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Art History

1964–1975

芸術家自身の身体が作品になる

ボディ・アートとパフォーマンスの展開

1964年、京都の舞台でオノ・ヨーコは静かに座り、観客へ自分の衣服を切り取ることを許しました。同じ年、ニューヨークではキャロリー・シュニーマンが複数の出演者と絵の具や肉、紙などを使い、身体が触れ合う行為を作品として発表しました。いずれも、鑑賞者が完成した絵画や彫刻を見るという習慣を大きく変える出来事でした。

20世紀前半までの美術でも、人間の身体は重要な主題でした。肖像画や裸体画には身体が描かれ、彫刻では身体の形が立体として作られてきました。1960年代半ばになると、芸術家自身が動き、歩き、立ち続け、観客と接することが作品になります。作品を作るための行為が前に出て、その行為が起きる時間と場所、作家の身体そのものが注目されるようになりました。

この変化は突然起きたものではありません。1950年代末のハプニング、1960年代初頭のフルクサス、ニューヨークの実験ダンスなどでは、日常的な動作や観客の参加がすでに芸術として扱われていました。その流れと交差しながら、身体そのものに向けられる視線、疲れや痛み、他人との距離、身体が置かれた社会の規範をめぐる作品が各地で展開されていきます。

例えば、オーストリアのウィーンでは絵画の行為を街や身体へ広げた作家たちが活動し、ヴァリー・エクスポートは女性の身体を見ることの意味を問い直しました。アメリカではブルース・ナウマンが制作室での単純な動作をフィルムに収め、エイドリアン・パイパーは街中での他者の反応を作品へ取り込みました。身体を使う表現には、地域の歴史や作家個人の経験に根ざしたさまざまな方法がありました。

身体を使った作品には、重要な難しさもあります。公演が終われば、その場の出来事は過去になります。私たちが現在美術館で見る写真や映像は、実際の出来事を記録した資料である場合も、最初からカメラのために制作された作品である場合もあります。どのように記録され、どのように再演されるかは、作品を理解するうえで大切な問題です。

本記事では1964年から1975年を中心に、オノ・ヨーコ、シュニーマン、ギュンター・ブルス、ヨーゼフ・ボイス、ヴァリー・エクスポート、ナウマン、ヴィト・アコンチ、パイパー、クリス・バーデン、ジョーン・ジョナス、アナ・メンディエタ、ジーナ・パーネ、マリーナ・アブラモヴィッチの実践をたどります。それぞれの作家が何を行い、その行為によって美術の考え方をどのように広げたのかを、作品の具体的な内容から説明します。

作品の中には、身体の負傷や性的な行為など、読む人によって強い印象を受けるものも含まれます。そうした場面を紹介する目的は、奇抜な出来事を列挙することではありません。作品が生まれた時代と制作の背景、行為を目にした観客の立場、その後の美術に残した変化を理解するためです。

絵画や彫刻から、身体を使う芸術へ

身体が作品になるとは、どういうことか

絵画では画家が絵の具を塗り、彫刻では作家が素材を加工して、鑑賞者が見るためのものを作ってきました。1960年代には、芸術家が自分の身体を使って何かを行い、その出来事自体を作品として発表する実践が急速に広がります。座る、歩く、身ぶりを繰り返す、他者に働きかけるといった行為が、新たな表現の方法になりました。

例えば同じ「歩く」という動作も、普段の移動と、あらかじめ決めた規則に従って人前で行う場合とでは受け取られ方が変わります。作家の姿勢、時間、場所、居合わせる人の反応までが作品を形作るからです。身体表現の歴史は、完成した作品を見るという美術の習慣を、実際に起きる出来事へ広げた過程として理解できます。(参照:ニューヨーク近代美術館|美術用語・パフォーマンス)

作品を見る時間と場所が変わった

従来の絵画や彫刻は、美術館に置かれれば長い年月にわたって同じ形を保つことができます。身体を使った行為は、それが行われている時間の中で進み、終わります。五分間の動作も、何時間にも及ぶ行為も、そこに居合わせた人にしか直接経験できない時間を持っています。

この変化によって、作品を理解するために場所や観客の役割を考える必要が生まれました。劇場、画廊、街路、作家の制作室など、どこで行われるかによって出来事の意味は変化します。あとから写真を見る人と、その場で作家の声や息づかいを聞いた人とでは、知ることができる内容にも差があります。(参照:ニューヨーク近代美術館|メディアとパフォーマンス芸術)

1964〜1975年を一つの時代として考える

パフォーマンス・アートは、同じ宣言に署名した一団の作家によって始まった運動ではありません。1960年代、各地の芸術家が演劇、実験音楽、絵画、ダンス、写真などの経験から、身体を使う方法を独自に発展させました。「ボディ・アート」「行為芸術」などの呼び名も併用され、表現の内容は地域や作家によって異なりました。

この記事では1964年のオノ・ヨーコとキャロリー・シュニーマンの実践を一つの起点とし、1975年までに表れた主要な変化を追います。扱うのは身体表現の歴史全体の始まりと終わりを決めるための年号ではありません。この時期の作品をたどることで、美術が身体、観客、社会、記録と新しい関係を結んだことが見えてきます。(参照:ニューヨーク近代美術館|メディアとパフォーマンス芸術)

前史としてのハプニング、フルクサス、実験ダンス

1950年代末、日常の出来事を作品に取り込む

1959年、アラン・カプローはニューヨークで《18のハプニングを6つの部分で》を発表しました。観客が移動すること、決められた動作や音が起きること、複数の出来事が同時に進むことによって、作品は一枚の絵から時間の中の経験へと広がりました。会場にいる人々は出来事の順序や自分の位置によって違う経験をしました。

ハプニングは、後の身体表現へ重要な条件を残しました。作品は目に見えるものを最後まで残さなくても成立し、制作には参加者や空間の動きが関わります。さらに、作家が決めた手順と、実際の現場で起こることの間に差が生まれる可能性も、芸術を考える対象になりました。(参照:ニューヨーク近代美術館|メディアとパフォーマンス芸術)

