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1945–1960

アンフォルメルと戦後ヨーロッパの抽象

フォートリエ、ヴォルス、アルトゥング、スーラージュ、マチュー、ブッリ

Jean Fautrier ‘I’m falling in Love’ | London | October 2021 (PHILLIPS)
Jean Fautrier (1898-1964). Informalismo (Puntoalarte)
インフォーマリズム(Informalism)は、美術史においては一般的にフランス語の「アンフォルメル(Art informel、非定型の芸術)」として知られる、1940年代半ばから1950年代にかけてヨーロッパを中心に展開された前衛的な抽象絵画の運動です。
Jean Fautrier, l’enragé(狂人)
パリ市立近代美術館は、1964年に亡くなった画家ジャン・フォートリエに敬意を表し、大規模な回顧展「物質と光」を開催します。前回の展覧会から約30年ぶりとなる今回の展覧会では、約160点の絵画を含む約200点の作品が展示され、この唯一無二の孤高の芸術家を偲びます。

1945年から1960年頃までのヨーロッパでは、第二次世界大戦の経験とともに、絵画の作り方を根本から変える試みが広がった。フランスのジャン・フォートリエは厚く盛り上げた下地で匿名の頭部を描き、ヴォルスは小さな画面で染みと線を重ね、ハンス・アルトゥングは線の自由な動きと綿密な構成を組み合わせた。ピエール・スーラージュは胡桃の染料と幅広い刷毛から独自の抽象を生み出し、ジョルジュ・マチューは絵の具を素早く走らせる制作を展開した。イタリアのアルベルト・ブッリは、麻袋や木、鉄、火を使い、支持体そのものを作品へ変えていった。

これらの実践は、「アンフォルメル」「抒情的抽象」「タシスム」「物質絵画」などの名称で論じられてきた。大きな共通点は、あらかじめ決められた図形や具象の再現に依存せず、材料や線の動きから画面を成立させることにある。フォートリエの《人質》にはナチ占領下の処刑という具体的な歴史的背景があり、ヴォルスとアルトゥングも戦争や強制的な移動に人生を左右された。作品の成り立ちはそれぞれ異なり、制作の方法を知ると同じ名称の中に多くの独立した発見があったことが分かる。

戦後のパリでは私設画廊が新しい抽象を紹介し、批評家たちはその多様性を説明する言葉を探した。1945年のフォートリエ《人質》展、1947年のヴォルス展、1951年の国際的な比較展《対峙する激烈さ》、1952年のミシェル・タピエ『もう一つの芸術』は、個別の実験が美術史上の一つの動向として認識される節目になった。同じ頃、ニューヨークでも抽象表現主義が発展し、ポロックやデ・クーニングの作品がパリへ届いた。二つの都市は競争すると同時に、展覧会や画廊を通して交流していた。

この記事では、作品の表面を詳しく見ながら、画家が何を使い、どのように描き、何を選んだのかをたどる。戦争の記憶と素材の研究を区別して捉え、展示と批評による評価の成立も考える。さらに、リオペルやヴィエイラ・ダ・シルヴァを含む多国籍の画家たちがパリに集まっていたこと、ブッリの麻袋や縫合が絵画の範囲を広げたことも取り上げる。戦後ヨーロッパの抽象を、ニューヨーク美術の周辺ではなく、多様な独立した実践として理解するための美術史である。

戦争が終わったヨーロッパと新しい抽象

解放後のパリで何が問われたのか

1944年にパリが解放され、翌年ヨーロッパで第二次世界大戦が終わると、画家たちは破壊された都市と不安定な社会の中で制作を再開した。占領と迫害の経験を経た人々にとって、戦前に確立された美術の形式をそのまま続けることは簡単ではなかった。人間の姿を保ったまま描くか、何を現実の手がかりとして残すか、絵の具そのものをどう扱うかが、相互に結びついた問題になった。

この時期のパリには、ピカソやシュルレアリストたちの仕事、戦前から続く幾何学的抽象、新しい具象絵画が共存していた。フォートリエ、ヴォルス、アルトゥングらは、その中で画面の表面や線の動きに新たな可能性を探した。戦後の抽象は一夜に現れた流行ではなく、1920〜30年代の実験と戦争後の切実な制作条件が交わるところで育った。(参照:ポンピドゥー・センター|1940〜60年代フランスの抽象展研究資料)

アンフォルメル、抒情的抽象、タシスムという呼び名

「アンフォルメル」は、フランス語の「定まった形式を持たない」という意味に由来し、あらかじめ決められた幾何学や構図より、絵の具の物質性、染み、偶然、身体の動きを重視する作品群を示す。批評家ミシェル・タピエが1950年代初頭にこの呼称を広げた時点でも、作家たちは同じ制作方法を共有していなかった。盛り上げた下地と素早い線を、ひとつの見た目としてまとめることはできない。

同時代には「抒情的抽象」という表現が1947年頃から用いられ、「タシスム」は染みや斑点を意味する語から発展した。名称ごとに強調点と成立時期が異なる。作品が最初にあり、それを解釈し、比較する批評の言葉が後から増えていったのである。名称の違いを知ると、絵画そのものを細かく見分けやすくなる。(参照:ポンピドゥー・センター|1940〜60年代フランスの抽象展研究資料)

「抽象表現主義のヨーロッパ版」という説明を越えて

同じ時代のニューヨークではポロックやデ・クーニングらが大画面の抽象を発展させていた。このため戦後ヨーロッパの絵画は、しばしばアメリカの抽象表現主義と並べて紹介される。双方とも規則的な幾何学から距離を取り、線や色を絵画の中心に置いた点では共通する。展覧会を介した交流も実際に存在した。

作品に近づくと、異なる問題が見えてくる。フォートリエの小さな頭部に積み上がる白い下地、ヴォルスの擦り傷のような線、スーラージュの褐色の刷毛跡、ブッリの縫われた麻袋は、独自の造形条件を持つ。ヨーロッパ美術をニューヨークの影として語るより、それぞれの都市と作家で何が試みられたのかを追う必要がある。(参照:ポンピドゥー・センター|パリとニューヨークの戦後抽象)

戦後の制作を支えた画廊と批評

小規模な画廊が新しい作品を紹介した

戦後パリでは美術館の大きな回顧展に先立って、個人経営の画廊が新しい作家を紹介した。ルネ・ドルーアン画廊はフォートリエやヴォルスの重要な展覧会を開き、リディア・コンティ画廊はアルトゥングを紹介した。ニナ・ドーセ画廊、コレット・アランディ画廊、ポール・ファケッティのスタジオも、まだ評価の定まらない抽象を受け入れる場となった。

こうした画廊の展示室は、作品を売る場所であると同時に批評家、画家、作家、収集家が交流する小さな公共空間でもあった。絵画の歴史は制作年だけを並べても見えてこない。作品がどのような壁に掛けられ、誰の文章と一緒に紹介され、どの観客に届いたのかが、その後の評価を左右した。(参照:ポンピドゥー・センター|戦後パリの画廊の発展)

展覧会で作家同士の関係が作られる

1947年には「想像的なもの」を主題とする展覧会などで、ヴォルス、アルトゥング、マチュー、リオペルらが一緒に紹介された。自由な曲線や色の染みを持つ画家たちが同じ会場に並ぶと、個別の仕事が共通する新傾向として認識される。画家が同じ宣言を掲げて結成した団体とは異なる、美術をめぐる関係の作られ方だった。

1948年のコレット・アランディ画廊での実験的な展覧会や、1951年の《対峙する激烈さ》展へ進むにつれて、作品を比較する枠組みは国際的になっていった。画廊は、まだ名前のない絵画を見せるために、画家の選び方から展覧会の題名まで工夫した。そこで作られた関係が、後の美術史の分類にも影響を残した。(参照:ポンピドゥー・センター|1940〜60年代フランスの抽象展研究資料)

批評家が美術の歴史を組み立てた

ミシェル・タピエ、ジャン・ポーラン、シャルル・エスティエンヌらは、戦後の作品を理解する新しい言葉を探していた。作家の表現が多様であるほど、それらを一つの時代の現象として示すために文章や展覧会企画が重要になる。「アンフォルメル」や「タシスム」という語も、このような批評的な仕事の中で広がった。

批評家の分類には強い説明力がある。厚い物質を盛る画家と高速で線を引く画家を、同時代の新しい絵画として比較できるからである。その反面、名称が有名になるにつれて作家固有の違いが見えにくくなることもある。今回の記事では、批評語が生まれた理由を示しながら、作品の具体的な構造へ何度も立ち戻る。(参照:ポンピドゥー・センター|1940〜60年代フランスの抽象展研究資料)

ジャン・フォートリエの歩みと制作の素材

戦前から続いた絵の具の物質的な研究

ジャン・フォートリエは、1920年代から暗い色調の人物や静物を描き、1930年代には絵の具を表面へ厚く積み重ねる方法を発展させた。後に代表作となる《人質》連作の異様な表面は、占領期の出来事に直面した瞬間に発明された技法ではない。すでに手元にあった材料への関心が、戦争によって新たな主題と結びついたのである。

