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1650–1720

中欧のバロック美術

ウィーン、プラハ、南ドイツの宮廷と教会

17世紀後半から18世紀初頭の中欧では、教会の内部に入った人が見上げる天井、宮殿の前に立った人がたどる庭園の軸線、街を歩く人の前に次々と現れる聖人像が、美術の重要な舞台になりました。ウィーンの貴族の宮殿は庭の向こうにもう一つの宮殿を配し、ザルツブルクの教会は外壁の曲線と大きなドームを組み合わせ、プラハの橋には聖人の彫像が並びました。ローマで発展したバロックの表現は、アルプス以北で建築、彫刻、絵画、庭園を横断する仕事へと広がっていきます。

その変化を理解するには、地域の歴史を見る必要があります。三十年戦争が1648年に終結した後も、中欧の政治や宗教は安定した一つの秩序へ落ち着いたわけではありません。ハプスブルク家の皇帝、ボヘミアの貴族、ザルツブルクの大司教、南ドイツの修道院、バイエルンの選帝侯が、それぞれ異なる目的で大規模な美術事業を進めました。宗教施設では典礼や巡礼を支える空間が整えられ、宮廷では家門の権威と外交上の地位を示す建築が求められました。

中欧のバロックは、完成した豪華な内装を写真で見るだけでは、その歴史が捉えにくい美術でもあります。たとえばメルク修道院の再建は1700年代初頭に始まり、現在知られる装飾の多くは1720年以降も制作されました。ウィーンの上ベルヴェデーレ宮殿も1717年に着工し、完成は1723年です。本記事では1650~1720年を中心に、計画・着工・完成・後世の変更を分けて説明し、当時の人が何をつくろうとしていたのかを追います。

中欧のバロックが発展した歴史的条件

三十年戦争後の政治と宗教

1648年のヴェストファーレン条約は三十年戦争を終わらせました。ハプスブルク家の皇帝は神聖ローマ帝国の諸領邦に対して一様な命令を下せたわけではなく、各地の君主や都市の政治的自立が続きました。美術の発注者としては皇帝のほか、司教や修道院長、選帝侯、富裕な貴族が大きな役割を持ちます。地図の上では隣り合うウィーンとプラハ、ミュンヘンも、芸術家の雇用や建築費を負担する制度は同じではありませんでした。

ボヘミアでは1620年の白山の戦い以降、ハプスブルク家による再カトリック化が進み、教会と修道会が都市景観を変えていきました。戦争の記憶や財産の移転も美術後援に影響します。こうした条件のもとで宗教画や聖人像が増えましたが、作品の造形は注文主や設置場所、建築家と画家の工夫によって大きく異なりました。中欧各地で展開したバロックを、宗教政策だけから一律に説明することはできません。 (参照:ユネスコ世界遺産センター|プラハ歴史地区)

ウィーン、プラハ、ザルツブルク、南ドイツを結ぶ移動

17世紀の芸術家は一つの都市だけで学び、制作したとは限りません。イタリアで建築や天井画を研究した画家・建築家がウィーンやザルツブルクへ移り、プラハの画家はイタリア旅行を通して新しい表現を取り込みました。反対方向には、職人の技術、注文主の書簡、銅版画や建築図集が行き交います。建物の設計を担当する人、現場で石を切る人、天井に絵を描く人が別の出身地を持つことも珍しくありませんでした。

完成した装飾を見るときには、絵画だけを取り出すより、外壁や祭壇、階段とのつながりを確かめると理解が深まります。ある部屋の天井画は、部屋へ入る動線と見上げる角度を考えて描かれます。教会のドームも、祈る位置から見える光の量によって印象が変わります。こうした協働と鑑賞者の位置への関心が、中欧での美術事業を特徴づけました。 (参照:プラハ国立美術館|古典美術の常設展示、ザルツブルク観光局|三位一体教会の建築とドーム壁画)

イタリアとの関係と地域の独自性

イタリアのベルニーニやボッロミーニの建築、コルトーナやポッツォの天井画は、アルプス以北の芸術家に重要な手がかりを与えました。曲面を用いる建築、実際の壁を越えて奥行きが続くかのような壁画、人物の動きに合わせて衣服が大きく翻る彫像などに、そのつながりを見いだせます。学んだ技法は現地で求められる典礼、気候、建材、都市の敷地条件に合わせて変えられました。

中欧の建築では、長い冬への対応や、既存のゴシック教会・中世修道院の改築という問題も重要でした。新築の際にも、伝統的な聖堂の平面と新しい曲線的な天井が組み合わされます。後にサンティーニが生み出すゴシックとバロックの結合は、そのような歴史を鮮やかに示しています。様式を輸入したという説明だけでは見えない、場所ごとの設計上の選択に目を向けます。 (参照:ユネスコ世界遺産センター|ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会、メルク修道院|修道院教会と再建に携わった芸術家たち)

ハプスブルク家のウィーン――宮廷文化と建築の再編

1683年の包囲戦から宮廷建設へ

1683年、オスマン軍によるウィーン包囲は都市と周辺地域に大きな被害をもたらしました。包囲の解除後、ハプスブルク家と有力貴族は軍事的な成果を祝うとともに、庭園を備えた宮殿や教会を建てて地位を表しました。皇帝レオポルト1世の治世には戦争と宮廷の祝祭が並行し、彼自身も音楽に強い関心を持っていました。宮廷文化には絵画・建築とともに儀礼、演劇、音楽が組み込まれていたのです。

ウィーンに残るバロック建築は、皇帝一人が統一的に設計させた都市の姿ではありません。軍人として功績を上げたオイゲン公、宮廷で役職を得た貴族、宗教団体など、複数の発注者の事業が重なりました。宮殿が生まれた年代を追うと、戦争で得た威信、新しい土地の獲得、宮廷における競争が、建築の大きさや装飾の主題と結びついていることが分かります。 (参照:シェーンブルン宮殿|庭園の始まりと1690年代の計画、ベルヴェデーレ美術館|ベルヴェデーレ宮殿の歴史と建築)

フィッシャー・フォン・エルラッハが変えた建築の見せ方

ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハは、イタリアで学び、彫刻と建築の知識をもとにウィーンやザルツブルクで活動しました。彼の設計では正面から建築を眺める人の目を、中央の強い造形へ集める工夫が見られます。ドーム、左右の塔、曲がる壁面、中央へ向かう階段などが、別々の部品でありながら一つの印象を作ります。

その設計を理解するには、外観の曲線だけでなく建築が使われる場所も見る必要があります。宮殿なら馬車で中庭へ入る人がどの位置から建物を認識するか。教会なら正面の通りから入口へ近づき、室内でドームを見上げる人が何を感じるか。設計者は建物の輪郭を都市や庭園の視線とつなぎ、建築が人に近づく過程を組み立てました。 (参照:シェーンブルン宮殿|17世紀から18世紀初頭の建築史、ザルツブルク観光局|三位一体教会の建築とドーム壁画)