フルクサスが広げた短い指示と実行の自由

1960年代初頭のフルクサスでは、短い文章で行為を指示する作品が生まれました。読む人が実行するだけで成立する作品もあり、楽器を鳴らすことや物を扱うことが、美術と音楽の境界を横断します。オノ・ヨーコはこうした指示作品を発展させ、鑑賞者が行動を選ぶ状況を作りました。

フルクサスの指示が別の人によって繰り返し実行できるのに対し、その後の身体表現には特定の作家の身体や履歴が作品の意味を強く担う例も増えていきます。両者の間には連続性があり、観客参加、身体の危険、社会的な視線など、関心の中心は少しずつ変化しました。(参照:ニューヨーク近代美術館|観客の参加)

ジャドソン・ダンス・シアターと舞台芸術の実験

ニューヨークのジャドソン・ダンス・シアターでは、1962年頃から新しいダンスの実験が展開されました。訓練された舞踊の動きに加え、歩く、座る、物を運ぶといった日常的な動作が振付に使われ、ダンサーと視覚芸術家が交流しました。シュニーマンもこの活動に関わり、身体、空間、素材を同時に変化させる表現を発展させます。

パフォーマンス・アートと演劇やダンスの違いを、物語や台詞の有無だけで線引きすることはできません。重要なのは、視覚芸術の作家が行為そのものを作品として提案し、観客に見るという行為を改めて意識させたことです。舞台芸術から学んだ時間の構成は、その後の作品にも深く残っています。(参照:ニューヨーク近代美術館|《ミート・ジョイ》とジャドソン・ダンス・シアター)

ボディ・アートという呼び名と、新しい鑑賞の問題

身体が主題である作品と、身体で作る作品

裸体画や肖像彫刻は長い間、人間の身体を美術の主題としてきました。1960年代の新しい試みでは、作家が実際に行動し、その身体の重さ、疲れ、息、動作を作品の条件にします。描かれた人物を見る経験と、目の前で実際に行動する人に立ち会う経験には違いがあります。

それでも身体を使う作品が常に裸身や苦痛を見せるわけではありません。ほんの数歩を繰り返す作品、画面に映る自分の姿を観察する作品、自分の身体を隠して観客に声だけを届ける作品もあります。身体をどのように使うかという選択が、それぞれの作家の関心を映し出しています。(参照:ニューヨーク近代美術館|美術用語・パフォーマンス)

観客は見守る人から、出来事の参加者にもなる

劇場や美術館で作品を見るとき、観客は通常、作品から一定の距離を取ります。ところが、服を切り取るよう求められたり、決められた空間を歩くよう促されたりすると、自分の行動によって作品が変わります。参加した人だけでなく、周囲で見ている人も、その選択を目撃する立場になります。

観客が参加できることは、必ずしも自由で楽しい体験を意味しません。相手の身体への配慮、同意、威圧、無関心が、その場の出来事に現れることもあります。パフォーマンス・アートは、美術館で見慣れた安全な距離を変え、人と人が接するときの責任まで考えさせる表現になりました。(参照:ニューヨーク近代美術館|観客の参加)

社会運動が身体へのまなざしを変えた時代

1960年代のアメリカやヨーロッパでは、公民権運動、反戦運動、女性解放運動、学生運動などが広がりました。誰の声が公の場で聞かれるのか、誰の身体が管理され、どのような行動が許されるのかという問題が、政治や日常生活のなかで問われます。芸術家たちもこの変化の只中で活動していました。

作品に表れた身体の意味は一様ではありません。女性の身体を見せる仕組みを問い直す作家、街中での他者の反応を観察する作家、国家や宗教の規範を批判する作家がいました。身体を使ったから同じ政治的立場に属するという説明より、それぞれが何を経験し、どのような場で作品を発表したかを見ていくことが大切です。(参照:ニューヨーク近代美術館|メディアとパフォーマンス芸術)

1964年|オノ・ヨーコ《カット・ピース》

京都で初演された、衣服を切り取る作品

オノ・ヨーコの《カット・ピース》は1964年に京都で初演されました。舞台に座った作家の前に鋏が置かれ、観客は一人ずつ近づいて衣服の一部を切り取り、持ち帰ることができます。作家は基本的にその場で動かず、観客がいつ、どこを、どのくらい切るかによって作品の姿が変わっていきます。

作品の中心にあるのは、鋏で切られた服そのものより、人が他人に何をするのかを判断する時間です。遠慮がちに小さな布を取る人、思い切って大きく切る人、それを黙って見守る人が現れます。作家の身体を前にした観客の態度が、そのまま作品の内容になりました。(参照:ニューヨーク近代美術館|オノ・ヨーコ《カット・ピース》)

作品の進行を決める力が観客へ移る

《カット・ピース》では、オノは自由な即興にすべてを委ねているわけではありません。舞台に座ること、鋏を置くこと、観客が一人ずつ近づくこと、切った布を持ち帰れることなど、出来事の基本的な条件は指示として定めています。観客が選ぶのは、その条件の中で実際に何をするかという部分です。

観客が参加しなければ、作品は静止したまま時間が過ぎていきます。参加者が現れると、その行為が次の参加者の判断にも影響します。完成した作品の形を作家一人が決めるという考えが、人々の選択と共同で生じる出来事へ変わったことを、具体的に感じられる作品です。(参照:ニューヨーク近代美術館|オノ・ヨーコ本人と《カット・ピース》)

女性の身体、贈与、平和をめぐる複数の意味

衣服を切り取る行為は、着る人と社会の境界にも触れます。観客は布を切っているつもりでも、衣服が失われるにつれて身体への距離が近くなり、作家の安全や尊厳が意識されます。この作品は女性の身体への暴力と結びつけて語られるとともに、作家が自ら与えること、抵抗せずに相手の選択を見届けることとも関係してきました。

オノ自身の発言でも、与えることと奪うこと、平和や女性の経験など複数の意味が示されています。1965年にはニューヨークでも実演され、後年には別の場所で再演されました。同じ指示を使っても、その場にいる観客が変われば、作品の緊張や結果は変わります。(参照:ニューヨーク近代美術館|オノ・ヨーコ本人と《カット・ピース》)

