1920–1935
写真と近代美術
ヨーロッパとアメリカで広がった新しい視覚表現
1920年代から1930年代前半にかけて、写真は現実を記録する手段として発展すると同時に、美術の新しい表現方法として大きく広がりました。高い位置から見下ろす街並み、拡大された植物の細部、光を直接感光紙へ写した抽象的な画像、別々の写真を組み合わせた人物像などが現れます。芸術家たちはカメラや暗室の技術を使い、私たちが日常で見慣れた世界を別の姿として見せようとしました。
この変化の背景には、第一次世界大戦後の都市化、工業技術の発展、カメラの小型化、新聞・雑誌の普及がありました。写真は美術館のための作品だけでなく、建築の記録、製品の広告、政治的なポスター、街の報道に使われます。撮影した像が大量に印刷されるようになると、写真家、編集者、デザイナーの仕事が結びつき、社会で画像が果たす役割も大きくなっていきました。
ヨーロッパではドイツの「新しい視覚」と新即物主義、ソ連の構成主義、パリのシュルレアリスムがそれぞれ異なる写真表現を展開しました。アメリカではウェストンやカニンガム、アダムズらが鮮明な撮影と印画を追究し、アボットやエヴァンズは変わりゆく都市や社会を記録します。1929年の国際展「フィルム・ウント・フォト」は、これらの異なる方向が同じ時代に交わっていたことを示す重要な出来事でした。
この記事では、写真の技術と社会的な背景を説明したうえで、モホリ=ナジのフォトグラム、ロトチェンコの大胆な視点、リシツキーの合成写真、ザンダーの肖像、マン・レイやアンリの実験、ウェストンの静物、ラングの記録写真まで、具体的な作品を読み解きます。1920〜35年は、写真が何を写すかに加えて、どう見せ、誰に届けるかという問題が、美術の中心へ進んだ時代でした。
CONTENTS
- 第一次世界大戦後、写真はなぜ新しく見え始めたのか
- カメラと印刷技術が広げた表現の条件
- ドイツの「新しい視覚」――見慣れた世界を撮り直す
- モホリ=ナジ――光そのものを使って画像を作る
- バウハウスの写真を形作った女性たち
- ソ連の構成主義――写真が社会へ働きかける
- フォトモンタージュ――別々の写真から一つの意味を作る
- ドイツの新即物主義――細部を冷静に写し取る
- アウグスト・ザンダー――写真で社会の姿を集める
- ブロスフェルト――植物の接写が自然の形を発見する
- パリの実験写真――マン・レイとシュルレアリスム
- パリの街と身体――異なる写真家が見た現実
- ジェルメーヌ・クルル――工業都市と雑誌写真をつなぐ
- 1929年の国際展――写真が共通の美術言語になる
- アメリカのストレート・フォトグラフィ――明晰な像の追究
- グループf/64――カリフォルニアの近代写真
- 都市の記録――アボットとエヴァンズが見た現代社会
- 世界恐慌と写真――1935年以後へ続く転換
- 1920–1935年の年表
- まとめ――写真が変えた美術と世界の見え方
- 参考資料・出典
第一次世界大戦後、写真はなぜ新しく見え始めたのか
記録する写真から、見方を変える写真へ
1920年代のヨーロッパとアメリカで、写真は新しい美術表現として急速に存在感を強めました。高い場所から見下ろす都市、極端に近づいて撮った植物、光だけで作った形、別々の写真を組み合わせた人物像など、それまで見慣れなかった画面が登場します。写真を見れば現実の様子が分かるという期待は維持されながら、写真によって現実の見え方を変える可能性も追究されました。
第一次世界大戦を経て、飛行機、自動車、工場、広告、映画が暮らしの中で目立つようになります。人々が経験する速度や視点が変わり、芸術家もその新しい生活を表現する方法を求めました。メトロポリタン美術館は、この時期を写真が同時代の社会意識を形作る重要な媒体へ成長した時代として捉えています。写真は絵画とは異なる仕組みを持つからこそ、独自の美術になり得ると考えられるようになったのです。(参照:メトロポリタン美術館|新しい視覚の写真史)
1920年代以前にはどのような写真があったのか
19世紀から写真は肖像、風景、科学、報道など広い用途に使われてきました。19世紀末から20世紀初頭の芸術写真では、ぼかした輪郭、柔らかな明暗、絵画を思わせる印画技法によって、美術としての価値を示そうとする表現が支持されました。こうした傾向はピクトリアリズムと呼ばれています。写真家は撮影の前後に手を加え、画面の雰囲気を細かく調整していました。
20世紀に入ると、アルフレッド・スティーグリッツやポール・ストランドらが、対象の形と写真の精度を生かす撮影を発展させます。新しい視覚表現には、先行する写真家たちの研究が深く関わっています。先行する写真家の試行錯誤を受け継ぎつつ、機械の特性、写真にしかできない視覚効果、印刷物を通した普及が同時に重視されたことが、1920年代の特徴でした。(参照:メトロポリタン美術館|戦間期の写真研究(学術誌))
写真が絵画やデザインと交わった時代
第一次世界大戦後の前衛美術では、絵画、彫刻、広告、映画、建築を横断する制作が盛んでした。ダダの芸術家は写真を切り貼りして政治風刺を作り、バウハウスでは光学実験と造形教育が結びつき、ソ連の構成主義者は写真を革命後の社会へ向けた出版物に利用します。撮影した像を一枚の額に収める方法と、複数の像を組み合わせて社会へ届ける方法が並行して展開しました。
これらの表現を美術史の運動名だけで分けると、写真家が異なる分野を移動しながら働いていた実態が見えにくくなります。写真は工房で実験する対象であり、新聞のために撮る仕事でもあり、都市や人間を長期的に記録する事業でもありました。本記事では各地の作品を具体的に見ながら、写真の表現方法と社会における役割の両方が変わった15年間を追います。(参照:MoMA|写真・映画・写真集が形成した新しい視覚)
カメラと印刷技術が広げた表現の条件
撮影位置を自由にする小型カメラ
1920年代には小型カメラの実用化が進み、都市で素早く撮影する方法が広がりました。35ミリ判フィルムを使うライカは1925年に発売され、従来の大きなカメラとは異なる機動性を示します。重い三脚を据えることが多かった写真家にも、歩きながら被写体を探し、偶然現れた瞬間に反応する新しい選択肢が生まれました。
すべての写真家がすぐに小型カメラへ移ったわけではなく、大型カメラの精密な表現も引き続き重要でした。実際、同時期の写真には手持ち撮影による大胆な角度と、三脚で時間をかけて構成した静物が共存しています。機材の選択は写真家が何を見せたいかと密接に関わり、都市の動きに応える方法から極めて細かな質感を写し取る方法まで、表現の幅を広げました。(参照:メトロポリタン美術館|新しい視覚の写真史)
写真が新聞や雑誌の中心へ進む
写真の影響を大きくしたのは撮影装置の発展に加えて印刷技術でした。新聞や大衆雑誌が写真を大きく掲載し、スポーツ、政治、都市生活、映画、ファッションの情報を画像で伝えるようになります。ドイツの『ベルリン画報』は、その代表例です。MoMAの資料によれば、1920年には発行部数が100万部を超える規模に達し、写真を中心とした誌面が大衆に浸透していました。
