Art Library
Art History

1962–1970

絵画や彫刻から、日常の何気ない行為を芸術にする時代へ

フルクサスの誕生

ピアノを壊すことが音楽になる。水が一滴ずつ落ちる音が作品になる。食事をする、紙を手渡す、短い指示を読むといった何気ない行為にも、芸術として向き合う。そのような活動が1960年代の欧米や日本で広がりました。中心にあったのが、ジョージ・マチューナスらが「フルクサス」と呼んだ国際的な前衛芸術の動きです。

1950年代末までの美術では、抽象表現主義が絵画の描き方を大きく変え、ポップアートは商品や広告、漫画を画面へ持ち込んでいました。ニューヨークではアラン・カプローらが「ハプニング」を試み、観客を出来事の中へ巻き込んでいました。こうした変化と同じ時代に、作曲家ジョン・ケージの実験音楽からも、美術と生活を結び直す発想が育っていきます。

1962年9月、当時の西ドイツにあったヴィースバーデン美術館では「フルクサス国際最新音楽祭」が開催されました。出演者たちは楽器を通常とは違う方法で使い、物や身体を動かし、音を出すという行為の意味を問いかけます。人々にとって、演奏会で起きていることをどのように理解すべきなのか、判断が難しい経験でした。ここでフルクサスという名前が広く知られるようになります。

フルクサスには、ジョージ・ブレヒト、ディック・ヒギンズ、アリソン・ノウルズ、ベンジャミン・パターソン、オノ・ヨーコ、ナム・ジュン・パイク、塩見允枝子、久保田成子らが関わりました。作家たちは絵画や彫刻のほかに、公演、実験映画、言葉による指示、小箱に収められた作品、手紙を通じた共同制作など、多様な方法を用いました。誰が行為を実行するのか、どこで作品を経験するのかという問いが重要になっていきます。

例えば、ブレヒトの短い指示作品は、同じ文章を受け取った人が違う場所で実行できます。オノ・ヨーコの《Cut Piece》では、観客の行為によって舞台で起きることが変化します。塩見允枝子の《Spatial Poem》では、世界各地から郵便で届く返事が作品の一部となりました。完成した作品をじっと鑑賞する経験に加え、読む、実行する、参加する、応答するといった関わり方が広がっていったのです。

この記事では、フルクサスが生まれた背景から1962年の公演、1960年代の主要作家の作品、出版と映像、国際的な交流までを年代順にたどります。すでに扱ったハプニングと共通する部分にも触れながら、フルクサスならではの特徴を明らかにします。1962〜1970年という範囲は成立期と1960年代の発展を追うためのもので、活動はその後も続いていきました。

フルクサスとは何だったのか — 日常の行為が作品になる

「芸術をする」とは何をすることなのか

1962年、ドイツのヴィースバーデン美術館で開かれた公演では、演奏者たちがピアノの鍵盤を普通に弾く代わりに、楽器の各部分に働きかけ、最後にはピアノが壊れるほどの行為を繰り広げました。会場には驚きや笑い、反発が生まれました。その場で示されたのは、音楽や美術の価値を演奏の巧みさや完成した物の美しさだけで測る習慣を揺さぶる、新しい制作の考え方でした。

この活動が「フルクサス」と呼ばれます。芸術家は絵画を描き、彫刻を彫るだけでなく、物を落とす、人に短い指示を渡す、舞台で何かをする、その出来事を印刷物にまとめることによっても作品を生み出しました。「何が起きるか」「誰がそれを行うか」「その時間をどう経験するか」が、作品を成り立たせる重要な要素になったのです。(参照:ヴィースバーデン美術館|Fluxus at 50)

国際的な仲間たちを結んだ名前

フルクサスには、ジョージ・マチューナス、ジョージ・ブレヒト、ディック・ヒギンズ、アリソン・ノウルズ、ベンジャミン・パターソン、ナム・ジュン・パイク、オノ・ヨーコ、塩見允枝子など、多様な出身地と専門を持つ人々が関わりました。作曲、詩、絵画、デザイン、映画、演劇など、活動の領域も幅広く、共通の造形様式を決めて制作した集団ではありませんでした。

彼らを結びつけたのは、公演を組むこと、手紙で作品の指示を交換すること、安価な印刷物や小さな物を共同で出版することでした。展覧会場の外でも活動は続き、作品そのものが郵便で国境を越えました。美術史でフルクサスを理解するには、一人の天才の様式より、互いに連絡し作品を流通させるネットワークに目を向ける必要があります。(参照:ニューヨーク近代美術館|フルクサス・アーカイブ)

1962〜1970年という区切りの意味

フルクサスという名称が公演の表に大きく掲げられた重要な起点は、1962年9月のヴィースバーデンです。その後、ヨーロッパ各地、ニューヨーク、日本へ活動が広がり、1960年代半ばには公演、箱入りの作品、映画、小規模な出版物、郵便による共同制作など、さまざまな形が現れました。

この記事では1962年から1970年までを中心にたどります。これはフルクサスが1970年に解散したという意味ではありません。1970年代にも出版や公演、共同事業は続き、中心人物マチューナスが亡くなる1978年以後にも関連する制作は継続しました。年代の区切りは、誕生と1960年代の展開を理解するための編集上の範囲です。(参照:ニューヨーク近代美術館|Charting Fluxus展)

前史 — 実験音楽と戦後の前衛芸術

ジョン・ケージが広げた「音楽」の範囲

フルクサスの成立を理解する入口の一つが、作曲家ジョン・ケージの実験音楽です。ケージは、楽器から出る旋律や和音だけを音楽の材料と考える習慣を問い直し、周囲の音、偶然、沈黙、演奏者が置かれた状況を作品に取り込みました。音楽を「楽譜どおりの音を再現すること」から広げる考え方は、多くの若い芸術家を刺激しました。

