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Art History

1963–1975

公民権運動の時代に、アメリカの黒人芸術はどう変わったのか?

ブラック・アーツ・ムーブメントの誕生

1963年のアメリカでは、黒人の人々が平等な権利を求める大規模な運動が広がっていました。同じ年、ニューヨークでは黒人芸術家たちが「スパイラル」という集団を結成します。画家たちは、自分たちの作品と社会の変化をどう結びつけるかを議論しました。そこから1960年代後半にかけて、街の壁画、版画、抽象絵画、政治的な新聞など、さまざまな表現が展開されていきます。

この動きが生まれた背景には、アメリカで長く続いた奴隷制と人種差別の歴史があります。北米の植民地時代には、多くのアフリカの人々が連行され、自由を奪われた状態で働かされました。奴隷制は社会の経済活動と法律の中に深く組み込まれ、人々の家族や生活に大きな影響を与えました。

1865年、南北戦争の終結と合衆国憲法修正第13条の批准によって、奴隷制は全国的に廃止されました。それでも、元奴隷の人々が平等な市民として暮らすための条件は、すぐには整いませんでした。南部では黒人と白人を学校や交通機関などで分ける人種隔離が制度化され、投票への参加を妨げる慣行や暴力も長く続きました。

1950年代になると、人種隔離を変えようとする公民権運動が大きく発展します。1954年の最高裁判決、バス・ボイコット、学生たちの座り込みなどが社会を動かし、1963年にはワシントンで大規模な行進が行われました。1964年の公民権法と1965年の投票権法は、その運動が生み出した重要な法的転換でした。

芸術家たちは、こうした出来事を目にしながら、自分たちの作品をどこで、誰に向けて発表するのかを考え始めます。絵画で人種差別の現実を描く人もいれば、抽象表現を追究する人もいました。地域の人々が普段目にする壁へ肖像を描き、印刷物を広く配布し、黒人の文化を伝える新しい場所を作ろうとする活動も生まれます。

1965年頃から広がったブラック・アーツ・ムーブメントは、演劇、詩、音楽、視覚芸術を通じて黒人の文化的な自立を追究しました。その中心にあったのは、社会で誰が自分たちの歴史を語り、どのような作品を残すのかという問題です。黒人の人々を描いた作品があっても、美術館で展示される機会は十分ではありませんでした。芸術家たちは作品を制作することに加え、展示や評価の仕組みそのものにも働きかけました。

本記事では、奴隷制から公民権運動までの歴史をまず整理し、1963〜1975年の芸術活動を年代順にたどります。スパイラル、フェイス・リングゴールド、シカゴの《尊敬の壁》、アフリコブラ、サム・ギリアム、ベティ・サールらの作品を紹介しながら、それぞれが何を新しくしたのかを具体的に見ていきます。

この時代の芸術家たちの画風や考え方には、大きな幅がありました。作品の素材、色、描かれた内容、発表した場所を確かめると、社会の変化と美術の実験がさまざまな形で結びついていたことが見えてきます。歴史的な背景を知り、実際の作品の違いを理解することが、1960年代のアメリカ美術を学ぶ手がかりになります。

奴隷制から始まるアメリカの黒人の歴史

人々がアフリカから連行され、奴隷として売買された

アメリカの黒人差別の歴史を考える出発点は、北米がヨーロッパの植民地だった時代です。大西洋を越える奴隷貿易によってアフリカの人々が連行され、農園や家庭などで強制労働を課されました。17世紀の英領北米では、その身分を子どもにまで引き継がせる制度が徐々に整備されていきます。

奴隷にされた人々は、働く場所や移動、家族と暮らすことについて自分で決める権利を奪われました。自由を奪う制度は暴力と法律によって維持され、労働で生まれた利益は農園主や商人たちに集中しました。奴隷制の歴史には、黒人を人間として対等に扱わない考えが社会の仕組みとして定着していく過程があります。(参照:米国国立公園局|再建期と奴隷制廃止)

奴隷制は経済を支え、黒人への偏見を制度化した

タバコ、米、綿花などの生産は、奴隷労働に深く依存していました。19世紀のアメリカ南部では綿花をめぐる巨大な取引が進み、奴隷にされた人々が作り出した富は国内外の商業と結びつきます。この歴史を知ると、人種差別が個人の感情や悪意にとどまる問題ではなかったことがわかります。

経済活動、法律、地域の権力関係が一体となって人々の自由を制限していました。その中でも黒人の人々は家族や信仰、音楽、手仕事を通じて文化を受け継ぎ、自分たちの生活を守ろうとしました。後の黒人芸術を理解する際には、抑圧の歴史とともに、その状況の中で続けられた創造的な営みにも目を向ける必要があります。(参照:米国国立公園局|再建期と奴隷制廃止)

1865年に奴隷制は廃止された――そこから何が始まったのか

南北戦争のさなか、リンカーン大統領は1863年に奴隷解放宣言を発効させました。宣言の対象は反乱状態にあった地域であり、アメリカ全土の奴隷制は1865年12月に憲法修正第13条が批准されることで廃止されました。条文には犯罪に対する刑罰としての例外規定が残されました。

自由を得た人々は、家族の再会、土地や仕事の確保、学校の設立、政治参加に取り組みます。奴隷制の廃止は重大な転換でしたが、平等な市民として暮らす条件を整える仕事はその後も続きました。1960年代の公民権運動は、この解放からほぼ100年後に起こった出来事です。二つの時代の隔たりを知ることが、記事全体の理解につながります。(参照:米国国立公文書館|憲法修正第13条)

奴隷制廃止後も続いた人種差別

再建期の改革と、その後に進んだ権利の後退

南北戦争後の再建期には、1868年の憲法修正第14条によって市民権と法の平等な保護が定められ、1870年の修正第15条では人種を理由とする投票権の否定が禁じられました。黒人の政治家が生まれ、教育の機会も広がります。解放された人々自身が学校や教会を築いたことも、この時期の重要な成果でした。

1877年前後に再建政策が終息へ向かうと、南部の州政府や白人至上主義勢力が権力を取り戻し、改革で得られた権利を制限していきます。暴力や脅迫によって政治参加を妨げる動きも広がりました。この経緯が、法律上の権利と日常生活で実現できる権利の間に長い隔たりを生みました。(参照:米国国立公園局|ジム・クロウ法と再建期)