雑誌のページでは写真一枚の意味が、隣に置かれた写真や見出し、説明文によって変わります。編集者は複数の画像の順番、余白、拡大率を決め、読者がどこから見始め、何を理解するかを組み立てました。写真家にとって重要になったのは、撮影した原版の出来栄えと、その像がどのように複製され社会へ広がるかという二つの問題でした。(参照:MoMA|『ベルリン画報』と写真報道)
写真家、編集者、印刷所による共同制作
写真が雑誌、ポスター、展覧会の図版として使われると、写真家以外の仕事も作品の意味を左右します。編集者が場面を選び、デザイナーが文字の大きさや写真の配置を調整し、印刷所が写真の階調を紙へ再現しました。写真は一人の作家が完成させる作品であると同時に、何人もの人々が関わる視覚的な情報媒体として普及していきました。
ソ連の構成主義やバウハウスの印刷物では、斜めに配置した写真、大きな文字、強い明暗などが人の目を引く仕組みとして利用されています。写真の独自性は、美術館の展示室に加えて、街や印刷物の中でも形作られました。大量に発行される雑誌、街に貼られる広告、学校のパンフレットなども、1920〜30年代の写真が近代美術を変えた重要な場面でした。(参照:MoMA|戦間期写真の研究コレクション)
ドイツの「新しい視覚」――見慣れた世界を撮り直す
高い場所からの俯瞰と、地面に近い仰角
「新しい視覚」と呼ばれた写真では、普段の目の高さから離れてカメラを構えることが重視されました。建物の上から人や道路を見下ろすと、歩行者は小さな点になり、道路の線と建物の形が幾何学的に組み合わさります。地面に近い位置から塔や工場を見上げれば、垂直に伸びる構造が画面の奥行きを強調します。見慣れた対象も、撮影位置によって別の物のように見えました。
ロトチェンコやモホリ=ナジらは、角度の変更によって人々の見る習慣そのものを動かそうとしました。人が日常的に採用する視点には習慣があり、写真がその習慣を揺さぶることで世界を観察し直せると考えたのです。写真機を通して初めて気づく建築の反復、影、形のつながりが、新しい造形表現になりました。(参照:メトロポリタン美術館|新しい視覚の写真史)
画面を傾けると都市の動きが現れる
近代建築や都市の道路は、一定の規則に従って作られています。写真家はカメラを斜めに傾け、水平線や垂直線を画面の対角方向へ走らせることで、その規則的な構造を速度や運動の感覚へ変えました。街路、階段、鉄塔、人影が写真の中で互いに交差し、静止した一枚の像が歩き続ける身体の感覚を呼び起こします。
この方法はロシア構成主義の幾何学的なポスターや、キュビスム以後の構図とも関係しています。写真は絵画を模倣するために使われたのではなく、画角と遠近法を操作しながら、カメラならではの視覚を形成しました。斜めの構図と大胆な切り取りは、現代の広告写真や雑誌編集にもつながる重要な語彙になっています。(参照:MoMA|ロトチェンコの写真表現)
極端な接写が物の意味を変える
カメラを対象へ近づけると、植物の葉脈、金属の傷、ガラスの反射、布の繊維などが画面の中心になります。人が日常では意識しない細部が拡大されると、用途が分かっている物も抽象的な形の組み合わせに見えることがあります。写真家が選んだ距離と光の条件によって、対象は生活用品から純粋な造形へ変わります。
この方法には、物を精密に観察する「新即物主義」の写真との共通点があります。同じ接写でも、対象の形を忠実に示すことを重視する写真家と、もとの物を見分けにくい構図へ変換する写真家がいました。写真が正確な記録であることと、見た人の認識を揺さぶることは、同時に成立し得るのです。(参照:メトロポリタン美術館|新しい視覚の写真史)
モホリ=ナジ――光そのものを使って画像を作る
バウハウスで写真を研究する理由
ハンガリー出身のラースロー・モホリ=ナジは、1923年にドイツのバウハウスへ参加し、素材や光を扱う実験を教育へ取り込みました。彼は写真を絵画の補助的な手段として扱うのではなく、現代の技術によって人間の知覚を拡張する装置として考えます。撮影した写真、印刷、透明な物質、光の実験が、授業や作品制作の中でつながっていきました。
通常の撮影では、レンズを通った光が被写体の像を感光材料へ記録します。モホリ=ナジはその仕組みを分解して考え、レンズを通さない光の作用も積極的に試しました。実験の目的は既にある物の姿を上手に再現することから、像が生まれる条件を発見することへ広がりました。バウハウスの教育理念の一部が、写真という新しい媒体によって具体化されたのです。(参照:メトロポリタン美術館|新しい視覚の写真史)
フォトグラム――カメラを使わない写真
フォトグラムは、感光紙の上に物を置き、光を当てて像を作る技法です。不透明な部分は光を遮り、透明な物は光を透かし、紙との距離や露光の長さによって輪郭の鮮明さが変わります。モホリ=ナジはこの方法で物の影や透明な形を重ね、現実の空間を撮影した写真とは異なる画像を生み出しました。
感光紙の上の像は、光と物質が直接作用した痕跡です。写真家は形を筆で描く代わりに、物の位置、光の方向、遮られる範囲を設計します。メトロポリタン美術館に所蔵される1926年のフォトグラムなどを見ると、写っている対象の名称より、濃淡と透明感、重なりが画面の中心になっています。光学的な操作そのものが構図を作る方法へ変わりました。(参照:メトロポリタン美術館|新しい視覚の写真史)
1925年の『絵画・写真・映画』が示した考え方
モホリ=ナジは1925年、バウハウス叢書の一冊として『絵画・写真・映画』を刊行しました。題名に並ぶ三つの媒体を通して、視覚芸術を一つの技術へ閉じ込めず、写真と映画に固有の可能性を探ろうとしています。印刷物に掲載された実験的な図版や写真は、バウハウスに通えない読者にも新しい造形の考えを届けました。
この時期の写真は一枚のプリントとして鑑賞されるだけでなく、連続したページや映画の時間の中で意味を作ります。モホリ=ナジの仕事は、写真が絵画に近づくことで美術になるという従来の評価軸から、写真が持つ光学的・複製的な特性を積極的に使う方向への転換を象徴しています。(参照:メトロポリタン美術館|戦間期の写真研究(学術誌))
バウハウスの写真を形作った女性たち
ルチア・モホリ――校舎と作品を記録した視線
ルチア・モホリは、バウハウスの教師や学生、製品、デッサウ校舎などを精密に撮影した写真家です。建築の直線、ガラス、物の質感を明快に示す彼女の写真は、学校の出版物や紹介資料に用いられました。今日、バウハウスの姿として広く知られるイメージの形成には、建築家やデザイナーの制作に加えて、ルチア自身の撮影とプリント技術が大きく関わっています。