ニューヨークのニュースクールで1958〜1959年に行われたケージの実験音楽の授業には、ジョージ・ブレヒト、アラン・カプロー、ディック・ヒギンズらが関わりました。そこでは作曲と視覚芸術の距離が近づき、短い出来事や日常の音を作品として考えるための土壌が育ちました。フルクサスの短い指示作品は、この実験から重要な刺激を受けています。(参照:ゲティ研究所|ブレヒトとイベント・スコア)

デュシャン、ダダ、既製品を使う発想

20世紀前半のダダやマルセル・デュシャンは、既製品を選んで提示したり、言葉や偶然を制作へ取り入れたりすることで、美術作品の成立条件を問いかけていました。フルクサスの作家たちは、すでに存在する物を使うことから一歩進み、それをどう扱うかという行為や指示そのものを作品の中心へ移しました。

その結果、芸術の材料は絵具や石だけに限られなくなりました。コップ、水、紙、椅子、玩具、タイプされた文章など、誰でも手にできる物が作品の一部となります。デュシャンの既製品やケージの音楽は、フルクサスにとって異なる時代・分野にあった重要な先例であり、作家たちはそれらを同じ実験の場へ引き寄せていきました。(参照:ニューヨーク近代美術館|フルクサス出版物展)

ハプニングとの共通する出発点

アラン・カプローが1959年に発表した《18 Happenings in 6 Parts》は、複数の空間で観客に行為を促す構成によって、新しい舞台芸術と美術のあり方を示しました。ケージの授業にはカプローやブレヒト、ヒギンズらが接しており、ハプニングとフルクサスには、同時期の実験音楽を源流とする重なりがあります。

後に両者は異なる特徴を発達させます。ハプニングでは特定の会場や環境における体験の構成が重要になることが多く、フルクサスでは短い指示を別の場所でも実行できること、小さな出版物として流通できることが際立ちました。作品ごとに例外もあるため、歴史的な分類は、それぞれの実践を理解する手がかりとして扱うのが適切です。(参照:ニューヨーク近代美術館|ハプニングの解説)

1960〜1961年 — ニューヨークに生まれた実験の場所

オノ・ヨーコのロフトで起きたこと

オノ・ヨーコは1960年、ニューヨークのチェンバーズ・ストリートにあるロフトを借り、作曲家ラ・モンテ・ヤングとともに新しい音楽やパフォーマンスを紹介する場を開きました。1960年末から1961年にかけて、多様な芸術家が集まり、音、身体、物を使った実験的な公演を行います。従来の音楽ホールや画廊から離れた簡素な空間が、制作と発表の場として使われました。

同じ場所で実験を見る人と行う人が交差し、音楽家が視覚的な作品を発表し、美術家が時間を使った行為を試みる状況が生まれました。フルクサスが名乗られる前から、こうした交流は進んでいました。活動の歴史をたどると、のちに集団の名称にまとめられる人々が、まず小さな発表の場で出会っていたことが分かります。(参照:ニューヨーク近代美術館|チェンバーズ・ストリートの公演)

AGギャラリーとマチューナスの企画

リトアニア生まれのジョージ・マチューナスはデザインや建築に関心を持ち、1960年に友人とニューヨークでAGギャラリーを開きました。短期間で閉じたものの、若い実験音楽家や芸術家の出会いを支えた場所です。マチューナスは作品をまとめた雑誌や出版物を構想し、やがて「フルクサス」という名前を使い始めました。

マチューナスの役割は、作家として作品を作ることと、活動全体の仕組みを設計することが重なっていました。誰を招き、作品をどう印刷し、どの都市で公演し、どのように郵送するか。こうした編集・運営の仕事がフルクサスの展開に大きな影響を及ぼしました。(参照:ニューヨーク近代美術館|フルクサス・アーカイブ)

名前より先にあった人のつながり

フルクサスには設立年、最初の展覧会、会員規約を一つに定めにくい特徴があります。オノのロフトやAGギャラリーの活動、ヨーロッパでの実験音楽の公演、作曲家たちの書簡交換などが先にあり、マチューナスはそれらを出版と公演の名称として結びつけようとしました。

こうした成立過程は、フルクサスを厳密な会員組織として理解すると見失われやすい部分です。参加者には自分の活動を特定の運動のもとに固定することを好まない人もいました。運動名は、多様な制作を一度に見渡すための案内標識として役立ちますが、一人ひとりの作品の意図はそれぞれ検討する必要があります。(参照:ニューヨーク近代美術館|フルクサス・アーカイブの概要)

1962年 — ヴィースバーデンの公演が出発点になる

美術館で開かれた「最も新しい音楽」の祭典

1962年9月1日から23日まで、当時の西ドイツにあったヴィースバーデンの美術館で「フルクサス国際最新音楽祭」が開催されました。マチューナスが中心になって企画したこの催しは、数週にわたる公演を通じ、フルクサスという名称を公に示しました。会場は美術館でありながら、そこで起きていたことは従来の展覧会とも一般的な演奏会とも異なっていました。

出演者たちは音を出すために、楽器を予想外の方法で扱い、紙や身の回りの物を動かし、演奏と日常的な動作の境界を往復しました。観客は完成した曲を静かに聴く経験から引き離され、目の前で何が起きるかを見守る立場に置かれます。この公演がフルクサス誕生の象徴となったのは、新しい理念が具体的な出来事として目撃されたからです。(参照:ヴィースバーデン美術館|Fluxus at 50)

《Piano Activities》でピアノに何が起きたか

特に知られるのが、作曲家フィリップ・コーナーの《Piano Activities》を演奏した場面です。演奏者たちはピアノに通常とは異なる方法で働きかけ、物を打ち、こすり、扱い、結果として楽器が大きく損傷しました。楽器を壊したという事実は強烈ですが、作品の出発点は「ピアノを弾く」という行為を、鍵盤以外の部分も含めた音の活動へ広げる実験でした。

楽器を演奏する目的が、美しい旋律を生むことに限られないとしたとき、楽器は身体、音、物質がぶつかる場になります。この出来事の衝撃だけを切り出すと破壊の見世物に見えてしまいます。実験音楽が実際の物と行為へ向かう過程を踏まえることで、なぜこの公演が後の美術史で繰り返し言及されるのかが理解できます。(参照:MoMA Post|フルクサス公演のポスター史)

