Art Library
Art History

1945–1960

アンフォルメルと戦後ヨーロッパの抽象

フォートリエ、ヴォルス、アルトゥング、スーラージュ、マチュー、ブッリ

第二次世界大戦後のヨーロッパ美術を、アメリカの抽象表現主義が登場するまでの「空白」として見ると、1945年から1950年代に起きた重要な変化がほとんど見えなくなります。ParisではJean Fautrierの《Otages》、Wolsの傷ついたような絵肌、Hans Hartungの鋭い線、Pierre Soulagesの黒褐色の大きな痕跡、Georges Mathieuの速度を伴う線が相次いで現れ、ItalyではAlberto Burriが絵具の代わりにtar、pumice、burlap、wood、iron、fireを絵画の内部へ持ち込みました。

これらの作品はしばしば「Art informel」「abstraction lyrique」「Tachisme」「matiérisme」といった言葉で整理されます。しかし、それぞれは完全に同義ではありません。Art informelは幾何学的な構成や事前に決められた形式から離れ、物質、痕跡、偶然、即時性を重視する広い傾向を指します。abstraction lyriqueは1947年頃のParisで、Hartungらの自由な線や非幾何学的抽象を説明するために使われ始めました。Tachismeは「染み」「斑点」を意味するtacheから派生し、批評上の別の呼称として広がりました。後世の美術史ではこれらが重なりながら使われますが、一つの運動名に固定すると作家ごとの差が消えてしまいます。

戦後ヨーロッパの抽象を理解する鍵は、単に「形がなくなった」ことではありません。Fautrierでは紙の上に盛り上げた白色地と傷ついた肉のような表面、Wolsでは薄い紙に広がる染みと神経のような線、Hartungでは事前の素描を拡大して移す計画性、Soulagesでは安価な胡桃の染料と建築用の幅広い刷毛、Mathieuでは制作速度と公開制作、Burriでは縫われ、裂け、焦げた支持体そのものが作品になります。何を描いたかより、「絵画は何からできているのか」が前景化したのです。

この変化を戦争体験から直接説明することには注意が必要です。Fautrierの《Otages》は実際にナチ占領下の処刑と結びつく明確な歴史的背景を持ちます。Wolsは戦時中に収容生活を経験し、Burriは軍医として捕虜となりました。しかし、厚い絵具、裂けた麻袋、黒い線をすべて「戦争の傷」と読み替えると、個々の制作方法、素材の選択、批評、展示、過去の抽象美術との関係を単一の心理的物語へ還元してしまいます。本記事では戦争を重要な条件として扱いながら、作品を伝記の症状にはしません。

また、1945年以後のEuropeとUnited Statesを対立する二つの陣営として見ることもできません。1951年Parisの《Véhémences confrontées》ではWols、Hartung、Mathieu、Riopelleらとde Kooning、Pollockらが同じ展覧会で比較され、1952年にはStudio Paul FacchettiでPollockのFrance初個展が開かれました。戦後抽象はAtlanticを挟んだ競争であると同時に、作品、写真、批評家、画商、雑誌が往復する国際的なネットワークでした。

それでもParisの立場は戦前とは変わっていました。戦争前まで国際前衛の中心と考えられてきたParisは、1940年代後半からNew Yorkの急速な台頭と向き合います。Parisの批評家や画廊は、Fautrier、Wols、Hartung、Soulages、Mathieuらを「新しいEuropeの抽象」として可視化し、American paintingと比較することで自分たちの位置を再定義しました。Art informelは作品の見た目だけでなく、戦後の美術地理をめぐる批評的な争いの中で形成されたカテゴリーでもあります。

この時期には画廊の役割が非常に大きくなります。Galerie René Drouin、Galerie Lydia Conti、Galerie Colette Allendy、Galerie Nina Dausset、Studio Paul Facchettiなど、小規模な私設画廊が美術館より早く新しい抽象を紹介しました。1945年のFautrier《Otages》、1947年のWols、1948年の《HWPSMTB》、1951年の《Véhémences confrontées》、1952年のPollockという流れを見ると、戦後抽象の歴史が作品だけでなく展覧会企画と批評語によって作られたことがよく分かります。

さらに重要なのは、ヨーロッパ内でも方向が大きく違ったことです。Franceでは線、即興、痕跡をめぐる抽象が発展する一方、ItalyのBurriは麻袋、tar、wood、iron、combustionによって絵画を物質そのものへ近づけました。Canada出身でParisを拠点にしたJean Paul Riopelleのような作家も加わり、国籍で整理しにくい国際的な抽象圏が形成されます。

本記事では1945年から1960年頃までを、FautrierからWols、Hartung、Soulages、Mathieu、Michel Tapié、Burriへと追いながら、Art informelを一つの「スタイル」としてではなく、戦争後に絵画の条件を組み替えた複数の実践として読み解きます。次の記事で扱うCoBrAやDubuffet/Art Brut、さらにGiacomettiとBaconも同じ戦後Europeに存在しますが、ここではまず、絵具、紙、布、木、鉄、火、線、速度という物質的な問題から戦後美術の土台を作ります。

