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1957–1966

戦後ドイツで、絵画の表面から実際の空間へ表現を広げる

ZEROが切り開いた光と動きの芸術

1957年、第二次世界大戦の終結から12年が過ぎた西ドイツのデュッセルドルフで、二人の若い画家が新しい美術の可能性を探し始めました。ハインツ・マックとオットー・ピーネです。二人はアトリエを一夜限りの展覧会場として開き、絵画の表面や素材を変える試みを発表しました。やがてギュンター・ユッカーが加わり、この活動はZERO(ゼロ)という名前で広く知られるようになります。

当時のヨーロッパでは、絵の具を激しく塗り重ねる抽象絵画が注目されていました。ZEROの作家たちは、金属板の反射、画面の細かな凹凸、釘が作る陰影に着目します。さらにモーターや光源を取り入れ、壁や天井を動く光で満たす作品へ進みました。作品を見る人が歩き、時間をかけて眺めることで、目の前の光景そのものが変わるのです。

こうして、絵画の表面に光の変化を生み出す実験から、実際の空間を使って光や運動を経験させる表現が生まれました。今日ならインスタレーションやキネティック・アートと呼ばれる作品も含まれます。ZEROの魅力は、絵画、彫刻、空間という既存の分類を横断しながら、光や物質の働きを鑑賞の中心へ置いたことにあります。

ZEROはドイツの三人だけで完結した活動でもありません。フォンタナ、クライン、マンゾーニ、ティンゲリーらと交流し、オランダのNulグループや日本の具体美術協会とも展覧会を通じて接点を持ちました。1964年にはカッセルの第3回ドクメンタで光と運動の空間作品が紹介され、国際的な美術の変化を示す存在となります。

本記事では、1957年のアトリエ展から1966年の活動終了までをたどり、光を描くことと、実際の光を作品の中で働かせることの違いを具体的な作品から解説します。なぜこの時代のドイツでZEROが生まれ、どのように絵画の表面から空間へ表現を広げたのか。戦後の美術史、国際交流、現在の美術館による再評価もあわせて見ていきます。

なぜ戦後ドイツで「ZERO」が必要だったのか

1950年代のデュッセルドルフには、戦争からの復興と、新しい芸術への期待が同時に存在していました。ZEROという名前は、この状況から生まれています。

1945年以降の社会と、1955年の近代美術の復権

1945年のドイツには、第二次世界大戦による都市の破壊と、ナチス政権による迫害の歴史が残されていました。1933年以降、前衛美術は公的機関から排斥され、多くの芸術家が制作や教育の場を奪われました。戦後になると、かつて禁じられた近代美術を紹介し直す動きが生まれ、1955年にはカッセルで第1回ドクメンタが開かれます。若い芸術家たちは、再び国際的な美術に触れられる時代に制作を始めました。

この復興の中で新しい問題も浮かび上がります。以前の近代美術を学ぶことができたとして、自分たちは次に何を作るのか。1950年代半ばのヨーロッパでは、画家の感情や身振りを強く押し出す抽象絵画が存在感を持っていました。のちのZEROの作家たちは、その先にある表現を考えます。光や物質そのものが画面に働きかける方法へ進んだことには、時代の空気を変えたいという切実な願いもありました。(参照:グッゲンハイム美術館|絵画の新しい定義、ZERO財団|運動の歴史と財団の活動)

デュッセルドルフという美術の拠点

ZEROの出発点となったのは西ドイツのデュッセルドルフです。ハインツ・マックとオットー・ピーネは、当地の美術アカデミーで絵画を学び、ケルン大学では哲学にも接していました。作品を作るだけでなく、美術とは何かを話し合う環境を共有していたのです。二人は1957年、グラートバッハ通り69番地にあった共同のアトリエを使い、短い展覧会を始めました。

アトリエは、作品を作る場所であると同時に、展覧会の制度を自分たちで作る場所にもなりました。大きな美術館へ招かれるのを待つ必要はなく、画家同士が互いの作品を確かめ、見に来た人と直接向き合えます。デュッセルドルフで生まれた小さな実験が、その後、欧州各地の美術家や批評家を結ぶネットワークへ発展していくことになります。(参照:ZERO財団|ハインツ・マック略歴、ZERO財団|オットー・ピーネ略歴)

「ZERO」は破壊の終点から新しい始まりを指した

「ZERO」は数字のゼロを意味します。マックとピーネは、ロケットの発射前のカウントダウンがゼロに達し、そこから新しい旅が始まるイメージに、未来へ向かう意志を重ねました。古い表現をいったん手放し、まだ決まった形のない可能性を探すという考え方です。

この新しい出発には、光や空気、自然の変化を肯定的に受け取ろうとする感覚がありました。暗い歴史を忘却するというより、破壊を経験した時代にどのような美しさを作れるかが問われていました。後から作品を見れば、金属板や釘や機械は冷たい工業製品に見えるかもしれません。彼らがそこで探したのは、物質が光を受けるときに生まれる、絶えず変わり続ける現象でした。(参照:グッゲンハイム美術館|絵画の新しい定義、ZERO財団|運動の歴史と財団の活動)

1957年、アトリエから始まった新しい展覧会

ZEROの理念と仲間は、小さな展覧会を繰り返す中で少しずつ形づくられていきました。

一夜限りの「アーベントアウスシュテルング」

マックとピーネが1957年に始めた「アーベントアウスシュテルング」は、日本語でいえば「夕べの展覧会」です。共同アトリエを一定の夜だけ開き、作品を見せて議論する仕組みでした。会期が一晩という短さは、当時の美術館や画廊で行われる展覧会とは異なる自由な実験を可能にします。作品を見ることと作り手に会うことが、同じ出来事として経験されました。

この形式の重要性は、後にどんな作品が生まれたかを考えるとわかります。光や動きを使う作品には、設備、時間、観客の身体が必要です。会場を自ら整える行為は、完成した作品を壁に掛ける以上の展示への関心を育てました。ZEROにとって展覧会を企画することは、作品の発表手段であると同時に、制作方法そのものを考え直す機会となったのです。(参照:ZERO財団|ハインツ・マック略歴、ZERO財団|オットー・ピーネ略歴)

作品を見せながら、批評の場を作る

一夜限りの展覧会では、同じ場所に集まった芸術家や来訪者が、絵画や素材について直接意見を交わすことができました。試した表現を次々と公開でき、権威ある機関からの評価を待つ必要もありませんでした。美術が一つの様式へ固定される前に、展覧会を通じて制作と批評の循環を作る仕組みでした。

記録には参加作家への手紙や招待状、印刷の発注書が残されています。例えば1958年の第8回展のためには700枚の招待状が印刷されたことが、ZERO財団所蔵の資料からわかります。小さなアトリエ展も、多くの人へ知らせ、作品を集め、会場を準備することで成り立っていました。後の国際的な広がりは、こうした具体的な運営の積み重ねに支えられていたのです。(参照:ZERO財団|1958年、第8回アトリエ展の記録、ZERO財団|1958年、展示参加をめぐる書簡)

