紀元前323–31
アレクサンドロス大王以後のギリシア美術
ヘレニズム時代の彫刻
紀元前4世紀末のエーゲ海とその周辺では、アテネ、ロドスなどの都市が海上交易を営み、マケドニアの王や各地の有力者は戦争と外交を通して勢力を争っていました。港には穀物、金属、石材、陶器が運ばれ、神殿には市民や王から彫像が捧げられました。東方遠征によってペルシア帝国の領域まで進んだアレクサンドロス大王が紀元前323年に亡くなると、将軍たちは広大な支配地を分け合い、マケドニア、エジプト、シリアや小アジアを中心とする複数の王国が競い合うようになります。
新しい王都には宮殿、図書館、神々の聖域が整えられ、王の勝利を記念する巨大な群像や、個人が住まいで鑑賞する小さな像が作られました。東地中海で活動する人や物の移動が増え、ローマ人もギリシア彫刻の収集を始めます。ヘレニズム時代の作品には、神話上の人物を複雑に組み合わせた大理石浮彫、倒れた兵士、顔に傷の残る拳闘士、眠った幼い神、帽子と扇を持つ女性などがあります。現在残る実物とローマ時代の模刻を見分けながら、制作場所と作品の役割を確かめていきます。
CONTENTS
王国の成立と肖像|誰の顔を彫るのか
紀元前323年以後の王国|王都と彫刻家の仕事
アレクサンドロスの死後、将軍たちは王位の継承を争い、紀元前301年のイプソスの戦いなどを経てマケドニアのアンティゴノス家、エジプトのプトレマイオス家、アジアのセレウコス家などが支配領域を固めました。アナトリア西部ではペルガモンのアッタロス家が勢力を伸ばし、エーゲ海東南部のロドスは海上交易を背景に独自の立場を保ちました。王国の境界と支配期間が異なるため、地域ごとの彫刻を同じ年代区分だけで並べると制作環境の違いが隠れてしまいます。
王たちは神殿の境内や広場に記念像を立て、勝利や祖先との結び付きを伝えました。民間でも埋葬に伴う像や小型の飾り像を求める人がいました。大きな青銅像は金属の再利用によって失われたものが多く、出土地の分かる大理石の遺品、王名を刻んだ貨幣、後世の写しがそれぞれ別の形で当時の彫刻を伝えています。今日『ヘレニズム彫刻』と呼ばれる作品群は、王室の記念碑から小さな家庭の像までを含みます。(参照:メトロポリタン美術館|ヘレニズム時代の美術と社会/メトロポリタン美術館|ペルガモンとヘレニズム諸王国・展覧会資料)
デメトリオスの銀貨|角と王冠で示した支配者
デメトリオス・ポリオルケテスはアレクサンドロスの後継者の一人で、紀元前306年に王を名乗りました。メトロポリタン美術館の紀元前289〜288年頃の銀貨(収蔵番号67.265.30、直径約3センチ、重さ17.23グラム)は、片面にデメトリオスの横顔、もう片面に三叉の鉾を持つポセイドンを打ち出しています。王の髪は額から後ろへ流れ、頭には細い王の帯が巻かれ、こめかみのあたりには牛の角が付けられています。
肖像に加えられた牛角はディオニュソス神との結び付き、帯はマケドニアの王位を示すものです。別の後継者リュシマコスが紀元前286〜281年に発行した金貨(同館52.127.4、直径約1.9センチ)では、死後のアレクサンドロスの頭部と座るアテナを組み合わせました。後継者たちは自分の肖像を選ぶことも、亡き大王の顔を使うこともできたのです。貨幣は取引に使う道具であると同時に、王の姿と神とのつながりを遠くの地域へ配布する媒体でもありました。(参照:メトロポリタン美術館|デメトリオスの肖像を打った銀貨/メトロポリタン美術館|リュシマコス発行のアレクサンドロス像金貨)
象皮の騎手と王妃の頭部|人物の同定が分かれる例
メトロポリタン美術館にある紀元前3世紀の青銅小像(収蔵番号55.11.11、高さ24.8センチ)は、象の鼻を額の前へ垂らした皮を頭にかぶる、馬上の男性を表しています。人物の胴は直立し、広い肩と大きめの頭が小さな像に力強い姿を与えています。エジプトのプトレマイオス1世が発行した貨幣に似た象皮姿のアレクサンドロスが見えるため、その表現との関係が考えられます。一方、インド方面への遠征を象皮で示したバクトリア王デメトリオス1世の肖像とする解釈もあります。
同館の大理石製王妃頭部(2002.66、高さ38.1センチ、紀元前270〜250年頃)は、均整の取れた頬と波状の髪を備え、上部と背面はかつて頭を覆った布で隠れるよう粗く仕上げられていました。アルシノエ2世とみる説がありますが、確実な記名銘文はなく、神殿で崇拝された別のプトレマイオス朝王妃である可能性が残ります。小像の象皮と王妃頭部の髪形は人物を考える材料になりますが、それぞれの同定には貨幣や神像との比較が必要です。(参照:メトロポリタン美術館|象の皮をかぶった騎乗人物の青銅小像/メトロポリタン美術館|アルシノエ2世ともみられる王妃の大理石頭部)
ペルガモンの勝利記念像|倒れたガリア人
アッタロス1世の勝利と奉納|何を記念したのか
アナトリア西部のペルガモンは、紀元前3世紀に小さな有力都市から王都へ成長しました。アッタロス1世(在位紀元前241〜197年)はアナトリア中央部に定着したガラティア人、すなわちケルト系集団との戦いに勝ち、その勝利を宮廷と神殿の記念像に結び付けました。アテナの聖域では、敵の戦士を含む複数の人物像を組み合わせた奉納記念物が設けられたと考えられています。勝利した王だけを立たせる構図から離れ、敗者の肉体と表情を像の中心に置いたことが特徴です。