1964年|シュニーマンと身体を使った絵画の拡張

《ミート・ジョイ》で動き、素材、色彩が交わる

キャロリー・シュニーマンは1964年、パリとニューヨークで《ミート・ジョイ》を上演しました。複数の出演者が身体を重ね、紙、絵の具、魚、肉などの素材と触れ合いながら動きます。人の姿と素材の配置は刻々と変化し、一枚の絵では留められない色彩や質感の変化が生まれました。

シュニーマンは作品を、当時の社会で抑え込まれがちだった身体的な感覚や接触の喜びと結びつけて考えていました。身ぶりには準備された部分と、その場で素材に触れることによって生じる部分が共存しています。観客は、動作や色彩が時間の中で混ざり合う様子を体験しました。(参照:ニューヨーク近代美術館|《ミート・ジョイ》とジャドソン・ダンス・シアター)

絵画を捨てず、画面を身体と空間へ広げる

シュニーマンはもともと絵画を学び、1960年代初頭には絵画に物体や鏡、動く装置などを組み合わせていました。彼女にとって身体を使った表現は、絵画の経験を断ち切るものではありません。画面の上で色や形を配置する考えを、実際の身体と空間の中で展開させる試みでもありました。

伝統的な絵画では人間の身体がモデルとして描かれる場面が多くありました。シュニーマンは、自分が作る側に立ちながら、その身体そのものを表現の中へ持ち込みます。女性の身体を誰が見せ、誰が作品の意味を決めるかという問題も、この制作方法によって新しく現れました。(参照:ニューヨーク近代美術館|シュニーマン《ミート・ジョイ》)

公演の映像は、もう一つの作品になる

《ミート・ジョイ》は1964年の公演で知られていますが、現在、美術館で見ることができる映像は、撮影された素材を編集して構成した作品です。会場の観客が一度に見た出来事と、カメラが切り取った場面を順序立てて見せる映像は、経験のしかたが異なります。

映像には視点や長さを選ぶ作業が伴います。どの動作を強く見せるか、どの瞬間をつなぐかによって、出来事に別の流れが生まれます。身体表現を後世へ残す方法として、撮影や編集が創作そのものに関わり始めたことを示す重要な例です。(参照:ニューヨーク近代美術館|シュニーマン《ミート・ジョイ》)

1960年代のウィーン|絵画を身体的な行為へ変える

ウィーン・アクショニズムの背景

オーストリアのウィーンでは、1960年代にギュンター・ブルス、ヘルマン・ニッチュ、オットー・ミュール、ルドルフ・シュヴァルツコーグラーらが、身体と素材を使う過激な行為作品を発展させました。彼らは、絵画を画面の中に閉じ込める習慣を越えて、物を投げつけること、身体を塗ること、儀式的な行動を行うことなどを試みます。

第二次世界大戦後のオーストリア社会に残る権威や宗教、道徳的な規範への反発も、その背景にありました。ウィーン近代美術館は、これらの活動を絵画から時間と空間の中で展開する行為への転換として紹介しています。身体表現が国によって異なる社会経験から生まれたことを知る手がかりになります。(参照:ウィーン近代美術館|ウィーン・アクショニズム)

ニッチュの儀式的な行為と感覚への働きかけ

ヘルマン・ニッチュは1960年代初頭から、絵の具や血、動物に由来する素材、音、集団の動作を組み合わせた行為を展開しました。のちに「オルギー・ミステリー劇」と呼ばれる壮大な構想へ発展し、観客の視覚だけでなく、音や匂いなどにも働きかける表現を目指しました。

これらの行為は宗教儀礼や集団の感情を意識したもので、強い議論を呼びました。作品を知る際には、その場に存在した人々や動物由来の素材の扱いなど、倫理的な問題も切り離せません。儀式の形を芸術に取り入れた狙いと、実際の行為が社会からどう受け止められたかを合わせて見る必要があります。(参照:ヘルマン・ニッチュ美術館|作家略歴と行為作品)

行為そのものと、写真のために演出された場面

ウィーン・アクショニズムの作品は、現在では写真や映像を通して知る機会が多くあります。現場で観客が見た行為の記録に加え、撮影を意識して組み立てられた場面もあり、写真一枚だけから出来事の全体を復元することは難しいものです。シュヴァルツコーグラーの作品には、身体を傷つけたように見える演出的な写真も残されています。

写真の強い印象から、実際の出来事を誤って伝える話が広まった例もあります。身体表現では、何が実際に行われ、何が演出され、誰が撮影したのかを区別する資料調査が欠かせません。刺激の強さに注目するだけでは、この時代の芸術家たちが取り組んだ構成や記録の方法が見えにくくなります。(参照:ウィーン近代美術館|ウィーン・アクショニズムの作家と作品)

1965年|ボイスとブルス、それぞれの身体表現

ボイス《死んだ野ウサギに絵を説明する方法》

ヨーゼフ・ボイスは1965年、デュッセルドルフの画廊で《死んだ野ウサギに絵を説明する方法》を行いました。金箔や蜂蜜を顔に使い、死んだ野ウサギを腕に抱いて、展示された絵を説明するようなしぐさを見せます。芸術家が動物に語りかける行為は、絵を説明するという普段の行為を奇妙な儀式へと変えました。

ボイスは、動物や蜂蜜などの素材に象徴的な意味を見いだし、芸術を言葉や視覚だけに限定しない方法を探りました。後に芸術と教育、社会の関係へ活動を広げるボイスにとって、行為は思想を身体で伝える方法でもありました。その解釈は儀式、神話、教育など複数の側面から考えられます。(参照:ポンピドゥー・センター|ボイス回顧展・1965年の行為作品)

ブルス《ウィーンの散歩》は街へ出た絵画だった

ギュンター・ブルスは1965年7月、身体と衣服を白く塗り、頭から足元へ黒い線を引いた姿でウィーンの街を歩きました。《ウィーンの散歩》と呼ばれるこの行為では、作家の身体そのものが、街路を移動する一枚の絵画のように扱われます。周囲の人は美術館の外で、突然その姿に出会いました。

