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Art History

1959–1968

見る芸術から、作品と鑑賞者の関係によって変化する芸術へ

ブラジルで生まれた新具体主義

1960年、ブラジルの芸術家リジア・クラークは、金属の板を蝶番でつないだ《ビショス》という作品を発表しました。鑑賞者が板を手で動かすと、立体の形が変わります。人が触れるたびに別の姿が現れ、その経験は毎回少しずつ異なります。芸術作品は作者が完成させた一つの形として存在するという考えが、ここで大きく揺らぎました。

この変化の出発点には、1950年代ブラジルの幾何学的な抽象絵画があります。色、線、形を厳密に組み立てる具体主義が広がるなかで、一部の作家たちは、作品を数理的な規則だけで理解することに疑問を持ち始めました。人が実際に作品と向き合うときの感覚、身体の動き、時間の流れを、もっと大切に考えるようになったのです。

1959年3月、リオデジャネイロ近代美術館で第1回新具体美術展が開かれ、フェレイラ・グラールらによる「新具体主義宣言」が発表されました。リジア・クラーク、リジア・パペ、アミルカル・デ・カストロらが関わったこの運動は、幾何学的な抽象美術の成果を受け継ぎながら、芸術作品を身体や知覚と結びついた経験として捉え直しました。

やがてクラークは切る行為そのものを作品とする《カミニャンド》へ進み、エリオ・オイチシカは色面を空間へ広げ、身体に着けて踊る《パランゴレ》を制作します。パペの《ディヴィゾール》では、複数の人が大きな布を共有しながら動きます。作品と鑑賞者の関係は、触れる、歩く、動く、他者と協力するという多様な経験へ広がっていきました。

新具体主義が集団として活動した中心期間は1959〜1961年頃です。この記事では、その後の1968年までに各作家が発展させた仕事も扱います。1964年にはブラジルで軍事クーデターが起こり、社会と文化をめぐる状況も変わりました。芸術を経験する人の身体と自由が、どのような意味を持つようになったのかという問題も、この歴史の一部です。

本記事では、新具体主義を生み出したブラジルの抽象美術から1959年の宣言、主要な作家の実践、1968年までの展開をたどります。何が変化するのかという問いに、作品の形、見る人の知覚、実際の行為、他者との関係という複数の側面から答えていきます。(参照:リジア・クラーク公式アーカイブ|1959年「新具体主義宣言」、ニューヨーク近代美術館|Neo-concrete art、メトロポリタン美術館|Lygia Pape: A Multitude of Forms)

1950年代ブラジルで抽象美術が広がった背景

新具体主義は、突然現れた参加型の美術運動ではありません。戦後ブラジルで幾何学的抽象が広く議論されるようになったことが、その出発点です。

産業化する都市と新しい造形の言葉

第二次世界大戦後のブラジルでは、サンパウロやリオデジャネイロの都市生活が変わり、工業化とデザインの発展が注目されていました。幾何学的な線、面、色による抽象美術は、近代的な都市や新しい教育と結びつきやすい造形言語でした。身近な対象を写す代わりに、色と形の関係そのものを画面で組み立てる方法が広がっていきます。

この時期のブラジルの抽象美術は、欧州の前衛美術を一方的に受け入れて生まれたものとして片づけられません。国内の展覧会、美術館、批評家やデザイナーのネットワークが、その思想を新しい制作条件へ置き換えました。国際的な幾何学的抽象が、ブラジルの都市文化のなかで別の展開を始めたのです。(参照:ニューヨーク近代美術館|Neo-concrete art、ストックホルム近代美術館|Concrete Matters)

美術館とビエンナーレが作った出会い

1951年に始まったサンパウロ・ビエンナーレは、ブラジルの作家が国際的な美術作品に触れ、同時代の議論へ参加する機会を広げました。近代美術館などの新しい展示拠点も、抽象絵画や彫刻を公開して議論する場所になりました。画家がアトリエだけで制作の問題を考える時代から、国際展や美術教育のなかで新しい方法を競い合う環境へと変わっていきます。

その環境は、後に新具体主義を支える作家たちにとって重要でした。抽象美術を学び、実際に制作してきた経験があったからこそ、彼らは幾何学的な規則の強さと、その限界を具体的に感じ取ることができたのです。新具体主義の成立は、戦後ブラジルにおける抽象美術の成熟と深く結びついています。(参照:ストックホルム近代美術館|Concrete Matters、ストックホルム近代美術館|Concrete Matters 参加作家)

ヨーロッパ前衛を受け継ぎながら問い直す

具体主義の作家たちは、モンドリアンやマレーヴィチ、構成主義、具体美術などから刺激を受けました。視覚的な要素を簡潔にし、個人的な物語を取り除き、色と形そのものによって秩序を作る考え方が共有されました。こうした方法は、戦後の新しい社会にふさわしい普遍的な造形を探る試みとして受け止められています。

1959年の宣言も、この前衛美術の蓄積を重要な歴史として参照しています。そのうえで、形を数理的な仕組みへ還元する考えに疑問を向けました。作品を理解するには、見ている身体や個人の感じ方が欠かせないと考えたのです。過去の抽象美術を知っていたからこそ、その先へ進む問いが生まれました。(参照:リジア・クラーク公式アーカイブ|1959年「新具体主義宣言」、ニューヨーク近代美術館|Neo-concrete art)

サンパウロの具体主義とリオの実験

1950年代のブラジルには、幾何学的抽象に取り組む複数のグループがありました。新具体主義の成立を理解するには、サンパウロとリオで異なる考えが育った過程を見ておく必要があります。

1952年のルプトゥーラ

サンパウロでは1952年に、ヴァルデマール・コルデイロらを中心とするグループ「ルプトゥーラ」(Grupo Ruptura)が結成されました。色や線の関係を明確な構成原理で統御し、幾何学的な抽象美術を推進しました。直感や個人的な感情の表出よりも、造形の構造や視覚的な秩序へ強い関心を向けたことが特徴です。

この立場は、後に新具体主義から批判を受けることになります。そこで忘れてはならないのは、ルプトゥーラ自身もブラジルの近代美術を大きく変えた先駆的な存在だったことです。新具体主義が問題にした合理性は、前世代の作家たちが抽象美術を確立するために獲得した力でもありました。(参照:ニューヨーク近代美術館|Neo-concrete art、ストックホルム近代美術館|Concrete Matters 参加作家)

1954年のフレンチとリオの作家たち

リオデジャネイロでは1954年にイヴァン・セルパを中心とする「フレンテ」(Grupo Frente)が生まれます。クラークやパペ、のちのオイチシカなど、重要な作家がこの環境と関わりました。セルパの美術教育を通じて、複数の作家が色彩や線による抽象表現を試し、互いの作品を比較する機会を持っていました。

