紀元前700–480
古代ギリシア・アルカイック時代
神殿と初期の人物彫刻
紀元前7世紀のエーゲ海周辺では、山に囲まれた平野、島々の港、アナトリア西岸の海辺に、それぞれ異なる規模の都市が育っていました。小麦やオリーブ、ブドウの栽培と牧畜が暮らしを支え、陶器と金属製品を運ぶ船が地中海を往来しました。都市では市民の集まりと有力な家々が政治に関わり、広場や聖域を共有するようになりました。フェニキア文字をもとに発達したギリシア文字も広まり、人の名前や奉納の言葉が石と陶器に記されます。ギリシア語を用いていても、都市ごとに制度や習慣、工房の技術には違いがありました。
東地中海の交易が広がると、エジプトの大型石像、シリアやフェニキアの獣文様、アナトリアの金属器など、多様な造形に触れる機会が増えました。ナクソス島やパロス島では大理石が切り出され、石工は以前よりはるかに大きな人物を彫り始めます。聖域に建てる神殿も木と土の建物から石の列柱を備えたものへと広がり、屋根の三角形の部分に彫刻が置かれました。
紀元前6世紀になると、アテナイ、コリントス、サモス島、デルフォイなどに、それぞれ特徴のある石像や彩色陶器が集まります。神に捧げた像は台座の銘文から奉納者が分かるものがあり、墓に立てた像は亡くなった人の名前を伝えることがあります。同じ時代の陶器には、動物の帯模様から神話の場面を細かく描いたものまで残っています。神殿の建材、彫像の色、壺に刻まれた署名をたどると、それぞれの製作と利用の場面が見えてきます。
CONTENTS
海の交易と聖域|紀元前7世紀の造形
都市国家と工房|島々、ギリシア本土、アナトリア沿岸
都市の工房が必要とした石材や金属は、必ずしも周囲の山や海岸から得られたものではありません。アッティカで彫られた初期の青年像にはナクソス島の大理石が使われ、デルフォイでは島の都市が採掘による富を使って建築を寄進しました。紀元前7世紀にはギリシア人の定住地が南イタリアやシチリア島、黒海沿岸へも広がり、島を越えて陶器や装身具が動きます。運ばれた材料、別の土地で制作された完成品、当地でまねて作った品は、出土品ごとに区別する必要があります。
海を渡った陶器や金属器には、ライオン、スフィンクス、グリフォン、蓮やパルメットなど、近東とエジプトに由来する形が使われました。コリントスの陶工は小さな香油壺に動物の列を描き、島々の石工は人物像の髪と服を大きな塊から刻み出しています。動物文様が残ることは交易や模倣を示しても、その陶器を焼いた工房が必ず近東にあったことを意味しません。(参照:メトロポリタン美術館|アルカイック時代のギリシア美術/メトロポリタン美術館|コリントスの動物帯文様付き香油壺)
デロスの『ニカンドレ奉納像』|紀元前650年頃の女性像
キクラデス諸島のデロス島からは、紀元前650〜625年頃の大理石製の女性立像『ニカンドレ奉納像』が見つかっています。高さは約1.75メートルで、正面に向かって足をそろえ、腕を身体に密着させた細長い板のような輪郭です。顔、胸、帯状の衣服は浅く彫られ、両側へ開いた腕を個別の塊として浮き立たせるより、全身を前面の広い一枚の面として仕上げています。
衣の側面に刻んだギリシア語の銘文は、ナクソス島出身の女性ニカンドレがアルテミスに奉納したこと、父や夫などの名を記しています。1878年にデロス島の聖域で発見された像は、現在はアテネ国立考古学博物館の収蔵番号1として展示されています。像がアルテミス自身を表すのか、奉納した女性の姿を示すのかは図像だけでは断定できません。銘文は、石像の形から推測するのとは別に奉納という行為を直接知らせています。(参照:アテネ国立考古学博物館|彫刻常設展示・奉納像と墓標/ケンブリッジ大学古典考古学博物館|ニカンドレ奉納像/ギリシア語センター|ニカンドレ奉納像と銘文の解説)
コリントスの小さな香油壺|動物の列と異国の文様
コリントス周辺の窯で紀元前7世紀に焼かれた香油壺には、手のひらに収まるほど小さなものがあります。メトロポリタン美術館所蔵の先細りの香油壺(収蔵番号38.11.9)は高さ5.3センチで、器の肩に2頭、胴に3頭の動物を帯状に描いています。細い首、小さな口、ふくらんだ肩という形は、香油を少量ずつ扱うのに向いたものです。
7世紀のコリントス陶器では、黄味がかった素地に黒い動物や怪物を置き、その隙間を花文様で埋める装飾が多くなりました。各地の墓から見つかるこうした器は、香油と容器が広く流通したことを示します。出土地がイタリアやギリシアの別の都市でも、粘土、器形、絵付けを検討して制作地を別に判断します。(参照:メトロポリタン美術館|コリントスの動物帯文様付き香油壺/メトロポリタン美術館|アルカイック時代のギリシア美術)
神殿建築|石の柱と巨大な屋根
神を祭る建物の構造|ドーリス式とイオニア式