ジム・クロウ法――学校や交通機関で人種を分けた社会

19世紀末から20世紀半ばまで、アメリカ南部では「ジム・クロウ」と総称される人種隔離の法律や慣習が広まりました。黒人と白人に別々の学校、待合室、飲食施設などが設けられ、利用できる場所が制限されました。1896年の連邦最高裁判決は「分離すれども平等」という考え方を容認し、差別的な制度が続く根拠とされます。

投票に必要だとされた識字試験や投票税は、黒人の選挙参加を妨げるために運用されました。差別的な扱いに抗議すると失職、脅迫、暴力にさらされることもありました。学校で誰と学べるか、街を自由に移動できるかという日々の選択が、人種によって左右される社会だったのです。(参照:米国国立公園局|1865年以後の権利と抑圧)

北部への大移動と、黒人が育んだ都市文化

20世紀前半、多くの黒人の人々が南部の差別や貧困から離れ、北部や中西部の都市へ移りました。新しい仕事や教育の機会を求める移住は、シカゴやニューヨークなどに大きな黒人コミュニティを形成します。北部でも住宅や雇用の差別は存在しましたが、新聞、学校、教会、劇場、美術活動の拠点が育ちました。

1920年代のハーレム・ルネサンスでは、絵画、文学、彫刻、写真、ジャズなどが豊かに発展します。こうした文化的な蓄積は1960年代の芸術家たちにも受け継がれました。黒人の芸術には、公民権運動よりもずっと長い制作の歴史があります。長く続いた制作と共同体の歴史の上に、新しい政治的な問いが重なっていきました。(参照:ブルックリン美術館|『ソウル・オブ・ア・ネーション』展)

1950年代――公民権運動は何を変えようとしたのか

1954年、学校の人種隔離を違憲とした最高裁判決

1954年、連邦最高裁判所はブラウン対教育委員会事件で、公立学校における人種隔離が合衆国憲法に反すると判断しました。それまでの人種別の学校制度に対する重大な転換です。判決が出ても、南部各地では学校の統合に抵抗する動きが続き、実際の変化には時間がかかりました。

子どもたちがどの学校へ行けるのかという問題には、通学や進学、将来の仕事の機会が関わっています。教育をめぐる争いは、人種隔離が社会の中でどれほど深く制度化されていたかを示します。1960年代の芸術家たちは、こうした出来事を新聞やテレビで見聞きしながら制作していました。(参照:米国国立公文書館|ブラウン対教育委員会判決)

バス・ボイコット、座り込み、フリーダム・ライド

1955年にアラバマ州モンゴメリーで始まったバス・ボイコットは、人種別の座席制度への抗議でした。1960年には学生たちが飲食店で座り込み運動を広げ、翌年には州境を越えるバス路線の人種隔離に抗議するフリーダム・ライドが行われます。参加者は逮捕や暴行の危険を伴いながら、平等に公共空間を利用する権利を訴えました。

こうした運動では、大勢の人が一つの場所へ集まる行為そのものが社会への働きかけになりました。看板やプラカード、集会で歌われる歌、新聞へ届ける写真も、その活動を支える手段でした。表現の力は美術館の外でも発揮されていたのです。(参照:米国議会図書館|公民権運動の写真記録)

運動を写した写真は、なぜ大きな力を持ったのか

デモ行進や座り込み、警察による介入は写真家たちによって記録されました。学生非暴力調整委員会に関わったダニー・ライオンの写真には、参加者の日常的な表情、警官の姿、人種隔離を示す標識などが写っています。これらの画像が新聞や印刷物を通じて広がり、現場から離れた人々にも何が起きているかを伝えました。

写真はその瞬間に起きた事実を示す資料になるとともに、何を画面に収め、どの写真を選び、どんな説明を付けるかによって受け取り方が変わる表現でもあります。公民権運動と黒人芸術の関係を考える際、絵画の主題だけでなく、画像が人々へ届く仕組みも重要になります。(参照:米国議会図書館|公民権運動の写真記録)

1963〜1965年――法律と社会が動いた転換期

1963年のワシントン大行進と「仕事と自由」

1963年8月28日、首都ワシントンで「仕事と自由のためのワシントン大行進」が行われました。キング牧師の演説で知られますが、運動は人種隔離の撤廃とともに、雇用や生活の平等も求めていました。大規模な行進は、多様な団体と参加者が共通の要求を掲げて公共の場所に集まる歴史的な出来事となります。

運動の記録には演説だけでなく、印刷された案内、バッジ、歌、写真が残されています。人々が同じ図像や言葉を掲げて行進することは、要求を視覚的に伝える行為でもありました。この年、ニューヨークでは黒人芸術家たちが、社会の変化と自分たちの制作との関係を話し合い始めます。(参照:米国議会図書館|1963年ワシントン大行進)

1964年の公民権法――公共施設と雇用の差別を禁じる

1964年7月2日に成立した公民権法は、公共施設での差別を禁じ、学校などの統合を進める制度を整え、雇用における差別を違法としました。黒人の人々が飲食店や公共施設で平等に扱われるための重要な法的基盤が生まれます。法律の成立は、長年の運動とそれを支えた多くの人々の働きかけによって実現しました。

法律が変わると、人々が実際に入れる場所や求められる権利も変わっていきます。文化施設や美術館にとっても、誰がそこで働き、作品を出品し、企画へ参加できるのかという問いが残りました。芸術家たちの要求は、社会の権利拡大を美術制度の内部にも及ぼそうとするものになっていきます。(参照:米国国立公文書館|1964年公民権法)

1965年の投票権法――政治に参加する権利を守る

1965年、アラバマ州セルマからの行進が警察の暴力にさらされた出来事は、投票権をめぐる差別を全国に知らせました。同年8月6日に成立した投票権法は、識字試験などを通じて有権者登録を妨げる慣行を禁じ、連邦政府による監督や支援を可能にしました。形式上の権利を実際に使えるようにするための大きな改革です。

