401–500
5世紀のローマ帝国と地中海世界
古代末期の聖堂、モザイクと工芸
古代末期にあたる5世紀の地中海世界では、ローマ帝国の皇帝が東のコンスタンティノープルと西の宮廷都市で統治を続けるなか、各地の司教、軍司令官、地主、商人が都市の生活を支えていました。イタリアの港から東地中海へは穀物や石材が運ばれ、北アフリカの都市には競馬場と浴場が残り、ブリテンではローマ支配が弱まる時期にも金銀の食器が家庭で使われていました。410年のローマ略奪や476年の西方皇帝の廃位は大きな政治的事件でしたが、街路、建築、工芸の変化は地域ごとに異なる時間をかけて進みました。
キリスト教の司教座聖堂や洗礼堂が都市の景観に存在感を増し、礼拝する人々が集まる広い身廊、祭壇へ視線を導くモザイク、洗礼槽を囲む八角形の空間が作られました。壁面にはガラスと金箔を用いた小さなモザイク片が敷き詰められ、入口から差し込む光によって色が変わって見えます。古典的な人物彫刻の技術は象牙板や銀器にも残り、皇帝の肖像や都市を人に見立てた像はキリスト教の図像と並んで用いられました。
ローマ、ラヴェンナ、コンスタンティノープルの大建築だけが5世紀の造形を伝えているわけではありません。羊皮紙の写本には画家への制作指示が残り、北アフリカの住宅の床には競馬選手が描かれ、フランク王の墓からは金とガーネットを組み合わせた装飾品が見つかっています。残された建物の創建・改築・修復の年代と、持ち運ばれた物の制作・使用・埋納の年代を区別することで、この時代の作品が実際にどのような場所で見られ、使われていたのかが具体的になります。
CONTENTS
- 5世紀の帝国と都市|西方宮廷、司教、地域社会
- ローマの後陣モザイクと大聖堂
- サンタ・サビーナとローマの建築空間
- ラヴェンナ|ガッラ・プラキディア廟の建築とモザイク
- ラヴェンナの洗礼堂|八角形の建築と儀礼
- コンスタンティノープル|城壁、聖堂、宮廷文化
- 東方地中海|テッサロニキとシリアの巡礼聖域
- 執政官象牙二連板と宮廷の銀器
- 象牙の小箱|キリストの受難を刻む小さな画面
- 5世紀の写本|聖書と古典文学の挿絵
- 北アフリカの住宅モザイク|競馬と都市の生活
- ブリテンのホクスン財宝|埋納された金銀と食卓の道具
- ガリアのキルデリク1世墓|金工と王権の表象
- 略年表|401〜500年の主な出来事
- まとめ|5世紀の建築、画像、工芸
- 参考資料・出典
5世紀の帝国と都市|西方宮廷、司教、地域社会
東西の皇帝とラヴェンナの宮廷
395年にテオドシウス1世が死去すると、アルカディウスが東方、ホノリウスが西方を統治しました。両者は同じローマ帝国の皇帝であり、行政機構や貨幣制度にも共通の仕組みが残りました。西方宮廷はミラノを拠点としていましたが、5世紀初めには海港クラッセに近いラヴェンナへ移ります。海と湿地に囲まれた都市は防衛と補給に適し、皇族の建築や司教の施設が集まる場所になりました。
410年にはアラリック率いる西ゴート軍がローマを略奪し、5世紀半ばにはヴァンダル勢力が北アフリカのカルタゴを支配しました。宮廷が移動してもローマの元老院議員や司教による建築の寄進は続きます。ローマの大聖堂とラヴェンナの洗礼堂がともに5世紀に建てられた背景には、皇帝だけでなく都市ごとの資金と権威がありました。(参照:ユネスコ|ラヴェンナの初期キリスト教建築群/ユネスコ|イスタンブール歴史地区)
476年の政変と493年以後のイタリア
476年、軍事指導者オドアケルは西方皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位しました。コンスタンティノープルの東方皇帝は統治を続け、イタリアではオドアケルの政権に続いて493年からテオドリックが支配を始めます。都市の司教や職人、石材を供給する仕組みがこの年に一斉に消えたわけではなく、教会の増改築と工芸品の生産は継続しました。
5世紀末のラヴェンナでは、テオドリックの宮廷に関わるキリスト教建築も作られ始めます。宗派が異なる共同体は、それぞれの洗礼堂や礼拝場所を持っていました。近隣に残るネオニアーノ洗礼堂とアリウス派洗礼堂は、同じ都市の中で異なる集団が似た形式の儀礼空間を使用していたことを示す建築遺構です。(参照:ラヴェンナ市|アリウス派洗礼堂/ユネスコ|ラヴェンナの初期キリスト教建築群)
ローマの後陣モザイクと大聖堂
サンタ・プデンツィアーナ|4世紀末からの造形を受け継ぐ
サンタ・プデンツィアーナ聖堂の後陣には、玉座に座るキリストと使徒たち、背後に立ち上がる建築群を描いたモザイクが残ります。キリストは都市の支配者を思わせる衣をまとい、開いた書物を手にしています。使徒たちは互いに体を向け、奥行きのある空間に座る人物として表されています。空には大きな十字架と四福音書記者を象徴する生き物が配されました。
この後陣モザイクは4世紀末を中心に年代づけられ、5世紀のローマの聖堂装飾につながる前段階に位置します。現在見える画面は創建時のまま完全に残ったものではなく、近世の建築改修で左右の部分が失われ、近代にも修復されています。キリストの脇に立つ二人の女性像については、プデンツィアーナとプラクセデスという聖女、または異なる共同体から成る教会の擬人像など、複数の読み方があります。(参照:ローマ市|サンタ・プデンツィアーナ聖堂/サセックス大学|サンタ・プデンツィアーナのモザイク調査記録)