美術史の中で《人質》は戦後美術の象徴として語られがちだが、制作の歴史を遡ると継続した実験が見えてくる。作家の人生の出来事だけで作品の見た目を説明するより、何を描くためにどんな技法を育ててきたのかを併せて知ると、その変化を具体的に理解できる。(参照:ポンピドゥー・センター|フォートリエ《人質の頭部》)

紙に盛り上げられた白色地と油絵の具

《人質の頭部》では、フォートリエは紙の上に炭酸カルシウム系の白い下地を厚く盛り、油絵の具やパステルを重ねて表面を作った。描いた紙はキャンバスに裏打ちされ、油彩画に近い形で展示された。通常は筆の跡の下に隠れる下地が、画面の厚さや起伏そのものになっている。所蔵館は作品を「キャンバスに裏打ちした紙への油彩」と記録している。

中央には顔を思わせる楕円の形が現れ、その周りに色のにじみや細い線が重なる。見えるのは頭部の正確な輪郭より、下地に盛り上がった顔のような存在である。彫刻を思わせる物質の厚みと、かすかな描線が一枚の画面で共存することが、この作品の独特な強さを作っている。(参照:ポンピドゥー・センター|フォートリエ《人質の頭部》)

《皮を剥がれた人》と身体の境界

フォートリエが制作した《皮を剥がれた人》にも、身体の形が曖昧な物質として現れる。皮膚や肉に似た起伏を持つ表面は、人体を遠くから眺めるような肖像画とは異なる距離感を生む。作品の前に立つ人は、盛り上がった色と厚みをまず見て、そこから身体を連想する。

こうした表現では、絵の具が何か別のものの外見を再現する役割を越え、作品の主題を担う。顔が白い下地の上に浮かび、傷のような線が材料の中へ刻まれる。身体の脆さをどんな技法で表すのかという問題と、絵画の表面をどこまで物質として扱うのかという問題が、同じ制作の中に収まっている。(参照:ポンピドゥー・センター|フォートリエ《皮を剥がれた人》)

《人質》連作とナチ占領下の記憶

収容と処刑の歴史が背景となった

ナチス・ドイツによるフランス占領中、フォートリエが滞在していたシャトネ=マラブリー周辺では、ゲシュタポによる囚人の処刑が行われた。近隣で集団埋葬地が見つかったことも、1943年頃からの《人質》連作と結びつけて美術館資料に記されている。占領下の死者をめぐる経験が、作家にとって具体的な制作の背景になった。

連作の題名にある「人質」は、この出来事との関係を明確に示している。作品は戦争で亡くなった匿名の人々を念頭に制作され、その姿を簡潔な形へ縮約した。歴史的な事実と絵画の方法がここで交わる。政治的な暴力を扱いながら、画家は処刑場を再現する歴史画とは別の道を選んだ。(参照:ポンピドゥー・センター|フォートリエ《人質の頭部》)

顔を残しながら個人を特定しない

《人質の頭部》の画面には、顔らしい輪郭とごく少数の線が存在する。目、鼻、口の位置は定かでなく、正面から見た人物の肖像かどうかさえ判別しにくい。フォートリエは人物を描くための手がかりを残しつつ、個人を特定する形を消していった。観客は顔に見える物質の塊に近づき、その表面を時間をかけて見ることになる。

匿名の頭部を繰り返すことは、集団的な死の規模を視覚化する一つの方法だった。顔には一人ひとりの違いを認められる程度の変化があり、明確な身元は示されない。その往復によって、記念すべき個人の姿と、数多くの名前を失った死者の存在が一つの連作の中で響き合う。(参照:ポンピドゥー・センター|フォートリエ《人質の頭部》)

柔らかな色彩と残酷な主題の距離

フォートリエの頭部には、白、淡い桃色、緑、薄紫など、時に穏やかに見える色が使われている。題名から想像される暴力的な光景と、画面の色彩が与える感覚には大きな隔たりがある。傷を思わせる形も、絵肌の盛り上がりや色彩の変化として視覚的に魅力を持つ。この複雑さは、1945年の展覧会でも鑑賞者や批評家の議論を呼んだ。

人間の苦痛を作品として見るとき、美しさは何を意味するのか。悲惨な出来事を視覚的に魅力あるものへ変えることへの戸惑いは、戦後美術の倫理に深く関わる。絵画が犠牲者の記憶を保存する可能性と、美的な表面が現実の痛みを遠ざける危険性が、同じ作品の中に残り続ける。(参照:ポンピドゥー・センター|フォートリエ《人質の頭部》)

1945年《人質》展と展覧会空間

ルネ・ドルーアン画廊での公開

1945年10月から11月にかけて、フォートリエの《人質》連作はパリのルネ・ドルーアン画廊で公開された。解放から間もない都市で、戦争の暴力を記憶する作品が私設画廊の壁に並んだのである。カタログにはアンドレ・マルローが寄稿した。文学者や批評家がこの展覧会をめぐって文章を残したことも、作品の受容に影響した。

画廊という場所は、国立の記念施設とも戦争資料館とも異なっている。絵画を商品として扱う場所で、死者の顔が繰り返し示された。そこでは鑑賞者が絵画の技法と、占領期の出来事の双方へ向き合うことを求められた。戦後の公共的な記憶が、美術展という形式で議論された一つの重要な事例である。(参照:ポンピドゥー・センター|フォートリエ《大きな胴体》と1945年の《人質》展)

暗い壁に並ぶ頭部が作る経験

当時の展示は、暗い壁面に小ぶりな頭部を続けて並べる形で紹介された。単独で見れば厚塗りの抽象に近い作品も、同じ題名を持つ顔が連続すると、無数の犠牲者の存在を思わせる。大きな歴史画一枚で事件を説明する代わりに、似た構図を持つ複数の絵が鑑賞者の歩行と視線の中で重なっていく。

連作を展示する順番と壁の色は、作品一枚の内部には存在しない効果を生む。絵画の反復によって個体の違いが消えそうになり、近づくと一枚ごとの異なる傷や色が見えてくる。この経験はフォートリエの作品を、物質の研究であるとともに集団的な記憶の形式として成立させている。(参照:ポンピドゥー・センター|戦後美術とアンフォルメル)

同時代の批判とその後の位置づけ

《人質》連作が受け取られたのは、戦争の終結直後という特別な時期だった。芸術家が抵抗運動や暴力の記憶へどう応答するか、犠牲者を表すためにどんな形式を選ぶべきかという論争が起きていた。フォートリエの物質的な絵肌は、その問題を直接的な記録から離れた場所へ置いたため、強い関心と異論を同時に招いた。

1950年代になると、連作はアンフォルメルの起点の一つとして繰り返し参照された。後の評価を知っていると先駆的な名作として見やすいが、当時の観客にとっては歴史と美術の関係を問い直す新しい試みでもあった。この受容の変化を知ることで、一つの作品の意味が時間とともに作られる過程が見えてくる。(参照:ポンピドゥー・センター|戦後美術とアンフォルメル)

ヴォルスの写真、素描、亡命経験

ヴォルス、『自然物語』|展覧会紹介
Wols, Histoires naturelles | Visite d’expo (Centre Pompidou)
ウォルス:宇宙と街(レイナ・ソフィア美術館)
Wols: el cosmos y la calle (Museo Reina Sofía)

ドイツ生まれの作家がフランスで活動した

ヴォルス(Wols)は本名をアルフレート・オットー・ヴォルフガング・シュルツェといい、ドイツに生まれ、1930年代からフランスで写真、素描、水彩などに取り組んだ。パリの前衛文化に触れ、物の輪郭や都市の断片を観察する経験を積んでいる。戦後の抽象画だけを見ると急に奇妙な像を発明したように見えるが、小さな画面へ細部を凝縮する感覚には長い準備があった。

彼の作品は、特定の国の「国民的美術」に分類しにくい。戦争前の移住、フランスでの生活、戦時の収容を経て、1946年頃に油彩へ向かった。個人の制作は、ヨーロッパの国境が人々の生活を左右した歴史と深く関わっている。(参照:ポンピドゥー・センター|ヴォルス《青いザクロ》)

収容生活と制作を続ける条件

第二次世界大戦中、ドイツ出身だったヴォルスはフランスで収容生活を経験した。移動や生活の自由を制限された時期にも、紙へ描く活動が続いた。戦争中から戦後にかけての小さな素描には、糸、根、骨格、都市の構造のような細かな形が、狭い紙面の中で重なっている。持ち運びやすい紙という支持体も、彼の制作を考えるうえで重要だった。

作品の複雑な線をすべて心理状態の記号と結びつけると、彼が観察し考えていた自然の形や写真の経験が見えにくくなる。戦時の経験は実際の制作条件であり、個々の画面の形を作った唯一の原因とは限らない。制作の環境と形式の研究を併せて読むことが、ヴォルスを理解する手がかりになる。(参照:ポンピドゥー・センター|ヴォルス《青いザクロ》)

