1988–1997
イギリスから現代美術の新しい波が広がる
ヤング・ブリティッシュ・アーティスト(YBA)の台頭
1988年、ロンドンの港湾地区にある使われなくなった建物で、一つの展覧会が開かれました。題名は《Freeze》。企画したのはゴールドスミスで学んでいたダミアン・ハーストで、会場には同じ時代を生きる学生や若手作家の作品が並びました。この小さな自主企画展は、1990年代の英国美術を代表する出来事として語り継がれることになります。
その後、ハーストの保存液に浸されたサメ、レイチェル・ホワイトリードが家の内部空間を固めた彫刻、サラ・ルーカスが日用品で表した身体、トレイシー・エミンが自分の記憶を縫い込んだテントなどが広く知られるようになりました。制作方法も作品の外観も驚くほど違いますが、これらの作家はヤング・ブリティッシュ・アーティスト、略してYBAと呼ばれました。
YBAの成立を理解するには、作品を生んだ教育環境と、作品が発表される場所の両方を見る必要があります。ゴールドスミスでは絵画や彫刻の枠にとらわれない制作と学生同士の批評が重視され、若い作家たちは廃工場や倉庫を借りて展覧会を企画しました。展示方法や会場づくりへの関心が、自分たちの作品を社会へ届ける実践と結びついていきます。
ロンドンでは、使われなくなった建物の再利用や都市再開発が進んでいました。1990年前後には自主企画展が相次ぎ、作家は作品の作者であると同時に展覧会の企画者にもなります。美術館や画廊の招待を待つだけでなく、自ら活動の場を作り、美術関係者や観客へ働きかける姿勢が目立つようになりました。
1992年になると、コレクターのチャールズ・サーチが《Young British Artists》と題した展覧会を開始し、異なる表現を行う作家たちが一つの世代として紹介されます。ターナー賞、商業ギャラリー、新聞やテレビも、この新しい英国美術の姿を広める役割を果たしました。作品の価値をめぐる議論は専門家の間から一般社会へと広がります。
1997年、王立美術院ではサーチ・コレクションによる《Sensation》が開催されました。42人の作家を取り上げた展覧会は多くの観客を集め、強い反発や論争も引き起こします。1988年の《Freeze》から約9年、英国の若い作家たちをめぐる状況は大きく変化していました。
本記事では、1988年の《Freeze》から1997年の《Sensation》へ至る歴史をたどります。作品に向き合いながら、ゴールドスミスの教育、倉庫展、サーチの収集、ターナー賞、大衆メディアといった条件がどう結びついたのかを見ていきます。あわせて、YBAの名のもとに見えにくくなった英国美術の多様性にも目を向けます。
CONTENTS
- 新しい英国美術を表すYBAという名前
- ゴールドスミスと制作方法の自由
- 1988年《Freeze》という出発点
- 倉庫展から広がった自主企画の文化
- チャールズ・サーチと「YBA」の定着
- ダミアン・ハーストと生命・死の展示
- レイチェル・ホワイトリードと失われる空間
- サラ・ルーカスと身体をめぐるユーモア
- 絵画を選び続けたYBAの作家たち
- 消費、暴力、身体を扱う異なる実践
- ジリアン・ウェアリングと他者の言葉
- トレイシー・エミンと個人の記憶
- YBAという枠組みの広がりと限界
- 作品の衝撃と新聞・テレビの関係
- ターナー賞、美術市場、支援者
- 1997年《Sensation》という転換点
- 《Sensation》で露わになった問題
- 1988年から1997年に変わったこと
- 略年表
- まとめ
- 参考資料・出典
新しい英国美術を表すYBAという名前
1980年代末から1990年代のイギリスで注目された若い作家たちは、後に「ヤング・ブリティッシュ・アーティスト」と総称されるようになりました。この名称を理解する鍵は、共通した描き方よりも、作家たちが共有した発表環境と社会的な出来事にあります。英国にはすでに多様な美術の蓄積があり、その上に新たな世代が登場しました。
ヤング・ブリティッシュ・アーティストとは何を指すのか
ヤング・ブリティッシュ・アーティストは、1980年代末から1990年代にイギリスで台頭した若い作家たちをまとめて呼ぶ名称です。テートやスコットランド国立美術館は、この言葉を、1988年《Freeze》を一つの起点として登場した緩やかな世代的まとまりに対して用いています。作品の特徴としては、既製品や日用品、工業素材、写真、映像、動物、身体、文字などを幅広く用いること、素材や制作方法に対して自由であること、自分たちで展覧会を組織する積極性などが挙げられてきました。
作家全体に共通する「YBA様式」を定義することは難しいでしょう。ハーストのホルマリン漬けの動物、ホワイトリードの鋳造彫刻、ルーカスの日用品による身体表現、ヒュームの光沢塗料による絵画、ウェアリングの写真、エミンの刺繍やインスタレーションは外観上ほとんど共通していません。したがってYBAは、作品の見た目を分類する語というより、世代、教育、展示、流通、メディア、コレクションが複雑に重なって成立した歴史的な呼称として理解する必要があります。
《Freeze》に集まった学生と、1997年《Sensation》で展示された作家を比べると、YBAという名称が時間とともに広がったことが分かります。名称の成立自体が、展覧会や批評が美術史を形づくる過程の一例になっています。(参照:スコットランド国立美術館|Young British Artists)
YBAという名称が示す作家たち
YBAは、シュルレアリスムのように宣言文を掲げた運動でも、グループ・マテリアルのように特定のメンバーが共同活動を続けた集団でもありません。初期の《Freeze》には一定の参加者がいましたが、その後「YBA」と呼ばれる範囲は広がり、ゴールドスミス出身者だけでなく、レイチェル・ホワイトリード、トレイシー・エミン、ジェイク&ディノス・チャップマン、マーク・クイン、クリス・オフィリ、ジェニー・サヴィルなど異なる教育背景を持つ作家も同じ枠組みで紹介されるようになります。
つまり、YBAの歴史では「誰が最初のメンバーだったか」と「1990年代半ばに誰がYBAと呼ばれたか」を分けて考える必要があります。後者は展覧会、批評、コレクター、新聞などによって次第に拡張された文化的なカテゴリーでした。
作品の材質や表現を統一する宣言はなく、互いの関係も時期によって変化しました。同じ名前で紹介されることが個々の表現の共通性を意味するとは限りません。記事では初期の活動と後年の分類を区別して扱います。(参照:スコットランド国立美術館|Young British Artists)
YBA以前から続く英国美術の動向
YBAが登場したことで、しばしば「停滞していたイギリス美術が突然復活した」という物語が語られます。1980年代にはトニー・クラッグ、リチャード・ディーコン、アニッシュ・カプーア、ジュリアン・オピー、ギルバート&ジョージ、ヘレン・チャドウィック、ルバイナ・ヒミッドらがすでに国内外で活動しており、ニュー・ブリティッシュ・スカルプチャーやブラック・ブリティッシュ・アート運動など複数の動向が存在していました。
YBAの重要性は、それ以前の英国美術を無効にしたことではありません。むしろ、若い作家が作品制作だけでなく展示、宣伝、販売、報道まで含めて自分たちの活動を設計し、それが国際的な市場と大衆メディアにまで接続した規模と速度にあります。
1980年代には、アニッシュ・カプーアやトニー・クラッグに代表される彫刻の展開、ルバイナ・ヒミッドやソニア・ボイスらによる活動も重要でした。その蓄積を踏まえて、YBAに固有の展示文化や社会的広がりを考える必要があります。(参照:テート|Young British Artists (YBAs))
ゴールドスミスと制作方法の自由
最初期のYBAを語るとき、ロンドンのゴールドスミスで行われた教育の変化が重要になります。学生は絵画や彫刻という専門の枠にとらわれず、考えている問題に合う方法を選び、隣の学生と互いの制作を批評しました。その経験が、後の作品の多様さと自主企画への自信を支えます。
ゴールドスミスという環境
初期YBAを考えるうえでゴールドスミスは重要です。ダミアン・ハースト、サラ・ルーカス、ゲイリー・ヒューム、マイケル・ランディ、フィオナ・レイ、アンガス・フェアハースト、マット・コリショー、イアン・ダヴェンポートら多くの作家がこの時期にゴールドスミスで学びました。大学自身も、1990年代にYBAと呼ばれる多くの作家がここから登場したことを、同校の美術教育史の重要な出来事として位置づけています。
「ゴールドスミスに通えばYBAになった」という単純な因果関係ではありません。重要なのは、同校の教育が絵画、彫刻、写真といった専攻を厳格に分離せず、異なる制作方法の学生が互いの作品を批評する仕組みを持っていた点です。
ゴールドスミス出身の作家たちが同じ形式の作品を作ったわけではありません。教室や講評の場で異なる媒体が接することで、制作手段を選ぶ理由そのものが問われました。授業で培われた判断と、卒業後に企画した展覧会はつながっています。(参照:ゴールドスミス|マイケル・クレイグ=マーティンへの聞き取り)
ジョン・トンプソンと専攻横断型の教育
ゴールドスミスで美術学科を率いたジョン・トンプソンは、媒体別の専門化を緩め、学生が複数の手段を行き来できる教育環境を整えました。大学の記録では、異なる学年の学生を同じスタジオ環境に置くことも、従来とは異なる教育体験を生み出したと説明されています。
