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Art History

1907–1935

近代彫刻の革新

ロダン以後、抽象・組み立て・動く彫刻へ

20世紀の初め、彫刻は急速に姿を変え始めました。パリではブランクーシが石の塊から単純な形を彫り出し、ピカソは厚紙や針金を組み立ててギターを作りました。イタリアのボッチョーニは歩く身体に速度を与え、ロシアのタトリンやロトチェンコは金属、木、空間の関係を変えました。やがてカルダーは、空気の流れによって実際に動く彫刻へたどり着きます。

前の記事で扱ったオーギュスト・ロダンは、人体の断片、石膏の複製と接合、台座や展示方法を通じて、彫刻の表現を押し広げました。20世紀の芸術家たちは、こうした問題にそれぞれの場所で向き合い、彫る、組み立てる、選ぶ、吊るす、動かすといった新しい制作方法を発展させます。

この変化はヨーロッパの一都市から順番に広がったものではありません。パリ、ミラノ、モスクワ、チューリヒ、ロンドンなどで、異なる芸術運動が同時代に展開しました。作品の形だけを比べると離れて見える実験も、素材、空間、鑑賞者の身体という観点から見ると関係が浮かび上がります。

この記事では1907年頃から1935年までを中心に、ブランクーシ、ピカソ、アルキペンコ、ボッチョーニ、デュシャン、タトリン、ガボ、ロトチェンコ、アルプ、ヘップワース、ムーア、カルダーの仕事を作品に即して見ていきます。具体的な制作年代と後年の鋳造・再制作を区別しながら、20世紀の彫刻がどのように「物体と空間の芸術」へ発展したのかを考えます。

ロダン以後、彫刻は何を表すものになったのか

1900年のパリから20世紀の実験へ

1900年のパリ万国博覧会に合わせて、ロダンは大規模な回顧展を開きました。人体を細かく観察した彫像、石膏の断片、組み替えられた群像を並べることで、制作の過程そのものを鑑賞者に示しました。19世紀の彫刻が培ってきた記念碑、肖像、工房技術は、この時点ですでに大きく変化していました。ロダンの晩年と、ブランクーシら若い彫刻家の実験は20世紀初頭に同時進行します。

1907年頃から1935年にかけて、パリ、ミラノ、モスクワ、ロンドン、ニューヨークなどで彫刻の役割が相次いで問い直されます。石や木の塊を彫る方法が再評価され、厚紙や鉄板を組み立てる作品が生まれ、天井から吊り下げた形が空気の流れで動くようになりました。各地の変化を結ぶのは、立体を何で作り、どこに置き、どのように見るかという問いです。 (参照:ロダン美術館|ロダンと近代美術、ロダン美術館|複製・断片・組み合わせ)

人物像の内部から生まれた抽象化

ロダンの《バルザック》では、ガウンに覆われた人体が一つの大きな量塊として立ち上がります。《歩く男》は頭部や腕を欠きながら、歩行の力を伝えます。人物の細部を減らしても、彫刻は強い表現を持つことが示されました。20世紀初頭の彫刻家は、この問題を自らの素材と制作方法から発展させていきます。

ブランクーシは鳥を飛翔の形へ近づけ、アルプは人体とも植物とも見える有機的な量塊を生み出します。両者の作品は単に同じ抽象様式へ進んだわけではありません。前者は形と表面を繰り返し洗練させ、後者は成長や変形を思わせる輪郭を探りました。人物像からどの性質を残し、何を手放すかという判断そのものが、新しい造形を生みました。 (参照:ロダン美術館|ロダンと近代美術、メトロポリタン美術館|ブランクーシ《空間の鳥》、MoMA|アルプ《人間の凝結》)

彫る・組み立てる・選ぶ・動かす

20世紀の彫刻を理解するうえで、制作方法の違いは重要な手がかりです。石材の内部から形を取り出す「直接彫り」、別々の素材を接合する「組み立て」、既製品を作品として提示する「レディメイド」、重さや空気の動きによって形が変化する「動く彫刻」。こうした手法は作品の外観だけでなく、作家の役割や鑑賞経験まで変えました。

彫刻を大理石や青銅でできた重い物体として思い浮かべると、吊り下げられた薄い板や回転する車輪は不思議に見えます。新しい彫刻家たちは、その違和感を積極的に利用しました。何を立体作品と呼べるのかという問いを念頭に、作品を作った手と、空間の中に生じる形の両方を見ていきます。 (参照:MoMA|ピカソ《ギター》(1912年)、MoMA|デュシャン《自転車の車輪》、カルダー財団|1930–1936年の活動)

ブランクーシがパリで見いだした新しい彫刻

ルーマニアからパリへ、ロダンとの距離

コンスタンティン・ブランクーシはルーマニアで彫刻を学び、1904年にパリへ到着しました。ロダンが国際的な名声を確立した時代に活動を始め、人体表現を学ぶ一方で、独自の造形へ進んでいきます。1907〜08年頃の《接吻》は、その方向転換をよく示す作品です。

石の塊の外形を大きく保ったまま、二人の人物を一体化させています。腕は四角い形の周囲を巡り、二つの顔はほとんど一つの面に集約されます。ロダンも《接吻》を制作しましたが、ブランクーシの同名作品では、人物の筋肉や皮膚より、石の立方体に近い形の強さが際立ちます。作品の比較から、同じ主題でも彫刻の考え方が変わったことが見えます。 (参照:ポンピドゥー・センター|ブランクーシ《接吻》、フィラデルフィア美術館|ブランクーシ《接吻》)

《接吻》と石を直接彫る方法

ブランクーシは石や木材に直接刃物を入れ、素材の抵抗を感じながら形を探りました。これを直接彫りと呼びます。石膏の原型を別の職人が石へ写す工程が広く使われていた時代に、素材へ直接向き合う行為が、新しい表現と結びつきました。

