1958–1968
抽象表現主義のあと、絵画はどう変わったのか?
アメリカの色面絵画と新しい抽象
1950年代、アメリカではジャクソン・ポロックやウィレム・デ・クーニングらの抽象表現主義が大きな注目を集めました。絵の具を滴らせ、激しい筆触を残し、画家の身体が動いた痕跡を画面に刻む作品は、戦後の絵画を変えました。ところが1950年代末になると、その成果を受け継ぎながら、色彩と画面をもっと簡潔な方法で構成しようとする画家たちが存在感を増していきます。
モリス・ルイスは薄い絵の具をキャンバスへ流し、色の帯と大きな余白を生み出しました。ケネス・ノーランドは同心円や山形、縞模様の構成を探り、色同士の関係を明確に見せました。ジーン・デイヴィスは縦縞を繰り返し、フランク・ステラは黒い帯の規則から絵画を組み立てます。同じ抽象画でありながら、彼らが選んだ方法は大きく異なります。
こうした実験を考えるうえで重要なのが、ヘレン・フランケンサーラーが1952年に制作した《山と海》です。下地のないキャンバスへ薄めた絵の具を浸透させ、布そのものへ色を広げる方法は、1953年に作品を見たルイスやノーランドにも刺激を与えました。色が厚く塗り重ねられる面から、色と布が密接に結びつく面へ。絵画を作るための基本的な条件が改めて問われ始めたのです。
1964年、美術批評家クレメント・グリーンバーグはロサンゼルスで《ポスト・ペインタリー・アブストラクション》展を企画し、新しい抽象絵画の動向をひとつの歴史として示しました。翌年のワシントン・カラー・ペインターズ展、1966年のグッゲンハイム美術館《Systemic Painting》展でも、色面、輪郭、反復、構成という問題が異なる視点から取り上げられます。
本記事では1958年から1968年を中心に、色面絵画がどのような制作方法から生まれ、どのように評価されたのかを追います。あわせて、ロスコやニューマンとのつながり、ワシントンの画家たちの交流、1968年にサム・ギリアムがキャンバスを木枠から解き放った展開までを解説します。抽象表現主義のあとに現れた絵画の変化を、実際の作品と展覧会から考えていきましょう。(参照:ニューヨーク近代美術館|ヘレン・フランケンサーラー、スミソニアン協会|1964年《ポスト・ペインタリー・アブストラクション》展記録)
CONTENTS
- 1950年代末、アメリカの抽象絵画に何が起きたのか
- 抽象表現主義の内部にあった色面への関心
- 1952年、フランケンサーラー《山と海》が開いた道
- 色とキャンバスが一体になる絵画
- モリス・ルイスが生み出した「流れる色」
- ケネス・ノーランドと色の幾何学
- ワシントンで育った色面絵画
- デイヴィス、ダウニング、リードの異なる色彩
- 1964年、グリーンバーグが新しい抽象を名づける
- 「色面絵画」と「ポスト・ペインタリー」の違い
- フランク・ステラが示した、もう一つの方向
- ケリーとオリツキーが示した別の抽象
- 1965年、批評が三人の画家を結びつける
- 1966年《Systemic Painting》が示した新しい整理
- 大画面の色を、鑑賞者はどう経験したのか
- アメリカの美術館が新しい抽象を広めた
- 1968年、色面絵画はキャンバスの外へ広がる
- この十年間は美術史に何を残したのか
- 主要年表
- まとめ
- 参考資料・出典
1950年代末、アメリカの抽象絵画に何が起きたのか
抽象表現主義の成功によって広く知られたニューヨークの絵画から、1950年代末には新たな問題が浮かび上がりました。
激しい筆触から、色と形の関係へ
1950年代のアメリカ美術では、ジャクソン・ポロックやウィレム・デ・クーニングの激しい筆触を持つ抽象絵画が国際的に注目されました。大きな画面に絵の具の痕跡を刻み、制作する身体や行為の時間を感じさせる作品は、戦後の美術を大きく変えました。美術館での展示や批評の支援によって、ニューヨークは国際的な美術の重要な拠点となっていきます。
この成功を受けた若い世代や同時代の画家は、抽象という表現を引き継ぎながら別の可能性を探りました。筆の勢いや複雑な塗り重ねに頼らず、色が広がる面、画面の余白、明確な輪郭、反復される構成で作品を成立させようとしたのです。その変化は1958年頃から目立つようになり、1964年には大きな展覧会によって一つの時代的動向として紹介されます。(参照:ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|ヘレン・フランケンサーラー、スミソニアン協会|1964年《ポスト・ペインタリー・アブストラクション》展記録)
「抽象表現主義のあと」は単純な世代交代だったのか
抽象表現主義に属する画家の中にも、マーク・ロスコやバーネット・ニューマンのように、広い色の領域や簡潔な画面構成を早くから探っていた作家がいました。激しい筆触が抽象表現主義のすべてだったわけではありません。1950年代末以降の絵画を理解するには、すでに存在した色面への関心が、素材や制作方法を変えながら発展したことも見ておく必要があります。
年代もきれいには分かれません。ヘレン・フランケンサーラーの《山と海》は1952年に制作され、モリス・ルイスやケネス・ノーランドの実験も1950年代前半から始まっています。本記事の1958〜1968年という範囲は新しい抽象絵画の展開が目立った時期を示しています。起点となる作品はそれ以前にあり、次の表現への接続も1968年を越えて続いていきます。(参照:ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|ヘレン・フランケンサーラー、ニューヨーク近代美術館|ヘレン・フランケンサーラー、ニューヨーク近代美術館|ルイス《ベータ・ラムダ》)
読者が最初に押さえておきたい三つの変化
第一の変化は、薄めた絵の具を布へ浸透させ、色と支持体を密接に結びつける方法です。第二は、同心円や帯、幾何学形態を反復し、画面全体を色同士の関係で組み立てる方法です。第三は、絵画の輪郭や大きさを意識させ、絵画を壁に掛かる一つの物体として捉える方法です。
これらは同じ画家が必ず順番に経験した発展段階ではありません。ワシントンのルイスとノーランド、ニューヨークのフランク・ステラ、パリで抽象表現を育てたエルズワース・ケリーらは別々の経緯から自分の方法に到達しました。1960年代には、その異なる表現が展覧会と批評を通して互いに関連づけられていきます。(参照:ニューヨーク近代美術館|ルイス《ベータ・ラムダ》、ニューヨーク近代美術館|ステラ《理性と不潔の結婚 II》、メトロポリタン美術館|ケリー《青、緑、赤》)
抽象表現主義の内部にあった色面への関心
色面絵画の形成は1940年代からの抽象絵画と地続きです。新しい実践に引き継がれたものを確かめます。
ロスコとニューマンが残した大きな色の空間
マーク・ロスコの絵画には、柔らかい縁を持つ色の領域が重なり、鑑賞者を包むような広がりが感じられます。バーネット・ニューマンは広い単色の領域と細い縦帯を組み合わせ、画面の大きさそのものを強く意識させました。どちらも作品を目の前にすると、人物や風景を読み取るより先に色とスケールの関係が迫ってきます。
1950年代末以降の色面絵画は、こうした先行する成果を踏まえながら、顔料を塗り重ねる方法や輪郭の扱いを変化させました。ロスコのぼかされた色の層と、ルイスの薄い絵の具が布へ広がる画面は、同じ「色の広がり」でも成り立ちが違います。美術史では似た外観から一つの系譜を描けますが、個々の作品を理解するためには制作方法の差も重要になります。(参照:ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|ヘレン・フランケンサーラー、ニューヨーク近代美術館|ルイス《ベータ・ラムダ》)
ポロックの床での制作から引き継がれたこと
