究/T・ポッツ(2013年)|空中庭園のニネヴェ説をめぐる論評/大英博物館|ニネヴェ北宮殿の水路と庭園の浮彫)

アッシュルバニパルの宮殿|獅子狩りと庭園の宴会

北宮殿の獅子狩り|檻から解き放たれた獣

アッシュルバニパル(在位紀元前668〜630年頃)がニネヴェに造営した北宮殿には、国王の獅子狩りを描く一連の浮彫がありました。紀元前645〜635年頃の石板には、城壁で囲まれた狩猟場へ檻から獅子を放ち、騎乗した人々が動物を追い立てる場面が刻まれています。狩りが準備された場で行われていたことは、檻を開ける人や見守る者の姿から分かります。

王は戦車の上から弓を射ち、別の場面では馬の背から槍を持って獅子へ向かいます。王の姿は整った冠と衣服で描かれ、獅子は前脚を伸ばして跳ぶ姿、矢を受けて伏せる姿など、動きごとに異なる輪郭を持ちます。宮殿に並べられた狩猟図は、王の身体能力と動物の危険さを併せて表していました。(参照:大英博物館|アッシュルバニパルの獅子狩り・檻から出る獅子/大英博物館|アッシュルバニパルの獅子狩り浮彫(紀元前645〜635年)/大英博物館|王の獅子狩りの方法と造形)

傷ついた獅子の足と胴|筋肉を彫り分ける

狩猟図で際立つのは、獣の脚と背を覆う筋肉の彫り方です。矢を受けた獅子は前足の先だけで身体を支え、後脚を引きずり、口を開けて歯をむき出しにしています。立ち向かう獅子と横倒しの獅子を続けて彫ることで、同じ獣の違う動作が伝わります。

狩りに参加する人間は武器や階級を示す衣服を丁寧に身につけ、対する獅子は傷と緊張した身体を見せます。人物の衣服と獣の筋肉に向けられた彫刻の細かさは、異なる観察の対象を一枚の石板で表した結果です。どの獅子が同じ個体なのか、場面が厳密な時間順に並んでいるのかについては、現在の断片的な展示だけから確定できません。(参照:大英博物館|アッシュルバニパルの獅子狩り浮彫(紀元前645〜635年)/大英博物館|ニネヴェ北宮殿の獅子・野生ロバ狩り)

エラムとの戦い|倒れた王の首が運ばれる

アッシュルバニパルの戦争浮彫には、エラムとの戦いを描いた一群があります。ティルトゥバの戦いの場面では、兵士が相手の王テウンマンの帽子を拾い、別の兵士が切り取った王の首を掲げて走ります。川へ逃げる人々や武具が重なり、戦闘が終わった後の屈辱的な場面まで石板に刻まれました。

首を運ぶ人物が目立つよう、手を高く上げた姿が採用されています。王宮内に反復された敵王の敗北は、アッシリアの王が遠い土地の支配者まで打ち倒したと知らせる図像でした。戦役の年をめぐっては紀元前660年代から650年代まで議論があるため、浮彫の制作年代と描かれた戦争の年を区別する必要があります。(参照:大英博物館|ティルトゥバの戦い・エラム王の首を運ぶ人物)

庭園の宴会|王妃、葡萄棚、木に掛かる首

ニネヴェ北宮殿の庭園宴会図では、国王が寝椅子に横たわり、王妃が椅子に座って向き合います。二人の上には葡萄の蔓が伸び、ヤシや針葉樹、鳥のいる木々が周囲を埋めます。侍女は団扇や皿を持ち、庭での飲食が落ち着いた姿で描かれています。

王妃の後方の木には、戦いで倒されたエラム王テウンマンの首が掛けられています。庭園の穏やかな情景の中に戦勝の証が置かれ、宮廷での安楽と敵への勝利が一つの画面に結び付きました。浮彫に残る宴会と木々の細部は観察できる一方、実際の宴会を再現したのか、理想化された勝利の祝宴かという場面の性格には解釈が含まれます。(参照:大英博物館|アッシュルバニパルと王妃の庭園宴会図)

象牙の家具装飾|フェニキアと北シリアの工芸

ニムルドの倉庫から出た象牙|戦利品と工房

ニムルドの王宮や貯蔵庫では、多数の象牙装飾板が見つかっています。大きな石の浮彫に比べると手のひらに載るほど小さく、木製の椅子、寝台、箱の面にはめ込まれました。家具の木材が失われた場所でも、細い象牙の板と取り付け跡が残り、宮殿で用いた調度品の装飾を考えられます。