《接吻》の顔や髪の線は、石の表面に浅く刻まれています。二人の間に深い隙間を開ければ、人物は別々の彫像として見えるでしょう。ブランクーシは石を大きく残すことで、抱擁する二人が一つになる感覚を形にしました。削り残された部分も、彫られた部分と同じくらい作品の意味に関わります。 (参照:ポンピドゥー・センター|ブランクーシ《接吻》、フィラデルフィア美術館|ブランクーシ《接吻》)

単純な形が伝えるもの

頭部、胴体、腕、脚を細かく再現すれば、人物の姿は具体的になります。ブランクーシは少ない面や線に絞ることで、抱き合う力や身体の結びつきを伝えました。単純化は装飾を取り去る作業と、必要な形を選び直す作業が重なる過程です。

この方向は、後の鳥のシリーズにも続きます。見る人は具体的な外見から少し離れ、形の伸び、重心、表面の光、周囲の空間を通じて作品を捉えます。ブランクーシの造形が与える印象には、石や木の素材そのものを感じさせる力が残っています。 (参照:ポンピドゥー・センター|ブランクーシ《接吻》、メトロポリタン美術館|ブランクーシ《空間の鳥》)

ブランクーシの鳥、表面、台座

《眠れるミューズ》から《空間の鳥》へ

ブランクーシは1910年頃の《眠れるミューズ》で、閉じた目を持つ頭部を卵形に近づけました。顔を表す細かな情報を減らしても、眠る人物の静かな気配が残ります。1923年の《空間の鳥》では、鳥の翼や羽根の細部がほとんど消え、上方へ伸びる滑らかな形が中心となります。

メトロポリタン美術館の解説によると、1923年の《空間の鳥》は、その後長く続くシリーズの重要な出発点です。鳥を鳥として見分ける要素よりも、飛び上がる感覚や上昇の勢いが前面へ出ます。作品に近づくと、抽象化された形が具体的な動きを想像させることが分かります。 (参照:メトロポリタン美術館|ブランクーシ《空間の鳥》)

磨かれた表面と実際の光

ブランクーシの大理石やブロンズには、手間をかけて磨かれた表面が見られます。長く伸びる形は、照明や自然光を受けると明るい部分と暗い部分が移り変わり、輪郭の印象も変わります。彫刻の表面は、作品の外側を覆う仕上げにとどまらず、形の経験を作る重要な要素となりました。

同じ《空間の鳥》でも、大理石とブロンズでは反射や質感が異なります。大理石には素材内部から光がにじむような印象があり、磨かれた金属には周囲の光が鋭く映り込みます。写真で見ると一本の明快な輪郭に見える作品も、実物の前では光と見る位置によって変化し続けます。 (参照:メトロポリタン美術館|ブランクーシ《空間の鳥》、ポンピドゥー・センター|ブランクーシのアトリエ)

台座とアトリエが作品の一部になる

ブランクーシは彫刻を載せる台座にも強い関心を向け、自らさまざまな支持体を制作しました。台座は展示のための単なる家具という位置を超え、作品の高さ、リズム、連続する形を決める要素になりました。石と木、滑らかな形と角張った形の組み合わせによって、目の前の像の印象が変わります。

パリのアトリエでも、作品や台座、家具を組み合わせた配置が重要でした。ポンピドゥー・センターの資料は、彼のアトリエを生活と制作、展示が重なる場所として紹介しています。彫刻の形は物体そのものに加え、置かれる高さや隣の作品との距離にも支えられるという考えが、ここで明確になっていきます。 (参照:ポンピドゥー・センター|ブランクーシのアトリエ、フィラデルフィア美術館|ブランクーシ《接吻》)

キュビスムは立体作品をどう変えたのか

絵画で始まった空間の組み替え

1907年以降、ピカソとブラックは絵画の中で物体を複数の面へ分解し、形と空間の関係を組み替えました。キュビスムの問題は、画布の中にとどまりません。絵画に描いた物の輪郭を実際の材料で立ち上げるとき、彫刻の作り方そのものが変わる可能性が生まれました。

ピカソは伝統的な塑造や彫刻の方法を知りながら、身近な紙や針金などを用いた実験へ進みます。彫刻は外側から眺める量塊であり、鑑賞者がその周囲を回るものだという前提が、平らな面を接合した構造によって揺さぶられます。 (参照:MoMA|ピカソ《ギター》(1912年)、MoMA|展覧会「ピカソ:ギター 1912–1914」)

量塊から複数の面へ

ロダンの彫刻では、粘土を加えたり削ったりする過程で表面の起伏が生まれました。キュビスムの立体作品では、薄い素材を切り出して角度を変え、空間に配置する操作が前面へ出ます。線、面、空洞を組み合わせると、石や青銅のような連続した塊を作らなくても、物の存在を示せます。

見る位置を変えると、面が重なり、隙間が開き、正面からはつながって見えた部分が離れていることに気づきます。作品の中心が空洞であっても、外側の輪郭や接合された面によって立体として成立します。この発想は、後の構成主義や空間構成にも広がる重要な手がかりになりました。 (参照:MoMA|ピカソ《ギター》(1912年)、MoMA|ピカソ《ギター》(1914年))

彫刻の材料が日常へ広がる

近代彫刻では木、石、青銅、石膏が重要な材料でした。ピカソは1912年頃、厚紙、紙、糸、針金などを使ってギターを組み立てます。素材の価値や耐久性より、形をどのように構成できるかという可能性が優先されました。

切って、折って、穴を開け、接合する。この一連の動作は、工芸や模型制作ではなじみ深いものです。そうした動作が彫刻の方法として前面へ出ることで、芸術の材料と日常の材料の距離が縮まりました。後のアサンブラージュを理解するうえでも、重要な転換点です。 (参照:MoMA|ピカソ《ギター》(1912年)、MoMA|展覧会「ピカソ:ギター 1912–1914」)