古代の文献には勝利記念の彫刻に携わった人物名が伝わる一方、青銅製と推定される元の群像はほぼ残りません。ペルガモンの奉納像とローマで見つかった大理石像を結び付ける議論は、銘文の欠損、像同士の大きさ、彫刻群の並べ方に不確かな点を残しています。王の軍とガラティア人との戦闘は歴史上の出来事ですが、現存する一体一体がどの戦いを描くかまでは確認できません。(参照:メトロポリタン美術館|ペルガモンとヘレニズム諸王国・展覧会資料/メトロポリタン美術館(2016年)|『ペルガモンとヘレニズム諸王国』展覧会図録)
『瀕死のガリア人』|首飾りと傷を刻んだ大理石像
ローマのカピトリーノ美術館にある『瀕死のガリア人』(収蔵番号S747)は、紀元前60〜40年頃に作られた大理石像です。高さ約93センチ、横幅約1.87メートルの長い台座の上で、裸の戦士が楕円形の盾に身を落とし、右手を地面について胴を支えています。左足は長く伸び、右脚は曲がり、うつむく顔には痛みに耐える表情が刻まれました。胸の傷、口髭、束になって立つ髪、首の輪形の首飾りは、ガリア人を特徴付ける要素です。
盾の近くには曲がった角笛も彫られ、戦場に置かれた武具の位置が分かります。この像は1622年にローマのサッルスティウス庭園の一帯で発見されました。カピトリーノ美術館はアッタロス1世の勝利記念像を写した作例と説明しています。現在ある石像そのものが紀元前3世紀のペルガモン製というわけではなく、失われた青銅の原型を考える際には、紀元前1世紀の模刻者が材料や表面を変えた可能性を含めて検討します。(参照:カピトリーノ美術館|『瀕死のガリア人』大理石像/カピトリーノ美術館|ガリア人の間と発見記録)
敵をどう表したのか|勇敢さと王の宣伝
『瀕死のガリア人』の戦士は、盾を落として完全に伏した姿ではなく、右腕に力を入れてなお上体を持ち上げています。首飾りや髪の特徴が出身集団を伝える一方、鍛えた胴体と傷の描写は観る人に最期の瞬間を想像させます。戦士の顔を横から見ても、頭を低く傾けた方向から見ても、右肩と脚の間に異なる空間が生まれ、周囲を回る見方が想定されていたと考えられます。
この像は、戦った相手を勇敢な者として描くことで勝者の強さを強調したと解釈されます。どのような人が実際に彫られたのか、戦いの何日目の場面なのかを伝える資料はありません。現在の作品には『瀕死』という題が付いていますが、古代の題名も分かっていません。ガラティア人はギリシア系王国に雇われる兵士でもあり、各地の都市と複雑な関係を結んでいました。像を一つの民族の生活を正確に写した肖像として扱うより、ペルガモンの戦勝記念という制作事情から読む必要があります。(参照:カピトリーノ美術館|『瀕死のガリア人』大理石像/メトロポリタン美術館(2016年)|『ペルガモンとヘレニズム諸王国』展覧会図録)
ペルガモン大祭壇|神々と巨人の長大な浮彫
丘の上の祭壇|建築と浮彫が組み合わさる
アッタロス1世の後を継いだエウメネス2世の時代、紀元前2世紀の第2四半期に、ペルガモンの丘上へ大きな祭壇が築かれました。基壇は約36.8×34.2メートルの長方形で、西側には幅約20メートルの階段が食い込み、その両脇に柱のある高い壁面が続きます。神々に供物を捧げる場所は、階段を上った内庭にありました。外側の基壇を囲むのが、神々と巨人の戦いを描いた長さ約113メートル、高さ約2.3メートルの大理石浮彫です。
大理石は遠方の採石地から運ばれ、標高約335メートルの丘へ引き上げられました。祭壇がゼウスとアテナに捧げられたとする解釈は、欠けた奉納銘文と、東面の中心に配置された二神の戦闘場面に基づきます。銘文には肝心の神名が残っておらず、すべての神々に捧げられた祭壇とみる余地もあります。年代も『紀元前170年』という一点で確定したのではなく、エウメネス2世の治世と様式、建築過程を合わせた推定です。(参照:ベルリン国立博物館・フラウンホーファー研究所|ペルガモン大祭壇の建築と浮彫/ベルリン国立博物館|ペルガモン大祭壇・収蔵資料)
東面のゼウスとアテナ|衣服の影と蛇の脚
東面の浮彫でゼウスは大きく脚を開き、広げた腕で稲妻を放って巨人を攻めます。上体の筋肉を浮き上がらせた巨人は、羽や蛇の下半身を持つ者として表され、神の身体と絡み合います。近くのアテナは、相手の巨人アルキュオネウスの髪をつかんで引き上げ、翼のあるニケが女神の頭上に勝利の冠を差し出します。巨人の母である大地の女神ガイアは、地面から半身を現して手を伸ばしています。
巨人の胸や腕は背景から大きく彫り出され、蛇の尾や布の端は枠を越えるようにせり出します。アテナの衣の深い襞と巨人の筋肉の陰影が並ぶため、人物の輪郭が一枚の平らな図柄に収まりません。ベルリン国立博物館は東面のゼウス群とアテナ群を紀元前180〜160年頃の作と紹介しています。どの人物も同じ彫りの深さではなく、部分ごとに制作を分担した複数の工人の仕事が考えられます。(参照:ベルリン国立博物館|大祭壇東面のアテナ像とゼウス像/ベルリン国立博物館・フラウンホーファー研究所|ペルガモン大祭壇の建築と浮彫)
