801–900
カロリング朝の「古代の再生」
アーヘン、修道院、写本と地中海・北海の美術
9世紀初めのフランク王国では、アーヘンの宮廷と各地の司教座・修道院が、教育や典礼、書物の制作を支えていました。カール大帝のもとで始まった学問と建築の改革は皇帝の死後にも受け継がれ、古代ローマを手本とする建築や絵画、読みやすい書体、金銀で飾られた写本へと広がっていきます。アーヘンの八角形の礼拝堂、トゥールの大型聖書、ランス地方の《ユトレヒト詩篇》は、その多様な成果を今に伝える作品です。
フランク王国の外でも、9世紀にはさまざまな美術が生まれました。ローマの教会ではガラスのモザイクが輝き、コンスタンティノープルでは聖像をめぐる論争を経て宗教画像が作られます。イラクのサーマッラーには巨大なモスクが築かれ、北アフリカとイベリア半島では礼拝建築の増築が進みました。北海地域の船墓やウェセックスの金工品にも、木と金属を扱う高度な技術が残されています。
「カロリング・ルネサンス」とは、古代の学問と造形を参照しながら、フランク王国の宮廷や修道院で新たな文化を育てた活動を指す言葉です。同じ時代の作品でも、制作地と現在の所蔵地、建物の創建と改修、写本の本文と表紙には、それぞれ異なる歴史が重なっています。そうした時間と場所の違いにも目を向けながら、801〜900年の美術をたどります。
CONTENTS
- 9世紀の美術の広がり|フランク王国から地中海・北海へ
- 現在のドイツ・アーヘン|宮廷礼拝堂の完成と古代の建築語彙
- ドイツ・ロルシュ|修道院門と幾何学的な壁面
- フランク王国の書物改革|カロリング小文字体と宮廷写本
- フランス・ソワソン|《サン・メダール福音書》と皇帝への贈与
- フランス・トゥール|《ヴィヴィアン聖書》と845年の王権像
- フランス・ランス地方|《ユトレヒト詩篇》の躍動する描線
- フランス・メス|《ドロゴ典礼書》と象牙の表紙
- フランク王国西部|シャルル禿頭王の書物と象牙彫刻
- スイス・ドイツ語圏とフランス東部|《リンダウ福音書》の三つの時代
- スイス・ザンクト・ガレンとドイツ・ライヒェナウ|修道院の設計と学問・写本文化
- ドイツ・コルヴァイ|ヴェーザー川沿いの西構え
- スイス・ミュスタイア|アルプスの修道院壁画
- イタリア・ローマ|サンタ・プラッセーデのモザイク
- 東ローマ帝国・コンスタンティノープル|聖像論争とモザイク
- イラク・サーマッラー|アッバース朝の新都と漆喰装飾
- イラクの9世紀工芸|ラスター彩の陶器とタイル
- チュニジア・ケルアンとエジプト・カイロ|9世紀のモスク
- イベリア半島・コルドバ|大モスクの9世紀の拡張
- イベリア半島北部・アストゥリアス|オビエド周辺の王国建築
- ノルウェー・オーセベリ|9世紀の船墓と木彫
- イングランド・ウェセックス|アルフレッド大王の工芸と読書文化
- 略年表|801〜900年の美術と出来事
- まとめ|建築、写本、工芸に分かれる9世紀の創造
- 参考資料・出典
9世紀の美術の広がり|フランク王国から地中海・北海へ
800年の皇帝戴冠と宮廷文化の広がり
800年のクリスマス、カール大帝はローマで教皇レオ3世から皇帝冠を受けました。広大なフランク王国の文化を支えたのは、アーヘンの宮廷と、トゥール、ランス、メスなど各地の司教座や修道院です。書物の制作から典礼の整備、建築事業まで、さまざまな活動がこれらの拠点で進められていました。
814年にカール大帝が没すると、息子のルートヴィヒ敬虔王が統治を引き継ぎます。843年のヴェルダン条約によって帝国は分割されましたが、写本や象牙彫刻の制作が途絶えることはありませんでした。シャルル禿頭王の宮廷にも古代の造形を再解釈した作品が残されており、カロリング・ルネサンスは複数の世代にわたって続いた文化活動として捉えられます。(参照:フランス国立図書館|カール大帝とシャルル禿頭王時代の写本)
フランク王国の外側で進む建設と制作
フランク王国と同じ時代に、東ローマ帝国では聖像崇敬をめぐる争いが続き、843年にその回復が祝われました。アッバース朝が築いた新都サーマッラーには大規模な宮殿とモスクが並び、北アフリカのケルアンやエジプトでも礼拝建築の造営が進みます。北海を行き交う船には、航海の技術だけでなく、精巧な木工の伝統も息づいていました。
アーヘンの礼拝堂とイスラム圏のモスクでは、建物の形式も儀礼も異なります。詩篇の挿絵、釉薬で彩られた陶器、船を納めた墓にも、それぞれの社会が大切にした技術や表現が残っています。地域ごとの違いをたどることが、9世紀の美術を広く捉える出発点です。(参照:メトロポリタン美術館|アッバース朝美術750〜1258年)
現在のドイツ・アーヘン|宮廷礼拝堂の完成と古代の建築語彙
8世紀末の着工から805年頃の礼拝堂へ
アーヘンの宮廷礼拝堂は、8世紀末に始まった王宮建設の一部で、805年に献堂されたと伝えられます。中心には八角形の高い内部空間があり、その外側を十六角形の周廊が囲みます。上下に分かれた空間をアーチとヴォールトが結び、上階の回廊からも中央の祭壇方向へ視線が通りました。
建設は8世紀末のカール大帝の事業にさかのぼり、礼拝堂は9世紀初めに皇帝の権威を象徴する場となります。古代ローマやラヴェンナの集中式建築を手本とする構成を、アルプス以北の宮廷に取り入れたことが大きな特徴です。(参照:Smarthistory|アーヘンの宮廷礼拝堂)
八角形、周廊、石柱と金属製の扉
礼拝堂を飾る古代の石柱や大理石は、イタリアから運ばれてきたものです。青銅製の扉と格子も入念に作られ、古い建材と新しい金属細工が同じ空間に集められました。地中海世界の建築伝統を受け継ぐ姿勢は、中央の吹き抜けや上階の回廊にも表れ、皇帝の参列を伴う儀礼の空間を形づくっています。