ウィーンの公共空間には政治的な歴史が刻まれていました。ブルスが歩いたヘルデン広場は、1938年にナチス・ドイツへの併合が宣言された場所でもあります。黒い線を引いた身体が街を進むことで、絵画の問題が都市の歴史や公共の秩序へと広がりました。撮影された写真は、現在この行為を知る重要な資料となっています。(参照:ポンピドゥー・センター|ギュンター・ブルス《ウィーンの散歩》)

1974年のボイスとコヨーテの共同生活

ボイスは1974年に《私はアメリカが好き、アメリカも私が好き》をニューヨークで行い、コヨーテと同じ空間で数日を過ごしました。動物の動きは作家の思い通りに進まず、二者が接近したり離れたりする時間が作品を形作りました。舞台で決まった物語を演じることとは異なる、予測しきれない関係を含む行為でした。

コヨーテは北米の歴史や先住民文化への複雑な連想を持ち、ボイスは自らの象徴的な世界観と重ねていました。人間と動物の間に実際の距離や緊張が生じることが、この作品の特徴です。身体を使う表現は、他者に見られる姿だけでなく、他の生き物と同じ空間を共有することにも広がっていきました。(参照:ウォーカー・アート・センター|ボイス《私はアメリカが好き、アメリカも私が好き》)

1968年|ヴァリー・エクスポートと女性の身体の見られ方

街中を歩く《タップ・アンド・タッチ・シネマ》

ヴァリー・エクスポートは1968年、《タップ・アンド・タッチ・シネマ》を実施しました。上半身の前に小さな箱を取り付け、観客が箱の中へ手を入れて触れることで、女性の身体を映像として眺める行為を現実の接触へ変える作品です。街の人々が参加する場面では、その行為に関わる気まずさや責任も表面化します。

「映画を見る」という言葉が示す一方向の視線は、実際の身体へ触れるという状況に置き換えられました。観客は普段、映画の中の女性像を安全な距離から見ることができます。この作品は、その視線のあり方を人前で具体的に体験させ、女性の身体を消費する文化への問いを突きつけました。(参照:ニューヨーク近代美術館|ヴァリー・エクスポート《タップ・アンド・タッチ・シネマ》)

ウィーンの男性中心の前衛美術への応答

ヴァリー・エクスポートは、ウィーン・アクショニズムが注目を集める環境の中で活動しました。身体を使う表現が過激で新しくても、女性がどのような立場に置かれているかという問題は残ります。彼女は自ら芸術家としての名前を選び、映像や写真、行為によって女性像を作る仕組みを問い直しました。

身体を芸術の素材として使うことには、誰が主体となり、誰が鑑賞の対象にされるのかという問題が伴います。女性が自分の身体を作品に使う行為にも多様な意味があり、同時代の男性作家の方法に単純に重ねることはできません。エクスポートは、この違いを明確にした重要な作家です。(参照:ニューヨーク近代美術館|ヴァリー・エクスポート《タップ・アンド・タッチ・シネマ》)

作品を残した映像と、元の行為の時間

《タップ・アンド・タッチ・シネマ》は、実際に人々と接触する時間の中で行われました。現在、ポンピドゥー・センターなどが所蔵する映像資料を通して見る場合、私たちは撮影された一場面から行為を知ります。映像で何が見えるかと、その場の参加者が触覚や緊張をどう経験したかには差があります。

この作品では、撮影された女性像を眺める文化を批判する行為が、後世には映像を通して伝えられるという複雑な関係も生まれます。カメラは作品を残す装置であると同時に、作品が問題にした視線の仕組みにも関わっているのです。(参照:ポンピドゥー・センター|ヴァリー・エクスポート《タッチ・シネマ》)

1965〜1968年|ブルース・ナウマンの制作室

壁と床に合わせて身体を動かす

ブルース・ナウマンは1965年、壁と床に対して異なる姿勢を取る《ウォール・フロア・ポジションズ》を実演しました。身体を折り曲げ、支え、立たせる単純な動作を繰り返すと、普段は意識しない壁の角度や床の硬さが際立ちます。身体が部屋の寸法を測る道具のように働く作品です。

この行為には日常の動作を彫刻的に見る視点がありました。目の前に完成した立体物を置く代わりに、身体の形が短い時間ごとに変わっていきます。1965年の最初の実演を直接記録した資料は残っておらず、1968年に制作された映像が後年の再演の手がかりになっています。(参照:ニューヨーク近代美術館|ナウマン《ウォール・フロア・ポジションズ》)

正方形の周囲を、誇張して歩き続ける

1967〜68年の《正方形の周囲を誇張して歩く》では、ナウマンが制作室の床に正方形を示すテープを貼り、その周囲を大げさな身ぶりで歩きます。決まった経路を往復するだけの作品ですが、歩幅、腰の動き、速度が少しずつ変化し、繰り返される身体の動きが浮かび上がります。

この作品は16ミリフィルムで撮影されました。カメラは固定されているため、作家が画面の外へ出てしまう瞬間もあります。撮影するために芸術家が行為を行うという構造によって、制作室が舞台となり、フィルムそのものが作品を鑑賞する場所になりました。(参照:ニューヨーク近代美術館|ナウマン《正方形の周囲を誇張して歩く》)

身体に色を塗る《アート・メイクアップ》

ナウマンは1967〜68年の《アート・メイクアップ》で、自分の顔や上半身に白、桃、緑、黒などの色を順に塗り重ねました。絵の具を塗るという画家の行為が、キャンバスから作家の皮膚へ移ります。身体は色を載せる支持体になり、同時に変化していく人物像そのものにもなりました。

色を重ねることは、身体の外観や自己像がどのように作られるのかという問題へ通じます。ナウマンは絵画、彫刻、映像の境界を行き来しながら、芸術家の制作行為そのものを作品として検証していました。女性の身体をめぐるエクスポートの関心とも異なる角度から、身体と画像の関係が扱われています。(参照:ニューヨーク近代美術館|ナウマン《アート・メイクアップ》)

