紀元前2350–1600
青銅器時代のメソポタミア
王の戦勝碑と法典碑
紀元前3千年紀後半のメソポタミアでは、チグリス川とユーフラテス川の水を利用した農耕が都市を支え、神殿や宮殿を中心に職人、商人、書記たちが活動していました。平野部では日干し煉瓦が建物の主要な材料となり、石彫に適した岩石や金属、木材は周辺地域との交易や征服によって運ばれました。都市を治める王たちは戦争を繰り返すと同時に、神殿の建設や水路の整備を行い、その事績を石碑や像、煉瓦の銘文に残しました。
アッカドのナルム・シンは、斜面を登る軍勢と敵の姿を大きな石碑に彫らせました。その後のラガシュには神殿の平面図を膝に置くグデア像が残り、ウル第三王朝では建設の儀礼を表す石碑や銅製の奉納像が作られています。紀元前18世紀のハンムラビ碑には、太陽神と向き合う王の浮彫の下に、法的判断を集めた長文が刻まれました。
これらの記念物は、王が戦いに勝ち、神を敬い、都市を建て、人々を裁くという異なる役割を表しています。大きな石碑だけでなく、印章や粘土製の小さな浮彫にも同じ時代の神々や人間の姿が刻まれました。作品に残る具体的な形と文字を見ていくと、都市社会の中で像がどのように作られ、使われたかを詳しくたどることができます。
CONTENTS
アッカド王朝|戦勝を刻んだ石の記念碑
都市国家をまとめた王と戦争の記録
チグリス川とユーフラテス川の下流域には、紀元前3千年紀前半までにウル、ウルク、ラガシュなどの都市国家が成立していました。紀元前2350年頃、アッカドのサルゴンはこれらの都市を征服し、広い領域を支配しました。王国の中心都市アガデの正確な所在地は、現在も確定していません。石材の乏しい南部の平野でも、王や神々に捧げる大きな石像・石碑が作られ、神殿や王権のために遠方から石が運ばれていました。
アッカドの王たちは征服や神殿への奉納を文字と図像で記念しました。サルゴンの孫ナルム・シンの時代には、兵士を率いる王の姿を大きく表す戦勝碑が作られました。そこには兵士、敗れた敵、地形、天体の徴が同じ面に彫られ、戦争の出来事と王の特別な地位を一つの構図で示しています。(参照:メトロポリタン美術館|アッカド時代/メトロポリタン美術館|紀元前3千年紀の都市と美術)
《ナルム・シンの戦勝碑》|斜面を登る軍勢
ルーヴル美術館所蔵の《ナルム・シンの戦勝碑》は、高さ200センチ、幅105センチ、厚さ27センチの、淡い桃色からベージュ色の石灰岩に浮彫を施した記念碑です。紀元前2250年頃の作品とされ、上部へすぼまる石の輪郭に沿って山の斜面が右上へ延びています。左側には槍や斧、軍旗を携えたアッカド兵が隊列を作り、右側には矢を受けたり倒れたりしたルルビ人の戦士が表されています。
中央のナルム・シンは兵士より大きく彫られ、弓と斧を持ち、角を備えた冠を着けて山を登っています。足元には倒れた敵がおり、上方には光を放つ円盤のような印が刻まれています。兵士と敵が一定の高さの帯に分かれる構成から離れ、斜めに連なる人物群と山の輪郭によって戦いの場所が表現されました。角冠は通常、神々の姿に用いられるため、ナルム・シンの神格化を表す図像として研究されてきました。(参照:ルーヴル美術館|ナルム・シンの戦勝碑(SB 4)/メトロポリタン美術館|アッカド時代)
シッパルからスサへ|碑文が語る移動の経緯
石碑の上部に残るアッカド語の銘文は、ナルム・シンの称号と、ザグロス山地のルルビ人に対する勝利に関わります。残存部分は限られ、碑文の失われた箇所を画面の描写だけから復元することはできません。現在石碑が見つかったのは、戦争の舞台から遠く離れた現在のイラン南西部、古代都市スサです。
山を彫った面には後の時代のエラム語の銘文もあります。エラム王シュトルク・ナフンテが紀元前12世紀にこの碑をシッパルから運び、戦利品としたことが記されています。フランスのジャック・ド・モルガンらの発掘隊は1898年4月6日、スサのアクロポリスでこれを発見しました。アッカド王の戦勝を讃えた碑は、約千年後には別の王による征服の記念物として扱われていました。(参照:ルーヴル美術館|ナルム・シンの戦勝碑(SB 4))