シェーンブルン宮殿――初期構想と実現した建物

現在のシェーンブルン宮殿は、マリア・テレジアの時代の増改築を受けた姿で知られています。17世紀末を理解するには、その前段階へ戻る必要があります。フィッシャー・フォン・エルラッハは壮大な宮殿の初期案を提案したのち、実行可能な狩猟宮殿を設計しました。レオポルト1世の注文によって1696年に着工し、1700年春には中央部分が居住可能になっています。建築の左右の翼部などはスペイン継承戦争に伴う財政上の問題で工事が停滞し、ヨーゼフ1世が1711年に死去した時点でも未完成でした。

建物の中央には正面の階段と広い中庭があり、そこから宮殿へ向かう軸線が強調されます。最初の構想には高台の大宮殿と斜面を利用した壮大な導入空間が描かれていました。実際の建設では建物の規模と位置が変わります。建築史上の図面と現存する宮殿の外観を比べると、構想の壮大さと政治・財政上の制約がどのように形へ反映されたかが見えてきます。 (参照:シェーンブルン宮殿|17世紀から18世紀初頭の建築史、シェーンブルン宮殿|シェーンブルンの始まり)

シェーンブルンの庭園とヴェルサイユの影響

宮殿の庭園計画には、フランスのル・ノートルに学んだジャン・トレエが関わり、1690年代に中央軸線と幾何学的な花壇、並木道を構想しました。建築と庭園を一直線につなぎ、歩く人の視界を長く遠方へ伸ばす方法は、フランスの宮廷庭園と交流しながら中欧へ広がったものです。庭の中心軸を歩くと、建物が遠ざかるにつれてその形がまとまって見え、近づけば階段と窓の細部が浮かびます。

現在庭園を訪れて目にする大規模な装飾や施設には後世の整備が含まれます。17世紀末の計画が示すのは、軸線、区画、歩行の順序を自然の地形に持ち込む設計思想です。庭園は宮殿の背景に置かれた植物の集合ではなく、皇族が散策し、来客を迎え、権威を示すための空間として構想されました。 (参照:シェーンブルン宮殿|庭園の始まりと1690年代の計画)

オイゲン公のベルヴェデーレ宮殿――庭園と階段の政治学

軍人の夏の宮殿が象徴したもの

オイゲン・フォン・ザヴォイエンはハプスブルク家に仕え、オスマン帝国との戦争やスペイン継承戦争で重要な役割を担いました。彼がウィーン郊外に建てたベルヴェデーレ宮殿は、皇帝の宮殿と区別される有力貴族の建築です。庭をはさんで下宮と上宮を配し、広い敷地全体で所有者の威信を示します。設計したヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントは、軍事関係者や宮廷貴族の建築事業でも活動した建築家でした。

この建築を前にすると、庭の高低差が建物の役割の違いを示すことに気づきます。居住の性格を持つ下宮から庭を上っていくと、高い場所に置かれた上宮が視線の中心になります。建物と庭園を別々に鑑賞するよりも、低い位置から高い位置へ移動する身体の経験を考えると、庭園全体が長い儀礼的な空間として設計されていたことが理解できます。 (参照:ベルヴェデーレ美術館|ベルヴェデーレ宮殿の歴史と建築、ベルヴェデーレ美術館|下ベルヴェデーレ宮殿の歴史)

下宮――1712〜1716年の居住空間

下ベルヴェデーレ宮殿の建設は1712年に始まり、1716年に完成しました。住宅としての性格が強い建物には、来客を迎える部屋と私的な生活のための空間が備えられました。外観は庭園へ長く伸びる水平線を持ち、内部では大理石の広間などを通して訪問者の身分や儀礼に応じた移動が組み立てられています。装飾された部屋を一つずつ見ると、住まいでありながら人を招く政治的な場所でもあったことが分かります。

バロックの宮殿は豪華な大広間が一つあれば成立するわけではありません。玄関、階段、控えの間、謁見のための場所、私室が順番につながり、誰がどこまで入れるかという差を建築が可視化しました。下宮に残る部屋の性格を考えると、宮廷の社会関係が平面図の中に組み込まれていたことが分かります。 (参照:ベルヴェデーレ美術館|下ベルヴェデーレ宮殿の歴史)

上宮――1717年の着工と1720年までの建設

上ベルヴェデーレ宮殿は1717年に着工し、1723年に完成しました。したがって本記事の終点である1720年にはまだ工事が続いていました。上宮は客を迎える表向きの用途を持ち、庭園に面した外観には中央の強調と細かな屋根の輪郭が重なります。遠くから見ると左右に長く続く建築が高台でまとまり、近くでは入口や彫刻の細部が立ち上がります。庭園との一体性が、外観の印象を左右しています。

1719年には宮殿で外交使節を迎えた記録があり、イタリアの画家へ装飾を発注する動きも進みました。ガエターノ・ファンティによる建築的な錯視の装飾や、カルロ・カルローネが1720年に注文を受けた大理石の間の天井画は、建設と装飾が段階的に進められた例です。現在の完成した室内を1717年の着工直後にそのまま存在したものとして眺めることはできません。 (参照:ベルヴェデーレ美術館|ベルヴェデーレ宮殿の歴史と建築)

ベルヴェデーレの庭園――遠近法と水の仕事

庭園の設計にはドミニク・ジラールが関わりました。彼はヴェルサイユで庭園と水の技術を学び、ベルヴェデーレでは段状の地形に花壇や水盤、彫像を配置しました。1718年には大規模な庭園工事が完了したと記録されています。長い軸線は上宮と下宮を視覚的につなぎ、途中の段差と噴水が歩く速度を変えます。見る人が向きを変えるごとに建物の見え方が変わるのです。

噴水と池の美しさは、設計された水路や給水の仕組みに支えられています。庭園の建築的な秩序を実現するには、土木工事と造園の専門知識が必要でした。彫刻や花壇を並べる構想は、美術家だけの仕事として完結しません。中欧の宮殿を理解するとき、作庭家、職人、技術者の役割にも目を向ける必要があります。 (参照:ベルヴェデーレ美術館|ベルヴェデーレ宮殿の歴史と建築)

ザルツブルク――司教都市とフィッシャーの教会

大司教が発注した聖堂の意味

ザルツブルクは大司教が政治的な権力を持つ都市であり、宮廷と宗教施設が街の中心を構成していました。教会を建てることは信仰の表現であると同時に、聖職者の教育と都市の威信を示す事業でした。17世紀末には大司教ヨハン・エルンスト・フォン・トゥーンのもとで新しい教会が建設され、イタリアの建築を学んだフィッシャー・フォン・エルラッハが重要な役割を担います。