ポロックはキャンバスを床に置き、絵の具を滴らせたり流したりして画面を作りました。伝統的なイーゼル画のように筆で対象を描く方法から離れ、身体の移動と絵の具の流動性を制作の一部にしたことが重要でした。ヘレン・フランケンサーラーもポロックの作品に刺激を受け、床に置いたキャンバスへ絵の具を流す実験を始めています。
フランケンサーラーはここから別の方向へ進みました。薄めた絵の具を下地を塗っていない布へ浸透させることで、絵の具の層が支持体を覆う状態から、色が布の繊維の中へ広がる状態を生み出します。同じ床での制作でも、残された画面の印象と色の成立条件が変わりました。この違いがルイスやノーランドの新しい抽象絵画へつながります。(参照:ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|《山と海》の制作技法、ニューヨーク近代美術館|ヘレン・フランケンサーラー)
抽象絵画の中の多様な価値観
1940〜50年代の抽象表現主義は、ひとつの技法や思想だけで説明できる運動ではありません。厚い絵の具の痕跡、色の広い領域、規則性を持つ画面、偶然を取り入れる方法など、多様な実践を含んでいました。そのため後に現れた色面絵画も、単一の旧様式を置き換えたというより、すでにあった複数の可能性を選び直したものと考えられます。
1960年代の批評家は、どの傾向を最も新しい絵画とみなすかについて強い議論を交わしました。批評は作品の共通点を発見する助けになりますが、選ばれた作家と外れた作家の間に境界を作る働きも持ちます。1964年の大きな展覧会へ進む前に、こうした多様さと批評の影響力を念頭に置くと、時代の変化が理解しやすくなります。(参照:スミソニアン協会|1964年《ポスト・ペインタリー・アブストラクション》展記録、グッゲンハイム美術館|ローレンス・アロウェイと《Systemic Painting》)
1952年、フランケンサーラー《山と海》が開いた道
新しい抽象絵画の技術的な転換を説明するうえで、1952年の《山と海》は欠かせません。
床に広げた下地のないキャンバス
ヘレン・フランケンサーラーが1952年に制作した《山と海》(Mountains and Sea)は、大きなキャンバスに薄い色彩が流れるように広がる作品です。画家は布を床へ広げ、テレピン油で薄めた油絵の具を直接流し込みました。ナショナル・ギャラリー・オブ・アートの解説によれば、絵の具が布の繊維へ浸透し、水彩のにじみにも似た軽やかな色の領域を作り出しました。
大きな画面を前にすると、筆で描かれた明確な輪郭よりも、色が広がり、途切れ、重なった痕跡が目に入ります。支持体の布色も画面の一部として残されています。色が置かれていないところは単なる空白として放置されているのではなく、隣の色を見せる空間として働きます。後の色面絵画にとって、塗る場所と塗らない場所を同時に構成する発想が重要になります。(参照:ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|《山と海》の制作技法、ニューヨーク近代美術館|ヘレン・フランケンサーラー)
「染み込ませる」ことは何を変えたのか
一般に油絵の具を下地のあるキャンバスへ重ねると、塗膜は支持体の上に層として残ります。《山と海》では薄めた油絵の具が布そのものへ入り込み、色と支持体の境界が目立たなくなります。その結果、表面の厚い盛り上がりが抑えられ、色が画面と一体になった印象が生まれます。画面の平面性をめぐる議論でも、この方法は注目されました。
この作品にはまだ風景を思わせる感覚や線の動きがあり、完全に幾何学的な構成へ整理されていません。フランケンサーラーにとって色は空気や場所の感覚とも結びついていました。後に影響を受けた画家がこの方法をより反復的な構成に利用したことで、作品の外観は大きく変化していきます。同じ技法を共有しても、画家ごとの関心は異なっていたのです。(参照:ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|ヘレン・フランケンサーラー、ニューヨーク近代美術館|ヘレン・フランケンサーラー)
1953年、ルイスとノーランドがアトリエを訪れる
1953年、ワシントンを拠点としていたモリス・ルイスとケネス・ノーランドは、ニューヨークのフランケンサーラーのアトリエを訪れ、《山と海》を見ました。この訪問は、のちにワシントンで発展する色面絵画の歴史における重要な接点として繰り返し語られています。絵の具が布に浸透し、絵画が軽やかな色の領域として成立する可能性を、二人は実物から知ったのです。
ルイスもノーランドも、そこで見た画面をそのまま繰り返したわけではありません。ルイスは絵の具を流す方向と透明な色の重なりを探り、ノーランドは色を輪や帯の形に配置する方法へ進みました。アトリエの訪問という具体的な交流から、異なる制作上の問題が引き出されたことに注目すると、一方的な影響関係以上の創造的な広がりが見えてきます。(参照:ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|《山と海》の制作技法、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|ポール・リード《コヒーレンス》、スミソニアン協会図書館|ワシントン・カラー・スクール)
色とキャンバスが一体になる絵画
新しい抽象絵画では、色を置く技法だけでなく、キャンバスそのものの役割が変わっていきました。
下地を塗らない布と薄い絵の具
色面絵画の一部では、あらかじめ白い下地で覆っていない綿のキャンバスが用いられました。薄めた絵の具が布の内部に広がるため、色と布の質感が密接に結びつきます。モリス・ルイスはアクリル系樹脂塗料のマグナを用い、流れと浸透の性質を作品へ取り込みました。材料の選択そのものが画面の見え方を決める重要な判断になっていました。
こうした方法では、絵の具の濃度や布の傾き、流す量、乾燥の過程が作品の形に関わります。筆で一本ずつ線を描いた画面とは違い、色は重力や液体の動きによっても形づくられます。絵画は最終的な色の配置を考える表現であると同時に、材料がどのように動くかを考える実験にもなりました。(参照:ニューヨーク近代美術館|ルイス《ベータ・ラムダ》、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|ポール・リード《コヒーレンス》)
なぜ塗り残した布が重要になったのか
ルイスやノーランドの作品には、絵の具を置かない部分が大きく残されている例があります。この布の領域は、色彩の鮮やかさを際立たせる空間として働き、画面全体の比率を決めます。ルイスの《アンファールド》連作では、左右の色の流れを隔てる広大な未彩色部分が強い存在感を持っています。色のついていない領域を見ることも、作品の鑑賞に含まれるのです。
塗り残された部分を単に制作途中の面と考えると、作品の構造を見落とします。ある色がどこから始まり、どこで終わるかは、周りにある布の広さによって感じ方が変わります。これは、描かれた色の形と、その外側に残る領域を同じ重みで見る構成方法です。画面のすべてを筆触で埋めていた抽象絵画から、広い余白を活用する抽象への変化が見えてきます。(参照:ニューヨーク近代美術館|ルイス《ベータ・ラムダ》、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|モリス・ルイス《ベータ・カッパ》)
薄い色の層が持つ透明感と保存の問題
薄めた絵の具を布へ浸透させる方法は、重なった色を透かして見せたり、布の繊維の質感を残したりする効果を生みました。色が不透明な膜として重なる場合とは異なり、境界に細かなにじみが生まれることもあります。その軽やかさが、色面絵画を特徴づける視覚的な魅力の一つになりました。
美術館で作品を保存する場合には、材料の違いも重要です。フランケンサーラーの初期作は薄めた油絵の具を用いており、ルイスの多くの作品はアクリル系樹脂塗料によって制作されています。作品が似た印象を持っていても、顔料と結合材、布の組み合わせは同一ではありません。技法名だけで一律に扱うより、個々の作品の材料を確認する必要があります。(参照:ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|《山と海》の制作技法、ニューヨーク近代美術館|ルイス《ベータ・ラムダ》)