奴隷制の廃止から100年後に、このような法律が必要だったことが重要です。政治的な平等の実現には制度と生活の両面に長い闘争がありました。芸術家たちが黒人の尊厳や共同体の未来を表現しようとした背景には、こうした具体的な歴史があります。(参照:米国国立公文書館|1965年投票権法)

社会運動のなかで芸術家は何を問い始めたのか

黒人の芸術は、社会に何を伝えるべきなのか

公民権運動が広がると、黒人芸術家の間でも作品の社会的な役割について議論が深まります。差別の現実を絵画で示すこと、黒人の歴史的な人物を描くこと、地域社会に作品を届けることなど、さまざまな方法が考えられました。作品を制作するだけでなく、発表する場所や受け取る人々を含めて芸術の働きを考える動きです。

その問題意識は一様ではありませんでした。画家として色や線、構成を追究したい人もいれば、抗議の意志を誰にでも読める画像にしたい人もいました。社会運動と結びついた時代の黒人美術を理解するには、作家たちの選択の違いに目を向けることが欠かせません。(参照:ブルックリン美術館|『ソウル・オブ・ア・ネーション』展)

抽象絵画を続けることも、政治的な時代の選択だった

当時のアメリカ美術界では、抽象表現主義や色面絵画、ミニマリズムなどが大きな関心を集めていました。黒人芸術家たちも当然、同時代の美術の実験に参加していました。自分の経験を人物像で描く作家と、色彩や形の関係から作品を生み出す作家が、同じ集団や展覧会で議論することもありました。

芸術家の活動をその人の人種だけで決めつけると、作品ごとの造形的な成果が見えなくなります。社会的な問題を表現する必要性と、どの形式で制作するかを自分で選ぶ自由。1960年代の黒人芸術家たちが直面したのは、この二つをどう両立させるかという課題でした。(参照:ハーレムのスタジオ・ミュージアム|スパイラル)

ブラック・パワーという言葉が広がった時代

1960年代後半には、黒人の政治的な自己決定や文化的な誇りを強く打ち出すブラック・パワーの運動が広がりました。1966年のブラックパンサー党結成など、地域の自治、警察の暴力、住宅、食事や教育の問題を重視する活動も展開されます。公民権運動の成果を踏まえつつ、何を優先するかについて多様な立場が現れました。

芸術の領域では、黒人自身の歴史的な英雄を紹介し、身近な地域の人々に向けた画像を作ることが重視されます。新聞、壁画、ポスターは政治活動と日常生活の接点になりました。非暴力を中心にした公民権運動とブラック・パワーの運動には、重なる活動と異なる政治的な考え方の両方が存在していました。(参照:ニューヨーク近代美術館|エモリー・ダグラス)

1963年――黒人芸術家集団スパイラルの結成

ワシントン大行進をきっかけに集まった芸術家たち

1963年、ニューヨークで黒人芸術家の集団「スパイラル」が結成されました。発端の一つは、ワシントン大行進に芸術家としてどう関わるかという相談でした。ロメール・ベアデン、チャールズ・アルストン、ノーマン・ルイス、ヘイル・ウッドラフらが参加し、定期的な会合で制作と社会問題を議論しました。

参加者の年齢も経験も幅広く、すでに長い経歴を持つ画家と若い世代が同じ場所に集まりました。社会に向けた共通の関心を持ちながら、自分たちの作品をどう作るかという答えは一つに定まりませんでした。その開かれた議論こそが、スパイラルの大切な特徴です。(参照:ハーレムのスタジオ・ミュージアム|スパイラル)

ベアデンとノーマン・ルイスが同じ場で議論した意味

ベアデンは写真や紙の断片を組み合わせるコラージュによって、黒人の生活、記憶、都市の経験を表しました。ノーマン・ルイスは線や色の重なりによる抽象絵画を制作し、戦後ニューヨークの抽象表現と関わっていました。作り方は大きく異なりますが、二人は同じスパイラルの活動に参加しました。

黒人芸術を一つの画風で定義しようとすると、こうした違いは見えにくくなります。スパイラルが示したのは、芸術家同士が制作上の自由を保ちながら、公民権運動の時代に共有すべき問題について考えられるということでした。その姿勢は、その後の展覧会や美術館の運営をめぐる議論にも影響を与えます。(参照:ハーレムのスタジオ・ミュージアム|スパイラル)

1965年「黒と白」展――同じ条件から異なる表現が生まれる

スパイラルは1965年、ニューヨークの会合場所で「First Group Showing: Works in Black and White(黒と白による初のグループ展)」を開催しました。作品に黒と白を用いるという共通の条件のもとで、参加者は抽象、具象、コラージュなど異なる方法を示しました。作品に使う色を限定することで、同じ集団の中にある多様性も際立ちました。

展覧会の名称と形式には、人種をめぐる時代状況を意識した読み取りも可能です。作品を並べると、政治的な意味が直接描かれたものと、造形的な実験が中心にあるものの距離も見えてきます。社会と美術がどのように結びつくかという議論が、展示という形で可視化された出来事でした。(参照:ハーレムのスタジオ・ミュージアム|スパイラル)

コラージュ、抽象、人物像――スパイラルの多様な表現

ロメール・ベアデン――断片から黒人の生活を組み立てる

ベアデンは1960年代前半からコラージュを本格的に展開し、写真の切り抜き、色紙、印刷物などを重ねて人物や室内の情景を生み出しました。顔や手の大きさが異なり、複数の場面が一つの画面に入り込む構成は、記憶と現在の出来事が重なるような感覚を作ります。黒人の人々の日常を、画面の構造そのものから描き直した作品です。

ここで重要なのは、黒人の生活を主題に選んだことと、コラージュという近代美術の方法を発展させたことが一体になっている点です。街や家族の経験を描くことと、画像を切断して新しい関係へ組み立てることは、同じ作品の中で働いています。ベアデンは社会的な経験と造形の実験を結びつけました。(参照:ブルックリン美術館|『ソウル・オブ・ア・ネーション』展)

ノーマン・ルイス――抽象絵画と社会参加の両立

ノーマン・ルイスは、暗い色の広がりに細かな線や形が浮かぶ独自の抽象絵画を制作しました。人々の集まりを思わせる形が現れる作品もありますが、画面は特定の出来事を説明する挿絵として構成されてはいません。絵具の重なりと画面全体のリズムが、絵画としての経験を作ります。