1927年に彼女が撮影したフローレンス・アンリの肖像をMoMAが所蔵しています。顔と肩に近づいた構図の中で、視線や表情のわずかな違いが人物の個性を浮かび上がらせます。写真が学校の客観的な記録になる場面と、モデルに対する繊細な肖像表現になる場面は、同じ写真家の仕事に共存していました。(参照:MoMA|ルチア・モホリが撮影したフローレンス・アンリ)
フローレンス・アンリ――絵画から写真へ
フローレンス・アンリは絵画を学んだ後、1927年にデッサウのバウハウスで写真に触れ、翌年パリに戻って撮影を本格化させました。キュビスムや抽象絵画で学んだ構成への関心を写真へ持ち込み、鏡、球体、幾何学的な道具、紙片を組み合わせた静物を制作します。写真に写る対象は単純ですが、反射によって奥行きや物の位置が分かりにくくなるように構成されていました。
アンリの仕事は、近代写真が絵画と無関係に発達したと考えると理解しにくい例です。彼女は絵画の構成法を知ったうえで、鏡に映る像や写真の光沢を利用し、絵画とは別の方法で空間を組み立てました。1929年にはパリで写真スタジオを開き、実験制作と職業的な撮影を両立させています。(参照:MoMA|フローレンス・アンリの写真と鏡)
《コンポジション No.19》――鏡が空間を組み替える
アンリの《コンポジション No.19》(1928〜30年頃)では、鏡に映った物と実際の物、明るい面と暗い面が複雑に関係しています。何が鏡の向こうにあり、どの線が現実の部屋に属するのかが一見して分かりません。身近な静物を撮影しているのに、画面全体は抽象絵画のような幾何学的構成に見えます。
MoMAの研究資料は、アンリが複数の鏡や光の条件を組み合わせ、写真のプリント表面の光沢にも注意を払ったことを指摘しています。写真は見えているものを一つの視点にまとめる技術でありながら、反射面を利用することで複数の空間を同じ画像に共存させることもできます。この作品は、新しい視覚が制作装置の細かな操作から生まれたことを示します。(参照:MoMA|アンリ《コンポジション No.19》)
ソ連の構成主義――写真が社会へ働きかける
革命後のモスクワで写真が選ばれた理由
1917年のロシア革命後、芸術家の中には新しい社会に向けた教育、出版、広告へ積極的に関わる人々がいました。アレクサンドル・ロトチェンコもその一人で、抽象絵画や立体構成から、書籍、雑誌、ポスター、写真へ活動を広げていきます。写真は現実の像を機械的に記録でき、複製して広く配布できるため、多くの人々へ届く視覚媒体として注目されました。
撮影者の個人的な趣味にとどまらず、社会で共有される新しい見方を生み出すことが重視されます。ロトチェンコは1920年代半ば以降、カメラの角度を大胆に変え、人々が見慣れた建物や階段を新鮮な像へ変えました。こうした撮影方法は、革命後の生活をどう見せるかという課題と結びつきながら発展しました。(参照:MoMA|アレクサンドル・ロトチェンコ)
ロトチェンコの俯瞰と仰角の実験
ロトチェンコは1925年にパリでカメラを購入し、モスクワへ戻って屋外の撮影を本格化させました。自宅周辺の建築を上下から写した写真では、平凡な建物が斜めの線と反復する窓の構図へ変わります。1927年の《プーシキン公園の松》では木を見上げ、幹が遠近法によって画面の奥へ吸い込まれるような印象を作りました。
撮影者の身体が移動すると、写真の構造も変わります。高いところから見下ろす人の集まり、地面から見上げる塔の姿は、普段の歩行中の視線と異なる秩序を示しました。ロトチェンコ自身は写真を通じて固定した見方から抜け出し、対象を発見し直すことを目指しました。その方法はソ連の外でも大きな反響を呼びました。(参照:MoMA|ロトチェンコの写真表現)
前衛的な写真と国家の要求が交差する
1920年代後半のソ連では写真の展覧会や雑誌が発展し、新しい撮影方法をめぐる議論が活発になります。1928年の「ソヴィエト写真10年展」には多数の作品が集まり、絵画的な芸術写真と、労働や社会生活を記録しようとする写真が議論の対象になりました。写真は新しい社会の建設を伝える道具として期待されながら、何を記録すべきかという政治的な要請にもさらされます。
1930年代に入ると社会主義リアリズムを重視する文化政策が強まり、造形上の実験と国家が求める表現の間に緊張が生まれました。ロトチェンコの写真も形式主義的だと批判されることがありました。自由な角度や写真の組み立てが持つ力は大きかったものの、社会制度の中でその実験がどこまで認められるかは時代によって変わったのです。(参照:MoMA|1928年「ソヴィエト写真10年展」)
フォトモンタージュ――別々の写真から一つの意味を作る
切り抜き写真と印刷が組み合わさる
フォトモンタージュは、複数の写真や印刷図版を切り取り、新たに組み合わせる制作方法です。第一次世界大戦後のダダの芸術家たちは、新聞写真や広告から人物や物を取り出し、異なる文脈へ置くことで政治や社会の権威を批判しました。1920年代にはその方法が広告、宣伝、出版物にも広がり、一枚の写真では伝えきれない内容を視覚的な組み合わせで示す表現として発展します。
同じ人物の顔も、何の隣に置くかで意味が変わります。写真が現実から切り取った像であることを利用しながら、写真同士の関係は作者が設計します。コラージュに文字、色面、斜めの構図が加わると、印刷されたページは見る人の意識を強く誘導する装置になります。写真の客観性と編集による意味の変化が、この表現の中心でした。(参照:MoMA|写真・映画・写真集が形成した新しい視覚)
リシツキー《自画像》が重ねた目と手
エル・リシツキーの《自画像》(1924年)は、《構成者》としても知られる写真作品です。顔と製図用のコンパスを持つ手が重ねられ、目の部分が画面で強く意識されるように構成されています。MoMAによれば、この画像は六つの異なる露光から作られました。人物の姿を一度に写した普通の肖像では得られない構造を、撮影と暗室の操作によって実現しています。
顔は見る人間を、手は作る人間を、コンパスは形を設計する道具を連想させます。それらを一つの写真に重ねることで、見ることと作ることが連続した行為として表現されます。リシツキーにとって写真の価値は、現実の一場面をそのまま取り出すことに加えて、複数の意味を組み立てて新しい認識を生み出すところにありました。(参照:MoMA|エル・リシツキー《自画像》1924年)
ポスターと雑誌が作品の受け取られ方を変える
フォトモンタージュは展示室に飾られる一点物としてだけでなく、ポスターや雑誌の大量印刷と深く結びつきました。印刷物には発行者の目的があり、写真を何に使うかという判断が重要になります。労働者の姿や工業施設を組み合わせた構成が、ある場面では新社会への期待を示し、別の場面では政治的な宣伝になることもありました。
画面の中にどの写真を採用し、どの写真を外したかという編集の判断は、撮影の瞬間と同じくらい重要です。こうした意識は後の広告、雑誌、報道写真、そして現代の画像編集にもつながります。複数の写真を並べることが、一枚ずつの写真が持っていた意味を変えるという問題は、この時代に活発に追究されました。(参照:MoMA|戦間期写真の研究コレクション)