報道に残った反応と、その史料的な価値

当時のドイツのニュース映像には、1962年9月の公演の一部が記録されています。記録は、舞台上の出来事だけでなく、それを「最新の音楽」として受け止めようとする社会の驚きや戸惑いを知る手がかりになります。後世に再演される作品と違い、当時の会場に特有の緊張を伝えてくれる点で貴重です。

公演の歴史をたどる際には、作品を構想した作家、指示を書いた作曲家、実際に行為を担当した出演者を区別する必要があります。例えば《Piano Activities》はコーナーの作品であり、1962年の公演ではマチューナスやヒギンズ、ノウルズらが演奏に関わりました。複数の人が関与する構造そのものが、フルクサスの特徴を示しています。(参照:ゲティ研究所|1962年フルクサス公演のニュース映像)

1962〜1963年 — 公演がヨーロッパへ広がる

ポスターと手紙が結んだ複数の都市

1962年のヴィースバーデン公演の前後には、ヴッパータールやデュッセルドルフでも実験音楽の催しが行われました。のちにフルクサスと呼ばれる人々の活動は、アムステルダム、コペンハーゲン、パリ、ストックホルムなどへ広がります。各地の公演は、同じ舞台装置を運ぶ巡業というより、その都市の協力者が新しい演目を実行する機会でした。

公演のポスターには作家名、作品名、都市名が記され、誰がどこで活動したかを知る資料となっています。一つの作家集団が本拠地から作品を発信するというより、離れた場所で互いのアイデアを実行する仕組みが育ちました。国際性は後から宣伝文句として加わったものではなく、活動の最初期から組み込まれていました。(参照:MoMA Post|フルクサス公演のポスター史)

手紙で「公演」を組み立てる仕事

マチューナスは公演の準備や作品の収集を、手紙による細かなやりとりで進めました。誰の作品をどの順序で実行するのか、どの都市で公演を開くのか、楽譜に代わる指示をどう届けるのかといった問題を、遠く離れた仲間と調整しています。1962〜1963年にディック・ヒギンズへ送った書簡にも、こうした実務への強い関心が表れています。

簡潔な指示が書かれた作品なら、演奏者全員が同じ都市に集まらなくても、新しい場所で実行できます。複雑な楽器や巨大な設備を必要としないことは、理念だけでなく運営上の大きな利点でした。フルクサスにとって郵便や印刷物は、公演を支える裏方の道具であり、同時に作品の仕組みを形作る媒体でした。(参照:ゲティ研究所|マチューナスとヒギンズの書簡)

ベンジャミン・パターソン — 音楽を日常の音へ広げる

アメリカのコントラバス奏者ベンジャミン・パターソンは、ヨーロッパへ渡って実験音楽に参加し、フルクサスの重要な担い手になりました。《Paper Piece》(1960年)などの作品では、紙の扱い方や演奏者の行為が音の出来事になります。従来の楽器演奏に求められてきた正確さや旋律の枠を離れ、参加者の判断で音が生まれる方法を探りました。

MoMAの解説によれば、パターソンは人種差別のためにオーケストラで職を得ることができず、その経験を経て新しい表現へ向かいました。国際的な交流の場で活動した黒人の作曲家として、その存在はフルクサスの多様な背景を伝えています。自由な表現を掲げる運動が、同時代の社会にある不平等と無関係ではなかったことも見えてきます。(参照:ニューヨーク近代美術館|ベンジャミン・パターソン《Paper Piece》)

ジョージ・マチューナス — 出版と組織も芸術になる

「フルクサス」という言葉に込めた構想

マチューナスは当初「フルクサス」を、実験的な作品を紹介する雑誌の名前として構想しました。流れや変化を連想させるこの言葉は、その後、公演、印刷物、箱入りの作品、仲間の活動を示す名称へ広がっていきます。運動の中心人物ではあっても、参加者全員の表現を一つの理論に収めることには限界がありました。

マチューナスの関心は、作品を作ることと同じくらい、作品を安く作り、多くの人に渡すことにもありました。人の手に触れる小箱、持ち運べる印刷物、参加者が使える道具という構成には、美術を特別な建物や高価な所有物から解放しようとする意図が表れています。(参照:ニューヨーク近代美術館|フルクサス出版物展)

1963年の宣言が示した急進的な理想

1963年にマチューナスが作成した宣言には、制度化された芸術文化や商業主義を厳しく批判する言葉が並びます。芸術が専門家の独占物になり、高額の商品として扱われる状況を問い、人々の普段の生活や労働のなかに創造的な経験を取り戻そうとしました。美術作品を日常のなかへ近づけるという目標には、明確な社会的意図がありました。

宣言はフルクサス全員が一致して署名した共通綱領と考えるより、マチューナス自身の強い主張として読むのが正確です。参加者それぞれの態度には幅があり、政治的な見解も必ずしも一致していません。こうした差異まで含めて理解すると、フルクサスが議論と衝突を抱えた活発な交流の場だったことが分かります。(参照:ジョージ・マチューナス財団|1963年の宣言)

作家、デザイナー、編集者という複数の役割

マチューナスは文字組みやラベル、収納箱、宣伝用の紙面まで設計し、作品の見せ方を統一しようとしました。《Fluxus 1》や《Fluxkit》のような出版物は、作家ごとのアイデアを小さな物やカードとしてまとめ、手に取れる形へ変換しています。ここでは編集すること、包装すること、頒布方法を考えることが、創造的な仕事そのものになりました。

絵画であれば一枚の画面を見れば作者の仕事を想像できます。フルクサスの出版物では、アイデアの考案者、制作を手伝う人、箱を組み立てる人、販売する人の役割が重なります。個人の署名だけで作品を理解しにくくなる点も、当時の美術の常識を動かした要素でした。(参照:ニューヨーク近代美術館|《Fluxus 1》)