この仕組みでは、学生は「自分は画家だから絵画だけを考える」という位置に留まりにくくなります。写真や映像、彫刻、インスタレーションに接しながら、なぜ自分が特定の媒体を選ぶのかを説明しなければなりません。後のYBAに共通して見られる、題材に応じて手段を変える柔軟さは、この環境と無関係ではありません。
トンプソンによる教育改革は1970年代後半から進められました。ゴールドスミスの公式記録は、媒体間を自由に行き来できる仕組みと、異なる学年が同じ制作空間を共有する仕組みを特徴として挙げています。後年の成功から逆算せず、教育史の中に位置づけたい点です。(参照:ゴールドスミス|ジョン・トンプソンと美術教育)
マイケル・クレイグ=マーティンと相互批評
マイケル・クレイグ=マーティンもゴールドスミスの重要な教師でした。彼は後年、学生同士を意図的に混ぜ、互いの作品を詳しく見せることで、競争と対話が生まれたと振り返っています。サラ・ルーカスが強い作品を作ればゲイリー・ヒュームが刺激を受ける、といった相互作用が、個々の作家の判断力を鍛えたという説明です。
ここで重要なのは、教師が特定の様式を教え込んだのではなく、学生が自分の作品について言葉で説明し、他者の作品に判断を返す文化が形成されたことです。作品制作と批評、展示の判断が分離していませんでした。
フィオナ・レイはゴールドスミスについて、媒体を最初から一つに決めるのではなく、さまざまな方法を試すことが重要だったと振り返っています。絵画を作る学生の隣に映像を作る学生がいることで、媒体の選択自体が意識化される環境でした。
この点は、後にYBAが一つの視覚様式を持たなかった理由の一つでもあります。絵画を続けたヒュームやレイと、動物を用いたハースト、日用品を組み替えたルーカス、参加型写真を作ったウェアリングが同じ世代として語られるのは、媒体ではなく制作態度と発表環境の側に共通点があったからです。
クレイグ=マーティンは、サラ・ルーカスやゲイリー・ヒュームらが互いの作品に刺激を受けたと振り返っています。その証言が示すのは、教師がひとつの表現を教えるよりも、学生が言葉を交わしながら判断力を鍛える環境の重要性です。(参照:ゴールドスミス|マイケル・クレイグ=マーティンへの聞き取り)
1988年《Freeze》という出発点
1988年の《Freeze》は、のちのYBA史で繰り返し語られる展覧会です。学生だったダミアン・ハーストが中心となってロンドンの港湾地区の建物を会場にし、自分たちの展覧会を美術界へ提示しました。開催場所、参加者、見せ方を詳しく見ると、この出来事の重要性がより具体的になります。
1988年《Freeze》
1988年、《Freeze》はダミアン・ハーストの企画によってロンドンドックランズの使われていないPort of ロンドン Authority関連施設で開催されました。ハーストは当時ゴールドスミスの学生で、同級生や在学生、卒業生の作品を集めて展覧会を組織しました。この展覧会は後からYBAの「始まり」として神話化されていきます。
重要なのは、展示された作品がすべて後世の代表作だったからではありません。《Freeze》が象徴的なのは、学生が既存制度からの招待を待たず、自ら展覧会を作り、それを美術界へ向けて提示したことです。作品だけでなく、展示を成立させる行為そのものが世代の特徴として記憶されました。
《Freeze》の歴史を理解するうえでは、美術関係者が来場したことと同じくらい、学生たちが展覧会を成立させる仕事を担ったことが重要です。会場選び、作品の配置、印刷物の制作が、新たな発表の方法を実地で学ぶ機会になりました。(参照:ゴールドスミス大学図書館|Surrey Docks Studiosと《Freeze》)
16人の学生と若手作家
《Freeze》には16人が参加したとされ、Steven Adamson、Angela Bulloch、マット・コリショー、イアン・ダヴェンポート、アンガス・フェアハースト、アーニャ・ガラッチオ、ダミアン・ハースト、ゲイリー・ヒューム、マイケル・ランディ、アビゲイル・レーン、サラ・ルーカス、Lala Meredith-Vula、Richard Patterson、Simon Patterson、Stephen Park、フィオナ・レイらが含まれていました。
後に全員が同じ程度に「YBAの代表作家」として扱われたわけではありません。この事実だけでも、《Freeze》参加者と後世のYBAというカテゴリーが完全には一致しないことが分かります。歴史的な出来事としての《Freeze》と、1990年代に形成された「YBA世代像」は分けて考える必要があります。
参加者名簿には、後に広く知られる作家と、YBAという枠組みではあまり語られなくなった作家の両方が並びます。展覧会に参加したという歴史的事実と、後年の美術市場で目立ったかどうかを混同しないことが重要です。(参照:ゴールドスミス|フィオナ・レイと《Freeze》)
ドックランズの空き建物
《Freeze》の会場が通常の美術館や商業ギャラリーではなかったことは重要です。1980年代末のロンドンのドックランズでは大規模な再開発が進み、旧港湾施設や産業施設が転用できる状態で残っていました。ゴールドスミスも以前からSurrey Docks周辺の使われていない施設を学生用空間として利用していました。
こうした場所は単なる「貧しい若手が仕方なく使った代替会場」ではありません。広い工業空間は、大きな作品やインスタレーションを従来の小さな画廊とは違うスケールで見せることを可能にしました。ロンドンの都市変化と若い作家の展示文化が重なったのです。
《Freeze》では、会場を整え、カタログを作り、展示を美術館や商業ギャラリーに近い水準で見せることが意識されました。若い作家の自主企画でありながら、「学園祭的な学生展」に見せないことが重要でした。
この姿勢は、作品制作と発表方法を別々に考えない態度につながります。展示照明、壁面、作品間の距離、印刷物、招待客といった要素も作品が評価される条件の一部になります。YBAはこの点で、作家が制作だけに専念し、展示は別の専門家に任せるという従来型の役割分担をずらしました。
《Freeze》にはチャールズ・サーチをはじめ、美術館関係者やコレクター、ギャラリストが訪れたことが記録されています。ここで展覧会は、完成作品を見せる場所であると同時に、若い作家と既存の美術制度を接続する場として機能しました。
「作品が優れていれば誰かが自然に発見してくれる」という発想ではなく、誰に見てもらうかまでを企画の一部とする姿勢がありました。これは後にYBAが「企業家的」「自己宣伝に積極的」と評される理由の一つです。
ゴールドスミス大学図書館の記録には、サリー・ドックスの制作施設と《Freeze》の関係が残されています。取り壊しや再開発と結びついた建物の利用は、都市の空白を文化的な発表空間へ転用するロンドンの状況を具体的に伝えます。(参照:ゴールドスミス大学図書館|Surrey Docks Studiosと《Freeze》)
倉庫展から広がった自主企画の文化
《Freeze》以後、空いている工場や倉庫を一時的な美術空間へ転用する試みがロンドンで相次ぎました。作家は作品を作るだけでなく、どこで見せるか、誰を招くか、何を並べるかまで考えました。当時の都市再開発や景気の変動も、こうした活動の条件となっていました。
1990年前後の倉庫展
《Freeze》の後、ロンドンでは使われていない倉庫や工場、商業施設を利用した自主企画展が続きました。1990年前後は、作家自身が大きな空間を確保して一時的な展覧会を組織する文化が目立つようになります。
この動きは一つのグループだけによって統制されていたわけではありません。複数の若い作家や企画者が、それぞれ別の空間で展示を行いました。後から見ると一つの「YBA現象」に見えますが、実際には多くの独立した企画が併走していました。
倉庫展では、美術館の展示室より大きな空間を使えることもあり、作品の設置方法に新しい可能性が生まれました。若い作家は、展示を見る人の移動や作品相互の関係まで考えながら、自分たちで会場を整えていきました。(参照:ゴールドスミス大学図書館|Surrey Docks Studiosと《Freeze》)
《Modern Medicine》と《Gambler》
1990年、ハースト、Carl Freedman、Billee Sellmanらは、Bermondseyの旧ビスケット工場を利用したBuilding Oneで《Modern Medicine》や《Gambler》を企画しました。美術館でも大学でもない産業空間を展覧会場へ変える方法が、《Freeze》以後さらに拡大します。
これらの展覧会では、広大な空間自体が作品のスケールや配置に影響しました。若い作家が自分たちで会場を得ることは、既存ギャラリーから排除された結果であると同時に、既存ギャラリーでは実現しにくい展示形式を獲得することでもありました。
同じ1990年には、Henry Bondとサラ・ルーカスが企画した《East Country Yard Show》、マイケル・ランディが企画した《Market》なども開催されました。これらは、特定の一人の作家の個展を中心にするのではなく、若い作家が互いの作品を選び、配置し、観客を呼び込む場を自分たちで作る流れを示しています。
後に商業ギャラリーへ所属した作家も多いこの初期段階では「展示する場所そのものを作る」ことが制作活動の一部でした。作品と展覧会の境界が近づいていきます。