シャルマネセル堡の貯蔵室から出た象牙板のように、王が集めた財物を納めた建物で発見された品もあります。アッシリアの王が属国から受け取った貢納品や戦利品であった可能性があり、現地の工房が制作した品も含まれたと考えられています。出土した都市と象牙を彫った工房の所在地は、分けて調べられています。(参照:メトロポリタン美術館|シャルマネセル堡の貯蔵室から出た象牙板/メトロポリタン美術館|ニムルドの家具背板/メトロポリタン美術館|聖樹に触れるスフィンクスの象牙透彫(52.23.1))

樹に触れるスフィンクス|幅8センチ弱の透彫

メトロポリタン美術館の象牙板(52.23.1)は、縦13.79センチ、横7.8センチ、厚さ0.89センチです。人間の頭と翼のある獅子の身体を組み合わせたスフィンクスが後脚で立ち、両前脚を上げて、巻き込んだ葉を持つ樹に触れています。動物と枝の周囲をくり抜く透彫で、板の上・下・左には家具へはめ込むための縁が残っています。

アッシュルナツィルパル2世の祝宴を記す石碑の裏のくぼみから発見された品で、制作年代は紀元前9〜8世紀頃です。スフィンクスの姿はフェニキアの象牙工芸を思わせますが、髪や翼を浅い線で彫る作り方には北シリアの特徴があります。所蔵館も様式の境界が明確でない作例として説明しています。(参照:メトロポリタン美術館|聖樹に触れるスフィンクスの象牙透彫(52.23.1))

エジプト風の髪と翼|異なる土地の図像を混ぜる

象牙板にはエジプト風のかつらや王冠、スフィンクス、花を入れた枠が繰り返し現れます。フェニキア系と呼ばれる作例では、細い透彫に青いガラスなどの象眼を組み合わせ、金箔をかぶせるものもあります。二体のスフィンクスを向かい合わせ、中央の枠を支えるように配置した家具板は、そのような装飾法を観察できる作品です。

北シリア系の作例には、厚い身体を強く彫り出し、人物や動物の動きを大きく表す特徴が見られます。これらは現代の研究者が比較に用いる様式上の分類で、現物の制作地を一枚ごとに確定する名称ではありません。王宮へ集まった品には、輸送の途中で様式や加工技術が混ざった例もありました。(参照:メトロポリタン美術館|スフィンクスを配した象眼家具板/メトロポリタン美術館|聖樹に触れるスフィンクスの象牙透彫(52.23.1))

窓辺の女性|象牙板の小さな建築

大英博物館の『窓の女』と呼ばれる象牙板には、深く引っ込んだ窓枠と、短い柱に支えられた手すりが彫られています。その奥から、重いエジプト風のかつらと首飾りを身につけた女性の頭がのぞきます。窓の下に並ぶ柱の胴と葉形の柱頭を表現し、小さな板の中に建築の奥行きを作っています。

板には家具へ留めた突起が残り、裏側には西セム系の文字『ギメル』が二か所に刻まれています。文字が工房の合印か家具の組立位置を示すのかは、作業の仕組みを考える際の論点です。女性が誰を表すかを明記する文字はなく、図像名は見える姿に基づく呼称です。(参照:大英博物館|『窓の女』象牙装飾板)

新バビロニアの都|城壁とイシュタル門

紀元前612年以後のバビロン|王の建設事業

紀元前612年にニネヴェが陥落すると、バビロニアは政治的な力を広げ、紀元前605年に即位したネブカドネザル2世の治世に都を整備しました。バビロンの中心には南宮殿、マルドゥク神の神域、町へ入る城門があり、ユーフラテス川に沿った市街が壁で囲まれていました。建築の主要な材料は日干し煉瓦と焼成煉瓦で、大量の煉瓦に王の名が押されています。

ネブカドネザル2世の外城壁建設を記した粘土円筒には、瀝青と焼成煉瓦で基礎を固め、城壁を高く築いたという王の言葉が刻まれています。メトロポリタン美術館の円筒(86.11.60)は高さ6.7センチほどの小品で、建設時に基礎へ埋めるための記録でした。巨大な城壁と、人目につかない小さな碑文が一つの建築工事の一部を構成していました。(参照:フランス文化省考古学アーカイブ|古代バビロンの都市と宮殿/メトロポリタン美術館|ネブカドネザル2世の外城壁建立円筒(86.11.60))