サンタ・マリア・マッジョーレ|身廊に並ぶ旧約聖書の物語
教皇シクストゥス3世の在位期、432〜440年に整備されたサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂には、5世紀の身廊モザイクがまとまって残されています。高い身廊の上部に物語を描いた画面が連続し、列柱によって両側の側廊と区切られた大空間を歩く人は、祭壇に近づきながら多くの場面を見上げることになります。画面ごとの人物の配置、建物、山や川の描写にはローマの物語絵画の方法が用いられました。
身廊の一方ではアブラハムとヤコブの物語、反対側ではモーセとヨシュアに導かれる民の出来事が描かれます。人物が身をかがめる動き、行列や戦いのまとまり、近景と遠景を分ける色面が、離れた位置からでも場面を読み分ける助けになります。これらは祭壇周辺の装飾と同時に作られた5世紀の作品です。現在の後陣モザイクは13世紀の制作で、聖堂内には異なる時代の画像が共存しています。(参照:サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂|初期キリスト教モザイク)
勝利門のモザイク|キリストの幼年物語
身廊の終わりに位置する大きなアーチの壁面には、キリストの誕生に関わる出来事が階層をなして配されています。受胎告知、東方三博士、幼児イエスをめぐる場面が、宮廷の儀礼を思わせる人物群や建築を背景に展開します。物語の順序は今日一般的な降誕図の構成と必ずしも同じではなく、画面全体で神の子の出現を荘厳に表しています。
金地の輝きと濃い青、白、赤などの色面は、石材の大きな柱や壁に囲まれた聖堂内で遠くから見えるように配置されています。現在の大聖堂には中世以降の増築や装飾も多く、13世紀の後陣モザイクをシクストゥス3世時代の勝利門・身廊モザイクと一続きの制作として説明するのは正確ではありません。(参照:サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂|初期キリスト教モザイク)
サンタ・サビーナとローマの建築空間
サンタ・サビーナ|列柱、採光、木造屋根
アヴェンティーノの丘に建つサンタ・サビーナ聖堂は、教皇ケレスティヌス1世の時代に建設が進み、5世紀前半に奉献されました。内部は高い中央身廊と左右の側廊から成り、列柱の上に連続するアーチが長い視線を後陣へ導きます。広い高窓から光が差し込み、大理石の柱と床面、簡潔な壁面の比例関係を際立たせています。異なる時代から転用された石材も、この都市で建築材料が再利用されていたことを物語ります。
建物は16世紀後半に大きく改修され、20世紀初めには古い姿を回復しようとする修復が行われました。現在の内部が比較的初期キリスト教のバシリカに近い印象を与えるのは、5世紀の構造と近現代の修復が重なった結果です。入口側に残る木製扉は、壁面モザイクとは異なる小さな画面に聖書の出来事を彫り出しています。(参照:ローマ市|サンタ・サビーナ聖堂/Sheckler/Leith(2010年)|サンタ・サビーナ木製扉の十字架刑研究)
木製扉の十字架刑浮彫|初期のキリスト像
サンタ・サビーナの木製扉には旧約・新約聖書の場面を刻んだ浮彫板が残り、その一枚には中央のキリストと両脇の二人を十字架刑の姿で表した場面があります。人物の腕は広げられ、背後には壁や建物の輪郭が見えます。後世の祭壇画に広く見られる写実的な受難の表現とは形が異なり、人物の姿勢と配置で出来事を簡潔に伝えています。
アリソン・エヴァリンガム・シェックラーとメアリー・ジョーン・ウィン・リース(2010年)は、この扉の十字架刑図の造形的な先例を、キリスト教の既存図像だけでなく古代の表現と神学的な文脈から検討しました。5世紀初めの公共的な十字架刑像として位置づけられる理由と、その表現形式の起源が十分に解明されていない問題は、同じ研究の中で区別されています。(参照:Sheckler/Leith(2010年)|サンタ・サビーナ木製扉の十字架刑研究)
サント・ステファノ・ロトンド|環状回廊を歩く聖堂
5世紀後半に建てられたサント・ステファノ・ロトンド聖堂は、ローマでは珍しい大規模な円形の教会建築です。中心部を列柱が囲み、その外側に同心円状の通路が広がる構成を採用しました。もとの建物にはさらに外側の回廊があり、十字形の区画が環状の平面に組み合わされていました。長方形のバシリカとは異なり、人が中心を回り込む動きが空間の経験を生み出します。
中世以降に外側の回廊が取り壊され、12世紀には屋根を支える大きな横断アーチも加えられました。壁に連続する殉教の場面を描いた壁画は16世紀の装飾です。現在の室内には5世紀の円形平面、12世紀の構造補強、16世紀の壁画という異なる制作段階が重なっています。(参照:ローマ市|サント・ステファノ・ロトンド聖堂)
ラヴェンナ|ガッラ・プラキディア廟の建築とモザイク
十字形の小建築と皇族の記憶