ピカソ《ギター》が切り開いた組み立て彫刻

1912年の厚紙の《ギター》

1912年秋、ピカソは厚紙を切り、折り、糸や針金でつなぎ、ギターを思わせる立体を作りました。実物のギターと同じ構造を忠実に再現したものではありません。輪郭、胴のふくらみ、響き穴など、ギターを見分けるための特徴を平面の組み合わせへ置き換えています。

特に印象的なのは、通常なら奥にへこむ響き穴が、手前へ突き出した円筒として現れることです。平面と立体、内側と外側の関係が反転します。見る人は現実のギターを思い浮かべながら、材料の配置が作り出した別の空間を体験します。 (参照:MoMA|ピカソ《ギター》(1912年)、MoMA|展覧会「ピカソ:ギター 1912–1914」)

1914年の金属版と制作工程

ピカソは1914年、厚紙による先行作を板金と針金によって作り直しました。MoMAには1912年の厚紙版と1914年の金属版がともに収蔵されており、材料の違いを具体的に比較できます。厚紙では折り目や貼り合わせが際立ち、金属では薄い面の張りや接合の構造が強く感じられます。

石を彫り抜く代わりに、最初は平面だった材料を折り曲げて立体に変える。ブロンズを鋳造する代わりに、異なる部品を接合する。この制作工程の変化は、完成作の形と同じくらい革新的でした。彫刻が特定の材料や伝統的な技能によって成立するという常識が、新しい制作方法によって拡張されました。 (参照:MoMA|ピカソ《ギター》(1914年)、MoMA|展覧会「ピカソ:ギター 1912–1914」)

壁に掛けられた立体作品

ピカソは《ギター》をアトリエの壁に掛け、絵画やコラージュと並べていました。通常の彫刻のように台座へ置かれる作品とも、壁に平面として展示される絵画とも異なる位置にあります。どちらの領域にもまたがる展示方法が、作品の性質を明確にしています。

この作例から、彫刻と絵画が互いに影響し合っていたことが分かります。コラージュが紙の断片を画面へ貼り付ける技法なら、組み立て彫刻はその断片を実際の空間へ開く行為とも考えられます。1910年代の前衛美術では、作品を作る材料と空間を連続して扱う実験が進みました。 (参照:MoMA|ピカソ《ギター》(1912年)、MoMA|展覧会「ピカソ:ギター 1912–1914」)

キュビスム彫刻と人体の空洞

アルキペンコとパリの彫刻家たち

ウクライナに生まれたアレクサンダー・アルキペンコは、1908年にパリへ移り、キュビスムに接近しました。人物像を曲面や幾何学的な面へ分割し、凹凸や穴によって人体を組み立てる実験を続けました。1913年のニューヨークのアーモリー・ショーにも参加し、ヨーロッパの新しい彫刻をアメリカの観客に紹介した作家の一人です。

アルキペンコの人体像を前にすると、丸みのある部分の隣に角張った面が現れ、身体のどこが前面なのかを一目で決めにくくなります。複数の形を一つの人物像として読み取る経験が、キュビスム絵画と共通しています。 (参照:MoMA|アレクサンダー・アルキペンコ、MoMA|アルキペンコ《髪をすく女》)

《髪をすく女》と空洞の働き

1915年の《髪をすく女》では、女性の腕や胴体の一部に大きな隙間が生じています。体の内部に空いた場所が、外側の形と釣り合うことで人物の動きを作ります。奥へ抜ける空洞は、彫刻の背景をそのまま作品の内部へ引き込みます。

空洞を単なる欠けた部分と考えると、この形の面白さを十分に捉えられません。鑑賞者が横へ動けば、穴の向こうに見える壁や光が変化し、人物の印象も変わります。アルキペンコは量塊の外形だけでなく、存在する素材と存在しない空間を組み合わせて形を作りました。 (参照:MoMA|アルキペンコ《髪をすく女》、MoMA|アレクサンダー・アルキペンコ)

彫刻の穴が意味すること

空洞を使った表現にはさまざまな先例があります。アーチや建築装飾、古代の彫刻にも透ける部分はありました。20世紀の新しさは、空洞そのものを構造の中心に置き、量塊と同じ重みを持たせた点にあります。

キュビスムの作品では、穴が人体の輪郭を分割し、見る人の視点を周囲の空間へ開きます。後にヘップワースやガボが追究する空間との関係も、こうした実験と比較することで理解しやすくなります。それぞれの作家は異なる問題に向き合いながら、彫刻の内と外の関係を豊かにしました。 (参照:MoMA|アレクサンダー・アルキペンコ、MoMA|アルキペンコ《髪をすく女》、バーバラ・ヘップワース財団|彫刻家の生涯と制作)

イタリア未来派は動きをどう彫刻にしたのか

1912年の未来派彫刻宣言

イタリア未来派は速度、機械、都市の活力を掲げました。ウンベルト・ボッチョーニは1912年に彫刻に関する宣言を発表し、物体を周囲の空間から切り離された固定的な塊として捉える考えを改めようとしました。絵画で追究してきた動きと時間の問題を、実際の立体へ移す試みです。

歩く人物を彫刻にすれば、通常は一瞬の姿勢が固定されます。ボッチョーニが求めたのは、前へ進む力が周囲に波及し、身体の形を変えるような表現でした。彫刻は運動の瞬間を描写する媒体から、運動そのものが形を作るように感じさせる媒体へ近づいていきます。 (参照:メトロポリタン美術館|ボッチョーニ《空間における連続性の唯一の形態》)

《空間における連続性の唯一の形態》

1913年の《空間における連続性の唯一の形態》では、力強く歩く人物の脚が広く開き、身体の各所から鋭い曲面が後ろへ流れます。衣服が風を受けているようにも、身体が空気の中で変形しているようにも見えます。顔や指の細部は取り去られ、前進する方向と力の伝わり方が強調されています。

現実の人体をそのまま表した姿ではありません。鑑賞者が作品の周りを移動すると、前進する脚の角度と張り出した曲面が連続して見え、速度の感覚が生まれます。近代都市の技術や運動への関心が、彫刻の造形として表現された代表例です。 (参照:メトロポリタン美術館|ボッチョーニ《空間における連続性の唯一の形態》)