《Modern Medicine》《Gambler》《East Country Yard Show》などは、誰か一人が指揮した連続企画というより、複数の作家による自主活動の広がりを示しています。個々の会場の条件や参加者の違いも、この時代の活力を物語ります。(参照:ゴールドスミス大学図書館|Surrey Docks Studiosと《Freeze》)
作家が企画者になる
YBA世代では、作家兼企画者という役割が目立つようになります。これは作家が美術館の専門職としてのキュレーターを単純に代替したという意味ではありません。自分の作品を見せる環境を自分で設計し、同世代の作品を並べ、ある場面を可視化する役割を担ったということです。
この方法は、後の作家-run 空間や短期的なプロジェクト型展示にもつながっていきます。展覧会は完成作品を収容する容器ではなく、誰と誰を並べ、どの観客へ届けるかを決める能動的な形式になります。
1990年代初頭のイギリスは景気後退を経験し、ロンドンには使われなくなった商業施設や工業施設が存在していました。ゴールドスミスに関する研究でも、不況が倉庫文化と若い作家の展示活動の条件の一つになったことが指摘されています。
、空き物件があれば自動的に新しい美術が生まれるわけではありません。安価あるいは一時利用可能な空間と、それを展覧会として組織する作家側の能力が結びついたことが重要です。都市経済の変化が、新しい展示形式の物理的な条件を作りました。
展覧会を組織する経験は、作品制作とは別の専門性を作家にもたらしました。会場の借用、広報、美術関係者との交渉といった仕事を自分たちで引き受けたことが、その後の活動に影響しています。(参照:ゴールドスミス|ジョン・トンプソンと美術教育)
チャールズ・サーチと「YBA」の定着
若い作家が自ら展覧会を開く活動と並行して、収集家や画廊が世代の見え方を形づくりました。広告業界で成功したチャールズ・サーチの収集と展覧会は、とりわけ大きな影響を与えます。異なる作品が「若い英国作家」の名のもとに並ぶことで、ひとつの文化的なまとまりとして認識されるようになりました。
チャールズ・サーチの影響
チャールズ・サーチは1985年にロンドンでサーチ・ギャラリーを開き、当初はDonald Judd、Brice Marden、Cy Twombly、Andy Warholなどアメリカ美術を含む作品を大規模に展示していました。1987年にはJeff Koonsらを紹介する《New York Art Now》も開催しており、若い英国作家にとって、同時代のアメリカ美術を大きな空間で見る場所でもありました。
そのサーチが1990年代に英国の若い作家を大量に収集し、展示するようになったことは大きな転換でした。彼は作品を購入するだけでなく、自身のギャラリーでまとまった形で公開し、個々の作家を一つの「世代」として見せる役割を果たしました。
サーチ・ギャラリーは1985年に開館し、当初はアメリカの現代美術も積極的に紹介していました。1990年代に英国の若手作家の作品を継続して集めるようになったことで、ロンドンにおける新しい世代の可視性が高まりました。(参照:サーチ・ギャラリー|展覧会年表)
1992年からの《Young British Artists》展
サーチ・ギャラリーは1992年から《Young British Artists》と題する展覧会シリーズを開催しました。同ギャラリーの公式年表は、このシリーズが「YBA」という名称をこの世代へ定着させる大きな契機になったと説明しています。ダミアン・ハースト、レイチェル・ホワイトリード、Gavin Turk、ジェニー・サヴィルなどがより広い観客へ紹介されました。
ここで《Freeze》の学生仲間という範囲を超えたことが重要です。「ヤング・ブリティッシュ・アーティスト」という名称は、特定の学校の同窓生から、イギリスで活動する新世代の作家を包む市場的・批評的な枠組みへ変化していきました。
1992年の《Young British Artists》展は、YBAという呼称が広まるうえで重要な出来事です。国籍や世代で作家を紹介する枠組みが作られたことは、市場での紹介方法と、美術史上の分類が交わる場面でもありました。(参照:スコットランド国立美術館|Young British Artists)
YBAという名称が作ったまとまり
名称は単にすでに存在する集団へ付けられるだけではありません。「YBA」と呼ばれることで、外観の異なる作品が同じ世代の動向として理解され、展覧会や記事でまとめて紹介されやすくなりました。
同時に、その名称は選別も行います。誰をYBAに含め、誰を含めないのかによって「1990年代英国美術」の見え方が変わります。YBAは便利な歴史用語であるそれ自体が美術市場とメディアによって作られた枠組みでもあります。
この枠組みでは、ハーストの水槽作品とホワイトリードの静かな鋳造彫刻が同じ世代として並びます。共通する外観を探すより、どのような展覧会と人間関係が両者を結びつけたのかを見る方が歴史の実態に近づきます。(参照:スコットランド国立美術館|Young British Artists)
ダミアン・ハーストと生命・死の展示
ダミアン・ハーストの作品は、YBAが一般社会に知られる大きな契機になりました。サメや牛を保存液に浸して展示する方法は鮮烈な印象を与えます。その強さを支えているのは、死んだ生物の存在と、透明なケースや科学的な陳列方法との関係です。作品の構造から具体的に考えます。
ダミアン・ハースト — 生、死、展示装置
ダミアン・ハーストはYBAを代表する作家として最も広く知られていますが、彼の重要性は「動物を使って観客を驚かせた」ことだけではありません。医薬品棚、ガラスケース、標本、病院や研究施設を思わせる構造を使いながら、生と死、治療と信仰、身体と物体の境界を扱いました。
作品はしばしば極めて明快な外観を持ちます。何が置かれているのかは一目で分かるそれを「理解した」と感じるほど意味は単純ではありません。死んだ動物を見ていることと、死そのものを理解できることの間に距離があります。
《The Physical Impossibility of Death in the Mind of Someone Living》(1991)は、サメをガラスと鋼鉄の水槽の中へホルムアルデヒド溶液で保存した作品です。チャールズ・サーチの支援によって制作され、1990年代初頭のハーストを象徴する作品になりました。
題名は「生きている人間の心には死を完全には想像できない」という逆説を示します。目の前には確実に死んだ生物が存在しています。その巨大な身体が泳いでいるような姿勢で保存されることで、死体でありながら完全な静物にも見えません。
サメを展示した《The Physical Impossibility of Death in the Mind of Someone Living》は1991年の作品です。題名の長さも含め、目に見えている死んだ身体と、他者の死を自分の思考の中で捉えることの難しさを重ねています。(参照:メキシコシティ・フメックス美術館|Damien Hirstの初期作品)
ガラスケースと科学展示の形式
ハーストの水槽は、動物そのものだけでなく、それを囲むガラスと金属の構造が重要です。自然史博物館、研究施設、病理標本、Minimal Artの立方体など、複数の視覚形式が重なります。
観客は作品へ触れられず、透明な壁越しに観察します。見る行為は科学的な観察に似ていますが、作品は科学的知識を与えるわけではありません。透明で整然とした展示装置が、むしろ死の不可解さを強調します。
透明な展示ケースは、鑑賞者と標本の距離を一定に保ちます。美術館で作品を見る姿勢と、自然史博物館で生物を観察する姿勢が似ていることにも気づかされます。展示形式そのものが作品の意味を左右しています。(参照:アストルップ・ファーンリ美術館|Hirst《Mother and Child (Divided)》)
1993年《Mother and Child (Divided)》
《Mother and Child (Divided)》(1993)では、牛と子牛の身体が縦方向に切断され、それぞれガラスケースの中に保存されました。作品は1993年ヴェネツィア・ビエンナーレにも出品され、1995年にハーストがターナー賞を受賞した際にも重要な作品として扱われました。
身体を「中まで見える」状態にしても、生命の意味が分かるわけではありません。解剖学的な可視性と存在の理解は一致しない。そのずれが作品の中心にあります。
ハーストの作品では、死が象徴や絵画的表現を通して間接的に示されるのではなく、実際の動物の身体として提示されます。これは死を「現実そのもの」として見せればよいという単純な写実主義ではありません。
死体は厳密な展示装置へ収められ、美術館の照明の中に置かれ、作品名を与えられます。生物学的事実が文化的な展示物へ変換される過程まで含めて作品になっています。
《Mother and Child (Divided)》では、親と子という関係が身体の切断と分離によって示されます。展示では個々の動物の存在感に加えて、ガラスを通して内側まで見ることができる状態が、生命について考える契機となります。(参照:アストルップ・ファーンリ美術館|Hirst《Mother and Child (Divided)》)
レイチェル・ホワイトリードと失われる空間
レイチェル・ホワイトリードは、家具や部屋の内側に広がる空間を型取りし、見えなかった場所へ物質的な形を与えました。ロンドンの住宅を鋳造した《House》は、美術館の外に置かれたことで地域社会を巻き込む大きな論争になります。ここでは制作技法と都市の歴史が直接結びつきます。
