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Art History

1936–1945

パリから世界へ

シュルレアリスムの国際化と戦争・亡命

1930年代後半から第二次世界大戦の終結にかけて、シュルレアリスムはパリを中心とする前衛運動から、ヨーロッパ、アフリカ、カリブ海地域、南北アメリカの各地で異なる形に発展する国際的な芸術のネットワークへ成長した。1936年のロンドン国際展、1938年のパリ国際展、1940年のメキシコシティ国際展、1942年のニューヨークにおける展示と出版活動をたどると、運動の拠点がどのように変わったのかが見えてくる。今回の主題は、芸術家が移動したという事実に加え、移動先の社会と文化が作品の内容まで変えたことである。

シュルレアリスムは1924年、フランスの詩人アンドレ・ブルトンの宣言を一つの起点として、夢、無意識、偶然、理性の支配からの解放を追求する文学・芸術運動として形を整えた。1930年代には絵画、写真、映画、オブジェ、展覧会空間へ方法が広がっていた。1936年からの変化を理解するには、パリの外ですでに活動していた芸術家や詩人たちの存在も欠かせない。ロンドンの自然物を使う表現、エジプトの反ファシズム運動、カリブ海の反植民地主義には、それぞれ独自の歴史があった。

1939年の第二次世界大戦勃発と1940年のフランス敗北によって、ヨーロッパで活動する多くの芸術家は仕事と生活の場を失った。ナチ体制による迫害や占領、思想統制を逃れるため、南仏マルセイユからアメリカ大陸へ渡る人々が現れた。亡命は切迫した生存の問題であり、新天地での活動にも言語、資金、滞在資格などの困難が伴った。各地の人々との接触は、新しい作品や共同制作、雑誌や画廊の活動を生み出す条件にもなっていった。

本記事では、ロンドン、パリ、カイロ、メキシコシティ、マルティニーク、キューバ、ニューヨークを順に訪ねるように歴史を読み進める。アイリーン・エイガー、ポール・ナッシュ、ウィフレド・ラム、レオノーラ・キャリントン、アンドレ・マッソン、ロベルト・マッタらの具体的な作品を手がかりに、シュルレアリスムがどのような姿へ変わったのかを考える。作品だけでなく、展覧会の設計、雑誌、亡命者の救出活動、美術市場まで視野に入れることで、戦後ニューヨークの新しい絵画へつながる美術史が立体的に見えてくる。

パリから世界へ――国際化の始まりを理解する

1924年のパリと1936年の世界地図

シュルレアリスムの制度的な起点は、1924年にブルトンが発表した『シュルレアリスム宣言』と、その周囲に形成されたパリの文学・美術家たちの集まりにある。1920年代の自動記述や夢の実験から、マッソンの自動描画、エルンストのフロッタージュ、ミロの記号的な絵画へと展開し、1930年代には実物のオブジェや展示会場までが表現の対象になった。

パリは人々が出会い、作品を発表し、雑誌を編集する中心地だった。世界各地の芸術家がその活動に参加したため、運動は早い時期から国境を越える性格を持っていた。1936年を区切りにする理由は、ロンドンで国際展が開かれ、さらに各地の団体と展覧会が独立した活動を強める時代へ入るためである。(参照:MoMA|シュルレアリスム研究資料)

国際展の開催地から広がりを捉える

1936年のロンドンはイギリスの芸術家による受容と再解釈を示し、1938年のパリでは展示会場そのものが大がかりな作品として構想された。1940年のメキシコシティには現地の画家と亡命者が参加し、1942年のニューヨークではヨーロッパから来た芸術家とアメリカの若い画家が直接交流した。開催地の変化は、印刷物や人の移動が作り出したネットワークの変化でもあった。

こうした出来事を、フランスで作られた様式が別の国へ移植された歴史として読むと、各地の作家の主体性が見えにくくなる。英国では海岸や自然物、エジプトでは反ファシズム、カリブ海では植民地支配への批判が、シュルレアリスムの考えを新たな方向へ押し広げた。(参照:メトロポリタン美術館|国境を越えるシュルレアリスム)

「国際化」は何を意味したのか

運動が国際化するとは、同じ絵画が多数の国で制作されるという意味に限らない。展覧会の開催地、作品を運ぶ画廊、雑誌の読者、難民を受け入れる都市、国を越えて働く芸術家と批評家のつながりが増えることで、制作と発表の条件が変化する。シュルレアリスムでは、実際に人々が動いたことが作品の構成や主題にも反映された。

1936年から1945年までの美術史を理解するうえでは、政治的な強制移動と自発的な文化交流を区別することも重要になる。戦争から逃れた人々の経験と、すでに各地で新しい芸術を模索していた人々の活動が交わり、一つの中心から説明しきれない歴史が生まれた。(参照:メトロポリタン美術館|国境を越えるシュルレアリスム)

1936年ロンドン国際展――英国のシュルレアリスム

ニュー・バーリントン・ギャラリーズで起きたこと

1936年6月、ロンドンのニュー・バーリントン・ギャラリーズで国際シュルレアリスム展が開催された。ブルトンやダリら大陸の作家と、アイリーン・エイガー、ポール・ナッシュ、ローランド・ペンローズら英国で活動する芸術家が接点を持った。テートのアーカイブには、展覧会場と参加者を記録した写真が保存されている。

この展覧会が重要なのは、ロンドンの観客が新しい前衛芸術に接したというだけの理由からではない。英国の作家たちは、海岸の漂着物や地形、古代遺跡への関心を、自動性や偶然の出会いという方法へつなげていた。国際展は、その土地で育っていた視覚表現を広い運動の中で見る機会となった。(参照:テート・アーカイブ|1936年ロンドン国際展)

アイリーン・エイガー《無秩序の天使》

アイリーン・エイガーの《無秩序の天使》(1936–40年)は、石膏の胸像を布、貝殻、ビーズなどの異質な素材で変形した作品である。顔を覆う装飾は人間の頭部を生き物のようにも儀式的な仮面のようにも見せ、彫刻が持つ通常の肖像性を揺らす。テートの作品資料によれば、エイガーは絵画、写真、コラージュ、彫刻を横断して制作した。

