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Art History

901–1000

オットー朝と10世紀の美術

帝国の建築、装飾写本、金工と地中海・北海世界

6.【中世ヨーロッパ史②】フランク王国の発展(高校世界史解説)

10世紀のヨーロッパでは、フランク王国の分裂後に各地の王権が勢力を固め、教会や修道院への保護が建築と工芸の制作を支えました。ザクセン地方を基盤とするオットー朝の宮廷では、皇帝の姿が象牙彫刻や写本に描かれ、女性修道院でも宝飾十字架や立体的な聖母像が作られています。ライン川流域やボーデン湖の修道院は、書物と技術が行き交う重要な拠点でした。

東ローマ帝国のコンスタンティノープルでは古典的な人物表現を生かした写本と象牙彫刻が制作され、アルメニアのヴァン湖には聖書の物語を外壁に刻んだ石造教会が建てられました。イベリア半島のコルドバでは大モスクの増築が進み、中央アジアの陶工たちはアラビア文字を器の装飾へと発展させています。デンマークのルーン石碑やアイルランドの高十字架にも、王権と宗教共同体の姿が刻まれました。

「オットー朝美術」は、現在のドイツを中心とする王朝の保護を受けて栄えた造形文化を指す呼称です。10世紀には各地で異なる建築や工芸が発達し、現在の国境を越えた交流も続いていました。創建後に増築された教会や、1000年前後に制作された写本には長い時間の重なりがあるため、作品の成立と後世の変化を分けて見ていきます。

CONTENTS

  1. 10世紀の地理と注文主|王宮・修道院・都市の広がり
  2. ドイツ・ザクセン|オットー朝の王権と教会
  3. フランス・クリュニー|910年の修道院改革
  4. ドイツ・クヴェトリンブルク|王家の女性と修道院
  5. ドイツ・ゲルンローデ|聖キリアクス教会の建築
  6. ドイツ・ケルン|《ゲロの十字架》と木彫の人体
  7. ドイツ・エッセン|《黄金の聖母》と立体的な礼拝像
  8. ドイツ・エッセン|《マティルデ=オットー十字架》の七宝と宝石
  9. ドイツ・マクデブルク|皇帝を描く象牙彫刻
  10. ドイツ・ライヒェナウ|修道院島の教会と壁画
  11. ドイツ・ライヒェナウからトリーアへ|《エグベルト写本》
  12. ドイツ・ライヒェナウ|《オットー3世福音書》の王権表現
  13. 東ローマ帝国・コンスタンティノープル|《パリ詩篇》と古典絵画
  14. 東ローマ帝国|象牙の《アルバヴィル三連祭壇画》
  15. 現在のトルコ東部・ヴァン湖|アルメニアの聖十字架教会
  16. スペイン・コルドバ西郊|カリフの都マディーナ・アッザフラー
  17. スペイン・コルドバ|アル=ハカム2世と大モスクの増築
  18. スペイン北西部|945年頃の《モルガン・ベアトゥス》
  19. エジプト・カイロ|ファーティマ朝の建設
  20. 中央アジア・ブハラとイラン東部|レンガ建築と文字の陶器
  21. デンマーク・イェリング|王の石碑とキリスト教化
  22. デンマーク|970〜980年頃の環状要塞
  23. イングランド・ウィンチェスター|10世紀後半の装飾写本
  24. アイルランド・クロンマクノイズ|10世紀の石造十字架
  25. 略年表|901〜1000年の出来事
  26. まとめ|10世紀の地域文化と古代の継承
  27. 参考資料・出典

10世紀の地理と注文主|王宮・修道院・都市の広がり

東フランク王国からオットー朝の帝国へ

9世紀にカロリング朝の支配が分かれた後、東フランク王国ではザクセン地方の王家が台頭しました。919年に即位したハインリヒ1世の後を継ぎ、936年には息子のオットー1世が王となります。司教座や修道院は王から土地と権限を与えられ、礼拝の場であると同時に、儀礼と地域支配を支える拠点として発展しました。

962年にオットー1世がローマで皇帝冠を受けると、古代ローマとカール大帝の帝国を意識した政治文化が一段と明確になります。皇帝や家族の姿は象牙彫刻、金工品、写本に刻まれ、女性修道院の長たちも作品を注文する力を持ちました。こうした制作は一つの首都に集中せず、ザクセン、ライン川流域、ボーデン湖などの工房へ広がっています。(参照:メトロポリタン美術館|オットー朝美術)

同時代の地中海、中央アジア、北海

地中海の東側では、コンスタンティノープルを中心とする東ローマ帝国が宮廷美術や聖像の伝統を育てていました。西側のイベリア半島では929年にコルドバのカリフ政権が成立し、エジプトでは969年にファーティマ朝が新都カイロを築きます。中央アジアのサーマーン朝の都市にも、積み方に工夫を凝らしたレンガ建築や、文字を装飾に用いた陶器が現れました。

北海とバルト海を結ぶ地域では、デンマークの王たちがルーン石碑や環状要塞を残し、イングランドの修道院では彩色写本、アイルランドでは大きな石造十字架が制作されました。同じ10世紀の王権や信仰が、地中海の宮殿、北欧の石碑、教会の写本といった多様な素材と場所に表されています。(参照:メトロポリタン美術館|オットー朝美術)

