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紀元前500–27

古代ローマ共和政時代

肖像彫刻と都市建築・壁画

紀元前5世紀のローマは、イタリア半島中部のティベリス川(現在のテヴェレ川)沿いに広がる都市国家でした。川の浅瀬と中州の周囲には交易路が交わり、丘の斜面には住居や神殿が建てられていました。ラティウム地方のラテン人、北のエトルリア人、南イタリアのギリシア系都市などとの往来があり、町の建築には木、日干し煉瓦、凝灰岩、焼いた粘土の屋根飾りが用いられました。王政が終わり共和政へ移った年は伝統的に紀元前509年とされますが、初期の政治制度の細部は後世の記録と発掘資料を突き合わせて考える必要があります。

ローマは紀元前4〜3世紀に半島での勢力を広げ、さらに地中海をめぐる戦争や外交を通じて多くの土地と人々を支配するようになります。共和政では元老院と民会、任期を持つ政務官が政治に関わり、有力家門が公共建築や祭礼の後援を競いました。征服地からもたらされた彫像や、大理石を扱う職人、ギリシア語で学ぶ文化は、神殿と住宅の姿を変えていきます。同時に奴隷労働と財産の格差が広がり、紀元前1世紀には内戦が続きました。都市の広場、実在の人物を彫った頭像、細かな石で作った床の絵、壁一面に描かれた架空の建築には、この長い期間の異なる段階が残されています。

共和政初期のローマ|河港と粘土装飾の神殿

川の渡し場にできた聖域|サントモボーノの地層

カピトリーノの丘の麓、かつて家畜市場と河港があった一角に、サントモボーノ聖域が残ります。1937年の工事中に見つかった遺跡は、地表に見える神殿の基礎だけでなく、深い地中に複数の建築段階を重ねています。紀元前7世紀の木と土の建物、その後の祭祀用の穴と土器、紀元前6世紀に設けられた高い壇を持つ神殿が、異なる高さの地層から記録されました。ここは初期ローマがティベリス川を介して周辺地域とつながった場所です。

ミシガン大学などのサントモボーノ共同調査によれば、紀元前6世紀末から5世紀初めに古い神殿が解体され、フォルトゥナとマテル・マトゥータに結び付けられる二棟の神殿へ造り替えられました。現存する基礎、舗装面、祭壇の前後関係によって、この変更をたどれます。後世の建設で層が切られている部分もあるため、各段階の平面を完全に復元できるわけではありません。(参照:ミシガン大学|サントモボーノ遺跡の建築段階/ミシガン大学ケルシー考古学博物館|サントモボーノ共同調査)

土の屋根と石の基壇|神殿の外観を作る材料

共和政初期の神殿は、現在のローマに目立つ総大理石の建物とは材質が異なりました。凝灰岩の高い基壇の上に、木の柱と土壁を組み合わせた神殿を載せ、雨を受ける屋根には素焼きの瓦を使いました。屋根の縁や棟には、型で作り焼成した装飾板や人物像を据えます。サントモボーノの古い神殿からは、ヘラクレスとアテナと解釈されるテラコッタ像などの屋根飾りが見つかり、周辺のエトルリア・イタリア系の工房と共通する造形を示します。

これらの人物像は主として紀元前6世紀の先行段階に属します。『共和政の彫刻』として新たに紀元前5世紀に制作されたものと誤認してはいけません。一方、二棟の神殿の造営・修理や装飾の付け替えは共和政期に続きました。共同調査は2016年に凝灰岩の種類や建築用テラコッタを再検討し、従来一続きに扱われた構造の施工順を細かく整理しています。(参照:サントモボーノ共同調査(2016年)|共和政神殿の石材・屋根装飾研究/ミシガン大学|サントモボーノ遺跡の建築段階)

紀元前5〜4世紀の変化|都市の範囲と史料の偏り

ローマの古い神殿では、木製の梁や建物を覆っていた土壁の大半が失われ、地下に残った石の基礎や屋根瓦が建物の規模を測る材料になります。サントモボーノでは、共和政初頭に並べて建てられた神殿の周囲から複数の祭壇と舗装面が確認されました。参拝者が集まる屋外空間と、神像などを納める室内とを区別して造っていたことが読み取れます。

初期共和政をめぐる伝承には王の名や神殿の献納年が多く登場しますが、その記述の成立は時代を下ります。発掘で確認された柱穴、石材の組み方、土器の年代は、伝承と独立した証拠です。紀元前1世紀の建物では柱の高さや壁の表面まで確認できる例がありますが、紀元前5世紀の段階は断片的な基礎と土器を基に復元しています。(参照:ミシガン大学|サントモボーノ遺跡の建築段階/メトロポリタン美術館|ローマ共和政の歴史)

街道・広場・見世物の建築|市民が集まる場所

紀元前312年のアッピア街道|舗装と交通の仕組み

紀元前312年、政務官アッピウス・クラウディウス・カエクスの主導で、ローマからカプア方面を結ぶアッピア街道の建設が始まりました。軍勢や荷車が通る幹線道路は地面を整え、基礎を築き、道の両側に排水を考えた造りとなりました。ローマ近郊では現在も大きな黒い石を敷いた路面を歩けますが、目にする舗石の多くを着工した紀元前312年のものと同一視することはできません。ローマ市の案内は紀元前189年頃の舗装更新を伝えています。

道路は切石や火山岩の基盤を整えて造り、橋や側溝も区間ごとに改修されました。同じ紀元前312年にはローマ最初の水道、アクア・アッピアも整備されたと伝わります。街道の現存する表層と、建設を命じた政治家が生きた年代を切り分けることで、長く使う土木施設には施工と補修の時間が重なっていると分かります。(参照:ローマ市観光局|アッピア街道の建設と舗装/ローマ市観光局|アッピア街道と水道の成立)