フレンテは厳密に統一された一つの様式を作る集団というより、それぞれの実験を発表する開かれた場として機能しました。サンパウロとリオの違いを、二つの都市に完全に異なる絵画様式があったと断定することはできません。むしろ共通の抽象美術の言語から、制作をどう進めるかについて別々の答えが育っていったと捉えるとわかりやすくなります。(参照:ストックホルム近代美術館|Concrete Matters 参加作家、ニューヨーク近代美術館|Neo-concrete art)

幾何学的な秩序の中で生じた違和感

線の角度や色面の配置を定めれば、幾何学的な作品を理論的に説明できます。ところが実際に絵の前へ立つと、作品の大きさ、表面の微妙な質感、時間をかけて見ることで生じる印象は、図式だけでは捉えきれません。新具体主義の作家たちは、その説明しきれない経験へ次第に関心を向けました。

ある作品は壁から浮き、別の作品は折り目を持ち、また別の作品は鑑賞者が歩く位置に応じて見え方が変わります。この変化は抽象を捨てることから始まったのではありません。色と形に集中することで得た知識を、実際の物体や身体との関係へ押し広げる試みだったのです。(参照:ニューヨーク近代美術館|Lygia Clark、ニューヨーク近代美術館|Neo-concrete art)

1959年、新具体主義宣言が示した転換

1959年3月、リオデジャネイロで新具体美術展が開かれ、「新具体主義宣言」が公に示されました。ここから、新しい芸術観が集団の言葉として発信されます。

なぜ「新しい具体主義」だったのか

宣言を書いた中心人物は詩人・批評家フェレイラ・グラールです。宣言は幾何学的な非具象美術を出発点にしながら、それを過度に合理主義的に理解する態度へ異議を唱えました。色と形を数学的な体系として考えるだけでは、作品を経験する人間の感覚や、作品が持つ表現の可能性を十分に捉えられないという問題意識がありました。

新具体主義という名称には、具体美術が切り開いた抽象表現の可能性をさらに探る姿勢が込められています。彼らはモンドリアンやマレーヴィチの作品も重要な先例として認めました。過去の前衛美術を切り捨てる宣言というより、そこで生じた問題を実際の鑑賞経験から読み直す宣言だったと理解できます。(参照:リジア・クラーク公式アーカイブ|1959年「新具体主義宣言」、ストックホルム近代美術館|Concrete Matters)

作品を生きた存在として考える

宣言の特徴は、芸術作品を一つの客観的な機械や単なる物体として考えることへの批判です。作品は見る人との出会いの中で経験され、時間や空間、身体の働きと切り離せないものだと論じられました。幾何学的な構成に生命や身体という言葉を結びつけた点に、当時の合理主義的な抽象美術への新しい視点が表れています。

例えば同じ白い面を見ても、光の強さや見ている時間、周囲の色によって感じ方は変わります。こうした経験を鑑賞者の誤差として取り除くのではなく、作品が成立する条件として考え直すのです。理念は抽象的ですが、後に生まれる可動式の立体や参加型の作品を理解するための確かな手がかりになります。(参照:リジア・クラーク公式アーカイブ|1959年「新具体主義宣言」、ニューヨーク近代美術館|Lygia Clark)

絵画・彫刻・詩をまたいだ宣言

第1回の新具体美術展には、画家や彫刻家に加え、詩人たちが参加しました。宣言にも絵画、彫刻、版画、文学への言及があり、美術を視覚的な図形だけで考える枠を広げています。視覚による構成を重視した具体主義から、言葉を読む身体や物に触れる感覚へと関心が向かっていたのです。

この広がりは、後年の参加型作品を考えるうえでも大切です。クラークの《ビショス》やパペの書物は、動かすこと、めくること、関係を選ぶことを作品の条件にしました。文字を読む行為を含め、人が時間の中でどのように作品に出会うかが、複数の分野に共通する課題として現れました。(参照:リジア・クラーク公式アーカイブ|第1回新具体美術展、リジア・クラーク公式アーカイブ|1959年「新具体主義宣言」)

第1回新具体美術展が生まれた場所

宣言は紙の上だけの理論ではなく、具体的な作品を伴う展覧会として発信されました。会期や参加者を確認すると、運動の輪郭がはっきりします。

1959年3月、リオデジャネイロ近代美術館

第1回新具体美術展は、1959年3月19日から31日までリオデジャネイロ近代美術館で開催されました。展覧会と宣言は結びついており、同月には『ジョルナル・ド・ブラジル』の日曜版でも宣言や関連する文章が紹介されています。美術館で実物を見せ、新聞によって考えを広く伝えるという二つの方法が併用されました。

当時の読者は、展覧会へ足を運ばなくても宣言の内容に触れることができました。作品と文章が別々の人に届くことで、抽象美術の問題が美術館の内部に閉じず、都市の文化的な議論へ広がります。新具体主義の成立には、展覧会の空間と新聞の印刷媒体の双方が重要でした。(参照:リジア・クラーク公式アーカイブ|第1回新具体美術展、リジア・クラーク公式アーカイブ|1959年「新具体主義宣言」)

誰が運動に参加したのか

1959年の宣言に名を連ねたのは、リジア・クラーク、リジア・パペ、アミルカル・デ・カストロ、フランツ・ヴァイスマン、テオン・スパヌディス、レイナルド・ジャルディン、フェレイラ・グラールらです。画家、彫刻家、詩人が同じ問題意識を共有していたことがわかります。オイチシカは、この最初の署名者には含まれていません。

オイチシカは翌1960年頃から新具体主義とより深く結びつき、その後の展開を代表する作家になりました。現在有名なクラーク、パペ、オイチシカの三人だけで最初の宣言を説明すると、当時の運動に参加した作家や文学者の役割が見えにくくなります。集団の成立を支えた幅広い実験を確認したいところです。(参照:リジア・クラーク公式アーカイブ|第1回新具体美術展、ストックホルム近代美術館|Concrete Matters)

1960年、1961年の展覧会と集団の区切り

第1回展の後、1960年にはリオデジャネイロの教育省施設で、1961年にはサンパウロ近代美術館で新具体美術展が開催されました。活動がリオの一会場から、別の都市へ移っていったことがわかります。こうした展覧会を通じて、同じ問題意識を持つ作家たちが互いの違いを明確にしていきました。

1961年頃を区切りとして、運動の集団的な活動は収束していきます。その先に生まれた作品は、宣言を機械的に実行したものではありません。各作家が独立して問いを深めた結果、触覚、身体、都市空間、政治との関係へと表現が広がりました。1959〜1968年というこの記事の期間も、その違いを踏まえて読み進める必要があります。(参照:リジア・クラーク公式アーカイブ|第1回新具体美術展、ニューヨーク近代美術館|Neo-concrete art)

フェレイラ・グラールと「作品を経験する」という考え

新具体主義には、美術を支える理論的な議論がありました。その中心となるグラールの考えを、作品を読むための言葉として整理します。

図形を理解することと、作品を経験すること

幾何学的な絵を前にすると、正方形が何個あり、どの色が何割を占めるかを分析できます。グラールたちは、その知識だけで芸術作品の意味が尽きるとは考えませんでした。実際の画面には質感があり、見る人には身体があり、作品を理解するまでには時間がかかります。抽象美術のなかで忘れられがちな、こうした経験の厚みを重視したのです。