北側の二重の門|イシュタル門の全体構造

イシュタル門はバビロン内城の北側に置かれ、二つの門楼を連ねた城門でした。外と内のそれぞれに大きな扉を設け、壁と塔の表面を青い彩釉煉瓦で覆いました。フランス文化省の遺跡資料は、古代の構造を高さ約30メートル、全長約48メートルと説明しています。現在見る博物館の復元よりも、大規模な都市施設だったことが分かります。

門には牡牛と竜の形をした守護動物が列を作り、壁の面ごとに向きをそろえて歩きます。牡牛は雷雨の神アダド、長い首と鱗を持つ竜ムシュフシュは都市神マルドゥクと結び付けられました。青い地を背にした動物の列は、通行する人の両側に続く大きな壁面の一部でした。(参照:フランス文化省考古学アーカイブ|イシュタル門と行列道路/ベルリン博物館島|古代西アジア博物館とイシュタル門の復元)

牡牛とムシュフシュ|青地に立つ神の動物

牡牛の浮彫には大きな首、丸く立ち上がる肩、分厚い脚があり、二本の角と下がった尾が横向きに描かれます。ムシュフシュは角を持つ蛇のような頭に、長い鱗の首、獣の前脚、鳥のような後脚を組み合わせた動物で、体の線が釉薬の色で強調されます。動物ごとに色の明暗が分かれ、青い背景に浮かび上がる仕上げです。

フランス文化省の考古学資料は、門を飾った動物をおよそ575体と紹介しています。この数は発掘と建築復元に基づく門全体の規模を示すもので、ベルリンに復元された壁面だけの数ではありません。動物を同じ姿勢で繰り返すため、職人は煉瓦一個ごとの形を揃え、複数の煉瓦を積み合わせて一頭を構成しました。(参照:フランス文化省考古学アーカイブ|イシュタル門と行列道路/ニューヨーク大学古代世界研究所|イシュタル門の制作技術)

型で作る浮彫と焼き付ける釉薬|煉瓦の制作

イシュタル門の動物は、湿った粘土を型で成形して浮彫を作り、煉瓦を焼いてから表面に色付きの釉薬を施しました。釉薬はガラスに近い性質を持ち、高温で焼くことで光沢のある面になります。青にはコバルトなどの金属成分が関わり、黄、白、黒などを組み合わせて図柄を分けました。

ニューヨーク大学古代世界研究所が2019年に開催した制作技術の展覧会では、原料、型、未完成品、煉瓦片、再構成した獅子板を並べ、粘土の成形から建築の仕上げまでを検討しました。門の青は単に壁面を塗った色ではなく、煉瓦の表層に焼き付けた鉱物質の層です。薄い釉薬の剥落と下地の土色は、発掘片の上で区別できます。(参照:C・フィッツジェラルド(2019年)|発掘煉瓦と近代の門の復元/ニューヨーク大学古代世界研究所|イシュタル門の制作技術)

釉薬の金属成分|2019年の産地研究

色の異なる動物浮彫を作るには、釉薬へ金属成分を配合して焼成する必要がありました。青や黄の面に含まれる金属は、彩色の技術を示すだけでなく、工房が原料をどこから入手したかを考える資料にもなっています。門や行列道路の壁面を均一に仕上げるには、数多くの煉瓦を同じ色の調合で作る工程が欠かせませんでした。

アナ・ゾフィー・ロドラーらは2019年、現在コペンハーゲンのニュー・カールスベア美術館が所蔵する新バビロニア時代の動物浮彫3点について、釉薬中の金属の同位体組成を分析しました。原料の候補として現在のトルコにある鉱床との関連を提案しています。候補の提示は産地の確定を意味せず、青色を作る配合と、材料がどこから運ばれたかは区別して検討されています。(参照:A・S・ロドラーほか(2019年)|バビロンの動物浮彫に用いられた釉薬成分の産地研究)

煉瓦に残った古代の磁場|2024年の建設年代研究

焼いた煉瓦には、冷えるときの地球の磁場の強さが記録されます。アニータ・ディ・キアーラらは2024年、イシュタル門の異なる三つの建設段階から採取した煉瓦片を調べ、残された磁気の強さが近いことを示しました。測定したのは動物の図像が完成した日付そのものではなく、焼成時に記録された物理的な特徴です。