ガッラ・プラキディア廟と呼ばれる建物は、5世紀前半、ホノリウス帝の妹で皇帝ウァレンティニアヌス3世の母であったガッラ・プラキディアに関係する建築です。外壁は控えめな赤い煉瓦で覆われ、平面は短い四つの腕を持つ十字形を取り、中央のドームは外から見ると四角い塔状の屋根に隠されています。かつては近くのサンタ・クローチェ聖堂につながる施設の一部でした。
建物の名称は後世に定着したもので、ガッラ・プラキディアが実際にここに葬られたという証拠にはなりません。ラヴェンナ市の公式資料は、彼女が450年にローマで亡くなり、その地に埋葬されたと説明しています。現存する三つの石棺も、置かれた時期や帰属を一括して皇族の墓と断定できません。建物が葬送と記念礼拝のどのような用途を担ったのかは研究上の問題として残っています。(参照:ラヴェンナ市|ガッラ・プラキディア廟/ユネスコ|ラヴェンナの初期キリスト教建築群)
大理石の下壁から星空のドームへ
入口から内部へ入ると、下部の大理石板の上にモザイク装飾が密に広がります。アーチや壁の半円形の部分には植物の蔓、鳥、動物、人物が配され、中央のドームでは濃い青を背景に多数の金色の星が同心円状に輝きます。中央の十字架の周囲には四福音書記者を表す四つの生き物が置かれ、天井を見上げると建築の曲面全体が図像の場になります。
エレン・スウィフトとアン・アルウィスは2011年にオンライン公開された論文で、星空を単なる天上世界の図示として見る解釈を再検討しました。彼女たちは初期キリスト教の文献と室内の光の働きを比較し、輝く星が礼拝者にとって聖人の力を感じさせる媒介となった可能性を論じています。観察できるのは素材、配列、光の効果であり、そこから当時の礼拝体験を復元する部分は研究上の解釈です。(参照:ラヴェンナ市|ガッラ・プラキディア廟/Swift/Alwis(2011年公開)|星空モザイクと礼拝経験)
善き羊飼いと焼き網の人物|図像同定の議論
入口の上の半円形のモザイクでは、金色の衣をまとった若い羊飼いが岩に腰掛け、六頭の羊に囲まれています。人物は十字形の杖を持ち、体をひねって羊へ視線を向けています。豊かな陰影で描かれた羊の体と段差のある地面には古代の自然主義的な描写が残ります。別の半円形の画面では、白衣の人物が十字架を持ち、炎のある焼き網と開いた書物棚の方へ進みます。
焼き網の場面は長く殉教者聖ラウレンティウスの像と解釈されてきました。ギリアン・マッキー(1990年)は、詩人プルデンティウスの殉教者賛歌に記された聖ウィンケンティウスの受難を手がかりに、走る人物をウィンケンティウスと読む説を提案しました。建物の用途や人物像の同定についても学説は分かれており、従来の名称と研究上の結論を同じものとして扱わないことが大切です。(参照:ラヴェンナ市|ガッラ・プラキディア廟/Mackie(1990年)|ガッラ・プラキディア廟の聖人像)
ラヴェンナの洗礼堂|八角形の建築と儀礼
ネオニアーノ洗礼堂|司教ウルススの建築とネオンの装飾
ネオニアーノ洗礼堂は、5世紀初めにラヴェンナの司教ウルススの時代に建てられたと考えられています。外壁は八角形の煉瓦造りで、中央に洗礼槽を置いた室内には、外から見る建物の寸法以上に高さを感じさせるドームがあります。司教ネオンの時代、5世紀半ばに内装が整備され、ドームのモザイク、壁面の浮彫、建築的な装飾が一つの儀礼空間を構成しました。
中央の洗礼槽は大理石や斑岩を用いた八角形で、現在の姿には6世紀の改造部分が含まれます。建築創建、5世紀半ばのモザイク制作、洗礼槽の後世の改修は別々の年代です。洗礼を受ける人が中央に入り、周囲の壁と天井の図像を見上げるという配置は、この建物の用途を理解する出発点になります。(参照:ラヴェンナ市|ネオニアーノ洗礼堂/ボローニャ大学|司教ネオンと5世紀のモザイク研究)
キリストの洗礼と十二使徒の行列
ドームの中心にはヨルダン川に立つキリストと、洗礼を施す洗礼者ヨハネが描かれています。円形画面を囲む帯状の区画には十二使徒が列をなして歩き、頭上には名前、手には冠が配されます。さらに外側には柱と幕を組み合わせた建築風の区画が広がり、金色と深い青が交互に現れます。使徒の行列はぐるりと続き、空間の中心にある洗礼を取り巻くように見えます。
モザイクの図像は水に入る儀式と天井のキリスト像を結びつけています。ボローニャ大学に登録された5世紀の地中海世界の図像研究では、司教ネオンによる装飾事業が、古典的な表現形式と司教の権威をどのように組み合わせたか検討されています。現存図像には後世の修復もあるため、現在見えるすべての細部を5世紀の職人の作業とすることは避けます。(参照:ラヴェンナ市|ネオニアーノ洗礼堂/ボローニャ大学|司教ネオンと5世紀のモザイク研究)
アリウス派洗礼堂|テオドリック時代のもう一つの洗礼図
5世紀末のテオドリック支配期に建てられたアリウス派洗礼堂も八角形の建築です。内部の装飾は多くが失われましたが、ドームにはキリストの洗礼を中心に据え、十二使徒が円周に沿って進むモザイクが残されています。ネオニアーノ洗礼堂に似た図像形式を採りながら、背景、使徒の配置、中央画面の細部には相違があり、二つの共同体が別々の施設で洗礼を行ったことが分かります。