美術館の外で作られたネットワーク

マックとピーネの展覧会には、後にZEROと関わる多くの芸術家が参加しました。招待状、書簡、写真によって活動が伝わり、作品を直接見る人だけでなく、別の街に住む芸術家とも関係が生まれます。新しい作品について話し合うための場所が美術館の展示室の外に作られたことが、運動の発展を後押ししました。

この自発的な運営方法は1950年代後半の国際前衛に共通する特徴の一つでした。画家が互いの作品を紹介し、批評や出版へ関わることによって、誰が新しい美術を代表するのかという問題にも自分たちで働きかけます。ZEROはある展示様式の名称であるとともに、人と情報を流通させる実践の名前でもありました。(参照:グッゲンハイム美術館|ZEROの国際ネットワーク、ZERO財団|1958年、第8回アトリエ展の記録)

1958年、雑誌『ZERO』が考え方を外へ広げる

出版物はデュッセルドルフのアトリエと、別の都市に暮らす芸術家を結びつけました。

雑誌の創刊と、言葉で新しさを定義する試み

1958年、マックとピーネは雑誌『ZERO』を創刊しました。絵画を制作する人々が、同時に文章、写真、レイアウトを使って自分たちの立場を公に示し始めたのです。展覧会はその場を訪れる人が中心になりますが、雑誌なら遠方の作家や批評家にも届きます。作品の図版と主張が並ぶことで、個々の実験の間に共通する問題意識が見えてきました。

誌名は後に運動全体を呼ぶ言葉として定着します。制作と展覧会、文章による議論は互いを刺激し合いながら進みました。反復、光、運動、物質という異なる題材が一つの会話へ集まり、ZEROの輪郭を少しずつ形づくっていきました。(参照:ZERO財団|ハインツ・マック略歴、ZERO財団|オットー・ピーネ略歴)

出版物と写真が実験を共有させる

光や動きを使った作品は、その場にいなければ変化を完全には体験できません。写真を撮ると、一瞬の光や作品の形が固定されます。にもかかわらず、ZEROでは写真と印刷物が重要でした。変化する作品を記録として見せることで、遠い場所の人に作品の仕組みを伝え、実際に作品を見たいと思わせることができたからです。

国際交流の中では作品の輸送に費用や手間がかかります。雑誌やポスターは、実物が届く前に制作の考えを伝えられる媒体でした。出版物そのものがアトリエ展や展覧会の計画と結びつき、作家の活動を広い地域に知らしめていきます。後にアーカイブ研究ができるのも、当時の招待状や写真、手紙が保存されてきたためです。(参照:グッゲンハイム美術館|ZEROの国際ネットワーク、ZERO財団|運動の歴史と財団の活動)

1961年の第3号と、公開イベントへの発展

雑誌『ZERO』第3号は1961年に刊行されました。デュッセルドルフのシュメラ画廊では、その発表とともに《ZERO:出版・展示・実演》というイベントが開かれ、マック、ピーネ、ギュンター・ユッカーが中心になって活動しました。紙に印刷された考え方と、観客の前で行われる実演とが、ひとつの発表形式へまとめられた出来事です。

1961年は、ユッカーがマック、ピーネとともに運動の中心を担うようになった転換点でもあります。雑誌が伝える作品の図版と、実際に光や物質が変化する出来事を並べて考えると、ZEROが発表媒体を広げていった経緯が見えてきます。画面で完結する美術への問いは、展示を構成する時間と空間の問題へ発展していきました。(参照:ZERO財団|1961年《ZERO:出版・展示・実演》、ZERO財団|ギュンター・ユッカー略歴)

絵画の表面で、光をどう働かせるか

最初に変えられたのは、絵画の表面でした。光を描写するかわりに、実際の照明が表面へ作用する仕組みが探られます。

アンフォルメルの身振りから距離を取る

1950年代のヨーロッパでは、絵の具を激しく塗り重ねる身振りや、偶然生じる痕跡を重視するアンフォルメルが注目されていました。ZEROの作家たちは同じ時代に絵画を学びながら、作者の感情が激しい筆触として現れる方法とは異なる可能性を探します。目指されたのは、筆の動きから離れたところで、光と物質の関係によって画面の変化を生み出すことでした。

この転換は絵画への関心がなくなったことを意味しません。画面の上に何が現れるかを、別の方法で考えるようになったのです。色の量を減らしたり、同じ形を規則的に繰り返したりすることによって、描かれた像よりも、表面に実際に生じる明暗や振動のような視覚効果が前景へ現れます。出発点には、絵画とは何かという問いがありました。(参照:グッゲンハイム美術館|絵画の新しい定義)

オットー・ピーネ《周波数》(1957年)

ピーネの《周波数》(1957年)は、絵画の表面を光に反応する構造として考える初期の例です。彼は穴を開けた型紙を使って絵の具を置き、規則的な小さな盛り上がりを持つ表面を作りました。盛り上がりが光を受けると、ごく小さな影が連続し、見る位置や明るさに応じて画面に変化が生まれます。

通常の絵画では、明るい場所を絵の具の白や黄色で描くことができます。この作品の明暗には、実際の光と表面の凹凸が関わります。描かれた模様が鑑賞者の目に入るだけでなく、照明と視線の位置によって見え方が変化するのです。グッゲンハイム美術館は、この段階をZEROによる「絵画の新しい定義」の重要な例として取り上げています。(参照:グッゲンハイム美術館|絵画の新しい定義)

単色と反復が画面を変える

ZEROに関わる作品には、白、銀色、黒など、色数を抑えた画面が多く見られます。色彩による強い物語を前面に出さないとき、絵の具の厚み、凹凸、同じ形の間隔、影の深さといった違いが目に入りやすくなります。似た要素を繰り返すことで、一つひとつの形よりも、面全体にわたる視覚的なリズムが現れます。

反復は工業製品の製造を思わせる一方、完全に均一な表面が得られるとは限りません。手作業による小さな違いと、光が作る変化が同時に見えてきます。作品を見る人は、描かれた対象を読み取るかわりに、画面全体へ視線を移しながら微細な変化を経験します。表面そのものを鑑賞の出来事へ変えたことが、次の空間表現への出発点となりました。(参照:グッゲンハイム美術館|絵画の新しい定義、グッゲンハイム美術館|ZEROの国際ネットワーク)

ハインツ・マック — 金属が光を動かす

マックは、光を受ける金属の表面を利用し、静止した作品の中に絶えず変化する視覚を生み出しました。

1958年の「光のレリーフ」

マックは1958年頃から、アルミニウムなどの反射性のある素材を加工した「光のレリーフ」を制作しました。薄い金属の表面へ細かな起伏や筋を与えると、光が均一には反射せず、明るい部分と暗い部分が連続して現れます。作品自体が平らな絵画に近い形で壁に取り付けられていても、見る角度が変わるとその表情は大きく変化します。