ドイツの新即物主義――細部を冷静に写し取る
「新しい視覚」と並ぶもう一つの写真表現
1920年代のドイツでは、奇抜な撮影角度や合成写真と並行して、物の表面を非常に鮮明に記録する写真も発展しました。こうした傾向は新即物主義と関連づけられます。金属部品、ガラス、植物、動物、工場設備を、細部が分かる光と構図で写し、対象の固有の形を見せようとする方法です。絵画で同じ名前が使われた時代と重なり、現実への冷静な観察が重視されました。
被写体を精密に示す写真には、機械が持つ視覚的な特性を信頼する態度が現れています。写真家は物をぼかして絵画的な雰囲気を作る代わりに、被写体の輪郭、質感、表面の微細な違いを画面に留めました。写真の記録能力が、そのまま近代的な美意識へ結びつくという考え方でした。(参照:ゲティ研究所|レンガー=パッチュの新即物主義写真)
レンガー=パッチュが写した物と機械
アルベルト・レンガー=パッチュは、新即物主義の写真を代表する作家です。植物や動物の姿から工業施設、機械部品まで幅広い対象を撮影し、対象そのものの構造が見えるような鮮明な画像を制作しました。1928年に刊行した写真集『世界は美しい』では、自然界の形と人工物の形が、近い感覚のもとに提示されています。
写真の画面では、ネジや金属管の形も、植物の葉や動物の体と同じように注意深く観察されています。ゲティ研究所が紹介する彼の考え方には、カメラだけが持つ正確な記録能力を十分に発揮しようとする姿勢が見られます。その厳密さは、形を抽象的に操作する新しい視覚の写真とは異なる方法で、日常の対象から造形的な美しさを発見しました。(参照:ゲティ研究所|レンガー=パッチュの新即物主義写真)
物を正確に写しても、選択は残る
機械の部品を大きく写すと、もとの用途が分かりにくくなり、画面には曲線や反復する線が現れます。写真家が対象を精密に記録しているからこそ、見る人には抽象的な形に見える場合がありました。客観的であるとされる写真でも、被写体を選び、光を当て、どこで画面を切るかという判断が作品の特徴になります。
「見たままに写す」という理想には、写真家自身がどのような世界を重要だと考えるかという選択が含まれます。レンガー=パッチュの写真は、工業社会の形を賞賛するようにも見え、物が持つ構造を独立した美として示すようにも見えます。その複数の読み方が、写真の記録性と作者の視線が結びつくところから生まれています。(参照:ゲティ研究所|レンガー=パッチュの新即物主義写真)
アウグスト・ザンダー――写真で社会の姿を集める
肖像写真によって時代を捉える試み
アウグスト・ザンダーは、1920年代からドイツに暮らすさまざまな人々を長期にわたって撮影し、《20世紀の人々》という大きな構想を進めました。農民、職人、労働者、芸術家、専門職、都市生活者などを写し、職業や社会的な位置と結びつけて分類します。メトロポリタン美術館によると、この計画は社会を七つの大きな集団として捉え、それぞれの人々を肖像によって示そうとしたものでした。
ザンダーの人物写真では、服装、姿勢、背景、道具などが、その人の暮らしを伝えます。顔立ちの記録にとどまらず、その人が社会の中でどのような場所を占めているのかが見えてくるのです。時代の姿を多くの人々の写真から読み取ろうとする方法には、一枚の印象的な作品を作ることと、社会全体を記録することが同時に含まれています。(参照:メトロポリタン美術館|アウグスト・ザンダーと20世紀の人々)
《菓子職人》――職業が肖像の一部になる
ザンダーの《菓子職人》(1928年)では、仕事着を着た男性が正面に立ち、日常の職業を示す身体の構えや服装が明確に捉えられています。画面には劇的な照明や強い感情表現がなく、人物がこちらを見返す落ち着いた時間が流れます。その静けさの中で、仕事によって培われた経験や、社会の中での立場を意識させる作品です。
このような写真は有名人の記念肖像とは異なる社会的な関心から生まれました。現代の鑑賞者は一人の人間の表情を見つめると同時に、1920年代のドイツに存在した職業や階層の姿を読むことができます。ザンダーの構想が後の写真史で重要視されているのは、写真の連続を通して社会の構造へ近づこうとした点にもあります。(参照:メトロポリタン美術館|アウグスト・ザンダーと20世紀の人々)
1929年『時代の顔』と1930年代の政治
ザンダーは1929年、より大きな構想の一部を『時代の顔』という写真集として刊行しました。収録された人物を続けて見ると、身なり、表情、生活背景の違いによって同時代の社会が立体的に現れます。1933年以後、ナチス政権下でザンダーの活動環境は厳しくなり、1930年代半ばには刊行物が押収されるなど、写真が提示する社会像と国家の要求の間に対立が生じました。
彼の作品が提起するのは、写真で社会を分類することの可能性と、その分類がどのような視点に基づいているかという問題です。並べられた人々は同じ時代を生きながら、暮らしも社会的地位も異なります。写真による記録が、美術の作品であると同時に、その社会を後世が考えるための歴史資料にもなっていきました。(参照:メトロポリタン美術館|ザンダー《ラウール・ハウスマン》)
ブロスフェルト――植物の接写が自然の形を発見する
教育資料から写真集へ変わった植物の像
カール・ブロスフェルトは、美術工芸教育に役立つ植物の形の写真を長年撮影してきました。拡大して写された茎やつぼみ、葉の構造は、建築装飾や工芸の形を考えるための資料として利用されます。1928年に『芸術の原型』としてまとまった写真集が刊行されると、その鮮明な画像が広く知られ、写真を通して自然の形を見直す作品として注目されました。
植物を普通の大きさで見ると、細部は見過ごされがちです。写真に大きく写された形は、金属製品や建築の装飾を連想させるほど厳密な構造を持っています。撮影という技術によって縮尺が変えられたとき、身近な自然が別の造形世界として見えてきました。(参照:メトロポリタン美術館|ブロスフェルト『芸術の原型』)
拡大された植物が工業製品のように見える
ブロスフェルトの写真には、小さな植物の花弁やつぼみが、支柱や歯車に似た繰り返しの形として現れるものがあります。光の方向を整理し、背景を簡潔にすることで、対象の輪郭や表面が強調されます。植物の種類を知らなくても、形そのものの規則性を発見できるのがこの写真の魅力です。
生きた自然と工業製品の両方を撮影したレンガー=パッチュと同様、ブロスフェルトも物の構造を注意深く観察しました。写真が小さな形を拡大できることは、科学的な記録と同時に、新しい造形を発見するうえでも重要でした。見過ごされていた形を美術の問題へ変えたことが、この時代の写真の新しさでした。(参照:メトロポリタン美術館|ブロスフェルトの植物写真)
植物写真が前衛芸術に読み替えられる
