紀元前2900–2350
青銅器時代のメソポタミア
シュメールの奉納彫像と王墓
紀元前3千年紀のメソポタミア南部には、チグリス川とユーフラテス川の水を運河に引き入れ、麦やナツメヤシを育てる都市が点在していました。川の流れや水路の維持は生活に大きく関わり、各都市には耕地や家畜を管理する人々、土器や金属器を作る職人、神々に供物を捧げる祭司が暮らしていました。ウル、ウルク、ニップル、ラガシュなどの都市は、それぞれ独自の統治者と神殿を持ち、互いに交易や争いを繰り返していました。
考古学では、紀元前2900〜2350年頃をメソポタミアの初期王朝時代と呼びます。この時代、神殿には大きな目を開いて両手を組む人物像が奉納され、墓には金の装身具や楽器、さまざまな素材を組み合わせた精緻な工芸品が納められました。人物を正面から表した石像と、小さな石や貝殻をはめ込んだ物語性のある画面が、同じ都市文化の中で作られています。
テル・アスマルの人物群像、ウル王墓のプアビの頭飾り、《ウルのスタンダード》、動物の姿を組み立てた彫刻などは、制作に使われた材料や出土場所が比較的よく分かる作品です。その一方で、像を神殿のどこに置いたのか、王墓で葬儀がどう進んだのか、工芸品を何に使ったのかには議論が残っています。
CONTENTS
都市国家と神殿の暮らし
川と運河の周囲に築かれた都市
メソポタミア南部の平野では、雨だけで穀物を育てることが難しく、人々は河川から引いた水路を利用して農地を耕していました。小麦や大麦、羊毛、魚、ナツメヤシなどの生産と分配が都市の活動を支え、工房には地元では得にくい木材や石材、金属も運び込まれました。発掘で見つかる石像や金の装身具は、こうした材料と職人の仕事が集まる環境で作られました。
ウルやニップルの建物は日干し煉瓦を積んで築かれ、古い建物の上に改築を重ねています。神殿の内部には神に関わる像や供物を置く場所がありましたが、後世の大きな礼拝堂のように、大勢の住民が同時に集まる空間だったとは考えられていません。メトロポリタン美術館は、神殿の奥に入ることができた人々は限られていた可能性を挙げています。(参照:メトロポリタン美術館|初期王朝時代の人物彫刻、メトロポリタン美術館(2003)|『最初の都市の美術』)
初期王朝という時代と地域の広がり
紀元前2900〜2350年頃という区分は、土器の変化、神殿の建て替え、王名を刻んだ資料、文字を使った行政記録を照合したおおよその年代です。ウル王墓の代表的な埋葬は、なかでも紀元前2600〜2500年頃に集中すると考えられています。初期王朝時代は大きく数段階に分けられ、奉納像の形式や墓に納める品々も時期を追って変化します。
南部のシュメール語が使われた地域に加え、ディヤラ川沿いのエシュヌンナや、現在のシリアにあるマリでも関連する人物像が見つかっています。マリの作品には南部と共通する奉納の姿勢がある一方、顔や身体の肉付けには独自の特徴があります。広い地域で共通の造形が使われながら、地方ごとの違いも生まれていました。(参照:メトロポリタン美術館|初期王朝時代の人物彫刻、フランス文化省考古学資料|マリ出土エビフ=イル像)
テル・アスマルの祈る人物像
神殿の床下にまとめて埋められた十二体
現在のイラク東部、古代エシュヌンナにあたるテル・アスマルでは、1933〜1934年にシカゴ大学の発掘隊が神殿を調査し、床下から十二体の石像をまとめて発見しました。石像には立つ人物と座る人物があり、大きさや表情も一様ではありません。発見されたのはアブ神に関係する神殿の一画で、像は互いに寄り添うように穴へ納められていました。
調査を指揮したアンリ・フランクフォートは1935年の報告で、最大の男女の像を神の姿とみなす解釈を示しました。後の研究では、その同定に用いられた図像や復元の根拠が見直されています。像が意図的に埋められたことは確かでも、それ以前に神殿内のどこへ置かれ、どのような順序で使われたのかは十分には分かっていません。(参照:シカゴ大学東洋研究所|フランクフォートの1934年発掘報告、シカゴ大学東洋文化研究所|人物像の初期解釈と再検討)