1913年の原型と後年のブロンズ鋳造

この作品を理解する際には、原型と鋳造品の日付を区別する必要があります。ボッチョーニの形の構想は1913年で、今日美術館で見るブロンズ像の多くは作家の死後に鋳造されたものです。メトロポリタン美術館所蔵例も1913年の作品に基づく20世紀半ばの鋳造です。

現存する物体の材質だけで、1913年当時に何が制作されたのかを判断することはできません。ロダンの記事で触れた鋳造の問題は、ここでも重要になります。近代彫刻では、作者が考えた形、原型の素材、現在収蔵されている個々の鋳造品が、それぞれ別の歴史を持つ場合があります。 (参照:メトロポリタン美術館|ボッチョーニ《空間における連続性の唯一の形態》)

デュシャンのレディメイドが開いた別の方向

1913年の《自転車の車輪》

マルセル・デュシャンは1913年、スツールの上に自転車の車輪を取り付けました。《自転車の車輪》は、手で押すと車輪が回転する物体です。彫刻のように材料から形を生み出す代わりに、既に作られた物を組み合わせて別の見方を与えています。

この作品は、動く立体として見ることも、既製品を芸術の場へ置く発想の先駆として見ることもできます。作家が何を作ったのかという問いに加え、何を選び、どう置き、どのような題名を与えたのかが重要になります。 (参照:MoMA|デュシャン《自転車の車輪》、MoMA|デュシャンとレディメイド)

作る技術から、選ぶという判断へ

デュシャンは1915年頃から「レディメイド」という言葉を使い、工業製品を選んで作品として提示する方法を発展させました。1914年の《瓶乾燥器》や1917年の《泉》を通じて、この考えは大きな議論を呼びます。作品の意味は、素材を加工した時間や技能だけで測りきれなくなりました。

ピカソが厚紙を組み立ててギターの形を作ったことと、デュシャンが既製品を選んで芸術として提示したことは、異なる革新です。前者は立体の構造を新しく考え、後者は芸術作品として成立する条件へ問いを向けました。どちらも20世紀の彫刻の範囲を広げるうえで重要です。 (参照:MoMA|デュシャンとレディメイド、MoMA|ピカソ《ギター》(1912年))

後年の複製と作品の同一性

《自転車の車輪》の1913年の最初の形は失われています。MoMA所蔵品は、1951年に作られた後年の版です。彫刻として同じ形を再び制作できることと、芸術としてどの版を作品と認めるのかという問題が、ここで重なります。

ロダンのブロンズ鋳造では一つの原型から複数の物体が生まれました。デュシャンのレディメイドでは、工業製品の再入手や再制作を通じて作品の考え方が引き継がれます。20世紀の立体美術は、材料と作者性、オリジナルと複製の関係をさまざまな方向から問い直しました。 (参照:MoMA|デュシャン《自転車の車輪》、MoMA|デュシャンとレディメイド)

タトリンとロシアの反レリーフ

パリの実験からロシアの前衛へ

1910年代のロシアでは、ヨーロッパのキュビスムや未来派を受け止めながら、独自の実験が広がりました。ウラジーミル・タトリンは絵画の平面を越えて、木、金属、ガラス、線材などを組み合わせるレリーフに取り組みます。絵画の中に奥行きを描くことから、実際の奥行きへ素材を配置することへ関心が移っていきました。

これらの作品では、表面に色や模様を描く操作と、材料そのものを空間へ配置する操作の境界が薄れます。素材の強さ、張力、重さ、支え方が、作品の造形を決める重要な条件になります。 (参照:ロシア美術館|タトリン《コーナー・カウンター・レリーフ》、MoMA|1915年「0.10」展のタトリン作品紹介冊子)

《コーナー・カウンター・レリーフ》

1914年制作とされる《コーナー・カウンター・レリーフ》では、壁と壁が交わる隅に、金属や木などの部品が取り付けられます。作品のための平らな板や台座が中心にあるわけではありません。二つの壁面にまたがる配置そのものが、立体の成立条件になっています。

金属の曲がり方、部品を支える線材、素材が受ける張力が目に入ります。鑑賞者は壁の隅という普段見慣れた建築的な場所を、作品の構造として意識するようになります。彫刻と周囲の空間が一体となる方法を示した重要な実験です。 (参照:ロシア美術館|タトリン《コーナー・カウンター・レリーフ》)

1915年の「0.10」展と物質の存在

タトリンの反レリーフは1915年末にペトログラードで開かれた「0.10」展に関わります。同じ会場ではマレーヴィチのシュプレマティスムも発表されました。抽象化へ向かう複数の方法が、同じ時代のロシアで併存していたことが分かります。

タトリンの仕事では、鉄や木は何かを写し取るための材料であると同時に、固有の性質を持つ物質として示されます。鑑賞者は曲げられた金属や引っ張られた線を見ることで、物体がどのように支えられているかを感じます。この視点は後の構成主義を理解する土台になります。 (参照:ロシア美術館|タトリン《コーナー・カウンター・レリーフ》、MoMA|1915年「0.10」展のタトリン作品紹介冊子)

革命期ロシアの構成主義と空間構成

1917年以後の社会と芸術

1917年のロシア革命後、芸術家たちは新しい社会における制作の役割を考えました。彫刻や絵画を独立した鑑賞物として作ることに加え、建築、デザイン、生産、教育へ芸術の技術を広げる議論が進みます。構成主義と呼ばれる動きには、立体作品の構造を実際の素材で組み立てる関心がありました。

同じ構成主義の内部にも、工業生産や社会的な実用を重視する立場と、空間や知覚そのものを研究する立場がありました。タトリン、ロトチェンコ、ガボの仕事を同じ形式の作品としてひとまとめにすると、それぞれの目標が見えにくくなります。 (参照:MoMA|ロトチェンコ《空間構成 第12番》、グッゲンハイム美術館|ナウム・ガボの初期彫刻に関する講演記録)