内庭のテレポス物語|王家が選んだ別の神話
祭壇の内庭の壁には、大きな戦闘図とは別に、テレポスという英雄の生涯を連続して描いた小ぶりの浮彫があります。テレポスは英雄ヘラクレスの子で、小アジアのミュシアを治めたとされ、ペルガモン王家が祖先の物語へ結び付けた人物です。一枚にはパルテニオン山中で、雌獅子に乳を与えられて育つ幼いテレポスをヘラクレスが見つける場面があります。森や建物を表す背景の前に人物を置き、出来事を順に追う構成は、外壁の一斉にぶつかり合う戦闘群と異なります。
浮彫には制作が終わらなかった部分もあり、ベルリン国立博物館はエウメネス2世の死を前後して工事が中断した可能性を述べています。王家の系譜につながる神話を内庭に、神々の勝利を外周に配置した構成は、建築を歩く人の目に入る内容を使い分けたものです。テレポスの物語を王の正統性と結び付ける説明は図像と王家の由来から導かれる解釈で、個々の参拝者がどう理解したかを示す記録は残っていません。(参照:ベルリン国立博物館|テレポス物語の浮彫・雌獅子と幼子/ベルリン国立博物館・フラウンホーファー研究所|ペルガモン大祭壇の建築と浮彫)
発掘と展示|ベルリンに見える部分は何か
19世紀にペルガモンの石片が石灰を焼く材料に使われているのを見た技師カール・フーマンは、破損を防ぐようベルリンの博物館に働きかけました。1878〜1886年の調査では大祭壇の基礎と多数の浮彫片が確認されました。石片には後世の壁などに組み込まれたものもあり、出土位置が元の配列を直接示すとは限りません。建築家リヒャルト・ボーンや考古学者オットー・プフシュタインらが、残存部材を比較して復元に取り組みました。
今日ベルリンのペルガモン博物館で知られる巨大な正面は、西面を原建築の部材と補作を用いて再構成したものです。ほかの三面の浮彫板は展示室の別の壁に並び、現地では基壇の跡が残ります。ベルリン国立博物館と研究機関は2014年、113メートルに及ぶ浮彫の約8千枚の写真や立体計測を組み合わせる作業を進めました。観覧者が見る現代の配列と、古代の丘の上で建物を一周したときの配置は同じ体験ではありません。(参照:ベルリン国立博物館・フラウンホーファー研究所|ペルガモン大祭壇の建築と浮彫/メトロポリタン美術館|ペルガモンとヘレニズム諸王国・展覧会資料)
サモトラケのニケ|船首に降り立つ勝利の女神
パロス島の大理石とラルトスの石|二種類の石で組んだ像
サモトラケ島の『偉大な神々』を祭る聖域に置かれたニケ像は、紀元前200〜175年頃の制作とされます。女神の身体と翼は白いパロス島産の大理石、船首形の台座はロドス島ラルトス産の灰色を帯びた大理石で作られました。前へ踏み出す女神の右脚では膝から太腿へかけて衣が脚に沿って張り付き、左の腰から下では風に押されるように厚い布が折り重なります。胴体の細い衣の線と、腰の外へ広がる大きな襞の彫り方が対照的です。
船首は大きな石材を組み合わせた構造で、女神がいま着地する瞬間を受け止める形になっています。像の頭部と両腕は失われ、右の手のひらの破片などが後に発見されました。船と像を別々の石材で作ったため、製作と据え付けには石工の加工、接合位置の調整が必要でした。像の姿を現在の博物館の踊り場で見ると、古代には船の一部を表す台座と周囲の建築を備えた奉納記念物だったことを忘れがちです。(参照:ルーヴル美術館|『サモトラケのニケ』収蔵記録/ルーヴル美術館|『サモトラケのニケ』の発見と復元)
1863年の発見と現地の建物|失われた屋根を探る
1863年、フランスの外交官シャルル・シャンポワゾーが聖域でニケの破片を発見しました。約110点の断片が回収され、1879年の再調査では船首や台石が見つかりました。現在ルーヴル美術館に立つ記念物は、それらの古代部材と修復による支持部分を組み合わせた姿です。原位置は聖域の斜面に設けられた記念施設で、そこにはおよそ幅9.5メートル、奥行き13.4メートルの基礎が残っています。
現地を調べるエモリー大学の発掘隊は、かつて提唱された『像の周りを水が流れる噴水』という復元案を検証しました。給水管は近くの柱廊へ向かい、想定された水盤の大石も建物の元の床面より低い位置にあるため、噴水説とは整合しません。現在は、低い壁で囲まれた屋外の空間だった説と、屋根を持つ小神殿のような建物だった説が検討されています。像の風を受けた姿を理由に屋外と決めることも、残存状態のよさだけで屋内と決めることもできません。(参照:エモリー大学サモトラケ発掘隊|ニケの記念施設の構造と調査/ルーヴル美術館|『サモトラケのニケ』の発見と復元)
どの海戦を祝ったのか|ロドス説と研究の更新
ルーヴル美術館は制作を紀元前190年頃と説明し、ロドス人などが海戦の勝利を記念した可能性を示しています。ロドスはヘレニズム時代に強い海軍を持ち、紀元前190年にはセレウコス朝との戦いに参加しました。船首形の台座にロドス島の石が使われたことも、この説を支える材料の一つです。一方、石材の産地がそのまま奉納者の故郷を確定するわけではなく、記念碑の銘文には勝った海戦と制作した彫刻家の名前が残っていません。