ギリシアの神殿では、外側に柱を巡らせ、その内側へ神像を安置する細長い部屋を置きました。儀礼の主要な祭壇は建物の外側にあり、参拝者が全員内部へ入って礼拝するための建築とは使い方が異なります。初期の建物には木の柱、土壁、瓦屋根が用いられ、紀元前6世紀には石造の柱と梁を多く用いる大規模な建設が進みます。石材を採る場所と運搬できる量が、建物の大きさや仕上げに影響しました。
本土の神殿に多いドーリス式では、柱は台座を挟まず基壇の上に立ち、柱頭には丸く膨らむ部分と平たい板があります。上部の横帯には縦溝を刻んだ板と四角い板が交互に並びます。島々やアナトリア沿岸で発達したイオニア式は、柱の下に基部を設け、柱頭の両端を渦巻きにし、建物の上部を連続した浮彫の帯で飾る例があります。実際の神殿では地域と建設時期による差も大きく、二つの形式を図式だけで区切れません。(参照:メトロポリタン美術館|古代ギリシアの神殿と柱式/メトロポリタン美術館|アルカイック時代のギリシア美術)
オリンピアのヘラ神殿|木製柱から石柱への置換説
ペロポネソス半島のオリンピアに建てられたヘラ神殿は、紀元前600年頃にさかのぼる初期のドーリス式神殿です。石の下部構造の上に土壁を築き、長方形の部屋を列柱で囲みました。残された柱は柱頭や太さが一様ではありません。古代の著述家パウサニアスが、まだ木製の柱を一つ見たと記したことなどから、19世紀末の発掘に関わったヴィルヘルム・デルプフェルト以来、もとは木の柱を使い、傷んだ柱から石材へ替えたという説明が広まりました。
建築考古学者フィリップ・サピアシュタインは2016年、柱の基礎と残存部、古い実測資料、パウサニアスの文章を再検討しました。その結果、外側の列柱は当初から石造だった可能性が高いと論じています。現在の柱に形の差があることだけでは、木から石へ置換した順番を示せません。オリンピアの神殿は、石造建築の起源に関する研究でも見直しが続いている例です。(参照:ギリシア文化省|オリンピアのヘラ神殿/フィリップ・サピアシュタイン(2016年)|オリンピアのヘラ神殿と列柱の再検討)
サモス島のヘラ聖域|海を越える石材と百本の柱
サモス島のヘラ聖域では、紀元前8世紀から神殿が繰り返し建て替えられました。紀元前570〜560年頃、建築家ロイコスとテオドロスによる神殿は、およそ幅52.5メートル、長さ105メートルに達しました。ユネスコの調査資料によると、少なくとも100本の柱を用い、石の柱基部を旋盤状の器具で加工する技術が伝えられています。幅の広い土台と二重の柱列が、建物の規模を支えました。
さらに紀元前6世紀後半、支配者ポリュクラテスの時代には、幅約55メートル、長さ約109メートルの新しい大建築が着工されました。これらは同一の神殿が徐々に完成した一件ではなく、異なる段階の建物です。聖域には彫像や遠方からの奉納品も集まりました。現地に残る柱の基礎と構築物から、神殿建築の拡大と島の港町の経済力との関係が検討されています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|サモス島のヘラ聖域・神殿の段階)
コリントスのアポロン神殿|一本の石を刻んだ列柱
コリントスのアポロン神殿は、紀元前6世紀前半から半ばに建てられたドーリス式石造神殿として知られます。現地には大きな石灰岩の柱がまとまって残り、一本の岩から柱身を切り出した太い柱と、その間隔から当時の建物の輪郭を読み取れます。柱には縦方向の溝が刻まれ、上部へ行くほどわずかに細くなる形です。
柱の素材が大理石である必要はなく、ギリシア本土では入手しやすい石灰岩が大きな建造物に使われました。彫刻と建築が一体になる破風や軒の飾りと異なり、柱とその間隔は建物を支えるための構造です。ドーリス式の構成を知るうえで、神殿を飾った彫像と石の躯体を分けて見ることができます。(参照:メトロポリタン美術館|古代ギリシアの神殿と柱式)
神殿の破風彫刻|屋根の三角形に物語を配置する
アテナイのヘカトンペドン|獅子、牡牛、三身の怪物
アテナイのアクロポリスにあった初期の神殿『ヘカトンペドン』の破風彫刻は、紀元前570年頃の多孔質石灰岩で作られました。破風は屋根の斜面と水平な梁に囲まれた三角形の部分です。アクロポリス博物館が西側の破風に属すると考える一群は、復元すると長さ約14.1メートル、高さ約1.44メートルになります。主要な破片は1888年に後世のパルテノン神殿の東・南東で発見され、ヘラクレスの頭部だけは1938年に丘の北斜面で出土しました。
中央にいる二頭の獅子は牛に爪を立てて食らいつき、左にはヘラクレスが海の神トリトンを押さえ込む場面があります。右端の三身の怪物は、ひげのある三人の男の上半身に蛇の尾が絡みついた姿で、翼を備えています。三人はそれぞれ波の形、雷、鳥を手に持ち、その名はネレウス、テュポンなどと解釈されてきました。黒、赤、青、黄土色の彩色が残り、石の表面へ刻線を入れ、別に作った蛇を金属の留め具で取り付けた痕跡もあります。どの神殿のどちら側へ置かれていたかは、残存する建築片との照合による復元です。(参照:アクロポリス博物館|ヘカトンペドン神殿西破風の彩色彫刻/アクロポリス博物館|ヘカトンペドン東破風の牛を襲う獣)