ロトチェンコ《空間構成 第12番》

アレクサンドル・ロトチェンコは1920年頃、薄い合板から同心状の帯を切り出し、互いに回転させて吊り下げる空間構成を制作しました。《空間構成 第12番》は、楕円形の帯が内部で重なる、軽やかな構造を持っています。石や金属の塊を台座に据える方法とは大きく異なります。

鑑賞者は帯の間の空洞を通して背景を見ることができます。吊り下げられた作品は、わずかな空気の流れを受けるとゆっくりと向きを変えることもあります。薄い板、光、影、重力が立体の経験を作るようになりました。 (参照:MoMA|ロトチェンコ《空間構成 第12番》、MoMA|ロトチェンコの空間構成)

平面の設計図が立体になる

《空間構成 第12番》は、もともと平らな合板に描いた楕円形を切り抜くことから始まります。素材を削り出す代わりに、一枚の板の内側に何本もの帯を作り、それを立ち上げて空間を占める形にしています。制作工程が作品の構造にそのまま現れる点が重要です。

ロトチェンコは1921年のモスクワでの展示にこうした作品を発表しました。彫刻を重い量塊から解放し、幾何学、材料の性質、展示空間によって成立させる試みです。後の動く彫刻と共通する性質を持ちますが、その背景には革命期ロシアの新しい造形と社会を結ぶ思考がありました。 (参照:MoMA|ロトチェンコの空間構成、MoMA|ロトチェンコ《空間構成 第12番》)

ナウム・ガボは空間をどう構築したのか

《構成された頭部》の実験

ナウム・ガボは第一次世界大戦期に、従来の彫像とは異なる方法で人体を表す実験を進めました。1915〜16年の《構成された頭部》では、複数の平らな面を交差させ、頭部の体積を暗示します。実際の肉づけで量感を作る代わりに、空間の中へ配置された面の関係が人物の形を生み出しています。

横へ回ると、正面から連続して見えた面が分離し、別の空洞が現れます。作品の内部に光と空気が通り、見る人の動きによって形が変化して感じられます。ガボが探究したのは、彫刻の外形と、その内側を貫く空間を同時に扱う方法でした。 (参照:グッゲンハイム美術館|ナウム・ガボの初期彫刻に関する講演記録)

1920年の「リアリスティック宣言」

1920年、ガボは兄のアントワーヌ・ペヴスネルとともに「リアリスティック宣言」を発表しました。名称にある「リアリスティック」は、伝統的な写実彫刻を意味するものではありません。時間と空間を実際の造形の条件として捉える思想が中心にあります。

革命期のロシアでは、芸術と社会をどう結びつけるかをめぐって多くの立場がありました。ガボの宣言は、空間、線、運動という要素を彫刻に導入する理念を示した重要な文書です。その関心は生涯にわたる構成作品へつながっていきます。 (参照:グッゲンハイム美術館|ナウム・ガボの初期彫刻に関する講演記録、MoMA|ガボとペヴスネルの作品研究)

《柱》と透明な素材

ガボは1923年の《柱》などで、ガラスや透明な材料、金属を組み合わせ、内部の構造を見せる彫刻を発展させました。透明な面の背後に別の面が見え、光が通過すると重なり方が変化します。石の塊を外側から眺める経験に加え、作品の内部を視線が通り抜ける経験が生まれました。

透明素材の使用は、彫刻を軽く見せる効果だけを目的としたものではありません。空間を仕切る面や線を目で追えるようにし、見る人が立体の構造を理解する手がかりになります。後のキネティック・アートや光を用いた作品を考える際にも、ガボの実践は重要な位置を占めます。 (参照:MoMA|ガボとペヴスネルの作品研究、テート|ガボ関連収蔵記録)

ダダとアルプが見いだした偶然の形

戦時下のチューリヒで生まれた実験

第一次世界大戦中、チューリヒに集まった芸術家たちは、従来の芸術観や理性への信頼を問い直しました。ダダの活動には詩、音楽、舞台、コラージュ、立体制作などが含まれます。ジャン・アルプもその中心人物の一人でした。

アルプは色紙や木製のレリーフを使い、幾何学的な形と生き物を思わせる形の両方を探究しました。静かな輪郭を持つ作品にも、当時の社会や戦争に対する態度が関わっていました。決められた美の規則から離れ、別の形が生まれる方法を考えることが、制作の重要な課題になりました。 (参照:MoMA|アルプ《偶然の法則に従って配置された正方形のコラージュ》、MoMA|ダダのコラージュとアサンブラージュ)

《偶然の法則に従って配置された正方形》

1916〜17年のアルプのコラージュでは、紙片が不規則に配置されています。紙を落とした位置から形を考える方法は、作者が最初に全体の配置を決める制作とは異なります。作品の成立に偶然が関わるという発想が、ここで重要になります。

MoMAの解説は、アルプが偶然を利用しながらも、最終的な配置に作家の判断が残っていた可能性を指摘しています。偶然を使うことと、制作の判断を完全に放棄することは同じではありません。予期しない配置を出発点に、新しい秩序を見いだす方法だったと考えられます。 (参照:MoMA|アルプ《偶然の法則に従って配置された正方形のコラージュ》)

紙のコラージュから木のレリーフへ

アルプは紙を切って貼る技法を、木製のレリーフなどへ広げました。表面に置かれた形がわずかに突出すると、影が生まれ、輪郭と背景の関係も変わります。絵画の平面と彫刻の厚みの間を行き来する制作です。

ピカソの《ギター》が面を組み立てて物の構造を表したのに対し、アルプのレリーフでは自由な輪郭の配置そのものが重要です。形が何を意味するかをすぐに決めず、見る人が生物や自然現象を思い浮かべられる余地を残しています。この関心は1930年代の彫刻へ続きます。 (参照:MoMA|ダダのコラージュとアサンブラージュ、MoMA|アルプ《人間の凝結》)