ここで素材は付け足しの飾りにとどまらない。貝殻の自然な形や布の触感が、人間の顔の意味を変え、理性によって整えられた人物像とは異なる存在を生み出す。英国の自然物や採集行為への関心が、シュルレアリスムのオブジェ制作と結びついた例である。(参照:テート|アイリーン・エイガーと《無秩序の天使》)

ポール・ナッシュ《夢の風景》と英国の土地

ポール・ナッシュの油彩画《夢の風景》(1936–38年)は、英国南部ドーセットの海岸を思わせる地形に、鏡や球体のような奇妙な形を置く。風景として認識できる場所の中で物体の関係が不自然になり、見慣れた土地が夢の舞台へ転じる。テートは、この作品が精神分析への関心とナッシュ独自の英国的な風景感覚を併せ持つと説明している。

ナッシュにとって岩や海岸は、どこにでも置ける背景ではなかった。風景の歴史や土地に対する感覚が、画面の奇妙な組み合わせを成立させている。国際的な思想との出会いによって、すでに身近にあった場所を新しい方法で見直すことができた。(参照:テート|ポール・ナッシュ《夢の風景》)

1938年パリ国際展――展示空間そのものが作品になる

マネキンが並ぶ「シュルレアリスム通り」

1938年1月、パリのボザール画廊で国際シュルレアリスム展が開催された。会場には参加作家が手を加えたマネキンが並ぶ通路が設けられ、鑑賞者は街路のような空間を進みながら異質な人物像に出会った。マネキンは店頭で商品を見せる工業的な人形だが、ここでは身体への欲望、匿名性、不安を呼び起こす存在へ変わる。

ポンピドゥー・センターの資料によれば、デュシャンは会場の演出を担い、複数の作家がマネキンの変形に参加した。個々の作品を見る前から、来場者自身が作家たちの設定した不安定な世界へ入り込む。シュルレアリスムは展示の順序や身体の移動も表現として扱うようになっていた。(参照:ポンピドゥー・センター|シュルレアリスムとオブジェ)

石炭袋、照明、音がもたらした経験

1938年展の会場では、天井に多数の石炭袋が吊るされ、暗い室内を懐中電灯で照らしながら見て回る演出が行われた。光の不足、頭上の物体、見通しの悪さは、画家がキャンバスに描く奇妙な場面を、現実の展示室に移したような効果を生んだ。来場者がどこを見られるかは、照明と空間によってあらかじめ条件づけられている。

展示の設計にはデュシャンのほかダリ、エルンスト、マン・レイ、ヴォルフガング・パーレンらがそれぞれの役割で関わった。観客は作品を一点ずつ静かに眺める人から、空間の中を移動し、光や音に反応する参加者へと変わった。現在の展示空間を使った美術表現につながる重要な前例である。(参照:ポンピドゥー・センター|シュルレアリスム年表)

展示写真は作品の一部を伝える史料になる

1938年展は短期間で終わり、会場全体をそのまま保存することはできなかった。現在、会場で何が起きたかを知るには、当時撮影された写真やカタログ、批評文が重要になる。ポンピドゥー・センターには、ロジェ・シャルが撮影したマネキンの写真が所蔵されており、彫刻と会場演出の関係を具体的に確かめられる。

写真は展示された物の記録であると同時に、どの位置から何が見えたかを選び取った像でもある。展覧会を表現の一部として考えると、作品の本体だけでなく、写真、平面図、宣伝物も制作を理解するための重要な資料になる。1938年展は美術作品の保存方法にも新たな問いを残した。(参照:ポンピドゥー・センター|1938年展のマネキン写真)

ヨーロッパの危機――反ファシズムと芸術の自由

スペイン内戦と前衛芸術家の政治的立場

1936年に始まったスペイン内戦は、ヨーロッパの知識人や芸術家に大きな衝撃を与えた。ファシズムの拡大を警戒する人々にとって、表現の自由と政治的な自由は切り離せない問題となった。シュルレアリストの中でも共産主義や革命への態度をめぐって議論が続き、政治的な立場が一様に定まったわけではなかった。

1930年代後半の作品や雑誌に見られる暗い身体、断片化された空間、暴力の予感は、夢という題材だけで説明できない。戦争がいつ自分たちの生活を奪うか分からない環境で制作されたという条件が、作品の受け取られ方にも深く関わる。(参照:メトロポリタン美術館|国境を越えるシュルレアリスム)

「退廃芸術」への攻撃と国外への反響

1937年、ナチス政権はミュンヘンで《退廃芸術》展を開催し、近代美術を政治的・人種的な敵として侮辱する展示を行った。ドイツの美術館から作品が取り除かれ、芸術家や美術館職員は職と発表の機会を失った。翌1938年、この攻撃に対する明確な反応がエジプトの首都カイロでも生まれた。

芸術作品の価値を国家が政治的な基準で決めようとする事態は、パリやベルリンの内部問題にとどまらなかった。世界各地の芸術家にとって、前衛表現への弾圧は、自分たちの社会でも起こり得る自由の侵害として受け止められた。(参照:メトロポリタン美術館|カイロの「芸術と自由」)

1938年カイロの「芸術と自由」

1938年12月、カイロではジョルジュ・エネンらを中心とする芸術家・文学者が、退廃芸術を擁護する宣言を発表した。アラビア語とフランス語で活動した「芸術と自由」は、ナチズムによる近代美術攻撃に反対し、エジプトにおける芸術の自由を主張した。メトロポリタン美術館の調査は、これを国際的なシュルレアリスム史の重要な展開として位置づけている。

カイロの運動には欧州の戦争や全体主義への危機感と、現地の政治や文化の問題が重なっていた。欧州中心の年表では見落とされがちな出来事だが、1938年の時点でシュルレアリスムが複数の地域に固有の思想と結びついていたことを示す。(参照:メトロポリタン美術館|カイロの「芸術と自由」)

1939~1941年――戦争と亡命の現実

1939年の開戦と1940年のフランス敗北

1939年9月、ドイツのポーランド侵攻を契機にヨーロッパで第二次世界大戦が始まった。1940年6月にフランスが敗北すると、パリで活動していた多くの芸術家や作家が国外への脱出を迫られた。ユダヤ人への迫害、政治的な反ナチ活動、前衛芸術への弾圧は、人によって異なる危険として迫っていた。