作品の構造を分析することは今も有効です。そこへ鑑賞者の知覚を加えると、同じ形がさまざまな状況で異なる存在感を持つことがわかります。新具体主義は、形の秩序と人間の経験が出会う場として作品を捉え直しました。理論の論争は、実際に作品のそばに立ったときに何が起こるかという素朴な問いにつながっています。(参照:リジア・クラーク公式アーカイブ|1959年「新具体主義宣言」、ニューヨーク近代美術館|Lygia Clark)

身体を通して理解される時間と空間

新具体主義の議論には、フランスの哲学者メルロ=ポンティらの現象学につながる考え方が見られます。人間が世界に向き合うとき、知覚は頭の中だけで完結しません。歩く、近づく、触れる、向きを変えるという身体の働きが、物の見え方や意味に関わります。作品の前で過ごす時間が長くなれば、知覚される関係も変わっていきます。

この視点から見ると、レリーフの前を歩くことも、紙を折ることも、美術の外に付け加えられた余興ではありません。作品を経験するための重要な過程になります。後の参加型作品に直接つながるのは、このように知覚を身体と時間の中で理解しようとした思想です。(参照:ストックホルム近代美術館|Concrete Matters、ニューヨーク近代美術館|Lygia Clark)

「作品と鑑賞者の関係」の幅を知る

作品が変化するといっても、物体が実際に変形する場合と、鑑賞者の知覚が変化する場合があります。クラークの可動式立体は手によって形を変え、デ・カストロの細長い作品は鑑賞者が周囲を歩くことで色の見え方が変わります。オイチシカの空間作品では、身体がどこへ入るかが経験を左右します。

タイトルにある「関係」は、こうした異なる方法を包む言葉です。人が作品に参加する形も、触れる、動く、身に着ける、読む、歩くとさまざまです。個々の作品が求める行為を丁寧に見比べることで、新具体主義の歴史を単なる参加型アートの誕生として単純化せずに理解できます。(参照:ニューヨーク近代美術館|Neo-concrete art、ニューヨーク近代美術館|ウィリス・デ・カストロ《Active Object》、ニューヨーク近代美術館|オイチシカ《Neoconcrete Relief》)

リジア・クラーク — 絵画の縁から立体へ

クラークの仕事を1950年代半ばまでさかのぼると、参加する芸術は幾何学的な絵画の内部から育っていたことがわかります。

1954年の「有機的な線」の発見

クラークは1950年代の抽象絵画で、色面が接する境界や、画面を区切る線に強い関心を向けました。1954年頃の「有機的な線」の発見とは、描かれた線だけを意味しません。二つの面の接合部分に生じる隙間や切れ目が、作品のなかで独自の働きを持つことに気づいたのです。絵画の部品同士の接点が、新しい造形の出発点になりました。

額縁や画面の端も、この発見とつながっていきます。従来は作品と周囲を分ける境界だった部分が、絵画の内部に引き込まれていきました。表面の模様だけを変える実験から、絵画を構成する板や面そのものを考える段階へ進む。その積み重ねが、後の立体作品の発明を準備しました。(参照:リジア・クラーク公式アーカイブ|年譜、ニューヨーク近代美術館|リジア・クラーク作品解説)

表面が持ち上がる《カスロス》

1959年頃、クラークは金属板を折り曲げた《カスロス》(Casulos/繭)などの作品を制作しました。平面だった板が折り返されると、表と裏、内側と外側という区別が現れます。幾何学的な色面を見ていたはずの観客は、物体が占める奥行きや、照明によって変わる影にも注意を向けることになります。

この段階の重要性は、実際に触れなくても作品がすでに空間的な経験を要求する点です。平面は壁の上だけに閉じ込められず、こちら側の空間へ突き出します。クラークの仕事は、絵画を否定して突然彫刻へ移ったというより、画面の境界を深く考えた結果として立体化したものと捉えられます。(参照:リジア・クラーク公式アーカイブ|年譜、ニューヨーク近代美術館|Lygia Clark: The Abandonment of Art)

蝶番が作った新しい関係

折り曲げた金属板をさらに可動式にするため、クラークは蝶番で複数の面をつなぐ仕組みを考えました。板が動く方向には限界があり、手を添えた人も金属の重さや抵抗を受けます。作品の形は、人の側の意志だけで自由に決まるものではありません。構造と行為が出会ったところに、その都度異なる姿が現れます。

クラークにとって大切だったのは、作者がすべての見え方を支配する関係を変えることでした。観客は完成形を選ぶだけの存在から、作品の可能性を実現する存在へと移っていきます。ひとつの仕組みが数多くの経験を生むという点で、蝶番は新具体主義の思想を最も具体的に伝える装置になりました。(参照:ニューヨーク近代美術館|Lygia Clark、リジア・クラーク公式アーカイブ|年譜)

《ビショス》 — 触れることで変わる彫刻

1960年の《ビショス》は、新具体主義を説明する際の代表例です。構造と鑑賞者の行為がどのように結びつくかを詳しく見ていきます。

金属板と蝶番で組み立てられた形

《ビショス》は複数の金属板を蝶番で接続した立体のシリーズです。板は鋭い角度を持つ幾何学的な形をしており、移動すると光を反射する向きが変わります。板の一枚一枚は硬い金属ですが、組み合わされた全体は可変的な姿を持ちます。静止した写真では一つの形として見えても、作品にはほかの状態へ変わる可能性が残されています。

作品を手で動かすと、開ける方向や閉じる方向が構造によって導かれます。自分が考えたとおりに動かせる場合もあれば、蝶番の限界に気づいて別の方向を探ることもあります。見る人は物体の形を確かめながら、その物体が返してくる条件に応じて判断を変えていきます。(参照:リジア・クラーク公式アーカイブ|年譜、ニューヨーク近代美術館|Lygia Clark)

触れる行為は作者と作品の関係を変える

一般的な彫刻では、作者が形を決定し、鑑賞者は完成形をさまざまな位置から眺めます。《ビショス》では、鑑賞者が変形させた姿も作品の一つの状態として受け取られます。ひとりの人が動かした後に別の人が触れれば、前の人とは違う経路で形を変えるかもしれません。作品を経験する時間そのものが制作と結びつきます。

だからといって作者の役割がなくなるわけではありません。触れられる材料、接続する仕組み、可動範囲を選んだのはクラークです。作者が用意した可能性と鑑賞者の行為が交わるところで、作品の姿が具体化します。ここに、新具体主義が求めた共同的な経験の一つの形があります。(参照:ニューヨーク近代美術館|Lygia Clark: The Abandonment of Art、ニューヨーク近代美術館|Neo-concrete art)

今日の美術館で「触れる」ことを考える

現在の美術館では、クラークの作品も保存の必要から触れることが制限される場合があります。金属板を繰り返し動かせば、蝶番や表面は摩耗します。作品を長く保存することと、本来の操作を観客に経験してもらうことの間には、実際の運営上の課題があります。後年の展示では、再制作物や体験用の作品を使う方法も試されてきました。