CONTENTS

  1. アンフォルメルを一つの様式にしない
  2. 1945年Paris — 解放後の美術環境
  3. 「Parisの衰退」だけでは説明できない
  4. 小さな画廊が新しい美術を作る
  5. 批評家がカテゴリーを作る
  6. Fautrierは1945年に突然始まった作家ではない
  7. 紙、白色地、油、膠
  8. 《Otages》の背景
  9. 処刑場面を描いた記録画ではない
  10. 顔が「物質」になる
  11. 美しい色と残酷な主題
  12. 1945年Galerie René Drouin
  13. 黒い壁と反復
  14. 一枚ではなくseriesである意味
  15. 絵画と彫刻の境界
  16. 物質は装飾ではない
  17. FautrierとArt informel
  18. Wols — German-born artist in France
  19. 戦時中の収容生活
  20. 小さな紙上作品
  21. 有機物と鉱物のあいだ
  22. 完全な非具象ではない
  23. 1946年以後のoil painting
  24. 《Grenade bleue》
  25. 1947年Wols展
  26. 《Aile de papillon》
  27. 「存在」の絵として読まれたWols
  28. 短い制作期間
  29. Hartungの抽象は戦前から始まっていた
  30. 戦争とHartung
  31. 1947年Galerie Lydia Conti
  32. 「抒情的抽象」という語
  33. Hartungの「gesture」は計画されていた
  34. 「一回の衝動」という神話を疑う
  35. 線を物の輪郭から解放する
  36. 道具の抵抗
  37. HartungとSoulages
  38. Soulagesの抽象への移行
  39. 胡桃の染料
  40. 建築塗装用の刷毛
  41. 「書」や「ideogram」ではない
  42. 黒ではなく光を見る
  43. 1948年Germany巡回展
  44. tar on glass
  45. 題名を寸法と日付にする
  46. 感情表出だけではない
  47. Georges Mathieuの初期抽象
  48. Mathieuは画家であると同時にorganizerだった
  49. 1948年《HWPSMTB》
  50. Salon des Réalités Nouvelles
  51. 速度
  52. 公開制作
  53. 抽象に歴史画の題名を付ける
  54. 歴史をillustrateしない
  55. Michel Tapié
  56. 《Un art autre》1952
  57. 「informel」は「何も形がない」ではない
  58. 1951年《Véhémences confrontées》
  59. 1952年PollockのFrance初個展
  60. Atlanticを横断する抽象
  61. ParisとNew Yorkの主導権争い
  62. scaleの違い
  63. gestureの意味も同じではない
  64. Jean Paul Riopelle
  65. 自然を描かず自然との感覚を描く
  66. Parisは多国籍なabstract sceneだった
  67. Vieira da Silva
  68. Alberto Burri — Italyから別の物質絵画へ
  69. 「医師だから傷を縫った」という説明を避ける
  70. tar、pumice、異素材
  71. 《Catrami》
  72. 《Muffe》
  73. 1950年以後の《Sacchi》
  74. 麻袋という支持体
  75. 縫うこと
  76. 穴を隠さない
  77. 高級素材/低級素材の序列を崩す
  78. 《Combustioni》
  79. 火を「描画道具」にする
  80. 《Ferri》
  81. Burriはmaterialだけの作家ではない
  82. ItalyとParisを分けすぎない
  83. 1953年Guggenheimへの接続
  84. 物質性はEuropeだけの専売ではない
  85. 物質と記憶
  86. 支持体が前面へ出る
  87. 奥行きよりsurface
  88. 触覚性
  89. 小品と大作
  90. 偶然
  91. 速度
  92. 反復
  93. 題名の使い方
  94. 抽象/具象の境界は曖昧
  95. Existentialismとの接続
  96. Jean PaulhanとInformel
  97. Malrauxと《Otages》
  98. 私設画廊で公共的記憶を扱う
  99. 美術館よりgalleryが先行する
  100. 市場と新しい抽象
  101. 写真複製の役割
  102. Cold Warの文化地理
  103. EuropeをAbstract Expressionismの影に置かない
  104. Europe独自性を神話化しない
  105. 1951年という転換
  106. 1952年《Un art autre》
  107. 1950年代半ば — 多方向化
  108. 1960年を区切りにする理由
  109. CoBrAとの違い
  110. Dubuffet/Art Brutとの違い
  111. Giacometti/Baconとの違い
  112. ART HISTORYとしてのまとめ
  113. 次へ — CoBrA
  114. 参考資料・出典

アンフォルメルを一つの様式にしない

Art informelという語は、輪郭のない抽象画をまとめる便利な名称として使われがちですが、Fautrierの厚い物質、Hartungの線、Soulagesの構造的な黒、Mathieuの速度、Burriの麻袋は同じ方法ではありません。共通するのは幾何学的な秩序を唯一の基準にせず、制作の行為、素材、痕跡、偶然を画面の中心へ押し出したことです。

1945年Paris — 解放後の美術環境

解放後のParisでは戦前のSurrealismやCubismが消えたわけではありませんが、新しい世代は戦前の様式をそのまま継続するだけでは足りないと感じていました。物質的な破壊と政治的断絶の後に、絵画をもう一度どこから始めるかが切実な問題になります。

「Parisの衰退」だけでは説明できない

New Yorkが台頭したことは重要ですが、1945年直後のParisを単なる衰退都市として扱うと、Fautrier、Wols、Hartung、Soulages、Mathieu、Riopelle、Michauxらが作った強い実験環境が見えません。中心が一つから複数へ分散し始めたと考える方が適切です。

Centre Pompidouが戦後Parisの画廊史で示すように、1945年以後には多くの新しいgalleryが生まれました。大規模美術館より、René Drouin、Nina Dausset、Colette Allendy、Paul Facchettiのような場所が、まだ評価の定まっていない作品を先に見せました。

批評家がカテゴリーを作る

Michel Tapié、Jean Paulhan、Jean-José Marchand、Charles Estienneらの批評語は、異なる作品を同時代の新しい抽象として結びつけました。作家が自分から「Informel」と名乗ったとは限らず、展覧会と批評が後から関係を作った点が重要です。