作品を制作するためにパリへ集まっていた人々は、今度は生き延びるためにパリを去った。移動の記録には、作品や画材の運搬だけでなく、身分証明書、滞在許可、船便、資金をめぐる困難が現れる。芸術の国際化は、こうした切迫した状況の中でも進んだ。(参照:米国ホロコースト記念博物館|ヴァリアン・フライの救出活動)

南仏マルセイユに集まった人々

地中海に面したフランス南部の港町マルセイユは、占領下のヨーロッパから海外へ渡ろうとする人々の重要な経由地になった。ブルトン、エルンスト、マッソン、ウィフレド・ラムらも、それぞれ異なる経路と事情のもとで脱出の道を探した。滞在は一時的で、次の渡航先が決まるまで共同生活や友人との交流が続いた。

戦争が芸術家のネットワークを一度に断ち切ったという理解では、この場所の活動を十分に説明できない。先の見えない待機期間にも素描や共同制作が行われ、旅立った後にも書簡や雑誌によって関係が保たれた。人々のつながりはアトリエや画廊の外へ移りながら残った。(参照:米国ホロコースト記念博物館|ヴァリアン・フライの救出活動)

ヴァリアン・フライと難民救出活動

アメリカ人ジャーナリストのヴァリアン・フライは1940年8月にマルセイユへ入り、緊急救援委員会の仕事として芸術家、文学者、反ナチの亡命希望者を支援した。米国ホロコースト記念博物館によれば、フライと協力者たちは渡航書類や逃走経路の確保に奔走し、およそ二千人の人々の脱出を助けた。活動には法的手続きと、危険を伴う非公式の手段が含まれていた。

著名な芸術家の亡命が可能になった背景には、救援活動を担った無数の人々がいた。芸術作品の国際移動を美術家同士の交流だけで語ると、彼らの命を守るために必要だった制度や行動が見えにくくなる。戦時下の美術史には、そうした救出の歴史も含まれる。(参照:米国ホロコースト記念博物館|ヴァリアン・フライの救出活動)

1940年メキシコシティ――異なる文化が出会う展覧会

1940年国際シュルレアリスム展の開催

1940年、メキシコの首都メキシコシティにあるガレリア・デ・アルテ・メヒカーノで国際シュルレアリスム展が開催された。メトロポリタン美術館には、同展の1940年刊行カタログが現存する。詩人セサル・モロやヴォルフガング・パーレンらの働きにより、ヨーロッパの作家とメキシコで活動する芸術家の作品が一つの場で紹介された。

メキシコは1910年に始まる革命とその後の文化政策を経て、壁画運動が盛んな美術の中心地になっていた。シュルレアリスムの展覧会は、すでに強い伝統を持つ芸術環境へ新たな議論を持ち込んだ。国際展という名称は、複数の文化が一致したことより、それらが同じ場所で出会う機会を示している。(参照:メトロポリタン美術館|1940年メキシコ国際展カタログ)

フリーダ・カーロと運動による分類のずれ

ブルトンらはメキシコの芸術に強い関心を持ち、フリーダ・カーロやディエゴ・リベラらの作品をシュルレアリスムと接続して評価した。カーロの絵画には夢を思わせる場面や身体の変形が現れるが、それらは病気、手術、身体的な痛み、家族、民族的な自己認識といった本人の経験に深く根ざしている。

国際展に出品したという事実と、作家本人が特定の運動に所属したという判断は区別して考える必要がある。作家の作品をパリの理論だけで解釈すれば、メキシコの歴史や個人の経験から生まれた造形の意味が薄れてしまう。展覧会は互いの作品を見直す機会でもあった。(参照:メトロポリタン美術館|国境を越えるシュルレアリスム)

メキシコの美術文化とシュルレアリスムの接触

1930年代のメキシコには、革命後の国家建設と結びついた公共壁画のほか、独自の絵画や写真、文学を模索する多様な芸術家たちがいた。ヨーロッパから来た人々が出会ったのは、既存の文化を受け身で取り込む場所ではなかった。先住民文化の歴史、スペイン植民地支配の遺産、社会改革をめぐる議論が作品の背景にあった。

国際シュルレアリスム展は、メキシコの芸術家たちに新しい表現の可能性を示すとともに、訪れた人々の考え方も変えた。特にその後メキシコを活動拠点とした芸術家たちは、地域で出会った文化を自らの方法によって読み替えていった。(参照:メトロポリタン美術館|国境を越えるシュルレアリスム)

メキシコへ移住した芸術家たち

レオノーラ・キャリントンの移動と経験

イギリス出身のレオノーラ・キャリントンは1930年代後半にフランスで制作し、画家マックス・エルンストとも生活を共にした。第二次世界大戦中、エルンストの拘束とフランスからの脱出により生活が大きく変わり、スペインでは本人の意思に反する医療施設への収容も経験した。その後ニューヨークを経てメキシコへ移り、長期にわたり制作を続けた。

この移動歴は、亡命する芸術家を単なる文化的な橋渡し役として語れないことを示す。キャリントンの絵画や文章には、生存の危機、制度による身体の管理、記憶や神話への関心が重なっている。移住先で新しい表現を得たことは、苦しい経験を消し去るものではなかった。(参照:MoMA|レオノーラ・キャリントン《緑茶》)

キャリントン《緑茶》――閉じ込められた身体

キャリントンの油彩画《緑茶》(1942年)には、囲われた庭園のような空間と、動物の皮を思わせる衣装で身体を束縛された人物、鎖でつながれた白馬が描かれる。MoMAは、この作品が精神科施設での収容経験をめぐる内省である可能性を示している。画面の細部は明快に描かれながら、人物と動物の姿は現実の論理から離れている。

馬はキャリントンの作品に繰り返し現れる存在で、自由や自己像を考える手がかりにもなる。閉じ込められた身体と広がる庭園の対照は、本人の体験を一つの物語にまとめるより、複数の感情を同時に立ち上げている。夢のような形が、具体的な人生の記憶と結びついた作品である。(参照:MoMA|レオノーラ・キャリントン《緑茶》)

レメディオス・バロと女性たちの制作共同体

スペイン出身のレメディオス・バロも戦争を逃れてメキシコへ渡った。メキシコシティではキャリントンらとの交流が生まれ、芸術、科学、錬金術、民間信仰などさまざまな知識を制作へ結びつける環境が形成された。ヨーロッパのシュルレアリスムに参加した女性芸術家たちは、移住後も自分たちの仕事を発展させていった。