デルフォイの『シフノス人の宝庫』|金属資源で築いた大理石建築
アポロンの神託で知られるデルフォイの聖域には、都市が奉納品を納める小さな建物が立ち並びました。キクラデス諸島のシフノス島の人々は、紀元前525年頃、金銀の採掘から得た富を用いて大理石造りの『シフノス人の宝庫』を建てています。建物の正面では、普通の柱の代わりに女性の立像が梁を支え、四方の壁の上部を連続した浅い彫刻の帯が巡っていました。
北側の浮彫には神々と巨人たちの戦いが刻まれ、兜をかぶった兵士、攻撃する女神、武具を持つ人物や獣が連なります。別の側面にはトロイア戦争に関わる神々の集まりなどが描かれました。採掘で豊かになった島の奉納と、聖域の目に入る場所へ置いた物語彫刻が同じ建物で結びついています。浮彫の人物名の判読や、壊れた部分の主題の復元には研究者の間で違いがあります。(参照:ギリシア文化省キクラデス考古局|シフノス人の宝庫と銀鉱山/ケンブリッジ大学古典考古学博物館|デルフォイのシフノス人の宝庫の浮彫)
アイギナ島のアファイア神殿|戦士を並べた東西の破風
サロニコス湾のアイギナ島にあるアファイア神殿は、紀元前500〜480年頃のドーリス式建築です。東と西の破風には、ギリシア人とトロイア勢が武器を交える場面が配置されました。中央には女神アテナが立ち、両側へ槍を突き出す兵士、膝をついて弓を引く者、傷ついて横たわる者が広がります。三角形の端に向かって彫像の姿勢と高さを変え、建築の枠へ納めています。
彫刻群は1811年、カール・ハラー・フォン・ハラーシュタインらが参加した調査で発見され、現在はミュンヘンのグリュプトテークにあります。両側の破風は造形の扱いが異なり、制作時期の差や組み替えも検討されてきました。身を伏せた兵士の顔は口元が笑っているように見える作品もあり、それを感情の直接的な表現とみなすかどうかは別の問題です。出土した破片をどう配置するかで戦闘場面の読み方も変わるため、展示復元には考古学と彫刻研究の成果が反映されています。(参照:メトロポリタン美術館|古代ギリシアの神殿と柱式/ミュンヘン古代美術館・グリュプトテーク|アイギナ島アファイア神殿の破風/ミュンヘン古代美術館(2011年)|1811年のアイギナ神殿彫刻の発見)
クーロス像|大理石で彫った直立する青年
ナクソス産大理石の青年像|紀元前590〜580年頃
クーロスは、両腕を身体の脇に下ろし、左脚を少し前へ出して正面に立つ裸体の青年像を指します。メトロポリタン美術館所蔵の初期作(収蔵番号32.11.1)は、紀元前590〜580年頃のアッティカ地方の作品とされ、ナクソス島の大理石でできています。高さは約195センチです。両肩は水平に近く、腕と胴の間には狭い隙間があり、膝、脛、腹部の筋肉をまっすぐな線と面の段差で強調しています。
左足を前へ出していても重心は両脚へ均等に近く配分され、歩行の瞬間を描いた姿ではありません。エジプト彫刻との関係は、直立姿勢と全身の比例を比べる研究から論じられてきました。一方、ギリシアの青年像は背面まで彫り、裸体を正面から見せる形を広く用います。像には彩色の痕跡があり、現在の白い石肌だけが完成時の姿ではありません。(参照:メトロポリタン美術館|ナクソス産大理石のクーロス像(32.11.1)/メトロポリタン美術館|アルカイック時代のギリシア美術)
スニオンのクーロス|神殿に捧げた巨大な立像
アッティカ半島南端のスニオンにあるポセイドンの聖域からは、紀元前600年頃の大型クーロス像が見つかりました。アテネ国立考古学博物館の収蔵番号2720で、ほかの初期クーロスと同じように腕を下げて左脚を出し、上半身を垂直に保ちます。頭髪は細かな束に分けて背へ流し、胸や腹、膝の骨格を左右ほぼ対称に彫っています。
この像では足に履いたサンダルを彩色で表していたことが、博物館の解説で指摘されています。裸の青年像という形式に対し、足元に描き足した履物があったわけです。ギリシア文化省の記録によれば、像はポセイドン神殿の前で奉納品などをまとめて埋めた場所から、台座とともに発見されました。神への奉納品として理解され、墓に立てられた同種の像とはもとの役割が異なります。大きな大理石を運び、全身像を一つの塊から削り出す労力が、奉納行為の規模を示しています。(参照:アテネ国立考古学博物館|彫刻常設展示・奉納像と墓標/ギリシア文化省国立文化遺産アーカイブ|スニオンのクーロス像の出土状況)
アナヴィソスの『クロイソス』像|墓碑銘が示す戦死
アッティカ地方アナヴィソスで見つかった青年像『クロイソスのクーロス』(アテネ国立考古学博物館、収蔵番号3851)は、紀元前540〜530年頃の墓標として知られます。初期の像より胸板、腹部、太腿に丸みが加わり、両脚の前後差と骨盤の形がより連続的になっています。髪は額に沿って巻き、その後ろを首の背へまとめ、口元をわずかに持ち上げています。