小さな紙の中で増殖する形

ヴォルスの素描や水彩には、苔、結晶、植物の根、微生物、建物を思わせる小さな線が密集する。画面の大部分に淡い染みを広げ、その上に細い線を増殖させることもあった。これらは、人体や風景を輪郭で描き分ける方式から離れ、いくつもの形が変化し続けるような空間を生み出している。

小さな作品の前では、鑑賞者が近づき、細部を探すことになる。戦後の新しい絵画を大画面への拡大だけで説明する考え方は、ヴォルスの仕事に当てはまらない。手元の紙の中に未知の世界を発生させることも、同時代の抽象が持っていた大切な方向だった。(参照:ポンピドゥー・センター|戦後美術とアンフォルメル)

ヴォルスの油彩と《青いザクロ》

1946年、油絵の具が形を変えた

1946年頃、ヴォルスは油彩による制作を本格化させた。チューブから出した絵の具を押し潰し、厚い黒い線で曖昧な形を囲み、周囲へ染みや飛沫、ひっかき傷を残す方法を発展させる。紙の上に繊細な線を積み重ねる仕事とは、絵の具の粘度と表面の強い抵抗が異なる。描く対象の輪郭より、絵の具がそこに残る過程が前面に現れる。

画面には植物や小さな生物のような形が残りながら、筆触によって崩されている。抽象へ進むことが、すべての 具体的な形を消すことを意味するわけではなかった。形が現れる途中や消える途中の状態を、油彩という材料の動きの中で捉えたのである。(参照:ポンピドゥー・センター|ヴォルス《青いザクロ》)

《青いザクロ》に現れる果実と渦

1946年作《青いザクロ》は、題名に果実の名を持ちながら、中央の形がひとつのザクロへ固定されにくい作品である。濃い線が何かを包み込み、周囲には染みや傷が広がる。果実の外皮を思わせるかたまりは渦巻きのようにも、宇宙的な動きのようにも見える。所蔵館は、絵の具をチューブから直接押し出し、それを潰して輪郭を作る方法を詳しく記録している。

ヴォルスは自然との関係を、物をそのまま模倣することとは別の形で考えていた。ザクロの正確な外形を写し取る代わりに、植物に生じる圧力や生成の感覚を一枚の画面へ置く。題名が残す具象の手がかりと、抽象的な物質の動きが、見方を行き来させるのである。(参照:ポンピドゥー・センター|ヴォルス《青いザクロ》)

小さな画面が持つ物質的な強度

《青いザクロ》は縦46センチ、横33センチの油彩画で、戦後アメリカの大画面抽象と比べると小さい。鑑賞者が顔を近づければ、潰された絵の具と黒い線、削られた下地の細部が前面へ現れる。遠くからの一瞥では捉えにくい物質の重なりが、作品を見続ける時間を作る。

こうした小品には、画家の身体を画面全体へ投入する大作とは別の強度がある。紙上の素描から油彩への変化、絵の具の厚みと線の鋭さの組み合わせが、近距離の経験を作った。アンフォルメルを絵の具の大きな身振りで代表させる場合にも、ヴォルスの小さな画面を見落とすことはできない。(参照:ポンピドゥー・センター|ヴォルス《青いザクロ》)

1947年ヴォルス展と受容の変化

ルネ・ドルーアン画廊に並んだ油彩40点

1947年5月22日から6月17日まで、ルネ・ドルーアン画廊はヴォルスの油彩40点を展示した。《蝶の羽》もその中に含まれていた。繊細な線と暴力的な絵の具の処理が同居する作品群は、当時のパリの若い画家や批評家に大きな刺激を与えた。ジョルジュ・マチューは後年、この展覧会を決定的な変化として回想している。

画廊に一人の画家の作品をまとめて見せることで、それまで個別の実験として捉えられていた仕事がひとつの方向として見えるようになった。こうした発表の機会は、作家の作品が美術史上の意味を持ち始める過程に直接つながっている。(参照:ポンピドゥー・センター|ヴォルス《蝶の羽》と1947年展)

《蝶の羽》に見える曖昧な生命体

《蝶の羽》では、淡く揺らぐ地の上に濃い線が重なり、羽の薄さや虫の体を思わせる形が現れる。黒い筆触は軽い染みと衝突し、画面には擦れや引っかき傷も残る。作品の題名は見る人へひとつの手がかりを与えるが、実際に描かれたものは蝶の羽として安定していない。自然の一部にも未知の機械にも見える変化がある。

所蔵館は、ヴォルスが絵の具の物質性を強く信頼していたことを指摘している。絵の具の痕跡を見る時間が長くなるほど、名付けられた図像は揺らぎ始める。作品の表面が一つの意味へ回収されず、見る人に複数の像を発見させるところに、彼の絵画の独自性がある。(参照:ポンピドゥー・センター|ヴォルス《蝶の羽》と1947年展)

1951年の死と後世の「存在」の解釈

ヴォルスは1951年に38歳で亡くなり、油彩画の本格的な制作期間は長くなかった。戦後間もないパリで発表された作品が、短期間のうちに新しい抽象の先駆として評価されるようになる。サルトルら知識人は、彼の作品を生きることや存在の問題に結びつけて読んだ。こうした解釈も、作家の名声と作品の受容を形づくってきた。

実存主義的な言葉は、傷つけられたような表面や不安定な像を理解する助けになる。ヴォルスの作品には、自然科学、写真、音楽、素描の研究から発展した面もある。さまざまな関心を持つ一人の画家の仕事として見ると、短い生涯を悲劇の物語だけで説明する場合より、はるかに多くの発見がある。(参照:ポンピドゥー・センター|ヴォルス《蝶の羽》と1947年展)

アルトゥングの抽象と戦争前の蓄積

1930年代から続いた線と構成の探究

ハンス・アルトゥングはドイツ生まれで、戦前から抽象絵画と素描を研究していた。1930年代の制作では、線が風景や人物の輪郭を表す役割から離れ、画面の中で独自の運動を持つようになっていく。自由に見える線を考える際にも、彼が長年にわたり構図や道具の性質を試してきたことが重要である。

戦後のアルトゥングは急速に評価されたため、1947年を作家としての出発年のように捉えられることがある。実際には戦前の素描や色の研究が、戦後の画面を成立させる基盤となっていた。歴史的な転機を知りながら、作品の技法が積み重なっていった時間も確認したい。(参照:ポンピドゥー・センター|アルトゥング《無題》(1947年))

フランス側での軍務と戦争による負傷

アルトゥングは戦時にフランス側の部隊で軍務に就き、負傷を経験した。生まれた国と活動した国の間で起きた戦争が、自身の生活と身体へ深刻な影響を与えたのである。戦後、彼はフランスへ戻り、1947年にパリのリディア・コンティ画廊で最初の個展を開いた。その展覧会は彼の評価が高まる重要な機会となった。

作品の線の鋭さを身体の負傷と直接結びつけるだけでは、彼の制作方法を十分に説明できない。戦争体験が現実の背景にありながら、絵画の構成には長い技術研究が働いていた。人生の出来事と作品の具体的な作り方を区別して見ることが必要になる。(参照:ポンピドゥー・センター|アルトゥング《無題》(1947年))

1947年の個展と抒情的抽象の注目

1947年のパリでアルトゥングの抽象は注目され、同年には評論家ジャン=ジョゼ・マルシャンが「抒情的抽象」という語を使った。サロン・デ・レアリテ・ヌーヴェルで紹介された、幾何学的な厳格さとは異なる自由な抽象を評価する言葉だった。アルトゥングはこの傾向の代表的な画家として認識されていく。

「抒情的」という響きは、絵画を内面の感情の直接的な吐露として読ませやすい。アルトゥングの画面には、線の始点と終点、向き、色面の配置を選ぶ慎重な構成がある。批評語による大きな分類と、作品の細部の作り方を両方見ることで、その絵画の強度がより明確になる。(参照:ポンピドゥー・センター|アルトゥング《無題》(1947年))

アルトゥングの身振りはどのように作られたか

1947年の《無題》にある線の緊張

1947年の紙作品《無題》では、黒い線が画面を横切り、色鉛筆やパステルによる色面と関係を作っている。線は急に方向を変え、交差し、時には画面の外へ広がろうとする。そこで描かれるのは物体の輪郭より、線自体が起こす力の関係である。部分的に重なった色面は、黒い線を手前へ押し出したり、逆に奥へ沈めたりする。

所蔵館は、この作品の表現を建築的な空間構成とも比較している。線の自由さと、画面全体を制御する構成力が同時に働くためである。線が動くことそのものを主題としながら、画面を成立させるために色や余白の位置が慎重に選ばれている。(参照:ポンピドゥー・センター|アルトゥング《無題》(1947年))

素描からの拡大・転写という制作工程

アルトゥングの作品には、素描を基に格子を利用して拡大し、キャンバスへ移す工程があった。1948年頃から集中的に制作したパステルは、後の絵画の基礎となる。素早い身振りを思わせる線であっても、紙上で一度確かめた構成を別の大きさへ置き換えている場合がある。線が一瞬の衝動に見えることと、それが完成するまでの時間の長さは分けて考えられる。