この都市では、教会の正面だけを美しく飾るのではなく、広場から見えるドームと塔、礼拝者が入る内部の構成まで計画されました。旧市街の建物が密集する場所で、曲面のファサードや高い屋根を使い、遠くからも建築の存在が分かるように工夫されています。宗教施設が都市全体の景観を組み立てる役割を持っていたことが分かります。 (参照:ザルツブルク観光局|三位一体教会の建築とドーム壁画)

三位一体教会――外壁の曲線とドーム

三位一体教会は1694〜1702年に建てられ、司祭養成施設と結びつく教会として計画されました。フィッシャーは左右の塔を中央のドームと結び、正面の壁に曲線を取り入れています。広場から眺めると、塔が左右の輪郭を作り、その間に盛り上がる中央部が入口の位置を強調します。教会に近づくと、壁面の曲がり方と入口まわりの陰影がいっそう明確になります。

内部に入ると、見上げる人の視線はドームへ導かれます。ヨハン・ミヒャエル・ロットマイヤーが描いたドーム壁画には聖三位一体とマリアの戴冠が表され、建築の中心軸と宗教的な主題が結びつきます。祭壇から上へ向かう視線の動きを追うと、建築と絵画が別々に付け加えられた装飾ではなく、礼拝の経験として組み立てられていることが分かります。 (参照:ザルツブルク観光局|三位一体教会の建築とドーム壁画)

大学教会――白い壁と採光がつくる空間

フィッシャーのザルツブルク大学教会は、ベネディクト会系の大学のために建設され、1707年に献堂されました。ここでは壁面と天井の白さが強い印象を与えます。多彩な壁画で隅々まで覆う代わりに、柱や壁の形と高い位置から入る光が室内をまとめています。中央部と礼拝堂のつながりを追い、壁に落ちる陰影を見ると、構造の明瞭さそのものが表現の中心になっていることが分かります。

小礼拝堂には大学の諸学部に関係する聖人が割り当てられました。大学という教育機関に必要な象徴が、礼拝の場に重ねられているのです。三位一体教会と同じ設計者の仕事を比べても、色彩や装飾の使い方は同じではありません。注文者と施設の役割に応じて空間の印象を選び分けていたことが、二つの教会から読み取れます。 (参照:ザルツブルク観光局|大学教会の建築史と空間構成)

天井画と彫刻――建築を越えて見せる工夫

ヨハン・ミヒャエル・ロットマイヤーと天上の人物像

ロットマイヤーは17世紀末から18世紀初頭に活躍したオーストリアの画家で、ドームや天井を見上げる人へ向けた大画面の装飾を手がけました。人物を雲の間に配し、明るい色を用いて上方の空間が開く印象を生みます。ザルツブルクの三位一体教会では、実際のドームの形に合わせて宗教的な場面を構成しました。絵の人物を順に読むことと、室内全体を一つの光の場として感じることが重なる仕事です。

メトロポリタン美術館が所蔵するロットマイヤーの《勇気と知恵の勝利》の素描は、ペン、褐色インク、淡彩などを使った構想の痕跡を伝えます。天井画の完成画面に目を奪われがちですが、画家は素描によって人物の配置や明暗を検討しました。小さな紙面での試行が、後に大きな空間の中で鑑賞される構図へ結びついていきます。 (参照:ザルツブルク観光局|三位一体教会の建築とドーム壁画、メトロポリタン美術館|ロットマイヤー《勇気と知恵の勝利》素描)

漆喰装飾と建築――輪郭を変える技術

中欧の教会や修道院では、漆喰の装飾が天井画と強く結びつきました。実際の壁面から飛び出す花綱や人物像、絵画を囲むように盛り上がった縁取りは、平らな面と立体の境界を曖昧にします。窓から入る光が漆喰の凹凸に当たり、その影が一日の時間とともに変わります。描かれた陰影と、本物の起伏が作る影を見比べることが、内部空間を鑑賞する手がかりになります。

漆喰装飾を成り立たせるには、下地の準備と材料の乾燥を考えた職人の作業が欠かせません。天井画家や彫刻家と現場で相談しながら形を調整する仕事でもありました。華やかな内装の背後にある制作の分業を知ると、建築と絵画と彫刻がなぜ同じ方向へ動くように見えるかが理解できます。次に取り上げる大修道院の装飾では、こうした協働がさらに大規模になります。 (参照:メルク修道院|修道院教会と再建に携わった芸術家たち)

メルク修道院――ドナウ川を見下ろす大建築

修道院長と共同体が選んだ再建

メルク修道院はドナウ川沿いの高台にあり、中世から続くベネディクト会の修道院です。18世紀初頭、修道院長ベルトルト・ディートマイヤーのもとで大規模な再建が始まりました。最初は既存の教会をバロック様式に改装する構想でしたが、1701年以降、ヤーコプ・プラントアウアーの設計によって教会全体を建て直す方向へ進みます。修道院は礼拝に加え、学問、蔵書の管理、周辺地域との関係を担っており、建物にも複数の役割が求められました。

メルクの外観を川の側から見ると、長い建物のまとまりの中で教会の塔とドームが強い目印になります。低い土地から見上げる人にも修道院の存在が伝わり、近くでは中庭や通路を通して教会へ導かれます。修道院の建築は山上に置かれた単なる記念碑ではありません。修道士の生活、訪問者の移動、周辺の景観を結びつける大きな計画でした。 (参照:メルク修道院|修道院教会と再建に携わった芸術家たち、ユネスコ世界遺産センター|ワッハウ渓谷の文化的景観)

教会内部――祭壇へ向かう順序と装飾

メルク修道院の教会は、華やかな色彩、柱、金色の装飾、壁画が重なる内部で知られます。見学者が身廊から奥を眺めると、柱が祭壇の方向へ視線を集め、上方の壁画が天井の高さを印象づけます。金色の装飾はその場の明るさに応じて輝きを変え、彫像や祭壇画とともに宗教的な主題を強調します。建築の骨格に沿って視線が進むように構成されている点に注目したいところです。

修道院の公式資料は、建築の目的を十字架の栄光という宗教的な主題に結びつけています。ここでは華美な材料が人の視線を引きつけることと、礼拝の中心へ注意を集めることが同じ空間で重なります。装飾を単に権力の誇示と見ると、修道院共同体が意図した宗教的な意味を見落とします。信仰の実践と大規模な造形活動が結びついたことが、この建築の重要な特徴です。 (参照:メルク修道院|修道院教会と再建に携わった芸術家たち)