これは作品の価値が変わったという話だけではありません。作品が「動かされること」を前提にしているため、保存や展示の方法まで作品の理解に関わってきます。完成した一つの形を展示ケースに入れるだけでは伝わりきらない部分を、資料や再制作によってどのように共有するかが、現在の研究でも重要になっています。(参照:ニューヨーク近代美術館|Lygia Clark: The Abandonment of Art、ニューヨーク近代美術館|Lygia Clark)

1963年《カミニャンド》 — 行為そのものが作品になる

クラークの実験は、動く立体から、物を扱う行為そのものへとさらに進みました。その節目となるのが《カミニャンド》です。

メビウスの輪を切り進める

《カミニャンド》(Caminhando/歩く、1963年)は、紙の帯を半回転させてつないだメビウスの輪を、はさみで切り進める作品です。帯の中央から切り始めても、進む方向や曲がり方によって紙の変化は違ってきます。紙は次第に細くなり、最後には切り進められなくなります。完成した彫刻や絵画を制作するというより、切る過程を経験することが中心になります。

メビウスの輪は表と裏が一続きになった構造を持ち、切る行為はその連続性を身体で確かめる経験になります。自分が選んだ経路によって紙が変化するため、同じ材料から出発しても一人ひとりの経験は同じになりません。クラークはこの作品によって、芸術作品を「実行される可能性」として考える方向へ進みました。(参照:ニューヨーク近代美術館|《Caminhando》、ニューヨーク近代美術館|Lygia Clark)

出来上がった紙より、その途中の選択

《カミニャンド》を切り終えた紙には、もはや制作中の判断やためらいをすべて残すことができません。どこで進路を変えるか、幅をどれだけ残すか、手を動かす間に何を感じたかという経験は、その時間を生きた人に属します。完成した物体が鑑賞者へ意味を伝える構造から、行為の中で意味が生まれる構造へと重心が移ります。

この作品が重要なのは、特別な道具や熟練した制作技術を必要としないことです。紙、のり、はさみがあれば、ほかの人も自分の経験として実行できます。作者が用意した方法が誰かの身体の中で実現されるという考えは、後のクラークの制作を考える際にも繰り返し現れます。(参照:ニューヨーク近代美術館|《Caminhando》、ニューヨーク近代美術館|Lygia Clark: The Abandonment of Art)

作品を「提案」として考える

クラークは1960年代に、参加者へ行為を促す作品を「提案」(proposição)として考えるようになりました。提案は、すでに完成した唯一の作品を一方的に見せるためのものではありません。参加者が行為を始めて初めて、その人にとっての経験が成立します。ここでは作家が人の行為を開始する条件を作っています。

《ビショス》で鑑賞者が動かしたのは、作者の用意した金属の構造でした。《カミニャンド》では、その構造を体験する人の選択と時間がさらに重要になります。「関係によって変化する芸術」というタイトルは、作品の形の変化から、経験の成立の仕方まで含むものになります。(参照:ニューヨーク近代美術館|Lygia Clark、ニューヨーク近代美術館|リジア・クラーク作品解説)

クラークの身体的な実験 — 1966年から1968年へ

1960年代半ば以降、クラークは視覚以外の感覚や、人と人の身体的な関係へ関心を深めます。ここからは集団運動が終わった後の展開です。

1966年《石と空気》と身体の感覚

クラークの《石と空気》(Pedra e ar、1966年)は、石と空気を入れた袋という日常的な材料を用いる作品です。参加者は手で支えたり押したりすることによって、物の重さや柔らかさ、空気の移動を感じ取ります。幾何学的な色面を見るときとは異なり、触覚と身体の感覚そのものが経験を形作ります。

材料はありふれた物でも、使い方が定められることで、新しい注意の向け方が生まれます。手のひらにかかる重さや、押し返す感覚は参加者ごとに異なります。作品を理解するために専門的な美術知識が必要な場面から、自分の身体が感じることへ関心が移っていきました。(参照:ニューヨーク近代美術館|リジア・クラーク作品解説、ニューヨーク近代美術館|Lygia Clark: The Abandonment of Art)

感覚のマスクと他者との関係

1967年頃、クラークは《感覚のマスク》など、身体に装着することで視覚や嗅覚、触覚の条件を変える作品を制作しました。顔に付けるものや身体を包む材料によって、周囲の世界を経験する方法が変わります。身体は作品の外にいる観客の身体であると同時に、作品の経験が起こる場所そのものになっていきます。

また、人と人の距離や接触も重要になりました。目で見て理解するのと、何かに触れながら相手の存在を感じるのとでは、そこで経験される関係が異なります。この段階のクラークの仕事は、新具体主義が出発点で問題にした知覚を、さらに個人的で身体的な領域へ押し広げています。(参照:ニューヨーク近代美術館|リジア・クラーク作品解説、リジア・クラーク公式アーカイブ|年譜)

1968年《身体は家である》

1968年の《身体は家である》(A Casa é o Corpo)は、人が内部を通り抜ける構造を持つ作品です。参加者は柔らかな素材や鏡を用いた空間を身体で経験し、内部を移動する順序そのものをたどります。作品の外側から全体像を眺めるだけでは、その経験の内容を知ることはできません。自分が中へ入ることが作品との出会いになります。

ここまで来ると、1950年代半ばの幾何学的な画面からは大きく離れたように見えます。けれども、絵画の境界を意識し、面を折り曲げ、鑑賞者の行為を受け入れ、身体へ進んだ一連の実験としてたどれば、その変化には明確な筋道があります。新具体主義の問題が、個人の知覚と身体をめぐる探究へ育った例です。(参照:リジア・クラーク公式アーカイブ|《A Casa é o Corpo》、ニューヨーク近代美術館|リジア・クラーク作品解説)

リジア・パペ — 書物と幾何学的な身体表現

パペは絵画や版画から始め、書物、舞台、映像、集団による行為へ広がる実験を続けました。彼女の仕事は新具体主義における「参加」の幅を示しています。

版画と舞台で探った形と時間

パペは1950年代に幾何学的な版画を制作し、規則的な形の配置や印刷面の構造を探りました。1958年にはフェレイラ・グラールとの協働による《新具体バレエ》も発表し、形が舞台上で動くことに関心を向けます。平面で見ていた図形が、時間の経過とともに姿を変える場面へと、表現が広がっていきました。

ここでの身体の存在は、後の《ディヴィゾール》とは異なります。舞台上の動きは構成され、観客は時間を追ってその変化を見ます。パペは、見ることと動きがどのように結びつくかを試しながら、やがて人々が直接関与する作品へ進んでいきました。(参照:メトロポリタン美術館|Lygia Pape: A Multitude of Forms、ニューヨーク近代美術館|Neo-concrete art)