中央の広い空間は高く立ち上がる壁とドームに覆われ、周囲の小さな区画との対比を生んでいます。地中海に由来する建築技術と北方で調達した材料を組み合わせることで、新しい王宮にふさわしい壮大な空間が作られました。(参照:ユネスコ世界遺産センター|アーヘン大聖堂)
現在の天井モザイクは9世紀の原画ではない
ドームを飾っていた初期のモザイクは、現在まで伝わっていません。色鮮やかな天井装飾には19世紀の再制作が含まれ、1881年のモザイクもその復元事業によるものです。内陣や礼拝堂には後世の増築も重なり、今日のアーヘン大聖堂には長い建築の歴史が刻まれています。
八角形の内部空間や古い石材、青銅細工には、カール大帝の時代の仕事を直接うかがえる部分が残されています。後世のモザイクや増築と見比べると、一つの建物が長い時間をかけて現在の姿になったことが分かります。(参照:アーヘン大聖堂|建築と建物の歴史)
ドイツ・ロルシュ|修道院門と幾何学的な壁面
トルハレの三連アーチと彩色石材
ライン川流域のロルシュ修道院では、8世紀に創設された共同体がカロリング朝の保護を受けました。現在も残る通称「トルハレ」は9世紀頃の門状建物で、下階に並ぶ三つのアーチと上階の連続する開口部が特徴です。赤みを帯びた石材と明るい石材を幾何学模様に積み分けた外壁は、建物の構造を際立たせる装飾にもなっています。
修道院の創建当時の建物は大部分が失われましたが、トルハレには古典建築の柱やアーチ、整った立面を独自に組み合わせた姿が残っています。正確な造営年と当初の用途をめぐる研究は今も続いており、その歴史には解明されていない部分もあります。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ロルシュの修道院とアルテンミュンスター)
石の装飾と内部の壁画層
ロルシュの門は、見る場所によって印象が変わります。外側では四角形や三角形の石組み模様が遠くからも目立ち、内部にはかつて壁を飾った絵画の痕跡が残っています。訪れる人に向けた外観と、建物の中で使われた空間の双方に装飾が施されていたのです。アーヘンの大きなドームからロルシュの小さな門まで、古代建築への関心はさまざまな規模の建物に表れました。ロルシュでは石材の色とアーチの反復を生かし、平らな壁面そのものを豊かな装飾へと変えています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ロルシュの修道院とアルテンミュンスター)
フランク王国の書物改革|カロリング小文字体と宮廷写本
教育、聖書校訂、読みやすい書体
8世紀末のカール大帝の宮廷では、教育と典礼文の整備が重視されました。その活動は9世紀に各地の修道院へ広がり、ヨーク出身のアルクインもトゥールで聖書本文の校訂や書写文化の発展に関わっています。文字の形や語の区切りを整えたカロリング小文字体は、読みやすいラテン語写本を作るうえで大きな役割を果たしました。
読みやすい本文と豪華な装飾は、同じ写本の中に共存していました。本文には形の整った小文字体を使い、その冒頭には大文字や金銀の文字、複雑な装飾頭文字を置くという構成です。内容を正確に伝えることと、儀礼にふさわしい華やかさを与えることの双方が、書物の制作で重んじられました。(参照:フランス国立図書館|カロリング期の書物と教育)
宮廷学校の古典的な人物像と光る頁
宮廷写本を開くと、紫色の羊皮紙や金銀のインク、建築を模した枠、立体感のある人物像など、古代末期の皇帝文化を思わせる装飾が現れます。書見台に向かう福音書記者の姿にも、地中海世界の絵画から学んだ人物表現が生かされています。画家たちは、こうした古い手本を各地の書写習慣に合わせて組み立て直しました。「古代の再生」という言葉が示すのは、受け継がれてきた書物や彫刻、建築から表現を選び、宮廷と修道院の文化に新たな形で生かした営みです。(参照:フランス国立図書館|カール大帝とシャルル禿頭王時代の写本)
金銀文字を持つ《ハーレー黄金福音書》
大英図書館所蔵の《ハーレー黄金福音書》(Harley MS 2788)は、9世紀第1四半期に制作されたカロリング朝の写本です。金銀の文字や装飾的な頭文字が頁に特別な輝きを与え、聖書本文を読む際にも書物の格式を感じさせます。華やかな文字の装飾も、宮廷文化を特徴付ける大切な表現でした。
写本を一冊完成させるには、羊皮紙の準備から筆写、染料や金属顔料による彩色、装丁に至るまで、多くの工程が必要です。高価な材料と熟練した職人の仕事を集めた豪華本は、王や司教、修道院の間で交わされる贈り物にもなりました。(参照:大英図書館|《ハーレー黄金福音書》の書誌)
フランス・ソワソン|《サン・メダール福音書》と皇帝への贈与
9世紀前半の福音書と827年の奉献
《サン・メダール・ド・ソワソン福音書》は、カール大帝の宮廷に連なる写本の伝統を伝える、9世紀前半の豪華本です。ルートヴィヒ敬虔王と王妃ユディトが827年にソワソンのサン・メダール修道院へ奉献したことで知られています。金色の文字と入念な全頁装飾は、皇帝夫妻の信仰と寄進を目に見える形で示しています。
827年という年号は、この写本が修道院に奉献された時期を伝えています。本文や装飾の制作時期は図像や書式から検討され、8世紀末の宮廷で培われた技術が次の世代にも受け継がれた様子を読み取れます。(参照:フランス国立図書館|カール大帝宮廷学校の装飾写本)
福音書記者像と建築的な装飾枠
福音書記者の周囲には柱や建築を思わせる装飾枠が設けられ、人物の姿に格式を与えています。衣服の陰影や書物を手にするしぐさ、背景の色使いには、古代の人物表現を学び直したカロリング朝の画風がうかがえます。装飾頁と本文を交互に開く構成は、聖書の言葉と絵の双方を引き立てる仕組みです。