こうした関係を有名な男性画家の周辺人物としてだけ描くと、それぞれの作品の創造性が見えなくなる。キャリントンとバロの成熟した作品には1945年以降のものも多いが、戦時期の移住と人間関係の形成は、その後の制作を理解するための大切な条件である。(参照:メトロポリタン美術館|国境を越えるシュルレアリスム)

マルティニーク――反植民地主義とシュルレアリスム

ブルトンの到着以前から続いていた思想の動き

カリブ海にあるマルティニーク島はフランスの海外領土であり、植民地支配と奴隷制の歴史を持つ。シュルレアリスムの歴史では、1941年にブルトンが同島へ立ち寄ったことがよく語られる。実際には1932年、ルネ・メニルらがパリで刊行した雑誌『正当防衛』などを通じて、植民地主義への批判と前衛思想を結びつける活動がすでに始まっていた。

メニルやエメ・セゼール、シュザンヌ・セゼールらの取り組みには、黒人としての文化的自己認識と政治的な自由への要求が含まれていた。ヨーロッパから来た芸術家が島に新しい考えを届けたという説明では、この長い活動の蓄積が見えなくなる。(参照:メトロポリタン美術館|カリブ海のシュルレアリスム)

1941年創刊の雑誌『トロピック』

1941年4月、マルティニークで文芸誌『トロピック』が創刊された。エメ・セゼールとシュザンヌ・セゼールらは、詩、批評、文化論を通して、植民地支配のもとで形成されたものの見方を問い直した。シュルレアリスムに見いだしたのは、夢の奇妙さを楽しむ技法というより、既存の秩序を揺るがし精神の自由を求めるための方法だった。

戦時期のヴィシー政権下では言論活動にも制約があった。雑誌を作り続けること自体が、政治的な緊張を伴う文化活動になった。文章と図像を同じ印刷物に収め、島の内外へ思想を届ける営みは、シュルレアリスムの地理を広げた重要な仕事である。(参照:メトロポリタン美術館|カリブ海のシュルレアリスム)

エメとシュザンヌ・セゼールが変えた運動の意味

エメ・セゼールは詩と政治思想を通して黒人の尊厳と植民地支配への抵抗を語り、シュザンヌ・セゼールは文学と批評によって、マルティニークの風景や文化を新たな視点から捉えた。両者の活動をブルトンとの出会いの挿話だけにまとめると、現地の知的活動が持っていた独自性を十分に伝えられない。

シュルレアリスムの想像力は、この地域では植民地主義が押しつけた価値観を問い直す力として働いた。島の生活や歴史に向き合う実践が、ヨーロッパで生まれた理論へも新しい意味を与えた。国際化は、その土地に住む人々が思想を作り直す過程でもあった。(参照:メトロポリタン美術館|カリブ海のシュルレアリスム)

ウィフレド・ラム――ヨーロッパからキューバへの帰還

キューバ出身の画家が経験した移動

ウィフレド・ラムは1902年、キューバのサグア・ラ・グランデに生まれた。スペインで美術を学び、内戦の時期を経てパリへ移り、ピカソやシュルレアリストたちと交流した。1940年のフランス敗北後にはマルセイユで渡航を待ち、1941年に故郷キューバへ戻った。ラムの移動歴には、植民地支配の遺産を持つカリブ海とヨーロッパの文化、戦争による避難が交差している。

1941年の帰還は、18年ほどを海外で過ごした画家にとって重要な転換点だった。ラムはキューバの経済格差や人種的な不平等に改めて向き合い、アフロ・キューバ文化と宗教的実践への関心を深めた。作品の図像も、人、動物、植物が変身するように重なり合う方向へ変化していく。(参照:MoMA|ウィフレド・ラムの生涯と作品)

ピカソとの交流を越えて考える造形

ラムの作品には、ピカソから学んだ形態の分解や、シュルレアリスムの変身する身体を思わせる要素が見られる。人物の顔が仮面のように変形し、腕や脚が幾何学的な部品へ分かれるため、ヨーロッパの前衛美術と比較しやすい。ラムが制作の中心に置いたのは、それらの表現方法を自分自身の歴史や社会へ結びつけ直すことだった。

アフロ・キューバの宗教文化や奴隷制の歴史への関心は、題材の選択にも画面の構成にも作用している。ある様式を別の地域で再現するという説明より、複数の文化的経験を通して新たな絵画の言語を作ったことに目を向けると、ラムの独自性が見えてくる。(参照:MoMA|ウィフレド・ラムの生涯と作品)

紙、木炭、油絵の具を使った制作への注目

ラムは1942~43年の《ジャングル》を、大きなクラフト紙を貼り合わせた支持体に制作した。MoMAの技術解説によれば、木炭で構図を描いた後、薄く溶いた油絵の具を重ねている。人体、植物、動物の形が密集する画面には、硬い輪郭線と透明感のある色層が共存し、空間の奥行きよりも形が互いに入り込む感覚が強調される。

支持体に用いた紙の軽さや、流れるような絵の具の痕跡は、大画面でありながら身体が変化していくような印象をもたらす。造形の分析では、どの文化を参照したのかという主題の話に加え、素材と線の扱いを見ることで、ラムが自身の表現を具体的に作り上げた方法が分かる。(参照:MoMA|ウィフレド・ラム《ジャングル》)

《ジャングル》――カリブ海の歴史を描く

サトウキビの中に立つ人間と植物の複合体

《ジャングル》(1942~43年)は約2.4メートルの高さを持つ大作で、縦に伸びる植物の茎と、人間、動物、仮面を思わせる姿が画面全体に密集する。多くの部分で身体と植物の境目を見分けることが難しく、足先が手のように変形したり、顔に複数の特徴が重ねられたりしている。鑑賞者はどこから見始めても別の形に出会うことになる。

画面に描かれた植物はキューバのサトウキビ栽培を思わせ、MoMAはその土地が奴隷制と年季奉公労働の歴史を呼び起こすと解説している。ジャングルという題名の響きよりも、何が栽培され、誰が働いてきた場所なのかを考えることが、作品の社会的な意味を知る手がかりになる。(参照:MoMA|ウィフレド・ラム《ジャングル》)