1959〜1960年《創造の書》をめくる

《創造の書》(Livro da Criação、1959〜1960年)は、折り目や切り込みを持つ複数のページからなる作品です。鑑賞者がページを持ち上げたり折ったりすることで、平面の構成が三次元的な形へ変わります。書物を読むという日常的な行為が、造形的な変化を経験する方法になります。ページは決められた文章を順番に読むためだけの物ではありません。

MoMAの作品解説によれば、ページは世界の創造をめぐる物語と結びつき、見る人が操作することでそれぞれ異なる読み取り方が生まれます。幾何学的な図形は、固定された意味の記号から、読者の行為に応じて展開する出来事へ変わりました。作品を経験する時間が、書物という身近な形式の中に組み込まれています。(参照:ニューヨーク近代美術館|リジア・パペ《Book of Creation》、メトロポリタン美術館|Lygia Pape: A Multitude of Forms)

ページの順序と読者の自由

ページをめくる人は、折り目や色面を見ながら、どの方向へ手を動かすかを選びます。作品には構造がありますが、その構造を実際に経験する順序や解釈は一人ひとりで異なります。クラーク《ビショス》の金属板と、パペ《創造の書》の紙は材料こそ違いますが、どちらも作者の設計と鑑賞者の行為が出会うように作られています。

パペの場合、視覚的な構成が「読む」という行為にも重なっている点が特徴です。詩や書物をめぐる新具体主義の議論が、ここで作品として具体化しています。絵画を見ることから、折る、めくる、読み解くという行為へ。抽象美術が日常の身体的な動作と結びついた重要な例です。(参照:ニューヨーク近代美術館|リジア・パペ《Book of Creation》、メトロポリタン美術館|リジア・パペ《Book of Night and Day》)

リジア・パペ — 一人の鑑賞から集団の身体へ

1960年代後半、パペの作品では、人々が同じ空間で動くことが大きな役割を持つようになります。その変化は1968年の作品で明確になります。

《卵》で起こる身体と空間の出来事

1960年代後半の《卵》(O Ovo)では、参加者が薄い素材で作られた立方体状の構造を内側から破って現れます。硬い彫刻を外から観察するのとは異なり、人が動くことで形が変化し、出来事として作品が成立します。境界を通り抜けるという動作そのものが、鑑賞される対象になるのです。

パペが関心を向けたのは、抽象的な幾何学形体が人間の身体と出会ったときに生まれる経験です。立方体という単純な形でも、そこに人が入って動けば、空間の意味は一変します。この作品は、書物のページを動かす経験から、身体全体で構造を変える経験へ進む過程として見ることができます。(参照:メトロポリタン美術館|Lygia Pape: A Multitude of Forms、ニューヨーク近代美術館|Neo-concrete art)

1968年《ディヴィゾール》は何を変えたのか

《ディヴィゾール》(Divisor、1968年)は、大きな白い布に開けられた穴から複数の参加者が顔を出し、布を共有しながら歩く作品です。一人ひとりの身体は布の下にあり、歩く方向が揃うと布全体が動きます。誰かが速度を変えれば、周囲の人もその変化を受け取ります。作品の形は、参加する人々の動きによって絶えず変化します。

そこには、一人で物を扱う《ビショス》とは違う関係が生まれています。参加者は同じ材料を共有し、互いの位置や速度を意識しながら移動します。布は彫刻の素材であると同時に、人と人を結ぶ場にもなります。見る人と作品の関係から、複数の人々の関係まで表現を広げた実践です。(参照:メトロポリタン美術館|Lygia Pape: A Multitude of Forms)

「参加する」ことが社会的な経験になる

《ディヴィゾール》では、個人の自由な行為と、集団で動くための調整が同時に生じます。歩く速度を合わせなければ布は引っ張られ、進む方向を相談すれば作品全体の形が変わります。鑑賞者は展示室で物を眺める立場から、ほかの人と共に状況を作る立場になります。

パペの作品は、参加型の芸術を単に体験できる展示という言葉では説明しきれません。一人の行為が周囲に影響し、周囲の動きが自分の行為にも返ってくる。身体を共有された空間に置くことで生まれる関係が、作品の中心になったのです。この経験は、同時代のブラジル社会を考える手がかりにもなります。(参照:メトロポリタン美術館|Lygia Pape: A Multitude of Forms、ブラジル国立公文書館|1968年の制度的行為第5号(AI-5))

エリオ・オイチシカ — 色面を壁から解き放つ

オイチシカは、幾何学的な抽象絵画を出発点に、色彩を実際の空間で経験するための作品を発展させました。触覚や身体参加が前面に現れる以前の実験にも注目します。

《メタエスケーマ》に現れた色面の動き

オイチシカは1950年代後半、《メタエスケーマ》(Metaesquemas)という幾何学的な作品群に取り組みました。色のついた長方形などの形が、画面の中でわずかに角度を変えたり、ずれたりしながら配置されます。直線で構成された秩序があるにもかかわらず、形の位置や間隔によって画面は動き出しそうな印象を生みます。

ここには、のちの空間作品へ通じる関心がすでに現れています。画面の端に対して形をどう置くか、色面と余白がどんな緊張を作るかを探ることで、表面に閉じた構成そのものが問題になりました。絵画から立体や空間へ進んだ道筋を理解するには、この初期作品を見落とせません。(参照:ホイットニー美術館|Hélio Oiticica: To Organize Delirium、ニューヨーク近代美術館|Neo-concrete art)

1959〜1960年、平面が空間へ出ていく

1959年の《ビラテラル》や1960年の《新具体レリーフ》などでは、色のついた面が壁から突き出したり、実際の奥行きを持ったりします。《新具体レリーフ》では、彩色された木材が平面の絵画と物体の性質を同時に持ち、壁は色面が描かれる背景というより作品が置かれる空間の一部になります。

この作品を正面から見る場合と斜めから見る場合とでは、面の重なりや陰影の関係が変わります。作品の構造は固定されていても、鑑賞者の位置によって色と形の経験が変化するのです。オイチシカは、画面の中だけで色を配置することから、実際の空間に色を置くことへと制作を進めました。(参照:ニューヨーク近代美術館|オイチシカ《Neoconcrete Relief》、ホイットニー美術館|Hélio Oiticica: To Organize Delirium)

《ヌクレオス》と《ペネトラーヴェイス》

1960年頃からオイチシカは、複数の彩色された板を吊るす《ヌクレオス》や、人が内部へ入る《ペネトラーヴェイス》を制作しました。前者では吊られた色面の間を移動することで、色の重なりや距離が変わって見えます。後者では通路や囲いの中へ身体が入り、色や空間の変化を自分の歩行によって経験します。

平面上の色彩は、部屋のなかで実際に占める場所を持つようになりました。近づき、回り込み、通り抜ける行為が、作品を見るための重要な条件です。こうした実験は、のちに身体や日常生活と結びつく作品へ進む基盤となりました。(参照:ホイットニー美術館|Hélio Oiticica: To Organize Delirium、ニューヨーク近代美術館|オイチシカ《Neoconcrete Relief》)