ブロスフェルトの写真は美術工芸教育から生まれましたが、刊行後は前衛芸術の側からも新しい関心を集めます。メトロポリタン美術館によると、ジョルジュ・バタイユは1929年の雑誌『ドキュマン』で植物写真を取り上げ、花の造形に潜む不気味さや性的な連想にも注目しました。同じ写真が、教育の資料から、人間の想像力を刺激する像へ変わったのです。
この受容の変化は、写真の意味が撮影者の目的だけで決まるとは限らないことを示しています。細部を正確に写し取った像は、科学、工芸、抽象美術、シュルレアリスムのそれぞれで異なる意味を持ちました。写真が多様な領域を行き来できる媒体だったことが、よく分かる例です。(参照:メトロポリタン美術館|ブロスフェルトの植物写真)
パリの実験写真――マン・レイとシュルレアリスム
1920年代のパリで写真が果たした役割
1920年代のパリでは、ダダからシュルレアリスムへの展開に関わった芸術家たちが、写真によるさまざまな実験を行いました。夢、偶然、自由な連想を大切にする文学や美術の活動に、写真は独自の方法で参加します。目の前の物を正確に写しても、普段とは違う場所へ置いたり、一部だけを切り取ったりすることで、不思議な印象の画像を作ることができたからです。
写真家は多重露光、暗室での加工、物の配置などを使い、現実に存在する形から新しい関係を生み出しました。シュルレアリスムと関係した写真には、夢の場面を直接再現する作品に加えて、日用品や身体の一部を異様に感じさせるものがあります。写真が現実を記録するという性質が、逆に現実の奇妙さを強める働きをしたのです。(参照:メトロポリタン美術館|新しい視覚の写真史)
マン・レイのレイヨグラフ
アメリカからパリへ移ったマン・レイは、1922年頃からカメラを使わず感光紙に物を置いて光を当てる写真を制作し、自分の名前にちなんで「レイヨグラフ」と呼びました。MoMA所蔵の1922年の作品では、手や人物の頭部などの形が感光紙の上に重なり、立体的な空間を特定しにくい画像が生まれています。物の輪郭が光によって直接紙に残る様子は、通常のレンズ写真と異なります。
この技法そのものは写真史の初期から存在していました。マン・レイは既存の方法を芸術的な実験として再発見し、物の組み合わせと偶然を創作の中心に据えます。物がもつ用途から形を解放し、日常の物が奇妙な影へ変わる過程が、シュルレアリスムの想像力とも結びつきました。(参照:MoMA|マン・レイ《レイヨグラフ》1922年)
暗室の操作とリー・ミラーとの共同作業
1920年代末のマン・レイは、写真の明暗が部分的に反転して輪郭が光って見えるようなソラリゼーションの技法にも取り組みました。リー・ミラーとの共同作業を通じて、現像中の感光材料に光を当てる操作を調整し、人物や物の輪郭に独特の光の縁を生み出します。メトロポリタン美術館の研究は、1929年頃のこの実験にリー・ミラーが果たした役割を重視しています。
写真の暗室では、現像する時間や途中で与える光によって同じ原版から違う像が生まれます。その条件を意識的に使うことで、身近な人間の身体が異様な明暗を持つ表現へ変わりました。写真の実験は個人のひらめきだけで生まれたものとして語られがちですが、機材を共有し、技法を試し、現像を繰り返した協働の歴史も重要です。(参照:メトロポリタン美術館|マン・レイとレイヨグラフの再研究)
パリの街と身体――異なる写真家が見た現実
ケルテース《歪曲》――鏡で人物を撮り直す
ハンガリー出身のアンドレ・ケルテースは、1933年に曲面鏡を使って身体を撮影する《歪曲》の連作を制作しました。鏡に映った人物は腕や胴体の長さが変わり、頭と身体が思いがけない比率になります。実際の身体をカメラで記録しているのに、画面に現れる形は日常の人体とは大きく異なります。
メトロポリタン美術館の《歪曲 No.6》には、細く伸びた身体の曲線が、古典的な裸体画のポーズを思わせる構図で現れています。もとの被写体が現実に存在するからこそ、写った形の変化が強い印象を与えます。写真はレンズによる一つの視点だけでなく、鏡の反射を通して別の像へ到達できることを示しました。(参照:メトロポリタン美術館|ケルテース《歪曲 No.6》)
ブラッサイ『夜のパリ』が捉えた都市
ハンガリー出身のブラッサイは、1933年に写真集『夜のパリ』を刊行しました。夜霧に包まれた道路、雨で光る舗道、街灯の下に現れる人影など、昼間の都市とは異なるパリが写真に残されています。夜の撮影には暗い場所での露光や明かりの扱いが必要で、写真家は街の光の条件を作品に取り込んでいきました。
ブラッサイは人々が夜に集まる場所や、社会の表に出にくい生活も撮影しています。MoMAは『夜のパリ』が当時広く成功した写真集であり、犯罪報道や探偵小説の雰囲気とも響き合ったと説明しています。記録と詩的な都市の表現が同居している点に、この仕事の特徴があります。(参照:MoMA|ブラッサイの夜のパリ)
写真に写った現実は一つの意味に収まらない
ケルテースの鏡を使った身体像とブラッサイの夜の街を並べると、写真が現実を変えて見せる方法の違いが分かります。鏡の撮影では人体の形が物理的に変わり、夜の撮影では光や霧が都市の表情を変えます。撮影者は目の前にあるものを記録しながら、見慣れた世界を知らない場所のように感じさせています。
1930年代のパリでは、写真がシュルレアリスムの芸術表現、雑誌の報道、都市の記録として複数の役割を担っていました。作家によって所属する運動や制作目的は異なりますが、写真の具体性を出発点にして想像力を働かせる点には共通する面があります。写真が持つ現実感そのものが、新しい美術表現の材料になっていたのです。(参照:MoMA|ブラッサイの夜のパリ)
ジェルメーヌ・クルル――工業都市と雑誌写真をつなぐ
写真集『メタル』が見せた鉄の形
ジェルメーヌ・クルルは1920年代後半のパリで活躍した写真家です。1928年の写真集『メタル』では橋、鉄塔、クレーン、工場の機械などを撮影し、工業社会の構造物を独自の造形として示しました。鉄橋を下から見上げ、金属の骨組みが画面いっぱいに広がる構図には、近くで見るほど物の全体像が分からなくなる不思議な効果があります。
パリのエッフェル塔も、見慣れた観光名所ではなく、鉄材が交差する幾何学的な形として写真に現れました。メトロポリタン美術館の研究は、クルルが巨大な構造へ近づき、もとの物が何か判別しにくくなるほど大胆に切り取った点に注目しています。新しい視覚の写真は、日常の都市にすでに存在する形を再発見する方法でもありました。(参照:メトロポリタン美術館|ジェルメーヌ・クルルと写真表現)
雑誌『ヴュ』と写真報道
クルルは1928年にフランスで創刊された写真雑誌『ヴュ』にも深く関わりました。写真を大きく使う誌面で、船乗り、カフェ、街角、娯楽の場などを撮影し、写真家としての実験と報道の仕事を行き来します。画面を斜めにしたり、入口や窓越しに人々を捉えたりする構図には、彼女独自の観察の時間が現れています。