複数の芸術家による内装と1720年以降の完成

プラントアウアーによる建築計画には、多くの芸術家が参加しました。公式資料には、内部構成やフレスコの構想に関わったアントニオ・ベドゥッツィ、壁画や祭壇画を制作したロットマイヤー、祭壇画家のパウル・トロガー、祭壇と説教壇の構想に携わったジュゼッペ・ガッリ=ビビエーナ、彫刻の設計と制作に関わった人々の名が挙げられています。一つの建物に多彩な技術を集めた事業でした。

この修道院の姿を1650〜1720年の代表例として見るとき、制作の途中であったことを忘れないようにします。建物の工事は長期にわたり、現在の主要な室内装飾には1720年以降の仕事が含まれています。ロットマイヤーとトロガーの作品を同じ時点で制作されたものとして説明することは、建築の歴史を平らにしてしまいます。年代を追えば、先に用意された建築の骨格へ、後続の画家や彫刻家が仕事を積み重ねたことが分かります。 (参照:メルク修道院|修道院教会と再建に携わった芸術家たち、ユネスコ世界遺産センター|ワッハウ渓谷の文化的景観)

ワッハウの景観と修道院の位置

ユネスコはメルクを含むワッハウ渓谷を、長く続く土地利用と建築の歴史を伝える文化的景観として位置づけています。修道院や城、村落、葡萄畑がドナウ川の流れに沿って続き、中世以来の地域の歴史が地形に残っています。その中でメルク修道院は高台から周辺を見渡す位置を占め、建築の大きさと場所の選び方が一体となっています。

ローマの教会では市街地の広場に向かってファサードが計画されることが多く、メルクでは川と山並みから見える建築の姿も重要です。同じバロックの意匠を使用しても、都市の中に建つ礼拝堂と川沿いの修道院では、人が作品を目にする距離が異なります。現地を訪れるなら、教会の内部を見る前に少し離れた場所から塔と屋根の重なりを確かめると、建築全体の意図が理解しやすくなります。 (参照:ユネスコ世界遺産センター|ワッハウ渓谷の文化的景観)

ボヘミアのバロック絵画――プラハで何が描かれたか

白山の戦い以降のプラハと美術の注文

プラハには中世からの王宮、ゴシックの教会、市民の建物が残り、その中へバロックの宮殿と教会が加わりました。1620年の白山の戦い以降、宗教団体と貴族の注文が都市の美術に強く関わり、祭壇画や肖像画、版画が制作されます。プラハ国立美術館の古典絵画コレクションには、そうした歴史を示すボヘミアの画家たちの作品が収められています。

都市の層を読み取るには、建築が建てられた時期の違いに注意することが役立ちます。ゴシックの街路や塔が消えた後にバロックが現れたのではなく、先行する建築の隣に新しい礼拝堂や宮殿が置かれました。既存の教会を改築する仕事もあり、石の材料、壁の位置、敷地の広さによって新築とは異なる条件が生まれています。プラハのバロックを理解するには、この都市の時間の重なりが重要です。 (参照:ユネスコ世界遺産センター|プラハ歴史地区、プラハ国立美術館|古典美術の常設展示)

カレル・シュクレータ――イタリアで学んだプラハの画家

カレル・シュクレータは1610年にプラハで生まれ、1627年に国外へ出てイタリアを含む地域で美術を学びました。帰国後はプラハで宗教画、肖像画、版画のための構想に取り組み、ボヘミアのバロック絵画の形成に大きな役割を果たします。プラハ国立美術館は彼の版画のための下絵を紹介し、大学の学位審査を告知する大型版画のような、当時の知的・社会的な活動と結びついた仕事に光を当てています。

版画のための構想では、人物と象徴を限られた画面に整理し、見る人が主題を理解できるよう配置する必要がありました。油彩画とは材料も流通する仕組みも異なります。大きな祭壇画を依頼した宗教団体だけでなく、学問の場や都市の制度も画家の仕事を支えました。シュクレータを見ると、ボヘミアのバロックが教会のための絵だけで成り立っていたわけではないことが分かります。 (参照:プラハ国立美術館|カレル・シュクレータの版画原案、プラハ国立美術館|古典美術の常設展示)

《宝石彫刻師ミゼローニとその家族》――肖像が示す職人の地位

シュクレータの《宝石彫刻師ディオニュシウス・ミゼローニとその家族》(1653年、プラハ国立美術館)は、都市で高度な技術を持つ職人の家族を描いた肖像画です。皇帝の宮廷と関わった宝石彫刻師の家族という主題そのものが、宮廷文化を支える技術者の社会的な位置を伝えます。多数の人物を描いた画面では、誰が中心に置かれ、誰が隣に立ち、どのような衣装を身に着けているかが関係を読み取る手がかりになります。

家族肖像は血縁を記録するだけでなく、家門の継承と仕事への誇りを目に見える形にします。王侯や聖人とは異なる人物たちが大きな画面の主題になったことは、同時代の社会で美術を必要とした人々の幅を示します。作品の背景を知ることで、宝石や硬い石を加工する工芸技術が宮廷の美術と密接に結びついていたことにも目が向きます。 (参照:プラハ国立美術館|古典絵画コレクション)

ペトル・ブランドル――顔と身振りを強く見せる絵画

ペトル・ブランドルは1668年にプラハで生まれ、17世紀末から18世紀前半にかけて活動した画家です。大きな人物の身体と表情、光の当たり方に強い関心を示し、宗教画や肖像画を制作しました。画面の暗部が人物を包み、照らされた顔や手が浮かび上がる表現は、カラヴァッジョ以来の明暗研究が中欧で変化した例として見ることができます。

ブランドルの表現をカラヴァッジョの直接的な模倣と決めつけるより、何を画面の中心に置いたかに注目すると具体的になります。見る人へ向けられた身振り、宗教的な出来事を理解させる光、人物を近く感じさせる画面の構成などです。プラハ国立美術館は彼をボヘミア・バロックを代表する画家の一人として紹介しています。活動の多くは1720年以降にも及ぶため、その後の展開を前半の形成期と区別して考える必要があります。 (参照:プラハ国立美術館|古典美術の常設展示、プラハ国立美術館|古典絵画コレクション)

肖像画と版画がつくった美術のネットワーク

中欧で制作された絵画は祭壇に固定されるものばかりではありません。家族肖像は邸宅に掛けられ、宮廷関係者の肖像は贈答や収集に用いられ、版画は地理的に離れた地域へ持ち運ばれました。肖像画家ヤン・クペツキーのように、各地の人々を描きながら活動した画家もいます。版画は同じ構図を複数に広める手段であり、新しい表現を知るための資料にもなりました。

油彩画、素描、版画を並べると、同じ人物像でも見る人との距離や情報量が異なります。印刷された紙面では線と明暗の整理が重要になり、油彩では衣服の色や肌の柔らかさを豊かに示すことができます。美術を支えたのは巨大な建築の注文だけではなく、小さな紙と室内に掛ける絵を取り巻く取引や収集でもありました。 (参照:プラハ国立美術館|カレル・シュクレータの版画原案、プラハ国立美術館|古典絵画コレクション)