モリス・ルイスが生み出した「流れる色」
ワシントンで活動したモリス・ルイスは、絵の具の流れと布の空白を独自の構成へ発展させました。
1954年以降の《ヴェール》連作
モリス・ルイスは1953年のアトリエ訪問を経て、1954年から色を流し重ねる方法へ取り組みました。《ヴェール》と呼ばれる作品群では、薄い色彩が何層にも透けて重なり、穏やかでありながら奥行きを感じさせる領域が現れます。筆の痕跡を強く残すかわりに、液体の絵の具が布へ広がることで画面を作る点に特徴があります。
《ヴェール》は単色の平らな画面として見えることもあれば、色同士の重なりが複雑な空間を感じさせることもあります。透明な色を重ねた結果、ある部分は暗く、別の部分は薄くなります。画面全体に浮かび上がるこうした濃淡は、作者の身振りを強く感じさせる抽象表現主義とは異なる、色の作用そのものを中心に据える表現として受け取られました。(参照:ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|モリス・ルイス展、ニューヨーク近代美術館|ルイス《ベータ・ラムダ》)
1960〜61年《アンファールド》と大きな余白
ルイスの《アンファールド》連作では、キャンバスの左右から色の筋が斜めに流れ、中央には広い未彩色の領域が残ります。ニューヨーク近代美術館所蔵の《ベータ・ラムダ》(1961年)では、多色の帯が両側に分かれて配置され、画面の中心に大きな開放感を生み出しています。左右の色が互いに向き合うことで、布の空白が構成の核になっているのです。
色彩を配置する場所を限定すると、塗られた帯だけでなく、その間の距離が目に入るようになります。視線は左右を往復し、中央の何も描かれていない領域を横断します。画面が大きいほど、この移動には身体的な時間が伴います。絵画の大きさ、布の広さ、色の流れが一つの視覚経験へ結びついていることが、この連作の重要な特徴です。(参照:ニューヨーク近代美術館|ルイス《ベータ・ラムダ》、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|モリス・ルイス《ベータ・カッパ》)
1961〜62年、色の帯を集めた晩年の絵画
ルイスは《アンファールド》のほか、色の帯を寄せ集めて画面を構成する連作にも取り組みました。ナショナル・ギャラリー・オブ・アートが所蔵する《ベータ・カッパ》(1961年)には、左右から流れる多色の筋と、間に残る広い布地が見られます。ルイスは1962年に亡くなりましたが、1950年代半ばからの短い期間に、色の重なりと流れをめぐる多様な方法を確立しました。
ルイスの実験が後の絵画に残したのは、液体を扱う技術だけではありません。絵画の形を線と色と地の関係まで絞り込み、画面に何を残すべきかを徹底して考えたことです。色の一筋がどこへ向かうか、画面の端で終わるか、広い布地にどのように接するか。それらの小さな選択が大画面の力を左右することを示しました。(参照:ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|モリス・ルイス展、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|モリス・ルイス《ベータ・カッパ》)
ケネス・ノーランドと色の幾何学
ルイスと同時代に活動したノーランドは、色の帯や輪を反復することで別の抽象絵画を発展させました。
標的のような同心円がなぜ絵画になったのか
ケネス・ノーランドは1950年代後半から、同心円を重ねた「ターゲット」と呼ばれる作品を制作しました。中心から外側へ色が輪のように広がる画面は、標的や記号を連想させます。けれども鑑賞者の視線を引きつけるのは、何かの意味を示す記号性に加え、隣り合う色がどのような強さでぶつかり合うかという問題です。
赤と青の輪が接するとき、色の境界は画面の中に強い緊張を生みます。幅の広い帯と狭い帯では、同じ色を使っても印象が変わります。中心の位置は動かなくても、色の順序が変われば全体が膨張したり収縮したりするように感じられます。ノーランドは単純な構成を繰り返すことで、色の比較を見やすくし、画面そのものを実験の場所としました。(参照:ペース・ギャラリー|ケネス・ノーランドの展覧会記録、スミソニアン協会図書館|ワシントン・カラー・スクール)
同心円から山形と帯へ
ノーランドは同心円のほかに、山形の帯が連なる「シェヴロン」や、水平・垂直に広がる帯の連作を発展させました。どの連作にも色を際立たせるために構成を明確にする姿勢があり、形の選択が色同士の関係へ影響します。三角形に近い山形の帯は方向を感じさせ、横長の色帯は画面の幅を強く意識させます。
同じ抽象画家が次々と異なる形へ移行したことは、彼にとって特定の図形が作品の主題だったのではないことを示しています。図形の働きによって色の感じ方がどう変わるかを探究し、色と構成の関係を更新したのです。その制作はルイスの液体の流れとは異なる見え方を持ちながら、塗膜の厚さより色の直接的な経験を重視する点で共通していました。(参照:ペース・ギャラリー|ケネス・ノーランドの展覧会記録、スミソニアン協会図書館|ワシントン・カラー・スクール)
ノーランドの作品で余白はどう働くか
ノーランドの絵画では、彩色された形の間や周囲にキャンバスの地が残されることがあります。色を支える背景として使われるだけでなく、輪郭の強さを調整し、帯の位置を画面全体の中で決める役割を担います。絵の具を置かない領域の幅が変われば、同じ色の帯もより細く、あるいは強く感じられます。
この考え方は、色の領域を鑑賞者がどう把握するかという知覚の問題につながります。画面の中央に描かれるものだけを主役にせず、余白と色の境界を同時に組み立てることで、より直接的な視覚経験が生まれます。ルイスとノーランドが結びつけられる理由は単に交流の歴史にとどまりません。色が置かれる条件を絵画の中心に据えたところにもあります。(参照:スミソニアン協会図書館|ワシントン・カラー・スクール、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|ポール・リード《コヒーレンス》)
ワシントンで育った色面絵画
この時代の抽象絵画の中心地はニューヨークだけではありませんでした。ワシントンの画家たちが重要な役割を担います。
ニューヨークから少し離れた場所で進んだ実験
モリス・ルイスとケネス・ノーランドは、ワシントンD.C.を拠点として色面絵画を発展させました。大都市ニューヨークの美術界と交流しながら、制作の場は別の都市に置いていました。1953年にフランケンサーラーのアトリエで受けた刺激が、ワシントンでの新しい絵画へつながったことは、情報や作品が都市間を移動することで美術が発展した一例です。
ワシントンでは、画家同士が作品を見せ合い、展示機会を通して交流する環境が形成されました。色を直接支持体へ置く実験は、個々の作家の異なる構成へ展開していきます。特定の都市を代表する一つの共同宣言が最初に存在したわけではありません。後から展覧会によって関連づけられたことも、この地域の絵画を考える重要な点です。(参照:スミソニアン協会図書館|ワシントン・カラー・スクール、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|ポール・リード《コヒーレンス》)
1965年《ワシントン・カラー・ペインターズ》展
1965年、ワシントン近代美術ギャラリーでは、ジェラルド・ノードランドの企画による《ワシントン・カラー・ペインターズ》展が開かれました。参加したのはモリス・ルイス、ケネス・ノーランド、ジーン・デイヴィス、トマス・ダウニング、ハワード・メーリング、ポール・リードの6人です。ルイスはすでに亡くなっていましたが、作品は同じ地域における新しい絵画の重要な成果として紹介されました。