オイチシカ — 身に着ける色彩と参加する身体

1960年代半ば、オイチシカは色彩を身体そのものへ結びつけます。抽象表現の内部で培われた関心が、都市の生活や踊りへ広がっていきました。

1963年以降の《ボリデ》

オイチシカは1960年代前半から《ボリデ》(Bólides)と呼ばれる作品を制作しました。箱や容器、顔料など身近な材料を用い、色と物質を手元で経験させる作品群です。色が画面上の見た目として存在するだけでなく、粉末や容器の内部、表面の触感と関わります。作品を見る方法は、絵画を正面から眺める行為よりも多様になっていきます。

《ボリデ》の各作品は材料や経験の仕組みが異なります。完成した物体の外観だけを比較すると、その違いがわかりにくい場合があります。どのように近づき、何を覗き、どの材料を経験するよう作られているかを確かめると、色彩の探究が身体的な行為へ変化していく過程が見えてきます。(参照:ホイットニー美術館|Hélio Oiticica: To Organize Delirium、ヒューストン美術館ICAA|1967年「新しい客観性」資料)

1964年、《パランゴレ》の誕生

《パランゴレ》(Parangolés)は、身に着ける布や旗などを用いた一連の作品です。布をまとった人が歩き、走り、踊ることで、畳まれていた色が開き、色面の形が変わります。静止した状態で布を飾るだけでは、作品が持つ動きの可能性を十分に経験できません。身体が動くことによって、色が実際の空間へ広がります。

オイチシカはリオのマンゲイラ地区の人々やサンバ文化に触れ、踊る身体と色彩の関係を深めました。絵画に描いた動きの印象を超えて、踊りそのものが作品の経験を生む条件になります。ここでは作者、身に着ける人、見る人の関係が、色彩の現れ方に深く関わっています。(参照:ニューヨーク近代美術館|オイチシカ《Parangolé Cape 12》、ホイットニー美術館|Hélio Oiticica: To Organize Delirium)

美術館に入る身体をめぐる出来事

1965年、オイチシカがマンゲイラの仲間とともに《パランゴレ》を美術館で紹介しようとした際、参加者が館内に入ることを拒まれる出来事がありました。参加型の作品が、実際には誰を参加者として認めるのかという社会的な問題に直面したのです。作品の構造が身体の自由な動きを求めても、制度の側がその身体を受け入れない場合があります。

この出来事は、参加という言葉に含まれる政治的な意味を明確にします。作品へ関わる機会は、社会の階級差や人種差別から完全に切り離されて存在するわけではありません。オイチシカの展開をたどると、色彩と身体の問題が、展示制度や都市の人々の関係へつながっていったことがわかります。(参照:ニューヨーク近代美術館|オイチシカ《Parangolé Cape 12》、ホイットニー美術館|Hélio Oiticica: To Organize Delirium)

1967年《トロピカリア》と社会へ開く美術

オイチシカの作品は、幾何学的抽象を出発点としながら、1967年にはブラジルの都市や文化をめぐる複雑な経験を取り込むようになります。

植物、砂、建造物、テレビのある空間

オイチシカの《トロピカリア》(Tropicália、1967年)は、砂や植物、鳥、テレビ、通り抜けられる構造などを組み合わせた環境作品です。鑑賞者はその中を歩き、色、足元の感触、物音や映像を経験します。作品を見る視点は一か所に固定されず、人が進むにつれて周囲の風景が変わります。抽象絵画の色面を空間へ出した実験が、都市的で身体的な環境へ発展した例です。

作品名が示す「熱帯」というイメージも、単純に自然の豊かさを再現するためのものではありません。テレビなど近代的な要素が混ざることで、ブラジルのイメージが作られ、消費されること自体へ問いが向かいます。歩く人の経験と社会の視覚文化を重ねたところに、この作品の特徴があります。(参照:ソフィア王妃芸術センター|オイチシカ《Tropicália》、ニューヨーク近代美術館|Tropicália)

1967年「新しい客観性」展

《トロピカリア》は、1967年4月にリオデジャネイロ近代美術館で開催された「ブラジルの新しい客観性」(Nova Objetividade Brasileira)展で発表されました。この展覧会には世代や制作方法の異なる作家が参加し、オイチシカは当時の芸術の方向について文章も残しました。身体的な経験、社会への働きかけ、従来の美術制度との関係が大きな論点になっていました。

この展覧会を1959年の新具体美術展の単純な続編と捉えることはできません。政治状況も参加者の顔ぶれも変わり、制作の問題は広い社会的な領域へ移っています。新具体主義から育った経験が、別の運動や議論へ入り込んでいったことを示す重要な節目です。(参照:ヒューストン美術館ICAA|1967年「新しい客観性」資料、ソフィア王妃芸術センター|オイチシカ《Tropicália》)

国民文化のイメージをどう扱うか

1960年代のブラジルでは、音楽、映画、演劇、美術が互いに影響し、都市の大衆文化と政治をめぐる議論が活発になりました。《トロピカリア》という名称も、同時代の文化的な動向へ広がっていきます。展示された環境は、ブラジルを外から眺めたときの典型的なイメージを、内部で歩く身体の経験によって複雑にしています。

この作品は、参加者が楽しく歩ける場所として成立するだけでなく、自分たちが暮らす社会のイメージをどう受け止めるかという問いも生みます。絵画の表面から始まった色彩の探究が、都市、文化、政治へつながるまでの展開が、ここで明確になります。(参照:ニューヨーク近代美術館|Tropicália、ヒューストン美術館ICAA|1967年「新しい客観性」資料)

新具体主義を支えた、ほかの作家たち

クラーク、パペ、オイチシカの活動は重要ですが、運動全体はより多様な作家によって形作られました。参加型の芸術だけに収まらない実験も見ておきます。

アミルカル・デ・カストロ — 切る、折る、立ち上がる

アミルカル・デ・カストロは、金属の板を切って折り曲げる彫刻で知られています。もともと一枚の面だった材料が、切断と折り目によって空間へ立ち上がり、立体の内側と外側に新しい関係を作ります。大掛かりな装飾を加えなくても、材料に施す少数の操作によって立体的な存在が生まれるのです。

作品を観客が手で変形させることが中心ではありません。人がどこに立つか、金属板の厚みや影をどう見るかが経験を変えます。新具体主義には、触れられる作品とともに、素材と空間の関係を厳密に考える彫刻もあったことがわかります。(参照:リジア・クラーク公式アーカイブ|第1回新具体美術展、ストックホルム近代美術館|Concrete Matters 参加作家)

フランツ・ヴァイスマン — 空間を包み込む彫刻

フランツ・ヴァイスマンは幾何学的な彫刻を制作し、鉄やアルミニウムなどの材料を用いて、形と空間の関係を探りました。立体の内部を抜ける空間、形の開き方、光を受ける面は、作品の周囲を歩く人に異なる印象を与えます。彫刻の量感と、そこに生まれる空間の双方が重要でした。