現存する使徒像の多くは6世紀半ばに大きな修復を受けています。中心の洗礼図はテオドリック時代に由来すると考えられ、ドーム内にも5世紀末の制作と6世紀の改修が重なっています。「アリウス派」という歴史的な呼称だけを図像の各部分へ機械的に当てはめず、当時の宗教共同体の運営と、職人が共有したモザイクの表現形式の双方から理解できます。(参照:ラヴェンナ市|アリウス派洗礼堂/ユネスコ|ラヴェンナの初期キリスト教建築群)
コンスタンティノープル|城壁、聖堂、宮廷文化
テオドシウス2世の城壁|石と煉瓦の防衛線
東方皇帝テオドシウス2世の時代、コンスタンティノープルの陸側には新たな防衛線が築かれました。5世紀初めの拡張工事で城壁は西へ移され、413年頃までに内側の大きな壁が完成したと考えられています。城壁には石積みと煉瓦積みの帯が重なり、一定の間隔で塔が突き出していました。都市の外縁を定める巨大な構造物であると同時に、遠くから都市の権威を視覚的に伝える建築でした。
447年の地震後には大規模な修復が行われ、前面の外壁と堀を含む複数の防衛線が整えられます。後の時代にも補修や増築が重ねられたため、現存する城壁のすべてが5世紀の同じ工事に属するわけではありません。1992〜93年に門付近で行われた発掘・保存作業を報告した1999年の研究も、創建当初の技法と後世に改められた構造を区別しています。(参照:コロンビア大学|コンスタンティノープルのテオドシウス城壁/Byzantine and Modern Greek Studies誌|城壁の発掘・保存修復研究(1999年))
ストゥディオス修道院聖堂|三廊式の空間と年代の検討
コンスタンティノープル南西部のストゥディオス修道院には、現存する古い教会遺構の一つが残っています。長方形の身廊と側廊を列柱で分け、東端へ視線を集める平面は、ローマのバシリカと共通する建築の仕組みです。建築は後世にモスクへ転用され、火災や地震による損傷も受けています。現在の壁や列柱には、修道院としての長い使用と、その後の改造の痕跡が残ります。
創建には454年と463年という二つの史料上の年代が伝えられ、ストゥディオスという貴族の寄進と結びつけられています。コロンビア大学の建築調査案内は、ウルス・ペルシュロウ(1984年)とジョナサン・バーディル(2004年)の煉瓦刻印研究によって、建設が450年頃まで遡る可能性が検討されたことを紹介しています。文献の記す創建年と、使用された建材から推定する施工年は性質の違う証拠です。(参照:コロンビア大学|ストゥディオス修道院聖堂)
プルケリアの金貨と皇后像の秤の重り
皇帝の像は宮殿の外でも貨幣を通して広まりました。メトロポリタン美術館のプルケリアのセミシス金貨は、415〜453年にコンスタンティノープルで鋳造されたものです。直径約1.5センチの小さな金貨に横顔と銘文が刻まれ、皇族の姿と称号が取引を介して繰り返し見られました。プルケリアはテオドシウス2世の姉で、東方宮廷の政治と信仰に影響力を持ちました。
同館の400〜450年頃の秤の重りは銅合金で作った皇后の胸像で、内部に鉛が詰められ、真鍮製の鉤が取り付けられています。胸像部分は高さ約24.2センチで、髪飾り、真珠の連なり、首飾りが細かく表されています。皇后の名前は特定されておらず、テオドシウス朝の女性皇族に似た姿として紹介されています。秤の道具に帝室の姿を与えることで、公正な取引と皇帝権力の象徴を結びつける役割がありました。(参照:メトロポリタン美術館|プルケリアの金貨/メトロポリタン美術館|皇后像形の秤の重り)
東方地中海|テッサロニキとシリアの巡礼聖域
アヒロピイトス聖堂|列柱と植物文様のモザイク
テッサロニキはエーゲ海に面した交通と交易の都市で、5世紀には大規模なキリスト教聖堂が建てられました。アヒロピイトス聖堂は5世紀半ばに遡る三廊式バシリカで、中央身廊の左右に列柱を置き、上方には広い壁面と窓を備えています。柱頭やアーチの装飾には鳥、果実、葉、幾何学文様を用いたモザイクが残り、聖書の人物像に限らない多彩な装飾が礼拝空間を満たしていました。
テッサロニキの教会群は4世紀から長い時間をかけて整えられ、現在見える壁画や建築には後代の層も多く含まれています。ユネスコはアヒロピイトスを含む初期キリスト教・ビザンティン建築群を登録し、三廊式バシリカなど複数の平面形式を確認しています。初期の列柱、装飾、後世の改造を分けると、都市の礼拝空間が同じ建物を使いながら変化した様子が分かります。(参照:ユネスコ|テッサロニキの初期キリスト教・ビザンティン建築)
聖シメオン柱上修道者の聖域|柱を中心に四方向へ延びる聖堂
シリア北部の石灰岩台地にある聖シメオン柱上修道者の聖域は、5世紀末に建設された大規模な巡礼施設です。聖シメオンは柱上で修行した人物として知られ、彼に関わる柱の位置を中心に八角形の広場が設けられました。そこから四方向へバシリカ形式の翼が伸びる平面は、遠方から来た巡礼者が中央の記念物に近づくための通路と集会空間を同時に作っています。
切石を精確に積んだ壁、扉の枠、アーチを囲む彫りの深い縁飾りは、北シリアで発達した石造建築の技術を伝えます。フランス文化省が紹介する現地の建築調査は、中央八角形の構造と、扉・窓の周囲を連続する装飾線を記録しています。聖人の柱という小さな地点の周囲に複数の聖堂を組み合わせたことが、この施設の建築上の特徴です。(参照:フランス文化省|聖シメオン聖域の考古学調査/フランス文化省|聖シメオン聖域の建築装飾)