この展覧会は各作家の個別の活動を、外部の観客から見える一つの動向として示しました。「ワシントン・カラー・スクール」という名称も、こうした展覧会を経て広く定着していきます。スミソニアン協会の資料は、6人が最初から厳密な団体を形成していたわけではなく、必ずしも密接に共同活動していたわけでもなかったことを指摘しています。(参照:スミソニアン協会図書館|ワシントン・カラー・スクール、PBS|ワシントン・カラー・スクールの展覧会)
色面絵画は地方の独自性をどう示したのか
ワシントンの画家たちは、色を広く置く方法や反復する形を用いて、都市の美術的な独自性を作りました。ニューヨークの抽象表現主義が国際的な成功を収めていた時代に、その成果を学びながら別の見え方を追求できることを示したのです。地方的な画派の名前が付けられても、個々の作家の仕事は作品の大きさも材料も異なります。
この地域性を強調することで、戦後アメリカ絵画の歴史をニューヨークだけの物語から広げて見ることができます。美術館、商業画廊、大学、美術学校、批評家の交流は各地にありました。ワシントンで育まれた色面絵画は、地域に根差した制作が国内の大規模展や国外の展覧会へつながる仕組みも示しています。(参照:スミソニアン協会図書館|ワシントン・カラー・スクール、ペース・ギャラリー|ケネス・ノーランドの展覧会記録)
デイヴィス、ダウニング、リードの異なる色彩
ワシントン・カラー・スクールと呼ばれる画家たちの作品を比べると、共通点と同じくらい方法の違いが見えてきます。
ジーン・デイヴィスの縦縞は何を見せるか
ジーン・デイヴィスは細い縦帯を何本も並べる絵画で知られています。色の帯が途切れず画面を覆う作品では、一色を単独で見るよりも、隣の色との関係が強く意識されます。ある赤は紫の隣で暗く感じられ、黄色の隣では別の強さを持ちます。縦帯が続くことで、鑑賞者は特定の中心像を探すより、画面の左右へ視線を移して色を比較します。
同じ幅の帯を繰り返す方法には、規則的で機械的な印象があります。ところが色の順序は、簡単な計算式では予想できない視覚的な効果を生みます。帯の反復は単調な飾りを作るためというより、色同士の相互作用を長い画面にわたって体験させる方法でした。鑑賞者の視線が移動すると、同じ絵でも異なる部分が印象に残ります。(参照:スミソニアン協会図書館|ワシントン・カラー・スクール、PBS|ワシントン・カラー・スクールの展覧会)
トマス・ダウニングと色の円の配置
トマス・ダウニングは、円形の色を幾何学的な配置で組み合わせる絵画を制作しました。円が規則的に並ぶ画面では、一つの大きな主題を表すより、同じ種類の形の間で色彩や距離の違いを感じさせます。図形が単純だからこそ、隣の円との間隔や彩色されていない背景の広さが作品の印象を左右します。
ノーランドの同心円はひとつの中心へ視線を引き寄せますが、ダウニングの円の配置では目が画面の各所へ移動することがあります。両者は円という形を用いながら、鑑賞者の視線を異なる方向へ働かせています。「ワシントン・カラー・スクール」という呼び名のもとにも、こうした構成方法の違いが含まれていました。(参照:スミソニアン協会図書館|ワシントン・カラー・スクール、PBS|ワシントン・カラー・スクールの展覧会)
ポール・リード《コヒーレンス》に見る帯の交差
ポール・リードは色を薄く浸透させた幾何学的な絵画へ進みました。ナショナル・ギャラリー・オブ・アート所蔵の《コヒーレンス》では、水平の帯と垂直の帯が交差し、色の重なりが別の色を生む部分があります。輪郭が整理されていても、画面は単なる平坦な図案にはならず、色が互いに関わることを具体的に示します。
リードは1959年頃から、マグナや水性アクリルを用いて下地のないキャンバスへ色を浸透させる方法を探究しました。色を布の中に定着させる発想を引き継ぎながら、画面の組み立て方には独自の幾何学を選んだのです。ルイスの液体の流れと比べると、同じ材料への関心が異なる視覚効果へつながることがよくわかります。(参照:ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|ポール・リード《コヒーレンス》、スミソニアン協会図書館|ワシントン・カラー・スクール)
1964年、グリーンバーグが新しい抽象を名づける
この時期の多様な絵画を、美術史的な潮流として強く結びつけたのが1964年の展覧会でした。
《ポスト・ペインタリー・アブストラクション》展の開催
1964年4月23日から6月7日まで、ロサンゼルス郡立美術館で《ポスト・ペインタリー・アブストラクション》展が開催されました。企画を担ったのは美術批評家クレメント・グリーンバーグです。展覧会はミネアポリスのウォーカー・アート・センターとトロントの美術館へ巡回しました。カタログにはグリーンバーグによる文章が収録され、抽象絵画の新たな展開を説明する枠組みとなりました。
この名称を日本語で直訳すると「絵画的な抽象のあとに来る抽象」といった意味になります。英語のpainterlyには、筆触や絵の具の物質感、描き重ねた表面を感じさせるという含みがあります。展覧会名は、そうした特徴の強い抽象表現主義から、より明晰で開放的な画面へ向かう変化を指し示すために用いられました。(参照:スミソニアン協会|1964年《ポスト・ペインタリー・アブストラクション》展記録、ホイットニー美術館図書館|1964年展カタログ記録)
グリーンバーグが見た「開放性」と「明晰さ」
グリーンバーグは1940年代から抽象表現主義を高く評価し、アメリカ絵画を論じる重要な批評家でした。1964年には新しい抽象の画面で、密度の高い筆触や濁った色の重なりが弱まり、色の境界や構成がより明確になっている点に注目しました。薄い色面、広く残された地、簡潔な図形が持つ視覚的な力を、新しい絵画の動向として示そうとしたのです。
この考え方は当時の作品を比較する有効な道具になりました。その反面、色面の広がりを中心に据えることによって、同じ時期に起きていた身振りの強い絵画や社会的な主題を持つ表現が相対的に目立たなくなることもあります。グリーンバーグの展覧会は、1960年代の画家たちが共有した唯一の宣言ではなく、批評家が作品を選び、新しい歴史像を提示した出来事でもありました。(参照:スミソニアン協会|1964年《ポスト・ペインタリー・アブストラクション》展記録、グッゲンハイム美術館|ローレンス・アロウェイと《Systemic Painting》)
ロサンゼルスから北米へ巡回した展覧会
この展覧会の興味深い点は、ニューヨークから離れたロサンゼルスで開幕し、ミネアポリスとトロントへ巡回したことです。新しい抽象絵画の見方は、一つの都市の内部で確立したわけではありません。美術館同士が作品を貸し借りし、カタログによって批評の言葉を共有することで、複数の都市の観客に広まっていきました。
同じ作品群が別の都市の会場へ移ると、展示の順序や観客の経験が変わります。図録は共通の読み方を与えますが、作品をその場で見ると、大きさや色の違いがより強く意識されます。展覧会は美術の新しい動向を発見したと同時に、それを各地の美術界へ伝える制度として働いていました。この意味で1964年は批評と展覧会が絵画史へ深く関わった年でした。(参照:スミソニアン協会|1964年《ポスト・ペインタリー・アブストラクション》展記録、ホイットニー美術館図書館|1964年展カタログ記録)
「色面絵画」と「ポスト・ペインタリー」の違い
よく似た場面で使われる二つの用語は、指し示す範囲や成立した経緯を区別すると理解しやすくなります。
色面絵画は作品のどこを見る言葉なのか
「色面絵画」は、広い色彩の領域によって画面を組み立てる抽象絵画を説明する言葉です。ロスコやニューマンの作品のように先行する例にも用いられ、ルイスやノーランドの新しい技法にもつながります。色の領域が大きく広がること、色同士の関係が画面の主要な働きになることが特徴として語られます。