この方法は、戦後抽象を「即興性」という単一の言葉で説明することの難しさを示している。アルトゥングは、自由な線の効果を持続的に研究し、拡大しても運動感が失われない形を探した。計画性は線の自由さを損なう要素ではなく、その表現を画面へ定着させる技術だった。(参照:ポンピドゥー・センター|アルトゥング《無題》(1947年))

パステル、油性鉛筆、刷毛が変える線

アルトゥングの1947年の素描には、パステルと墨、あるいは油性鉛筆など異なる材料が使われている。柔らかいパステルは太く霞む線を作り、鉛筆は細部を正確に刻める。筆や刷毛は液体を運ぶため、線の縁ににじみや速度の変化を残す。道具ごとの抵抗を知っていたからこそ、作家は必要な線の質を選べた。

完成した画像からは一回の筆の動きに見えても、実際には材料の重ね方や修正によって表面が変化している。制作技法を知ると、抽象画を「何かを表現した気持ち」の記録だけとして見るより、手と材料の間で何が起きたのかという具体的な問題として読むことができる。(参照:ポンピドゥー・センター|アルトゥング《無題》(1947年、油性鉛筆))

スーラージュが選んだ日常的な材料

戦後パリで抽象画を始める

ピエール・スーラージュは1946年頃から抽象絵画に本格的に取り組んだ。1947年から49年の紙作品では、褐色の大きな痕跡と明るい余白の関係を集中的に研究している。暗い形は人物や文字の輪郭ではなく、紙の表面を分節する力として働く。初期の仕事には、後年の作品へつながる黒と光の関係が早くも現れている。

同じ戦後パリの抽象の中でも、スーラージュは作品を心理的な即興の結果として説明することに距離を置いてきた。画面の中で形と色が互いをどう変えるのかを重視し、鑑賞者の視線によって関係が生まれることを考えた。そのため、感情的な筆触という説明よりも、実際の痕跡と背景を見比べる方が彼の作品を理解しやすい。(参照:ポンピドゥー・センター|スーラージュ《胡桃の染料、紙》(1948年))

胡桃の染料を絵の具として使う

スーラージュが1947年頃から使った「ブロ・ド・ノワ」は、胡桃の外皮から作られる褐色の染料で、木材や家具を染める用途も持つ。美術材料としては日常的で安価なものだった。スーラージュは、その暗く温かい色調、流動性、幅広い刷毛で大量に扱える点に魅力を感じたと語っている。1947〜49年には、この染料による紙作品を約50点制作した。

薄い液体であるため、紙へ広げる量や速度によって濃さが変わり、刷毛の跡もはっきり残る。油絵の具の厚い絵肌とは違う形で、材料の浸透と乾燥が画面を作る。紙の明るさが褐色を際立たせる一方、濃い部分は周囲の白を強く見せる働きを持つ。(参照:ポンピドゥー・センター|スーラージュ《胡桃の染料、紙》(1948年))

建築塗装用の広い刷毛と身体の動き

伝統的な細い絵筆よりも、建物の壁や木材を塗るための大きな刷毛を選んだことも、スーラージュの制作を特徴づける。幅のある道具を紙へ運ぶと、線は太い帯となり、力の入れ方によって液体の濃淡と縁の形が変わる。狭い紙面にも大きな構造を置けるため、作品は実際の寸法以上に堂々とした印象を与える。

刷毛の太さは、作家の手の動きを作品へ残す方法そのものを変える。線を少しずつ描き込むより、一度の幅広い動作で色面を作り、その間に残った紙の白を見ながら構成を調整する。日常的な道具の選択が、新しい抽象の形式を生み出した具体的な例である。(参照:ポンピドゥー・センター|スーラージュ《胡桃の染料、紙》(1948年))

《胡桃の染料、紙》を詳しく見る

1948年の紙作品の画面構造

ポンピドゥー・センター所蔵の《胡桃の染料、紙 65×50cm、1948-1》では、褐色の太い帯がいくつも交差し、暗い部分と紙の明るい部分が組み合わされている。筆跡は記号のように見える瞬間もあるが、具体的な文字へ読み取ることはできない。色面は画面を覆い尽くさず、その間に残った空白が形を生み出すことに参加している。

美術館は、中央の形が紙から浮き上がるように見えることや、小さな作品でも記念碑的な印象を持つことを指摘している。近くから見ると、液体の染料が移動した方向や幅広い刷毛の痕跡が見える。暗い色と空白の関係を、道具の具体的な働きが支えている。(参照:ポンピドゥー・センター|スーラージュ《胡桃の染料、紙》(1948年))

黒褐色を描くことで白い紙が光る

暗い帯が重なると、紙の白い部分は単なる背景として退くのではなく、隙間から光が差し込むように感じられる。褐色は白を包囲し、白は褐色の形を切り分ける。二つの要素が互いに作用することで、そこに独立した形のようなものが立ち上がる。スーラージュが追究していたのは、目に見える関係がどのように生まれるかという問題だった。

後年の「ウートルノワール(黒の彼方)」にまでつながる光への関心は、初期の褐色の紙作品にも認められる。ここでの光は描き込まれた太陽や反射の絵ではなく、画面の材料と観客の視覚の関係から現れる。表面に置かれた色が、残された余白の明るさを変えてしまうのである。(参照:ポンピドゥー・センター|スーラージュ《胡桃の染料、紙》(1948年))

1948年のドイツ巡回展に出品された意味

1948年、スーラージュの胡桃の染料による作品は、ドイツ各地で開催されたフランスの抽象絵画展へ出品され、展覧会のポスターにも使われた。第二次世界大戦が終わって間もない時期に、フランスの新しい絵画がドイツへ紹介されたことは、美術交流の再開という点でも意味を持つ。作品はパリの画廊だけに留まらず、国境を越えて見る人へ届くようになった。

紙作品を大きな油彩画のための下絵とだけ考えると、この展覧会での役割が見えなくなる。作品は紙という支持体の性質を使った独立した表現として評価され、複製を通して広まった。戦後ヨーロッパの抽象が国際的な場を得る過程に、スーラージュの小さな紙の仕事が参加していた。(参照:ポンピドゥー・センター|スーラージュ《胡桃の染料、紙》(1948年))

スーラージュの実験と抽象絵画の考え方

ガラスとタールを組み合わせる試み

1948年、スーラージュはガラスとタールを組み合わせた珍しい作品も制作した。美術館資料には、パリ解放時に損傷したリヨン駅のガラス屋根をタールで補修した光景が着想の一つだったという作家の記憶が紹介されている。透明で硬いガラスと、黒く粘るタールという材料の取り合わせは、通常の紙やキャンバスとは異なる光の関係を生む。

この作品は、都市の日常で目にした材料の組み合わせが、作家の実験へ入ってくる例である。戦争と復興の歴史が材料を通じて作品へ関係した可能性はある。画面の実際の効果を考える際には、ガラスを通る光とタールの不透明さ、その物理的な違いをまず確かめたい。(参照:ポンピドゥー・センター|スーラージュ《ガラスにタール》(1948年))

寸法と制作日を題名にする

スーラージュは、作品の題名を材料、寸法、制作年月日で示す形式を長く用いた。《胡桃の染料、紙 65×50cm、1948-1》のような表記は、図像の内容をあらかじめ決める物語的な題名とは性格が異なる。鑑賞者は作品を見ながら、筆跡が文字か物の形かを先に教えられることなく、画面の暗さや余白へ目を向けることになる。

作品の意味を題名で一つに固定しない態度は、画家が何も考えていなかったということを意味しない。褐色の色面と紙の白との関係を、鑑賞者の眼の中で経験してほしいという願いがある。抽象画における題名も、見る行為を方向づける重要な要素だと分かる。(参照:ポンピドゥー・センター|スーラージュ《胡桃の染料、紙》(1948年))

アルトゥングとスーラージュ、二種類の黒い線

アルトゥングとスーラージュは、ともに暗い痕跡を画面の中心に置いたため、同じ抽象に分類されることがある。アルトゥングでは細い線が曲がり、交差し、緊張する方向へ意識が向かう。スーラージュでは太い帯が構成を作り、そこに残った明るい部分まで画面の要素になる。両者の線の太さや道具を比較するだけでも、画面の作られ方は異なっている。

また、アルトゥングには素描の拡大と転写があり、スーラージュには染料の流動性と広い刷毛を使う仕事があった。見た目が自由な抽象を、同じ瞬間的な身体表現として理解すると重要な差が失われる。個々の画家の方法を知ることで、アンフォルメルの内部に多様な考え方があったことが明らかになる。(参照:ポンピドゥー・センター|アルトゥング《無題》(1947年))

ジョルジュ・マチューと新しい抽象の舞台

1940年代に形を解放しようとした

ジョルジュ・マチューは1940年代半ばから非具象の絵画を制作し、線と染みの結びつきから独自の表現を探した。1948年作《オパルサンス》などには、暗い地と明るい痕跡が緊張しながら現れる。彼の作品は、画面をあらかじめ幾何学的に区切る構図から離れ、線が広がり、重なり、急に停止することで関係を作っていく。