一冊の福音書は、皇帝が奉献する政治的な贈り物であると同時に、礼拝で朗読され、図像も鑑賞される書物でした。古典的な人物表現と金銀の装飾を組み合わせた制作方法には、宮廷に近い工房の高い技術が表れています。(参照:フランス国立図書館|カール大帝宮廷学校の装飾写本)
フランス・トゥール|《ヴィヴィアン聖書》と845年の王権像
サン・マルタン修道院の大きな聖書
9世紀の聖書制作を語るうえで欠かせないのが、トゥールのサン・マルタン修道院です。修道院長ヴィヴィアンのもとで845年頃に完成した《ヴィヴィアン聖書》は、シャルル禿頭王へ献じられた大型の聖書で、数多くの羊皮紙に旧約・新約の本文を収めています。各所には聖書の物語や人物を描いた彩色画も配されました。大型聖書の筆写には長い時間がかかるため、制作は工房の人々の協力によって進められました。整った文字と豊かな図像を備えた一冊には、典礼と学問の両方を支えた修道院の仕事が凝縮されています。(参照:フランス国立図書館|《ヴィヴィアン聖書》のシャルル禿頭王献呈図)
玉座のシャルル禿頭王と献呈の場面
《ヴィヴィアン聖書》の献呈図には、王座に着いたシャルル禿頭王へ、聖職者たちが書物を差し出す場面が描かれています。王の周囲に並ぶ側近、人物たちの身振り、建築を思わせる枠組みが、寄進の儀礼に秩序を与える構成です。
この絵の中心にあるのは、王と写本を制作した修道院の結び付きです。玉座や列席者の配置には、教会の保護者としての王の役割が表されています。室内や衣装を当時の実景として写すこと以上に、宮廷が示そうとした権威のあり方が重視された画面と考えられます。(参照:フランス国立図書館|845年頃のシャルル禿頭王像)
詩篇のダヴィデと古典的な空間構成
同じ聖書には竪琴を弾くダヴィデ王など、旧約聖書の登場人物を描いた頁があります。建築や景観を組み合わせた広がりのある構図は、ローマや古代末期の絵画伝統を参照しながら、9世紀の書物の中に再構成されました。人体の配置、地面の線、枠の使い方は頁ごとに異なります。
《ヴィヴィアン聖書》の特徴は、一冊の中に王の肖像を思わせる献呈図、聖書の物語、朗読に適した本文、装飾的な頭文字が共存している点です。美しい図像を鑑賞するための作品であると同時に、聖書の膨大な本文を正確に伝えるための書物でもありました。(参照:フランス国立図書館|《ヴィヴィアン聖書》のダヴィデ図)
フランス・ランス地方|《ユトレヒト詩篇》の躍動する描線
820〜830年代頃の詩篇挿絵と制作地
《ユトレヒト詩篇》は、9世紀前半にランス地方のオーヴィレールと関わる工房で制作されたと考えられています。詩篇と賛歌に添えられた挿絵には、人物や建築、樹木、川、動物が細いペンの線で描き出されました。線の密度と勢いが、頁の中に動きのある情景を生み出しています。
写本は現在オランダのユトレヒト大学図書館に所蔵され、その地名で呼ばれています。所蔵場所と制作地が別であることは、カロリング朝の書物が長い時間をかけて移動したことを物語ります。(参照:ユトレヒト大学|《ユトレヒト詩篇》)
言葉を逐語的な動作へ変える挿絵
詩篇に山や川、敵、祈る人が登場すると、挿絵にもそれぞれの言葉に応じた風景や動作が現れます。小さな人物が走り、身をかがめ、腕を高く上げる様子は、まるで物語の一場面を追っているようです。古代絵画から受け継いだ身振りや空間表現が、詩篇の言葉に合わせて組み替えられています。
頁を開いたときの印象は、丁寧に彩色された宮廷福音書とは大きく異なります。細く勢いのある線で描かれた素描風の画面は、それ自体が完成された表現です。詩の言葉を読みながら挿絵に目を移すことで、文章と図像の豊かな結び付きが感じられます。(参照:ユトレヒト大学図書館|《ユトレヒト詩篇》デジタル原本)
フランス・メス|《ドロゴ典礼書》と象牙の表紙
司教ドロゴのための礼拝書
カール大帝の子であるメスの司教ドロゴは、9世紀半ばの典礼文化を支えた人物です。彼のために制作された《ドロゴ典礼書》にはミサの祈祷文などが収められ、冒頭の装飾文字には小さな人物や聖書の場面が入り込んでいます。文字の輪郭そのものが物語の舞台となっているのです。こうした装飾は、頁全体を覆う絵とは異なり、祈祷文を読み進める視線の中に現れます。司祭が使う実用的な礼拝書に、細部まで彫り込むような緻密な図像が組み込まれました。(参照:フランス国立図書館|カロリング朝装飾写本の工房)
聖書場面を重ねた象牙彫刻
《ドロゴ典礼書》に結び付く象牙製の表紙には、キリストの生涯に関わる場面が小さな区画に分けて刻まれました。象牙の浅い浮彫では、人物の身体や衣のひだが光を受け、書物を閉じた状態でも聖書の物語を示します。メスの工房は、金属と羊皮紙に加えて象牙を巧みに扱いました。
写本の本文、象牙の表紙、後世の修理には、それぞれの制作時期があります。礼拝で使われ続けた一冊には、工房で作られた当初の姿に加えて、長く大切に受け継がれた歴史も刻まれています。(参照:フランス国立図書館|《ドロゴ典礼書》とメスの象牙彫刻)
フランク王国西部|シャルル禿頭王の書物と象牙彫刻
《シャルル禿頭王の詩篇》と王の肖像
シャルル禿頭王のために作られた詩篇写本では、玉座に座る王の姿が金銀の文字や装飾とともに描かれています。筆写者リュタールの名も伝わっており、9世紀後半の宮廷で働いた書物の作り手を知る、貴重な手掛かりです。祈りのために手に取る詩篇の中に王自身の姿を置くことで、信仰と統治者の権威が結び付けられました。大きな建築物とは異なる、個人的な書物ならではの表現方法といえます。(参照:フランス国立図書館|《シャルル禿頭王の詩篇》)
サン=タマン周辺の装飾文字と第二聖書