ヴァイスマンの作品も、触れて動かす仕組みだけで新具体主義を説明できないことを示しています。大切なのは、作品を孤立した完成物として眺めるのではなく、その周囲の空間や鑑賞者の位置とともに考えることです。運動が共有した問題意識は、一つの技法に限定されませんでした。(参照:ストックホルム近代美術館|Concrete Matters 参加作家、リジア・クラーク公式アーカイブ|第1回新具体美術展)

ウィリス・デ・カストロ《活動する物体》

ウィリス・デ・カストロは、細長い木材などに絵画の色面を組み合わせた《活動する物体》(Active Objects)を1959年頃から制作しました。1961年の作品では、鑑賞者が周囲を回ると、側面や正面に見える色の組み合わせが変化します。物体の形を触って変える必要がなくても、移動によって視覚的な経験が変わる仕組みです。

デ・カストロの作品は、絵画の色彩と立体的な構造がどのように結びつくかを示しています。作品の周囲を歩く時間が、色の現れ方を順に変えていくのです。手で動かす《ビショス》と比較すると、「関係によって変化する」という新具体主義の特徴には複数の方法があったことが明確になります。(参照:ニューヨーク近代美術館|ウィリス・デ・カストロ《Active Object》、ニューヨーク近代美術館|Willys de Castro’s Active Object)

1964年以後のブラジル社会と参加の意味

1959年から1968年のブラジルでは、芸術の動向とともに社会の条件も変わりました。作品を身体や日常に開く試みは、この時代の政治的な状況の中で新しい意味を帯びます。

1964年の軍事クーデター

1964年、ブラジルでは軍事クーデターによって政権が転覆され、軍政が始まりました。政治的な自由や言論の条件が変わり、文化活動もその影響を受けます。美術家が観客や市民の参加を重視する実験を行っていた時代に、人々が社会へ参加するための自由は政治の場で大きく制限され始めていました。

新具体主義の1959年の宣言を、1964年の出来事への直接の応答として扱うことはできません。宣言が発表された時点では軍政はまだ始まっていなかったからです。初期の造形的な実験が、その後の社会の変化を経て、別の切実さを持つようになった過程を区別して読むことが重要です。(参照:ブラジル国立公文書館|1968年の制度的行為第5号(AI-5)、ニューヨーク近代美術館|Tropicália)

1960年代後半、作品と公共空間の関係

1960年代後半の作品には、美術館の内部で完結しない身体的な行為や、都市の生活との接点が増えていきます。オイチシカの《パランゴレ》では誰が美術館へ入れるかが問題になり、パペの《ディヴィゾール》では複数の参加者が同じ布を共有して歩きました。芸術の体験が、個人の知覚を超えて人々の共同的な関係へ広がっていきます。

こうした実験には、当時の政治状況と直接結びつく要素もあれば、身体や知覚を探る関心から育ったものもあります。すべてを同じ政治的な主張として読むと、それぞれの作品が持つ複雑な経験が失われます。作品の方法と社会的な条件を、具体的な出来事から結びつけて考える必要があります。(参照:ニューヨーク近代美術館|オイチシカ《Parangolé Cape 12》、メトロポリタン美術館|Lygia Pape: A Multitude of Forms、ブラジル国立公文書館|1968年の制度的行為第5号(AI-5))

1968年、統制の強化と表現の状況

1968年12月、軍政は制度的行為第5号(AI-5)を発令し、議会の活動停止や政治的権利の制限など、強い権限を政府に集中させました。文化や表現をめぐる環境も一段と厳しさを増します。同じ1968年には《ディヴィゾール》や《身体は家である》など、人間の身体と経験を中心にした作品が生まれていました。

この年を新具体主義運動そのものの終了年と呼ぶと、歴史を誤解させます。集団の中心的な活動はすでに終わっており、その後を進んだ作家たちは異なる状況へ向き合っていました。1959年の宣言から1968年の作品をたどることは、芸術の実験が変化する社会でどのように新しい意味を獲得したかを考えることでもあります。(参照:ブラジル国立公文書館|1968年の制度的行為第5号(AI-5)、ブラジル連邦上院|1968年12月13日の制度的行為第5号、リジア・クラーク公式アーカイブ|《A Casa é o Corpo》)

世界の戦後美術と比べて見えてくること

同じ1950年代末から1960年代にかけて、各国では作品と身体、物質、鑑賞者の関係を問い直す試みが進みました。新具体主義の特色をほかの動向と比較します。

ニューヨークのハプニングとの共通点と違い

1959年、ニューヨークではアラン・カプローが《18 Happenings in 6 Parts》を発表し、観客の移動などを作品の進行へ組み込みました。参加者が作品の一部になるという点では、新具体主義の作家たちと同時代の関心を共有しています。美術の範囲が完成した物体から、その場で起こる行為へ広がるという変化です。

新具体主義では、幾何学的抽象の色面や構造を徹底して考えるところから、触れる作品や身体的な経験へ進む道筋が重要でした。カプローのハプニングには、抽象表現主義や実験音楽、演劇との関係があります。形式の近さだけで一方が他方の直接の起源になったと考えるより、異なる出発点から同時代に生まれた問いとして見ると、その違いがよくわかります。(参照:ニューヨーク近代美術館|Neo-concrete art、ストックホルム近代美術館|Concrete Matters)

ドイツのZERO、そして光と空間の実験

西ドイツではハインツ・マック、オットー・ピーネ、ギュンター・ユッカーらのZEROが、光、運動、金属、空間を使った表現へ進みました。絵画の表面から実際の空間へという変化は、ブラジルの新具体主義とも比較できます。抽象表現の先に、観客の視点や移動を重要な要素とする作品が現れた点です。

両者の関心は完全に一致するわけではありません。ZEROでは反射光や機械的な運動を中心とする実験が目立ち、新具体主義では知覚と身体の経験、作品との関係が強く論じられました。見た目が似ている作品でも、その問題意識と成立した環境を分けて考えることで、世界の戦後美術の多様さが見えてきます。(参照:ストックホルム近代美術館|Concrete Matters、ニューヨーク近代美術館|Neo-concrete art)

日本の具体美術協会との比較

1954年に関西で結成された具体美術協会は、身体、泥、紙、水、光などを使い、制作行為と物質の働きを探究しました。身体が作品の形成に関わり、従来の絵画の枠を広げた点では、新具体主義と共通する問題があります。世界各地で同時期に異なる美術家たちが物質や身体に向き合っていたことは、戦後美術史を考えるうえで重要です。

名称が似ていても、日本の「具体美術協会」とブラジルの「新具体主義」は別の運動です。前者は吉原治良を中心に関西で活動した集団で、後者はブラジルの幾何学的抽象をめぐる議論から生まれました。両者を直接つなぐ影響関係を前提にせず、それぞれの歴史と表現を比較する姿勢が求められます。(参照:ニューヨーク近代美術館|Neo-concrete art、ストックホルム近代美術館|Concrete Matters)