巡礼を支える洗礼堂と周辺施設
聖シメオン聖域には中心の記念聖堂に加え、洗礼堂や付属建築が設けられました。巡礼者は聖人を記念する中心部だけでなく、儀礼に参加し休息するための周辺空間を利用しました。遺構に残る柱礎、門の開口部、床の痕跡は、同じ場所が一つの広間だけで成り立っていたのではなく、複数の建築を組み合わせた施設だったことを示します。
発掘と建築実測は20世紀から続き、フランスの調査機関は巡礼地としての物質文化と周辺集落の発展を研究しています。建物の破壊と後世の再利用があるため、柱を取り巻く空間の動線や屋根の復元には推定が含まれます。現存する石材の加工痕と配置をもとに、5世紀末の設計とその後の利用段階を分けて考えられています。(参照:フランス文化省|聖シメオン聖域の考古学調査)
執政官象牙二連板と宮廷の銀器
406年のプロブス二連板|ホノリウス帝の正面像
アオスタ大聖堂宝物館には、406年に関係する「プロブスの執政官象牙二連板」が残ります。二連板は二枚の象牙板を蝶番でつなぐ形式の儀礼的な品で、皇帝や高官の姿を彫り出した表側と、文字を書くための内側を持つものが多く作られました。現存品には西方皇帝ホノリウスの立像が刻まれ、衣服のひだ、皇帝の持物、正面に向けられた姿勢が権力の印として働いています。
象牙は大きな板材を確保すること自体が高価で、平滑に整えた面を深さの異なる浮彫で加工しました。石造の皇帝像とは違い、二連板は手に持ち、保管し、贈答できる大きさです。アオスタの聖堂宝物館の所蔵案内はこの406年の象牙彫刻を収蔵品として挙げており、5世紀初めの宮廷儀礼に肖像が用いられた事例として見ることができます。(参照:アオスタ司教区|大聖堂宝物館の406年象牙二連板)
428年のフラウィウス・フェリクス二連板|衣装と文字が示す官職
フランス国立図書館が所蔵するフラウィウス・フェリクスの二連板は、428年にローマで制作された象牙板の一枚で、高さ29.3センチ、幅13.6センチ、厚さ0.7センチです。フェリクスは競技場の観覧席を思わせる場所に立ち、儀礼服を重ね着しています。肩から胸にかけて巻かれたトガの複雑なひだは浮彫の深さで表され、左手の笏の上には西方皇帝ウァレンティニアヌス3世と東方皇帝テオドシウス2世の小さな胸像が載っています。
板の内側には浅い蝋書きのくぼみがあり、表の肖像と文字、内面に書く情報が一つの道具として組み合わされていました。失われた対の板は17〜18世紀の版画から知られ、そこにあった称号の記録も人物の同定を助けます。国立図書館の収蔵記録は、かつてこの人物を511年の別のフェリクスと誤認した研究史を示します。現在の428年という年代は官職名、文字資料、人物の組合せに基づいています。(参照:フランス国立図書館|フラウィウス・フェリクスの象牙二連板)
434年のアスパル銀製大皿|執政官と都市の擬人像
フィレンツェ国立考古学博物館に伝わるアスパルの銀製大皿は、434年の執政官就任に関わる記念品です。円い銀の面の中心には座ったアスパルと小さく表された息子が置かれ、競技の開始を合図する布や、皇帝の胸像を付けた笏が描かれます。縁に沿う銘文は官職と名を伝え、周囲の盾、上部の円形肖像、両側の女性の姿は、執政官の軍功と公的な地位を知らせています。
女性像の一方はローマの擬人像と考えられます。もう一方の都市像については、研究者の間でラヴェンナ、コンスタンティノープル、カルタゴなどの同定が提案されてきました。カルロ・ベルテッリによる美術事典の解説は、衣装と持物、アスパルが北アフリカで活動した事情を根拠にカルタゴ説が検討されてきたことを述べています。銀皿の像に個別の都市名を付けるときには、この解釈上の幅が残ります。(参照:トレッカーニ美術事典|アスパルの銀製大皿)
象牙の小箱|キリストの受難を刻む小さな画面
420〜430年頃の小箱と十字架刑
大英博物館には、420〜430年頃の象牙製小箱の一部である浮彫板が残っています。板には木に吊られたユダの死と、その傍らで十字架につけられたキリストが一続きに描かれます。ユダの下には銀貨がこぼれ出す袋があり、キリストの頭上には文字を刻む札が置かれています。キリストの左右には聖母、ヨハネ、槍を持つ兵士が立ち、細い象牙板の中で複数の出来事を隣り合わせにしています。
十字架刑像は後の中世美術で広く知られる表現ですが、5世紀初めの確かな現存例は多くありません。同時期のサンタ・サビーナ聖堂の木製扉と比較すると、小箱では死をめぐる複数の人物と持物が細かく刻まれ、扉の浮彫はキリストと両脇の人物の配置を大きく示します。素材の硬さ、携帯品と建築入口という使用場所の違いも、画面の密度と人物の大きさに関係しています。(参照:大英博物館|十字架刑とユダの死を刻んだ象牙製小箱/Sheckler/Leith(2010年)|サンタ・サビーナ木製扉の十字架刑研究)
受難図の制作と使用環境
小箱の浮彫は、人物の輪郭、衣のひだ、木や建物の形を浅い彫りで重ねる技術によって作られています。箱として組み立てたときには個々の板が側面を構成し、手元で順に絵柄を眺めることができました。板材に収めるため、各人物の動作は少ない線と持物によって区別されています。