高さ数センチの円筒印章に彫られた格闘
アッカド時代の図像は大きな石碑のほか、粘土に転がして印影を残す円筒印章にも表れています。メトロポリタン美術館所蔵の白色長石の一種を加工した印章(1999.325.4)は、高さ3.4センチ、直径2.3センチ。紀元前2250〜2150年頃の作品で、長い髪を垂らした裸の英雄が水牛の頭をつかみ、別の場所では角を持つ半人半牛の人物がライオンに立ち向かっています。
円柱に刻まれた溝と線は、粘土の上で転がすと横長に連なる場面になります。人物の筋肉や動物の角の向きが小さな画面に刻まれ、持ち主イシュリ・イルムの名を示す二列の楔形文字も添えられました。水牛の角の表し方にはインダス地域の印章との共通点が指摘されています。交流の具体的な経路には検討の余地があり、図像だけで人や物の移動を特定することはできません。(参照:メトロポリタン美術館|アッカド時代の円筒印章(1999.325.4))
ラガシュのグデア|神殿を建てる王の彫像
膝に神殿の図面を置いたグデア座像
アッカド王朝の勢力が弱まった後、南部のラガシュではグデアが紀元前22世紀末頃に都市の統治者となりました。ルーヴル美術館にある座像《建築家グデア》(AO 2)は、高さ93センチ、幅41センチ、奥行62センチ。黒みを帯びた硬い閃緑岩から彫られ、頭部は失われています。肩の片側を出した衣を着て座り、胸の前で手を合わせ、膝の上に板を置いています。
板には建物の平面を示す線が彫られ、そのそばに筆記用の道具や目盛りを刻んだ定規が置かれています。碑文はシュメール語で記され、神ニンギルスへの奉納と神殿建設に関係します。神殿の姿を記した図面を王自身の像に組み込んだ点が特徴です。像は現在のイラク南部テルロー、古代ギルスの発掘で1877〜1881年に発見されました。像の制作年代についてルーヴル美術館は紀元前2120〜2110年頃としています。(参照:ルーヴル美術館|神殿平面図を持つグデア像(AO 2))
別のグデア座像|碑文が伝える奉納の目的
ニューヨークのメトロポリタン美術館にも、高さ44センチの閃緑岩製グデア座像(59.2)があります。こちらは頭部が残り、丸い帽子をかぶった人物が両手を組んでいます。身に着けた衣の表面には楔形文字が刻まれ、神殿を建てたグデアの長寿を願う内容が記されています。同館は紀元前2090年頃の作品として分類しています。
神殿への奉納像は、王がその場にいなくても祈る姿を残す役割を持ったと考えられています。発見地は古代ギルスに比定されるテルローの可能性が高いものの、この像の発掘位置は確定していません。多くのグデア像が後世の発掘と美術市場を経て各地に渡ったため、個別の像をどの建物に据えたかは資料ごとに調べる必要があります。(参照:メトロポリタン美術館|グデア座像(59.2)/メトロポリタン美術館|シュルギ像の来歴調査)
ウル第三王朝|建築を記念する石碑と奉納像
破片から知られる《ウル・ナンムの石碑》
紀元前2112年頃に始まるウル第三王朝は、南部メソポタミアの都市を再び広く統合しました。創始者ウル・ナンムは月神ナンナの神殿を整備し、巨大な煉瓦造りの基壇を持つジッグラトの建設に関わりました。ウルの神域では、石灰岩の大きな記念碑が割れた状態で発見されています。碑には両面に浮彫があり、場面を帯状に重ね、神々の前に立つ王や建設に関する儀礼が描かれていました。
この碑は1920年代、レナード・ウーリーらによるウルの発掘で数多くの破片として出土しました。レオン・ルグランは1944年の博物館報告で、高さ約3メートルに復元した碑を説明し、王が月神に供物を捧げる場面や建設用具を担ぐ姿を読み取りました。破片の配置や場面の復元は研究上の問題を残し、ジーニー・ヴォーリス・カンビーは2001年に石碑を詳しく再検討した研究書を刊行しています。現在伝えられる画面全体の形には復元による部分が含まれます。(参照:ペンシルベニア大学博物館|ウル・ナンムの石碑(ルグラン、1944年)/カンビー(2001)|『ウル・ナンムの石碑』書誌・研究報告)
土を入れた籠を頭上に掲げる銅製の人物像