この墓標と結び付く台座の詩は、クロイソスという名の若者が戦いで亡くなったことを告げ、墓の前に立つ人へ彼を悼むよう求めます。彫像の顔が実際のクロイソス本人に似ていることを証明する資料ではありません。名が刻まれた墓標が担ったのは、遺族や通行人が亡くなった若者の記憶に向き合う場を作ることでした。(参照:アテネ国立考古学博物館|彫刻常設展示・奉納像と墓標/メトロポリタン美術館|アルカイック時代のギリシア美術)
『アリストディコス』像|紀元前500年頃の身体の変化
アテネ国立考古学博物館には、アッティカ地方メソゲイアで見つかった『アリストディコス』のクーロス像(収蔵番号3938)もあります。紀元前500年頃の作と考えられ、脚を前後に置く基本形式を残しながら、胸や腹を彫る境目は初期の彫像よりなだらかです。肩から上腕へ続く筋肉や腰のくびれを、直線の刻み込みだけに頼らず、石のふくらみで示しています。
クーロス像の年代は、作風の変化と墓の出土品、石の加工技術などを照合して決められます。すべての工房が一斉に『古い形式』を捨てたわけではありません。スニオン、アナヴィソス、メソゲイアの像を並べると、およそ100年間に同じ直立形式を保ちながら、骨格と表面の刻み方に違いが出たことが分かります。(参照:アテネ国立考古学博物館|彫刻常設展示・奉納像と墓標)
コレー像と奉納銘文|衣服、色彩、信仰
サモスのコレー像|ケラミュエスの奉納
サモス島のヘラ聖域では、女性の大理石立像が繰り返し捧げられました。ルーヴル美術館所蔵の『サモスのコレー』は紀元前570〜560年頃に作られ、残存する高さは192センチです。長い下着を身体に沿わせ、その上から帯を締め、斜めに短い上衣を重ねています。首より上と片腕の一部は失われています。衣の下の両脚を細かく分離せず、円柱に近い縦長の量感としてまとめた姿です。
1875年にサモス島のヘラ聖域で発見され、前面の衣の縁には『ケラミュエスがヘラに捧げた』という趣旨の銘文があります。ルーヴルは制作地もサモスと記録しています。像が女神ヘラそのものを示すかどうかは、この銘文だけでは決まりません。奉納者の名前と捧げた相手、制作地と発見場所が一致して分かる作例として、アテナイのコレー像と比較できます。(参照:ルーヴル美術館|サモスのコレー像・ケラミュエスの奉納銘文/ユネスコ世界遺産センター|サモス島のヘラ聖域・神殿の段階)
『牛を担ぐ男』|生きた動物を抱える彫像
アクロポリス博物館の『牛を担ぐ男』(収蔵番号624)は紀元前570年頃の奉納像で、高さは約165センチです。ひげを生やした男が子牛を両肩へ載せ、両手で牛の脚をつかんでいます。男の左右の腕と子牛の四肢が胸の前で交差し、身体の中心に大きな斜めの線を作ります。着ている薄い外套は肩を覆いながら胸の正面を開けており、もとは皮膚と布の違いが色で示されていた可能性があります。
像の胴体は1864年、古いアクロポリス博物館の建設工事中に発見され、1887年には足と台座が見つかりました。台座には『パロスの子ロンボス』という奉納者名が右から左へ刻まれています。捧げた子牛を抱える本人の姿という解釈が有力ですが、銘文は奉納者を記しており、像のモデルが本人だったことまで直接述べてはいません。眼には別の材料をはめ込んでいた跡が残ります。(参照:アクロポリス博物館|牛を担ぐ男性の奉納像)
『ペプロスのコレー』|白い衣と色の残った文様
『ペプロスのコレー』(アクロポリス博物館、収蔵番号679)は紀元前530年頃のパロス島産大理石で、高さ約120センチです。現在は白く見える衣服も、もとは白い外衣の中ほどへ小さな動物、鳥、騎手を赤い地の四角い区画に描き、緑の帯と花模様で囲んでいました。内側の衣には青、腰帯には青と緑が用いられ、長い巻き髪には褐色を塗るための赤い下地が残っています。
下半身は1886年にアクロポリスの『コレーの穴』と呼ばれる出土地点で見つかり、頭部と胴も近くから発掘されました。肩の小孔は金属の衣留め、頭上の35個の小孔は冠状の装飾、耳には青銅製の耳飾りを取り付けた痕跡と考えられます。手に何を持っていたかは不明で、弓と矢を持つアルテミス像だったという提案もあります。コレーという名称だけから、女性の奉納者像と決めることはできません。(参照:アクロポリス博物館|ペプロスのコレー像・彩色調査)
『アンテノルのコレー』|陶工の奉納を伝える署名
紀元前525〜500年頃の『アンテノルのコレー』(アクロポリス博物館、収蔵番号681)は、高さ約205センチで、同博物館が所蔵するコレー像のなかでも大きな作品です。長袖の下着と斜めに重ねた外衣を着け、右腕に沿って衣の留め具が浮彫されています。青と赤の花文様や幾何学文様が布の表面を飾り、眼にはガラス、まつ毛には青銅が使われていました。頭には金属装飾を取り付けた痕跡も残ります。