マチューは次第に制作速度を自らの重要な方法と考えるようになった。絵の具をチューブから直接出し、長い線を短い時間で描くことで、筆と支持体の間に生じる決断を前面に押し出す。完成作の外見と制作中の身体運動が、互いを強める方向へ進んだ。(参照:ポンピドゥー・センター|ジョルジュ・マチューの作品と展覧会)

画家であり展覧会の企画者でもあった

マチューは作品を制作するだけでなく、パリで新しい非幾何学的抽象を紹介する展覧会にも積極的に関わった。異なる作家の作品を集めることで、既存の抽象とは違う領域があることを示そうとしたのである。この活動は、後にミシェル・タピエが広めるアンフォルメルの議論とつながっていった。

自ら作品を作る画家が、同時にどの作家を歴史の中心へ置くかを考える。マチューの行動には、戦後のパリで抽象絵画を巡る主導権が争われていた状況も反映されている。作品の新しさを批評家の言葉だけに任せず、展覧会という形で自分たちの仕事を示した点に特徴がある。(参照:ポンピドゥー・センター|1940〜60年代フランスの抽象展研究資料)

1948年の実験的なグループ展

1948年、パリのコレット・アランディ画廊で、アルトゥング、ヴォルス、ピカビア、スタリー、マチュー、タピエ、ブライアンらの名前を略号のように並べた展覧会が開催された。異なる世代や方法の作家たちを同じ会場へ集める構成は、新しい抽象の輪郭を探る試みだった。特定の宣言を掲げる画派を作るより、作品同士の比較が先にあった。

展覧会の題名や参加作家の選び方そのものが一つの批評となっている。そこで並べられた画家は、色面、線、染みを異なる方法で使っていた。何が彼らを結びつけるのかという問いは、数年後の1951年の国際展でさらに明確に提示される。(参照:ポンピドゥー・センター|1940〜60年代フランスの抽象展研究資料)

マチューの速度、公開制作、歴史画

絵の具を押し出す速度が生む線

マチューは1950年代に、チューブから直接絵の具を押し出し、大きな画面へ長い線を走らせる方法を発展させた。短時間で制作することは、偶然へ任せる部分を増やすとともに、画家が判断する瞬間を作品の中心へ置くことになる。流れる絵の具の粘度、身体の移動、線の切れ目が、完成した画面にも残る。

高速で描かれた線は、アルトゥングの慎重な転写と好対照をなす。どちらも自由に見える抽象だが、完成に至る時間の使い方が異なっている。抽象作品を読む際に、線が何に見えるかに加えて、いつ、どのような道具で置かれたかが重要になる。(参照:ポンピドゥー・センター|ジョルジュ・マチューの作品と展覧会)

公開制作が観客へ示したもの

マチューはその後、大きな作品を観客の前で制作することで、描く行為そのものを見せる方向へ進んだ。作家の身体が動き、絵の具の線が増えていく過程が公になると、観客は完成した作品の前に立つ時とは別の経験をする。作品が生まれる時間も、表現の一部として意識されるようになる。

こうした公開制作は、後のパフォーマンスの歴史と比較できる要素を持つ。戦後の抽象の中で、制作行為はアトリエの内部に隠された手順から、観客の視線を集める出来事へ拡張していった。マチューの作品では、素早い線の見た目と、それを生み出す場の演出が深くつながっている。(参照:ポンピドゥー・センター|ジョルジュ・マチューの作品と展覧会)

《ブーヴィーヌの戦い》における歴史の扱い

1954年作《ブーヴィーヌの戦い》は、フランス中世史の戦闘を思わせる題名を持つ大作である。伝統的な歴史画なら兵士や戦場、勝敗を決めた場面が描かれる。マチューは人や馬の姿を再現する代わりに、激しい線の衝突や色面の運動を用いた。歴史的な出来事が、絵画内部の速度と緊張へ置き換えられている。

《カペー家はいたるところに!》など、ほかの作品にも歴史を連想させる題名が見られる。抽象的な画面と具体的な歴史名との間に距離が生まれ、鑑賞者は一つの図像的説明を探すより、題名が線や色の衝突へ与える劇的な感覚を考えることになる。(参照:ポンピドゥー・センター|マチュー《ブーヴィーヌの戦い》)

ミシェル・タピエが作った「別の芸術」

アンフォルメルを名付ける批評の仕事

ミシェル・タピエは、戦後の非幾何学的抽象を展覧会や文章によって積極的に紹介した批評家である。伝統的な構図や美術の流派だけで作品を理解することから離れ、絵の具の物質と行為によって成立する新しい表現を一つの歴史的な動向として示そうとした。彼は個々の作家の作品を選び、国境を越えた比較によって共通点を見いだした。

タピエにとって重要だったのは、フォートリエの厚い表面、ヴォルスの不安定な像、マチューの素早い線などが、それぞれ従来の美術から別の道を進んでいることだった。異なる作家を同じ展覧会に置くことで、それまで一人ひとりの実験として見られていたものが、新しい表現の潮流として認識されるようになった。(参照:ポンピドゥー・センター|1940〜60年代フランスの抽象展研究資料)

1952年『もう一つの芸術』の意味

1952年、タピエは『Un art autre(もう一つの芸術)』を刊行した。この書物では、幾何学的に整った構図や従来の美術の分類から自由な作品を「別の芸術」として紹介した。アンフォルメルという呼称が広がるうえでも大きな役割を果たした文章である。個々の画家が同じ方法を採用したという事実より、それらをまとめて見る新しい視点が提示された。

この本は、単に技法の解説を集めたものではなかった。何を絵画と呼び、どのような作品を新しい美術として評価するかという基準そのものが問われた。批評家の言葉によって作家たちの共通点が強調され、その結果として作品が国際的に紹介される仕組みも生まれていった。(参照:ポンピドゥー・センター|1940〜60年代フランスの抽象展研究資料)

「形がない絵画」と理解することの難しさ

アンフォルメルを日本語で「非定形の芸術」と訳しても、画面からすべての形が消えているわけではない。フォートリエの頭部は中央に集まり、スーラージュの太い帯には明確な配置があり、ブッリの麻布も切断と縫合によって構成される。共通するのは、完成像を伝統的な遠近法や幾何学的規則へ最初から固定しないところにある。

作品の中で形は、下地を盛ること、絵の具が流れること、布を裂くことなどを通して生まれている。形の発生と素材の振る舞いが関係するため、見る人は作家が何を描いたかと同時に、どのような工程で表面が成立したのかを考える。名称を理解するためにも、材料へ目を向けることが必要になる。(参照:ポンピドゥー・センター|1940〜60年代フランスの抽象展研究資料)

大西洋を越えて比較された新しい抽象

1951年《対峙する激烈さ》展

1951年3月、パリのニナ・ドーセ画廊でタピエが企画した《対峙する激烈さ》展が開催された。ブライアン、カポグロッシ、デ・クーニング、アルトゥング、マチュー、ポロック、リオペル、ラッセル、ヴォルスという九人の作品を並べ、パリ、イタリア、北米で現れた新しい非具象絵画を比較した。戦後抽象を一国の運動として語る見方を変える展覧会だった。

展示作品は同じ外見を持っていなかった。絵の具を飛ばす線、地に擦り付ける物質、別の方法で作られた色面が、同じ会場に存在した。共通点と差異を同時に見せることによって、新しい抽象は国際的な議論として認識され始めた。(参照:ポンピドゥー・センター|ヴォルス《蝶の羽》と1947年展)

1952年、ポロックがパリで紹介される

1952年2月、ポール・ファケッティのスタジオは、タピエとアルフォンソ・オッソリオの協力でポロックのフランス初個展を開いた。ポンピドゥー・センターの所蔵作品解説によると、批評家や一般観客の反応は冷ややかだったものの、多くの芸術家が展覧会へ足を運んだ。作品が国境を越えて見られたことで、ニューヨークとパリの新しい抽象が直接比較できるようになった。

一部の作品は大きな画面全体へ線を広げる構成を持ち、ほかには小さな作品もあった。ヨーロッパ側の画家もポロックの制作方法を話題にしたが、その受け取り方は一様ではなかった。戦後抽象の国際化は、同じ表現への統一より、強い刺激と議論の広がりを生んだ。(参照:ポンピドゥー・センター|1952年のポロック・パリ個展)

パリとニューヨークの主導権をめぐる関係

戦後の美術史では、パリからニューヨークへ国際的な影響力の中心が移ったと語られる。その大きな変化の中でも、パリの画家や批評家は活発に作品を発表し、新しい抽象の言葉を作っていた。1940年代後半から1950年代の両都市には、競争しながら交流する関係があった。展示、雑誌、批評、画商の働きによって作品が行き来したのである。