メトロポリタン美術館所蔵の《ウル・ナンムの建築奉納像》(47.49)は、高さ27.3センチの銅合金製で、ひげを生やさず頭髪を剃った男性が、土を入れた籠を両手で頭上に支えています。人体と籠を一体に鋳造し、足元から下へ長い釘状の部分が続きます。像は鑑賞用に台上へ飾るだけの形ではなく、建物の基礎に据えられるように作られています。
釘状部分にある楔形文字の銘文は、ウル・ナンムがイナンナ神の神殿を建設・修復したことを示します。頭上の籠は、建設開始時に王が土や煉瓦の材料を運ぶ儀礼と関連づけられています。硬い石から彫り出すグデア像とは異なり、金属を鋳型に流して立体を作り、建物の見えない基礎の中へ納める奉納の方法が使われました。(参照:メトロポリタン美術館|ウル・ナンムの建築奉納像(47.49))
煉瓦に刻む王名と円筒印章に表す拝謁
ウル第三王朝の建築事業は、像のほかにも多数の煉瓦によって記録されました。ニップルで発掘されたメトロポリタン美術館所蔵の銘文入り煉瓦(59.41.86)は、約31センチ四方、厚さ7.4センチ。表面に押されたシュメール語の銘文は、ウル・ナンムを「ウルの王、シュメールとアッカドの王」と呼び、神エンリルの神殿を建てたことを記しています。煉瓦という反復される建材そのものに王の名が残されました。
同時代の円筒印章には別の形の王権表現があります。高さ2.8センチの赤鉄鉱製印章(1988.380.2)には、女神が礼拝者の手首を取って椅子に座る神格化された王の前へ導く場面が彫られています。碑文には王イッビ・シンと印章所有者イルム・バニの名があり、王の前に月と星の徴が置かれています。行政文書に印影を残す小さな道具にも、王と神との関係が描かれていました。(参照:メトロポリタン美術館|ウル・ナンムの銘文煉瓦(59.41.86)/メトロポリタン美術館|ウル第三王朝の円筒印章(1988.380.2))
イシン・ラルサとマリ|王権表現の広がり
棍棒を持つ人物の小さな型製レリーフ
ウル第三王朝が終わると、イシン、ラルサ、バビロンなどの都市を拠点とする王たちが勢力を争いました。紀元前2000〜1700年頃の南部メソポタミアでは、型に粘土を押し込んで同じ像を作る小型の浮彫板も広く使われています。メトロポリタン美術館所蔵の浮彫板(32.39.2)は、高さ12センチ、幅6.9センチ。短い腰衣と丸みを帯びた帽子を着けた男性が立ち、棍棒あるいは杖を持っています。
この人物の正体については神とする説もあり、美術館は戦士の装いをした王である可能性を高く見ています。類似する像は円筒印章にも表れ、礼拝者を神のもとへ導く女神と組み合わされることがあります。型製の浮彫板は神殿だけでなく住居内の小さな礼拝場所からも見つかり、巨大な王碑と同じ人物表現が日常に近い場所でも用いられていました。(参照:メトロポリタン美術館|棍棒を持つ人物の型製レリーフ(32.39.2)/メトロポリタン美術館|イシン・ラルサと古バビロニア時代)
太陽神シャマシュを表す赤鉄鉱の印章
紀元前18世紀頃の赤鉄鉱製円筒印章(1991.368.1)は、高さ2.39センチ、直径1.19センチの小さな石に、多数の人物と動物を刻んでいます。角冠を着けた神の前へ礼拝者が進み、その隣では半人半牛の人物とライオンのような人物が組み合わされています。伏せた雄羊、魚、亀と思われるもの、ハエ、フンババと呼ばれる怪物の正面顔なども画面の隙間に配置されました。
角冠を着けた神が右手に持つ鋸状の道具によって、太陽神シャマシュと同定されています。粘土に一回転させて押すと、小さな石柱の表面の像が連続する帯として現れます。印章は容器の封印や契約・取引を記した粘土板に押されるため、神々の図像と実際の行政行為が同じ道具に組み込まれていました。(参照:メトロポリタン美術館|太陽神を表す円筒印章(1991.368.1))
マリ宮殿の《叙任》壁画|神から権標を受ける王
ユーフラテス川中流、現在のシリア東部のマリでは、王宮の中庭106から色彩の残る壁画が1935〜1936年に発見されました。ルーヴル美術館所蔵の《叙任》壁画(AO 19826)は、高さ175センチ、幅250センチ。中央の上段では、ライオンに足を載せた女神イシュタルが輪と棒を、王と解釈される人物に差し出しています。周囲には水のあふれる壺を持つ女神、樹木、空想上の動物などが描かれています。