フォロ・ロマーノ|商いから公務の場へ

カピトリーノの丘とパラティーノの丘の間にあるフォロ・ロマーノは、元は湿った谷でした。排水と地面の整備が進むにつれ、市場、神殿、政治集会の場所となり、共和政中期には裁判や商取引のための大きな屋根付き建物が加わりました。現在、広場に沿って見える石の柱や基壇には多くの時代の建築が混在し、一枚の『共和政の風景』をそのまま保存している場所ではありません。

紀元前179年、フルウィウス・ノビリオルとアエミリウス・レピドゥスが、のちにバシリカ・アエミリアと呼ばれる公共建築を造営しました。広い中央空間に柱列が沿い、広場の縁で商人や訴訟に関わる人々を雨から守る建物です。紀元前78年と55年頃にも大きな改修が行われ、現存遺構は初築時と異なる段階を含みます。古代ローマのバシリカとは、後世のキリスト教会を意味する言葉に限らず、こうした世俗の公共建築を指しました。(参照:コロッセオ考古学公園|フォロ・ロマーノ/コロッセオ考古学公園|バシリカ・アエミリアの修復と建築史)

ポンペイの城壁と円形闘技場|都市の安全と娯楽

南イタリアのポンペイは、ローマの影響を受ける前から城壁と道路を備えた都市でした。城壁の発掘では、紀元前5世紀前半に遡る道路面の痕跡と、紀元前1世紀初頭の包囲戦前に補強された構造が確認されています。紀元前80年にローマの植民市となると、新しい住民のための建物や公共施設が整備されました。都市の物質文化には、ローマから持ち込まれた制度と以前から住む人々の習慣が重なります。

紀元前70年頃に建てられたポンペイの円形闘技場では、楕円形の競技空間を石造の観客席が囲みます。土地の高低と築いた土手を利用し、周囲には観客が出入りする階段や通路が配置されました。ローマ市のポンペイウス劇場より早い建設で、紀元前1世紀の都市の娯楽建築をその場で見ることができます。ヴェスヴィオ山の噴火で埋もれたのは西暦79年ですが、闘技場の創建をその年に置くわけではありません。(参照:ポンペイ考古学公園|城壁の建設年代と調査/ポンペイ考古学公園|公式遺跡ガイド(『牧神の家』・『秘儀荘』))

共和政の神殿|柱の形とイタリアの地形

ポルトゥヌス神殿|石の柱と壁に付く半円柱

ティベリス川の古い港に近いポルトゥヌス神殿は、紀元前80〜70年頃の建物が残る数少ない共和政の神殿です。高い壇の正面から階段を上がると、前面に四本のイオニア式の柱が並び、その奥に神像を納める部屋があります。側面では柱が独立して周囲を囲むのではなく、壁の表面から半分だけ突き出しています。正面に深い柱廊を設け、側面に壁を長く通す構造です。

前部の柱と建物の角にはトラバーチンを用い、側面の他の部分にはアニエネ地方の凝灰岩が使われています。現存する建物の下には紀元前4世紀末〜3世紀初めの先行神殿があり、紀元前2世紀に港の川岸を整えた造成にも接しています。かつて『男性のフォルトゥナ神殿』とも呼ばれた名称の変化に加え、中世の教会への転用と近代の修復を経て今の形が残りました。(参照:イタリア文化省ローマ考古学監督局|ポルトゥヌス神殿)

ヘラクレス・ウィクトル神殿|円形の大理石建築

ポルトゥヌス神殿の近くには、紀元前2世紀末頃に建てられた円形のヘラクレス・ウィクトル神殿が立ちます。丸い神室を囲むように、コリント式柱頭の柱が輪になって立つ構成で、ローマに残る早い時期の大理石建造物です。高い矩形の壇を持つポルトゥヌス神殿とは、神室の形、柱の配列、石材の使い方が大きく異なります。

もとの柱の一部は後に置き換えられ、今日見える柱列すべてを共和政時代の材料とみなせません。神殿をヘラクレスの信仰と商人の活動に結び付ける解釈は、家畜市場と港に近い立地や古代の記録によって支えられます。ギリシア系の円形建築を取り込んだ設計が、川沿いのイタリア系の聖域に用いられた例です。(参照:ローマ市観光局|ヘラクレス・ウィクトル神殿)

プラエネステの聖域|丘を六段の段丘に変える

ローマの東にあるプラエネステ(現在のパレストリーナ)では、紀元前2世紀末にフォルトゥナ・プリミゲニアの巨大な聖域が造られました。丘の傾斜に沿って六段の人工的な段丘を築き、左右対称に伸びる斜路と階段で上の空間へ進む仕組みです。半円形に張り出した空間、柱廊、広場のようなテラスが連なり、参拝者が登るにつれて周囲の景色も変わりました。

大規模な土留めには石やローマン・コンクリートが使われ、段丘の床には小石や色石を埋め込んだ舗装が残ります。今はルネサンス期の宮殿が上段を覆い、一部の柱や壁は後の建築に取り込まれています。斜面と建物を一体にした設計は東地中海のヘレニズム期の聖域とも比較されますが、個々の建築要素のモデルを一つの神殿に断定することはできません。(参照:イタリア文化省|プラエネステのフォルトゥナ・プリミゲニア聖域/パドヴァ大学TESS|プラエネステ聖域の段丘と床面)

オスティアの港町|神殿と商業を結ぶ

河口近くのオスティアにも、紀元前2世紀末〜1世紀初めの神殿群が残ります。市街の外側に位置する共和政期の聖域には、ヘラクレス神殿のほか、四本柱の神殿と呼ばれる小建築などが並び、川口を往来する商船と関わる港町の宗教空間を作りました。ヘラクレス神殿は高い壇の前面に六本の柱を並べ、階段から入る形です。