美術館に収蔵されるプリントと雑誌に掲載された写真は、同じ原版から作られていても鑑賞される場所や目的が違います。雑誌の読者は写真を通して社会の新しい情報を受け取り、展示室の鑑賞者は写真家の構図や印画技術へ目を向けます。クルルの活動は、芸術と報道が写真の中で自然に交わっていた戦間期の特徴をよく示します。(参照:メトロポリタン美術館|ジェルメーヌ・クルルと写真表現)
《パリのカフェ》に現れた生活への関心
1928年5月19日に撮影されたクルルの《パリのカフェ》には、都市の日常を外側からうかがうような視線があります。メトロポリタン美術館の作品解説は、彼女が窓や戸口など境界になる場所に関心を向け、内部と外部の間に現れる生活を丁寧に観察したことを紹介しています。大胆な視点の写真家でありながら、街の出来事へ長く目を向ける姿勢も持っていました。
この作品を工業施設の写真と並べると、クルルの関心が鋼鉄の構造だけに向いていたことではないと分かります。人の暮らしと都市の形が同じ場所で交わる瞬間を捉えることも、近代写真の重要な仕事でした。写真の実験性と社会へのまなざしが、一人の作家の中で結びついています。(参照:メトロポリタン美術館|クルル《パリのカフェ》)
1929年の国際展――写真が共通の美術言語になる
シュトゥットガルトの「フィルム・ウント・フォト」展
1929年5月から7月にかけて、ドイツのシュトゥットガルトで国際的な写真と映画の展覧会「フィルム・ウント・フォト」が開催されました。メトロポリタン美術館によると、ヨーロッパ、ソ連、アメリカから約千点の作品が集められ、戦間期の新しい写真を示す重要な展覧会になりました。展示された作品には、前衛的な実験写真だけでなく、社会の記録や工業的な表現も含まれていました。
この展覧会は写真家が国境を越えて表現を共有し、それぞれの地域で発展した方法を比較できる場でした。複数の作家が似たような大胆な構図を使用していても、その目的は同じとは限りません。撮影したい対象や写真を社会に届ける方法の違いを見比べると、1920年代末に写真の可能性が急速に広がっていたことが実感できます。(参照:メトロポリタン美術館|新しい視覚の写真史)
作品の国際的な交流と写真の評価
「フィルム・ウント・フォト」には、構成主義、バウハウス、新即物主義、アメリカの近代写真など、それぞれ異なる歴史を持つ作品が紹介されました。写真を一つの国の伝統や単一の運動に閉じ込めず、世界各地で同時に起きている新しい表現として示したことに、国際展の意義があります。写真を美術館や展覧会でどう見せるかという問題も、この時期に大きく前進しました。
会場の観客は、同じ写真という技術を使った作品に、極端な接写、精密な肖像、都市の風景、光の実験、写真の切り貼りなど多様な方法があることを知ります。表現の発明は個々の作家が担い、その発明を共有して美術史へ位置づける役割は展覧会や出版物が担いました。1929年展は両者が結びつく象徴的な出来事でした。(参照:MoMA|写真・映画・写真集が形成した新しい視覚)
写真集が作品の順序と意味を作る
1920年代末には、ブロスフェルトの『芸術の原型』、レンガー=パッチュの『世界は美しい』、ザンダーの『時代の顔』などが刊行されました。いずれも写真を一枚ずつ見るだけでなく、連続したページの中で受け取る形式です。同じ種類の写真を繰り返し眺めることで、見る人は対象の共通点や違いを次第に発見します。
写真集では写真家や編集者が作品を選び、順番を決めることによって新しい文脈を作ります。書籍は展覧会の観客より広い読者へ届き、印刷による複製が美術を共有する仕組みになります。1920年代の写真史を考えるには、プリントの美しさと同時に、本や雑誌に載ったときの写真の働きを見る必要があります。(参照:メトロポリタン美術館|戦間期の写真研究(学術誌))
アメリカのストレート・フォトグラフィ――明晰な像の追究
対象の形を写真そのものの力で見せる
アメリカでは、写真を絵画のようにぼかしたり、手作業で加工したりする表現から、レンズの鮮明な像を生かす方向が強くなりました。この傾向はストレート・フォトグラフィと呼ばれます。被写体の輪郭、光の当たり方、質感を丁寧に記録し、写真家がどこを選んで画面に収めたかによって作品を成立させようとする方法です。
写真が機械的に写す性質は、芸術性を弱める欠点として扱われることもありました。ストレート・フォトグラフィの作家たちは、その性質を積極的に生かすことで独自の美しさを追求します。写真が持つ細部の再現力を作品の中心へ据えることは、写真の歴史における重要な転換でした。(参照:メトロポリタン美術館|グループf/64)
ウェストン《ピーマン No.30》――日用品が彫刻的になる
エドワード・ウェストンの《ピーマン No.30》(1930年)は、ありふれた野菜を近距離から撮影した作品です。画面を大きく占めるピーマンの曲面には光が柔らかく当たり、深い溝と滑らかな膨らみが、彫刻のような量感を生みます。形のすべてを説明する背景は省かれ、見る人は野菜の用途から離れて、その表面と構造をじっくり観察します。
ウェストンは野菜そのものが持つ形と質感を出発点にしています。対象の選択、撮影位置、光、印画の階調を精密に組み合わせることで、普段は見過ごされる形を目立たせています。写真が現実の物の姿を使って抽象的な美しさに近づくことを示す代表的な作品です。(参照:MoMA|ウェストン《ピーマン No.30》1930年)
写真の正確さが鑑賞者の想像力を刺激する
ウェストンが撮影した植物、貝殻、裸体などは、細かな形を忠実に記録しながら、見る人にほかの物を連想させることがあります。写真が鮮明だからこそ、曲線や陰影の関係が画面に強く現れるのです。ヨーロッパのレンガー=パッチュやブロスフェルトにも似た関心が見られますが、ウェストンは自分が選んだ形とプリントの階調から、独自の表現を深めました。
同時代の写真の前衛性は、大胆な切り貼りや珍しい角度から、対象への徹底した観察まで、幅広い方法で示されました。日常の対象を丁寧に観察し、写真という媒体が持つ鮮明さを徹底的に使うことも、近代写真の新しさでした。撮影と印画という一連の過程を作者の造形的な選択として捉える考え方が、ここに現れています。(参照:MoMA|ウェストン《ピーマン No.30》1930年)
グループf/64――カリフォルニアの近代写真
1932年に成立した写真家たちの集まり
1932年11月、サンフランシスコのデ・ヤング美術館でグループf/64の展覧会が開かれました。アンセル・アダムズ、エドワード・ウェストン、イモージン・カニンガムらが参加し、対象の細部を鮮明に記録する写真を重視します。「f/64」という名称は、当時の大型カメラで用いられた絞り値を示し、画面の広い範囲へピントを合わせる撮影姿勢と結びついていました。
参加者の作風や対象は完全に同じではなく、自然の風景、植物、人物、生活用品など広い主題を扱っていました。共通していたのは、写真が持つ精密な描写力を信頼し、撮影と印画の技術を作品の中心へ置く姿勢です。彼らの活動によって、西海岸の写真表現が近代美術史の中で強く認識されるようになりました。(参照:メトロポリタン美術館|グループf/64)