アンドリュー・スチュワートは2016年、従来の紀元前190年のロドスの海戦と結び付けた見方を再検討し、船の種類や現地の条件から別の可能性を論じました。2020年にはケヴィン・クリントン、ルドヴィク・ローグィエ、スチュワート、ボナ・ウェスコットが、修復後の像と船首、銘文片、聖域の建物を再照合し、論点を整理しています。現在、像の制作時期はルーヴル収蔵記録で紀元前200〜175年頃とされますが、具体的な勝利の相手と奉納者は研究上の問題として残っています。(参照:アンドリュー・スチュワート(2016年)|ニケ像の年代と海戦説の再検討/クリントン、ローグィエ、スチュワート、ウェスコート(2020年)|ニケ像の設置環境と年代の再検討/ルーヴル美術館|『サモトラケのニケ』収蔵記録)
アフロディテのさまざまな姿|神像と奉納群像
『ミロのヴィーナス』|上半身と腰の布
エーゲ海のミロス島で1820年に見つかった『ミロのヴィーナス』は、紀元前150〜125年頃のパロス島産大理石による彫像です。顔は正面からわずかに横を向き、髪を細い帯でまとめて後頭部の低い位置で結んでいます。上半身は裸で、腰から下には厚い布が回され、へその下で斜めに折れてから両脚へ落ちます。体重を支える脚と緩めた脚の違いを、骨盤の傾きと腹部の滑らかな面がつないでいます。彫刻はほぼ等身を超える大きさですが、肩や腹の表面には細かな面の起伏を残しています。
ルーヴル美術館の収蔵記録によれば、左腕と右腕の大部分、左足が欠け、鼻や背面にも損傷があります。髪の結び目は接合され、鼻先には石膏の補修が施されました。古代にも台座が削り直された痕跡があります。像は1821年にルーヴルへ収められました。現在見える両腕のない姿から、もともとどの道具を持ち、どこを向いていたかを確定することはできません。アフロディテとする呼び名も、衣装や身体表現をもとにした同定です。(参照:ルーヴル美術館|『ミロのヴィーナス』収蔵記録)
腕の動作と作者|発見記録が残す問題
この像の腕については、左手でリンゴを持つ案、布を支える案、別の人物と組み合わせる案などが検討されてきました。神話でアフロディテが勝ち取ったリンゴと結び付ける解釈はよく知られています。発見当時に周辺から見つかった腕や手の破片が、もとの像の一部だったかどうかは記録だけでは解決しません。像の台座の一部に彫刻家の署名があったとする古い証言にも、残存しない資料を扱う難しさがあります。
ルーヴル美術館の目録には、2017年のマリアンヌ・アミオーによる像の型の研究、2022年のジャン=リュック・マルティネスによる調査、2023年のヴァンサン・トゥーズによる発見と取得の史料再検討が掲げられています。現代の所蔵記録が制作を紀元前150〜125年とするのは、こうした研究も参照しているからです。腕や台座の復元図が複数あることを、現状の大理石から直接確認できる事実と区別する必要があります。(参照:ルーヴル美術館|『ミロのヴィーナス』収蔵記録)
デロス島の三神群像|サンダルを振り上げる女神
『アフロディテ、パン、エロス群像』(アテネ国立考古学博物館3335)は、紀元前100年頃に作られた大理石の奉納像です。交易港として栄えたデロス島で、フェニキア沿岸のベリュトス、現在のベイルートに出自を持つポセイドン信徒たちの施設から見つかりました。山羊の脚と角を持つパンが女神の体に近づき、アフロディテは笑みを見せながら右手にサンダルを持ち上げ、翼のある幼いエロスがパンの頭の近くから助けに入ります。三体は離して飾る像ではなく、互いの手足が交錯する一組として彫られています。
台座のギリシア語銘文には、ベリュトス出身のディオニュシオスが祖国の神々へ捧げたことが記されます。発掘品には色彩の痕跡も見られますが、像の一部の指には後世の石膏補修があり、すべてを制作時の仕上げとみなせません。神々の戯れる場面を選んだ理由までは銘文に書かれていないものの、奉納者の名と出身地、発見された建物を同時に確かめられる点で貴重です。同じアフロディテでも、紀元前3世紀のギリシア像を写したとされるローマ製の『うずくまるアフロディテ』(メトロポリタン美術館09.221.1)は浴みする姿に身体をねじり、観る側が回り込むことを想定しています。(参照:ギリシア文化省・国立考古学博物館|デロス島出土のアフロディテ・パン・エロス像/アテネ国立考古学博物館|ヘレニズム時代の彫刻/メトロポリタン美術館|うずくまるアフロディテ像のローマ模刻)
残された青銅像|鋳造と色の使い分け
『休息する拳闘士』|腫れた耳と血の金属
『休息する拳闘士』は、1885年にローマのクイリナーレの丘の南斜面、コンスタンティヌス浴場跡の近くで見つかった大きな青銅像です。現在はローマ国立博物館のマッシモ宮に収蔵されています。選手は裸で岩に腰掛け、両腕を膝に預けて右上へ顔を向けています。手には古代の拳闘用の革紐を巻き、重く腫れた耳、つぶれた鼻、口を少し開けた表情が表現されています。鍛えられた胴に対し、顔には繰り返された試合の傷が残されています。
顔や耳から腕、右腿へ落ちた血は、地金の青銅とは色の異なる銅をはめ込んで表しました。唇や乳首、拳闘用の紐の細部にも銅が使われ、右眼の下のあざには別の配合の合金を用いて暗く見せています。かつては眼球にも別素材が嵌められていました。発掘時の写真が残っており、現在の足元の石は後に補ったものです。身体の損傷を表す部分が金属の組合せでできているため、単に青銅の表面を細かく刻んだ彫刻ではありません。(参照:ショーン・ヘミングウェイ(2013年)|『休息する拳闘士』の鋳造技術と年代論/メトロポリタン美術館|『休息する拳闘士』展)