足と左手の一部は1882〜1883年に発見され、像の残りと台座は1886年の発掘で見つかりました。台座には、陶工ネアルコスが得た収入からアテナに捧げ、エウマレスの子アンテノルが制作したと刻まれています。実際の奉納者と作者が書かれた、例外的に確かな手掛かりです。頭上の金具を兜飾りとみて像をアテナ自身と解釈する説もあり、身に着けた装飾の復元によって像の役割の見方が変わります。(参照:アクロポリス博物館|アンテノルのコレー像と台座銘文)
『キオスのコレー』|島の作風と制作地を区別する
紀元前510年頃の『キオスのコレー』(アクロポリス博物館、収蔵番号675)は、高さ約54.5センチの小さな大理石像です。頭は1886年にパルテノン神殿の東、胴は1888年に南で見つかり、三つの破片から接合されました。袖のある衣の上半分は青、下半分は白で、赤い帯を締めています。斜めに掛けた上衣には渦巻きや花、幾何学的な模様が赤と淡い青で描かれ、頭の飾りには追加の金属装飾を留める穴が17個あります。
名前の『キオス』は、キオス島の彫刻に似た仕上げから付けられた現代の通称です。以前はキオス島の彫刻家の署名がある別の台座と結び付けられましたが、アクロポリス博物館はその旧説を現在では認められないとしています。パロス産の石を使い、キオスの作風に似せたからといって、その島で制作されたと証明できるわけではありません。材料、技術、銘文、出土場所をそれぞれ確かめる必要があります。(参照:アクロポリス博物館|キオスのコレー像・工房帰属の研究史)
紀元前480年の破壊|地中から再び見つかった奉納像
紀元前480年、アテナイに侵入したペルシア軍はアクロポリスの神殿を焼き、そこに立っていた多くの奉納像を壊しました。アクロポリス博物館所蔵のあるクーロス像には、正面を中心に火を受けたとみられる損傷が残っています。破片になった石像は後の整地や建設に伴って埋められ、19世紀の大規模な発掘で再び見つかりました。
『ペプロスのコレー』の頭と胴、『アンテノルのコレー』の脚と上半身が別の位置から発見されたのは、もとの展示場所で完全な姿のまま残っていたからではありません。発見場所は遺物が最終的に埋まった位置であり、制作された紀元前6世紀の年代と一致するとは限りません。火を受けた表面、破損した部品、台座の銘文と発掘記録を合わせ、各像の来歴を検討しています。(参照:アクロポリス博物館|紀元前480年の破壊と埋没した奉納像/アクロポリス博物館|火災による損傷が残る青年像/アクロポリス博物館|アルカイック時代のアクロポリス展示)
墓に立つ少女像|フラシクレイアの名前と彩色
『フラシクレイア』|未婚のまま亡くなった少女の墓標
アッティカ地方のメレンダ(古代ミュリヌース)では1972年、墓地に埋められた二体の大理石像が見つかりました。一体は紀元前550〜540年頃の少女像『フラシクレイア』(アテネ国立考古学博物館、収蔵番号4889)、もう一体は少し後に作られた青年像です。少女は長い衣を着て直立し、右手に蓮のつぼみを持ち、頭の冠にも蓮の花を重ねています。像と台座を合わせた高さは約211センチです。
台座は1828年に近くの教会へ転用されていたものが知られ、1972年の発見後に少女像との関係が確かめられました。正面の詩は、フラシクレイアが結婚することなく亡くなり、『いつまでも少女と呼ばれる』と語ります。側面にはパロス島出身の彫刻家アリスティオンの署名があります。少女と一緒に埋められた青年の名前は分からず、二人が兄妹という解釈も確証を欠きます。銘文を持つ台座と像は墓標ですが、もとの墓穴そのものは特定されていません。(参照:アテネ国立考古学博物館|フラシクレイア像とミュリヌースの青年像/エクス=マルセイユ大学|フラシクレイア像の出土と墓碑銘/アドリーヌ・グラン=クレマン(2024年)|フラシクレイア像の彩色と解釈)
赤い衣の文様|顔料分析から復元される色
像の衣には赤い塗料が広く残り、表面には星形、花形、四腕を折り曲げたような幾何学文様が散らされています。顔や手の肌も石の白ではなく、淡い褐色に仕上げられていました。頭には珠飾りや蓮の冠があり、衣の襟と袖口には細かな曲折文、帯には刻線の模様があります。赤い布の一部に青や金属の薄片を使った装飾があった可能性が、表面の調査から示されています。
考古学者ヴィンツェンツ・ブリンクマンらは2010年、残った色材や金属の痕跡を調べて復元を試みました。歴史研究者アドリーヌ・グラン=クレマンは2024年の解説で、石像が古代に穴へ埋められたため彩色が比較的よく保たれた点と、死者の名を刻む言葉と衣の装いとの関係を論じています。赤い衣を婚礼の衣装の象徴と読む解釈はありますが、使われた顔料が分かることと、色を選んだ理由が確定することは別です。(参照:アドリーヌ・グラン=クレマン(2024年)|フラシクレイア像の彩色と解釈)
黒像式陶器|細い線で描く神話と競技
黒像式の描き方|黒い輪郭に細部を刻む