奴隷制とアフロ・キューバ文化の記憶

キューバの砂糖産業は、アフリカから強制的に移送された人々の労働と深く結びついて発展した。ラムの《ジャングル》には、そうした歴史を持つ土地の植物と、アフリカ系の宗教的伝統を連想させる人物像が重ねられている。仮面のような顔や動物との変身は、単なる奇怪な空想として見るには豊かな文化的背景を持つ。

宗教的な意味を一つの記号に固定することには慎重さが必要である。ラムは異なる文化の図像を組み合わせ、見る人に複数の関係を考えさせる画面を作った。西洋の夢の理論とカリブ海の歴史を接続することで、シュルレアリスムの造形は植民地支配を問い直す表現へと広がった。(参照:MoMA|《ジャングル》の作品解説)

作品がニューヨークへ渡ったことの意味

《ジャングル》は1944年にニューヨークのピエール・マティス画廊で開かれたラムの個展に出品され、その後MoMAのコレクションに入った。画家自身の帰郷によって生まれた大作が、今度は北米の美術館で国際的に紹介される作品となったのである。この経路にもカリブ海とヨーロッパ、ニューヨークを結ぶ美術制度の動きが現れている。

所蔵館が作品を評価することと、その作品が持つ地域固有の歴史を理解することは別々に検討する必要がある。ラムの作品が世界的な現代美術史で重要になったのは、前衛的な造形の新しさと、キューバ社会の経験が同じ画面に共存しているためである。(参照:MoMA|ウィフレド・ラムの生涯と作品)

海を越えて続いた雑誌と出版の活動

ニューヨークの『ビュー』が作った交流

1940年にニューヨークで創刊された雑誌『ビュー』は、詩人チャールズ・ヘンリ・フォードらの編集によって、亡命したヨーロッパのシュルレアリストとアメリカで活動する芸術家の作品や文章を紹介した。表紙、詩、写真、コラージュ、批評が一冊の中に集まり、読者は展覧会場へ行かなくても同時代の前衛表現に触れることができた。

モンドリアンやデュシャン、マックス・エルンストのように異なる制作の背景を持つ人々が雑誌を介して紹介された。ニューヨークにおけるシュルレアリスムの活動は、特定の集会所だけで進んだわけではない。印刷物の編集と流通が、国を越えた人々を結びつける場になった。(参照:MoMA|『View』『VVV』とアメリカのシュルレアリスム)

機関誌『VVV』と戦時期の発信

『VVV』は1942年から1944年にかけてニューヨークで刊行されたシュルレアリスムの主要な雑誌である。ブルトン、マックス・エルンスト、デイヴィッド・ヘアらが関わり、写真や素描、詩、文化論を掲載した。『ビュー』が多方面へ開かれた雑誌だったのに対し、『VVV』は亡命後のシュルレアリストたちの共同活動を示す重要な拠点となった。

大西洋を越えて生活する人々にとって、雑誌は政治的な発言と創作の両方を届ける方法だった。ページの順序、表紙の造形、文章と画像の配置も含め、出版物そのものが実験的な作品となる。遠く離れた読者とのつながりを保つための媒体が、前衛美術の表現をさらに広げた。(参照:MoMA|『View』『VVV』とアメリカのシュルレアリスム)

メキシコの『ディン』と複数の中心地

メキシコではヴォルフガング・パーレンが1942年に雑誌『ディン(Dyn)』を創刊した。そこで扱われたのは、美術だけでなく、人類学や先住民文化、現代の思想に関わる幅広い問題だった。ニューヨークの『ビュー』や『VVV』と並べると、アメリカ大陸のシュルレアリスムが一つの編集方針へまとまっていたわけではないことが分かる。

雑誌は作品と考えを紹介するだけでなく、何を重要な問題として取り上げるかを決める場所でもあった。出版物を比較すると、同時代の芸術家たちが共通の言葉を使いながら、文化の歴史や政治について異なる視点を展開していたことが見えてくる。(参照:MoMA|『View』『VVV』とアメリカのシュルレアリスム)

1942年ニューヨーク――亡命芸術家の都市

ニューヨークに集まった多様な前衛の作家

1942年頃のニューヨークには、戦争を避けてヨーロッパから移住した芸術家が多数滞在していた。ブルトン、エルンスト、マッソン、タンギー、マッタらシュルレアリストのほか、レジェ、シャガール、モンドリアンら背景の異なる作家も同じ都市で活動した。画廊、美術館、雑誌、個人的な集まりが、彼らの仕事と交流を支える場所になった。

ヨーロッパで各地に分かれていた前衛の芸術家が同じ街で出会うことは、アメリカの若い作家にとっても重要だった。画集を通して知っていた制作方法や思想について、本人と直接話し、実際の作品を見る機会が増えた。国際化は人間関係の距離が縮まる経験でもあった。(参照:MoMA|『ダダ、シュルレアリスムとその遺産』)

1942年「亡命芸術家」展と集合写真

1942年3月、ニューヨークのピエール・マティス画廊で「亡命芸術家」展が開催された。MoMAアーカイブに残るジョージ・プラット・ラインズの集合写真には、マッタ、ザッキン、タンギー、エルンスト、シャガール、レジェ、ブルトン、モンドリアン、マッソンらが写っている。同じ写真にいるからといって、全員が一つの美術運動に参加していたことにはならない。

写真は戦争による移動が、ニューヨークに前例の少ないほど多様な芸術家を集めたことを伝える記録である。彼らの多くは互いに異なる国籍、言語、制作方法を持っていた。その多様性こそが、後のニューヨーク美術の変化を考える際に重要になる。(参照:MoMAアーカイブ|亡命芸術家の救出と1942年の集合写真)

美術館が担った救出と受け入れの仕事

MoMAのアーカイブ研究は、1940年のパリ陥落後、美術館が芸術家や研究者、画商らの国外脱出を支援する活動に関わったことを記録している。美術館は作品を展示する場所であると同時に、人を守り、職業的なつながりを用意する機関としても働いた。戦時下では文化活動の制度が生存の条件と結びついた。