ドイツ・ザクセン|オットー朝の王権と教会

936年の即位と962年の皇帝戴冠

オットー1世が936年にアーヘンで王となり、962年にローマで皇帝に戴冠した頃、王権は各地の宮殿、司教座、修道院を巡りながら統治していました。宮廷に結び付く建築や寄進品が複数の土地に残るのは、こうした移動する統治の仕組みにも関係しています。各地で作られた作品は、同じ王朝の政治的な結び付きを異なる素材によって伝えます。

ザクセン出身の王たちは、カール大帝の建築や書物を受け継ぎながら、新しい聖人への崇敬と王家の記憶を礼拝の場に刻みました。豪華な福音書、教会の金属器、王族の墓所を備えた宗教建築は、祈りのために使われるとともに、世代を越えて王朝を記憶する役割を担っています。(参照:メトロポリタン美術館|オットー朝美術)

972年のテオファヌとの婚姻と東西の接触

972年、オットー2世は東ローマ皇帝家と関係の深いテオファヌと結婚しました。外交や宮廷の往来を通じて、異なる典礼や衣装、象牙彫刻、金属細工に接する機会が生まれ、オットー朝の美術にも古代末期やビザンティンの図像が取り入れられます。皇帝がキリストへ教会の模型を差し出す象牙板には、東地中海に通じる厳かな人物配置を用いながら、ザクセンの修道院への寄進という固有の出来事が刻まれました。(参照:メトロポリタン美術館|1000年頃の北欧の象牙と金工)

フランス・クリュニー|910年の修道院改革

ブルゴーニュ地方の創建と祈りの共同体

現在のフランス東部、ブルゴーニュ地方では、910年にクリュニー修道院が創設されました。土地を寄進したのはアキテーヌ公ギヨーム敬虔公で、初代修道院長ベルノンのもと、修道士たちはベネディクト会の戒律に基づく共同生活を整えていきます。祈りと典礼を重んじるこの共同体は、後に広い地域へ影響を及ぼしました。

規律ある共同生活を続けるには、典礼書や聖書の写本、聖具、修道士が集まる建物が欠かせません。クリュニーへの寄進はそうした品々の制作と施設の整備を支え、10世紀に築かれた制度的な基礎が、やがて西ヨーロッパ各地へ広がる改革の出発点となりました。(参照:フランス国立文化財センター|クリュニー修道院の歴史)

現存する大修道院建築と10世紀の創建を分ける

クリュニーの巨大教会として知られる現在の遺構は、主に11世紀末に着工したクリュニー第3教会に属します。910年に始まった共同体には先行する礼拝堂や改築の歴史があり、発掘資料と残された建築部分は、修道院が世代を重ねて祈りの空間を拡張していった過程を伝えています。(参照:フランス国立文化財センター|クリュニー修道院案内)

ドイツ・クヴェトリンブルク|王家の女性と修道院

936年頃の修道院と王族の記憶

ザクセン地方のクヴェトリンブルクは、ハインリヒ1世の死後、王妃マティルデらの保護を受けて重要な宗教拠点となりました。936年頃に成立した女性の共同体は、王家の墓所と記憶を守り、王族と高位聖職者との関係を支えます。高台の教会と居住区が近接する景観にも、王権と修道院の結び付きが表れています。

この共同体を率いた女性たちは、書物や礼拝具を保管し、寄進や儀礼にも関わりました。王や司教と並んで女性が文化活動の担い手となった事実は、オットー朝の作品がどのような環境で注文され、守られてきたかを考えるうえで欠かせません。(参照:ユネスコ世界遺産センター|クヴェトリンブルクの教会・城・旧市街)

地下聖堂と後世のロマネスク建築

クヴェトリンブルクの聖セルヴァティウス参事会教会には、10世紀の王家の墓所につながる地下空間が伝わります。柱、柱頭、墓、壁画には複数の時期の改変が重なり、現在の主要なバシリカ式教会も1070〜1129年頃の造営によるものです。王族の埋葬が始まった時期、共同体が活動を続けた時間、後に整えられた柱列の年代を分けると、この宗教施設が長く使われながら形を変えてきた歴史が見えてきます。(参照:ユネスコ世界遺産センター|クヴェトリンブルクの教会・城・旧市街)

ドイツ・ゲルンローデ|聖キリアクス教会の建築

959年頃の着工と女子修道院の聖堂

現在のドイツ、ザクセン=アンハルト州のゲルンローデでは、有力者ゲロの支援により、959年頃から聖キリアクス教会と女性共同体の整備が進みました。東西に伸びる身廊では柱と角柱が交互に並び、上部のアーケードが側廊を見下ろします。長い方向軸を持つ礼拝空間はアーヘンの八角形の宮廷礼拝堂とは異なる印象を与え、簡略化された葉の彫刻を持つ柱頭と交替する支持構造が、内部に規則的なリズムを生み出しています。この構成は後のザクセン地方のロマネスク建築にも受け継がれました。(参照:ミシガン大学美術史画像コレクション|ゲルンローデ聖キリアクス教会)

現存建築の10世紀部分と後の修復

聖キリアクス教会の主要部分は10世紀に築かれましたが、その後も11〜12世紀の増築と19世紀の大規模な修復が行われました。正面の塔や上階の通路、室内装飾には異なる時期の仕事が重なり、初期の柱列や東側の構成を調査によって見分ける必要があります。現存する空間は、10世紀の宗教共同体が礼拝の場をどのように組み立てたのかを伝えるとともに、後のロマネスク建築へ続く形式を考えるための資料となっています。(参照:ミシガン大学美術史画像コレクション|ゲルンローデ聖キリアクス教会)