大きな目、組んだ手、羊毛を思わせる衣服
メトロポリタン美術館所蔵の男性立像(40.156)は高さ29.5センチで、石膏を主成分とする白い石から彫り出されています。上半身は裸で、両手を胸の前で組み、腰には房状の模様を持つ衣服を巻いています。正面を向いた顔には非常に大きな目があり、白い貝殻と黒い石灰岩の象嵌によって瞳が作られました。
長い顎ひげは四角く整えられ、その脇に髪の束が垂れています。髪とひげには黒い瀝青を塗った痕跡が残ります。体の各部分は単純な形にまとめられていますが、目の材質と色を変えることで、視線が強く印象に残る姿になっています。同じ神殿から見つかった像の中にも、顔の彫り方や衣服の扱いには違いがあります。(参照:メトロポリタン美術館|テル・アスマルの男性奉納像 40.156、シカゴ大学|メソポタミア収蔵品・テル・アスマル像)
参拝者の身代わりだったのか
両手を合わせる姿勢は祈りや敬意を表す動作と理解され、これらの像は本人が神殿にいない間も、神に向き合う姿を残すために奉納されたと考えられています。実際、後の時期の奉納像には、神の名や奉納者の名を刻んだ例もあり、石像を本人と結びつける根拠となっています。
メトロポリタン美術館は、古代の神殿から像が本来の位置に置かれたまま見つかる例は少ないと説明しています。多くは床下に埋められたり、後の工事で移動されたりしています。祈る人の代役という説明は有力ですが、すべての像の置き場所や儀礼での扱いまで確定したわけではありません。(参照:メトロポリタン美術館|初期王朝時代の人物彫刻、シカゴ大学|メソポタミア収蔵品・テル・アスマル像)
ニップルとマリに残る奉納彫刻
ニップルの女性像に残る髪と衣服
ニップルのイナンナ神殿から出土した女性立像(メトロポリタン美術館所蔵、62.70.2)は、紀元前2600〜2500年頃の石灰岩像です。高さ25.2センチの身体は正面を向き、両手を胸の前で重ねています。衣服は左肩に掛かり、裾の境界を刻んだ細い線が胸元から下へ続きます。
髪は二本の帯でまとめられ、顔の左右には巻き毛が下がっています。左目には白い貝殻と青いラピスラズリの象嵌が残ります。この像は神殿の煉瓦造りの台の漆喰部分に埋め込まれていました。神殿の改修時に古い奉納物を建物の一部へ納める習慣を考える資料となっています。(参照:メトロポリタン美術館|ニップルの女性奉納像 62.70.2)
石像の表情は都市によって異なる
ディヤラ川沿いで作られた像には大きな円形の目と単純化された身体が目立ちます。一方、シリアのマリで見つかった人物像では、頬や肩、胸を丸みのある形に彫り、人体の比率も比較的自然に整えた作例が見られます。同じように両手を合わせる姿でも、顔立ちと身体の量感は一つの型には収まりません。
メトロポリタン美術館は、マリから知られる銘文付き奉納像の数が多いことを指摘しています。神への奉納という共通した習慣の中で、都市の工房や依頼者の好みが異なる形に現れた可能性があります。個々の像を一人の彫刻家の作風に帰すだけの資料は残っていません。(参照:メトロポリタン美術館|初期王朝時代の人物彫刻、フランス文化省考古学資料|マリ出土エビフ=イル像)
青い目を持つエビフ=イルの坐像
マリのイシュタル神殿で出土した《エビフ=イル像》は、紀元前2400年頃の石膏製の坐像です。高さ52.5センチで、上半身を起こし、両手を胸元で組んだ姿をしています。腰には毛足の長い織物を思わせる衣服をまとい、ゆるやかな段差で表面の房を表しています。目の白い部分には貝殻、青い部分にはラピスラズリが用いられました。
肩にはエビフ=イルが女神イシュタルに像を捧げたことを記す銘文があります。彼は「ヌ・バンダ」と呼ばれる地位にあった人物で、軍事・行政に関わる役割が想定されています。像がほぼ完全な状態で発見されたこと、奉納者と神の名が記録されていることから、人物像を神殿に納める習慣を具体的に知ることができます。(参照:フランス文化省考古学資料|マリ出土エビフ=イル像、ルーヴル美術館|エビフ=イル像と奉納銘文)