レイチェル・ホワイトリード — 空間の内側を固体にする
レイチェル・ホワイトリードはハーストと同じゴールドスミス出身ではありませんが、1990年代前半からYBAを代表する作家として扱われました。彼女の主要な方法は、椅子、部屋、家などの「空洞」を鋳造し、通常は目に見えない内部空間を固体へ変えることです。
そのため作品は日用品や建築をそのまま再現しているようでありながら、実際には物体そのものではなく、物体に囲まれていた空間の形です。存在していたものと消えたもの、記憶と物質の関係が反転します。
《Ghost》(1990)は、北ロンドンのヴィクトリア朝の houseの居間内部を石膏で鋳造した作品です。National Gallery of Artは、約9フィートの高さを持つこの作品について、暖炉や巾木など部屋の内側にあった形が外へ向かって反転して現れる構造を説明しています。
通常、人は部屋の「中」に入ります。《Ghost》ではその内部空間が固体になっているため、観客は中へ入れません。かつて人が生活していた空間が、巨大な彫刻として閉じられます。
《Ghost》で鑑賞者が見るのは、かつて人が生活していた部屋の空間の形です。暖炉や巾木の痕跡が残っているため、空洞が固体になっても、そこにあった日常生活の気配を感じ取れます。(参照:ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|Whiteread《Ghost》)
1993年《House》
《House》(1993)は、East ロンドンのGrove Roadに最後まで残っていたヴィクトリア朝の terrace houseの内部をコンクリートで鋳造した大規模作品です。アートエンジェルとの協働によって制作され、1993年10月に完成し、1994年1月に解体されました。
住宅の壁そのものを残したのではなく、室内にコンクリートを吹き付けた後、外側の建物を取り除くことで、家の「内部の空気」にあたる部分だけを巨大な固体として残しました。日常的な住宅が、記憶、都市再開発、喪失を背負う記念碑のような存在へ変わります。
《House》では空間の型取りが住宅一棟に拡大されました。制作は建物の内側にコンクリートを吹き付け、外壁を取り除く工程を伴います。展示場所はロンドン東部の住宅地そのもので、作品の成立と街の歴史が密接に結びついていました。(参照:アートエンジェル|Whiteread《House》)
私的空間が公共の論争になる
《House》は作品として評価されるだけでなく、地域住民、新聞、自治体、国会議員を巻き込む論争になりました。アートエンジェルの記録によれば、多くの観客が現地を訪れ、保存を求める声と撤去を求める声が激しく衝突しました。
ここで重要なのは、彫刻が美術館の内部に保護されていなかったことです。住宅政策や地域の再開発と直接接触する場所に作品が置かれたため、「良い彫刻か」という評価と「この場所に残すべきか」という公共的判断が重なりました。
ホワイトリードは《House》を制作した1993年にターナー賞を受賞し、女性として初の受賞者となりました。同じ時期に《House》の解体も決定されており、美術界からの評価と公共空間での撤去決定が同時進行する象徴的な出来事となりました。
この矛盾は、1990年代の英国現代美術が一つの価値基準で動いていなかったことを示します。美術館、批評家、コレクター、地域社会、新聞が、同じ作品を異なる基準で評価していました。
《House》をめぐっては、1993年のターナー賞受賞と、作品の撤去決定が近い時期に起きました。地域住民、自治体、美術関係者が異なる立場から作品を語り、1994年1月に撤去されます。その経過も作品史の一部です。(参照:アートエンジェル|《House》の実現まで)
サラ・ルーカスと身体をめぐるユーモア
サラ・ルーカスはマットレスや果物、家具、新聞といった日常の物を使い、身体と性別の表象を組み替えました。笑いを誘う単純な配置が、よく見ると身体への視線やジェンダーの規範を露わにします。彼女自身が写真に登場するセルフポートレートも、その表現の重要な一部です。
サラ・ルーカス — 日用品、身体、性別表象
サラ・ルーカスは家具、食べ物、煙草、衣類、新聞写真など、ごく身近な物を使いながら身体と性を扱いました。彼女の作品では、身体を思わせる露骨な形と、粗雑さ、笑い、居心地の悪さが同時に現れます。
ハマー美術館やニューミュージアムは、ルーカスが日常用品を身体の代用品へ変換し、ジェンダー、性、権力、社会的規範を揺さぶってきたと説明しています。高価な美術材料ではなく、安価で身近な物を使うことも作品の態度と結びついています。
ルーカスの作品では、食べ物や家具が身体の一部を連想させることで、鑑賞者の側が性的な意味を読み取ります。簡単な配置が強い意味を生む仕組みは、日用品を見る習慣や、身体の表象の歴史に関わっています。(参照:ハマー美術館|Sarah Lucas: Au Naturel)
1994年《Au Naturel》
《Au Naturel》(1994)は、マットレスの上にメロン、オレンジ、キュウリ、バケツなどを置き、男女の身体や性器を連想させる配置を作った作品です。素材は極めて日常的ですが、身体の表現として見ると突然生々しくなります。
ここでは裸体を写実的に彫刻する必要がありません。物体同士の位置関係だけで「身体」が立ち上がります。同時に、その身体は理想化されたヌードではなく、簡略化され、滑稽で、商品と日用品の集合として現れます。
《Au Naturel》のマットレスは、ベッドという私的な場所を直接連想させます。果物やバケツの形が人間の身体に見えてくることによって、物体を人に見立てる鑑賞者自身の視線も作品に取り込まれます。(参照:ハマー美術館|Sarah Lucas: Au Naturel)
セルフポートレートと「見る側」の反転
ルーカスは1990年代にセルフポートレートも継続的に制作しました。例えば《Self-portrait with Fried Eggs》(1996)では、自分の胸の位置に目玉焼きを置き、カメラへ正面から向き合います。
女性身体を消費する視線を批判するだけでなく、その視線の仕組みを自分の姿を使って反転させます。観客は「女性を見る側」の安全な位置に留まれず、こちらを見返す作家の姿と向き合うことになります。
《Self-portrait with Fried Eggs》では、作家は自分の姿を隠さず、カメラを正面から見返しています。胸の位置に置かれた目玉焼きのユーモアと、その姿勢の強さが同居し、女性像の受け止め方を揺さぶります。(参照:ハマー美術館|Sarah Lucas: Au Naturel)
絵画を選び続けたYBAの作家たち
YBAという名称からは、奇抜な立体作品や日用品を使った表現を想像しがちです。実際には、ゲイリー・ヒュームやフィオナ・レイのように、絵画の表面や構図を丹念に探究した作家も初期から参加していました。絵画を含む多様性こそ、この世代を正確に理解する重要な手がかりです。
ゲイリー・ヒューム — YBAの中の絵画
ゲイリー・ヒュームは、YBAを「インスタレーションや既製品中心の世代」と考える見方を修正する重要な作家です。彼は家庭用の光沢塗料を使った平滑な絵画によって1990年代初頭に注目されました。
英国文化振興会は、ヒュームが病院のドアを単純化した《Door Paintings》によって知られるようになったと説明しています。題材は制度的で無機質な扉ですが、画面は色面と輪郭へ整理され、絵画として強い人工的な表面を持ちます。
《Door Paintings》は実在の病院用ドアの形態を参照しながら、家庭用光沢塗料によって描かれました。ドアは通常、通過するための物体ですが、絵画になると閉じた平面として観客の前に立ちます。
Minimal Artを思わせる簡潔さと、病院という具体的な社会空間の記憶が同居します。ヒュームの作品は、YBAが必ずしもセンセーショナルな物体だけを求めていたわけではなく、絵画の表面や反復も重要な問題だったことを示します。
ヒュームの《Door Paintings》には、病院の扉の形を取り込みながら、色面と輪郭の構成へ変換する工夫があります。塗料の光沢と平滑な表面を丹念に見ると、この世代の絵画に固有の関心が見えてきます。(参照:英国文化振興会|Gary Humeと光沢塗料の絵画)
フィオナ・レイ — 抽象絵画もYBAの一部だった
フィオナ・レイも《Freeze》に参加したゴールドスミス出身の作家で、抽象絵画を制作しました。彼女の1990年前後の作品には、滴り、擦れ、厚塗り、空白など異なる絵画的処理が同一画面に混在します。
レイの存在は、YBAという名称から特定の内容や材料を推測できないことを示しています。ハーストの動物、ルーカスの家具、ホワイトリードの鋳造と並行して、抽象絵画も同じ世代の重要な選択肢でした。
フィオナ・レイは抽象絵画の方法を使いながら、異なる筆触や画面上の出来事を組み合わせました。彼女が1991年のターナー賞候補になったことは、絵画もこの世代の重要な評価対象だったことを示しています。(参照:ゴールドスミス|フィオナ・レイと《Freeze》)
絵画にも広がるYBAの多様性
1990年代の報道では、動物、性、死、身体といった刺激の強い作品が目立ちました。その結果、YBA全体が「絵画を捨てた若者たち」であるかのように説明されることがあります。