神殿近くの大理石浮彫には、武装したヘラクレス像が海から発見され、その後に占いが行われると読まれる場面が刻まれています。浮彫は発見された場所や宗教的図像から信仰を考える資料で、建物の所有者や当初の奉納目的がすべて明記されたわけではありません。ローマ市中心部だけでなく港町にも、同時期に異なる規模の石造神殿が建てられていました。(参照:オスティア・アンティカ考古学公園|共和政期の聖域/オスティア・アンティカ考古学公園|ヘラクレス神殿)

有力者が築いた大規模施設|劇場と新しい広場

紀元前55年のポンペイウス劇場|半円形の観客席

紀元前55年、将軍ポンペイウスはローマのマルスの野に恒久的な石造劇場を開きました。それまで市内の芝居は臨時の木造客席を用いることが多く、この劇場は多数の観客が集まる建物を都市景観に固定しました。半円形の観客席は放射状の壁と通路で支えられ、正面の舞台建築との間に低い観覧空間が設けられました。観客席の上部には勝利のウェヌスに捧げる神殿を置く構想が含まれます。

現代のローマでは劇場の石造壁の一部が後世の建物の地下に残り、周辺の街路は客席の湾曲をたどっています。紀元後の火災と復旧で舞台の形も変わったため、西暦3世紀の大理石製都市地図に記された平面を、そのまま紀元前55年の舞台へ戻すことはできません。復元研究では残存する基礎、古い図面、文献の三者を照合しています。(参照:メトロポリタン美術館|ローマの劇場建築/Digital Augustan Rome|ポンペイウス劇場の遺構と復元)

劇場の背後の列柱庭園|彫像を歩きながら見る

劇場の舞台の背後には、四方を列柱廊で囲む広い庭園が設けられました。人々は観劇の前後に柱廊で休み、植栽や水のある開けた場所を行き来できました。古代資料には絵画や彫像を飾った記録があり、劇場は公演だけの装置ではなく、有力者が選んだ美術作品を多くの市民へ見せる場所でもありました。

列柱庭園の東側には会議に使われる建物も配置され、紀元前44年にはカエサルがその一角で暗殺されました。現在は後世の街区が建物を覆い、庭園の植物や個々の彫像の置き方は確定していません。年代の下る大理石地図や文学作品を使う復元には、初築後の変更が混じる余地があります。(参照:Digital Augustan Rome|ポンペイウスの列柱庭園/Digital Augustan Rome|ポンペイウス劇場の遺構と復元)

カエサルの広場|家門の祖先を神殿に結び付ける

紀元前46年、カエサルが整備した新しい広場は、フォロ・ロマーノの北側に接する長方形の柱廊空間でした。その奥にはウェヌス・ゲネトリクス(母なるウェヌス)の神殿が設けられました。ユリウス家は神話上の祖先をトロイアの英雄アイネイアスにさかのぼらせ、その母をウェヌスと考えました。神殿の主題は、都市の神々の礼拝とカエサル個人の家門の由緒を結び付けるものでした。

現在見える柱や壁には帝政期の改修が多く、原形をそのまま保存したものではありません。共和政末期の都市づくりでは、有力者が公共施設を建てて人々の集まる場所に自らの名を残しました。劇場、神殿、列柱庭園の造営は、同じ政治競争から生まれても、平面と市民の利用方法はそれぞれ異なります。(参照:コロッセオ考古学公園|カエサルの広場とウェヌス・ゲネトリクス神殿/メトロポリタン美術館|古代の彫像が置かれた場所)

歴史を刻んだ浮彫|人、記録、儀式を一続きに描く

ルーヴルの長い石板|登録を行う人物と兵士

ルーヴル美術館にある長い大理石浮彫は、慣例で『ドミティウス・アヘノバルブスの祭壇』と呼ばれます。制作はおおむね紀元前2世紀後半とされ、横長の石面に複数の場面が途切れず続きます。左側には座った役人らしき人物とその前に立つ男、板を持つ人々があり、その右に盾や槍を携えた兵士たちが並びます。衣のひだ、盾の曲面、顔の向きの違いを浅く彫り分けています。

画面の右方では頭を衣で覆った儀式の主宰者が祭壇の前に立ち、手前に豚、羊、雄牛が連れて来られます。三種の動物を献げる儀礼はスオウェタウリリアと呼ばれ、軍や土地の清めに関わる行事で行われました。絵は兵士を整列させ、登録と犠牲を同じ面に収めています。祭壇の前にいる人物の動作を細部まで描いていても、一度の特定の儀式を現場で写生した記録とは限りません。(参照:ルーヴル美術館|『ドミティウス・アヘノバルブスの祭壇』の浮彫/ドミニク・マシェク(2018年)|『国勢調査ではなく植民市創設』再解釈)

海の神々の浮彫|ローマの儀礼とギリシア神話

この記念物と同一の建造物に属したと考えられる別の浮彫群は、現在ミュンヘンのグリュプトテークにあります。そこでは海神の婚礼行列を思わせる、トリトン、海に住む女性像、海獣がうねるように連なります。身体をひねる姿勢や波に沿って曲がる動物の尾は、ルーヴルの兵士と犠牲動物の整然とした列とは異なります。

石板は近世以降に別々の経路で保存され、今は二都市の美術館へ分かれています。『祭壇』という通称は残っていますが、もとは神殿で彫像群を載せる台座だった可能性が論じられています。ローマ市民の儀礼とギリシア神話の海の行列が同一の記念物に採用されたことは、造形言語が一種類に統一されていなかったことを示します。(参照:ルーヴル美術館|同一記念物の海神行列浮彫の複製/ルーヴル美術館|『ドミティウス・アヘノバルブスの祭壇』の浮彫)

何の行事なのか|マシェクの2018年の再解釈

この浮彫の左側は長く『ケンスス』、すなわち市民の身分や財産を登録する調査場面と説明されてきました。座って記す人、申告する人、武装した集団、三種の犠牲獣が、登録から軍の浄めへ進む手順に対応すると考えられたためです。研究者アルフレート・フォン・ドマシェフスキ以降、その読みは共和政美術の代表的な説明となりました。