プラハの彫刻――橋と都市をつくる聖人像

カレル橋が屋外の彫刻空間になる

プラハのカレル橋は14世紀に起源を持つ石橋ですが、17世紀末から18世紀初頭には数多くの聖人像が加えられました。川を渡る人々は、欄干沿いの彫像を近くで見たり、対岸からまとまった輪郭として眺めたりできます。彫刻は祭壇の正面だけに置かれる作品から、街の生活と巡礼の動線に組み込まれる作品へ広がりました。貴族、宗教団体、都市の組織、大学などが注文主となったことも重要です。

同じ橋の上に立つ作品でも、人物の身振りや素材、建立の年代は異なります。現在見える像の中には保存上の理由で制作された複製が含まれ、原作は博物館に移されたものがあります。橋を歩く際には、どこに原作があるのか、何が後世に置き換えられたのかという来歴も確認したいところです。公共空間で長期間風雨にさらされる彫刻には、室内の祭壇画とは異なる保存上の歴史があります。 (参照:プラハ市観光局|カレル橋の彫刻作品解説、プラハ市観光局|国立博物館石彫展示館と彫刻原作)

聖ヤン・ネポムツキー像――一つの図像の普及

カレル橋の聖ヤン・ネポムツキー像は1683年に設置された初期の重要作です。聖人が手に十字架を持ち、頭上の星を伴う姿は、その後の広い地域で繰り返し用いられました。造形は彫刻家と鋳造職人の協働によって成立し、石の橋の上に立つ青銅像という素材の違いも目を引きます。下から見上げると、衣服の大きなひだと頭部の輪郭が、遠い位置からも人物を認識させます。

この像の重要性は、同じ形式が別の地域へ繰り返し広がったことにあります。聖人の伝説は川と結びつき、橋という設置場所に特別な意味を与えました。図像に決まった特徴があることで、似た像が別の都市や村に置かれても誰を表しているのかが伝わります。バロックの宗教彫刻には、一点の造形の強さに加えて、その形が再制作され、各地に伝わる働きがありました。 (参照:プラハ市観光局|カレル橋の彫刻作品解説)

ブラウン《聖ルトガルディスの幻視》――石でつくる抱擁

マティアーシュ・ベルナルド・ブラウンの《聖ルトガルディスの幻視》(1710年)は、カレル橋を代表する彫刻の一つです。十字架から身を傾けたキリストが聖女を抱き寄せる場面で、石の人物像のあいだに強い感情が生まれます。キリストの腕の位置、聖女の上体の傾き、衣服の折れ目が、二人の身体の接触へ視線を集めます。橋を行き交う人は、正面だけでなく少し角度を変えてこの抱擁を見ることができます。

プラハ市の公式案内は、この彫刻がベルニーニ《聖テレジアの法悦》の影響を受けた可能性にも言及しています。視覚的な共通点を考えるなら、宗教的な出来事を一人の静かな立像に収めず、二人の身体の関係として表したところです。カレル橋の現在の像は複製で、原作は博物館に保管されています。作品を生んだ都市空間と原作の保存場所を分けて考えることも、彫刻史の一部です。 (参照:プラハ市観光局|カレル橋の彫刻作品解説、プラハ市観光局|国立博物館石彫展示館と彫刻原作)

ブロコフ一族と聖人群像の構成

ブロコフ一族もカレル橋の聖人像を多く手がけました。フェルディナント・マクシミリアン・ブロコフによる《聖フランシスコ・ザビエル》(1711年)などでは、中心人物だけでなく周囲の人々や支える台座までが物語の一部になります。台座の人物が上部の聖人を見上げ、聖人がさらに高い位置を示すことで、視線を下から上へ導く仕組みが生まれています。

これらの群像には、当時のヨーロッパ人が異文化や宣教をどう表象したかという問題も含まれます。彫刻に登場する人々の衣装や姿勢は、実際の異文化の正確な記録よりも、注文主側の宗教的な世界観を反映しています。作品の造形を鑑賞すると同時に、誰が中心に置かれ、誰が従属するように描かれたかを読み取ることが、美術と社会の関係を理解する手がかりになります。 (参照:プラハ市観光局|カレル橋の彫刻作品解説)

ボヘミアとモラヴィアの教会建築

マラー・ストラナの聖ミクラーシュ教会――長期にわたる建設

プラハのマラー・ストラナにある聖ミクラーシュ教会は、イエズス会の大規模な建築事業です。クリシュトフ・ディーンツェンホファーが建設の重要な部分を担い、その後、息子キリアン・イグナーツが計画を引き継ぎました。現在よく知られる大きなドームなどは18世紀の後半の工程に属するため、1700年代初頭の着工時点と完成後の建物を分ける必要があります。親子二代にわたる事業は、大聖堂のような大規模建築で設計と施工が継承される様子を示しています。

内部では壁面と天井が連続するように見え、大きな曲面が建築の方向を変えます。教会の外から眺めると、都市の坂道や広場との関係の中で塔とドームが認識されます。設計者は周囲の建物に囲まれた敷地の条件を利用し、近くでの立体感と遠くからの都市景観を両立させようとしました。完成年代に注意することで、この教会が17世紀末から18世紀にかけて育った表現であることが見えてきます。 (参照:チェコ政府観光局|マラー・ストラナの聖ミクラーシュ教会、ユネスコ世界遺産センター|プラハ歴史地区)

サンティーニとゴシック・バロックという選択

ヤン・ブラジェイ・サンティーニ=アイヘルは、ボヘミアとモラヴィアで独自の建築を展開しました。中世のゴシック建築を参照しながら、幾何学的な平面、光の入れ方、曲線的な壁を組み合わせる方法です。ゴシックの尖ったアーチや高く伸びる構成を、18世紀初頭の設計思想の中で新しく用いました。古い教会の改修や巡礼地の建設という課題が、歴史的な意匠を再解釈する契機になっています。

この方法を眺めると、バロックがすべて丸いアーチや膨らんだ壁面だけで成立していたわけではないことが分かります。建築家は中世の造形を古びたものとして捨てる代わりに、その比例と象徴性を新しい構成に組み込みました。中欧では歴史の異なる要素を再構成することで独自の表現が生まれたのです。次に取り上げる巡礼教会では、建築の形が聖人の信仰と密接に結びついています。 (参照:ユネスコ世界遺産センター|ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会)

ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会

モラヴィアのゼレナー・ホラにある聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会は、1719年に建設が始まり、1727年まで工事が続きました。サンティーニの設計したこの建築は、星形の平面と中央に集まる空間が特徴です。聖人を象徴する数字の五が、平面の形や周囲の構成に繰り返し使われています。離れた場所から眺めると、建物の輪郭そのものが特別な形を示し、内部では柱や壁が中央へ意識を集めます。

これは巡礼のための教会です。聖人の記憶を祈る人々が外側の回廊を通り、中央の礼拝空間へ向かう動きまでが計画に含まれています。ユネスコはこの教会を、ゴシックとバロックの発想を組み合わせた独創的な建築として評価しています。1719年の着工という事実は1720年までの美術史に含まれますが、現在の建物の完成をその時点へさかのぼらせることはできません。 (参照:ユネスコ世界遺産センター|ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会)

宗教建築の平面図を見る意味

教会の外観が似ていても、平面図を見れば礼拝する人の動きや視線の違いが分かります。長い身廊を通って奥の主祭壇へ進む形式もあれば、ゼレナー・ホラのように中心へ集まる形式もあります。壁の曲線と柱の位置は、光が届く範囲や人が歩く経路にも影響します。建築を鑑賞するときには、入口に立ってどこが見えるか、中央へ移るとどの壁が隠れるか、上方の窓から何が照らされるかを追うことが役立ちます。

こうした読み方は、建築家の創造性を複雑な装飾の量だけで判断しないためにも重要です。ザルツブルクの大学教会の明るい空間とゼレナー・ホラの幾何学的な中央構成を比べると、注文主が求めた機能が異なることが理解できます。修道会や巡礼の宗教的な目的、建築が置かれた地形が、それぞれの形へ具体的に表れています。 (参照:ユネスコ世界遺産センター|ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会、ザルツブルク観光局|大学教会の建築史と空間構成)

南ドイツの宮廷建築――バイエルン選帝侯の美術政策

ニンフェンブルク宮殿――家族の祝賀から大宮殿へ

ミュンヘン郊外のニンフェンブルク宮殿は、1664年に選帝侯フェルディナント・マリアと妃アンリエッテ・アデライーデが、後継者マックス・エマヌエルの誕生を記念して建設を命じたことに始まります。最初の設計を担ったのはアゴスティーノ・バレッリでした。やがてマックス・エマヌエルが統治者となると、宮殿は大きく拡張され、1701年以降にはエンリコ・ツッカッリによる翼部や居住のための建物が加わりました。

現在のニンフェンブルクは左右に長く続く宮殿として見えますが、建物が一度に同じ構想で造られたわけではありません。中央の建物、後から広がった翼部、庭園の側に続く施設には異なる制作の段階があります。左右対称の印象が強い宮殿であっても、その対称性は長期の増築によって整えられてきました。建物の段階的な成長を追うことは、王侯の生活と権威を表す空間が世代を越えてつくられたことを理解する手がかりになります。 (参照:バイエルン州宮殿管理局|ニンフェンブルク宮殿の歴史)

フランスから学んだ宮殿の整備

1715年からはフランスで学んだヨーゼフ・エフナーがニンフェンブルクの改築に関わり、中心部分の外観や左右の建物がフランスの宮廷建築を意識した形へ変えられていきます。長く続く外観の水平線と庭園の軸線は、建物と周囲の土地を一体として眺めさせます。建築の中央に立ち、左右へ視線を動かすと、窓の反復と翼部の広がりによって建物の規模が伝わってきます。

宮廷建築の発展には、イタリアだけでなくヴェルサイユを中心とするフランスの文化も影響しました。バイエルンの宮殿で見られる庭園の計画や室内の構成は、複数の国際的な流行を取り入れて成立しています。建築家の学習先と建物の制作時期を確かめることは、同じ中欧の地域であっても作品の姿が変わり続けていたことを示します。 (参照:バイエルン州宮殿管理局|ニンフェンブルク宮殿の歴史)

ルストハイム宮殿――狩猟と神話の天井画

ルストハイム宮殿はマックス・エマヌエルの婚姻を記念して1684〜1688年に建設された狩猟宮殿です。ツッカッリはイタリアの郊外別荘を手本とする形式を採用し、中央の祝宴用の広間と、左右の居室を組み合わせました。豪華な建築の規模を競うだけでなく、限られた建物の内部に社交と狩猟の文化を集めることが目的でした。

天井画には狩猟の女神ディアナを主題とする場面が描かれ、フランチェスコ・ローザ、ジョヴァンニ・トゥルビッロ、ヨハン・アントン・グンプらが制作に参加しました。天井の人物を見上げると、実際の室内で開かれる祝宴と、神話上の世界が重ねられます。建築における宗教的な錯視表現が、ここでは宮廷の娯楽と統治者の文化的な威信を示すためにも使われたことが分かります。 (参照:バイエルン州宮殿管理局|ルストハイム宮殿と神話天井画)

シュライスハイム新宮殿――戦争で止まった大計画

シュライスハイム新宮殿は、マックス・エマヌエルが宮廷の威信を示すために構想した壮大な建築です。ツッカッリの設計により1701〜1704年に主要な建物の躯体が建てられました。最初は旧宮殿を取り込む大きな四翼構成が計画されていましたが、スペイン継承戦争での敗北と選帝侯の亡命によって工事は長く中断します。1715年の帰還後に計画が再び動き、1719年からエフナーがフランス風の外観と内装の整備に携わりました。

現在目にする華麗な広間の多くは1720年以降の仕上げを含み、建物は1726年頃に完成しました。この宮殿の魅力は、当初の大構想と実際に建設された部分の差からも読み取れます。長い建物の正面や庭園への眺めには強い秩序がありますが、その背後には戦争と財政、建築家の交代という不連続な過程が存在していました。図面や工事年表と完成した建物を比べると、宮廷美術が政治的な変化を受けながら成立したことが分かります。 (参照:バイエルン州宮殿管理局|シュライスハイム新宮殿)

シュライスハイム庭園――運河が作る遠近法

シュライスハイムの宮殿群は、庭園と運河によって一つの景観へ結びついています。ツッカッリが1680年代から運河の基本構造を整え、1705年頃までに植樹された区画が形づくられました。1715年以降はヴェルサイユの造園文化を学んだジラールが花壇や水の段差を計画し、長い軸線の奥行きを強調しています。水路の直線は視線を導き、宮殿と遠方の建物を結びつける働きを持ちました。

運河をつくるには土地の高低差を測り、水源を確保し、水を運ぶ施設を整えなければなりません。美しく整えられた庭園の背後には技術者や労働者の仕事があります。現在の庭園には後世の修復と変更も含まれ、中央の運河など、18世紀後半に成立した部分もあります。時代ごとの建設履歴を確かめれば、バロック庭園の姿が長い時間をかけて維持・更新されてきたことが理解できます。 (参照:バイエルン州宮殿管理局|シュライスハイム庭園と運河)