ルイスがスパイラルに参加したことは、抽象絵画を続ける作家も公民権運動の問題から離れていたわけではないことを示します。芸術家が社会に関わる方法は、作品の題材と必ずしも一致しません。会合に参加し、発表の機会を作り、造形上の自由を守ることも、文化のあり方に対する働きかけでした。(参照:ハーレムのスタジオ・ミュージアム|スパイラル)

黒人の誇りを描く具象画と、その時代の受け手

レジナルド・ギャモンの《Freedom Now》(1963)は、公民権運動の時代の集団的な意思を人物像から伝える作品として知られます。人々の表情や集団の姿は、現実に街頭で進められていた抗議行動を思わせます。鑑賞者は人物の視線や姿勢から、時代の緊張と希望を読み取ることができます。

同じ時代の黒人芸術家たちは、強い政治的なメッセージを持つ人物画から抽象絵画、コラージュまで、幅広い方法に取り組んでいました。こうした幅の広さを確認することは、1960年代の黒人芸術を政治宣伝の一形式にまとめないためにも重要です。(参照:ブルックリン美術館|『ソウル・オブ・ア・ネーション』展)

フェイス・リングゴールド――人種差別の現実を大画面に描く

1967年《アメリカ人シリーズ第20番:死》

フェイス・リングゴールドは1967年に《アメリカ人シリーズ第20番:死》を制作しました。横幅が3メートルを超える大きな画面には、黒人と白人の男女が入り乱れ、逃げ惑い、子どもが身を寄せ合う姿が描かれています。血の赤が明るい衣服や背景に飛び散り、見る人は画面のどこにも安全な場所を見つけられません。

リングゴールドは、日々の生活の中で起こる暴力や対立を、絵画としてどう記録できるか考えていました。作品は1960年代の社会に広がっていた人種と階級の緊張を、一つの象徴的な場面へ凝縮しています。人物の配置と色彩は、見る人に強い身体的な感覚を与えます。(参照:ニューヨーク近代美術館|リングゴールド《死》)

ピカソ《ゲルニカ》から受け継いだ歴史画の方法

《死》の大きな画面と複数人物による構成には、ピカソの《ゲルニカ》への明確な参照があります。リングゴールドはニューヨーク近代美術館で《ゲルニカ》を繰り返し見ており、戦争の暴力を描いた先例から、同時代のアメリカ社会を表す方法を考えました。西洋近代美術の代表作が、黒人女性の画家によって新しい歴史画のために読み替えられたのです。

画面中央の子どもたちは、暴力の中で互いに寄り添っています。周囲の大人たちの動きと対照的なその姿には、未来への不安と希望の両方が読み取れます。大画面を使い、現実の混乱を複数の身体の関係として描くことで、リングゴールドは社会的な主題と絵画の構成を強く結びつけました。(参照:ニューヨーク近代美術館|リングゴールド《死》)

黒人女性の画家として「自分の時代を記録する」

リングゴールドは後年、自分が生きる場所と時代の出来事を、黒人女性の芸術家としてどう記録するかを考えていたと振り返っています。彼女が作品を制作した時代、アメリカの主要美術館や画廊では白人男性の抽象絵画が高く評価されていました。その中で人種的な暴力を大きな具象絵画の主題に選ぶことには、強い意志がありました。

彼女の活動は絵画に加えて、版画、布を使う作品、展覧会への抗議にも広がります。作品の内容と、それを美術館へ展示する機会を求める活動の双方を見ることで、芸術家としての仕事が制作室の外へ及んでいたことがわかります。(参照:ニューヨーク近代美術館|リングゴールド本人の作品解説)

1965年以降――ブラック・アーツ・ムーブメントの展開

アミリ・バラカと演劇・詩から始まった運動

ブラック・アーツ・ムーブメントは、1960年代半ばに文学、演劇、音楽、美術を横断して広がった文化運動です。1965年、詩人・劇作家のアミリ・バラカ(当時はリロイ・ジョーンズ)がハーレムでブラック・アーツ・レパートリー・シアター/スクールを設立したことは、運動の重要な起点とされています。

その活動では、詩や芝居を日常の言葉で届け、地域の人々が文化を自ら作り、受け取る場所を生み出そうとしました。視覚芸術はこの広い動きの一部であり、運動の歴史を考えるには絵画だけでなく、朗読、演劇、出版物、音楽、教育活動にも目を向ける必要があります。(参照:ハーレムのスタジオ・ミュージアム|収集と設立の歴史)

芸術を美術館の外へ届けるという目標

ブラック・アーツ運動の参加者には、黒人の地域社会で作品が共有されることを重視する人々がいました。画廊の展示室に来る観客だけを想定せず、街の壁、学校、地域の文化施設、新聞や版画を通じて作品が届く経路を考えました。誰のために制作するのかという問いが、使う素材や画面の大きさ、展示場所の選択につながっていきます。

街の人々が普段目にする場所へ画像を置くことで、作品は地域の会話のきっかけにもなります。その表現は人々を励ます肖像、歴史を語る壁画、政治を批判する印刷物など多様でした。美術館を必要としない発表方法を模索する実践から、芸術と公共空間の新しい関係が見えてきます。(参照:スミソニアン・アメリカ美術史アーカイブ|《尊敬の壁》の制作記録)

運動の中でも、表現と政治への考え方は異なっていた

ブラック・アーツ運動は黒人の文化的な自己決定を重視し、各地で多様な方法を生み出しました。ニューヨーク、シカゴ、カリフォルニアなど各地の作家が、地域の環境や人々との関係を通して異なる仕事を進めました。黒人の歴史を人物像で表すことも、印刷物の色と文字を設計することもできました。

政治的な主張を明確にした表現が大切にされた場では、抽象作品をどう評価するかという議論も起こります。芸術家は制作上の自由と共同体への責任について考え続けました。その違いを含めて見ることで、運動の実像が豊かになります。(参照:ブルックリン美術館|『ソウル・オブ・ア・ネーション』展)