作品が生み出す輝きは、画家が明部を描き込んだ結果とは性質が異なります。光源の位置、窓から入る日光、鑑賞者が立つ場所によって見え方が決まります。ここでは金属は何かを描くための支持体として使われるだけでなく、光を実際に変化させる装置として働いています。絵画の表面から外の環境へ関心が伸びる重要な段階です。(参照:グッゲンハイム美術館|絵画の新しい定義、ZERO財団|ハインツ・マック略歴)

鑑賞者の移動が、画面の変化を生む

反射面は、鑑賞者が一歩横へ動くだけで異なる光を返します。正面からはほとんど見えなかった筋が斜めから強く輝き、別の場所では暗い帯として見えることもあります。マックの作品では、鑑賞者の身体の移動が視覚の変化に直接関わります。その経験は、あらかじめ決められた一つの像を正面から見る鑑賞方法とは異なります。

こうした作品は、モーターがなくても視覚的な運動を感じさせます。時間の中で見え方が移り変わるため、ある瞬間の写真だけでは作品の全体を説明しきれません。金属板そのものの形は変わらなくても、光の条件が変わることで作品の経験が更新されます。この考え方は後に、屋外の風景や太陽光を利用する作品へも広がっていきます。(参照:グッゲンハイム美術館|絵画の新しい定義、グッゲンハイム美術館|ZEROと自然環境)

1959年以降、実際に回転する作品へ

マックは1959年頃から、モーターを用いて光の効果を変化させる作品にも取り組みます。後にローターと呼ばれる作品群では、凹凸のある反射面や透明な素材を重ね、内部の部分が回転することで光の模様が動くようにしました。鑑賞者が動くことで生じていた変化に、作品内部の機械的な運動が加わったのです。

この変化により、作品は一定の場所から眺めていても異なる表情を見せ続けます。光、素材、装置が組み合わさり、一つの固定した完成形を持たない鑑賞経験が生まれます。絵画の表面で起きていた光の実験が、実際に動く構造へ発展したことは、ZEROとキネティック・アートの関係を理解するうえで重要です。(参照:ZERO ABC|1964年の光の空間とZEROの資料研究、ZERO財団|ハインツ・マック略歴)

オットー・ピーネ — 光と火を制作に取り込む

ピーネは画面の凹凸から出発し、光源、煙、火を用いて、時間と空間へ作品を広げていきました。

穴を開けた型紙と、画面に現れる振動

ピーネの初期の作品では、同じ形を手作業で並べる方法が試されました。小さな穴を持つ型紙を使った絵の具の反復や、塗膜に残る細かな起伏は、光を受けて複雑な陰影を生み出します。彼が関心を持っていたのは、同じ絵の具を使っていても、表面の構造によって別の視覚的な現象が現れることでした。

小さな反復が画面全体に広がると、目は個々の点だけを追うのが難しくなり、細かく揺れているような感覚が生まれることがあります。その現象は鑑賞者がどれほど離れて見るかによっても変化します。絵の具を何色も重ねて感情を表す方法から、単純な構造の組み合わせで新しい知覚を生む方法へ移ったことが、ピーネの展開の基礎になりました。(参照:グッゲンハイム美術館|絵画の新しい定義)

《光のバレエ》で実際の光が動き始める

ピーネは《光のバレエ》と呼ばれる実験を通じて、投影された光を空間に動かしました。光源と、穴や模様を持つ部材、回転する仕組みを組み合わせることで、壁や天井に光の点や影が移動します。作品の中心は固定したキャンバスから、暗い室内に現れては変わる光の形へ移ります。1959年以降に展開したこの試みは、ZEROの空間表現を象徴するものです。

鑑賞者は一枚の絵の前で立ち止まるかわりに、部屋のどこに光が現れるかを見ながら体を向け直します。光は壁面に映っても、紙や絵の具のような物体として残ることはありません。作品は光源、機械、部屋、時間が結びついたときに成立します。この点に、現在インスタレーションと呼ばれる作品との明確な接点があります。(参照:グッゲンハイム美術館|ZEROと自然環境、ZERO財団|1960年《光の祭典》展の招待状)

煙や火を使った絵画は、どこが新しかったのか

ピーネは煙や火を使って画面に痕跡を残す方法にも取り組みました。炎が発生させる煤や熱の作用は、筆で絵の具を均等に塗る操作とは異なる結果を生みます。作家が火を扱う条件を決めても、煙の広がりや焼け跡の形は細部まで一定にはなりません。制作過程に自然現象が関わることで、絵画ができあがる仕組みが変わります。

火を使った作品は劇的な制作行為としても受け取れますが、出来上がった画面では煤の濃淡や表面の変質を観察できます。行為と物質の作用が、そのまま可視的な結果となるのです。1960年のシュメラ画廊での《光の祭典》には、煙を使った絵画や光の図版も展示されました。ZEROが光の空間だけに向かわず、絵画の可能性も探究し続けていたことがわかります。(参照:ZERO財団|1960年《光の祭典》展の招待状、グッゲンハイム美術館|制作行為と素材)

ギュンター・ユッカー — 釘が作る影とリズム

ユッカーは一本一本の釘を反復して打ち込み、物質の厚みと光の変化を強く意識させる作品を作りました。

1958年からの交流と1961年の参加

ギュンター・ユッカーは1953年に東ドイツから西ドイツへ移り、1955〜1957年にデュッセルドルフ美術アカデミーで学びました。1958年には、マックとピーネが企画した第7回アトリエ展《赤い絵画》に参加しています。ZEROの活動へ初期から関わっていた人物ですが、マック、ピーネとともに中心的な三人として活動するようになるのは1961年の公開イベント以降です。

この経緯をたどると、ZEROを最初から三人で創設した固定的なグループとして理解するより、展覧会を通じて関係が深まり、その組織の形が変わっていった運動として捉えられます。出身や経験の異なる作家が、光や物質の問題を共有しながら、互いに異なる方法を発展させていきました。(参照:ZERO財団|ギュンター・ユッカー略歴、ZERO財団|1961年《ZERO:出版・展示・実演》)

釘のレリーフは何を見せているのか

ユッカーの代表的な作品には、板やキャンバスを張った支持体へ多数の釘を打ち込んだレリーフがあります。釘は金属の硬い物体でありながら、密集することで柔らかな波のように見えることがあります。一本一本が別の角度を向くと、同じ照明を受けても異なる影が生まれ、平面から突き出した厚みが作品の印象を大きく変えます。

絵画の表面に絵の具を置くかわりに、突起した物体が光を受けて形を作ります。釘を打ち込む行為が作品の制作過程にあり、その結果が細かな陰影として現れるのです。鑑賞者は少し横から見るだけで釘の長さや傾きに気づき、正面からは目立たなかった構造を発見できます。見る位置によって変わる作品の典型的な例です。(参照:ZERO財団|ギュンター・ユッカー略歴、グッゲンハイム美術館|制作行為と素材)

反復された物質が絵画と彫刻の境界を曖昧にする

ユッカーの釘の作品は、壁面に掛かるという点では絵画に似ています。板の表面から無数の釘が突き出すという点では立体作品でもあります。光が当たれば影が変わり、見る角度によって表情が移り変わるため、物体だけを見ても作品のすべてを把握することはできません。絵画か彫刻かという分類が揺らぐところに、ZEROの重要な問題が現れます。