ジョージ・ブレヒト — 数行の言葉が作品になる

イベント・スコアとは何か

ジョージ・ブレヒトは1950年代末から、短い文章で出来事を記す「イベント・スコア」を考案しました。一般的な楽譜が音の高さや長さを示すのに対し、彼の指示はコップや水、光、移動などの日常的な現象を扱います。作品を受け取った人は、指示を読み、自分なりに実行することも、そこで想像を働かせることもできます。

同じ文章でも、どこで誰が実行するかによって現れる出来事は変わります。作家があらゆる動作を決め切るのではなく、実行者の判断や周囲の環境が作品に入り込むためです。短い言葉を作品として流通させる方法は、音楽、美術、文学の区別をゆるやかにし、遠く離れた人も参加できる表現を可能にしました。(参照:ゲティ研究所|ブレヒトとイベント・スコア)

《Drip Music》 — 水の一滴を聴く

ブレヒトの《Drip Music(Drip Event)》は1959〜1962年に形を整えられた作品です。水が滴るという単純な出来事を取り上げ、その状況を作品として提示しました。水の音には、作曲家が作った旋律のような起伏がありません。それでも聴き手が注意を向けると、滴る間隔、場所、容器の響き、周囲の静けさが、これまで見過ごしていた時間の感触を生み出します。

大きな舞台や高度な演奏技術は必要ありません。ありふれた現象を一つの作品として受け止めるとき、芸術は特別な出来事を増やすことより、世界への注意の向け方を変えることに近づきます。フルクサスにおける日常性を、最も小さな規模で理解できる例の一つです。(参照:ゲティ研究所|《Drip Music》原資料)

《Water Yam》 — 小さな箱に収められた作品群

1963年に刊行されたブレヒトの《Water Yam》は、さまざまな大きさのカードに印刷したイベント・スコアを箱へ収めた作品です。カードは決まった順番でページをめくらなければならない本とは異なり、自由に取り出し、読む順序を変えることができます。箱の中には、一つの完成した物体より、繰り返し実行できる出来事の可能性が収められています。

現存する版や個体にはカードの枚数や箱の仕様に違いがあり、作家とマチューナスが協力して制作・頒布した過程を物語っています。作品のオリジナルが一つしか存在しないという発想から離れ、同じ指示が複数の手に渡ることそのものを積極的に受け入れた点に、フルクサスの出版活動の特徴があります。(参照:ゲティ研究所|《Water Yam》原資料)

指示を読む人が作品を動かす

言葉が作品になると、作者は何を決めるのか

絵画では作家が絵具の位置を決め、完成した画面を観客に示します。イベント・スコアでは、作家が決めるのは出来事を始めるための条件です。実行に必要な動作が数行しか示されない場合、細部は受け取った人に委ねられます。作品が始まる場所や時刻、使う物、その場にいる人の違いが、結果に直接影響します。

ここでの作者性は消えるわけではありません。何に注意を向け、どの部分を指定し、どの部分を開いたままにするかという構成の判断が残るからです。同時に、作品は指示を受け取る人が関わることで現実の出来事となります。作家の設計と参加者の経験が重なるところに、この表現の新しさがあります。(参照:ゲティ研究所|ブレヒトとイベント・スコア)

作品は必ず実行しなければならないのか

イベント・スコアは実際に行うことができますが、読むだけで作品に接する場合もあります。数行の文章から水滴の音や物の動きを想像し、日常の風景を違うものとして捉える経験も、その作品との接触の一部です。MoMAはフルクサスの指示作品について、実行できると同時に視覚的な作品として展示・鑑賞されてきたことを紹介しています。

実行したときに初めて作品が成立する場合と、指示の紙そのものにも価値がある場合を、作品ごとに見る必要があります。フルクサスは、読み物、演奏の手順、持ち物、出来事の記録が互いに重なり合う表現の場を開きました。(参照:ニューヨーク近代美術館|東京前衛芸術とフルクサス)

繰り返すと同じ作品になるのか

同じ指示を違う人が実行すると、動作の速さも物の扱い方も変わります。ブレヒトのような作家は、そうした違いを作品が広がる余地として認めました。厳密な再現が目的の演奏とは異なる考え方が生まれ、作者の立ち会わない場所でも作品が上演されるようになります。

この仕組みは、作品が物として保存される方法にも変化をもたらしました。印刷された指示カードは保存でき、実際の出来事はそのとき限りで終わります。美術館が後から作品を紹介するとき、カード、写真、映像、再演という複数の資料を組み合わせる必要が生じるのは、この二重の性質によるものです。(参照:ゲティ研究所|《Water Yam》原資料)

1963〜1966年 — 小さな箱が世界を移動する

《Fluxus 1》 — 雑誌を超えた共同作品

マチューナスが構想した《Fluxus 1》は、複数の作家による印刷物や小さな物を、封筒や紙片などとともにまとめた共同出版物です。1962年の時点で計画されていましたが、実際に刊行されたのは1964〜1965年頃でした。ページを順番に読む雑誌の枠を超え、作品の一部を取り出したり、手で扱ったりできる構成になっています。

ここでは作品が多くの作家によって生まれるだけでなく、それを一つの形にまとめる編集も意味を持ちます。異なる国や分野の制作が箱の内部で隣り合い、持ち主は作品同士の関係を自分の手で発見できます。出版物そのものが、小さな展覧会のように機能したのです。(参照:ニューヨーク近代美術館|《Fluxus 1》)

《Fluxkit》 — 触れて動かす美術の道具箱

《Fluxkit》は1964年に予告され、1960年代半ばにかけて制作された、持ち運べる箱型の共同作品です。中には紙片や指示カード、音を出す小さな装置、触れることで意味が生まれる物などが収められました。アリソン・ノウルズの《Bean Rolls》、塩見允枝子の《Endless Box》、靉嘔の《Finger Box》なども、その内容を理解する手がかりになります。

鑑賞者は箱を開き、中の物を見たり触ったりしながら作品に接します。展示ケース越しに遠くから見る美術とは異なる経験です。使われる物自体は小さくても、それをどう扱うかという手順と期待が加わることで、箱の中に多様な出来事が生まれます。(参照:ニューヨーク近代美術館|《Fluxkit》)