研究者らは周辺地域で年代の分かる焼成資料との比較から、紀元前569年頃を最も合う年代として提案しました。分析に用いた煉瓦は5点で、各建設段階のあいだに長い中断があったという説明より、ネブカドネザル2世の治世内で比較的続けて門を築いたという復元に適合すると結論づけています。紀元前569年を門全体の竣工年と確定した結果ではなく、建設史を絞り込むための新しい測定です。(参照:A・ディ・キアーラほか(2024年)|イシュタル門の焼成煉瓦の考古地磁気研究)

行列道路の獅子|横幅2.3メートルの煉瓦板

イシュタル門から都の内部へ続く行列道路は、両側の壁に獅子を並べていました。獅子はイシュタル女神の象徴で、門の牡牛・竜とは異なる動物が道路の通行者を取り囲みます。フランス文化省はこの道路に約120体の獅子があったと記しており、青い地の上に歩く姿を反復させていました。

メトロポリタン美術館所蔵の再構成獅子板(31.13.2)は高さ99.7センチ、幅230.5センチ。焼成煉瓦を組み合わせた体には、前足を大きく踏み出す姿、開いた口、長く巻いた尾が浮彫で表されます。古代の新年祭には行列道路が儀礼の通路となり、動物の列は進行方向に沿って連続して見えました。(参照:メトロポリタン美術館|行列道路の獅子彩釉煉瓦板(31.13.2)/フランス文化省考古学アーカイブ|イシュタル門と行列道路)

花形と絡み文様|動物以外の彩釉壁

動物の列の上下には、花弁が円形に並ぶロゼット文様や、帯状の区画線が置かれました。大英博物館のバビロン出土と考えられる彩釉煉瓦片(1979,1218.77)には、濃い青い地と白い花弁の先が残ります。表面の釉薬が流れた跡と下面の瀝青の痕跡も記録されています。

こうした花形や帯は、門だけでなく南宮殿の玉座室の正面や行列道路でも用いられました。線の色と動物の身体が隣り合う部分を小さな煉瓦で作り、積み上げて大きな図柄にしています。表面の装飾片だけでは元の壁面を完全に復元できず、発掘図面と配列の規則を合わせて配置が検討されています。(参照:大英博物館|バビロンの彩釉煉瓦・白い花弁と青い地/ベルリン国立博物館|イシュタル門発掘片と復元の過程)

楔形文字を押した煉瓦|王の名前を壁の内部へ

ネブカドネザル2世は、煉瓦が乾く前に王の名前と称号を刻んだ印型を押す方法を広く用いました。完成した壁では読めない上面に文字を押したものが多く、神への建設奉告や後代の修復を意識した碑文と考えられています。文字そのものは小さくても、建築を構成する非常に多くの煉瓦へ繰り返し刻まれました。

ボルシッパにあるナブー神のエジダ神殿の工事を記した煉瓦や、バビロンの外城壁建立円筒は、工事の場所と王の行為を文字で伝えます。壁面で見せる青い動物、壁の内部へ隠す王名の銘文という二種類の記録が、同じ建設活動の中で作られました。(参照:メトロポリタン美術館|ボルシッパのナブー神殿建立銘の煉瓦/メトロポリタン美術館|ネブカドネザル2世の外城壁建立円筒(86.11.60))

神殿とジッグラト|エテメンアンキの再建記録

バビロンの市街には、都市神マルドゥクのエサギラ神殿と、階段状の高い建造物であるエテメンアンキのジッグラトがありました。ネブカドネザル2世は古い神殿の修復を進め、建物の基礎へ建設を記録した粘土円筒を納めています。メトロポリタン美術館には、エテメンアンキの再建を記す楔形文字の円筒が所蔵されています。

高いジッグラトは後世の『バベルの塔』の物語と結び付けられてきました。発掘された基礎や王の碑文から古代の建設活動を確かめ、建物全体の高さや上部の色は文書と遺構に基づく復元として扱う必要があります。物語に登場する建造物の外見を、そのまま紀元前6世紀の実測図へ移すことはできません。(参照:メトロポリタン美術館|エテメンアンキ改修を記す円筒碑文/フランス文化省考古学アーカイブ|古代バビロンの都市と宮殿)

発掘片から組み直した門|ベルリンの復元と遺跡

ローベルト・コルデヴァイらが1899年からバビロンの発掘を進めると、崩れた壁の中から青や黄の彩釉煉瓦片が大量に見つかりました。1902年にはイシュタル門の遺構を調査し、後にベルリンへ運ばれた多数の破片が、動物の身体と建築装飾の区画ごとに組み合わされました。