1967年――シカゴの《ウォール・オブ・リスペクト》

住宅街の壁が、黒人の歴史を伝える場所になった

1967年、シカゴ南部の街角に《ウォール・オブ・リスペクト(尊敬の壁)》が制作されました。黒人の文化活動組織OBACの美術部門に参加した画家や写真家が、建物の外壁を使って多数の黒人の人物像を描きました。通りを歩く人々が日常的に目にする建物の壁が、歴史と文化を紹介する大きな画面へ変わりました。

美術館へ足を運ばなくても、誰でも作品を見られることが重要でした。絵を描く過程では近隣の人々も関わり、壁画は制作が進む時間を通して公共の出来事になりました。作品を見る場所と、社会的な議論が起こる場所が重なった点に、この試みの新しさがあります。(参照:スミソニアン・アメリカ美術史アーカイブ|《尊敬の壁》の制作記録)

描かれたのは政治家だけでなく、音楽家や文化人だった

壁面には、社会運動の指導者、思想家、スポーツ選手、音楽家、芸術家などが描かれました。黒人の歴史を誰が担い、何を誇りとして共有するかを、人物像の並び方そのものから伝えようとしたのです。当時の主流メディアでは十分に扱われていなかった人々が、街の中心に大きく姿を現しました。

記録写真を見ると、異なる大きさと画風の肖像が壁の複数の面に広がっています。一人の画家が画面全体を統一した壁画というより、多くの作家が協働して作った視覚的な集まりです。内容の多様さと形式の多様さが、地域の文化の厚みを感じさせます。(参照:スミソニアン|1967年《尊敬の壁》の写真)

共同制作と記録写真が、その後へ何を残したのか

《尊敬の壁》にはジェフ・ドナルドソン、バーバラ・ジョーンズ=ホーグ、ウィリアム・ウォーカーらが関わりました。スミソニアンのアーカイブには、制作に参加した人々を記した当時の記録も残っています。街に描かれた作品は、通常の美術館収蔵品とは異なり、建物の所有や環境の変化に左右される存在でした。

壁画は後に失われましたが、写真、文書、参加者の証言を通して活動の様子を知ることができます。こうした保存の形は、街頭の美術をどう後世へ伝えるかという問題も浮かび上がらせます。シカゴの実践は他地域の壁画制作にも刺激を与えました。(参照:スミソニアン|《尊敬の壁》参加芸術家の記録)

1968年――アフリコブラが示した新しい色彩と図像

《尊敬の壁》から生まれた芸術家集団

1968年、シカゴでアフリコブラ(AfriCOBRA)の活動が始まりました。ジェフ・ドナルドソン、ワズワース・ジャレル、バーバラ・ジョーンズ=ホーグらが関わり、黒人の人々に向けた積極的で力強い画像を共同で考えました。集団の発展には、前年の《尊敬の壁》で得た経験が大きな意味を持っていました。

アフリコブラは、作家がそれぞれ別の作品を制作しながら、表現の目標や色彩の使い方について議論した集団です。黒人の歴史や社会的な誇りを伝えるには、どのような色と人物像がふさわしいかを考えました。その活動は地域の中で育ちながら、より広い観客へ作品を届けることを目指しました。(参照:スミソニアン・アメリカ美術史アーカイブ|アフリコブラ創設者への聞き取り)

鮮やかな色彩、反復する文字、前向きな人物像

アフリコブラの作家たちは、明るい色彩、力強い線、複数の人物や文字を使って画面を構成しました。人物像がポスターのように正面から訴えかける作品や、文字と色が重なって動きのあるリズムを生み出す作品があります。黒人の生活を苦難だけで描かず、誇りや連帯、創造的な力を伝えようとしたことが特徴です。

印刷によって複製しやすい版画は、広い地域で画像を共有するためにも役立ちました。色と文字の選択には、地域の人々へ考えを届ける意図もありました。遠くから見ても力があり、受け取る人が意味を読み取れる構成を追究したことに、作品の社会的な目標と造形的な工夫の結びつきがあります。(参照:スミソニアン・アメリカ美術館|ジョーンズ=ホーグの版画)

バーバラ・ジョーンズ=ホーグと、版画の公共性

バーバラ・ジョーンズ=ホーグは、人物の輪郭に強い色を重ね、文字を組み合わせた版画を制作しました。複数の黒人の人物が画面に集まる作品には、互いの存在を認め合い、行動を共にする意思が表されています。印刷物として配布できる画面は、美術館の一点物とは異なる届け方を可能にしました。

彼女は1967年の《尊敬の壁》にも参加しており、壁面での共同制作と版画の制作には、作品を地域社会へ開くというつながりがあります。大胆な構図と色彩の選択そのものが、社会に向けて働く視覚言語になっていました。(参照:スミソニアン・アメリカ美術館|バーバラ・ジョーンズ=ホーグ)

新聞、ポスター、版画――画像が社会へ届く方法

エモリー・ダグラスとブラックパンサー党の新聞

エモリー・ダグラスは1967年にブラックパンサー党の印刷物の制作へ関わり、党機関紙に強い輪郭と大きな文字による図像を展開しました。警察による暴力、貧困、住まい、子どもたちの暮らしなどを描き、政治的な問題を短い時間で理解できる画面にしました。新聞は地域の人々の手へ渡り、読み継がれる媒体でした。

紙面の画像は絵画のように一つの場所へ固定されず、印刷と配布によって広がります。作家は図像の意味だけでなく、文字の大きさ、紙面構成、複製のしやすさを考えました。デザインと美術、政治的な伝達が密接に結びついた実践として見ることができます。(参照:サンフランシスコ近代美術館|エモリー・ダグラスと党機関紙)

画像を繰り返し刷ることは、なぜ重要だったのか

街で配るチラシや機関紙、版画のような複製可能な媒体は、作品を見る機会を広げました。紙の大きさやインクの色には制約がありますが、その制約を生かして鮮明な輪郭や繰り返し使える図像が作られます。人々が作品を所有したり、壁に貼ったり、友人へ渡したりできる点も重要でした。

同じ時代のポップアートでも広告や複製画像が使われていました。ブラック・アーツ運動の印刷物では、商品文化を表現に取り入れること以上に、地域社会へ情報を届けることが制作上の大きな課題になりました。同じ印刷技術が、異なる目的の芸術を支えていたことがわかります。(参照:ニューヨーク近代美術館|エモリー・ダグラス)