このような往復を知らずに、ヨーロッパとアメリカの新しい抽象を「どちらが先か」で判断すると、美術の成立条件が見えにくい。展覧会で誰と誰を比較したか、どの画廊が作品を見せたかという具体的な歴史が、戦後の芸術の地理を形づくった。(参照:ポンピドゥー・センター|パリとニューヨークの戦後抽象)

パリに集まった多国籍の抽象画家たち

リオペルと画面全体へ広がる色の構造

カナダ出身のジャン=ポール・リオペルは、1940年代後半からパリを活動拠点とし、色を細かく重ねる密度の高い絵画を発展させた。1947年頃からヨーロッパの抽象の現場に参加し、1951年の《対峙する激烈さ》展にも加わっている。彼の画面では、色の小さな面が画面全体へ広がり、伝統的な遠近法の中心を定めにくい構造が生まれる。

《シュヴルーズ》などの作品には、色が重なることによるリズムと空間の奥行きがある。自然の風景を正確に描くより、自然に触れたときの身体感覚を画面へ移すという発想が見られる。ヨーロッパの抽象の中にも、絵の具の流動や傷とは違う、色を重ねることで成立する世界があった。(参照:ポンピドゥー・センター|リオペル《シュヴルーズ》)

ポルトガル出身のヴィエイラ・ダ・シルヴァ

マリア・エレナ・ヴィエイラ・ダ・シルヴァはポルトガルに生まれ、パリで活動した画家である。1948年作《エジプト》などでは、格子状の形や建築的な構造が重なり、どこまでが壁でどこからが通路なのか定めにくい奥行きが生まれる。斜めに伸びる線や小さな色面が、都市と迷路の中間のような空間を組み立てている。

この作品は、身振りを大きく残すアンフォルメルの絵画とは見た目がかなり違う。戦後パリには、構図を解体しながら空間を研究する別の抽象も存在していた。戦争後のヨーロッパ美術を厚塗りと素早い線だけで説明すると、こうした多様な仕事を見落とすことになる。(参照:ポンピドゥー・センター|ヴィエイラ・ダ・シルヴァ《エジプト》)

移住者たちのパリという制作環境

ヴォルスとアルトゥングはドイツ出身、リオペルはカナダ出身、ヴィエイラ・ダ・シルヴァはポルトガル出身だった。彼らが活動したパリは、単にフランス国民の美術が作られた都市ではない。異なる言語、戦争経験、教育を持つ作家が画廊、サロン、評論の現場で交流する国際的な制作環境だった。

この多国籍性は、ヨーロッパ美術が戦後にどのように再編されたかを理解する手がかりになる。作家が移動することで制作材料や造形の考え方が行き来し、ひとつの国の美術として単純に整理できない表現が増えていった。パリは世界で唯一の中心という位置づけを変えながら、なお強い交流の場であり続けた。(参照:ポンピドゥー・センター|戦後パリの画廊の発展)

アルベルト・ブッリが選んだ絵画の道

軍医から画家へ、捕虜収容所で始まった制作

アルベルト・ブッリは1915年にイタリアのチッタ・ディ・カステッロに生まれ、1940年に医学の学位を取得した。軍医として従軍中の1943年に北アフリカで捕虜となり、アメリカ・テキサス州ヘレフォードの収容所へ送られた。そこで絵を描き始め、1946年にイタリアへ戻るとローマを拠点として画家の道を選んだ。

彼の経歴は、戦争と移動が制作生活を変えた具体的な例である。ブッリは医師としての専門教育を受けていたが、帰国後は美術の制作に専念した。戦争中に絵を始めた事実と、帰国後に展開した独自の素材研究を、ひと続きの伝記として理解できる。(参照:アルベルト・ブッリ財団|ブッリの生涯と主要シリーズ)

絵の具以外の材料が作品の中心へ

1948年のパリ滞在などを経て、ブッリはタール、軽石など、伝統的な油絵の具とは異なる物質を絵画へ取り入れた。「カトラーミ」と呼ばれるタールの作品では、塗膜の黒さに加え、粘度や光沢、工業材料としての性質が前面に出る。画面の一部を単なる色で満たす代わりに、物そのものの外見と重さを利用する方向だった。

この選択は、絵の具が何かを描く手段であるという既存の絵画観を揺さぶる。タールの表面には流れた跡や固まった凹凸が残り、描かれた対象を探すよりも材料が実際に何をしているのかを見ることになる。身近な工業材料が絵画の素材へ変わる過程が、戦後イタリアの独特な抽象を生んだ。(参照:アルベルト・ブッリ財団|ブッリの生涯と主要シリーズ)

《カトラーミ》と《ムッフェ》に見える表面

ブッリの《カトラーミ》はタールを、《ムッフェ》はカビや変質を思わせる表面を中心にした連作である。どちらも、物体の絵を描くより、絵画の表面に変化を発生させる。光沢のある黒、ざらつき、凹凸、染みが並ぶと、画面には物質が時間をかけて変化したような気配が生まれる。

これらの仕事には、通常の絵画材料への好奇心を越えた構成力がある。黒い部分と白い部分の割合、材料を置く位置、表面の違う領域同士の境目が、作品の見え方を決めている。変則的な材料を使うことと、形を慎重に構成することは、ブッリにとって両立していた。(参照:グッゲンハイム美術館|ブッリ回顧展と作品の材料)

麻袋を絵画へ変える《サッキ》連作

1950年頃から始まる麻袋の作品

1950年頃から、ブッリは粗い麻袋を切り、貼り、縫い合わせる《サッキ》連作を展開した。麻袋は穀物などを運搬するための実用品で、織り目、染み、ほつれ、印刷された文字を持つ。彼はその特徴を取り除くより、画面の中心へ残した。絵を描くために用意された均一な支持体では、得られない表面である。

美術館の資料では、麻袋が作品の支持体であると同時に、見るべき表面にもなっていることが強調される。何が作品を支え、何が作品として見られるのかという伝統的な区別が曖昧になる。物を貼り付けるコラージュの歴史を受け継ぎながら、表面全体の構造へ材料を組み込んでいった。(参照:アルベルト・ブッリ財団|ブッリの生涯と主要シリーズ)

縫い目が線の役割を引き受ける

《サッキ》では、異なる麻布の断片が縫い合わせられ、糸が曲線や直線のように現れる。これは絵の具で線を描く方法とは異なり、実際に別々の材料をつなぐ行為が形を作っている。縫い目には布を寄せる力が働き、周囲の表面には張りやたわみが生じる。絵画の線が、物理的な構造を支える仕事へ変わるのである。

作家が医師だった経歴から、縫い目を手術の縫合と比較する解釈も生まれてきた。作品に現れる縫製の形は、布という材料を扱うための実際の工程でもある。縫い目がどこを結び、どこに緊張を残し、どの色面を分けているかを詳しく見ることで、その造形的な働きが明らかになる。(参照:グッゲンハイム美術館|ブッリ回顧展と作品の材料)

破れ、穴、ほつれを作品として残す

伝統的なキャンバスの絵画では、布が破れて穴が開くことは通常、保存上の損傷と考えられる。ブッリは裂かれた麻袋やほつれた端を、作品の構成要素として使った。布の向こう側が見える穴は、絵の中に描かれた暗い空間とは異なる。実際に支持体が欠けているため、鑑賞者は一枚の絵画が持つ物理的な厚さや境界を意識する。

既製の麻袋が持っていた使用の跡は、作品に取り込まれた後もすべて消えるわけではない。修理の痕跡にも見える縫合と、あえて残された裂け目が共存することで、完成と損傷の関係が問い直される。何を修復すべきで、何を作者の意図として残すべきかという保存の問題も、ブッリの作品では特別に重要になる。(参照:グッゲンハイム美術館|ブッリの損傷・修復・脆弱性)

火、木材、鉄を使ったブッリの展開

燃焼を形を作る方法として使う

1950年代、ブッリは木材やほかの材料を火で変形させる仕事を進めた。熱を加えると表面は焦げ、色が変わり、裂けたり欠けたりする。筆の動きで形を決める方法から、材料の変化そのものを制作へ参加させる方向へ進んだのである。作家が燃やす位置や時間を決めても、炎が作る細部を完全に予測することは難しい。

火を用いた作品には、作家の判断と物質の反応が同時に記録される。焼け跡の黒さ、周囲の赤褐色、形の失われた端は、色彩と構図の両方を生み出す。火は材料を壊す行為であるとともに、新しい表面を作る道具になった。(参照:アルベルト・ブッリ財団|ブッリの生涯と主要シリーズ)

《レーニ》と《フェッリ》の材料の違い

ブッリの《レーニ》では木材が、《フェッリ》では鉄板が主な材料となる。木には繊維や焦げた縁、鉄には硬い切断面や溶接の痕跡が残る。こうした作品は、紙やキャンバスを基本とする絵画から、工業材料で作られた物体へ近づいていく。支持体の上に何かを描くという手順だけでは、成立しない造形である。

鉄の作品では、金属を切る、合わせる、熱を加える行為そのものが構成を決める。材料の色は絵の具だけで作られず、錆や酸化、熱による変色によっても生まれる。ブッリの関心は、物体を付け足すことから、材料を変形させて画面そのものを作る方向へ広がった。(参照:グッゲンハイム美術館|ブッリ回顧展と作品の材料)