ゲイリー・ヒューム、フィオナ・レイ、ジェニー・サヴィル、クリス・オフィリなど、絵画を中心に活動した作家も重要です。YBAの特徴は絵画か非絵画かではなく、媒体の序列を前提にせず、作品ごとに異なる形式を選べる環境があった点にあります。
作品に衝撃的な物体を用いるかどうかでYBAの作家を分けると、同じ展覧会の中にあった多様な表現が失われます。絵画を含めた幅広さが、1980年代末の新しい世代の姿をより正確に伝えます。(参照:テート|Young British Artists (YBAs))
消費、暴力、身体を扱う異なる実践
同じ時期、マイケル・ランディは商品が生産され消費される仕組みに関心を向け、チャップマン兄弟は戦争や暴力的なイメージを扱い、マーク・クインは自分の血液で肖像を作りました。三者の関心は大きく異なります。YBAを「衝撃的な表現」のひと言でまとめると見えなくなる違いを、作品に即してたどります。
マイケル・ランディ — 消費社会と商品の循環
マイケル・ランディも《Freeze》参加者の一人で、1990年代には商品、労働、廃棄、消費社会を扱う作品を制作しました。後の《Break Down》(2001)では自分の所有物をすべて分類し破壊する大規模プロジェクトへ至りますが、その関心は1990年代初頭から続いていました。
YBAが市場によって成功した世代であるその内部には消費や商品化そのものを扱う作品も存在しました。市場参加と市場批判は完全に別の立場ではなく、同じ作家の活動の中で緊張関係を持ち得ます。
ランディの後年の《Break Down》(2001)では、自分が所有していた物を一つずつ記録し、解体する大規模な企画が実現しました。その前段階にあたる1990年代の仕事を見ることで、商品と生活の結びつきへの関心が一貫していたことが分かります。(参照:アートエンジェル|Michael Landy《Break Down》)
ジェイク&ディノス・チャップマン — 暴力、複製、グロテスク
ジェイク&ディノス・チャップマンは、人体の変形、暴力、性的な不安、戦争表象を扱う彫刻やインスタレーションで知られます。彼らは《Freeze》の参加者ではありませんが、1990年代半ばにはYBAの代表的な作家として広く扱われました。
作品にはGoya《The Disasters of War》への参照など、美術史上のイメージを現代の立体表現へ移す方法も見られます。単なる「悪趣味」や衝撃ではなく、残酷なイメージがどのように歴史化され、鑑賞されるのかを問い直す側面があります。
チャップマン兄弟の戦争表象は、歴史的な図像を引用しながら、鑑賞者が暴力的な場面をどのように見るのかを問いかけます。挑発的な外観の下には、既存の美術史や報道画像を受け継ぐ複雑な構造があります。(参照:MoMA PS1|チャップマン兄弟とゴヤの戦争表象)
マーク・クイン — 身体を素材にする
マーク・クインの《Self》(1991)は、作家自身の血液を用いて頭部を鋳造し、冷却装置によって保存する作品です。身体を写すのではなく、身体から採取した物質そのものが肖像になります。
この作品はハーストの保存された動物とも比較されますが、問題は異なります。《Self》では作者自身の身体が素材の供給源であり、生命維持に不可欠な血液が冷凍された彫刻として外部化されます。肖像、医学、生物学、自己保存が一つの作品に重なります。
クイン《Self》は自分の血液から作られた頭部を冷却して保存します。身体の形を模すことに加え、作者自身から採取された物質を作品にした点が重要です。温度管理という条件も、彫刻の保存と存在に関わっています。(参照:ナショナル・ポートレート・ギャラリー|Marc Quinn《Self》)
ジリアン・ウェアリングと他者の言葉
ジリアン・ウェアリングは街で出会った人々に、自分が言いたいことを紙に書いてもらい、写真に収めました。写真の人物を外見から判断しようとする鑑賞者は、その人が掲げた言葉によって予想を揺さぶられます。この方法は、社会の中にある声を誰がどのように表すのかという問題を具体化しました。
ジリアン・ウェアリング — 他者の声を作品に入れる
ジリアン・ウェアリングは写真や映像を通して、日常生活の中で人がどのように自分を表現するかを扱いました。彼女の作品は、作家自身の強いイメージを押し出すハーストやエミンとは別の方向から、YBA世代の多様性を示します。
ウェアリングは見知らぬ人々へ声を与える方法を取り入れますが、それを単純な「社会調査」にはしません。写真を撮る作家と撮られる人の関係、写真がその人を代表できるのかという問題が作品になります。
写真に登場する人物は、撮影者が選んだ姿勢や表情によって理解されがちです。ウェアリングの作品では、その人物自身の書いた言葉が加わり、鑑賞者が外見から抱く先入観との間にずれが生まれます。(参照:コンテンポラリー・アート・ソサエティ|Gillian Wearing《Signs》)
1992–93年《Signs that say what you want them to say…》
《Signs that say what you want them to say and not Signs that say what someone else wants you to say》(1992–93)では、ウェアリングは街で出会った人々に、その時考えていることを紙へ書いてもらい、その紙を持った姿を撮影しました。
写真だけを見れば、人物の職業や階級、感情を外見から推測したくなります。本人が書いた文章が加わると、その予想が崩れることがあります。写真が人間を一瞬で分類してしまう働きそのものが可視化されます。
《Signs》の制作方法は、作家が人々に紙を渡して言葉を記してもらうという簡潔なものです。言葉の選択は参加者に委ねられますが、誰に依頼し、いつ撮り、どの写真を示すのかという作家の判断も残ります。(参照:コンテンポラリー・アート・ソサエティ|Gillian Wearing《Signs》)
作者がすべてを決めない作品
ウェアリングの作品では、画面に現れる言葉を作家だけが決めているわけではありません。参加者自身が書き、作家はその状況を設定して撮影します。
作者性が完全に消えるわけではありませんが、作品の意味が一人の作家の内面だけから生まれる構造ではなくなります。1990年代に広がる参加型作品や社会的な制作の一つの重要な前段階として見ることもできます。
この作品は、他者の声を提示することが同時に編集の行為でもあると気づかせます。個人的な言葉が公開の写真になることで、見る人の理解や社会的な分類の仕組みがあらわになります。(参照:コンテンポラリー・アート・ソサエティ|Gillian Wearing《Signs》)
トレイシー・エミンと個人の記憶
トレイシー・エミンは、恋愛、家族、身体、喪失をめぐる個人の経験を、布、文字、映像やインスタレーションによって公に示しました。彼女の作品には親密さと強い演出が同居しています。人生の記録がどう作品として構成され、社会に受け取られたのかを考えます。
トレイシー・エミン — 私生活と公共圏
トレイシー・エミンは《Freeze》の参加者ではなく、ゴールドスミス出身でもありません。それでも1990年代半ば以降、YBAを象徴する作家の一人になりました。この事実は、YBAが最初の学生集団を超えて拡張された名称であることをよく示します。
エミンは手紙、刺繍、映像、ドローイング、テント、ベッドなどを通して、自分自身の身体、恋愛、性、家族、記憶、痛みを作品化しました。私的経験を公共の展示空間へ持ち込むこと自体が作品の形式になります。
エミンの表現は、手縫いの文字や親密な素材が記憶と結びつくところに特徴があります。作品の題名や使われた言葉を丁寧に読むことで、新聞が好んだ刺激的な人物像とは異なる制作上の選択が見えてきます。(参照:ゲティ研究所|Emin《Everyone I Have Ever Slept With》)
自伝的な作品を「告白」だけで読まない
エミンの作品はしばしば「告白的」と呼ばれますが、単に秘密を暴露しているわけではありません。個人的な経験をどの媒体へ変換し、どの言葉を選び、何を観客へ見せるかという編集が行われています。
自伝は生の経験そのものではなく、展示のために構成された表現です。1990年代の文化では、作家本人の人生と作品がメディア上で強く重ねられましたが、その関係を作品の外側のゴシップだけへ還元すると、形式的な判断が見えなくなります。
私的経験を作品に変えるには、何を選び、どの媒体に記し、どこで見せるのかという判断が必要になります。エミンの仕事を自伝だけで説明すると、縫うこと、書くこと、空間を作ることの意味が見えにくくなります。(参照:ゲティ研究所|Emin《Everyone I Have Ever Slept With》)
1995年《Everyone I Have Ever Slept With 1963–1995》
《Everyone I Have Ever Slept With 1963–1995》(1995)は、小型テントの内部に、エミンが人生の中で同じベッドや寝床を共有した人々の名前を縫い付けた作品です。題名から性的関係だけを想像しやすい家族や友人なども含まれ、「sleep with」という表現の意味を広げています。
柔らかい布、手縫いの名前、テントという一時的な居場所が、記憶と人間関係のアーカイブになります。1997年《Sensation》で広い観客に知られるようになり、エミンの初期代表作の一つとなりました。