1969年|アコンチ《フォロウイング・ピース》

知らない人の後を追うという行為

ヴィト・アコンチは1969年秋、ニューヨークの街で通行人を無作為に一人選び、その人が建物の中へ入るまで後を追う《フォロウイング・ピース》を行いました。数分で終わるときも、何時間も続くときもあり、移動する場所は相手次第です。作家は自分がどこへ行くのかを決める権限を、知らない他者の歩行へ委ねました。

作品の方法は非常に簡単ですが、日常的な移動が一つの規則に従った出来事へ変わります。どの道を通るのか、いつ終わるのかという最も基本的なことを、作家自身が選べません。美術館から離れた街路が作品の舞台となり、見知らぬ人が本人の意図を知らないまま、作品の進行を左右することになりました。(参照:ニューヨーク近代美術館|アコンチ《フォロウイング・ピース》)

公共の道と私的な空間の境界

《フォロウイング・ピース》は、相手が私的な建物の中へ入ると終了します。街の中を歩くことができても、他人の部屋に自由に入れるわけではありません。公共空間と私的な領域を分ける都市生活の規則が、作品の開始から終了までを決める仕組みになっています。

同時に、この行為には他者の同意や私生活をめぐる問題があります。追われる人は芸術作品に参加していることを知らず、作家の企画を了承していません。アコンチが作家の意志を相手の行動へ委ねたという説明と、その行為が他者へ及ぼす影響は、両方を含めて考える必要があります。(参照:ニューヨーク近代美術館|アコンチの作品解説)

地図と写真が作品を後世へ伝える

この作品の主要な資料には、歩いた経路を示す地図、行為の条件を記した文章、写真などがあります。現在ニューヨーク近代美術館が所蔵する作品では、これらが一組の資料として展示されます。通行人を追った行為自体は終わっていても、資料を読む人は、その方法や移動した範囲を知ることができます。

残された写真を、その場で起きたことの完全な実況記録と受け取るのは慎重であるべきです。実際の行為が起こった時間と、後に画像をまとめた作業には差があります。出来事を作品として社会へ届けるためには、何を撮り、何を記述するかも重要な判断でした。(参照:ニューヨーク近代美術館|アコンチ《フォロウイング・ピース》)

1970年|エイドリアン・パイパーと公共空間の身体

《カタリシス》が日常の場所へ持ち込んだもの

エイドリアン・パイパーは1970年から《カタリシス》と題した一連の行為を行いました。通りや公共交通機関など日常生活の場へ、周囲の人が戸惑うような外見で現れます。ある行為では衣服に塗料を付けた姿で外を歩き、人々がその姿をどう受け止めるかを作品の一部としました。

街中で突然出会う人々は、美術館の観客として作品を見ようと準備しているわけではありません。通行人の視線、距離の取り方、無視する態度、警戒心が、作品を展開させる条件になります。作家自身の身体を使うことで、公共空間に存在する暗黙の決まりや偏見を明らかにしようとした試みです。(参照:ハマー美術館|エイドリアン・パイパーのパフォーマンス)

《カタリシスIII》と写真による記録

《カタリシスIII》(1970年)は、塗料をまとった作家の姿を人々の生活空間へ持ち込んだ実践の一つです。ハマー美術館やゲネラリ財団は、この行為を伝える写真資料を紹介しています。写真にはローズマリー・メイヤーが撮影したものがあり、作家が実際の場所で行動したことを後世へ伝えています。

公演のための舞台や決められた観客席がないため、そこで起きた人々の反応を一つの映像としてすべて残すことはできません。写真は作品の存在を知る重要な手がかりですが、行為が日常の場に与えた影響の全体を記録するものではありません。この不完全さも、街を使う身体表現を理解する上で重要です。(参照:ゲネラリ財団|パイパー《カタリシスIII》)

人種と性別、他人の視線にさらされる身体

パイパーはアフリカ系アメリカ人の女性作家として、人種、性別、他者からの評価に関わる問題を長く探究しました。1973〜75年に展開した《ミシック・ビーイング》では、かつらや口ひげなどを用いて男性的な人物像を演じ、街中での行動や写真、文章を組み合わせています。

誰がその場所にいてもよいと見なされ、どのような外見が警戒されるのか。パイパーの作品は、抽象的な議論で終わりがちな社会の規範を、作家自身が他者と接する場面へ移しました。1970年代の身体表現を理解するには、こうした人種や性別の経験を、作品の形式と同じくらい丁寧に見る必要があります。(参照:エイドリアン・パイパー研究アーカイブ財団|略歴)

1971年|クリス・バーデンと身体に及ぶ危険

《シュート》に至った1970年代初頭のアメリカ

クリス・バーデンは1971年、南カリフォルニアで《シュート》を行いました。知人が銃を発射し、作家の腕に実際に傷を負わせるという行為です。当初想定していた結果と現実に起きた負傷には差があり、行為は人間が危険を完全に管理できるのかという問題を強く浮かび上がらせました。

作品が制作された時期、アメリカではベトナム戦争の暴力が新聞やテレビを通じて連日伝えられていました。ロサンゼルス郡立美術館は、この社会的な背景と、現実の身体で起きる負傷を結びつけて作品を紹介しています。映像で繰り返し目にする暴力と、実際にその場で起こる出来事の差が問われました。(参照:ロサンゼルス郡立美術館|クリス・バーデン《シュート》)

危険を表現することと、危険が実際に起こること

映画の暴力場面は、俳優の身体が傷つくことを防ぐさまざまな方法によって撮影されます。バーデンの《シュート》では、実際の負傷が生じたため、出来事の結果は撮影や演技の範囲に収まりませんでした。作家の身体が傷ついたという事実は、観客や後世の読者にも強い緊張を与えます。

この作品の価値を危険の大きさだけで測ると、時代の中で問われた重要な問題を見失います。作家が自分の身体を置いた状況、他者が行為を担ったこと、予測と結果の間に差が生じたことが中心にあります。過去の行為を説明する際には、再現するための手順として扱わず、歴史的な作品としてその意味を考えることが重要です。(参照:ロサンゼルス郡立美術館|クリス・バーデン《シュート》)