9世紀後半のフランク王国北部、サン=タマン周辺では、葉や動物を複雑に組み合わせた装飾文字が発達します。《シャルル禿頭王の第二聖書》も、この地域の写本文化に結び付けられる作品です。トゥールの《ヴィヴィアン聖書》に見られる大きな物語画と比べると、文字の内部に細密な文様を凝縮させた点が際立っています。同じ王のための書物でも、工房によって色彩や装飾の組み立て方は違っていました。王宮を中心とした文化には、こうした地域ごとの多彩な表現が共存していたのです。(参照:フランス国立図書館|カロリング期写本から書物へ)
古い象牙板の裏面を使い直した彫刻
9世紀後半の象牙彫刻には、古い象牙板を加工し直した作品もあります。メトロポリタン美術館所蔵の《聖母子》などがその例で、古い装飾を伝える面と、新たにキリストや聖母を刻んだ面が、一枚の板に重なっています。
象牙は遠方からの交易によって得られる貴重な材料です。小さな浮彫にも高度な加工技術が必要で、古い象牙を再利用することには材料を生かす意味がありました。過去の作品そのものが、9世紀の工房で新しい宗教図像へと作り替えられていたのです。(参照:メトロポリタン美術館|《聖母子》の象牙彫刻)
スイス・ドイツ語圏とフランス東部|《リンダウ福音書》の三つの時代
870〜880年代の金の前表紙と受難像
《リンダウ福音書》の前表紙では、金の打ち出しによるキリストの磔刑像を、宝石や真珠が取り囲んでいます。9世紀後半の870〜880年頃、現在のフランス東部に近い地域で作られたと考えられるもので、金属の起伏と宝石の輝きが十字架へと視線を導きます。浮き上がるように表された人物の姿によって、平らな書物の表紙が小さな祭壇のように感じられます。本文を開く前から、キリストの受難を目にする構成です。(参照:モルガン図書館・博物館|《リンダウ福音書》の装丁と伝来)
ザンクト・ガレンで写された9世紀末の本文
《リンダウ福音書》の本文は、880〜890年頃にザンクト・ガレンの修道院で筆写されたと考えられています。羊皮紙に記された四福音書には装飾頭文字も添えられ、書字と装飾の技術を伝える一冊です。豪華な表紙は、別の地域で制作された可能性も指摘されています。
筆跡や顔料に加え、表紙の取り付け方と補修の跡にも、一冊がたどった歴史が残っています。現在の《リンダウ福音書》は、複数の工房と時代の仕事が組み合わされた書物です。(参照:モルガン図書館・博物館|《リンダウ福音書》)
8世紀の裏表紙と後世に結合された一冊
《リンダウ福音書》の裏表紙は、前表紙よりも古い8世紀後半の制作で、ザルツブルク周辺に結び付けられます。金属細工を備えた裏表紙、9世紀後半の前表紙、9世紀末の本文という三つの部分が、時代を越えて一冊にまとめられました。古い装丁を受け継ぎ、新しい本文と組み合わせた一冊の姿には、中世の人々が宝物を大切に使い続けた歴史も表れています。(参照:モルガン図書館・博物館|《リンダウ福音書》の装丁と伝来)
スイス・ザンクト・ガレンとドイツ・ライヒェナウ|修道院の設計と学問・写本文化
820年代頃の《ザンクト・ガレン修道院平面図》
《ザンクト・ガレン修道院平面図》(ザンクト・ガレン修道院図書館 Cod. Sang. 1092)は、820年代頃、ライヒェナウの修道院と関わる環境で描かれたと考えられています。大きな羊皮紙の上には教会を中心に回廊、宿泊所、食堂、学校、仕事場、病人のための施設や庭が並び、それぞれの用途が文字で記されています。ここに描かれているのは、共同生活を送る修道院の理想的な配置です。ザンクト・ガレンに実際に建てられた施設の記録とは異なり、祈りから学習、労働、療養までを一つの場所で営む構想が示されています。(参照:ザンクト・ガレン修道院図書館|《ザンクト・ガレン修道院平面図》Cod. Sang. 1092)
書物、食糧、客人を支える空間の配置
平面図を詳しく見ると、祈りの場である教会の周囲に、筆写や学習、穀物の保管、客人の受け入れ、病人の世話を行う施設が配置されています。建物の名前を記した文字と輪郭線が一体となり、修道院を支える多様な仕事の関係が紙面に表されています。
現存するザンクト・ガレンの壮大な修道院教会は、その多くが後世の建築です。9世紀の平面図に表れた構想と、長い時間の中で建て替えられた建物を合わせて見ることで、修道院の営みがどのように受け継がれてきたかが見えてきます。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ザンクト・ガレン修道院)
ライヒェナウ島の筆写活動と後世の壁画
ボーデン湖のライヒェナウ修道院は724年に成立し、9世紀には写本と学問の交流を支える重要な共同体へ成長しました。アルプス北側の水路や街道を通じて人と書物が行き交い、近隣のザンクト・ガレンとも知識が共有されていました。《ザンクト・ガレン修道院平面図》は、こうした修道院同士の交流を背景に生まれた資料です。ライヒェナウ島のオーバーツェルに残る著名な壁画は、主に10世紀以後のものです。9世紀には、その後の写本や壁画を生み出す修道院共同体の活動が育まれていました。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ライヒェナウ修道院島)
ドイツ・コルヴァイ|ヴェーザー川沿いの西構え
822年の創建と873〜885年の西構え
ヴェーザー川沿いのコルヴァイ修道院は822年に創設され、9世紀後半には「西構え(ヴェストヴェルク)」と呼ばれる大きな入口部が築かれました。873〜885年に造営された現存の西構えは塔を思わせる外観を持ち、その上階には礼拝や集会に使われる空間が設けられています。西構えの建設は、修道院の創設から約半世紀後のことです。東の祭壇へ向かって延びる聖堂に多層構造の西側入口を加えることで、建物の存在を遠くから示し、礼拝や儀礼に使う空間にも新たな特徴が生まれました。(参照:ユネスコ世界遺産センター|コルヴァイのカロリング期西構え)