拳闘士の年代論|造形から一つの年を決められるか
拳闘士像は、頭、胴、前腕、脚などを別々に鋳造し、接合して作られました。失われた蝋型の代わりに金属を流し込む方法が用いられ、仕上げでは髪や髭に細かな刻みを加えています。頭頂部には古代の修理も認められます。どの選手を表したかという銘文はなく、後方を向いて座る姿が一人だけの記念像だったのか、別の人物の存在を示す群像の一部だったのかも決まっていません。
年代については議論が続いています。ショーン・ヘミングウェイの2013年の研究紹介によれば、パウル・ツァンカーはアレクサンドロス死後の紀元前3世紀に近い早い制作を論じ、アナレーナ・アンブロージらは紀元前2〜1世紀の後期ヘレニズム美術として検討しています。同展の所蔵館側が示した紀元前4世紀末〜2世紀という広い範囲は、腕の動きや筋肉の彫り方が異なる時代に受け継がれた事情を反映します。作品の写実性だけで制作年を新しくする判断は支持されません。(参照:ショーン・ヘミングウェイ(2013年)|『休息する拳闘士』の鋳造技術と年代論)
『眠るエロス』|幼い神を青銅で横たえる
メトロポリタン美術館の『眠るエロス』(43.11.4)は、紀元前3〜2世紀に作られたとされる青銅像で、現在の長さは約85.2センチです。岩に横たわる幼い神は体を丸め、かつては左腕に頭を預け、背中の翼を畳んでいたと復元されます。右手の握りが緩んでいるのは、もとは弓を持っていたためと推定され、頭の近くには矢筒と矢羽の一部が残ります。これ以前には青年の姿で表されることの多かったエロスが、眠って無防備になる子どもとして作られました。
同館は2013年、彫刻全体の金属を分析し、頭や身体には錫を含む通常の青銅が使われ、脚の間にある布の部分では鉛の多い合金が用いられたことを確認しました。布の部分には鋳造法にも差があり、ローマ帝政期に傷んだ箇所を修復した可能性が高いとされます。以前は青銅像全体がローマ時代の模刻とみる説もありましたが、材質と構造を調べた研究は、ギリシア時代の原作に後世の修理が加わったという見方を支持しました。原作が神殿に奉納されたのか、後に個人の庭へ置かれたのかは分かっていません。(参照:メトロポリタン美術館|『眠るエロス』青銅像/メトロポリタン美術館(2013年)|『眠るエロス』の金属組成・古代の修復)
仮面を着けた踊り手と小さな馬|青銅の動作
同じメトロポリタン美術館の『覆面を着けた踊り手』(1972.118.95)は、紀元前3〜2世紀の高さ21センチの青銅小像です。薄い布で顔を隠し、右足をつま先まで伸ばして立ち、右腕と左手で外套を引き寄せています。胸と腰の前では布が細かい弧を描き、後ろの裾は重く垂れます。動作を示すのは露出した筋肉よりも、脚と腕に引かれた布の線です。踊り手をアレクサンドリアの舞踊や無言劇の専門家と結び付ける説がありますが、出土地から直接証明された職業ではありません。
もう一つの青銅製の馬(23.69、高さ40.2センチ)は、紀元前2世紀末〜1世紀の制作と現在は考えられています。1923年の取得時は紀元前5世紀の作と信じられ、1960年代には真贋そのものも疑われました。その後、内側に残る鋳型の土の測定と技術的調査によって古代の製作であることが認められ、過去の様式を用いる後期ヘレニズムの作品という年代解釈に改められました。この馬の鋳造には直接蝋型を作る方法が用いられています。古風に見える姿が、必ずしも古い制作年を示すわけではない実例です。(参照:メトロポリタン美術館|覆面を着けた踊り手の青銅小像/メトロポリタン美術館|制作年代が見直された青銅の馬)
小さな人物像と日常の身体|粘土で作る表現
タナグラ型の女性像|帽子と扇を手に
紀元前3世紀のボイオティア地方では、粘土を型に押し当てて作る女性像が盛んに製作されました。メトロポリタン美術館の高さ21.8センチの像(06.1071)は、丸い帽子をかぶり、身体を長い外套で包み、左手で広げた扇を高く掲げています。右手は衣の中に隠れ、脚の前に落ちる布が左右に重なります。頭部、胴体、手や小道具の型を別々に作り、組み合わせて焼く技法なら、似た服装から帽子や扇、頭の傾け方を変えた複数の像を作れました。
同館の別の女性像(06.1168、高さ約22.2センチ)には髪の色が多く残り、左手に扇を持っています。この種の像はボイオティアの都市タナグラで19世紀後半に墓から大量に持ち出されたため『タナグラ型』と呼ばれるようになりました。紀元前4世紀末から3世紀にかけて各地の工房にも広がります。女性像が実在の人物の肖像か、舞台の登場人物か、理想化した若い女性かは個々の作品で確かめにくく、墓に置かれた例があることだけで意味を一つに決められません。(参照:メトロポリタン美術館|帽子と扇を持つボイオティアの女性土偶/メトロポリタン美術館|髪に彩色が残る女性土偶/メトロポリタン美術館|タナグラ型土偶の出土と制作)
『老いた市場の女性』|何を運ぶ人なのか