ドイツ・ケルン|《ゲロの十字架》と木彫の人体

970年頃に制作された大きな磔刑像

ケルン大聖堂に伝わる《ゲロの十字架》は、970年頃に制作された大きな木彫の磔刑像です。ケルン大司教ゲロの保護と結び付き、アルプス以北に現存する記念的な磔刑木彫の中でも最古級の作品として知られます。人体に近い大きさで表されたキリストの身体は、教会で祈る人々の前に受難の姿を現しました。

勝利するキリストを表す従来の十字架像に比べ、《ゲロの十字架》では頭が深く垂れ、胸や腹には身体の重みが刻まれています。力を失った腕の形も痛ましく、硬い木の塊から彫り出された量感が、平らな象牙浮彫とは異なる迫真性を生み出しました。(参照:ケルン市シュニュートゲン美術館|十字架と磔刑像)

彩色と後世の保存の履歴

《ゲロの十字架》は木材から彫り出され、彩色された姿で教会の礼拝空間に置かれました。顔の陰影や十字架の周辺には後世の補修と変更も重なっています。湿気や火災、建物の改修によって失われやすい木彫がケルンで守り伝えられたことにより、10世紀の大きなキリスト像を現存する実物から観察できるのです。初期の造形と後世の崇敬・保存の歴史は、この一体の彫刻の中に共存しています。(参照:ケルン大聖堂|《ゲロの十字架》の来歴と彫刻)

ドイツ・エッセン|《黄金の聖母》と立体的な礼拝像

980年頃の木芯と金板

エッセン大聖堂の《黄金の聖母》は、980年頃に制作された高さ約74センチの立体像です。ポプラ材を彫った芯に薄い金板を被せ、腰掛けた聖母マリアが膝の上で幼子キリストを支える姿を表しています。幼子は書物を手に持ち、もう一方の手をマリアの差し出す球体へ向けて祝福しています。

聖母の目には青、白、赤の七宝が用いられ、衣服を覆う金の光沢に小さな宝石と細線装飾が加わります。ケルンの《ゲロの十字架》が受難の重い身体を表すのに対し、エッセンの聖母子像には王権を思わせる威厳と親子の親密な身振りが重なっています。(参照:エッセン大聖堂宝物館|《黄金の聖母》)

女性修道院の奉献と行列の中の彫刻

エッセンの女子修道院を率いたマティルデはオットー1世の孫で、書物や金工品の寄進を通じて共同体の文化を支えました。《黄金の聖母》も教会で崇敬され、中世には祭礼の行列で運ばれています。金色の表面は行列の動きとともに光を変え、像と礼拝者との距離も移り変わりました。聖母の身振りと金の輝きは、近づいて祈る人々の身体的な経験と結び付く造形だったのです。(参照:エッセン大聖堂宝物館|《黄金の聖母》)

ドイツ・エッセン|《マティルデ=オットー十字架》の七宝と宝石

金の打ち出し、細線、七宝を組み合わせる

10世紀末頃に制作された《マティルデ=オットー十字架》は、エッセンの行列用十字架です。オーク材の芯に金板と鍍金銅板を取り付け、正面には金の打ち出しによる磔刑像を配しています。腕木の先端には宝石、真珠、細い金線が密に並び、祭礼で掲げられる十字架の表面に光を集めました。裏面の神の子羊と福音書記者の象徴は、正面とは異なる宗教主題を示します。写本の豪華な表紙装飾にも通じる技術が、大きな礼拝具へと展開されました。(参照:エッセン大聖堂宝物館|《マティルデ=オットー十字架》)

マティルデと弟オットーを描いた寄進者像

磔刑像の下に置かれた七宝板には、修道院長マティルデと弟のシュヴァーベン・バイエルン公オットーが、二人で十字架を支える姿が表されています。名前を記す銘文も添えられ、祈りの道具である十字架そのものに寄進者と王族の関係が刻み込まれました。

かつて想定された姉弟の生前の共同寄進を再検討したエッセン大聖堂宝物館は、弟の死後にマティルデが追悼のために制作を依頼した可能性を重視し、年代を985年頃に位置付けています。七宝にはトリーアのエグベルト工房との関係も指摘され、華やかな装飾の背景に祈りと家族の追悼が重なります。(参照:エッセン大聖堂宝物館|《マティルデ=オットー十字架》)

ドイツ・マクデブルク|皇帝を描く象牙彫刻

オットー1世と聖マウリティウスへの信仰

オットー1世は937年、マクデブルクに聖マウリティウスを献堂対象とする修道院を設け、960年頃にはその聖遺物を得ました。兵士の殉教聖人とされるマウリティウスへの崇敬は、皇帝の軍事的な権威をキリスト教の信仰と結ぶ役割を果たします。初期の礼拝堂は後世の建築に置き換わりましたが、記録や各地へ移った小さな象牙板が、10世紀の寄進と儀礼の姿を今に伝えています。(参照:メトロポリタン美術館|1000年頃の北欧の象牙と金工)