大英博物館はこの板を小箱の部分として記録し、ユダの死と十字架刑を同じ板に表した構成を明示しています。現存部分から箱の使用者や保管場所を一人に特定することはできません。宗教的な物語が大建築の壁から携帯できる贅沢品にまで広がっていたことは、このような現物の寸法と形式から確かめられます。(参照:大英博物館|十字架刑とユダの死を刻んだ象牙製小箱)
5世紀の写本|聖書と古典文学の挿絵
クウェドリンブルク・イタラ|絵の下に残った指示文
クウェドリンブルク・イタラ断簡は、旧約聖書のサムエル記を含む5世紀のラテン語写本で、彩色された複数の場面が小さな区画に分けて並んでいます。現在は断片として伝わり、彩色層が失われた場所から画家に向けたラテン語の短い指示が現れます。文字が先に書かれ、その上に絵具が塗られた関係は、写本制作の手順を物質的に示す珍しい例です。
ロランド・フェッリ(2024年)は、この画家への指示文に用いられた口語的なラテン語の性質と、従来の解読と異なる読みに着目しました。断簡からは複数の職人が文章と画像を分担した作業を考えることができます。挿絵の原案がこの写本のために新しく考えられたのか、先行する画像の模写を助けるための指示だったのかという問題もあり、指示文が残る事実と制作方法の推論は分けて考えられています。(参照:ピサ大学|Ferri(2024年)によるクウェドリンブルク・イタラ研究)
ローマのウェルギリウス写本|大きな書物と古典文学
バチカン図書館の『ローマのウェルギリウス写本』(Vat. lat. 3867)は、5世紀後半の古典文学写本です。羊皮紙の大きな冊子にウェルギリウスの『アエネイス』などを書き写し、本文とは別の区画に人物と風景の挿絵を置いています。大きく整った文字、広い余白、彩色された場面は、書物を読む行為と同時に眺めることを意識した制作を伝えます。
写本は19点の挿絵が残る大規模な書物で、現在の冊子には後世の綴じ直しや紙葉の整理が加わっています。5世紀の『ローマのウェルギリウス写本』と、制作年代が4世紀末〜5世紀初めにかかる別の『バチカンのウェルギリウス写本』(Vat. lat. 3225)は所蔵番号も現存内容も異なります。キリスト教写本が作られる時代にも、古代の詩を絵入りの豪華な書物で伝える仕事が続いていました。(参照:バチカン図書館|ローマのウェルギリウス写本/バチカン図書館|写本Vat. lat. 3867の画像)
北アフリカの住宅モザイク|競馬と都市の生活
カルタゴの「ギリシア人御者の家」
北アフリカのカルタゴでは、5世紀初めにも裕福な住宅の床が色鮮やかなモザイクで飾られていました。チュニジアの初期キリスト教博物館が紹介する「ギリシア人御者の家」の床には、競馬の御者たちが描かれ、各人の名はギリシア語で記されています。競走団体を区別する要素と、勝利を祝う棕櫚の枝や冠が人物の周囲に置かれ、中央には孔雀も表されています。
競馬は帝国の都市に広く共有された娯楽で、皇帝や有力者が観戦する競技場と結びついていました。住宅の注文主がこうした主題を床に選んだことは、家を訪れる人が競馬の人物や記号を読み取れる環境を前提にしています。同じ住宅には異なる色の大理石片を組み合わせた床装飾や、海の精ネレイスの頭部を描いた断片も伝わり、神話、娯楽、幾何学文様が一つの生活空間に共存していました。(参照:チュニジア文化財当局|カルタゴの初期キリスト教博物館)
北アフリカの床装飾とキリスト教
5世紀の北アフリカでは教会建築が増えると同時に、個人の住宅や浴場で伝統的な人物像が作られました。競馬を描いたカルタゴの床は宗教的な主題を持たず、壁面の聖書物語とは異なる目的で用いられています。石やガラスの小片を下地に埋め込んで作るモザイクの技術は、床と壁で共通しながらも、歩行に耐える床面と光を反射する壁面では材料の選択と見る距離が違いました。
チュニジア文化財当局の展示案内は、カルタゴの住宅から出た御者の床と、装飾石材、キリスト教関係の遺物をそれぞれ紹介しています。5世紀の都市が日々の生活とキリスト教の礼拝を並行して支えていたことを、異なる種類の現物から説明できます。(参照:チュニジア文化財当局|カルタゴの初期キリスト教博物館)
ブリテンのホクスン財宝|埋納された金銀と食卓の道具
1992年の発見と407〜408年の貨幣
イングランド東部サフォーク州ホクスンでは、1992年に金貨、銀貨、装身具、食器からなる大きな財宝が発見されました。考古学的な調査によると、品々の多くはおよそ57×36センチの範囲に集中し、もとの容器に収められた状態で地中に残っていました。木製容器に由来すると考えられる鉄製金具、器を重ねる際に使った可能性のある有機物の痕跡も確認されています。
サフォーク州の文化財記録は金貨565枚、銀貨1万4千枚余り、銅貨24枚を挙げています。最も新しい貨幣は407〜408年頃のコンスタンティヌス3世のものです。この年代は財宝が埋められるより前にその貨幣が鋳造されたという下限を与えます。個々の腕輪、銀器、金貨がすべて同年に制作されたことを意味しません。(参照:サフォーク州文化財記録|ホクスン財宝の発掘記録)