この名称に含まれる作品の制作方法は一様ではありません。ロスコの層を重ねた絵画と、ルイスの浸透した薄い色面では、顔料の扱いも画面の感じ方も異なります。色面という言葉は共通の見え方を理解する助けになりますが、作者が何を試みたかを調べるためには、それぞれの材料や制作手順も具体的に見る必要があります。(参照:ニューヨーク近代美術館|ルイス《ベータ・ラムダ》、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|ヘレン・フランケンサーラー)
ポスト・ペインタリーは1964年の批評的な命名
「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」は、1964年にグリーンバーグが企画した展覧会の名称として特別な意味を持ちます。アメリカとカナダの多様な抽象画家を集め、抽象表現主義の強い筆触に続く新しい傾向を示すための枠組みでした。色面絵画との重なりは大きく、輪郭のはっきりした幾何学的抽象なども含めて語られます。
用語の違いを理解すると、画家たちが同じ集団へ所属し、全員が一つの制作方法に従ったと考える必要がなくなります。フランケンサーラー、ルイス、ノーランド、ステラ、ケリーの作品を並べれば、色の扱いにも画面の組み立てにも明確な違いがあります。共通性を示す展覧会の力と、作品ごとの固有性を同時に見ていくことが大切です。(参照:スミソニアン協会|1964年《ポスト・ペインタリー・アブストラクション》展記録、ホイットニー美術館図書館|1964年展カタログ記録)
輪郭の明確な抽象は、なぜ同じ時代に現れたのか
同じ1960年代には、輪郭を明確に区切った色面や幾何学的な形による絵画も広まりました。これはしばしば「ハードエッジ」と呼ばれます。ぼかされた境界が生む奥行きとは異なり、色と色の輪郭がはっきりすると、画面の形や比率が直接目に入ります。絵画の端まで意識させる構成は、鑑賞者に一つの物体を見ている感覚を与えることもあります。
ルイスの柔らかい色の流れと、ケリーの強い輪郭を持つ色面は、見た目だけならかなり異なります。どちらも色、線、形、支持体の関係を簡潔に見せようとする点で、同時代の新しい抽象として比較できました。ハードエッジと色面絵画の関係は一方向の発展ではなく、異なる問題意識が展示や批評の中で出会った歴史として捉えられます。(参照:メトロポリタン美術館|ケリー《青、緑、赤》、スミソニアン協会|1964年《ポスト・ペインタリー・アブストラクション》展記録)
フランク・ステラが示した、もう一つの方向
色を広く染み込ませる方法と並び、反復した形によって画面の仕組みを見せる絵画も注目されました。
1959年《16人のアメリカ人》展の黒い絵画
1959年12月、ニューヨーク近代美術館で開かれた《16人のアメリカ人》展には、当時23歳だったフランク・ステラの黒い絵画4点が出品されました。大きな画面には黒い帯と細い未彩色の線が規則的に並び、絵筆による自由な形の変化よりも、一貫した構成が目立ちます。同じ展覧会にはラウシェンバーグやジョーンズの作品も紹介され、1960年代のアメリカ美術に広がる複数の方向が示されました。
ステラの黒い絵画を初めて見る観客には、あまりに単純な作品と映ったかもしれません。けれども、どの線も描くべき主題の輪郭ではなく、キャンバスの形と筆の幅から導かれています。絵画を構成する基本的な条件を、画面の中へはっきり現す方法が選ばれたのです。(参照:ニューヨーク近代美術館|1959年《16人のアメリカ人》展、ニューヨーク近代美術館|ステラ《理性と不潔の結婚 II》)
《理性と不潔の結婚 II》に見る構造
ステラの《理性と不潔の結婚 II》(1959年)は、市販の黒いエナメル塗料を用いた大きな作品です。平行する黒い帯の幅は使用した塗装用ブラシの幅に対応し、黒い帯の間に見える細い線は塗り残されたキャンバスです。絵の具によって奥行きある形を描くのではなく、画面の作り方がそのまま視覚的な構造になっています。
作品には手作業によるわずかな差も残されています。完全に工場で作られた印刷物のように均質なのではありません。規則を決めて作業することと、実際に筆を動かすことが同じ画面の中で結びついています。抽象表現主義の激しい身振りから、画面の内部で繰り返される規則へ重点が移ったことを考える手がかりになります。(参照:ニューヨーク近代美術館|ステラ《理性と不潔の結婚 II》)
形を決めてから描くという転換
ステラは1960年代に入り、キャンバスの外形そのものを変える作品も発展させます。通常の長方形の内部で構図を作るかわりに、画面の輪郭と内部の帯を連動させると、絵画は壁に掛けられた平らな物体として強く意識されます。絵画の境界が作品の外側にある中立的な枠ではなく、色や線と同じように形づくる対象になったのです。
ステラの詳しい制作史は作家個別の記事で扱います。ここで重要なのは、1960年代の抽象絵画が、色の広がりだけでなく、画面の形を事前に決める方法へも発展したことです。この方向は後のミニマリズムを考える際に重要になりますが、画面の中にどんな視覚的な強さが生まれるかという絵画固有の問題も含まれています。(参照:ニューヨーク近代美術館|ステラ《理性と不潔の結婚 II》、グッゲンハイム美術館|1966年《Systemic Painting》の展示記録)
ケリーとオリツキーが示した別の抽象
同じ時代に語られた画家たちには、風景の観察や吹き付け塗装から独自の構成へ進んだ人々もいました。
エルズワース・ケリーの形はどこから来たのか
エルズワース・ケリーは1948年から1954年までパリで活動し、街で見た形や建築にできる影、窓の輪郭、自然の一部などをもとに抽象作品を発展させました。彼の色面や輪郭は、目に入った現実の形を抜き出す観察から生まれることがありました。メトロポリタン美術館所蔵の1953年の習作にも、明確な色の領域を組み合わせる制作過程が記録されています。
こうした背景を考えると、ケリーの色面は他の画家の仕事と同じ理論から出発したわけではないことがわかります。彼は目の前の世界の一部を選び取り、それを色と形の関係へ置き換えました。結果として輪郭の明確な幾何学的抽象に見える作品も、制作の動機には風景や都市を観察する具体的な経験が含まれていました。(参照:メトロポリタン美術館|ケリー《青、緑、赤》、メトロポリタン美術館|ケリー《三色パネルのための習作》)
1963年《青、緑、赤》が示す色の境界
ケリーの《青、緑、赤》(1963年)は、強い色面と明確な輪郭によって成立する大きな絵画です。メトロポリタン美術館によれば、この色の組み合わせを用いた大型連作の初期作品であり、1958年の《仮面》や、身近なものに生じる影の観察ともつながります。曲線や平坦な面が隣り合うことで、色同士の境界そのものが視覚的な緊張を生みます。
画面には色のぼかしや複雑な重ね塗りを使わず、形と色の関係が直接提示されます。赤、青、緑はそれぞれ強い色ですが、隣に何が置かれるかによって感じ方が変わります。形が分かりやすいほど、色の面積や境界のわずかな違いが目に入るのです。ケリーの作品は、色面絵画とハードエッジの接点を理解するうえで重要です。(参照:メトロポリタン美術館|ケリー《青、緑、赤》)
ジュールズ・オリツキーと色の霧のような表面
ジュールズ・オリツキーは1960年代半ばから、絵の具を吹き付ける方法で大きな色面を制作しました。鮮やかな色彩が細かな粒として広がり、画面の一部では濃く、別の部分では薄くなることがあります。こうした表面は、ルイスの液体が流れる帯やケリーの明確な輪郭とは異なり、空気中に色の層が漂うような経験を生みます。
色を面として扱うという共通点があっても、その表面を作る方法によって画面の印象は大きく変化します。オリツキーは1965年の《Three American Painters》展でノーランド、ステラとともに紹介されました。3人の作品を比較すると、「新しい抽象」という言葉の中に、材料の実験と幾何学的な構成という異なる考え方が含まれていたことがわかります。(参照:ジュールズ・オリツキー財団|展覧会記録、スミソニアン協会|1965年《Three American Painters》展)