新しい場所へ移ることができた人々の背後には、脱出できなかった人々や、長い移動の中で作品や生活基盤を失った人々もいた。亡命者の活躍を紹介するときには、その移動に伴った政治的な暴力と危険を合わせて見る必要がある。(参照:MoMAアーカイブ|亡命芸術家の救出と1942年の集合写真)

《シュルレアリスムの最初の書類》――亡命を展示する

1942年の展覧会名に込められた意味

1942年10月、ニューヨークで「First Papers of Surrealism」が開催された。題名の「First Papers」は、当時のアメリカにおける帰化申請の最初の書類を思わせる表現であり、亡命者たちが置かれた状況とも響き合っていた。展覧会にはブルトンとデュシャンが深く関わり、カタログの現物がメトロポリタン美術館に保存されている。

会場に作品を集めることは、ヨーロッパで失われた活動の場を新しい土地に設ける行為でもあった。展覧会の名称に渡航や滞在資格を思わせる言葉を用いたことに、芸術家たちの生活と前衛芸術が切り離せなくなっていた状況が表れている。(参照:メトロポリタン美術館|《シュルレアリスムの最初の書類》カタログ)

デュシャン《十六マイルの糸》と会場の変化

デュシャンは展示室に大量の糸を張り巡らせ、来場者が作品に近づく道を遮るような空間を作った。しばしば《十六マイルの糸》と呼ばれるこの試みでは、絵画そのものを変更することなく、通路と視線が操作される。壁の作品を見るために近づこうとすると、糸の存在に意識が向き、展示空間全体を一つの経験として感じることになる。

1938年パリ展の天井や照明の演出と比べると、1942年展では妨げられた視界がより明快な造形として現れている。デュシャンが問うたのは、作品の形だけでなく、鑑賞者が作品を見るための条件である。展示の構成が芸術の一部となる発想は、戦後の実験的な展覧会にも影響を与えた。(参照:デュシャン研究ポータル|1942年展と糸のインスタレーション)

カタログと印刷デザインが残した記録

1942年展のカタログはブルトンの文章とデュシャンの表紙デザインを含み、展示の思想を伝える資料となっている。展覧会の会期は限られていたが、印刷物は後の研究者が参加者や企画内容を確認する手がかりとして残った。展示室の内部に置かれた作品と、来場者が手に取るカタログは、同じ企画の異なる側面を担っている。

この時代の展覧会を理解するには、現存する絵画だけを集めても十分ではない。招待状、目録、会場写真、展覧会の運営記録まで合わせて見ることで、芸術家たちが自らの運動をどのように発表しようとしたかが具体的に分かる。(参照:メトロポリタン美術館|《シュルレアリスムの最初の書類》カタログ)

ペギー・グッゲンハイムと新しい画廊

1942年《アート・オブ・ディス・センチュリー》の開設

1942年10月20日、ペギー・グッゲンハイムはニューヨーク57丁目に画廊「アート・オブ・ディス・センチュリー」を開いた。ヨーロッパで収集した前衛芸術を紹介しながら、アメリカで活動する若い画家にも展覧会の機会を与えた。グッゲンハイム財団の記録には、開設に向けて建物を改装し、従来の画廊と異なる展示方法を構想した経緯が残されている。

この場所の意義は、欧州作家の作品をニューヨークへ運んだことだけにあるわけではない。シュルレアリスムと抽象絵画を同じ環境で見せることで、二つの流れに関心を持つ若い芸術家が作品を比較し、新しい実験を始める場になった。(参照:グッゲンハイム財団|《Art of This Century》資料)

フレデリック・キースラーの空間設計

画廊の内部設計を担ったのは建築家フレデリック・キースラーである。壁から突出する支持具、湾曲した面、可変的な展示装置によって、額縁に入れた絵を白い壁に掛ける慣習を変えた。シュルレアリスムの展示室には点滅する光や列車の音が取り入れられ、来場者が空間を感覚的に経験する仕掛けとなった。

作品と周囲の空間を分けず、鑑賞者の視線や身体の動きまで設計の対象にする発想は、1938年パリ展と通じる。商業画廊でこうした展示が実現されたことは、実験的な空間表現が前衛芸術の内部から実際の美術市場へ広がったことを意味する。(参照:グッゲンハイム財団|ペギー・グッゲンハイム)

女性コレクターの活動と若い画家の発表機会

ペギー・グッゲンハイムは芸術家と契約し、展覧会を企画し、作品の販売や生活支援につながる関係を作った。彼女の活動は、戦争で断たれたヨーロッパの文化的なつながりをアメリカへ移す働きを持った。画廊ではポロック、マザーウェル、スティルら、後の戦後美術で重要になる作家が発表の機会を得た。

美術史を作家と作品の名前だけで記述すると、それらを広く紹介する人々の仕事が抜け落ちやすい。収集、展示、支援、批評、出版という活動が結びついて初めて、若い作家の実験は継続できた。国際化の歴史には、そうした媒介者の判断も含まれる。(参照:グッゲンハイム財団|ペギー・グッゲンハイム)

ニューヨークで変化したシュルレアリスムの作品

アンドレ・マッソン《樫の葉についての瞑想》

マッソンの《樫の葉についての瞑想》(1942年)は、テンペラ、パステル、砂をキャンバス上に用いた作品である。植物を思わせる輪郭と鮮やかな色が重なり、木の葉から発想した有機的な形が画面いっぱいに広がる。MoMAによればこの作品は1942年の「First Papers of Surrealism」に出品され、マッソンが長く追求した自動性と自然形態への関心を示している。

マッソンが1920年代に発展させた自動描画の経験は、亡命後も制作を支え続けた。素材の粒子と描かれた線を組み合わせることで、形が発生し、変化し、消えていくような画面が生まれる。特定の夢の物語より、像が立ち上がる過程を感じさせるところに特色がある。(参照:MoMA|マッソン《樫の葉についての瞑想》)

イヴ・タンギーとマックス・エルンストの活動

イヴ・タンギーとマックス・エルンストも大西洋を越え、アメリカで制作を続けた。タンギーは奥行きのある空間に正体を定めにくい形を置く方法を発展させ、エルンストは偶然の模様から像を発見する実験を続けた。パリ時代から追求してきた技法は移動先でただちに消えず、新しい生活の中で異なる作品へと変化していった。