紀元前6世紀のアテナイでは、土をろくろで回して器の胴、首、脚を作り、半乾きの段階で接合して把手を付けました。絵付けでは、細かな粘土を水に溶いた液を人物の形に塗り、その中を尖った道具で引っかいて髪、衣服、武具の線を浮き出させました。白や赤紫の色材を部分的に重ねることもあります。これが黒像式です。黒い部分は単純に煤を後から塗り付けたものではなく、焼成を経て表面の粘土質が黒く変わったものです。
焼く工程は、窯へ十分な空気を入れる段階、空気を絞って器全体を黒くする段階、再び空気を入れる段階に分かれます。最後の段階では素地が赤褐色へ戻り、細かな粘土を塗った部分が黒く保たれます。大きな混酒器、二つの取っ手を持つ貯蔵壺、平たい飲酒杯では、表面の曲がり方に合わせて絵の区画や人物の配置が変えられました。(参照:メトロポリタン美術館(2002年)|黒像式・赤像式と三段階の焼成)
『フランソワの壺』|複数の物語を巡らせた大型混酒器
紀元前570〜560年頃にアテナイで作られた『フランソワの壺』は、高さ約66センチの大きな黒像式混酒器です。肩から口縁へ高く伸びた渦巻き形の取っ手を持ち、胴を細い水平の帯で分けて、多くの神話の場面を上下に並べています。口縁近くにはカリュドンの猪狩り、胴の中心にペレウスとテティスの婚礼に集まる神々、その下にはアキレウスがトロイロスを追う場面があり、反対面には鍛冶の神ヘパイストスがオリュンポスへ戻る場面もあります。人物の横には多くの名前が書き込まれました。
器には陶工エルゴティモスと画家クレイティアスの署名が残ります。1844〜1845年にアレッサンドロ・フランソワがイタリア中部キウージのエトルリア人の墓から発見し、現在はフィレンツェ国立考古学博物館に収蔵されています。アテナイで焼かれた器がイタリアの墓から見つかるのは、作品が海を越えて移動したためです。多数の人物を描いたことだけで、個々の神話が一つの長い物語として連続していると決めることはできません。(参照:オックスフォード大学古典美術研究センター|フランソワの壺・出土地・署名/フランス国立美術史研究所|フランソワの壺の各装飾帯と神話場面/イタリア文化省トスカーナ州博物館局|フランソワの壺の発見と所蔵)
エクセキアスの壺|アキレウスとアイアスの盤上遊戯
ヴァチカン美術館の黒像式アンフォラは、陶工・画家エクセキアスの署名があり、紀元前540〜530年頃の作品です。壺の片面では、アキレウスとアイアスが低い腰掛けに座り、中央の小さな台へ身を寄せて遊戯をしています。二人の背にはそれぞれ槍が立ち、兜の上の飾りや衣の細かなひだまで黒い線の内側へ刻み込まれました。身をかがめた二人の身体の線が、台の中央へ向かって集まっています。
人物のそばには名前が記され、口元から延びる文字は得点の『四』と『三』を示します。反対側には双子の英雄ディオスクロイの家族が描かれ、馬を引くカストルや犬と遊ぶポリュデウケスがいます。遊戯の場面はホメロスの『イリアス』にそのまま出てくる挿話ではありません。彫像と同じく画家の想像と観察が加わった画面であり、古代の叙事詩をそのまま絵へ移した資料として扱えません。(参照:ヴァチカン美術館|エクセキアス署名の黒像式アンフォラ/ヴァチカン美術館|アッティカ陶器展示室とエクセキアスの壺の年代)
パナテナイア祭の優勝賞品壺|アテナと競走する五人
アテナイの祭礼パナテナイアでは、運動競技の勝者へオリーブ油を満たした大きなアンフォラが贈られました。メトロポリタン美術館のエウフィレトスの画家に帰属する壺(収蔵番号14.130.12)は紀元前530年頃、高さ62.2センチです。片面に武装した女神アテナ、もう片面に走る五人の選手が描かれています。裸の選手たちは脚を大きく前後へ開き、黒いシルエットを刻線で分けて疾走する姿にしています。
同館の解説によれば、当時の優勝賞品壺にはおよそ40リットルのオリーブ油を入れました。表にアテナ、裏に競技種目という組み合わせは繰り返し使われ、赤像式が広まった後もこの賞品壺では黒像式が続きます。作例を見比べると、陶器の描写技術が変わっても、都市の公式行事が定めた図柄と器の役割が残ることが分かります。(参照:メトロポリタン美術館|エウフィレトスの画家のパナテナイア祭優勝賞品壺/メトロポリタン美術館(2002年)|黒像式・赤像式と三段階の焼成)
赤像式の登場|筆で描く身体と工房の分業
赤い人物と黒い背景|紀元前530年頃の新しい技法
紀元前530年頃のアテナイでは、背景に黒く焼き上がる粘土液を塗り、人物の身体を器の赤褐色の素地のまま残す赤像式が現れました。黒像式では人物の黒い塗り面から線を削り出しますが、赤像式では人物の内部へ筆で線を描けます。指、筋肉の境目、衣服のひだ、重なった腕などを、細い線や濃淡を変えた粘土液で表すことが可能になりました。