アルプの有機的な抽象彫刻

幾何学とは異なる抽象の形

20世紀の抽象彫刻には直線や円、幾何学的な構造を重視する方向があります。アルプは、その動きと並行して、植物が育つような曲線や、身体の一部分を思わせる量塊を探りました。作品の輪郭は滑らかで、どこからが頭部で、どこからが胴体なのかを特定しにくいことがあります。

こうした形は、有機的抽象あるいは生物を思わせる抽象として理解されます。見る人は花や石、人体などさまざまなものを連想できます。どれか一つの対象に意味が固定されないことが、作品の豊かさになっています。 (参照:MoMA|アルプ《人間の凝結》)

1935年の《人間の凝結》

アルプの《人間の凝結》は1935年の石膏原型に基づく作品です。MoMA所蔵例は1949年制作の複製で、原型の年代と所蔵作品の物質的な制作時期は異なります。作品には膨らみとくぼみが連続し、滑らかな面が流れるようにつながっています。

名前に「人間」が含まれていても、頭や手足を具体的に見つけることは難しいでしょう。見る角度を変えるたびに、形の重心や突起の印象が変わります。人間の存在を細部から描写する方法を離れ、成長する物体のような感覚を彫刻へ取り込んだ作例です。 (参照:MoMA|アルプ《人間の凝結》)

ブランクーシとの共通点と違い

ブランクーシとアルプはいずれも、人物や動物の細部から離れた彫刻を発展させました。ブランクーシの《空間の鳥》は上方へ伸びる一本の動きに集中し、アルプの《人間の凝結》は複数の方向へふくらむ形を持ちます。共通する単純化の内部で、異なる造形上の関心が働いています。

前者では磨かれた表面と台座の組み合わせ、後者では途切れず変形する輪郭が特に印象的です。20世紀の彫刻が一つの抽象様式へ統一されていったと考えるより、素材、形、制作方法ごとに複数の可能性が広がった時代として理解するのが適切です。 (参照:メトロポリタン美術館|ブランクーシ《空間の鳥》、ポンピドゥー・センター|ブランクーシのアトリエ、MoMA|アルプ《人間の凝結》)

英国の彫刻家たちと直接彫りの再評価

ロンドンで広がった新しい彫刻

1920〜30年代の英国では、ヘンリー・ムーアやバーバラ・ヘップワースが木や石を直接彫る方法に取り組みました。パリの前衛美術を参照しながら、人体や自然物の形を単純化する独自の制作を進めます。石の表面に残る道具の痕跡と、内部へ切り込んだ曲面が、作品の重要な部分になりました。

この時期の作品を考えるとき、英国の彫刻家が同じ様式へ一斉に移ったと考える必要はありません。ムーアは横たわる人体を繰り返し研究し、ヘップワースは抽象的な形と空間の関係を深めました。制作の方法や関心を比較することで、彫刻の新しい可能性が見えてきます。 (参照:バーバラ・ヘップワース財団|彫刻家の生涯と制作、メトロポリタン美術館|ヘンリー・ムーア《横たわる人物 第4番》)

ムーアの横たわる人物像

ヘンリー・ムーアは1920年代から横たわる人物像を繰り返し制作しました。身体が横に伸びる姿は、台座や地面との接し方によって印象を変えます。手足や胴体の形を単純化すると、人体は丘や岩のような量感を帯びることがあります。

ムーアは古代エジプト、アフリカ、先コロンブス期の美術にも関心を持ちました。英国の彫刻表現を形作ったこれらの参照には、当時の博物館が世界各地の美術品を集めていた歴史も関わっています。作品の形を知ることと、その資料がどのような経路で鑑賞されたかを考えることは、同じ美術史の中でつながっています。 (参照:メトロポリタン美術館|ヘンリー・ムーア《横たわる人物 第4番》)

ヘップワースが重視した石と木の性質

バーバラ・ヘップワースは直接彫りによって、石材や木材の形を段階的に変化させました。素材の硬さ、重さ、木目の方向が制作の判断に関わります。なめらかな曲面の隣に、奥へ入り込む凹面を設けると、同じ素材でも軽やかな空間の感覚が生まれます。

ヘップワース財団の記録では、1930年代前半に作品の形が急速に単純化され、1934年末までに完全な抽象彫刻へ進んだことが説明されています。人体の形を残す段階から、彫刻の内側と外側の関係そのものを追究する段階へ進んだ時期です。 (参照:バーバラ・ヘップワース財団|彫刻家の生涯と制作、バーバラ・ヘップワース財団|作品一覧)

ヘップワースの穴が空間を変える

1931〜32年頃の《穴のある形》

ヘップワースは1931〜32年頃に、中央へ大きな穴を開けた《穴のある形》を制作しました。このアラバスターの作品は第二次世界大戦中に失われています。現物が残らない作品については、当時の写真や展示記録、作家の資料から造形を考える必要があります。

作品の中心に穴があると、そこへ入り込む光や背景も見えるようになります。石の塊が空間を占めることに加え、空間を内部へ受け入れることが作品の条件になりました。周囲の環境を彫刻の内側に取り込むという発想が、この時期の重要な革新です。 (参照:バーバラ・ヘップワース財団|彫刻家の生涯と制作、バーバラ・ヘップワース財団|作品一覧)

内側と外側を連続して見る

穴の周囲には薄くなった壁面があり、内側へ向かう曲面と外側へ膨らむ曲面がつながります。見る人が場所を移せば、穴の向こうに見える景色や光が変わり、同じ彫刻でも別の姿になります。形を決める境界が、素材の外周だけで完結しなくなりました。

アルキペンコも人体に空洞を設けていましたが、ヘップワースは穴そのものと素材の量感の均衡を、抽象的な作品の中心に置きました。両者の仕事を比べると、空洞を形の一部にする方法が、異なる国と世代で多様に発展していたことが分かります。 (参照:バーバラ・ヘップワース財団|彫刻家の生涯と制作、MoMA|アレクサンダー・アルキペンコ)