『老いた市場の女性』という通称で知られるメトロポリタン美術館の大理石像(09.39、高さ約126センチ)は、紀元後14〜68年頃のローマ製模刻です。失われたギリシア側の原作は紀元前2世紀のものと考えられています。女は痩せた上体を前に傾け、腰と脚を衣で包み、片手で果実などを入れた籠と鳥を持っています。顔には深い皺、胸には年齢による変化が彫られ、着物の裾は細かく折り重なっています。
博物館は、粗末な仕事着に見えるという通称に再考を促しています。細い布の衣ときれいなサンダル、頭に付けたツタの冠は、ディオニュソス神の祭りへ向かう年長の遊女を表した可能性を示すというのです。籠の果実と二羽の鳥は神への供え物だったかもしれません。元のギリシア像が神域に奉納され、後のローマ模刻が庭園を飾ったという案は、いずれも制作場所を記した銘文によって確認できたものではありません。『市井の貧しい女性』と『祭りに参加する女性』では、同じ身体表現から読み取る物語が変わります。(参照:メトロポリタン美術館|『老いた市場の女性』と呼ばれる大理石像/メトロポリタン美術館(2016年)|『ペルガモンとヘレニズム諸王国』展覧会図録)
スミュルナの痩せた女性と葬送の花冠|小像の用途
小アジアの港町スミュルナの作とされる紀元前1世紀の女性土偶(メトロポリタン美術館89.2.2141)は、高さ16.8センチ。骨の浮いた長い腕と胴、垂れた胸、わずかに膨らむ腹を持ち、右肩から薄い衣が滑り落ちています。年老いた女性のように見えますが、博物館は、髪形と腰のひねりから、重い病に苦しむ若い女性を表した可能性も指摘します。失われた体力を表現するために肉の厚みを薄くした像で、特定の病気を診断できる資料はありません。
南イタリアのタレントゥムで作られた紀元前3世紀の花冠(同館11.212.44、最大寸法約42.5センチ)は、植物の葉や実、花を粘土で作り、表面に金色を施したものです。葉の間には小花を留める留め具があり、金属製の花冠に似た形を軽い土で再現しています。同じ地域の墓からは装飾を構成する土製の円盤なども出ており、この種の品が葬送に用いられた例があります。小さな粘土の女性像も花冠も、大理石の記念碑とは別の価格、制作工程、置かれる場所を想定した作品です。(参照:メトロポリタン美術館|スミュルナ製とされる痩せた女性の土偶/メトロポリタン美術館|タレントゥムの金色の土製花冠)
『ラオコーン』|ロドスの彫刻家たちとローマ
三人と二匹の蛇|身体をつなぐ曲線
『ラオコーン群像』は、トロイアの祭司ラオコーンと二人の息子が海から来た大蛇に巻き付かれる場面を大理石で作った像です。父は腰をひねって身を起こし、息子たちは両側で脚と腕を大蛇に捕らわれています。父の顔は眉を寄せ、口を開け、腹部には力がこもります。蛇の胴が父子三人の身体を斜めにまたぐため、どこに誰の脚があるかをたどるうちに像の内部を視線が行き来します。
作品は1506年にローマのエスクイリーノの丘で発見され、当時の教皇ユリウス2世が取得して現在のヴァチカン美術館に置かれました。ローマの著述家プリニウスが記した、ロドス島出身の彫刻家アゲサンドロス、アテノドロス、ポリュドロスによるラオコーンの像と早くから同定されています。古代作家の記述と発見された像を結び付ける根拠がありますが、同じ主題を扱う彫刻がほかにも存在した可能性には注意が必要です。(参照:ヴァチカン美術館|『ラオコーン群像』の発見・年代)
制作年代の議論|紀元前40〜30年頃という判断
群像は長いあいだ、ヘレニズム時代前半のペルガモン彫刻に近い作品、またはローマ帝政期に作られた作品など、広い年代へ位置付けられてきました。ヴァチカン美術館は議論を踏まえ、現在の目録では紀元前40〜30年頃の制作が有力だと説明しています。この時期は、ロドス島の彫刻家が地中海のローマ人の顧客に作品を提供していた時代と重なります。大理石の群像を失われた青銅像の単純な写しと断定する資料はありません。
強くひねる胴体、持ち上げた腕、子どもまで巻き込む複雑な構図は、ペルガモン大祭壇の浮彫と比較されてきました。類似する表現があることは、同じ工房や制作年の証明にはなりません。プリニウスは複数の彫刻家の協力作として言及しましたが、制作の注文主や設置時の目的、彫刻家同士の役割分担については詳しく記していません。年代は、同時代の銘文や関連作との比較を含む研究によって検討されています。(参照:ヴァチカン美術館|『ラオコーン群像』の発見・年代/メトロポリタン美術館(2016年)|『ペルガモンとヘレニズム諸王国』展覧会図録)
失われた右腕と再発見|復元が変えた印象
ラオコーンの父の右腕は、1506年の発見時に失われていました。その後長く、腕を高く頭上へ伸ばす形で補われていました。20世紀初頭、古美術商ルートヴィヒ・ポラックが発見した曲がった腕の断片が原像に属すると認められ、後に組み込まれました。現在は肘を折り曲げ、肩の近くへ腕を引き寄せる姿で示されています。腕の形が変わると、父の身体の大きな動きと蛇との接触の位置関係も変化します。