エリザベス・キャトレット《小作農》――尊厳を伝える版画

エリザベス・キャトレットの《小作農(Sharecropper)》は、帽子をかぶった黒人女性を力強く捉えた版画です。1952年に構想された図像は、1968〜70年頃にも版として刊行されました。小作農は収穫の一部を地代として納める仕組みのもとで困難な生活を送ることがあり、画面にはその重い歴史が込められています。

キャトレットはメキシコの社会的な版画制作の運動と深く関わり、版画が多くの人に届く力を重視しました。女性の表情は過酷な生活を物語るとともに、個人としての尊厳を強く示します。作品が1960年代末にも広まったことは、過去の搾取の歴史が公民権運動の時代にも切実な問題として受け取られていたことを伝えます。(参照:ニューヨーク近代美術館|キャトレット《小作農》)

抽象絵画の中にもあった社会の記憶

サム・ギリアム《4月4日》――題名が示す出来事

サム・ギリアムの《4月4日》(1969)は、大きな画面に淡い色彩と深い色のにじみが重なる抽象絵画です。題名はキング牧師が暗殺された1968年4月4日を指しています。ギリアムは当時ワシントンに暮らし、暗殺後に起こった街の混乱を目にしていました。翌年に描いた作品には、その記憶が静かに重ねられています。

人物や事件を直接描かない絵画でも、制作の背景や題名によって具体的な歴史とつながります。色が重なり、ゆっくりと広がっていく画面からは悲しみや希望を感じ取ることもできます。ギリアムの作品は、抽象表現と社会への応答が同じ絵画の中で成り立つ例です。(参照:スミソニアン・アメリカ美術館|ギリアム《4月4日》)

色を染み込ませ、キャンバスを垂らすという実験

ギリアムは薄めたアクリル絵具を大きな布に染み込ませ、折り畳みや吊り下げを利用して色の流れを作りました。1960年代後半には枠から外したキャンバスを壁や天井から垂らす作品へ進み、絵画の形そのものを変えています。色面絵画と関わりながら、絵画と展示空間の関係を独自に広げました。

これらの作品は、人物の肖像や政治的な標語とは別の方法で時代の感覚を表しています。素材や制作方法の実験も、当時の黒人芸術家が切り開いた重要な仕事です。作品を見る際には、色がどのように現れ、布がどんな形で空間に広がっているかという造形上の問題も丁寧に確認したいところです。(参照:スミソニアン・アメリカ美術館|ギリアムの抽象絵画と公民権運動)

政治的な題材を描く自由と、描かない自由

黒人芸術家たちが当時直面した問題の一つは、作品の政治性をどのように期待されるかということでした。抽象表現を続ける作家に、黒人の歴史をわかりやすく描くべきだという声が向けられることもありました。政治的な出来事と強い関係を持ちながら、作品の形式を自分で選びたい作家もいたのです。

ギリアムの《4月4日》と、リングゴールドの《死》を並べて考えると、両者の方法は大きく異なります。それぞれが同じ時代の暴力や変化を経験しながら、異なる絵画の可能性を追究しました。その選択の違いまで含めることで、アメリカの現代美術の歴史がより立体的に見えてきます。(参照:ブルックリン美術館|『ソウル・オブ・ア・ネーション』展)

黒人女性の芸術家が直面した複数の問題

人種と性別――二つの視点から美術界を見る

1960〜70年代の黒人女性芸術家は、人種差別への抗議が広がる社会で活動すると同時に、女性の作品を十分に評価しない美術制度とも向き合っていました。黒人の政治運動の内部にも、女性の経験が中心に置かれにくい場面がありました。芸術家たちは、作品の主題だけでなく、展覧会へ参加する権利や批評される機会についても声を上げます。

ブルックリン美術館は、この時代の黒人女性芸術家たちの作品をまとめた展覧会で、人種、性別、政治的な活動、美術の実験が交わる複雑な状況を取り上げています。一つの立場や表現方法にまとめず、それぞれの仕事が生まれた条件を見る必要があります。(参照:ブルックリン美術館|『私たちは革命を望んだ』展)

画家、版画家、写真家が広げた表現の領域

フェイス・リングゴールドは絵画と抗議活動を結びつけ、エリザベス・キャトレットは版画と彫刻によって女性の尊厳を描きました。ベティ・サールは日用品や差別的な図像を集め、立体作品へ変えました。女性たちの仕事には、家族の記憶、身体、都市の経験、社会制度への批評など多くの主題が存在します。

同じ時代には映像、パフォーマンス、写真、布、印刷物も表現に用いられています。作品の素材や発表方法の多様さを見れば、黒人女性芸術家が既存の美術の分類そのものを広げる仕事をしていたことがわかります。(参照:ブルックリン美術館|『私たちは革命を望んだ』展)

女性たちが互いの作品を紹介する場所を作った

1970年代初め、黒人女性芸術家たちは自分たちの展覧会や交流の場を作り始めました。「Where We At」のような集団は、黒人女性の作品が発表され、議論されるための機会を求めて活動しました。こうした取り組みは、黒人芸術家の活動の内部にも存在する性別による不平等を見直す意味を持っていました。

互いの仕事を知り、展覧会を企画することは、作品を制作する環境を作ることでもあります。芸術家個人の成果だけを見ると、同じ時代に作品を支えたネットワークの重要性を見落とします。女性たちの活動は、その後のフェミニズム美術と黒人芸術の双方へ続く基盤になりました。(参照:ブルックリン美術館|『私たちは革命を望んだ』展)

1972年――ベティ・サールが差別的な図像を作り替える

《ジェマイマおばさんの解放》は何を扱った作品か

ベティ・サールは1972年、《ジェマイマおばさんの解放》を制作しました。作品には、黒人女性を従順な家事労働者として描いてきた「ジェマイマおばさん」の人形や印刷物が使われています。商品や広告に長く現れた固定的な人物像を、作家が集め、組み合わせることで、それが持つ差別的な意味を目の前に示しました。