Fautrierは1945年に突然始まった作家ではない

Jean Fautrierは1920年代から暗い人物、裸体、静物を描き、1929年頃から絵具と支持体の物質的な研究を進めていました。《Otages》の厚い表面は戦争だけから突然生まれたのではなく、以前から続く技法研究が歴史的事件と結びついた結果です。

紙、白色地、油、膠

Centre PompidouによればFautrierは1940年代初頭から、紙の上へ白色の下地、油、膠などを厚く重ね、その紙をcanvasへ裏打ちする方法を使いました。通常の油彩画のようにcanvasへ薄く像を描くのではなく、表面そのものを盛り上げます。

《Otages》の背景

Fautrierが暮らしていたChâtenay-Malabry周辺では占領期にGestapoによる処刑が行われ、戦後には集団埋葬地も確認されました。Centre Pompidouは、こうした出来事が1943年頃から《Otages》制作へつながったと説明しています。

処刑場面を描いた記録画ではない

《Otages》には銃殺現場の具体的な空間も制服も武器もありません。顔は匿名化され、丸い頭部や傷のような痕跡へ縮約されます。歴史的事件を説明するのではなく、人間の身体が物質へ崩れていく感覚を絵画表面へ置き換えています。

顔が「物質」になる

目、鼻、口は明瞭なportraitの特徴ではなく、厚い下地へ浮かぶ線や穴のように現れます。人物を心理的個人として描く従来のportraitとは異なり、顔と絵具の表面がほとんど同じものになります。

美しい色と残酷な主題

《Otages》ではpink、green、whiteなど柔らかな色が使われ、主題の残酷さと衝突します。1945年の展示でも、この絵肌の「美しさ」が死者への記念として適切なのかという批判が起こりました。戦後美術の倫理が早くも議論された重要な例です。

1945年Galerie René Drouin

《Les Otages》は1945年10月26日から11月17日までGalerie René Drouinで展示され、André Malrauxがcatalogue序文を書きました。Centre Pompidouはこの展覧会をFranceにおけるArt informel形成の重要な起点の一つとして位置づけています。

黒い壁と反復

Centre Pompidouの教育資料によれば、1945年展では小さな頭部作品が黒い壁面に連続して並べられました。一点のheroic masterpieceではなく、似た形の匿名の頭が反復されることで、大量死という問題が展示空間そのものへ拡張されます。

一枚ではなくseriesである意味

同じ大きさに近い頭部を多数制作することは、特定人物の記念肖像とは違います。反復によって個体差が薄れながら、一つ一つの表面の傷や色は異なるため、匿名性と個別性が同時に存在します。

絵画と彫刻の境界

Fautrierは《Otages》展で絵画だけでなくsculptureも提示しました。厚い絵肌もまたreliefのように盛り上がり、二次元のcanvasと三次元の身体の境界が曖昧になります。

物質は装飾ではない

厚い下地は「textureを面白くする」ための効果ではありません。Fautrierでは、皮膚、傷、腐敗、記憶を直接描写せず、絵具の厚みと亀裂が身体を想起させます。物質が表象の代わりに働くことが戦後絵画の大きな転換になります。

FautrierとArt informel

Fautrier自身が後世のInformel全体を代表するわけではありませんが、《Otages》は物質を意味の中心へ置いたため、1950年代の批評家から重要な先駆として読み直されました。

Wols — German-born artist in France

Wolsは本名Alfred Otto Wolfgang Schulze。Germanyに生まれ、1930年代からFranceで写真、drawing、水彩を制作しました。彼の経歴自体が、戦後Europeの美術を国籍一つで整理しにくいことを示します。

戦時中の収容生活

戦争中、WolsはFrance国内の複数の収容施設で生活する時期を経験しました。Centre Pompidouは、戦後Parisへ戻った1946年頃からoil paintingを本格的に始めたと説明しています。

小さな紙上作品

Wolsの戦中から戦後初期の重要作品の多くは小さな紙にink、水彩、gouacheで描かれています。巨大canvasではなく、手元に近い小さなsurfaceの中へ都市、植物、細胞、機械、夢のような形が密集します。

有機物と鉱物のあいだ

Centre PompidouはWolsの1944–46年頃のdrawingを、結晶、苔、spongy mass、filamentのような有機的・鉱物的増殖として説明しています。人間、動物、都市といった名前のある形が、微生物のような世界へ崩れていきます。

完全な非具象ではない

Wolsの画面にはfruit、wing、city、faceを思わせる残像が残ります。抽象と具象を二択にするより、名前を付けられる直前と直後を往復するimageとして見る方が適切です。

1946年以後のoil painting

《Grenade bleue》ではtubeから出したoil paintを潰し、厚い黒線で曖昧な形を取り囲み、背景を染み、飛沫、scratchで崩します。drawingの細い神経的線が、oil paintingでは粘度と傷を伴う物質へ変わりました。

《Grenade bleue》

題名はpomegranateを示しますが、果実は宇宙的な渦や細胞のようにも見えます。自然を模写するのではなく、自然に対応する別の生成物を絵画で作るというWolsの考えがよく表れています。

1947年Wols展

Galerie René Drouinでは1947年5月22日から6月17日にWolsの40点のpaintingsが展示されました。Centre Pompidouによれば、この展覧会を見たGeorges MathieuはWolsの仕事を戦後抽象の決定的転換として評価しました。

《Aile de papillon》

《Aile de papillon》では淡い地の上に暗い線と染みが重なり、蝶の羽にも未知の物体にも見える形が現れます。意味は図像ではなく、傷つけられたsurface、線、染みの関係へ集中します。

「存在」の絵として読まれたWols

後にSartreを含む批評家はWolsの絵を存在論的に読みました。しかしWolsの絵を「絶望」だけに還元せず、音楽、自然科学、写真、東洋思想への関心も含む複雑なimage productionとして見る必要があります。