1965年、批評が三人の画家を結びつける
1964年のグリーンバーグに続き、翌年には若い批評家マイケル・フリードが新しい絵画を論じました。
《Three American Painters》展が取り上げた作家
1965年、ハーバード大学のフォッグ美術館で《Three American Painters》展が開催されました。取り上げられたのはケネス・ノーランド、ジュールズ・オリツキー、フランク・ステラの三人です。批評家マイケル・フリードが図録の文章を執筆し、その後展覧会はカリフォルニアのパサデナ美術館にも巡回しました。北米の美術館が新しい抽象絵画を比較し、議論する場として機能していたことを示す出来事です。
この三人を一緒に見ると、同じ抽象絵画であっても制作の方法がかなり異なります。ノーランドの色の帯、オリツキーの広がる色彩、ステラの規則的な形は、共通する問題をそれぞれ別の方法で探っていました。批評家による選択は、観客に彼らを比較する視点を与えたと同時に、特定の作家の重要性を強く印象づけることになりました。(参照:スミソニアン協会|1965年《Three American Painters》展、国立情報学研究所|1965年《Three American Painters》展図録)
グリーンバーグとフリードの関心
グリーンバーグもフリードも、絵画という媒体が持つ特性や、作品の内部で何が起きているかを重視する批評家でした。グリーンバーグは1964年の展覧会で広い画家たちの動向を名づけ、フリードは1965年の特定の三人の作品を通して、同時代の絵画のあり方を論じました。批評の言葉は作品と同じ速度で広まり、画家の評価にも関わっていきます。
美術批評は、優れた作品を説明するだけでなく、何を新しさの基準とするかを社会へ示す力を持ちます。新しい抽象絵画が高い評価を得た背景には、作品自体の革新に加えて、美術館の企画や批評家の影響がありました。1960年代の美術史を読むとき、作品の制作時期と、その意味が広く共有された時期を区別することが大切です。(参照:スミソニアン協会|1964年《ポスト・ペインタリー・アブストラクション》展記録、スミソニアン協会|1965年《Three American Painters》展)
一つの評価軸が持つ力と限界
絵画の平面性や色と形の自律性を重視する批評は、1950年代末からの多様な抽象作品を比較する手掛かりになりました。何が描かれているかという主題から離れて、画面の中で色がどのように置かれ、どのように見えるかを考えることができるからです。
同じ1960年代にはポップアート、ネオダダ、ハプニング、ミニマリズムなど、別の問題を持つ表現も活発でした。批評の一つの基準だけで美術全体を説明することはできません。抽象絵画における成果の大きさを理解しながら、同じ時代に並行して起きていた変化へも目を向けると、当時の美術の豊かさがよくわかります。(参照:ニューヨーク近代美術館|1959年《16人のアメリカ人》展、グッゲンハイム美術館|ローレンス・アロウェイと《Systemic Painting》)
1966年《Systemic Painting》が示した新しい整理
1960年代半ばには、色面や輪郭の明確な絵画を別の言葉から捉える試みも登場しました。
ローレンス・アロウェイが企画した展覧会
1966年、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で、批評家・キュレーターのローレンス・アロウェイが《Systemic Painting》展を開催しました。ここで扱われたのは、色面絵画やハードエッジ、幾何学的な構成を含む新しい抽象絵画でした。展覧会にはステラ、ケリー、ノーランドに加え、アグネス・マーティン、ロバート・ライマン、ロバート・マンゴールドらも含まれていました。
この構成は1964年のグリーンバーグによる分類と重なりながら、別の視点を提示します。絵画のなかで反復される形、あらかじめ定められた制作上の規則、明確な配置などに目を向けたのです。絵画の表面を色で広く覆う作品も、幾何学的な形を繰り返す作品も、作るための仕組みを持っているという共通点から考えられました。(参照:グッゲンハイム美術館|1966年《Systemic Painting》の展示記録、グッゲンハイム美術館|ローレンス・アロウェイと《Systemic Painting》)
制作の「システム」という考え方
アロウェイは展覧会の文章で、制作が完了する前から最終的な画面のあり方を見通せる方法に注目しました。作品はその場の勢いで決まる部分を減らし、反復、配置、数、幅など一定の条件に沿って作られます。たとえばステラの黒い帯の絵画では、筆の幅とキャンバスの輪郭が構成の規則として働きます。
ここでいう「システム」はコンピューターのプログラムに限定される概念ではありません。作家が画面を作るうえで採用した一貫した方法のことです。規則が決まっていても、色の選択や実際の制作には判断が残ります。どこまで作品が予測可能で、どこから実物ならではの差が現れるかという問題は、1960年代の抽象絵画を理解するもう一つの視点になりました。(参照:グッゲンハイム美術館|1966年《Systemic Painting》の展示記録、ニューヨーク近代美術館|ステラ《理性と不潔の結婚 II》)
色面絵画からミニマリズムへの接点
《Systemic Painting》展が取り上げた作家には、後にミニマリズムとの関係で論じられる人々もいます。大きな色面、簡潔な輪郭、同じ形の反復は、絵画の内部で完結する視覚効果を生むと同時に、壁にある物体の形や位置を強く意識させました。画面の外形が作品の印象を左右する場合、見る人は絵画と彫刻の関係にも目を向けるようになります。
その接点を理解するには、ミニマリズムという後の分類をすべての作品へ当てはめる必要はありません。色と線の関係に関心を持つ画家もいれば、支持体や物体性を強く意識する画家もいました。1966年の展覧会は、その違いを残しながら、1960年代の抽象絵画が複数の方向へ開かれていたことを示しました。(参照:グッゲンハイム美術館|1966年《Systemic Painting》の展示記録、グッゲンハイム美術館|ローレンス・アロウェイと《Systemic Painting》)
大画面の色を、鑑賞者はどう経験したのか
新しい抽象絵画の特徴は、写真では伝わりにくい大きさと実際の色の関係にもあります。
大きさが変わると色の見え方も変わる
数メートルに及ぶ色面絵画の前に立つと、同じ色でも小さな色見本を見るときとは異なる経験になります。視野の広い部分がひとつの色に占められ、離れて見ると画面全体の配置が現れ、近づくと布地や塗膜の細部が見えてきます。鑑賞者は距離を変えながら、色と形を身体の感覚として受け取ります。
ルイスの左右に広がる色帯やノーランドの大きな同心円は、図版で構成だけを知ることができます。実物では、帯の幅や中心への距離、画面の端の位置が身体に対してどのように現れるかが加わります。1960年代の色面絵画を理解するためには、何色が使われたかと同じ重みで、作品がどのくらいの大きさで設計されたかを確認したいところです。(参照:ニューヨーク近代美術館|ルイス《ベータ・ラムダ》、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|モリス・ルイス《ベータ・カッパ》)
縁と余白が生み出す視線の移動
輪郭が明確な絵画では、色と色の境目が目の動きを強く方向づけます。縦の帯が続けば左右へ視線が動き、同心円では中心と外側を行き来します。ルイスの作品のように中央が大きく空いていれば、その空白を横断するような鑑賞になります。図形が少なくなっても、見る人が行う比較や移動は単純になるとは限りません。