YBAはしばしばハーストを中心とした男性作家の物語として語られますが、サラ・ルーカス、レイチェル・ホワイトリード、フィオナ・レイ、ジリアン・ウェアリング、トレイシー・エミン、アーニャ・ガラッチオ、アビゲイル・レーン、ジェニー・サヴィルなど、多くの女性作家が重要な位置を占めていました。
「女性も活躍した」という事実だけでジェンダーの問題が消えるわけではありません。ルーカスやエミンは女性身体や性の表象に直接介入し、サヴィルは巨大な身体像によって理想化された裸体表現を揺さぶりました。女性作家が可視化されることと、作品がどのように女性性を扱うかは別の問題として考える必要があります。
《Everyone I Have Ever Slept With 1963–1995》の題名には性的な含みがありますが、作品に刻まれた名前には親族や友人も含まれます。テントという小さな空間が、記憶と人間関係を保存する場所へ変わりました。(参照:ゲティ研究所|Emin《Everyone I Have Ever Slept With》)
YBAという枠組みの広がりと限界
クリス・オフィリの絵画や多くの女性作家の作品は、YBAという総称の幅広さを示しています。同時期のイギリスには、別の世代や背景から活動する作家もいました。「1990年代英国美術」を誰の作品で語るのかという問題は、YBAの成功そのものと切り離せません。
クリス・オフィリ — 装飾、黒人表象、絵画
クリス・オフィリは1990年代初頭から、色彩、装飾、ポピュラー文化、黒人表象、宗教的イメージを複雑に組み合わせた絵画を制作しました。絵具だけでなく、ラメや樹脂、象の糞など異質な素材を画面へ導入したことでも知られます。
オフィリの存在は、YBAを白人作家中心の「ロンドンの悪ガキ文化」に還元できないことを示します。彼の作品では黒人の身体や文化的ステレオタイプ、美術史的な聖像表現が絵画の装飾性と結びつきます。後に1998年ターナー賞を受賞しますが、1997年《Sensation》の時点ですでにYBA世代を代表する作家の一人として国際的に紹介されていました。
オフィリは絵画に装飾的な模様や異素材を取り入れ、宗教画や大衆文化、黒人のイメージを重ねました。YBAの議論では、こうした絵画固有の形式や表象の問題を、作品ごとに詳しく見る必要があります。(参照:英国政府美術コレクション|Chris Ofili)
同じYBAでも作品の問題は異なる
ハーストは死と展示制度、ホワイトリードは空間と記憶、ルーカスは性別表象、ヒュームは絵画表面、ウェアリングは他者の声、エミンは自伝と公共性、オフィリは黒人表象と絵画、ランディは消費社会を扱います。それぞれの制作を「YBAだから」で説明することはできません。
YBAという言葉は、美術史上の地図を作るためには便利です。作品を理解する段階では、一度そのラベルを外し、各作家が何をどの形式で問題にしているのかを見る必要があります。
ハースト、ホワイトリード、ルーカス、オフィリらの作品は、題材も制作方法も異なります。YBAという名が示すのは、同じ時代の英国美術において、異なる制作が多くの観客の前に現れたという事実です。(参照:スコットランド国立美術館|Young British Artists)
YBAという呼称に含まれた作家たち
YBAの名簿は資料によって異なります。《Freeze》参加者を中心にする場合もあれば、1997年《Sensation》参加者を広くYBAと呼ぶ場合もあります。さらに1990年代英国で活動した同世代作家でも、YBAという枠組みを積極的に使わない作家もいます。
そのため「YBAは何人いたのか」と固定するより、どの展覧会や批評がどの作家を同じ世代として見せたのかを確認する方が有効です。カテゴリーは自然に存在したのではなく、展示と記述によって作られました。
YBAが1990年代英国美術の国際的なイメージを強く支配したため、同時代に存在した別の流れが見えにくくなることがあります。1989年Hayward Galleryの《The Other Story》がアフリカ、アジア、カリブ系の英国作家を可視化したように、英国美術はYBAだけで構成されていたわけではありません。
またルバイナ・ヒミッドやソニア・ボイスらBlack British Artの作家は、1980年代から人種、帝国、制度的排除を扱っていました。1990年代の新しさを語るとき、それ以前の実践を消して「すべてがYBAから始まった」としないことが重要です。
同時期には、ブラック・ブリティッシュ・アートの活動や、YBAに含まれない作家の展覧会も継続していました。美術史を整理するための名前が、他の重要な実践を見えにくくしないよう配慮する必要があります。(参照:スコットランド国立美術館|Young British Artists)
作品の衝撃と新聞・テレビの関係
YBAの作品は美術専門誌の外でも話題になり、一般の新聞やテレビに登場しました。死んだ動物や性的な題材が注目を集めたことは確かですが、すべての作品が同じ目的で作られたわけではありません。報道が世代の印象をどう形づくったのかを、美術作品の内容と分けて検討します。
衝撃的な作品をどう見るか
YBAは「shock 美術」として語られることが多く、確かに死体、性、血液、暴力的なイメージ、日用品など、従来の美術館で見慣れなかったものが注目を集めました。衝撃性だけを共通項にすると、ホワイトリードの静かな鋳造作品やヒュームの絵画、ウェアリングの写真などが説明できません。
また、観客を驚かせること自体はDada、シュルレアリスム、Performance Artなど20世紀美術に繰り返し存在しました。YBAの特徴は「初めてショックを使ったこと」ではなく、1990年代の大衆メディア、広告、コレクター、市場と結びつくことで、その衝撃が非常に広い社会的可視性を得た点にあります。
観客に強い印象を与える手法は、20世紀のダダやシュルレアリスムにも見られます。YBAの特徴を考える際には、作品が一般紙やテレビで繰り返し取り上げられ、社会の議論へ入っていった規模と経路にも注目したいところです。(参照:スコットランド国立美術館|Young British Artists)
新聞・テレビと現代美術
1990年代のイギリスでは、現代美術が一般紙やタブロイド紙、テレビで頻繁に扱われるようになりました。作品そのものがニュースになり、「これは芸術なのか」という議論が美術専門誌の外へ広がります。
否定的な報道も、結果として作品名や作家名を社会へ流通させました。反発がそのまま評価を意味するわけではありませんが、現代美術が大衆文化の話題になる仕組みが形成されたことはYBA現象の重要な側面です。
作品への反発や論争が記事になると、現代美術を普段見ない人にも作品名が届きます。その報道は作品への理解を広げる場合もあれば、一面だけを強調する場合もあります。報道と鑑賞の間には独自の関係が生まれました。(参照:王立美術院|1997年《Sensation》)
作家自身がメディア上の人物になる
YBAでは、作品だけでなく作家本人の発言、服装、生活、交友関係まで報道されることが増えました。ハーストやエミンは特に、一般の新聞読者やテレビ視聴者にも知られる人物になります。
ここで作家の「作者像」自体が作品の受容に影響します。19世紀以来の「天才芸術家」という神話とは別に、1990年代には現代美術家がポップスターやファッション関係者に近い可視性を持つ場面が生まれました。
一部の作家は、メディアで自分自身を語ることにも積極的でした。その結果、作品と作家本人の人物像が強く結びつき、知名度が市場や展覧会にも作用するようになります。その変化は1990年代の社会文化とも重なっています。(参照:王立美術院|1997年《Sensation》)
ターナー賞、美術市場、支援者
1990年代のイギリスでは、美術館の賞、商業ギャラリー、収集家、批評家、新聞が相互に作用し、若い作家の評価が広く社会へ伝わりました。ターナー賞の候補や受賞者が報道され、サーチの購入と展示も大きな影響力を持ちました。それぞれの制度がどんな役割を果たしたのかを確認します。
ターナー賞と公共的な注目
ターナー賞はこの世代の可視化に大きな役割を果たしました。レイチェル・ホワイトリードは1993年、ダミアン・ハーストは1995年に受賞し、ゲイリー・ヒュームは1996年に最終候補となりました。1997年にはジリアン・ウェアリングが受賞します。
この賞は単なる業界内部の評価ではなく、候補作品が広く報道され、毎年「現代美術とは何か」をめぐる論争を発生させる公共的な装置になりました。YBAの作品は賞制度を通じて一般社会へ繰り返し提示されます。
ホワイトリードの1993年受賞、ハーストの1995年受賞、ウェアリングの1997年受賞などは、YBAの作家たちが英国の主要な賞の歴史に組み込まれたことを示します。候補者の発表や展覧会自体が毎年の話題にもなりました。(参照:テート|Young British Artists (YBAs))
美術市場と批評の関係
YBAの歴史では、美術市場を避けて語ることができません。若い作家の作品を早期に購入するコレクター、新しいギャラリー、展覧会を取材する新聞、国際展へ作家を送る制度が相互に作用しました。
「市場が作家を有名にしたから作品の価値は市場だけで決まった」と結論づけるのも単純です。市場による支援で制作の規模が広がり、作品が美術館へ収蔵され、後世の研究対象になる過程では、批評、保存、教育、展覧会史など別の制度も関与しています。
美術市場は大規模作品の制作を支援し、展覧会の機会を増やしました。同時に、売買や価格のニュースが作家の知名度を高めることもありました。芸術的な評価が、批評や市場だけの単一の尺度で決まるわけではない点も重要です。(参照:サーチ・ギャラリー|展覧会年表)