約2分の映像が伝えること、伝えないこと

現在ロサンゼルス郡立美術館が所蔵する《シュート》の映像は、およそ2分の白黒映像として紹介されています。撮影された出来事は、行為に立ち会った人の数を大きく超えて、後世の観客に知られるようになりました。映像に残る身体の動きや周囲の空気は、作品の歴史を伝える重要な資料です。

映像を見ている人は、撮影されたその場所で負傷が起きる前の緊張を直接経験したわけではありません。出来事そのものと、それを後から知る経験との間には時間的な距離があります。身体表現の歴史は、実際に行われた行為と、後世に流通した映像が結びつくことで作られていきました。(参照:ロサンゼルス郡立美術館|クリス・バーデン《シュート》)

1972年|アコンチ《シードベッド》と見えない身体

画廊の床下に隠された作家

アコンチは1972年、ニューヨークのソナベンド画廊で《シードベッド》を発表しました。会場には低い木製の傾斜した床が設けられ、作家はその下に隠れていました。来場者の歩く気配を手がかりに性的な空想を口にし、自身の身体を使った性的行為を行い、その声を会場内のスピーカーから流しました。

鑑賞者は作家の姿を直接見ることができません。目の前にあるのは木製の床と、どこかから聞こえてくる声です。それでも床の下に作家がいることを知ることで、歩く動作や距離の感覚が変化します。身体を見せるという方法以外にも、存在を強く感じさせる表現があることを示しました。(参照:メトロポリタン美術館|アコンチ《シードベッド》)

作品の内容になった鑑賞者の位置

《シードベッド》では、観客がどこへ立ち、どの方向へ進むかが、作家の声に関わります。来場者が作品を見に来たつもりでも、自分の移動が作家の行為を動かす要素となっています。画廊の普通の床は、観客が歩く場所であると同時に、作家と観客を隔て、つなぐ仕組みに変わりました。

この作品には、観客がどこまで参加に同意していたのかという倫理的な問いも伴います。人が会場へ入ることと、他者の性的な想像の対象になることは、同じ選択としては扱えません。アコンチは、美術館や画廊で作品を見る人が置かれる立場を、きわめて不安定にする構成を試みました。(参照:メトロポリタン美術館|アコンチ《シードベッド》)

ミニマリズムの展示空間から、心理的な空間へ

1960年代のミニマリズムでは、床や壁に置かれた単純な物体と、鑑賞者の身体との距離が重要な問題になりました。《シードベッド》にも、簡潔な木製の構造物と、そこを歩く人の関係が見られます。そこへ見えない身体と声が加わることで、空間は物理的な広がりに加えて、心理的な緊張を持つ場所になりました。

アコンチの作品は、ボディ・アート、建築的な空間、言葉、観客参加の要素を重ねています。1960〜70年代の芸術運動を一つずつ別の箱に分類するだけでは見えてこない、多様な実験の交差を示す作品です。(参照:メトロポリタン美術館|アコンチ《シードベッド》)

1972年|ジョーン・ジョナスと映像の中の身体

《オーガニック・ハニーの視覚的テレパシー》

ジョーン・ジョナスは1972年、《オーガニック・ハニーの視覚的テレパシー》を発表しました。仮面や衣装を用いて架空の人物像を演じ、カメラ、モニター、鏡などを使いながら、自分の姿を見せ、変化させます。パフォーマンスの身体と電子映像が同じ制作の中に組み込まれました。

ジョナスが演じる「オーガニック・ハニー」は、作家自身の姿でありながら、装いと振る舞いによって作り出されたもう一人の人物でもあります。身体の動きはその場に存在すると同時に、画面上の映像にもなります。誰がその像を作り、誰が見ているのかという問題が、映像技術を通して浮かび上がります。(参照:ニューヨーク近代美術館|《オーガニック・ハニーの視覚的テレパシー》)

カメラとモニターが作る、もう一つの自分

ビデオカメラとモニターを接続すると、その場で撮影している身体をほぼ同時に画面に映すことができます。ジョナスは、自分の像を見ながら行為を進め、映像を見る経験そのものを作品へ組み込みました。身体は実際の場所にいると同時に、機械が作る画像として別の位置に現れます。

画面に映る姿は、カメラの向きや枠の取り方によって変わります。鏡のように即座に自分の姿を返しながら、映像は記録され、繰り返し見せることもできます。身体表現とビデオ・アートが強く結びついたのは、このように機械が表現の途中から関わるようになったためです。(参照:ニューヨーク近代美術館|ジョーン・ジョナスの作品と表現)

女性像を演じることと、その像を作ること

ジョナスの作品では、女性の身体が観客に見られると同時に、作家自身が自分の姿を演出しています。仮面、化粧、カメラの角度、画面の中の姿は、女性像が社会や映像によって形作られる仕組みを考える手がかりになります。実際の本人と演じられた人物の境界が意図的に揺らぎます。

1970年代の女性芸術家たちが関心を寄せたのは、身体を見せるか隠すかという選択だけではありませんでした。身体が画像になったとき、誰が意味を決めるのか、自分で自分を見ることはできるのかという問いもありました。ジョナスはその問題を、映像と行為が互いを変える作品として発展させました。(参照:ニューヨーク近代美術館|ジョーン・ジョナスの作品と表現)

1972〜1975年|アナ・メンディエタと大地に残る身体

自身の身体を使った実験から自然の中へ

キューバに生まれたアナ・メンディエタは、アメリカで学びながら、1972年頃から身体を使う作品を制作しました。アイオワ大学での活動を経て、行為を写真や映像に記録し、やがて野外の地面や草、土、水などへ身体の形を残す方法を発展させます。作品の場が制作室から風景の中へ広がっていきました。

移住や故郷から離れて暮らす経験を持つメンディエタにとって、身体と土地の関係は重要な主題でした。身体を実際に風景の中へ置くことは、自然を眺めて描くこととは異なる経験です。自分がその場所に存在した時間と、そこから立ち去った後の痕跡が、作品の大切な部分になります。(参照:ハーシュホーン美術館|アナ・メンディエタ回顧展)