ユッカーは後に釘を用いた作品を物体や空間へも広げていきました。反復される同じ素材が、平面の構成から人の周囲に広がる環境の構成へ変化するのです。この展開は、単純な材料が大きな空間体験を生み得ることを示しています。材料が身近であっても、その使い方によって鑑賞の構造を変えることができます。(参照:ZERO財団|ギュンター・ユッカー略歴、ZERO財団|運動の歴史と財団の活動)

なぜ白、銀色、工業素材が選ばれたのか

ZEROの作品に多く見られる限定された色彩や工業素材は、制作上の方法と鑑賞体験の両方に関係します。

白い表面は光と影を受け止める

白い作品は、色彩をできるだけ減らした単純な絵に見える場合があります。実際には白い表面のわずかな凹凸や深さが、周囲の光によって明暗を変えます。凹凸が小さくても、窓から入る光や照明の位置が変われば、見える影の長さも変わるのです。作品を成り立たせる重要な要素が、画面の外にある環境へ移っていきます。

白い画面は感情を消した無表情な表現として受け取られることもあります。ZEROの作家たちにとって重要だったのは、同じ白でも素材の厚みや表面の状態によって異なる経験が生まれることでした。白は絵の具の色であると同時に、光や影の微妙な変化を目立たせる条件になったと考えられます。(参照:グッゲンハイム美術館|絵画の新しい定義、グッゲンハイム美術館|ZEROの国際ネットワーク)

アルミニウムの輝きと工業時代の素材

マックが用いたアルミニウムをはじめ、ZEROや周辺の作家は金属、プラスチック、鏡面素材、電気器具などを積極的に使いました。戦後ヨーロッパで工業生産と都市の再建が進む中、これらは現代社会の生活を形づくる材料でもありました。光を返す金属は、絵の具によって光沢を描写する方法とは異なり、鑑賞の場にある光を直接作品へ取り込みます。

工業素材は、硬さや反射を生かす方法にも、機械的に同じ形を繰り返す方法にも応用されました。素材の選び方によって、鑑賞者が経験する時間や動きまで変わっていきます。物質の特徴を作品の意味と結びつけたことが、ZEROの美術史的な意義の一つです。(参照:オランダNul研究所|Nulグループと国際交流、グッゲンハイム美術館|絵画の新しい定義)

反復は作者の身振りから視線を移す

一本の線や一つの絵の具の跡が個人の激しい感情を示す作品では、筆を動かした作者の姿が想像されます。ZEROの反復的な作品では、同じ形が規則的に並ぶため、視線は特定の一筆から画面全体の構造へ移ります。釘、金属の筋、盛り上がった絵の具の点が連続することで、鑑賞者は目に入る模様と光の変化の関係を意識します。

反復された構造にも、釘を打ち、金属を加工する身体的な作業が残されています。完成した作品では、作者の手の動きの記録と、見る人の目に生まれる視覚効果とが重なっています。作者の表現に集中していた鑑賞の方法が、物質と光の作用へ開かれた点を理解することが大切です。(参照:グッゲンハイム美術館|絵画の新しい定義、ZERO財団|ギュンター・ユッカー略歴)

1959年、ベルギーの展覧会で運動が国境を越える

デュッセルドルフでの活動は、ベルギーをはじめヨーロッパのさまざまな都市へ広がりました。

《Vision in Motion — Motion in Vision》展

1959年3月から5月にかけて、ベルギーのアントウェルペンにあるヘッセンハウスで、後に《Vision in Motion — Motion in Vision》という名称で知られる展覧会が開かれました。マック、ピーネ、ユッカーのほか、ジャン・ティンゲリー、ヘスス・ラファエル・ソト、ダニエル・スポエリら、国や表現方法の異なる芸術家が関わりました。

タイトルにある「運動」は、単純に彫刻が回転することだけを指していません。見る人の視線が動くこと、光の変化が作品に現れること、会場の中で身体の位置を変えることも含めた問題として考えられます。この展覧会は、デュッセルドルフの小さなアトリエで始まった議論が、国境を越える大きな表現の交流へ育っていたことを示しています。(参照:ZERO財団|1959年アントウェルペン展のポスター、イヴ・クライン公式アーカイブ|1959年《Vision in Motion》展)

ティンゲリーやソトと共有した「動く視覚」

スイス出身のジャン・ティンゲリーは、機械の運動を用いる彫刻を発展させました。ベネズエラ出身のヘスス・ラファエル・ソトは、重なった線や形、鑑賞者の移動によって変わる視覚効果を探究しました。作品の方法は異なりますが、固定された像を一つの方向から眺めるだけでは収まらない芸術への関心が、ZEROの周辺で共有されていました。

この集まりを同じ様式の運動としてまとめると、それぞれの違いを見落とします。機械の仕組みを見せる彫刻と、目の中に揺らぎを生む平面作品では、鑑賞の方法が異なります。各地の芸術家が「動くこと」「見ること」を別々の手段で実験していたからこそ、国際展は互いの方法を比較する重要な場所になったのです。(参照:イヴ・クライン公式アーカイブ|1959年《Vision in Motion》展、グッゲンハイム美術館|ZEROの国際ネットワーク)

イヴ・クラインが示した、作品のない展示空間

1959年のアントウェルペン展では、イヴ・クラインも参加しました。クラインの公式アーカイブによると、彼は用意された空間を絵で埋めず、展覧会の場で何も描かれていない状態について語る行為を行いました。絵画や彫刻を置くことを当然とする展覧会の中で、展示室そのものや、そこに集まる人の認識を主題にしたのです。

クラインはマックやピーネと異なる表現方法で、作品の存在について問いかけました。何を物として残すのか、展示空間に何が起きれば作品となるのか。ZEROの国際ネットワークには、こうした異なる実験が並存していました。(参照:イヴ・クライン公式アーカイブ|1959年《Vision in Motion》展、グッゲンハイム美術館|ZEROの国際ネットワーク)

フォンタナ、クライン、マンゾーニとの交流

ZEROの国際的な広がりは、イタリアやフランスですでに進んでいた美術の実験との出会いでもありました。

ルーチョ・フォンタナが切り開いた絵画の向こう側

イタリアのルーチョ・フォンタナは1940年代末から紙やキャンバスに穴を開け、1950年代には切り込みを持つ絵画を制作しました。切られた画面には、表面の内側に閉じていた絵画を越え、実際の空間が現れます。画面が単に像を描くための平面というより、厚みを持った物体であることが意識されるのです。

ZEROの作家たちはフォンタナを重要な存在として受け止めました。光を反射させるレリーフや、壁に動く光を映す実験も、絵画の意味を表面の外へ広げる点で通じ合います。後に1964年の第3回ドクメンタでマック、ピーネ、ユッカーが共同制作した光の空間には、フォンタナへの献辞が付けられました。この題名には国境を越えた美術家同士の尊敬が表れています。(参照:グッゲンハイム美術館|制作行為と素材、ZERO ABC|1964年の光の空間とZEROの資料研究)