1935年までの英国抽象彫刻

1935年頃には、ヘップワースは《三つの形》など、関係する複数の抽象的な量塊を使った作品を制作していました。一つの像の内側で完結する形から、離れて置かれた複数の形の関係へと研究が広がっていきます。

作品同士の距離や高さも鑑賞の対象になるため、彫刻が占める空間の意味がいっそう強くなります。後年のヘップワースは弦や内部の色などへ表現を広げますが、そうした展開の基礎は1930年代前半の直接彫りと空間研究の中に見ることができます。 (参照:バーバラ・ヘップワース財団|作品一覧、バーバラ・ヘップワース財団|彫刻家の生涯と制作)

カルダーがワイヤーで描いた立体の線

1926年、アメリカからパリへ

アメリカ生まれのアレクサンダー・カルダーは、1926年にパリへ渡り、ワイヤーを使った作品を発展させました。針金を曲げると、空中に一本の線で人物や動物の輪郭を描くことができます。石や粘土で作る量塊の表面とは違い、線と線の間には大きな空間が残ります。

《ジョセフィン・ベーカー》に関わるワイヤー彫刻などを見ると、輪郭のわずかな曲がりによって人物の動きや特徴が伝わります。線で描いた絵を立体として空間へ置く発想が、素材の軽さと直接結びついています。 (参照:カルダー財団|1926–1930年の活動)

《カルダーのサーカス》という動く小さな世界

カルダーは1926年から《カルダーのサーカス》に取り組みました。ワイヤー、布、革、ゴム、コルクなどで作られた小さな人形や道具を用い、観客の前でサーカスの演目を実演する作品です。作品は持ち運び可能な形で発展し、パリとアメリカの両方で上演されました。

曲芸師が宙に浮く、動物が輪をくぐる、小さな装置が動くといった出来事が、観客の目前で起こります。完成した彫刻を静かに眺める経験と、時間の中で作品が動く経験が結びつきます。後のパフォーマンスと彫刻の関係を考えるうえでも、重要な先行例です。 (参照:カルダー財団|《カルダーのサーカス》(1926–1931年)、カルダー財団|1926–1930年の活動)

線、重さ、釣り合いへの関心

ワイヤーの立体作品では、一本の線がどの方向へ曲がるか、どこに重さがかかるかが重要です。軽い素材は手で簡単に曲げられる一方、少し形を変えるだけで全体の安定が変わります。カルダーは形の面白さと、構造が実際に働くことへの関心を重ねていきました。

《カルダーのサーカス》では、観客の前で物体が動きます。1930年代のモビールでは、物体が重力や空気の流れによって動く仕組みがさらに発展します。ワイヤーで空間へ描く方法から、動きそのものを作品にする方法への変化が見えてきます。 (参照:カルダー財団|《カルダーのサーカス》(1926–1931年)、カルダー財団|1930–1936年の活動)

カルダーと実際に動く抽象彫刻

1930年、モンドリアンのアトリエ

カルダーは1930年10月、パリでモンドリアンのアトリエを訪れ、色の配置や空間のあり方に強い刺激を受けました。その後、幾何学的な形を組み合わせた抽象作品へ進みます。平らな色面が空間に配置され、実際の立体として関係し合う可能性が開かれました。

この変化は、人物や動物をワイヤーで描く仕事と完全に切り離されたものではありません。空中に形を置く発想や、わずかな釣り合いを調整する経験が、抽象的な形の構成へ引き継がれています。 (参照:カルダー財団|1930–1936年の活動)

モーターから空気の流れへ

カルダーの初期の抽象的な動く作品には、モーターによって部品を回転させるものがありました。その後、針金や板の重さを調整し、空気のわずかな流れを受けて動く作品へ進みます。鑑賞者は物体の形だけでなく、動きが生まれる条件を感じることになります。

同じ作品が常に同じ姿勢にあるとは限りません。軽い板が向きを変えると、形同士の距離、影の重なり、空間の分割のされ方が変わります。彫刻は鑑賞の時間の中で姿を変える存在になりました。 (参照:カルダー財団|1930–1936年の活動)

1931〜32年の「モビール」という名称

カルダーの動く抽象作品を見たデュシャンは、1931年に「モビール」という名称を提案しました。1932年2月にはパリのヴィニョン画廊で「Calder: ses mobiles」が開催され、これらの作品が紹介されました。アルプが静止した作品に対して「スタビル」という名称を提案したことも、カルダー財団の年譜に記録されています。

モビールという言葉には、動くものと動機という意味の響きがあります。作品の意味は形の一つの状態だけに収まらず、動き続ける関係の中に現れます。1930年代前半のカルダーは、空間と時間の両方を彫刻の材料として扱う段階に到達しました。 (参照:カルダー財団|1930–1936年の活動、カルダー財団|1932年「Calder: ses mobiles」展)

1935年までに変わった彫刻の鑑賞

量塊と空洞、静止と運動

ブランクーシの石やブロンズは、素材を集中した形へまとめます。ピカソの《ギター》は面を接合して立体を作り、タトリンの反レリーフは壁の隅を構造へ取り込み、ロトチェンコは合板を吊り下げました。カルダーは実際に動く抽象彫刻を発展させます。

こうした実験は、一つの様式に向かって進んだ歴史として整理するより、彫刻という表現の可能性が多方向に広がった歴史として捉えると理解しやすくなります。共通するのは、作品の物質的な成立と、作品が置かれる空間を深く考える姿勢でした。 (参照:メトロポリタン美術館|ブランクーシ《空間の鳥》、MoMA|ピカソ《ギター》(1912年)、ロシア美術館|タトリン《コーナー・カウンター・レリーフ》、MoMA|ロトチェンコ《空間構成 第12番》、カルダー財団|1930–1936年の活動)