ドミニク・マシェクは2018年、登場人物の履物や衣服、身分を示す装備を検討し、この中に戸口調査を行う監察官はいないと論じました。そして新たな入植者を送り出して植民市を設立する『デドゥクティオ』の場面と読み、紀元前123年に設けられた植民市ネプトゥニアとの関連を仮説として示しました。植民市創設にも入植者名簿の作成と豚・羊・雄牛の供犠が必要だったことが論拠です。両説は同じ人物と動物を見ながら行事の目的を異なって理解しています。記念物の元の設置場所と献納者の特定にも議論が残ります。(参照:ドミニク・マシェク(2018年)|『国勢調査ではなく植民市創設』再解釈/ルーヴル美術館|『ドミティウス・アヘノバルブスの祭壇』の浮彫)

人物を表す彫刻|祖先像から共和政末期の肖像へ

家に置かれた祖先の顔|葬列と家門の記憶

ローマの有力家門では、祖先の顔を写した蝋製の像や仮面を家に保管し、葬列などで示す習慣がありました。後世の歴史家が伝える葬儀の光景では、参列者が故人の祖先に見立てた姿で並び、その家の過去の政務官や軍功を可視化しました。肖像は個人の容貌を伝えるだけでなく、公職を担う資格や家系の名声を示す物でもありました。

蝋は腐食しやすく、古代ローマの『祖先仮面』と確実に同定できる現存例は限られます。後の大理石頭像の深い皺を、すべて実際の死顔を直接型取りした証拠として読むことはできません。葬祭の慣行、彫刻の誇張された表情、社会的な徳目を結び付けて考える研究が進められています。(参照:メトロポリタン美術館|共和政から帝政へのローマ肖像彫刻/メトロポリタン美術館|ローマ肖像の写実と理想化)

『カピトリーノのブルートゥス』|名の付いた無名の青銅頭像

カピトリーノ美術館の『カピトリーノのブルートゥス』は、細く整えられた髪、短い髭、くっきりした眉の下から前を見つめる目を持つ青銅頭像です。高さは約69センチ。額から頬にかけて骨格を明確に出し、唇を閉じた固い表情で作られています。館の制作年代は紀元前4〜3世紀で、後期エトルリアからローマへつながる青銅彫刻の問題としても扱われます。

1564年に寄贈された頭像を、共和政最初の執政官とされるユニウス・ブルートゥスに結び付けたのは近世の解釈です。カピトリーノ美術館自身が、その人物同定には確かな根拠がないと明記しています。名前を知らない実在人物の肖像として、青銅の鋳造と表面仕上げを観察できますが、紀元前6世紀末の政治家の顔を伝える作品とはいえません。(参照:カピトリーノ美術館|通称『カピトリーノのブルートゥス』)

老人の大理石頭像|皺と首の向きを彫る

メトロポリタン美術館の共和政末期の男性頭像(13.229.4)は、紀元前1世紀の大理石彫刻で、高さ27.9センチ。髪を短く刻み、顔には目尻や頬の線、首の筋肉が表されています。頭をわずかに左へ向けて持ち上げた姿勢は、年老いた人物の容貌とともに、後期ヘレニズム彫刻に見られる感情を帯びた首の動きも採り入れています。

額の皺や頬のたるみが目立つ表現は、共和政後期の肖像にしばしば見られます。しかし誰の頭像かを記す当初の銘文はなく、老いた顔が『実物どおり』に再現されたのか、経験や権威を示すよう強められたのかを分けて考えなければなりません。後年に彫られた別の男性像も同じような写実的表現を採用しており、様式だけから正確な制作年は決められません。(参照:メトロポリタン美術館|共和政末期の老人男性頭像13.229.4/メトロポリタン美術館|共和政様式で彫られた帝政期胸像/メトロポリタン美術館|ローマ肖像の写実と理想化)

カエサルに似た顔と老婦人像|名前と時代を区別する

別の無名男性頭像(メトロポリタン美術館21.88.14)は、幅の広い額、細い顎、長く痩せた首を持っています。カエサルの貨幣肖像と似ていたため本人の像と考えられた時期がありますが、美術館は現在、共和政末期からアウグストゥス初期にまたがる無名の男性像として収蔵しています。政治家に似せた表現が、その政治家自身の像とは限らない例です。

同館の老婦人頭像(2000.38)は、髪を頭頂で編んでまとめ、額の上に平たい毛束を渡した髪形を持ちます。右の瞼と髪には顔料の痕跡が残り、石の像が彩色されていたことも分かります。制作年代は紀元前40〜20年頃と推定され、紀元前27年の共和政と帝政の境界をまたぎます。そのため厳密に『共和政時代だけの作品』として数えず、紀元前1世紀後半の肖像の変化を示す比較例として扱います。(参照:メトロポリタン美術館|カエサル像に似た無名男性の頭像/メトロポリタン美術館|紀元前40〜20年頃の老婦人頭像/メトロポリタン美術館|古代彫刻の彩色と材質)

貨幣と彫り石|小さな面に載せた政治的な画像

紀元前96年頃のデナリウス|神の頭と神話を選ぶ

ローマ共和政の銀貨デナリウスは、手のひらに収まる小さな円形の金属面に、神々、祖先、都市の物語を刻みました。メトロポリタン美術館の紀元前96年頃のポストゥミウス・アルビヌスの貨幣は、直径約1.9センチ、重さ約4グラム。片面には月桂冠を着けたアポロンの横顔、反対側には馬に水を飲ませる双子神カストルとポルックスが、ユトゥルナの泉のそばに描かれます。