皇帝が教会をキリストへ差し出す浮彫

メトロポリタン美術館の象牙板《オットー1世が教会をキリストへ献げる》には、小さな教会の模型を差し出す皇帝が刻まれています。右側の聖ペトロと背後の聖マウリティウスが皇帝を導き、玉座のキリストが寄進を受ける場面です。限られた画面でも、人物の大きさと配置によって、皇帝、聖人、キリストの序列が明瞭に示されています。

象牙の硬い表面には衣のひだや建物が細かく彫り込まれ、複数の人物が狭い空間に収められています。宮廷の宗教的な注文を担った工房の熟練と、寄進という政治的・宗教的行為が、小さな浮彫の中に凝縮されています。(参照:メトロポリタン美術館|オットー1世が教会を献げる象牙板)

ドイツ・ライヒェナウ|修道院島の教会と壁画

湖上の修道院から10世紀の制作拠点へ

ドイツ南西部、ボーデン湖のライヒェナウ島には724年にベネディクト会修道院が創設され、10世紀には写本制作と学問の拠点として栄えました。島内には聖マリア、聖ペトロと聖パウロ、聖ゲオルクに捧げられた教会が整い、水路を通じて大陸から書物や技術がもたらされています。教会群には9〜11世紀にわたる建築の変遷が残り、塔や祭壇、壁画の異なる姿からも、共同体が長い時間をかけて礼拝空間を整えたことがうかがえます。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ライヒェナウ修道院島)

オーバーツェル聖ゲオルク教会の奇跡物語

ライヒェナウ島オーバーツェルの聖ゲオルク教会には、キリストの奇跡を描いた大きな壁画群が残ります。人物の群れや建物を場面ごとに区画し、壁面に沿って聖書の物語が展開するように配置されました。礼拝者が聖堂内を移動すると、書物で伝えられる出来事が連続した大きな図像として現れます。

壁画の制作年代には研究上の議論があり、10世紀の部分と後世の加筆・修復を見分ける作業が続いています。ユネスコが評価するこの島の10〜11世紀の芸術活動も、現在見ることのできる色彩や線に積み重なった保存の歴史とともに伝わっています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ライヒェナウ修道院島)

ドイツ・ライヒェナウからトリーアへ|《エグベルト写本》

大司教エグベルトと10世紀末の福音書

トリーア大司教エグベルト(在位977〜993年)は、豪華な典礼書と金工品の制作を支援しました。《エグベルト写本》(Codex Egberti)は、ライヒェナウ系の制作環境で生まれた10世紀末の福音書で、聖書の物語を描く多数の彩色画を収めています。注文主の大司教を示す図像も含まれ、修道院の工房が、離れた司教座の礼拝や寄進のためにも活動していたことが分かります。書物には制作を支えた高位聖職者の名と宗教的な役割が残されました。(参照:ユネスコ「世界の記憶」|ライヒェナウのオットー朝写本推薦資料)

連続するキリスト伝と枠の使い方

《エグベルト写本》には、キリストの奇跡や受難を描く彩色頁が挿入されています。赤、紫、青などの色面が明快な人物の輪郭を引き立て、建築を思わせる枠が場面を整然と区切ります。頁をめくるたびに、朗読される聖書の文章と図像が響き合う構成です。

そこでは古代の人物表現も参照され、手の動きや衣の色、人物同士の距離によって宗教的な内容が語られます。一頁全体を設計する画工の仕事と、修道院で本文を書き写す筆写者の作業が、一冊の中で結び付いています。(参照:ユネスコ「世界の記憶」|ライヒェナウのオットー朝写本推薦資料)

ドイツ・ライヒェナウ|《オットー3世福音書》の王権表現

1000年頃の福音書と制作年代の境界

バイエルン州立図書館所蔵の《オットー3世福音書》(Clm 4453)は、ライヒェナウの工房で1000年頃に制作されたと考えられています。金地の全頁挿絵29点のほか、対観表や装飾頭文字を備える豪華な写本です。オットー3世の治世(983〜1002年)に結び付くものの、「1000年頃」という年代には数年の幅があり、制作を厳密に10世紀内へ限定することはできません。世紀の境目を越えて続いた宮廷の注文と修道院の制作活動が、一冊の書物に凝縮されています。(参照:バイエルン州立図書館|《オットー3世福音書》とデジタル公開)

玉座の皇帝へ向かう諸地方の擬人像

《オットー3世福音書》の皇帝像では、冠を戴いたオットー3世が玉座に正面を向いて座り、高位の側近たちがその周囲に立っています。別の頁では、帝国に属すると考えられた諸地方を象徴する女性像が、贈り物を携えて皇帝に近づきます。政治的な領域を人物の姿へ置き換えることで、宮廷が思い描いた支配の秩序を目に見える形にしたのです。豪華な金地と正面性の強い皇帝像には、王権を聖なる秩序に結び付ける思想が表されています。(参照:バイエルン州立図書館|西洋写本コレクション)

象牙の表紙と書物の複合した素材

《オットー3世福音書》の豪華な装丁には、宝石を伴う金属飾りと象牙彫刻が結び付きます。羊皮紙に記された本文、彩色挿絵、彫刻を施した表紙が一冊となり、書物そのものが祭具に近い存在感を帯びました。開けば朗読に用いる文章が現れ、閉じた状態でも宗教的な像を示す宝物として扱われています。