1973年に始まった《シルエタ》連作

メンディエタは1973年から《シルエタ》連作を制作しました。地面に人間の輪郭を作り、花や泥、火、水などの素材を使って、その輪郭を浮かび上がらせます。身体が直接見えている作品もあれば、作家が立ち去った後に残された形を見せる作品もあり、形の多くは時間とともに変化していきます。

地面に残された人型は、誰かがそこにいたことを強く感じさせます。輪郭の中に身体そのものが見えなくても、鑑賞者はそこへ身体を想像します。写真や映像で見ることになる作品にも、大地という実際の場所と、そこで行われた行為の時間が結びついています。(参照:ハーシュホーン美術館|アナ・メンディエタ回顧展)

《ボディ・トラックス》と身体の痕跡

1974〜75年頃の《ボディ・トラックス》では、作家が腕や手を使って紙などに色のついた痕跡を残しました。身体を動かす行為によって線が生まれ、その線には作家の動きが刻まれています。絵の具による絵画にも似ていますが、出来上がった形の背後に身体的な動作が強く意識されます。

メンディエタの作品には、絵画的な痕跡と野外での行為、映画や写真による記録が交差しています。身体が画面の中に現れるときも、消えた後に残るときも、土地と身体の関係を表現する方法が異なります。この作品群は、ボディ・アートとランド・アートの歴史が実際の制作ではつながっていたことを示しています。(参照:ハーシュホーン美術館|《ボディ・トラックス》)

1973〜1974年|ジーナ・パーネとアブラモヴィッチ

ジーナ・パーネ《感傷的行為》と痛みの表現

ジーナ・パーネはフランスで、身体へ働きかけることを中心とする行為作品を制作しました。1973年11月の《感傷的行為》では、バラの花や棘、身体に残る小さな傷などを組み合わせ、女性の身体と痛み、愛情の関係を表現しました。作品には女性たちの往復書簡を読む声も伴っていました。

バラという贈り物や愛情の象徴と、棘がもたらす痛みが同じ行為の中に現れます。パーネは自身の傷を観客と共有する象徴的な方法として扱い、身体と社会の関係を考える場を作りました。現在のポンピドゥー・センターには、この作品を伝える写真の組作品が所蔵されています。(参照:ポンピドゥー・センター|ジーナ・パーネ《感傷的行為》)

1973年《リズム10》と記憶の反復

マリーナ・アブラモヴィッチは1973年、エディンバラで《リズム10》を行いました。手と刃物を使う危険を伴った行為を録音し、その音を再生しながら、先ほどの行為をもう一度なぞろうとします。身体の動作と痛み、過去の音の記録が、一つの作品の中で重ねられました。

この作品で注目したいのは危険を再現することではありません。録音によって過去の行為を聞き直しても、同じ時間や身体の状態を完全に取り戻すことはできません。作家は自分の記憶と実際の身体の間に生じる差を、行為の構造に取り込んでいました。(参照:グッゲンハイム美術館|アブラモヴィッチの《リズム》連作)

1974年《リズム0》では観客の行動が問われる

アブラモヴィッチは1974年、イタリアのナポリで《リズム0》を行いました。会場に置かれた72点の品物を観客が自由に使えるようにし、作家自身はその行為を受ける立場に置かれました。長時間にわたる作品の途中で、人々の行動は次第に攻撃的なものへ変わり、作品は集団のふるまいと責任を露わにしました。

オノ・ヨーコの《カット・ピース》と比較すると、観客の選択が作品を変える点は共通しています。使える道具、参加できる行為の範囲、作家が置かれた条件には違いがあります。《リズム0》は、観客の参加が持つ危険や、他人の身体に接するときの倫理を考えさせる作品として、美術史に残りました。(参照:ニューヨーク近代美術館|《リズム0》の資料と証言)

1975年|《インテリア・スクロール》とフェミニズム

シュニーマンが身体から取り出した文章

シュニーマンは1975年、《インテリア・スクロール》を初演しました。自身の身体を見せながら、膣から細長く折り畳まれた紙を取り出し、その文章を読み上げる行為です。女性の身体が鑑賞される対象であると同時に、言葉や知識が生まれる場所として提示されました。

この作品には、女性の身体と知性を切り離してきた芸術の歴史への批判が込められています。文字を読むという知的な活動が身体の中から現れる構成は、強い視覚的な印象を持ちながら、表現する主体が誰なのかを問います。1977年には別の形でも実演されました。(参照:バービカン|シュニーマン《インテリア・スクロール》)

作品を作る女性と、絵画に描かれる女性

西洋絵画には長く女性の裸体が描かれてきました。その絵を作る画家や、作品を鑑賞する人の立場は、作品の中に描かれた女性の立場と必ずしも一致しません。シュニーマンは自分の身体を自らの創作の中心へ置き、女性が作品の主体として語り、動く方法を追究しました。

オノ・ヨーコやヴァリー・エクスポート、ジョーン・ジョナス、ジーナ・パーネも、女性の身体がどう見られるのかを異なる方法で問い直していました。同じフェミニズムの歴史に関連する作品でも、それぞれの制作方法や関心の幅は違います。個々の作品の条件を確かめることで、身体表現の多様さが見えてきます。(参照:バービカン|キャロリー・シュニーマンの作品と思想)

身体の表現から、美術館や教育制度の問題へ

1970年代のフェミニズム美術では、芸術家自身の身体の表現に加えて、女性が美術を学び、発表し、評価される環境も問題となりました。女性作家の活動を美術史の中でどう記録するかという問いは、個々の作品だけでなく、教育や展覧会、批評の仕組みにも広がっていきます。

身体を使った行為はその変化を理解する一つの入口になります。美術館で何が価値ある作品と見なされ、誰の経験が作品の主題として認められるのか。シュニーマンのような作家たちが行った実践は、後のフェミニズム美術の展開と深くつながりながら、独自の芸術上の課題を持っていました。(参照:バービカン|キャロリー・シュニーマンの作品と思想)

写真・映像・再演|身体を使った作品はどう残るのか

記録写真と、カメラのために行われた作品を区別する

身体を使った行為の多くは、一度行われると同じ条件では再び見られません。そこで写真、フィルム、ビデオ、文章、使われた道具などが後世へ伝える手がかりになります。クリス・バーデンの《シュート》の映像は実際の行為を伝える資料です。ナウマンの制作室のフィルムでは、撮影されること自体が作品を成立させる条件でした。