修道院と巡礼地に広がる空間表現

宮殿と修道院に共通する大規模な計画

17世紀末から18世紀初頭にかけて、中欧の修道院も建築と美術の大規模な発注者となりました。共同体のための食堂、図書室、客を迎える階段、礼拝堂や教会が、建物の中で体系的に配置されます。中には既存の中世建築を改造しながら新しい部屋をつくった修道院もありました。修道院長は宗教生活を支える役割に加え、建築事業を進める管理者でもありました。

宮殿の来客を迎える階段と修道院の図書室には、共通して大きな天井画が設けられる場合があります。その絵が伝える意味は用途によって変わります。宮廷では支配者の功績、修道院では知識と信仰が主題となり、同じ遠近法と天井の錯視が異なる目的に用いられました。建物の種類だけで形を分類するより、そこで誰が何を行うのかという具体的な機能を見ることが重要です。 (参照:メルク修道院|修道院教会と再建に携わった芸術家たち、ユネスコ世界遺産センター|ワッハウ渓谷の文化的景観)

修道院の図書室――知識を示す部屋

修道院の図書室は、書物を保管し研究するための場所であるとともに、共同体の学問的な伝統を可視化する部屋でもありました。書架、読書のための光、壁面の装飾、天井の図像が、宗教的な学習の環境をつくります。書物の並ぶ壁面から天井へ視線を移すと、知識が宗教的な世界観の中に位置づけられていたことが理解できます。

今日のメルク修道院の豪華な図書室を見る際には、内装の各部分が制作された年代にも気を配りたいところです。18世紀前半に続いた事業の結果として現在の室内が成立しています。1700年前後の修道院建設を考えるとき、建物の最初の計画と後の装飾を分けることで、学問と宗教を支える施設がどのように形づくられたかをより正確に理解できます。 (参照:メルク修道院|修道院教会と再建に携わった芸術家たち)

巡礼者の身体と教会の装飾

巡礼教会では、日常的に通う人だけでなく遠方から到着する人が想定されます。街道から見える塔や屋根、教会へ向かう坂道、入口を通った後の採光が、訪問者の経験をつくります。ゼレナー・ホラのような中央式の建築では、中心へ向かう動きと外側をめぐる動きが組み合わされ、巡礼の行為が空間の形と結びつきました。

宗教建築の装飾を鑑賞するとき、なぜその主題がそこで必要だったのかを確かめることは役に立ちます。誰に祈りを捧げる場所なのか、祭壇と入口はどう結ばれているか、聖人の像はどこから見えるか。こうした問いは、色や曲線だけでバロックを特徴づける見方を深めてくれます。意匠の細部が宗教的な動線に組み込まれていることを、建物を歩くことで理解できるのです。 (参照:ユネスコ世界遺産センター|ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会)

制作の現場――図面、素描、工房、資金

建築家の設計と現場の職人

大きな教会や宮殿を建てるには、建築家の構想に加えて石工、大工、左官、金属細工師、画家、彫刻家、造園家の協働が必要でした。現場では図面をもとに寸法を調整し、工事の進み具合に応じて装飾の配置を決めます。雨や寒さ、材料の到着、注文主の財政によって作業が止まることもありました。複数の職人や芸術家が同時に働くため、責任者には制作を統括する能力も求められます。

ヒルデブラントやツッカッリのような建築家を知ることは、建物に関わった多数の仕事を見つける入口になります。一人の名前で伝えられる宮殿でも、各部屋の絵画と彫刻が別の時代に制作された場合があります。工房の記録や修復調査を通して役割を区別すると、豪華な建築が長い協働の成果であったことが分かります。 (参照:ベルヴェデーレ美術館|ベルヴェデーレ宮殿の歴史と建築、バイエルン州宮殿管理局|シュライスハイム新宮殿)

計画と完成のあいだにある時間

シェーンブルンは戦争によって工事が停滞し、シュライスハイムでは選帝侯の亡命が建設を中断させました。ベルヴェデーレは下宮ができた後に上宮が着工し、メルクでは建築の計画に続いて内装が長く制作されました。建設中の空間も一部は使用され、注文者や社会の条件が変化すれば設計も変更されます。この段階性は宮廷・教会の大規模事業を読むうえで重要です。

建物の完成写真は、複数の時点に積み重ねられた仕事を一度に見せます。そこで着工年と完成年、天井画の制作年、庭園の改修年を別々に確かめると、美術史の時間が見えてきます。1650〜1720年という範囲は、後の中欧バロックを準備した時期でもあり、1720年を過ぎて完成した建物が多い理由も理解できます。 (参照:シェーンブルン宮殿|17世紀から18世紀初頭の建築史、ベルヴェデーレ美術館|ベルヴェデーレ宮殿の歴史と建築、バイエルン州宮殿管理局|シュライスハイム新宮殿、メルク修道院|修道院教会と再建に携わった芸術家たち)

天井画の素描を見て実作を考える

大画面の天井画の準備には小さな構想素描が用いられ、人物の姿勢や全体の配置が検討されました。ロットマイヤーの素描に見られる筆とインクの濃淡は、人体と雲、空間の流れを少ない材料で確かめる仕事を示します。天井画では、床から見上げた場合に人物が不自然に短く見えることがあるため、建築との位置関係を考えて形を調整する必要がありました。

構想素描を手に取るように近くで見る経験と、実際の大きな天井を遠くから見る経験は異なります。前者では線の選択と迷い、後者では建築とのまとまりが中心になります。小さな紙の仕事が建物の中でどのような視覚効果へ変わるかという問題は、バロックの天井画を鑑賞するうえで魅力的な視点です。 (参照:メトロポリタン美術館|ロットマイヤー《勇気と知恵の勝利》素描、ザルツブルク観光局|三位一体教会の建築とドーム壁画)

1650〜1720年の中欧バロックをどう見るか

外観では入口と周囲の景観に注目する

建物を外から見るときは、最初に遠くからの輪郭、次に入口へ近づくときの変化を見るとよいでしょう。ザルツブルクの三位一体教会なら双塔とドームの関係、ベルヴェデーレなら庭園の高低差と宮殿の位置、メルクなら川から見上げる建物のまとまりが手がかりになります。どの建築も実際の場所に置かれているため、距離を変えるだけで違う特徴が見えます。

続いて窓や柱の間隔、階段の高さ、正面の曲線を見ます。写真では均等に見える窓の列も、歩いて近づくと立体感が変化します。宮廷建築と教会建築の違いを意識しながら同じ要素を比較すると、建築家が何を強調しようとしたかが分かります。 (参照:ベルヴェデーレ美術館|ベルヴェデーレ宮殿の歴史と建築、ザルツブルク観光局|三位一体教会の建築とドーム壁画、ユネスコ世界遺産センター|ワッハウ渓谷の文化的景観)