人物と馬の脚は硬い金型に刻んだ凹凸を銀片へ打ち付けることで表され、少ない面積でも輪郭、脚、文字を区別できます。貨幣の図像には発行に関わった一族の名声を伝える役割もあり、日常の買い物の中へ神話や政治的主張を運び込みました。(参照:メトロポリタン美術館|ポストゥミウス・アルビヌスの銀貨)

紀元前44年のカエサル肖像|存命の権力者を銀に刻む

紀元前44年のデナリウス銀貨には、頭に冠を着けたカエサルの横顔が現れます。髪、額の線、鼻の形を比較的細かな凸線で区切り、周囲に人物名や官職の銘を配しました。神々や伝説の祖先が主役だった共和政貨幣に、同時代の政治家の肖像を置くことは、その人物が生きている間から権力を可視化する強い表現でした。

この貨幣の肖像は顔の特定に用いられますが、硬貨の図像そのものも型に合わせて整えられた表現です。石彫の似顔絵を完全な写真のように鑑定する基準にはなりません。カエサルは紀元前44年3月に殺害されますが、その年に発行された硬貨は彼の像と名前を刻んだ一次資料として残りました。(参照:大英博物館|紀元前44年のカエサル肖像デナリウス銀貨/メトロポリタン美術館|カエサル像に似た無名男性の頭像)

ブルートゥスの『3月15日』貨幣|短剣と解放の帽子

カエサル暗殺に加わったマルクス・ユニウス・ブルートゥスは、紀元前43〜42年に自分の肖像を表に、二本の短剣と解放奴隷がかぶる帽子を裏に刻んだ銀貨を発行しました。短剣の下には暗殺の日付を示す文字が配されます。メトロポリタン美術館の例は直径約1.8センチ、重さ3.52グラム。小さな金属面だけで出来事とその政治的な意味を組み合わせた図案です。

同時期の赤い宝石の彫り石には、ブルートゥスの横顔と小さな短剣が刻まれています。宝石の肖像と貨幣の図像が対応するため、この彫り石の人物は比較的高い確度で同定されています。カピトリーノの無名青銅頭像の『ブルートゥス』という通称とは証拠の性質が異なります。紀元前29〜27年のオクタウィアヌスの銀貨には、彼の顔と戦車を載せた凱旋門が描かれ、政治の終盤で公共建築までが貨幣図像に取り込まれました。(参照:メトロポリタン美術館|ブルートゥスの紀元前43〜42年の銀貨/メトロポリタン美術館|ブルートゥス肖像を彫る赤色宝石/メトロポリタン美術館|オクタウィアヌスの紀元前29〜27年の銀貨)

ポンペイの住宅|中庭とモザイクを持つ大きな家

『牧神の家』|入口から二つの列柱庭園まで

ポンペイの『牧神の家』は、紀元前2世紀に形が整えられた広い都市住宅です。約3000平方メートルの街区を占め、道路からの入口を入ると、中央に雨水を受ける浅い池を持つ中庭が現れます。その奥には柱で囲まれた二つの庭が続き、客を迎える部屋や食事をする部屋は、庭に向けて開かれていました。一軒の家の内部に、雨を受ける場所、日陰の歩廊、絵を見せる部屋が段階的に配置されています。

玄関の床には『HAVE』(ようこそ)の文字が入り、その先には色の異なる石を三角形などに切って寄せた舗装が見られます。19世紀の発掘で多くの彫刻とモザイクが取り外され、現地には複製が置かれた作品もあります。家の平面は共和政末期までに成立していましたが、西暦79年に埋まった状態は増改築後のものであり、壁画や家具のすべてが紀元前2世紀の創建時と同時とは限りません。(参照:ポンペイ考古学公園|公式遺跡ガイド(『牧神の家』・『秘儀荘』)/ポンペイ考古学公園|ローマの家と荘園住宅)

『アレクサンドロス・モザイク』|槍と馬が交錯する床

『牧神の家』の二つの列柱庭園の間にある広間には、アレクサンドロス大王とペルシア王ダレイオス3世の戦闘を描いた巨大な床モザイクがありました。左から馬に乗るアレクサンドロスが槍を伸ばし、右側の戦車に乗るダレイオスは身体を前へ向け、戦場へ腕を差し出します。戦車の車輪、馬のたてがみ、地面へ倒れる兵士の身体が重なり、中央では互いの進路がぶつかる構成です。

ナポリ国立考古学博物館に移された原作は、紀元前2世紀末頃に百万個を超える細片を使って作られたと記録されています。小さな石片を曲線に沿って密に並べる技法によって、顔や鎧の陰影まで描き出しました。戦闘をイッソスの戦いとする見解が有力ですが、具体的な場面の同定や原型となったギリシア絵画については議論があります。現物の制作年は、描かれた紀元前333年頃の戦いの年と一致しません。(参照:ナポリ国立考古学博物館|モザイクと『アレクサンドロス・モザイク』/ポンペイ考古学公園|公式遺跡ガイド(『牧神の家』・『秘儀荘』))

踊る牧神と敷居の絵|小品で部屋の役割を変える

家の中庭の水盤付近から見つかった踊る牧神の青銅小像が、『牧神の家』という現在の名の由来です。上半身をひねって腕を上げ、片脚に重心を置く小像は、神や神話の従者を動きのある姿で室内に置く趣向を伝えています。発掘された本体はナポリ国立考古学博物館にあり、現地で見る像とは区別が必要です。

同じ家の床には、演劇用の仮面と果実を並べるもの、海の魚介類を細かな色石で表すもの、ナイル川流域を連想させる風景など、戦闘画と別の主題もありました。玄関、食堂、庭を見渡す部屋で、床に置く画像の内容を変えています。美術館の目録には、これらの小さな床絵や牧神像が、元の室内から取り外されたものとして記録されています。(参照:ナポリ国立考古学博物館|モザイクと『アレクサンドロス・モザイク』)