装丁の部材は本文と異なる時期や場所で作られた可能性があるため、現存する姿には複数の制作工程が重なります。書写者、画工、金工職人、象牙彫刻家の仕事を分けてみると、写本が多くの人の技術を集めた複合的な作品だったことが分かります。(参照:バイエルン州立図書館|西洋写本コレクション)

東ローマ帝国・コンスタンティノープル|《パリ詩篇》と古典絵画

10世紀のギリシア語写本

フランス国立図書館に所蔵される《パリ詩篇》(Grec 139)は、10世紀の東ローマ帝国で制作されたギリシア語の詩篇写本です。旧約聖書のダヴィデ王を題材とする全頁挿絵には、古代ギリシア・ローマの絵画を思わせる人物の姿勢や、奥行きのある背景が見られます。現在の所蔵都市に由来する名称を持つこの書物は、制作の背景をコンスタンティノープルのギリシア語文化圏に持ち、西方のラテン語写本とは典礼の伝統や画面構成にも違いがあります。(参照:フランス国立図書館|《パリ詩篇》Grec 139の原本公開)

ダヴィデの音楽と古代風の寓意像

《パリ詩篇》の著名な挿絵では、岩に腰掛けて楽器を奏でるダヴィデに「旋律」を擬人化した女性像が寄り添い、風景や動物、古典風の衣装をまとった人物たちが周囲を取り囲んでいます。顔や衣服の柔らかな陰影が空間に奥行きを与えるこの画風は、「マケドニア朝ルネサンス」と呼ばれる古典文化の再評価に位置付けられます。西方のオットー朝美術と同じ時代の動きでありながら、宮廷の言語や神学的な環境はそれぞれ異なっていました。(参照:Smarthistory|10世紀ビザンティンの《パリ詩篇》)

東ローマ帝国|象牙の《アルバヴィル三連祭壇画》

10世紀半ばの折りたたむ象牙彫刻

ルーヴル美術館の《アルバヴィル三連祭壇画》は、10世紀半ばのコンスタンティノープルと結び付けられる象牙彫刻です。中央の板に左右の細長い翼を取り付けた折りたたみ式で、キリスト、聖母、洗礼者ヨハネ、使徒、戦士の聖人などが小さな浮彫で刻まれています。翼を開くと聖人の列が連なり、閉じると外側の装飾が現れる仕組みです。貴重な象牙に多数の人物を収めた小型の礼拝具には、宮廷での宗教生活や私的な祈りに結び付く性格がうかがえます。(参照:Smarthistory|ビザンティン《アルバヴィルの三連祭壇画》)

聖人の配列と衣の細い彫り

中央のキリストに聖母と洗礼者ヨハネが祈りを捧げる構図は「デイシス」と呼ばれ、東ローマ美術で広く用いられました。《アルバヴィル三連祭壇画》ではその下に使徒たちが並び、左右の翼にも聖人像が整然と配され、顔の細かな表情や衣のひだには古典的な人体表現への関心がうかがえます。背景を残した浅浮彫と祈りのための厳かな配列は、同時代の西方の象牙彫刻と比較する際にも注目すべき特徴です。(参照:Smarthistory|ビザンティン《アルバヴィルの三連祭壇画》)

現在のトルコ東部・ヴァン湖|アルメニアの聖十字架教会

915〜921年に造られたアクダマル島の聖堂

現在のトルコ東部、ヴァン湖のアクダマル島にある聖十字架教会は、ヴァスプラカン王ガギク1世の命により915〜921年に建てられました。建築家として司祭マヌエルの名が伝えられています。赤みを帯びた凝灰岩を用い、中央にドームを載せた集中式の内部と、外側へ張り出す壁面を組み合わせた石造建築です。東ローマ帝国やイスラム諸地域とも接点を持つヴァン湖の文化圏で生まれた宮廷の注文であり、小島に立つ聖堂の輪郭と外壁彫刻は湖岸からも眺められます。(参照:トルコ文化観光省|アクダマル聖十字架教会)

外壁の聖書人物、狩猟、動物の浮彫

聖十字架教会の外壁には、旧約・新約聖書の人物に加え、狩猟や動物、宮廷生活を思わせる図像が帯状に刻まれています。人物の身体が大きく浮き上がる場所もあり、建物の周囲を歩きながら場面を追うことができます。石造の壁そのものが、聖書の物語と王の権威を伝える彫刻の舞台となりました。

内部には傷みを受けた壁画が伝わり、外壁の立体的な浮彫は現在もこの教会の印象を決定づけています。アルメニアの石造建築は、10世紀のキリスト教美術が西ヨーロッパの修道院や宮廷と並行して、地域固有の素材と表現を育んだことを示しています。(参照:ユネスコ暫定一覧|アクダマル聖十字架教会)

スペイン・コルドバ西郊|カリフの都マディーナ・アッザフラー

929年のカリフ宣言と10世紀半ばの都城

イベリア半島の後ウマイヤ朝では、アブド・アッラフマーン3世が929年にカリフを名乗り、936年頃からコルドバ西郊の丘に新しい宮廷都市マディーナ・アッザフラーを築き始めました。宮殿、庭園、広場、住居、役所が地形に沿って階段状に配置され、街全体が支配者の権威を示す空間となりました。西方のイスラム世界における10世紀の都市計画を伝える重要な遺構です。