女性像の胡椒入れ、銀器、金の装身具
ホクスン財宝には女性の上半身を形どった銀製の胡椒入れがあり、髪型、衣服、顔の細部が立体的に作られています。胡椒などを入れる小さな容器に人物像を採用したもので、食卓の道具にも肖像的な表現が用いられたことが分かります。ほかにも多数のスプーン、柄杓、漉し器、小皿、金の首飾り、指輪、腕輪があり、銀器には人名やキリスト教の組合せ文字を刻んだ例があります。
一部の銀器はまとめて重ねられ、破損を防ぐための詰め物の痕跡を伴っていました。金の腕輪には持ち主に幸運を願うラテン語の銘文もあります。ブリテンの行政が不安定になった時期に財宝が埋められた経緯には複数の可能性があり、所有者や埋納の理由は確定していません。発掘時の配置と品々の使用痕を確認することが、埋納の背景を考える根拠になります。(参照:サフォーク州文化財記録|ホクスン財宝の発掘記録/大英博物館|ホクスン財宝の女性像形胡椒入れ)
ガリアのキルデリク1世墓|金工と王権の表象
トゥルネーで発見された王墓と副葬品
現在のベルギー、トゥルネーでは1653年にフランク王キルデリク1世の墓が発見されました。王は481〜482年頃に亡くなったと考えられ、墓には武器の装具、印章指輪、金貨や銀貨、金とガーネットの装飾品が副葬されていました。発見時の記録と後に制作された図版は、今では失われた品の形を知るためにも利用されています。
出土品の一部はヨーロッパの王侯の収集品となり、1831年の盗難で多くが失われました。墓から出たとされる品には、現在見られる個体と古い図版だけで伝わる品があります。フランス国立図書館の収蔵記録は、現存する蜂形装飾の出土年や旧蔵先を追跡できるようにしています。(参照:フランス国立図書館|キルデリク墓の蜂形装飾/フランス国立図書館|キルデリク墓の武器鞘金具)
蜂形装飾|金とガーネットを組み合わせる
蜂形装飾は金で頭と胴を作り、羽に赤いガーネットを象嵌した小さな金工品です。フランス国立図書館の個体は高さ1.6センチ、重さ1.95グラムで、裏側の小さな環によって厚い布や革に取り付けられたと考えられています。腹部の縁には粒を並べたような細かな装飾が施され、ガーネットの赤が金の縁取りで強調されています。
発見当時には数百個の蜂形装飾があったと17世紀の記録は伝えますが、各地に分散し、盗難後に確認できた数はわずかです。こうした小さな金具を衣服や装具に多数付けると、体が動くたびに金と赤い石が輝きます。副葬品には同じ細工を用いた武器の金具もあり、フランク王の装いは地中海世界の金工技術とガリアの宮廷文化が交わる場所にありました。(参照:フランス国立図書館|キルデリク墓の蜂形装飾/フランス国立図書館|キルデリク墓の武器鞘金具)
墓の貨幣構成をめぐる近年の解釈
キルデリク墓の貨幣群には5世紀中頃から後半にかけての金貨や銀貨が多数含まれていました。貨幣は年代を知る材料であると同時に、皇帝の顔や勝利の図像を載せた小さな公的画像です。王墓にどの貨幣を集めて副葬したのかという問題は、政治的な意味を持つ可能性があります。
スヴァンテ・フィッシャーとレンナルト・リンドの研究は、金貨と銀貨の構成を分析し、埋葬儀礼のために意図的に組み合わされた可能性、さらに息子クローヴィスの政治的な意図が関与したという仮説を論じています。掲載誌の号は2015年の第14号で、同誌のオンライン表示には2023年の公開日も記されています。貨幣の分類・構成は調査対象となる事実であり、クローヴィスの意思を読み取る部分は研究者の解釈として説明するのが適切です。(参照:Fischer/Lind|キルデリク墓の貨幣研究/フランス国立図書館|キルデリク墓の蜂形装飾)
略年表|401〜500年の主な出来事
- 395年|テオドシウス1世が死去し、アルカディウスとホノリウスが東西を統治する
- 402年頃|西方皇帝の宮廷がミラノからラヴェンナへ移る
- 406年|ホノリウス帝を刻んだプロブスの執政官象牙二連板が作られる
- 407〜408年|ホクスン財宝の最も新しい貨幣が鋳造される
- 410年|西ゴート軍によるローマ略奪が起こる
- 413年頃|コンスタンティノープルのテオドシウス城壁の初期工事が完了する
- 415〜453年|プルケリアの称号を刻む金貨が鋳造される
- 420〜430年頃|十字架刑とユダの死を刻んだ象牙製小箱が制作される
- 422〜432年頃|ローマのサンタ・サビーナ聖堂の建設が進む
- 425〜450年頃|ラヴェンナのガッラ・プラキディアに関わる建築とモザイクが作られる
- 428年|フラウィウス・フェリクスの執政官象牙二連板が制作される
- 432〜440年|サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の5世紀モザイクが制作される
- 434年|アスパルの執政官就任を記念する銀製大皿が作られる
- 439年|ヴァンダル勢力がカルタゴを占領する
- 447年|地震後にコンスタンティノープルの陸側城壁が修復される
- 450年|ガッラ・プラキディアがローマで亡くなる
- 450〜468年頃|司教ネオンのもとでネオニアーノ洗礼堂のモザイク装飾が整備される
- 450〜470年頃|テッサロニキのアヒロピイトス聖堂が建てられる