短い制作期間

Wolsは1951年に38歳で亡くなりました。油彩の中心的な制作期間は非常に短いにもかかわらず、1940年代後半のParis抽象へ強い影響を与えたため、後世にはInformelの象徴的人物として位置づけられます。

Hartungの抽象は戦前から始まっていた

Hans Hartungは1930年代から非具象的な線と色面を研究しており、戦後に突然gestural abstractionへ転向したわけではありません。戦前のdrawing、photography、mathematicalな拡大法まで含めて長い方法論がありました。

戦争とHartung

German-bornのHartungはFrance側で軍務に就き、戦争中に重傷を負いました。戦後Franceへ戻った後、1947年にParisで初の個展を開き、急速に評価を得ます。個人的な戦争経験は重要ですが、作品の線を負傷の直接的記号として読むことは避けます。

1947年Galerie Lydia Conti

Centre Pompidouによれば、Hartungは1947年Galerie Lydia ContiでParis初個展を行い、それが大きな成功につながりました。同年、批評家Jean-José MarchandはSalon des Réalités Nouvellesで見た複数の自由な抽象を「abstraction lyrique」と呼びました。

「抒情的抽象」という語

abstraction lyriqueはgeometric abstractionと対比され、線、色、gestureの自由を重視する作品を説明する語として使われました。ただし「抒情的」という言葉から、感情をそのまま即興的に吐き出した作品だと決めつけることはできません。

Hartungの「gesture」は計画されていた

Hartungの重要な点は、自由に見える線の多くが、紙上のdrawingを基にし、gridなどを使ってcanvasへ拡大・転写されていたことです。Centre Pompidouは1947年のpastel研究について、自由な運動と同時にorderとsystemを重視していたと説明しています。

「一回の衝動」という神話を疑う

戦後抽象はしばしば「無意識に一気に描いた」と語られます。しかしHartungの方法を見ると、gestureの見た目と制作工程は一致しません。即興のように見える線も、反復、選択、転写、拡大を経て成立します。

線を物の輪郭から解放する

Hartungの黒い線は人物や風景のoutlineではありません。曲がり、交差し、急停止する線そのものが画面内の出来事となり、背景の色面との緊張を作ります。

道具の抵抗

pastel、ink、brushなど道具ごとに線の速度と抵抗が変わり、Hartungはそれを構成要素として使いました。後年にはさらに多様なscrapingやsprayingへ広がりますが、1940年代後半の時点ですでに道具が線の性質を決めています。

HartungとSoulages

Soulagesは1947年のSalon des Surindépendantsで注目され、Hartungと知り合います。二人とも暗い線を使うため似て見える場合がありますが、Hartungが線の運動性を強く持つのに対し、Soulagesはより太く構造的な痕跡と背景の光の関係を重視します。

Soulagesの抽象への移行

Soulagesは1946年頃から抽象絵画を本格化させ、1947–49年にpaperとbrou de noixによる作品を集中的に制作しました。戦後Franceの若い作家の中でも、早い段階から具象の残像をほとんど排したことが特徴です。

胡桃の染料

brou de noixは家具や木材を染めるために使われる安価な褐色の染料です。Centre PompidouとMusée Soulagesによれば、Soulagesは高価な「artist materials」から距離を取り、暗く暖かい色、流動性、透明・不透明の幅を持つこの日常素材を選びました。

建築塗装用の刷毛

Soulagesは細い絵筆より、建築塗装に使う幅広い刷毛を使いました。大きな道具で引かれるstrokeは、線と面の中間のような太い痕跡となり、小さなpaperでもmonumentalな構造を作ります。

「書」や「ideogram」ではない

初期Soulagesは黒褐色の太い線のためcalligraphyやideogramと比較されました。しかしCentre Pompidouは、本人が特定のsignを描く意図より、暗い形と明るい余白の関係を重視していたことを指摘しています。

黒ではなく光を見る

Soulagesの初期作品では暗いstrokeがpaperの白を消すのではなく、間に残る明るい部分を強く見せます。dark matterとlightは対立ではなく、互いを成立させる関係になります。

1948年Germany巡回展

Soulagesのbrou de noixは1948年のFrench abstract painting巡回展でGermany各都市へ紹介され、posterにも使用されました。戦争終結から数年でFrench abstractionがGermanyへ展示されたことは、戦後Europeの文化的再接続という点でも重要です。

tar on glass

1948年Soulagesはbroken glassへtarを使う非常に珍しい作品も制作しました。Centre PompidouはParis解放時の被害をtarで補修したGare de Lyonのglass roofが着想の一つだったという本人の記憶を紹介しています。支持体と修復材の組み合わせが、都市の物質的記憶と接続します。

題名を寸法と日付にする

Soulagesは後に作品名を《Peinture, dimensions, date》のような形式へ統一し、図像的な題名で意味を固定することを避けました。鑑賞者は「何が描かれているか」より、surface、light、relationへ向き合うことになります。

感情表出だけではない

Soulagesは戦後のgestural abstractionへ分類されますが、本人はgestureの心理的告白として作品を見ることに距離を取っていました。構成されたrelationsとしてpaintingを考える姿勢が強く、Informel内部の差異を示します。

Georges Mathieuの初期抽象

Mathieuは1944–45年頃からabstract paintingへ移り、1947年Salon des Réalités Nouvellesへ出品しました。1948年の《Opalescence》などでは、暗い地に線と染みが浮かび、後の高速なcalligraphic gestureへ向かう過程が見えます。