浮彫と文字が伝える都市の権力
ウル・ナンシェ王の神殿建設を記した石板
ラガシュの王ウル・ナンシェに関係する石灰岩の奉納浮彫(ルーヴル美術館、AO2345)は、高さ23センチ、幅29センチ、厚さ7センチの石板です。紀元前2500年頃の制作とされ、立つ王の頭を剃った姿、房のある腰衣、王に従う人物や子どもたちが低い浮彫で表されています。
人物の横には楔形文字が刻まれ、王の名前や神殿建設の記念という用途が分かります。人物の衣服には個々の名前が記された部分もあります。小さな石板の中で、顔や服装だけでなく、文字を用いて誰が何をしたかを示す造形になっています。(参照:ルーヴル美術館|ウル・ナンシェ王の石灰岩奉納浮彫 AO2345)
土地の取引を刻んだウシュムガルの碑
《ウシュムガルとシャラ・イギジ・アブズの碑》(メトロポリタン美術館、58.29)は、紀元前2900〜2700年頃の石膏質の石碑で、高さ22.4センチ、幅14.7センチです。表面には大きな人物と周囲の小さな人物、古い形式の楔形文字が刻まれています。文字は三つの畑、三つの家屋、家畜などを含む土地の取引について記録しています。
神シャラの祭司ウシュムガルとその娘が主要人物として示されますが、文字が古く、彼らが土地を買ったのか、売ったのか、譲ったのかは判読が分かれています。小さく表された人物は証人だった可能性があります。宗教への奉納とは別に、土地と財産に関わる記録にも人物像が使われていました。(参照:メトロポリタン美術館|ウシュムガルとシャラ・イギジ・アブズの碑)
円筒印章の宴会と動物の戦い
円筒印章の小さな表面にも、同じ時代の人物や動物が刻まれました。メトロポリタン美術館の石膏質の印章(56.157.1)は高さ3.6センチで、粘土に転がした印影に二段の宴会場面が続きます。上段には大きな器から管で飲み物を飲む二人がおり、下段には器を差し出す人物と、何かを持った着座人物がいます。画面を横へ展開できる円筒形だからこそ、小さな石にも複数の人物の関係を刻めました。
別の印章(1999.325.2)はラピスラズリ製で、高さ1.9センチ、直径1.1センチです。動物が互いに争う場面と宴会の場面を組み合わせています。酒宴や動物同士の争いが何を意味するのかは、印章の所有者や使われた場面によって異なり、一つの物語へ決めることはできません。印章は容器の封印や財産の識別に用いられ、その装飾も多様でした。(参照:メトロポリタン美術館|宴会場面を刻んだ円筒印章 56.157.1、メトロポリタン美術館|動物闘争文様のラピスラズリ印章)
初期の戦勝浮彫と《禿鷹の碑》
ラガシュとウンマの争いを記した《禿鷹の碑》は、紀元前2450年頃の石灰岩の浮彫碑です。現在は複数の断片として残り、兵士を率いる支配者や敵の遺体を運ぶ鳥などが彫られています。ルーヴル美術館は復元した碑の大きさを高さ約180センチ、幅約130センチと記録しています。
軍事的な勝利の場面と神の働きを表す場面は、人物の大きさや列の重なりを使って構成されています。碑の断片をもとに全体を復元しているため、失われた部分まで確定的に描写することはできません。後のメソポタミアでも発展する戦勝記念碑の早い例として知られます。(参照:ルーヴル美術館|《禿鷹の碑》の断片)
ウル王墓の発掘とプアビの装身具
レナード・ウーリーが発見した王墓
イラク南部のウルでは、1920年代から1930年代にかけてレナード・ウーリーが発掘を行い、約1800基の埋葬を記録しました。そのうち16基を、墓の規模、豪華な副葬品、周囲にまとまって埋葬された人々の存在などから「王墓」と呼びました。現在は、この分類が全員の王位を確実に示すわけではないと考えられています。