ヴァチカンの2024年の研究紹介は、ポラックの発見だけでなく、彼がナチスによる迫害で命を奪われた経緯もたどっています。美術館の展示は1506年のまま手つかずで保存されてきたのではなく、破片の発見、補作の取り外し、研究上の判断を重ねてきました。作品の動きを論じる場合は、現在見える腕の角度が古い図版と違う理由を確かめる必要があります。(参照:ヴァチカン・ニュース(2024年)|ラオコーン像の右腕の再発見/ヴァチカン美術館|『ラオコーン群像』の発見・年代)
ローマへの流入と模刻|原作の姿をどう伝えるか
紀元前2〜1世紀の収集|戦利品と注文制作
ローマは紀元前2世紀にマケドニアとギリシア諸都市への影響力を強め、紀元前168年のピュドナの戦いの後、紀元前146年にはマケドニアを属州とし、同年コリントスも破壊しました。紀元前133年、ペルガモンのアッタロス3世は王国をローマへ遺贈します。戦勝した将軍たちは彫像をローマに持ち帰り、富裕層も家屋や庭園にギリシアの像を置くようになりました。初めはギリシア各地の工房が注文に応じ、紀元前1世紀には彫刻家や工人がローマへ移って制作する例が増えます。
青銅製の像は戦利品として運ばれ、貴金属を回収するため鋳つぶされたものもありました。地中海の沈没船から回収された彫刻の積荷は、作品が古代の市場で移動していたことを示します。アテネ国立考古学博物館が所蔵する『アルテミシオンの騎手』は、エウボイア島北方の海中から回収された青銅の馬と若い騎手の群像です。疾走する馬は前脚を大きく伸ばし、少年は馬の上で前へ身を伏せながら振り返っています。馬の右の腰には、勝利の冠を手にする小さなニケの印もあります。海中で発見された位置は船の移動経路を考える資料ですが、最初の制作地や設置場所を直接示すものではありません。(参照:メトロポリタン美術館|ペルガモンとヘレニズム諸王国・展覧会資料/アテネ国立考古学博物館|アルテミシオン沖の沈没船と騎手像/ショーン・ヘミングウェイ(2013年)|『休息する拳闘士』の鋳造技術と年代論)
模刻と原作|石の支柱を見落とさない
青銅像は細い腕や脚を空間に突き出せますが、同じ構図を大理石にすると、折れやすい部分を支える石の支柱が必要になる場合があります。ローマの工房はギリシア彫像から石膏型を取り、寸法を測って別の素材に写しました。現存する人物像の隣に切り株のような支えが付く例は、制作者が原型と違う材料の強度に合わせた結果と考えられます。顔の細部や表面の仕上げも、買い手の趣味と制作時代に合わせて調整されました。
『瀕死のガリア人』は紀元前1世紀に大理石で作られた像、『老いた市場の女性』は紀元後のローマ製模刻です。ギリシア時代の元の青銅像や大理石像は残っていないため、二つの現存品には古い造形を伝える価値があると同時に、模刻者の選択が入り込んでいます。ローマ時代に作られたから作品全体をヘレニズム美術から切り離すことも、ギリシアの原作そのものと同一視することもできません。製作年代、写されたと推定される原型の年代、出土地は別々に示すのが適切です。(参照:メトロポリタン美術館|ギリシア彫像のローマ模刻と複製技法/カピトリーノ美術館|『瀕死のガリア人』大理石像/メトロポリタン美術館|『老いた市場の女性』と呼ばれる大理石像)
制作工程から読む|鉱物、石、粘土の証拠
大きな青銅像では、蝋で作った原型を土型で包み、熱して蝋を抜いた空間へ金属を流す鋳造技術が使われました。『休息する拳闘士』は頭や四肢を別に鋳て接合し、赤みのある銅では血を示しました。『眠るエロス』では身体と修理された布との合金組成の違いが、古代の再加工を知る材料になりました。大理石像では石材の産地、接合面、古代の削り直しや後世の補修が、制作と展示の経緯を分けて考える根拠になります。
タナグラ型女性像の粘土や残存顔料、ペルガモンの浮彫の出土位置、サモトラケの建物の排水経路は、作品の作者名が失われても調べられる証拠です。ある像を『劇的』『写実的』と呼ぶだけでは、石をどこまで彫り出し、金属をどう接合し、像が神殿のどの場所に置かれたかは伝わりません。彫刻の主題とともに、材質、加工の痕跡、出土記録を確認する研究が続いています。(参照:メトロポリタン美術館|古代ギリシア青銅彫刻の鋳造技術/ショーン・ヘミングウェイ(2013年)|『休息する拳闘士』の鋳造技術と年代論/メトロポリタン美術館(2013年)|『眠るエロス』の金属組成・古代の修復/エモリー大学サモトラケ発掘隊|ニケの記念施設の構造と調査)
略年表
- 紀元前323年|アレクサンドロス大王が死去し、将軍たちによる王位継承争いが始まる
- 紀元前301年|イプソスの戦いを経て、後継者たちの勢力圏が改めて分かれる
- 紀元前289〜288年頃|デメトリオスの顔とポセイドン神を刻んだ銀貨が発行される
- 紀元前282年頃|ペルガモンのアッタロス家が独自の支配基盤を形成していく
- 紀元前270〜250年頃|アルシノエ2世とも考えられる大理石の王妃頭部が作られる
- 紀元前241〜197年|アッタロス1世の時代、ペルガモンでガラティア人への勝利を記念する奉納像が作られる
- 紀元前200〜175年頃|サモトラケ島の聖域に船首形台座とニケ像が設けられる
- 紀元前197〜159年|エウメネス2世がペルガモンを治め、大祭壇の建設が進められる
- 紀元前190年|ロドスの艦隊が関わるセレウコス朝との海戦が起こり、ニケ像との関連が後世に議論される