安価な複製物を広めるという実験

フルクサスの出版物は、特別な一点物を高値で売る仕組みに距離を置き、同じ作品を複数作って流通させることを重視しました。郵送しやすく、身近な場所に置ける大きさで作れば、必ずしも画廊や美術館を訪れなくても作品に出会えます。誰でも扱える物へと芸術を開くことが、出版方法にまで反映されました。

理想と現実には隔たりもあり、MoMAの調査によれば、制作は不規則で当時の販売数は多くありませんでした。それでも作品が作家間を行き来し、後の世代へ伝わった影響は大きなものです。美術の流通方法そのものを表現の一部として考えたことに、この実験の長期的な価値があります。(参照:ニューヨーク近代美術館|フルクサス出版物展)

オノ・ヨーコ — 参加者が作品の意味を変える

言葉で始まる作品と《グレープフルーツ》

オノ・ヨーコは、短い文章によって視覚や身体の行為を促す作品を1960年代初頭から制作しました。1964年には指示作品を集めた書物《グレープフルーツ》を刊行します。指示に従えば現実の出来事になるものもあれば、読む人の想像の中で広がるものもあります。作品は物として完成させること以上に、受け手が何を思い描くかに開かれていました。

こうした仕事はフルクサスの指示作品と深く響き合いますが、オノの活動は独自の経緯を持ち、名前が共有される以前から進んでいました。作品を一つの運動の代表例としてだけ読むより、オノ自身が築いてきた詩、音、視覚、観客との関係の探究として捉えることが重要です。(参照:ニューヨーク近代美術館|オノ・ヨーコ初期作品)

《Cut Piece》 — 観客が衣服を切り取る

1964年に京都で初演された《Cut Piece》では、オノが舞台に座り、観客が順番に近づいて鋏で衣服の一部を切り取ることが認められました。切り取る人のためらい、大胆さ、他人の身体との距離の取り方によって、会場の空気は変化します。オノ自身はほとんど動かず、観客の振る舞いが作品の進行を決める重要な要素になりました。

ここでの参加は気軽な遊びとしてだけ理解できません。衣服を切るという行為には、他人の身体へ近づくことへの緊張、許可と責任、見ることと行うことの差が含まれます。作品が置いた条件によって、観客は自分の行動を通して身体や社会の関係を露わにしていきます。(参照:ニューヨーク近代美術館|オノ・ヨーコ《Cut Piece》)

自由な参加と、そこに生まれる緊張

《Cut Piece》は1965年にはニューヨークでも上演されました。同じ指示を使っても、場所や参加者が変われば出来事の感触は変わります。MoMAに残るオノ自身の証言では、参加者が切り取る布の大きさ、次の人が動き出すまでの沈黙など、演奏のような時間的な感覚にも言及しています。

作品の見方は一つではありません。ジェンダー、他者への暴力、贈与、平和、観客の責任といった問題が重なり、受け取る人によって解釈が広がります。フルクサスに近い実験が、日常の小さな動作を扱いながら、同時に重い倫理的な問いを生み得ることを示す作品です。(参照:ニューヨーク近代美術館|オノ・ヨーコ《Cut Piece》)

ナム・ジュン・パイク — 楽器からテレビへ

音楽家としての出発とケージとの出会い

ナム・ジュン・パイクは韓国で生まれ、日本で音楽を学び、その後ヨーロッパで実験音楽に取り組みました。1958年にジョン・ケージの仕事に触れた経験は、音楽の枠を大きく広げる契機となりました。パイクは演奏に予想外の身体的な動作や物を持ち込み、音楽と演劇の境界を揺さぶる行為を試みました。

例えば1960年の《Étude for Pianoforte》では、演奏の途中で客席へ向かい、ケージのネクタイを切るという場面がありました。音楽の上演が、会場にいる人々の身体と関係する出来事へ変わります。パイクの実践は、フルクサスが音楽から出発しながら視覚美術や行為へと広がった事情を理解するうえで重要です。(参照:ニューヨーク近代美術館|ナム・ジュン・パイク)

1963年、テレビそのものが作品になる

パイクは1963年、ヴッパータールのギャラリー・パルナスで《Exposition of Music — Electronic Television》を開催しました。そこでは改造したテレビ受像機などが作品として示され、映像機器を通常の放送を受け取る道具から、画面そのものを変形させる実験の素材へ移しました。音の実験に用いてきた発想を、電子的な画像へ広げたのです。

《Zen for TV》では、テレビ画面の映像が一本の線のように縮められます。日々同じように番組を映す装置が、見る行為そのものへ注意を向けさせる物に変わりました。この仕事は後のビデオ・アートへつながり、フルクサスの実験が新しい技術と接触した重要な例となります。(参照:ニューヨーク近代美術館|《Zen for TV》)

フルクサスとの関係と独自の歩み

パイクはマチューナスが組織する公演や国際的な交流に加わりました。1964年にニューヨークへ移ってからは、チェリストのシャーロット・ムーアマンらとの協働を進め、身体、演奏、電子映像の関係をさらに発展させます。初期の行為にはフルクサスと通じるユーモアや意外性があり、映像作品には電子装置そのものを探究する独自の方向が見られます。

パイクをフルクサスの一員として理解することは大切ですが、その活動のすべてを同じ運動の例に収めると、後のビデオ・アートの革新が見えにくくなります。フルクサスは複数の表現が交差する場であり、そこから先へ進む作家の仕事も生み出しました。(参照:ニューヨーク近代美術館|ナム・ジュン・パイク)

日本と世界を結んだ作家たち

東京の草月アートセンターと実験音楽

1960年代初頭の東京では、草月アートセンターが新しい音楽、映像、舞台表現を紹介する場として機能しました。オノ・ヨーコ、一柳慧、刀根康尚、塩見允枝子、久保田成子らに関わる活動が、海外の実験音楽家や美術家の仕事と接触します。1962年には東京で海外の実験的な図形楽譜を紹介する展覧会も開かれました。