遺構の大部分は長く地中に埋もれていたため、現在見ることのできる建築には発掘調査と復元の成果が反映されています。壁や柱廊を飾った石材も多くが破片で発見され、その組み合わせから宮殿の空間と装飾の姿が少しずつ再構成されました。(参照:ユネスコ世界遺産センター|マディーナ・アッザフラー)

大使の間と石の植物文

マディーナ・アッザフラーの宮殿には、使節を迎える広間と柱廊が設けられ、壁面の石に精緻な植物文が刻まれました。左右対称に伸びる葉や茎は、浮彫の陰影によって豊かな表情を見せ、庭園と建築を一体として整えた空間に華やかさを添えています。主要な接客室の造営は10世紀半ばに位置付けられますが、現在の整った壁面には、残存した石材と考古学的な検討に基づく復元部分が組み合わされています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|マディーナ・アッザフラー登録申請調査)

スペイン・コルドバ|アル=ハカム2世と大モスクの増築

961〜976年の拡張と交差するアーチ

コルドバの大モスクは8世紀後半の創建以来、9世紀にも拡張され、アル=ハカム2世の治世(961〜976年)には礼拝空間がさらに南へ広げられました。二段のアーチが連続する古い柱廊を受け継ぎながら、新しい部分には交差するアーチを持つマクスーラや、天井から光を取り込むドーム状の空間が設けられています。礼拝方向を示すミフラーブの前では複雑に重なる石造のアーチが視線を集め、幾度もの造営が一つの建物に重なった現在の空間を印象づけています。(参照:コルドバのモスク=大聖堂|アル=ハカム2世の増築)

金色のミフラーブと東ローマ系のモザイク職人

アル=ハカム2世の増築で整えられたミフラーブの入口は、金色の背景と鮮やかなガラス片によるモザイクに覆われています。馬蹄形アーチの周囲を幾何学文様、植物文、文字の帯が取り巻き、光を受けて輝く壁面には東ローマ帝国から派遣された職人の技術との関係も指摘されています。柱廊の古い構造にこうした10世紀後半の装飾が加わることで、コルドバの礼拝空間は独自の豊かさを獲得しました。(参照:コルドバのモスク=大聖堂|ミフラーブとモザイク)

スペイン北西部|945年頃の《モルガン・ベアトゥス》

黙示録注解の写本とマイウスの名

ニューヨークのモルガン図書館・博物館に所蔵される《モルガン・ベアトゥス》(MS M.644)は、945年頃、イベリア半島北西部で制作された豪華な黙示録注解の写本です。8世紀の修道士ベアトゥスが編んだ『黙示録注解』の伝統に属し、マイウスという制作に関わった僧の名が伝えられています。

制作はサン・サルバドル・デ・タバラの工房と結び付けられ、初期の注文主や使用場所については周辺の修道院との関係が研究されています。後にサン・ミゲル・デ・エスカラーダへ伝わった経緯も知られ、写本が制作地から別の共同体へ移っていった歴史を伝えています。(参照:モルガン図書館・博物館|《モルガン・ベアトゥス》MS M.644)

強い色面と黙示録の幻視

《モルガン・ベアトゥス》の挿絵には、赤、黄、青、紫の広い色面を背景に、天使や獣、建物、黙示録の人物たちが鮮やかに表され、正面性の強い人物像と明快な身振りが幻視の物語に緊張感を与えています。場面を帯状に分けた力強い構成は、宮廷写本の柔らかな人物画とは異なる個性を持ち、同時代のイベリア北部にキリスト教修道院の豊かな絵画文化があったことを伝えます。(参照:モルガン図書館・博物館|《モルガン・ベアトゥス》原本画像)

エジプト・カイロ|ファーティマ朝の建設

909年の王朝成立と969年の新都

ファーティマ朝は909年に北アフリカで成立し、969年にエジプトを征服して新都カイロを築きました。行政と宗教の中心となる宮廷都市には街路と宗教施設が整えられ、バグダードのアッバース朝やコルドバの後ウマイヤ朝とは別の政治的な正統性が都市の姿に表されました。現在の歴史都市には後世の城壁やモスク、改築部分が幾重にも残り、初期の都市設計はそうした長い建設の歴史の中に位置付けられます。(参照:メトロポリタン美術館|ファーティマ朝の美術)

970〜972年頃のアズハル・モスク

カイロのアズハル・モスクは970年に創建が始まり、972年頃には礼拝の場として整えられました。列柱に囲まれた中庭と礼拝堂には白い壁とアーチが連なり、多くの信徒が同じ方向に祈るための空間を構成しています。やがて学問と宗教的な議論の中心にもなりました。現在の建物には後世のミナレット、入口、改修部分が数多く加わっており、10世紀の創建から長く続いた教育と信仰の歴史が、その姿に重なっています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|歴史都市カイロ)

中央アジア・ブハラとイラン東部|レンガ建築と文字の陶器

ブハラのサーマーン朝墓廟と積み方の模様

現在のウズベキスタン、ブハラに残るサーマーン朝の墓廟は、9世紀末から10世紀に位置付けられるレンガ造りの記念建築です。四角い建物をドームで覆い、焼成レンガの積み方を変えて壁面に細かな幾何学模様を生み出しています。太陽の角度に応じて凹凸の陰影が変わり、素材そのものが装飾として働くのが特徴です。

この墓廟はイスマーイール・サーマーニーと結び付けられ、建立の詳しい年代には幅があります。10世紀の中央アジアに残る貴重な実物であり、後世に展開する装飾的なレンガ建築へ続く造形の工夫を伝えています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ブハラ歴史地区)