新具体主義が残したもの

1959年の宣言は短期間の集団運動として始まりました。その後の作品や美術館での再評価をたどると、「芸術作品はどのように成立するのか」という問いが長く生き続けていることがわかります。

集団が終わっても続いたそれぞれの探究

クラークは1960年代後半以降、身体感覚や人と人との関係を深め、独自の方法を発展させました。オイチシカは都市文化や環境、身体の活動へと表現を広げ、パペも公共空間を使った作品や映像など多様な形式を探究しました。作家たちが同じ宣言を繰り返したために成果が生まれたのではありません。出発点で共有した問いを、それぞれの経験に応じて変化させたのです。

この歴史を理解すると、1959年の新具体主義という名前が、1968年までの多様な作品を一つの様式に縛るものではないことがわかります。集団の活動が比較的短かったからこそ、作家ごとの個性がその後に明確になっていきました。それでも作品と鑑賞者の関係を考える姿勢は、複数の実践に通じる重要な手がかりとして残りました。(参照:ニューヨーク近代美術館|Lygia Clark: The Abandonment of Art、メトロポリタン美術館|Lygia Pape: A Multitude of Forms、ホイットニー美術館|Hélio Oiticica: To Organize Delirium)

国際的な美術館による研究と再評価

2014年、ニューヨーク近代美術館はクラークの大規模回顧展を開催し、抽象絵画から触覚的な提案へ至る過程を取り上げました。2017年にはメトロポリタン美術館でパペ、ホイットニー美術館でオイチシカの重要な展覧会が開かれています。彼らの仕事は、参加型芸術や空間表現の歴史を見直す際の大きな参照点になっています。

これらの展覧会は、初期の幾何学的な作品と後年の身体的な作品を一つの歴史の中で読み直す機会にもなりました。作品を触って経験させることと、当時の材料を保存することの課題も研究されています。過去の前衛美術の価値は、現在の展示方法や批評を通じても更新され続けています。(参照:ニューヨーク近代美術館|Lygia Clark: The Abandonment of Art、メトロポリタン美術館|Lygia Pape: A Multitude of Forms、ホイットニー美術館|Hélio Oiticica: To Organize Delirium)

鑑賞者との関係が作品を成立させる

新具体主義の歴史で起きた重要な変化は、芸術作品を、作者が完成させた形だけで考える視点から、人が実際に出会い、時間を過ごし、身体を動かすことで経験されるものとして捉える視点への広がりです。クラークの蝶番、パペの書物や布、オイチシカの色彩空間は、その考えを異なる方法で示しました。

絵画や彫刻は、その後も多様な形で作られ続けています。新具体主義の成果は、従来の形式を一つの答えで置き換えること以上に、作品と人間の関係を制作の中心的な問題として明らかにしたことにあります。鑑賞者が何をするかによって、作品の形、見え方、経験、他者とのつながりが変わる。その可能性を示したことが、この運動の大きな歴史的意義です。(参照:ニューヨーク近代美術館|Neo-concrete art、ストックホルム近代美術館|Concrete Matters、ニューヨーク近代美術館|Lygia Clark)

主要年表

  • 1951年|第1回サンパウロ・ビエンナーレ開催。国際的な前衛美術との接点が広がる。
  • 1952年|サンパウロで「ルプトゥーラ」が結成され、幾何学的な抽象美術を推進。
  • 1954年|リオデジャネイロで「フレンテ」が活動を開始。クラークも「有機的な線」の探究を進める。
  • 1958年|リジア・パペとフェレイラ・グラールの《新具体バレエ》。
  • 1959年3月|リオデジャネイロ近代美術館で第1回新具体美術展。「新具体主義宣言」が発表される。
  • 1959〜1960年|パペ《創造の書》を制作。
  • 1960年|クラークが《ビショス》を発表。オイチシカが《新具体レリーフ》などを制作。
  • 1960年|リオデジャネイロで第2回新具体美術展。
  • 1961年|サンパウロ近代美術館で第3回新具体美術展。運動の集団的活動はこの頃まで。
  • 1961年|ウィリス・デ・カストロ《活動する物体》を制作。
  • 1963年|クラーク《カミニャンド》。オイチシカが《ボリデ》に取り組む。
  • 1964年|軍事クーデター。オイチシカの《パランゴレ》が始まる。
  • 1965年|《パランゴレ》の発表をめぐり、美術館の入場と参加者の問題が顕在化する。
  • 1966年|クラーク《石と空気》。
  • 1967年|リオの「ブラジルの新しい客観性」展でオイチシカ《トロピカリア》。
  • 1967年|クラーク《感覚のマスク》など身体的な実験を展開。
  • 1968年|パペ《ディヴィゾール》、クラーク《身体は家である》。
  • 1968年12月|軍政が制度的行為第5号(AI-5)を発令し、政治的統制を強化。

まとめ

1959年、ブラジルで新具体主義を掲げた芸術家たちは、幾何学的な抽象美術が長く探究してきた色と形の構成を出発点にしました。そして、作品を人が経験するということを、さらに深く考えようとしました。クラークは金属の板を動かす《ビショス》から紙を切る《カミニャンド》へ進み、パペは書物のページや集団で動かす大きな布によって、人間の行為が作品を変える仕組みを作りました。オイチシカは平面の色彩を壁から解き放ち、鑑賞者が歩く空間や踊る身体へと展開しました。

この歴史では、作品が変化するという言葉に複数の意味があります。触れると形が変わる作品、歩くと色の関係が変わる作品、参加者の選択や身体の感覚を通じて経験が成立する作品、複数の人が関係を作ることで成り立つ作品です。新具体主義が集団として活動した期間は1959〜1961年頃ですが、ここから生まれた問いは1968年まで、そしてその後も異なる方法で発展していきました。

作品と鑑賞者を切り離して考えることが難しくなったという変化は、後のインスタレーション、参加型芸術、身体を使った芸術の歴史を考えるうえでも重要です。同時期のニューヨークのハプニングやドイツのZERO、日本の具体美術協会とも比較できる一方、ブラジルの新具体主義には幾何学的抽象から知覚、身体、他者との関係へ至る独自の道筋があります。その道筋こそが、作品を見るという行為の意味を広げました。(参照:ニューヨーク近代美術館|Neo-concrete art、ストックホルム近代美術館|Concrete Matters、ニューヨーク近代美術館|Lygia Clark: The Abandonment of Art、メトロポリタン美術館|Lygia Pape: A Multitude of Forms)

参考資料・出典

本稿は、1959年の「新具体主義宣言」と第1回展の記録、リジア・クラーク公式アーカイブ、ニューヨーク近代美術館、メトロポリタン美術館、ホイットニー美術館、ストックホルム近代美術館、ソフィア王妃芸術センター、ヒューストン美術館の一次資料・作品解説・研究記録を参照しました。1959〜1961年頃の集団運動と、その後1968年まで続く個々の作家の活動を区別し、社会史についてはブラジル政府の公的資料を参照しています。

資料確認日:2026年10月14日 / ART LIBRARY