亡命後の作品を一律に「アメリカ化」と呼ぶことには慎重さが求められる。画家の制作には長年の蓄積があり、戦争や移住の影響もそれぞれ異なった。制作技法の継続と作品の変化を併せて見ることによって、歴史上の移動が具体的に何を変えたかを読み取れる。(参照:MoMA|『ダダ、シュルレアリスムとその遺産』)

ジョゼフ・コーネル――箱に収められた世界

ニューヨークで制作していたジョゼフ・コーネルは、古い写真、紙片、小さな物体などを箱の内部へ組み合わせた作品で知られる。日用品や記録資料から新しい関係を生み出す方法は、シュルレアリスムのオブジェや偶然の出会いと響き合う。『ビュー』などの出版物も、コーネルと亡命芸術家たちの活動を結ぶ場所になった。

箱という限られた空間では、物の距離や配置が独自の時間感覚を作る。コーネルの表現はパリのグループをそのまま引き継いだ結果としてより、アメリカの都市で収集した素材と前衛的な発想が出会って形成されたものとして理解できる。(参照:MoMA|『View』『VVV』とアメリカのシュルレアリスム)

ロベルト・マッタ――内面の空間を描く

チリからヨーロッパ、そしてニューヨークへ

チリ出身のロベルト・マッタは建築を学んだ後、ヨーロッパの前衛芸術家と交流し、1930年代後半にシュルレアリスムの活動へ加わった。1939年に戦争を逃れてニューヨークへ渡り、アメリカの若い画家たちと接触した。彼が追求したのは、目に見える風景を写す方法から離れて、心理的な状態を絵画の空間として捉えることだった。

マッタの作品には奥行きの目印がほとんどなく、色や形が空間の中を漂い、つながり、分裂するように見える。建築で学んだ空間への関心と、自動描画や無意識への関心が結びつき、独自の内面的な風景が生まれた。(参照:MoMA|マッタ《エロスの眩暈》)

《エロスの眩暈》――心理的空間の構成

1944年の油彩画《エロスの眩暈》は、約2メートル近い高さと2.5メートルほどの幅を持つ大作で、炎や液体、根、身体の断片を連想させる形が暗い空間へ浮かぶ。MoMAはこれをマッタが「内的風景」と呼んだ作品群の一つとして説明している。遠景の地平線も安定した重力もなく、色面の間を視線が移動するにつれて空間が変化する。

夢の中で起きた出来事を再現する絵画より、心の中で形が生まれ続ける状態に近い。題名に含まれるエロスの概念も、生命や欲望、死をめぐる連想へ作品を開いている。鑑賞者は人物や物体の名前を決めるより、形同士の関係を見続けることで絵画を経験する。(参照:MoMA|マッタ《エロスの眩暈》)

自動性をめぐる直接的な対話

マッタはニューヨークでジャクソン・ポロックらと知り合い、自由な線の運動や自動性について議論した。MoMAの作品解説には、彼がニューヨークの若い作家たちと自動性について話した経験が記録されている。作品集や文章から知る方法とは異なり、絵を描く人同士が制作の出発点を直接語り合える状況が生まれていた。

この交流は、特定の画面が別の画面へそのまま模倣されたという単純な影響関係よりも広い。何を描くかをあらかじめ決めずに始める態度や、絵画を心理的な空間として扱う考えが、それぞれの作家の制作へ変わった。国際化は方法が別の方法を生む過程でもあった。(参照:MoMA|マッタ《エロスの眩暈》)

戦後ニューヨークの絵画へつながる交流

ポロックの初期作品とシュルレアリスム

ジャクソン・ポロックは1940年代前半、神話的な人物や動物を思わせる形、激しく動く線、複雑な色面を組み合わせていた。グッゲンハイム美術館は、1943~45年の《二人》などを、亡命したシュルレアリストとの接触が刺激の一つとなった初期成熟期の作品として紹介している。そこにはピカソの造形や、アメリカで学んだ壁画的な規模への関心も含まれる。

ポロックの後年の制作方法を説明するとき、自動描画から直線的に発展したと考えると多くの要因を見逃す。彼は1930年代から公共美術事業で仕事を続け、メキシコ壁画運動やさまざまな表現を研究していた。シュルレアリスムの自動性は、複数の刺激と結びつきながら別の絵画へ変化した。(参照:グッゲンハイム財団|ポロック《二人》)

ポロックの1943年の個展を支えた画廊

ペギー・グッゲンハイムは1943年、アート・オブ・ディス・センチュリーでポロックの最初の個展を開催した。制作を続けるための経済的な支援も行い、若い画家が新しい表現を試せる条件を整えた。画廊に集まる作家やコレクター、批評家の関係が、作品発表の機会と生活の基盤を結びつけていった。

戦後のアメリカ絵画の評価は、作品の発明だけで成立したわけではない。ヨーロッパから移住した芸術家との交流と、ニューヨークで活動する画廊や美術館の制度が重なって、新しい作家が広く知られる条件が生まれた。美術の中心地が移る過程には、そうした支援の仕組みが深く関わっている。(参照:グッゲンハイム財団|ペギー・グッゲンハイム)

マザーウェル、ゴーキーらの異なる受容

ロバート・マザーウェルやアーシル・ゴーキーなど、1940年代ニューヨークで制作する芸術家たちも、シュルレアリスムの造形や思想に触れていた。画面の上で線や色が発生する過程への関心は共通していても、コラージュ、人物の変形、記憶や神話の扱い方は作家ごとに大きく異なる。彼らを一つの様式の後継者として括ると、制作の多様さが見えにくくなる。

シュルレアリスムはアメリカの若い画家が新しい表現に向かうための重要な刺激となった。そこから何を受け取り、何を変えたかを見ると、戦後に発展する抽象表現主義も、複数の経験と方法を組み合わせた歴史として理解できる。(参照:MoMA|『ダダ、シュルレアリスムとその遺産』)

1945年――一つの中心から複数の拠点へ

戦争が終わっても残った制作のネットワーク

1945年に第二次世界大戦が終結すると、亡命者の一部はヨーロッパへ戻り、別の人々はアメリカ大陸に拠点を保った。戦争中に作られた画廊、雑誌、作家同士の関係、美術館の収蔵は残り、パリへ集まっていた以前の状態がそのまま回復することはなかった。シュルレアリスムもニューヨーク、メキシコ、カリブ海、ヨーロッパなどで異なる展開を続けた。