ベルリンでの復元は古代の破片を洗浄・整理し、足りない部分に新しい煉瓦を加えて仕上げたもので、元の門より小さい部分もあります。ニューヨーク大学古代世界研究所の2019年の研究展は、発掘片、20世紀初頭の復元図、現在の展示物を区別して紹介しました。イラクのバビロン遺跡には彩釉を施さない古い段階の門の基礎が残り、現地でも保存活動が続いています。(参照:C・フィッツジェラルド(2019年)|発掘煉瓦と近代の門の復元/ベルリン国立博物館|イシュタル門発掘片と復元の過程/ベルリン博物館島|古代西アジア博物館とイシュタル門の復元)

略年表

  • 紀元前900年頃|アッシリアの宮廷で青銅の門金具や宮殿彫刻の制作が続く
  • 紀元前883〜859年|アッシュルナツィルパル2世がニムルドの北西宮殿を建て、翼ある守護者と聖樹の浮彫を設置
  • 紀元前859〜824年|シャルマネセル3世の治世にバラワトの青銅装飾門が作られる
  • 紀元前825年頃|シャルマネセル3世の黒色オベリスクが建立され、各地の貢納を図と銘文で表す
  • 紀元前745〜727年|ティグラト・ピレセル3世の宮殿浮彫に攻城戦・貢納が描かれる
  • 紀元前713年頃|サルゴン2世が新都ドゥル=シャルキンの建設を開始
  • 紀元前705年|サルゴン2世が戦死し、次王センナケリブがニネヴェを政治の拠点とする
  • 紀元前701年|ラキシュがアッシリア軍に攻められ、後にその攻略場面がニネヴェの宮殿へ刻まれる
  • 紀元前7世紀前半|ニネヴェの水路と庭園が整えられ、王宮浮彫に山の水路と樹木が表される
  • 紀元前668〜630年頃|アッシュルバニパルの治世にニネヴェ北宮殿の狩猟・戦争浮彫が制作される
  • 紀元前645〜635年頃|北宮殿の獅子狩り浮彫に檻・騎手・王の射撃・負傷した獅子が刻まれる
  • 紀元前612年|ニネヴェが陥落し、アッシリアの政治秩序が崩れる
  • 紀元前605〜562年|ネブカドネザル2世の治世にバビロンの城壁・門・神殿の大規模な建設が進む
  • 紀元前6世紀前半|イシュタル門の彩釉煉瓦に牡牛と竜、行列道路の壁に獅子が反復して並べられる
  • 紀元前539年|アケメネス朝ペルシアがバビロンを占領し、王都の支配が移る

まとめ

紀元前9〜7世紀のアッシリア王宮では、日干し煉瓦の壁に石膏質の大きな石板を据え、王の姿、守護者、聖樹、遠征の場面を彫りました。ニムルドの浮彫には人物を横切る楔形文字、コルサバードの門には五本脚の人面牡牛、ニネヴェの壁面にはラキシュ攻略や獅子狩りの連続場面が残ります。色の痕跡や石板の固定跡から、壁を構成する方法や、彫刻が当初は彩色されていたことも調べられています。

アッシリアの宮殿にはフェニキアや北シリアの技法で彫られた象牙の家具装飾が集まり、ニムルドの小さなスフィンクスには透彫と繊細な線刻が併用されました。紀元前6世紀のバビロンでは、浮彫を型で成形した煉瓦を釉薬で青く焼き上げ、イシュタル門の牡牛と竜、行列道路の獅子を大きな壁に並べました。王の名前を焼成前の煉瓦へ押した例や、基礎へ埋めた記録円筒は、建設の工程も伝えています。

各地の石板と煉瓦には、展示用に移動・復元された部分があります。ラキシュの浮彫は現地の攻城道との照合が進み、ニネヴェの庭園図も水利施設と結び付けて研究されています。庭園図が後世の『空中庭園』の伝承と同じ場所を示すか、聖樹や守護者にどこまで一定の意味があったかには、資料を読み解く余地が残されています。(参照:Y・ガーフィンケルほか(2021年)|ラキシュの攻城道と浮彫の照合/S・ダリー(2013年)|『バビロンの空中庭園』の所在地をめぐる研究/T・ポッツ(2013年)|空中庭園のニネヴェ説をめぐる論評/メトロポリタン美術館|ニムルド北西宮殿の浮彫(32.143.14))