代表的な墓の年代は紀元前2600〜2500年頃と推定されています。墓の上下に重なる土層から見つかった印章や粘土板の年代に加え、放射性炭素年代を用いた検証も行われました。埋葬の順序と墓域の形成を区別することで、同時代の都市社会の一部を再構成しています。(参照:ペンシルヴェニア大学博物館|ウル王墓の年代と出土状況、ペンシルヴェニア大学博物館|プアビの頭飾りと王墓)
プアビの墓に残った金の髪飾り
プアビの墓(PG800)では、被葬者の頭部や上半身の近くから金、青いラピスラズリ、赤いカーネリアンを組み合わせた大量の装身具が発見されました。金製の薄い葉や花を連ねた髪飾り、ビーズの首飾り、大きな三日月形の耳飾りなどが含まれます。工房では金を薄く打ち延ばし、葉の形に切り出してから、小さな石のビーズと組み合わせていました。
ペンシルヴェニア大学博物館の収蔵品B17709は、金で作ったポプラの葉とラピスラズリ、カーネリアンを交互に配した髪飾りです。葉先に赤い石を付け、薄い金板を折り返して糸状の部分を通す輪を作っています。墓からは同種の髪飾りが重なって見つかり、頭の上に何段も装着していた様子が復元されています。(参照:ペンシルヴェニア大学博物館|プアビの金製葉飾り B17709、ペンシルヴェニア大学博物館|プアビの装身具と発掘記録)
名前を刻んだ印章とプアビの地位
プアビに結びつく円筒印章には、名前とともに「ニン」と読まれる称号が記されていました。王妃や高位の女性を表す語と理解されていますが、プアビが独立した統治者だったのか、王家に属する女性だったのかは確定していません。墓の豪華さと印章の銘文は、彼女が強い社会的権威を持っていたことを示しています。
プアビの額飾りの一つ(B17708)は、二十個の金製の輪とラピスラズリ、カーネリアンのビーズで構成されています。装身具は単に高価な物を集めたのではなく、形の反復と素材の色を組み合わせて作られています。装着した姿を考えると、金の反射と青・赤の小石が髪の上に帯状に重なっていたことになります。(参照:ペンシルヴェニア大学博物館|プアビの額飾り B17708、ペンシルヴェニア大学博物館|プアビの頭飾りと王墓)
王墓の象嵌細工と音楽
《ウルのスタンダード》に描かれた戦いと宴会
《ウルのスタンダード》は、ウル王墓から見つかった木製の箱状の物体の表面に、貝殻、赤い石灰岩、ラピスラズリなどをはめ込んだ作品です。紀元前2550〜2400年頃に作られたとされ、出土時には木材がほとんど失われ、表面の装飾も圧力で崩れていました。現在見られる姿には発掘後の復元が含まれています。
一方の大きな面には車輪のある車、槍を持つ兵士、捕虜、大きく描かれた人物が並びます。もう一方には動物や物資を運ぶ人々、上段で杯を手にする人物と音楽家が描かれています。人物は横向きに表され、横長の帯を三段に分けて場面が進みます。大きく描かれた人物が権威を持つ者であることは読み取れますが、その名前は記されていません。(参照:大英博物館|《ウルのスタンダード》所蔵記録、大英博物館|《ウルのスタンダード》の両面の図像)
スタンダードという名称と本来の用途
この作品は現在も《ウルのスタンダード》の名で呼ばれています。名称は発掘時に想定された用途に由来しますが、旗印を取り付ける道具だったのか、箱や楽器に関わる品だったのかは明らかではありません。木製の芯が失われていることも機能の特定を難しくしています。
戦争と宴会の両面は、単純に「戦争」と「平和」を描いたものとして紹介されることがあります。2017年にドラタ・ラウェツカは、宴会側で物を運ぶ人々の身份や行為を検討し、場面の解釈を問い直しました。荷物を運ぶ行列を戦勝品の搬入とみるのか、別の種類の贈与とみるのかによって、画面の意味も変わります。(参照:ラウェツカ(2017)|《ウルのスタンダード》の貢納人物の解釈、大英博物館|《ウルのスタンダード》の両面の図像)
金色の頭を持つ楽器と復元の問題
ウル王墓からは、牛の頭で飾られた竪琴やハープも発見されています。牛の顔には金の薄板、目やひげには青いラピスラズリなどが使われ、木製の共鳴箱には貝殻や色石で作った人物と動物の場面が取り付けられました。弦や木材は朽ちており、出土した位置や残った装飾の痕跡から全体の形を復元しています。