上階空間と残された装飾
コルヴァイの西構えには上階の回廊や大きな開口部があり、複数の高さから内部を見渡せる構造になっています。9世紀の壁面装飾や石膏装飾も部分的に残り、建築と彩色が一体となった空間の様子を伝えています。古代の世俗的な題材を思わせる図像の痕跡も、ここで見つかった貴重な資料です。
後世の中世教会でも西正面は重要な建築要素となりました。コルヴァイには改修を経ながらも9世紀の西構えが実物として残っており、その時代の入口空間の構成を直接確かめることができます。(参照:ユネスコ世界遺産センター|コルヴァイのカロリング期西構え)
スイス・ミュスタイア|アルプスの修道院壁画
8世紀末の創建と9世紀前半の壁画
スイス南東部のミュスタイア聖ヨハネ修道院は775年頃の創設と考えられ、アルプスの谷を通る交通路に近い場所に建てられました。カロリング朝の支配領域を結ぶ拠点でもあったこの修道院では、9世紀前半、教会内部にキリスト伝などの大規模な壁画が描かれたとされています。建物の創建から壁画の制作までには時間の隔たりがあります。聖堂が使われるようになってから、その壁面に物語が描き加えられ、礼拝の空間が少しずつ整えられていったことがうかがえます。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ミュスタイアの聖ヨハネ修道院)
聖堂の壁を囲むキリスト伝と最後の審判
ミュスタイアの壁画には、キリストの生涯や最後の審判に関わる場面が壁面に沿って連続しています。聖堂に入ると、礼拝の空間を物語の場面が取り囲む構成です。人物の群れや建物の描写、色の配置には、限られた壁面で出来事を伝える工夫が見られます。
現存する壁画には、後世の上塗りや発見後の保存処置も重なっています。色彩や輪郭の一部は制作当初から変化していますが、カロリング朝に描かれた大規模な物語画をまとまって知ることのできる貴重な遺構です。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ミュスタイアの聖ヨハネ修道院)
イタリア・ローマ|サンタ・プラッセーデのモザイク
教皇パスカリス1世と817〜824年の造営
ローマのサンタ・プラッセーデ聖堂は、教皇パスカリス1世の時代(817〜824年)に再建され、豪華なモザイクで飾られました。後陣にはキリストと聖人たちが並び、金色の小片と色ガラスが暗い聖堂の奥で光を返しています。図像には寄進者である教皇も加わり、聖堂の装飾にローマ教会が果たした役割を伝えています。
北方のアーヘンで古代ローマの建築が手本とされた同じ時代に、ローマでは古くからのモザイク技術が生きていました。王宮と教会という異なる権力の場が、それぞれに古代の造形を受け継いだことが分かります。(参照:Smarthistory|ローマのサンタ・プラッセーデ聖堂)
サン・ゼノ礼拝堂の青と金、人物像
サンタ・プラッセーデ聖堂内のサン・ゼノ礼拝堂には、深い青と金色の光の中に聖母や聖人たちが浮かぶモザイクが広がっています。人物像は壁から天井へと折れ曲がる面にも配され、見る位置によって異なるまとまりを見せます。ガラス片の反射と建築の奥行きが重なり、礼拝堂全体が光に包まれた空間となっています。これらのモザイクが作られた9世紀前半、東ローマ帝国では聖像の扱いをめぐる対立が続いていました。その時代にもローマの教会では人物像を含む大規模な装飾が作られており、宗教画像の歴史が地域によって異なっていたことを伝えています。(参照:Smarthistory|ローマのサンタ・プラッセーデ聖堂)
東ローマ帝国・コンスタンティノープル|聖像論争とモザイク
815年の聖像破壊運動再燃
東ローマ帝国では、787年の第2ニカイア公会議で画像崇敬が認められた後も、皇帝権と教会の間で意見が対立しました。815年には聖像を批判する政策が再び強まり、キリストや聖人を描いた画像の扱いが政治的な問題となります。宗教画像を置くことや保存すること自体が、信仰のあり方をめぐる議論と結び付いていたのです。
当時の出来事を伝える記録には、後の時代に聖像崇敬を支持する立場から書かれたものもあります。何が破壊され、どのような作品が作られ続けたのかは、記録の背景と現存資料の双方を踏まえて考える必要があります。(参照:メトロポリタン美術館|ビザンティンの聖像と聖像破壊)
843年の聖像崇敬回復と制作環境
843年、皇后テオドラの摂政期に聖像崇敬の回復が正式に祝われ、後に「正教の勝利」として記念されます。聖像を敬う行為の正当性が改めて確認され、教会には壁画やモザイクの新たな注文が生まれました。その後の宗教画では、聖像をめぐる神学的な議論が主題や配置にも影響を与えています。
制度の転換があった843年以後も、建築装飾や金属工芸、宮廷用品は、それぞれの技術と伝統の中で作られ続けました。聖像の扱いをめぐる変化と、個々の作品がいつどのように制作されたかを重ね合わせることで、当時の美術の多様な姿が浮かび上がります。(参照:メトロポリタン美術館|ビザンティンの聖像と聖像破壊)
867年頃のアヤソフィア後陣《聖母子》
コンスタンティノープルのアヤソフィア大聖堂には、9世紀後半の《聖母子》モザイクが後陣に残されています。867年の奉献説教と結び付けて論じられる作品で、聖母が幼子キリストを膝に抱き、金色の背景を背にして高い曲面に現れます。祭壇へ向かう視線の先に人物像を置いた構成は、聖像崇敬が回復した時代を伝える重要な資料です。
大聖堂自体は6世紀の創建で、その後も地震による被害と補修、用途の変化を経験しました。9世紀のモザイクは、その長い建築の歴史の中に加えられたものです。(参照:Smarthistory|アヤソフィアの中期ビザンティン・モザイク)