Mathieuは画家であると同時にorganizerだった

Mathieuの重要性は作品だけではありません。戦後Parisで新しいnon-geometric abstractionを集め、展覧会を企画し、American paintingとの比較を進めるなど、自ら美術地図を作る活動を行いました。

1948年《HWPSMTB》

Galerie Colette Allendyの1948年展《HWPSMTB》にはHartung、Wols、Picabia、Stahly、Mathieu、Tapié、Bryenらが関わり、新しい非幾何学抽象を一つの場へ集めました。略号のような展覧会名そのものが、既成の「派」を避ける実験的性格を示します。

Salon des Réalités Nouvelles

戦後Parisでabstract artの主要発表場所となったSalon des Réalités Nouvellesにはgeometric abstractionもnon-geometric abstractionも参加しました。同じ「抽象」の内部で、規則的構成とgestureの自由をめぐる対立が可視化されます。

速度

Mathieuは制作速度を重視し、tubeからpaintを直接押し出し、長いlineを短時間で引きました。Centre Pompidouは1950年代の作品について、speedとpsychic energyを彼の美学の中心として説明しています。

公開制作

Mathieuは後に観客の前でlarge-scale paintingを制作し、paintingの完成品だけでなく制作行為そのものをspectacleへ変えました。これはaction paintingとの比較を強める一方、Europe独自の自己演出でもありました。

抽象に歴史画の題名を付ける

《La Bataille de Bouvines》《Les Capétiens partout !》のように、完全にabstractなpaintingへFrench medieval historyの題名を付けました。図像を描かずにhistory paintingの規模と劇性だけを回復する逆説的な方法です。

歴史をillustrateしない

題名はbattle sceneの人物や地形を説明しません。線のcollision、速度、密度を「battle」として想像させるだけで、traditional history paintingのnarrativeをgestureへ変換します。

Michel Tapié

Michel Tapiéはcritic、curator、organizerとして、戦後の非幾何学的抽象を国際的な枠組みへまとめる中心人物の一人でした。1951年《Véhémences confrontées》、1952年の著書《Un art autre》を通して、多様な作品を「別の芸術」として提示します。

《Un art autre》1952

Centre Pompidouの教育資料によれば、Tapiéの《Un art autre》は1952年、新しいabstractionを従来のschool分類から離れた「別の芸術」として論じました。その後Art informelという呼称が広く定着する重要な契機になります。

「informel」は「何も形がない」ではない

informelをliteralに「無形態」とだけ理解すると誤解が生まれます。作品には強いformがありますが、それがgeometric rule、academic composition、predefined imageによって先に決定されないことが重視されました。

1951年《Véhémences confrontées》

Galerie Nina Daussetで1951年3月8–31日に開かれた《Véhémences confrontées》は、Bryen、Capogrossi、de Kooning、Hartung、Mathieu、Pollock、Riopelle、Russell、Wolsを同じ場へ置きました。ParisとNew Yorkを別々の歴史としてではなく、同時代の極端なnon-figurative paintingとして比較した展覧会です。

1952年PollockのFrance初個展

Studio Paul Facchettiは1952年2月、Michel TapiéとAlfonso Ossorioの協力でPollockのFrance初個展を開催しました。Centre Pompidouによれば批評・一般観客の反応は冷淡だった一方、多くのartistsが訪れました。

Atlanticを横断する抽象

写真、雑誌、展覧会、画商を通してPollock、de Kooning、Rothkoらの情報がParisへ入り、Europeの作品もNew Yorkへ渡りました。どちらかが一方的に「影響を与えた」とするより、相互の比較と競争として見る必要があります。

ParisとNew Yorkの主導権争い

1950年代の批評では、戦前までのParis中心主義とNew Yorkの台頭が意識されました。MathieuやTapiéの国際展は、French sceneをAmerican Abstract Expressionismに対抗・接続させる文化的戦略でもありました。

scaleの違い

American Abstract Expressionismは巨大canvasで語られることが多い一方、FautrierやWolsの中心作には小さなformatが多くあります。戦後抽象の強度はsizeだけではなく、surfaceの密度や近距離で見る身体感覚にも宿ります。

gestureの意味も同じではない

Pollockのdripping、Hartungの転写された線、Mathieuの高速線、Soulagesの幅広いstrokeは見た目に共通点があっても制作原理が異なります。「gesture」という一語で同一化せず、実際の道具と工程を見る必要があります。

Jean Paul Riopelle

Canada出身のRiopelleはParisを主要拠点として活動し、1951年《Véhémences confrontées》にも参加しました。knifeやbrushで色を細かく重ね、画面全体に視線の中心を作らないall-overな構成を発展させました。

自然を描かず自然との感覚を描く

Centre Pompidouの《Chevreuse》解説では、Riopelleは特定のlandscapeを再現するのではなく、natureと接したときのphysical sensationを参照したと説明されています。抽象と自然は対立しません。

Parisは多国籍なabstract sceneだった

German-born WolsとHartung、Portuguese-born Vieira da Silva、Canadian Riopelle、Chinese-born Zao Wou-KiなどがParisで活動し、戦後抽象は「French national style」ではなくmigrationによる国際sceneとして形成されました。

Vieira da Silva

Maria Helena Vieira da Silvaの1948年《Egypte》のような作品では、gridのようなarchitectureと不安定なperspectiveが重なり、gesture中心とは異なる抽象が同時に存在しました。戦後Parisの抽象をInformelだけに限定することもできません。

Alberto Burri — Italyから別の物質絵画へ

Burriは1915年Città di Castello生まれで、1940年に医学を修了しました。1943年Tunisiaで捕虜となりTexasのHereford campへ送られ、そこでpaintingを始めました。1946年Italyへ戻るとRomeに定住し、医師ではなくartistとして活動します。