色彩と建築の区画によって場面が囲われ、王が神の前で権威を受ける瞬間を宮殿の壁に表したように見えます。フランス文化省の研究解説では、中央の場面を神殿内部の儀礼になぞらえ、壁画の周囲の空間と王宮の実際の動線との関係も検討しています。通称は《ジムリ・リムの叙任》ですが、ルーヴルの所蔵記録は作品年代を紀元前2000〜1800年と広く記しています。王の人物同定や画面に描かれた儀礼の細部には、解釈の問題が残されています。(参照:ルーヴル美術館|マリ宮殿の《叙任》壁画(AO 19826)/フランス文化省|マリ王宮の壁画研究)
ハンムラビの石碑|浮彫と楔形文字を一体にした記念物
高さ225センチの黒い碑に彫られた二人の人物
紀元前18世紀、バビロン王ハンムラビは南部のラルサを征服し、複数の都市を支配下に置きました。その名を伝える最も著名な記念物が、ルーヴル美術館の《ハンムラビ法典碑》(SB 8)です。高さ225センチ、幅79センチ、厚さ47センチの黒色石材を磨き、上端に人物浮彫を、その下から側面にかけて楔形文字の長文を彫っています。作品の制作はハンムラビ在位中の紀元前18世紀半ばに置かれます。
上部では右に座る太陽神シャマシュが、立つ王ハンムラビへ輪と棒を差し出しています。シャマシュは肩から上がる炎の形、足元の山を象徴する台座、段を持つ帽子で示されます。王は長い衣をまとって片方の肩を見せ、神の前で片手を挙げています。二人の姿の下には密集した楔形文字が始まり、神による王の権威づけと、人々に関わる法的判断が一つの碑面に結びつけられました。(参照:ルーヴル美術館|ハンムラビ法典碑(SB 8)/ルーヴル美術館|ハンムラビ法典碑の図像と碑文)
前文・判決文・結語|一般に282条と呼ばれる文章
碑文は王が正しい秩序をもたらしたと述べる前文、家族・財産・労働・取引などを扱う一連の条項、王の事績を讃える結語から成っています。一般に282条に分けて紹介される条項の多くは、「ある者がこうした場合、こうなる」という条件付きの文章です。傷害に対する報復、建築工事の責任、賃金や奴隷に関する事柄まで記され、社会的な身分によって規定の内容や処罰も変わります。
「法典」という呼び名から現代の法律集を想像しやすい作品です。法史研究者マーサ・ロスは1995年、これを当時の司法制度をそのまま写した文章として読むことに問題を示し、前文や結語とともに王の政治的・記念碑的な主張を検討しました。実際の裁判が碑文の各条項をどの程度参照したかは、契約書や裁判記録など他の楔形文字資料との照合が必要です。碑には法的判断だけでなく、王が公正な統治者であると宣言する目的もありました。(参照:マーサ・ロス(1995)|メソポタミアの法伝統とハンムラビの法文集/ルーヴル美術館|ハンムラビ法典碑の図像と碑文)
石碑は玄武岩か閃緑岩か|2026年の再検討
ハンムラビ碑の黒い石材は、ルーヴル美術館の収蔵記録で「玄武岩」とされています。発見後間もない1902年の初期報告は「閃緑岩」と記しており、美術史の書籍でも二つの岩石名が混在してきました。どちらも暗色の硬い石ですが、鉱物の組成やマグマの冷え方が異なります。表面の見た目だけで石種を確定することには困難があります。
劉昌玉と徐聖は2026年3月の『npj Heritage Science』掲載論考で、この同定の研究史を整理し、携帯型蛍光X線分析やラマン分光法など、作品に傷を付けにくい分析を提案しました。論考の段階では石碑そのものの化学・鉱物組成を新たに測定した結果は示されておらず、材質の最終同定は今後の分析課題です。作品を説明する際には、現行の博物館登録と学術的な未解決点の双方を記しておくのが正確です。(参照:劉昌玉・徐聖(2026)|ハンムラビ碑の石材をめぐる研究/ルーヴル美術館|ハンムラビ法典碑(SB 8))
スサでの発見と後世の戦利品としての移動
この法文集の碑も、ナルム・シンの戦勝碑と同じく、メソポタミアから運ばれた後にスサで出土しました。ルーヴル美術館によれば、紀元前12世紀のエラム王シュトルク・ナフンテが戦利品として運んだものです。ジャック・ド・モルガンらのフランス調査隊が1901〜1902年に発見し、現在はルーヴル美術館に収蔵されています。