サーチは「発見者」だったのか
チャールズ・サーチはYBAの歴史で非常に大きな役割を持ちましたが、彼一人が無名の作家を発見して突然スターにしたという物語も正確ではありません。《Freeze》以前からゴールドスミスには活発な教育環境があり、その後も作家主導の展覧会、ギャラリー、批評家、キュレーターが並行して活動していました。
サーチの重要性は、作品を大量に購入し、広い展示空間でまとめて見せ、その集合を「若い英国美術」として可視化した点にあります。彼はネットワークの一部でありながら、その規模の大きさによって世代像を強く形成しました。
サーチの収集は、作家が集団として見えるための大きな条件になりました。同時に、ゴールドスミスの教育や自主企画展、ほかの画廊や美術館の働きも続いていました。複数の制度が関わる歴史として見ることで、活動の実態が鮮明になります。(参照:サーチ・ギャラリー|展覧会年表)
1997年《Sensation》という転換点
1997年、ロンドンの王立美術院で《Sensation》が開催されました。若い英国作家たちの作品をサーチ・コレクションから集めた展覧会は、大規模な観客と激しい論争を呼びました。学生の自主企画から始まった活動が、長い歴史を持つ美術機関の展示へ至ったことも象徴的です。
1997年《Sensation》
1997年9月18日から12月28日まで、王立美術院で《Sensation: Young British Artists from the Saatchi Collection》が開催されました。チャールズ・サーチのコレクションから若い英国作家の作品を大規模に集めた展覧会で、YBA現象が一般社会へ最も強く可視化された出来事の一つです。
王立美術院自身も後年、この展覧会が大きな観客と論争を呼び、新世代の英国作家へ広範な注目を集めたと振り返っています。学生主導の《Freeze》から約9年後、若手の自主企画として始まった流れが、英国を代表する歴史的な美術機関の展覧会へ入ったことになります。
王立美術院で《Sensation》が開催されたことで、若い世代の作品が大衆的な関心の中心に現れました。会場にはサーチが所有する作品が集められ、作家個人の発表を超えて「英国の新しい美術」という印象を与えました。(参照:王立美術院|1997年《Sensation》)
王立美術院へ入る
《Sensation》の会場が王立美術院だったことには象徴的な意味があります。王立美術院は18世紀以来の長い歴史を持つ美術制度です。そこへ、動物、血液、性的イメージ、日用品、写真などを使う若手作家の作品が大量に入ったことで、旧来の制度と新世代の対立という構図がメディアにとって非常に分かりやすくなりました。
実際には、美術制度がYBAを拒絶したのではなく、すでに内部へ取り込み始めていたことを示す展覧会でもあります。反制度的に見える作品と制度は、単純な敵対関係にはありませんでした。
王立美術院は18世紀から続く英国の美術機関です。そこで開催された《Sensation》は、作家たちの作品が長い歴史を持つ制度の内部で受け止められていたことも示しています。展示場所そのものが、世代の転換を象徴しました。(参照:王立美術院|1997年《Sensation》)
42作家という広がり
《Sensation》は42人の作家を紹介しました。出品者にはダミアン・ハースト、サラ・ルーカス、フィオナ・レイ、ゲイリー・ヒューム、レイチェル・ホワイトリード、トレイシー・エミン、ジェイク&ディノス・チャップマン、クリス・オフィリ、ジェニー・サヴィル、マーカス・ハーヴェイ、Ron Mueckなどが含まれました。
この人数を見れば、《Freeze》の16人と1997年の「ヤング・ブリティッシュ・アーティスト」が同一ではないことは明らかです。YBAは9年間のうちに、特定の学生仲間から、幅広い若手英国作家を示すブランドのような言葉へ変化していました。
この展覧会には42人が参加したと記録されています。1988年の《Freeze》参加者と比べると、1997年には「若い英国作家」の意味が幅広くなっていたことが分かります。出品者の顔ぶれは初期の学生仲間を大きく超えていました。(参照:美術史文献データベース|《Sensation》展覧会図録)
《Sensation》で露わになった問題
《Sensation》では、作品の選択が一人の収集家の所蔵品に依存していることや、犯罪報道の写真を引用した作品が強い反発を受けたことが注目されました。エミンの親密な作品も大規模な展覧会に組み込まれています。話題性と美術史的な評価が交差する場面を取り上げます。
一人のコレクターの所蔵品が世代像を作る
《Sensation》は国立美術館の収蔵品を集めた展覧会ではなく、サーチ Collectionをもとに構成されました。つまり、ある個人コレクターの購入判断が「1990年代の若い英国美術」の代表像として大規模に公開されたことになります。
これは展覧会史上重要な点です。どの作家が選ばれ、どの作品が繰り返し展示されるかによって、世代についての歴史的記憶が形成されます。コレクションは作品の保管庫であるだけでなく、美術史的な物語を作る装置にもなります。
《Sensation》はサーチ・コレクションの選択を通して構成されました。私人の購入判断が大規模な公共的展覧会に反映されることで、「どの作品が世代を代表するのか」という美術史の問いが生まれます。(参照:美術史文献データベース|《Sensation》展覧会図録)
マーカス・ハーヴェイ《Myra》をめぐる論争
《Sensation》で特に激しい反発を受けた作品の一つがマーカス・ハーヴェイの《Myra》でした。1960年代のMoors murdersで知られるMyra Hindleyの警察写真をもとにした巨大な肖像で、子どもの手形を反復して画面を構成していました。
犯罪被害者の記憶、報道写真、美術館での展示、表現の自由が衝突し、作品は会場で攻撃される事件も起こしました。この論争は、YBAをめぐる「ショック」の問題が、単なる観客への刺激ではなく、現実の暴力を誰がどのように表象するかという倫理問題にも及んでいたことを示します。
マーカス・ハーヴェイ《Myra》は、犯罪報道に用いられた写真を引用した作品です。被害者の記憶と報道画像を美術館で再提示することをめぐり、激しい抗議が起こりました。その倫理的な問題は、作品の衝撃性という言葉だけでは捉えきれません。(参照:ガーディアン|Marcus Harvey《Myra》と1997年の論争)
エミンのテントが大規模展へ入る
トレイシー・エミンの《Everyone I Have Ever Slept With 1963–1995》も《Sensation》に出品されました。個人的な記憶を布と名前によって構成した親密な作品が、巨大な話題性を持つ展覧会の一部になります。
ここにはYBAの逆説があります。私的で小さな経験を扱う作品が、大規模なメディア現象へ組み込まれる。作品が本来持つ親密さと、展覧会による大衆的なイメージが必ずしも一致しません。
エミンのテント作品は個人的な経験を扱う小さな空間でした。《Sensation》の大規模な会場では、親密な記憶をたどる作品が、世代を代表する話題性の高い展覧会の一部として受け取られます。(参照:ゲティ研究所|Emin《Everyone I Have Ever Slept With》)
1988年から1997年に変わったこと
《Freeze》から《Sensation》までの約9年間で、ロンドンの若手作家たちは展示場所を自ら生み出し、国内外の美術制度と接続する存在になりました。その成功は発表の自由や制作の可能性を広げ、多くの矛盾も残しました。最後に、この時代の変化を作家の作品と美術界の仕組みの両面から整理します。
自主企画展から王立美術院への道
《Freeze》を周縁、《Sensation》を中心と考え、「反抗的な若者が制度を征服した」とまとめると分かりやすい実際の歴史はもっと複雑です。《Freeze》の時点ですでにスポンサーや美術関係者との接触があり、1990年代初頭には商業ギャラリーやコレクターが関与していました。
また王立美術院に入った後も、すべての作品が制度へ従順になったわけではありません。YBAの歴史は制度の外から中へ一直線に進んだのではなく、自主企画と商業市場、反発と承認、批評と宣伝が最初から絡み合っていました。
学生による自主展示と、王立美術院での大規模展の間には、作家同士の交流、収集家の支援、批評、賞制度など多くの段階がありました。ひとつの成功談にまとめるより、それぞれの活動の積み重ねを見ていく方が歴史を具体的に理解できます。(参照:ゴールドスミス|ジョン・トンプソンと美術教育)
1988–1997年に何が変わったのか
1988年《Freeze》が示したのは、若い作家が既存ギャラリーからの招待を待たず、自分たちで場所、資金、展示、印刷物、観客を組織できるという可能性でした。1990年前後の倉庫展はその方法を広げ、作家は作品の作者であるだけでなく、展示を設計する主体にもなります。
1992年からサーチ・ギャラリーが《Young British Artists》という名称で若い作家を継続的に見せると、異なる実践が一つの世代として可視化されます。ハーストの死と保存、ホワイトリードの空間と記憶、ルーカスの性別表象、ヒュームとレイの絵画、ウェアリングの参加型写真、エミンの自伝的作品は、それぞれ異なる問題を扱いながら、同じ文化的現象の中で流通しました。