壁面を描く技法|石の模倣から架空の建築へ

第一様式の壁|漆喰で色石の積み目を作る

紀元前2世紀頃のカンパニア地方の住宅では、壁を高価な大理石の板で覆ったように見せる装飾が広まりました。下の段は濃い色、中央は大きな長方形の石板、上部には小さな積み石の列や歯のような突起を付けた帯を置きます。色を塗るだけでなく、漆喰の表面を盛り上げて板の縁に影を作ることもありました。

これは近代の研究で『第一様式』と呼ぶ装飾です。19世紀のアウグスト・マウはポンペイの壁画を四つの様式に分類し、初期の石積み模倣から透視図的な建築表現へ移る過程を説明しました。マクスウェル・アンダーソンは1987年、これらの様式が後の時期にも再利用されることを指摘しており、壁面の装飾名だけで改築年を機械的に決定できません。(参照:メトロポリタン美術館|ローマ壁画と第一・第二様式/マクスウェル・アンダーソン(1987年)|ポンペイ壁画様式の再検討)

第二様式|壁の向こうに柱と庭を描く

紀元前1世紀には、壁を平らな石板に見せるだけでなく、実際にはない柱や遠くの建物を描き、部屋がその奥まで続くように見せる方法が発達しました。ボスコレアーレの荘園住宅のF室の壁画(メトロポリタン美術館03.14.10)は、手前に柱形、奥に多彩な石の板を模した壁、その間に別の列柱を重ねています。描かれた影によって、実際の漆喰の表面とは別に空間の深さを感じさせます。

壁面は顔料を水で溶き、湿った漆喰へ塗って仕上げました。漆喰の層と乾燥に合わせて塗る工程が必要で、線や影の見え方は職人の腕と部屋の採光に左右されました。紀元前50〜40年頃のこの壁画は、第二様式の透視図的な建築描写を実際に見られる作例です。(参照:メトロポリタン美術館|ボスコレアーレ荘F室の列柱壁画/メトロポリタン美術館|ローマ壁画と第一・第二様式)

ボスコレアーレの寝室|実際の部屋と描かれた窓

ナポリ湾近くのボスコレアーレにあった、プブリウス・ファンニウス・シニストルの荘園住宅からは、紀元前50〜40年頃の寝室の壁画がまとまって残りました。メトロポリタン美術館に移されたM室は、幅約3.34メートル、奥行約5.84メートル、高さ約2.65メートルの細長い部屋です。奥の壁には岩のある庭、欄干、あずまや、泉を囲む岩穴が描かれ、中央の欄干の上には果物を入れたガラス鉢が置かれています。

左右の壁は寝台を置く場所に合わせて柱形で区切られ、その両側に列柱のある庭や建物の並ぶ街並みが描かれています。眠るための室内に、実際には歩き込めない屋外の景色を作った装飾です。荘園は西暦79年の噴火で埋まり、1900年の発掘で壁画が発見されました。美術館では切り取った絵を室内の形へ組み直して展示しており、出土時の壁体と展示用の構造は同じものではありません。(参照:メトロポリタン美術館|ボスコレアーレ荘・寝室の壁画/メトロポリタン美術館|ボスコレアーレ荘の出土と壁画)

花綱と祭具の壁画|一枚の壁に吊るした物

同じ荘園のL室西壁の壁画(03.14.4)には、赤い石板を模した壁の前に、祭りの飾りを吊るす構図があります。中央に雄牛の頭骨を置き、その左右から果実と葉の花綱を下げ、下方には籠、シンバル、サテュロスの仮面を配します。籠の蓋は開き、蔦の間から蛇が身体を伸ばしています。残存するパネルは縦約1.96メートル、横約2.72メートルです。

描かれた花綱の各部分には光と影が付けられ、左側から差す庭の自然光と対応するよう仕組まれています。籠と蛇、仮面、楽器はディオニュソスに関係する図像として理解されますが、室内で具体的にどの祭儀が行われたかを図像だけで決めることはできません。室内装飾として祭礼の道具を絵に置く趣向が、当時の上流住宅へ入っていました。(参照:メトロポリタン美術館|ボスコレアーレ荘L室の祭礼装飾)

『秘儀荘』の人物壁画|場面を読む研究史

赤い壁の連続人物像|ディオニュソスと身振り

ポンペイ市壁の外にある『秘儀荘』の一室には、赤い壁を背景に、等身大に近い人物が三方へ連なる壁画があります。中央付近にはディオニュソスとその伴侶とされる人物がいて、周囲に読書する子ども、器を扱う女性、笛を吹く人物、山羊を抱く者、背をさらす女性、翼のある女性などが配置されています。一人ひとりは石の壇のような細い帯の上に立ち、実際の部屋と同じ床面にいるように描かれています。

別の部分では、衣の裾を引き寄せる女性が身体をかがめ、その近くで翼のある人物が鞭を振り上げます。画面の端には髪を整える女性と愛の神の小像のような人物もいます。荘園は紀元前2世紀に建ち、紀元前1世紀に増改築されました。ポンペイ考古学公園の公式ガイドは壁画を紀元前80〜70年頃の改装に結び付けていますが、近年の論文では紀元前1世紀中頃として扱う例もあり、狭い年号への断定は避けます。(参照:ポンペイ考古学公園|公式遺跡ガイド(『牧神の家』・『秘儀荘』)/『American Journal of Archaeology』(2023年)|『秘儀荘』壁画の裸身の少年像と研究史)

発見と初期解釈|入信儀礼か、婚礼か

壁画のある部屋は1909〜1910年頃の発掘で知られるようになり、1929〜1930年には周囲の荘園も調査されました。アメデオ・マイウリらはディオニュソスの密儀への入信を中心に説明し、女性たちの姿を儀礼の段階として読みました。紀元前1世紀の宗教的な語彙や神話像が壁面を覆うため、祭礼との関連は早くから注目されました。