サールはこの人物像に武器を持たせ、従来の受動的なイメージを大きく変えています。社会で流通する図像を素材として取り込み、その組み合わせを変えることによって意味を批評した作品です。写真や日用品を集める制作方法が、歴史的な偏見に向き合う手段になりました。(参照:ベティ・サール公式サイト|《ジェマイマおばさんの解放》)

日用品や人形を使うことの美術史的な意味

サールの作品は、木箱の中に人形や印刷物などを組み込む立体的な構成を持っています。日常の品物を作品へ取り入れる方法は、同時代のアメリカでラウシェンバーグらが発展させた表現とも接点があります。サールはその方法を、黒人女性に向けられてきた固定的なイメージを批評するために使いました。

日常の物には、それが売られたり使われたりした社会の価値観が刻まれています。素材の組み合わせによって商品のイメージを別の意味へ変えることは、過去の図像を読み直し、主導権を取り戻す行為でもありました。(参照:ベティ・サール公式サイト|《ジェマイマおばさんの解放》)

黒人女性自身の視点から歴史を描き直す

サールの作品が示したのは、黒人の歴史を語る際に女性の姿がどのように描かれてきたかという問題です。広告や家庭用品の図像は、多くの人が繰り返し目にするため、偏見を日常の中へ浸透させる力を持っていました。サールはそのイメージを再利用し、見る人が慣れ親しんだ図像の意味を問い直すようにしました。

ブラック・アーツ運動の時代を理解するには、社会への抗議とともに、誰が誰の姿を作ってきたのかという表象の問題を考える必要があります。サールの作品は、その問いを女性自身の視点から深めた重要な実践です。(参照:ブルックリン美術館|『私たちは革命を望んだ』展)

美術館で何が展示されるかも争点になった

1968年、ハーレムにスタジオ・ミュージアムが開館する

1968年9月、ニューヨークのハーレムにスタジオ・ミュージアムが開館しました。黒人の芸術家が発表し、学び、作品を支援する場所を作ることは、当時の美術制度にとって大きな意味を持っていました。地域に根ざした施設が、制作と展示、教育をつなげる拠点になったのです。

最初の展覧会《Electronic Refractions II》で紹介されたのは、トム・ロイドによる電子制御された光の作品でした。黒人の芸術家が抽象と技術の実験を追究していたことを明確に示す選択です。美術館が何を展示するかという判断も、その時代の美術の可能性を示していました。(参照:ハーレムのスタジオ・ミュージアム|トム・ロイドの初回展)

1969年「ハーレム・オン・マイ・マインド」への抗議

1969年、メトロポリタン美術館はハーレムの歴史と文化を紹介する「Harlem on My Mind」を開催しました。新聞の複製、写真、音などによって地域を紹介する展覧会でしたが、黒人の画家や彫刻家が制作した絵画・彫刻は展示されませんでした。黒人の文化を扱う企画で当事者の美術作品が見られないことは、大きな問題となります。

ベニー・アンドリュース、ベアデン、ルイスらの芸術家が抗議し、ブラック・エマージェンシー・カルチュラル・コーアリション(BECC)が組織されました。作品を誰が選び、誰の意見を聞き、何を美術館が文化として紹介するのかという問題が公の場で問われました。(参照:メトロポリタン美術館|「ハーレム・オン・マイ・マインド」再検証)

企画する人、作品を選ぶ人、記録を残す人

美術館は作品を展示するだけの場所ではありません。何を所蔵し、どの作品を重要な歴史として紹介し、どの作家について資料を保存するかという判断を日々重ねています。1969年の抗議は、作品の評価と美術制度の運営が結びついていることを明らかにしました。

美術館が黒人の文化を紹介するとき、芸術家の作品をどう扱い、企画へ誰が参加するのか。芸術家たちは、展示内容に加えてこの仕組みを変えることを求めました。そうした働きかけは、その後の美術館や地域の芸術施設のあり方にも長く関わることになります。(参照:メトロポリタン美術館|「ハーレム・オン・マイ・マインド」再検証)

1970年代前半――黒人の芸術を発表する場所を自分たちで作る

1971年ホイットニー美術館の黒人芸術家展

1971年、ホイットニー美術館は「Contemporary Black Artists in America(現代アメリカの黒人芸術家)」展を開催しました。公立・私立の美術館で黒人芸術家の展示機会がどう確保されるかという問題が活発に議論されていた時期です。企画展が設けられること自体が注目を集める一方、作品の選定や主導権をめぐる問題も続きました。

新しい発表の機会が生まれることと、芸術家が長期的に収蔵・研究されることには違いがあります。ひとつの特別展で取り上げられた後にも、制作を続け、作品を残すための制度が必要です。1970年代の議論は、展示の数だけでなく、その仕組みの持続性へ向かっていきます。(参照:ホイットニー美術館|1971年『現代アメリカの黒人芸術家』展)

1974年、ジャスト・アバヴ・ミッドタウンの開設

1974年、リンダ・グード・ブライアントはニューヨークにギャラリー「ジャスト・アバヴ・ミッドタウン(JAM)」を開きました。主要な商業画廊の多い地域で、黒人芸術家や有色人種の芸術家の作品に発表の場を与えようとした活動です。開設は1960年代の公民権運動や美術館への抗議から続く、制度を自ら作る試みの一つでした。

JAMでは実験的な作品や議論が育ち、後に評価される多くの芸術家が関わりました。商業画廊という仕組みを利用しながら、従来の市場で十分に機会を得られなかった表現を支えたことが重要です。作品を作る自由を支えるには、発表できる場所も必要だったのです。(参照:ニューヨーク近代美術館アーカイブ|JAMギャラリー資料)

1975年頃、芸術の活動範囲はどこまで広がったか

1970年代半ばには、黒人芸術家たちの活動は、街頭の壁画や新聞、版画、地域施設、商業画廊、美術館などへ広がっていました。政治的なメッセージを強く示す作品もあれば、素材や色彩を徹底して追究する作品もあります。作品の発表場所と制作方法の双方で、複数の選択肢が育っていきました。

この広がりは、黒人芸術を一つの運動名へまとめることの難しさも示しています。ブラック・アーツ運動に関わった実践は1975年以降も続いています。芸術を作り、見せ、記録する仕組みを変えようとした活動は、その後もさまざまな形で続いていきます。(参照:ニューヨーク近代美術館|ジャスト・アバヴ・ミッドタウンの歴史)