1997年《Sensation》では、この世代像が王立美術院という歴史的制度へ移され、大規模な観客とメディアの前に提示されました。YBAが変えたのは、作品の材料だけではありません。若い作家がどこで展示し、誰と組み、誰に見せ、どのように報道され、どのように市場へ入るかという「現代美術の見える仕組み」そのものが変化しました。
1988年の《Freeze》と1997年の《Sensation》を比べると、会場の規模、観客の広がり、報道、作品の流通が大きく変化しました。それぞれの作家が異なる表現を続けながら、国際的な美術制度につながっていった点が重要です。(参照:スコットランド国立美術館|Young British Artists)
YBA以後に残ったもの
YBA以後、作家主導の展示、短期的なプロジェクト空間、廃工場や商業施設の転用、若手作家とコレクターの直接的な接続、現代美術家のメディア化は珍しいものではなくなりました。すべてがYBAの発明だったわけではありませんが、1990年代ロンドンでそれらが一つの成功モデルとして非常に強く可視化されたことは確かです。
同時に、YBAの成功は「目立つこと」「市場で売れること」「メディアに取り上げられること」と美術的評価が混同される危険も生みました。そのため現在YBAを振り返る際には、当時の熱狂そのものと、個々の作品がその後どのように美術史へ残ったのかを分けて検討する必要があります。
YBAは1990年代のロンドンを国際的な現代美術の重要拠点として可視化しましたが、同じ時期、美術の中心はロンドンやニューヨークだけで説明できなくなっていきました。1989年《Magiciens de la Terre》をめぐる議論、Havana、Istanbul、Johannesburgなど各地のビエンナーレ、ポストコロニアルな批評、移民やディアスポラを扱う作家の増加によって、「誰が現代美術の世界地図を作るのか」という問題が前景化します。
次の記事では、 1989–2000|グローバル化する現代美術 — Magiciens de la Terre、ビエンナーレ、ポストコロニアルな視点 として、欧米中心の美術史がどのように問い直され、国際展の急増が作品の制作と流通をどのように変えたのかを追います。
その後もロンドンでは新しい美術空間が生まれ、同時に国際展の開催や美術市場の変化が進みました。YBAは1990年代英国美術の重要な一章であり、広く世界へ開かれていく現代美術の流れの中で考えることができます。(参照:英国文化振興会|英国館の1990年代)
略年表
作家の制作と展示を取り巻く出来事を、主要な年に沿って整理しました。作品の制作年と展覧会の開催年を区別して記しています。
- 1970年代|ゴールドスミスで、媒体を横断する美術教育の改革が進む。
- 1985|チャールズ・サーチがロンドンでサーチ・ギャラリーを開く。
- 1987|サーチ・ギャラリーでニューヨークの現代美術を紹介する企画が行われる。
- 1988|ダミアン・ハーストが中心となり、ロンドンの港湾地区で《Freeze》が開催される。
- 1988|フィオナ・レイ、サラ・ルーカス、ゲイリー・ヒュームらが《Freeze》に参加する。
- 1989|ロンドンで若い作家による自主企画展が広がる。
- 1990|《Modern Medicine》《Gambler》などの倉庫展が行われる。
- 1990|《East Country Yard Show》《Market》が開催される。
- 1990|レイチェル・ホワイトリードが《Ghost》を制作する。
- 1991|ハーストがサメを用いた《The Physical Impossibility of Death in the Mind of Someone Living》を制作する。
- 1991|フィオナ・レイがターナー賞の候補に選ばれる。
- 1991|マーク・クインが自らの血液を用いた《Self》を制作する。
- 1992|サーチ・ギャラリーが《Young British Artists》展を開始する。
- 1992|サラ・ルーカスが《Two Fried Eggs and a Kebab》を発表する。
- 1992–1993|ジリアン・ウェアリングが《Signs》シリーズを制作する。
- 1993|ハーストが《Mother and Child (Divided)》を制作する。
- 1993|ホワイトリードの《House》がロンドン東部で完成する。
- 1993|ホワイトリードがターナー賞を受賞する。
- 1994|《House》が撤去される。
- 1994|ルーカスが《Au Naturel》を制作する。
- 1995|ハーストがターナー賞を受賞する。
- 1995|トレイシー・エミンが《Everyone I Have Ever Slept With 1963–1995》を制作する。
- 1996|ルーカスが《Self-portrait with Fried Eggs》を制作する。
- 1997|ジリアン・ウェアリングがターナー賞を受賞する。
- 1997|王立美術院で《Sensation》展が開催され、42人の作家が紹介される。
まとめ
ヤング・ブリティッシュ・アーティストという名称は、1988年の《Freeze》に参加した学生たちだけを示す固定的な名簿から生まれたものではありません。ゴールドスミスでの教育と作品をめぐる対話、ロンドンの港湾地区や倉庫を利用した自主企画展、サーチをはじめとする収集家や画廊の働きが重なり、異なる制作を続ける作家たちが「新しい英国美術」として見られるようになりました。作品の外観は多様でも、発表と流通の条件には共有する歴史があります。
この世代にはハーストの標本を思わせる立体、ホワイトリードの鋳造彫刻、ルーカスの身体表現、ヒュームやレイの絵画、ウェアリングの写真、エミンの自伝的な作品が並びます。個々の作家が何を考え、どの素材と形式を選んだのかを見ていくことで、世代を表す名称の便利さと、その名称だけでは説明しきれない作品の豊かさが見えてきます。
1997年の《Sensation》は、英国の若い作家たちが一般社会の関心を集め、長い歴史を持つ美術機関でも大規模に紹介される段階に達したことを象徴しています。その過程には制作の自由、商業的な成功、報道による誤解、歴史的な評価をめぐる議論が同時に存在しました。YBAの重要性は、美術作品の種類を増やしたこととともに、若い作家たちが自ら展示の機会を生み、国際的な現代美術の舞台へ進む道筋を可視化した点にあります。
参考資料・出典
本記事は、当時の展覧会記録、所蔵美術館の作品解説、ゴールドスミス大学の教育史資料、作家や企画者の証言などをもとに構成しました。《Freeze》に参加した作家と、のちにYBAとして紹介された広範な作家たちを区別し、個々の作品の解釈と確認できる史実の関係を明確にするよう努めています。
- スコットランド国立美術館|Young British Artists
- テート|Young British Artists (YBAs)
- ゴールドスミス|ジョン・トンプソンと美術教育
- ゴールドスミス|マイケル・クレイグ=マーティンへの聞き取り
- ゴールドスミス|フィオナ・レイと《Freeze》
- ゴールドスミス大学図書館|Surrey Docks Studiosと《Freeze》
- ゴールドスミス|Damien Hirst
- サーチ・ギャラリー|展覧会年表
- ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|Whiteread《Ghost》
- アートエンジェル|Whiteread《House》
- アートエンジェル|《House》の制作工程
- アートエンジェル|《House》の実現まで
- アートエンジェル|《House》の解体
- 英国文化振興会|1997年ヴェネツィア・ビエンナーレ/Whiteread
- ハマー美術館|Sarah Lucas: Au Naturel
- ニューミュージアム|Sarah Lucas: Au Naturel
- 英国文化振興会|Gary Humeと光沢塗料の絵画
- コンテンポラリー・アート・ソサエティ|Gillian Wearing《Signs》
- アートエンジェル|Michael Landy《Break Down》
- 王立美術院|1997年《Sensation》
- 美術史文献データベース|《Sensation》展覧会図録
- 国立美術館友の会|《Sensation》展記録
- アストルップ・ファーンリ美術館|Hirst《Mother and Child (Divided)》
- 英国文化振興会|英国館の1990年代
- スマートヒストリー|Tracey Emin《My Bed》とYBA
- アートエンジェル|Rachel Whiteread作家資料
- ナショナル・ポートレート・ギャラリー|Marc Quinn《Self》
- MoMA PS1|チャップマン兄弟とゴヤの戦争表象
- ゲティ研究所|Emin《Everyone I Have Ever Slept With》
- アートエンジェル|Michael Landy作家資料
- 英国文化振興会|Chris Ofiliと英国美術
- アートエンジェル|Landy《Break Down》の所蔵品リスト
- メキシコシティ・フメックス美術館|Damien Hirstの初期作品
- 英国政府美術コレクション|Chris Ofili
- ガーディアン|Marcus Harvey《Myra》と1997年の論争
資料確認日:2026年10月15日 / ART LIBRARY