イヴ・クラインの単色と自然現象

イヴ・クラインは鮮やかな青い単色の作品でよく知られています。同時に、火や大気などの自然現象を使って作品を生み出す実験も続けました。顔料の色を強く意識させる単色の画面と、実際の火の作用を残す作品とでは方法が異なります。いずれも目の前の世界を写実的に再現することから、物質や現象を直接扱う方向へ進んでいます。

ドイツ側の創設者はマックとピーネでした。クラインは国際的な交流の中で重要な役割を担った作家です。この違いを区別すると、ZEROの広がりはより正確に理解できます。複数の国で、新しい絵画や空間の考え方が別々の方法で探られ、それらが出版や展覧会を通じて接触しました。ZEROはそうした接点の名前でもありました。(参照:グッゲンハイム美術館|ZEROと自然環境、グッゲンハイム美術館|制作行為と素材、グッゲンハイム美術館|ZEROの国際ネットワーク)

ピエロ・マンゾーニと、白い画面の別の可能性

イタリアのピエロ・マンゾーニは、1957年頃から《アクローム》と呼ばれる作品群に取り組みました。色彩を抑え、布や異なる材料の性質を目立たせることで、画面に置かれた物質そのものを意識させます。ZEROの作家たちが反復や反射によって光の変化を見せたのに対し、マンゾーニの作品は、素材の状態をどのように受け取るかという問いを強く押し出しました。

白い表面を持つ作品にも、さまざまな方法で成立した表現があります。表面を均一にする方法、素材を折り重ねる方法、光の反射を変化させる方法では、作品の成立条件が異なります。マンゾーニとの交流は、ZEROを単なる「白い芸術」の名称として扱えないことを教えます。作品の外観の近さより、どのような経験を生み出そうとしたかが重要でした。(参照:グッゲンハイム美術館|ZEROの国際ネットワーク、イヴ・クライン公式アーカイブ|ZERO展(グッゲンハイム美術館、2014年))

1960年、展覧会が光の祭典へ変わる

ZEROでは展覧会そのものが、光や動きを体験するための出来事になっていきました。

ピーネの《光の祭典》と画廊の暗さ

1960年10月、デュッセルドルフのシュメラ画廊で、ピーネの《光の祭典》展が開かれました。ZERO財団に残る招待状の資料には、煙の絵画や光の図版が展示されたことが記録されています。さらにアトリエで行われた第9回夕べの展覧会では、光のバレエも披露されました。一つの企画の中で、壁に残る物質の痕跡と、時間の中で動く光が並びます。

光を作品として見せる場合、会場をどれほど暗くするか、光源をどこに置くかが大きな意味を持ちます。鑑賞者が目を慣らす時間や、部屋を歩く順序も体験の一部になります。展示室へ運び込まれた物体に加え、展覧会をどのように設計するかという判断が作品の成立に関わっています。(参照:ZERO財団|1960年《光の祭典》展の招待状)

画廊での実演が作り手と観客の関係を変える

一夜限りの催しや公開イベントでは、作品と観客の間に時間を共有する関係が生まれます。光の模様が変化する間、観客はそれを見続け、次に何が起こるかを待ちます。完成した絵画の前では鑑賞を始める時点を自由に選べますが、動く光や実演では、作品の進行そのものが見る経験を形づくります。

作品を作る行為、作品を見せる場、見る人の時間が重なり、美術の成立条件が広がったのです。ZEROの一連の催しは、のちのインスタレーションやパフォーマンスを考える際にも重要な比較対象になります。(参照:ZERO財団|1960年《光の祭典》展の招待状、グッゲンハイム美術館|ZEROの国際ネットワーク)

2014年の再展示から見える、会場の重要性

2014年にニューヨークのグッゲンハイム美術館が開いた《ZERO:明日へのカウントダウン》展では、初期の展示形式を参照する再構成も行われました。1959年のアントウェルペン展を想起させる空間には、機械や反射素材を使う作品が置かれ、鑑賞者は光と運動を身体的に経験できるようになっていました。

こうした再展示は、写真資料から作品の配置や体験を考えるうえで有効です。現代の照明設備や安全基準を用いた再構成には、1950〜60年代の展示環境との違いも残ります。当時の試みを理解するには、作品の実物、記録写真、文書、後年の展示をそれぞれ異なる資料として確かめる必要があります。(参照:イヴ・クライン公式アーカイブ|ZERO展(グッゲンハイム美術館、2014年)、ZERO財団|1959年アントウェルペン展のポスター)

1962年と1965年、アムステルダムの美術館へ

国際的な交流が進むと、ZEROに関わる活動は大きな美術館で紹介されるようになりました。

1962年、ステデリック美術館《Nul》展

1962年、アムステルダムのステデリック美術館で、オランダの芸術家ヘンク・ペーテルスの企画による《Nul》展が開かれました。この展覧会は、ZEROの国際的な活動を美術館で紹介する重要な出来事となります。オランダのNulの作家に加え、各国で光、運動、反復、工業素材を探究する芸術家の作品が並びました。

アトリエや小規模な画廊で育った実験が、大きな美術館に入ったことには意味があります。展示の記録が残り、異なる国から訪れる観客にも作品が知られるようになります。作品が制度的に紹介される段階へ進んだと同時に、会場の規模や安全性、作品をどのように展示するかという新たな問題も生じるようになりました。(参照:オランダNul研究所|Nulグループと国際交流、イヴ・クライン公式アーカイブ|2015年ステデリック美術館ZERO回顧展)

1965年《Nul 1965》が示した国際的な広がり

1965年、同じステデリック美術館で《Nul 1965》展が開催されました。ドイツやオランダのZERO関連作家だけでなく、フランス、イタリア、日本、アメリカ大陸で活動していた芸術家との関係を広く紹介する展覧会となりました。光や機械の作品、白い反復構造、工業製品を用いた作品など、さまざまな方法が一つの会場に集まりました。

1957年にデュッセルドルフのアトリエで始まった展覧会が、8年後には国際的な美術館企画へと広がっていたのです。この変化は運動の成功として見ることができます。あわせて、個々の作家が異なる表現を続けている状況を、美術館の展示がどのようなまとまりとして紹介したのかも考える必要があります。(参照:オランダNul研究所|Nulグループと国際交流、イヴ・クライン公式アーカイブ|2015年ステデリック美術館ZERO回顧展)

具体美術協会と草間彌生が示す広域の交流

《Nul 1965》には、日本の具体美術協会に関わる作品も参加しました。戦後の関西で結成された具体は、身体や物質を使う独自の実験を進めながら、出版や海外の展覧会を通じて世界と交流していました。また、ニューヨークで活動していた草間彌生の参加も、公式の展覧会記録に確認できます。ZEROの国際的な交流は、ヨーロッパから日本やアメリカ大陸へも広がっていました。