- 454年または463年|ストゥディオス修道院の創建を伝える異なる年代が史料に残る
- 468〜483年頃|ローマのサント・ステファノ・ロトンド聖堂が建設・奉献される
- 476年|オドアケルが西方皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位する
- 481〜482年頃|フランク王キルデリク1世が死去し、トゥルネーに葬られる
- 5世紀後半|『ローマのウェルギリウス写本』が制作される
- 493年|テオドリックがイタリアで支配を始める
- 5世紀末|シリア北部に聖シメオン柱上修道者の聖域が建てられる
- 5世紀末頃|ラヴェンナのアリウス派洗礼堂が建設される
まとめ|5世紀の建築、画像、工芸
5世紀のローマでは、列柱と高窓を持つバシリカが礼拝の大空間を作り、身廊の上部と勝利門に旧約聖書とキリストの幼年物語が連続して描かれました。サンタ・サビーナの木製扉では、十字架刑という出来事が小さな浮彫に刻まれ、同じ時期の象牙製小箱ではユダの死とともに受難の場面が表されています。造形の違いには、建築の入口と手元の箱という使用場所、木と象牙という素材、画面の大きさが関わっています。
ラヴェンナでは、十字形の小建築を満たす星空モザイクと、洗礼槽を中心に据える八角形の洗礼堂が作られました。下壁の大理石と上部のガラスモザイク、ドームを一周する使徒像の組合せは、礼拝と儀式を行う身体の位置に応じて見る方向を定めます。星空がどのような意味を持ったか、焼き網の横の人物は誰かという問いには複数の研究があり、見える形と解釈の根拠を分けることができます。
コンスタンティノープルでは防衛のための石と煉瓦の巨大な城壁、三廊式の修道院聖堂が整えられました。皇族の横顔を刻む金貨、皇后像の重り、執政官の象牙二連板と銀皿からは、宮廷の姿が貨幣・商取引・儀礼の道具にまで広がっていたことが分かります。シリアの聖シメオン聖域は、一本の柱を中心に四方向へ聖堂を伸ばし、巡礼者の動きに対応する新しい規模の石造建築を生みました。
北アフリカの住宅の競馬モザイク、ブリテンの金銀財宝、フランク王墓のガーネット象嵌は、政治境界の変化と並行して継続した物作りを伝えます。キルデリク墓の貨幣構成には意図的な選択が考えられるものの、具体的な動機は研究上の解釈です。5世紀の造形を特徴づけるのは、同じ地中海世界に聖堂の壁面、古典文学の写本、宮廷の金工、住宅の床という異なる制作環境が重なっていたことです。(参照:ユネスコ|ラヴェンナの初期キリスト教建築群/サフォーク州文化財記録|ホクスン財宝の発掘記録/フランス国立図書館|キルデリク墓の蜂形装飾)
参考資料・出典
作品・建築の収蔵記録、研究論文、発掘・保存修復資料を中心に、以下の資料を参照しました。各小節の末尾には、該当する作品や研究を直接確認できる参照先を付しています。
- ローマ市|サンタ・プデンツィアーナ聖堂
- サセックス大学|サンタ・プデンツィアーナのモザイク調査記録
- サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂|初期キリスト教モザイク
- ローマ市|サンタ・サビーナ聖堂
- Sheckler/Leith(2010年)|サンタ・サビーナ木製扉の十字架刑研究
- ローマ市|サント・ステファノ・ロトンド聖堂
- ユネスコ|ラヴェンナの初期キリスト教建築群
- ラヴェンナ市|ガッラ・プラキディア廟
- Mackie(1990年)|ガッラ・プラキディア廟の聖人像
- Swift/Alwis(2011年公開)|星空モザイクと礼拝経験
- ラヴェンナ市|ネオニアーノ洗礼堂
- ボローニャ大学|司教ネオンと5世紀のモザイク研究
- ラヴェンナ市|アリウス派洗礼堂
- ユネスコ|イスタンブール歴史地区
- コロンビア大学|コンスタンティノープルのテオドシウス城壁
- Byzantine and Modern Greek Studies誌|城壁の発掘・保存修復研究(1999年)
- コロンビア大学|ストゥディオス修道院聖堂
- メトロポリタン美術館|プルケリアの金貨
- メトロポリタン美術館|皇后像形の秤の重り
- ユネスコ|テッサロニキの初期キリスト教・ビザンティン建築
- フランス文化省|聖シメオン聖域の考古学調査
- フランス文化省|聖シメオン聖域の建築装飾
- アオスタ司教区|大聖堂宝物館の406年象牙二連板
- フランス国立図書館|フラウィウス・フェリクスの象牙二連板
- トレッカーニ美術事典|アスパルの銀製大皿
- 大英博物館|十字架刑とユダの死を刻んだ象牙製小箱
- ピサ大学|Ferri(2024年)によるクウェドリンブルク・イタラ研究
- バチカン図書館|ローマのウェルギリウス写本
- バチカン図書館|写本Vat. lat. 3867の画像
- チュニジア文化財当局|カルタゴの初期キリスト教博物館
- サフォーク州文化財記録|ホクスン財宝の発掘記録
- 大英博物館|ホクスン財宝の女性像形胡椒入れ
- フランス国立図書館|キルデリク墓の蜂形装飾
- フランス国立図書館|キルデリク墓の武器鞘金具
- Fischer/Lind|キルデリク墓の貨幣研究