二つの技法は同じ粘土と基本的に同じ三段階の焼成を使います。新しいのは人物と背景の色の取り方と線を描く順番です。初期には一つの壺の表裏で黒像式と赤像式を使い分ける『両面技法』の器も作られました。黒像式が急に消えたわけではなく、陶工や画家は器の用途、注文、描く対象に応じて技法を選んでいます。(参照:メトロポリタン美術館(2002年)|黒像式・赤像式と三段階の焼成/メトロポリタン美術館|プシアクスの黒像・赤像併用杯)
アンドキデスのアンフォラ|デルフォイの鼎を争う神と英雄
メトロポリタン美術館のアンフォラ(収蔵番号63.11.6)は高さ57.5センチ、紀元前530年頃に作られました。器の脚部には陶工アンドキデスの署名があります。一方の面では、ヘラクレスが棍棒を振り上げ、弓矢を持つアポロンとデルフォイの三脚の鼎を取り合っています。間にある鼎の脚を二人が握り、後ろにはアテナとアルテミスが立つ構成です。反対面にはディオニュソスとサテュロス、マイナスの姿が描かれます。
この器には赤像式と黒像式が併用され、研究者は赤像の絵を『アンドキデスの画家』、黒像の絵を『リュシッピデスの画家』に帰属させています。アンドキデスは署名のある陶工本人の名ですが、二人の『画家』は筆致の比較から研究上付けられた呼び名です。一人が両方描いたと考える場合もあり、現代の作者区分が古代の工房での仕事の分け方にそのまま当てはまるとは限りません。(参照:メトロポリタン美術館|アンドキデス銘の黒像・赤像両技法アンフォラ)
エウフロニオスとオネシモス|誰が器を作り、誰が描いたか
紀元前6世紀末には赤像式で人体の曲がり方や重なりを描く画家が増えました。エウフロニオスは画家として活動した後、器を作る陶工として署名した作品も残しています。メトロポリタン美術館所蔵の紀元前490年頃の酒杯(収蔵番号12.231.2ほか)は、エウフロニオスが陶工として署名し、絵はオネシモスに帰属します。杯の内側にはヘラクレスと少年が、外側にはヘラクレスと対戦相手たちが描かれ、筆の濃淡で肌や衣服の部分を描き分けています。
この作品で直接読めるのはエウフロニオスの署名で、オネシモスの作者名は様式研究による帰属です。別の紀元前515年頃の大型混酒器では、陶工エウクシテオスと画家エウフロニオスの両方が署名し、戦死したサルペドンを眠りと死の神が運ぶ場面を描いています。後者はイタリア側へ返還され、現在はメトロポリタン美術館の所蔵品ではありません。制作当時の役割、現代の帰属名、収蔵履歴をそれぞれ区別する必要があります。(参照:メトロポリタン美術館|エウフロニオスの署名とオネシモスの酒杯/メトロポリタン美術館|エウフロニオスのサルペドン図大型混酒器)
古代の署名と近代の様式研究|『誰が描いたか』をどう確かめるか
壺の表面には『誰々が作った』『誰々が描いた』と文字で記す例があります。その一方、署名のない壺が圧倒的に多く、研究者は眼の形、指の描き方、衣のひだ、装飾の置き方を何点もの作品で照合して、同じ画家に帰属させてきました。ジョン・ビーズリーは20世紀にこうした比較を進め、アッティカ陶器の画家名と作品群を体系的に整理しています。
『アンドキデスの画家』などの呼び名は、古代にその名を名乗ったという意味ではありません。署名がある場合でも、署名者が器形、絵画、焼成のすべてを単独で担当したとは言えません。『フランソワの壺』のように陶工と画家が別々に書かれた作品、エウフロニオスが時期によって署名の役割を変える作品を比べると、工房の仕事が複数の人の技術から成り立っていたことが分かります。(参照:メトロポリタン美術館|ギリシア陶器画家の作品研究と様式分類/メトロポリタン美術館|アンドキデス銘の黒像・赤像両技法アンフォラ/メトロポリタン美術館|エウフロニオスの署名とオネシモスの酒杯)
略年表
- 紀元前700年頃|エーゲ海と地中海の交易が広がり、聖域への奉納や近東由来の動物文様が増える
- 紀元前650〜625年頃|デロス島のアルテミス聖域にニカンドレの大理石立像が奉納される
- 紀元前600年頃|オリンピアのヘラ神殿が建ち、スニオン聖域に大型クーロス像が奉納される
- 紀元前590〜580年頃|ナクソス産大理石を用いた初期のアッティカのクーロス像が作られる
- 紀元前570年頃|アクロポリスのヘカトンペドン破風彫刻と『牛を担ぐ男』が作られる
- 紀元前570〜560年頃|サモスのヘラ聖域で大規模な石造神殿の建設が進み、ケラミュエスがコレー像を捧げる
- 紀元前570〜560年頃|陶工エルゴティモスと画家クレイティアスが『フランソワの壺』を制作する
- 紀元前550〜540年頃|アッティカでフラシクレイアの墓標となる彩色大理石像が作られる
- 紀元前540〜530年頃|アナヴィソスのクロイソスの墓標やエクセキアスの黒像式アンフォラが作られる
- 紀元前530年頃|『ペプロスのコレー』が作られ、アテナイで赤像式陶器が現れる
- 紀元前525年頃|デルフォイにシフノス人の大理石製宝庫が奉納される
- 紀元前525〜500年頃|陶工ネアルコスがアンテノル作の大理石コレー像をアテナへ奉納する