1975年以降へ――この時代が美術史に残したもの

黒人芸術を一つの画風に固定しない歴史の見方

ブラック・アーツ運動は、黒人の文化的な自立と社会との関係を追究した大きな動きでした。同じ時代の黒人芸術家たちは、それぞれ異なる団体や活動の場を持ち、作品の形式や政治的な考え方もさまざまでした。作品を丁寧に見比べることで、同じ歴史的な状況から豊かな表現が生まれたことが理解できます。

この視点を持つと、抽象絵画や彫刻を選んだ芸術家の仕事も、公民権運動の時代の美術史から切り離さずに考えられます。作家それぞれが、当時の社会と向き合いながら独自の形式を模索していました。(参照:ブルックリン美術館|『ソウル・オブ・ア・ネーション』展)

2017〜2018年の展覧会が再検討した作品群

2017年、ブルックリン美術館は黒人女性芸術家の活動を再検討する「We Wanted a Revolution」を開催しました。続く2018年には、1963年以降の黒人芸術家の多様な作品を集めた「Soul of a Nation」が同館で紹介されました。かつて美術史の中心に十分に位置づけられてこなかった作品を、同時代の美術全体の中で見直す試みです。

こうした展覧会では政治的な主題の作品とともに、造形的な実験を重視した作品も紹介されました。抽象絵画、コラージュ、彫刻、写真、版画、パフォーマンスなどを集め、美術の形式に関する革新も評価しました。過去の運動を調べ直すことは、アメリカの現代美術史の地図そのものを描き直す仕事でもあります。(参照:ブルックリン美術館|『ソウル・オブ・ア・ネーション』展)

公民権運動とブラック・アーツ運動から何を読み取れるか

奴隷制の廃止から約100年がたっても、人種隔離と政治参加の制限が続いていた社会で、人々は公民権運動を進めました。その中で芸術家たちは、差別の現実を描き、黒人の文化的な誇りを表し、作品を地域社会へ届け、美術館の制度を変えるよう働きかけました。運動は法律の変更にとどまらず、社会で誰の姿が見えるかという問題にも関わっていたのです。

この時代の作品を前にしたとき、描かれた人物、使われた素材、色、文字、設置された場所について考えると、芸術家が何を変えようとしたかが見えてきます。そこから先は1970年代後半以降の現代美術へつながっていきます。(参照:ブルックリン美術館|『ソウル・オブ・ア・ネーション』展)

年表――奴隷制から1975年へ

  1. 1619年 英領ヴァージニアに連行されたアフリカ人の記録。北米植民地での奴隷制はその後制度化される。
  2. 1863年 リンカーン大統領の奴隷解放宣言が発効する。
  3. 1865年 南北戦争が終結し、憲法修正第13条が批准される。
  4. 1868・1870年 憲法修正第14・15条によって市民権と人種を理由に否定されない投票権が規定される。
  5. 1877年前後 再建期の政策が終息へ向かい、南部で権利保障の後退が進む。
  6. 1896年 プレッシー対ファーガソン判決が人種隔離を認める法理を容認する。
  7. 1954年 ブラウン対教育委員会判決。公立学校の人種隔離が違憲とされる。
  8. 1955年 モンゴメリーのバス・ボイコットが始まる。
  9. 1960〜1961年 学生の座り込み運動、フリーダム・ライドが広がる。
  10. 1963年 ワシントン大行進。ニューヨークで黒人芸術家集団スパイラルが結成される。
  11. 1964年 公民権法が成立する。
  12. 1965年 投票権法が成立。スパイラルが「黒と白」展を開催。アミリ・バラカの劇場・学校活動が運動の起点となる。
  13. 1966年 ブラックパンサー党が結成される。
  14. 1967年 リングゴールド《アメリカ人シリーズ第20番:死》。シカゴで《尊敬の壁》が制作される。
  15. 1968年 キング牧師が暗殺される。アフリコブラ結成。ハーレムでスタジオ・ミュージアム開館。
  16. 1969年 メトロポリタン美術館「Harlem on My Mind」への抗議。ギリアム《4月4日》。
  17. 1971年 ホイットニー美術館「Contemporary Black Artists in America」展。
  18. 1972年 ベティ・サール《ジェマイマおばさんの解放》。
  19. 1974年 リンダ・グード・ブライアントが「ジャスト・アバヴ・ミッドタウン」を開設。
  20. 1975年頃 ブラック・アーツ運動に関わる多様な活動が、その後も地域や美術制度の中で続く。

まとめ――美術と社会をともに見る

1963〜1975年のアメリカでは、公民権運動が社会の制度を変え、黒人芸術家たちは自分たちの表現と社会の関係を問い直しました。1865年に奴隷制が廃止された後も、人種隔離や投票権の制限が続いていた歴史を知ると、街頭での行進や芸術家たちの活動が何に向けられていたのかを理解できます。

スパイラルの抽象画とコラージュ、リングゴールドの大きな歴史画、シカゴの壁画、アフリコブラの版画、ギリアムの色彩、サールの立体作品は、それぞれ異なる方法で時代と向き合っていました。作品の内容とともに、どこで、誰に向けて発表されたかを見ることが重要です。美術館で展示される機会を求める抗議や、新しい芸術施設を作る活動も、この時代の美術史の一部です。

さらに奴隷制から現代までの長い歴史を知りたい方には、ART LIBRARYの別記事「アメリカの奴隷制と人種差別から読む黒人芸術の歴史 — ハーレム、ジャズ、公民権運動、現代美術」が関連する内容を扱っています。この記事では1960年代から1970年代半ばへ焦点を合わせ、芸術家たちが生み出した個々の作品と活動をさらに詳しく見てきました。

参考資料・出典

本文は、米国国立公文書館、米国議会図書館、国立公園局、スミソニアン協会、美術館、作家公式資料などを参照して制作しました。法律や歴史に関する記述は公的な記録を優先し、作品の制作年・資料の説明は所蔵館と関連アーカイブに基づいています。本文の各小節の末尾にも主要な参照資料へのリンクを配置しています。

資料確認日:2026年10月14日 / ART LIBRARY