カニンガム《アロエ》――自然の構成を写す
イモージン・カニンガムは、1920年代に植物の形を接近して撮影し、その構図や明暗によって作品を生み出しました。《アロエ》では葉が力強く伸び、複数の輪郭が画面の中で重なります。形を丁寧に写し取ることで、植物が持つ秩序とリズムが浮かび上がります。写真に写るのは現実の植物ですが、画面は線と面による独自の構成にも見えます。
ブロスフェルトが植物の構造を教育資料として研究したのに対し、カニンガムは植物と光から魅力的な写真を構成することへ関心を向けました。メトロポリタン美術館は、その違いを明確に指摘しています。似た被写体を撮影した作品でも、制作の目的や見せたいものが異なり、それぞれの写真の個性につながります。(参照:メトロポリタン美術館|カニンガム《アロエ》)
アダムズ《冬のヨセミテ》と大きな風景
アンセル・アダムズの《冬のヨセミテ》(1933〜34年)は、雪に覆われた枝と暗い幹を鮮明な階調で記録した風景写真です。手前と奥の形を丹念に捉えることで、木々の垂直線と雪の水平な広がりが画面に規則的なリズムを生みます。ヨセミテの自然を愛した写真家の経験が、光の条件や構図を選ぶ行為と結びついています。
アダムズの写真は雄大な自然を写すことと、プリントの明暗を精密に整えることを同時に重視しています。彼にとって風景は単に記念写真を撮る対象ではなく、撮影時の光と完成したプリントの階調から自分の経験を形にする場所でした。グループf/64が示した写真の鮮明さは、世界を冷静に見る方法であると同時に、自然の強い印象を伝える造形でもありました。(参照:メトロポリタン美術館|アダムズ《冬のヨセミテ》)
都市の記録――アボットとエヴァンズが見た現代社会
ベレニス・アボットがパリからニューヨークへ戻る
ベレニス・アボットは1920年代にパリでマン・レイの助手として働き、ウジェーヌ・アジェの都市写真からも大きな影響を受けました。1929年にアメリカへ戻ると、急速に変化するニューヨークを写真で記録し始めます。高層建築と古い建物、広告、道路、商店などが共存する街は、近代化が進む社会を具体的に見る場所でした。
写真家は街の一場面を美しく構成すると同時に、後の時代には消えてしまう建物や生活の姿を記録できます。アボットは1935年からニューヨークの変化を大規模に記録する仕事へ進み、のちに『変わりゆくニューヨーク』という写真集へまとめました。写真の美術的な構成と都市の歴史を残す役割が、彼女の仕事の中で結びついています。(参照:メトロポリタン美術館|ベレニス・アボットと変わるニューヨーク)
ウォーカー・エヴァンズの1933年のハバナ
ウォーカー・エヴァンズは1933年にキューバのハバナを訪れ、街路、看板、商店、港で働く人々などを撮影しました。作品《ハバナの港湾労働者》では、働く人々の姿が都市の経済や社会を示す具体的な場面として残されています。写真家は報道のための依頼を受けながら、自分が重要だと考える街の断片も選び取っていきました。
メトロポリタン美術館によると、エヴァンズはハバナ滞在中に400点以上のネガを制作しました。彼の視線は劇的な事件の瞬間だけを探すのではなく、普通の人々や街の看板を注意深く観察します。誰もが毎日見ている物から社会の構造を伝える方法は、1930年代のアメリカで発展していくドキュメンタリー写真の重要な特徴となりました。(参照:メトロポリタン美術館|ウォーカー・エヴァンズ《ハバナの港湾労働者》)
建築、看板、労働者を同じ社会の姿として見る
都市を記録する写真家は、何を被写体として選ぶかという判断を通して、街の歴史を書き残します。新しく建てられた建築、古い商店の壁、仕事を探す人、道路に置かれた広告など、普段の生活では別々に見えるものが写真を並べることで一つの社会の姿になります。アボットとエヴァンズはそれぞれ異なる都市を写しながら、写真を社会の変化を理解するための道具として使いました。
写真の記録には、そこにいる人々の暮らしの一場面と、撮影者が選んだ視点が残ります。撮影者の位置、撮影の理由、選ばれなかった場面によって、写真に残る都市像は異なります。写真の事実性を尊重しながら、その画像が誰によって、どのような目的で作られたかを考えることも、近代写真の理解には重要です。(参照:メトロポリタン美術館|ベレニス・アボットと変わるニューヨーク)
世界恐慌と写真――1935年以後へ続く転換
1929年の世界恐慌が生活を変える
1929年の世界恐慌はアメリカとヨーロッパの人々の生活に深刻な影響を与えました。失業者が増え、職や住居を失った人々の姿が都市の街角や農村で目立つようになります。写真家の中には、精密な形や構図を追究する仕事と並行して、社会に起きている出来事を記録し始める人々がいました。写真は困難な状況を遠くの人へ伝える視覚媒体として、さらに大きな役割を担うようになります。
この時代の写真を美術と社会の二つの別々の領域へ分けると、写真家が何を目的として撮影するのかという重要な変化を見落とします。美しい像を作る技術も、生活の困難を伝えるための技術も、光、距離、構図、プリントという同じ道具から生まれています。写真を見る人に現実を伝える力が、政治と社会の変化の中で強く求められていきました。(参照:メトロポリタン美術館|戦間期の写真研究(学術誌))
ランゲ《ホワイト・エンジェルの炊き出し列》
ドロシア・ラングの《ホワイト・エンジェルの炊き出し列》(1933年)は、サンフランシスコで食事を待つ失業者たちを撮影した写真です。手前の男性は古びた帽子をかぶり、容器を前に置き、周囲の人々とは少し異なる方向を向いています。その姿から、経済の危機が一人の生活へ及んだ現実を感じ取ることができます。
ラングはそれまで肖像写真の仕事をしていましたが、恐慌下の街で苦しい生活を送る人々にカメラを向けるようになります。MoMAに残る家族の証言は、この撮影が彼女にとって社会を記録する方向へ進む重要な経験だったことを示しています。写真の力は遠い出来事を大きな数字で説明することに加えて、その状況を生きる一人の人間の姿へ観客を向き合わせることにもあります。(参照:MoMA|ランゲの1933年の写真に関する記録)
1935年を境に広がる記録写真と、その後の評価
1935年以後のアメリカでは、政府の救済政策や農村の生活を記録する写真事業が展開し、ラングやエヴァンズらの仕事が広く知られるようになります。その代表的な作品の多くは本記事の対象年代より後に制作されるため、ここでは1933年のラングやエヴァンズの仕事を重要な出発点として扱います。写真が社会問題を伝える力は、1930年代後半にいっそう明確な形を取りました。