室内では光、絵画、立体の境界を追う

室内に入ったら、まず窓の位置と光が当たる場所を確かめます。天井画の人物は実際の採光と関係しながら見え方を変え、柱の間には影が生まれます。メルクの教会では色彩と金色の装飾が宗教的な中心へ視線を集め、ザルツブルクの大学教会では白い壁と高い採光が空間の骨格を明瞭にします。豪華さの程度だけで作品を比較すると、それぞれの仕事の目的を見失ってしまいます。

絵画で描かれた柱と本当の柱、漆喰の浮き彫りと描かれた装飾、壁とドームの境界を意識すると、錯視を成立させる技術が見えてきます。作品は写真の平面に収まるものではなく、頭や身体の向きを変えながら体験する空間です。17世紀後半の中欧の画家と建築家は、鑑賞者がその中を動くことも作品の条件にしていました。 (参照:メルク修道院|修道院教会と再建に携わった芸術家たち、ザルツブルク観光局|大学教会の建築史と空間構成、メトロポリタン美術館|ロットマイヤー《勇気と知恵の勝利》素描)

作品の年代を読む――1720年はひとつの通過点

最後に、いつ造られた建物のどの部分を見ているのかを確かめます。1719年に着工したゼレナー・ホラの教会は1727年まで建設が続き、1717年に工事の始まった上ベルヴェデーレは1723年完成です。現在の内装には、その後の装飾や保存修復も重なっています。美術史では一つの年だけを与えるより、設計、施工、装飾、改築の時系列を区別することが大切です。

中欧バロックは18世紀にさらに大きく発展し、教会や宮殿の装飾にはロココへつながる軽快な表現も現れます。今回扱った期間では、その発展を支える建築の構想、工房、政治的な後援が整えられました。次に18世紀の作品を見るときにも、この形成の歴史を踏まえることで、装飾の華やかさを生んだ具体的な条件が見えてきます。 (参照:ベルヴェデーレ美術館|ベルヴェデーレ宮殿の歴史と建築、ユネスコ世界遺産センター|ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会、バイエルン州宮殿管理局|シュライスハイム新宮殿)

中欧バロック美術の年表

政治・宗教と建築・美術の制作を同じ時間軸に置きました。最後の三項目は1720年を越える工事の完成時点で、現在の建物との関係を理解するために加えています。

  1. 1618年:三十年戦争が始まり、神聖ローマ帝国の諸領邦が長い戦乱に巻き込まれる。
  2. 1620年:白山の戦いでボヘミアの反ハプスブルク勢力が敗北する。
  3. 1648年:ヴェストファーレン条約で三十年戦争が終結する。
  4. 1653年:カレル・シュクレータが《宝石彫刻師ミゼローニとその家族》を制作する。
  5. 1664年:バイエルンのニンフェンブルク宮殿建設が始まる。
  6. 1683年:オスマン軍によるウィーン包囲が解除される。カレル橋に聖ヤン・ネポムツキー像が設置される。
  7. 1684〜1688年:バイエルンでルストハイム宮殿が建設される。
  8. 1690年代:フィッシャー・フォン・エルラッハがウィーンとザルツブルクの建築事業に携わる。
  9. 1694〜1702年:ザルツブルクの三位一体教会が建設される。
  10. 1696年:シェーンブルンの狩猟宮殿建設が始まる。
  11. 1700年:シェーンブルン宮殿の中央部分が居住可能になる。
  12. 1701年:シュライスハイム新宮殿の主要工事が始まる。
  13. 1701年以降:メルク修道院教会の全面的な再建が計画・実行される。
  14. 1704年:スペイン継承戦争での敗北により、シュライスハイム新宮殿の工事が停滞する。
  15. 1707年:ザルツブルクの大学教会が献堂される。
  16. 1710年:ブラウンがカレル橋の《聖ルトガルディスの幻視》を制作する。
  17. 1711年:ブロコフが《聖フランシスコ・ザビエル》を制作する。ヨーゼフ1世が死去する。
  18. 1712年:下ベルヴェデーレ宮殿の建設が始まる。
  19. 1715年:マックス・エマヌエルが帰還し、バイエルンの建設事業が再び進み始める。
  20. 1716年:下ベルヴェデーレ宮殿が完成する。
  21. 1717年:上ベルヴェデーレ宮殿の建設が始まる。
  22. 1718年:ベルヴェデーレ庭園の大規模な工事が完了する。
  23. 1719年:シュライスハイム新宮殿の内装工事が再開され、ゼレナー・ホラ巡礼教会の建設が始まる。
  24. 1720年:上ベルヴェデーレ大理石の間の天井画がカルロ・カルローネへ発注される。
  25. 1723年:上ベルヴェデーレ宮殿が完成する。
  26. 1726年:シュライスハイム新宮殿が完成する。
  27. 1727年:ゼレナー・ホラ巡礼教会の建設が一区切りを迎える。

まとめ――1650〜1720年の中欧で生まれたもの

中欧のバロック美術は、イタリアで発達した表現を受け止めながら、ハプスブルク家の政治、修道院の信仰生活、ボヘミアの都市文化、バイエルン選帝侯の宮廷という異なる条件のもとで育ちました。ウィーンのベルヴェデーレでは宮殿と庭園の高低差が権威を見せる手段となり、ザルツブルクではドームと採光が礼拝の空間を形づくりました。プラハの橋に置かれた彫刻は、人々が毎日歩く都市の中へ宗教的な物語を運び込みました。

メルク修道院やゼレナー・ホラの巡礼教会では、共同体の歴史や聖人への信仰が建築の形と結びつきました。ニンフェンブルク、ルストハイム、シュライスハイムでは、選帝侯の婚姻や政治的な野心、戦争による中断が、建物の設計と完成の時間を左右しています。これらの例は、作品の大きさや装飾の豪華さが、注文主の求めた機能や社会状況と深く関係していたことを示します。

17世紀後半に始まった多くの建設事業は18世紀に完成し、画家や彫刻家の次世代によって装飾が積み重ねられました。中欧バロックを見るときは、ひとつの完成した姿の中に含まれる複数の年代を確かめることが重要です。こうして建築、絵画、彫刻、庭園と、そこで働く人々の歴史を合わせて読むことで、1650〜1720年の豊かな展開が立体的に見えてきます。

参考資料・出典

本記事は歴史的建造物を管理する公的機関、所蔵美術館、修道院およびユネスコの公開資料に基づいて構成しました。現存する建物には複数の制作段階と後世の改造が含まれるため、年代の説明では着工・完成・装飾を区別しました。本文中には、各節の解説に直接関係する資料へのリンクを掲載しています。

資料確認日:2026年10月11日 / ART LIBRARY