- 紀元前500〜480年頃|アイギナ島のアファイア神殿の東西の破風が戦闘場面の彫刻で飾られる
- 紀元前490年頃|エウフロニオス署名の陶器にオネシモスが赤像式の絵を描く
- 紀元前480年|ペルシア軍のアテナイ侵入によりアクロポリスの古い神殿や奉納像が破壊される
まとめ
紀元前7世紀から6世紀のギリシアでは、ナクソス島などの石材を用いた大型人物像と、列柱を巡らせた石造神殿が各地で作られました。デロスのニカンドレ奉納像は衣をまとった人物を大きな石の面として彫り、後のクーロス像は裸体の青年を正面から立たせました。アテナイのコレー像では、衣の模様を赤、青、緑に塗り、金属製の装飾を頭や耳に取り付けています。現在の白い石肌だけでは、古代の像がどのように見えたかは分かりません。
建築ではドーリス式とイオニア式の柱や上部装飾が用いられ、アクロポリスの破風には獅子や怪物が、アイギナの破風には戦う兵士たちが置かれました。陶器には動物文様を重ねた香油壺、神話を細い帯へ描き込んだ混酒器、競走を示す賞品壺があります。紀元前530年頃に登場した赤像式は、焼成法そのものを一新したのではなく、人物を器の素地の色で残し、筆で内部を描けるようにした技術でした。
誰が奉納したのかは、ニカンドレ、ケラミュエス、ネアルコスの名前を刻んだ銘文から分かる作品があります。フラシクレイアの墓碑銘は、像が未婚のまま亡くなった少女を記念する墓標だったことを伝えています。ほかの女性像が女神か奉納者か、破風の怪物が誰か、神殿の列柱が最初から石造だったかには、別々の研究が続いています。石材の加工痕、彩色、出土した場所、銘文、古い発掘記録を照合することで、作品の制作と使用について検証できる範囲が少しずつ増えています。(参照:アテネ国立考古学博物館|彫刻常設展示・奉納像と墓標/アクロポリス博物館|アンテノルのコレー像と台座銘文/フィリップ・サピアシュタイン(2016年)|オリンピアのヘラ神殿と列柱の再検討)
参考資料・出典
- メトロポリタン美術館|アルカイック時代のギリシア美術
- メトロポリタン美術館|古代ギリシアの神殿と柱式
- メトロポリタン美術館(2002年)|黒像式・赤像式と三段階の焼成
- アテネ国立考古学博物館|彫刻常設展示・奉納像と墓標
- ギリシア文化省国立文化遺産アーカイブ|スニオンのクーロス像の出土状況
- ケンブリッジ大学古典考古学博物館|ニカンドレ奉納像
- ギリシア語センター|ニカンドレ奉納像と銘文の解説
- メトロポリタン美術館|ナクソス産大理石のクーロス像(32.11.1)
- ルーヴル美術館|サモスのコレー像・ケラミュエスの奉納銘文
- ユネスコ世界遺産センター|サモス島のヘラ聖域・神殿の段階
- ギリシア文化省|オリンピアのヘラ神殿
- フィリップ・サピアシュタイン(2016年)|オリンピアのヘラ神殿と列柱の再検討
- アクロポリス博物館|ヘカトンペドン神殿西破風の彩色彫刻
- アクロポリス博物館|ヘカトンペドン東破風の牛を襲う獣
- ギリシア文化省キクラデス考古局|シフノス人の宝庫と銀鉱山
- ケンブリッジ大学古典考古学博物館|デルフォイのシフノス人の宝庫の浮彫
- ミュンヘン古代美術館・グリュプトテーク|アイギナ島アファイア神殿の破風
- ミュンヘン古代美術館(2011年)|1811年のアイギナ神殿彫刻の発見
- アクロポリス博物館|アルカイック時代のアクロポリス展示
- アクロポリス博物館|紀元前480年の破壊と埋没した奉納像
- アクロポリス博物館|火災による損傷が残る青年像
- アクロポリス博物館|牛を担ぐ男性の奉納像
- アクロポリス博物館|ペプロスのコレー像・彩色調査
- アクロポリス博物館|アンテノルのコレー像と台座銘文
- アクロポリス博物館|キオスのコレー像・工房帰属の研究史
- アテネ国立考古学博物館|フラシクレイア像とミュリヌースの青年像
- エクス=マルセイユ大学|フラシクレイア像の出土と墓碑銘
- アドリーヌ・グラン=クレマン(2024年)|フラシクレイア像の彩色と解釈
- メトロポリタン美術館|コリントスの動物帯文様付き香油壺
- オックスフォード大学古典美術研究センター|フランソワの壺・出土地・署名
- フランス国立美術史研究所|フランソワの壺の各装飾帯と神話場面
- イタリア文化省トスカーナ州博物館局|フランソワの壺の発見と所蔵
- ヴァチカン美術館|エクセキアス署名の黒像式アンフォラ
- ヴァチカン美術館|アッティカ陶器展示室とエクセキアスの壺の年代
- メトロポリタン美術館|エウフィレトスの画家のパナテナイア祭優勝賞品壺
- メトロポリタン美術館|アンドキデス銘の黒像・赤像両技法アンフォラ
- メトロポリタン美術館|プシアクスの黒像・赤像併用杯
- メトロポリタン美術館|エウフロニオスの署名とオネシモスの酒杯
- メトロポリタン美術館|エウフロニオスのサルペドン図大型混酒器
- メトロポリタン美術館|ギリシア陶器画家の作品研究と様式分類