「医師だから傷を縫った」という説明を避ける

BurriのSacchiには縫合のようなstitchがあるため、軍医経験と直接結びつける解釈が繰り返されてきました。しかし本人のmaterial research、Italian painting tradition、formal compositionを無視してbiographyだけで説明するのは危険です。

tar、pumice、異素材

Fondazione Burriによれば1948年頃からBurriはtar、pumiceなど伝統的paint以外のmaterialを作品へ取り込みました。絵具で物を描くのではなく、物質そのものをcanvasへ置く方向が明確になります。

《Catrami》

black tarはpaintの色としてだけでなく、粘度、光沢、臭い、工業的用途を持つ物質としてsurfaceを変えます。painting materialとbuilding materialの境界が崩れます。

《Muffe》

Burriはmoldのようなtextureを作るseriesでも、surfaceの変色、増殖、腐食を思わせるmaterial effectを使いました。imageではなく、surfaceが時間によって変化したような感覚を作ります。

1950年以後の《Sacchi》

1950年頃からburlap sackをcut、patch、stitchし、canvasの一部またはほぼ全面へ使う《Sacchi》が中心になります。Fondazione Burriはこのseriesを戦後Burriの最重要展開の一つとして位置づけています。

麻袋という支持体

burlapはgrain、food、transportに使われる粗いindustrial materialです。絵画の後ろで見えないsupportとしてではなく、染み、文字、縫い目、穴を持つ表面そのものを正面へ出します。

縫うこと

裂けた布を縫い合わせるstitchはdrawingの線の代わりにもなります。painted lineではなく、materialを実際に接続するphysical actionがcompositionを作ります。

穴を隠さない

traditional paintingではcanvasのtearはdamageですが、Burriはholeやfrayed edgeを作品の中心へ残します。「修復すべき欠陥」と「制作された形」の区別を反転させます。

高級素材/低級素材の序列を崩す

oil paintとfine linenだけがpaintingを作るという価値観に対し、Burriはpackaging cloth、tar、wood、ironを使いました。戦後Italyのmaterial realityと結びつきながら、paintingの定義そのものを拡張します。

《Combustioni》

1950年代Burriはfireを制作道具として使い、woodやplasticなどをburnしてsurfaceを変形させました。brushで形を描く代わりに、heatがmaterialの色、穴、皺、edgeを作ります。

火を「描画道具」にする

fireには完全には制御できない変化が含まれます。artistは燃焼条件を設定しますが、material reactionにも結果を委ねるため、intentとchanceが同時に働きます。

《Ferri》

iron worksではmetal sheetをcut、weldし、rustやheat discolorationをsurfaceとして使いました。paintingはsoft canvasからindustrial objectへ近づき、後のArte Poveraやpostwar sculptureにもつながる問題を先取りします。

Burriはmaterialだけの作家ではない

unconventional materialが目立ちますが、作品はred、black、whiteのbalance、rectangleの配置、surface divisionなど非常に厳密なcompositionを持ちます。「ゴミを貼った反芸術」と見るだけではformal disciplineが見えません。

ItalyとParisを分けすぎない

BurriはRomeを拠点としましたが、1950年代にはParisやUnited Statesでも展示され、Tapiéらのinternational Informel networkに接続しました。Art informelはParisだけのlocal styleではなく、Italyを含む広いpostwar European fieldへ拡張します。

1953年Guggenheimへの接続

Fondazione Burriによれば、James Johnson Sweeneyの働きかけでBurriは1953年からGuggenheim Museumの《Younger European Painters》などへ参加します。Europeのmaterial paintingがNew Yorkへ早期に紹介された重要な経路です。

物質性はEuropeだけの専売ではない

FautrierやBurriのmaterial emphasisは戦後Europeの特徴として語られますが、American paintingにも砂、enamel、industrial paintなどmaterial experimentsはありました。違いを絶対化せず、何がどの文脈で重要になったかを見る必要があります。

物質と記憶

postwar European artではpaper、burlap、tar、wood、glassといったmaterialが、それ自体の使用履歴やdamageを持ち込む例が増えます。ただしmaterialを自動的に「war memory」と解釈せず、specific evidenceのある場合とformal researchを区別します。

支持体が前面へ出る

traditional paintingではcanvasはimageを支える透明な基盤ですが、Fautrierはpaperとplasterを盛り、Burriはburlapを露出させ、Soulagesはpaperの白をcompositionへ利用します。supportが「見えないもの」から作品の主体へ変わります。

奥行きよりsurface

Renaissance perspectiveのようにcanvasをwindowとする考えに対し、Informelではsurfaceの傷、厚み、染みが現実の物理空間を持ちます。見る人は「絵の中へ入る」より、目の前のsurfaceへ接近します。

触覚性

rough plaster、frayed burlap、tar、scratched paintは視覚だけでなくtouchを想起させます。戦後抽象は「見る美術」でありながら、surfaceを触りたい/触れないという身体感覚を強く引き起こします。

小品と大作

FautrierやWolsの小さな作品、MathieuやRiopelleの巨大作品が同じ時代に存在します。scaleはmovementの統一条件ではなく、close viewingと身体全体を包むviewingという異なる鑑賞形式を作りました。

偶然

stain、drip、burn、scratchなどは完全に予測できません。しかしchanceはartistの不在を意味せず、どこまで偶然へ委ね、どこで止めるかというdecisionが制作になります。

速度

Mathieuではspeedが重要な美学になりますが、Hartungのようにslow planningを伴うartistもいます。Informel=高速即興という一般化は成立しません。

反復

Fautrierのheads、Soulagesのbrou works、BurriのSacchiのように、同じmaterial problemをseriesで反復する作家が多くいます。一回のexplosionより、何度も条件を変えて検証する研究として見る必要があります。