その後、若い女性の髪を結う場面や愛の神を重視して、婚礼や結婚前の儀式に関連づける解釈も唱えられました。読書する子どもと女性を宗教儀礼の参加者と考えるか、教育や日常の場面を重ねた表現と考えるかでも説明は変わります。ミシガン大学が2000年に行った展示は、神話、宗教、結婚という読みがどこで交わり、どこで異なるかを取り上げています。(参照:ミシガン大学ケルシー考古学博物館(2000年)|『秘儀荘』壁画の多様な解釈/ポンペイ考古学公園|公式遺跡ガイド(『牧神の家』・『秘儀荘』))

2023年の再検討|裸身の子どもが示す社会関係

サラ・E・ベックマンが2023年に『アメリカ考古学誌』で発表した論文『裸身の読者』は、壁画の一角にいる子どもへ注目しました。女性二人の間で巻物を読む少年は衣をまとわず、履物だけを着け、周囲の成人女性とは姿が異なります。ベックマンは子どもの姿勢や視線を、ローマ時代の奴隷身分の子どもを表した他の図像や碑文と照合し、この少年を奴隷身分と読む解釈を提案しました。

同論文は、壁画全体を実際の入信儀礼の手順書とみなす研究が近年は後退し、ディオニュソス、婚礼、女性の地位、宴会をめぐる複数の意味を重ねて読む方向が強いと整理しています。奴隷身分の解釈も描かれた一人の人物から導く新たな仮説であり、その人物の実名や荘園の所有者との関係が判明したわけではありません。壁画が何を行う部屋に置かれ、どの来客にどのように見られたかは、引き続き議論されています。(参照:『American Journal of Archaeology』(2023年)|『秘儀荘』壁画の裸身の少年像と研究史)

銀の食器と収集された彫像|家に運ばれた美術品

ティヴォリの銀器群|酒の杯と所有者の名

メトロポリタン美術館の『ティヴォリの銀器群』は、紀元前1世紀中頃の銀製食器からなります。ティヴォリ付近で発見されたと伝わる約30点の一群には、酒を飲む両耳の杯、柄杓、注ぎ口を持つ器、匙などがありました。華やかな杯の曲面や細い柄を持つ道具は、食卓での飲食に用いられた形をしています。

杯二点と柄杓には重量と持ち主の名が刻まれ、『ルキウスの娘サッティア』と読めます。個々の器を特定の女性の所有物と結び付けられる珍しい資料です。埋納が共和政末期の内戦に関係した可能性はありますが、発見事情は伝聞を含み、誰がどの状況で埋めたかを確定する発掘記録はありません。(参照:メトロポリタン美術館|ティヴォリ出土と伝わる銀食器群)

戦利品と模作|ギリシア作品が置かれた場所

紀元前3〜2世紀の遠征で、ローマの将軍たちはギリシアや南イタリアの都市から彫刻を持ち帰り、勝利の行列や神殿の奉納品として展示しました。紀元前2世紀には、ギリシア美術を収集する富裕層が都市住宅や別荘の庭園に彫像を置くようになりました。ヘレニズム期の芸術家や工房の技術は、ローマの注文に応じた模作や新しい装飾にも生かされます。

大理石像のなかには、古いギリシア彫刻の形を後世に写したローマ製作の作例が多くあります。したがって、彫像の主題が紀元前5世紀のギリシアで生まれていても、ローマの庭園へ置かれた現物の制作が同じ年とは限りません。共和政期の住宅で見られた作品を考える際には、制作地、元の図像、ローマに運ばれた時期の三つを区別します。(参照:メトロポリタン美術館|ヘレニズム諸王国とローマへの美術の流入/メトロポリタン美術館|古代の彫像が置かれた場所)

略年表

  • 紀元前500年頃|サントモボーノ聖域で古い神殿に代わる二棟の神殿が整えられる
  • 紀元前400〜200年頃|『カピトリーノのブルートゥス』と呼ばれる無名の青銅頭像の制作年代とされる
  • 紀元前312年|アッピア街道と最初のローマ水道の建設が始まる
  • 紀元前300〜100年頃|南イタリアやギリシアの彫像が征服地からローマへもたらされる
  • 紀元前200〜60年頃|カンパニア地方の住宅で大理石の石積みを模した第一様式の壁面装飾が使われる
  • 紀元前179年|フォロ・ロマーノに後のバシリカ・アエミリアの初期建物が建つ
  • 紀元前150〜100年頃|『ドミティウス・アヘノバルブスの祭壇』と通称される浮彫が制作される
  • 紀元前120〜100年頃|プラエネステのフォルトゥナ聖域の段丘建築と『牧神の家』の大モザイクが整えられる
  • 紀元前80〜70年頃|ローマのポルトゥヌス神殿が現在残る形に建て替えられる
  • 紀元前80〜40年頃|『秘儀荘』の人物壁画が描かれ、紀元前1世紀の住宅に使われる
  • 紀元前70年頃|ポンペイに楕円形の円形闘技場が建設される
  • 紀元前55年|ポンペイウスがローマに恒久的な石造劇場を建設する
  • 紀元前50〜40年頃|ボスコレアーレの荘園住宅に透視図的な柱・庭を描く壁画が作られる
  • 紀元前46年|カエサルが新しい広場とウェヌス・ゲネトリクス神殿を整備する
  • 紀元前44年|カエサルの存命中の肖像を載せた銀貨が発行され、同年3月に暗殺される
  • 紀元前43〜42年|ブルートゥスの肖像、二本の短剣と解放の帽子を刻む銀貨が発行される
  • 紀元前29〜27年|オクタウィアヌスの肖像と凱旋門を描いた銀貨が発行される
  • 紀元前27年|オクタウィアヌスがアウグストゥスの称号を受け、共和政から帝政への節目となる