- 紀元前180〜160年頃|ペルガモン大祭壇の神々と巨人の浮彫が制作される
- 紀元前168年|ピュドナの戦いでマケドニアがローマに敗れる
- 紀元前150〜125年頃|ミロス島の『ミロのヴィーナス』が制作される
- 紀元前146年|ローマがコリントスを破壊し、ギリシア世界への支配を強める
- 紀元前133年|ペルガモンのアッタロス3世が王国をローマへ遺贈する
- 紀元前100年頃|デロス島に『アフロディテ、パン、エロス群像』が奉納される
- 紀元前60〜40年頃|ローマで『瀕死のガリア人』の大理石模刻が作られる
- 紀元前40〜30年頃|『ラオコーン群像』が作られたとする年代説が有力となっている
- 紀元前31年|アクティウム沖の戦いでオクタウィアヌスが勝利し、ヘレニズム諸王国の時代が終盤を迎える
まとめ
ヘレニズム時代の大理石彫刻には、ペルガモン大祭壇の神々と巨人を重ねた深い浮彫、サモトラケの船首に立つニケ、デロス島の三神が絡み合う奉納群像があります。祭壇や聖域では、人が通る場所と神像の高さに合わせて作品が置かれました。宮廷の戦勝記念像では、首飾りや武具を持つ敗者の姿も表されます。これらは同じ工房の一様な様式ではなく、それぞれの王国や都市で異なる注文によって作られたものです。
青銅の『休息する拳闘士』は銅のはめ込みで血を表し、『眠るエロス』の合金分析は古代の修理箇所を示しました。小型の女性土偶には髪の色が残り、型で作った身体に帽子や扇が組み合わせられています。大理石像は同じ素材でも、石の産地や加工面、後の接合によって製作と修復の段階を調べられます。
『サモトラケのニケ』がどの海戦を祝ったか、『ミロのヴィーナス』の腕が何をしていたか、『休息する拳闘士』が誰を表したかは確定していません。『瀕死のガリア人』や『老いた市場の女性』は後の時代の模刻で、写された原作との違いも考慮しなければなりません。発掘現場の建物、古代の奉納銘文、金属成分、後世の修復履歴をそれぞれ確かめる作業が、作品の年代や用途をめぐる解釈を更新しています。(参照:クリントン、ローグィエ、スチュワート、ウェスコート(2020年)|ニケ像の設置環境と年代の再検討/メトロポリタン美術館(2013年)|『眠るエロス』の金属組成・古代の修復/メトロポリタン美術館|ギリシア彫像のローマ模刻と複製技法)
参考資料・出典
- メトロポリタン美術館|ヘレニズム時代の美術と社会
- メトロポリタン美術館|ペルガモンとヘレニズム諸王国・展覧会資料
- メトロポリタン美術館(2016年)|『ペルガモンとヘレニズム諸王国』展覧会図録
- メトロポリタン美術館|デメトリオスの肖像を打った銀貨
- メトロポリタン美術館|リュシマコス発行のアレクサンドロス像金貨
- メトロポリタン美術館|象の皮をかぶった騎乗人物の青銅小像
- メトロポリタン美術館|アルシノエ2世ともみられる王妃の大理石頭部
- ベルリン国立博物館・フラウンホーファー研究所|ペルガモン大祭壇の建築と浮彫
- ベルリン国立博物館|ペルガモン大祭壇・収蔵資料
- ベルリン国立博物館|大祭壇東面のアテナ像とゼウス像
- ベルリン国立博物館|テレポス物語の浮彫・雌獅子と幼子
- カピトリーノ美術館|『瀕死のガリア人』大理石像
- カピトリーノ美術館|ガリア人の間と発見記録
- ルーヴル美術館|『サモトラケのニケ』収蔵記録
- ルーヴル美術館|『サモトラケのニケ』の発見と復元
- エモリー大学サモトラケ発掘隊|ニケの記念施設の構造と調査
- クリントン、ローグィエ、スチュワート、ウェスコート(2020年)|ニケ像の設置環境と年代の再検討
- アンドリュー・スチュワート(2016年)|ニケ像の年代と海戦説の再検討
- ルーヴル美術館|『ミロのヴィーナス』収蔵記録
- ギリシア文化省・国立考古学博物館|デロス島出土のアフロディテ・パン・エロス像
- アテネ国立考古学博物館|ヘレニズム時代の彫刻
- メトロポリタン美術館|うずくまるアフロディテ像のローマ模刻
- ショーン・ヘミングウェイ(2013年)|『休息する拳闘士』の鋳造技術と年代論
- メトロポリタン美術館|『休息する拳闘士』展
- メトロポリタン美術館|『眠るエロス』青銅像
- メトロポリタン美術館(2013年)|『眠るエロス』の金属組成・古代の修復
- メトロポリタン美術館|覆面を着けた踊り手の青銅小像
- メトロポリタン美術館|制作年代が見直された青銅の馬
- アテネ国立考古学博物館|アルテミシオン沖の沈没船と騎手像
- メトロポリタン美術館|帽子と扇を持つボイオティアの女性土偶
- メトロポリタン美術館|髪に彩色が残る女性土偶
- メトロポリタン美術館|タナグラ型土偶の出土と制作
- メトロポリタン美術館|『老いた市場の女性』と呼ばれる大理石像
- メトロポリタン美術館|スミュルナ製とされる痩せた女性の土偶
- メトロポリタン美術館|タレントゥムの金色の土製花冠
- ヴァチカン美術館|『ラオコーン群像』の発見・年代
- ヴァチカン・ニュース(2024年)|ラオコーン像の右腕の再発見
- メトロポリタン美術館|ギリシア彫像のローマ模刻と複製技法
- メトロポリタン美術館|古代ギリシア青銅彫刻の鋳造技術