イラク・サーマッラー|アッバース朝の新都と漆喰装飾
836年の遷都とティグリス川沿いの都市
836年、アッバース朝のカリフ、ムウタスィムはティグリス川沿いのサーマッラーに宮廷を移しました。892年まで帝国の首都となったこの都市には、宮殿や軍隊の施設、モスクが広い範囲に建設され、壁面を覆う漆喰や彩色装飾も大量に必要とされました。発掘された遺構や装飾の断片には、広い壁を繰り返しの文様で飾る方法が残されています。宮殿の多くは失われていますが、その空間の姿は考古学的な調査によって少しずつ明らかになっています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|サーマッラー考古都市)
大モスクとらせん状のミナレット
サーマッラーの大モスクは848〜852年頃に造営されたと考えられています。広大な礼拝区画の近くにはらせん状の巨大なミナレットが立ち、水平に広がる囲壁と高く上昇する塔が、都市の景観を特徴付けています。
らせん塔には後世の修復の跡も残ります。古代ローマの記念柱やメソポタミアの塔との関係には議論があり、9世紀のサーマッラーの都市計画と合わせて、その造形の成り立ちが研究されています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|サーマッラー考古都市)
斜切りと反復する植物文の漆喰
サーマッラーの宮殿を飾る漆喰彫刻では、斜めに削られた面が連続し、植物の葉や渦を抽象化した文様を作っています。壁に当たる光が変わると、浅い凹凸にも陰影が生まれます。型押しと彫刻を組み合わせて文様を反復させる方法は、広大な室内を飾るのに適していました。
このような意匠は「サーマッラー様式」と呼ばれ、中央アジアから西方へ装飾技法が広がる過程を考える資料になっています。出土地や制作方法、遺物が移動した経緯をたどることで、首都の工房と周辺地域とのつながりも見えてきます。(参照:メトロポリタン美術館|アッバース朝美術750〜1258年)
イラクの9世紀工芸|ラスター彩の陶器とタイル
金属のように光る焼成面
9世紀のアッバース朝で発展したラスター彩は、陶器やタイルの釉薬面に金属のような光沢を与える技法です。釉薬をかけて焼いた器に金属化合物を含む顔料で文様を描き、もう一度焼くことで、見る角度によって金色や銅色に輝く薄い層ができます。陶土の表面に宝飾品を思わせる輝きを与えるこの方法は、器にも建築用のタイルにも応用されました。幾何学文や植物文が、大きな壁面から小さな食器まで広がっていたのです。(参照:メトロポリタン美術館|アッバース朝美術750〜1258年)
サーマッラー出土の多色ラスター彩タイル
メトロポリタン美術館に所蔵される9世紀の多色ラスター彩タイルは、サーマッラーの宮殿装飾を伝える資料です。白っぽい地に重ねた金属光沢が見る角度によって変化し、文様を浮かび上がらせます。平らな陶製のタイルを連ねることで、建築内部に華やかな色と光を与えていました。
タイルは割れたり、後の時代に壁から取り外されたりすることがあります。博物館に一枚だけ残る作品からは当初の配置まで分からない場合もあり、発掘場所や制作技法が、失われた室内装飾を考えるための資料となります。(参照:メトロポリタン美術館|サーマッラーの多色ラスター彩タイル)
チュニジア・ケルアンとエジプト・カイロ|9世紀のモスク
ケルアン大モスクのアグラブ朝期の改築
北アフリカのケルアンは7世紀に成立し、その大モスクは9世紀のアグラブ朝によって大きく改築されました。広い中庭を列柱が囲み、礼拝堂には古代の建物から移された柱も使われています。都市の中に高くそびえる四角いミナレットは、遠くからも礼拝の場を示す目印となっています。
大モスクの建築には、創建以来受け継がれた建材、9世紀の再建、その後の修理が重なっています。古い石柱を新しい礼拝空間に組み込む方法からは、北アフリカで古代の建築資源が長く活用されてきたことがうかがえます。(参照:ユネスコ世界遺産センター|チュニジアのケルアン)
ケルアンの柱廊と古代建材の再利用
ケルアンの礼拝堂では、古代ローマなどの建物に由来する石柱や柱頭が多数使われています。もとは別々の場所にあった材料を、礼拝の方向へ向けて列を組み直したものです。場所によって異なる柱頭の形が、整然と並ぶ列柱に変化を与えています。この建材の再利用は、遠くアーヘンの宮廷礼拝堂にも通じる方法です。礼拝の形式も政治的な背景も異なる両地域で、古代の石材は新しい宗教建築の中に取り込まれていました。(参照:ユネスコ世界遺産センター|チュニジアのケルアン)
876〜879年のカイロ《イブン・トゥールーン・モスク》
エジプトのアフマド・イブン・トゥールーンは、フスタート近くに政治的な中心を整え、876〜879年頃に大きなモスクを築きました。広い中庭をアーチの列が取り囲み、焼き煉瓦と漆喰で造られた壁には、イラクのアッバース朝建築にも通じる装飾が見られます。
現存する建物には、後世の修理や増築も含まれています。中庭を中心とした9世紀の空間構成に、ミナレットなどの後代の要素が重なり、長い時間をかけて現在の姿になりました。(参照:ユネスコ世界遺産センター|歴史都市カイロ)
イベリア半島・コルドバ|大モスクの9世紀の拡張
アブド・アッラフマーン2世による南への増築
コルドバの大モスクは8世紀後半にアブド・アッラフマーン1世によって創建され、9世紀にはアブド・アッラフマーン2世が拡張を進めました。833年頃からの工事で礼拝堂が南へ延び、列柱と重なるアーチが新しい空間にも繰り返されます。増加する礼拝者を迎えながら、創建時の建築形式を受け継いだ増築でした。