ここには欧米で生まれた表現が一方向に輸入されたという以上の交流がありました。日本の作家たちも自ら作品を考案し、公演、指示、出版の形で国際的なネットワークへ参加しています。日本の戦後前衛芸術の活発な実験とフルクサスが同時期に関わり合ったことは、この運動の重要な特徴です。(参照:ニューヨーク近代美術館|東京前衛芸術とフルクサス)

塩見允枝子《Spatial Poem》 — 郵便でつくる作品

塩見允枝子は1965年から《Spatial Poem》と呼ぶ一連の作品を始めました。世界のさまざまな場所に暮らす協力者へ短い行為の指示を送り、返ってきた報告を作品として集める方法です。一人の作家が特定の会場に集めた観客へ指示するのとは違い、参加者はそれぞれ別の土地や時間の中で動きます。

作品の姿は、郵便で届いた複数の返答をまとめることで現れます。1965年の《Spatial Poem No. 1》には地図やカードを使う構成があり、離れた場所で起きた出来事を一つの作品として見ることができます。国際的なネットワークが単なる人脈ではなく、作品の素材になっている点が新しいのです。(参照:MoMA Post|塩見允枝子《Spatial Poems》)

靉嘔、斎藤陽子、ほかの参加者が広げた表現

靉嘔は色彩や触覚の実験を行い、《Fluxkit》に含まれた《Finger Box》のような作品では、箱の内部を指で探る行為を取り入れました。斎藤陽子(Takako Saito)は、通常の規則だけでは進められないチェスの作品などを制作し、遊びの手順を感覚的な経験へ変えていきました。作品の見かけが小さくても、使う身体や知覚の範囲を広げる働きを持ちます。

こうした作品は、日本の作家が国際的な前衛芸術のなかで独自の発想を実現した例です。フルクサスの国際性を説明するなら、欧米の中心人物に日本の名前を添えるだけでなく、各作家がどのような方法を作品にもたらしたかを具体的に見ることが必要です。(参照:ニューヨーク近代美術館|斎藤陽子(Takako Saito)作品一覧)

アリソン・ノウルズ — 食べる、集める、繰り返す

台所や食卓が作品の場になる

アリソン・ノウルズは、フルクサスの公演と出版の両方で重要な役割を果たした作家です。日常の食事や身近な物に注意を向け、特別な舞台装置を使わずに行為を作品として捉える方法を発展させました。食べる、食材を扱う、同じものを繰り返し使うといった動作は、普段なら芸術と結びつけて考えにくいものです。

それでも、行為の手順を定めて他人へ共有すると、ふつうの生活のなかに観察の時間が生まれます。ノウルズの実践では、作品の完成と生活の継続が厳しく分かれません。繰り返し行われる簡単な動作から、新しい感覚や人間関係を見出すことが制作になります。(参照:ニューヨーク近代美術館|Thing/Thought展)

《The Identical Lunch》 — 同じ昼食を繰り返す

1960年代後半、ノウルズは近所の食堂で繰り返し同じ昼食を取っていました。この習慣に着目した作曲家フィリップ・コーナーの提案をきっかけに、ノウルズは同じ献立を食べる行為を作品へと発展させます。自分だけでなく友人にも同じ食事を試してもらい、それぞれの経験を書き残すよう促しました。

同じものを食べるという簡単な条件があっても、場所、時間、気分、食べる相手は毎回異なります。作品は日々の小さな変化を観察する仕組みになり、後には写真や印刷物、1971年の記録集へと発展しました。1960年代末に始まったこの仕事は、フルクサスが日常生活の繰り返しに見出した豊かさを示しています。(参照:ゲティ研究所|ノウルズ《The Identical Lunch》研究)

誰でも参加できることの意味

ノウルズの仕事では、見事に演技する能力や珍しい物を所有することが、作品へ関わるための条件になりません。簡単な手順を理解し、自分の普段の動作へ置き換えることで、別の人もその実験に参加できます。演技を見る観客から、同じ行為を自分で試す参加者へと、人の位置が変わります。

それは誰がやっても同じ結果になるという意味ではありません。毎回の違いを記録し、比較することで、普段の暮らしの細部を見直すことができます。大きな会場で行われる前衛芸術とは異なる小さな規模に、フルクサスの重要な側面が現れています。(参照:ニューヨーク近代美術館|アリソン・ノウルズ《The Identical Lunch》)

久保田成子と女性作家たち — 身体を使うことの意味

日本からニューヨークへ移った久保田成子

久保田成子は1960年代半ばにニューヨークへ移り、フルクサスの公演や出版に積極的に関わりました。マチューナスの活動を補佐し、手紙や作品の流通、仲間たちの共同作業にも参加しています。のちに映像を使った彫刻的な制作を発展させる久保田にとって、フルクサスは新しい表現と人間関係の交差点でした。

実際の活動は、舞台で行為を見せることだけに限られません。小さな作品を作り、会合を支え、イベントの準備を進める仕事も含まれました。男性作家の名前だけが残りやすい前衛芸術の歴史を読み直すうえでも、こうした制作と運営の両面を見ることには意味があります。(参照:ニューヨーク近代美術館|久保田成子の作品と活動)

1965年《Vagina Painting》と絵画の身体

久保田は1965年7月、ニューヨークのフルクサスの公演で《Vagina Painting》を行いました。身体に取り付けた筆で床に置かれた紙へ描く行為は、抽象表現主義の身振りや、女性の身体を用いた美術表現の歴史と結びつけて論じられてきました。描くことを身体の動きとして直接提示し、絵画の作者と身体の関係を考えさせる作品です。

この作品を単純に「女性による抗議」と定めると、久保田自身の複雑な態度が失われます。本人の後年の証言には、彫刻への強い関心や、消えてしまう一時的な公演への戸惑いも表れています。作品の歴史的評価と、作家自身がそのとき何を考えていたかを併せて扱うことで、解釈の厚みが生まれます。(参照:ニューヨーク近代美術館|久保田成子研究)