まとめ

紀元前5世紀初めのローマでは、木と土の建物にテラコッタの屋根飾りを載せ、石の高い壇を持つ神殿を使っていました。紀元前2〜1世紀になると、フォロ・ロマーノの大きな屋根付き広間、イオニア式のポルトゥヌス神殿、円形のヘラクレス神殿、丘に六段の段丘を築くプラエネステの聖域など、用途と場所に応じた建物が造られます。アッピア街道や劇場も建設後に改修されてきたため、現存する柱や舗石には複数の時期が重なっています。

人物表現では、共和政後期の大理石頭像が皺や首の筋を細かく刻み、青銅像は眉や眼を鋳造と仕上げで表しました。名の分からない男性像をカエサルとする旧来の同定が見直された一方、貨幣にはカエサルやブルートゥスの肖像と名前が同時代の記録として残ります。大モザイクは細かな石片によって馬や甲冑の動きを描き、ボスコレアーレの壁画は塗った漆喰の平面に実在しない列柱や庭を作りました。

『ドミティウス・アヘノバルブスの祭壇』と呼ばれる浮彫は、市民登録か植民市創設かという場面解釈が争われ、『秘儀荘』の人物列には入信、婚礼、邸宅での見せ方など複数の読みがあります。現存する作品は元の設置場所から移されていることが多く、発掘時の建物と作品の制作年も一致しません。調査では石材の接合、壁画の層、貨幣の銘、失われた壁の位置が照合され、何が見えていたかと、どのような意味を持っていたかが区別して検討されています。(参照:ドミニク・マシェク(2018年)|『国勢調査ではなく植民市創設』再解釈/『American Journal of Archaeology』(2023年)|『秘儀荘』壁画の裸身の少年像と研究史)

参考資料・出典

  1. メトロポリタン美術館|ローマ共和政の歴史
  2. メトロポリタン美術館|古代の彫像が置かれた場所
  3. メトロポリタン美術館|ヘレニズム諸王国とローマへの美術の流入
  4. ミシガン大学|サントモボーノ遺跡の建築段階
  5. ミシガン大学ケルシー考古学博物館|サントモボーノ共同調査
  6. サントモボーノ共同調査(2016年)|共和政神殿の石材・屋根装飾研究
  7. ローマ市観光局|アッピア街道の建設と舗装
  8. ローマ市観光局|アッピア街道と水道の成立
  9. コロッセオ考古学公園|フォロ・ロマーノ
  10. コロッセオ考古学公園|バシリカ・アエミリアの修復と建築史
  11. イタリア文化省ローマ考古学監督局|ポルトゥヌス神殿
  12. ローマ市観光局|ヘラクレス・ウィクトル神殿
  13. イタリア文化省|プラエネステのフォルトゥナ・プリミゲニア聖域
  14. パドヴァ大学TESS|プラエネステ聖域の段丘と床面
  15. オスティア・アンティカ考古学公園|共和政期の聖域
  16. オスティア・アンティカ考古学公園|ヘラクレス神殿
  17. メトロポリタン美術館|ローマの劇場建築
  18. Digital Augustan Rome|ポンペイウス劇場の遺構と復元
  19. Digital Augustan Rome|ポンペイウスの列柱庭園
  20. コロッセオ考古学公園|カエサルの広場とウェヌス・ゲネトリクス神殿
  21. ルーヴル美術館|『ドミティウス・アヘノバルブスの祭壇』の浮彫
  22. ルーヴル美術館|同一記念物の海神行列浮彫の複製
  23. ドミニク・マシェク(2018年)|『国勢調査ではなく植民市創設』再解釈
  24. メトロポリタン美術館|共和政から帝政へのローマ肖像彫刻
  25. メトロポリタン美術館|ローマ肖像の写実と理想化
  26. カピトリーノ美術館|通称『カピトリーノのブルートゥス』
  27. メトロポリタン美術館|共和政末期の老人男性頭像13.229.4
  28. メトロポリタン美術館|カエサル像に似た無名男性の頭像
  29. メトロポリタン美術館|紀元前40〜20年頃の老婦人頭像
  30. メトロポリタン美術館|共和政様式で彫られた帝政期胸像
  31. メトロポリタン美術館|ポストゥミウス・アルビヌスの銀貨
  32. 大英博物館|紀元前44年のカエサル肖像デナリウス銀貨
  33. メトロポリタン美術館|ブルートゥスの紀元前43〜42年の銀貨
  34. メトロポリタン美術館|ブルートゥス肖像を彫る赤色宝石
  35. メトロポリタン美術館|オクタウィアヌスの紀元前29〜27年の銀貨
  36. ポンペイ考古学公園|公式遺跡ガイド(『牧神の家』・『秘儀荘』)
  37. ポンペイ考古学公園|ローマの家と荘園住宅
  38. ポンペイ考古学公園|城壁の建設年代と調査
  39. ナポリ国立考古学博物館|モザイクと『アレクサンドロス・モザイク』
  40. メトロポリタン美術館|ローマ壁画と第一・第二様式
  41. マクスウェル・アンダーソン(1987年)|ポンペイ壁画様式の再検討
  42. メトロポリタン美術館|ボスコレアーレ荘・寝室の壁画
  43. メトロポリタン美術館|ボスコレアーレ荘F室の列柱壁画
  44. メトロポリタン美術館|ボスコレアーレ荘L室の祭礼装飾
  45. メトロポリタン美術館|ボスコレアーレ荘の出土と壁画
  46. 『American Journal of Archaeology』(2023年)|『秘儀荘』壁画の裸身の少年像と研究史
  47. ミシガン大学ケルシー考古学博物館(2000年)|『秘儀荘』壁画の多様な解釈
  48. メトロポリタン美術館|ティヴォリ出土と伝わる銀食器群
  49. メトロポリタン美術館|古代彫刻の彩色と材質