一つの運動の「中心」がどこにあるかという問いも複雑になった。どの都市の展覧会を見るか、どの雑誌を読むかによって、シュルレアリスムの姿は変わって見える。1936年からの歴史は、中心地の移動と同時に、中心が複数になる過程でもあった。(参照:MoMA|『ダダ、シュルレアリスムとその遺産』)

反植民地主義と亡命の歴史を残す作品

この時期の国際化を代表する作品は、ニューヨークで制作された絵画に限られない。ラムの《ジャングル》はキューバの奴隷制とアフロ・カリブ文化の記憶に向き合い、キャリントンの《緑茶》は拘束された身体の経験を幻想的な場面へ変えた。カイロやマルティニークの出版活動は、芸術の自由と植民地主義への抵抗を結びつけた。

作品の造形を丁寧に見るとともに、それぞれがどの土地のどのような社会で作られたかを確認することで、この運動の豊かさが分かる。国際化とは作品の形式の普及であると同時に、芸術家たちが自分の歴史を表現し直す機会でもあった。(参照:メトロポリタン美術館|国境を越えるシュルレアリスム)

次の時代――パリとニューヨーク、戦後美術の変化

1940年代後半から、ニューヨークではポロック、マーク・ロスコ、バーネット・ニューマン、ウィレム・デ・クーニングらが独自の絵画を発展させていった。美術館や画廊の活動、戦時期に集まった芸術家たちの影響、アメリカで続いていた絵画の実験が重なり、後に抽象表現主義と呼ばれる多様な制作が注目を集めるようになる。

シュルレアリスムの歴史は1945年で終わらず、世界各地で独自の発展を続ける。その一つの結果として、ニューヨークで新しい絵画が形成された。次の時代を読む際にも、パリから運ばれた思想がそのまま受け継がれたと考えるより、多くの人々がそれを変えながら制作した歴史として見ることが重要になる。(参照:グッゲンハイム財団|ポロック《二人》)

年表|パリから世界へ広がったシュルレアリスム

  1. 1924年 パリでブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表し、文学・芸術運動の重要な起点となる。
  2. 1925年 パリで「シュルレアリスム絵画」展が開かれ、視覚芸術への展開が明確になる。
  3. 1932年 マルティニークの知識人たちが『正当防衛』を刊行し、反植民地主義と前衛思想を結びつける。
  4. 1933年 パリでシュルレアリスムの雑誌やオブジェをめぐる活動が広がる。
  5. 1936年6月 ロンドンのニュー・バーリントン・ギャラリーズで国際シュルレアリスム展が開催される。
  6. 1936年7月 スペイン内戦が始まり、ヨーロッパの政治的危機が深まる。
  7. 1937年7月 ナチス政権がミュンヘンで《退廃芸術》展を開き、近代美術を攻撃する。
  8. 1938年1月 パリのボザール画廊で国際シュルレアリスム展が開かれ、会場そのものを演出する。
  9. 1938年12月 カイロの芸術家たちが「芸術と自由」に結びつく反ファシズム宣言を発表する。
  10. 1939年 マッタがニューヨークへ移り、ヨーロッパとの往来が戦争によって大きく変わる。
  11. 1939年9月 ドイツのポーランド侵攻を契機にヨーロッパで第二次世界大戦が始まる。
  12. 1940年 メキシコシティで国際シュルレアリスム展が開催される。
  13. 1940年6月 フランスがドイツに敗れ、多くの芸術家が亡命を迫られる。
  14. 1940年8月 ヴァリアン・フライがマルセイユに入り、難民の脱出支援を始める。
  15. 1940年 ニューヨークで雑誌『ビュー』が創刊される。
  16. 1941年4月 マルティニークでエメ・セゼール、シュザンヌ・セゼールらによる雑誌『トロピック』が創刊される。
  17. 1941年 ウィフレド・ラムがキューバへ帰還し、帰郷後の作品制作を深める。
  18. 1942年3月 ニューヨークのピエール・マティス画廊で「亡命芸術家」展が開催される。
  19. 1942年 ニューヨークで『VVV』、メキシコで『ディン』が創刊される。
  20. 1942年10月 ニューヨークで「First Papers of Surrealism」が開催される。
  21. 1942年10月20日 ペギー・グッゲンハイムの画廊「アート・オブ・ディス・センチュリー」が開く。
  22. 1942~43年 ラムがキューバで《ジャングル》を制作する。
  23. 1943年 ポロックが「アート・オブ・ディス・センチュリー」で最初の個展を開く。
  24. 1944年 マッタが《エロスの眩暈》を制作し、ラムの《ジャングル》がニューヨークで紹介される。
  25. 1945年 第二次世界大戦が終結し、戦時期の移住によって生まれた国際的な芸術家の関係が各地に残る。

まとめ|移動と出会いが変えた芸術

1936年から1945年にかけて、シュルレアリスムはパリからロンドン、メキシコシティ、カリブ海地域、ニューヨークなどへ展開した。各地の作家たちは、偶然や無意識、異質な物の出会いという発想を、自分たちの風景、政治、生活、文化に結びつけて新しい表現を生み出した。1938年パリ展の会場演出や1942年ニューヨーク展の糸のインスタレーションは、絵画から展示空間へ広がる表現の変化を明確に示している。

その移動には、戦争、迫害、難民救出の現実が深く関わっていた。マルティニークでは反植民地主義の言葉がシュルレアリスムを読み替え、ラムはキューバの奴隷制と文化の歴史を《ジャングル》に描き、ニューヨークではマッタや亡命した芸術家との対話が若い画家に刺激を与えた。国際化の歴史を作品と社会背景から読むことで、20世紀美術が複数の土地と人々によって作られてきたことを理解できる。

参考資料・出典

本記事は、旧稿で扱ったロンドン、パリ、メキシコ、カリブ海、ニューヨークの事例を引き継ぎ、美術館・研究機関・公文書館が公開する所蔵作品や一次資料を追加確認したうえで構成・執筆しています。展覧会の参加と作家の運動への所属、各地域の独自の歴史、作品と解説者の解釈は区別して扱っています。

資料確認日:2026年10月14日 / ART LIBRARY