作品の写真と実物の経験

近代彫刻は写真や展覧会図録によって広まりました。写真は作品の存在を遠くの人へ伝える重要な手段です。同時に、立体の中を通る光や、鑑賞者が歩くことで変わる輪郭、モビールのゆっくりした動きは、一枚の写真だけでは十分に伝わりません。

ブランクーシが自らのアトリエを撮影した写真には、作品をどのように置き、見せようとしたかが現れています。カルダーの記録写真や映像には、作品が動く条件が残っています。記録と実物の両方を見ることで、彫刻が視点や時間とともに変わる表現であることを理解できます。 (参照:ポンピドゥー・センター|ブランクーシのアトリエ、カルダー財団|《カルダーのサーカス》(1926–1931年)、カルダー財団|1930–1936年の活動)

美術史の次の時代へのつながり

1935年頃までに、彫刻の材料、制作方法、展示方法、空間との関係は大きく変化していました。これらの実践は、戦後の抽象彫刻、キネティック・アート、ミニマリズム、インスタレーションなどの展開を考えるうえで重要な先例になります。

後の作家たちが20世紀初頭の作品を同じ意図で繰り返したわけではありません。異なる社会や制度の中で、新たな問題を引き受けながら表現を変えていきました。ロダンから始まる問いが、各地の彫刻家によってさまざまに発展したことを押さえておくと、その後の美術史の変化を読み取りやすくなります。 (参照:ロダン美術館|ロダンと近代美術、メトロポリタン美術館|ブランクーシ《空間の鳥》、MoMA|ピカソ《ギター》(1912年)、カルダー財団|1930–1936年の活動)

年表:1907〜1935年の近代彫刻

ロダンから20世紀初頭の彫刻への連続性を確認するため、19世紀末の出来事も含めています。現在の美術館に収蔵されたブロンズや後年の複製品の制作年代は、各作品の所蔵館資料で確認する必要があります。

  1. 1877年 ロダン《青銅時代》が発表され、近代彫刻をめぐる議論が広がる。
  2. 1898年 ロダン《バルザック》がサロンで公開され、記念碑の表現をめぐる論争が起こる。
  3. 1900年 ロダンがパリで大規模な回顧展を開く。
  4. 1904年 ブランクーシがルーマニアからパリへ到着する。
  5. 1907〜08年 ブランクーシの最初期の《接吻》が制作される。
  6. 1910年頃 ブランクーシ《眠れるミューズ》。
  7. 1912年 ボッチョーニが未来派彫刻に関する宣言を発表。
  8. 1912年秋 ピカソが厚紙による《ギター》を制作。
  9. 1913年 ボッチョーニ《空間における連続性の唯一の形態》の原型が成立。
  10. 1913年 デュシャンが最初の《自転車の車輪》を組み立てる。
  11. 1913年 アルキペンコがニューヨークのアーモリー・ショーへ出品。
  12. 1914年 ピカソが板金と針金による《ギター》を制作。
  13. 1914年頃 タトリンが《コーナー・カウンター・レリーフ》を制作。
  14. 1915年 タトリンの反レリーフがペトログラードの「0.10」展に出品される。
  15. 1915年 アルキペンコ《髪をすく女》。
  16. 1915〜16年 ガボが《構成された頭部》を制作。
  17. 1916〜17年 アルプが偶然の配置を取り入れた紙のコラージュを制作。
  18. 1917年 ロシア革命が起こり、芸術と社会の関係をめぐる議論が進む。
  19. 1920年 ガボとペヴスネルが「リアリスティック宣言」を発表。
  20. 1920年頃 ロトチェンコ《空間構成 第12番》。
  21. 1921年 ロトチェンコらの空間構成がモスクワで展示される。
  22. 1923年 ブランクーシ《空間の鳥》のシリーズが始まる。
  23. 1923年 ガボ《柱》。
  24. 1926年 カルダーがパリへ渡り、《カルダーのサーカス》の制作を始める。
  25. 1930年 カルダーがモンドリアンのアトリエを訪れ、抽象作品へ進む。
  26. 1931年 デュシャンがカルダーの作品に「モビール」の名を与える。
  27. 1931〜32年 ヘップワースが《穴のある形》を制作する。
  28. 1932年 カルダーがパリで「Calder: ses mobiles」展を開催。
  29. 1932年 ヘップワースの《穴のある形》が《Abstraction》の題で展示される。
  30. 1935年 アルプ《人間の凝結》の原型が制作される。
  31. 1935年 ヘップワース《三つの形》。

まとめ:近代彫刻は何を変えたのか

20世紀初頭の彫刻家たちは、作品の姿と制作方法を同時に変えていきました。ブランクーシは石や金属の形を単純化し、ピカソは身近な材料を組み立て、ボッチョーニは運動を形にし、デュシャンは既製品を選ぶ行為に新しい意味を与えました。タトリン、ロトチェンコ、ガボは素材と空間の構造を追究し、アルプは偶然と有機的な形を用い、ヘップワースやムーアは石の内部へ空間を開きました。カルダーは実際に動く彫刻を発展させます。

これらの試みは、それぞれの芸術運動と都市の歴史に支えられています。ロダンの時代から続く人体、断片、素材、台座の問題が、パリ、ミラノ、ロシア、英国、アメリカなどで異なる形へ展開していきました。近代彫刻の革新を知ることは、彫刻を物体として見るだけでなく、物体の周囲にある空間、光、時間、そして鑑賞する身体を作品の一部として考えることでもあります。

参考資料・出典

本記事はロダン美術館、ポンピドゥー・センター、ニューヨーク近代美術館、メトロポリタン美術館、ロシア美術館、グッゲンハイム美術館、テート、作家財団の作品解説・アーカイブ資料を参照し、制作年代と作品の材質、展示・再制作の経緯を照合して構成しました。各小節の末尾にも、内容に対応する資料へのリンクを記載しています。

資料確認日:2026年10月13日 / ART LIBRARY