柱の上に二段のアーチを架ける仕組みは、初期の建設から続くものです。9世紀の増築によってその反復がさらに広がり、後の世代の工事も加わって、現在の壮大な列柱空間が形づくられました。(参照:コルドバのモスク=大聖堂|アブド・アッラフマーン2世の増築)
9世紀の増築と10世紀の金色のミフラーブ
コルドバの大モスクには、10世紀の大規模な増築部分も残されています。豪華な金色のモザイクで知られるミフラーブと、複雑な多葉形のアーチは、アル=ハカム2世の時代に作られたものです。9世紀のアブド・アッラフマーン2世の工事とは時期が異なり、建物の美しさが何世代もの仕事によって生まれたことを伝えています。
9世紀の建築事業では、すでにあった列柱と二段アーチの形式を南へ延ばすことが中心となりました。後に加えられた黄金の装飾と併せて見ると、時代ごとに異なる役割を担った増築の歴史が明確になります。(参照:コルドバのモスク=大聖堂|建築の歴史)
イベリア半島北部・アストゥリアス|オビエド周辺の王国建築
サンタ・マリア・デル・ナランコの宮殿的な空間
イベリア半島北部のアストゥリアス王国では、ラミロ1世の治世(842〜850年)にオビエド近郊のナランコ山麓で建築事業が進みました。《サンタ・マリア・デル・ナランコ》は、当初は王宮に関わる建物として使われ、後に教会となったものです。細長い石造の室内と樽形ヴォールト、外へ開いた回廊が、丘の斜面に印象的な姿を見せています。窓から差し込む光や彫刻を施した柱の細部には、王宮施設として整えられた当初の空間の意匠が残っています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|オビエドとアストゥリアス王国の建造物)
サン・ミゲル・デ・リリョと壁画・石彫
近くに残る《サン・ミゲル・デ・リリョ》も、ラミロ1世の治世の造営と結び付く建物です。現存するのは一部ですが、高い内部空間や特徴的な石彫の様子をうかがえます。アストゥリアス地方には、《サン・フリアン・デ・ロス・プラドス》のように壁画を伝える建物も残っています。
アストゥリアス王国は、フランク王国とは異なる政治的な環境にありました。地中海世界の石造建築の技術を部分的に取り入れながら、この地域の人々は宮廷や教会のための独自の建築を発展させていったのです。(参照:ユネスコ世界遺産センター|オビエドとアストゥリアス王国の建造物)
ノルウェー・オーセベリ|9世紀の船墓と木彫
834年の埋葬と木造船の技術
ノルウェー南東部のオーセベリ船墓からは、9世紀前半に使われた木造船と、二人の女性の埋葬が見つかりました。船は820年頃に建造されたと考えられ、834年には墓の中心に据えられています。薄い木材を重ねた外板と細長い船体に、優れた航行技術と木工の腕前が表れています。航海に用いられた船は、埋葬の場では社会的な地位と故人の記憶を示す記念物となりました。一隻の船の建造、使用、埋葬という三つの時期をたどると、同じ物が異なる役割を担った歴史が見えてきます。(参照:オスロ大学文化史博物館|オーセベリ船の蛇頭彫刻)
船首と木製品の動物意匠
オーセベリでは船首の装飾や、動物の身体を複雑に絡ませた木製品も出土しています。蛇の頭を思わせる先端や深く彫り下げた溝、何度も交差する動物の輪郭が特徴です。光が当たると溝に影が生まれ、木彫の細かな動きがいっそう際立ちます。
船墓には多様な生活用具も副葬されていました。装飾に込められた意味は一つに定まりませんが、富や社会的地位、儀礼、海上での移動などとの関わりが考えられています。(参照:オスロ大学文化史博物館|オーセベリ船の蛇頭彫刻)
墓の織物と北海の交易世界
オーセベリ船墓には織物の断片も残り、当時の衣服や室内を彩った布の材料と文様を知る手掛かりとなっています。湿った墓の環境が木材や繊維を保存する結果となりましたが、発掘後には傷みやすい有機物を守る難しさも生じました。石造の建築や羊皮紙写本とは異なる条件を経て、今日に伝えられた資料です。
北海を航行した船は、襲撃に加え、交易や移住、贈与にも使われていました。海を越えて人々が行き交うことで、金工や木彫、織物の意匠も地域から地域へ伝わります。オーセベリの出土品は、こうした交流と暮らしの姿を木や布のかたちで伝えています。(参照:オスロ大学文化史博物館|オーセベリの織物研究)
イングランド・ウェセックス|アルフレッド大王の工芸と読書文化
9世紀後半の《アルフレッドの宝飾品》
オックスフォードのアシュモレアン美術館が所蔵する《アルフレッドの宝飾品》は、9世紀後半のアングロ・サクソン金工を代表する作品です。金の枠には七宝の人物像が収まり、その上を透明な水晶が覆っています。周囲には古英語で「アルフレッドが私を作らせた」という意味の銘文があり、ウェセックス王アルフレッド(在位871〜899年)との関係を伝えています。竜の頭を思わせる先端の形から、読書の際に行を示す指示棒の柄だった可能性が考えられています。用途はまだ確定していませんが、小さな道具の中に王の名、人物像、精巧な宝飾技術が凝縮されている点が魅力です。(参照:アシュモレアン美術館|《アルフレッドの宝飾品》)
ラテン語文献の翻訳と王国の教育
アルフレッド王の時代にはラテン語文献の学習と古英語への翻訳が進められ、王国と教会の教育を支えました。書物を作り、読み、使うための道具も、宮廷の知的な活動の一部です。金工の技術が学問や読書と結び付いていたことを、《アルフレッドの宝飾品》は物語っています。
西フランクの宮廷には巨大な聖書や金銀で飾られた書物が残り、ウェセックスには読書と結び付く小さな宝飾品が伝わっています。作品の大きさも使われた材料も異なりますが、王の権威と書物が深く結び付いていた点は共通しています。それぞれの政治と教育の環境が、異なる造形を生み出したのです。(参照:アシュモレアン美術館|《アルフレッドの宝飾品》)