プアビの墓では、ハープと牛頭の竪琴という別々の二つの楽器が重なって出土しました。ウーリーは一つの珍しい楽器として復元しましたが、後の詳しい検討によって二つに分けて理解されるようになりました。出土品の復元は、木材が失われた部分をどのように読み取るかという研究上の判断を伴います。(参照:大英博物館|プアビ墓の竪琴とハープの再同定、大英博物館|ウル出土の竪琴・木製部材の復元)
木製の台と貝殻の盤上遊戯具
大英博物館にある「ウルの王のゲーム」の遊戯盤(120834)は、紀元前2600〜2400年頃の作品です。もとの木製部分には、小さな四角い貝殻板がはめ込まれており、表面には二十個の区画があります。いくつかの区画に花形の文様が見られ、周囲も細い帯や小さな象嵌板で飾られています。
同じ墓域からは、貝殻を円形に加工し、青いラピスラズリで点を付けた遊戯駒も見つかりました。盤や駒が実際に存在したことは確かですが、当時の遊び方を完全に記した規則書は残っていません。後の時代の遊戯に関する粘土板などを参考に、ルールの復元が試みられています。(参照:大英博物館|ウル王墓の盤上遊戯具 120834、大英博物館|貝殻とラピスラズリの遊戯駒)
動物の彫刻と王墓の葬送儀礼
金と貝殻で作られた《茂みの中の牡羊》
ウル王墓PG1237から発見された《茂みの中の牡羊》と呼ばれる彫刻は、実際には後ろ脚で立って樹木の枝に近づくヤギの姿を表しています。対になる二体の彫刻が見つかり、一体はペンシルヴェニア大学博物館に収蔵されています。木と瀝青で形を作った芯に、金箔、貝殻、ラピスラズリなどを貼り合わせて動物の身体を仕上げました。
角や毛並み、樹木の細かな部分には異なる色と光沢の材料を使い分けています。発見時には上に積もった大量の土の重みで潰れており、現在の立体的な姿は保存修復を経たものです。台座の上に立つ動物がどのような家具や器具の一部だったかについては、複数の復元が検討されています。(参照:ペンシルヴェニア大学博物館|《茂みの中の牡羊》30-12-702、ペンシルヴェニア大学|王墓出土の動物彫刻と家具)
周囲に埋葬された人々はどのように亡くなったのか
ウルの大型墓の周囲からは、装身具や楽器のそばに埋葬された多数の男女の遺体が見つかりました。ウーリーは、王や高位者の葬儀に従者が自発的に参加し、毒を飲んで亡くなったと説明しました。この説は長く広く紹介されましたが、発掘当時の記録だけでは死亡の方法を確認できませんでした。
オーブリー・バースゴー、ジャネット・モンジ、サマンサ・コックス、リチャード・ゼトラーは2011年の論文で、保存されていた二つの頭骨をCTなどで調べました。頭部の損傷を根拠に、鋭い器具で殺害された可能性と、その後の遺体処理を論じています。分析された頭骨は少数なので、この結果をすべての埋葬者にそのまま当てはめることはできません。(参照:バースゴーら(2011)|ウル王墓の殉葬と遺体処理の再検討、バースゴー(2007)|ウル王墓の頭骨CT調査)
豪華な副葬品と葬儀の実際の距離
プアビの頭飾り、楽器、金属容器、動物彫刻は、作るために多くの工程と材料が必要だったことを伝えます。大量の副葬品と周囲の埋葬の存在から、大きな葬儀が営まれたと考えられますが、誰が儀礼を指揮し、どのような順序で人々が葬られたかを示す同時代の完全な記録はありません。
ウルの出土品には、貴重な材料が広範囲から運ばれたこと、王墓の周辺に楽器や遊戯具まで納められたことが具体的に残っています。一方、プアビの権力の形、墓に置かれた道具の象徴的な意味、周囲の人々の死の経緯については、発掘記録と遺物の再分析が今も続いています。(参照:ペンシルヴェニア大学博物館|プアビの装身具と発掘記録、バースゴーら(2011)|ウル王墓の殉葬と遺体処理の再検討)
略年表
- 紀元前2900年頃|初期王朝時代の都市文化が広がり、テル・アスマルなどで人物像の奉納が行われる。