題名の使い方

Wolsの《Aile de papillon》のように形を曖昧に誘導するtitle、Mathieuの歴史的title、Soulagesのdimensions/date titleなど、抽象作品におけるlanguageの役割も大きく異なります。

抽象/具象の境界は曖昧

Fautrierはfaceを残し、Wolsはfruitやorganismを暗示し、Riopelleはnature sensationを語ります。戦後抽象は「何も描かない」ことではなく、recognizable imageをどこまで解体するかという連続体でした。

Existentialismとの接続

戦後ParisではSartreやexistentialist discourseが美術批評へ影響し、Wolsなどが「存在」「不安」「物」の問題から読まれました。しかし哲学を作品の正解として当てはめるより、当時の批評環境が作品受容をどう形作ったかを見る方が重要です。

Jean PaulhanとInformel

writer Jean PaulhanもFautrierやInformelを擁護し、意味を一義的に固定できないpaintingとして論じました。文学者が新しいabstract paintingの言語化へ深く関与したことは、postwar Parisのart-literature networkを示します。

Malrauxと《Otages》

André Malrauxが1945年《Otages》展のcatalogueへ寄稿したことは、Fautrierの作品が単なるgallery experimentではなく、Liberation後のFranceにおけるmemoryとcultureの問題として受け取られたことを示します。

《Otages》は国家記念碑ではなくprivate galleryで展示されました。それでもoccupationとexecutionの記憶を公共的議論へ持ち込み、small-scale paintingがmonumentと異なるmemory formになり得ることを示しました。

美術館よりgalleryが先行する

1940年代後半の新しい抽象は、最初からmuseum canonだったわけではありません。gallery、salon、critic、collectorが先に支持し、その後public collectionへ入ります。現在「巨匠」と見える作家も、当時は評価の不安定な実験者でした。

市場と新しい抽象

abstract paintingがmarketへ受け入れられる過程では、galleryが作家のseriesをまとめ、catalogueで新語を作り、collectorへ説明する役割を担いました。Informelはanti-academicでありながらmarket systemの外部ではありません。

写真複製の役割

厚いmatterや微細なsurfaceは写真では完全に伝わりませんが、雑誌のblack-and-white reproductionによって作品は国境を越えました。戦後美術の国際化は、original viewingと印刷imageのずれを抱えながら進みました。

Cold Warの文化地理

1950年代にEuropeとUnited Statesの抽象が比較される背景にはCold War期の文化競争もあります。ただし個々のartistの抽象を政治体制のpropagandaへ単純還元せず、museum、foundation、gallery、state diplomacyがどう作品流通へ関与したかを別に検討する必要があります。

EuropeをAbstract Expressionismの影に置かない

postwar paintingをPollock中心に書くと、Fautrierのmaterial、Wolsのmicrocosm、Soulagesのdark-light relation、Burriのsupport transformationが「European equivalents」としてしか見えなくなります。それぞれ固有のproblemから出発していました。

Europe独自性を神話化しない

逆に「Europeはmaterialとtrauma、Americaはgestureとscale」と完全に分けることもできません。artistsとcriticsは互いの作品を見ており、1951–52年のParis exhibitionsがその交流を明確に示します。

1951年という転換

《Véhémences confrontées》、Wolsの死、MathieuやTapiéの活動拡大が重なり、1951年前後には戦後初期の個別実験がinternational tendencyとして整理され始めました。

1952年《Un art autre》

TapiéのbookとPollock展が同じ年に現れたことは象徴的です。EuropeとAmericaのnon-geometric abstractionを共通の「other art」として見る枠組みが強まり、Informelが批評categoryとして定着します。

1950年代半ば — 多方向化

Mathieuはlarge-scale speed paintingへ、Soulagesはdark structureとcolor relationを深め、Burriはfire、wood、ironへ、Riopelleはall-over colorへ進みます。Informelという大きなlabelの内部で、むしろ差異が拡大しました。

1960年を区切りにする理由

1960年前後になるとNouveau Réalisme、ZERO、Fluxus、performance、new material artなど別の枠組みが強まり、Informelは「現在進行の新美術」から一つの戦後世代として歴史化され始めます。作家自身の制作はその後も続くため、1960年は終点ではなく美術史上の境界です。

CoBrAとの違い

CoBrAもspontaneity、child art、material freedomを重視しますが、collective activity、figurative creatures、folk culture、political-utopian dimensionが強く、Paris Informelとは別の記事で扱う方が理解しやすくなります。

Dubuffet/Art Brutとの違い

Dubuffetもthick matterを使いますが、彼の中心問題はprofessional cultureと美術制度への批判、そしてArt Brut collectionです。Fautrierと表面が似る部分だけで同じmovementへまとめるべきではありません。

Giacometti/Baconとの違い

GiacomettiとBaconは戦後人間像の危機をfigural formとして追究しました。Informelがsurfaceやmaterialで身体を間接化したのに対し、彼らは人間のfigureそのものを消さず、空間と肉体の関係を再構成します。

ART HISTORYとしてのまとめ

1945–60年のヨーロッパ抽象を理解する鍵は、「戦後の感情を自由な線で表現した」という説明から離れることです。Fautrierは厚い物質で匿名の身体を作り、Wolsは名前の付かない有機世界へ線を増殖させ、Hartungは自由なgestureを綿密な転写と組み合わせ、Soulagesは安価な染料と幅広い刷毛から暗さと光の関係を組み立て、Mathieuは速度と展覧会を作品化し、Tapiéはそれらを国際的な批評categoryへ編成し、Burriはsupport、stitch、fireによってpaintingの物理条件そのものを変えました。Art informelとは一つの見た目ではなく、戦後に「絵画は何ででき、どのように成立するのか」を問い直した複数の実践だったのです。