1960年代のプラスチックと1970年代以降への接続

ブッリの素材研究は1960年で終わらない。1960年代には透明なプラスチックを用いた《プラスティケ》が発展し、後にはひび割れた表面を持つ《クレッティ》や、木質ボードを使う作品も生まれた。素材を変えながら表面の構成を探る方法が、長期間にわたり続いたことが分かる。

この記事の対象である1945〜1960年には、麻袋、タール、木、鉄、火といった主要な発想が現れている。その後の仕事を短く見渡すことで、初期の作品が偶発的な珍しい技法ではなく、一貫した研究の起点だったことを確認できる。材料を選び、その性質を作品の仕組みへ変える姿勢が、ブッリの長い画業を支えた。(参照:アルベルト・ブッリ財団|ブッリの生涯と主要シリーズ)

ブッリをめぐる解釈と美術界の評価

負傷と縫合だけで語られてきた理由

ブッリの裂けた布や縫い目は、戦争を経験した元軍医の経歴と結びつけて説明されてきた。傷口を縫う行為と布を縫い合わせる行為が似ているため、作品は時に戦争の傷そのものとして読まれる。戦争が作家の人生を変えたことは確かであり、その歴史は重要な背景である。

近年の展覧会や保存修復の研究では、ブッリが実際にどう材料を選び、構成を組み立てたかが重視される。布をどの順番で配置し、糸でどうつなぎ、どこに穴を残したか。手術の比喩だけから離れ、作品固有の形と材料に目を向けると、画家としての決断を詳しく見ることができる。(参照:グッゲンハイム美術館|ブッリの損傷・修復・脆弱性)

1953年にニューヨークへ届いた《サッキ》

1953年、グッゲンハイム美術館の館長ジェームズ・ジョンソン・スウィーニーは、ローマのブッリのアトリエを訪れ、麻袋を使った作品二点を選んだ。それらはニューヨークの展覧会「若いヨーロッパの画家たち」で紹介された。戦後ヨーロッパの物質を使った絵画が、アメリカの大きな美術館で早い時期から見られた例である。

この紹介は、ヨーロッパとアメリカの抽象が別々の閉じた領域で発展していたという見方を変える。画廊や批評家に加えて、美術館のキュレーターも作品の移動を支えていた。ブッリの麻袋が国際的な文脈で理解されるようになる過程には、実際に作品を運び、展示する人々の判断があった。(参照:グッゲンハイム美術館|ブッリの損傷・修復・脆弱性)

素材の脆さと作品保存の難しさ

ブッリの作品に使われた麻袋、タール、木、鉄などは、それぞれ異なる経年変化を起こす。布はほつれ、金属は錆び、焦げた材料は脆くなることがある。こうした変化は作品の見た目に大きく関わるため、保存修復では作者が作った表面と、後から生じた損傷を慎重に見分ける必要がある。

材料が作品の主題になっているほど、表面を新しい状態へ戻すことが望ましいとは限らない。ほつれや穴を積極的に使う作品では、いわゆる欠陥が作者の重要な表現である場合もある。ブッリの仕事は、美術史だけでなく、作品を未来へどう残すかという保存の問題まで広げて考えさせる。(参照:グッゲンハイム美術館|ブッリ回顧展と作品の材料)

線、物質、速度の違いを比較する

厚く盛る、流す、引く、縫うという四つの方法

フォートリエは白い下地を盛り、ヴォルスは油絵の具の流れを押し潰し、アルトゥングは素描を拡大して線の効果を確かめた。スーラージュは染料を大きな刷毛で置き、マチューは高速で線を伸ばし、ブッリは布を縫い合わせた。同じ非幾何学的な抽象と呼ばれる作品の中に、まったく異なる身体の使い方と時間が存在している。

実際の工程を比較すると、作品を「自由な表現」というひとことでまとめる難しさが分かる。どこまで結果を決め、どこから材料に任せるのかという判断も、作家ごとに異なる。筆触の見た目より、制作工程を辿ることによって画家の関心が鮮明になる。(参照:ポンピドゥー・センター|1940〜60年代フランスの抽象展研究資料)

小さな画面と大きな画面の鑑賞体験

ヴォルスやフォートリエの作品には、顔を近づけて見るような小品が多い。絵の具の傷、紙の繊維、色の層は近い距離で見たときに豊かな情報を持つ。同じ時代のマチューやリオペルには、身体全体を包むような大きな作品も現れた。画面の大きさによって、鑑賞者が作品へ向き合う姿勢と時間が変わるのである。

大きな絵画を革新的だと評価する美術史だけでは、小さな絵の中の密度や素材の感覚が見えなくなる。戦後の抽象にとって、規模は作品の強さを決める唯一の尺度ではなかった。画家たちはそれぞれ必要な大きさを選び、そこにふさわしい表面の作り方を見つけていった。(参照:ポンピドゥー・センター|ヴォルス《青いザクロ》)

偶然をどこまで受け入れるか

絵の具が流れること、下地がひび割れること、火が材料の色を変えることには、予想しきれない部分がある。制作中に何が起こるかを受け入れる態度は、多くの戦後抽象の作品に見られる。それでも、偶然が生まれる条件を作り、結果を選んで作品として成立させるのは作家である。完全な統制と完全な偶然という二つの極端な状態の間に、さまざまな制作方法がある。

アルトゥングの素描の転写と、マチューの高速な線、ブッリの燃焼を比べると、その幅がよく分かる。作品がどの程度計画されていたかは、完成した画面の自由な印象だけから判断できない。具体的な工程を知ることが、抽象を読み解く確かな手がかりとなる。(参照:ポンピドゥー・センター|アルトゥング《無題》(1947年))

戦争の記憶と美術批評の複雑な関係

社会の危機はどこまで作品を説明できるのか

占領と処刑がフォートリエの《人質》連作に結びついていることには、具体的な資料がある。ヴォルスは収容生活を経験し、アルトゥングは軍務で負傷し、ブッリは捕虜となった。戦争の記憶や強制された移動は、作家たちの制作に関わる重要な歴史的条件だった。

作品のすべてを戦争の象徴に読み替えると、異なる問題も見えにくくなる。胡桃の染料を選んだ理由、素描を大きく転写した方法、麻袋を構成する厳密さなどは、作家が材料と形の関係に注いだ関心である。社会の歴史を正確に踏まえながら、個々の作品の造形を詳しく見ることが大切になる。(参照:ポンピドゥー・センター|フォートリエ《人質の頭部》)

実存主義と戦後パリでの受け取られ方

戦後パリでは、サルトルらの実存主義的な議論が幅広く読まれ、人間の不安や生存、自由をめぐる問いが美術批評にも影響した。ヴォルスの荒れた表面や匿名の有機的な形は、そのような言葉によって理解されることがあった。批評は作品に一つの見方を与え、ほかの観客へ届ける役割を果たしている。

これらの作品は、哲学的な意味を持つと同時に、絵の具と紙の具体的な関係から成立している。概念を先に置き、それを作品へ当てはめるだけでは、制作技法の違いを捉えきれない。作品が生まれた時代に流通していた思想を理解し、その解釈がどのように広まったかを知ることで、批評と作品の関係が見えてくる。(参照:ポンピドゥー・センター|ヴォルス《蝶の羽》と1947年展)

見た目の美しさが引き起こした倫理的な問題

フォートリエの《人質》連作では、犠牲者の記憶に関わる主題が、柔らかな色彩と厚い絵肌によって魅力的な作品へ変わった。題名を知ったあとに美しい色を見ていると、そこに落ち着かなさが生まれる。悲惨な出来事を抽象的な絵画へ変えることの意味が、鑑賞の中で問われる。

この問題は、歴史的な主題を描くことと作品を美しく成立させることが、必ずしも同じ方向へ進まないという事実を示している。戦後の芸術家は、美術が記憶を伝える方法と、その表現を受け取る観客の責任を考えざるを得なかった。アンフォルメルを表面の新しさだけで理解する際にも、この倫理的な緊張を残すことが重要である。(参照:ポンピドゥー・センター|フォートリエ《人質の頭部》)

文学と印刷物が広げた戦後抽象の受容

アンドレ・マルローが《人質》へ与えた歴史的な視点

1945年のフォートリエ《人質》展では、作家アンドレ・マルローがカタログの序文を寄せた。戦時中の抵抗や占領の記憶がまだ近い時代に、美術展の文章が作品を歴史の中へ位置づけたのである。絵画の表面だけを見れば厚塗りの新しい表現として理解できる作品も、文章によって死者の記憶と結びつく経路が示された。

文章を読むことで作品を理解する手がかりが増える一方、その言葉が作品の意味を決める影響力も生まれる。マルローの関与は、政治的な記憶を持つ絵画がパリの私設画廊で公に議論されたことを示している。制作と批評、文学と美術が近く結びついた戦後パリの特徴がここに表れている。(参照:ポンピドゥー・センター|フォートリエ《人質の頭部》)