- 紀元前2900〜2700年頃|ウシュムガルらの土地取引を記した石碑など、人物と文字を併用する資料が作られる。
- 紀元前2700〜2600年頃|テル・アスマルのアブ神殿にあった像が、後の建て替えに際して床下へ埋められる。
- 紀元前2600〜2500年頃|ニップルのイナンナ神殿で女性奉納像が作られ、ウルの王墓群に豪華な副葬品が納められる。
- 紀元前2550〜2400年頃|ウルの王墓から《ウルのスタンダード》や楽器、貝殻の遊戯盤などが残る。
- 紀元前2500年頃|ラガシュのウル・ナンシェ王を表した神殿建設の記念浮彫が作られる。
- 紀元前2450年頃|ウルの墓PG1237に動物の彫刻が納められ、《禿鷹の碑》のような戦勝記念の浮彫も作られる。
- 紀元前2400年頃|マリで《エビフ=イル像》が作られ、イシュタル神殿に奉納される。
- 紀元前2350年頃|初期王朝時代の末期に近づき、各都市の王権と軍事を表す造形は次の時代にも受け継がれる。
まとめ
メソポタミアの初期王朝時代には、神殿の石像に貝殻や石をはめ込んで目を作り、両手を合わせた人物を正面から表しました。ウル王墓の装身具や楽器には、金を薄く延ばす加工、異なる色の石の組み合わせ、木製の芯に細かな材料を貼り付ける技法が使われています。《ウルのスタンダード》では小さな人物を横一列に並べ、複数の場面を段ごとに描き分けていました。石像、象嵌細工、浮彫には、それぞれ異なる形で人物や動物を表す工夫が見られます。
これらの造形は、神殿への奉納、土地の記録、都市の支配者の活動、埋葬など、異なる場面に関わっていました。奉納像が神殿のどこに置かれたのか、《ウルのスタンダード》が何に使われたのか、王墓の周囲の人々がどのような経緯で葬られたのかは、まだ詳細が分かっていません。発掘記録の読み直しや遺骨の分析、作品の保存修復を通じて、当時の儀礼と暮らしを明らかにする研究が続いています。
参考資料・出典
- メトロポリタン美術館|初期王朝時代の人物彫刻
- メトロポリタン美術館(2003)|『最初の都市の美術』
- フランス文化省考古学資料|マリ出土エビフ=イル像
- シカゴ大学東洋研究所|フランクフォートの1934年発掘報告
- シカゴ大学東洋文化研究所|人物像の初期解釈と再検討
- メトロポリタン美術館|テル・アスマルの男性奉納像 40.156
- シカゴ大学|メソポタミア収蔵品・テル・アスマル像
- メトロポリタン美術館|ニップルの女性奉納像 62.70.2
- ルーヴル美術館|エビフ=イル像と奉納銘文
- ルーヴル美術館|ウル・ナンシェ王の石灰岩奉納浮彫 AO2345
- メトロポリタン美術館|ウシュムガルとシャラ・イギジ・アブズの碑
- メトロポリタン美術館|宴会場面を刻んだ円筒印章 56.157.1
- メトロポリタン美術館|動物闘争文様のラピスラズリ印章
- ルーヴル美術館|《禿鷹の碑》の断片
- ペンシルヴェニア大学博物館|ウル王墓の年代と出土状況
- ペンシルヴェニア大学博物館|プアビの頭飾りと王墓
- ペンシルヴェニア大学博物館|プアビの金製葉飾り B17709
- ペンシルヴェニア大学博物館|プアビの装身具と発掘記録
- ペンシルヴェニア大学博物館|プアビの額飾り B17708
- 大英博物館|《ウルのスタンダード》所蔵記録
- 大英博物館|《ウルのスタンダード》の両面の図像
- ラウェツカ(2017)|《ウルのスタンダード》の貢納人物の解釈
- 大英博物館|プアビ墓の竪琴とハープの再同定
- 大英博物館|ウル出土の竪琴・木製部材の復元
- 大英博物館|ウル王墓の盤上遊戯具 120834
- 大英博物館|貝殻とラピスラズリの遊戯駒
- ペンシルヴェニア大学博物館|《茂みの中の牡羊》30-12-702
- ペンシルヴェニア大学|王墓出土の動物彫刻と家具
- バースゴーら(2011)|ウル王墓の殉葬と遺体処理の再検討
- バースゴー(2007)|ウル王墓の頭骨CT調査