碑の一部には欠損や文字の失われた箇所があります。同じ法文集の内容は別の粘土板にも写され、後の時代の書記が書写・学習したことが知られています。石碑に施された浮彫は、王と神を対面させる構図を大きく残し、文字は長い文章を刻み込む場所を石の広い面に確保しています。何を法として守らせたかに加え、王が何を記念碑として後世に伝えようとしたかも、この作品の成立に関わっています。(参照:ルーヴル美術館|ハンムラビ法典碑(SB 8)/ルーヴル美術館|ハンムラビ法典碑の図像と碑文/マーサ・ロス(1995)|メソポタミアの法伝統とハンムラビの法文集)
略年表
- 紀元前2350年頃|サルゴンによるアッカド王朝が成立し、南部メソポタミアの諸都市を支配する
- 紀元前2250年頃|ナルム・シンの戦勝碑に山地の戦闘と王の姿が彫られる
- 紀元前22世紀末〜21世紀初頭|ラガシュのグデアの奉納彫像と神殿建設を記す銘文が作られる
- 紀元前2112年頃|ウル・ナンムがウル第三王朝を創始し、神殿やジッグラトの建設が進められる
- 紀元前21世紀|ウル・ナンムの石碑や建築奉納像が制作される
- 紀元前2004年頃|ウル第三王朝が終わり、イシンやラルサなどの都市王朝が勢力を広げる
- 紀元前2000〜1700年頃|南部メソポタミアで王や神々を表す型製の粘土浮彫板が作られる
- 紀元前2000〜1800年頃|マリ宮殿の《叙任》壁画の制作をルーヴル美術館がこの時期に位置づける
- 紀元前1792年頃|ハンムラビがバビロン王となる
- 紀元前1750年頃|ハンムラビの法文集と王・シャマシュの浮彫を持つ石碑が作られる
まとめ
アッカド王朝の《ナルム・シンの戦勝碑》には、山の斜面に沿って進む兵士と倒れた敵が表され、ひときわ大きい王には神々に関わる角冠が与えられました。グデアの座像は硬い石から人物を彫り出し、衣の銘文や膝上の神殿図面によって、建築と奉納に結びついた統治者を表しています。ウル第三王朝の奉納像や銘文煉瓦からは、石彫に加えて鋳造と建材への刻印という方法でも王名と建設事業が記録されていたことが分かります。
ハンムラビ碑は神から権威を与えられる王の像と長大な法文集を、一つの黒い石碑に刻みました。法文集が当時の司法実務で果たした役割には研究上の議論があり、2026年の研究でも石碑の正確な岩石名が未解決の問題として取り上げられています。個々の石碑には後世の移動や破損もあり、現在の姿をもとに元の設置場所や全体の構成を復元する作業が続いています。
参考資料・出典
- メトロポリタン美術館|アッカド時代
- メトロポリタン美術館|紀元前3千年紀の都市と美術
- ルーヴル美術館|ナルム・シンの戦勝碑(SB 4)
- メトロポリタン美術館|アッカド時代の円筒印章(1999.325.4)
- ルーヴル美術館|神殿平面図を持つグデア像(AO 2)
- メトロポリタン美術館|グデア座像(59.2)
- メトロポリタン美術館|シュルギ像の来歴調査
- ペンシルベニア大学博物館|ウル・ナンムの石碑(ルグラン、1944年)
- カンビー(2001)|『ウル・ナンムの石碑』書誌・研究報告
- メトロポリタン美術館|ウル・ナンムの建築奉納像(47.49)
- メトロポリタン美術館|ウル・ナンムの銘文煉瓦(59.41.86)
- メトロポリタン美術館|ウル第三王朝の円筒印章(1988.380.2)
- メトロポリタン美術館|イシン・ラルサと古バビロニア時代
- メトロポリタン美術館|棍棒を持つ人物の型製レリーフ(32.39.2)
- メトロポリタン美術館|太陽神を表す円筒印章(1991.368.1)
- ルーヴル美術館|マリ宮殿の《叙任》壁画(AO 19826)
- フランス文化省|マリ王宮の壁画研究
- ルーヴル美術館|ハンムラビ法典碑(SB 8)
- ルーヴル美術館|ハンムラビ法典碑の図像と碑文
- マーサ・ロス(1995)|メソポタミアの法伝統とハンムラビの法文集
- 劉昌玉・徐聖(2026)|ハンムラビ碑の石材をめぐる研究