ニーシャープールの白い鉢とクーフィー体

現在のイラン北東部、ニーシャープールでは、10世紀に白い化粧土を施した鉢へ黒いクーフィー体の銘文を描く陶器が発達しました。メトロポリタン美術館の銘文鉢では、太い黒文字が縁に沿って大きく伸び、器の中央に置かれた結び目状の形と釣り合っています。文字の意味と曲面に広がる線の美しさが重なり、日常的な陶器の素材にも鮮やかな造形が生まれました。金銀の宝飾とは異なる、書と器形を一体にした表現です。(参照:メトロポリタン美術館|10世紀ニーシャープールの銘文鉢)

植物文へ伸びる銘文と工房の移動

同時代の鉢には、クーフィー体の縦線が葉のように伸び、文字そのものが植物文に近づく例もあります。メトロポリタン美術館所蔵の鉢には所有者への祝福が記され、透明な釉薬の下に白地と黒い線を収めて焼き上げています。

この種の陶器はニーシャープールとサマルカンドなどの都市との関係が研究され、作品によって工房の帰属に議論があります。出土地と制作地が一致するとは限らず、器の形や書体の似通い方から、中央アジアとイラン東部の工房の交流がうかがえます。(参照:メトロポリタン美術館|10世紀の草花風クーフィー体銘文鉢)

デンマーク・イェリング|王の石碑とキリスト教化

ゴーム王とハーラル王の記念碑

デンマークのユトランド半島にあるイェリングには、10世紀の王家に結び付く墳丘、ルーン石碑、教会の遺構がまとまって残っています。ゴーム王と息子のハーラル青歯王の時代、墓と儀礼の場が整えられ、王の名や功績を記す石碑が屋外に立てられました。伝統的な埋葬の形式と、新しい宗教への転換を示す石の記念物が同じ場所に集まっています。大きな碑文とその配置には、広い場所で王の記憶を伝える役割が込められました。(参照:ユネスコ世界遺産センター|イェリングの墳丘・ルーン石碑・教会)

大きなルーン石碑のキリスト像と動物文様

ハーラル王の大きなルーン石碑には、組紐状の植物・動物文様とともに、キリストの姿が刻まれています。王がキリスト教を受け入れたことを伝える銘文も備え、従来のルーン文字による記念と新しい宗教的な図像が同じ石面に置かれました。動物文様とキリスト像が共存する姿は、10世紀の北欧で宗教と政治が変化していく過程を、具体的な形として伝えています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|イェリングの墳丘・ルーン石碑・教会)

デンマーク|970〜980年頃の環状要塞

地形に置かれた幾何学的な軍事建築

デンマークのアゲルスボー、フィルカット、トレレボルグなど五つの環状要塞は、970〜980年頃、ハーラル青歯王の時代に建設されました。大きな円形の防御施設へ十字形の直線道路を通し、区画ごとに木造建物を並べる幾何学的な配置が特徴です。各地に共通する設計は、王権のもとで大規模な工事が計画されたことを物語ります。

木と土で築かれた要塞は、柱穴や土塁の痕跡から平面と建造工程が復元されています。石造教会とは保存の状態が異なりますが、考古学的な調査によって、短期間に多くの施設が築かれた工程や労働の規模が検討されています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ヴァイキング時代の環状要塞)

環状の設計と王国の統治

五つの要塞は交通路や海路に関係する地点へ配置され、地形に応じて形を調整しながらも、円形の土塁と十字路という基本設計を共有しています。多くの木材と土木労働を短期間で集めた事業は王国の統治に関わり、用途については軍事、行政、王権の象徴という複数の面から研究が進められてきました。船の動物文様とともに、こうした大規模で幾何学的な木造建築も10世紀の北欧の造形文化を形作っています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ヴァイキング時代の環状要塞)

イングランド・ウィンチェスター|10世紀後半の装飾写本

修道院改革と司教エゼルウォルド

10世紀後半のイングランドでは、ウィンチェスターを中心に修道院改革と典礼の整備が進みました。司教エゼルウォルド(在位963〜984年)は共同体の生活を整え、筆写者や画工の活動を支えています。ウィンチェスターの写本には、カロリング小文字体を受け継ぐ整った文字と、華やかな彩色人物画が並びました。典礼に使う書物は司教や王の権威も表し、大陸から伝わった形式にイングランド独自の色彩と装飾が重ねられています。(参照:大英図書館|《エゼルウォルド司教祝祷書》Add MS 49598)

《エゼルウォルド司教祝祷書》と筆写者ゴドマン

大英図書館所蔵の《エゼルウォルド司教祝祷書》(Add MS 49598)は、963〜984年の間に司教のために制作されました。筆写を担った僧ゴドマンの名は献辞の詩に残り、書物には年間の祭日のミサで司教が唱える祝福の文が収められています。古いガリア系とローマ系の典礼を組み合わせ、地域の祝祭も取り入れた実用書であると同時に、金と鮮やかな色による全頁挿絵が重要な祭式の前後を飾りました。注文主、筆写者、用途をここまで具体的に知ることのできる写本は、工房の活動を考えるうえでも貴重です。(参照:大英図書館|《エゼルウォルド司教祝祷書》Add MS 49598)