参加の平等を掲げた場の内部にもあった差

フルクサスは専門家や権威に縛られない芸術を志向しましたが、その活動の内部には、誰が公演を企画し、どの作品を出版し、何を記録に残すかという判断がありました。女性作家たちは独自の表現を発展させると同時に、企画・出版・運営の面でも大きな役割を担いました。

久保田の証言を読むと、作品の一時性をめぐる考え方さえ参加者の間で異なっていたことが分かります。運動の理想を尊重しながら、個々の作家の経験を具体的にたどることが、フルクサスを単一の理念にまとめすぎない理解につながります。(参照:MoMA Post|久保田成子インタビュー)

詩、演劇、遊びへ — 分野の間で作品を作る

ディック・ヒギンズの「インターメディア」

ディック・ヒギンズは、公演や出版を通じてフルクサスに関わり、1966年には「インターメディア」という考え方を論じました。詩、音楽、視覚美術など、既存のジャンルの間にある表現を積極的に捉えようとするものです。ある作品が詩であると同時に図像としても機能し、演奏の指示であると同時に文章作品でもある状況を説明する助けになります。

分野を横断することは、異なる技法を寄せ集めることだけを意味しません。ある表現が従来の分類の中にきれいに収まらないとき、新しい見方そのものが必要になります。ヒギンズの論考は、1960年代の実験を一つの造形様式の誕生とは異なる角度から説明した重要な資料です。(参照:ディック・ヒギンズ公式アーカイブ|Intermedia)

小さな出版所から新しい作品を届ける

ヒギンズは1960年代にサムシング・エルス・プレスを設立し、実験的な作品や文章を出版しました。1966年にはニューヨークでギャラリーも開き、詩人や作曲家が作った物、ジャンルの中間に位置する作品などを紹介しています。実験的な芸術を広めるには、作品を発表できる独自の媒体や会場が欠かせませんでした。

マチューナスの出版事業とヒギンズの活動には、似た関心と異なる運営の仕方が見られます。出版を美術の周辺的な活動として扱わず、作品を他人の手へ渡し、その後の議論を育てる重要な実践として捉える点が共通しています。(参照:ディック・ヒギンズ公式アーカイブ|Something Else Gallery)

ゲームの規則を変えると作品になる

フルクサスの小箱には、パズルやチェスなど、遊びの形を借りた作品も数多くあります。通常のゲームは規則に従って勝敗を決めます。フルクサスの作家たちは、道具の感触や使う手順を変えることで、何を手がかりに動くかを考え直させました。たとえば斎藤陽子(サイトウ・タカコ)のチェス作品は、駒を見分ける感覚や通常の対局の作法を揺さぶります。

参加する人は、与えられた規則を理解しながら、思いがけない不確実さに出会います。遊びが作品になるのは、楽しいからという理由だけではありません。ものの区別の仕方、行為を選ぶ判断、他人との関係が、普段とは違った角度から見えてくるからです。(参照:ニューヨーク近代美術館|斎藤陽子(Takako Saito)作品一覧)

1965〜1968年 — 短い映画と電子映像への展開

《Fluxfilms》 — 数秒の出来事を映画にする

1960年代半ば、フルクサスの作家たちは短編映画にも取り組みました。マチューナスが編集した《Fluxfilms》には、まばたき、一本の線、数字、顔の表情、フィルムそのものの動きなどを扱う作品が含まれています。複雑な物語や俳優の演技を中心にした映画とは異なり、ひとつの現象を時間の中で見つめる方法が目立ちます。

映画の長さを極端に短くしたり、繰り返しやほとんど変化しない画面を使ったりすると、鑑賞者は映画の中で何を見るべきかを考えます。日常の行為に注意を向けるイベント・スコアの発想が、カメラとフィルムに置き換えられた例と見ることができます。(参照:ニューヨーク近代美術館|《Fluxfilms》所蔵一覧)

空白のフィルムと、見る時間の経験

ナム・ジュン・パイクの《Zen for Film》は、映写される光の中でフィルム表面のほこりや傷が見えるという、通常の映画では取り除かれるものへ注意を向ける作品です。映写装置があること、フィルムという物質が動いていること、観客が時間を過ごしていることが、画面の出来事になります。

映画は物語や映像の内容を伝えるものだと考えられがちです。この作品では、画像がないように見える状態そのものが問いになります。ケージの音楽で沈黙や周囲の音が重要になったように、フルクサスの映画でも、普段は意識しない上映の条件が作品の一部になりました。(参照:武蔵野美術大学|フルクサスのフィルム集)

塩見、オノ、フォステルらの短編

塩見允枝子の《Disappearing Music for Face》は、顔の表情が変化する一瞬を引き延ばす映像として知られています。オノ・ヨーコの《Eyeblink》はまばたきという小さな動作を扱い、ヴォルフ・フォステルはテレビ画面の乱れを映像へ取り込みました。これらは扱う主題も撮影方法も異なりますが、普段は見過ごしている視覚現象を作品へ変える点で響き合います。

映像を使ったフルクサスの仕事は、映画と電子映像の変化が同時に進んでいた1960年代の状況を映しています。短編フィルムの集成を調べると、作品をまとめて上映・頒布するという出版的な発想も引き続き機能していたことが分かります。(参照:ニューヨーク近代美術館|《Fluxfilms》所蔵一覧)

芸術と社会 — 反商業主義、協同、現実の問題

高価な一点物を中心とする美術への問い

1960年代のアメリカ美術では、ポップアートやミニマリズムなど、多様な作品が画廊や美術館で議論されていました。フルクサスはその同時代に、完成した一点物を売買する仕組みそのものへ目を向けました。小さな出版物や安価な複製品を広める活動には、美術への接し方を変えたいという社会的な目標が込められていました。

マチューナスの宣言には、芸術を専門家の特権や商品にする文化への強い批判が見られます。現実には出版物の製作費や販売の必要性もあり、理念と経済活動は常に簡単には一致しませんでした。その緊張を含めて見ることで、フルクサスが美術の制度にどのような問題を投げかけていたかが伝わります。(参照:ジョージ・マチューナス財団|1963年の宣言)