具体とZEROには、伝統的な絵画を越えて物質、光、身体、空間へ表現を広げるという接点があります。その方法や背景はそれぞれ異なります。同じ時代に各地で独立した試みが進み、展覧会を通じて相互に知られるようになった歴史として理解することが大切です。(参照:オランダNul研究所|Nulグループと国際交流、草間彌生公式サイト|1965年《Nul》展参加記録)

自然の光、風景、空へ向かう作品

室内で光を操作する実験は、屋外の環境や自然現象へと広がっていきます。

太陽光が作品を変える

金属の反射面は室内の照明だけでなく、屋外の太陽光に対しても敏感に反応します。光の角度が時間とともに変わると、同じ作品が朝と夕方で異なる表情を見せます。マックは、このような性質を利用して、屋外の景観の中に反射素材を置く構想を発展させました。作品の外部にある太陽や空が、鑑賞体験を決める重要な要素になるのです。

このとき作家は、作品の形だけでなく、どこに、どの方向を向けて置くかを考えることになります。美術館の展示室の中で照明を調整する操作が、広い自然環境の中での設置条件を考える仕事へ変わります。絵画の表面から始まった光の探究が、実際の場所へ拡張していく過程を示す展開です。(参照:グッゲンハイム美術館|ZEROと自然環境、ZERO財団|ハインツ・マック略歴)

マックのサハラ計画と砂漠という展示空間

マックは1950年代末から、砂漠で光と反射素材を使った作品を展開する構想を持ちました。広大な砂と空の中で金属や鏡面を置くと、人工物の表面と自然光との関係が強く現れます。この構想は1968年の映像《Telemack》などへつながりました。1957〜1966年というZEROの活動期と、後に実施された構想を区別して見る必要があります。

砂漠を使う作品では、壁や天井に守られた空間と違い、太陽の高さ、気温、風、地面の反射など、自然の条件が作品の見え方を変えます。作品の価値を置かれた物体の形だけで考えることが難しくなり、周囲の場所との関係が重要になります。こうした関心は、後にランド・アートや場所を重視する美術を考える際にも比較できる先駆的な実験です。(参照:グッゲンハイム美術館|ZEROと自然環境)

自然現象を再現するより、実際に働かせる

絵画は古くから雲、太陽、炎、海などを描いてきました。ZEROの作家たちが試みた一部の作品では、描写された自然の像と、作品に実際に作用する自然の力との関係が変わります。火による煤や、金属板に当たる日光、風によって変わる物体の状態が、そのまま制作や鑑賞の条件になります。

作家が細部まですべてを決める場合とは異なり、自然環境が作品の見え方に参加します。日差しを受ける時間、見る人がその場にいる瞬間によって経験も変化するため、作品には一つの固定した状態だけでは表現できない側面が生まれます。ZEROの作品を考えるとき、光は描かれた主題である以上に、形を発生させる現実の条件として重要だったのです。(参照:グッゲンハイム美術館|ZEROと自然環境、グッゲンハイム美術館|制作行為と素材)

1964年、第3回ドクメンタの「光と運動」

ZEROの空間表現は、ドイツを代表する国際展の内部でも大きな存在感を示しました。

1955年のドクメンタから9年後の変化

1955年の第1回ドクメンタは、ナチス時代に排斥された近代美術を再び紹介する歴史的な展覧会でした。1964年の第3回ドクメンタには、当時の最新の美術実験を示す展示が加わります。会場の一つとなったフリデリツィアヌムで、アーノルト・ボーデは光と運動を主題とした部門を設けました。近代美術の復権から、新しい空間の表現を見せる試みへと、美術展の関心の一部が変わっていたのです。

第3回の公式回顧は、絵画や彫刻を中心とする従来の構成の中で、「光と運動」が特に実験的だったと位置づけています。ZEROの作品は、展示室へ新しい技術を運び込むだけでなく、鑑賞者の目と身体を動く光へ向けさせました。ドクメンタの歴史の中でも、表現の幅が変化する重要な場面になっています。(参照:documenta|第3回ドクメンタ(1964年)公式記録)

《Lichtraum(フォンタナへのオマージュ)》

マック、ピーネ、ユッカーは第3回ドクメンタで共同の光の空間《Lichtraum(Hommage à Fontana)》を発表しました。暗い展示室で、光を反射する部材や動く装置、釘による構造などを組み合わせた作品です。鑑賞者は光が現れる空間の内部を歩きながら、複数の変化を経験します。作品を構成する物体の間を歩くことが、鑑賞の重要な要素になりました。

題名には、キャンバスを切り開いて実際の空間を美術へ導入したルーチョ・フォンタナへの敬意が示されています。絵画の平面を越えようとする問いが、動く光や物質を組み合わせた室内全体の構成へ発展したのです。この作品は、ZEROを現在のインスタレーションの歴史と結びつけて考えるうえで重要な事例です。(参照:documenta|第3回ドクメンタ(1964年)公式記録、ZERO ABC|1964年の光の空間とZEROの資料研究)

会場の屋根裏が芸術の空間になる

第3回ドクメンタでZEROの光と運動の作品が展示されたのは、フリデリツィアヌムの屋根裏のような空間でした。暗さや天井の形、光の反射を利用することで、建築の条件そのものが鑑賞の一部になります。会場の形と装置の働きを合わせて設計することが、作品の制作に含まれました。

この展示を1955年の第1回と並べて考えると、展覧会で扱う空間の意味も変わってきたことがわかります。最初のドクメンタでは、作品を美しく見せるための配置や照明が重要でした。1964年には、光が動く部屋の内部に鑑賞者が入り、展示空間そのものを作品として経験する方法が提示されています。(参照:documenta|第3回ドクメンタ(1964年)公式記録、ZERO ABC|1964年の光の空間とZEROの資料研究)

光や運動を使う作品は、何を鑑賞させるのか

ZEROが開いたのは、作品を「見る」という行為の内容そのものを考え直す道でした。

一つの作品が複数の姿を持つ

金属のレリーフは角度が変わると明暗が変わり、モーターの作品は時間とともに形の関係を変えます。光のバレエでは、壁に現れる光が移動します。これらの作品には、一枚の写真やひとつの正面図だけでは伝えきれない特徴があります。鑑賞者は作品を眺める時間の中で、さまざまな状態が連続して現れることを経験します。

美術作品を評価する際、形がどれほど整っているかという観点は今も重要です。ZEROの作品は、形を固定したものとして見るだけでは、その経験の一部が失われます。見る人がどの位置に立ち、どれほどの時間をかけて眺め、周囲にどのような光があるかによって作品の様子が変わることを、制作の中心へ持ち込んだのです。(参照:グッゲンハイム美術館|絵画の新しい定義、グッゲンハイム美術館|ZEROと自然環境)

インスタレーションやキネティック・アートとの関係

今日の用語で説明するなら、機械によって動く作品はキネティック・アート、空間の内部に鑑賞者を迎える作品はインスタレーションに近いといえます。ZEROの作品には、レリーフ、絵画、彫刻、光の投影、公開イベントまで、複数の形式が含まれています。これらを後世の一つのジャンル名へまとめるより、作品ごとに何が動き、どの範囲が鑑賞されるのかを確かめると理解しやすくなります。