アコンチの《フォロウイング・ピース》では、地図や文章、写真を組み合わせて行為の構造が伝えられます。同じ「記録」という言葉を使っても、その役割は作品ごとに違います。鑑賞者は何を見ているのか、それが当時の行為とどう結びついているのかを知ることで、作品をより正確に理解できるようになります。(参照:ニューヨーク近代美術館|メディアとパフォーマンス芸術)

別の人が再演すれば、同じ作品になるのか

短い指示に従って行う作品は、別の時代や場所で再演できる場合があります。オノ・ヨーコの《カット・ピース》は、同じ作家が別の都市で実演したことによって、その都度異なる観客の選択が現れました。ナウマン《ウォール・フロア・ポジションズ》では、1968年の映像が後年の再演を考える手がかりになりました。

再演では、身体の年齢や経験、社会の価値観、鑑賞者の態度も変化します。歴史的な行為をどのように引き継ぐかは、作家の意図、指示の内容、参加する人の安全、作品の権利などを含む問題です。美術館がパフォーマンスを扱う仕事は、物を保管することから、行為を伝える条件を守ることへ広がっています。(参照:ニューヨーク近代美術館|ナウマン《ウォール・フロア・ポジションズ》)

1975年以降へ続く、身体と時間をめぐる芸術

1964〜1975年の身体表現をたどると、観客の選択、女性の身体をめぐる視線、街の規範、身体と危険、映像で変化する自己像、大地に残る痕跡など、多くの方向が見えてきます。どの作品も同じ様式を目指したわけではありません。作家たちはそれぞれの関心から、作品を成立させる条件を変えようとしていました。

パフォーマンス・アートは1975年で終わらず、フェミニズム美術、映像表現、コンセプチュアル・アート、公共空間での実践などと交差しながら発展を続けます。ここで生まれた最大の変化の一つは、芸術作品を考えるとき、完成した形に加えて、誰が、どこで、何を行い、どう受け取られたかという時間と関係まで見られるようになったことです。(参照:ニューヨーク近代美術館|メディアとパフォーマンス芸術)

年表 — 1964年から1975年を中心に

  1. 1959年 アラン・カプロー《18のハプニングを6つの部分で》。観客と出来事の関係を広げる。
  2. 1962年 ニューヨークでジャドソン・ダンス・シアターの実験が本格化し、フルクサスの国際公演が始まる。
  3. 1964年 オノ・ヨーコが京都で《カット・ピース》《バッグ・ピース》を初演する。
  4. 1964年 シュニーマン《ミート・ジョイ》がパリとニューヨークで上演される。
  5. 1964〜1965年 ウィーン・アクショニズムの行為作品が展開し、身体と絵画の関係が変化する。
  6. 1965年 ブルスが《ウィーンの散歩》を行う。
  7. 1965年 ボイス《死んだ野ウサギに絵を説明する方法》。
  8. 1965年 ナウマンが《ウォール・フロア・ポジションズ》を初めて実演する。
  9. 1967〜1968年 ナウマンが制作室での動作を16ミリフィルムなどで作品にする。
  10. 1968年 ヴァリー・エクスポート《タップ・アンド・タッチ・シネマ》。
  11. 1969年 アコンチがニューヨークで《フォロウイング・ピース》を行う。
  12. 1970年 パイパーが《カタリシス》連作の公共空間での行為を始める。
  13. 1971年 クリス・バーデン《シュート》。
  14. 1972年 アコンチ《シードベッド》、ジョナス《オーガニック・ハニーの視覚的テレパシー》。
  15. 1972〜1973年 メンディエタが身体を使った行為を展開し、《シルエタ》連作を始める。
  16. 1973年 ジーナ・パーネ《感傷的行為》。
  17. 1973年 アブラモヴィッチ《リズム10》。
  18. 1974年 アブラモヴィッチ《リズム0》。
  19. 1974年 ボイス《私はアメリカが好き、アメリカも私が好き》。
  20. 1974〜1975年 メンディエタが身体の痕跡を残す作品を展開する。
  21. 1975年 シュニーマン《インテリア・スクロール》を初演。
  22. 1975年 身体表現はフェミニズム美術、映像表現、公共空間での実践と結びつきながら広がり続ける。

まとめ — 身体が作品になることで変わったこと

1964〜1975年、芸術家は絵画や彫刻を制作し続けながら、実際に行う行為へも表現を広げました。オノ・ヨーコは観客の選択によって作品の内容が変わる状況を作り、シュニーマンは絵画で培った色彩や構成の感覚を身体と空間へ持ち込みました。ウィーンの作家たちは身体と社会の規範の関係を問い、ナウマンは日常の身ぶりを撮影することで作品にしました。

1970年代になると、都市を歩くこと、他者の反応を見ること、映像の中で自分自身の像を作ること、大地へ身体の痕跡を残すことなどが新たな表現として現れます。パイパーやエクスポート、ジョナス、メンディエタらは、人種や性別、社会から見られる身体という問題も作品の構造に取り込みました。アブラモヴィッチやバーデンの作品は、危険や他者の責任を美術の問題として考える契機を残しています。

これらの作品は、行為を写真や映像、文章に記録する方法も変えました。一度きりの出来事を後から知るとき、私たちが実際に見ているのは何なのか。どこまで再演でき、何を美術館が保存するのか。こうした問題は現在のパフォーマンス・アートにも続いています。芸術家自身の身体が作品になるという変化は、作品がどのような時間と関係の中で成立するのかを問い直す大きな転換でした。

参考資料・出典

本記事は、美術館・作家財団・研究アーカイブが公表する作品情報と展覧会資料を参照し、1964〜1975年を中心とする身体表現の展開を独自に構成したものです。実際の行為、写真や映像による記録、後年の再演を区別して記述しています。作品名の日本語表記は理解しやすさを考慮した訳を含みます。

資料確認日:2026年10月14日 / ART LIBRARY