作品の縁も画面の構成を決めます。帯が縁に触れたときには画面の外へ続くような感覚が生まれ、余白を残して止まればひとつの領域として強く意識されます。こうした細部を考えると、「単純な絵」という第一印象から、非常に多くの選択が凝縮された構成として作品を見ることができます。(参照:ニューヨーク近代美術館|ルイス《ベータ・ラムダ》、メトロポリタン美術館|ケリー《青、緑、赤》)
色の直接的な経験と、見る人の身体
色面絵画はしばしば物語や人物を描かない抽象として紹介されます。実物を見ると、明るい色が近づいて感じられたり、暗い領域が奥へ退いて見えたりすることがあります。その効果は物体の立体感を写実的に描くこととは異なり、色同士の関係と鑑賞者の知覚によって成立します。
画面の中の線や色を読み解くには、絵画の前に立つ自分の位置も関係します。部屋の照明、作品を見る距離、視線の移動によって色の感じ方は変わります。1960年代の画家たちが絵画を簡潔にしようとしたとき、鑑賞の経験まで単純にしたわけではありません。色そのものが生み出す複雑な感覚を前面に出そうとしていたのです。(参照:メトロポリタン美術館|ケリー《青、緑、赤》、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|モリス・ルイス展)
アメリカの美術館が新しい抽象を広めた
美術館による展示と図録の出版は、色面絵画の評価と美術史の形成に大きく関わりました。
1959年、MoMAが示した多様な次世代
ニューヨーク近代美術館の《16人のアメリカ人》展は、1959年から1960年にかけて開かれました。ラウシェンバーグのコンバイン、ジャスパー・ジョーンズの旗や標的、ステラの黒い絵画など、同じ若い世代の異なる表現が会場に並びました。抽象表現主義の次に何が来るかが一つに決まっていた時代ではなく、美術の方向が複数に分かれつつあったことを示す展覧会です。
こうした展示は、新しい作品を社会へ届ける役割と、その歴史的な意味を作る役割を同時に持ちます。観客が別々の作家を同じ会場で見ることによって、違いに気づき、共通する問題を考えることができます。美術館の展示は制作の結果を単に記録する場にとどまらず、同時代の美術を比較して理解するための装置でした。(参照:ニューヨーク近代美術館|1959年《16人のアメリカ人》展、ニューヨーク近代美術館|ステラ《理性と不潔の結婚 II》)
1964年と1965年の展覧会が評価を強める
1964年の《ポスト・ペインタリー・アブストラクション》展と、1965年の《Three American Painters》展は、画家たちの成果をより明確な批評の枠組みで紹介しました。作品を制作した年と、美術館がまとめて展示した年を比べると、新しい表現が評価されるまでには時間差があることがわかります。
作品が複数の都市を巡回すると、観客だけでなく批評家や美術館員にも新たな比較の機会が生まれます。展覧会の名称はその後の美術史の言葉となり、作家の個性を説明するためにも使われていきます。国際的な評価は、一つの作品の完成とともに突然生まれたのではなく、批評、展示、出版の連続によって広まりました。(参照:スミソニアン協会|1964年《ポスト・ペインタリー・アブストラクション》展記録、スミソニアン協会|1965年《Three American Painters》展)
1966年、別のキュレーターが絵画を見直す
グッゲンハイム美術館の《Systemic Painting》展は、同じ作家たちの一部を含みながら、絵画の構成方法という新しい視点で取り上げました。グリーンバーグの1964年展が筆触の強い絵画からの変化を名づけたとすれば、アロウェイは画面を成立させる規則や反復に注目しました。こうした異なる見方が併存することで、ひとつの作家の作品が別の美術史的な意味を持つようになります。
絵画の評価を知るとき、どの展覧会で何という呼び名が付けられたのかを確認することは重要です。作品の形そのものだけでなく、それを説明する言葉の歴史が存在します。1960年代の抽象絵画は、色と形の実験であると同時に、美術史の整理方法をめぐる議論の中心にもなっていました。(参照:グッゲンハイム美術館|1966年《Systemic Painting》の展示記録、グッゲンハイム美術館|ローレンス・アロウェイと《Systemic Painting》)
1968年、色面絵画はキャンバスの外へ広がる
1960年代末には、色を布へ浸透させる方法が、絵画の外形そのものを変える表現へつながっていきます。
サム・ギリアムが選んだ支持体の自由
ワシントンで活動したサム・ギリアムは、色を浸透させた大きな布を使う実験を発展させました。1968年には、木枠に張らないキャンバスを壁や天井から吊るし、垂らす作品へ進みます。布が重力によって折れ曲がり、たわみ、その形が展示場所に応じて変化するため、絵画の平らな画面が立体的な空間へ広がります。
ギリアム本人は後年の聞き取りで、こうした作品を1968年後半から作り始めたと語っています。支持体を木枠へ固定しない選択は、色を布へ浸透させてきた技法の延長にありました。色を保持する布そのものが自由に形を変えることで、作品の姿は展示のたびに変わり得ます。これは色面絵画からインスタレーションや彫刻の境界へ進む重要な接点となりました。(参照:スミソニアン協会アメリカ美術公文書館|ギリアム本人の聞き取り、スミソニアン協会|サム・ギリアムの記録)
アフリカ系アメリカ人画家としての抽象への選択
ギリアムは1962年にワシントンへ移り、同地の画家たちと交流しました。1960年代のアメリカでは公民権運動が大きな社会的変化をもたらし、芸術家にも政治や人種差別への姿勢が問われました。ギリアムは抽象表現を自分の制作の重要な方法として選び続け、何を表現すべきかという周囲からの期待とも向き合いました。
彼の作品を色面絵画の技法だけで理解すると、そうした時代の経験が見えにくくなります。ナショナル・ギャラリー・オブ・アートは、ギリアムが抽象に取り組むことについて当時批判も受けながら、自分の表現を発展させたことを紹介しています。抽象絵画の歴史にも、社会的な立場や作家ごとの選択が深く関わっていることを示す重要な例です。(参照:ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|サム・ギリアム、スミソニアン・アメリカ美術館|サム・ギリアムの制作)
抽象絵画から空間作品へつながる問い
木枠に張られた絵画では、画面の輪郭が一定に保たれています。ギリアムの垂らしたキャンバスでは、布の縁や色の向きが展示のたびに変わります。鑑賞者は作品の前に立つだけでなく、布のそばを歩き、折り目や陰影の変化を見ます。絵画を色の広がりとして捉えてきた制作が、作品の支持体そのものの自由へ発展したのです。
こうした変化は、色面絵画の歴史が1968年に終わったことを意味しません。新しい制作方法はその後も発展し、画家たちは異なる方向へ進みました。1960年代末には、色を扱う方法を引き継いだまま、絵画と彫刻、壁と空間の関係を問い直す表現も生まれていたことが重要です。(参照:スミソニアン協会アメリカ美術公文書館|ギリアム本人の聞き取り、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|サム・ギリアム)
この十年間は美術史に何を残したのか
1958〜1968年の抽象絵画は、色と形を簡潔にすることで、表現の新しい複雑さを生み出しました。
色を主題にすることの豊かさ
画家が色の関係そのものを制作の中心に据えると、風景や人物を描かなくても作品を成立させることができます。ルイスの色が流れる画面、ノーランドの同心円、デイヴィスの縦縞、ケリーの明確な輪郭は、それぞれ異なる仕組みによって色を経験させます。色の面積、隣接、重なり、明るさ、余白の広さが、作品の印象を決める主要な要素になります。