キネティック・アートでは装置が動く場合も、鑑賞者が動くことで視覚効果が生まれる場合もあります。インスタレーションでは物体を置く場所や観客の歩く経路が作品の意味に関わります。ZEROの歴史をたどると、これらの考え方が別々の作家の実験から重なり合うように発展してきたことが見えてきます。(参照:イヴ・クライン公式アーカイブ|ZERO展(グッゲンハイム美術館、2014年)、グッゲンハイム美術館|ZEROの国際ネットワーク)

絵画と彫刻はどこでつながるのか

釘を打ったレリーフは壁に掛けられ、金属を加工した作品は絵画のような輪郭を持つことがあります。光がその表面へ当たると、鑑賞者のいる空間にまで影や反射が現れます。壁面に取り付けられた物体でありながら、作品の経験は部屋の光と結びつくのです。絵画の平面、彫刻の厚み、インスタレーションの空間という分類は、ここでは連続する問題として見えてきます。

この変化を「絵画から彫刻へ進んだ」という一方向の流れとして捉える必要はありません。ピーネは光のバレエを試みながら絵画も制作し、ユッカーも壁面作品と立体的な仕事を並行して発展させました。異なる媒体を行き来することで、実際の光や物質の働きがより強く意識されるようになったのです。(参照:グッゲンハイム美術館|絵画の新しい定義、ZERO財団|オットー・ピーネ略歴、ZERO財団|ギュンター・ユッカー略歴)

1966年、ZEROの中心グループが活動を終える

大きな国際的評価を得たZEROは、1966年にドイツ側の中心グループとしての協働を終えました。

国際化によって、それぞれの活動が広がる

1960年代半ばになると、ZEROの作家たちは個別の展覧会や海外での仕事を増やし、さまざまな場所で活動するようになりました。マック、ピーネ、ユッカーはそれぞれ独立した制作方法を発展させており、共通の企画へ同じ時間を割くことは難しくなっていきました。国際的な成功は交流の機会を増やすとともに、一つのグループとして活動を続ける条件も変えていきました。

ZEROの拡大は、三人が同じ作品を制作する組織として強固になったことを意味しません。ドイツ側の中心メンバーと、より広い国際的な芸術家の交流は、もともと異なる性質を持っていました。その違いを意識すると、グループとしての終了と、作品や考え方がその後も発展したことを自然につなげて理解できます。(参照:グッゲンハイム美術館|ZEROの国際ネットワーク、ZERO財団|ハインツ・マック略歴、ZERO財団|オットー・ピーネ略歴)

ローランゼックで祝われた1966年の区切り

1966年、ボンでのZERO展の開幕後、デュッセルドルフの三人の協働の終了を祝う催しが、ライン川沿いのローランゼック駅で開かれました。ZERO財団には、この「深夜の舞踏会」への招待状が保存されています。解散を秘密裏の対立として語るより、ひとつの時代の活動を区切る公開の出来事として見ることができます。

グループの名前が活動を終えても、三人の制作は続きました。ピーネはアメリカで光や空を扱う作品へ進み、マックは屋外と反射素材の探究を広げ、ユッカーは釘の作品をさらに展開します。1957年の小さなアトリエに集まった発想は、個々の作家の活動を通して別の場所へ移っていきました。(参照:ZERO財団|1966年の活動終了を記念した催し、ZERO財団|オットー・ピーネ略歴、ZERO財団|ハインツ・マック略歴、ZERO財団|ギュンター・ユッカー略歴)

1966年以降の作品を、運動の活動期と区別する

ZEROを紹介する回顧展には、1966年より後に制作された作品が含まれることがあります。初期の構想が後年に実現された例や、後から再制作された装置があるためです。例えばマックの砂漠での映像制作や、ピーネのアメリカでの活動は、ZEROの時代から続く問題意識を考えるうえで重要ですが、三人の共同運動が続いていた証拠として扱うことはできません。

美術史の年代を正確に理解するには、構想された時期、最初に作品が発表された時期、再制作された時期を区別することが大切です。光や動きを用いる作品は、元の装置が残りにくい場合もあります。活動期間と作品の後年の展開を分けて説明することで、ZEROが1957〜1966年に何を実現したのかがより明確になります。(参照:グッゲンハイム美術館|ZEROと自然環境、ZERO財団|《光のスクリーン》(1966/2011年)、グッゲンハイム美術館|ZEROの国際ネットワーク)

21世紀に再評価されるZERO

グッゲンハイム美術館などの回顧展は、ZEROを戦後美術の重要な国際的実験として見直す機会になりました。

2008年、ZERO財団が設立される

2008年、ハインツ・マック、オットー・ピーネ、ギュンター・ユッカーは、デュッセルドルフでZERO財団の設立に関わりました。作品、書簡、招待状、写真、雑誌などを保存し、研究を進めるための機関です。ZEROの初期作品には、一時的な行為や動く装置を用いたものが多く、当時の活動を理解するには作品の実物と同じくらい記録が重要になります。

財団では資料の整理と公開、展覧会や研究成果の出版が続けられています。アトリエで展覧会を企画した若い作家たちが残した手紙や印刷物は、数十年後には運動の成立を明らかにする一次資料となりました。作品を残すことと、その制作や展示がどのような条件で起きたのかを伝えることが、ZEROの保存にとって重要な課題です。(参照:ZERO財団|運動の歴史と財団の活動)

2014年のグッゲンハイム美術館ZERO展

2014年10月から2015年1月、ニューヨークのグッゲンハイム美術館は《ZERO:明日へのカウントダウン、1950〜60年代》を開催しました。10か国から40人以上の芸術家を紹介した大規模な歴史的展覧会で、ZEROを三人の作風として紹介する枠を越え、国際的な交流の仕組みとして扱いました。絵画、彫刻、映像、資料、光と動きの作品を通じて、戦後美術の別の流れを示したのです。

グッゲンハイム美術館は、ZEROに見られる新しい絵画の定義、光と運動、自然と技術、展示や実演の関係を重要な主題として整理しています。作品の材料、展示の場所、芸術家同士の交流に注目する研究が進みました。これによってZEROの歴史は、ミニマリズムやランド・アート、コンセプチュアル・アートなどとの接点も含めて考えられるようになりました。(参照:イヴ・クライン公式アーカイブ|ZERO展(グッゲンハイム美術館、2014年)、グッゲンハイム美術館|絵画の新しい定義、グッゲンハイム美術館|ZEROの国際ネットワーク)

光や動く装置を保存するという難しさ

ZEROの作品には、反射面、モーター、照明、燃焼による痕跡などが使われます。金属は表面状態が変わることがあり、機械は部品の劣化によって動かなくなることがあります。作品の原形を守るために動かさない方がよい場合もあれば、動きが失われると作品の重要な体験が伝わらなくなる場合もあります。保存の判断そのものが作品の解釈と深く結びつきます。