建築的な枠と動きのある聖人像

《エゼルウォルド司教祝祷書》の全頁挿絵では、聖人や聖書の場面がアーチ形や長方形の鮮やかな枠に収められています。人物の衣は流れるような線で描かれ、表情や身振りにも動きがあります。細い金色の帯が場面を際立たせ、本文の冒頭には異なる書体を使うなど、祭日の格に応じて頁の華やかさも変えられました。

大英図書館はこの写本をウィンチェスター工房の初期の重要な現存例として位置付けています。9世紀までのブリテン島・アイルランドの装飾写本と、大陸の人物表現の伝統が交わり、10世紀のイングランドに新しい写本装飾の形が生まれていました。(参照:大英図書館|《エゼルウォルド司教祝祷書》Add MS 49598)

アイルランド・クロンマクノイズ|10世紀の石造十字架

914年頃の《聖書の十字架》

アイルランド中部、シャノン川沿いのクロンマクノイズ修道院には、10世紀初めの《聖書の十字架》が伝わっています。文化遺産当局は914年頃の制作と位置付け、現在は保存のため実物が展示施設へ移されています。石の大きな面にはキリストの墓や最後の審判など聖書の場面が刻まれ、道や教会に近づく人々へ屋外で物語を示しました。写本の小さな挿絵に描かれた宗教的な主題が、風雨を受ける大きな石造記念物へ展開されています。(参照:アイルランド文化遺産局|クロンマクノイズの《聖書の十字架》)

モナスターボイスの高十字架と寄進者

アイルランド東部ラウス県のモナスターボイスにも、10世紀頃の大きな高十字架が残っています。《ミュレダハの十字架》では、円輪と十字を組み合わせた石の表面に人物や聖書の場面が何段にも刻まれ、基部の銘文は寄進者ミュレダハの名を伝えています。物語を積み重ねるような構成は、建物の外に立つ十字架を一つの図像の場に変えました。

こうした高十字架は、石工の仕事と寄進者を支える修道院共同体によって生み出されました。アイルランドの金工や装飾写本で発達した模様への関心が、より大きな石の面へと広がり、屋外で宗教的な物語と共同体の記憶を共有する記念物となっています。(参照:アイルランド文化遺産局|ハイ・クロスの彫刻)

略年表|901〜1000年の出来事

  • 909年|北アフリカでファーティマ朝が成立する。
  • 910年|フランスのクリュニー修道院が創設される。
  • 914年頃|アイルランドのクロンマクノイズで《聖書の十字架》が制作される。
  • 915〜921年|ヴァン湖アクダマル島のアルメニア聖十字架教会が造営される。
  • 919年|ハインリヒ1世が東フランク王国の王となる。
  • 929年|コルドバのアブド・アッラフマーン3世がカリフを称する。
  • 936年|オットー1世が即位し、マディーナ・アッザフラーの造営が始まる頃に当たる。
  • 936年頃|クヴェトリンブルクの女性修道院共同体が成立する。
  • 937年|オットー1世がマクデブルクに聖マウリティウスの修道院を設ける。
  • 945年頃|イベリア半島北西部で《モルガン・ベアトゥス》が作られる。
  • 959年頃|ゲルンローデの聖キリアクス教会の造営が始まる。
  • 962年|オットー1世がローマで皇帝として戴冠する。
  • 963〜984年|ウィンチェスターで《エゼルウォルド司教祝祷書》が制作される。
  • 969〜972年頃|ファーティマ朝がエジプトに進出し、カイロとアズハル・モスクの建設が進む。
  • 970年頃|ケルンの《ゲロの十字架》が制作される。
  • 970〜980年頃|デンマークで環状要塞群が築かれる。
  • 972年|オットー2世が東ローマのテオファヌと結婚する。
  • 980年頃|エッセンの《黄金の聖母》が制作される。
  • 980〜990年代|ライヒェナウ系の《エグベルト写本》が制作される。
  • 985年頃|《マティルデ=オットー十字架》が制作された可能性が高い。
  • 1000年頃|ライヒェナウの工房で《オットー3世福音書》が制作される。

まとめ|10世紀の地域文化と古代の継承

10世紀の造形文化には、王権による教会の保護と、修道院共同体が書物や礼拝具を作り、長く使い続ける生活が深く関わっていました。オットー朝の象牙には皇帝の寄進が刻まれ、エッセンでは木彫に金や七宝を重ねた像と十字架が生まれています。ライヒェナウの写本工房は聖書の物語を鮮やかな頁へ展開し、クリュニーの修道院改革とザクセンの教会建築は、後世のロマネスク文化へつながる制度と空間を育てました。

同じ時代のコンスタンティノープルでは古典風の人物表現が再び活用され、コルドバの大モスクでは長い柱廊に金色のモザイクが加わりました。中央アジアのレンガ装飾と銘文陶器、北欧のルーン石碑と環状要塞、アイルランドの高十字架は、地域ごとに異なる素材と制作のあり方を伝えます。こうした作品を並べると、10世紀から11世紀への移り変わりは、一つの様式が突然入れ替わる出来事ではなく、各地の技術や信仰、建設と保存の歴史が積み重なる過程として見えてきます。

参考資料・出典

本文では、所蔵館の作品目録、文化財当局の記録、大学図書館の写本解説、ユネスコの文化遺産資料などを参照しています。各小節の末尾には、その内容を支える資料へのリンクを示しました。