こうした絵画は一見すると単純に見えることがあります。その印象を出発点に、どの色を使い、どの場所を塗り、どの部分を空けたのかを観察すると、作家の選択が見えてきます。抽象絵画は何かを描く技術の競争から、色と形の条件をどう設計するかという問いを強く打ち出していきました。(参照:ニューヨーク近代美術館|ルイス《ベータ・ラムダ》、メトロポリタン美術館|ケリー《青、緑、赤》)
グリーンバーグの批評をどう位置づけるか
1964年のグリーンバーグの展覧会は、新しい抽象絵画をひとつのまとまりとして紹介した重要な出来事でした。その名称が現在も使われることから、批評の言葉が美術史の見方へ長く影響を与えることがわかります。1965年のフリード、1966年のアロウェイも、同じ時代の絵画を異なる角度から説明しました。
後世の観客はこうした批評を手掛かりに作品を比較できます。同時に、批評で高く評価された表現をその時代の唯一の成果と考える必要もありません。ネオダダ、ポップアート、ミニマリズム、社会的な問題へ取り組む美術は並行して発展していました。絵画の変化を理解することは、その豊かな同時代の美術をより立体的に見ることにもつながります。(参照:スミソニアン協会|1964年《ポスト・ペインタリー・アブストラクション》展記録、グッゲンハイム美術館|1966年《Systemic Painting》の展示記録)
次の時代へ残された絵画の問題
1950年代末から1960年代末にかけて、アメリカの抽象絵画では、絵の具を流すこと、色を広げること、形を繰り返すこと、支持体を変えることなど、多様な方法が探られました。その成果によって、絵画とは何を描くものかという問いに加え、色と布、線と余白、壁と鑑賞者との関係をどう構成するかが強く意識されるようになりました。
1960年代の後半には、ミニマリズム、ポスト・ミニマリズム、プロセス・アートなど、素材や空間の扱いをさらに考え直す動きが広がります。色面絵画は、先行する抽象表現主義から受け継いだ問題を独自に深め、別の芸術への接点も生みました。抽象絵画の歴史はそこで閉じず、その後の作家たちの制作によって現在まで更新されています。(参照:グッゲンハイム美術館|1966年《Systemic Painting》の展示記録、スミソニアン協会アメリカ美術公文書館|ギリアム本人の聞き取り)
1952年から1968年までの主要年表
- 1940年代末〜1950年代:ロスコやニューマンらが広い色の領域を用いる抽象絵画を発展させる
- 1952年:フランケンサーラーが《山と海》を制作する
- 1953年:ルイスとノーランドがフランケンサーラーのアトリエを訪れる
- 1954年以降:ルイスが色を流し重ねる《ヴェール》などの制作を進める
- 1958年頃:ノーランドのターゲット絵画、ステラの黒い絵画が新たな方向を示す
- 1959年12月:ニューヨーク近代美術館で《16人のアメリカ人》展が開幕する
- 1960〜1961年:ルイスが大きな余白を持つ《アンファールド》連作を制作する
- 1962年:モリス・ルイスが死去する
- 1963年:ケリーが《青、緑、赤》を制作する
- 1964年4月23日:ロサンゼルス郡立美術館で《ポスト・ペインタリー・アブストラクション》展が開幕する
- 1965年:ワシントンで《ワシントン・カラー・ペインターズ》展が開催される
- 1965年:ハーバード大学フォッグ美術館で《Three American Painters》展が開催される
- 1966年:グッゲンハイム美術館で《Systemic Painting》展が開催される
- 1968年:サム・ギリアムが木枠を持たない垂らすキャンバス作品を始める
まとめ — 色そのものが絵画の中心になる
1950年代末から1960年代にかけて、アメリカの抽象絵画は多様な方向へ変化しました。薄い絵の具を布へ浸透させる方法、同心円や帯を反復する方法、明確な輪郭で色面を構成する方法、画面の形を規則から導く方法が、それぞれ別の作家によって探究されました。ポロックやロスコ、ニューマンらの成果は、こうした変化の重要な出発点となっています。
1964年のグリーンバーグの展覧会は、これらを「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」という言葉で結びつけました。1965年のワシントン・カラー・ペインターズ展や《Three American Painters》展、1966年の《Systemic Painting》展は、地域性や画面の規則という別の側面を明らかにしました。美術館での展示と批評は、新しい絵画を広めるとともに、後世の美術史の枠組みを作る働きも持っていました。
この十年間に現れた表現は、色彩を単純化するほど色と支持体、輪郭と余白、画面と鑑賞者の関係が豊かに見えてくることを示しています。1968年のギリアムの実験は、色を受け止める布そのものを空間へ解き放つ可能性を開きました。抽象絵画は一つの完成した様式へ到達したのではなく、後のミニマリズムや空間的な作品とも関係しながら、その可能性を広げていったのです。(参照:スミソニアン協会|1964年《ポスト・ペインタリー・アブストラクション》展記録、グッゲンハイム美術館|1966年《Systemic Painting》の展示記録、スミソニアン協会アメリカ美術公文書館|ギリアム本人の聞き取り)
参考資料・出典
記事では美術館の公式作品解説と展覧会記録、画家の聞き取り、1964〜1966年の展覧会図録の書誌情報を中心に参照しました。制作時期が1958年以前の作品は、新しい絵画へ至る前史として紹介しています。
- ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|ヘレン・フランケンサーラー
- ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|《山と海》の制作技法
- ニューヨーク近代美術館|ヘレン・フランケンサーラー
- ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|モリス・ルイス展
- ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|モリス・ルイス《ベータ・カッパ》
- ニューヨーク近代美術館|ルイス《ベータ・ラムダ》
- ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|ポール・リード《コヒーレンス》
- スミソニアン協会図書館|ワシントン・カラー・スクール
- PBS|ワシントン・カラー・スクールの展覧会
- ペース・ギャラリー|ケネス・ノーランドの展覧会記録
- スミソニアン協会|1964年《ポスト・ペインタリー・アブストラクション》展記録
- ホイットニー美術館図書館|1964年展カタログ記録
- グッゲンハイム美術館|ローレンス・アロウェイと《Systemic Painting》
- グッゲンハイム美術館|1966年《Systemic Painting》の展示記録
- スミソニアン協会|1965年《Three American Painters》展
- 国立情報学研究所|1965年《Three American Painters》展図録
- ニューヨーク近代美術館|ステラ《理性と不潔の結婚 II》
- ニューヨーク近代美術館|1959年《16人のアメリカ人》展
- メトロポリタン美術館|ケリー《青、緑、赤》
- メトロポリタン美術館|ケリー《三色パネルのための習作》
- スミソニアン協会|サム・ギリアムの記録
- ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|サム・ギリアム
- スミソニアン協会アメリカ美術公文書館|ギリアム本人の聞き取り
- ナショナル・ギャラリー・オブ・アート|ギリアム《Relative》(1968年)
- スミソニアン・アメリカ美術館|サム・ギリアムの制作
- ジュールズ・オリツキー財団|展覧会記録
資料確認日:2026年10月14日 / ART LIBRARY