再制作された装置を見ると、動く光がどのような体験を生んだかを理解しやすくなります。制作年代の異なる部品や技術を使うことで、当時とは異なる条件も加わります。作品の実物、再制作、映像記録、作家の証言を組み合わせることで、物体の保存と経験の継承を両立させる試みが続けられています。(参照:ZERO財団|運動の歴史と財団の活動、ZERO財団|《天と地のあいだ》(1966年)、ZERO財団|《光のスクリーン》(1966/2011年))

ZEROは戦後美術の何を変えたのか

最後に、運動の歴史を「絵画の表面から実際の空間へ」という視点に戻して整理します。

抽象絵画の後に、別の表面を作る

1950年代のZEROの作家たちは、感情を表すような筆触が支配的だった時代に、色数を抑えた画面や規則的な構造を試みました。マックは金属を加工して光を反射させ、ピーネは盛り上がった点や穴を使って明暗を変化させ、ユッカーは釘の反復で影のリズムを生み出します。画面が物質と光の関係によって変化することを、作品の中心へ置いたのです。

この変化は絵画の可能性を広げました。描くという動作をどう変えるかに加えて、何を表面へ置き、どう光を受けさせるかが制作の問いになったからです。絵画を見せることと、そこで現実に起きている光や陰影を経験することが、互いに強く関わるようになりました。(参照:グッゲンハイム美術館|絵画の新しい定義、ZERO財団|ハインツ・マック略歴、ZERO財団|オットー・ピーネ略歴、ZERO財団|ギュンター・ユッカー略歴)

光、運動、空間が作品を成立させる

ZEROの活動が進むにつれ、動く機械や光の投影、暗い展示室、屋外の自然環境が作品の成立に深く関わるようになりました。鑑賞者の目の前に固定された像がある場合だけでなく、鑑賞者が歩き、待ち、光の変化を経験することによって成立する作品が現れます。1964年の第3回ドクメンタでの共同空間は、その発展を象徴しています。

絵画や彫刻の分類を使って作品を理解することは今もできます。ZEROが示したのは、その境界を越えて、物体、照明、運動、建築、見る人の身体を組み合わせられるという可能性でした。今日インスタレーションやキネティック・アートという名前で知られる表現を理解する際にも、こうした実験の歴史は重要な手掛かりになります。(参照:documenta|第3回ドクメンタ(1964年)公式記録、グッゲンハイム美術館|ZEROと自然環境、イヴ・クライン公式アーカイブ|ZERO展(グッゲンハイム美術館、2014年))

戦後ヨーロッパの未来を表現しようとした運動

ZEROは、戦争の破壊を経験した世代が、新しい芸術の可能性を探す中で生まれました。光や空、反射する素材、変化する装置に向けられた関心には、未来への希望が含まれています。雑誌やアトリエ展を使った自発的な活動から国際的な展覧会へ広がり、1966年に中心グループの協働は終わりました。その後も個々の作家は作品を作り続け、歴史的な評価は新たな研究によって深まっていきます。

「絵画の表面から実際の空間へ」という言葉は、この運動の変化を簡潔に伝えます。光を描くことから、光を作品の中で働かせることへ。固定した画面を眺めることから、時間と場所によって変わる出来事を経験することへ。ZEROはその移行を一つの決まった様式にすることなく、異なる芸術家の実験を結びつけた戦後美術の重要な動きでした。(参照:ZERO財団|運動の歴史と財団の活動、グッゲンハイム美術館|ZEROの国際ネットワーク、イヴ・クライン公式アーカイブ|ZERO展(グッゲンハイム美術館、2014年))

年表 — 1945年から2015年まで

ZEROの動きは、デュッセルドルフの小さなアトリエ展から始まり、1960年代半ばには国際的な美術館の展示へ広がりました。作品の制作年と運動の活動時期を区別しながら、主要な出来事を整理します。

1945年
第二次世界大戦が終結。ドイツの都市と文化制度の復興が始まる。
1955年
カッセルで第1回ドクメンタ開催。近代美術の歴史的再評価が進む。
1957年
マックとピーネがデュッセルドルフのアトリエで一夜限りの展覧会を開始。
1957年
ピーネ《周波数》など、表面の凹凸と光を利用する絵画の試み。
1958年
雑誌『ZERO』創刊。マックは「光のレリーフ」を展開。ユッカーがアトリエ展に参加。
1959年
アントウェルペンで《Vision in Motion — Motion in Vision》展。国際交流が広がる。
1960年
ピーネがシュメラ画廊で《光の祭典》展。マックも反射と光の空間実験を広げる。
1961年
『ZERO』第3号の刊行と《ZERO:出版・展示・実演》。ユッカーが中心メンバーに。
1962年
アムステルダムのステデリック美術館で《Nul》展。
1964年
第3回ドクメンタにZEROが参加。共同の《Lichtraum(フォンタナへのオマージュ)》を発表。
1965年
ステデリック美術館《Nul 1965》展に具体美術協会、草間彌生らも参加。
1966年
ボンのZERO展後、ローランゼックの催しで三人の協働終了を祝う。
1968年
マックの砂漠での構想が映像《Telemack》などに展開(グループ活動終了後)。
2008年
デュッセルドルフにZERO財団が設立される。
2014–2015年
ニューヨークのグッゲンハイム美術館で国際ネットワークを再検証する大規模回顧展。
2015年
アムステルダムのステデリック美術館でも国際的なZERO回顧展。

まとめ — ZEROが変えた絵画と空間の関係

1957年、デュッセルドルフのマックとピーネはアトリエで一夜限りの展覧会を始めました。戦争後のドイツで新しい美術を探す中、彼らは筆触による激しい抽象とは別の方法へ向かいます。金属の反射、絵の具の細かな凹凸、釘が作る陰影を通して、絵画の表面へ実際の光が働きかける条件を探りました。1961年にはユッカーが活動の中心へ加わり、三人の協働がはっきりとした形になります。

光のバレエや回転する装置では、見る人の目の前で作品が変化し、時間や展示空間が制作の重要な条件となりました。1964年の第3回ドクメンタで発表された共同の光の空間は、この発展を象徴する作品です。同時に、フォンタナ、クライン、マンゾーニ、Nulグループ、具体美術協会などとの交流が広がり、ZEROは三人を越えた国際的なつながりを持つようになりました。

1966年にドイツ側の中心グループとしての協働は終わります。運動のあとも個々の作家は活動を続け、2008年のZERO財団設立や2014年のグッゲンハイム美術館展によって研究が深まりました。ZEROが美術史に残したのは、作品を固定した像として眺める経験に、実際の光、運動、物質、空間、そして見る人の身体が関わる新しい可能性を加えたことでした。

参考資料・出典

この記事はZERO財団所蔵のアトリエ展・出版・展示記録、グッゲンハイム美術館の研究資料、documenta公式の展覧会回顧、オランダNul研究所や作家公式アーカイブを中心に構成しました。ドイツの中核グループと国際的ネットワーク、運動期の作品と後年の再制作・再展示を区別しています。

資料確認日:2026年10月14日 / ART LIBRARY