ジャン・ポーランが物質の絵画を擁護した背景

文学者ジャン・ポーランはフォートリエらの作品に関心を寄せ、戦後の新しい絵画を言葉によって支える役割を担った。伝統的な美術の形式から外れた作品を理解するには、図像を解説する言葉だけでなく、画面の物質がどのように経験されるかを伝える文章が必要だった。文学者が抽象絵画の受容を助けたことは、パリの知的環境を知るうえで意味がある。

作品と文章との距離は、必ずしも近いほどよいとは限らない。作家本人が何を目指したか、批評家がそこに何を見たかは、重なる部分と異なる部分を持つ。戦後の抽象絵画が「存在」「物質」「自由」といった言葉で語られる過程を確認すると、美術史の評価基準がどのように形成されるかが見えてくる。(参照:ポンピドゥー・センター|戦後美術とアンフォルメル)

写真複製とカタログが作品を遠くへ運ぶ

厚く盛られた下地やほつれた麻布は、写真で見ると平面的な模様に変わる。作品の材料が重要になるほど、写真複製には限界がある。それでも戦後には画廊のカタログや美術雑誌の写真が、国境を越えて作品を知らせる主要な手段となった。画商ポール・ファケッティの活動には写真家としての仕事も関わり、作品の記録と展示が近く結びついていた。

実物を見た人と複製を見た人では、作品の印象が異なることがある。小さなヴォルスの絵と大きなマチューの作品は、同じ大きさの誌面へ掲載されれば、実際のスケールの違いが分かりにくい。戦後の抽象が国際的に広まる過程は、物質としての作品と、写真や印刷物の中の作品が同時に流通する歴史でもあった。(参照:ポンピドゥー・センター|ポール・ファケッティ画廊アーカイブ)

1950年代後半へ広がる物質絵画の問題

1950年代半ばに強まる作家ごとの独自性

1950年代半ばには、マチューが大きな画面と公開制作へ進み、スーラージュは暗い色面と光の関係を深め、ブッリは麻袋から木や鉄、火へ制作を広げていった。リオペルのような国際的な画家も、パリを拠点とした色彩の研究を続けた。アンフォルメルという広い名称が知られるようになる時期に、個々の作家の方法はさらに多様になっていく。

名称は美術史を整理するために必要だが、作品はその範囲にとどまらない。作家たちは同じ素材や技法を繰り返し、条件を少しずつ変えることで新しい画面を作った。戦後の抽象の成熟は、一度の大胆な実験が成功したという物語より、長く継続した制作の中に見いだせる。(参照:ポンピドゥー・センター|1940〜60年代フランスの抽象展研究資料)

CoBrA、デュビュッフェ、戦後の人物像との関係

同じヨーロッパの戦後美術には、CoBrAの共同制作や子どもの表現への関心、ジャン・デュビュッフェのアール・ブリュ、ジャコメッティやフランシス・ベーコンの人物像への研究も存在した。これらは物質性や伝統的な形式への疑問を共有する場面がありながら、それぞれ別の思想と制作方法を持つ。戦後美術をひとつの抽象の流れへまとめると、その違いが失われる。

たとえばデュビュッフェは美術制度や文化的な価値のあり方へ強い疑問を向け、CoBrAは集団活動や民衆文化との関係を探った。戦争後の人間の姿を問い続けた具象画家たちもいた。アンフォルメルの歴史を理解したうえで、隣接する別の表現へ目を向けると、戦後ヨーロッパ美術の広がりがより明確になる。(参照:ポンピドゥー・センター|1940〜60年代フランスの抽象展研究資料)

1960年をひとつの区切りとする理由

1960年前後には、ヌーヴォー・レアリスムやZEROなど、戦後の素材や現実を別の方法で扱う動向が広がった。既製品、日用品、都市の痕跡、光と運動などへの関心が新しい枠組みを作り、1950年代に広く使われたアンフォルメルという名称は次第に歴史的な言葉として整理されていく。

フォートリエ、アルトゥング、スーラージュ、マチュー、ブッリらは1960年以降も新しい材料と技法の実験を続けた。ここで1960年を区切りとするのは、美術史上の別の問題が並行して現れ始めた時期を示すためである。(参照:ポンピドゥー・センター|1940〜60年代フランスの抽象展研究資料)

年表|戦後ヨーロッパの抽象、1945〜1960年

戦前から続く作家の研究と、1945年以降の展覧会・批評・国際的な交流をつなぐ出来事を年代順に整理した。作家の表現が変化した時期と、その評価が社会へ広がった時期の両方を確認できる。

  1. 1915|アルベルト・ブッリ、イタリアのチッタ・ディ・カステッロに生まれる。
  2. 1920年代|フォートリエが人物・静物などを制作し、物質的な表面への関心を深める。
  3. 1930年代|アルトゥングが抽象的な素描と構成を研究。ヴォルスはパリなどで写真・素描に取り組む。
  4. 1939|第二次世界大戦が始まる。ヴォルスの収容生活やアルトゥングの軍務が続く時期となる。
  5. 1943|フォートリエが《人質》連作を制作し始める。ブッリが北アフリカで捕虜となる。
  6. 1944|パリが解放される。
  7. 1945|ヨーロッパで戦争終結。10〜11月、ルネ・ドルーアン画廊でフォートリエ《人質》展。
  8. 1946|ヴォルスがパリへ戻り、油彩制作を本格化させる。ブッリがイタリアへ帰国。
  9. 1946|スーラージュが抽象絵画へ向けた試みを深める。
  10. 1947|ヴォルスの油彩約40点がルネ・ドルーアン画廊で展示される。
  11. 1947|アルトゥングがリディア・コンティ画廊でパリ初個展を開く。
  12. 1947|批評で「抒情的抽象」の呼称が現れる。スーラージュが胡桃の染料による紙作品を制作。
  13. 1948|マチューらによる非幾何学的抽象の展覧会がパリで開かれる。
  14. 1948|スーラージュの紙作品がドイツでのフランス抽象絵画巡回展に紹介される。
  15. 1948|スーラージュがタールとガラスを使った作品を試みる。ブッリがタールなどの素材を研究。
  16. 1949|ヴォルス、アルトゥング、スーラージュらの抽象が戦後パリの重要な動向となる。
  17. 1950|ブッリが《サッキ》と呼ばれる麻袋の作品を展開し始める。
  18. 1951|3月、ニナ・ドーセ画廊で《対峙する激烈さ》展。
  19. 1951|ヴォルスが38歳で死去。
  20. 1952|タピエが『もう一つの芸術』を刊行。
  21. 1952|2月、ポール・ファケッティのスタジオでポロックのフランス初個展。
  22. 1953|スウィーニーがローマのブッリを訪れ、作品をニューヨークの展覧会に選ぶ。
  23. 1954|マチュー《ブーヴィーヌの戦い》《カペー家はいたるところに!》が制作される。
  24. 1950年代半ば|マチューの大作と公開制作、ブッリの燃焼・木・鉄の実験が進む。
  25. 1950年代後半|リオペル、スーラージュ、アルトゥングらが独自の抽象を発展させる。
  26. 1960|アンフォルメルの仕事が歴史的な一世代として整理される時期。ブッリらの制作はその後も続く。

まとめ|絵画の表面と材料が変えた美術史

1945年から1960年頃までのヨーロッパの抽象は、絵画が何からできているのかという問いを作品そのものへ持ち込んだ。フォートリエは《人質》の頭部を厚い下地によって作り、ヴォルスは絵の具を潰し、引っかいて不安定な生命のような像を生み出した。アルトゥングは自由な線の背後に素描の研究と拡大・転写の方法を持ち、スーラージュは胡桃の染料と幅広い刷毛から暗さと光の関係を組み立てた。マチューは絵の具の速度と公開制作を発展させ、ブッリは麻袋や火、鉄そのものを表現の中心に置いた。これらは同じ画風の変種というより、画家ごとに異なる問題への具体的な答えだった。

戦争の記憶と復興、パリの画廊と批評、ニューヨークとの交流は、作品が生まれ、評価された歴史的な条件でもある。1945年の《人質》展から1951年の《対峙する激烈さ》展、1952年の『もう一つの芸術』に至る過程で、多様な作品が「アンフォルメル」という名前と結びついた。その後も各作家の制作はさらに変化し、新しい材料や立体的な空間を扱う表現へ影響を広げた。作品を詳しく見て、制作方法と批評の歴史の両方を確かめることが、戦後ヨーロッパ美術の豊かさを理解する道になる。

参考資料・出典

ポンピドゥー・センターの所蔵作品解説・展覧会研究資料、スーラージュ美術館、アルベルト・ブッリ財団、グッゲンハイム美術館の公開資料を中心に、旧原稿を照合して全面的に再構成した。作家の経歴、作品の素材、展覧会の開催時期などの事実と、ART LIBRARYによる画面の読み解きを区別して記述している。対象年代外の出来事は、作品の後年への発展を説明する範囲に限って取り上げた。

資料確認日:2026年10月14日 / ART LIBRARY