参考資料・出典

  1. ゲティ美術館|アッシリア王宮美術の展覧会解説
  2. メトロポリタン美術館|ニムルド北西宮殿の浮彫(32.143.14)
  3. メトロポリタン美術館|ニムルドの聖樹と楔形文字の浮彫
  4. メトロポリタン美術館|小容器を持つ翼ある守護像と聖樹
  5. 大英博物館|アッシュルナツィルパル2世の玉座室を守った有翼獅子
  6. 大英博物館|王と聖樹を描いた北西宮殿浮彫
  7. ゲティ美術館|アッシリア王宮の狩猟浮彫
  8. 大英博物館|バラワト門の青銅帯・テュロスとシドンの貢納
  9. 大英博物館|バラワト門の青銅帯・ウラルトゥ攻略
  10. 大英博物館|バラワト門の青銅帯・ティグリス川源流遠征
  11. 大英博物館|シャルマネセル3世の黒色オベリスク
  12. 大英博物館|ティグラト・ピレセル3世の攻城浮彫
  13. ルーヴル美術館|サルゴン2世の宮殿とコルサバード中庭
  14. フランス文化省考古学アーカイブ|コルサバードの都市
  15. フランス文化省考古学アーカイブ|コルサバードの宮殿
  16. フランス文化省考古学アーカイブ|アッシリア浮彫の石材・施工・彩色
  17. フランス文化省考古学アーカイブ|コルサバードの彩釉煉瓦
  18. フランス文化省考古学アーカイブ|コルサバード神殿区
  19. フランス文化省考古学アーカイブ|サルゴン2世を描いた浮彫
  20. フランス文化省考古学アーカイブ|コルサバードの木材輸送図
  21. フランス文化省考古学アーカイブ|ポール=エミール・ボッタの発掘
  22. メトロポリタン美術館|9世紀ニムルドの施釉装飾煉瓦
  23. 李蘇(Li Sou)|アッシリア浮彫の彩色と照明の研究
  24. 大英博物館|ラキシュ攻囲図・攻撃の始まり
  25. 大英博物館|ラキシュ攻囲図・城壁への攻撃
  26. 大英博物館|ラキシュ攻囲図・戦利品の搬出
  27. 大英博物館|ラキシュ攻囲図・捕虜とセンナケリブ
  28. Y・ガーフィンケルほか(2021年)|ラキシュの攻城道と浮彫の照合
  29. 大英博物館|ニネヴェ北宮殿の水路と庭園の浮彫
  30. S・ダリー(2013年)|『バビロンの空中庭園』の所在地をめぐる研究
  31. T・ポッツ(2013年)|空中庭園のニネヴェ説をめぐる論評
  32. 大英博物館|アッシュルバニパルの獅子狩り・檻から出る獅子
  33. 大英博物館|アッシュルバニパルの獅子狩り浮彫(紀元前645〜635年)
  34. 大英博物館|ニネヴェ北宮殿の獅子・野生ロバ狩り
  35. 大英博物館|王の獅子狩りの方法と造形
  36. 大英博物館|アッシュルバニパルと王妃の庭園宴会図
  37. 大英博物館|ティルトゥバの戦い・エラム王の首を運ぶ人物
  38. メトロポリタン美術館|聖樹に触れるスフィンクスの象牙透彫(52.23.1)
  39. メトロポリタン美術館|スフィンクスを配した象眼家具板
  40. メトロポリタン美術館|シャルマネセル堡の貯蔵室から出た象牙板
  41. 大英博物館|『窓の女』象牙装飾板
  42. メトロポリタン美術館|ニムルドの家具背板
  43. フランス文化省考古学アーカイブ|古代バビロンの都市と宮殿
  44. フランス文化省考古学アーカイブ|イシュタル門と行列道路
  45. ベルリン博物館島|古代西アジア博物館とイシュタル門の復元
  46. ベルリン国立博物館|イシュタル門発掘片と復元の過程
  47. ニューヨーク大学古代世界研究所|イシュタル門の制作技術
  48. C・フィッツジェラルド(2019年)|発掘煉瓦と近代の門の復元
  49. A・S・ロドラーほか(2019年)|バビロンの動物浮彫に用いられた釉薬成分の産地研究
  50. A・ディ・キアーラほか(2024年)|イシュタル門の焼成煉瓦の考古地磁気研究
  51. メトロポリタン美術館|行列道路の獅子彩釉煉瓦板(31.13.2)
  52. 大英博物館|バビロンの彩釉煉瓦・白い花弁と青い地
  53. メトロポリタン美術館|ネブカドネザル2世の外城壁建立円筒(86.11.60)
  54. メトロポリタン美術館|ボルシッパのナブー神殿建立銘の煉瓦
  55. メトロポリタン美術館|エテメンアンキ改修を記す円筒碑文