この時代の写真の革新は、被写体を選び、角度を変え、光で像を作り、複数の写真を編集して人々へ届けるという一連の方法を発展させたことにあります。1930年代の政治的な圧力や経済危機を経て、写真がどのような現実を見せ、誰の立場から社会を伝えるのかが、ますます重要な問題になっていきました。戦間期の実験は、現代美術だけでなく報道やドキュメンタリーの歴史にも長くつながっています。(参照:MoMA|ランゲ《ホワイト・エンジェルの炊き出し列》)
1920–1935年の年表
写真の技術と作品の変化を歴史の流れに沿って示しました。1920年代から1930年代の出来事を中心に、その前史と後の写真史へ続く重要な節目も含めています。
- 1900年代初頭 スティーグリッツらが写真の美術的な可能性を追究し、ストレート・フォトグラフィが発展する
- 1917年 ロシア革命。写真を出版や社会改革へ結びつける動きが強まる
- 1918年 第一次世界大戦終結。ヨーロッパで新しい社会と視覚表現をめぐる実験が活発になる
- 1920年頃 ザンダーがドイツの人々を体系的に撮影する大きな構想へ進む
- 1921年 マン・レイがパリへ移住し、撮影や実験を始める
- 1922年 マン・レイがレイヨグラフを発表し、写真をカメラなしで作る方法を芸術的に展開する
- 1923年 モホリ=ナジがバウハウスに着任し、写真と光の実験を広げる
- 1924年 リシツキー《自画像/構成者》。多重露光によるイメージを制作する
- 1925年 ライカI型が発売され、小型カメラによる撮影の選択肢が広がる
- 1925年 モホリ=ナジ『絵画・写真・映画』が刊行される
- 1925年 ロトチェンコがパリでカメラを購入し、屋外撮影の実験を本格化する
- 1926年 モホリ=ナジ《フォトグラム》など光の実験が進む
- 1927年 ルチア・モホリがフローレンス・アンリの肖像を撮影する
- 1927年 アンリがデッサウのバウハウスで写真へ強い関心を向ける
- 1928年 クルル『メタル』、レンガー=パッチュ『世界は美しい』が刊行される
- 1928年 ブロスフェルト『芸術の原型』が刊行される
- 1928年 ソ連で「ソヴィエト写真10年展」が開催される
- 1928年 フランスで写真雑誌『ヴュ』が創刊される
- 1929年 ザンダー『時代の顔』が刊行される
- 1929年5–7月 シュトゥットガルトで国際展「フィルム・ウント・フォト」が開催される
- 1929年 アンリがパリで写真スタジオを開く
- 1929年10月 世界恐慌が始まり、写真による社会の記録が新たな重要性を持つ
- 1930年 ウェストン《ピーマン No.30》を制作する
- 1932年11月 サンフランシスコでグループf/64の展覧会が開かれる
- 1933年 ケルテースが《歪曲》連作を制作する
- 1933年 ブラッサイ『夜のパリ』が刊行される
- 1933年 エヴァンズがハバナを撮影する
- 1933年 ラング《ホワイト・エンジェルの炊き出し列》を撮影する
- 1933年 ナチス政権の成立によりドイツの前衛芸術や出版活動を取り巻く条件が変化する
- 1933–1934年 アダムズ《冬のヨセミテ》を制作する
- 1935年 アボットが変化するニューヨークを記録する大規模な仕事へ進む
- 1937年 MoMAが写真史展「写真 1839–1937」を開催する
まとめ――写真が変えた美術と世界の見え方
1920〜35年の写真は、工場や都市の発展、雑誌の普及、社会制度の変化に応じて、新しい役割を獲得しました。モホリ=ナジは光が像を作る条件を実験し、ロトチェンコは撮影位置を変えて日常の見え方を揺さぶり、リシツキーは複数の露光を重ねることで新しい肖像を作りました。レンガー=パッチュ、ザンダー、ブロスフェルトは精密な観察を通して物や社会の構造を示し、マン・レイやアンリ、ケルテースは現実の像を利用して不思議な空間を生み出しています。
アメリカのウェストン、カニンガム、アダムズは写真の鮮明さを表現の中心へ据え、アボット、エヴァンズ、ラングらは街と人々の暮らしへカメラを向けました。この時代には、多様な撮影方法と作品のかたちが同時に発展しました。撮影の角度、光の扱い、写真の並べ方、社会へ届ける方法など、それぞれ異なる選択を重ねることで、写真が持つ独自の表現と記録の力が広がりました。この時代の実験は、現代美術、グラフィックデザイン、報道、写真集、ドキュメンタリーへ続く重要な土台になっています。
参考資料・出典
本記事は、メトロポリタン美術館とMoMAによる戦間期写真の研究、写真展・写真集の公式記録、ゲティ研究所の資料、写真家の作品所蔵情報などを参照してART LIBRARYが独自に執筆しました。作品の制作年代、展覧会・刊行物の情報、写真史的な解釈を区別し、時代の社会的な背景と結びつけて説明しています。
- メトロポリタン美術館|新しい視覚の写真史
- メトロポリタン美術館|戦間期の写真研究(学術誌)
- MoMA|写真・映画・写真集が形成した新しい視覚
- MoMA|戦間期写真の研究コレクション
- MoMA|『ベルリン画報』と写真報道
- MoMA|1928年「ソヴィエト写真10年展」
- MoMA|アレクサンドル・ロトチェンコ
- MoMA|ロトチェンコの写真表現
- MoMA|エル・リシツキー《自画像》1924年
- ゲティ研究所|レンガー=パッチュの新即物主義写真
- メトロポリタン美術館|アウグスト・ザンダーと20世紀の人々
- メトロポリタン美術館|ザンダー《ラウール・ハウスマン》
- メトロポリタン美術館|ブロスフェルト『芸術の原型』
- メトロポリタン美術館|ブロスフェルトの植物写真
- MoMA|マン・レイ《レイヨグラフ》1922年
- MoMA|マン・レイ《レイヨグラフ》1923年
- メトロポリタン美術館|マン・レイとレイヨグラフの再研究
- MoMA|フローレンス・アンリの写真と鏡
- MoMA|アンリ《コンポジション No.19》
- MoMA|ルチア・モホリが撮影したフローレンス・アンリ
- メトロポリタン美術館|ジェルメーヌ・クルルと写真表現
- メトロポリタン美術館|クルル《パリのカフェ》
- MoMA|ブラッサイの夜のパリ
- メトロポリタン美術館|ケルテース《歪曲 No.6》
- メトロポリタン美術館|ケルテース《歪曲 No.51》
- メトロポリタン美術館|グループf/64
- サンフランシスコ近代美術館|グループf/64とその周辺
- サンフランシスコ近代美術館|グループf/64の遺産
- メトロポリタン美術館|カニンガム《アロエ》
- MoMA|ウェストン《ピーマン No.30》1930年
- メトロポリタン美術館|アダムズ《冬のヨセミテ》
- メトロポリタン美術館|ベレニス・アボットと変わるニューヨーク
- メトロポリタン美術館|ウォーカー・エヴァンズ《ハバナの港湾労働者》
- MoMA|ランゲ《ホワイト・エンジェルの炊き出し列》
- MoMA|ランゲの1933年の写真に関する記録
- MoMA|1937年の写真史展
- MoMA|1937年の写真史展カタログ
資料確認日:2026年10月13日 / ART LIBRARY