ニューヨークの共同住宅計画へ

マチューナスは1960年代後半、ニューヨークの工業地域で、芸術家が制作と生活を行える共同住宅・仕事場の仕組みを整えようとしました。後にソーホーと呼ばれる地域で進められたフラックスハウスの事業では、古い建物を改修し、芸術家が共有できる場所を確保することが目指されました。

作品を特別な会場から生活の中へ近づけるという理念は、ここでは建築や不動産、法制度との交渉にまで広がります。計画には資金や行政上の困難がつきまとい、理想どおりに進んだわけではありません。創造的な活動が社会の具体的な条件と関わる実践だったことを示しています。(参照:ジョージ・マチューナス財団|Fluxhouse共同事業)

政治的な意見が一つだったわけではない

マチューナスは、芸術の商業化を批判し、生活と創造的な実践を一体化させようとしました。他の参加者は、音や時間の知覚、遊び、詩的な想像力、身体の経験など、異なる関心から活動しています。運動の内部に複数の考え方が存在したことは、国際的な交流が豊かだった理由の一つでもあります。

フルクサスを一つの政治運動として説明し切ると、個々の作家の制作上の発見を取りこぼしてしまいます。社会の仕組みを変えようとする試みと、小さな出来事の面白さを見出す実験の両方が存在し、その間で作品はさまざまな方向へ展開しました。(参照:ニューヨーク近代美術館|Charting Fluxus展)

美術史のなかのフルクサス — 何を変え、どこへ続いたか

ハプニングとフルクサスをどう見分けるか

ハプニングとフルクサスには、観客の参加、時間の使い方、実験音楽の影響など、多くの接点があります。ハプニングはカプローの《18 Happenings in 6 Parts》のように、ある場所で進む出来事の構成が中心になる例が目立ちます。フルクサスでは、数行の指示や小さな物が、別の人によって別の場所で実行できることに大きな可能性が見出されました。

両者の区別は、作品を見るための便宜的なものです。フルクサスの公演にも大がかりな出来事があり、ハプニングにも短い指示や簡素な行為がありました。共通点を認めたうえで、フルクサスの出版物、郵便、再実行できるスコアを見れば、この運動ならではの広がりが理解できます。(参照:ニューヨーク近代美術館|ハプニングの解説)

コンセプチュアル・アート、ビデオ・アートとの接続

短い指示や言葉を作品として扱う実践は、のちのコンセプチュアル・アートを理解する際にも重要な先例になります。作家がすべてを目の前で作らなくても、作品の条件や考え方が提示されることで制作が成立し得るからです。ブレヒトやオノの指示作品は、言葉と実際の行為を結ぶ多様な可能性を示しました。

同時に、パイクのテレビ実験や《Fluxfilms》は、電子映像や実験映画が美術に取り込まれる過程ともつながります。ここで大切なのは、後の美術運動がフルクサスから一方向に生まれたと単純化しないことです。複数の分野で並行して進む実験の間に、共通する問いと交流がありました。(参照:ニューヨーク近代美術館|フルクサス用語解説)

フルクサスを知ったあと、日常の何が変わるのか

フルクサスの歴史を振り返ると、作品には必ずしも壮大な主題や高価な材料が必要ではないことが分かります。水が落ちる音、一枚の紙、食事、短い指示、郵便で届く返事といった小さな物や出来事が、作家の考えと受け手の注意によって作品として現れました。生活の中にあるものを見直すこと自体が、創造的な経験となったのです。

1962年の公演から始まり、出版、映画、国際的な協働、共同住宅の実験へと広がったフルクサスは、美術の材料や発表の場だけでなく、作品に関わる人の役割も変えました。絵画や彫刻の歴史と並行して、行為、言葉、時間、人との関係を通じた芸術が広がっていく。その変化を理解するための重要な一章が、フルクサスなのです。(参照:ニューヨーク近代美術館|Thing/Thought展)

年表 — 1958〜1978年

フルクサスの活動を理解するため、成立以前の実験から1970年代までを一続きの流れとして整理します。

  • 1958〜1959|ケージのニュースクールの実験音楽の授業で、ブレヒトやヒギンズらが新しい表現を探る。
  • 1960|オノ・ヨーコがニューヨークのチェンバーズ・ストリートにロフトを借りる。
  • 1960〜1961|オノとラ・モンテ・ヤングらによるロフト公演が続く。
  • 1961|マチューナスがフルクサスの出版計画を進め、ヨーロッパへ移る。
  • 1962年6月|ヴッパータール、デュッセルドルフで実験音楽の公演が行われる。
  • 1962年9月|ヴィースバーデンでフルクサスの名を掲げた国際最新音楽祭が開催される。
  • 1962〜1963|ヨーロッパ各地で公演や交流が広がる。
  • 1963|ブレヒト《Water Yam》が刊行され、マチューナスが宣言を作成する。
  • 1963|パイクが《Exposition of Music — Electronic Television》を開催する。
  • 1964|オノ・ヨーコが《Cut Piece》を京都で初演し、《グレープフルーツ》を刊行する。
  • 1964〜1965|共同出版物《Fluxus 1》が刊行される。
  • 1965|塩見允枝子が《Spatial Poem》を開始し、久保田成子が《Vagina Painting》を行う。
  • 1965〜1966|《Fluxkit》など箱入りの共同作品が流通する。
  • 1966|ヒギンズがインターメディアを論じ、短編映画集《Fluxfilms》が編まれる。
  • 1967頃|ノウルズが《The Identical Lunch》を発展させ、マチューナスがフラックスハウス計画を進める。
  • 1968〜1970|出版、公演、映画、共同事業が継続し、活動が多方向へ広がる。
  • 1971以降|出版や関連する作品制作は継続する。1978年にマチューナスが死去する。

参考資料・出典

本記事は、美術館・研究機関による作品解説、当時の公演に関するアーカイブ資料、作家の証言を参照し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。作品の解釈については複数の見方が存在するため、資料に基づく事実と解説上の考察を区別しています。

資料確認日:2026年10月14日 / ART LIBRARY