次へ — CoBrA

次の記事では1948–51年のCoBrAを独立して扱います。Copenhagen、Brussels、Amsterdamを結ぶ短いcollective、Asger Jorn、Karel Appel、Constant、Corneille、Christian Dotremontらを中心に、child art、folk culture、共同制作、雑誌、実験住宅、Communismとの距離まで掘り下げます。

参考資料・出典

本ページは、Centre Pompidou、Musée Soulages、Fondazione Palazzo Albizzini Collezione Burri等の美術館・作家財団の資料を中心に参照し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。原文の全文翻訳ではありません。

Jean Fautrier《Otages》についてはCentre Pompidouの《Tête d’otage》《L’Écorché》および同館教育資料を参照し、1943–45年頃の制作、Châtenay-Malabry周辺の処刑との関係、紙に白色地・油・膠等を重ねる技法、1945年Galerie René Drouinでの展覧会、黒い壁面上での連続展示、当時の批判を扱いました。

WolsについてはCentre Pompidou《Grenade bleue》《Aile de papillon》およびdrawing collectionを参照し、戦時期の収容生活を経て1946年頃Parisでoil paintingを本格化し、1947年Galerie René Drouinで40点のpaintingが展示されたこと、1948年《HWPSMTB》や1951年《Véhémences confrontées》へ接続したことを扱いました。

Hans HartungについてはCentre Pompidouの1947年作品解説を参照し、同年Galerie Lydia ContiでParis初個展を開き、Jean-José Marchandが1947年のSalon des Réalités Nouvellesをめぐって「abstraction lyrique」という表現を用いたこと、Hartungの自由に見える線がorder、system、drawingからのtransferを伴う制作であったことを扱いました。

Pierre SoulagesについてはCentre Pompidou《Brou de noix sur papier 65 × 50 cm, 1948-1》とMusée Soulagesのbrou de noix collectionを参照し、1947–49年に約50点のbrou de noix作品を制作したこと、安価な木材染料と建築塗装用の幅広いbrushを用いたこと、1948年のGermany巡回展で紹介されたことを扱いました。

Soulagesをcalligraphyやideogramへ単純化しないため、Centre Pompidouが指摘する「暗い形と明るい余白との関係」「光の出現」という分析を参照しています。また1948年のtar on glassについてはCentre Pompidouの活動報告に記録されたGare de Lyonのglass roof修復との関連を背景として扱いました。

Georges MathieuについてはCentre Pompidou《Frotissance》《Opalescence》《Un Silence de Guibert de Nogent》《La Bataille de Bouvines》《Les Capétiens partout !》の解説を参照し、1944–45年頃のabstract works、1947年Salon des Réalités Nouvelles、speed、tubeから直接出すpaint、historical titles、large-scale worksへの展開を扱いました。

Michel TapiéとArt informelについてはCentre Pompidou教育資料を参照し、1952年《Un art autre》が新しいnon-geometric abstractionを既成schoolから離れた「別の芸術」として整理したことを扱いました。「Art informel」を一つの固定様式ではなく、批評上の広いcategoryとして説明しています。

1951年《Véhémences confrontées》についてはCentre PompidouのWols作品解説と戦後Paris gallery史を参照し、Galerie Nina DaussetでMichel TapiéがBryen、Capogrossi、de Kooning、Hartung、Mathieu、Pollock、Riopelle、Russell、Wolsを比較展示したことを確認しました。

Jackson PollockのFrance初個展についてはCentre PompidouのPollock collection解説を参照し、1952年2月Studio Paul FacchettiでMichel TapiéとAlfonso Ossorioの協力により開催され、一般的反応が冷淡だった一方でartistsが多数訪れたことを、Paris–New York交流の重要事例として扱いました。

Jean Paul RiopelleについてはCentre Pompidou《Chevreuse》を参照し、perspectiveやhorizonを排したall-over surfaceと、特定のlandscape再現ではなくnatureとのphysical sensationを参照する制作として扱いました。

Maria Helena Vieira da SilvaについてはCentre Pompidou《Egypte》(1948)を参照し、postwar Parisの抽象がgesture/Informelだけではなく、architecture、grid、labyrinth、unstable perspectiveを用いる別の方向も含んでいたことを示す補助例として扱いました。

Alberto BurriについてはFondazione Palazzo Albizzini Collezione Burriの公式biographyを参照し、1915年生まれ、1940年医学修了、1943年Tunisiaで捕虜となりTexasのHereford campでpaintingを始め、1946年Italy帰国後Romeで制作へ専念したことを確認しました。

Burriのmaterial developmentについては同財団資料を参照し、1948–49年のCatrami、1950年頃以後のSacchi、1950年代のCombustioni、Legni、Ferri、1960年代のPlasticheへ続く流れを扱いました。stitchやburningを医師経験・戦争体験だけへ直接還元せず、material transformationとformal compositionを中心に記述しています。

戦後Parisのgallery networkについてはCentre Pompidouの「Plongée dans l’âge d’or des galeries parisiennes」を参照し、Galerie Nina Dausset、Colette Allendy、Studio Paul Facchettiなどが1945年後のnew abstractionを紹介する重要な場となったことを扱いました。

本記事ではArt informel、abstraction lyrique、Tachismeを完全な同義語としていません。またEuropeとAmerican Abstract Expressionismを「どちらが先か」という単純な競争へせず、1951–52年の展覧会を通して作品・批評・画商がAtlanticを横断した相互関係として構成しています。

資料確認日:2026年10月3日 / ART LIBRARY