略年表|801〜900年の美術と出来事
- 800年|カール大帝がローマで皇帝として戴冠する。
- 805年頃|アーヘン宮廷礼拝堂が献堂されたと伝えられる。建設開始は8世紀末。
- 814年|カール大帝が没し、ルートヴィヒ敬虔王の統治が始まる。
- 815年|東ローマ帝国で聖像崇敬を批判する政策が再び強まる。
- 9世紀前半|スイスのミュスタイア修道院教会に大規模なキリスト伝壁画が描かれる。
- 820年代頃|《ザンクト・ガレン修道院平面図》が描かれる。
- 820〜830年代頃|ランス地方の工房で《ユトレヒト詩篇》が制作される。
- 822年|ヴェーザー川沿いのコルヴァイ修道院が創設される。
- 827年|《サン・メダール・ド・ソワソン福音書》が修道院へ奉献される。
- 833年頃|コルドバ大モスクでアブド・アッラフマーン2世の増築が始まる。
- 834年|ノルウェーでオーセベリ船が墓へ納められる。
- 836年|アッバース朝がサーマッラーに宮廷を置く。
- 842〜850年|アストゥリアス王ラミロ1世の時期にナランコ山周辺の建築が進む。
- 843年|ヴェルダン条約によるフランク王国の分割と、東ローマ帝国での聖像崇敬の回復。
- 845年頃|トゥールの《ヴィヴィアン聖書》がシャルル禿頭王へ献呈される。
- 848〜852年頃|サーマッラーの大モスクが造営される。
- 867年頃|アヤソフィア後陣の《聖母子》モザイクが奉献される。
- 870〜880年代|《リンダウ福音書》の豪華な金製前表紙が制作される。
- 873〜885年|コルヴァイ修道院の西構えが造営される。
- 876〜879年|エジプトでイブン・トゥールーン・モスクが築かれる。
- 880〜890年頃|《リンダウ福音書》の本文がザンクト・ガレンで筆写される。
- 892年|アッバース朝の首都がサーマッラーからバグダードへ戻る。
- 899年|ウェセックス王アルフレッドが没する。
まとめ|建築、写本、工芸に分かれる9世紀の創造
カロリング朝の美術では、古代の建築形式や人物表現を受け継ぐ試みが、王宮、司教座、修道院の活動と深く結び付いていました。アーヘンの礼拝堂やロルシュの門、トゥールやランスの写本には、その土地で得られる材料と技術、注文主の意図に応じた違いがあります。読みやすい文字を整える仕事から石造建築や金工の制作まで、多様な活動を支えたのがこの時代の文化です。
同じ9世紀、ローマやコンスタンティノープルでは宗教画像が作られ、イスラム圏ではモスクの建築と壁面装飾が発展し、北海地域には船や木彫が残されました。各地の作品は古い技術を受け継ぎながら、それぞれの政治や信仰、暮らしの条件に応じて新しい姿を獲得しています。地域ごとに異なる素材と用途を比べることで、9世紀の美術の豊かさが具体的に伝わってきます。
参考資料・出典
所蔵機関の作品目録、大学図書館の原本公開、建築遺産の公式記録、美術館の学術的解説を参照しました。各節末のリンクは対応する作品と出来事の詳細を確かめるためのものであり、主要資料を以下にも掲げます。
- フランス国立図書館|カール大帝とシャルル禿頭王時代の写本
- メトロポリタン美術館|アッバース朝美術750〜1258年
- Smarthistory|アーヘンの宮廷礼拝堂
- ユネスコ世界遺産センター|アーヘン大聖堂
- アーヘン大聖堂|建築と建物の歴史
- ユネスコ世界遺産センター|ロルシュの修道院とアルテンミュンスター
- フランス国立図書館|カロリング期の書物と教育
- 大英図書館|《ハーレー黄金福音書》の書誌
- フランス国立図書館|カール大帝宮廷学校の装飾写本
- フランス国立図書館|《ヴィヴィアン聖書》のシャルル禿頭王献呈図
- フランス国立図書館|845年頃のシャルル禿頭王像
- フランス国立図書館|《ヴィヴィアン聖書》のダヴィデ図
- ユトレヒト大学|《ユトレヒト詩篇》
- ユトレヒト大学図書館|《ユトレヒト詩篇》デジタル原本
- フランス国立図書館|カロリング朝装飾写本の工房
- フランス国立図書館|《ドロゴ典礼書》とメスの象牙彫刻
- フランス国立図書館|《シャルル禿頭王の詩篇》
- フランス国立図書館|カロリング期写本から書物へ
- メトロポリタン美術館|《聖母子》の象牙彫刻
- モルガン図書館・博物館|《リンダウ福音書》の装丁と伝来
- モルガン図書館・博物館|《リンダウ福音書》
- ザンクト・ガレン修道院図書館|《ザンクト・ガレン修道院平面図》Cod. Sang. 1092
- ユネスコ世界遺産センター|ザンクト・ガレン修道院
- ユネスコ世界遺産センター|ライヒェナウ修道院島
- ユネスコ世界遺産センター|コルヴァイのカロリング期西構え
- ユネスコ世界遺産センター|ミュスタイアの聖ヨハネ修道院
- Smarthistory|ローマのサンタ・プラッセーデ聖堂
- メトロポリタン美術館|ビザンティンの聖像と聖像破壊
- Smarthistory|アヤソフィアの中期ビザンティン・モザイク
- ユネスコ世界遺産センター|サーマッラー考古都市
- メトロポリタン美術館|サーマッラーの多色ラスター彩タイル
- ユネスコ世界遺産センター|チュニジアのケルアン
- ユネスコ世界遺産センター|歴史都市カイロ
- コルドバのモスク=大聖堂|アブド・アッラフマーン2世の増築
- コルドバのモスク=大聖堂|建築の歴史
- ユネスコ世界遺産センター|オビエドとアストゥリアス王国の建造物
- オスロ大学文化史博物館|オーセベリ船の蛇頭彫刻
- オスロ大学文化史博物館|オーセベリの織物研究
- アシュモレアン美術館|《アルフレッドの宝飾品》